幻惑の糸葉水仙(八)

 庭園での束の間の逢瀬を境に、マリセタは詩人を侍らせ音を楽しむ時は結い上げた髪を解くようになっていた。

 往時を懐かしむかのようにお下げに編み込んだり、流した髪に飾りをつけたりと、未婚時代のような出立ちでくつろぐ姿は、慣れ親しんだ故郷に寛ぎと癒しを見出しているかのように見えた。私室とはいえ他所者の詩人を侍らせているにもかかわらず、未婚者の如き髪形でいる主人の姿を見て、侍女であるふたりの少女は戸惑った。だが、苦言を呈することも出来ず、伯妃はくひのなすがままに任せていた。

 やはり嫁ぎ先アルジャンタンの地で、伯妃の立場や扱いは良いものではないのだろうとリュシアンは確信した。そして冷遇されている彼女を常に見ているふたりの少女は、だからこそ、せめて故郷の私室ではと何も言えないのだろう。彼女たちの心情をそうリュシアンは慮ったが、部外者の自分が踏み入ってはならないと無言を貫いた。

 そんな伯妃の元に、連夜のように詩人は召し出され歌を献じている。そのあまりの頻度に眉を顰める者もいるだろう。だからこそ詩人も伯妃も節度を保ち、必ず侍女たちを同席させてよからぬ疑いが生じることを避けていた。

 そして今宵も、降りた帳に竪琴リラの音色が響いていた。

 

 詩人の生み出す音は石壁に反響し、燭台や火皿の群れから放たれて重なりあう灯りの中に溶けてゆく。穏やかな静寂しじまを切り裂く気になれぬ詩人は、この夜はゆったりとした音を奏でていた。部屋の隅に侍るふたりの少女は、律動の乏しいその単調な音色に口元を押さえて欠伸を隠し、重々しい瞼を仕切りに瞬かせては眠気に耐えていた。

 そんな侍女たちを見て、伯妃が口を開いた。

「ありがとう、リュシアン殿。今宵はもういいわ」

 伯妃の言葉で音を鳴らし終えた詩人が居住まいを正し、退出の挨拶をしようとする中で、伯妃はふたりの侍女に「あなたたたちも、もうおやすみなさいな」と優しく声をかけた。眠気を堪え必死で神妙な表情を浮かべた少女ふたりは、異口同音に「わかりました、マリセタ様」と返事をし、リュシアンが退出するのを待った。

 音の余韻はすでに霧散し、詩人と伯妃の間には張り詰めた静寂が見えない壁のように厳然とそびえ立っている。それは伯妃と自分にあらぬ嫌疑がかけられぬようにと、大袈裟すぎるほど畏まり、余計な言葉を削ぎ落とした礼を捧げることでリュシアンが作り出したものだった。詩人は、早く出てやらないと侍女たちが可哀想だなと思いながら退席の支度を急いだ。

 そんな詩人を、伯妃は何も語らず不満げな表情で見つめている。その重くのしかかる彼女の沈黙を振り払うかのように、詩人は退出するために伯妃に背を向けた。この夜の静けさは、粘り気をもって詩人の身体にまとわりつき、動かす四肢の動きを鈍重なものへと変えていった。気だるさを覚えながら去り行く詩人の耳に、伯妃の独り言のようなつぶやきが届いた。

「こんな静かな夜、きっと庭園は花の香りが息苦しいくらい満ちているわね」

 振り返ることなく、心なしか急ぎ足で詩人は伯妃のもとを離れた。侍女たちが伯妃に退席の挨拶をする声が、遠く聞こえていた。


 詩人の耳には去り際の伯妃の言葉が残り続けていた。

 彼女の言うように、この春宵の庭もまた美しいのであろう。そう考えたリュシアンはそのまま部屋に戻るのをやめて庭園を目指した。途中、数人の家内奉公人や下女とすれ違い、その度に軽く会釈を交わす。

 かつてこの城で、詩人はすれ違う女たちに手当たり次第に声をかけた時期もあった。大抵は袖にされたり、マリセタに見つかって嗜められたりしていた。だが七年ほどの年月を経て、詩人はこの城ではそうした行為を控えるくらいの思慮は身についていた。

 すれ違う女たちの中に、思わず見返してみたくなる者がいないわけではない。他の宮中であれば一夜の恋を求めたかもしれない。だが、伯姫はくきであった頃のマリセタとの記憶が残るこの城の中で、そのような行動に踏み出すことは憚られた。この城の至る所に、マリセタとの記憶が刻み込まれている。この城中で、他の女に色目を使うなど、それは過去に対する冒涜に思えた。

 そしてもうひとつ。すれ違う女に視線を奪われかけると、唐突にメリザンドの姿が脳裏に浮かぶ事もあった。肉親を全て失い、東方でひとり亡命生活を送っている女。冬には顔を見せにきてなどと、一方的に詩人に願望を押し付けた女。そして、そんなちっぽけな願望を約束と信じて冬を待ち続けているかもしれない女。戦場に散った恩人の娘である彼女を、詩人は愛を語る対象から外していた。リュシアンは、彼女に捧げるべきは情愛ではなく誠実だと、自らに言い聞かせている。それは叙事詩の中の騎士たちが、女性に捧げる忠誠に近い。だから、その顔が浮かんでしまうことに詩人は戸惑う。

 ふと詩人は呟いていた。

「息苦しい」と。

 そんな重苦しい空気を一刻も早く振り払いたくて、詩人は足早に庭園へと向かう。城の石壁の内側を抜け、回廊から城内の庭へと足を踏み出すと、リュシアンは少しだけ息苦しさから解き放たれたような気持ちになっていた。

 雲間から少しだけ顔を覗かせた月が、頼りなさげに夜を照らしつけている。弛緩しきった空気は温く、いくつかの花の香りが地に満ちていた。遠くに夜啼鳥ルシニアの声が聞こえ、夜の静けさを際立たせている。

 人や生き物の気配は乏しく、春宵の空気は攪拌かくはんされずによどんでいた。大気の底に充満する花の香はあまりにも濃く、呼吸する喉や鼻を圧迫し、詩人はくらくらと目眩めまいに襲われた。惑乱を覚えるほどの濃密な香りに気圧されながら、詩人は最も香りの密度が高い庭園の方へふらふらと引き寄せられていた。

 人影なく、花の香が沈澱した庭園に足を踏み入れた詩人は、そのあまりにも甘い空気にむせかえった。立っていることすらおぼつかなく覚え、詩人はそのまま地面に座り込むと抱えていた竪琴を置いて足を投げ出し、両手を支えに夜空を見上げた。

 大地についた手のひらに、しっとりとした草の湿り気が滲透しんとうしていく。その湿りもまた春の香気こうきを含んでいて、自身と大気が渾然一体となり身体の境界が曖昧になっていくような情緒にリュシアンは陥る。

 落ち着かせようと大きく息を吸うと、春の色をした馨香けいこうが肺に満ち、詩人は春宵に侵蝕されていく。理知と惑乱の境界上で詩人は悶えた。平静を渇望し、苦々しく「なんて空気をしてやがる」などと呟けど、詩人の心の奥底は春の香に塗れ溺れたいと欲していた。

 そんな散漫な思考のゆえに詩人は、草を踏みしめる物音が近づいていることに気づかずにいた。

 その足音はゆっくりと詩人に近づいて、でも数歩分の距離を残して止まった。

 ひとときの静寂。

 そしてようやく詩人の目は、雲間に顔を出す月の明かりがぼんやりと映し出す人の影を捉えた。

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