おかえり、愛しい人

我破 レンジ

ただ、あなたに会いたくて

 今から十年前。僕は父に婚約者を殺された。


 父は彼女をナイフでめった刺しにしたうえ、自らも喉元を切って自殺した。尊敬していた父の凶行と、愛する人を奪われたショックで、僕は丸一日の間失神してしまっていた。


 事件の翌日、僕は父の書斎に遺書が置いてあったのを見つけた。そこには、父がこのような惨劇を引き起こした理由が記されていた。これがその全文だ。


※※※


『お前に私の真意を伝えるため、これをのこす。


 知っての通り、私は一介の科学者だ。遺伝子工学を専門とし、絶滅動物のクローン作成に携わっていた。ニホンオオカミやケナガマンモスが動物園で見られるようになったのも、我々の研究グループの成果だ。


 だが一方で、私は罪を犯していた。とうてい許されない罪を。


 その贖罪しょくざいとして、これからお前の恋人を殺す。慚愧ざんきに堪えないことだが、私にはどうしても、お前の愛する人を殺さなければならないわけがあるのだ。私が行おうとしているのは、乱してしまった自然の摂理を正す、いわば秩序の調整なのだ。


 これから説明しよう。なぜあの娘を殺すことが贖罪なのか。秩序の調整とはどういう意味か。



 お前がまだ赤ん坊だった頃。私の妻、つまりお前の母さんは不慮の事故によって死んだ。私は母さんの納められた棺の前で泣いた。心が涙とともに空っぽになるまで。


 この世界全体からすれば、人一人が死ぬことなど些末さまつな出来事だろう。何十億羽といたリョコウバトが絶滅しても、気にかける者などいないように。


 だが私にとっては違う。どんな絶滅動物よりも尊く、代えがたい存在を奪われたのだ。三人で一緒に生きるはずだった家族を。生涯を共にすると誓ってくれた女を。


 なぜ彼女が死ななければならなかった?


 答えのない命題が私をさいなんだ。いや、格好をつけた言い方はよそう。寂しかった。母さんがいない未来など耐えられなかった!


 ここまで書けば、私がこの後やった愚行は想像がつくだろう。


 そう、母さんのクローンの作成だ。


 私は幾多いくたの絶滅動物の再生に関わってきたのだ。クローンの作り方は熟知している。わずかに残された体毛や肉片から体細胞を採取し、さらに遺伝子を含む核を取り出す。そして生物学的な近縁種の受精卵の中に、絶滅動物の核を移植する。そうすれば絶滅動物の遺伝子を持った受精卵が完成する。あとは胚と呼ばれる状態まで成長させ、近縁種の子宮に移せば、絶滅動物のクローンを生み出せる。お前もこの基本原理は知っているだろう。


 当然この原理は、人間にも応用できる。幸いにも、母さんの細胞サンプルは我が家のベッドに残っていた。彼女の毛髪だ。そして私の勤めていた研究所は、当時としては最新鋭の設備を備えていた。特にAI制御式精密マニピュレーターは、人工知能AIの補助によって簡単な操作で複雑かつ繊細な作業ができる優れものだ。これを使えばたとえ一人でも、毛髪から母さんの細胞核を取り出し、受精卵に移植する実験が可能なのだ。


 私は突き動かされていた。もう一度妻に会いたいという夢に。もしかしたら、お前はこう疑問をていするかもしれない。クローンは死んだ個人とは別人ではないかと。そうだ、その通りだ。何度も自問したとも。だが最終的に、私はその自問を無視した。


 現代では死んでしまったペットのクローンを、泣きながら迎え入れる家庭もたくさんある。クローンは彼らが飼っていた個体ではない。それでも彼らは、遺伝子的には同一の模造品にいなくなった家族の面影を重ね、心を救われているのだ。


 私とて同じだった。新婚旅行で訪れた北の国を知らなくてもいい。緊張で声がうわずってしまったプロポーズを覚えていなくてもいい。天国へ連れていかれた妻と同じ感触の手を、私は握りしめたかった。ただそれだけなのだ。私は自分の望みのままに、神から彼女を取り戻したい一心で生きていたのだ。


