ヒモ・ボクサー 中

 ジムが開いているのは日曜日以外の週六日。好きな日の好きな時間に来て練習すれば良いというシステムであり、放課後は毎日ジムに通って汗を流した。

 やる事は家にいる時とそれほど変わらなかった。

 殴る相手が紐からサンドバッグへと変わっただけの事だ。


「おぉ、拓馬。シャドーがサマになってきたじゃねぇか。そしたら今度はフットワークをだな──」

 あの日声を掛けてきた元東洋太平洋チャンピオンはジムの会長であり、俺に一からボクシングを教えてくれた。生まれて初めて自分から進んで何かを学ぶというのは、案外楽しかった。


 そしてジムに入門して二ヶ月ほど過ぎたある日、俺は会長に言われて、ジムの先輩である吉岡さんという人とスパーリングという実戦稽古のようなものをする事となったのだが──。


「大丈夫、俺は本気出さないから安心してよ」

 吉岡さんはそう言ったのに、ゴングが鳴って数分後、俺はリングに寝転がって天井を見上げていた。


「バカヤロー! 手加減しろって言っただろうが! スパーで初心者をノックアウトするやつがいるか!」

「す、すいません! でもこいつただの初心者じゃないですよ! だからつい熱くなってしまって……」

 吉岡さんは、現役のプロボクサーだった。


 馬鹿馬鹿しいと思われるだろうが、どうやら俺は紐パンチを続けているうちに、動体視力や反射神経、そして集中力やスタミナ等、ボクサーとして必要な能力を自然と磨いていたらしい。


 ただの鬱憤晴らしで始め、馬鹿みたいにやり続けた紐パンチは、ボクサーとしては決して無駄ではなかったというわけだ。


 それから一年半後、十七歳になった俺の肩書きは『プロボクサー』になった。


 ☆


 12戦10勝2引き分け2KO。

 それがプロボクサーになって三年目の俺の戦績だ。

 高校を卒業した俺は、近所にある自動車整備工場に勤めながら相変わらずボクシングを続けていた。


 我ながら上々の戦績だとは思うが、勝率の割にKOが少ないのは俺にはパンチ力が無かったせいだ。こればかりは天性のものだから仕方がないと会長も言っていた。


「ライト級日本ランキング四位か。お前もチャンピオンが射程圏内に入ってきたなぁ」

 会長はそう言っていたけど、正直自分がチャンピオンになるイメージが全く湧かない。ただ毎日普通に生活をし、その合間に愚直に拳を振り続けただけの俺がチャンピオンと呼ばれるような人間になっていいのだろうかとすら思っていた。


 そんなある日の夕方の事だ。

 走り込みをしていた俺はいつものコースが通行止めになっていたために、少し遠回りをする事となった。そしてその道中には児童公園があり、そこに設置されている鉄棒には俺と同じくらいの年齢であろう女の子が苦しげな様子でもたれかかっていた。


 しかし、体調不良ではないだろう事がすぐに理解できたのは、彼女のすぐ近くに置かれていた車椅子のせいだ。きっと彼女は鉄棒で体を支えて、歩く練習をしているのだろう。


 彼女の足がなぜ不自由なのかは知らないが、俺は同情の気持ちを抱えつつその場を通り過ぎようとした。しかし──。


 ドサリ。と音がしたので振り返ると、女の子は地面に倒れ込んでいた。俺は思わず駆け寄り、声を掛ける。


「大丈夫?」

「これが大丈夫に見える!?」

 そう言って顔を上げた女の子の頬は土に汚れていて、とても怒っているようであった。そして、割と美人だった。


「あっち行って! 触らないで!」

 手を貸そうとした俺はバイキンのような扱いをされたが、地面に突っ伏している彼女を放っておけずにオロオロと辺りを見渡す事しかできない。


 それから彼女は鉄棒の支柱を支えに何度も立ちあがろうとしたが、結局立ち上がれずに、蚊の鳴くような声で俺に助けを求めた。それが情けなかったのか、悲しかったのか、彼女涙を流していた。


