【短編】ヒモ・ボクサー

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ヒモ・ボクサー 上

 俺が──有村拓馬ありむらたくまが小学三年生の時、両親が大喧嘩をして親父が家を出ていった。


 喧嘩の原因は知らないし、そんなに興味もない。

 俺が物心ついた頃から親父は仕事をしておらず、六畳二間しかないアパートの一室でテレビを見ながら酒ばかり飲んでいたので、多分そのせいだとは思う。


 とにかく、そんな親父が出て行った事により、俺はそれまで親父が玉座としていた部屋を自室として与えられた。しかしながら、ハッピーハッピー! 夢のマイルームだ! とはならなかった。

 なぜなら、俺はせっかく与えられたプライベート空間に置く物を何も持っていなかったからだ。


 色々な収納がある勉強机も、漫画や図鑑を並べる本棚も、お気に入りのおもちゃを入れる玩具箱もだ。そう、ウチはビンボーだったのだ。ビンボー、嫌な響きだ。


 それまで置かれていたテレビすらも両親の喧嘩で壊れてしまったせいで、せっかく与えられた俺の部屋に置かれている物は折り畳み式のちゃぶ台と安っぽい衣装ケースくらいのもので、まるで刑務所の独房のように物寂しかった。


 放課後、学校が終わってから家に帰り、ランドセルを置く。それから公園や友達の家で遊び、また家に帰る。作り置きの夕飯を食べてから皿洗いなどの少々の家事をし、宿題を済ませたらあとは何もする事がない。

 お袋は朝から晩までパートで働いていて、俺が起きている時間はあまり家にいなかったので、話し相手すらもいない。


 がらんとした部屋でポツンと過ごす、寝るまでの時間。それは寂しさと退屈との戦いだった。

 今思えば、勉強をしたり本を読んだり、他にも有意義な過ごし方は色々あったと思う。しかし、当時の俺はそういう思考には行きつかなかったのだ。


 早く眠気が訪れることを願いながら、ただボーッとして夜を過ごす日々が続いたある日の夜、俺は日に焼けて変色した畳の上に寝転がって天井を眺めていた。


 なぜ俺は何も持っていないのだろう。他所の家の子は今頃家族団欒で食事をしたり、楽しくテレビゲームでもやっているのだろうか。なんて事を考えながら。


 そんな時、俺は天井からぶら下がっている奴の姿を見つけた。


 奴とは──紐だ。

 天井に設置されている照明を点けたり消したりするためにぶら下がっており、先端に重りとしてプラスチックの飾りが付いたあの紐である。


 天井から呑気にぶら下がっている奴の存在がなんとなく気に食わないと思った俺は、よいしょと立ち上がって拳を握る。そして目線よりもやや上方にいる奴に向かって、パンチを繰り出した。


 パチン。と小さな音が鳴り、奴は俺とは反対の方向へと飛んでゆく。そしてプランプランと不規則に揺れながらこちらに戻ってくる。俺は繰り出した拳を戻して、もう一度奴に向かってパンチを放つ。しかしパンチは空振りし、先端の重りが額へとぶつかった。


 腹が立った俺は奴に向かって闇雲にパンチを繰り出し始める。何度かの空振りの後に拳が当たり、奴はまた勢いよく反対方向へと飛んでゆく。そして戻ってきた奴に向かって、またパンチを繰り出す。


 気がつくと俺はそんな下らない事を十分以上も繰り返しており、シャツの下にはじっとりと汗をかいていた。そして腕は上げるのが億劫になるほど重くなっていて、なぜだかはわからないが気分がスッキリとしていたのだ。


 それからというもの、俺はその遊びとも呼べないような行為を『紐パンチ』と名付け、暇さえあればそれを繰り返すバカな小学生になった。


 朝、無駄に早く起きてしまった時。

 休日、雨で外に遊びに行けない時。

 夜、宿題を終えてから寝るまでの間。


 まるで自分の境遇に対する鬱憤をぶつけるかのように、俺は紐の先端に付いた重りに向かってパンチを繰り出し続けた。そしてそれは中学生になっても続き、やがて紐の先端が目線よりも引くなった頃、俺が振るう拳からは風を切る音が聞こえるようになっていた。


