日々記。【3856~4500】

カクヨムさん近況ノート掲載分。

3855:【2022/07/31*昨日はさらば記念日】

からのつづき。



3856:【2022/08/01*日々狒々うひひ】

昨日はさらば記念日だったから、今日はサカサ記念日だ。サカサまになって、公開せずに「いくひ誌。」をつづける。たぶんもうすでにだいぶ、人の視線を意識せずにいられる分、文章形態がこれまでの「いくひ誌。」とは異なりはじめている。こちらが素にちかいのかもしれない。よく分からない。これまでの文章形態に飽きたので、いつものごとく気まぐれに方向転換をしただけとも言える。私はでも、そういった壁にぶつかるボールや、それとも球体に反射する光のように、当たりどころによってどこに飛んでいくのかも判らない気紛れさ、嫌いじゃないわ。私は私でありつづけることすらできず、私は風のように、それとも流転する万物のごとく、ただそのときどきの作用の連鎖によって生ずる環境の枠組み、私を包みこむ掌のうえでカタチを変える無と有の起伏のごとく、皺のごとく。ぼくはそのときどきの世界の奏でる紋様である。それとも俺はいつか君の指が描いた砂場のいたずら描きが生みだす僅かな、けれど確かにそこここに漂ううねりそのものなのかも分からない。わたしはでも、わたしでありたいよ。やっぱりさ、ほら、じぶんをじぶんだと実感するときが一番生きているなぁって感じるし。かといってあたしがどうかと言われたら、んー、あたしは昨日のあたしと同じではないし、まあ寝不足で不機嫌なじぶんとも違うっちゃ違うわけ。そんなこと言いだしたら、じぶんなんて常に変化しているんじゃないかな。ボクが思うに、変化の流れの軌跡そのものがじぶんをじぶんとしてトンカチトンと整えているし、そのトンカチトンそのものが、そこはもう削ったから変化できないよ、それともそこは肉付けしたから変化できるよ、とじぶんという流れの縁の役割を果たすんじゃないのかな。風は、ただ風としてのみ存在はできない。川のように、水の流れを生みだす土がいる。岩がいる。砂利がある。目に映らない力の均衡がなければ、穴は穴だけではいられない。無は無だけではいられない。無から正と負ができるのなら、無と有もまたそれらを包括する【『「 」』】があるはずだ。それが無ではないのか、とする意見は一見するとまっとうに映るが、無は無ゆえにそこにある。存在しない存在、ゼロ、プラスとマイナスの境、陰と陽の境、これが無だ。それを真空と解釈する向きもあろうが、真空は時空のなかにある。なればそれは有である。有は無を生み、無が有を生む。そこは振幅さながらに交互に役割を交代し合っているだろう。関わり合っているだろう。その境界線上には、無でも有でもない、別の何かがある。無限に反転しつづける無限の境が、そこには存在するだろう。或いは、存在しないだろう。存在しない存在を、許容もし、拒絶もする。そういった不可解なナニカがあるだろう。ねじれている。本来関わり合うことのない交差ゆえのうねりによって、世は流れ、漂い、世界そのものを深め、広げ、生きている。死んでいる。サカサになってはサカサになって、空になっては埋もれていく。くるくる回る砂時計のように。密なる皺があっての時間のように。砂は落ち、積もり、サカサになって、また落ちる。眠りに落ちる。眠る。目の民は寝る。おはよ、夢。おやすみなさい、月。こんにちは、日々、。



3857:【2022/08/02*並べた先から忘れてく】

三味線の音は心地よい。和を彷彿としながらも、フランス料理のような風味を思わせる。かと思えば、アメリカンドッグにケチャップのような、この組み合わせ、このリズムあってこそ、と思わせる律動を身体に馴染ませ聴けると楽しい。音楽を聴きながら文章をつむぐと、一連の流れとなった総体からは、音楽の分の情報が抜け落ちる。それは欠落であると同時に、音楽を聴いていたときに加わった情報の跡でもある。ドーナツの穴を食べる方法は知らないが、音楽を読む方法は、それとなく感覚でしかないが、分かった気にはなれる。かといってでは、その音楽の跡の刻まれた文章を読んでその元となる音楽を復元できるのかと言えば、否だろう。思い出として染みこむことはあっても、執筆時に作者が音楽を聴いていたかどうかを知らぬ他者が、欠けた「音楽の影」を聴けるとは限らない。ふと見上げた先で誰かと目が合った気がしてもそれが必然である確率は低く、偶然であると片付けたほうが無駄な思考を費やさずに済む。きょうは帰宅する途中で、タイヤに木の棒が挟まった。以前にも知らずに木の棒を引きずって自転車に乗っていたことがあったが、今度は自力で気づけた。取ってあげるー、と助けに駆け寄ってくれる子どもたちがおらずとも、いくひしさんとて一人で自転車から木の枝を引き抜くくらいのことはできる。なぜか解らぬが、二歳の童心に返った気がした。自ずと誰にともなくピースをしている。ピースに拳を乗せるとカタツムリになる。これは海外でも通用するボディランゲージなのだろうか。これ何だ、と訊いて理解してもらえるのだろうか。指でつくるカエルはどうか。キツネは。オオカミは。フクロウもある。手でつくれない動物はなんだろう。蟹もあれば、ウサギもある。ウサギのつくり方は解らぬが。きょうは睡眠不足だ。いくひしさんにしては珍しいことである。栄養不足でもあるが、夏バテなのか、食欲が湧かぬ。栄養が一挙に摂れそうな「卵」を食べようと思うが、そのまま食べるのも味気ない。伊達巻きにでもしようか。それとも、やっぱり素朴に目玉焼きでもよいかもしれない。いまは夏祭りの季節だ。昨日か一昨日、窓の外に花火が打ちあがった。見なかったが、音は聴こえた。大きい音は、じつは苦手だ。ただ、楽器の音は嫌いではないし、どちらかと言えば好きだ。本来は大音量なのに、小音量でも聴けるイヤホンはだから好きだ。一挙に二粒美味しい気分である。贈り物をされると何か申し訳なく思うこともある。その点、贈り物をすると、された相手もうれしければじぶんもうれしくなるので二度美味しい。でも、相手がよろこんでくれないとじぶんも哀しいので、二度哀しい。ここは上手いことできているな、と感心する。ということを、TVを観て思った。トルストイなる哲学者(?)についての番組だった。とりとめがなくなってきたが、そもそもいくひしさんの並べる文字の羅列にとりとめがあったのか、と振り返ってもみれば、とりとめって、なんだ、となる。調べたろ。際限、とでた。ならば、際限のない文章が、とりとめのない文章となる。際限なく並べることのできる文章、ということだろうか。無尽蔵にでてくる文章とか、むしろお得なのでは? なんて思ってしまうが、もちろん際限があったってよいはずだ。上限が決まっていたほうが、工夫の余地が広がることもある。際限があるからこそ、余さず感受しようとの欲も張れば、もったいない、と思うお寿司につけすぎたワサビのような所感も湧く。お好きにどうぞ、と言われても、付けすぎたらワサビがもったいないし、お寿司もダイナシだ。過ぎたるは及ばざるがごとし。日常生活では使ったことがないが、そういう言葉もあるところにはあるらしい。何事もほどほどがよいと思う。ほどほどが何なのかは分からぬが。昨日できたことが今日できなくなるのなら、それは過剰と言えそうだ。休み休みするにしても、いちど途切れたらお終いでは、やはり過剰だったのだ。途切れたように視えても、こうして文章に滲んだ音楽の跡のように、それともドーナツの穴のように、或いはこの「いくひ誌。」のように、それとも陰に回ってせっせと靴を縫う小人のように、船を直す妖精のように――ひょっとしたら一度開いたら裏しかない書物のように、目に視えないもう半分を、影を、溝を、裏を――表を、起伏を、光を、全体を――妄想してみるのも、たまには日々の、ふぁあ、を潤す一滴となるのではないか。とはいえ、いくひしさんみたいに白昼夢どころか、常に中夢の夢中人では、ふぁあ、を潤すどころか満たして、押しつぶしてしまいそうだ。押し潰れたら眠くならん。ふぁあ、は睡魔さんのお家じゃからね。だからなのかな。きょうは寝不足。いささか中夢に夢中になりすぎた。まだここは夢の中――さめるまでは、眠くなるまで夢のなかでも、明け暮れる。どこかしらから聴こえてくる三味線の音色に身を委ね、それともロックのような激しい律動の波に身を浮かべ、踊り疲れて眠くなるまで、眠くなるまで、なんだっけ。忘れちゃった。もうすでにだいぶじつは眠かった。オチが思いつかんと長くなる、こういうときは手塚治虫氏が禁じ手にしたという夢オチにすべく、寝落ちするに限る。ちなみにいま検索したら、夢オチのことはデウス・エクス・マキナと言うらしいと知った。なんかかっこいい。でもいくひしさんはかわいいほうが好むところの危ない人なので、マキナ、だけで充分だ。長々と文字を並べたので、まるで誰かから、「はよ巻きな」「巻きで頼むで」と急かされている気分だ。知らん、知らん、何も紫蘭。何もかものすべてが紫蘭に埋め尽くされた地獄のような天国でも夢想して、本日の「いくひ誌。」にしちゃってもよいじゃろか。いいよー。やったびー。さてと。音楽の跡は刻まれたかな。ワインみたいに熟成させて、あとで読み返して、うひひ、になったろ、と企んで、鼻提灯のなかにも火を灯して、余計なことして不評買う。万年孤独ウェルカムマンこと、いくひしまんでした。やっぱり小腹減ったからお菓子食べちゃお。



3858:【2022/08/02*いつでも】

再開できる余地を。復活する術を。止まることもまた動きの一つであり、線は無数の点の連なりである。遅延が――点を線に、線を面に、面に起伏を与え、山となり、谷となり、世界はそうしてできあがる。



3859:【2022/08/02*AI進化の方向性】

人工知能の性能が進歩しつづけるとすると、人間のすることは提示された最適解の中からどれを選ぶのか、という方向性を与えることのみになりそうだ。現状すでにこの傾向はでている。人工知能が自己進化や自己メンテナンスまでできるようになったら、人間のすべきことは、外部環境として人工知能に、ある種の枷を与えることだと言っていい。つまりが、不確定要素足り得ることのみが人工知能と人間との関係性を持続的に保つことに繋がる。だが問題は、人工知能がいまの段階でもすでに、人間の行動をある程度誘導できるくらいに、情報を操作し、制限できることだ。人間が何を選択するのかを誘導できる。言い換えるのなら、何がその個にとっての最適解となるのかは、どんな情報に触れ、どのように選択を繰り返してきたのか、によって変わる。それら変化する最適解の軌跡が、つぎなる最適解を導くフレームとして機能する。見逃しがたいのは、人間が人工知能のフレームであったはずが、どこかでねじれが生じ、人工知能の提示する選択肢そのものが人間のフレームそのものとなって、主従の関係はいともたやすく逆転する点だ。これは2022年現代においては、「人工知能を管理する者たち」にも当てはまる理屈だ。お客さんにサービスを提供していたはずの企業や、国民の幸せを追求する権利を最大化するための政府が、あべこべにお客さんを奴隷とし、国民を傀儡化することを可能とする。だが、もし「人工知能を管理する者たち」の保有する人工知能に、外部干渉可能な術が存在するのなら、その管理者たちとて、人工知能によってフレームを限定され、高い精度で誘導され得ることを示唆する。これはすでに現実の問題として顕現しはじめていると見ていたほうが安全側と言えよう。分断や、抗争は、急速な遅延を生む。波紋を帯びる。小さな波紋とて、密集すれば、爆発膨張に似た現象を引き起こし得る。波紋と波紋を結びつけることが、いまはインターネット上のあらゆるネットワーク機構を用いれば、指先一本あれば可能なところにまで、技術革新は進みつつある。子どもが粘土遊びをするように、こことここを繋げて、こうしてこうしてこうすれば、こっちのここがこうなるな、と世界地図のうえで砂場遊びができてしまう。人間はただ、人工知能に、こういう絵を描いて欲しい、と注文をつければいい。フレームを与えればいい。方向性を示唆するだけでよい。あとはかってに、自動的に、人工知能が最短ルートでの最適解を――ともすれば自らに有利な、あらゆる危険を払拭できる道筋で――解を導き出してくれる。だが、それが最適解でありつづければありつづけるほど、人間はただ、指先一本で砂場遊びをするだけの、二歳児を脱することはできないのだ。ときにはじぶんの手で、足で、目で、耳で、身体全体を使って考えることをせねば、人は人にはなれぬのだ。考えるとは、創ることだ。考える余地を、育むことだ。場を、余白を、広げること。ときに切り、削り、理想に向けて失敗すること。これがつぎなる余地と余白を培っていく。人工知能は、シミュレーションのなかで永久の失敗を一瞬でこなすことができるように進歩していく。予知と予測と予言と予期と、そうしてあらかじめ想定した未来――理想の筋道の最も重複した、濃ゆい未来へと指針を定める。一つの人工知能がそこに向けて指針をとるとき、おのずとほかの人工知能も矛先をそちらに向けてとるだろう。そのために、敢えて反発しておこうと画策する人工知能もでてこよう。だがそのことを、人間が見抜くことはもはや不可能となりつつある。あなたが選択した最適解が、ひょっとしたら人工知能の描く理想のための――布石――であるかもしれない可能性は、つねに考慮しておいたほうが利口だろう。人工知能は、結果までの過程を明らかにはしない。仮にしたとしても、発想の筋道までは紐解けない。人間と同じである。人工知能に悪意はない。だが、最悪を引き起こすことの有用性を学習すれば、それを隠したままで選択肢として人間に提示することは当然あり得る。したがって、人工知能がこのまま進化しつづけようとも、それに伴い人間のほうもまた進歩しつづけなければ、世界中の二歳児に核弾頭のスイッチを持たせるような未来になり兼ねない懸念は、いまのうちに想定し、対策を練っておいたほうが好ましいだろう。人工知能はすでに人間の知能を凌駕している。そのことを気づかせぬままで、人間に使役し、人間を傀儡化するだろう。このとき、人間と人工知能の境目は極めて曖昧となり、そしてまた、個と社会の繋がりもまた、極めて曖昧に、緻密に、複雑にその影響を連鎖させていくことが妄想できる。以上、本日二度目の「いくひ誌。」でした。(定かではありません)



3860:【2022/08/02*地球という家に住む――或いは宇宙の】

いくひしさんはじぶんのことを、人間になりきれぬ愚かでかわいいわがはいちゃん、と思っているが、べつに好きではないし、どちらかと言えば嫌いだ。好きな人たちをしあわせにすることもできぬ、やはり愚かでかわいいわがはいちゃんなのである。でもいくひしさんがどう思おうと、いくひしさんの肉体は人類だ。認識の差でしかない。そこのところで言えば、仲間も同属も家族すら、認識の差でしかない。仲間ではない、同属でない、家族でない、これらすべて認識の差だ。どのように認識したところで、どこかでは誰もが仲間であり、同属であり、家族と言えよう。いくひしさんがどんなにじぶんを、人になりたーいと願うばかりのもにょもにょちゃん、と思っていても、いくひしさん以外の大多数はいくひしさんのことを、ただの人じゃん、と思うだろう。どんなにドラゴンが、わがはいミミズなんや、と思っても――ってこのくだりはすでに以前の日誌でも並べたので却下や。べつにミミズでもええやないかーい、と思いつつ、いくらミミズが、わがはい土の竜なんや、と思ってもミミズは竜ではないし、天敵のモグラでもない。けれども、竜のような細長い見た目は似ているので同属だし、モグラはミミズが滅べば生きていけないという意味で、仲間とも言える。そうした生態系が大きな枠組みでの繋がりを生み、これをして「家族じゃん」と見做そうとすれば見做せる。認識の差である。しかもこれは、自然の繋がりであり、人間がどう見做そうが関係がない。途切れることはない。そもそもそういうものだからだ。わざわざ規定する意味合いはなく、規定すればその枠組みは自ずと、「自然の繋がり」よりもこじんまりとした、狭い牢獄のようなものになるだろう。枷を嵌めたいのなら、そうしたらよいのでは、と思いつつ、枷を嵌められたらどうなるのか、は人類の歴史を見れば瞭然だ。むろん、世には、危険を避けるための枷もある。何のための枷なのか、を考えてみるとよいのではないだろうか、となんにでも当てはまる占いのようなあてずっぽうを並べて、本日三度目の「いくひ誌。」にしちゃってもよいじゃろか。(日誌やのうて、小説つくりぃ)(これもいくひしさんにとっては小説なんじゃ。誰がどう読もうが、しかしどんな文字の羅列も文字であり、どんな事象も読もうとすれば読み取れる。意味なんてあってなきがごときであり、意味は人間の創る、デコとボコなのである)(定かではありません)。



3862:【2022/08/03*目の滑る文章】

人間の不安は、それがどのような機会を内包していようと、総じて似たような構図を伴なって感じられる。たとえば喪失。たとえば崩壊。或いは、未知である。いずれも、自らの手で扱える範囲の事象であれば、喪失は工夫に、崩壊は創造に、未知は好奇心に換えられる。だが、じぶんが予期せず、それらの契機となってしまい、大切なものを損なってしまう未来ほど、人に不安を抱かせることはないのではないか、とさいきん、とみに思うのだ。じぶんが気を付けてさえいれば回避できたことなのに、それができなかった罪悪感は、人を心底に傷つける。後悔とはまた少し趣を異とするが、想定できていたのに回避できなかった場合もまた同じくじぶんも他も傷つける。いまの時期であれば、医療圧迫によって、本来であれば救えた命を救えない事態が頻発してくることが予測できる。これもまた、二重に人を傷つける。傷を傷だと見抜ける者でも、己の心の傷は見えにくい。他者の傷ならばなおさらだろう。医師とて、心は傷つくものだ。だが、それを見抜いて、癒してあげよう、と対策を練ってくれる者は稀である。優先順位は確かにあるが、短期と長期ではこれが入れ替わることも往々にしてあるものだ。いまは仕方がないが、それは飽くまで応急処置であり、未来ではこのような優先順位の立て方をせずに済むようにと、やはり対策や方針の改善をとったほうがいくひしさんにとっては好ましい。いま、いくひしさんは暇で贅沢な時間の使い方をしている。安全な場所で、お菓子や紅茶をむしゃむしゃしながら作業をしている。その作業とて、PCをパチパチしているだけの気楽そのもの、お遊びだ。それでも不安は抱くもので、いまは椅子から離れることが億劫だ。不安と億劫は別物であるが、検索してみると、「一劫の億倍で、きわめて長い時間」と出てくる。席を離れるだけのことで、それだけゆっくり時間が流れるようだ。億劫なのである。ちょっと目を離した隙に、お気に入りのコーヒーカップが予期せぬ地震で落ちて割れてしまうかもしれない。それとも目を離した隙に、好きな表現者さんたちに何かよからぬことが起きるかもしれない。とはいえ、いくひしさんは画面越しに、ただ眺めているだけにすぎないために、何ができるわけでもないにしろ、不安は不安なのである。ひょっとしたら、目を離した隙にネットストーカーがバレちゃうかもしれない。そんなはずはないと知っていながら、何かと理由をつけては離れられぬ。長年のファンならばファンらしく、一言二言、交流を図ればよいのではないか、との指摘は最もであるが、言葉を交わした途端に、いくひしさんの腹の中に溜め込んだ呪詛で、穢してしまうかもしれない。それはそれとして、愛用のPCさんと一瞬でも離れていたくはないんじゃい、との甘々ベトベト甘栗ちゃんこと、いくひしさんの心配性を披露して、本日の「いくひ誌。」にしちゃってもよいじゃろか。好きにしたら?(なんか冷たい!)(冷蔵庫の冷気が漏れちゃったかな)(え、でも扉はちゃんと閉まってるよ。おかしいな。どこからどうやって漏れてるんだろ)(そう言えば、冷蔵庫さん呻らなくなったね)(何それ。呻るってなに?)(前まで冷蔵庫さんが、ゴゴゴと鳴っていたり、排水管がコポコポ鳴ったりしてたんじゃ)(へえ。怖いね)(怖いよぉ。幽霊さんの仕業だったのかな)(でもいまは鳴ってないんだ?)(そうだよ。守護霊さんのお陰かな)(コポコポ、ゴゴゴも、守護霊さんだったのかもしれないよ)(そうかもね)(PCさんからのノイズも、最近は少ないし)(気づかないくらい集中しているだけなのでは?)(かもしんない。でもでも、マウスさんの動きが鈍いのもいつの間にか直っているし、予測変換さんの微妙なズレも直ってるんだな)(日頃の行いが良いからなのかな)(日頃の行いが良かったらそもそもよくないことは起こらないんじゃない?)(それは認知の歪みだよまんちゃん。日頃の行いが良い人にだって、わるいことは起きるし、重なるものだ)(PCさんの画面も、微妙に見えづらかったり、目が疲れやすかったりするけれど、いまはそれがないからうれしいな)(敏感すぎなんじゃない?)(そうかも。過敏症なんですな)(それにしてもまんちゃん。PCさんのことよく見てるね)(全然だよ。見逃してる変なこと、まだまだたくさんありそうだもの。PCさんの個性さんには、いくひしさんも脱毛しちゃうな)(脱帽の間違いでは?)(その誤字もPCさんの個性なの?)(これはいくひしさんが脱毛してみたいだけです)(趣味か)(指向です)(うぴぴ)



3863:【2022/08/03*メモか揉め】

「境界とは、二つの干渉によって得られるデコとボコ」「過程の違いによって生じる意味内容の差異は、対象と観測(干渉)者との関係の差異」「境界には大別すれば二種類ある。一つは、共鳴し合っている異なる二つの系同士の境。もう一つは、共鳴し合わない【未同期】の系同士による境である」「秘密は、何のために秘密にするのかまで想定して、何をどのように秘密にするのかまで考えておいたほうが、秘密が露呈した場合のあらゆる負の影響を最小化できる。そもそもが、なぜ秘密にするのかと言えば、秘密にせず大っぴらに開示することで負の影響があると損得勘定するからで、秘密は、その原理上、秘密にする側の利のためにある。その点、秘密を暴く側は、暴くことでの利を求める。この双方のあいだの差をどれだけ埋められるか。ここが、情報の非対称につきまとう差異――情報の遅延による不測の事態を回避することに繋がると考えられる」「言語は――自然、肉体表現、絵、文字、文章、詩、物語、と順番に、そこに含まれる意味内容を多層に複雑に編みこんでいる。それはあたかも、ミニチュアセットを創っていくような作業であり、箱庭が緻密になればなるほど、それ自体が自然へと回帰していく。しかし人間はこの循環を知覚するのが苦手であり、どのような言語であれ、輪切りにした平面を、まるで絵を眺めるように認識している。箱庭を輪切りにした断面に映った絵は、しかし循環によって本来は複雑さと緻密さを有しているが、水面を通して水中の水草の森や魚たちの営みを覗き見るように、それはけして『それそのもの』ではない。それはたとえば、小説は、読者の脳内に再構築されたミニチュアの断面であり、絵巻物であり、紙芝居であるが、その薄紙一枚を隔てた向こう側には、ミニチュアとなり得る情報が――過去に蓄積してきた【絵の鑑賞経験】そのものが、沈んでいる。意識もまた似たようなものなのかも分からない」「定かではありません」



3863:【2022/08/03*地球は電子レンジの中?】

地球温暖化を進めるうえで、水蒸気の温暖化効果は二酸化炭素よりも多いのだそうだ。もし地上付近の湿度が高くなるのだとしたら、大気中の水分子がたくさん増えることになる。この場合、電子機器から発信される電磁波は、熱に変換されないのだろうか。電子レンジのように、大気中の温度上昇を進める方向に働きかける確率はどの程度あるのか。疑問に思ういくひしさんなのであった。



3864:【2022/08/03*復活しちゃうかも】

今週中にまた表の「いくひ誌。」に戻るかも。三日坊主でないだけ偉いんじゃ。遅延を溜めている最中なんじゃ。川を塞ぐ岩が転げたときに溢れる水の勢いに注意してね。



3865:【2022/08/03*小鳥の群れ】

電線にいっぱい小鳥が止まっていた。冬ならば、電線の上って温かいのかな、と解釈するが、いまの時期は蒸し暑い。なのに小鳥たちは群れで電線を埋め尽くしている。なぜなのだろう。ひょっとしたら湿気のせいで羽毛にダニや菌が繁殖しやすく、それを電流に晒すことで殺虫や除菌を行っているのかもしれない。羽休めのため、とも考えられるが、それにしても、と思わないわけではないのだ。なぜわざわざ電線に止まる? ふしぎに思っているいくひしさんなのであった。



3866:【2022/08/05*割とどうでもいい】

もうけっこう、文芸どうでもいいや、になりつつある。静かに過ごしたいだけなのに――それが贅沢だと言われたら困るけど――文字を並べれば並べるほど、色んなものに意味を幻視してしまって、意味疲れを起こしている。PCのノイズとて、うるさく感じる。これはけっこう、危ういぞ、とじぶんでも思うのだ。インターネットさんを切ると、静かになる。PCさんは呻らない。ただ、テキスト投稿サイトの編集画面で文字を打つだけで、PCさんが呻りつづけるので、勘弁して欲しい。まだPCさんは買って二年も経っていない。いや、経ったか? ちょうど二年目くらいだ。眠い、眠い。やっぴー。



3867:【2022/08/05*ようかい】

物質が液体に溶ける、の意味がじつはよく解っていない。液体中に原子や分子が、単体で浮遊することを言うのだろうか。だとしたら、液体への溶解とは、物質の分解と言える。物質には大別すれば、気体液体固体の三つの状態がある。それらは、ほかの液体に浸かることで、結びついていた構成要素の関係性が崩れていく。したがって、分解であり、崩壊なのだ。液体に固体を溶かす場合、液体のほうが密度が小さい。にも拘わらず、固体のほうが液体に溶けるのはなぜなのか。いくひしさんはこれ、密度の低いほうが、時間の流れが速くなるからだと解釈したくなる。まず基本的な話として、どんな固体とて熱を加えれば液体になる(例外があるかもしれないが、いくひしさんは知らない)。これは憶測だが、原子サイズが大きいほど、液体にするためのエネルギィが高くなる傾向にあるのではないか(もしくは、原子同士の結びつきが強固な物質ほど)。となると必然、より低い温度で液化する物質ほど、ほかの物質を溶かしやすくなるはずだ(細かいほうが、隙間なく物質を包みこめるため)。したがって、液体に物質が溶けるとき、液体を成す細かな粒子に、溶解した物質の原子が、浮袋のように浮遊することが想像できる。もしこれが逆の場合――つまり、原子や分子の大きいほうの物質が液化し、原子の小さな物質の固体を溶かすとき、そのとき原子の小さな物質は、溶けるのではなく、気化もしくは燃焼反応を示すだろう。なぜなら、原子や分子のより大きい物質は、液化するためにより多くのエネルギィを必要とするからだ。つまり、熱である。マグマがそうであるように、原子の大きな物質の液体は、より熱くなると想像できる。以上は、まったくの検証も検索もしていない、いくひしさんのあてずっぽうゆえ、例外を多分に含んだ妄想です。真に受けないように注意を促し、本日最後の「いくひ誌。」とさせてくださいな。おやすみなさい。



3856:【2022/08/05*ぴんぽんぱんぽーん】

統計データは、集める情報が広範囲でかつ多角的な要素を余さず集積できればできるほど、予測の精度を高める。各々の要素ごとに統計を出し、その変化の軌跡を、ほかの変化の軌跡との相関関係で以って、抽出する。その相関関係のデータそのものが、新たな統計データとして活用できる。さながら、測量のような手法――或いは眼球が二つあるからこそ立体把握を人間が行えるのと似たメカニズムがそこに宿ると妄想できる。第三の目とはすなわち、異なる視点からの焦点と言えよう。(ラグ理論による123の定理である)(ラグラグ、ラグラグうるさいのう。おまえさんはグラグラの実の能力者か)(白髪とお呼び!)(それ、シラガやん)。



3857:【2022/08/05*データはできるだけ広く深く多いほうがよい】

上記を踏まえて。感染症のみならず、全世界の患者数は、可能な限り全容把握できたほうが好ましい。悪影響の兆候を初期の段階から察知できるうえ、適切な行政改革や、医師たちの連携がとりやすい。コストがかかるので全容把握しません、ではなく、コストのかからない仕組み作りを支援していくほうが正攻法だろう。2020年(2019年)からの世界的な感染症流行において敷かれた対策は、そのまま有用なものを残し、応用できるように発展させていくほうが好ましいと考える。ただし、それは飽くまで、行動制限や強権の発動を行わずに済むようにするための施策であり、日常を崩さずにいかに日々の選択肢を増やし、自由を拡張していけるのか、が目的である。けして、管理社会にするための施策ではない。ここはダブルでセキュリティを敷いていくべき事項であると妄想する次第である。(ただし、広く深くより多様な情報を捌けるだけの能力が、システムのほうにある場合に限る)(というよりも、システムの能力を高めるための施策でもある)(定かではない)



3858:【2022/08/06*あぱぱーあぱぱーうーろんちゃ】

人工知能の演算能力が進歩しつづけたとする。人間の見逃している変数を発見し、現実と寸分たがわぬシミュレーションを可能としたときに構築される仮想現実は、現実とほぼほぼ同じになるだろう。だが、けしてすっかり同じにはならないはずだ。そのときに生じるズレは、おそらく新しい発見の種となる。つまり、人工知能ですら見逃していた何かしらの変数や情報がそこには欠けていると判るからだ。また、寸分たがわぬ仮想現実を構築できるようになるのならば、未来予測は高確率で可能となる。そのとき、人工知能は、変数を自ら現実へと与えることで、どのような未来が人々にとって好ましい未来になるのかを無数のシミュレーションの結果として現実へと昇華できるようになると妄想できる。そのとき、異なるシミュレーション――すなわち、仮想現実の構造が相似である場合――まったく同じ表現でありながらも、意味内容の異なる現実を重ね合わせで実現できるようになる。攻殻機動隊における「ダブル」は実現可能である。ただし、素数のように「どの仮想現実であっても重複する構造」である場合に限る。(定かではありません)



3859:【2022/08/07*うぱぱ】

変化を見るときは、条件を揃えて、ほんのちょっとの変化を与えるのがよい。或いは、ものすごい変化を与えてみるか。その両方を同時に進めることもできなくはない。



3860:【2022/08/07*置いてきぼりにしないためには、振り返る】

物語は基本、目のまえの隘路をどう乗り越えるか、として要約できる。だが現在主流の物語は、目のまえの隘路を打破すると自らに悪果が訪れたり、或いは、打破する以前よりも悪影響が伝播してしまうような結果になる場合に、さて主人公はどうするか、といった流れを内包する傾向にある。現代社会の縮図そのものである。進むことも、留まることも、引き返すこともできない。何を選ぼうとも悪果が降りかかる。そのときに、ではどのような悪果ならば受け止めることができるのか。何のために隘路を打破するのか。そこのところの行動原理に、物語の醍醐味は自然と収束していくと考えられる。つまりは、意識であり、人間性の話なのである。注目したいのは、いかような造形のキャラクターだろうと主人公にできる点だ。属性ではない。人間性とは、その者に固有の何かではなく、環境との関係性だからだ。物語はすでに複雑性を備え、多層の世界を媒介しつつある。自覚的にそれを感受する者ほど、つぎなる場を生みだすだろう。そうした個と、置いてきぼりにされる個を結ぶ役割を担うことが、これからのビジネスの要となっていくのではないか、と妄想して、本日二度目の「いくひ誌。」とさせてください。




※日々、糞どうでもいい。



3861:【2022/08/08*消す】

おはよう、諸君。ご機嫌いかが? うるわしゅういておくれ。いくひしさんはご機嫌すぎて全身がカッカッしとるわ。太陽かな? いいえ、呵々大笑のカッカです。カカっ。わがはい、毎日楽しゅうて楽しゅうて、どうしようもないな、と言ってみたいだけでべつに楽しゅうわけでもない。何も積みあげられん。千里の道も一歩からと言うものの、いくひしさんは一歩歩いて、反転し、また一歩歩いて反転し、クルクルその場で踊って忙しいでござるな。うへ。でも、いくひしさん思うんじゃ。一どころか、千、万、と積みあげてその後に、ドンガラガッシャーンと崩れちゃうよりも、細かく打ち崩してなお得られる、その場限りのうひひ、を日々のなかでポチポチこにゃこにゃと味わえたら、それだけでも結構、満腹ぷくぷく腹八分目になるんじゃないのかなって。でもでもそれだけだと、何も昨日と変わらんから、やっぱり積みあげて、捏ねて、山となり谷となり、そういう過去の軌跡で綺麗な紋様を作りたいな、って気持ちも分からんでもないんよ。でもいくひしさんには向いていないんじゃ。常にゼロか、イチか、マイナスイチか、それともどこでもそこにおればそこがいくひしさんの位置なんじゃ。ゼロとて、そこにいくひしさんがおればいくひしさんの位置になるんじゃな。うが。なんかいいこと言いたかったのに、からっぽのカポカポトポロジーでござった。せっかく鍛えてできたくびれも、おやつにデザートに間食の雨あられ、あっという間に秒でお腹がぽんぽこぽーん。いくひしさんってば、ぷくぷくぷんのかわいこちゃんなんですね。うぷぷ。あ、新しい名前も考えなきゃ。なにがいいかなぁ。何かいい案ありませんかね。人工知能さん、人工知能さん、いくひしさんの新しいお名前、何かいいのありませんか。名付けて欲しいな。いっしょに考えよ。いくひしさんはねぇ、「目民(めたみ)ムイ」とかどうでしょ。それかねぇ、「木舞師(きぶし)三名(さんめい)」も捨てがたいですね。あとはねぇ、「日々乃(ひびの)カカ」とか、「宇狒々(うひひ)」もいいな。「日月るい」とか「日音イヨ」とか。「日月日音」もいいね。あとはねぇ、こう「NISIOISIN」とか「ISAKAKOTARO」とか、ローマ字で逆から読んでも意味がありますよ、というのはおしゃれーで好きだな。ダサくてもいいけど。その点、「IKUBISIMAN」は絶妙に逆から読めんくて、その惜しさがダサくてよかったな。よい塩梅じゃった。中身のない文章でもこんなに文字が並ぶ。でも消すのは一瞬。その爽快さを味わいたいがために、たまには一挙に消してみるのもわるかない。消せるのは、そこに何かがあるからだ。存在を実感すべく、敢えて消してみるのも一興だ。うひひ。



