六
卵は割れる。毎日、毎時、毎分、膨大な量の殻が弾けて散。その中身は虚ろ。なにもない。これは本来、危なっかしさを愉しむものであって、人はそこから得体の知れない悪夢が噴出することを望まない。だからこれは平穏。無垢で潔い綺麗ごと。ザーヒルを知覚したものにもたらされる結末は変わらない。換えられない、替えられない。代える必要がない。
顔のない卵が割れる。殻はゴミとして捨てる。黄身を掻き混ぜると怨嗟のあぶくが生じる。熱されたフライパンの上に落とすとそれは絶叫し平たくならすとすすり泣く。手首を駆使してふんわりとオムレツに仕上げ、ケチャップライスに乗せる。ナイフでオムレツの真ん中を割くと、どろり、と半熟の液体が零れ落ちる。蝶の蛹から零れだすそれだ。液状化したザーヒルの口から「結末は変わらない」と、ここ数日さんざん聞かされてきた文句が続く。
食卓に皿が二枚。使い残しの野菜をぶち込んだスープと一緒に並べられていた。ダイニングテーブルの席からはかなこの部屋が丸見えだ。もう、隠す必要もないのか彼女が描く見ると死ぬ絵がこちらを覗いている。着々と完成へと向かっているその絵には在り得ない色がいくつか使われているようだった。
恐らくそんな赤色を作り出すことは普通はできないはずの。それは中の血液、唾液、膿み、あるいは精液とか。そんな類の視覚的効果と臭気を放っている。
噴出するグロテスクな色彩を認めて、ああ、と少しだけ腑に落ちる。かなこも龍禅中という人間を殺してしまいたいほど嫌悪していたんだろうなと。
ザーヒルの侵食は加速的に増大していった。もはや、実散に正常な日常を送ることは不可能に近かった。街を歩くという当たり前の感覚がザーヒルの中身で溺れている錯覚に書き換えられていく。僅かな隙には見たくもない中の顔が潜み、下らない警告を呟いている。
そこに距離感とか時間間隔とかいった、当たり前の平衡感覚が消失していた。
実際、ザーヒルを十全に理解することは無理なことだった。
一つにして九十九の名を冠する神聖を。見ようとすれば遠ざかり、忘れようとすると近づいてくる。狂気と正常が正しく判断できない、乖離的な人格を埋め込まれたような曰くのつかないしこりは実際の感覚として明らかだった。とはいえ、そこが現実の延長線上に位置する根拠を証明することは、やはり、不可能なことだった。
龍禅中が殺害されたという事件をメディアが囃し立てて報じることはなかった。というよりも、そんな事実が公表されることはなかった。この現実では、龍禅中は失踪したことになっている。なぜ? 誰もその後を知らないからだ。
恐れる間もなく、警察からは二、三の質問であっさり解放された。
これは都合のいいことのはずだった。しかし、実散の心境はもっと悲惨なものだった。逆に不安になる。事実が確認できないことが焦燥感を呼び寄せる。
はっきりと口にはしないかなこの遣り口も少々気に入らない。彼女は核心的な事実を決して口にはしない。
「本当は、あなたの生きる日常に私という個人は存在しない」
不吉な祝詞のように――いかにも似つかわしくない単語の連なり――かなこは口の端にケチャップを付けて囁く。
耳たぶの縁をなぞる様に。そこには揃いで買ったピアスが肉体に穴を空けている。小さなアメジストの粒が二つ。意外にもその硬度は性質に適ってはいても、意味合いにおいては脆い。そうと知ったときに、捨てられなかったのは実散の弱みだ。かなこの耳には閉じかけた小さい穴が認められる。
「私にはかなこはそこにいるのだけど?」
かなこがなにを言いたいのか大体予想が付く。意味深長な、断片的で、具体性のない言葉の連なりは如何にも……如何にも知的な印象を覚える。そういうのは、かなこが好みそうな遊びだと理解している。
「この前田かなこという存在は、ここにはない。哲学的ゾンビっていうの? 思考実験として他者の意識を考えるけど。私は高橋実散の見る現実にしか存在しない幽霊みたいなものよ」
かなこの不在とは。現に彼女は実散を悩ませる強固な現実の具現ではないだろうか。しかし、それをかなこ自身が否定する。
「それはなに? これって、あなたなりの別れ話なのかしら?」
「そういうのじゃない。私は実散が必要だし、実散も私が必要でしょ? でもね、それって独りよがりの愛なんじゃないのかなって、すこし、ほんのすこし思っただけ」
今にも泣き出しそうな潤んだ瞳を見て理解する。それは怯え。そして、実際に涙しているのは実散の両目であるということ。そこに映り込むかなこの輪郭をぼやけさせていまにも掻き消してしまおうとしているようではないか。
「ザーヒルなんて存在しない。見ているのは実散だけなのだから。他者を介して証明することは不可能。それは愛にも言えることだと思う。あなたは必要以上に愛を求めすぎている。愛情を可視化しないと気が済まないの。でも、私にそこまで期待されても困る」
なんてことはない。高度なコミュニケーションを装った戯れに過ぎない。論理的に考えて、愛、なる概念を語り尽くすことほど幼稚な営みもないだろう。
少しだけ白ける。
「そうね。単なる痴話喧嘩に愛なんて不確かな現象を引き合いにするのは愚か。ザーヒルなんて存在しない。形ある現象として愛を享受しようなんておこがましい。私たちはこうやって確かめ合う行為を繰り返しながらではないと、お互い愛しきれない。なんでもかんでも理解しようだなんて……それは人間の限界を超えた神の領域なのかもしれない」
なんだか寂しいね。
独りよがりの愛は成立するのか。
実散にとってそれは前田かなこなのだと思う。重み。その内臓を引きずり出されそうな重みは、どのような関係性にあっても邪魔者でしかないのかもしれない。
終わりにかなこは涙を零し、口の端に残ったケチャップを拭った。
耳に飾られた宝石を撫でさすり、それを外す勇気が持てない自分が酷く惨めだ。
本当は、こんな形で愛情という繊細で理解しがたい感情を顕すべきではなかった。下手に形を持った愛なんて、重くて、たった一人を捻り潰すことなど容易なのだから。
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