この期に及んで事務所が寒い

飯田太朗

この期に及んで事務所が寒い

 母の余命が一週間もないことを告げられたのは、十一月のある日のことだった。赤とんぼの走る夕暮れが綺麗で、私はなぜか安堵したようなため息をついた。心の内は、大好きな母の死を宣告されたことへの恐怖や不安でいっぱいだったが、しかし真っ赤な空がそれを全て飲み込んでいた。それを見て、私は何だか泣きたくなった。

 母は私に優しかった。いや、私たちに優しかった。

 仕事で家を留守にしがちな父の代わりに、母は私と兄にいっぱいの愛情を注いでくれた。母は絵が得意で、私が小さい頃、よく色々な絵を描いて見せてくれた。母が描く絵はいつも人物画で、何かしらの法則性はありそうだったが、まだ幼い私にはよく分からなかった。母は少し体が弱く、特に消化器系が弱く、食事は煮崩れしそうな煮物ばかりだったが、私は母の優しい味が好きだった。兄は年頃になると「火力が足らねぇ」って言っていたけど。

 そんな母との、思い出の全てが。

 医者から余命宣告を受けた瞬間、土石流のように私を飲み込んでしまった。確かに癌のステージがかなり進んでいた母に、残りの時間は少ないように見えた。だが一週間もないとは。来週には死んでいる可能性があるとは。家に帰って、私は多分、どうにかこうにか娘二人を寝かしつけて、それから一人、冷蔵庫の前で、めそめそと湿っぽく、泣いた。この冷蔵庫の前、というのがまたひどい話で、母はよく料理中、冷蔵庫の前でスマホを弄っていた。私はその光景をよく覚えていた。母は当時スマホでも絵を描いていて、料理の合間も小刻みに指を動かしながら何かをしていた。何度か「見せて」とせがんだことはあるのだが、その度に困ったような顔をされて拒まれた。葵には難しいよー。なんて、言われたっけ。

 そんな調子で多分一時間くらい……ずっと一人で泣いていると夫が帰ってきた。そして私を見て驚いた。

「どうしたんだい」

 普段、育児に関してはびっくりするくらい鈍感な夫も、さすがに私が泣いていると察するようだ。カバンを持ったまま心配そうに私に近寄ってきた。私は鼻をすすりながら話した。

「そっか、お義母さん……」

 夫が言い淀む。が、すぐに強い目つきになる。

「僕、仕事を休むよ。舞と唯を連れてお義母さんのところへ行っておいで。僕が家のことをやっておくから」

「そんなの……」

 現実的じゃないでしょ、と言いかけた私の肩を、夫が掴んだ。それからハッキリ告げられた。

「大丈夫。すぐ会社に連絡するね」

 それから夫は手を洗うと真っ先に会社に一報入れた。そんな簡単に休めるんだ、と思ったが、もしかしたら無理をしてくれているのかもしれないし、黙っていた。

 夫は微笑んだ。

「葵も仕事を休みなね。もう連絡はした?」

「お医者さんの話を聞いた時にすぐした」

 鼻声。情けないくらい。

「しばらく休んでいられる。ねぇ、本当にいいの?」

 仕事のことで念を押すと、夫はまた微笑んだ。それから「大丈夫」とつぶやいた。

「早速明日から行っておいで。僕、今夜の晩御飯は適当に冷蔵庫にあるものを食べるよ。だから葵ももう、おやすみ。お風呂入った?」

「これから」

「じゃあ、入って寝なね。……一緒に入ろうか?」

 私はようやくちょっと笑った。一緒にお風呂入るなんていつぶりよ。

「ううん」

 私は首を振るとリビングを出た。ドアを閉めながら、私はつぶやいた。

「巧人」

 夫の名を呼ぶ。

「ん」

「ありがと」

 夫はまたしても小さく笑うと台所へ引っ込んだ。私は風呂に入った。



 翌日、早速舞と唯を連れて母の病院へ行った。空元気が得意技の母は、顔色が悪いまま無理に笑って私たちを出迎えた。

「あんた、仕事は?」

 母の問いに真っ直ぐ答えられず、しかし何も答えないわけにもいかず、私は困った。一瞬間を置いて答えた。

「今日は休み」

「明日は?」

「明日も」

「土日は?」今日は木曜日だ。

「休み」

「そっか」

 気のせいだろうか、母の顔が緩んだ気がした。私はベッドの傍に椅子を持っていくと、腰かけた。舞と唯は早速小さな病室の中を探検し始めた。

 しばらく母と、雑談をした。

 巧人さんはどうしてるか、とか、ちゃんとご飯食べているか、とか、舞と唯のことで困りごとはないか、とか、そんな話ばっか、母の話はほとんど出てこなかった。本当は母のためにここに来ているのに、悲しくなるくらい母の話はなかった。急に、鼻の奥がつんとした。私は俯いた。

