幻惑の糸葉水仙(十)

 風が吹き雲が流れ、月は隠された。

 遮られた光は行き場を失くし、地は黒に染まる。

 闇に覆われた刹那の時間に、マリセタは再びリュシアンの唇に自らのそれを重ねた。その甘美な柔らかさを味わうよりもまず、詩人は伯妃はくひの震えを知る。

 彼女の頬を伝う涙は今も乾くことなく、次々に溢れ出してきては流れ落ち、詩人の頬をも濡らした。

 伯妃を引き剥がすことを諦めたリュシアンは、丁寧に彼女を抱えながら半身を起こした。詩人の膝の上で、伯妃は悄然としていた。詩人の肩に手をかけて、虚ろな瞳も歪んだ表情も隠すことなく、ただ静かに涙をこぼし続けた。

「愛妾のことなんかどうでもいい、子供とひき離されれたことも、あの子たちの将来のためと思えば我慢もする……」

 ぽつりぽつりと声を絞り出す伯妃の吐露に、リュシアンは胸が締め付けられた。そんな人間たちの悲愴などに構うことなく、彼らの周囲に群生する糸葉水仙は甘い香りを世界に放ち続けている。

「でも……それを甘受してなお、私は何も報われない。下の子がフェルンを継ぐまで我慢したとして、そしたら私は用済み。こんな人生に、一体何の意味があるというの?」

 彼女のその悲痛な叫びに、詩人は沈黙を通した。天真爛漫に皆に笑顔を振りまいていた、そんなかつての姿を知っているからこそ、彼女の今の境遇には痛ましさを禁じ得ない。こんなにも辛そうな彼女を見ていることが、詩人には耐えられなかった。

 彼女が何か慰めの言葉を欲しがっていると、詩人は感じていた。そして詩人は職業柄、彼女と同じようなあるいは彼女よりも酷い境遇に置かれた女の話を多く知っている。でもそれらから得られた智慧を元に何かを言ったとしても、それは彼女の慰めにはならないことも理解していた。だから気の利いた言葉の一つもかけることができず、陳腐な言葉しか口に出すことができなかった。

「今をお忍びになられたのならば、いつか良い日が訪れるかもしれません」

 あまりに、あまりに空虚な詩人の言葉に、伯妃は語気を強めた。

「そう思って耐えてきた! でももう、限界よ!」

「何も希望はないのですか?」

「ないわ」

「なぜそう言い切れるのです?」

「私にあるのは過去だけだから」

 およそ悲しみだけしか感じ取ることができない状況に陥った人間には、他者の言葉など届きはしない。自らが抱え込んだ辛苦を後生大事と抱え込み、狭められた視野がもたらす偏狭な考えに固執し、遠く未来を見通す力を喪失なくしているから。それを打破して希望を描く力を持っていたとしても、悲しみの沼に嵌り身動きが取れないと、それも発揮されることはない。

 今まさに、マリセタが陥っているのはそんな状況だった。救えるとは思っていない、でもそんな彼女の姿は見たくないと、リュシアンもまた声を荒げた。

「そんなことはありません!」

「ならあなたが私にまた希望をちょうだい!」

 マリセタの叫ぶような声が夜の庭に響いた。ハッとして口元を両手で覆ったマリセタは、誰かに聞かれてやしないかと周囲を見回した。そのことで少し冷静さを取り戻したのだろうか、マリセタは口をつぐんだ。

 静かな夜の闇の中に、相変わらず黄水仙の濃厚な香りが満ちていた。声を荒げたことで激しくなっていたふたりの呼吸の音が、庭園を満たす甘い香りに飲み込まれ消えていく。二人はかつて、身分を超えて心を通わせた。だからこそ、一方の不幸は甘美な過去の思い出をよみがえらせ、数年の時を経て再会したふたりに、そこはかとない高揚感を味わわせていた。むせるような花の香りは、彼らの心を麻痺させ、この地上に二人だけしか存在しないかのような惑乱をもたらした。

「ねぇ、リュシアン。私がまだ伯姫はくきだったころ、私たちは愛しあった。その記憶があったから、私はこれまで耐えてこられた」

「……」

「あの短い時間の記憶が、どんなに私の心を支えてきたことか」

「マリセタ様……」

「だからもうあと十年、私が耐えられるだけの希望をください。私はたしかに愛された、たしかに幸福な時を過ごしたと、胸を張って言うことが出来るように……」

 過去の冬、待雪草ガランサスがぽつぽつと顔を覗かせたこの庭園の雪の中で、伯姫は恋慕の情とその覚悟を詩人に伝えた。

 あの時の雪は今何処、この春宵に咲き誇るのは黄水仙。

 その馨香けいこうに心は千々に乱れゆく。

 流されてはいけないと思いつつも、詩人は伯妃の懇願に抗うことは難しかった。

「マリセタ様、このような場所にいつまでもいては、お召し物が汚れてしまいます」と、詩人は伯妃を抱き抱えて立ち上がった。

 よろめくように彼女はそのまま詩人に抱き着いた。

 このまま両の手を彼女の背に回して抱きしめるべきなのだろうか、詩人は躊躇した。露見すれば醜聞となり、露見しなくとも不義の記憶を彼女に刻み込むことになる。その手の所在をどこに置くか、その選択ひとつで何かは変わってしまう。

 そして詩人は告げる、「いけません。マリセタ様」と。


 曙光の時は未だ遠く、雲の消えた空から降り注ぐ月の光が世界を包み込んでいる。その光を受けた水仙の黄色は、月影よりも煌々と鮮やかだった。


 灯火がか細くゆらめく薄暗い室内で、リュシアンは座りこんだ伯妃の寝台からそろそろと立ち上がった。

 あの後、詩人はなだめすかすように伯妃を諭し、誰にも目撃されないように慎重に彼女を部屋に戻した。涙を流し続ける彼女を放ってはおけず寝かしつけ、今ようやく伯妃は眠りについたところだった。

 伯妃が身を小さくして寝息をたてている。

 涙ながらの真っ直ぐで不器用な伯妃の誘惑を、詩人は拒絶した。心が痛まないわけではないが、それが正しいと詩人は理解している。

 伯妃はこれから生きていく希望としてひとときの安寧を求めた。だが、その代償としてその身に罪を刻み込むことになる。この先、その罪の意識に苛まされることを考えると、伯妃の願いを叶えることは詩人にはできなかった。

 リュシアンはもう一度、マリセタの寝顔に視線を落とした。

 せめて良い夢を見てくれているならば、と彼は願う。あとはこの室内から誰にも気取られることなく離れるだけだった。そして、この再会は夢であったと思えるうちに、このフェルンの地を離れるべきだと詩人は感じた。

 最後に伯妃の髪を撫でその頬に口付けをすると、灯火を吹き消し、そろそろと物音を立てずにリュシアンは部屋を後にした。

 ゆっくりと扉が閉じられ、室内が闇と静寂しじまに包まれると、寝具に身を包み薄く目を開けていたマリセタは、詩人の痕跡が残る頬に手を当てて、そして静かに涙を流した。

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