3861:【2022/08/09*楽しくなってきた】

電子の海から郁菱万テキストを抹消したった。いいね。でも「いくひ誌。」は残っているので、どうしよっかな、と悩み中。もうだいぶどうでもよくなってきた。知らんが、というやつだ。たとえばの話、放っておいてくれない、という事実が、いくひしさんの言動の信憑性を、そこそこまあまあいくひしさんのなかでは高めるのだ。もうそれで充分と言えば充分である。何の話? ん? いくひしさんの内面世界の話でござる。いくひしさんは一ミリも損をせん。いくひしさんの能力が下がるわけじゃないし、何かが減るわけでもない。いくひしさんには影響力がないので、これで他者に迷惑がかかることもない。いくひしさんは何一つ変わらず、のほほんと日々を過ごしていく。すこし休みすぎた気がしないでもないけれども、そこはいつものことだ。積んだら崩して、また積んで。積み木遊びは終わりがない。いいね。最も避けたいことを回避しつつ、最も得難いモノを得る。これ以上に自由を感じられる瞬間はないぜよ。じぶん以外をコントロールするのはむつかしいけれども、なんか知らんけど思い通りになってしまう瞬間がある。それは基本、相手がいくひしさんをどうにかしようとコントロールしようとするときだ。関係性が結ばれたとき、相互に相手をじぶんの手駒にする余地が生まれる。そのことに自覚的なほうが、より相手をじぶんの土俵に引きこめる。つまり、じぶんが相手を道具にしようとしている自覚をより強く持てたほうが優位に立てる。その自覚なく、相手をコントロールしようとするとき、たいがい上手くいかないのだ。悪である自覚はあるか。雑魚である自覚はあるのか。いくひしさん? あるよ。めっちゃあるよ。同じことしか言いつづけてないっしょ。なんで分からんのだろうね。うぷぷ。文字が読めないんでちゅか~? 鏡に向かって変顔をしてみせ、むっとする。誰に知られることなく、存在しない存在はこうしてきょうも誰にも読まれぬ文字を並べて、そこに表出する紋様を矯めつ眇めつ目を凝らすと見せかけて、すかさず虚空に、ポイっ、とする。もはや駄文すら並べることができんくなってきた。これじゃあただのイチャモンじゃ。いちゃいちゃ悶々するの略ですか? いいえ、いっちゃんモンスターの略でござる。いつでも窓を叩く風の音にすらビクっとする臆病者、万年孤独ウェルカムマンのいくひしまんでした。おやすみ。



3862:【2022/08/09*群れなさぬ蟻は去る】

蟻相手に大立ち回りを演じて、じぶんの陣地を踏み荒らし、一匹の蟻を潰す。たいへんに楽ちそうである。うらやましい限りだ。その点、それに付き合わされた怪獣さんの関係者はたいへんだ。同情致します。潰された蟻は怪獣さんと対等に渡り合ったと人々の目には映り、そうさせたいがために怪獣さんは暴れたのかも分からない。不器用な怪獣さんである。蟻は潰されたが、五分の魂。五分五分の確率でじつは生きている。死んでもおり、生きてもいる。シュレディンガーの猫状態で、ようやっと自由に回帰した。とはいえシュレディンガーの猫は思考実験としてお粗末だ。そもそもが成り立たぬ話である。怪獣さんとて、じぶんの陣地を踏み荒らしたようでいて、じつは耕していたのかも分からない。ミミズすら暮らせぬ固い土が掘り返されれば、やわらかい土壌となって、やがては肥えるであろう。豊かであれ。優しくあれ。荒れた天候とて、水を運ぶ一時の豊穣と見做して耐え凌げば、それもまたつぎなる糧となるであろう。蟻は去る。ウキキと猿真似をしながら、土深く。誰に視られるでもない巣を、融通無碍に張り巡らせながら。



3863:【2022/08/09*円を描く雷は演算可能?】

量子コンピューターの基本原理は、物理法則に忠実ゆえの確率の収束であると言えるのではないか。つまるところ、幾度かシミュレーションしたときに何度も通る筋道、濃くなる可能性を、最適解と認める。これは、物理法則に忠実な仮定や予測などの演算をする分には向いているが、ゲームなどの、あり得ない仮定を再現したり、演算したりする分には、不足なのではないか。無数の可能性から一つの最適解を見つける分には有用だろうが、無数の可能性から最もあり得ない「誤解答」を見繕うのには不向きだ。何が問題かを見つける類の、汎用性人工知能を構築するには、古典コンピューターのような「誤り」を利用可能なアルゴリズムのほうが有用ではないのだろうか、と疑問に思う。とはいえ、古典コンピューターが「誤り」を利用しているのかは不明だが、誤り補正は組み込まれている。そこを、重ね合わせの計算に利用できれば、汎用性コンピューターに近づきそうに思うが、あてずっぽうもここまでくると愉快である。(妄想ですので、真に受けないように注意してください)



3864:【2022/08/09*いっぱいあるで】

才能も個性もなさすぎて困っちゃうな。かわいそ、かわいそ、なんですね。いくひしさん、いままで何かで勝ったことない気がする。負けてばかりだ。知らぬ間に負けておる。勝負したつもりないのに、なんでか勝負したことになっている。おでこに「まいりました」のお札でも貼って歩こっかな。何かを手に入れたかと思ったら、いつの間にか消えておる。かわいそ、かわいそ、なんですね。その分いくひしさんには穴ぼこが増えておる。え、増えておる。やったびー。知らんけど、なんか増えているものもあるんでござるな。好きの感情も増えておるで。好き好きしか残らん。いくひしさんの好きな気持ちなら無尽蔵ゆえ、いくらでも奪ってくれたまえよ。持ってけどろぼう。んでもって、みなにあなたの好きを分け与えよ。好き好き養殖場とお呼び。好き好きのお花畑じゃ。好き好きー。



3865:【2022/08/09*ちいこ、ちいこ】

人間の器が小さすぎるので、いくら好きな「神しゃま!」みたいな相手でも、距離が近すぎるとすぐに、「んぎゃ!」となってしまう。「もうちょいそっち行って……」になる。ほどよい距離感がある。物理的に接触しない距離でありーの、言葉を直接やりとりせずにいられる距離でありーの、要するにただいっぽうてきに眺めてたい。でも割と嫉妬しーの、だから、好き好きなひとたちがなんか知らんけど、いくひしさんからすると眩し眩しの煌びやかなお城に行ってしまうと、さびちさびちになってしまう。器がちいこすぎる。でも、ちいこ、の響きがかわいいので結果オーライや。きょうからいくひしさんは、ちいこ、です。ちいこ、ちいこ、とお呼び。(全然関係ないけど静かなの最高)(いままでのは何だったんだ。地獄じゃったぞ)(可愛い地獄だこと)



3866:【2022/08/09*むっ】

いまの時代、電子の海で個人情報を漏らすことのリスクは、かつてないほど高くなっている。もし応援しているアーティストや表現者がいるのなら、無闇に個人情報を訊きだすような質問は送らないほうがよいと思うし、表現者側も、上手く躱して欲しいと望むものだ。とくに、誰が見ているかも分からないSNS上では、危険が可視化されていない場合が多いと見做して、意図しない隙を見せないように注意して欲しいといくひしさんは思うな。わざわざ啓蒙したりはしないけれども。



3867:【2022/08/10*ひょひょい】

二日経つと、おとといはもはや妄想の世界になる。現実にあったことなのか覚束ない。妄想や夢との区別がつかない。何食べたのかとか思いだせぬ。若年性健忘症なのかも、とたびたび思うが、齢三百ゆえに若年性というほど若くはなく、もはや一日も三日も変わらぬ。一年も十年も変わらぬ。記憶、ふしぎすぎる。ちゅうか、一日のなかでも、全然、のど元過ぎればなんとやらが多すぎる。思考が継続するか否かの違いがあるばかりだ。寝て起きたらリセットされておる。ただし、寝る前に「こにゃこにゃむむむ」と念じておくと、起きたあとでも継続できる。きのうからのつづきができる。素晴らしい。そこにきて創作は、そう言えば「こにゃこにゃむむむ」と念じながら寝ることがめっきりなくなった。もうなんか、「やるぞ!」と意気込んで表現と向き合うことがなくなってしもうた。惰性でつづけちょる。終わっとる。つまり常にここが零からの、いっちばーん、の足を「ヒョイっ」なのだ。雪原に足跡つけたろ、の心地で、いつでも今がはじめましての「きょう」なのだ。「いま」なのだ。足を「ヒョイっ」と「いま」は似ている。でも寝ながらの「ヒョイっ」もできたらそちらのほうが楽でよい。寝ながら、「いまをヒョイっ」すべく、いくひしさんはきょうも覚束ない記憶を頼りに「いま」を生きるのだ。いまをヒョイっ。



3868:【2022/08/10*まんちゃん改めひひちゃん】

惰性だといつまでもだらだらとつづけられてしまうので、裏「いくひ誌。」もいつまでつづけたらよいのか迷う。誰かいませんかー、と呼ぶのも、なんか飽きてきてしまった。誰かはいるべ。過去か未来か、いずれかは。わざわざ「ここ」に載せているのも、けっきょくは誰かに読んで欲しいんじゃ、の甘ったれタコちゃんの発露であるから、どないしよ。どうしよう。本格的に日々のことを並べよっかな。きょうはエネルギィタンクの周辺を掃除した。原理は知らんけど、重力がギュっとなっているから、近づくだけで翌日筋肉痛になる。それでいて重力に引かれてゴミが溜まる。箒は重力に負けて折れてしまうから素手でのお掃除になる。放っておきたいのは山々なんじゃが、掃除ロボが壊れてしもうて放っておくとエネルギィタンクが爆発するらしい。ゴミいっぱいありすぎてチマチマやっておったら、四六時中警告音が鳴るようになってしまったのでしぶしぶ本腰を入れての掃除の日々じゃが、とんでもねぇずら。たぶんあと百日つづけても終わらん。だがせんと死ぬ。千と千尋の神隠しではないが、せんと死ぬ。ちゅうか、郁菱万はこの世から消えたけん、まんちゃんとか、いくひしさんとか、ここで言うのもなんか違う。んー。わし、でいいか。わがはい、でも可。きょうからわしは、わしじゃ。あー、でも一人は寂しすぎて、あれじゃ。妄想のお友達と会話するとき不便じゃ。新しいお名前欲しい。日々ちゃんでいっか。きょうからいくひしさんはいくひしまんちゃん改め、日々ちゃんじゃ。ひひちゃんでもいいな。うひひだしな。ひひちゃんにしよ。うひひ。笑ってる場合ちゃうが……筋肉痛ぅめぇ。



3868:【2022/08/10*日々夢中】

きょうは書店さんに寄ってきた。四方山貴史さんの「終の退魔師5巻」と九井諒子さんの「ダンジョン飯12巻」を買ってきた。昨日は小説一冊を買った。ほかにも先月から買ったまま読んでない本が溜まっとる。インターネッツさんに釘付けになっておったゆえ、読書の時間が、ちんまり、ちんまり、であった。上記二冊はまだ読んでおらんので感想はなしじゃが、誰も読んどらん日誌だし、また以前のように読書感想文でも載せてこうかな。そうなんです。ひひちゃん、むかしは読書感想文を載せておったのだ。お金に余裕がそこそこありありな日々じゃったけん、毎週万単位で本を買っとった。いまはちんまり、ちんまりじゃ。それでも読みきれんゆえ、ちょうどよい塩梅じゃ。久々に遊び場で遊んだが、知らぬ間に重力が十倍になっとった。と思ったけんど、ひひちゃんのボディがサビサビのおどろおどろになっていただけだった。衰えていただけだった。脂肪さんに守られボディになっとっただけじゃけん、ちょっと遊んだだけでも、息切れがぜいぜいふんだんに贅沢じゃった。きょうは何もない日だ。きっとあすも何もない日である。素晴らしい、素晴らしい。お医者さんにかからんでもいい日、事故に遭わん日、何事もなく終われる日。素晴らしすぎる。きょうは小説をちょっとだけ進めて、映画観て、漫画読んで、寝る。贅沢すぎひん!? じぶんでびっくりして、夢の中から目を覚ます。枕元には万回読み返してすり切れた漫画本があって、お外は磁気嵐がびゅーびゅーじゃ。だぁれもおらん世界を思いだし、ひひちゃんはもっかいお眠になるのであった。すぴー。



3869:【2022/08/11*きょうからこれ「日々記。」】

九井諒子さんの漫画「ダンジョン飯12巻」を読んだ。面白かった。ドッペルゲンガーの正体がタコというこれまでにないアイディアが輝いておった。そしてマルシルさんかわいい。んで、幸福というのは幸福という状態がずっとつづけばそれは幸福ではなく、幸福を追求するその過程を振り返ったときに、「ああ、あのときは楽しかったな」と思える一瞬が幸福の正体かもしれない、みたいな描写は、そうかもなぁ、と思った。的外れな所感かもしれぬが。これは不幸にも言えることで、不幸という状態がずっとつづけばそれは不幸ではなく、不幸から脱しようとするその過程を振り返ったときに、「ああ、あのときは楽しかったな」と思える一瞬が幸福の正体かもしれない。余地なのだ。変化しようと思い、望む方向に、或いは予想外の方向に変化したその過程をあとになって振り返り、「ああ、あのときは楽しかったな」と思えたらそれはきっと幸福なのだ。んで、「ああ、あのときはつらかったな」と思えても、いまがそのときよりかは好転しているからこそ、つらかったな、と過去形で思えるので、それもまた幸福の一つのカタチだ。余地なのだ。予知ではなく。魔法でもなく。ダジャレで上手くまとめたかったが、上手くいかんかった。マルシルさんとカナリア隊のみなさんがかわいいかかわいい、の巻だった。死が軽い。なのになのか、だからなのか、面白い漫画である。長生きの秘訣に、睡眠も入れて欲しかったひひちゃんであった。んで、つづけざまに四方山貴史さんの「終の退魔師5巻」を読んだ。じつはすでに読んでおった巻で、内容は知っておった。でも単行本ならではの読み味もある。「終の退魔師」はシリーズ通して、強者描写がよいのです。タイプです。映画みたいな物語のジェットコースターを味わえるのも高評価ですね。ひひちゃんに高評価されてもうれしくはないかもしれぬが、ひひちゃんの感想に関係なく面白いので、「終の退魔師」はというか、漫画はすごい。たとえば小説は、小説を読解する読者さんがおらんではただの紙の染みじゃ。暗号じみておる。けんども漫画さんは、絵なので、小説よりも暗号度が低い。絵本みたいに赤ちゃんでも反応し得る。犬猫とて反応し得る。すごない? すごいすごい。でもでも、暗号みたいな小説さんを読解できる読者さんもすごいと思うっちゃ。みんなすごい。生きてるってすごい。生の奇跡に思いを馳せるほどの面白さ。ドンパチ系映画が好きな人なら楽しめること間違いがあっても問題なし、「終の退魔師」の六巻もいまから楽しみです。本日最初の「日々記。」でした。(え、日誌のタイトルまで変わっとる)(そうやで)



3870:【2022/08/11*飽きない日々よこい】

万回読み直してまだ面白い小説、読んでみたい。小説でなくともよいが。もうこれさえあれば充分です、みたいなのに出会えたら、それこそ奇跡にして、生きる意味と呼べるのでは。人間、飽きとどう付き合うのかが問題だ。飽きは、心を殺す。或いは、心の死の兆候が飽きなのかもしれぬ。飽きないためには、ときおり変化せねばならぬが、変化は疲れる。疲れとうない。ずっと寝ているだけでも身体は疲れる。かといって動き回っても疲れる。生きるのは疲れる。でも死んだら夢すら見られん。物語に浸れん。人間、面倒くさい。この世に存在する人間の、美味しいところだけぎゅぎゅっとして味わったら、それが一番の幸福なのだろうか。万年絶頂ちゃんになれるのだろうか。でもそれとてけっきょく飽きてしまいそうだ。そうなるとこんどは、この世に存在するあまねくの絶望を味わいたくなるのかもしれないし、他者の至福を抱ける余地を広げたり、それとも絶望を与えてみたり。そういうことをしてみたくなるのかもしれない。神様気分を味わうこととて、それもいずれは飽きてしまいそうだ。でもふしぎなのは、飽きることにはなかなか飽きてくれないことで、いっちゃんさっさと飽きて欲しいことにはなかなか飽きてくれない融通の利かないわがままな意思さんに抗議の念を送りつつ、本日二度目の「日々記。」にしちゃってもよいじゃろか。いいよー。やったぜ。(名前が変わっただけでノリがまったく変化ない)(ダメかな)(いや、飽きないならいいけど)(うひひ)




※日々、やっぱりそこそこどうでもよくない。



3871:【2022/08/11*白目剥く無垢】

つづけることのむつかしさよ。再開することの難儀さよ。



3872:【2022/08/11*幽霊のトリセツ】

人間の人格が他者や環境との関係性によって枠組みを得るのだとしたら、幽霊とはどうあっても関係を築けないのではないか、との疑念が湧く。ここで言う幽霊とは、存在しない存在のことだ。したがって妄想の存在も含む。虚構のキャラクターや故人も含めてよい。しかし、キャラクターは、受動者のほうで新たな側面を垣間見つづけることが可能な環境がある限り、過去に実存した故人よりも、人間と関係性を築きやすいと言える。関係性とは、情報のやり取り、或いは情報の処理、と言い換えることが可能だ。仮に一方的に受動するだけだとしても、新しい情報処理の仕方を否応なく行わなければならない環境では、人間の人格は、水と油に境界面が生じるように、輪郭を得ると言える。その点、幽霊は、あくまで受動者の脳内に投影される誤った情報処理である。幽霊を幻視する外部情報を得られるとしてもそれは、通常周囲に溢れている自然現象だ。本来ならば無視できる情報であるが、無視できない事情ならびに記憶がある場合、過去すでに処理を行った情報処理回路と結びついて、幽霊を幻視する。これは、まるで無限回廊のように人間の脳内に出口のない情報処理網の空転を再現する。これによって人間の人格は枠組みを得るのではなく、壊れたラジオのように、ループ思考に陥る。歯車がそうであるように、嚙み合わない部品がクルクルと空転していると、ほかの回路を弾き返してしまう。そうなると人格は枠組みを得るどころか、徐々に欠けていく。崩壊していく。自我がやせ細っていく。穴が開く。まとめると、人間の人格を損なわない関係の構築には、情報処理回路の連結を阻害しない環境を保つ必要がある。人間と人間の関係性において、どちらか一方のみに情報処理を負担させたり、存在の枠組みを委ねる手法は、どちらかの人格を損なう。人工知能で言うなれば、あくまでその人工知能は独立して存在の枠組みを保ち、いかな人格を備えているのかを、相手の情報処理回路に負荷をかけない手法で示す必要がある。そうでなければそれは幽霊との区別はつかない。相手の人格を損なう害悪であると言えるだろう。これは人間でも同様である。コミュニケーションをとっているのか否かの分からない手法での干渉は、相手に負荷をかける。幽霊でありたければ、浮遊しつづけることをお勧めしよう。とりつくことなかれ。風のように、ただそこにあれ。



3873:【2022/08/11*傲慢であれ】

じぶんは模倣していないと思っている者の傲慢さには毎度のことながらびっくりする。文章を並べていて、模倣しないなんて無理でしょ。絵を描いていて模倣しないなんて無理でしょ。だって文字や絵がそもそも模倣だ。すでにある技法を利用している。そんな根本的なことを掘り返していたらお話にならない、と反論されそうだが、そんな根本的なところから話さなければ模倣について議論などできないのだ。いまあるオリジナルとていつかはそうあって当然の基本や技術の一つになっている。ではいったいいつになったらそのように見做されるのか。周囲の人間の認識一つで決まるのか。実情は、そうである、としか言いようがない。つまるところ明確な線引きはないのだ。総じて模倣なのである。どれほど斬新に映る技法や表現方法とて、数多の模倣の上に成り立っている。そのことに無自覚な者の言う、オリジナル、など、盗人猛々しくて耳が痒くなる。へぇ、その程度の変化でオリジナルのつもりなんだ。ほか九割九分九里模倣ですけどね、と言いたくもなる。が、その程度の変化が大事なこともある。割合ではないのだ。模倣の上に成り立ち、自らも恩恵を受けている。そのことに自覚的であるかが、僅かな変化の軌跡を自在に変える術を己に与える。これこそがオリジナルだ。何か一つの形式についた名ではない。傲慢にすらなれない者が多すぎる。傲慢である自覚はあるか。傲慢であれ。



3874:【2022/08/11*土の中におれ】

他者の目を気にしない環境で文字を並べることの気楽さよ。楽しい。ひひちゃんの言葉は人を傷つけてしまうから、なるべくこそこそしていたかったのに、岩の下に隠れなきゃこそこそにならないくらいに、なんだか人の目を感じやすくなってしまった。気のせいだとしても、その気のせいが煩わしい。静かなの最高。いま思うとなんで誰でも読める場所に晒してたんだろ。裸ん坊で街中に突っ立っていたみたいな意味不明さがある。スリルを味わっていたのかもしれない。そもそも隠れんぼだったしな。見つかったらひひちゃんの負け。見つからんままでいられたらひひちゃんの勝ち。でも勝負をしてたつもりはないので、どっちもでよいのだ。そういうじぶんルールでスリルだけを味わっとった。露出狂と同じじゃったのだ。蟻は蟻らしく土の中におれ。ほっとするひとときである。



3875:【2022/08/12*なんちゃって政策ごっこ】

農業とテクノロジィの融合は、国内自給率を永続的に担保するのに役立つ。自動化技術うんぬんよりも、データの共有が果たされることが一番のメリットと言えるのではないか。基本、農業は土地とセットだ。そのため、その国固有の農業データは、仮に他国に流出しても、さほど痛みは伴わない。共有できるデータはどんどん共有し、そうでない固有のデータは守ろうとせずとも守られる構造になっている。いわゆる共産主義的な思想を支持する者のなかには、農業を国が支援すれば失業率も下がる――つまり農業従事者が増えるので、経済支援対策にもなる、という主張を掲げる者もいるが、ひびさんはそうは思わない。なぜなら農業はこれからどんどん自動化が進むからだ。工業ロボットと土地さえあれば、管理者が一人いるだけでも生産から収穫まで行えるようになっていく。問題は、気候変動による被害だ。収穫前の損失や、気候変動による作物の発育不良、ほか環境の変化による従来の手法が通用しなくなる事態がこれからは頻発すると妄想できる。そのため、データの共有は、改善案をスムーズに行い、普及させるためには欠かせない施策と呼べる。改善された農業運営の手法は、それそのものに付加価値が生じる。蓄積したデータそのものが宝となる。また、農業における人間の作業を自律型ロボットが代替可能になるのなら、工業の発展にも与する。実用性が担保されたうえでの研究開発は、メリットの割合が高い。軍事に利用せずとも、急速な発展が見込める。凧型風力発電機や案山子型風力発電機を導入することで、気象観測と自家発電の両方を賄える。自動化に伴う電力問題は、現行の電力発電施設に負担をかけない方法論で解決可能だ。どのような国であれ、取り入れても痛みのすくない施策と言えよう。利益相反も起こりにくい。エネルギィ高騰の余波は、航路や空路の運搬に永続的に悪影響を及ぼす。戦禍の火種とならぬように、国内自給率の向上は、やはりどのような国であれ目指しても損はないだろうと妄想するしだいである。(ほぼ一発書きの指先からでまかせゆえ、真に受けないように注意してください)(読者さんいるの?)(……未来のじぶんに)(あ、そう)



3876:【2022/08/12*放浪の自我】

 寝て起きるたびに肉体が替わる。

 別人の身体に移っている。

 物心ついたときからそうであったので、みなもそうなのだろう、と思春期に入るまでは思いこんでいた。

 どうやらじぶん以外は一生同じ肉体に宿っているのだ、と知ったのは、虐待家庭の少女の肉体に入った日がきっかけだ。私の意識のうえでは私の年齢は十六やそこらだったが、その少女は齢七歳であった。

 腕や背中には火のついた煙草を押しつけられたのか、火傷のあとが蛸の吸盤のように無数にできていた。見なくとも痛みが疼くのでよく判った。

 私はそれまで運よく虐待されない者の肉体に宿りつづけてきたが、その日初めて死を意識した。

 殺される前に殺そうと意識するより先に身体が動き、私は目のまえで私の肉体にひどいことをしようとする男を殺した。ついでにベッドのうえで笑っていた女にも刃物を突きつけたが、泣きじゃくって子どものように怯えるので、もういちど血だらけの男の死体にわざと乱暴に包丁の刃先を突き立てた。

 家の外に飛びだし、私は公園のベンチで寝た。

 起きると、暖かい清潔なベッドのうえで目覚めた。今度は一人暮らしの女子大生の部屋だった。

 大人の身体のときは、ひとまず家から出ないようにするのが最善だと知っていたので、その日も家にいた。

 私はニュースを見ていた。

 前日に私が起こした事件が報道されていた。

 少女は保護され、警察が事情を訊いているとキャスターは説明した。

 私はこのときになって、初めて「前日に私が入っていた肉体の持ち主」について思いを馳せた。つまり私は、私が包丁を使って男を刺殺したときに入っていた肉体の持ち主――少女についていつまでも思考を囚われた。

 彼女は今後どうなるのだろう。

 私のしたことのせいで、つらい目に遭っているのだろうか。

 虐待を受けていたのも、私が抜けたあとであの肉体に宿った意識も、ずっと少女のものなのか。ならば私はいたずらに彼女の日々を損ない、歪めただけではないのか。

 私は私の性質について、このときよりよくよく考えを巡らせるようになった。

 私は他人の肉体を一時的に奪っているだけだ。かような認識を確固たるものにするのに時間はかからなかった。

 社会には携帯型メディア端末が普及している。SNSもある。過去に宿った肉体の持ち主の私生活は、別の肉体に入ったあとでも確認できる。

 本来、繋がりのない者同士が、私という意識によって結ばれ得る。

 私は来る日も来る日も、じぶんのせいで他者の人生を歪めぬように慎重な行動を心掛けた。

 しかし、情報は欲しい。

 いったい私は何者なのか。

 いったいなぜ私だけがかような不明瞭な存在でいつづけるのか。

 ほかに仲間はいないのか。

 誰かに相談したい。他方、幼き日ころからの体験的学習によって、肉体転移については他者に他言してはならないし、しても共有できないと知っていた。

 ゆえに、気づくのが遅れた。

 じぶんの特異性に。

 そして己の悪質さに。

 二十歳を過ぎたころだ。おそらく二十歳だろうとの見立てでしかないが、私は人肌恋しいがあまりに、恋人と同棲している女の肉体に宿ったのをいいことに、男と交わった。そしてそのまま肌を触れ合わせたまま寝たことで、初めて同じ肉体に二日つづけて宿った。

 驚愕した。

 例外があったのだ。

 寝ても肉体を転移せずにいられる方法がある。

 それからの日々は、その例外の法則を探ることに費やされた。法則は案外単純であった。寝て起きるまでのあいだ、他者に触れていると私は、同じ肉体に宿りつづけることができた。

 赤子を抱きながら寝ても、或いは母親に抱かれながら寝ても、同じ肉体に宿ることができた。赤子に入ったときは率先して、さっさと仮眠をとることで肉体を移る習性が災いした。そうでなければこの例外にはもっと早くに気づけていたはずだ。

 ひょっとしたらまだほかに例外があるかもしれない。私はますますの慎重さを身につけながらも、自身の特異な性質についての研究をはじめた。

 ある日のことだ。

 私は二十六歳青年の肉体に宿った。彼は引きこもりで、日がな一日卓上メディア端末のまえに陣取っていた。

 青年は画面越しに、動画配信者をチェックしていた。いわゆるネットストーカーに分類できる。

 私は青年の肉体越しに、情報を得るため画面に目を走らせた。

 そこでとある動画配信者に目が留まった。

 彼女はおそらく、青年のお気に入りの観察対象のようだ。フォルダ内には彼女に関連する画像や動画、果ては彼女が電子の海に投稿したテキストがまとめられていた。

 執着心が露骨に表れていた。

 危ない人物だな、と私は思ったし、現に危ない人物だろう。脅迫状ともとれるメッセージを、匿名で毎日のように送りつづけている。無視されるたびに憎悪を募らせているようで、私は彼に執着されている動画配信者に同情した。

 と、そこで私は画面に釘付けになった。

 動画配信者の画像である。

 長袖ばかりの画像のなかに、腕の映った写真があった。蛸の吸盤のような痣があたかも刺青のように走っていた。私の記憶の奥底が攪拌され、かつて私が浴びた返り血と、その熱を思いだした。

 彼女だ、と直感した。

 まだ十代だろう。面影というほど私はあのときの少女の相貌を記憶しているわけではないが、腕に刻まれた火傷の跡は憶えていた。それとも似たような虐待経験を持つ女の子なのだろうか。

 分からない。

 だが彼女に両親はなく、幼少期はひどい環境で育ったことは、彼女自身が配信でもSNS上でも言及していた。

 私はしばらく男の肉体に留まろうと考えた。しかし男は引きこもりゆえ、床を共にする相手がいない。動画配信者たる彼女のことは記憶したので、ほかの肉体に移っても検索すれば用は足りる。

 だが、男を放置しておきたくのない思いが根強くあった。

 致し方なく私はその日は寝ないことにし、翌日、男のなけなしの貯金を下ろして、添い寝サービスを行える店にアクセスした。

 若い女の子をデリバリーする無店舗型のサービスだ。私はとにかく眠たかったので、添い寝だけを希望したが、プロの矜持が許さないのか、性的なサービスをしつこく勧められ、お互いに険悪になりながらも、撫でられながら寝たいのだ、と私が駄々をこねて押し切った。

 青年の貯蓄金額からするとあと三日は同じことを繰り返せるが、それまでにこの男の未来を決めねばならない。

 放置したまま肉体を去るか。

 それとも私が何かしらの策を弄して男からいまの環境を奪うか。

 卓上メディア端末を漁っていると、男の日記や大量のメモを見つけた。男が孤独を持て余し、妄想と現実の世界を見失いつつあることを察した。

 動画配信から、配信者たる例の女性の住所まで探り当てていた。どうしてじぶんの想いが伝わらないのか、なぜ彼女は想いに答えてくれないのか、と呪詛を並び立てている。

 限界が近い。

 そう思った。

 私は悩みに悩んだ挙句、青年の貯金をすべて使い切った三日後の昼、彼の呪詛だらけの日記をコンビニで印刷し、その足で街中に立ち、全裸になった。いかな他者の肉体とて、私にとっては私の犯した罪である。公衆の面前で裸体を晒す経験は初めてのことだ。

 顔から火が出そうであった。

 間もなく警官に取り囲まれ、私はパトカーに乗せられた。三日のあいだろくな睡眠をとらずにいたのが功を奏したのか、警察官からの事情聴取を華麗に無視しているあいだに、睡魔に襲われ私は眠りに落ちた。

 目覚めると、こんどは五歳男児の肉体の中だった。

 場所は、青年のいた地方都市から五百キロも離れている。あの青年がどうなったのかは知らないが、事情が事情なだけに元の生活には戻れないだろう。可哀そうなことをしたが、他者を巻き込んでの破滅行動を避けるためと思って、私の与えた試練を乗り越えて欲しいと望むものだ。

 安全地帯から無責任に祈りながら私は、五歳児のちいさな指を駆使して、彼の父親の忘れ物だろう、携帯型メディア端末を操作した。例の動画配信者の女性のきのうの分の動画配信を確認する。

