幻惑の糸葉水仙(十二)

 シンとした夜の静けさは時の流れをゆっくりとしたものに変えていた。

 その密やかな話し声さえも静寂しじまに溶けていく。

 うつつから隔離され、お互いを除いて他のものなど何も存在しない。そんな世界に迷い込んでしまったかのように、ふたりは感じていた。

「大丈夫。このひと時の記憶があれば、私は生きていける」

 詩人の腕の中で伯妃はくひは、自分に言い聞かせるかのように呟いた。

「生きていれば、いずれよき日も訪れるはずです」と詩人は返すが、それは伯妃にとっては何の慰めにもならないことも理解している。

 聞き逃したふりをして、マリセタは一人語りを続けた。

「数年前のあの時の記憶が、今まで私を支えてきたように、きっと……」

 その言葉にリュシアンは、肌を合わせた数年前の夜を思い起こしていた。

「あなたには重荷を背負わせてばかりね」とマリセタは闇の中で囁いた。

「僕も望んだことです」

「優しいのね」と言う言葉に力のない微笑を付け足したマリセタは、一転しておどけた口調になり、

「私が普通の娘ならよかったね。そうしたら私はきっと、貴方のいい妻になれたわ」などと言ってのけた。そうかもしれないと思いながらも、詩人は意味のない仮定に返事はしなかった。

「そうして貴方の子を育てて……そうね、子どもが欲しいわね」という無邪気な伯妃の言葉には、さすがに詩人も慌てた。だが、これも与太話にすぎない。一方のマリセタは、

「ううん、無理よね。隠れて産んだとしても、私の立場上、僧院に預けることもできない。こっそり遊民ツィガンにでも引き取ってもらうしかないわ……。でもそれじゃあ、あまりにも可哀想だわ」などと妄想を続けた。

「マリセタ様、冗談はほどほどに」

「ごめんなさい」

 闇の中で伯妃はどのような表情をしているのだろうかと、リュシアンは気にはなったが覗き見るのをやめた。冗談を口にしながら、きっと彼女は悲しげな表情をしている。望むべくも無いことを夢見て、顔を歪めているのだろうとリュシアンは思った。そして彼女の冗談を嗜めたことに後ろめたさを感じていた。彼女は伯妃としての抑圧された生から、決して逃れることは出来ない。せめてほんのひと時だけでも、かつての快活な彼女に戻ることができるのならば、他愛のない冗談くらい言わせておけばよかったのだと、闇の中で自らを責めた。

 興が醒めかけた雰囲気を察してか、マリセタが話を変えた。

「ねぇ、あの時の約束覚えてる?」

 リュシアンの脳裏には、マリセタと迎えた数年前の曙光が浮かんだ。朝の光を浴びた彼女は、詩人にリュートを弾けとせがんだ。そして、

「来年も会いに来て、でしたよね」と思い出せた言葉を詩人は口にした。

 一言一句が正しい自信はない、それでもあの朝の光景は詩人の中では鮮明な記憶だった。

「来てくれなかった」と、ふてくされたような口調を詩人に投げかけたマリセタだったが、最後は笑った。

「ううん、知ってる。フェルンに来てくれたことは知ってる。いなかったのは私、約束を破ったのは私の方」

 それは約束の一年後、ある冬の夜。詩人は夜を徹してフェルンの城壁を眺め続けた。アルジャンタンに嫁ぎ、いないことはわかっているマリセタを、詩人は雪の中で待ち続けた。

「仕方のないことです。気にしないでください」

「気にする」

 闇の中でマリセタの手が詩人の手を探り、手のひらを重ねた。

「もう一つ約束があったわね」

 リュシアンは応える代わりに、当時の会話を思い起こしていた。慣れないリュートを弾かされたあと、マリセタはなんと言ったのか。ああそうだ、「リュートは持ってないのよね。なら私がリュートを作ってあげる」と、そんなことを言っていた。

「いい演奏をしてくれたら、ご褒美にリュートを下さる、でしたよね」

 詩人の言葉に、伯妃が喜んでいることが重ねた手のひらから伝わってきた。そして、伯妃の口から次に出てきた言葉は、

「ねぇ、貴方の楽器をください」だった。

 あっけにとられた詩人を置き去りにしてマリセタは言葉を重ねた。

「貴方のフィドルをください」

 楽器をもらう話が、あげる話になっていることに詩人は苦笑した。

竪琴リラは一番の商売道具だから無理なのは判ってる、だからフィドル」

 全くこのお姫様は、と呆れながらリュシアンは起き上がり、上衣を軽く羽織ると火を灯し、楽器を置いた場所を目指した。そしてフィドルと楽弓を拾い上げて戻ると、衣に袖を通し終えたマリセタの前に差し出した。

