ヒモ・ボクサー 下
「挑戦を受けて貰えたのはタイミングが良かったからだろうな。相手はこれから世界に出ようとしているイケイケのチャンピオンだ。だから対戦しても故障や怪我の心配がないパンチ力の無いお前をぶっ倒して、世界に羽ばたくための踏み台にしようってワケだな」
俺は会長室のソファーに腰掛け、会長の話に耳を傾けていた。
「これはお前にとってチャンスだが──」
正直勝てる相手ではないだろうと、会長は言った。
チャンピオンの
インターハイ三連覇という偉業を達成してからプロへと転向したその実力と才能は本物であり、試合の動画を見た限りではパワーもスピードもテクニックも、全てにおいて俺を上回っているのが理解できた。そしてテレビタレントのようにイケメンで、いい人そうで、スター性もあった。彼は全てを持っている人間なのだ。
「でも、勝てば俺がチャンピオンなんですよね」
会長は少しだけ驚いた顔をして、頷く。
「そうだ、お前がチャンピオンになる。勝てばな」
「それなら──」
頑張りますよ、と俺は言った。
どう頑張ればいいのか、どうやれば勝てるのかもわからない。でも、一つくらい俺が貰ってもいいではないか。金も無いし、イケメンでもないし、まともな父親すらいないけど、チャンピオンベルトくらいは俺が──。
その時、密かに闘志を燃やす俺の脳裏に一つの閃きが浮かぶ。
そうだ、チャンピオンになったら沖咲さんに告白しよう──と。
我ながら馬鹿な思い付きだとは思う。
しかしその思い付きは、その後のハードなトレーニングを支えるモチベーションを保つのには大いに役に立った。沖咲さんに告白する事を考えると、チャンピオンに挑む事以上にドキドキした。
そんなのボクサーとして失格だと思われるだろうか。
いや、そんな事はないだろう。だってボクシングの試合はこれまで何度も経験しているが、女の子に告白した事などこれまでの人生で一度もなかったのだから。
俺がチャンピオンに挑戦する事を報告すると、ジムの仲間達はもちろん、職場の人達も、学生時代の友人達も、そして沖咲さんも、応援の言葉を送ってくれた。ただお袋だけは、
「ケガするんじゃないよ」
と、少し心配そうな顔をしていた。
長年俺のメンタルを支えてくれた紐は、当然何も言わず、ただ俺のパンチを受けるだけだった。
そして、試合数日前の事だ。
「試合、観に来てくれる?」
「もちろんだよ、頑張ってね」
例の公園にて、俺はそう言って微笑んだ沖咲さんにチケットを差し出す。それを受け取った沖咲さんは、
「ありがとう。ねぇ、これってどこで買えるの? もう一枚欲しいんだけど」
と言った。
それを聞いて俺はハッとする。
うっかりしていた。沖咲さんは足が不自由なのだ。
試合会場まで来るのには付き添い人が要るだろう。
俺は慌ててジムまで走って戻り、チケットをもう一枚取ってくる。
「自分で買うつもりだったから良かったのに……」
息を切らせながら戻ってきた俺を見て、沖咲さんは少し困ったように笑う。
「じゃあ、彼氏と一緒に応援に行くからね」
カンカンカンカンカンカン
俺の脳内で、試合終了のゴングがけたたましく鳴り響いた。
「ねぇ、もしも有馬君がチャンピオンになれたら……私、歩けるようになる気がするんだ」
沖咲さんはそんな事を言っていた気もするが、その言葉はすぐにゴングの音に掻き消されていった。
☆
「おい、どうした拓馬? 顔色悪いじゃねぇか」
初のチャンピオン戦に挑むという極度の緊張、そして──失恋の胸の痛みにより、控え室でストレッチをしている俺は今にも吐きそうだった。
確かに、これまで俺は沖咲さんに彼氏の有無を尋ねた事はなかったし、恋愛に関する話もしてこなかった。それはきっと俺が、もしかしたら沖咲さんに恋人がいるかもしれないという可能性から目を逸らすために、無意識にそっちの話題を避けていたせいかもしれない。
とはいえ……とはいえだ。
まさかチャンピオン戦を前にして、告白もせずに失恋するとは思わなかった。そして失恋の痛みがここまで強いとも──。
「おい! しっかりしやがれ!」
べチン。と、会長の張り手が顔面に飛んできたが、ちっとも痛くなかった。なぜなら胸の痛みの方がずっと大きかったからだ。
虚しさと、焦りと、緊張。
それらを抱えたまま、俺はこの上なくフワフワと浮き足立った状態でリングの上に立つ事となる。
☆
チャンピオンは──不動峰は強かった。
ただひたすらに強かった。
不動峰は『蝶のように舞い、蜂のように刺す』という言葉をまさに体現したようなボクサーであり、俺のパンチをキビキビと躱しては、腰の入ったカウンターを的確に入れてくる。
俺が倒れる度に、ギャラリー達は──観客席の八割を埋める不動峰のファンや関係者達は、大いに盛り上がり、拍手を送り、歓声を上げた。まるでヒーローショーの悪役にでもなった気分だ。