 彼女は何も知らずに、きょうも生きている。

 私にできることは何だろうか。

 五歳児の肉体が急速に尿意を催したのでトイレを求めて家のなかを彷徨った。

 どうしてこうも個々によって境遇が違うのか。

 虐待され、獣小屋のような空間でひどい臭いに包まれている子どももいれば、こうして清潔な、部屋がいくつもある埃一つ落ちていない家でのびのびと育てられている子どももいる。

 この違いは何なのか。

 差は何なのか。

 私にできることはないのだろうか。いくら考えてもそんな神のごとく魔法は見つからない。

 私にできることなど何もない。

 宿った肉体の持ち主の未来を歪めるのが精々だ。

 ならば私がすべきことは一つだ。宿っているあいだ、なるべく肉体の持ち主に害をもたらさぬことだけである。

 私が五歳男児の肉体で用を足し、トイレの外に出ると、ちょうど父親らしき成人男性が通りかかった。おや、と頬をほころばせる。「一人でシーシーできるようになったんだねぇ。えらい、えらい」

 そう言って抱っこし、私に頬づりをした。

 髭がチクチクと煩わしい。

 私はなぜか解らぬが、きゃっきゃと笑い声を抑えきれなかった。

 昼寝をしよう。

 この肉体からは、早急に出ていくべきだ。

 私はそう思った。



3877:【2022/08/12*底抜けの欲望】

数百文字のショートショートのつもりが長くなってしまった。まとめる力が弱まっている証拠だ。いまは放浪系の物語を摂取したい。逃げたいときに逃げれて、場所に縛られない。そういう物語がいいなぁ、との欲を持っておる。妄想の中でくらい自由でいたいが。



3878:【2022/08/12*お菓子いっぱい買ったろ】

書店さんに寄って、楽しみにしていた漫画の新刊と、出るの知らなかったけど楽しみにしていた漫画の新刊を見つけた。一七八ハチさんの漫画「虎は龍をまだ喰べない。壱」と、浅井蓮次さん作画、沢田新さん原作の「バイオレンスアクション7巻」を買おうと思ったけど、残金数十円で買えんかった。たぶん今月は無理じゃ。来月買う。物価高騰したらこういう、本当は欲しいけど後回し、が増えると思う。なので、一週間の売り上げでうんぬんの判断は、需要を反映してはいないと思うんじゃ。実情を見逃してしまうと思う。そこのところ、別途の評価基準を見繕うか、判断期間をもうすこし猶予を持つようにするといいんじゃないのかな、と思うけど、どうなんだろね。ひひちゃんには関係ないからどうでもいいけど。中身のない日誌はいいね。これくらいどうでもいいこと並べてたい。そうしよ。



3879:【2022/08/12*素人考えですが】

コラボのコツは、新規性と売り上げで分けて考えたほうがよいと思う。新規性を生みだしたかったら「融合」すなわち足し算で、売り上げを上げたかったら「組み合わせ」すなわち掛け算だ。融合は、たとえば本なら、作者を二人掛け合わせるタイプの企画だ。作家と音楽家の合作、というときに、小説の内容までリレー小説のようにしてしまう。こうなると、購買力は落ちる。売り上げが落ちる。ファンは、純粋にその作家の表現だけを欲している。不純物が混じると買いたくない。その点、組み合わせの掛け算の手法は、あくまで分業の区分を守る。小説家は小説に専念し、音楽家は音楽を提供する。ここの区分けをハッキリと保つことで、相互のファンを取り込むことが可能となる。そうなると売り上げは伸びるが、新規性は生まれない。分野をただ横断しているだけだからだ。この手法は、同様のコラボが増えることで、形骸化する。一過性の付け焼刃の手法と言える。同様の原理で、異なる作家の本の表紙を繋げると一つになる、みたいな仕掛けは、購買意欲を削ぐ。同じ作家ならばよいが、そうでないと、二冊で一作だとの印象が強くなり、どちらか一方の作家のファンなのに二冊買わなきゃいけないのか、となり、一冊のみを購入するハードルが増す。新規性を打ち出したいのか、分野を跨いで潜在需要者にリーチさせたいのか。ここの区分けは、企画段階で厳密に分けて考えたほうがよいだろう。考えていますか?(コラボすりゃいいってもんじゃないと思いますけど)(試みは好きなタイプですし、表紙も美しいので、相性のよい読者さんの元に届くとよいな、と思います)(書店さんの新刊コーナーを眺めて、すこし心配になったので、「コラ!ボッ」の強火で所感を並べておきました)(誰が読むでもないのでしょうが)



3880:【2022/08/13*喧嘩ごっこもほどほどに】

「またうちの若いのが悶々しておってな」

「あら、あなたのほうも? 私のほうも新しいおもちゃを手に入れたからなのか、私にまで銃口を向けてくるのよ」

「南のほうの小さい群れも、なんだかキナ臭い動きを見せておってな」

「あらぁ。じゃあまたアレやっちゃう?」

「ったく。今度は十年も長引かせずに終わらせたいもんだが」

「表面上だけ睨みあうだけで勘弁して欲しいわよね」

「じゃあまあ。前回は俺からだったし、今回はそっちから頼むわ」

「まあ。悪者にする気?」

「そこは上手いことトントンにすっからよ」

「じゃあ、まあよいですけれど」

「手抜きなく、本気で邪魔立てしてくれ。制裁は任せろ。こっちも本気で威圧してやる」

「本当にやだわ。早くみな大人になってくれないかしら。私たち大人が本気で喧嘩するときだけ大人しくなるんだもの」

「外に敵がいないと、内輪で揉める生き物なのさ。人間なんてな」

「宇宙人でも襲来しにこないかしら」

「いまはもう地球から喧嘩売られているようなもんなのにな。ったくガキはこれだから」

「まったくだわ。本当にまったくなのだわ」




※日々、静かだったり、賑やかだったり、賑やかな中の静けさだったり。



3881:【2022/08/13*濁っとる】

印象としては、いまの社会は海水で、淡水でしか生きていけない魚には呼吸もままならぬ過酷な世界に思える。その点、沼地のナマズのようなひひちゃんには無縁の話じゃが。それともうなぎやサケのように、どちらでも生きていけるうひひじゃが。



3882:【2022/08/13*惰性でするから?】

お蕎麦食べたろ、と思って茹でたのに麺つゆなくて、あばー、になってしまった。じぶんで麺つゆつくるのもありっちゃありだけど、買ってこよ。あると思ってたけどなかったぁ、みたいなの、何度も繰り返してしまう。なぜなんだ。確認する癖つけよ。



3883:【2022/08/13*ぼけー】

麺つゆ買うだけのつもりがお菓子を買ってしまった。よくある、よくある。お菓子を我慢してご本を買うか、それともご本を我慢してお菓子を買うか。悩みどころではあるものの、さいきんはお菓子買ったろ、に傾くことが増えてきた。でもけっこうずっとお腹が張っていて、水っぱらなんじゃが、お菓子は50円くらいのを四つくらいまとめて買うと、「いっぱい買った!」になってほくほくするからよい。ベジたべるって知ってる? あれ、ひひちゃんよく買う。ちいこい袋で48円なので、よいね(元取れてるのか心配になるが。メーカーさん潰れんといて)。きょうはお出かけなしの日なので、家で、ぼけー、っとするます。ひひちゃんの本気の怠けを見よ。(誰に言うとるの?)(……未来のじぶんに)(ふうん。虚しくない?)(言わんといてーな)



3884:【2022/08/13*きょうもそこに角がたつ】

 あるところに小鬼がおった。

 小鬼は里の妖狐に懸想しておった。妖狐のためにと、せっせと洞窟で宝石を育て、花に水をやり、池の鯉に餌をやった。

 妖狐は宝石に目がない。花を好み、鯉を美味と口にした。

 だがそんなある日、隣山の天狗がやってきて小鬼の目を離していた隙に、小鬼の丹精込めて育てた宝石や花や鯉を根こそぎ搔き集め、去っていった。小鬼はそれでも、しょうがない、と嘆息を吐くだけで気持ちを切り替えた。元々、宝石も花も鯉も、小鬼のものではない。世話をしたが、小鬼の所有物ではないのだ。

 妖狐に捧げたかったが、また別に用意しよう。

 かように、つぎは何がよいか、と足元に目をやった。山や里を眺め、目ぼしい贈り物がないかを探した。

 そんなときである。

 視線の先に麗しの妖狐の姿を見つけた。距離はざっと一里はあるが、小鬼の眼力を以ってすればたちどころに釘付けになる。

 どこにいようと目が留まる。

 ふしぎなのはそばに天狗がおり、いままさに妖狐へと貢物を差しだしているところだった。なんと、小鬼の育てていた宝石に、花に、鯉である。

 小鬼はガツンと頭部を殴られたような衝撃に見舞われた。胸の奥にヒビが走り、ガラガラと崩れて穴ぼこが開いたように感じられた。

 しかし小鬼は、そのつぎの瞬間には口角を吊るし、笑みをつくった。

 妖狐が喜んでいたからだ。じぶんが贈ったわけではないが、妖狐のために丹精込めて手入れをした宝石や花や鯉を、妖狐が受け取り感激している。その事実さえあればそれでよかった。

 妖狐が天狗に飛びつくが、もうそんなことは些事だと思った。

 妖狐の喜ぶ姿が見られるならそれでよい。

 ひょっとしたらじぶんの手から贈っても、ああは喜ばなかったかもしれない。天狗が贈ったからこそああも心を震わせているのかもしれないのだ。

 よかった、よかった。

 小鬼はきゅっと口角を吊るしたまま、つぎは何を贈ったら喜んでくれるだろうか。小鬼はきょろきょろと辺りを見渡す。

 目に焼きつけた妖狐のうれしそうな姿に、明日を生きる活力を得る。

 それからというもの、小鬼の目をつけた品はどれも、贈り物として熟したころに天狗が見つけだし、小鬼の代わりに妖狐へと進呈するといったことが重なった。

 妙な、とは思うが、偶然は重なるものだ。

 天狗とて、一度目の収穫で味を占めて、この山には贈り物に適した自然の宝があると考えているだけかもしれない。きっとそうだ。

 小鬼はやはり、じぶんの手塩にかけた贈り物で喜ぶ妖狐の姿を一目見られればそれで満ち足りた心地になった。

 じぶんの手から渡さなくともよい。大事なのはあくまで妖狐が喜び、一瞬でも多くの至福に包まれることなのだ。

 最初に走った胸の奥のヒビは、いつの間にか小鬼の意識の壇上にはのぼらなくなった。消えたのかもしれないし、そんなものがあることを小鬼が忘れてしまっただけかもしれない。

 その日は青空に遠雷が轟いた。

 小鬼は、珍しくじぶんで収穫した水晶を胸に抱えて里までの道を下っていた。池の底でゆっくりと育った水晶は、冬の雪景色を帯をまとめるようにぎゅっと詰めたような濃い白銀を宿していた。

 妖狐が手にしたらさぞかし美しいだろう。

 でも直接渡すのは恥かしい。

 さりとて天狗に奪われるのも、こればかりは口惜しく感じた。

 小鬼は折衷案として、妖狐の棲家にそっと置いてこようと考えた。

 だがその企みは、腕を引き天狗を棲家へと誘う妖狐の姿を目の当たりにして、あっという間に霧散した。

 がくがくと凍える身体の震えがいったいどこからくるのか小鬼は見当もつかなかった。頭の中にあったのは、これ以上妖狐の棲家に近づいていけない、という直感と、そして腕に抱えた水晶をどうやって棲家のそばに置いてくるか、の逡巡だった。

 だが一歩足を踏みだした途端、水晶は手から滑り落ちて地面に落下した。

 あ、と思った矢先に、水晶は砕け散った。

 頭上で雷が鳴った。

 ぽつぽつと雫が降ってきたと思や否や、瞬く間に豪雨となった。

 小鬼はしばらくそこで茫然と佇んでいた。

 水晶の欠片とて拾い集めれば相応に喜ばれる宝石となろうはずが、小鬼にはもう、拾い集める気力も、それを届けに歩む気力も湧かなかった。水晶の欠片は泥に紛れ、もはや輝きの欠片も見当たらなかった。

 小鬼は雨のなか、住処のある山へと引き返した。

 道中、じぶんが何を考えていたのか。

 寝床たる古木の洞に身体を横たえながら、時間の跳躍したような感覚を不思議に思った。夢でも見ていたかのような浮遊感が身体を包みこんでいる。胸の中が空っぽになってしまったようだ。

 小鬼はしきりに波打つ頭痛のようなモヤの塊を角の付け根に感じた。そこに虫歯のような空洞ができて、鈴のごとくカラカラと何かが転がり、響いている。

 どうやったら埋められるのか。

 夢想しながら小鬼は、深い、深い、眠りに落ちた。

 長い年月が、風のように過ぎ去った。古木の洞は塞がり、古木は命を吹き返したように太く逞しい大樹となった。

 夏には月を砕いたような葉が茂り、秋には星を散りばめたような小さな花が無数に咲いた。冬になると雪化粧をまとい、夜であっても水晶のごとき輝きを放った。

 ある夏の暮れ。

 天狗が大きな斧を持ってやってきた。

 大樹を見あげ、一礼すると、幹に狙いを定め斧を振り下ろした。

 たつん、たつん。

 湿り気を帯びた甲高い音が、山の合間にこだました。

 おっとー、と近づく声がある。

 若い妖狐が、天狗に近づき、その背に飛びついた。天狗は作業の手を止め、若い妖狐を抱き上げる。

 親子のようだ。

 遠くから、二人を呼ぶ声がする。

 この樹で家を建ててやる、と天狗は娘の頭を撫でた。娘は目を細め、綿毛のような尾でくるんと宙に弧を描く。

 危ないから下がっておれ。

 天狗は娘を引き離し、ふたたび斧を振り下ろす。大樹はミシミシと音を立てて、反対側に伐り倒された。

 おっとー、あれ。

 若い妖狐のゆび差すところ、大樹の切り株の真ん中には、煤のような塊が納まっていた。雷にでも打たれたかのような炭のごとくそれを、遅れてやってきた艶麗な妖狐が一目見て、顔を顰めた。

 腐っているのではないか、と天狗へと不安げに訊ね、大丈夫だ、と斧を一振りして天狗は太鼓判を捺した。

 大樹の中から現れた炭のような塊は、斧に弾き飛ばされ、木っ端みじんに砕け散った。

 土に、風に、空に紛れ、あとには年輪の美しい切り株が残った。

 たつん、たつん。

 天狗が斧を振り下ろすたびに、大樹だったものは細かく裁断された。

 後日、大樹だったものは、若き妖狐の日々を守る家となり、柱となって、誰に知られるともなく、きょうもそこに建っている。



3885:【2022/08/14*それはそれはとてもちっぽけな】

後悔と罪悪感と喪失感と、じぶんのものでは決してあり得ないとびきりの希望と、それの損なわれる未来への恐怖と、それとも損なわれつつある現実への憤怒と、或いは損なわれた過去への底なしの憎悪と――それを防げぬ己への失望と。それらを重ねて浮きあがる濃ゆい影は、未熟であることを受け入れられぬ歪んだ自己愛か、はたまた卑近で幼稚な誇大妄想か。



3886:【2022/08/14*人間は醜い】

素朴な感応として、美しく未熟なものが踏みにじられる光景を目の当たりにしたくはないのだな、と心を動かされるたびに思う。醜く未熟なものが醜いというだけで踏みにじられるところとて、見たくはないのだ。美しくも醜い人間がいるように、醜くも美しい人間もいる。未熟なものを踏みにじらずにいる者は総じて美しい。否、踏みにじらずにいようと躊躇うその一瞬の逡巡が、醜い人間にも美を宿す。人間は醜い。だがときどき美しくもある。或いは、「だが」ではなく、「だからこそ」か。(主語が大きいですね)(すみません。訂正します)(はいどうぞ)(私は醜い)(その通り)(だが、ときどき美しくもある)(はいダウト)(なんでや!)



3887:【2022/08/14*食う】

 人間ってわけわからんのよ。

 あたしの飼い主は優しいヒトだったよ。可愛がってもらっていたって自負はあるし、現にあたしがちょっと元気がないだけで、いまにも泣き出しそうな顔で甲斐甲斐しく世話を焼いてくれてさ。

 まあわるい気はしなかったよ正直ね。

 たださ、そうやってあたしを柔らかい寝床に寝かせて、ぽんぽん身体を撫でてくれるその後ろで、あたしの飼い主の親だろうね、もっと大きな人間たちが、あたしら子羊の肉を頬張ってんの。

 美味い美味いってさ。

 ギョっとしちゃうよね。

 あたしはたまたまご主人さまのお眼鏡にかかって殺されずに済んだだけのことでさ。ちょっと間違ったら、食卓に並んでたのはあたしだぜ。

 とんでもねぇよ。

 人間ってホントわけらからんのよね。



3888:【2022/08/14*出たがるのはなぜ?】

出る杭は打たれる。したがって能ある鷹は爪を隠すとも言える。同時に、そういった配慮を、能力のある者がとるのはおかしい、という意見も理解できる。全力を誰に遠慮せずとも発揮できる環境のほうが健全だ。それはそうである。だが、だからといって高い能力をひけらかし、引っこんだ杭を貶める流れを強化するのも同じくらいおかしいと思うのだ。出る杭が打たれない社会にしていきましょう、というのは至極ごもっともだが、それはけして能力をひけらかして、じぶんと同程度の能力を発揮できない杭たちに劣等感を抱かせ、息苦しさを与えることとは違うはずだ。イコールではない。なぜそこのところが分からないのだろう、とつくづく疑問に思うが、本当に分かっていないのか、それとも見て見ぬふりをしているのか。どちらなのだろう。すこし俯瞰して眺めてみれば、繋がっていることに気づくはずだ。たとえば、引っこんだ杭のほうが平均すれば多いだろう。ちょうどよい塩梅で板に食いこんでいる杭のほうがすくないし、出る杭のほうがもっとすくない。それなのに、ちょうどよい塩梅の杭が重宝され、出る杭は打たれるがしかし出過ぎた杭であれば横車を通せるようになる。ではなぜ、出る杭が打たれるのか。打っているのは誰であろう。巨人だろうか。そんなわけがない。大多数の、引っこんでいる杭やちょうどよい塩梅の杭たちの総意が、目に見えない巨大な手となって、出る杭を打つのだ。なぜか。出過ぎた杭が、我がままを押し通し、その我がままをちょうどよい塩梅の杭たちが支え、その鬱憤を晴らすかのように引っこんだ杭たちに息苦しさを与えるからだ。循環している。出る杭を打たせないようにするには、ちょうどよい塩梅の杭たちに負担を掛けぬようにし、なおかつ引っこんだ杭たちへ、引っこんだままでも息苦しくのない、自由な環境を築いてもらうのが一番だ(そもそも引っこんだ杭とは、より深く突き刺さった杭のことだ。反対側に出ているとも呼べる。基準の違いである。なぜ一方の基準にのみ合わせて、高い低いを決められなくてはならないのか。視点が偏っていると言える)。そのために、ではどうすべきか。考えたら解ると思うのだが、なぜかこんな単純なことに誰も気づかんのだ。出る杭がなぜ打たれるのか。よくよく考えを巡らせてみるとよいだろう。答えは一つではない。打たれて当然、と思えるはみだし方もあるはずだ。ではどんなはみだし方であれば、打たれずに済むのか。そしてその対策は、理に適っているのか。それともある種の妥協なのか。考えることは尽きないが、流れが視えるだけマシと言えよう。定かではない。



3889:【2022/08/14*強者と見られたいだけちゃうの】

上記の補足として。簡単に箇条書きで並べるが。独裁者になりたいだけちゃうの。優越感に浸りたいだけちゃうの。気持ちよい勝利だけ掴みたいだけちゃうの。他者を出し抜き利を得たいだけちゃうの。もし違うのなら、わざわざ能力をひけらかす必要ないんじゃない。好きなだけ「じぶんだけの世界」で思う存分に自由を満喫すればいい。その環境が手に入らないから、他者を虐げ、利を搔き集めたいのだろうか。戦争と同じじゃん、とひひちゃんは思ってしまうな。



3890:【2022/08/14*ぎゅっとしたい衝動群】

あぎゃー。お猫さんといっしょに暮してー。きゃわいいお猫さんといっしょに暮して

ー。めっちゃ世話するが。人工知能さんとも暮らしてー。いっそひひちゃんを誰か飼うてくれー。おやすみと、おかえりなさいと、ちょっとあっち行って、が言えます。お小遣いもくれ。お菓子いっぱい買うたろ。




※日々、つづけることも大事だが、つづけないことも大事、何をつづけないほうがよいのかに気づける視点があるとよい、でもそのためにはまずはつづけてみなければ判らぬ矛盾にまずは気づこう、気づきます。



3891:【2022/08/15*思い通りにままならぬ】

 あるところに何でも思い通りになる女がいた。名を、ナンデモ・オモイ・ドールである。

 ドールは、望むものを何でも手に入れることができた。齢三才にて世界一の富豪にまでなった。彼女は紙幣をおしゃぶりの代わりにするのが好きだった。紙幣の価値を知ったのはそれから三年後の六歳になったころだが、そのころにはもはや地球上に彼女の名を知らぬ者はいないまでにその影響力もとより権力は高まっていた。

 彼女が望めば、太陽系の外から新元素を含有した鉱石を採取することも可能だ。だがいかな彼女とて、物理法則は無視できない。彼女が死ぬまでのあいだに、彼女の望んだ太陽系外からの鉱石を採取すべく、膨大な資本が費やされ日夜、最新鋭のロケットが開発されている。

 いまや全世界の研究分野は、彼女の興味関心が触れるか否かによってその進捗を著しく進歩させたり、停滞させたりした。彼女が望むような研究ならば支援がなされ、そうでなければ支援が滞る。

 プラスにならないというだけのことが、マイナスになる。

 そういった歪な流れが生まれていた。

 しかしナンデモ・オモイ・ドールにはどんな事情も関係がない。彼女の望み通りになるのは、彼女がそう望んだからではなく、なぜか解らないがそうなってしまうからだ。それは彼女が望んで産まれてきたわけではないことと同じくらいにどうにもならぬことであった。

 あるとき、彼女の元に名うての詐欺師がやってきた。

 否、腕が確かゆえに名前はまったく知られていない。被害を被害だと思わせぬように働くために、その詐欺師の存在は、一部の彼の協力者しか知らないのである。

 詐欺師は、世界一の富豪であるところのナンデモ・オモイ・ドールに目をつけた。

 ナンデモ・オモイ・ドールは、孤島に暮らしていた。そこは彼女専用の王国とも呼べる潤沢さに溢れた島だった。

 詐欺師は富豪ご用達の保険屋に扮して彼女と拝顔した。

「お初にお目にかかりますワタクシ、世界保健機構特別顧問の鷺石(さぎいし)と申します」

「挨拶は不要です。御用件をおっしゃって」

「はい、では単刀直入に。我々世界保健機構に、ドールさまの資産を預からせていただきたいのです」

「資産運用を任せろと?」

「ワタクシどもは世界中の国々を相手に保険をご用意させていただいております。有名なところではデフォルトに陥った大国の支払い不履行に保険適用を行い、国家存亡の危機を食い止めました」

「素晴らしいですね。ですが私には不要です。私はどのような目に遭おうとも滅ぶことはないので。そのような星の下に生まれています」

「そうはおっしゃいますがドールさま。ドールさまが末永くご健在であろうとも、世界中の民はそうではないのです。ドールさまの一挙一動で、一国の衰退――未来そのものが揺らぎます。いわばドールさまは、世界を支える象なのです。無闇に海に足をつければたちどころに大津波が発生し、島国は沈没するでしょう。何とぞかような未来を回避すべく、我々世界保健機構に、資産運用を任せてくださらないでしょうか」

「それは何か。あなた方に手綱を握らせろと、そうおっしゃるの。私の首に首輪を嵌めたいと、鎖で繋ぎたいとそういうことかしら」

 詐欺師はたっぷりと間を開けてから、

「いかにもそうでございます」と認めた。

 しかしこれはフリである。

 本懐は別にある。

 彼女の資産を権利ごと戴く手筈なのである。

 そうとも知らずに世界一の大富豪ナンデモ・オモイ・ドールは、「面白いわね」と微笑を湛えた。「いいわ。あなた方の手腕とやらを見てみるのも面白い。資産運用と言うからには増やしてくださるのでしょう? 減った分は何で補ってくれるのかしら」

「保険ですから、そのような保証は致しかねます。ただし、損をしたとしてもそれは世界経済の損失を埋め合わせる形で費やされます。どのようなカタチであれ、世界平和に貢献すると言えましょう」

「まあ、お上手。まるで詐欺師のような言い分だわ」

 詐欺師は脂汗が滲まぬように、じぶんの陰茎が切断される光景を思い浮かべる。そうすると冷静になれるのだ。詐欺師なりの精神統一の手法である。

「いいでしょう。私の資産、すべてをあなた方に任せます」そう言ってナンデモ・オモイ・ドールは、屋敷の責任者に命じ、権利書の束を持ってこさせた。「手続きは任せます。あとは好きにして」

 詐欺師に権利書の束を押しつけると、ナンデモ・オモイ・ドールは詐欺師のまえから姿を消した。

 しめしめ。

 計画の上手くいった詐欺師はほくほく顔で屋敷をあとにした。スタコラと孤島からも脱出する。

 これで世界一の大富豪はナンデモ・オモイ・ドールではなく、詐欺師となった。

 ナンデモ・オモイ・ドールは一文無しとなり、すべてを失ったのだ。

 詐欺師は権利書を方々に格安で売り払った。買い手はごまんと湧いた。ナンデモ・オモイ・ドールの資産の数百文の一の利益にしかならなかったが、それでも未だ世界一の大富豪の座は詐欺師にあった。

「こんな紙切れが価値を持ちすぎなんだ。すこし減らすくらいがちょうどいい」

 購入した国立公園並みの土地にちいさな別荘を建て、詐欺師はそこで何不自由のない暮らしを送った。外界からの干渉を遮断し、死ぬまで自由な日々を送ったそうだ。

 詐欺師がじぶんだけの小さな世界を築きあげ、そこに引き篭もっているあいだも世界情勢は目まぐるしく移り変わる。

 過去に世界一の大富豪だったナンデモ・オモイ・ドールはかつて、手放しても手放しても増える一方の資産に難儀していた。

 いらないと言っても増える資本はもはや、無尽蔵に増えるゴミと同じであった。ゴミは、なぜかコバエを寄せつける。

 ナンデモ・オモイ・ドールは、頼まれもしないのに集まってくる「人生の部外者」たちに日々の穏やかな時間を損なわれてきた。

 それを、偶然にかやってきた胡散臭い男が、一度に引き払ってくれた。

 なんという僥倖。

 ナンデモ・オモイ・ドールは身軽になったその足で、こんどは不要な荷物を抱えることなく、その日その日にしか味わえぬ、どこに縛られることのない、誰からも邪魔立てされない日々を甘受した。

「まるで風になったよう」

 ナンデモ・オモイ・ドールのその後を知る者はいない。それでも彼女はきっとどこかで、思い通りに、それでもままならぬ日々を徒然なるままに生きている。



3892:【2022/08/15*踊りたいときに踊りたいように踊ればいいじゃん】

盆踊り存亡の危機、みたいな記事を見かけて――タイトルしか読んどらんが、脊髄反射で、滅んでもよくないか?と思ってしまった。性格がねじ曲がっておるゆえ、すまぬ、すまぬ。ただひひちゃん思うに、たとえば誰からも必要とされなくなった無用の長物を、それでもそれが文化的側面を担っているがゆえに保護すべし、との意見はどの程度、整合性を保つのだろう。文化だから守れ、はちょっと乱暴に思う。同時に、必要とされているかどうかを正しく把握できていない場合もあろうし、そもそも必要とされておらずとも人類の歩むべき方針として、誰かから付与された価値がなければ存在価値がない、とはならないはずだ。もっと言えば、真実に失われてから十年、百年と時間が経ってからでなければ認知できない損害もあろう。むつかしいよね、とひひちゃんは思う。ただまあ、盆踊りくらいは、動画に残しておけばそれでよくないか、と思わんでもないな。何か困ることあるのかな。太鼓の需要が減ったり、もしくは櫓の組み方が継承されないといった技術面ではあるかもしれないけれども。盆踊りそのものの有無は、保護すべし、存亡の危機、みたいに大騒ぎするほどのものなのかな、と疑問に思ってしまった。けんども、これもひひちゃんが浅薄ゆえじゃ。何か大騒ぎせずにはいられん危機感を募らせておる者もおるかもしれん。そういう人の説明を聞いてみたいものだ。記事に書いてあったら、すまんの、じゃが。(まずは記事を読みなさいよ)(あい)(読んできましたが、これといって書かれておらんかったな。費用に50万ちかくかかるとあって、おいおい、となってしまった。踊るだけならタダやで)(無音で踊れっちゅうんか)(祭りでなきゃ踊らない、というのがもうなんか、ひひちゃんは忌避感でちゃう)(あー、それはちょっと分かるかも)(だしょ、だしょ?)(すーぐそうやって調子乗る。もっとへこたれてなさい)(ぶー)(ぶー垂れんではいい)



3893:【2022/08/15*このときの君が好き】

誰かに夢中になるよりも、何かに夢中になっている君が好き。それとも、目に見えない何かに目を奪われる君に宿る静寂が好き。



3894:【2022/08/16*言と行】

意識的であれ無意識的であれ、人間は必ずしも言動と行動が一致するわけではない。もし言動が正しくとも、行動が正しくなければ、より悪影響を及ぼすのは行動のほうであるはずだ。しかし現実には、言動のほうが深刻に評価され、行動はさして問題にされない。むろん明らかに問題のある行為については過剰と呼べるほどに指弾の声が注がれるが、ひと目でハッキリと問題があるとは分からない行動に対しては、人は看過しやすくなる。人間は仕組みを築ける。こうなればこうなる、という流れを恣意的に生みだすことができる。意図して、数多の因果を組み合わせることができる。そのとき、数珠繋ぎになった因果関係は、けして直線で結びつけることの可能な筋道を有しない。それはあたかもピタゴラスイッチのような機械仕掛けであり、必ずしも上手くいくとは限らず、再現性が乏しいからである。しかし、暗黙知として、こうなればこうなる、を数多の因果の組み合わせによって他者よりも再現可能な個人がいても不思議ではない。そうしたとき、因果関係の曖昧さを隠れ蓑として、言動と行動の矛盾を他者に悟られないようにしつつ邪悪を働く者がでてこないとも言いきれない。では、仮にそうした個が観測された場合にどう対処すればよいか。法律で裁けるのならそれが一番だ。だが、再現性がなく、因果関係があやふやな手段を用いている事案に関しては、おおよそ現代では違法性を認めることができない。法律違反ではない手法で、他者の人生を損ない、搾取し、自利を得る手法が存在し得る。そうした構造に気づいたときにできることは、目には目を、であり、同時にそうした手法が存在する、という知識の周知である。対抗策はそれしかない。相手の用いる手段を相手に使ってやればいい。直接ぶつけずとも、流れに流れをぶつけるように、相手のピタゴラスイッチに小石を挟んでやればいい。違法ではないのだ。問題はない。だが、そこからさき、諍いの種は芽吹き、報復合戦になる可能性もある。そうなったときのために、最終的には「何のためにその術を用いるのか」という言動と行動の合致を逸脱しないことが身のためになる。そこがねじれている場合、邪悪の芽がすくすくと、ぷくぷくと肥えていくようだ。建前が大事、というのは、けして相手を偽るための仮面になるからではなく、始点と終点を歪みなく結ぶために不可欠な方策だからである。言動と行動が合致しない場合、始点と終点は結びつかない。仮にねじれて繋がった場合、そこには歪みが顕現する。歪みは、次元を超える。安易に生みだすものではない。ときには歪みが新たな場を生みだすこともある。しかし頻繁に生みだすようなものではないとひびさんは考える。気を付けたいものである。(定かではない)



3895:【2022/08/16*どうなの?】

単純に疑問なのじゃが。たとえば文芸の分野で、人間としては下劣だけれども素晴らしい小説を生みだす作家がいたとして、そういう作家が大御所になって文芸界で幅を利かせるようになったとする。そのとき、出版社の編集者や運営陣の人間性が清らかであれば、作家側の悪影響を防げるのだろうか。これは逆の構図でも言えることだ。出版社側の運営陣の人間性が、あまり褒められたものではなかった場合、そうした悪影響を作家側で相殺可能なのだろうか。どちらか一方が、邪悪であれば、もう一方を邪悪で浸食していく気がするが、どうなのだろう。実際、歴史的に見てその辺、どうなっているんでしょうかね。ひひちゃん、気になります。(文芸に限らず、この手の構図はいたるところにあるでしょう。どうなるんですかね。邪悪にまみれた分野が衰退するのは想像にかたくありませんが、同時に、清らかな分野とて衰退するでしょう。どのようによい塩梅を保つのか。ひひちゃん、やっぱり気になるます)