 こうして私は自らの研究室で、誰にも明かせぬ実験を始めた。今でもありありと思い出せる。外部から完全に隔離された密室で、せいぜい空調の唸る音しか響かない静かな夜だった。私は顕微鏡モニターをのぞきながらマニピュレーターを操作し、薬剤を用いてドロドロに溶かした母さんの毛髪から核を取り出した。そして再生医療の研究用に保管してあった人間の受精卵から核を取り除き、代わりに母さんの核を移植した。


 ここまでは順調だった。問題はこの後、受精卵が無事に細胞分裂を始めてくれるかどうかだ。はっきり言って、成功の確率は五分五分だった。操作レバーを握る手が汗ばんでいた。


 果たして、受精卵は分裂を始めた。まん丸の細胞に亀裂が走ると、そこを境にゆっくりと分裂していく。その様をモニター越しに観察していた私はホッとし、再びこの世に生を授かった母さんに呼びかけた。


「おかえり、私の愛しい人」



 こうして私は普段の業務をこなしつつ、慎重に事を進めた。非常に多忙ではあったが、途中までは誰にもばれなかった。


 そう、途中までは、だ。


 私を唯一見とがめた女性研究者がいたのだ。彼女は保管されていた人間の受精卵が一つ足りないのに気がついた。書類の数字も改ざんしておいたというのに、女の勘とは恐ろしいものだ。彼女は激しく私を問い詰め、ついにすべてを白状させた。


「あきれてものも言えないわ。クローン人間の作成は法律で禁止されている。そんなの常識でしょう? 家族を失った悲しみには同情するけど、こんなことはすぐにやめなさい」


 だが私はひるまなかった。むしろ彼女を味方に引き込もうと試みた。なに、科学者の望みは皆同じ。相手の求めるものなど手に取るようにわかる。だからこそ、あえて計画の全貌を明かしたのだ。


「そうだな、君の言う通りにしよう。世界初のクローン人間誕生の偉業は闇に葬られる。尊い命と共にね」


「どういう意味?」


「すでにクローン胚はでき上がっているということさ。発育も進んで、あと少しで子宮に移植可能な段階になる。ここまでの詳細なデータも取ってあるが、それも破棄するとしよう」


「……そのデータを見せなさい」


 釣り針に魚がかかった。私はクローン胚の観察データを彼女に見せた。彼女の瞳がみるみる好奇心の色に染まっていく。科学者の逃れられない性が表に出てきたのだ。


「さぁ、これで満足しただろう? そのデータとクローン胚は早く処分して――」


「告げ口はしないわ」


 彼女はぼそりと言った。


「世界初のクローン人間……倫理的に許されるものではないわ。でもクローンもりっぱな命。みすみす殺すわけにはいかない。いい? あたしはあくまで不本意なのよ。やるからには誰にも公表せず、クローンは自分がクローンだとは知らずに生きていけるようにしましょう。それが共同研究の絶対条件よ」


 私はうなずいた。そうだ、それでいい。科学者は未知の領域の開拓者だ。未踏の地があれば足を踏み入れずにはいられない。それに私がやらずとも、いずれ誰かがクローン人間を実現するだろう。技術的に可能であれば、しょせんは時間の問題でしかない。



 こうして共犯者を得た私は、着々と母さんのクローン誕生にまい進した。しかし子宮へ移植する段階まで来て、計画は停滞を余儀なくされた。


 当たり前だが、子宮は女性の中にしか存在しない。つまりクローン胚を受け入れ、出産してくれる代理母を探さなくてはならない。発展途上国の中には、ビジネスとして代理母を引き受けてくれる女性たちもいる。私も彼女たちを頼ろうと考えていたが、秘密裏に手続きをするのは予想以上に骨が折れた。同僚の腹を利用する手も頭をよぎったが、既婚者である彼女が夫以外の子を宿す義理はない。懇願したところで却下されるのがオチだろう。


 クローン胚が入っている低温保管庫を前に、私は途方に暮れていた。いつの間にか、この計画自体に迷いを覚えていたのだ。


 同僚の助力があったとはいえ、私は疲弊していた。日々の仕事をこなす一方で、私的な、それも違法な研究を行うという二重生活に。


 がむしゃらに進んでは来たが、天国の母さんはそんな私をどう思っているのだろうか?


