七
オムレツから発生する罵詈雑言の悪臭が鼻につく。
分裂がなにを意味するのか?
かなこは絵を描かなくなった。理由。キャンバスから漂ってくる臭いに耐えられないという。また、彼女はよく食事をもどすようになった。理由。肌を重ねる回数が減り、風呂上がりのかなこの腹部はまろみを帯び始めていた。
ぐちゃぐちゃにかき乱された現実は実散の見るものすべてをザーヒルたらしめた。
かなこの胎が笑う。けらけら。
まるみが落ちくぼんで眼窩と口腔を描く。顔。それも見知ったそれ。卵男、おじさん、中、ザーヒル。
臨月を迎えた辺りから、かなこは見ると死ぬ絵の制作を再会させた。
出るぞ出るぞ、という悍ましさの権化として。実散の現実は更に矮小と化し、視界は狭まり、僅かばかりの室内灯だけが、実散とかなこを浮かび上がらせていた。
閉ざしていく世界の空間。広がっていく世界の空白。
混ざり合って、原色を失っていく色彩の行く末は黒。
「自分の声をばらばらに千切られて再構築される気分ってどんな気分?」
一つの山場を越えたかなこは饒舌だ。実散に対する辛辣な態度を隠そうともせず、淡々として滞りのない筆致で絵を仕上げていく。
見えるか? その相貌が。
「私は殺す。この絵を見たあらゆるすべてを。それが証明。わたしはねえ、実散。あなたのことをこれ以上愛する存在を許せない。あなたは私の物語の内で消滅するべきなの」
龍禅中に最も愛された存在。アイリス。その原画を担当したかなこ。絶対的に、精神的に手中に納めたかったのは実散だったのではないか。中の真意を正すことはすでに不可能。
ああ、どうして、あの時、私は真実を問いただすことを否定したのだろうか。
「私は殺す。この声を聞いたあらゆるすべてを。それが証明。わたしは、かなこ。あなたのことをこれ以上愛する存在を許せない。あなたは私の物語の内で消滅するべき」
実散でも想像できなかった形で彼女の声は世界に訴えかけた。バラバラに刻まれ再加工され、実散のものでない感情を乗せて、それでもその声は実散のものでありながら、あらゆるメディアを通じて、彼女の声を知らないものはいない。
この先に続く道は新時代。具体性の欠片も持たない不定形の結末だった。
かなこの絵は完成する。実散が見れば明らかなそれは紛れもなくザーヒルだった。
「私もあなたも見えてる現実は同じだったんじゃないの?」
「違うよ、実散。これを見ているのはあなた。あなたにしか見えてないものを、どうして私が描くことができるというの?」
でも、
「これは紛れもなく私が見ていた実散だよ」
かなこが身籠った子は誰の子か? 自分の中に異物を押し込まれた悍ましさを理解することは実散には到底不可能だった。
見たら死ぬ絵。なるほど、それならば製作者とて例外ではないのだろう。
ベランダに出て、手摺を越える。笑いながら泣いている。いや、笑っているのはその胎なのだろう。完全に形を得たザーヒルの卑しい笑みがかなこを苛み実散を絶望させた。
「どうせ中身のないものだったら、」
おそらく、かなこを殺したのは私なのだろう、と実散は彼女が落下したベランダの外を見降ろした。
かなこには重すぎた愛について、少しは理解できた気がする。
潰れた頭蓋から流れ出る色は赤よりも少し暗い。人体の構造上、真っ赤な鮮血というものを見ることはできないのだろう。悲惨な死にざま。眼は限界まで開かれ安らかさとは程遠い。実散だったら転落を阻止できたのではないか? だめだ。かなこはもう手の届かない処まで上り詰めていた――追い詰められていた。
しかし、潰れた肉塊の腹部に、それらしい違和感は存在しなかった。もとより、それを目の当たりにしていたのは実散だけだった。そこには何もない。かなこの胎を満たして大きく育てたのは実散の巨大な感情だったのだ。
ふと、隅に据えられたプランター――二人で何を育てようかをぐだぐだと話し合って結局土だけを入れてそのままになってしまった茶色い(植物を育てるのに植物の模様があるのはどうしてだろう)箱――を見て、虚を突かれた。
そこには鳩が二羽、互いに寄り添うようにして丸まっていた。放置されたプランターの土が余程居心地がいいのか、羽毛の温もりで小さな卵を温めていた。おそらく番いなのだろう。じっと睨みつけていても動こうとしない鳩を実散は煩わし気な手を振って追い払った。ぼっぼ、と非難がましい声を上げて飛び立つ二羽を見て、より虚しさが込み上げてくる。
想像以上の脅威から大切なものを守ることの無力が殊更に感じられてすべてがどうでもよくなっていく。
実散は残された三つの卵をかなこがそうしたように手摺の向こうに放り捨てた。遅れて殻の潰れる音を確認して部屋の中へと引き返す。
トルコレースの掛けられたキャンバスがイーゼルに支えられている。完成した見ると死ぬ絵。かなこには最後は見てはいけない、と言われていたが、それを確かめないわけにはいかない。チューリップの刺繍が可愛らしいそれでいて神秘的な幾何学――それも大体は植物をモチーフにしている――が美しい布を上げて、かなこの作品を見た。
「ひひ、あはは――」
なんだこれは? まるで出鱈目じゃないか。実散の記憶には確かに形あるなにかを描いていることを認めていた。しかし、よくよく考えてみれば、それは大抵意識の外で眺めた感想で実際は制作過程をじっくり見たためしはなかった。
そこにザーヒルも、マンホールのおじさんも、中も、卵男も描かれてはいなかった。
馬鹿馬鹿しいとしか言えない代物で、つまり、かなこの現実は本当に存在しなかったことの証明なのだろう。ただ、乱雑に幾つもの――数えきれない数は無限と同じ――色を重ねていっただけの狂気の顕れ。
かなこの心はとっくに壊れていたのだ。
それを知れてよかった。何故だか実散は満足感を得ていた。これで、私の世界が閉じても何も問題はなくなった。
だってそうだろう。
「とっくに私は狂っていたのだから」
ハンプティ・ダンプティ元には戻らない。取り返しのつかないことの末路は破滅、あるいは、虚無。
そこには何もなかった。実散の意識は何もなかった。空白の中に紛れ込んだ一瞬の感情が閃いた。物語は刹那的な静寂に包まれ、その静けさがザーヒルとして残された。
取り返しのつかないこと、ハンプティ・ダンプティ 梅星 如雨露 @kyo-ka
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