幻惑の糸葉水仙(六)

 その日の夜、詩人は伯妃はくひの私室に召し出され、竪琴リラを供していた。

 流れる音は石壁に反響し、残響消えやらぬうちにまた新たな音が生み出されては重なっていく。

 灯されたいくつかの火は、ゆらゆらとゆらめく度に光と仄かな香りで室内を満たしていた。その光は小さくとも、闇に怯える人の心を安堵させる。そしてその良質な香油の馥郁ふくいくたるかぐわしさは、人の気持ちを落ち着かせる。灯りと薫香は竪琴の音と混ざり合い、室内を甘く夢見心地な空間へと染め上げた。

 椅子に深く腰をかけて肘を置き、頬杖をついて気だるそうに伯妃は音を楽しんでいた。時折、薄く閉じられた瞼から、詩人の姿を求めその表情を窺うような視線が漏れている。

 古い恋への未練が込められたかのような、そんな眼差しを感じた詩人は、激しく弦を震わせる事でそれを断ち切った。

 もはや、恐れを知らない未熟な若すぎるふたりではない。

 心を通わし合った二十歳そこそこの当時から、すでに七つの冬を越えてきた。その間、一切の智慧を身につけてこなかったわけではない。ともに人情の機微だけでは無く、決して踏み越えてはならない人倫も理解している。だからこそ、マリセタが時折寄せてくる眼差しに、リュシアンは戸惑う。

 その眼差しには、愛情への渇望が包摂されていた。


 決して詩人は人格者ではない。だが、我が身を守るためにも最低限の制約は課してきた。夫のいる高貴な女性に取り入るために愛を囁くことはあっても、決して手は出さなかった。貴族女にしてみてもそれは一種の遊戯で、男たちから愛の言葉を囁かれ、忠誠心を勝ち得るまでを楽しむ、作法としての恋愛だった。リュシアンが詩人として竪琴の音に乗せて貴顕に献じてきたのは、市井で好まれる猥雑な情欲の愛ではなく精神的な愛だ。だが一線を越えた行動に及び、その火遊びが暴露され、報復や処罰された者たちの話もまた数多く知っている。

 かつてマリセタと秘密の関係を結んだ時、躊躇いながらも若い情熱がまさった。だがマリセタが伴侶を得ている今、それは許されない。視線だけならば気づかぬふりをして無視すればいい。だが伯妃がそれ以上の行動に出たら、どのように拒絶すべきなのだろうか、そんなことを考えながら詩人は竪琴を鳴らし続けた。

 だがマリセタもまた情熱を込めた視線を詩人に送るにとどめ、その好意を直接的に示すような言葉や態度は何ひとつとらなかった。無邪気なかつての伯姫も、大人としての思慮と分別を得ていないわけがない。迫られたらどうすべきかなどと自惚うぬぼれが過ぎたかと、リュシアンは自らを恥じた。そうして時に他愛のない雑談に応じ、ここ数年の自らの見聞を語って聞かせ、新しく覚えた楽曲を披露した。

 かつて心を通わせたふたりである、そんな僅かな時間の共有で、再会直後の緊張はだいぶほぐれていた。そうなるとわかる事もある。話を交わしながら詩人が見つめる伯妃の横顔には、払いようのない苦悩が影を落としていた。それはまるで迷い子が、突然放り込まれた街並みの異質な冷たさに怯え、突然見失った母親の影を探して狼狽える、そんな不安な表情に似ていた。

 その翳りに、詩人はこの女性の苦しみを感じ取るが、それが何かまでは知りようがない。知ってはいけないことだろうと感じていた。彼が今、話を交わしているのは、かつて心を通じ合わせた娘ではなく権力を手にする女伯にして伯妃なのだから。

 新たに曲を乞われた詩人は、演奏に集中するために頭の中からそうした考えを振り払った。中途半端な演奏を行うことは、詩人の矜持が許さなかった。


 再び音が室内を満たした。

 目を閉じ音に身を委ねていた伯妃が、やおら「リュシアン殿……」と呼びかけてきた。演奏の手を休めることなく、詩人は顔をあげて声の主を見やった。忙しく指を弦に這わせる詩人は返事をしなかったが、構うことなく伯妃は独り言のように語りかけてきた。

「かつてあなたがこの城に逗留なさっていた頃、あなたは冬の間しかいてくれなかった」

 詩人は相槌を打つにとどめ、伯妃は独り言を続ける。

「城の庭も冬は寂しくて、待雪草ガランサスくらいしか花もなかった」

 返事の代わりに詩人は、今度は曲調を少しだけ変えて弦を大きく震わせた。

 流れる音は空気を揺らし、伯妃の髪をサラサラと撫でつけていく。

 かつては三つに編み込まれ下げられたその長い栗色の髪は、今は結い上げられている。そこからこぼれ落ちた前髪の一房が、彼女の表情を少しだけ覆い隠していた。まるでそこだけが娘時代に取り残されたかのようで、詩人は懐かしい思いに駆られた。

 詩人にとってマリセタの印象は、その長い髪を誇示するかのようになびかせた、少女としての姿だった。アルジャンタン伯家に嫁ぎ、その髪を結い上げた目の前の女は、分かってはいても詩人が描くマリセタとはその姿を異にしている。変わらぬものなどないと分かっているからこそ、往時を思い起こさせる彼女の姿態に詩人の心はざわめいた。それを表に出すわけにはいかないから、詩人はじっと気持ちを押し殺し、演奏に集中する。

 垂れた一房の髪を掻き上げる、少女時代を彷彿とさせる動作が詩人に与えた動揺など、つゆほども知らず伯妃は続ける。

「春、花の時期にはあなたは旅立っていった。この城の一番美しい時期を、あなたは見ることはなかったけれど……今は色々な花が咲いている」

 頷いてリュシアンは伯妃の言葉の先を待った。

「今は糸葉水仙ヨンキーユが至る所に咲いていて、その香りが一面に満ちているわ」

 さすがにこの部屋にまでは漂ってこないが、城下城中の至る所で、その濃厚な香りを胸に吸い込んだことを思い出す。この城の薬草園や庭園もまた、今はその夢見るような香りに包まれているのだろう。

「きっと綺麗よ……」

 その庭の様子を思い浮かべるように目を細め、うっとりとした表情を浮かべた伯妃はそれ以上は何も言葉を発することなかった。弛緩した身体で深く椅子にもたれかかり、しどけなく左手は垂れ下がる。肘をついた右の腕一つで頬を支える彼女は、深くゆっくりとした呼吸で詩人の紡ぐ音に身を委ねていた。

 詩人は弦を鳴らす手の動きを柔らかくゆっくりとしたものに変え、伯妃の寛ぎの邪魔とならないようにすると、目を開けることなく伯妃は口元に笑みを浮かべた。

 やがて伯妃の規則正しい寝息を確認すると、詩人は竪琴を鳴らす手を止めて、部屋の隅に控える侍女たちに合図を送った。軽く会釈をして伯妃のそばを離れる詩人と入れ替わるように侍女ふたりが伯妃に歩み寄り、顔を合わせて起こすか否かを探り合い、そっと毛布をかけるにとどめた。

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