 研究室のデスクに置かれた母さんの写真を見た。彼女は黙って私を見つめ返してくる。それは私を慰めているようでもあったし、神に背く夫を責め立てているようでもあった。


 そんな矢先。赤ん坊のお前を世話してくれていた妹、つまりお前の叔母から連絡が入った。お前が高熱を出して入院したというのだ。その頃の私はもう、仕事と秘密の計画にかかりっきりで、すっかりお前のことを顧みなくなっていたよ。


 棺で眠る母さんが脳裏に蘇り、いてもたってもいられなくなった。私は職場を早退し、お前がいる病院へと向かった。


 さいわい、早い処置のおかげでお前は事なきを得ていた。小さなベッドに横たわるお前に安堵していると、横にいた妹がため息をついた。


「兄さん。この子は助かったよ。でもあたしが傍にいなかったらどうなっていたか」


「あぁ、わかっている。本当に感謝しているよ」


「いつまでも頼らないでほしいって言ってるの。忙しいかもしれないけど、兄さんはこの子の父親でしょ? 自分の力で息子の成長を見守ってあげなくちゃ。それが亡くなった義姉ねえさんの望みでもあると思うよ」


 母さんの望み。予想もしなかった言葉をかけられて、私はうろたえてしまった。思い至らぬふりをしていた自問が、再び去来した。


 母さんは、彼女は望んでいるのだろうか。自分がクローンとして現世に帰ることに。


 私は母さんのクローンを作ることによって、逆に彼女の命をもてあそんではいないだろうか。


 それは私の科学者としてではない、人間としての理性がずっと訴えかけていたものだった。


 私は眠っていたお前の頬をやさしく撫でた。お前はゆっくりと目を開くと、天使の微笑みを浮かべてくれた。その瞳に私は吸い込まれた。星空がそこにあった。結婚式を挙げたばかりの頃の母さんと、二人で見上げた北国の夜空。その澄んだ星のきらめきが、息子の瞳に宿っていたのだ。


 こんな瞳を持った女を、私は知っている。生きる希望に満ちあふれていた母さん。彼女の瞳もまた、美しかった。私を見守り続けてくれた星空は、こうして息子が受け継いでくれていたのだ。彼女はいなくなってなどいない。命は繋がり、こうして目の前に脈々と生きているのだ。


 もっと早く悟るべきだった。私の使命は、神から母さんを取り返すことではない。輝ける星を宿した息子を守ることだったのだ。


 私はお前をそっと抱え上げた。そして抱きしめた。お前は泣きじゃくってしまったが、それすらも愛おしかったよ。



 翌日。誰もいない研究室に同僚を呼び出すと、クローン胚を破棄すると伝えた。


「どういうこと? あたしを巻き込んでおいて!」


「間違っていたんだよ、我々は。君を巻き込んでしまったのは本当にすまない。しか

し個人のエゴでクローン人間は生まれるべきではないよ。人間は誰かのコピーになれはしないんだ」


「そんなこと、とっくにわかっていたでしょう! それを承知でやっていたんじゃないの? 今はまだ胚だけど、子宮へ移植すれば立派な人間として生まれてこれるのよ! なのに破棄するなんて……殺すなんて、それこそエゴの極みだわ!」


「受精卵からどこまで発育すれば人間と認められるのか、現在でさえ明確な定義はないだろう? どうしてもはっきりさせたいなら裁判でもすればいい。君と私の行ったことをおおやけにしてね。そうするかい?」


