千代にただ一雫

さまよう迷湖

一、



 天平十五年〈七四三年〉、五月。

 その時、女は数えで二十六であった。



 三千代が乾いた指で一枚ずつ選んだ衣の下、膚〈はだ〉の下、己の血肉がざわめくのをどうして止められようか。

 この宵は、女にとって、ひと際特別な夜であった。

 平城京の夏。夕暮れの生駒の山に日が沈もうとしている。相対する春日の山間からは、白い十六夜の月がのぼる。当代の帝がその信仰、その権威、その血、その祈りを己が娘の身にひたすらに込めた黄昏だ。煌々と篝火が燃える。正面には大伯母である太政天皇がおわし、御簾に隔てられて父と母もいるだろう。そして彼らの群臣たちが檜舞台を囲んで座している。一心に、ある者は恭しく、ある者は疎ましく、女を見ている。朱の衣をまとい、かんばせを白く塗り、驕奢なかんざしをしゃんしゃんと揺らし、舞台に上がる女を見ている。ざわめく気配はやがて静寂へと沈む。

 女が扇を掲げる衣擦れと、ぱち、と薪がはぜる音が、相剋して静寂に跳ねる。

 天は、青から橙、そして藍へと色を変え、そして、笙の音が響き始めた。

 舞台にて、五人の女が楽を舞う。先頭の女は、諱を阿倍という。のちの世では、孝謙・称徳天皇と呼ばれることとなる女だが、まだこの時は皇太子の身分であった。

 阿倍の他、四人の女も豪族の娘たちである。彼女らが舞う五節舞は、阿倍の血の祖、朝家の礎となった天武帝が吉野の原で出会った天女を模したものだ。祖に天命をもたらした天女。しかしこの黄昏においては、阿倍自身の天命を、阿倍自身にもたらす舞だ。

 笙の音が遠い。修練とは違う響きで耳へ届く。常よりもこもったような音が、それこそ稀なるもののような気がして、阿倍の血は騒ぐ。胸は騒ぐ。臓腑の深いところに染みわたり、あふれだしそうなものがある。手足は何も考えずにいても、笙の音とともに動く。しかしそのまなざしは止められなかった。上皇を見、帝とその后を見、朝臣を見渡す。灯りは阿倍を照らし、群衆の顔に影を落とすが、阿倍は見ていた。己を敬う瞳、忌々しさをにじませる目線、すべてを見て、拾っていく。まだ、彼女はそれを見ることしかできないが、しかしそれだけで十分であった。聡い者は気づいただろう。朝家〈ちょうけ〉に対する自身の忠心、あるいは逆心が、この当代の東宮〈皇太子〉に見透かされたことを。

 見つけて、気づいて、察されて、それで?

 それで、――阿倍は充足していた。舞が、舞だけでなくそれにまつわる天女の天命が、祖の血が、彼女の宿命をひたひたと満たしていく。ここでは、まだ成らない。けれども、必ず成る、宿命。

 笙の音が引いていくとともに、舞姫たちは扇を閉じる。どこからともなく聞こえてくる吐息の切なさに、阿倍の内側は蕩けていくようだった。阿倍は、酩酊しているといってもよかった。高揚しているとも。おしろいはこの頬の赤みを消してくれるだろうか、などと思う。臓腑から喉元、手足の先から、頭蓋の内まで、満たされた何かは今にも溢れそうで、弾けてしまいそう。

 上皇に奉じる舞は、すなわちこの血に奉じるものだ。受け継がれてきた、濃い、統治の血。まつりごとのための血。朝家を朝家たるとした天智天武のししむらと、その懐刀である藤原一門。天命と、才知を縒り合わせ、手繰り寄せ、宮という箱の中で女たちが育んできた今生の宝。それが、阿倍だ。

 聖武天皇と光明皇后に男児が育たなかったことに、多くの者は嘆いただろう。あるいはこれが機と舌なめずりした者もいるかもしれない。けれども阿倍の祖母であり、宮中の支配者である三千代は、そのどちらでもなかった。静かに後宮に務めながら、長くこの血が受け継がれ、まじりあうのを見てきた女。その血がもっともよい形で顕れるのを、待っていた女。

