幻惑の糸葉水仙(五)
城の広間でリュシアンは、あまりの居心地の悪さに逃げ出したくなる気持ちをグッと堪えていた。
過去は思い出だからこそ美しい。
歳月を経てそれが虚像に変化していたとしても、いや美化され尽くした虚像だからこそ思い出は美しい。そうして虚像は人の心を支える偶像と化す。
そんな美しい偶像だったはずのものが、何故か今、現実の姿形を纏って詩人の目の前に存在している。
女は確かに美しい。彼の知る無垢な少女の面影を残しつつ、大人の艶やかさがその相貌に彩を添えていた。その彩は、数年の時間が女に与えた苦悩や疲れによって描かれたものだ。それこそが現実の美しさに他ならない。
だがそれ故に、リュシアンの脳裏に浮かび続けた美しい偶像は,少しだけ愁を帯びた女の実像によって打ち砕かれていた。
偶像など幻影。
解っていても、今更目の前に現れたかつてのフェルン
互いの視線には、かつて惹かれ合った者どうしの情愛と悲哀が含まれている。だとしても、ともにそれを周囲に気取られるわけにもいかず、ふたりともに冷徹さでそれを覆い隠して、久闊を叙する者どうしの敬愛の視線に作り変えていた。
「お久しぶりですね、リュシアン殿」
声に多少の震えを乗せて、マリセタの方から声が放たれた。ハッとして詩人は、反射的に「はい。お久しゅうございます」とだけを返した。
ここにかつての二人の関係性は存在しないし、してはならなかった。自由気儘な旅芸人のリュシアンと天真爛漫な伯姫マリセタはもういない。放浪に日々を送り
「私のような者を覚えていていただき、感謝の念に堪えません。伯妃様におかれましては、お元気そうで何よりでございます」
あまり感情のこもらない紋切り型の挨拶に、マリセタは薄く微笑んだ。一瞬だけ顰めた眉が彼女の不満を物語ってはいたが、それは詩人すら気づくことはなかった。
「よもやフェルンにお戻りとは思いませんでした」と詩人は続けた。
「この度は密かにここに参っております。リュシアン殿、どうか私がここにいることは御内密に」
低く囁くようにマリセタは伝えると、指を唇に当てて念を押す仕草をした。あぁ、こうしたところは昔のままだと詩人は思いつつ、
「承知いたしております伯妃様」と穏やかに返事を返した。
「ありがとうございます。冬であればあなたを雇いたかったのですが、今は旅路の途上でしょうか?」
かつてであればもっと砕けた口調でマリセタは詩人に語りかけていた。歳月と立場の変化はそれを許さない。だが詩人にとってこの他人行儀はむしろ心地よかった。硬い言葉遣いは昔を意識しなくて済む。昔のように親しげに話しかけられていたら、困り果てていただろう。
「はい。旅の途中で近くを通り、懐かしさ故に、ここフェルンを訪ねたところでございます」
「そうでしたのね。あなたが当地を思い起こしてくれたことに感謝いたします。そのおかげで再会することが叶いました」
「恐れ入ります」
そして少しだけマリセタは口を閉ざした。唇を少し突き出し、瞳を上の方に動かして何かを考えているようだった。そして「もし、もしよろしければ」とおずおずと詩人に一つの提案をした。
「長く御引き止めはいたしません。ですが昔日の
この提案はリュシアンも予測していたので特に慌てることはなかった。昔の彼女との関係性を考えると断った方が良いのは分かっている。だが詩人が謝絶しても、伯妃は願い倒すだろう。彼女はそんな瞳をしていた。そしてリュシアンはその願いを
「仰せのままに。故あってベオルニアに参らねばならぬので、長く逗留することはできません。ですが私はそもそも根無し草の身です。伯妃様のご好意に
儀礼的な堅苦しい言葉ではあったが、詩人の返事に伯妃の顔に笑みが溢れた。
それはかつて詩人が見知っていたマリセタそのもので、周囲をホッとさせるようなふんわりとした笑顔だった。年を経たとはいえ未だ若い伯妃の、年相応の娘らしい様子にリュシアンの心も和む。
だがひとつ気に掛かったことがあった。
アルジャンタン伯家に嫁いだマリセタは、二人の男子をもうけたと風の噂に聞いていた。その子らはどこにいるのだろうか。いや、そもそもアルジャンタン伯はこの城について来ているのだろうか。
無論、この疑問は口には出さない。伯妃の周囲には、それらの影すら感じられなかった。忍んで来たというその言葉通り、恐らくマリセタは一人でこのフェルンに戻ってきている。そう思った詩人は改めて広間を見渡した。
伯座の右には城代以下フェルン在住と思われる家士達数名が居並ぶ。左には護衛や家令と思しき伯妃付きの者達。そこにリュシアンを市場から連れてきた男達も入っている。そして伯座の傍には、伯配や子らがいるべき場が作られておらず、ふたりの少女が侍女として控えている。過日、城壁上に姿を見かけたのはこのいずれかであろう。
そもそもマリセタは、何故フェルンに戻っているのだろうか。だがこのリュシアンの思考は、伯妃の言葉によって遮られた。
「突然のことで戸惑っておいででしょうから、この場でいきなり弾けとは申しません。お部屋を用意いたしますから、まずはゆっくりなさっていてくださいね」
莞爾と笑みを浮かべ、口元で両の手を合わせたマリセタの言葉に、
「お心遣い、感謝いたします」と詩人は頭を下げた。
「久しぶりに聴くあなたの演奏、楽しみにしていますわ」
「光栄です」
顔を上げた詩人が改めて伯妃に目を向けると、マリセタの眼差しには往時の光があった。それは詩人に対して憧憬の眼差しを向けていた頃の、少女時代のマリセタの瞳の輝きと同じだった。だが、詩人の目は伯妃の眼差しに、違う光が一瞬だけ差し込んだことを見逃さなかった。それは愛情を欲する閃光のような瞬きだった。詩人として色恋の歌を披露し、時に色恋で貴族たちに取り入ってきた詩人だからこそわかる、秘められた渇望の光だった。
「伯妃様のために、誠心誠意、演奏いたしたいと存じます」
その眼差しから逃れるように、詩人は堅苦しい言葉を添えて再び深々と首を垂れた。
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