 ☆


 初夏──。

 中学を卒業して地元の工業高校へと進学した俺は、その日の朝刊配達のアルバイトを終えて、ヒンヤリとした空気が徐々に温かくなってゆくのを感じながら早朝の住宅街を家へと向かって歩いていた。


 その頃にはお袋がパートから正社員に昇格していたおかげで家計は以前よりも安定していたのだが、俺はせめて自分の欲しい物くらいは自分で買いたいと思って新聞配達のアルバイトを始めていたのだ。


 そんな時、ふととある建物が目について、俺はその前で立ち止まる。

 二階建てのその建物は、上は普通の住居のようだが、一階は道路に面した駐車場側が全面ガラス張りになっている。


 ガラス越しに見える空間にはダンベルや腹筋台などのトレーニング器具が置かれており、他には天井から吊るされたサンドバッグやボールのような物、そして奥の方には格闘技の試合で使われるだろうリングが設置されていた。


 建物に掲げられた看板には、『宮脇ボクシングジム』と大きく書かれている。


 いつもは素通りするその建物の前で、なぜ今日は立ち止まったのかは自分でもよくわからない。ただなんとなく、ボクシングをする人はどんな練習をするのだろうかと思っただけだったのだが──。


「よう兄ちゃん、ロッキーになりてぇのかい? えぇ?」

 二階へと上がる階段から声を掛けられて、俺はそちらを見た。するとそこにはステテコを履いたチリチリ頭のおっさんがいて、ニヤニヤしながら俺の方を見ていた。


「ロッキー好きだろ? えぇ?」

 おっさんは階段から降りてくると、シュッシュッと言いながらシャドーボクシングをし始める。見た目に似合わず俊敏な動きと、そのパンチのスピードに、俺は少し驚いた。


「最近はよぉ、ボクシングやる若い奴も減っちまったよなぁ。喧嘩が強くなりたい奴はみんな総合とかキックに行っちまうしよぉ。でもやっぱり男はボクシングだよなぁ? えぇ?」

 なんと返せばいいのかよくわからず、俺は取り敢えず頷く。


「だろぉ? ロッキーになりてぇならよぉ、入会金五千円の月謝一万円ね」


 おっさんが指差した先にある壁には張り紙が貼られており、そこには練習生募集という文字が書かれている。そして張り紙の隣にはおっさんによく似たボクサーが腰にベルトを巻いている写真が貼られていた。


「東洋太平洋チャンピオン?」

 俺はその写真とおっさんを見比べる。


「むかーしな」

 そう言って、元東洋太平洋チャンピオンはニヤリと笑った。


 その日の夜、俺はいつものように紐に向かってパンチを繰り出していた。


 高校生にもなってまだそんな馬鹿な事をしているのかと思われるかもしれないが、紐パンチはすっかり俺の生活ルーティンの中に組み込まれてしまっていたのだから仕方がない。部屋で何か考え事をする時や、むしゃくしゃした時はこれをしなければ落ち着かないのだ。


 俺はパンチを繰り出しながらイメージする。

 大勢の観客に囲まれたリングの上で、どこの誰とも知らない男と殴り合っている自分の姿を。そしてそれは、人前に立つ事も殴り合いも苦手な俺にとってはあんまり楽しそうではなかった。だけど──


 翌月、結局俺は部屋にテレビを置くために貯めようと思っていたバイト代をボクシングジムの入会金に充てる事になる。


 別に喧嘩に強くなりたかったわけでも、ボクシングに興味があったわけでも、ロッキーとやらになりたかったわけでもない。ただ生まれて初めて、『何者か』になりたいと思ったのだ。


 そしてその何者かの肩書きが『ボクサー』だったらカッコいいなと思い、それが『チャンピオン』だったらもっとカッコいいだろうなと、ただ、そう思っただけの事だった。

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