幻惑の糸葉水仙(七)
詩人が城の一隅に設けられた庭園を訪れたのは、前夜の伯妃の言葉が胸の奥に渦巻いていたからだった。伯妃が口にした「今、きっと
昨夜伯妃が言ったように、詩人は放浪生活を中断する冬の間しかこの庭園を知らない。葉を落とした、あるいは風に乾いた音を鳴らす褪せた枯葉だけを繋ぎ止めた木々と、そしてひっそりと白に溶け込む
だが春の庭園は緑に萌えていた。緑の中に赤や白、青紫の花たちがその存在を誇示している。そして細く鋭い濃緑の葉を天にかざし、視界を撹乱するかのように糸葉水仙の強烈な黄色が燃えていた。夕さりの光の中にあってなお色鮮やかなその黄の叢は、詩人の網膜に焼き付いてその身を焦がした。業火の如きに黄色に灼かれ、甘き香りに溶かされて、詩人は息苦しさを覚えた。
「ね、言った通りに綺麗でしょう?」
背後から現れた彼女は、そう語りかけながら詩人の横をすり抜け、クルンと身を翻して正面から詩人を見据えた。その跳ねるような動きに、衣の裾が、結い上げた髪からこぼれ落ちた横髪の一条がはらりはらりと波打つように揺れた。
「ええ。この城の春がこんなにも美しいとは知りませんでした」
詩人の賛辞にマリセタは微笑んだ。逆光の中でその栗色の髪は艶やかに輝き、表情に生まれた陰影はその花の
「私もここで過ごす春は久しぶり。春のフェルンは本当に美しいわ」
そう言いながら、マリセタは踊るようにくるくると回転して庭中を見渡した。衣の裾から風が入り込みふわっと膨らんで、また元に戻る。そんな幼さの入り混じった所作に、リュシアンは惹きこまれそうになる。その横顔は大人の女性のそれであったが、天真爛漫な少女時代の面影が確かに同居していた。詩人は今、自分が時の狭間にいるかのような錯覚に陥っていた。過去の
これが夢なら醒めて欲しくはなかった。だが、目の前の女性は、夢見ることが許されない
「若君様はご一緒に戻られなかったのですか?」
唐突な質問にハッとなったマリセタに浮かんだ一瞬の困惑は、詩人を戸惑わせた。その表情の意味をリュシアンははかりかねた。だが若い伯妃から突然、その可憐さが失われていた。遠くを眺め唇を噛み、彼女は苦しげに「ええ。連れてきていないわ」とだけ搾り出した。
伯妃の言葉に滲み出る苦悶に、詩人は触れてはならぬ話題だったかと後悔したが後の祭りだった。その目の輝きを虚ろなものへと変えたマリセタは、
「あの子たちはアルジャンタンの子。フェルンには渡してくれない……」と呟いた。その伯妃の声色は、リュシアンが初めて聞くもので、詩人は続く言葉を失くした。だが、彼にも理解できたことがあった。
嫁ぎ先アルジャンタンでのマリセタの待遇は良くなさそうだ。
マリセタは小規模とはいえ豊かなフェルン伯領の現当主だ。それに見た目にも綺麗で健康なまだ二十代の娘だ。未婚であれば、彼女を望む者は引く手数多であろう。だが、アルジャンタン伯家は両手を挙げて彼女を受け入れているわけではなさそうだ。宮廷を渡り歩き様々な噂や実情を垣間見てきた詩人には察することができた。彼女の長子はアルジャンタンの後継者だ。そしてフェルンの継承権は次子に与えられるのであろうが、それはフェルン伯の血を引くアルジャンタン人であることが先方には望ましいのであろう。アルジャンタンに愛着を抱かせるために、恐らくは母親から引き離され、先方の手元で養育されているといったところであろうか。
「あまりの無力さに、色々と嫌になるわ……」
マリセタの顔に浮かんだ侮蔑は誰に向けられたものなのだろうか。きゅっと結んだ唇を噛み、虚な眼差しを夕陽に向ける彼女の姿に、あぁその侮蔑はマリセタ自身に向けられているのだと詩人は理解した。自らの苦境を誰かのせいにするには、マリセタはあまりにも純朴だった。彼女は、足元に咲く糸葉水仙の葉のように真っ直ぐ繊細で、その芳香のように甘い姫君だった。
ふと彼女は結い上げた髪を両手で掴み、髪留めを外すと首を激しく振った。
豊かな栗色の髪が解け、波のように宙を漂いふわっと流れ落ちた。彼女の周囲の空気が震え、充満する花の香りが掻き乱された。拡散する花の香の隙間を埋めるかのように、マリセタの身を包み込む香水の芳香が仄かにリュシアンの鼻腔に届き、詩人は心を乱された。
「こうして髪を下ろしたまま、このフェルンの経営に専念する道だってあったのにね」
「結婚を後悔なさっておいでなのですか」
「それはないわ。フェルンが存続するためにアルジャンタンとの結びつきは必要だった。それに、私は二人の子を得ることができた」
髪を下ろし、少し寂しげに語るマリセタの姿は、伯姫だった頃の彼女を彷彿とさせた。その富貴と引き換えに、情愛とは別の形で伴侶を得る。こうした貴族たちの考えは、リュシアンの生きる世界とはその在り方を異にしている。だからこそ、彼が歌う
「でもね、少し疲れたわ」
未だ若いマリセタだが、それにはおよそには似つかわしくない言葉をため息と共に吐き出していた。
「私にはマリセタ様のお心を悩ますものが何であるのかは分かりません。ですが、このフェルンの空気がマリセタ様のお心を少しでも安らげてくれることを願うばかりです」
「そうね。また今度、歌を聞かせてちょうだい」
「お心のままに」
軽く頭を下げたリュシアンの横を掠め、マリセタは園の外へと去っていった。
すれ違いざま、ふわりと浮いた女の髪が、その身に纏う香りをリュシアンに届けた。その残り香がいつしか水仙のそれにかき消されるまでの間、夕日の庭で微動だにせず、詩人は伯妃が消えた先を眺め続けた。
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