 薄明りの中で、目を丸くしてマリセタは詩人を見上げ、

「本当にいいの?」と尋ねた。

 詩人は頷いた。上等な楽器ではないし、放浪の中で至る所に傷がついている。長年使ってはいるが、二束三文の価値しかない。

 だがマリセタにとっては違う意味を持つのだろう。

「このフィドルで、私と貴方は踊ったことがあるわ。覚えてる?」

 これは人を踊らせる楽器だ。だからそういったこともあっただろう。正確には覚えていないが、マリセタと踊ったこともあった。だから詩人は頷いた。

「貴方はこれを弾いていたから、私は貴方と手を繋ぐことができなくて、恨めしく思った」

 年端もいかぬ少女のように、伯妃は唇を尖らせて拗ねた表情を浮かべる。

「でも、このフィドルが私を貴方と踊らせてくれた」

 少しだけ涙ぐみながらも笑顔を浮かべ、彼女は楽器を胸に抱きしめて「ありがとう」と呟いて瞼を閉じた。

 しばらくしてマリセタは、フィドルを傍にそっと置いて立ち上がると、薄暗い灯りを頼りに部屋の奥へと向かっていった。残されたリュシアンはフィドルを見つめる。長年、乱雑に扱ってきたから傷だらけで見窄みすぼらしい。だが、もう酷使されることもないだろう。一人の女の思い出のよすがとして、城の奥にひっそりと飾られるのだろうか。もしかしたらようやく安息の地を得たのかもしれない、詩人はそう思った。

 そこに伯妃が戻ってきた。上品な布に包まれた何かを抱えた伯妃は、詩人の横に座った。少しだけ恥ずかしそうに丁寧に布をほどきながら、

「ずっと渡せずにいた。私だと思って受けとって欲しい」と、包まれていたものを手に取って詩人に差し出した。

 リュートだった。

 リュシアンは言われるがまま手に取って、そっとリュートの胴を撫でた。

 丁寧に作り込んだ逸品だと感じた。マリセタの目を覗き込みながら、一番下の弦を小さく弾いてみると、若々しい音が短く鳴り響き、不思議な揺らぎを残して消えた。その共鳴は、彼の知るリュートとは少しだけ違っているように思え、怪訝に感じたリュシアンは響孔ひびきあなに目をやった。

 すると詩人の目には、手の込んだ彫刻細工が加えられた薔薇窓ロゼッタが映った。通常は幾何学文様で覆われる響孔に、絵画のような情景が彫られていた。

 それは不思議な薔薇窓ロゼッタだった。薔薇の花の間を蝶が舞っている。その薔薇の中に一本だけ混じっているアザミはフェルン伯家の紋章で、目の前のマリセタの胸元で光る首飾りの意匠と同じだ。

 リュシアンは楽器を構えてみた。すると彫刻の天地が逆になり、蝶は地に頭を向けた。聴衆は逆さまの図案を見ることになる。怪訝に感じて薔薇窓ロゼッタをじっと眺めていた詩人は、おもむろに「これは……?」と呟いて目を凝らした。詩人は何かに気づいていた。

 それはマリセタの心を伝えるものだった。

 この楽器を弾く者にしか見ることのできない文字たちが、薔薇窓ロゼッタ彫刻の中に潜んでいた。

 楽器に落としていた眼差しをマリセタに向けた詩人に、悪戯っぽく伯妃は微笑みを返した。その表情に浮かぶ照れは、この半月余りを過ごした中でマリセタが見せた、最も美しい表情だと詩人は感じた。

「朝の光が恨めしい。朝がきたら、貴方はこの部屋から出ていってしまう」

 呟くマリセタをリュシアンは抱きしめた。


 夜は深かった。

 曙光は未だ遠けれど、必ずその時は訪れる。

 旅人を乗せる船もまた、いずれ出帆の時を迎えるだろう。


  時よ止まれ、春の嵐よ、吹いて海を荒らせ。

  そして出航を、船路の行手を邪魔しておくれ。

  かの旅人をここに留めておくれ。


 そんな気持ちを嘲笑うかのように、春の夜は穏やかだった。

 そして月は侮蔑の光を地に投げかけた。

 漂う糸葉水仙の濃厚な香りが、それを静かに宥めていた。



(1033年 春)

(糸葉水仙[黄水仙・香水仙]:花言葉「私の愛に応えて」「騎士道精神」)

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或る花の旅路 ─ 彼女たちの遍歴 ─ 舞香峰るね @maikane_renee

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