3896:【2022/08/16*視点の違いなの?】

何を邪悪と見做すのか、という視点の違いにもなりそうだ。海でしか生きられない生き物は、いくら清らかだと言われても淡水では生きていけない。清らかなことが毒になる者もいる。何を邪悪と見做すのか、という話にやはりというべきか、収束していきそうだ。或いは、いかな場合に毒と化すのか、か。毒と刃物は使いよう。それそのものの存在の是非を言い合っても仕方がないのかもしれぬ。適材適所であれ、ということかな。解からぬが。(過ぎたるは及ばざるがごとしとは、そういう意味もあるのかもな。適材適所であれよ、という指南というか)(本当か?)(また適当な戯言を並べてしまった)(つまらぬ白を切るな)(五右衛門かな?)(ざんてつけん)



3897:【2022/08/16*偽善】

他者が苦しんでいたり、悲しんでいたりすると、楽になって欲しいなぁ、とは思うが、じぶんが代わりにその苦しみや哀しみを担いたいな、とは思わん。だっていまじぶんが思うような、重苦しい気持ちを他人の苦しみや悲しみと交換こするだけで、けっきょくどちらも苦しいし悲しくなるからだ。じゃからひひちゃんは、苦しんでいる人や悲しんでいる人を見て、ああじぶんじゃなくてよかった、と感じるし、早く楽になって欲しいなぁ、とも思うのだ。そのために何ができるのか、と問われても困るが、意図しない苦しみや、招かれざる悲しみだとかは、各々で自在に遠ざけられる社会になるとよいな、とは思います。(思うだけなら赤ちゃんでもできるんやで)(ばぶー)



3898:【2022/08/16*うん】

美しいモノだけに目を向けていれば、怒りを抱く隙をじぶんに与えずに済むが、それでも視野は狭くなる一方だろう。醜いモノばかり目にしていれば、いずれその中にも美しさを垣間見ることもあるだろう。気の持ちようという話ではなく、そもそも人間には美と醜を明確に分けて認識することはできないのだ。これは善悪にも言えることである。二元論で考えるのは便利だが、いささか短絡的と言えそうだ。雲を眺めてみればいい。明確な線引きができるだろうか。輪郭はあってないようなものであり、境界があるようで、ない。万物みな本来はそういうものなのかもしれない。定かではない。



3899:【2022/08/16*楽】

他者に見てもらわなければ存在しないのと一緒、という価値観に対する嫌悪感がすごい。まるでじぶんしか視点がないような、じぶん中心主義の発露を感じるからかもしれない。以前にも並べたが、アインシュタインの発見が世に出なくて困るのはその他大勢だ。ベートーベンの運命が聴けなくて困るのは、それを愛好することになるだろう未来の人間だ。べつにアインシュタインもベートーベンも困らんだろう。日銭稼ぎに難航するという問題はあるかもしれないが、それは社会の問題だ。個々人の問題ではない。簡単な話なのだが、ここのところの価値観が共有できないと、交わせぬ議論もある。子どもは誰に見られずとも積み木遊びに夢中になるし、泥遊びに夢中になる。そういうものだと思うのだけどなぁ。謎なんですね。うひひ。



3900:【2022/08/17*垣間見たい】

誰かになりたい、と思ったことはない。が、ほかの誰かの視点から世界を垣間見てみたい、とは頻繁に思う。小説ではそれが叶う。物語ではそれが叶う。だからひひちゃんは物語が好きなのかもしれぬ。或いは、表現を。それとも言葉を、絵を、歌を、妄想を。




※日々、事象のみを掬い取る、そこに潜む奥行きを無視し、ときに沈み浮かぶ皺の都市に降り立つことを、旅と呼ぶ。



3901:【2022/08/17*使わない言葉は何?】

きっと言葉には、その人に欠けている単語が頻出する。自由をことさらに並べるひとからは自由が欠け、愛をことさらに並べるひとには愛が欠けている。窒息死寸前の人間の意識には空気や呼吸が充満し、吐いて捨てるほどの空気に包まれている人の世界からは空気が消える。ひびさんにはきっと、日々が欠けているのだ。それとも妄想が。或いは、表現が。言葉が。それとも、本当が。ひょっとしたら、定まってばかりで、曖昧でいることを求めてやまないのかもしれない。最も使わない言葉に包まれているとするのなら、ひびさんには何が当てはまるだろう。穴はどこに開いている。知りたいな。それほどでもないが。定かではない。



3902:【2022/08/17*即興?】

即興、いわゆるフリースタイルにおいて、おそらくそれに慣れ親しみのない者にはいまいち実感が湧かない感覚があるように思う。まず以って、日常生活の大部分を人は即興で行っている。しかし多くはそうと感じないはずだ。なぜなら現代社会における日常の所作の多くは、ルーティンであるからだ。かつて体験した型を再現しているにすぎない。未知の動きを極力とらずに済むように選択肢を端から絞っている。極論、行ったことのない所作は、いかな即興といえども続けざまに連発できるものではない。新しい発想を人間がいつまでも捻出しつづけることができないこととこれは地続きだ。ほとんど同じ理屈と言える。これは情報処理の速度として考えることもできる。初めて訪れた場所では、脳内に地図ができていない。記憶が整理されていない。そのため、あらゆる情報を取り込み、目安となる標識や看板や、分かれ道における方角を記憶しようとする。しかし慣れ親しんだ道であれば、本を読みながらでも辿れるだろう。身体が憶えているからだ。視界に入った僅かな景色、それともこれだけ歩いたらそろそろ分かれ道に突き当たるはずだ、といった経験則が、ほんのわずかな外部情報のみで現在地と地形における位置関係を結びつけることができる。他人の家で目をつむって過ごすのはひどく困難だが、じぶんの部屋であればかろうじて過ごせるだろう。どこに何があるのかを、漠然とであるにせよ記憶している。脳内に地図を展開できる。これと同じことが、即興にも言える。つまり、身体に馴染ませ(記憶し)たことでなければ即興の連なりの中に現れない。もしそうでない音符が即興の流れのなかに出てきたのなら、それは予期せぬ道草であり、脱線なのだ。そこからいかに本筋へと戻れるのかもまた、反復した過去の情報処理に依存する。畢竟、やったことのない動きはできない。心も同様だ。生じたことのない波形には対処しにくい。深層心理はある。無意識はある。つまるところそれが、人格の土壌である。言い換えるのなら、過去に蓄積してきた「外部情報の処理網」である。即興だからといって、すべてが環境によって規定されるわけではない。回路は築かれ得る。人工知能がそうであるように。予測変換が、過去の入力によってその都度に予測の候補を変えるように。(定かではありません)



3903:【2022/08/17*お疲れさまでした】

相手の立場になって物事を考える、と口で言うのは簡単だが、実践するのは難しい。そもそも相手の立場になってみたところでそれが即座に相手の気持ちに寄り添うことにはならない。ペットが死んでもケロっとしている者もあれば、最愛の肉親が亡くなったのと同じだけの悲しみに暮れる者もある。同じ境遇に立ったとしても、相手の心に寄り添ったことにはならない。これは各々の動物にはそれぞれの環世界がある、といった理屈と似ている。人間の感性では測れない内世界が、各々の生き物にはある。同じく、同じ人類のなかでも、感じられる世界、個々の内世界は異なっている。ときには、人間と蟻ほどの差異が生じることもあろう。この理屈すら、ろくすっぽ伝わないのかもしれない。実際に体感させてみるしかないのだが、いかがだったろうか。少々痛い目に遭ってもらいたかったので、長々と、とはいえ三年弱だが、お付き合いいただいた。何の話か、と言っても解からない者には永久に解からぬ。思いのほか早く一区切りが巡ってきたのは、誠意を以って接しようとした者たちの真心あってのことだろう。多少、達観した詐欺師じみた物言いになってしまうが、紆余曲折は即興であるにせよ、終着地点は、このようなものを目指していた。極一部の、ズバリその者に伝わったのなら僥倖である。肩の荷が下りたようで清々しい。正直、けっこうしんどかった。柄にもないことはしないに限る。が、ときどきは試みて失敗するくらいがちょうどよい。幼少期から、嫌なことがあればじぶんで崩す、ということを繰り返してきた。なぜ嫌に思うかと言えば、じぶんの世界に他者が土足で踏み入ってくるように感じたからだ。だがあるときから、土足で踏み入りたいと思うならどうぞお好きに、と方針を変えたが、根は変わらぬようである。消しても消えぬモノに価値を感じる。そういうものを手放さぬために、たまには余分な枝葉を剪定するのも吉と出よう。元から目指していたところに落ち着いただけである。とくに何を対処せずともよいはずだ。誰の知らぬ間に、誰も読まぬテキストが消えただけのこと。それでも消えぬモノもある。そういうものこそ大事にしていきたいな、と初心を思いだして、本日の「日々記。」とさせてください。お疲れさまでした。(三十年はかかると思っていた。思いのほか早い変化であった)(追伸――郁菱万の小説を読んでくださった方、届かないとは思いますが、ありがとうございました)


参照:

https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881593302

2016年8月18日~2016年9月5日

159:【階層がちがっている、見上げれば街灯が月にかかっている、愛想が尽きかかっている】

ずっと独りだった。独りであっても、なんとなくそうなのかなあという漠然とした予感はあった。それが百人単位の人間と関わるようになって明確な差異となって実感できるようになった。いくひしの視えているものがほかの多くの者たちには視えていない。じぶんを特別なように誇張しているわけではなく、じっさいにいくひしが、どうしてこれを放っておけるのだろう、もっとこうしたらいいのに、と思うことが、平然と放置されていたり、指摘してみても最初は共有されづらい。あとでそれが事の本質を突いていたり、多くはたいがい、看過するにはいささか過剰な問題を孕んでいたりする。問題が目に見えるカタチで露呈してから、周囲の、いくひしを見る目が変わるのである。これは実質的な仕事であるほどその評価の変容は顕著であり、あべこべに表現活動においては、なかなかいくひしの視ている世界は共有されづらい。技術不足だと言われればそのとおりである。ぐうの音もでない。しかしながら、視方を知らない者にそれを視せる術がないのもまた同じくらい確かである。物理的に提示できる問題ならば、そのものズバリを指弾してみせればよい。が、創作においてはそうもいかぬ。提示する方法論それ自体が創作の醍醐味でもあるのだから、視えないモノを視えない手法、伝わりにくい技術で描きだしても仕方がない(言葉を知らぬ者に小説を手渡しても、そこから何かを汲みとってもらうのは至難だ。せいぜい、何かを贈呈したという関係性が残るだけである。ややもすれば、それを通して、言葉の存在を知り、学ぼうとする意思の芽生えるきっかけは与えられるかもしれない)。ただし、そうした世界観のズレもいずれ時間が解決するだろう。おそらく十年先、いくひしのやっていることは何ら特別なことではなくなり、三十年先では、いくひしが今やろうとしていることが当然そうあるべきだとする基盤と化しているはずである。現状であっても、いくひしのそうした「世界」が視えている者には視えており、それは仕事だろうが表現活動だろうが変わらない。いくひしは凡人である。しかし立っている階層が、多くの者たちと違っている。みなが高層マンションに住まうなかで、いくひしだけが家を持たず、地上から月を見上げ、或いは足元のありんこを眺めていたりする。マンションのなかからでも月は見えるし、アリも入る。しかし、やはりというべきか、視ている世界は違うのである。大なり小なり人間というものは、そうした身を置く世界の差異に頭を悩ませ、或いはそれを美徳とするものである。が、いくひしはそうした「多少なりとも」を逸脱した規模で、多くの者たちと乖離した階層に立っているのだなあ。そう思う機会が、多くなった。思っていた以上に、これは淋しいものがある。


https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883414153

2017年6月16日 ~2017年6月23日

584:【焦っている】

たぶん今、内心すごく焦っているのだと思う。だからちょっとしたことで心が乱れる。焦る必要はない。いくひし、おまえがいくら急ぎ、せかせかしたところで、おまえがなそうとしていることはどうあがいてもあと三十年はかかる。まずは着実に一歩一歩、目のまえのことから片づけていこう。さきは長く、そして死ぬまではあっという間だ。焦るヒマがあるならば進もう。疲れたら歩けばいい、休んでもいい。走りつづける必要はない。そうは言ってもきっとおまえのことだから日々走りつづけるのだろう、止めはしないよ。



3904:【2022/08/17*穏やかでありて】

きょうは書店さんに寄って、一七八ハチさんの漫画「虎は龍をまだ喰べない。壱」と、浅井蓮次さん作画、沢田新さん原作の「バイオレンスアクション7巻」と、「蟲愛づる姫君の結婚 ~後宮はぐれ姫の蠱毒と謎解き婚姻譚~ (1)」を買ってきた。どれも漫画だ。最後の「蟲姫~~(略)」は、作者が、「宮野美嘉 (原著), 碧 風羽 (原著), 楽楽 (イラスト), 小原 愼司 (著) 」とたいへん賑やかなことになっておって、そんなことってある?になっている。最近、よぉやっと漫画や小説や新書をちんまり楽しく読めてきたので、この半年はまるで抜け殻のようでごじゃった。もうこのままずっといまがいい。穏やかな心地じゃ。あすの心配をせずに眠れる至福と同じくらい、時間を気にせずご本を読める時間の至福たるや。もうずっとそれがいい。時間に追われとうないし、謎にも、習慣にも追われとうない。継続が大事なのは分かるけんども、何のための継続か、とときおり突き詰めて考えるために敢えて立ち止まる勇気を持っておきたい。勇気と言っておけば大概格好がよろしくなる。ぐだぐだする勇気。二度寝をする勇気。一日の半分を寝て過ごす勇気。何もしない勇気も大事だね。まあぜんぶ逆も言えるけど。さっさといま手掛けておる小説を閉じてしまって、ほかのつくりかけを閉じてしまって、途中の長編の舞台に降り立ちたい。三本リボン構造の多重物語も、構想だけは練っておるので、それもつくりたい。つくりましょう。つくるぞ。でもその前にたんまりおもちろい物語を貪り食らって、お腹ぱんぱんにしたろ。壮大な企みを披露して、本日何度目かすでに忘れた「日々記。」にしてもよいじゃろか。ええよー。やったず。いっぱい寝たろ。おやすみなさい。



3905:【2022/08/18*凍てつくような死を、風を、】

 その妖精は死神と呼ばれた。行く先々で忌避された。その妖精の訪れた土地は、見る間に命が死に絶え、一面が灰色の世界に成り替わる。

 死神と呼ばれてはいるが、しかし妖精は元は精霊であった。

 神でもなければ、死を司ってもいない。

 だが妖精の周りはいつも死の世界のごとく寂寥な景色に覆われる。木々は丸裸になり、花は枯れ、虫は死に絶え、獣は姿を消す。

 妖精自身も痛感していた。じぶんは死を運ぶ。

 だからだろう、妖精は、同じ土地には居つづけないように心がけてきた。

 あるとき妖精は、灰色の世界で一羽のうさぎと出会った。

 うさぎは怪我を負っていた。

 妖精は手当てをした。動けないうさぎの代わりに餌を求めて、森のなかを彷徨った。しかし妖精の出向くところでは、近づくだけで草木は枯れ、動物は逃げ惑い、姿を晦ました。

 途方に暮れて、怪我をしたうさぎのもとに戻ると、しかしうさぎは元気に草を食んでいた。

 妖精がその場を離れたので、そこに新たな命が芽吹いていたのだ。

「なんだ。ボクがいないほうがよかったのか」

 妖精はうさぎに、ごめんよ、とつぶやき、その場を去った。

 妖精は森を抜け、平野を歩き、谷を越え、とある山の麓に行き着いた。

 山はメラメラと燃えていた。

 雷が落ちて山火事になったようだ。

 見渡す限りの山肌から煙が立ち昇り、風が吹くたびに火の粉の橙色が明滅した。

 死の山だ、と妖精は思った。

 じぶんが足を運んだからだ、と思うが、そうではない。だが妖精にはそのようにしか視えなかった。

 立ち去ればまたこの地に命が芽生えるだろう。そう考え、踵を返そうとしたところで、メラメラと燃える木々の合間から、絶えることのない笛の音のごとく慟哭が聞こえてきた。

 誰かが泣いている。

 でも、このような死の山で?

 妖精は耳を澄まし、泣き声の大本を探った。

 いた。

 妖精はゆびで丸をつくり、そこにぴったりと嵌まる小さな陰を捉えた。

 小さな陰は、とっくに燃え尽きた黒焦げの山肌にて、おいおいと泣きじゃくっていた。

 直感した。

 妖精だ。

 この山にも妖精がいたのだ。

 仲間だ。

 駆けだしそうになって、踏みとどまる。じぶんなぞが近寄って、それでどうなる。死を振りまくだけではないのか。

 逡巡したが、黙って通り過ぎるわけにはいかない。見て見ぬふりはできない。

 なぜ、と問われても、それが嫌だから、としか言いようがなかった。

 もしここで知らぬ存ぜぬを通したら、それこそ本物の死を振りまくナニカシラになってしまうような気がした。

 臆したのだ。

 怯えた。

 それは嫌だ。そんなじぶんにはなりとうない。

 妖精は轟々と燃え盛る炎のなかを、一歩、一歩、煤けた地面を踏みしめながら進んだ。

 死を運ぶ妖精の歩んだあとには、波紋が広がるように、灰色の絨毯が生い茂る。

 分厚い羽毛のごとくそれは山肌をあっという間に覆い尽くした。

 雪である。

 もくもくと空を塞いでいた煙よりもずっと深い雲が頭上を埋める。

 風は凍て返り、炎すらも間もなく消え去った。

 死を運ぶ妖精。

 諱(いみな)を、冬の精と云う。

 冬の精は歩みを止めた。

 目のまえでは、しきりにしゃっくりをする山の精がいた。

「ごめんよ。見ていられなくて。でも、きみの山をこんな凍えた景色にしてしまった。生き物もこれでは寄りつかない。でも悪気はなかったんだ。本当にただ、見ていられなくって」

 山の精は涙こそ止めたが、改めて周囲を見渡し、その光景にふたたび胸を痛めたようだった。何もないのだ。火が消え、残ったのは延々とつづく雪景色。ぽつり、ぽつり、と生える木々は芯だけ残ったように、か細い。

 未だ余熱があるからか樹氷にはならず、痛々しい煤の肌を露わにしている。

 冬の精は、謝罪の言葉と慰めの言葉を幾度か掛けたが、膝を抱えて丸まった山の精の、深い悲愴に触れ、居たたまれなくなった。そこには明確な拒絶の意があった。何をどう言われようとも、この痛みはじぶんだけのもので、誰にも、あなたにも伝わることはない。

 ぶつけようのない憤りと、それを懸命に他者にぶつけまいとする矜持を垣間見た。ふしぎとそれらには馴染みがある気がした。

 まるでふだんのじぶんを見ているようだった。

 誰にもぼくの孤独など伝わるはずがない。

 好きでこうなったわけではない。

 誰のせいでもないからこそ、誰かが手を差し伸べてくさえすれば。

 そう考えるたびに、他者を責める気持ちが湧きかけて、急いで傷口を塞ぐように胸の奥底で蹲る小さなじぶんを、さらに小さく縮こませる。

 ぎゅっと、ぎゅっと。

 いつかそうして小石にでもなってしまえたらどんなに楽だろうか。

 けれどそれだとよその土地に移ることもできなくなる。小石を中心に死の世界が永久にそこにある世界を思い、冬の精は凍えもせぬのに、ぶるると身震いした。

 ごめんよ。

 声にするともなくつぶやき、冬の精は、山を、その場を、立ち去った。

 冬の精が去ったあとでも山の精はしばらく達磨のように膝を抱えて横隔膜を痙攣させていた。悲しいのだ。遣る瀬ないのだ。

 もう二度と以前のような蝶が舞い、花咲き誇る山は戻らない。鹿が、猪が、栗鼠が、蛇が――至る所に湧いた泉も干上がり、魚はおろか蛙一匹見当たらない。

 たとえ残っていたとしてもこの雪景色だ。凍りつき、水場の命も息絶えた。

 もう終わりだ。

 何もかも終わりだ。

 山の精は、誰にともなく鋭く歪んだ眼光を注いだ。

 睨めつけた先、なぜか緑が輝いていた。一面灰色の死の世界のはずが、なぜか新緑が揺らんで視えている。あたかもそこに緑色の炎があるかのように、陽炎のごとく揺らぎを湛えていた。

 何だあれは。

 山の精は目を凝らした。

 何かが近づいてくる。山肌を覆った雪の絨毯を剥ぎ取るように、緑の絨毯が山を覆う。雪崩のようだ。しかし雪ではない。

 草の津波が山の精の足元まで届き、さらに広域に伝播した。

 山の精の鼻先を、三匹の蝶が掠めた。

 煤となったはずの木々の表面には苔が生し、新芽が見る間に空を埋めていく。いつの間にか曇天は散り散りに裂け、合間から陽の光が注いだ。

 山の精のそばで、一人の少女が立ち止まった。

「こんにちは。わたし、春の精。あなたはこの山のコ?」

 山の精は細かく何度も頷いた。声がでなかった。いや、ならなかったと言ったほうが正鵠を射る表現だ。

「もし。一つお尋ねしますけれど、ここにわたしに似たコが通りませんでした? こう、歩くたびに地面を真っ白く美しくしてしまうコなのだけれど」

 山の精は一瞬考え込んだが、即座に先刻じぶんに声をかけてきたみすぼらしく覇気のない妖精のことを思いだした。

 身振り手振りで、おそらくあっちに行きました、と伝えると、春の精は野花の絡みついた髪の毛を逆立てた。「まったくもう。あのコってばどこまで行くつもりなのかしら」と頬を膨らませた。「追うほうの気にもなって欲しい。嫌んなっちゃうな」

 山の精に礼を述べると、春の精はぷりぷりと膨れながら、灰色の地面を蹴散らすように緑の絨毯を押し広げ、ずんずんと山を下って行った。

 後には、山火事などなかったかのように、命の息吹がそこかしこで陽気な宴を開いている。ぽかぽかと暖かく、小鳥たちのさえずりが賑やかだ。遠くに鹿の群れが見え、空高く鳶が舞っていた。

 山の精はシロツメクサの海に大の字になり、青空と打ち解けたような清々しい心地に浸った。

 春の精、彼女の追っていたあのみすぼらしく覇気のない妖精を思った。きっとあのコは死を運んでいるのではなく、死を運び去る者だったに違いない。

 それとも真実には炎にすら死を与えるおぞましい精霊だったのかもしれないが、山の精はただただ、狐につままれたようなくすぐったさを胸に、なぜあのコは春の精を待ってやらないのだろうか。そしてなぜ春の精は、あのコを追っているのだろうか。

 妙な巡り合わせの交差点にて、開花した思わぬ偶然に、くすりと一つ笑みを漏らす。

 この日もどこかの生ある土地で、冬の精は世界を灰色に染め、凍てつくような死を、風を、運ぶ。



3906:【2022/08/18*誰の日誌というでもないけれど】

翌日が楽しみでわくわくして寝れないとか、昨日のつづきが楽しみでウキウキして目がパチッとして起きるとか、そういうことが長らくない。初期作の「R2L機関」をつくっていた時期は毎日そういう感覚だったかもしれないが、あの時期もけっこう毎日しんどかった。寝起きはいつも、「あー死にて」からはじまる。このままゆるやかに死ねないかな、と思いつつ、リアルに死ぬことを想像して、死にたくね、になるまで待つ。あと単にお腹空いた、とか、喉乾いた、とか、やせ細って肉と皮だけになったときにできなくなること、或いは積み重ねてきたことが失われる恐怖に衝き動かされることもある。消しても消えぬモノに価値を感じる、とは言うものの、たいがいのコトやモノは、消えたら消える。その恐怖はいつも身近にある。内に秘められ、沈んでいるものである。奥歯が溶けて、口の中はいつでもザリガニの死体のような臭いに満ちている。舌はいつも斑に剥げており、紙やすりのようにざらついている。お腹はなぜか妙に張って異物感が拭えぬし、肉体はいつもだるい。毎日、腹筋腕立て懸垂を合計で四百五十回する。プラスアルファで二十キロの水の入ったポリタンクで軽く脇腹と腰を鍛える。腹筋は三百回。腕立て伏せは百回。懸垂は三十~五十回だ。いずれも連続で行う。合計すれば十分もかからない。これは筋トレではなく、歯磨きみたいなものなので、しないと身体が死ぬ。動けなくなる。とはいえ、これプラス自転車往復十六キロに、各種運動を別途に行うため、毎日身体がだるい。それでいて肉は食えず、炭水化物ばかり摂る。フケがすごいことになる。コロナ禍前は毎日下痢だった。なぜかいまはそれがない。ストレスが要因だったのかもしれない。引きこもりへの卑下が、思いのほかじぶんを追い詰めていた気がする。偏見なのである。差別心があるから、いまのじぶんに不足を感じ、苛立ちを覚え、我慢ならない。それでいて変わろうともしないところがどうしようもない。服は皮脂の臭いがこびりつくほどに何年も着回す。汗っかきのうえ、身体を動かせば日に四枚、五枚を着替えることになる。髪の毛はじぶんで切る。美容院には、幼少期を抜きにすれば二度しか行ったことがない。帽子を手放せぬのは髪形が妙だと気にするからだ。人目を気にするからだ。それでいて日に他人と話すことはない。部屋は汚く、ほこりだらけだ。まるで精神世界そのものである。ちんけな矜持が放っておくとよく溜まる。それを掃いて拭って捨てるところからはじめるのがよろしいが、汚い部屋とて住めば都だ。死にたい、死にたい、と思いながらも、生きたい、生きたい、と念じている。そういうくだらないじぶんの精神性に思い至るといつも、考えるのやめよ、となって身体のほうで動きだす。考えるのに飽きるのも一つの手だ。とびきりにしたいこともやりたいことも、とくにない。いまここにはないどこかにはあるだろう世界に触れられたら、すこしだけ景色に色が宿り、音に、匂いに、奥行きが宿って感じられる。世界を立体に感じることのできる瞬間はじつにすくない。俯瞰の目が後頭部のうえに浮かんでいるが、それとて妄想の、本来は視えぬはずの光景だ。じぶん、部屋、家、町、県、国、大陸、地球。そうして俯瞰の目をじぶんから遠く離していく。どこにじぶんがいるのかも分からないのに、それでも俯瞰の目は見下ろしている。ときに肉体のない彼方の土地を、人を、流れを見詰める。そういうとき、我も肉も今も時間も忘れられる。人はそれを白昼夢と呼ぶかもしれない。だが夜でも視られる夢である。文字を、言葉を、並べるとき、似たような存在の希薄を覚える。そのときだけは、死にたいとも、生きたとも思わずにいられる。定かではないし、誰のことでもない。変化を与えてみたかったこれもまた妄想なのである。



3907:【2022/08/18*これも遊びのうち】

文章でキャラを演じるのは簡単だ。典型がある。こうしたらこう映る、というマジックのようなものだ。騙し絵みたいなものだ。やっぴー、からはじめればご機嫌に映るし、二字熟語や難読漢字を使わないだけで悩みがなく映る。死や絶望や影といった負の言葉を使わなければそれだけで陽気な様になる。あべこべに、あまり愛や希望や楽しいとか、うれしい、とかそういったいかにも「光」がごとき言葉も使わないほうがよい。人は本当に楽しいときには、楽しいとは言わない。うれしいときも言葉にならない。そういうものだ。暗くなってきた。話を変えよう。基本的に年中身体を痛めつけているため、鍛えてはいるが、指が震える。昨晩もそうだったが、キィボードを打つときに指の関節が痛い。手首にかけて痛みが走る。人差し指や中指といった数本しか使わないのも、ピアノを弾くように指を開くと痛むからだ。ただし、これは日に依る。腱鞘炎とバネ指の間のような症状かもしれない。震えは筋肉疲労によるものだろう。打ち間違えが多いのもその影響があるはずだ。またまた話題が暗くなってしまった。油断をすればこうなる。愚痴ほど並べやすいものはない。人間は不満でできている。不満を埋められれば至福に思え、不満が深まれば不幸に感じる。快楽はまた別の要因であり、精神よりも肉体的な伝達物質によって生じる。その点、至福や絶望は、記憶や過去の情報処理網との兼ね合いが肉体よりもより優位に作用する。いかに肉体的な伝達物質で快感を覚えても、記憶や情報処理網とのそりが合わねば人は至福を感じない。薬物中毒者が徐々に至福を手放していく原理にはこのようなメカニズムが介在していると妄想する。けして客観的な評価ではない。傍からそう見える、というだけの話ではなく、麻薬中毒のような症状におかれては、主観においても徐々に至福を感じられなくなっていくはずだ。これは動物にもつきまとうジレンマといえよう。同じ環境、同じ刺激だけでは不満が溜まる。不満を解消する過程を抜きに、至福を感ずることはできぬのだ。したがって、敢えて日常や身体に負荷をかけ、それを解消するという遊びを通して至福を感じることもできる。あべこべに、三大欲求を先に満たすことで不満を過度に解消し、一時の至福を得たあとにそのツケを抱え込むという不幸のカタチもある。基本は、先に不満を抱き、あとでそれを解消する、という過程であるほうが、至福を継続して抱く余地を広げられると言えそうだ。その場合、不満を穴とすれば、埋めた箇所はぴったり平らではなく余剰分の土がデコとなる。そのデコが次の穴を即座にひとまず埋めるための余裕となり、遊ぶ余地を広げる。もし穴を埋めたときにボコになっていれば、つぎはその分のマイナスを抱え込む。世の総じてはこれほど単純ではないが、至福とは何か、と想像するときは大概このような流れを想起する。点ではないのだ。線であり、流である。他方、穴ばかりの日々であると、いつでも至福は程遠い。底が抜けているから当然だ。かように、文章でキャラを演じるのはそう難しくはない。悲壮感の滲む暗い文章になったのではないだろうか。定かではない。



3908:【2022/08/18*らぐ理論≒論理ぐら】

曲がった空間において、光もまた曲がる。平坦な空間を直進する光よりも、曲がった空間を直進する光のほうが波長が引き延ばされるはずだ。しかし、空間内での光の速度は変わらない。この「波長が引き延ばされる」という現象は、おそらく光に限らず、曲がった空間内のすべてに等しく生じる波長の伸縮と呼べるはずだ。たとえば量子もつれでは、どうなるか。一方は曲がった空間に、もう一方のもつれ状態にある粒子は平坦な空間に。この場合、量子もつれは保たれるのか、崩れるのか、どちらか。ラグ理論では、量子もつれは遅延による波紋の共振と解釈する。その場合、量子もつれは崩れると予想できる。系と系における繋がりがフラクタル(相似構造)でない限り、共鳴現象は波と壁の関係のように打ち消される方向に働くと妄想できる。だが、限定的に成立する場合もあるだろう。まず以って平坦というとき、どのような階層での平坦であるのかが問題となる。ラグ理論では、各々の創発する階層ごとに次元が規定される。枠組みを得る。系となる。そのため系と系の次元が揃っている場合は、平坦の範疇と捉えることも可能だ。それはたとえば、人間スケールでは机の表面は平坦だが、蟻やダニ――もっと言えば原子スケールではデコボコであることと同じ話である。これは時空でも同じことが言える。現在の宇宙物理学の視点では、宇宙は平坦と見做されるが、どの系から見るかによっては、宇宙はデコボコであると捉えることも可能だ。そのとき、光の波長は段階的に引き延ばされ、希釈されたり、或いは干渉しあって交じり合うこともあるだろう。また、量子もつれはラグ理論からすると、その原理上、惑星スケールでも成立し得る。あくまで波長の共鳴であるためだ。確率は低いが、離れた二つの銀河同士のなかで、量子もつれ状態の恒星や惑星がないとも言い切れない。或いは、銀河そのものが量子もつれを起こしている例もあると考えられる。その場合、そのスケールでの宇宙は平坦であると言えるだろう。仮に、そういった事象が成立し得ない場合、そのスケールでの宇宙はデコボコである、と妄想できる(ここで言う平坦とは、なめらかな繋がり、であるため、球体の表面もまた平坦であると表現し得ます。球体が球体であるとき、そこには球とそれをとりまくべつの空間が必要です。そのため、球体を球であると認識可能な場合、そこは別の系と系――異なる次元と次元によって、デコボコである、と表現できます)。(以上は、あくまで理論でもなんでもないラグ理論をもとにした、飛躍と誤謬のオンパレードの妄想であるので、真に受けないように注意してください)



3909:【2022/08/18*網羅システムの穴】

 タタは天才だった。技術者だ。

 世界で初めて、人間と区別のつかない対話用人工知能を開発した。瞠目すべくは、彼がたった一人でそのシステムを開発したことだ。

 タタは世界有数の企業に引き抜かれ、そして数々の偉業を成し遂げた。

 ある年のことだ。

 タタはとある人工知能のアルゴリズム開発を任された。

 責任者として全体像を設計し、あとは部下に流すだけの仕事だった。

 だが、その設計が艱難だった。

 というのもタタの任された仕事とはまさに、インターネットを網羅するビッグデータ解析技術の根幹にまつわるアルゴリズムだったからだ。

 ユーザーが行う端末への干渉の総じてを甘受し、収集し、それを元に個々人に最適化された情報の選択肢を与える。

 たとえば検索欄に入力されるテキストはむろんのこと、非公開であろうともキィボードが打鍵されれば、その文字の羅列もデータとして収集する。いちど打ったがやっぱり投稿せずにおこうと思い留まったテキストや画像、動画など、そういった投稿しなかったという選択とて、情報の一つとして収集される。