不動峰への歓声の合間を縫って、俺への応援の声もチラホラと聞こえてくる。しかしラウンドを重ねるにつれて、そして俺のダウン回数が増えてゆくにつれて、その微かな声援に明確な諦めの色が込められてゆくのが感じられた。
最早何のために殴られ、何のために立ち上がるのかすらわからなくなっていたが、それでも俺は戦い続ける。
「拓馬! ガードだ、ガードを固めろ! それ以上食らうな!」
リングサイドからは会長の激励が飛んでくる。
でも俺にはわかっている。会長にはもうそれ以外に言える事が無いのだ。会長は気付いているのだろう。俺が不動峰には勝てないだろうという事に。
俺の足はガクガクと震え、顔面はパンパンに膨れ上がっている。それに比べて不動峰の顔はどうだ。そのままファッション雑誌の表紙を飾れそうな程にハンサムだ。
そんな事を考えていると──。
「ばぶっ!?」
ガードを弾き飛ばし、不動峰の右ストレートが頬にめり込んだ。そして俺は踏ん張る事もできずにリングの上に倒れ込む。
拍手、歓声、喝采。
雨あられとリングへと降り注ぐそれらは、全て不動峰に向けられたものだ。
クソッタレが、その歓声を悲鳴に変えてやる──そんな反骨精神があれば、きっとまだ立ち上がる事ができたかもしれない。しかし俺の全身には疲労と虚しさがドップリとヘドロのように絡みつき、もう立ち上がれそうにはなかった。
レフェリーのカウントが、まるで俺を寝かしつけようとする子守唄のように聞こえ始めた。その時だ──。
「頑張れ!!」
歓声の合間を縫って、叫ぶような声が耳に届いた。
「頑張れ!! 紐ボクサー!」
声が聞こえた方へと視線を向けると、ロープで隔てられた観客席に沖咲さんの姿が見える。
沖咲さんは隣に立つ男に支えられながら立ち上がり、泣きそうな顔で必死に叫んでいた。
「私が立ってるのに、脚が動くあんたが寝ているなんておかしいでしょう!?」
その時俺は思った。
たとえ恋人にはなれなくても、もう一度沖咲さんの笑顔が見たいと。そのために、もう一度立ちあがろうと。しかし──。
「……あれ?」
動かない。
脚が麻痺したかのように震え、言う事を聞かないのだ。きっと先程のパンチで脳を揺らされたせいだろう。
無情に進むカウントに、焦りが思考を塗りつぶしてゆく。しかしいくら念じても、脚は俺のものでは無いかのように動かない。
頭上から降り注ぐ照明がやけに眩しい。
もうダメなのだろうか。
本当にもう立ち上がれないのだろうか。
疑問は確信へと変わってゆく。
それでも俺は心の底から願った。
頼む、もう一度だけ立ち上がらせてくれと。
すると──。
──ぷらん
目の前に、紐が垂れていた。
「……え?」
夢か幻か知らないが、それは俺がこれまで何千何万回と殴ってきた電灯の紐だった。
俺は唖然とし、時が止まったような感覚の中でその紐に向かって手を伸ばす。そして──。
「やれるか!?」
レフェリーの声にハッとした俺は辺りを見渡す。
俺はいつの間にか両足でしっかりと立ち上がっていた。
あれは、あの紐は一体何だったのだろうか。それはわからないけど、ただ確かな事は、俺は立ち上がったという事だ。
「有村、やれるか!?」
俺は頷き、ファイティングポーズを取る。
「ファイト!」
そして足を踏み出すと、遥か遠くのチャンピオンベルトに向かって手を伸ばした。
☆
13戦10勝1敗2引き分け2KO。
それがチャンピオン戦を終えた俺の戦績だ。
結局、俺はチャンピオンになる事はできなかった。
しかし──。
「おい、見ろよ拓馬」
会長が俺に見せたボクシング雑誌の記事には、不動峰のインタビューが載せられていた。
「『俺に世界はまだ早かったみたいです。国内の挑戦者にこれほど苦戦するとは……。またいつか彼と戦いたい』だってよ」
正直俺は二度と戦いたくはなかったが、不動峰がチャンピオンの座を返上しないのであれば……まぁ、またいつか戦う事になるのだろう。
あの試合の後、俺は沖咲さんに彼氏を紹介された。
悔しいけれど、沖咲さんの彼氏はとてもいい人そうで、なんというか憎めない人だった。
しかしながら、一つの試合が終わればまた次の試合が待っているのがボクサーというものである。きっとまたいつか、俺も新しい恋をするのだろう。
六畳二間しかないアパートの一室で、俺は不動峰との再戦への想いと新しい出会いへの期待を拳に込めて、今日も紐に向かってパンチを繰り出す。
ボクシングを始めて『何者か』になれたかって?
俺の名前は有村拓馬。日本ライト級ランカーのプロボクサー。そして初めて恋した相手に貰った肩書きは──紐ボクサーだ。
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