「葵」

 不意に母が真っ直ぐ私に話しかけてきた。

「家の掃除をしてほしいんだけどね」

 父は二年前に他界している。あの時も辛かった。広い家に母だけを残すのがどれだけ不安だったか。しかし母は今、その家の話をしている。私は耳を傾ける。

「最近は一階の畳の部屋しか使ってないんだわ。悪いけど掃除しとってくれる? 帰って埃だらけだと気が滅入るで」

「……うん、分かった」

 もう、母が病院から家に帰ることは……なんて、不吉な思考が頭をよぎったが、理性で覆い隠した。私は再び頷いた。

「分かった」

 そういうわけで、本題に入る。



 それは実家の掃除をしている時に見つけた。

 畳の部屋、それは一階の南に面したひと区画にある。兄と私が巣立って、父も他界した今、母はその部屋に家中のものを集めてちょっとした基地みたいにしていた。よくもまぁ、女の腕で……と思ったが、もしかしたら近所のモーター店を継いだ謙吉くんの手を借りたのかもしれない。私の幼馴染だ。

 畳の部屋には箪笥や文机、座卓など、そこで生活できそうなものは一通り揃えられていた。部屋の隅に、見覚えのない布団。多分父の葬式が済んだ後に買ったものだろう。それで寝ていたようだった。

 私は窓を開けて換気をすると、掃除機片手に、およそ生活空間になりそうな場所は一通りかけて回った。

 そして箪笥や文机を整理しようと思った時にそれを見つけた。それは箪笥の一番下の段、かつて母が料理片手に弄っていた……これもすごく懐かしいものなのだが……もう使わなくなったスマホの下に入っていた。


〈真司と葵へ〉


 封筒。そこにはそう、書かれていた。

 嫌な予感が背筋を撫でた。もしかして、遺書ってやつ? 母はもう何もかも……なんて、安っぽいドラマなんかでありそうな筋書きを思い浮かべながら封筒を開けた。


〈二人へ。私にもしものことがあったら以下の手続きを踏んでください……〉


 もしものこと、なんて言わないでよ。

 半分泣きながら……いや、八十パーセントくらい泣きながら、その手紙を読んだ。頭がごちゃごちゃして何が何だか分からなかったが、しかし久しぶりに見る母の文字は心の隙間に染み込んできた。鼻をすすりながら、そして涙をこぼさないように注意しながら読んだそれの、最後の一枚に書かれていた。そこにはこうあった。


〈それから、『この期に及んで事務所が寒い』を一緒に燃やしてください〉


 しばし、思考がフリーズする。

『この期に及んで事務所が寒い』って、何? 



 唐突に湧いた奇妙な問いに首を捻りながら家を出ると、外はもう暗かった。冬の夕方……いや、夜だ。霧雨……とも言えない、霧吹きで吹いたような雨が降っている。傘はないが、これくらいなら。私は車の鍵をポケットから出して少し歩いた。駐車場は家から少し離れたところにある。

「……葵さん?」

 と、駐車場まで後十メートルくらいのところになって急に背後から話しかけられた。それは女性のアルトの声で、仮に男性の声だったらおっかなびっくり振り返っていただろうな、なんて少し遅れた感想を抱きながら私は振り向いた。その先に彼女がいた。

「夏美ちゃん?」

 一瞬、迷った。それくらい彼女の見た目は変わっていた。

 私が知っていた頃は……多分、彼女が高校一年生くらい……の時は、彼女は黒髪だった。アシメショートは変わらずだが、しかし彼女は艶のいい黒髪をしていたはずだ。だが今、目の前で大きな傘を持っている彼女は、それは綺麗な金髪だった。まるで外国人……しかし顔に見覚えがあった。

 岩田夏美ちゃんだった。私が大学を卒業するくらいの時に近所に引っ越してきた、当時はまだびっくりするくらい小さかった、おませな女の子の夏美ちゃんだった。引っ越してきた当時は確か小学校に上がるか上がらないかくらいだった……私が三十で結婚して実家を出る頃、ようやく高校生になったはずだ。だから今は……二十歳くらい? 大学生だ。

「やっぱ、葵さんだ」

 彼女は笑って近づいてきた。黒とピンクのパーカーを着た彼女は、顔の右側にたらんと垂れた髪の毛を振って近づいてきた。左側の綺麗な剃り込みが、何だか眩しい。私にはないセンスの持ち主だ。

