後編
* * *
「おまえ、名前は?」
「ないよ」
「ふうん」
名前がないというので、僕も名前を言わなかった。
雨に止む気配はなかった。一つの傘に、二人で入って進む。女の子からは冷気と一緒に爽やかなソーダの香りがしていた。
「こっちの道だよ」
女の子が指さし、その道を歩いていく。いつの間にか薄暗くなった中、僕は沢山の知らない場所を歩いた。細い路地、トンネル、変なものを売る店が沢山並ぶ商店街、苔むした橋、錆びた階段……。
「なんで、あの中入ってたの?」
雨が世界を叩く音は、賑やかとは言えなかった。淡々としていて、けれども心地よかったのを憶えている。
「アイスにされちゃったから」
「なんでアイスにされたの?」
「捕まったんだよ、川で……海に向かってたんだけどなぁ」
「海?」
「そ、海。海に出て、雲になる予定だったの。で、雨になってまた地面の中に入って……」
女の子は、本当に変なことばかり言う子だった。
けれども、誰かがいることは、知らない場所ではとても安心した。
「疲れた? 出口、まだ進まないと」
「……少し疲れた」
ベンチがあって並んで座った。目の前に自販機があって、僕は忘れていた喉の渇きを思い出し財布を取り出したが、
「だめだって」
「おまえ、喉渇かないの? おまえの分も買う」
「……ありがと。でもいらないし、君にも必要ない」
ベンチで休んでいる間に、何人か、影が通り過ぎていった。雨は強くなってきているというのに、やはり皆、傘をさしていない。
『ないぞじゃむ うります』
イチゴの香りのする荷車を引いた影も通り過ぎていったものの、その荷車もびしょびしょに濡れていた。
「しっかし、どうやって迷い込んできたわけ? 子供だから?」
不意に女の子が言った。
「ま、子供じゃなくなれば迷い込むことはなくなるっていうし……あはは、運がいいね君、他の奴に『人間』だってばれてたら、大変だったよ」
本当に、本当に変な子だった。
けれどもその水色はとてもきれいで、笑った顔はかわいかった。
「そろそろ行こう」
「うん」
そうして雨の中、二人でまた歩き出す。
* * *
歩くのが辛くなってきた。その上、雨も激しくなってきた。
そんな頃に、先に大きな鳥居が見えてきた。苔に覆われていて、何色の鳥居だったのかわからない。
「やーっとついた!」
女の子が鳥居の向こうを指さす。
「あそこが出口だよ!」
女の子は僕の背に回れば、ずいずいと背中を押した。
「もうこんなところ来ちゃだめだからね!」
鳥居の前まで押して、僕から離れる。
振り返れば、激しい雨に打たれるあの子がいた。水色の髪はべったりと肌に貼りついていて、けれども瞳はきらきらガラスのように光っていた。
「おまえ、どうすんの?」
「帰るよ? パパとママのところに。でも私の帰るところ、そこじゃない」
激しい雨に、世界が曇って見えた。雨音は耳に痛いくらいで、そんな中に立っているあの子が不憫に見えたし、びしょ濡れでなんだかかわいそうだった。
僕は正義感の強い子供だった。
「傘、風邪ひくぞ」
あの子へ傘を差し出す。
「君が濡れちゃうでしょ、いらないよ」
「でもおまえ、友達だし……」
そう口にした瞬間、女の子はぽかんと口を開けた。口の中も水色だった。
そして雨音に消されないくらいの大声で、笑い出す。
「友達だって! いいよいいよ、すぐに忘れちゃうから」
「忘れないよ、友達だもの」
「いや、忘れちゃうし」
「忘れないって!」
僕は真面目なのに、彼女は本当に馬鹿にするみたいに笑っている。それが嫌になってきて、僕はむくれた。
「忘れないよ」
「いいや、忘れるよ、賭けてあげる。君は私のこと忘れるって」
雨が、まるで急かすように激しくなる。
あたりがうるさかった。
「君はそのうち、子供じゃなくなるんだもの」
雨音に消えそうな声だった。
その時僕はようやく気付く。
あの子が溶けていることに。
ソーダ味のあの子の髪。そこから、水色の液体がぽたぽた滴っていた。指先からも滴って、白いワンピースもソーダ色に染まっていた。
「大人になるって、そういうことだからさ」
まるで汗みたいに、彼女の顔にも水色が流れていた。
「いいよ、確かめてあげるよ……君が子供じゃなくなったとき、憶えてるか、どうか」
次の瞬間、あの子が崩れた。
溶けて崩れて、水色の液体になって、地面に流れる雨と混ざって薄れていく。
「ばいばーい」
雨音に混じってあの子の声が聞こえた。
――その後、僕はいつの間にか、よく見知った場所に立っていた。
空は晴れていた。家に帰れば、駄菓子屋に向かった時間から、数分しか経っていなかった。
* * *
僕が全てを思い出した頃には、外の雨は、普通の雨となっていた。ソーダ色の雨ではない。
雨音に混じって誰の声も聞こえない。
当時あんなに威張ったのに、僕は結局忘れてしまっていた。
子供ではなくなった。水が流れるように、記憶は流された。
きっと、いま思い出したことすらも、忘れてしまうのかもしれない。
……それでも、雨音でまた思い出す機会があるだろうか。
【終】
ソーダ味のあの子 ひゐ(宵々屋) @yoiyoiya
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