第6話 九条朔弥の過去


 九条家の敷地内に建てられた二階建ての洋館の小さな一室。

 天井近くにある窓からは細い光が差し込んでいる。

 床には赤い絨毯が敷かれ、部屋の中央にはベッド、端には簡素な机と椅子が置かれている。

 そして一風変わっていたのが、辺り四面は白い壁に囲まれており、扉らしき物が見あたらない部屋の造りになっている事であった。


 ベッドには意識のない藤子が横たわっており、その体には白い布地に淡い藤の柄が入った着物が掛け布団のようにかけられていた。

 睡眠薬の影響で彼女はまだ眠り続けている。

 ベッドの端に朔弥は腰を下ろした。


 朔弥はいつか贈ろうと思っていた漆の塗られた黒い紅入れをポケットから取り出した。

 小指で紅をすくい、藤子の唇にそっと差す。

 白い布地を纏った彼女に、紅色はとても映えた。

「……お前は軍服よりも、こっちの方が似合っているよ」

 目元にかかった彼女の髪をすくって、横に流した。


 夜間手筈通り、朔弥は基地から薬を木箱に入れて持ち出し、それらと意識のない藤子共々馬に乗って運び出した。

 予定では既に迎えの馬車が来て、朔弥らは京から脱出しているはずだったのだが。

 朔弥に指示した貿易商の者は先にこの部屋で薬だけ受け取り、追って迎えの馬車を寄越すと言ったきりその後沙汰はなかった。


 その為、朔弥と藤子は未だにこの屋敷に隠れている。

 何か不備があったのか。それとも切り捨てられたのか。

 一睡もせずに過ごした朔弥は、か細い声で呟いた。


「でも、いいか。俺には藤子さえいれば……」


◇ ◇ ◇


 九条家当主には四人の子がおり、次男の朔弥は侍女との間に生まれた子であった。

 そのため朔弥は正妻に酷く疎まれており、当然屋敷に仕える者も九条家の内を仕切る正妻の怒りに触れないよう、彼をいない者のように扱った。

 長男である陽昌は好奇心から近付いてくる事はあったが、そのたびに周りの者に叱られ、幼い頃はほとんど会話をする事はなかった。


 屋敷内で常に一人ぼっちだった朔弥の前に、ある日同じ境遇の三つ違いの妹が現れた。

 それが藤子であった。

 藤子の母は元々祇園の芸者であり、九条家当主に落籍されて別邸に暮らしていた。

 そこで生まれた藤子は穏やかに過ごしていたが、彼女が五歳の年、藤子の母は病にて命を落とし、父のいる九条邸に引き取られたのだ。


 屋敷に味方のいなかった朔弥は、同じ境遇の藤子を始めから気にかけていた。

 正妻の怒りに触れない方法、屋敷で上手く生きていくすべをあますことなく教えた。

「俺の傍にいたら大丈夫だから」

 自分だけが味方だと、そう繰り返し伝えていた。

 朔弥にとって藤子は初めて自分の傍にいてくれた存在であり、藤子もそんな兄をとても慕っていた。


 だが、九条家正妻のもう一人の子である桜子が藤子に懐いた事で、少しずつ屋敷内の空気が変わっていった。

 桜子は大人に叱責されても全く意に介さず、積極的に藤子のもとに訪れた。

 やがて桜子に付く侍女が藤子に接するようになり、正妻もそれを黙認する。

 陽昌も妹達を可愛がり、その輪の中にいつしか朔弥も入っていた。


 周囲からは本当に仲の良い兄妹に見えただろう。

 しかし朔弥にとってそれは虚像であった。

 朔弥の藤子だけを思いやる気持ちは、初めて出逢った時から今に至るまで何一つ変わっていなかった。


 成長と共にわかる事がある。朔弥にとって、藤子は特別だった。

 同じ教育を受けても、始めは妹に劣ってしまう不器用な少女。

 けれど努力を重ね、同じ域にまで達する姿。

 そんな彼女に朔弥は勇気をもらった。


 けして自分が傍にいるだけでは、大切な彼女を護る事など出来はしない。

 いつか、次男である朔弥は屋敷を追い出される。

 そして彼女は政治の道具として、見ず知らずの者へと嫁がされる事になるだろう。


 朔弥は一日でも早くこの屋敷から独立する為、屋敷に出入りしていた者で、目ぼしい者に取り入る事にした。

 丁度その頃、朔弥はとある貿易会社を経営している富張とばりという男に声をかけられていた。

 洋装に眼鏡をかけて胡散臭い笑みを浮かべるその男に、何か困った事はないか、と囁かれ、朔弥は跡取りになれず、いつか追い出される自分の後ろ盾になってほしいと頼んだ。


 想うだけで人は前に進む事が出来る。

 穏やかで心優しい、初めて自分に温かさをくれた少女を守る為。

 朔弥は一日でも早く結果を出す必要があった。

 富張の勧めで朔弥は九条家を出て、軍に入隊した。

 軍の研究への金銭を富張の会社を通じて融資し、軍の治験にも協力した。

 本当に何でもして、軍の研究の協力員にまで上り詰めた。


 そんな折、藤子が近いうちにどこかに嫁がされるという話を聞く。

 その焦りは富張に勘付かれた。協力をしてやろうと候補相手の醜聞の情報を渡され、朔弥はそれを利用し密かに相手を追い込んだ。

 その結果、縁談を断った藤子が九条家を追い出されて軍に入隊したと聞いた時は、安堵と不安が同時に押し寄せた。


 もう朔弥には時間も余裕も、なりふりすらかまっていられなかった。

 彼女を連れて、どこか遠くへ行かなければ。

 穏やかに二人だけで暮らすことが出来る場所へ。

 家族も誰も知らない、二人が兄妹である事すら知られていない世界が良い。

 そしてついに、富張に最後の指示として軍の研究薬を持ち出すよう命じられた。

 これを終えたら異国に逃して自由にしてやると。

 何もかも知った笑みでそう告げられた。


 軍の機密を持ち出す事は命がけの行為だった。

 それでも朔弥はやらなければならなかった。

 幼い頃から変わらなかった最初で最後の愛を貫く為に。


 藤子、お前のことを誰よりも、愛している──

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