「金髪にしたから分からなかったよ」

 私が笑うと、夏美ちゃんも笑った。

「うん。ちょっと、失恋して」

「まぁ」と私が目を開くと、夏美ちゃんは寂しそうに笑った。

「友達んちに泊まった帰りなんだ。葵さんは?」

 事情を説明していいものか迷って、私は一瞬黙った。しかし何だか、吐き出さないとやっていけない気がした。

「うん、ちょっと。送ろうか?」

 車なんて使ったら五分もかからない距離の提案を私はした。夏美ちゃんは、何かを察したような顔をして頷いた。

「じゃあ、お願いします」

 そうして彼女が、助手席に座った。



 彼女の家までの、本当に三分程度の時間で、私はことのあらましを話した。母の余命、それから部屋の掃除で見つけた遺書。

「『この期に及んで事務所が寒い』」

 夏美ちゃんがつぶやく。

「何だろう」

「さぁ、分からんのよ。それを棺に入れろって書いてあったんだけど……」

「何かヒントは?」

 私は記憶の糸を手繰り寄せる。

「うーん、手紙には『この期に及んで事務所が寒い』としか……」

 夏美ちゃんは少し考えるような顔をした。それから、訊いてきた。

「千代さん、何か書き物してなかった?」

「書き物?」母の名に続いたその「書き物」という単語に私は首を傾げた。

「何で?」

「いや、じゃあさ、例えば……」

 続く夏美ちゃんの言葉に、私は驚いた。

「あった」

 私の顔に、夏美ちゃんが微笑む。

「じゃあ、そういうことだよ」



 巧人からもらった休みは土日を挟んで四日、火曜日までが限界だったので、私はその日までには訊くつもりでいた。しかし駄目だった。いざ口にしようとすると、それがきっかけで母が死んでしまう気がして、言えなかった。

 だが問題のタイミングは母の方から呼び寄せた。

「まだ、書いてる途中だったからね」

 突然の言葉に、私は舞と唯をあやす手を止めた。

「『この期に及んで事務所が寒い』、何のことか分からんやったやろう」

 私が黙っていると、母が続けた。

「あれは――」

「――今まで書いた小説の文集、でしょ?」

 母が目を丸くした。私はため息をついて続けた。

「スマホにデータを入れてたんだよね?」

「ありゃ、知っとったかや……」

「ううん、知らなかった」

 私は首を横に振った。そのタイミングになって、涙が溢れてきた。

「見抜いたのは夏美ちゃんなの。覚えてる? 近所に越してきた、あのちいちゃい子……」

 すると母は笑った。

「私が入院するまでしょっちゅう会いに来てくれてた子だわ」

「あの子が見抜いたの」

 すると母は掠れた声で笑った。

「あの子は賢いからねぇ」

 元気しとる? という質問に対し私は曖昧に答えた。失恋の傷が、癒えないのだろうか。髪を染めて、泊まっていた友達の家とかいうところでもお酒を飲んでいたようだ。

「料理中にスマホを弄っていたのは、それでものを書いていたからだろう、って」

 私は夏美ちゃんの言葉を思い出しながらしゃべった。

「絵を描こうと思ったら、スマホを何かしらに固定しないと難しい。料理中ということは、両手で操作できる時間は限られるし、やりづらい。片手でできること。例えば、文字を打つとか。そして『幼い葵には難しいもの』……」

 夏美ちゃんはそれから続けていた。

「お母さんがよく描いていた絵。法則性はありそうで、だけど何だか分からない人たちの絵。もしかして、絵とその文字とで完成する作品だったのでは? となると詩集や評論なんかじゃない、漫画だとか、小説だとか、多分フィクション」

 それから続いたのが、夏美ちゃんのあの言葉だ。

 千代さん、何か書き物してなかった? 

 心当たりはなかったが、しかしその後の「古いスマホ、傍に置いてなかった?」という問いで全てが繋がった。あったからだ。古いスマホ。その下に、手紙はあった。

 充電して、中を覗いてみると、それはあった。

『この期に及んで事務所が寒い』。

「Twitterで知り合った作家さんが、言ってくれたんだわ。『この期に及んで事務所が寒い』は何だか私らしい表現だって。何となくおかしかったから、採用したの。私の最後の文集の、タイトルに」

「小説書いてるなんて知らなかったよ」

 私が泣きはらして責めるような目を送ると、母は笑った。

「私、おばあちゃんからこの趣味いいように思われんくてね。ずっと隠しとったのさ。その勢いで、あんたたち家族にも隠しとって。でももうそろそろいいかやー、って……」

「私、読みたかったのに」

 すると母は優しく笑った。

「データあるから、これから読める」

「そうだけど……」

「それ、紙にしとくれね」

 母は目を閉じ、微笑んだ。

「あれは私の人生の集大成だがや。一緒に逝きたいでね」

「……うん、分かった」

 そんなやりとりがあったのが、日曜日。

 翌々日の火曜。朝。母は逝った。

 不思議なもので、気持ちは穏やかだった。最期にたくさん話せたのが、よかったのかもしれない。



 葬儀やら遺品の整理やらに追われて三日ほど、慌ただしく過ごした。落ち着いた頃になって、私はそれを開いた。棺に入れる時、一緒にもう一部刷った、『この期に及んで事務所が寒い』。その冒頭には、こうあった。


「ねぇ、今日何の日か知ってる?」


 私も何度か巧人に言いそうになったセリフで、思わず私は、笑ってしまった。


 了

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