06 朱に染まる湖

 二日目の戦いも痛み分けに終わり、三日目。

「このままではまずい」

 朱元璋は旗艦・絶風ジュエフォンの舳先にて、沈思黙考していた。

 この千日手を繰り返すことは、実は悪手である。

 他ならぬ朱元璋自身が知っていた。

「陳友諒には六十万の兵。こちらは二十万の兵」

 単純に、お互い削り合ったとしても、最後に残るのは陳友諒艦隊である。

 それを陳友諒も知っているからこそ、こうして潰し合いをしているのであろう。

「どうするか」

 火竜槍で敵艦を焼くにしても、限界がある。その上、陳友諒も警戒して、必要以上の時間を与えてくれない。

「しかし、風はこちらに。これを上手く使えば」

「さよう」

 朱元璋が振り向くと、そこには劉基が立っていた。

「康茂才に頼んだことの仕上げを、と」

 劉基は必勝を期して応天府から参じたという次第である。

「では先生、応天府は誰に」

「それは奥方に決まっておろう」

「……そうか」

 朱元璋は笑った。猜疑心の強い彼であるが、誰よりも信を置いている人間がいる。

 それが、妻の馬氏である。

「ほかならぬ奥方が行って助けてくれと言うたのじゃ」

「持つべきものは賢妻であり賢臣かな。で、先生、さきほどの風については」

 朱元璋は火竜槍で焼くのも時間がかかるとぼやいた。

 劉基は手に持った扇をあおいだ。

「一気に、大きな火でもって燃やせば良い」

「だから、そんな大きな火をどうやって」

 そこで朱元璋は気づいた。

 劉基の視線の先を。

 そこには、鄱陽湖で漁をする漁師たちの船が浮いていた。

「戦いの最中であっても、漁師たちは漁をしておる」

「陳友諒は漁師の家に生まれたとか」

 朱元璋は貧農の出身であるため、民草を守る姿勢を示し、漁師たちの邪魔をしないよう厳命していた。また、陳友諒も漁師の出身であるため、やはり漁師たちが漁をするのを止めようとはしなかった。

 朱元璋の脳内に電流が走る。

「まさか、先生」

「七艘あるようじゃの。充分ではないか」

「先生」

 風が吹いてきていた。

 緒戦の時と同じく、東北の風が。



 一方の陳友諒。

「漁師たちの様子がおかしい?」

 陳友仁と張定辺がそろって、旗艦・大風タイフォンの陳友諒を訪ねて来ていた。

大方おおかた、朱元璋にでもしてんだろうが」

 漁師とて生活がある。

 それぐらい当たり前だと陳友諒は言った。

「だが、兄者」

「お前だって漁師だっただろう。気にしていたら、きりがないぞ」

 大体これだけの艦隊の動き、ばれて元々である。

 それでも張定辺は言いつのった。

「しかし陛下、さっきまで漁をしていたはずが、急に引き返し……」

「釣れなかったか、さもなきゃ朱元璋が、これから戦うから引き返せとでも言ったんだろ」

 朱元璋は不殺を掲げ、養民を唱えている。略奪も禁じていた。

「つまり今日も、これから戦うと……」

 陳友諒がそこまで言ったところで、物見の兵が来た。

「漁師の船が見えます」

「何だ、やっぱり釣れなかっただけか」

 漁師の船であったため、陳友諒艦隊の誰もが「またか」と思った。

 その時。

「火だと?」

 陳友諒は、わが目を疑った。

 警戒せずに近づけてしまった漁師の船七艘が、突如、燃え上がった。

 燃え上がる船は、火薬を積んでいたらしく、炎を巻き上げ、陳友諒艦隊の真ん中に突っ込んで来た。

「馬鹿な」

 風が吹いていた。

 今までの、どの風よりも、強く。


 朱元璋は漁師の船七艘全てを買収し、決死隊を組織させた。

 そして船に火薬を積み込み、火船と化した船七艘を陳友諒艦隊にぶつけたのだ。

 燃え上がる炎。

 史書に「煙焔天えんえんてんにみなぎり、湖水ことごとく赤なり」と記される劫火ごうかが、鄱陽湖を朱に染めた。

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