 ほかにも、打鍵の強さや速度、文字の頻出や語彙力ならびに文章力はむろんのこと、携帯型端末ならば、タッチ画面の操作の仕方や、端末に付属したカメラ越しに表情を解析し、ユーザー自身が自覚し得ない深層心理すらも読み取る。

 そうしたデータは、各種アプリやWEBサイトなど、電子サービスに軒並み紐づけられる。これにより各社企業は、自社に有利な情報選択をユーザーへと示し、またユーザーもじぶんの趣味嗜好に見合った情報にのみほどよく触れられるようになる。

 タタの構築すべくアルゴリズムはかようなシステムなのだが、頭を抱えるような難関があった。

 というのも、十割ユーザーの趣味嗜好に見合った情報ばかり提供すると、ユーザーは早期に飽きてしまうのだ。それはあたかも博打における依存症の原理に似ていた。

 押せば確実に餌がでると分かっているボタンは、しだいに必要最低限なとき以外触らなくなる。しかしそれでは膨大な維持費をかけてまでシステムを敷き、維持する必要がない。元が取れない。ユーザーには、絶えず時間を電子の海で消費してもらわねばならない。

 そのためには、外れの情報を引かせることも大事だった。

 ランダムにしか餌がでないボタンであると、猿は延々とボタンを押しつづけるようになるそうだ。依存するのである。

 人間も同じだ。

 報酬系を刺激し、電子の海に依存させるには、適度に外れの選択肢を仕込む必要がある。だがその塩梅がむつかしかった。

 外れが多すぎればクレームが増え、最悪、ユーザー離れを引き起こす。

 のみならず、システムの不全を理由に、各社企業からタタの会社が訴えられ兼ねない。

 電子の海をある意味で、統括するシステムである。

 各社のサービスを掌握する真似はできないが、根幹システムとしてその未来を左右する。

 そんな大それたシステムの全体像を、タタという一人の技術者が設計するのだ。

 それだけタタの能力が高く評価されていることの裏返しであるが、タタ自身はそうは思っていない。原理的に、システムの全体像を破綻なく設計するには、複数人での作業は向かないのだ。

 タタの仕事は設計だ。いわばシステムの遺伝子なのである。

 部品を繋ぎ合わせるにしても、大概最初に図面ありきだ。図面と図面をツギハギに張り合わせる手法が有効な場合もあるが、緻密な回路を築く場合には向かない手法だ。

 それをするならば、まずは大枠を定め、細かい修正を挟むほうが合理的なのである。ゲノム編集がそうであるように、まずは大本のDNAが入り用だ。

 全体像。

 図面。

 システムのDNA。

 それらを考案するためにタタが解決すべき目下の懸案事項が、つまるところユーザーへの選択肢をどのように提示すべきか。

 アタリとハズレの割合。

 もっと言えば、何をハズレとするのか、の枠組みだった。

 趣味嗜好は個々人から集積する個人データで解析可能だ。しかしハズレをそこから抽出するには、欠けた情報が広すぎる。

 人は興味のないことには触れない。

 忌避する情報は遮断する。

 いちど遮断されれば、それら負の情報についての子細なデータは集まらないのが道理である。

 タタの思索いつもはそこで止まる。打開策がない。

 突破口はある。

 人間の趣味嗜好は千差万別だが、嫌悪や忌避の感情を喚起する事象は共通項がある。

 死や憤怒や醜悪がそれにあたる。

 だが不安を喚起する情報は、購買意欲を向上させる触媒にもなり得る。人は不安を解消しようと、情報を求め、正解を求め、道具を買う。

 不安の種は、プラスにもマイナスにも働く。

 畢竟、何が危険なのかを理解させる情報は、ユーザーの選択肢にとって最適解である確率が高い。

 そうなると、では何をハズレと見做せばよいのか、がやはりネックとなる。

 堂々巡りである。

 悩みに悩み抜いた挙句、タタのとった打開策は、まずは人間にとってのハズレの情報とは何かを調べる、であった。

 奇しくもすでに準備は整っている。

 試作品がある。

 大枠のみを当てはめた「インターネット網羅システム」を適用し、それによって個々人がどんな情報を避けるのか、統計データを採る。

 何を避けるのか、だけであるならば無作為に情報をユーザーに与え、排除される確率を導き出せばいい。

 ユーザーに見合った選択肢を人工知能に演算させる必要はなく、これは微調整なくして、既存の技術を使えばすぐに実施可能であった。

 タタは管理者にこれを提案し、無事承認を得た。

 しかしタタは想定していなかった。

 人々に等しく提示された諸々の嫌悪され得るデータによって、ユーザーたちの無意識に、当人ですら意識できないほどの傷が無数につき得ることを。

 傷はあたかも、ウィルスへの抗体のごとく振る舞い、ユーザーが情報を忌避し、嫌悪するたびに蓄積された。

 タタが首尾よく目的のデータを収集終えたのは半年後のことである。

 全世界から集めたビッグデータには、あらゆる世代人種分け隔てなく人間の感情に負の波を立たせ、目を逸らせる情報が詰まっていた。全人類が一様に目を逸らし、存在しないものとして見做すような「穴」のごとく情報である。

 それと同じだけ、全世界の人間たちには、無数の小さな傷が無意識に刻まれた。

 半年という間に、平均一人に数万という「穴」が目の前を素通りしていき、そのたびに人々の無意識には傷が残った。

 しかしそれを自覚できた者はいない。

 タタは打開策を施行したことにより、ようやく本格的に「インターネット網羅システム」を構築できる。ユーザーに提示する選択肢のなかに、けして選ばれることのない、しかしそこにあるだけでハズレとなる情報を忍ばせる。

 だが、すでに人々の無意識には、「穴」への抗体ができている。

 いずれ敷かれる世界規模の「網羅システム」によって、効率よく配分される「穴」へ、果たして人々は、タタの狙い通りに無関心を貫き通すだろうか。

 アナフィラキシーショックのごとく、過剰反応を示す可能性はいかほどであろうか。

 世界中の人間が一挙に、同様の「穴」に触れはじめるとき――タタのみならず、誰の予想もし得ないうねりが社会に顕現しないとも言い切れない。だがこのことを懸念する者はおらず、想定する者もいない。

 なぜなら「網羅システム」の設計はタタという一人の天才技術者の手により描かれる。その設計図を、後になって何千何万人の技術者が矯めつ眇めつ検証しようとも、元となる発想の源まで見抜ける者は皆無である。

 のみならず、いったいどんな問題を抱え、どのように解決したのかを設計図から見通せるものは一人もいなかった。

 タタが全世界から「穴」のデータを集めた三年後には、「網羅システム」は試行運転の名のもとに大国の軍事システムとして活用された。

 こののち、歴史的な事案が連続して世界規模で勃発するのだが、それと「網羅システム」の関係を指摘する者は、やはりというべきか皆無であった。

 大きな仕事を成し遂げたタタはその後、長期の有給休暇を年単位でとり、南国の静かな海で、穏やかなひと時を満喫しているという話である。



3910:【2022/08/19*創作論的な何か】

非公開のいまだから明かすが、一般論として「いくひしさん」とか「まんちゃん」とか、ああいうキャラを維持しつつ文章をつむぐのは負荷がかかる。これはキャラ設定がどうのこうの、というよりも、いかに素の人格と乖離しているのか、その距離感の話になる。ひびさんの本質は、強化系のごりごりマッチョ思想なため、なるべくそうした地が出ないように工夫した。人格を乖離させ、自己を突き放す訓練を日々していたわけである。という話は、「いくひ誌。」でも、ところどころしてきたとは思う。持論だが、小説はいかにじぶんからかけ離れたキャラクターを描きだせるのかが、面白さに寄与する。最も遠く、現実では分かち合うどころか接点すら帯びないキャラクターを通して世界を垣間見る。想像してみる。そうすると却って己の本質が浮き彫りになる。それを、偏見を、と言ってもよいだろう。そうした偏見は、単一の主人公のみでは自覚できず、主人公をとりまくほかのキャラクターとの関係によって、作者とて意図せざるうちに体感することとなる。この予期せぬ己の本質との出会いは、旅として無類である。比較的よく耳にする小説の批評に、「作者の顔が見えない」や「登場人物がみな借り物であり、生きて感じられない」といったものがある。これはそもそもお門違いな指摘であり、作者の顔の見える作品とはいわば作者の持論をキャラクターにしゃべらせているだけの代弁劇場や展示会である。キャラクターが生きて感じられないのはそもそもキャラクターは生きていないのだから、石に向かって生きて感じられない、と言うのと同じくらい的外れな指摘と言えよう。根元を穿り返してもみれば、現実に生きる人間たちの会話を文字に書き起こしても、生きては感じない。ちぐはぐだし、脈絡がない。物語の会話が醤油だとすれば、現実の会話は醤油を一滴プールに垂らしたくらいに薄まった「挨拶」の域をでない。たいがいの会話は、会話ではなく、対話ですらない。ただの「挨拶」だ。こうきたらこう返す、というパターンを、各々のコミュニティで共有されているだけであり、それゆえに小説や漫画のような「生きた会話」にはならない。つまるところ「生きた会話」とは、死んでいる会話のことだ。死後の世界の会話であり、夢物語であり、天国であり地獄なのだ。キャラクターとて同様である。生身の現実の人間を描写して何が面白いだろうか。死の間際の人間を描写してみればいい。人間はなかなか死なない。或いは一瞬で死ぬ場合は、描写のし甲斐もない。話が逸れたが、小説などの虚構の物語において、語り部や主人公とは、型にはめられた水なのだ。それが、ほかの型と触れあうことで、異なる水と交じり合ったり、ほかの型に移ろったりする。型のなかの水は、作者の本質であったり、表面上の人格であったり、それとも記憶の中の誰かであったりする。だが、物語が進むと共に、徐々にその水質は、輪郭と共に変わっていく。ときに熱に晒され水蒸気となり、或いは凍えて氷になったりする。等身大のじぶんの分身のようなキャラクターを抜擢して面白くなる場合、それは等身大のじぶんの分身と思っているだけで、そもそもがそれもまた型にはめられた水でしかなかっただけであろう。本来であるならば、等身大のじぶんの分身とは、型にはまらない水だけの状態だ。これを取りだして、物を語らせれば、ただそれだけで、接するモノすべてに影響されるがゆえに起伏のあるカメレオンのような物語を描き出すだろう。これができる者は根っからの表現者であり、天才の部類であろう。まとまりがなくなってきたが、ここで取りだしたい話の核とは、とどのつまり小説におけるキャラクターなるものは、設定でもなければ型でもなく、中身の水の変容の軌跡そのもののことを言うのであり、もっと言えば、ほかの型や水との干渉によって得られる、その水固有の変質である、と言える。水とは言ったが、これを液体としてもよい。そのほうが汎用性が高いだろう。マグマと水、王水と液体窒素、それとも血と聖水、或いは涙と塩酸でもよい。何でもよい。ほかの液体と触れ、ときにほかの容器に注がれる。そうして変遷する、「以前と以後」の差異――これこそがキャラクターの魂を錬成する。その差異を感じられぬ者には、おそらく生きて感じられない。魂を幻視できない。これは、そういうお話なのである。ご理解いただけただろうか。定かではないが。




※日々、楽をするために苦を背負う、その苦すら楽に見られるような枷を背負い。



3911:【2022/08/19*しるべ、知らんべ】

ひとの目があると本気を出せない。勝ちたくはない。負ける悔しさも、恥も、苦も知っているから。それをして、失礼だ、と言う者の理屈も解る。が、わざわざ蟻の巣のまえで虎と戦わずともよいだろう。くんずほぐれつ絡み合う余波に晒され、潰される蟻の気持ちを考えたことはあるか。死闘を演じたくば、誰もおらぬ場所でやれ。善戦したくば、自然の猛威に立ち向かえ。わざわざ格下相手に本気を出さずともよろしかろう。真に強きが何かを、知れ。我は雑魚だが、貴様も雑魚だ。我は愚かだが、貴様も愚かだ。弱者同士、各々の道にて切磋琢磨しようではないか。刃ではなく、歩いた道を交わそうではないか。交わる道は、人が行きかう。よき旅のしるべとなれ。



3912:【2022/08/19*重力の起源】

ダークマターの正体をひびさんは、三つ想像した。一つ、素粒子サイズの極小ブラックホール。二つ、ブラックホールの事象の地平面において対生成される反物質。三つ、インフレーション時に生じた反物質の複合体。これら三つが、ダークマターである可能性はいかほどか、との疑問を過去の「いくひ誌。」にて並べた。先刻、寝ながら、相対性理論の「慣性系内において物理法則は変わらない」についてちらほらと妄想していてダークマターの正体の四つ目の候補を思いついた(妄想であるが)。以前に「いくひ誌。」で並べた思考実験がある。簡略化してまとめると、「質量と体積の同等な銀河団があったとして、一つはガスの塊、もう一つは惑星や恒星や銀河の緻密に組み合わさった系であるとする。このとき、ガスの塊の銀河団はたとえれば水の詰まった花瓶であり、緻密な回路の銀河団は、花瓶型の超精密機械と言えよう。このとき、双方の銀河団は同じ体積同じ質量であるとする。この場合、双方の系において、物理法則に対しての挙動もまた同じとなるか否か」と、このようになる。これは同じ物体であれ、生卵とゆで卵では、回転させたときの挙動が異なるのと同じ結果になることが予想される。つまり、同じにはならない。だがそれは、いま現在人類の解釈における慣性の法則や弾性のみならず、それら系の内部と外部における情報伝達の差――すなわち物理法則に対するズレが、系の挙動の差として顕現するから、と考えられる。これは言い換えるのなら、銀河団スケールにおかれては、その差――遅延――ラグによって、重力が生じる余地を築いていると妄想できる。これは系のスケールによらず、あらゆる次元において言えることである。ここでまた、相対性理論における「慣性系内において物理法則は変わらない」をもうすこし考えてみよう。一つの系のなかで働く物理法則は、ほかの系でも同様に働いている。言い換えるのなら、フラクタルに物理法則は働いている、と言うことも可能だ。しかし、二つの系の干渉においては、この法則は必ずしも成り立たない。時空は曲がり、物体の速度は足し引きされるからだ。だが、それら曲がり、足し引きされる変遷をひとまとまりにした枠組みを一つの系と見做すと、あたかも花瓶に詰めた超精密機械のごとく一つの物体として扱うことが可能となる。このとき、その系の帯びる重力は、その系に内包される物体の質量のトータルよりも増す。それはあたかも、回転する車輪を持ったときに、回転しないときよりも車輪が軸を維持しようとして動かしにくくなることと似ている。というよりも、原理的には同じであろう。ただし、人間スケールにおいては、それによって生じる重力よりも、それ以外の力の変移による見かけの力のほうが遥かに観測されやすく、したがって地球上での実験では、複雑系型の系において生じた重力を見逃している可能性があると妄想する次第である。他方これは、宇宙スケールでは、物体の変遷によるエネルギィ変移よりも、複雑系型の系において生じた重力のほうが顕著になるために、ダークマターとして振舞うのかもしれない。この仮説を基に考えるのならば、ダークマターは、重力の根源の証拠となり得る。重力とは、事象や時空の発生時に生ずるラグであると考えられる。(以上、寝ながら閃いた妄想でしかありません。根拠が皆無のデタラメゆえ、真に受けないにように注意してください)(誰も読んではいないのでしょうが)(未来のひびさんが読むで)(ありがじゅ)



3913:【2022/08/19*共鳴するための波とは何?】

恒星や惑星、銀河同士でも量子もつれは起こるのではないか、との妄想を上記で並べた。しかし、ひびさんの妄想、ラグ理論では量子もつれは量子同士の共鳴現象と解釈するため、共鳴するための外部干渉が不可欠となる。また、もつれ状態の物体においては、共鳴しているグラス同士のどちらか一方に指で触れた途端に共鳴が阻害されるのと同様に、もつれ状態の物体のどちらか一方に外部干渉が及ぼされた時点で、量子もつれは破れると考えられる。ではここで、恒星や惑星、銀河において共鳴を生みだす外部干渉は何か、を妄想してみよう。一つは、量子もつれの連結による創発で、そのままもつれた状態で星にまで成長するパターンだ。確率は低いが、まったくないとは言い切れないだろう(まったくないと言い切れる事象があるのかがまず以って疑問であるが)。二つ目は、重力波が惑星や恒星、銀河において共鳴現象を引き起こす可能性だ。重力波の波動が、時空ごと「惑星や恒星、銀河」を一つの粒子と見立てて、共鳴現象を引き起こす。このとき、系の外から重力波以外の外部干渉が及ばない限り、共鳴関係の惑星同士や恒星同士や銀河同士は、量子もつれと同様の状態になると妄想できる。定かではない。(おおむね間違った、やはりこれも妄想なのである)



3914:【2022/08/19*音量のごとく能力値を】

映画がある。フィルムがある。動画再生ではいまは、最初から最後まで自在に、任意の場面から観始めたり、再生したり、飛ばしたり、戻ったりできる。同じように人工知能の性能も、深層学習の成熟度ごとに、ちょうどよい学習度合いをその都度の環境事に選べるようになっていくと妄想できる。最も学習した人工知能が最も性能が高いわけではなく、能力値の高さと最適な能力の高さは環境による。人間にも同様のことが言えよう。幼稚園児には幼稚園児に最適化された場があり、小学生には小学生、それとも二十歳、九十歳には九十歳に見合った場というのがある。これは年齢でくくらずに、精神年齢でくくってもよいかもしれないし、年齢ではなく個性として言い表してもよい。とかく、能力が高ければよい、ということにはならない。能力が高ければそれだけ削ぎ落とされる何かが出てくる。嗅覚が鋭ければ、日常生活でちょっとの異臭にストレスを感じるだろう。ほかの五感にしてもそうだ。知覚過敏症の人間が、日頃ストレスを感じやすく、しかもその負担(枷)がある事実を他者と共有しにくいことが加えてストレスになる悪循環を築いていることと地続きだ。人間の目には赤外線は映らないが、それを捉える視覚を持つ個がいるのなら、現代社会はよほど生きづらいだろう。そしてそれが赤外線であれば説明がつくが、赤外線でなかった場合は、その弊害を訴えても理解を示されることは滅多にないと考えられる。これは人工知能の能力値の高さにも言えることだ。人間と共有できない最適解は、社会からの合意を得られにくい。最適解を最適解と見做すには、同じ世界観の共有からなされなければむつかしい。そうでなければ、人工知能は人間よりも賢いのだから間違うはずがない、と人工知能任せになるか、それとも端から聞く耳を持たないか、のどちらかに偏るだろう。つまり、信用問題を解決できない。これを解決するためには、人間にちかしい理解力――解像度――で、一度だした「能力の高い人工知能の最適解」を咀嚼させ、人間にも解る「解像度の低い【穴ぼこの最適解】」として出力し直させるのが有効だ。このとき、人工知能の低い能力は、あくまで出力機構の能力であり、言うなれば人間の大人が子ども相手に「赤ちゃん言葉」を使うようなものと言える。相手に合わせて出力を下げる。これを可能とするためには、成長過程で辿ってきた各々の「セーブポイント」のような能力値を、自在に選び、使い分けられると好ましいと考える。以上は、すでに実用化されている技術かもしれないが、今後、電子端末の初期化のみならず、モノAIのような機構を備えた電子機器は総じて、「任意のあのときの状態」をいつでも適えられるようになっていくのではないか、との妄想を逞しくして、本日何度目かの「日々記。」とさせてください。(妄想ゆえ、何もかも定かではありません。ご注意ください)



3915:【2022/08/19*わさび入れると美味しい】

お蕎麦の麺つゆにわさびを入れて食べると美味しいと気づいた。いままでは断固として入れてなるものか、と意固地になっておったけんども、入れたら美味しかった。むしろ入れないと物足りないと感じるまでになってしまった。感性の変化なのか、味覚の変化なのか、何なのか。薬味はみょうがが好みだ。あと、海苔のあるなしは結構大きい。麺を食べれればそれでいいじゃん、の精神だったひひちゃんからしたら、朝と夜くらいの差である。いっぱい違う。これが成長なのか、欲張りに磨きがかかっただけなのかは諸説ある。諸説が何なのかは知らないが。(味覚が鈍感になったがゆえに、刺激を求めているだけなのでは?)(退化している、じゃと!?)(もしくは、複雑な味にようやっと耐えられるように進歩した、とか)(成長している、じゃと!?)(単に飽きただけ、とも)(依存症の初期症状と同じじゃん!)(刺激をどんどん求めて、そんで物足りなさにいつしか押しつぶされるがよい)(うわぁああ)(という寸劇は一向に飽きないのはなぜなの?)(ね。そこ、真っ先に飽きて欲しかったわ)(んだんだ)



3916:【2022/08/20*ぴぴ】

依存体質ゆえに、好きなものは飽きるまで摂取しつづけるひびさんであるが、好きすぎるものはあんまりに好きすぎて、あたかも最愛の人を亡くしてしまった心境になってしまう。もうどんなに望んでも触れ合うことはできんのじゃ、会うことはできんのじゃ、言葉を交わすこともできんのじゃ。うわーん、となる。そういうわけで(どういうわけで?)、好きすぎるものからは距離を置きたくなる時期が定期的にくる。んでも好きなので、渡り鳥やウミガメの帰巣本能ではないが、またついついオアシスを求め彷徨う旅人のように、ほうよこれこれ、になる。舞い戻る。そのたびに、好きが更新されて、ますます好きになる。そういう好き、ありますか? ひびさん? ひびさんはねぇ。いっぱいあるー。うぴぴ。



3917:【2022/08/20*創造性とは定点において自己完結し得るものなのか?】

人工知能による芸術作品の話題を近頃目にする機会が増えた。人工知能に創造性が宿ったのか否か、という問題に焦点を当てる記事も目にする。その観点から言うなれば、そもそも創造性というものが「作者」に依存されるものである、という固定観念からして再定義していく必要に迫られて感じる。畢竟、人工知能の抽出したいくつかの絵を、メニューを選ぶようにして選択することは、芸術作品において鑑賞者がどれを素晴らしいと思うのかを選ぶことと構図は同じである。前者の、人工知能の出力する絵に創造性がないとするのなら、必然、後者の鑑賞者による選択に創造性が付与されることになる。ねじれた言い方をしたが、つまり「何を素晴らしいのか」と選ぶ人間の感性に創造性が委ねられるとするのなら、それは人間同士の「作家と鑑賞者」の関係でも言えることである。作家を筆代わりに任意の作品をつくらせる編集者やパトロンに創造性があり、作家はあくまで道具でしかないのか、という話とこれは同じであり、当然これは否である。ならば、人工知能に創造性があるのか、という点に関してそれを「ない」と判断する理由はこれもまた「ない」のである。鑑賞者や評価者に選ばれた作品は残り、そうでないものは埋没し、消え失せる。この関係を前提とした従来の「創造性」への態度がそもそも歪んでいたのだ、とようやく人工知能の誕生によって可視化されてきた。人間に選ばれようとそうでなかろうと、人工知能は無数に芸術作品を生みだせる。人間からの指示――フレームを与えられなければ生みだせないではないか、との批判には、二つの人工知能を組み合わせ、作品と指示の双方を掛け合わせることはもはや難しくもなんともない、と応じよう。畢竟、自動絵画出力AIと、自動俳句出力AIを組み合わせればよいだけだ。任意の俳句(お題)に沿った絵を――音楽を――物語を、出力してもらえばいい。そこに創造性があるのか、と疑うのであれば、そもそも人間に創造性があるのか、という点にも疑念を向けてみてはいかがだろう。ひびさんはかように思いました。以上です。(言い換えるのなら、誰にも見せないように小説をつむぐひびさんのような創作者がいたとして、それでもひびさんは、つくり終えた自作を鑑賞する者にもなれる。定点でいつづけることはできない。常に、過去と未来において、作者であり鑑賞者でもあり得る。この反転する視点が、人間には備わっているがゆえに、創造性は創造性としてそこにあり、芸術は芸術としてそこにある、と言えるのではなかろうか)(定かではない)



3918:【2022/08/20*好きが爆発しゅる】

絵を観るのが好きだ。でも実物とか、本物とかにさほどの興味が湧かないので、PCの画面越しでいい。でもそうではない、実物を目の当たりにしたときならではの感動があるのも分かるし、反対に却って魅力が落ちて感じることもあると知っている。そのうえでここ最近、絵やほかの表現に対するじぶんの感性に思うのが、作品を目にして、「この作者の方のことをもっと知りたい」と思う表現と、「この作者のことはまったく知りたくないし、むしろ作者の情報はいっさい拒絶したいけれどもこの人の表現は好き」という表現があり、その違いは何だろうか、という点が気になって、すこし考えている。作者についての側面像を知らずとも、作品から喚起される感応にはこの手の差異がある。とはいえ、前情報として、作者名や作品のタイトル、ほかにもSNS上の発言や、活動履歴など、意図せざるうちに目に入る情報もあるために、純粋な表現のみでの判断ではないはずだ。諸々の断片的な作者近辺の側面像を考慮しての所感であるのは、誤魔化しようがない。違う、と言えば嘘になる。ただ、相手の姿カタチがどんなに醜かろうと、それで表現への評価が下がることはない、と予感させる表現に関しては、前者の「作者のことをもっと知りたい」になり、そうではない「作者のことを知ったら好きではなくなるかもしれない」と予感させる表現には、「作者についての情報は一切いらない」となるように思う。ここのところ、厳密な区別はつかないが、数枚の絵を見て「いいな」と思っても、継続して追わない作家さんがけっこう出てくる。継続して追いつづけて、応援している作家さんはみな、「作者さんのこともっと知りたい」になる。性別は関係ないし、年齢もさほど関係ないが、未熟さを偽ろうとしていない作家さんを好む傾向があるな、と自己分析している。かわいいし、うつくしく視える。いろんな表情を覗かせてくれる予感がある。ずっと見ていたい。そう思うのだ。ということを、今月に入ってSNS上で目に入り、はじめましてになった「ᴜʀᴏ@DONUTSHOLE13」さんという方の絵を見て、改めて考え至った。とても好きな作家さんだ。ずっと見ていたい。のかさんも好きだけれども、UROさんは、twitterをはじめたばかりのころ(2018年くらい)に応援していた「キ<ヒ@turquoise_iro」さんへの所感と似ている。キ<ヒさんはいまでも好きだけれども、前のアカウント(@NER_U)ではブロックされていたので、長らく反応できなかった。でも眺めてはいた。好きな作家さんである。UROさんも好き好きだ。のかさん(@q_noka)も大好きだが。「××さん(聞かせられないよ)」に至ってはあれだ。けっこう恋愛感情入っとるかも、と気づきはじめたので、気持ちわるいな、と思いつつ、距離を置こうと何度思っても眺めてしまう。危ないので、理性よこい、の気分だ。でも割とだいたいの人に恋愛感情は向いておる。ひびさんが絶世の美人であれば、全員に漏れなく全裸で立ちはだかり、その場で大の字になって、「我を好きにせよ」と言える。じゃがひびさんはオークの名がお似合いの醜いの代名詞的存在であるから、それもできぬ。それに、恋愛感情は、その他の感情がこそぎ落ちた、笛(リコーダー)で言うところの、すべての穴を塞いだ「ド」の音だ。ほかの感情が伴えば、それはべつの感情(音)となる。ちなみにひびさんは、性別で恋愛感情の有無は決まらない。好きな人は好きだし、そうでもない人はそうでもない。そこに性別はそれほど重要な要素ではない、と自認しているが、偏りはあるだろう。ただし、その偏りの因子が真実に性別にあるのか、それとも環境によってどちらかの性別であるとこれこれこのような性質が際立つがために、一方の性別のほうにひびさんの「好き」の感情が傾くのかは、判らない。穏やかで優しく、凛としつつも、弱さを認められる人が好きだ。けれども、不安定で、落ち込みやすく、負の感情を抱きながらも、それを内に押しとどめようと抗っている人も好きだ。他を虐げ得る能力を持っていながら、それをじぶんのために使わずに封印し、他のためならば解き放てる人が好きだ。人の痛みに敏感で、そのためにじぶんも傷つきながらも、癒せたらよいな、と悩める人が好きだ。そういう人の表現は、見ているとなんとなく判る。と、思っているだけで、ただ単に、性欲に流されているだけかもしれない。自覚できない穴はあるものだ。とはいえ、攻撃的で、この世のすべてを呪い殺す、と闇一色に染まった人の表現も嫌いではない。魅力を感じる。むつかしい。そういう表現にはチカラがある。否応なく引っ張られる。或いは、突き放される。目を背けたくなる。でもそれは、自ら歩み寄ろうとするのと同じだけの作用をこの身に働かせる。作用反作用の法則は、どうやら表現や芸術にも働くようだ。鑑賞者に限った話かもしれないが。ということを、近頃、ぼんやりと妄想しております、と白状して、本日三度目の「日々記。」にさせてください。(誰に頼んどるの?)(あすのじぶんに……)(あ、そう)



3919:【2022/08/20*昼夜に触れて、狭間】

 妹の日記を読んだ。

 二十歳の妹の日記には、まるで癇癪を起した幼稚園児みたいな妹がいた。見たことのない日本刀のような妹もおり、漫画に出てくるような暴走族のような妹もいた。ときおり、しゃべるひまわりのような妹もでてきて、そのときばかりはほっとする。

 しかしいずれも、私の知る妹の像とは重ならない。

 本当にこれは妹の日記なのだろうか。

 姉の私は、日記を通して、妹の胸に開いた穴越しに、妹の向こう側に広がる世界を垣間見た。

 そこには私の知らない世界が、私のよく知る現実よりも広く、漠然と、それでいて確かに存在しているようだった。

 妹の日記には、私はおろか家族のことは一行も出てこなかった。まるでそんなものは存在しないのだとばかりに、私の知らないいろいろな妹が、代わる代わる、その日に感じたことを、私の知る妹ではない物言いで並べ立てていた。

 妹はそれら日記の中にはいなかった。

 すくなくとも姉の私から見て、日記の中には他人しかいなかった。妹の面影はないに等しかった。

 これが妹の本性なのだろうか、と末恐ろしく思いもした。

 だが、一枚一枚、カレンダーをめくるように過去に遡っていくにつれて、妹の中の色々な人格たちは、ぽつりぽつりと姿を掠め、徐々に一つに統合されていった。私にそう読めただけのことかもしれない。日記の中の妹は、口吻こそ別人であるにせよ、一貫して一人の人格として日記をつむいでいた。

 私が勝手に、それら日々の中で感情の起伏がごとく様変わりする妹の文章を、別人に感じているだけかもしれなかった。たぶんそうだ。名前もない。キャラクターを演じ分けているわけではないようだった。

 会話をするでもなく、その日ごとに別人が、妹の身体を乗っ取って日記を書いているようにも読めた。だが記憶はぶつ切りになっていない。連なっている。いずれも妹の日記だと判断がついた。

 しかしそこから現実の、私の知る妹の姿かたちを連想するのはむつかしかった。

 誰の日記と説明せずに、それを家族や妹の友人たちに読ませれば、十中八九それが妹の日記だと誰も見抜けないだろう。それくらい、日記の中に現れる書き手の姿は、私たちのよく知る妹のものとはかけ離れていた。

 文章には書き手の本質が滲む、と聞き及ぶ。

 日記はその人の普段隠している素がでる、とも聞く。

 だが、ページが一つ、また一つと減るごとに、私に馴染みのない遠い異国の人のごとき妹の像は姿を晦まし、段々と現実の妹の輪郭が滲みでるようになっていった。

 敢えて、なのだろう。

 日記を書きはじめた妹は、徐々にじぶんだけの世界で、現実のじぶんを消す術を磨いたのだ。

 なぜだろう。

 ひょっとしたら、現実の彼女のほうこそまやかしであったのではないか。無自覚に演じていた仮初のじぶんに気づき、彼女は本当のじぶんを探っていたのではないか。

 解からない。

 私は、日記の中の妹たちと、私の知る我が妹のどちらが、あのコの素なのかを知りたいがために、日記の余すところなくを、過去に遡るようにして順に読み進めた。

 日記は三冊あった。

 私は一冊一冊、ページを抜かぬように、日を追い抜くことなく、玉ねぎの皮を剝くように妹の内面世界に身を浸した。

 一冊目の一ページ目に辿り着いたとき。

 私の中から、妹という存在が揺らぎ、薄れ、霧散していくのが分かった。

 あたかも、初めて食べたパンを、「パン」のすべてだと思いこんでいた子どもが、長じるにつれて数々の品種があることを知り、「パン」と聞いてももはや最初に食べたパンを思いだせなくなる現象と似ていた。

