幻惑の糸葉水仙(十一)
数日後、リュシアンは城壁上の
早いうちにフェルンを離れなければ。
そう思うがベオルニア行きの船が入港しない以上、どうしようもない。詩人はフェルンへの逗留を余儀なくされていた。
船はいつ来るのだろうか。
海鳥が数羽、舞っている。あの翼があれば、対岸のベオルニアまで飛んでいけるだろうにとリュシアンはぼんやりと考えた。
「十日ほどすれば、船がまいりますわ」
後ろから声をかけられて振り向く先にマリセタが立っていた。そのまま伯妃は進み出て、リュシアンの横に並んだ。慌てて跪こうとする詩人を制して、彼女は口を開いた。
「行ってしまうのね」
「ええ。心残りはありますが、役目を果たさねばなりません」
「聞いていいかしら?」
「昨年亡くなった恩人の頼みとでも言いましょうか」
「そう。帰りはいつになりそうなの?」
「わかりません」
「また立ち寄ってくれたらと思ったけれど、私もアルジャンタンに戻らなければならないだろうし……次はいつ会えるのでしょうね」
「神様の思し召しがあれば」
「そうね」
真っ直ぐに海の方を見つめる伯妃の横顔を、詩人はじっと見つめた。そよと風が吹いて、結い上げた髪からこぼれ落ちた数条の髪の毛を揺らす。この美しい人は、これからも孤独な生を余儀なくされるのだろうかと、詩人の気持ちは沈み、海原へ視線を戻した。
詩人の視線が去ったことを感じたマリセタは、「ねぇ」と声をかけた。呼びかけられて顔を伯妃に向けた詩人は、彼女の瞳の奥に寂寥を見つける。
「今宵も聴かせくださらない?」
「承知いたしました」
莞爾と笑みを浮かべ、伯妃は詩人の元を離れていった。
数日前の出来事で、伯妃に恥をかかせてしまったリュシアンだが、それは正しい行いであったと思っている。だがあの夜以来、吹っ切れて何事もなかったかのように振る舞う伯妃の様子は、詩人を不安にさせていた。
リュシアンはその不安を断ち切るかのように、再び海を眺めた。
夜の帳が世界を暗く閉ざし、城壁上の松明は海に向かって煌々と街の位置を知らせている。そして城内では小さな灯火の光が連なり、夜に抗っていた。
城の外には花の
市井で使われる生臭い魚油や獣脂の
この時ばかりは二人の侍女も果たすべき務めがなく、部屋の片隅で琴の音を楽しんでいた。
やがて夜も更けゆく頃に、伯妃は詩人を仕事から解放した。そして侍女たちにも声をかけ、就寝の時間だと告げた。退室するため詩人が弦を緩めているうちに、伯妃は侍女たちに退室を促していた。詩人がずっと節度を保って振舞っていたからか、侍女たちはリュシアンがまだ残っていることを警戒せずに退出した。
侍女たちが扉の向こうに消えたことで、詩人も急ぎ退出しようと立ち上がった。やおら伯妃は詩人の元へと歩み寄り、上目で詩人を見つめて、
「ようやく、お話ができますね」と話しかけた。
「話であれば、弾く合間にできたでしょう。聞かれてはまずいお話なのですか?」
「いいえ」
あっけらかんと伯妃は微笑を浮かべた。その様に詩人が戸惑っていると、ゆっくりとした動作でマリセタはリュシアンに抱き着いた。
まったくの不意をつかれ、困惑の表情を浮かべた詩人は「マリセタ様!」と小さく、でも鋭く彼女を嗜めて、伯妃を引き離そうとした。だが、それに抗ってマリセタは、
「いいじゃない。私の好きにさせてよ」と笑う。
ひそめた声でしか話せないから、伯妃は詩人の身体に自らの顔を寄せつける。伯妃の息が触れるたびに胸の鼓動が高まっていくのを感じながら、詩人は伯妃の好きにさせた。気が済むまで戯れてくれればいい、と半ば諦めていた。伯妃は、詩人の存在を確かめるように、顔を身体を詩人に押し付けた。
「気が済みましたか?」
リュシアンの言葉を無視して、伯妃は詩人を離さない。しばらくして小さく、
「済んでない」と呟いた。
「……」
「私を愛して」
「……!」
静かな、でも熱のこもった伯妃の物言いに、詩人は数日前とは打って変わって拒絶の言葉が湧いてこなかった。詩人が沈黙する中で、マリセタは抑圧してきたであろう感情を吐き出し続ける。
「神の法にも人の法にも反することなんて分かってる!」
激情を口にしながら、
「それでも、その罪を背負ってでも、私は貴方に愛されたい」
決壊した城壁から、敵兵がどんどんと攻め込んでくるように、マリセタの言葉の群れが、拒絶できなかった自身の心に一斉に流れ込んでくるのを詩人は感じていた。
「マリセタ様……」
かける言葉は頭に浮かぶ、だがそのどれもが陳腐なものに思えて、詩人の口は凍りついた。沈黙を拒絶と受け止めたのか、マリセタの震えは一層大きなものとなる。
「あの人にとって私は形だけの妻。フェルンを繋ぎ止めておくだけの存在だから……」
震えながら搾り出した声には恐怖が混ざっている。形ばかりのつながりだとしても、それでも彼女に離婚は許されない。彼女の再婚相手の子にはフェルンの継承権が発生する、だから飼い殺す。丁重には扱うがそれだけ。そんな状況の中で、誰からも愛されることもなく必要とされることもないと、そう思えるほどに伯妃の置かれた状況は絶望的なのだろうかと詩人は慮る。
「かつて、小娘だった頃から、貴方のことを好いていました」
マリセタの上気した頬はより鮮やかとなり、潤う瞳は溢れんばかりだった。そして唇は艶やかだった。
不器用な情動をたたえた彼女の眼差しに、リュシアンは吸い込まれた。手に入れてはいけない女性、それでもかつて心を通わせた女性だから、愛しいと思う気持ちは確かに存在する。これ以上、彼女の必死の誘惑には抗しきれないことをリュシアンは悟りつつあった。
「あなた以外を愛することはないし、貴方以外に愛されたいとは思わない。例え貴方に想い人がいるとしても,そんなことはどうだっていい」
はっきりとマリセタは口にした。押し黙る詩人を見つめて彼女は続ける。
「どうしたって私たちは一緒になることはできない」
その一言に、どれほどの絶望が含まれているのだろう。そしてその身分や立場をどれほど呪ったことだろう。それらを断ち切るように、マリセタは言葉に力を込めた。
「なら今だけでもいい、わたしを愛して!」
リュシアンは彼女を抱く腕に力を込めた。もうこれ以上、伯妃に何かを言わせたくはなかった。彼女が愛の言葉を囁くたびに、彼女は罪の言葉を重ねていく。
「もうこれ以上、何も言わないでください」
詩人は覚悟を決めた。先日あれほど拒絶しておきながら、意志の変節はあっけなかった。
拒めば傷つけ、受け入れれば罪を背負わせる。正しきはどちらかなど理解している。だが、ここに届かないはずの糸葉水仙の芳香が詩人の脳裏には立ち込め、思考は麻痺し、腕の中のマリセタをただ愛おしいと思う気持ちだけが膨らんでいた。詩人に固く抱擁されて、涙ながらにマリセタは、
「貴方にも罪を背負わせてしまうことはわかってる。でも全ての罪は私が引き受ける。貴方は私が守るわ」と言葉に力を込めた。
火皿の灯が吹き消され、二つの影が闇に溶けた。
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