ピュグマリオンの涙

吾妻栄子

ピュグマリオンの涙

“――僕は日に日に老いていくのに、君はずっと二十二歳の姿のままだ。

 三十歳の、世間的にはまだ若いはずのディーノの滑らかに浅黒い面の漆黒の瞳が奇妙に老いて見える。

 そっと手を伸ばすと、その目から涙が零れ落ちた。

――あなたといる限り、私もつくられた時のままでは有り得ない。”

 ここまで原稿用紙にペンで書き進めたところで書斎のドアを静かに叩く音がした。

「何?」

 ちょうど一休みをしようと思っていたところだ。

 振り向くと、カチャリとドアを開ける音がして、ロマンスグレーの髪を額に半ば垂らした、藍色のエプロン姿のディーノが浅黒い顔に柔らかな皺を刻んだ笑いを浮かべて立っていた。

「カプチーノが入ったよ、ギタ」

 温かな甘い香りが書斎に微かに流れ込んでくる。

「ああ、ありがとう」

 まだ途中の原稿の脇にペンを置いて立ち上がった。

「そのペンはもうすぐインクが切れるから替えの芯をさっき買ってきたよ」

 ディーノはカプチーノの匂いをほんのり漂わせながら入ってくると、エプロンのポケットから黒インクの細い芯を取り出し、原稿の傍らのペンに手を伸ばした。

「それはインクを使い切ってから私が替えるから大丈夫」

「分かった」

 ペンの脇にまだビニルに入ったままの芯を置く。

 と、黒い瞳が原稿用紙の半ばまで埋め尽くした私の拙い筆跡の上で止まった。

「僕のことを書いてるの?」

 四十歳の私よりもう一回りは老けて見えるディーノは物語の欠片を微笑んで見詰めている。

「まあ、ちょっと改変してね」


*****

「あら、今日はクッキーも一緒なの?」

 白い湯気をまだ幽かに立ち上らせているカップの隣にはコインじみて縁のギザギザした丸いクッキーを五枚ほど並べた皿も置かれている。

「君の好きなこの低糖質のがさっきスーパーで割引で売ってたからね。ネットで買うより安いよ」

 ダイニングテーブルの向かいの椅子に腰掛けたディーノが目尻の皺をいっそう深くするように笑って答えた。

「ありがとう」

 私好みの甘苦さで淹れられたカプチーノに良く合うクッキーの味だ。


*****

「さっき、ジーナから電話が来たよ」

 少し飲み食いをして落ち着いたタイミングでディーノは告げる。

「あと一時間十九分後に来るって」

「分かった」

 編集者の彼女はとにかく容赦がない。

「取り敢えず、書いた分だけパソコンで清書するか」

 伸び上がった私にディーノは飽くまで穏やかな笑顔のまま尋ねた。

「どうしてわざわざ手で書くの?」

 ロマンスグレーの前髪の下の両目がパチリとしばたいてまた見開かれた。

 これは彼が矛盾を覚えた時に問い質す合図だ。

「最初からパソコンで打つ方が早いのに」

「そうだね」

 自分より老いた紳士の姿をしたディーノに聞き取りやすいようにはっきり答える。

「でも、手を動かす方がアイデアが浮かびやすいから」


*****

「ヒューマノイドの愛護と権利向上?」

 先週は白い物が多少混じっていた縮れた髪を焦げ茶色にきっちり染め上げてうちに現れた担当編集者のジーナは、はしばみ色の瞳を半眼にすると、“陳腐ね”という風にこれも新調したばかりらしい鮮やかな珊瑚色のスーツの肩を竦めた。

 彼女も五十を過ぎたはずだが、まるで十年前に担当になった時の風貌から変わらずにいることを自分に課しているかのように年相応の老けが覗いた次の回には若返った装いで現れる。 