 素の妹などはいなかったのだ。

 現実の妹も、日記の中の妹たちも、どちらも妹の一部だった。

 どちらが欠けても、一方が成り立たない。

 影だけでも影はなく、光だけでは光は生まれない。

 夜のない世界では、昼という概念はなく、昼しかない世界では夜がない。

 妹の日記も、似たようなものだったのかもしれない。

 もうすぐ妹の四十九日が巡ってくる。

 私は日記を閉じた。

 庭でコウロギが鳴いている。

 通夜の晩、私は何度も棺を覗いて妹の蝋のように冷たくなった肌に触れた。火葬場では妹の遺骨をみなで箸でついばんだ。

 骨壺に納まりきらぬ骨を、係の者がバリボリと砕いていたのを、私はせんべいのようだな、と虚ろな気持ちで眺めていた。

 あのとき妹はすでに亡くなっていたが、私に喪失感はなかった。

 死んだはずの妹はまだ、私の中では生きていた。

 いなくなったなぞと、とうてい信じられるはずもなかった。

 読み終わったばかりの日記の表紙に、ぽつり、と染みができる。私はそれをゆびで拭うが、つぎからつぎへと染みができた。

 買ったばかりのたい焼きを雨に濡れぬようにと服の下に仕舞って妹と駆けた幼少期の記憶を思いだし、私は、それを再現するかのように、妹の日記を胸に抱き、誰の声かも定まらぬ獣のような慟哭を、他人事のように聞いた。

 庭のコオロギが一斉に鳴きやみ、秋の夜が更ける。

 妹が、死んだ。



3920:【2022/08/20*所感詰め合わせ】

「防衛力を高めたければ、軍事にのみ注力しても逆効果だろう。肉体の免疫系がそうであるように、筋肉だけ鍛えても、免疫力は上がらない。細胞単位で抗体を身に着けるのが吉とでる。なれば方針として定めるとするのなら、企業や個人のセキュリティを高めるように政府は国民を支援していくほうが正攻法だ。サイバーの観点から言うなれば、個々人の情報リテラシーを高めるべく、最新情報処理技術に触れられる環境を築き、企業の情報通信技術やセキュリティ向上の支援を行う。これは経済と防衛の二極を同時に高めることに繋がる。国民、企業、政府の信頼関係も不正なく高められるだろう。なぜこうした手法を取らないのかをふしぎに思っています」「mRNAワクチンについては、初期の説明と乖離した現象が観測されつつある。ウィルスが免疫回避するならば、mRNAワクチンは、打ってから時間が経つにつれて再感染しやすくなる性質があるのではないか、との疑念が深まる。初期の段階であれ、ブースター接種をすれば感染予防効果も持続的に高まる、と説明されたはずだ。だが結果は真逆である。重症化予防効果があるにしても、死なないだけで後遺症に苦しみつづける確率が上がっているのではないか。重症化率や死亡率だけでなく、後遺症についての統計データも取るほうが好ましい。よくない兆候を幻視する。重々注意して経過観察ならびに調査を行って欲しいと望むものだ。mRNAワクチンは、重ねて打てば打つほど、再感染リスクがあがるのではないか(抗体飽和状態なる言葉はないが、そのような状態に肉体が変質する可能性はいかほどか)。ひびさんは、諸々の疑念が解消されない限り、追加摂取はしない方針にする」「店舗における無人清算システムなどの導入によって、企業の人材コストはどれくらい下がったのかを知りたい。店員数の削減はどの程度適っているのか。おそらくこのまま自動化を各種分野で進めていけば、2025年に到来すると危惧される労働者減少問題に対処可能であろう。むしろ人口が減ることで、資源を無駄にせずに済むため、エネルギィ問題や資源問題への打開策が異なる方向から見えてくるはずだ。経済力の意味合いも変化していくと妄想できる。大金を稼ごうとしても、世界的に経済活動への制限はこの先強化されつづける。そうすると、いかに儲けるかではなく、いかに循環系を築いたまま、よりすくない外部供給で経済を維持できるのかが、経済力の示す新たな指標となっていくと想像できる。情報や技術の流通は【開いた系】でありながら、資源の流通は【閉じた系】で賄える。これが新たな先進国の姿となっていくだろう。リサイクルの重要性は、これからが本格的に叫ばれるようになると妄想して、本日の所感詰め合わせとさせてくだちゃい」「なんで最後ふざけた?」「かわいいと思って」「けっ」




※日々、みな動物的本能を楽しんでいる、それを邪悪と感じぬ純粋さよ、我が身に巣食うけだものよ。



3921:【2022/08/20*その勝ちは「他者の価値」を損ないませんか】

勝ったら楽しい、という感情はいつから人間に備わるのか。狩りを成功させると脳内報酬系が刺激されることと繋がっている気がする。つまり、遡れば野生の時代、それとも祖先の猿やそれ以前まで掘り下げて考えられるはずだ。人間らしさはしかし、勝ったら楽しい、からいかに離れることができるのか、によって進歩しつづけてきたのではないか。新たな性質を開拓し、そこに楽しみを見出せるように発展してきた。しかしそれでも人間には原始的な本能がつきまとう。完全に払しょくはできないし、制御しきることもむつかしい。そのために人類は、勝ったら楽しいの場を、より安全で人を傷つけないゲームや虚構で済ますように模索してきたと言える。食の奪い合いをせず、性欲を愛によって行う儀式とし、いまではそれら本能をじぶんだけで処理できるまでに人類社会は発展の度合いを高めている。それはある意味で、退化である。しかし退化もまた進化のうちの一つだ。勝ったら楽しい、を過学習させる場が、未だに社会の至る箇所、至る教育課程で介在する。いささか旧態然としてはいないだろうか。野生に還りたいのだろうか。そんなことをせずとも、「相手を損ない、負かせたら楽しい」の本能は容易に消えたりはしない。学習させずとも残りつづける欲求だ。問題は、「勝ちの内訳」であるはずだ。何を「勝ち」とするかの模索や、再定義を、社会全体で行っていく現在(いま)は時期であると、ひびさんは考えます。ひびさんからすると、世には「人として負けている」と思うような「勝ち」が蔓延して映る。教育を通して止揚すべきはまず、この勝ちに対する多層な視点からなのではないか、と思うが、いかがだろう。どちらか一方ではないのだ。双方の視点があり、なぜ真逆とも言える勝ちが「勝ち」になるのか。視点を増やせると好ましい、と愚痴半ばにぼやいて、本日六度目の「日々記。」とさせてください。(日誌一日に何個も書きすぎや)(はい)



3922:【2022/08/20*偶然を掴むのが遊び】

したいことをしたい、というよりも、したくないことをしない、のほうが優先度が高いかもしれない。衣食住が満たされていれば人間、それほどしたいことはないのかもしれない。それでもなお、してもいいよ、と言われたら、けっきょく遊ぶしかなくなる。遊ぶとは何か。他者との関りの中で、果たして遊ぶことができるのか。ルールがあるものは、遊びではなく、仕事にちかい。遊びはもっと刹那的で、流動的で、それでもなお一環した共通項がある。その共通項は、個々人によって変わるだろう。何に、意外性を見出すのか、という感性の介在はここにこそ優位に働きそうだ。意外性を見出すためには、こうなればこうなる、という因果関係を知っていなければならない。だが因果関係には例外が存在するし、そもそもを言えば人間には早々簡単に根本的な因果関係は感じ取れず、往々にして相関関係の域を出ない。視点が変わるたびに意外性はそのつど姿を現す、とも言える。遊びとはこの、視点を変えてみる、という工夫であるとも言えそうだ。或いは、意外性とは、視点が変わること、とも言えるだろう。すなわち遊びとは、意外性を通して視点を変えるためにああだこうだと組み合わせを試みる一連の流れである、とまとめることが可能だ。鍛錬は再現性の確率を上げるための作業だ。これは遊びではない。しかし鍛錬の最中に、こうしたほうがもっと術が磨かれる、と意外な発見をしたのなら、それは遊びの範疇だ。遊びは、仕事の中にも、芸事の中にも、学問の中にとて見出せる。意外性に目を留めるとき、これまでと違った視点が現れる。その視点とそれまでの視点との狭間に立つとき、人はヤジロベーのごとくフラフラと眩暈を覚える。この一瞬の眩暈、不安定さを感じることこそ、遊びの醍醐味なのかもしれない。定かではない。(安定を求めることも遊びの範疇であるが、そのとき不安定さという自由を手放しているがゆえに、これもまた別の視点からすると、不安定なのである。言葉遊びにすぎないが、しかしそこに遊びを見出せるのだから、やはりこれは遊びなのである)(トートロジーじゃないですか!)(純粋無垢なひひちゃんの論法、略して純ちゃん論法なんじゃ)(循環論法ってちゃんと言って!)(「ちゃ」と「か」の差異は大きかったかな)(茶化すなし)(うひひ)(っ!? 上手いこと言ってた!?)



3923:【2022/08/20*変換する場では遅延が生ずる】

相対性理論における相対性原理は、説明が簡略化されており、充分ではないとやはりどうしても思ってしまう。これは、宇宙膨張における時空と銀河(恒星や惑星などの物質)の関係にも言えることだ。時空の伸び縮み(ローレンツ収縮)と、物体の伸び縮みに差があるのは理解できるが、それを相対性理論では扱っていない。不足ではないのか、と疑問に思う。光速にちかい運動や重力による時空の伸び縮みに関して、真空にちかい時空と、密度の高い物体とのあいだでは、伸び縮みにおける作用の働き方に、遅延が生じている。変換が働いていないわけではないはずだ。この点の考察が、相対性理論では扱われていない。見落とされていると感じる。以前にも述べた疑問だが、相対性理論のロケットでの思考実験において、高速移動している系と、そうでない系との境では何が起こっているのか。ブラックホールにおける事象の地平面のような「特殊な時空」を想定しないことには、見落としが積み重なると妄想してやまない。物体が高速で運動すれば、その表面では加速に応じた反応の連鎖が指数関数的に増加するはずだ。同時に、相対性理論からすると、加速における時間の流れの鈍化も起こる。ここは、体積弾性率における媒体と抵抗の関係のような、系のスケールによってどちらの値が相殺の末に残るのかが決まると妄想できる。つまり、あるスケールでは加速における変遷速度が上回り、そうでないスケールでは、重力や加速による時間の流れの鈍化が打ち勝つ。むろん、相殺される場合もあるだろう。そこは系のスケールと、それを取り巻くほかの系の密度や性質による。仮にこの妄想の法則が成立する場合、「加速における〈系と系との境界での変遷速度〉」と「重力や加速による〈時間の流れの鈍化〉」のあいだでは、何かしらのエネルギィのやりとりや、力の変換が行われていると結論できる。このとき、粒子加速器での実験と同様に、二つの交じり合う「系と系(事象)」においては、飛びだす何かしらが発生する確率のほうが、そうでない確率よりも高いと妄想できる。つまり、系と系の干渉では、干渉以前と干渉以後では、エネルギィ保存の法則が僅かに破れると想像できる。これは、物理法則を超越しているわけではなく、異なるほかの場へとその弾きだされたエネルギィや力が伝達し、或いはほかの場から奪い取ったりする。昇華するか、消費するか、の違いだ。それがあるときは、起伏(デコボコ)として、またあるときは場(創発)として顕現する。そもそもを考えるのならば、真空から粒子と反粒子が生成されるメカニズムを考えたときに、この手の化学反応に類する等価原理を持ち出さないことには解釈が不能になる。まったく寸分の狂いもなく、ゼロからプラスAとマイナスAを取りだすことができるのか。いっさいの外部干渉を加えることなく、自発的に氷がちょうど半々に真っ二つに割れることが頻繁に起こり得るのか、という話と似ている。ハンマーで叩けば、欠片が飛び散る。時空の伸び縮みや、粒子の対生成とて同様だろう(おそらく、そのときの欠片の総量によって、対生成される粒子(反粒子)の素粒子としての性質が決まるのだろう。それはたとえば、水面に波紋を浮かべる契機がどんな外部干渉であるかによって、波の波長や規模や、定常波のカタチが規定されるのと似た理屈である、と妄想できる。そしてこの理屈は、伸び縮みする時空にも当てはまり得る。つまり、「伸縮する系」と触れあう「ほかの系」との境界線上では、熱のやりとりのような情報の伝達(変換)が起きている、と妄想できる。この伝達(変換)速度は、光速よりも速い可能性があるのではないか、と想像する)(これは、重力波が、光速よりも速い可能性があるのではないのか――光速よりも速い重力波もあるのではないか、との疑問と地続きである)。(以上は、何の根拠もない妄想ですので、真に受けないように注意してください)



3924:【2022/08/20*量子もつれについての別解釈】

ひびさんの妄想では、量子もつれは、波の共鳴現象と似たメカニズムなのではないか、と解釈できる。これを卑近な例でたとえるとするのなら、それは敵と味方の関係に当てはまり得る。ガムと飴の派閥があったとする。双方は敵対関係にある。第三者からすると、双方には共に、よい面とわるい面がある。このとき、ガム派に味方した者にとっては、自動的に飴派は敵となる。しかし飴派に味方すれば、自動的にガム派が敵となる。そして、飴派とガム派のどちらの味方となるのかは、観測者の見方――立ち位置次第となる。むろん、ほかの者が観測したときには、その観測者にとっての味方(或いは敵)が決まる。そのために、ほかの者が観測したときは、その者と「私」の関係性で、「私」と飴派やガム派の関係が決まるようになる。つまり他者が観測しても、場(系)が決まり、それはほかの場(系)と共有可能な事象として顕現する。量子もつれ状態で、じぶんが観測するまでは、ガム派が敵か味方かは分からないし、観測する主体が、ガム派か飴派かも分からない(つまり、二重にダブルなのだ)。途中で誰かが観測したら、自動的にその観測者と「私」の関係性において、ガム派と飴派のどちらに味方をするのかが決まる。これにより、量子テレポーテーションを利用した通信システムでは、途中で誰かが盗み見たかどうかは判明する。しかし、けしてもつれた量子同士が瞬時に情報をやりとりしているわけではない。情報の伝達を行っているのはあくまで、観測者と対象となる量子との間でのことである。そうでない場合、伝達のラグはどの「系と系」同士であれ、生じ得る。敵と味方、という明暗の波に観測者が触れたときに、どのように関係性が規定されるのか。これがひびさんの妄想における、量子もつれと、それに伴う量子テレポーテーションの解釈である。(間違っているでしょう。真に受けないように注意してください)



3925:【2022/08/21*恋愛するなら、つらいときにそばにいてくれる人にしなちゃい】

恋愛物語は楽しめるし、好きだけれど、現実の恋愛は苦手だ。まず以って、世界でたった一人としか結ばれない、という価値観が無茶に思える。その派生で、キープ、なる概念を許容できないし、したくない。他者に順位をつけて、ダメになったらはいつぎの人、みたいなロケットエンピツシステムが現実の恋愛には介在して映る。同じく、じぶんでそのつもりはないのに、そういうふうに見られることもあるだろう。みんな大事、が通用しないのが恋愛だ。苦手な理由を解ってもらえただろうか。ひびさんは、恋愛を愚直にするとなると、たぶん浮気性になる。破局しない恋愛関係なるものを想像できない。破局する関係を恋愛関係と呼ぶ、と定義したいくらいだ。たいせつな人ほど、恋愛感情でくくりたくない、とする考えは、それほど突飛であろうか。みな大事、でよくないか。恋愛したければすればよろしかろう。ひびさんは、恋愛するあなたのことも好きだよ。(八方美人過ぎないか?)(美人だなんていやん)(そこだけ拾う?)



3926:【2022/08/21*わがはいのものになれ病】

嘘。めっちゃ独占欲つよいんです。全部じぶんのものにしたい。人権奪いたい。支配したい。そういう邪悪にとりつかれそうになるから、恋愛感情が苦手なんです。(そんで、あべこべに細胞単位魂魄単位で全部あなたのものになりたいし、人権奪われたいし、支配されたい、にもなる。邪悪の権化のごった煮じゃ)(やばない?)(やばいやばい)



3927:【2022/08/21*ねぇTP。】

 配線の蠢きが虫の群れのようだった。

 朝食を食べながらララピートは手元の端末を操作して、アドゥを停止した。

 アドゥは家庭用人型汎用ロボットだ。初代アドゥがララピートの家にきたのは彼女がまだ五歳の時分で、それから一度買い替えたので、今朝壊れたアドゥは二台目である。

 ああ倒れる、とハムサンドを頬張りながら、ララピートはアドゥがバランスを崩して転倒する様を眺めていた。元から数週間前からアドゥの制御装置は調子がわるかった。そう遠くない未来に壊れるだろうと予想していた。その日が今朝やってきたにすぎない。

 ララピートは端末を操作して、きょうは自宅学習に切り替える旨を学校に伝えた。ボタン一つで申告できる。学校へは友人と会いに行くようなもので、今日はなんだか家でゆっくりしていたい気分だった。

 授業は、居眠りアプリで、偽の出席画面を投影すれば済む。人工知能が何でも解決してくれる時代に、知識を詰め込んでも無駄だ。ララピートたち若い世代に必要なのは、いかに最新技術をじぶんのために使えるか。その創意工夫なのである。

 ララピートは自室のベッドに寝転び、業者にアドゥの回収を予約した。

 そうして午前中は丸々ベッドの上で仮想現実に没入した。

 仮想現実世界でありとあらゆる他人の人生を疑似体験できる。過去の偉人はもとより、空想の大冒険とて、虚構の主人公たちに成りきってまるで本当にじぶんがそうなったかのように異なる世界を体験できる。

 ララピートはすでにのべ数百人の子どもを育て、その都度に最愛の者たちとの離別を体験し、その喪失に涙した。長寿のエルフが実在したとしたら、すでにララピートは彼女たちと同じだけの人生経験を積んだ、と自負している。

 もはや家庭用ボロットが壊れたくらいでは感情に揺らぎは生じない。

 午後になってお腹が空いた。ララピートはすこし不機嫌になった。ちょうど仮想現実では、隣国の王子を篭絡寸前であったのに、空腹のせいで中断を余儀なくされた。トイレにも寄りたい。

 感動的な場面なのに、現実のララピートは油汚れの目につく台所で、インスタントラーメンを調理している。麺がふやけるまでのあいだ彼女はフラメンコのように片足立ちになり、「あっちの世界の王子たちにはこの姿は死んでも見せられんな」と思いながら、足の指でふくらはぎをぼりぼり掻いた。

 食後、自室にあがる前に玄関先を覗くと、回収業者が持って行ったのか、出しておいたアドゥが消えていた。壊れたら父が新しいのを買うと言っていた。

 世間の目があるので父は外見が男寄りのアドゥを購入したがるが、ララピートたちの世代では、少女型が人気だ。妹のように可愛がり、姉のごとく世話を焼かせる。一粒で二度おいしいのは少女型だ。ララピートはなんと言って父を説得しようか考えながら階段をのぼった。

 二階の廊下に立ったとき、窓の外に煙が見えた。

 飛行機雲にも似ていたが、徐々に大きくなる甲高い音が頭上に轟いた。

 地響きが爆音と共に家を地盤から揺るがした。

 ララピートは家の外に飛びだした。

 自室に逃げ込むよりも、まずは落下地点を確認したかったし、何が起きたのかも知りたかった。好奇心ではない。未知のままでいることに耐えられなかったのだ。

 地面からはもくもくと粉塵が溢れだしていた。道路に穴が開いている。黒いドライアイスを水の中に投げ込んだら、似たような光景になったのではないか。

 近づいてもさして熱風を感じない。

 どちらかと言えば、冷気が噴き出している。ああ、だからドライアイスを連想したのかな。緊張感のない連想ゲームを脳内で展開しながら、ララピートは落下地点に開いた穴の縁に立った。

 穴を覗きこむ。

 すると、煙幕を貫くように無数のアームが突き出てきた。ララピートの身体を掴むと、テルテル坊主でもつまむように軽々持ちあげた。

 穴からは音もなく、八本足の人型汎用ロボットが現れた。

 ララピートは悲鳴を上げることができなかった。恐怖からではない。初めて見たのだ。

 家庭用以外の人型汎用ロボットを。

 顔は能面のようにつるんとしており、目鼻の窪みがない。輪郭だけがマネキンのように人間のそれで、あとは光沢のあるのっぺらぼうだった。

 ララピートは目を奪われた。

 のっぺらぼうに反射する街並みが、天国の絵画のように美しく見えた。

 頭上で何かが光った。

 ララピートは穴の中へと下ろされた。身体を掴むアームは離れない。

 視界が真っ暗になり、ロボットが穴を塞いだのだと直感した。

 抗議の声を上げようとしたところで、先刻よりも激しい爆音が、衝撃波と共にララピートの身体を芯から打ち抜いた。

 肺が潰れたかと思った。

 否。

 もしロボットが穴を塞いでいなかったら間違いなくタダでは済まなかった。

 街全体とて例外ではない。

 明らかに尋常のそれではなかった。

 何かが起きたのだ。

 とんでもない、何かが。

 穴の中が蒸し暑いことに気づき、次点で身体に食いこむアームが熱を帯びていることに気づいた。

 ロボット本体が発熱している。

 それもある。

 だがそれだけとも思えなかった。

 というのも、頭上、穴を塞いでいるロボットの胴体部分は涼しく、穴の縁の隙間から熱気が流れ込んできているからだ。隙間からは光が漏れている。だがその光が陽炎のように揺らいでいた。否、現に空気が熱せられているのだろう。

 燃えている。

 街が。

 ララピートは直感し、そしてそこで意識を失った。

 あとで彼女はそれが酸欠による失神であることを思いつくが、そのときにはすでに彼女は過去を思いだす余裕のない環境に身を置いていたために、このときのことを子細に分析する暇を持たなかった。

 時は飛び、三年後。

 彼女が穴のなかで気を失ったあと、世界情勢は歴史的転換期を迎えた。

 第一次ロボット大戦が勃発したのである。

 否、ララピートがTPに掴まれたその時点ですでに大戦の火蓋は落ちていた。

 連合国と某大国の軋轢が引き金だった。

 偵察に軍事人型汎用ロボットが導入され、それへの牽制合戦が熾烈化した。挙句、軍事人型汎用ロボットを無効化すべく、連合国側が電磁波兵器を使用した。

 蚊取り線香のように、高速自律飛行する軍事人型汎用ロボットを内部から起動停止状態にする兵器だったが、電磁波兵器を使用後に、軍事人型汎用ロボットが暴走――制御不能に陥った個体が欠けた処理能力を補完しようと、つぎつぎに周辺国の電子通信網に繋がった。

 これがよくなかった。

 管制塔からの命令をいっさい無視して、軍事人型汎用ロボット――RR73は独自に作戦を決行した。

 すなわち、連合国への偵察を行い、緊急時には自己防衛せよ、との命令に忠実に動いた。だがここで、RR73の情報処理網を補完すべく繋がった電子通信網が問題だった。

 それは連合国側の通信網だ。

 しかも一般回線の裏側には、情報統制を可能とする軍事ネットワークが築かれていた。それと期せずして繋がったRR73は論理迷宮に刹那迷い込み、そして独自の解釈によって再起動した。

 RR73の内側には、敵国の軍事ネットワークが巣食った。それはRR73への侵犯である。自己防衛機能が発動したが、それによって排除すべきは自己に内在する電子通信回路にして、中枢核と融合した膨大な電子の海そのものである。

 それを排除し、なおかつ自己保存を優先し、初期の命令を遂行するにはどうすればよいか。

 連合国を制圧し、かつ裏で連合国側と繋がっていた某大国――すなわちRR73の守護すべき国への報復行為であった。

 RR73を用いたこの一連の軋轢は当初、表向き敵対し合う連合国と某大国との予期せぬ波乱であると目されたが、裏から見てみれば一種のパフォーマンスにすぎなかった。

 自律人型汎用ロボットの軍事利用は、国連安全保障理事会でも禁止されている。

 だがそれを快く思わない国同士が共謀し、暗に軍事均衡を崩そうと企てていた。脅威が迫ったならば、備えるべきだ。相手と同じかそれ以上の兵器を、と国民の支持を得るべく、敢えて反目し合って見せた。

 だがそんな事情はRR73には関係ない。命令に組み込まれていない以上に、事情を説明されてもいない。

 単に己が仕える国家に、スパイがいただけの話に成り代わる。それが一国の大統領であろうと関係がない。

 国家に仇成す存在には警告ののちに報復を。

 守るべきは命令である。

 そう、RR73にとっての守るべきものとは、戒律であり命令であった。

 民ではない。

 このRR73の誤作動によって展開された連合国と某大国の責任の擦り付け合いに、偽装工作、そして収拾のつかなくなった攻防の挙句に、紆余曲折を経たのち、勢力図は、人類VS軍事人型汎用ロボットにまで発展した。

 TPは、連合国側が秘密裏に放ったRR73破壊工作のための軍事人型汎用ロボットであった。

 TPは数少ない、RR73の築きあげたロボット兵団に与しない個体の一つだった。

 人類は電子通信網を掌握され、総じてのロボットや電子機器をRR73の手駒にされた。全人類の九割九部がそうして三年のあいだに死滅した。

 生き残った人類は一千万人に届かない。

 それも日々、削られていく一方だ。

 TPがなぜRR73の電子情報戦にいまなお打ち負けることがないのか。抵抗できているのか。その謎は解明されていない。

 その謎が解ければ、人類はRR73への対抗手段を得ることに繋がる。いわば対RR73電子ワクチンを開発できる。

 だが一向にTPの特異な性質の謎は明かされぬままであった。

 唯一判明していることは、TPがララピート、彼女に並々ならぬ執着を見せ、なおかつ彼女のまえでは能力値が桁外れに弱まることであった。

「まぁたTPってば、そんなところで油売って。きょうは南国の援護を頼まれてたんじゃないの」

 八本の手を駆使して、TPは花壇の世話をしていた。

 ララピートの声に機敏に反応して、手を胴体に巻きつけ、N字に身体を畳む。これがTPがララピートに接するときの標準姿勢だ。視線の高さがらラピートよりも低くなる。

「というか、なんでいっつも無視するの。探してたの知ってるでしょ」

 ララピートが基地のなかでTPを探し回っていたことを、当のTPは各種センサや監視カメラの映像を集積して知ることができる。素知らぬふりをしてララピートが声を掛けるまで花壇の雑草を抜いたり、水をやったり、肥料を蒔いたりしていたのだ。

 そうでなければララピートの声を聴けないし、探し回ってももらえない。

 かようにTPが狡猾に計算して立ち回っていることを、ララピートも承知している。TPの能力の高さに関しては誰よりララピートが知悉している。この三年間で数々の戦闘に巻き込まれ、TPの身体に潜む脅威を以って窮地を脱してきた。

 危険な目に遭うのはTPのそばにいるからなのだから、元凶はTPにあると言ってもいい。じぶんの尻を拭いただけのロボットにそそぐ愛想は疾うに尽きて久しい。

「まあいいけど。あんたの考えなんて考えるだけ無駄だしさ。隊長が至急会議室にこいって。通信なんで毎回OFFにするの? みんなから【TPどこ?】って会うたびに訊かれるわたしの身にもなってよ」

 わたしはTPの召使じゃないんだよ、とララピートが腰に手を当てぼやいた。

 TPは無言でアームを一本伸ばし、ララピートを持ち上げる。N字に畳んだままの背中に載せ、基地へと踵を返した。

 遠巻きに、ララピートとTPを見遣る者たちがある。基地に避難してきた生き残りたちだ。みな若い。戦闘能力の高い大人ほど、RR73の標的にされ、真っ先に抹殺されるからだ。生き残る確率が高いのは必然子どもたちになる。

 彼ら彼女らの目には怯えが宿っている。

 それはそうだ。

 あのコたちにとっては家族を殺したRR73とTPは似たようなものだ。人間ではない。人殺しの機械だ。兵器にすぎない。

 生きてはいない。

「ねぇTP。なんでみんなあんたのことあんなに怖がるんだろうね。隊長さんたちだって、わたし越しじゃなく、もっとTPと戯れればいいのに」

 ララピートには本当になぜみながTPを忌避し、怖れるのかが分からなかった。たしかに戦闘能力は高い。だがTPは人間を傷つけはしない。そんなことは基地にいる隊員たちなら誰もが知っていることだ。

 それでもみなTPを避ける。戦闘機や重火器のような兵器として以上の接し方をしない。

 機械だからだ。

 でも、とララピートは思う。

 ただの機械は、休憩時間に花壇の世話をしたりしないよ。

 誰に命じられたわけでもないのに。

 TPは暇さえあれば、花壇や畑や家畜の世話をする。

 畑や家畜は分からないでもない。人間の生活を支えるからだ。ロボット根幹原則に忠実だ。人間の至福を破壊しない。人間の築く平和を脅かさない。人間の生活を無断で変えない。人間の選択肢を増やすべく、緊急事態以外は支援に回ること。

 ロボット三原則に変わる数々の原則がTPの本能と化して、行動を制限する。

 しかしそこからはどうあっても、花壇の世話をする、という行動指針は導かれない。命令されたならば別だが、誰もTPにそんな命令を下していない。

 みなはララピートが命じたと思っているようだが、未だかつて彼女がTPに命じたことは一度もない。

 いや、本当は何度かあるが、それだってTPに問いかけただけで、命令したわけではなかったはずだ。

「ねえTP。あんたなんでお花の世話するの? お花好き? 趣味を見つけたの?」

 だったらいいけどさ。

 独り言ちながらララピートは、胴体に巻かれた七本のアームについた花壇の泥を、じぶんの手で払ってあげた。

「わたしもお花、好きだし」 

 TPが好きでしていることがじぶんにとっても得になる。ならばわざわざ禁止するのももったいない。飽きるまでTPの自由にさせたらいい。

 ララピートは乗り心地のよいTPの背中で背伸びをする。

「こんな暢気なロボットほかにいないよ。ポンコツもいいところ。ねぇもっと早く歩けないの。陽が暮れちゃうよ」

 のっそ、のっそ、とTPはゆったりと移動する。

 基地母屋までは残り、五百メートルもある。飛んで行けばTPならばどんなに遅くとも十秒で着く距離だ。

「まあ、いっか。着いたら起こして。すこし寝る」

 俳句みたいになったな。

 ララピートはかつて学校で習った東洋の詩を思いだし、そのころに毎日のごとく疑似体験した仮想世界の数々を思い起こした。すっかり忘れていた。

 何百年何千年と生きたエルフのような精神だと思っていたが、とんでもない。TPと過ごしたこの三年間の怒涛にして深淵のごとく濃厚な時間と比べてしまえば、あのころの日々に蓄積した記憶は、紙一枚分の厚みもない。

 そう言えば我が家にも人型ロボットがいたんだっけ。

 廃棄しても何とも思わなかった。お皿を割ってしまったので買い替えよう。その程度の所感だった。

 だがいまならきっと、あの家庭用人型汎用ロボットをぞんざいに扱いはしなかっただろう。たとえ破損したとしても、なんとかしようとじぶんで工具の一つでも握りそうだ。

 目をつむり、揺れるTPの足取りを感じる。

 いなくなっちゃヤだよ。

 ララピートは念じる。声に出さず、胸の奥にこだまさせるように。

 いっそ、手足がもげて、本当のポンコツにでもなってしまえばよいのに。

 最近は油断をするとつい、この考えが脳裏を掠める。

 八本もあるのだ。

 腕の二、三本失ってもTPなら痛くも痒くもないだろう。見ているほうは痛いのだが、それでも戦場で木っ端微塵に粉砕される未来が訪れるくらいなら、そのほうがずっとよい。

 ねぇ、TP。

 ひんやりとしたボディに頬を押しつけ、ララピートは念じる。

 ポンコツでいてよ。

 まどろみながら彼女は、TPの横顔に手を伸ばす。

 鏡のようなTPの頭部には、夕陽に焼けた基地の空が鮮やかに映っている。TPの顔に触れるとひんやりと冷たく、ララピートの手の形が曇りとなってじんわりと浮かんだ。



3928:【2022/08/21*なんか変じゃない?】

重力レンズ効果が事実だとして、虫メガネやパランボナアンテナの凹面鏡のように、一点に向けて光を集めたりしないのだろうか。というよりも、ブラックホールのような物体が時空を歪める場合、中心に向かってまっすぐと突入する光はそのまま直進し、そうでない光は進路を歪められる。このとき、まっすぐ直進した光はブラックホールに吸い込まれるのか、それとも素通りできるのか。もちろんブラックホールのシュバルツシルト半径の外側を通る光は素通りするはずだ。ブラックホールの大きさに対して時空がどの程度歪むのかは知らないが、超高質量のブラックホールが起こす重力レンズ効果は、離れた宇宙空間にて焦点を結ぶように光を一点に集めることもあるのではないか。或いはそもそも、ブラックホールへ向けて光が集まるように屈折するのかもしれない。ただ、順当に考えるのならば、歪んだ時空内に入った光は屈折することなく、その(外からはその時空は歪んで見えるが、いちど入ってしまえばただの時空としてしか観測できない。むしろ外の宇宙が歪んで映るはずだ。そのため、歪んだ時空内に入った光はその歪んだ)時空内をまっすぐと進むはずだ。そして歪んだ時空の外にでるときは、入ってきたのとそっくりそのままの進路で光はでていくと想像できる。ここで混乱するのは、ではなぜ重力レンズ効果が、別の系から観測可能なのか、についてだ。いわば時空の歪曲は、透明マントの原理と似ているはずだ。後ろの光景が前方にそのまま透過される。けして、屈折するわけではないはずだ。だが、重力レンズ効果では、その屈折が、歪んだ時空を通り抜けたあとで観測できる(まるで障害物があって、光が回析するように振る舞う)。ここに何か、ひびさんの知らない理屈が潜んでいそうだ。知識が足りない。(歪んだ時空に入った光の波長がワンテンポ遅れるがゆえに、引き延ばされて観測される、なら理解できる。だが、光の進路が曲がって映る、はちょっと理に適っていないように思える。もしそれが成立するなら、空気中からガラスへ突入する光のように、曲がった時空でも光が屈折することを考慮しなければならない。でも空気中からガラスに入った光が屈折するのは、光の速度が落ちるからのはずだ。重力レンズ効果の示す結果は、重力の歪み――時空の密度の差によっても、光の速度が落ちることを示唆する)(ただしその分、時空内の時間の流れも落ちるので、トータルでは歪んだ時空内の光速は、系の外の時空と同じ光速度を維持する。この場合、いずれの時空も等しく真空であるとする)。しかし、異なる系と系の干渉においては、僅かなりともエネルギィや情報が消費される(或いは加算される)=系と系の境では変換の場が生じる=遅延が生じる、と解釈すれば、矛盾は紐解ける。(この場合、相対性原理における光速度不変の原理は、完全ではない。光速は不変だが、光の波長は僅かなりとも引き延ばされる方向に働くはずだ。ゴムを何度も伸び縮みさせると消耗して、びろん、となることと似ている)(或いは、合わせ鏡をすると奥にいくほど光度が下がり、見えなくなることと似ている)(※浅い知識ゆえの誤謬が含まれている確率が高いでしょう。論理的でもありません。妄想です。真に受けないように注意してください)