 同僚は口をつぐんだ。


「どんな理由があろうと、あたしはこんなこと認めない。あれだって立派な命なのよ」


「わかっている。私だってのうのうと仕事を続けるつもりはないよ。私はもうすぐここを辞める。君は何も知らぬふりをして研究を続ければいい」


 他の職員が研究室に入ってきたので、この話は打ち切りになった。ドアから出ていく同僚の拳は、固く握られていた。


 その日の夜。人がいない間を見計らって、私は母さんのクローン胚が入っている容器を廃棄物処理箱に捨てた。自分の身勝手な都合ですまないと、胸の内で謝りながら。


 後日、私は辞表を提出した。同じ時期、同僚も妊娠が発覚し、育児に専念するために研究所を去ることになった。不吉な予感が私の脳裏をかすめた。しかし、子育てと職探しに忙殺される日々のなかで、その予感は意識の奥に追いやられていった。



 そうして長い間、私は罪を背負って生きてきた。死んだ者を蘇らせようとした罪。生まれかけた命を殺した罪に。もし神がいるとしたら、いつか私は罰を受けるかもしれないと、漠然とした予感もあったのだよ。


 実際、天罰は下された。あまりにも予期せぬ形で。


 研究所を退職後、私は製薬会社の研究員として新薬の開発に打ち込んでいた。お前もすくすくと成長してくれて、優秀な大学院生として遺伝子工学を学んでいた。父のような科学者になりたいと言ってくれて、私は誇らしかった半面、筆舌に尽くせぬ後ろめたさを感じてもいた。


 そしてあの日が来た。お前があの娘を紹介してくれた日だ。


 わけもわからず地元のレストランに招待された私は、店の前で落ち着きなく携帯の画面をチェックしているお前と会った。


「どうしたんだ、そんなにソワソワして?」


 私が問いかけると、お前は困ったように頭をかいた。


「ごめんね父さん、実はもう一人来る予定になってるんだ。でも電車が遅れてるらしくて。もうすぐ到着するはずなんだけど」


 あの時のお前の思惑は、勘が鈍い私でもすぐに読み取れたよ。つい口元がゆるんでしまったくらいだ。


「恋人を紹介したいなら、はっきりそう言いなさい。もっともお前が見込んだ女性なら、私は口出ししないが」


 そう言うと、お前の頬はみるみる赤くなっていった。まったく、その正直さは母さん譲りだな。


「やめてくれよ。まぁとにかく会ってほしいんだ、すごく素敵な人だからさ」


 それを聞いて、年甲斐もなくうきうきしてきてしまった。この腕に抱けるほど小さかった息子が恋をし、彼女を紹介しようというのだ。我が子が大人へと成長していく、その実感がひしひしと湧いた。このような瞬間に心浮き立たぬ父親がどこにいよう?


 それから数分後だった。聞こえるはずのない声が聞こえてきたのは。


「ごめーん! 遅くなっちゃった!」


 お前は晴れやかに笑うと、声の主へ手を振った。背筋を冷気が這い登るのを感じながら、私も後ろを振り返った。


 その女性を視界に収めた瞬間、心臓が凍り付いた。


 母さんがいた。出会ったばかりの頃の、若々しい妻が!


「ほんとにごめんね! どれくらい待った?」


「たいしたほどじゃないよ。それよりほら、とりあえずお店の中に……ねぇ父さん、どうしたの?」


 茫然としていた私に、お前はずいぶん怪訝な表情で聞いてきたな。まぁ無理もない。きっと私は幽霊と鉢合わせしたように真っ青だったはずだ。


「あぁ、いやすまない。それじゃあ案内を頼むよ」


 なんとか落ち着きを取り戻した私は、お前たちと共にレストランへ入っていった。そして遅れてやってきた娘の横顔をちらりと見た。やはり似ている。似過ぎていたよ。大学時代の母さんにうり二つだ!


