第3話:書き直し

「書き直し」

 

 平坦で人形のような声が職員室内に小さく響く。放送で呼び出しを受けた信二と綾人は職員室にいる担任教師のところまで足を運んでいた。室内は事務処理や明日の準備をする教員で溢れ、皆が忙しない様子で机の上にある書類とにらめっこをしている。それは信二たちの担任も例外ではないようで、机の上に広げられたプリントや教材は、机の角に貼られた『平野ひらの 佳織かおり』と書かれたネームプレートを隠すほど散乱していた。


「え! ちょッ! 何でですか! ちゃんと書いたじゃないですか!」


 突き出された進路調査書の前で綾人は声を大にして抗議する。突き出された進路調査書の“将来について”の欄には、


“俺は将来ビックになって生きていく!”


とだけ書かれていた。


(よくこれでちゃんとなんて言えたな。てか、よくその場で返さなかったな、この人も)


 教室で聞かされた綾人の言葉と佳織の行動を怪訝に思いながら、信二は黙って二人の表情を傍観する。綾人が不満な表情を浮かべる一方で、佳織は突き出した手を微動だにせず無表情のまま見つめていた。


「では逆に聞きます。どうしてこれでいいと思ったのですか?」


 佳織の諭すような言葉に綾人は困惑の色を見せる。どうしていいと思ったのか。それを文章に対して聞くのはあまりに酷なもののように信二には思えた。文章や書物においての良し悪しなど、本人の感性に依存するものと信二は考えていたからだ。


「…………」


 内心でそう考えていながら、信二は佳織の質問に思わず目を逸らす。進路調査書を持つ右手に自然と力が入ってしまうのを信二は感じた。


「どうしてって、自分の思ったことをありのまま書いたからですよ!」


「でしたら、あなたは将来設計をもう少し見直すべきですね。この文ではいい年をして無職なダメオヤジの言い訳にしか見えません。その場で確認しなかったのは私の落ち度ですが、これを良しとして出したあなたにも問題があると考えます」


 冷酷なまでに無表情な佳織の眼差しが綾人の胸を突き刺す。そのあまりにも冷ややかな瞳に、綾人はたまらず隣に立つ信二に視線を向けた。が、信二は綾人と目が合うや否や、あからさまに明後日の方向へと目を逸らしてしまう。お手上げです、とでも言いたげな態度に綾人はガクリと肩を落とした。


「これは自分のやりたいことを見据え、そこから逆算することによって自分が文系なのか理系なのかを考えてもらうというもので、自分の進路を確定しろと言うものではありません。あくまで本当に選択しなければならなくなったときの練習のようなものです。ですが、だからといってこのような抽象的で、中身がなく、荒唐無稽な文章を承認することはできません。そもそも提出期限を1週間以上過ぎている状態で提出されたものが……」


 永遠のように続く佳織の指摘ひとつひとつが綾人の全身をグサグサと刺していく。その透き通るような声音はまるで、表面を通り抜けて、中身を直接突き刺すナイフのようなものだった。叱られ続ける綾人を横目に信二は心中ため息をつきながら、素知らぬ顔でその場を凌ごうとする。が、


「——あなたもですよ。東 信二」


 対岸の火事と思っていた信二を見透かすように、佳織は今まで綾人に向けていた眼差しを信二に向ける。突然の視線に信二は苦い顔こそ浮かべるも戸惑った素振りは見せなかった。顔を逸らしながら視線だけを佳織の方へ向ける。その顔は綾人を見ていた時のものより鋭いものだった。


「今朝、今日中に提出するようお願いしたはずですが」


 言いながら佳織は信二の右手に握られた紙に目を落とす。そして、もう一度視線を上げ信二の目を見ると、小さくため息をついて綾人の方に向き直った。


「とりあえず、上川 綾人。あなたはもう一度書き直し、提出してください。期限は明日です」


「はい」


 そう言って佳織は綾人に空白の目立つ進路調査書を突き返した。先ほどの説教で気力を失ったのか、綾人はシュンとした表情のまま差し出された紙を受け取ると、言われるがまま職員室を後にした。

 そして、綾人が職員室から出たことを確かめると、佳織は手を出しながら信二が持つ紙を提出するよう催促する。


「では、進路調査書、見せてもらえますね」


 佳織の言葉に信二も綾人が職員室を出たことを確かめると、文字がびっしりと書かれた、書きかけの進路調査書を佳織に差し出した。


「……はぁ」


 差し出された進路調査書の一行に目を通したところで佳織はため息をつく。諦めたかのように調査書を机の上に置くと目の前に立つ少年に目を向けた。


「あなたにも聞きます。これでいいと思いますか?」


 まっすぐ放たれたその質問に信二は視線を逸らす。自分の書いた文章が教員の意に沿っていないことは、書いた本人である信二が一番よくわかっていた。正面から見る能面のような表情は綾人のときとは比べ物にならないほどの威圧感があった。