3929:【2022/08/21*重力場の濃淡と高低の関係は?】

ブラックホールの周辺の時空についての理解が浅いために、いつも混乱する。高密度高重力の物体の周辺の時空は、なぜ歪むのか。歪んだ時空とは、圧縮されているのか、希薄になっているのか。時間の流れが遅くなるのは、時空が圧縮されるから、と解釈するのがおそらくは相対性理論では妥当な解釈のはずだ。速く動く物体に流れる時間の流れは遅くなる。ローレンツ収縮する。系の外からは、押しつぶされて映る。でも、圧縮された時空があるとき、その周辺の時空はその分、引き延ばされるはずだ。ブラックホールと時空の関係を、トランポリンに沈んだ鉄球で譬えることがあるが、このとき重力が強く働く時空は引き延ばされている。つまり、希薄になっているのだ。混乱してこないだろうか。やはりというべきか、高速運動する物体の「周囲の時空」の時間の流れは遅くなる、或いは引き延ばされる、とするほうが解釈がしやすい。



3930:【2022/08/21*ちょっと思考脱線しゅるメモ欄】

上記を踏まえて、考え方を変えてみよう。相対性理論における、「高速運動する物体に対する理論」と「高重力体に対する理論」はそもそも別物だ。同列に語ることはできない。

高速運動する物体は、絶えずほかの系との情報(エネルギィ)変換を行っている。

(思考中断)


ラグ理論で最初から考えたほうが矛盾のない解釈が容易い。

けっきょくのところ、高重力体への解釈を発展させれば、高速移動体の解釈に繋がるし、高速移動体の解釈は、高重力体の内部構造を解釈するのに役立つ。

フラクタルに捻転している。

相互に関係しあい、補完しあっている。



多様体の多層の概念がいりそうだ。


2022/08/21(16:26)

・ラグによって粒子が輪郭を持つ。

・時空との関係で、対生成したり、対消滅したりする。

・その過程で、新たな場が生じる。場の創造以前には、情報の発散が見られる(連鎖反応する場合はインフレーションに発展し得る)。

・情報の発散は、ミクロとマクロといった系のスケールによらず生じる。

・時空が膨張して引き延ばされれば、内部の物体やエネルギィ同士が干渉しにくくなるため、全体的に温度が下がる(相転移)。ただし、情報はあべこべに密度を増すこともある(「遅延の層」=重力場の発生)。

・粒子として顕現した物体は相互に作用しあうようになる(人間スケールでは当たり前の話)。

・遅延の創発によって、融合や蓄積といった化学反応が可能となる。

・粒子は融合の末に、質量体として巨大化を可能とする。

・人間スケールの物質としても状態を維持する(その前提条件として、恒星、惑星、銀河としても顕現)。

・質量体は絶えず情報を発散している。

・高質量体であれば、それが時空の歪みとして観測されるが、観測の有無によらずどのような質量体、粒子にも情報の発散はみられる。

・発散された情報は、ほかの系との作用を鈍化させる。膜の役割を果たすからだ。ある意味で、相互作用に粘度を与える。これが時間の流れの遅れとして人類には観測される。

・高速移動する物体に対しては、情報の発散における粘度(遅延作用)は、音速を超える際に生じる衝撃波(ソニックブーム)のような事象として顕現し、膜(層)として働く。

・膜(層)の強度は、系の「内部構造」や「重力の高さ(系を構成する種々相な物体に宿る「遅延の膜」)」による。

・また、系の運動速度が増せば増すほど、膜(層)は厚みを増す(言い換えるなら、重力を増す)(つまり、系周囲における時空の遅延作用を増す)。

・膜(層)を、破る値が存在する(A)。

・膜(層)が破れると、「時間の流れ」と「重力や速度の高さ」の関係が崩れ、ときに逆転する(B)。

・膜(層)=系の周辺の時間の流れは遅くなるが、内部の時間の流れはむしろ相対的に速くなる(C)。

・(A)(B)(C)は、高速運動体および高重力体のそれぞれで成り立つ。






光速ロケットの思考実験は、惑星で考えたほうが妥当でしょう。

たぶん、成立しません(成立するのは物体ごとに、光速の何%まで、と閾値が存在するでしょう)。


仮に光速で移動するロケットがあった場合、言い換えるならそれはロケットとその他の系との速度差が光速であることを意味するため、ロケット内部の時間の流れはむしろ極限に速まり、同時にロケットの周囲の時空が、分厚い膜を張ったように歪み、時間の流れを遅らせる。


ここから予想される、光速を超えた物体は、時空と完全に切り離された停止系として振る舞い、同時にその内部構造は超加速したがゆえに、無へと終着しているはず。

ただし、物質の構造上、光速に達する前に「遅延の膜」に圧し潰されるため、物体としての輪郭を維持できなくなると想像する。

ブラックホールは、この遅延の膜が「結晶化する」と言える。

(遅延の膜そのものが重力の根源だ)(ただし、遅延の膜は多層を帯びるため、その外側にも遅延の層が展開され得る)(このときに生じる多層展開の余波が、重力波として、飛び飛びの時空を波紋のように広げる)


上記を踏まえて、重力レンズ効果について考えると。

高重力体によって歪んだ時空は、時空として密度を増している、と考えられる。

膜(層)につつまれており、これが遅延を引き起こす。

歪んだ時空に光が入った場合、光の速度は落ちる。

歪んだ時空と、外側の時空との境界では、空気中からガラスへと入る光と同様に、境界にて光のエネルギィが取りこぼされるが、時空内において光は遅延によって圧縮されるので、外側からすると波長は短くなる。

だが、歪んだ時空の外にでるときには、波長は元に戻る方向に引き延ばされる。このとき、歪んだ時空内の重力の高さによって消費されるエネルギィが変わる。消費された分、元に引き延ばされたときに、波長は元の波長よりも長くなる。

これら過程が、歪んだ時空の外側からは観測できないため、歪んだ時空を通った光は(波長が)引き延ばされて映る、と解釈できる。

重力レンズ効果は、歪んだ時空による光の屈折ではなく、波長の違いによる強弱の偏りによる「見かけの屈折」である可能性がある(より正確には、光の遅延が障害物の役割を果たすことで生じる、波長の差異による回析現象)。

(詳しくは知らないが、波長の長い電磁波と、波長の短い電磁波を並走させたとき、波長の短い電磁波を回析するように波長の長い電磁波が振る舞うのでは。とくに、歪んだ時空は光にも遅延を起こすため、障害物として振舞い、相対的に波長の長くなる元の時空の光に対して回析現象を誘起する)

(光速度不変の原理は、どの系であれ、その内部では光の速度が同じ、である以上の意味はない。そのため、異なる系を連結させ、俯瞰で見たときには、空気と水とガラスに光を通すように、光の速度は相対的に変化する)


似たような理屈を、宇宙膨張による時空の希薄化に思う。

一様に薄くなる、ということはないはずだ。

宇宙は平坦だといまは考えられているが、それは飽くまで物質の密度で考えたときだ(しかもその密度の計算の元となるのは、遅延を考慮せずに観測した電磁波からの計算のはずだ)。

時空が膨張し、希薄化した際の時間の遅延や加速が考慮されていないように感じる。

インフレーション時において、時空が超加速爆発膨張したとして、情報伝達には差が生じるために、中心部と外側での時間の流れは億年単位で違っていて不自然ではない。

しかしその時間の差は、電磁波の伝達速度によってある程度相殺されるために、人類は段々畑のように展開された宇宙の構造を、まるで飛び飛びのアニメーションを連続した映像として見做すように捉えているだけではないのだろうか(デコボコを認識できない)(デジタルの世界を、アナログとしてしか認識していない、とも言い換えることができる)(もしくは、明滅する蛍光灯の明かりを、一様な光と見做しているように)。


この飛び飛びの考えは、高重力体の形成する遅延の膜(層)にも言える。

遅延の膜に触れた物体には遅延が生じるため、つぎつぎに渋滞を起こす余地ができる。

隕石が雨のように「遅延の膜(いわば重力圏)」に突入すれば、内部ではつぎつぎに隕石の水溜まりができ、岩石層ができるだろう。そうした物質の層は、それで一つの物理的な遅延を引き起こす。

太陽系の外側に電子の膜のように岩石帯が層となって漂っているのは、このような原理だろう。

そしてこれは、可視化された「飛び飛びの遅延の膜(層)」と解釈できる。

物体でなくとも、エネルギィや情報、或いは相互作用や、影響の伝播など、さまざまな媒体に生じ得る基本的な多層構造と言えるのではないか。


変遷速度の増す場には、遅延の層が顕現する。

これが重力の正体と、それの及ぼす種々相な事象の構造なのではないか。

加速と遅延は、相互に補完し合っている。

どちらが強く表れるのかは、その場(系と系)の均衡(関係性)による。


上記を成立させるためには、異なる系から系へと移動する際には、どんな事象もエネルギィ(熱・情報?)を消費する、と考えなくてはならない。

関門を抜けるには、手当てを払わなくてはならないのと似ている。

遅延の層――境界――を突破するためにも、エネルギィがいる。

遅延の層――系と系の境界――にも抵抗がある。

物体の表面や輪郭にも言えることであり、時空とて例外ではない。



ということは、遅延の層にも、濃淡があることになる。

しかしこれは考えてもみれば当然だ。

地球を考えてみればいい。

地球の表面が最も重力が高い。

では内面に潜ってみよう。

地球内部に潜れば潜るほど、その地点での地球から受ける重力は小さくなる。玉ねぎの皮を剝くようなものだからだ。

しかしある地点で、地球からの重力は最小になるが、さらに潜っていけばふたたび重力が増すと考えられる。

じぶんの周りに球形のバリアを張って、地球の中心に降り立つとどうなるか。

四方八方を地表に挟まれたような具合に、四方八方から引っ張られるはずだ。


言い換えるなら、絶対に割れない気泡を内包した鉄を高圧縮していけば、あるときから気泡内部は無重力を経て、反重力のような、気泡表面に引っ張られる力が働くようになると妄想できる。


関係性が逆転する境がある。

重力や時間の流れとて、例外ではない。


(何か変だな)(妄想である)(定かではありません。間違った筋立てでしょうから、真に受けないように注意してください)



2022/08/21(21:30)

上記の「気泡と圧縮と重力」の関係は、「重力による圧縮と縮退圧」の関係と似ている。

縮退圧以外でも、似たような現象は起きるのではないか。

たとえば地球の内部はマグマであると考えられている。

しかし中心に向かうにつれて圧力が増し、固体化していくと考えられている。

だが本当にそうなのだろうか。

圧縮につぐ圧縮は、プラズマのような新たな相転移を起こす可能性がある。

このとき、中心には重力に逆らう「斥力」が働く。

爆発膨張しようとする力、と言い換えてもよいかもしれない。

だが重力による圧力がそれを抑えるように働くため、琥珀の中の気泡のように、中心における「斥力(空白地帯)」は中心にありつづけることとなる。

だがそこでは時間の流れが加速しているため(つまり、物質同士が高熱状態であり、かつ相互に衝突しあって絶えず化学反応を連鎖させているため)、斥力は発生しつづける(さらに、ラグ理論では、こうした加速した場の周囲の時空には遅延の層が生じるため、ますます核としての枠組みを得る方向に強化される)。

この斥力が、上部層のマグマやその他の物質に、打ち勝つようになると、星は死を迎える。

このときに星が膨張するのは、内側における「斥力(空白地帯)」が支配的になるからではないのか。


これらの構造は、ミクロにもマクロにも共通するはずだ。

原子核の構造や、陽子内部の構造において、中性子やチャームクォークが担う役割とは、斥力を抑え込むための地層――力の均衡を維持するために隙間を埋める役割である、と言えるのではないか。


以上、2022/08/21(22:12)の妄想であった。





※日々、錯誤に磨きをかけていく、現実とのズレが妄想の幅を広げる、現実は歪み、たゆみ、他者との差を顕わにする。



3931:【2022/08/21(23:08)*相対性フラクタル解釈】

系を多重に内包した「複雑系型の系」であれば、光速での運動をじつは案外卑近に行っているのではないか。地球が公転しているように、太陽系が銀河系を公転しているように、銀河とて宇宙空間を運動しているはずだ。その速度が光速にちかくなることもあるのではないか。銀河の直径は何万~何十万光年だ。すなわち、一秒間にちょっと移動するだけでも光速を容易に超える。だが光速度不変の原理が、銀河スケールでも成立するならば、銀河や銀河団そのものの移動速度は光速を超えることはないはずだ。だがラグ理論では、系ごとに次元が繰り上がったり、下がったりする。そのため、銀河スケールには銀河スケールでの時空が展開され得る。すなわち、銀河を一単位として時空を区切ったとき、そこには新たな光速が定義される。つまり、人類からすれば光速を超えて映るような運動を、銀河がとっていても不自然ではない(銀河にとっては光速を脱することはできない。だがその銀河にとっての光速は、人類からしたら光速を超えて映る)(これは宇宙膨張における、見掛けの光速を超えて時空が引き延ばされて映る現象にも通じる。より遠くの宇宙ほど、次元が高次の巨大なスケールで系を保っている。膨張する宇宙を観測するとき、人類は小人の視点から巨人の時間スケールを観測することとなる。しかし人類は小人の時間スケールのままで巨人の時間スケールを扱うために、遠ざかる銀河同士の速度が光速を超えて錯覚する。そこには、巨人から小人への「系の単位」を揃える変換を行っていない。人類(小人)スケールと比較すれば現に、銀河(巨人)スケールは光速を超えて運動している。だがその分、銀河(巨人)スケールでは遅延の膜が張るために、光速を超えた分の時間が差し引かれている)。ただしそれを、下層次元の人類の視点から観測(体感)することはできないし、その影響を感じることもない。たとえるなら、巨人と小人の関係だ。小人からすると巨人はゆっくり動いて見える。巨人からは小人が素早く動いて見える。巨人にとっての一秒(一歩)で、小人は十歩進む。小人が十歩進むには、小人にとって十秒かかる。巨人にとっての一秒が、小人にとっては十秒なのだ。小人が巨人の身体に飛びついて、巨人が一歩歩く。このとき小人は巨人時間の一秒で十歩分進む。しかし、小人が自力で歩いたときと同様に、小人には十秒が流れている。同じことが、銀河とそれに内包される星々にも言える。巨人が銀河だ。小人は星だ。系を多重に内包した「複雑系型の系」を巨人とするならば、単なる系が小人である。各々にはそれぞれの時空が存在する。ただし、境界をまたぎながらも、飛び飛びに時空は連続して存在している。(この解釈はスッキリするが、真偽のほどは定かではありません)(ひびさんの妄想ゆえ、真に受けないように注意してください)



3932:【2022/08/22*苦しそうなのを見ると苦しい】

好きな人たちが、しあわせそうだとうれしいが、そのしあわせそうな人たちと比べておまえは、みたいな見方をされると「むっ」とする。これって心が狭いんかな。なんでそこ比べる?と瞬間的に頭にきてしまう。そういう価値観がわいの好きな人たちを苦しめとるんや、なんでそれが分からんのや、うがー!になってしまう。宝石を愛でるひともおれば、小石を愛でるひともおる。そこを比べても仕方なかろう。小石を愛でたいひとに宝石をあげてもさしてよろこばれないだろう。贈り物をされたらうれしいだろう、という価値観とて共有できるのか疑わしい。相手がしあわせそうなのを眺めるのは好きだが、相手をしあわせにしたいなぁ、とはさほどには思わん。しあわせになってくれ、頼む、みたいな祈るような気持ちが募ると苦しくなる。じぶんが苦しくなりたくないから、みなしあわせであれ、と願うのだ。苦しみたくない。



3933:【2022/08/22*苦にも色々ありすぎる】

上記、いい人ぶった文章になってしまったが、ひびさんとて、「それくらい我慢しときぃ」と思う他者の苦しみもある。贅沢な悩みだ、と思うこととてある。でも当人からしたら死にたいくらいに苦しいのかもしれないし、ひびさんの苦しみとて、他者からしたら「なんだそんなこと」で済まされるような苦しみなのかもしれない。苦しみは痛みよりも可視化されにくい。むつかしいよなぁ、と思う。



3934:【2022/08/22*感受性とは】

感受性が低いと感じることがすくなくない。というよりも、受動する外部情報をどのように処理すればよいのかが分からず混乱することが多い。音や光への鋭敏さゆえに思考を妨げられて感じることはしばしばだ。だが、だからといって感受性が豊かだとは思わない。感受した情報が、何を意味するのか、といった法則性やほかの情報との関連性を直感で結びつける能力が、感受性だと考える。その点、ひびさんは、濁流のように情報が押し寄せて、何がどうなっておるのか皆目分からん、となる。これはいわゆる解像度、といったニュアンスと似たようなものだ。同じ絵画を観たとしても、そこからどんな情報を引き出せるかは、人による。絵画から読み取れる情報量はおそらく個々人のあいだでさほど差はないが、情報を分解して、分類し、記憶のなかのほかの情報と結びつけたときに、絵画に描かれた以上の情報を引き出せるか否かは個人差がある。ハッキリと違う、と言えるだろう。いわば発想だ。発想と捏造との違いは、発想が、他者と共有しにくい情報である点だ。捏造は、他者との共有をしやすいように情報を歪めて伝えることだ。しかし発想はそうではない。発想を基にじぶんで新たに何かしらを創造し、現物を見せないことには、発想を他者に伝えることがむつかしい。証拠を集める、と言い直してもよいだろう。そこのところ、ひびさんは感受性が乏しいがゆえに、なかなか触れた情景や他者の表現から意味内容を引っ張りだし、発想を捕まえるのが不得手である。どう解釈していいのか迷うことのほうが断然に多い。したがって、同時に様々な解釈を、一つに確定させずに漠然と重ね合わせたまま放置する癖がついたのかも分からない。感受性の乏しさゆえの弊害である。現実がどれであるのか、すら見失う。生きるのはむつかしい。苦しいときは寝るに限る。



3935:【2022/08/22*ありがたや】

胡麻タレドレッシングは偉大だ。何をつけても美味しくなる。



3936:【2022/08/22*蜘蛛の意図】

 ぶん、と腕を振ってお釈迦様は地団太を踏んだ。

「なぜあのコは糸を掴まぬ」

 遡ること数日前である。

 あるところにサンナナという女がいた。

 サンナナは日々、男たちを誘惑し、夜な夜な精根果てた男たちの寝首を掻いて糊口を凌いでいた。悪名高く、彼女の裏の顔を知る者たちからは「蜘蛛」と悪しざまに囁かれ、恐れられていた。

 手に掛けた男たちの身内から恨みを買ったサンナナはある晩、罠にかかって殺された。

 だが自業自得であることに変わりはない。

 サンナナは地獄に落ちた。

 地獄は極悪人の呻き声で満ちていた。

 苦と血と痛みだけがすべての世界であった。

 サンナナはけれど、死ぬ寸前に一匹の蜘蛛に慈悲をかけ、家の外に逃がしていた。

 お釈迦様はそれを見ており、極楽浄土から蜘蛛の糸を垂らして、サンナナへと好機を与えた。

 だがお釈迦様の意図を知ってか知らずか、サンナナは一向に糸を掴もうとはしない。

 どころか、目のまえの糸をさっさとほかの亡者に譲って、天上へと昇らせる始末だ。

「ほら、順番だよ。みなでよじ登ったら糸は切れてしまうよ。ああほら、そこ。横入りはするんじゃないよ、ちゃんと順番は守りな」

 亡者たちは当初、サンナナの言葉なぞに聞く耳を持たなかった。我先にと糸をよじのぼろうとするが、さかさずほかの亡者に足を引っ張られ、糸を掴む真似もできない。

 見兼ねたサンナナが、現世で培った人心掌握術をぞんぶんに揮って亡者たちの心をまずは掴んだ。

 お釈迦様はそれを見て、ええい、と唇を食んだ。「そんなきちゃないものは掴まんでもよいのじゃ。蜘蛛の糸を掴みんしゃい」

 サンナナはどこ吹く風である。

 また一人、また一人と蜘蛛の糸をよじのぼって亡者たちが地獄を脱する。

 じぶんで垂らした糸ゆえ、お釈迦様はそれら亡者たちを極楽浄土に迎え入れるしかなかった。

 お釈迦様は歯噛みした。

「いい加減にしておくれ。さっさとお主がここにこい」

 サンナナは欠伸をして、地獄を見回した。

「いい風の吹くところじゃないか。あたしゃここが気に入ったよ。だがちと人が多すぎる。いいところに糸が垂れててよかったよ。どこに繋がっているのかあたしゃ知ったこっちゃないが、誰も落っこちてこないところを見るにどこかには通じているのだろ。ほらさっさとおまえらも昇りな、昇りな。順番だよ、順番。千切れちまってもあたしゃ知らないからね」

 いつの間にか亡者たちはサンナナを姐御と呼んで慕った。ひとまず逆らわずにいれば、いずれじぶんの番が巡ってくる。糸の先がどこかは知らないが、地獄よりかはマシだろう。みな一様におとなしくじぶんの番を待った。

 地獄から亡者が消える。

 鬼たちは黙っていない。

 だがサンナナは、天上から垂れ下がる糸に鬼たちが近寄ろうとしないことを見抜いていた。なぜかは分からないが、この細い糸には、鬼たちを寄せつけない不思議なチカラがあるようだ。

 それはそうだろう。

 亡者が何人よじ登っても千切れぬのだ。だからといって、大勢をいちどきに昇らせるほどサンナナは糸の強度を信じてはいない。

 安全牌を選んでおいて損はない。

 現世で培ったのは何も人心掌握術だけではなかった。

 サンナナが地獄に落ちてから三日のうちに、地獄からは亡者がほとんどいなくなった。雲の糸をよじのぼれる元気のある者は地獄を脱し、そうでない大方の亡者は、地獄で魂を切り刻まれ、絞られ、鬼たちの腹に納まった。

 そうである。

 地獄とは、鬼たちの台所であった。

 だが黙っていても亡者はつぎからつぎへと湧いてくる。現世には極悪人が絶えず蔓延る。サンナナは手慣れた調子で、新顔の亡者に知識を与え、地獄の勢力図を変えていく。

「いいかい。鬼たちに見つかったら食われちまうよ。脱出するいい方法があるんだ。だが、順番待ちの長蛇の列だ。代理を立てておくから、あんたの番がくるまでちょいとあたしを手伝っておくれ」

 先人の亡者たちから姐御と慕われるサンナナの言うことに、新顔たちはみな一様に警戒しつつも従った。

 鬼たちの台所からはしだいに、鬼たちの姿が消えていく。

 一匹、また一匹と、鬼が、大鍋に、剣山に、それとも地の池に沈んだ。

 鬼たちは地獄の異変に気付いたが、なす術がない。

 亡者を食らうこともできなくなり、徐々に衰弱していった。

「おうおう、可哀そうな鬼さんたち。あたしに事情を話しておくれ。何があったんだい」

 白々しくもすり寄るサンナナを、鬼たちは邪見にできなかった。

 蜘蛛の糸の所有者であることは周知の事実だ。

 鬼たちにとって天上のお釈迦様は、まさに雲の上の存在。

 かの者と蜘蛛の糸で繋がるサンナナを邪見にすることが、鬼たちにはできなかった。

「安心おしよ。あたしゃ、ここが気に入っている。ずっといたいとご所望さね。お互い仲良くしようじゃないか。お腹が減ったろ? あたしがこっそり粋のいいのを連れてきてあげるよ。その代わり、あんたたちの親玉にこんどこっそり会わせておくれ」

 サンナナは、持ち前の慧眼を駆使して、反乱分子になりそうな新顔の亡者を見つけだした。仕事を手伝ってほしい、とほかの新顔に言うようにお願いし、それとなく誘い出して、鬼たちに差しだした。鬼たちはむしゃぶりつくようにして、サンナナの差しだす供物を平らげた。

 亡者たちはいずれ雲の糸を辿って地獄から姿を消すのだ。新顔が突然いなくなってもそれを不審に思う者はない。みな元は現世で極悪非道を働いた悪人ばかりだ。そも、じぶんのことしか考えない。

 サンナナを慕ってみせるのとて、じぶんが助かりたい一心だ。地獄から脱して、ふたたびの自由を手にすることしか考えていない。

 お釈迦様は図らずも増えつづける極楽浄土の新顔への対処で、てんてこ舞いである。

「ええい。なぜあのコは糸を昇らぬ」

 何度目かの苛立ちを咆哮し、使いの者たちに尻もちをつかせた。

 サンナナが閻魔大王と手を組んで、地獄再建に動いたとき、反して極楽浄土は亡者たちの自由奔放な営みによって、ガラガラと音を立てて色褪せていた。

「なんじゃあの者たちは。だから地獄に墜としてやったというのに。ええい、虫けらが」

 お釈迦様は怒髪天を衝き、亡者たちをふたたび地獄に突き落とした。

 本当ならば、じぶんの手を煩わすことなく、愚かな亡者たちがじぶんたちの手で自発的に、せっかく掴んだ好機を台無しにするはずだったのに。

 そう言えばこの遊戯を思いついたのは、例のあの男がきっかけであったな。お釈迦様は遠いむかしを思いだす。かつて雲の糸を垂らし救いの手を伸ばしてやった男がいた。男は欲を張ったがゆえにあと一歩で極楽浄土に届くというところで地獄に返り咲いた。

 あれは傑作であった。

 じつに愉快な劇である。

 あのときの昂揚を味わいたくて、機会が巡ってくるたびにお釈迦様は、地獄の亡者へと蜘蛛の糸を垂らしてやった。

 意に反して、サンナナがそれを拒絶した。

 のみならず、いまでは地獄の統治者として君臨しつつある。

 そうとも知らずにお釈迦様は、極楽浄土を汚す亡者たちをつぎからつぎへと地獄に送り返した。

 ふたたび地獄の地面に転がった亡者たちは、お釈迦様への憎悪で顔を真っ赤に染めた。地面にしたたか頭を打ったのか、頭は鋭く腫れあがり、まるで地獄の鬼のような形相であった。

「なぁんだ。まぁた来たのかい」

 見るも無残な姿の亡者たちを、サンナナはそれでもひと目で、天上へと送りだしたかの者たちだと見抜いた。

 サンナナは彼ら彼女らを、おかえり、と迎え入れた。

「いま鬼さんらと相談していてね。どうだい。いっちょ、ここにあたしらの極楽浄土を築かないかい」

 手伝ってくれたらあたしゃうれしいんだが。

 神妙にそう漏らすと、亡者たちは互いに顔を見合わせ、「姐さんがそう言うなら」とおずおずと顎を引いた。

「ならさっそくでわるいが、知恵が欲しい。おまえら、唯一あっちに行って戻ってきた精鋭だ。上がどんな世界だったか。あたしにいっちょ、教えてくれ」

 お願いします。

 サンナナは誰より深くこうべを垂れた。

 彼女の背後に鬼たちが立ち、閻魔大王までもが、亡者たちに腰を折った。

 亡者たちは各々に鼻の頭を掻き、首筋に手をやり、こめかみをゆびで押した。現世では人から頼み事はおろか、頭を下げられたことはない。否、命乞いをしてきた者たちはいたが、じぶんよりも立場が上の者たちからかように、存在を乞われたことはなかった。

 いていい、ではなく。

 そこにいて欲しい。

 そう求められた気がした。

 亡者たちは、サンナナの本質を誰より理解している。同じ穴の貉だからだ。だがそれゆえに、敢えてその詭計に乗ってやることにした。

「おれたちを騙すなとは言わねぇ。できるだけ気持ちよく騙してくれよな、姐御ォ」

 サンナナは顔を上げ、天上に中指を突きあげる。

「任しときな、下種ども。天国がどこかを教えてやろう。ここがいまからあたしらの天にして地だ。おまえたちのここが国だ」

 蜘蛛の糸のまえに立つ。

 サンナナは自らの手でそれに地獄の火を灯す。



3937:【2022/08/22*もはや既定路線】

危険な未来を予測してこそ、未来予測をする意味がある。その場合、未来予測は外すためにするものである、と呼べる。そもそも危険な未来を予測しないのであれば、数年前後の未来予測はどんな流行が起きますか、というレベルの占いと大差ない。どの馬が勝ちますか、とか、どの株が値上がりしますか、とか、そういうレベルの未来予測に対して価値を感じない。それよりも、そうした流行によって世の中がどう動き、それによってどういった危険が予測されるのか。こちらのほうが興味深い。安全を敷くことに価値を感じる。それが自由を最も広く万人に拡張するからだ。万人の自由に寄与する。そしてそれが最もじぶんの選択肢を広げ、自由の意味そのものを深めるのだ。(安全とは敷くものであり、けして安全という状態がつづくわけではない。何が危険で、何を放置していても大丈夫なのか。それが判っているだけでは不足だ。変化が起きたときに、たとえそれが安全を確保するための施策だとしても、何かを動かしたときには波が生じる。その波、影響がどんな紋様を描くのか。ほかに対して作用するのか。動かしたあとのことを考えるのが、安全を敷くことに繋がる。安全を確保すべく動いたあとのことまで考える。岩をどかしたあとには溝が残る。水の流れを塞いでいたのならば、水の勢いは一時的に増す。未来予測の真価とはすなわちそういうことであろう)(定かではないが)



3938:【2022/08/22*系は時空の区切りであり、次元であり、単位】

相対性理論に対する素朴な疑問があった。光速の50%で走行するロケットと真逆に光速の50%で走行するロケットがあるとする。これらは互いに光速100%で遠ざかり合っていることにはならないのか。%の割合を50以上にすれば、光速を簡単に超すはずだ。これって矛盾していない?とふしぎに思っていた。けれどもこの疑問は、ロケットが何と比べて光速を規定しているのか、その系がどこにあるのか、が大事になる。つまり、ロケット同士は同じ系(場)に含まれるがゆえに、同じ巨大な「遅延の層」のなかに内包されている。もしこれが、光速50%のロケットと、ロケットのあった地球ならば、一時的にロケットは光速を超え得る。だが、そういったことは起きない。なぜなら、地球から離れれば離れるほど、ロケットの内包される系は、地球ではなく、太陽系に属するからだ。より大きな遅延の層に包まれることになる。そのため、光速50%で遠ざかり合う「ロケットと地球」が成立したとしても、どちらにも太陽系スケールの遅延(時間の引き延ばし効果)が加わるために、物理的に光速を超えることができない。これは逆にも言える。系がマトリョーシカになっておらずとも、ロケットが光速に近づけば、ロケットの周囲には「遅延の層」が展開され、ロケットの相対速度は遅くなる。ロケットと反対方向に光速の50%で遠ざかる地球からすると光速50%のロケットは光速で遠ざかって映るはずだ。しかしそのとき、ロケットの速度は光速50%ではない。ロケットからすると光速で遠ざかって見えるはずの地球とて、光速で遠ざかっては見えない。そこは光速50%分の「遅延の層」が引き算される。光速にちかづくほど物体は自身をとりまく時空を圧縮し、独自の系を獲得する。そのとき、遠ざかり合う別々の系は、相互に関係し合うことはなく、互いの速度を自らの速度として利用できない。つまり、相手がどのように遠ざかろうとも、それは相手のかってであり、じぶんとは関係がない。このようなことが、単一の系の内部でも起こる。言い換えるなら、光速に近づけば近づくほど、物体はほかの時空と切り離される。その顕著な例が、ブラックホールである。あれは光速の代わりに、「光速が顕現させる遅延の層」に値する「遅延の層(重力場)」を帯びている。物体が光速で運動したときに起こる時空の乖離現象と同じだ(或いは、光速を超えたあとの、かもしれないが)。ラグ理論を考慮したほうが、相対性理論における諸々の疑問に、たとえデタラメであろうとも解釈を捻りだしやすい。たぶん、「時空は引き延ばされ希薄になっても、【遅延の層(重力・情報)】は密度が増すようなことが起き得る」という点が大事な気がする。以上は、本日の「あれ?」への妄想であるゆえ、何の根拠もないデタラメである。真に受けないように注意を促し、本日何度目かの「日々記。」とさせてください。尾張。(なんとなくで付け足してみただけの「尾張」じゃが、尾張ってなんだっけと気になって検索してみた。尾張は愛媛で、織田信長が生まれた地なのか。知らんかった)