「女が、東宮となるのです」

 弟がこの世に生まれて一年と長じずに崩じた夜、三千代は阿倍の寝所に忍んできた。そして十の娘の耳元に吹き込んだのだ。

 頼りない灯りの中、三千代の顔は優しかった。白い娘の手を、少し日焼けした三千代の手が重なる。寒い冬のことだ。侍従にも聞こえぬように、佯狂を装う遊びに孫を誘うような調子で三千代は言った。

 静かに笑みを浮かべながら、寝物語を聞かせるのと同じ調子で、三千代は続ける。同じ日に、愛娘が念願の男児を失い喪失にあえいでいるとは思えぬ、平常な姿だった。

「内親王さま、――いいえ、太子さま――そう、三千代はこれからあなた様を太子とお呼びすることにしまする。二人きりのときは、必ず。日嗣の宮さま、光り耀く太子さま。あなたさまこそ、日の神の国を嗣ぐのに相応しいお方」

「しかし、三千代、太子とは男の子(おのこ)がなるものではないのですか」

「まあ、誰がそんなことをおっしゃいましたか?」

 三千代はその顔の中でも特に目を引くまあるい瞳をひときわ丸く見開いた。まるでままごと遊びの延長のようだ。

 阿倍は、幼い娘ではあったが聡かった。そして真綿にくるむように大切に、いずれ後宮の主になるのにふさわしいように、丁重に愛されていた。昨年生まれた弟を腕に抱いた重さも知っているし、白いふくふくとした衝きたての餅のような肌にうっとりと指を沈ませて愛でたこともあった。その命がしぼんでいき、御霊がその体からすうと抜けていこうとするのすら、見てきた。

 だから、祖母が見せる平常は、その悲しみを阿倍に見せぬための気丈さなのだと思った。阿倍は、弟の基王のためには泣けなかった。愛しい弟であったが、言葉を交わすこともできず、立ち上がることもできなかった、哀れな弟。そこに悲しみはあっても、大人たちのように涙を流すことはできない。己はまだ、喪失のことをよくわかっていないのだ、と思い知らされるようで、寂しかった。

 おとなたちの中でも、三千代は阿倍にとって偉大な女だった。この愛嬌のある壮年の女を、祖母という血のつながりを超えて、阿倍は慕っていた。だから、彼女もまた、後宮のほかの女と一緒に基王のために流すことができる大人なのだろう。阿倍の前で見せる三千代の姿は阿倍のためのものだ。三千代はこの後宮の揺るぎない差配人なのだから、阿倍や母の光明子にとってはいつでも味方なのだと、この時は、信じていた。

 十の娘と、五十齢を生きた女の感情も、思いも、かけ離れたものなのだと、阿倍はまだ知らない。

 ただ、三千代は阿倍の言葉を遮らない。言葉を探す間も、拙い言葉も、真剣にきいてくれる。これだけは、阿倍がしっている三千代の真実の一つだった。

「言わずとも、太子はみなおのこだ。今は、朝家に相応しい成人した男児がいないから、父上は太子を立てぬのだ。今、朝家に縁のある一門の豪族たちは、こぞって我こそは東宮に相応しいのだと、帝に上申しておるのではないか?」

「そうですねえ、豪族たちは確かに、そんなことを考えている者もいましょう。しかし、太上天皇さまは女でございまする。天皇〈おおきみ〉に必要たるは、人民を統べるための皇祖さまの貴き血と才知、男であろうと女であろうとかまいませぬ。そしてその天皇〈おおきみ〉の継嗣たる太子が、男だけのものとは、道理にかないません」

「それは……そうだな」

 三千代の言葉にうなずきつつも、阿倍はうつむいた。理に適っている。しかし、ざわざわと、少女の胸の中が理解したくないという。そんな阿倍の憂鬱すら、三千代にはお見通しなのだろう。

「なにか、憂い事が?」

「え?」

「もし、あなた様が太子になるのに憂い事があるのでしたら、今、三千代におっしゃいましょう」

「…………天皇は、夫を持てない」

「夫を迎える必要などありませぬ。なにより、太子さま、あなたさまを妻とするにふさわしい者が、この倭〈やまと〉のどこにおりましょう?」

「…………女の歓びは、子を産み、その成長をみることだという。けれども太上天皇さまは、生涯伴侶を持たなかった。穢れなき身であるために、生涯貞節を守らなければならない」