「お説教臭いのは今どき受けないんだけど」

 さっきディーノが淹れたばかりのエスプレッソを啜りながら、いつも通りのヒト同士のロマンスを書きなさいよ、と言わんばかりの調子で語った。

「それはそうだけど」

 実際、受けが良いのはヒューマノイドなど影も形も出てこないようなヒトだけの恋愛や友情物だ。

 読者の大半はそんないつも自分のリアルから離れたファンタジーを好むのだ。

「私も作家というか、この社会に生きる人間としてもう見過ごせないの」

 担当編集者の珊瑚色のスーツの肩越しに見える、落ち葉を織り込んだレースのカーテンで覆ったガラス窓。

 その向こうに広がる秋晴れの空の水色に目を注ぐ。

「この前、交差点で右折した車がカップルとぶつかる事故を目撃した。女性の方がとっさに男性を庇って、自分が車に轢かれて粉々になった。それで彼女がヒューマノイドと分かった」

 こちらを眺めるジーナの榛色の瞳にふと痛ましい光が走った。

「運転手が降りてきて男性に謝ると、彼は笑って『いいんだよ、そいつはそろそろスクラップにしようと思ってたから。これで回収業者に払う金が省けた』と」

 表情の消えた眼差しになった相手に私は続けた。

「人の心がないのはどちらなんだろう、と」

 廊下の向こうのキッチンからトマトと玉葱の煮込んで混ざり合った匂いが漂ってきた。

 ディーノが夕食の用意をしているのだ。ジーナが来た日は普段より一人分多く、また、客の好みの一品も余分に作るので夕飯の準備も少し早くなる。

「ディーノは私にとってなくてはならないパートナーだし」

「そうでしょうね」

 一回り近く年上の女は珍しくどこにも皮肉や疑問を交えない様子で頷いた。

「多分、死んだ彼よりも」

 私がまだ二十二歳の学生だった頃、一つ上の恋人だったディーノは事故で亡くなった。

 それからはどの男性にも興味が持てず、ネット広告やショーウィンドウで見掛けるその時々の流行りの姿に創られた男性型ヒューマノイドにも全く目が引かれなかった。

 しかし、ヒューマノイドの技術刷新は著しく、彼の死から七年後には元になるデータさえあれば希望通りの容姿と音声にオーダーメイドできるようになった。

 二十九歳になっていた私は手元に大量にある彼の画像や動いて話している動画のデータを携えてヒューマノイドショップの窓口を訪れた。

 そして、私は“順当に生きて三十歳になったディーノ”の姿をした男性型ヒューマノイドを手に入れたのだった。

――ギタ、やっと会えたね。

 スイッチを入れて起動した瞬間、記憶の中にある恋人の声と笑顔そのままで告げた彼に思わず抱き着いた。

――ディーノ。

 これが蘇った恋人でなければ何だというのだろう。

――僕はここにいるよ。

 顔は見えないが、私の髪から背中を撫ぜる手は優しかった。

「都合良く使ってきたとは言えるけど」

 毎年少しずつメンテナンスして風貌も一歳ずつ微細に年を取らせてきたが、今年は一気にプラス十五歳幅で老けさせた。

「でも、私はまだ生きて寄り添いたいの」

 粉々に砕け散った女性ヒューマノイドの姿を目の当たりにしたのは、病院での精密検査の帰りだった。

 結果はまだ出ていないが、何となく悪い方を告げられるだろうという予感はある。

「ディーノと釣り合いが取れる年になるまでは」

 ヒューマノイドの耐用年数は平均して二十五年。

 つまり、三十歳のディーノが五十五歳になるまでだ。

「これが私の最後の作品になるかもしれないけど」

 ジーナは暫く私を見守っていたが、大きく頷いて確固たる声で答えた。

「分かった」

 一瞬、二人の間に流れた沈黙を断つように居間に通じるドアの開く音がした。

 五十半ばのロマンスグレーの顔はしているものの、長身の背筋はシャンとして三十歳どころか二十二、三歳の青年にも引けを取らない立ち姿をしたディーノは穏やかな笑顔で告げた。

「そろそろ夕飯が出来るよ」

(了)

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ピュグマリオンの涙 吾妻栄子 @gaoqiao412

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