 テーブルに着席した私へ、お前は彼女を紹介してくれた。そうして告げられた彼女の名前は、胸中に抱いた疑惑を強めるには充分なものだった。


「僕たち、大学で一緒のゼミなんだ。なんだかんだ気が合って、いつの間にか付き合うようになって」


 お前たちは見つめ合いながら、照れくさそうに笑っていた。彼女が母さんそっくりでなければ、なんと微笑ましい光景だったことか。


 私が彼女にいくつか質問をしたのを覚えているか? あれは確認作業だったのだ。あまりに恐ろしい真実についての。


「君の名前なんだが、そのう、名字に聞き覚えがあるな。ひょっとして君の母親は昔、絶滅動物のクローン研究をしていた人じゃないかい?」


 彼女の表情がぱっと明るくなった。


「あっ! やっぱり知っているんですね! そうなんです! 母は私を身ごもったときに仕事を辞めちゃったんですけど、息子さんからおじさまも同じ研究所に勤めていたって聞いて、もしかしたら同僚だったのかなって話してたんです。すごい偶然ですね!」


 決してありえないはずの憶測が、どんどん現実味を帯びていく。私は最後の質問をした。もはや答えのわかりきった、しかし間違っていて欲しかった質問を。


「君は明るくて思いやりがありそうだ。きっと血液型はA型だろう?」


 彼女は屈託なく笑った。えくぼの位置も同じだった。


「えーやだぁ、わかります? いつも言い当てられちゃうんですよ!」


 とても魅力的な笑顔だった。お前が惚れるのも納得だよ。母さんの笑顔は、私とお前にとってかけがえのないものなのだから。


 彼女の笑みに耐えられなくなった私は、たまらず店のトイレに駆け込むと、低い嗚咽を漏らした。


 母さんのクローン胚は破棄などされていなかったのだ。私が捨てたのはおそらく、実験用のクローン動物の胚だ。すり替えた犯人は一人しかありえない。あの娘の母親、つまり私の元同僚だ。


 母さんのクローン胚は巧妙に隠されたのだ。元同僚の腹の中、すなわち子宮に!


 先述した通り、研究所にはAI制御式自動精密マニピュレーターが置かれていた。どんな精密作業も可能なあのマシーンなら、事前の準備さえしておけば、AIの制御によって自動で人間の手術を行うこともできる。胚を子宮へ移植させる術式すら可能だ。


 元同僚はマニピュレーターを使って、自らの子宮にクローン胚を移植したのだ。そして妊娠を口実に研究所を去ると、クローンを自らの娘として生み育てた。状況的にも、なによりあの容姿と血液型からして、そうとしか考えられない!


 元同僚と最後に交わした会話を思い出す。『どんな理由があろうと、あたしはこんなこと認めない。あれだって立派な命なのよ』


 立派な命。確かに彼女はそう言った。だがまさか、自らの腹を開けてまでクローンを助けるとは。なぜそこまでやったのだ? 私の知らぬ間に、あの女の中にも母性本能のようなものが芽生えていたのだろうか?


 いや、この際元同僚の心中などどうでもいい。それよりこの悪趣味で皮肉な偶然は何なのだ! よりにもよって、我が子が我が妻のクローン・・・・・・母親に恋をしてしまうとは!


 胚を破棄したと思い込んだあの日から、私は目につく場所に母さんの写真を飾らなくなった。母さんの顔を見るたびに冷静ではいられなかったからだ。だがそれが裏目に出た。母親の顔もよく知らず育ったお前は、恋人が亡き母の生き写しなどとは夢にも思わなかっただろう。


 視界がぐにゃりと歪んだ。世界が大きく回転する。喉を潰されたように息が苦しい。そこから絞り出すようにして細く叫んだ。


 神よ! もしいるのならば答えてくれ! なぜこんな仕打ちをする? 罰を受けるべきは私だけのはずだ。なぜ子が親の因果に報いらねばならない! なぜ死んでいるべき人間を生き永らえさせた!