「それが、お寂しいのですか?」

「さびしい?」

 阿倍には、しっくりこない言葉だった。さびしい、のだろうか。夫を持てないことが、子を産めないことが? 伴侶を持ち、子を産んで、育てることは、どんな心地がするのだろう。それを知ることができないのは、確かに、さびしいような、物足りないような、そんな気持ちになった。

「おそろしい、のかもしれぬ」

「おそろしい、ですか」

「太子になれば伴侶を持ち、子を持つことができなくなる。その道が、閉ざされてしまうのが、おそろしい」

 三千代のすべてを見透かすような双眸に見つめられながら、阿倍は言葉を選ぶ。三千代の前で阿倍は嘘がつけない。浮薄な言葉も選べない。だから慎重に言霊を紡いでいった。老獪な後宮の主は、そんな阿倍を好もしく思い、そして幼くも現世の不条理に立ち向かおうとする姿に、帝たる器を見ていたのだ。阿倍こそが、三千代の望んでいた、凰の雛。番の鳳など欲することのない、ただ一人で偉大ならんとする神獣なのだ。

 三千代は阿倍の両の掌を握る。乾いた大人の手に包まれたこどもの手は温かい。その稚さを愛おしく思いながら、三千代は言い聞かせる。

「太子さまは、いずれ斎宮としての務めをおこないます。斎宮さまとしての務めを果たしたのちに、どんな男があなたと床をともにしようとも、あなたの身を穢すことなどできましょうか」

 そこで、初めて阿倍は違和感を覚える。三千代の細められた黒い双眸に浮かぶのは、何か。すっかり日の沈んだ山裾に広がる暗色ように、そこにはさまざまな木々やけものが息づいているはずなのに何も見えない、そんな色をしている。

「今上の陛下や他の豪族たちが、女御たちを侍らせ閨に忍ぶように、太子さまにも好もしいとおもう人がいれば、みずから閨に召されたらよいのです」

「わたくしから?」

 それは、阿倍にとって真新しい視点だった。女が、男に選ばれるのではなく、男を選ぶ。想像を巡らせてみる。新嘗祭で舞う女御たちは朝家の親王たちと結ばれる。では、わたくしは、同じように楽を舞う男たちと結ばれるというのだろうか。

 阿倍が想像を膨らますのをわかっているかのように、三千代はじっと待っていた。そして、口を開く。

「そうです。だって、あなたは日嗣の宮なのだから」




 遡ること五年前、今上天皇が娘、阿倍内親王が立太子された。

 群臣たちの間で、「阿倍内親王は皇嗣にあらず」という声があるのは乙麿も耳にしていた。なぜなら践祚した女天皇は子が産めぬから。次なる皇嗣は如何とするのだ、というのが彼らの主張だが、それはいささか腑に落ちない。先の天皇も女であり、子を成さなかったが、後を継いだのは甥御の男だった。阿倍内親王にはすでに二人の妹御がおり、いずれも朝家として誉れある血筋の方々だ。然るべき夫君を迎えれば、皇嗣の問題など些細な問題ではないか。

 なにより阿倍内親王は文武に明るく聡明な人柄で、その出立ちの目を見張ること。十ほど年嵩の乙麿であっても、かの女人を目の前にすれば圧倒されてしまう。どうと言葉にすることは難しいが、王気、というものがあるのなら、彼女こそがそれを纏っているのだろう。

「お前は藤原一門だから暢気にしていられるのだ」

 いつだったか、かの貴人への正直な印象を兄の仲麿に告げたところ、眉をつりあげた兄の仲麿にそう一蹴されてしまった。

「朝家の主とどのような縁を結べるかで、貴族の出世は決まる。……と思っている者が多いからな。我らはすでに今上陛下の姻戚であるが、そうでないものは食い扶持を得るために手段を選ばぬ。まったく、官吏の位を欲さんとするならその分の働きをすべきものを、縁故でどうにかなれば倭は滅ぶぞ、怠け者どもめ」