「先程も言いましたが、この進路調査書は進路を決定ではありませんよ」


 佳織は綾人に言っていた言葉を簡潔に伝える。目線の先に映る信二は顔を下に向けたまま眉間に皺を寄せていた。佳織はその姿に小さくため息をつくと、呆れた口調で言葉を続けた。


「なぜ、分かっていながらそうしないのですか」


 冷静な佳織の言葉に信二は眉だけをピクリと反応させる。信二と佳織の間に冷たい空気が立ち込め、周りの教員から聞こえてくる雑音が遠のいていく感覚を信二は覚えた。そして、少し考え込んだ後、信二は呟くように口を開いた。


「それに意味がないからですよ」


 絞り出した言葉と共に目の前にいる佳織を横目で見る。まったく変わりのない仏頂顔と一瞬だけ目線があった。


「今の時代、どれだけ夢を見ようと憧れよと元々の能力で全てが左右されます。文系適性が高い人が理系に進むことは許されない。逆も同じです」


 目線を逸らしたまま、信二は言葉を続ける。天才の存在が立証された後、進学先や就職先は個人の意思と無関係とは決定されるようになった。本人がどれだけ文系に行くことを願ったとしても、適性がなければ認められない。それが普通となりつつあった。だからこそ、信二はこの進路調査そのものに意味はないと考えていた。俯いた先にある床を睨みながら、信二は続けて言葉を紡ぐ。


「こんな紙に何を書いたところでそれは変わりません。だったら、先生たちの言う進路を考えるというのは意味がありませんし、それを目的としたこれにも意味がない。そう考えてるだけです」


「……あなたの考えは理解しました」


 目を背けながら異議を唱える信二を見つめながら、佳織は静かに返答する。どこまでも冷たいその声はどこか諦めにも似た何かを内含しているようだった。そして、視線だけをチラチラと向ける信二に佳織は諭すように言葉を続けた。


「しかし、今回の目的はあくまで考えることです。そしてそれは、人として必要なことです。時代が変わろうと人がいる限り変わりません」


 佳織の言葉に信二は眉間に寄せた皺を深めた。下ろしている右手を握りしめ、込み上げてくる苛立ちを堪える。それは今朝、病院で感じた喪失感に似たものではなく、拒絶に似たものだった。俯き続けていた顔を上げ、信二は嘲るように佳織に言葉を向ける。


「考えても意味がないのに考えろって言うんですか? それこそ時間の無駄ですよ。それに、この書類の目的から外れてませんか?」


「いいえ、外れていませんよ。私達は“将来について”という題で進路調査書を作ったのですから」


 佳織の意味深な言葉に信二は疑問を浮かべる。あまりにも微動にしないの表情から信二は何一つとして感情を読み取ることができなかった。


「話はこれで終わりです。今度は“自分の将来について”しっかりと書いてください。期限は……そうですね、3週間としましょう。それ以上はテストに差し支えます。話は以上です」


 そう言って強引に話を終わらせた佳織は、机の引き出しから新しい進路調査書を信二に差し出す。真っ白になった進路調査書の“将来について”と書かれた欄が窓から差し込んだ光に照らされる。信二は差し出されたそれを嫌々受け取ると、先ほどとは違う自嘲気味な笑みを浮かべてみせた。


「俺の方が期間長いんですね」


 答えを確認するだけのような言葉に佳織は初めて、信二から目線を離し言葉を返した。


「あなたは他の人より自分の未来を考える必要がありますから。それと」


 返答する佳織の顔が不意に机の一角に向けられる。信二も追うように似たような場所に視線を向けた。が、書類や教材が散乱した机の上では、佳織が何を見ているのかを特定することなどできなかった。ただ一つ、白黒の書類群に埋もれた女子生徒の顔写真のみが、信二の目に入ってきた情報だった。青味がかった黒髪のセミロング姿の生徒『嘉山かやまミライ』の写真。その暗く淀んだような瞳に信二は妙な既視感を覚えた。


「あなたには別件もありますので、それを考慮した結果です。事の詳細は病院の方で聞いてください」


 ミライの写真を凝視していた信二の意識に佳織の声が反響する。視線を前の方に戻すと佳織は自分の机に向かって黙々と書類の整理を始めようとしていた。まるで話はお終いと言わんばかりのその様子に信二は一礼だけすると、踵を返して職員室を後にした。

 最後に言われた佳織の言葉。それはつまり、信二にとっての厄介事であり、こなすべき義務であることを意味していた。


「……はぁ」


 薄いオレンジ色の帰路を信二はため息をつきながら歩いていく。その後に待っているであろう面倒事を想像しながら、それを躱す方法を考えながら。

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