幻惑の糸葉水仙(九)

 女の姿をしたその影は、ゆっくりと詩人の元へと歩み寄るとおもむろに膝を折り、後ろに手をついて座り込む詩人に抱きついた。

 ふわっと柔らかい女の髪が詩人の頬を撫で、彼女の身体から漂う装身のこうが、花のに慣れた詩人の鼻腔に新たな刺激を与える。反射的に、詩人は右腕を地面から離して女を抱きかかえていた。抱き寄せられた女の華奢な身体は、沈みこむかのように詩人の身体に密着していく。衣服越しに、ふたりの胸の鼓動が高鳴り、いつしかそれは共鳴するかのようにお互いの肌に伝わっていった。

 何か言葉を発しようと開いた詩人の唇を、女のそれが塞いだ。

「……!」

 片腕でふたり分の身体を支えることができず、左の肘を折ってゆっくりと女を抱え込みながら詩人が地にその身を横たえると、唇を離した女もまた素直に詩人に身を委ねた。

 確かめる必要もなかったが、腕の中で小さくすくめた身を硬くしている女の顔を、リュシアンは覗き込んだ。目を閉じ、恐れと安堵が入り混じった表情のマリセタは、詩人の視線を感じてか、ゆっくりと瞼をあけて詩人の顔色を伺った。

 そして詩人が何かを言う前に、

「何も言わないで」と呟いた。

 彼女の震えをその身で感じた詩人は、女の背に回していた右腕を解いて地に置いた。そしていかなる動作もせず、自らに覆い被さるマリセタのなすがままにまかせた。詩人の胸に顔を押し付けて、伯妃はくひもまた身じろぎすらしなかった。

 静かな夜を、ふたりの鼓動が埋め尽くしていた。


 しばらくして、リュシアンは自らの胸に女の体温とは異なる熱さを感じるようになった。その湿った熱はすぐに冷め、でもまたすぐに熱が加えられる。伯妃は声を押し殺して泣いていた。

 困惑の表情を浮かべながら夜空を見つめる詩人の目には、雲に隠れて頼りない月影が映る。やがて雲が流れ、その全貌を顕にした月がふたりをしばらく照らし出していたが、再び雲が月の光を覆い隠した。

 ふたりは闇に飲まれ、ひと言も発することなく地面の上で重なり合っている。

 その間、伯妃は止めどなく涙を溢れさせ、肩を震わせ続けていた。

 仕方ない、と詩人はマリセタの髪に手を当てた。ビクッと身を震わせた彼女だったが、詩人の手がそのまま髪を撫でつけるのを感じると、より強く詩人の胸に顔を押し付けた。詩人はそのままゆっくりと髪を撫で続けた。

 いや、詩人は女の髪を撫でてやることしかできなかった。

 詩人はかつて、伯姫はくき時代のマリセタに憧憬を抱いた。そして一夜、心を通わせた。そんな伯妃のことを愛しく思わないわけがない。彼女の不遇を知れば尚更だ。

 だが理性と倫理は、その感情を否定する。

 リュシアンが彼女の髪を撫で付けるその動きは次第に重苦しいものとなり、その変化を感じ取った伯妃は、

「わかってる。よくないことだって、わかってる」とうわ言のように呟いた。

「……」

「でも、抑えきれなかった」

 小声ながら熱情のこもった伯妃の言葉を愛しいと思う気持ちを押さえつけて、リュシアンは素っ気なく伯妃に告げた。

「なら、ここまでです。マリセタ様は、お立場のあるお方です。今ならまだご自身の名誉を保つことができます」

 その言葉を受けたマリセタの激昂が、服地越しにリュシアンに伝わる。

「名誉? そんなものが私にあるとでも?」

 声を抑えているが、マリセタの言葉は刺すかのように鋭かった。

「マリセタ様……」と、狼狽した詩人は続く言葉を失った。

「ええ。私が良き妻であればそれはフェルンのためになる、そう思って生きてきた」

「……」

「生まれた子、ひとりはアルジャンタン。もうひとりはフェルンを継ぐという取り決めだから、その勤めを果たして良き母であろうともした」

「……」

「でも二人とも私の手元から引き離された」

「それは……」と続けようとして、リュシアンは口をつぐんだ。アルジャンタン伯家が欲しいのはマリセタではない。フェルン伯家の血を引くアルジャンタン伯家の子たちだ。そして、その子らはフェルンではなくアルジャンタンに愛着と帰属意識を持っていることが好ましい。大方、姑あたりの手元で扶育されているのだろう。

 政略婚にありがちといえばそれまでだった。

 だがそれを口に出して確認するということは、マリセタを傷つけることだと感じたから、リュシアンは沈黙を選んだ。そしてその沈黙の意味を、マリセタは理解していた。 

「ええ。国同士の結びつきなんて、こんなものだってわかってる。それでも私は夫を愛そうと努めた」

 頼りない月の薄明かりの中でも、マリセタが唇を噛み締めているのがわかった。

「でも、あの人にとっては、私は愛情をかける価値のない女だったようね」

 マリセタは自嘲とともに顔を歪めた。

「……」

「古くからの愛妾様を可愛がっていらっしゃるわ」

 あぁ、名誉などないと言ったのは、そういうことかとリュシアンは察した。震えを内に込めた彼女のその声色は、怒りか、妬みか、侮蔑か、それとも誇りを傷つけられた痛みなのか、リュシアンには軽々しく推察することはできない。ただその状況は、ふたりの子を得た若き正妻にとっては屈辱的すぎることは推して知る。

 だがそれも政略婚ではよくある事態だと、詩人は冷静に理解していた。だから子を産む役目を果たした後であれば、妃の行動は多少は黙認されることもある。

 でもマリセタの場合、フェルンとアルジャンタンを巡る諸事情に加え、彼女の生来の生真面目さが不貞を許さないであろう。それに妃側の行動は代償も大きく、妃の利用価値の喪失や、妃への嫌悪感情の芽生えといった夫君側の情緒的変化で、いとも簡単に事が荒立てられて醜聞とされ、妃が責められ処罰されることも多い。実家に父伯といった有力な庇護者が存命しているわけでもなく、自らが領主であるマリセタは慎重に生きざるを得ない。若き女伯にして伯妃である彼女には辛い立場であろうと、リュシアンは慮る。

 それでも彼女の一挙手一投足で、フェルン伯領の今後が左右されるのだから、マリセタは現状を甘受するより他はない。リュシアンにしても、マリセタに憐憫の情を禁じ得ないが、我が身に火の粉が降りかかるような事態は避けたかった。それ以上に、今この場の危うい状況が、マリセタの今後に大きく影を落としてしまうことを危惧した。

 マリセタは真面目な娘で、今この時は、自分を見失っているに過ぎない。

 リュシアンが伯妃の両肩に手を当てて、その身体を自分から引き離そうとしたその時、

「ねぇ」と伯妃は、それまで詩人の胸に埋めていた顔をあげた。

 引き離そうとするリュシアンに抵抗して、マリセタは自らの顔をリュシアンの顔に近づけた。そして意を決したかのようにまっすぐな眼差しを投げかけて、はっきりと囁いた。

「私を愛して……」

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