「兄上と比べたら、誰も彼もが怠け者ですよ」

 乙麿の兄、藤原仲麿は昔から物覚えがよく頭の回転が速すぎる。乙麿からすれば何をそんなに生き急いでいるのだ、と思うほどせっかちに見えるのだが、乙麿よりよほど要領が良かった。喧々諤々と正論を吐き出す口や、ぎらぎらと縄張りを見回る冬眠前の熊のような両目の恐ろしさときたら。特に治水や土木の差配を任せると、常の半分の人足で半分の日にちで終わらせてしまうという。その慧眼と才知で人柄のとっつきにくさを中和しているともいえよう。兄の言葉は険が強すぎる、と乙麿は思う。口にすれば、「それはお前がしゃんとしていないからだ」と身に覚えのある正論を返されてしまうだろうが。

「乙麿、お前は暢気で人の言葉を疑うことをせぬ、いささか官吏としては物足りないが、武の才と他の者からの人気はあるからな」

「はあ」

「なんだその間抜けな返事は。もう少しやる気があればいいものを……どうせお前は、内裏に出仕などしたくない、と思っているのだろう」

 その通り。兄はよくわかっている。実際、乙麿は内裏に出仕するより、京を警邏し、祭祀では衛士として沿道を飾るくらいが己にはちょうどよいと思っていた。兄のようにあれこれ考え差配するのは得意ではない。そういうのより、遠狩りで雁を射ることや、祭で楽を舞うことのが得意だった。そんな自分を兄や家の者たちが喜び、いいように使ってくれるのならよい。最近は詩吟も手遊びに初めて見たのだが、これはなかなか難しいと苦戦しているところだ。

 ――まことに詩歌をたしなむ者であれば、今宵の光景に、ひとつ、歌をそらんじてみることだろう。

 むらさきに霞む山裾を遠く、煌々と燃える篝火に囲まれて、舞女たちの朱の衣もまた燃えさかるように輝いていた。宮中えりすぐりの見栄えの良い媛たち、しかし彼女たちも、先頭に立つ太子殿下に適うことはない。その女は、まさしく天武天皇の前にあらわれた、天命をもたらす天女そのものだ。同じ所作で舞うにもかかわらず、その四肢に託された目に見えぬなにかが、沈んだ日の代わりに、あたりを照らすような。そんな、夢想をしてみる。

 そして、その炎を映した双眸が、じっくりと延臣を見渡しているのを、どれだけの者が気づいているのだろうか。五節を舞いながら、太子は臣下たちを見る。一人一人を値踏みしているようにも、見えた。唇には薄くほほえみをやどしただけの、人形のような硬質な表情の中、黒い瞳だけが爛々と意思を宿して群臣を舐めていく。

 そして、己の上を通った、尊女の眼差し。

 ぞくり、とうなじの毛が総毛立つような。胸の奥のものをむんずとつかまれて、柔いところをむき出しにされたような。

「藤原の兵部少丞さま」

 ふと、呼ばれて振り返る。熱にあてられたように呆けていたようで、周りの豪族たちもすでにぱらぱらと席を立って帰り支度をしていたり、宴席に向かっていたりいる。そこに現れたのはどこかの侍従の少年のようで、着せられたような水干の色がまばゆい。こういう幼い子どもは、飾り立てられるよりのびのびと野を駆けていたい年頃だろうに、と栓のないことを思う。

「いかにも、私がそうだが」

 どこかに彷徨っていた魂を手繰り寄せるように、言葉を発すると地に足がついたような心地がした。しかし、少年の次の言葉で、再び夢幻へと落とされたのかと勘違いしそうになった。

「東宮さまが、兵部少丞さまをお呼びです」

 ――東宮さまが。

 その名を咀嚼するのに、ひと瞬き。宮中にて東宮は、皇嗣たるお人が住まう場所。その住処を呼んで、主その人のことを指す。

 阿倍内親王さま――太子さま。

 今上陛下のお后である光明子の甥にあたる乙麿は、それでも阿倍内親王には何度か謁見したことがある。新年のあいさつで、あるいは父のもよおした宴席で。まだ少女だった内親王と言葉を交わしたことはあれど、しかし立太子されてから此の方は、とんと縁がない。

 躊躇いが先に立つ。しかし乙麿に断るすべはない。仲麿ならば「豪族どもが喉から手が出るほど欲しがる機会だぞ」と笑っているのか怒っているのか定かではない顔で乙麿を追いやるだろう。

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