 彼女を抱え上げて車椅子に座らせると、酷く疲れている様子だったので、自販機で買ってきたスポーツドリンクを差し出す。すると彼女はそれを飲みながら、独り言のように自分の境遇を語り始める。


 どうやら彼女は一年程前に、転んだ拍子にブロック塀の角に背中をぶつけて大ケガをし、下半身が麻痺してしまったらしい。痛ましい話だ。


 俺は初めから何も持っていない人間だったけど、初めから持っていたものをある日突然失うのはとても辛いと思う。それが手足の自由だったら尚更だ。


 リハビリをすれば歩けるようになると医者は言っていたらしいが、毎日リハビリをしても一向に歩けるようにならないので、彼女は一人でこの公園まで来て追加で歩く練習をしているのだと語った。


 それからというもの、俺は走り込みの時は必ず公園に立ち寄り、彼女に声を掛けたり、歩く練習を手伝うようになった。


 なぜそんな事をするのか。

 それは彼女への同情の気持ちがあったのと、シチュエーションに酔っていたというのもある。それから、正直なところ……下心だ。


 とは言っても、別にスケベな意味ではない。要するに一目惚れみたいなものだ。中学時代は恋愛に興味がなく、その後はほぼ男子校に等しい工業高校に通っていた俺は、女の子に対する免疫が無かった。だから彼女との出会いが運命のようなものだと錯覚していたのかもしれない。


 そんな下心から彼女と接しているうちに、俺達は少しづつ仲良くなっていった。色々とお互いの話をしたし、名前だって教えて貰った。


 沖咲翠おきさきみどり──綺麗な名前だと思う。

 沖咲さんは俺と同い年で、女子大生だと言っていた。ケガをしてから休学しているそうだが。


「大学ってどんな勉強するの?」って聞いたところ、沖咲さんは少し考えて、「何も」と言って笑っていた。そういうものなのだろうか。


 沖咲さんと話すようになってからしばらく経ったある日、彼女は俺に秘密を打ち明けてくれた。


「あのね、バナナだったの」

 唐突に彼女が発したその言葉の意味を汲み取れず、俺は首を傾げる。


「バナナ?」

「そう、バナナの皮。私が転んだ理由」

 何かの冗談かと思ったが、彼女の顔は笑っていなかった。


「馬鹿みたいでしょ? 誰が捨てたのか知らないけど、今時バナナの皮で滑って転ぶなんて。昔のコントじゃないっつーの!」

 彼女の苦しみを知っている身からすると、それはあまりにシュールすぎる事実であり、笑うに笑えなかった。


「……誰にも言わないでね」

 そう言った沖咲さんの顔はとても恥ずかしそうで、申し訳ないが可愛らしかった。そこで俺はお返しとして自分の秘密を打ち明ける事にした。


「──紐? 紐って、あの電灯からぶら下がってるやつ?」

 俺は紐パンチをしていた事を──いや、プロボクサーになった今でも時々紐パンチをしている事を、これまで誰にも話した事がなかった。そんな事を話すタイミングがなかったし、なんとなく恥ずかしかったからだ。

 家が貧乏でやる事がなかったから紐を殴って遊んでいたなんて、そしてそれを今でも続けているなんて……。


 俺が語り終えると、沖咲さんは大きな声で、腹を抱えて笑った。俺は沖咲さんの話で笑わなかったのに酷い話だ。だけど、その笑顔はこれまで見た表情の中で一番可愛かった。泣いている顔よりも、恥ずかしがっている顔よりもだ。


「私もやった事あるよ、それ」

「……マジ?」

「うん。多分、誰でもやった事あるんじゃない?」

 それは俺にとって、結構驚くべき事実であった。


「いいじゃん。紐ボクサー」

「紐ボクサー?」

「そう、紐パンチを続けるうちに、いつの間にか最強になっていたボクサー。かっこよくない?」

 紐ボクサーという命名はめちゃくちゃダサいと思ってしまったけれど、そう言ってファイティングポーズを取った沖咲さんは、やはりめちゃくちゃ可愛かった。


 俺がチャンピオンに挑戦する事が決まったのは、その翌週の事だった。

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