「父さん! ねぇ大丈夫? 父さん!」


 様子を見に来たお前がトイレのドアを叩いた。私は何度も深呼吸し、脂汗をふき取ってトイレを出た。


「心配かけてすまない。私は大丈夫だ」


「大丈夫じゃないだろ父さん。今日はもう帰って休まなくちゃ」


 その必要はないと訴えたが、なにも知らぬお前は私を気遣って、彼女を先に帰らせることにした。


「どうかお大事になさってください。お元気になられたら、またお会いしたいです」


 差し出された手を、私は震えながら握り返した。昔と変わらぬ温かさだった。そして懐かしさと恐ろしさが混在した微笑を彼女は浮かべた。


 家まで戻ると、お前は私をベッドに横たえさせてくれた。お前はやさしい子だな、本当に。誇りに思うくらいだ。


 そしてお前はおずおずと、私にこう言ったね。


「父さん、ずっと一人で僕を育てて大変だったろ? でも僕、社会に出たら彼女と結婚するんだ。もう約束だってしてるんだよ。そしたらこの家を出て、二人で暮らすんだ。その方が父さんも肩の荷を降ろせるだろうし、彼女とならうまくやれる気がするんだ。なんとなく、だけどね」


 あの時、苦笑いをするお前にかけた言葉。あれは私にとってお前への祝福であると同時に、嘆きでもあったのだよ。


「そうだろう。そうだろうとも。君たちはお似合いのカップルだ」



 いま私の手元には、刃渡り三〇センチのナイフがある。ネットで密かに出回っていた殺傷力の高いものだ。これなら私でもあの娘を仕留められる。


 私は自分のエゴによって、一つの命を振り回してしまった。永遠に失われたはずの命を復活させようとし、そのくせ生まれてはならぬと終止符を打とうとした。


 母さんは死んだ。死んでいなくてはならないのだ。お前の恋人の存在は、この世界にとって不自然なのだ。自然の摂理は正さなければならない。罪人である私自身の手で。それこそが秩序の調整であり、贖罪なのだ。


 息子よ、本当にすまない。お前の愛する人を私は奪う。だがどうかわかってほしい。いずれにせよ、お前たちは結ばれてはならないのだ。お前が彼女に抱いている愛情は男女のそれではない。亡き母への思慕を、無意識にはき違えただけのものなのだから。


 長々とした釈明もここまでだ。そろそろ大学からあの娘が帰ってくる時間だ。行かなくては。


 今度こそやり遂げる。世界をあるべき形へ戻すのだ』


※※※


 久しぶりに読み返した遺書を、僕はバラバラに引き裂き、ガレージのゴミ箱に放り捨てた。


「父さん。あなたは本当にひどい人だ。大切な人が奪われる悲しみを知っているのに、どうして同じ真似ができるんだ? 僕には理解できないよ」


 地獄に落ちたであろう父には、その後の僕の苦しみなど知る由もないだろう。突然愛する人を殺され、しかも彼女には何の落ち度もなかった。すべては父が自分で犯した失態の後始末でしかなかった。こんな理不尽があって良いのか。


 父さん。あなたは彼女だけでなく、僕の心もズタズタに切り刻んだんだ。でもね父さん、それでも僕は前に進んできたんだ。あなたと同じ遺伝子工学者となり、そして……。


 僕は人工子宮カプセルのスイッチを押した。父が研究者だった頃にはなかった最新機器だ。これさえあれば、代理母など必要なしに胚を成長させることができる。いまや特別な研究施設でなくても、精密マニピュレーターと人工子宮カプセルがあれば、自宅のガレージでもクローンの作成はできる。


 カプセルのふたが開いた。その中には、可愛らしい新生児が眠っている。へそに繋がれた臍帯チューブを取ると、元気な産声を響かせた。僕はそっと赤ん坊を抱き上げた。


 僕は二度も大切な人を失った。母さんと、そして婚約者を。父さんは僕と彼女は結ばれてはならないと記した。だが殺人鬼にそんなことをぬかす資格はない。彼女の正体が母のクローンであったとしても、僕にとっては唯一無二の人だった。だからこうして取り戻した。取り戻そうとして何が悪いんだ。父は最後の最後に悔いたようだが、僕は後悔なんてしない。神にだって文句は言わせない。


 元気に泣く赤ん坊を抱きしめ、僕は母であり、生涯愛すると約束した伴侶へ呼びかけた。


「おかえり、僕の愛しい人」


(終)

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