五
一人で背を向けてキャンバスに向き合う。少しばかり猫背の、ただし、力強い筆使いで色を重ねていく。空よりも暗い濃紺、オレンジの皮に似た橙、刃のように鋭い鉛、人肌の黄、新鮮な生肉の赤、零れ落ちそうな臓腑の臙脂、血のこびり付いた緋……中の背を抉った深紅、それらの色をどこから連想してきたのか? あまりに鮮烈に甦ってくる――あの暗闇の中でさえ色鮮やかに――目を焼いた赫然とした鮮やかさには人間の内に潜む臭気を纏い訴えかけてくるようだった。
その色をどこで知ったのだろうか? 実散は疑問し、背後からかなこを抱きしめた。
ん――、と短く身じろぎしてかなこはその手を止めることなく着々と塗り固められていく絵の中にますます没入していく。
ここ数日はこんな調子である。というのも、本来、その手はアニメの作画作業を続けているはずだったのだから。監督の不在となった今、『ハンプティ・ダンプティ』はほとんど機能を失い人もまばらになっていた。かなこは少なくない数の仕事を失い、憑りつかれたようにあの〝見たら死ぬ絵〟の制作にのめり込んでいる。
実散とて例外ではなく、彼女もまた声優としての活動が激減――この言葉には欺瞞が含まれる――した。とはいえ、数話以上は上映されたアイリスの冒険譚は打ち切りという憂き目を負いながらも、実散にとっては多大な功績が与えられた。そのため、高橋実散という声を手に入れるが為に様々な企業からオファーが立て続いた――結果的に、その声は競売にかけられさる企業によって多額で落札されることとなった。そしてそれは、彼女自らアフレコをする必要がなくなったことに他ならない。今時分、それは余り推奨されない技術だった。音声は抽出――複数人の声を合成することなど茶飯事――され、微細に加工編集を経てから世に出すことが当たり前。あまりに、高度に学習を経たAIの出力に人間はとうに敗北していた。がゆえに、映像にしろ物語にしろ自走するシステムであり、むしろ人間の好みをよりよく理解したAIによる供給は人の手など介す必要がなくなった訳だ――この現状を作り出した背景は大手映像会社による暴露が発端だったと語られている。乱立する映像会社の粗悪な作品を連打するやり方に是非を唱えた事件。その当時作画レベル物語レベルで群を抜いた作品が世に出た。そして、制作側は放映の終了とともに事実を発表した。この作品はたった一つのAIから作り出されたものだと。人間にすり替わって高度な物語を創り出した事実に多くの人間が愕然とし、屈辱的な敗北を刷り込んだ。それからのアニメ制作は革新的な――費用対効果もさることながら――新技術によって発展していく。新しい現実、新時代の産声の上がる瞬間を誰もが忘れることはない。
だからこそ、龍禅中という存在が如何に異彩な凄味を帯びてくるか……言わずと知れたことだろう。
実散は遂に自覚することとなった。私がかなこの生きがいとすべてを奪ってしまったのだと。
「実散は悪くないよ。コストの問題。いずれ、賄えきれなくなることは当然だったし、やっぱり、世の中がそうではなかったのだから」
なにを言っているのだろうか?
「気付かないわけないじゃない。一緒に暮らしていて相手に興味がないはずがない。当たり前でしょ? 実散が私の不貞を疑ったことからして事実。どんなにうまくコーティングされた内面も、強固な現実には打ち勝てない」
凶器はそのまま使っている。これは罪の意識を消さないために。返り血を浴びた衣類はまとめてジップロックしてアディダスのシューズボックスに隠していた。
「私は馬鹿だった。実散のことを信じ切ることができなかった。あなたがザーヒルを見ることを予想できなかった。監督は駆け引きしようとした。あれはとんだ不器用の童貞だった」
淡々と、そこに一切の感情を乗せずに、ただ機械的に事実のみを告白する。
「私にも限界がある。だから知る必要があった。未知のものに侵略される経験を欲した。まあ、無意味だったと思うけど。ただそこには悍ましさと満たされることのない快楽だけが渾然と存在しただけだった」
やはり実散の自覚はただしかった。中は初めから実散の声を主役に据えた新作の構想を隠し持っていた。それをまったくどうして、人間らしい泥臭い――思春期の童貞と変らない発想であるなら青臭い――感情でかなこに駆け引きを持ち掛けてきたわけだ。
「あまり魅力的な提案ではないと思った。ただ、利害は一致していた。得るものは必ずあると、信じていた」
見たら死ぬ絵の話を思い出す。あの頃から、かなこは捩じれたコンプレックスを抱えていたのだろう。
「実散はずるいよね。でも、だから解かる。やっぱり実散は悪くない。恐らくそうさせたのは私の軽率な行動だったのだろうし、愚か者は私だったんだと思う。……、軽蔑する、そんな私を?」
でもそれとて、結果を視れば実散が居たから始まったことだと思う。一体何が正しくて何が間違っているのだろうか。実散には解らない。ただそれらを踏まえたうえで言わせてもらえば、
「軽蔑するわけがない。する必要もない」
痛みを分かち合うように寄り添って眠りにつく。そういう終わり方が、美しい。一種の定型句を繰り返すが如く。数日の間は落日の中で愛しあうことができた。
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