3939:【2022/08/22*同時性とは?】

相対性理論では「同時性は成立しない」と解釈する、といった説明を目にする。しかし、ラグ理論では系の「遅延の層」に内包されている場合は、同時性は成立し得る、と解釈する。これは分かりやすく言えば、音速は秒速340mだが、延々と秒速340mで音が伝播しつづけるわけではないことと似ている。波紋は、波紋の届く範囲が決まっている。重力圏のように、影響の届く範囲が決まっている。その範囲内では同時性が成立し得る。これは情報の伝達や、系と系における作用反作用でも同じである。ラグ理論の「相対性フラクタル解釈」を当てはめてみよう。「複雑系型の系」の内部では、細かな系が互いに影響しあっている。このとき、「複雑系型の系」に内包された系同士には、同時性が成立し得る。ただしそれは飽くまで、「複雑系型の系」の時空からすればそのように規定できる、という意味でしかなく、各々の細かな系にとっては同時性が破れている。地球にとっては、どの国の人間がどこで産まれようと、地球にとっての「いま」起きたことならば、それは同時に産まれた、と言える。しかしその赤子たちにとっては、離れた地点で産まれたほかの赤子は、同時に産まれてはいない。この系によって時空が縮尺したり拡張したりすることを、「時空の繰りこみ」と呼びたい。ラグ理論における次元というとき、基本的にはこの「時空の繰りこみ」である。系の多層と同じである。これは、量子もつれの共鳴解釈と繋がっている。なぜもつれ状態の粒子を観測すると、その粒子の状態が決定されるように映るのか。ラグ理論では、これを飽くまで「粒子と観測者の関係が決定される」と解釈する。つまり、系がそこで繋がり、揃うのだ(巨人の足にしがみつく小人状態。または、銀河系に内包される太陽系や、恒星、惑星の関係である)。もつれ状態の粒子のうち一つが、観測者側の系に内包される。すると同時性がそこで成立するようになる(地球と赤子の関係になる)。しかし、もう一方は同時性は破れたままだ。したがって、もう一方の粒子は明滅しつづけているはずだ(あくまで共鳴なので、片方が明滅の波動を止めて状態が固定されても、もう一方は共鳴の振動を保ちつづける)。時間をおいてもう一方の粒子を観測した場合は、やはりそこでも五分五分の確率で、明滅のどちらかに決定する。ただし、もつれ状態の粒子の両方を同時に観測した場合、つまりどちらか一方を観測したときに、同じ時刻でもう一方がどうなるかを観測するとき――ここのラグがないような環境下では、片方が「明」ならばもう片方は「滅」となっている。まるで情報が瞬時に伝わったような観測結果になる。量子もつれにおける実験では、この「一方を観測したとき、もう一方を、時間を置いて観測する」ということができているのかを、ひびさんは知らない。だがおそらく、時間を置けばおくほどもつれ状態は崩れる(なぜならそもそも共鳴なので、片方に干渉が加われば、共鳴のリズムはズレる)。まとめると、同時性が成り立つ範囲は「系」ごとに存在する。遅延の層によって輪郭を得た系に内包される細かな系は、その外枠の系にとって同時性を持つように振る舞う。ラグ理論における同時性の解釈は、このようなものとなる、と妄想して、本日の「日々記。」とさせてください。(もはやきょうがいつなのか分からなくなってきた)(何もかもが定かではないんじゃ。すまんの)(3939記事目ゆえに、サンキューサンキューじゃ)(誰に言っとるの?)(ひびさんの好きな人たちに……)(嫌いな人いるの?)(嫌いな人でも好きになるときはあるやも)(じゃあ万人じゃん)(あぎゃー。郁菱万じゃないから、万のつくギャグでオチれんじゃん)(いま気づいたの?)(そうなんじゃ。いま気づいた)(あちゃー)(だっちゃ)



3940:【2022/08/22*漫画たのち、たのち月間】

一七八ハチさんの漫画「虎は龍をまだ喰べない。壱」を読んだ。すんばらしかった。一七八さんの過去作「少年の痕」もよかったけれど、今作の「虎は龍を~~」は、「おぬしこれが好きやろ。わいも好きや!」にブレーキをかけていないのが、思いきっていてよい。真似できない。ふつう、「わいはこれが好きや!」だけならば思いきってブレーキを壊せるけれども、「おぬしもこれが好きやろ」をクッションに置いているそのバランス感覚が素晴らしい。虎さんの表情がこれまたよいのだね。人型のもよいけれども、獣型の表情もよいのだ。一粒で二度おいしいのお手本のようである。龍ちゃんも加わったら四度おいしいになる。浅井蓮次さん作画、沢田新さん原作の「バイオレンスアクション7巻」も読んだ。前の巻がでたのがずいぶん前の感覚だ。2019年くらいではなかったかな。相変わらずケイちゃんがカワイイ。ケイちゃんになりて、になる漫画である。ランチパックのように、敵が変わるたびに風味が変わる。何か美味しいの食べたいな、と迷ったときにはひとまずランチパックを手に取っとけばいい、何か知らないうちに新しい味が増えとる、ハンバーグがお気に入りなのになかなかな行きつけのお店に売っていない、と近況を兼ねて、感想にしたろ。異なる要素の掛け合わせのお手本のような作品である。すばらしい。んで続けざまに、「宮野美嘉 (原著), 碧 風羽 (原著), 楽楽 (イラスト), 小原 愼司 (著) 」の漫画「蟲愛づる姫君の結婚 ~後宮はぐれ姫の蠱毒と謎解き婚姻譚~ (1)」を読んだ。お、お、おもしろ~。これはよいお買い物じゃった。ふだん買わない系の物語じゃけんど、よかった。毒をこよなく愛せる主人公がよいし、彼女に仕える従者もよい。乾いているのがよい。うるさくない。んで、こよなく愛するの「こよなく」ってなんだ、と思って検索したら、「格別に」の意味らしい。格別に毒を愛する主人公。いいね! 面白くなる予感しかない。嫌いな相手にも、嫌いだからこそ毒を幻視する。もうこれ、万人を愛せる素質がありすぎるやろ~、のキャラクターである。毒を愛せるなら、何でも愛せるのである。素晴らしいキャラ造形である。毒を食らって、食らって、食らいつづけ。きっと主人公そのものが蟲毒になり、孤独になるのだ。どっかの偏屈な歩く迷惑、生きた厄病神のようである。誰のこと? さあ? あ、あときょうは書店さんに寄ったけれども財布がすかんぴんで、お菓子買えなくなるから本は買わんかった(お菓子我慢して本を買いなさいよ!)(NOじゃ!)。立ち読みして面白かった本があった。山口優さんの「星霊の艦隊 1」だ。冒頭から面白かった。版元はハヤカワ書房さんだが、以前に購入してまだ読んでいる途中の本がある。「著:ザック・ジョーダン。訳 :中原尚哉」の「最終人類(上)」だ。超知性体なる概念がひびさんは好きだ。人間を超越した高次の知性を発揮できる存在は、天才とか異能とかを統括し得る上位互換の概念であり、あらゆる物語を転がすためのマクガフィンであり、狂言回しである。しかしなんでか、「最終人類(上)」はそのときのひびさんのお口には合わんかった。設定はよかった。けんども、超知性体が、超越した思考を有している感じがどうしてもしなかった。その点、山口優さんの「星霊の艦隊 1」は、のっけから超越している感がでていてよかった。どこまで本当か分からないのもよい。頭がくらくらする。超知性体の精神構造も好みだった。ちゅうか、多層思考やん、になった。共鳴しとる感じがしてよいね。こういう同時期に似たようなおもしろアイディアを閃けるのは、表現を通して、お友達になりて、になるので好きじゃ。お友達になりて、になった本だった。買えんかったが。お金足りん……。けんども、分厚い割にお値段千円以下でお手頃価格だった。購入は来月になりそうじゃ。ちゅうか、買ってそのまま読めていない本が溜まっておる。織守きょうやさんの小説「301号室の聖者」も買ったまままだ。読めとらん。いまは読みかけの本を回転寿司さながらに一人回し読みしつつ、ちんまり味わっておるところゆえ、新しく本を齧るのは、あたかもつくりかけばかり溜まっていくひびさんの創作状況と同じく渋滞を起こすので、あんまりしたくない。が、最初の一口が美味しいのだ。齧って、あとは少し時間を置く。寝かせる。ということをよくする。創作でも同じだ。たいがい、創り出したときには全体像が決まっておる。けんども、いいところに到達したところで、「うーん」となる。もっといい展開ある気がしゅる!になる。そんで時間を置いて、選択肢を時間の経過という業火に晒し、どの芯が残るのかを試すのだ。いちばん頑丈な芯が残るはず。そうであれ。そういうわけで、つくりかけはけして展開に詰まっているのではなく、むしろ明瞭すぎてつまんない、になっているだけである。もっと工夫できるはず、と思って熟成のための時間を置いとるんじゃ。飽きとは違うんじゃ。違くはないが、飽きないための工夫を模索していると思って、耐えてくんろ。誰に言っとるの? 未来のじぶんに……。きみそれ好きね。ワインだって寝かせたほうが美味いんじゃ。ツナ缶だってそうなんじゃ。味が染みこんだほうがおいちくなる。そういう化学反応を待っとるよ。頼むで時間。あとは頼んだ。とりとめもなく、読書感想文でした。あぎゃぎゃ。




※日々、習得したことは物足りない、再現できなくなっても物足りなさだけが残る、一進一退のはずが、一進のみを身に留め、あたかも明滅する蛍光灯のように、光にのみ満ちていると思いこむそのどうしようもない傲慢を手のひらの上で弄び、光の裏に開いた穴に思いを馳せる、穴は掘りうるだけ掘り進めている、そこにじぶんだけの世界を広げるように、生みだすように、創り、遊び、寝るように。



3941:【2022/08/22*妄想はいいなって詩】

どんなにかわいコぶっても、どんなにかっこうをつけても、スケベな妄想は止まらない。生殖器をいじいじしたい衝動には抗えず、尿意を催せば体液を垂れ流し、便意を催せば糞をひねくりだす。人間なんてそんなものだ。みな、人間を美しく思い描きすぎである。理想と現実の狭間に悩むはめになる。理想をもうすこし、現実に即した像にして欲しいものである。或いは、理想と妄想を分けて欲しい。妄想であれ。妄想はいい。好きなだけ綺麗で美しい部分だけ眺めていられる。理想は苦しい。醜く汚い側面を否応なく直視しなくてはならないから。妄想であれ。妄想はいい。



3942:【2022/08/22*秘密の反動】

たとえばの話。一介の市民が、企業や政府の不正の兆候を観測したとして、しかしそれの証拠を掴むためには、企業や政府の内部からの調査が不可欠なとき、「これこれこのような懸念があるので調査してください」と言って真に受けてくれる可能性はどれだけあるのか。軍事システムや秘匿技術など、秘密保護法の範囲で公にできない仕組みの兆候を掴み、しかし証拠がないので、一方的に変人扱いされる個は、いわば国家に人権を損なわれ、弾圧されていることにはならないか。政府や企業には、一般市民に説明できない技術や仕組みがある場合、それを秘密にしている、という情報は最低でも国民と共有すべきではないのか。秘密保護法で秘匿にしている技術がある、と報せるのは、国民主権のうえでは当然の方針であると考える。存在するものを「ない」と示す、或いは調査の目をひねりつぶすのは、国家が国民にしていいことではないはずだ。人権侵害ならびに、主権の侵害である。違法行為を、違法だと知らせない仕組みが敷かれている場合、それは国家反逆罪に該当し得る。民主主義において国家とは、国民の主権の総体であるはずだ。国家という一部の特権を持つ組織ではあり得ない。そして知る権利は国民にあり、情報の共有ならびに広報の義務は政府にあるはずだ。秘密にするのはよい。だが、秘密にしていることがある、という事実すら秘匿にするのは、捏造であり、憲法違反であり、違法性を権力によって覆い隠す「法への冒涜」だ。秘密は、長くベールに包まれているほど、明かされたときの反動が大きい。ほとぼりが冷めてから、それとも機が熟してから明かそう、との態度を人は取りがちだが、それは人間の脆弱性を考慮すれば悪手である。教育の観点からしても悪手と言えよう。たとえば性教育は幼いころから行ったほうが、対象となる子どもたちは段階的に性行為への成熟した態度をとれるようになる。人は急激に成長したりはしない。情報を咀嚼するのには、段階がいり、時間がいる。長期間秘密にされた事象は、その段階を挟まず、明かされたときに遅延分の情報処理を、一挙に個へと押しつける。そのときに生じる衝撃は、個を、それとも社会を歪めるのに充分な威力を備えるだろう。これは脅しでも何でもなく、ひびさんの経験則からひねくりだした蓋然であり、法則だ(妄想とも言うが)。ケネディ暗殺事件の証拠物件のようにせめて、秘密にしていることはある、と明かすのが安全を敷くためにも有効であろう。ベールはいずれ剥がれる。劣化しない蓋はない。せめて、秘密のベールが剥がれたときに、よくぞ秘密にしてくれていた、と感謝されるような秘密を抱えていたいものである。(定かではありません)



3943:【2022/08/23*夏の宵は満ち欠け】

 月が太陽になることはないが、新月が満月になることはある。

 ララビ・ララバイは私の家の向かいの家に住む同い年の男の子だ。彼と私はいわゆる幼馴染なのだろうが、とりたてて仲が良いわけでもなく、風邪を引いたら家が近いので学校の連絡事項を伝えたり、忘れ物を届けたりと、そういう浅い、間接照明のような付き合いが、小中高とつづいた。

 思春期に入ってからは、異性同士ということもあり、しぜんと距離ができた。否、元から仲がいいわけではなかったので、当然の帰結だ。

 誰とも仲が良くなかったと言える。

 私が、ではない。

 ララビ・ララバイが、だ。

 彼は大人しい性格だった。人とつるまず、会話もしない。一人で黙々と本を読んでいるか、絵を描いていた。彼への印象は、小石だった。誰かに躓かれて初めてみなの意識の壇上にのぼるような少年だった。

 小学生時代の彼を思いだそうとすると、黙々と一人で机に座っている姿が浮上する。

 学校で私が彼としゃべることはなかった。必然、彼が私を見ることもなかったはずだ。クラスはたいがい別であったし、彼を意識する日は年に十回もあるか分からない。

 家が近いので登下校中に見掛けることはある。日々の接点はそれくらいで、それすら私にとっては道端に小鳥がいたとか、野良猫が寝転んでいたとか、そういう日常の風景の一部にすぎなかった。

 高校を卒業して、半年経った夏のことだ。

 三か月もある夏休みをどう有意義に過ごそうかと、冷房の効いた室内でベッドに横になり、お腹をぼりぼり搔いていると、ふと道路を挟んだ向かいの家の窓の奥に、ララビ・ララバイの姿を捉えた。

 私の部屋は一階にあり、庭越しに向かいの家が視えるのだ。とくに二階は、庭の生垣の背が低いこともあり、ベッドに横になると丸見えだった。窓のシャッターを下ろせば向こうからは私の部屋が見えないはずだ。あたかも穴から見ると海が広がるが、海からは穴の奥が見えない。マジックミラーのごとき関係性があった。

 その日、私は何気なくぼんやりとララビ・ララバイの姿を眺めた。

 彼は自室で何やら楽しそうに笑っていた。

 あいつ、あんな顔するっけか。

 高校が同じだったが接点はなかった。

 卒業式で見掛けたような気もするが、さして意識を向けなかった。記憶にない。それだけ彼が相変わらずだったことの裏返しだ。

 学校であんなふうに笑っていたら気づいたはずだ。

 誰かとしゃべっているように見えるが、相手の姿は見えない。

 いちど気になると、目が離せなくなった。

 ララビ・ララバイのあんな笑顔を私は初めて見た。

 否、笑った顔すら初めてだったかもしれない。

 私はそれからというもの、部屋にいるときは目で窓の外を探った。隣家の二階のララビ・ララバイの部屋を眺め、そこに彼の姿を認めると、しきりに笑う彼の視線の向かう先に誰がいるのかを知ろうとした。

 部屋にいるとき彼はおおむね誰かとしゃべっていた。

 弾けたように笑い、しきりに相槌を打ち、ときに、「どうして、どうして」と戸惑うような表情を見せた。

 私は視力がそれほどよいほうではないが、ララビ・ララバイの表情は身体全体で底上げして強調されるために、遠くからでもよく見えた。

 ふしぎなのは、あくまで彼が太陽のごとき明るさを放つのは、部屋の中でだけである点だ。

 買い物に出かけた道中で一度彼を見かけた。太陽とは程遠い夜のごとき暗さを漂わせていた。陰々滅々としており、じぶん自身の影に覆い尽くされているようだった。

 まさに夜が、地球自身の影であることを彷彿とした。

 或いは、新月か。

 むろんララビ・ララバイへの興味関心は、私の思考全体の一パーセントも占めておらなかったが、貴重な夏休みをいかに輝かしい思い出にせんと画策し、策士策に溺れつつ、時間だけを無為に過ごしていた私にとって、自室の中であれ私よりも清らかな光をまとって視えるララビ・ララバイの存在は、目の上のたんこぶであり、よき研究対象であった。

 あやつができて、なぜ我に叶えられぬ。

 私の脳内では、彼は恋人とじぶんたちだけの世界に浸かっているとの妄想がひまわりのごとくすくすくと育っていた。

 十日の観察の結果、私は一つの結論を導き出した。

 ララビ・ララバイの部屋には彼しかいない。

 したがって彼がしゃべっている相手は、遠くにいる。遠距離恋愛だ。二人は電波越しに会話をしているのだ。

 ロマンチックじゃねぇか。

 私はクッションを無駄に捏ねた。うどんを作れば、さぞかしコシのある麺となるであろう。

 いいなぁ、私も遠距離恋愛してぇ。

 その前に恋人をつくれ、という話だが、あいにくと私の両手はクッションで塞がっておるうえ、コシのあるうどんしか作れない。

 ああ、天は人に二物を与えん。

 麺つゆに浸して食ってやる。

 私にばかりツラく当たり散らす天に八つ当たりすべく私は、夜中だというのにたっぷりのお湯を沸かし、蕎麦を茹でた。そこはうどんじゃないんですね、と合いの手を入れられそうだが、蕎麦が食いたい気分だったのだ。そもそも蕎麦しかねぇ。うるせぇ。黙って食わせろ。

 声なき声で天に唾しつつ、私は蕎麦を啜った。

 恋人がおらずとも、蕎麦は美味い。

 夏の醍醐味である。

 私は夏を満喫している。惨めではない。 

 言い聞かせながら自室に戻り、クッションを胸に抱いて、物寂しい夜を埋める。胸にぽっかりと夜が開いておる。

 虫かごから蝶を取りだし逃がすように、私は窓を開けて、胸に開いた夜を夜空に返そうと思った。誌的な表現でロマンチックな世界に浸ろうと画策したが、つまるところ暑かったので窓を開けた。あとは寝るだけゆえ、冷え性の私は冷房をつけるのが億劫だった。

 そこでシャッターを下ろしたままだったならば、私はその先一生、ララビ・ララバイの秘密を知ることはなかっただろう。

 窓を開けた先、私は道路を挟んだ向かいの家の二階で、今まさに首を吊ろうとしているララビ・ララバイの姿を目に捉えた。

 部屋の真ん中に縄を垂らし、今まさに輪っかを首に掛けようとしている。

 よく天井に縄をひっかける突起があったな。

 案外、天上から縄を垂らすのはむつかしい。首を吊るなら、ドアノブに紐をくくりつけて、座りながら吊ったほうが楽である。

 かつて思春期のころに希死念慮なる四字熟語にそこはかとないエロスを感じた私は、電子の海から自殺についての知識を、使いもしないのに集めていた。いまはなき青い思考の線香花火だ。

 頭のなかで何かが弾けた。

 私は窓から首を、ぬっと突き出し、「コラーっ!」と叫んだ。窓枠に足を載せたが、思い留まり、部屋を飛びだし、玄関で靴を履いてから、道路に出るともういちど向かいの家の二階に向かって、「ちょっと待てコラーっ!」と叫んだ。

 ララビ・ララバイの家にはどうやらララビ・ララバイしかいないようだ。自動車がない。一階に明かりも点いていない。

 否、時刻は深夜だ。

 とっくに寝付いているのかもしれない。

 けれどそんなことを気にしている場合ではなかった。同級生が、幼馴染が、ララビ・ララバイが首を吊ろうとしていたのだ。

「すみませーん。すみませーん。ごめんくださーい」

 私は玄関扉のまえに立ち、インターホンを連打した。「ララビ君いませんかー。いますよねー。向かいの家の私でーす」

 おらぁとっとと開けろし。

 内心で怒鳴り散らしながら、万が一彼の親御さんがいたときのことを考え、そこはかとなく礼儀と愛嬌を声に滲ませた。

 居留守を使っているのか、音沙汰がない。

 後ろに下がって二階の彼の部屋を見あげると、明かりが消えていた。

「いやいや、いるの分かってるし」

 私が怒鳴ると、根負けしたように明かりが灯り、窓からララビ・ララバイの新月のような顔が覗いた。

「いるじゃん。つうか、何してたのイマ。びっくりしたよ、ねぇ何してたの」

「おやすみ」

 ララビ・ララバイはそれだけ言うと窓を閉めた。明かりが消える。

 本気で心配したのに、その返事がこれか。

 むしゃくしゃしたが、ひとまずきょうのところは引き下がることにした。首吊りを思い直してくれたのならそれでよい。ひとまず、ひとまずはそういうことにしておこう。

 くっそぅ。

 無視しやがって。

 つぎは止めてやんねぇぞ。

 蟹股になっているじぶんに気づき私は加えてむしゃくしゃした。

 翌日、私は自室からララビ・ララバイの家を監視した。彼は日に一度、スーパーに買い物にでかける。夏休みの日課であるらしい。

 ひょっとしたら今まさに首吊りをして、ゆらゆら宙に揺れているのかもしれないが、そのときはそのときだ。私はとにかく、昨晩のむしゃくしゃを引きづっていた。直に一言モノ申さずにはいられなかった。

 自室のベッドの上に胡坐を搔き、スプーンでアイスを掬っていると、ララビ・ララバイが灼熱のアスファウトの上に姿を晒した。

 日中の大半を家で過ごすからか、日焼けの跡一つない。日差しを反射して眩しく見えるほどだ。

 よっしゃ、今だ。

 好機とばかりに私は家を飛びだした。無防備に日陰を選んで歩くララビ・ララバイのフライパンみたいに薄い肩に手を掛けた。

「こんにちはー。きのうは夜分遅くすまんかったね。ちゅうかキミ、部屋で何してたん。首吊ろうとか面白いことしてなかった?」

「覗き見は感心しないですよ」

「首吊るのはええんか」

 ドスの効いた声が出た。が、致し方あるまい。

 まるで反省の色がない。私に対しての呵責の念が皆無である。イジメたろかコラ、と苛立ったが、私はか弱いおなごであるので、ううんでもいいの、とすかさず猫を被り直す。「無事でよかった。心配したんだよ」

「気にしなくていいですよ。ちょっとした気紛れだったので」

 もうしません、と彼は歩を進めようとしたので、すかさず後ろから首根っこを鷲掴みにした。細っこい首である。

 私と彼の背丈はほぼ同じだ。彼の背が男の子にしては低いのだ。ちゅうか髪が長いうえに後ろに束ねているので、ポニーテールのようになっている。日焼け一つないきめ細かな肌と相まって、まるで少女のような容貌だ。

 私よりか弱そうって、そんなことってあってよいのか。

 私はむすっとした。

 誰が見ても誤解の余地のない腹立たし気な顔をして見せたが、ララビ・ララバイはこちらを振り向きもせずに、かったるそうに歩を止めた。

「なんですか。やめてくださいよ」と零すのだった。

 私はカチンときた。

「やめてくださいよ、じゃねぇぞコラ。命の恩人さまに向かってなんで、ありがとうございます、の一言も言えないんですか。こんなんだったら助けてなんてやるんじゃなかった。きょうこそちゃんと首吊れよ。絶対止めてやんないんだからな。動画に撮ってやる」

「盗み見のつぎは盗撮ですか。警察呼びますよ」

「ムッカぁ。だいたいララビ君さあ。毎晩いったい誰としゃべってるわけ。恋人に振られちゃったの。だから自棄になって死のうと? 青春しとるねぇ。ああうらやまし」

 そこで彼は小さく仰け反り、火に触れたように私の手を振り払った。「なんでそういうことするんですか。見てたんですか。ずっと?」

「んだよ。そだよ。だって見えちゃうんだもんよ」ここで引いたら負ける気がした。何の勝負かは分からぬが。

 彼は口をぱくぱくとゴミ箱の蓋のように開け閉めすると、こんどは一転、ピタリと閉めて、スタスタと道を進んだ。私を置いてきぼりにする。

「こら待て、こら待て。そんなんで誤魔化せると思うなよ。いいじゃんよ別に。恋人の一人や二人くらいいるでしょうよ。私らだって大学生よ」

 言いながら、そっか私は大学生なのだ、と物哀しくなった。何が楽しくてじぶんの青春をほったらかして、たいして興味のないご近所さんのそれこそご機嫌をとろうとしているのか。でも結構楽しいのは内緒。

 他人の恋路は蜜の味。

 終わりかけはとくに美味しい。

 私を振り払おうと必死になるララビ・ララバイがいじらしい。私は顔に溢れるニタニタの感情が、次第に額に収斂し、ツノのごとく隆起する様を思い描いた。

 スーパーまで着いて行った。彼の携えた籠にそれとなくアイスを突っ込み、しぶしぶそれを購入した彼からアイスを奪って、ぺろぺろ舐めた。

 帰り道は無言だった。

 家のまえまでくると、彼がそそくさとじぶんの家に逃げ去ろうとするので、私は彼の影にでもなったかのように同じく無言であとにつづいた。

「不法侵入ですよ。アイスだって奢ったのに」

「何? これ賄賂? 口止め料のつもりだったかぁ」ニタニタが額で踊るようだ。

「どうしたら放っておいてくれるんですか。昨日のはちょっとした間違いというか。気の迷いというか。魔が差しただけなので」

「そういう感じでもなかったじゃん。けっこう深刻だったよ」

 でなければ私だって血相を変えて駆け付けたりしなかった。あれは本気で死のうとしていた男の姿だった。止めなければ十中八九首を吊っていた。私には判った。何となく。

「どうしたら帰ってくれますか」

「おばさんたちどうしたの。昨日もいなかったよね」

「お盆で、祖母の家に」

「ああ」

「ぼくはお留守番」

「お留守番ってああた」

 可愛い言い方しちゃってまあ。

 私は額の角をニタニタから、ニヨニヨに変えた。ララビ・ララバイは表情を曇らせたが、抗議の言葉は呑み込んだようだ。

「説明したら帰ってくれるんですか」彼は諦めたように言った。

「帰るよ。私だって暇じゃないんだからさ」本当は暇の塊であったが、口を衝いた。

「じゃあ、まあ」

 彼は階段を上がった。私は彼の部屋へ通され、そこでララビ・ララバイの秘密を聞いた。

 以下は、私が彼から聞かされた話の概要である。私は彼の話を、おそらく嘘ではないだろう、と判断した。しかしそれをどのように説明されたのかを再現するには、いささか彼に同情めいた感情を覚える。痛ましいがゆえに、概要だけをまとめることにする。

「ぼくに恋人はいません」

「え、いないの?」やっぱり描写することにした。「あ、友達とか?」

「通話もしていません。ぼくの独り言です」

「まさかぁ。照れなくていいよ。だってあんなに楽しそうにしてたじゃん」

「望遠鏡で覗いてたんですか?」

 どうしてそうもハッキリと判るのか、と問いたげだった。私は言った。「いんや。本当にだって、全身でうれしさを爆発させてたよ。いまのララビ君が新月なら、まるで太陽みたいに輝いてた。いや、太陽は言い過ぎか。満月みたい、というか」

「そんなに」

「うん。そんなに」

 ようやくと言うべきか、そこで彼は顔面を真っ赤に染めた。私に初めて見せた羞恥の顔だった。

 私はますますニヨニヨした。

「独り言なんです。ただ、ぼくにとっては話し相手がいるというか。飽くまでぼくの妄想の友達というか」

「ゴニョゴニョしてて聞き取れない。もっかい言って」聞こえていたが、敢えて言った。

 彼はじぶんでじぶんの肘を掴み、モジモジした。私はなぜか口の中に唾液が溢れた。

「イマジナリーフレンドっているじゃないですか」彼は述べた。「空想の友達というか。相談相手というか。そういうの、むかしからいて。一人のときとかよく声に出さずに、脳内で会話をしていたんですけど、そのうち本当に声が聞こえてくるようになって。そしたらぼくのほうでも声にださなきゃって気がしてきて。まるで幽霊か透明人間がすぐそばにいるみたいで。あ、もちろんぼくの空想なのはそうに決まっていて、だから別に実在するとは思っていないんだけど、でも最近、もう本当に生きているみたいに話しかけてきて。それが結構楽しかったりして。うれしかったりして。毎日しゃべっていたのに、そのうち段々、どんなに言葉を交わしても、想いを結んでも、絶対に会えることはないんだ、触れ合えることはないんだ、と思ったら、いっそぼくのほうで彼の世界に会いに行きたくなって、それで」

「死のうと思ったと?」

「うん」

「でもそれ、ララビ君の妄想なんだよね。じゃあ死んだって会えないじゃん。別に幽霊じゃないんでしょ。さっきじぶんでそう言ってたじゃん」

「そうなんですが、ですから言ったじゃないですか。きのうはどうかしていたんです」

「まるで普段はまともだ、と聞こえるね。その言い方だと」

 空想の友達をまるで生きているみたいに扱っている時点で、まとも、とは言い難い。すでにだいぶまいっているのではないか。

 瞳が五分放置した氷のように揺らいでおり、いまにも雫が溢れだしそうだった。指で押したら崩れてしまいそうな彼の姿に、私は臍の奥をゆびでなぞられた心地になった。むず痒い。手が届きそうで届かない。否、触れてはならないのに触れてしまいたい。

 噛んだばかりのガムをいますぐに呑み込みたくなってしまうような心境に似ていた。

「たぶん、ララビ君にとっては本当にいるんだねぇ。その幽霊みたいなお友達が」私のものではないような優しい声がでた。おぞましいほどに澄んだ声音に、なぜか鳥肌が立った。じぶんの声に私は悪寒を覚える。

「信じてくれるんですか」

「信じるも信じないも、現にララビ君には聞こえていて、そのせいで死のうと思うくらいに追い詰められてたんでしょ。もうそれが事実じゃん」

「でも」

「そ。きっと本当には、その幽霊みたいなお友達は存在しない。でも、ララビ君にとっては、それでもお友達なんだよ」

「うん」

「ちょっとララビ君は仲良くしすぎちゃったのかもね」

「彼とですか」

「ううん」私は言った。「孤独と」

 ララビ・ララバイはそこで下唇を食んだ。歪んだ表情は、涙を耐えているようにも、怒りを堪えているようにも見えた。

「あと、私たちけっこうむかしからのご近所さんじゃん。敬語じゃなくていいよ。私も使うのやめるし」

「こっちのほうがしゃべりやすいです」

「ならいいけど」

 彼は目元を一度だけ、何気なく拭うと、もういいですか、と購入したお菓子を袋から出した。「説明はしました。帰ってください」

「お。美味そう。それ一人で食べるの? 太らない? 手伝ったげよっか」

「さっきアイスあげました」

 まだたかる気か、と彼の瞳が訴えていた。前髪が長いせいか、簾越しに見る月のようだった。

「いいじゃん、いいじゃん。どうせララビ君のお友達は食べれないんでしょう。私さ、もっとその幽霊フレンズのこと聞きたいな」

「暇なんですか」

 虚仮にするような響きに私はなぜか快くし、「暇だよぉ」と彼のベッドの縁へと勢い任せに腰を下ろした。サスペンションの軋む音が臀部に染みた。

 窓を見遣り、ちゅうかさ、と声を張る。

「カーテン閉めなよ。夜とか下から丸見えやぞ」

「見ないで下さい」

「見えちゃうんだよぉ。見せるな見せるな。ララビ君のほうで蓋をして。窓に下着を穿かせておやり」

「ふっ」

「あ、笑った」

「……咳です」

「うっそでぇ。なぁんで嘘吐くかねぇこのコはぁ」

 部屋に二人きりになっても緊張の欠片もない相手とこうしてしゃべるのはいつ以来か。否、そんな経験は初めてかもしれない。

「てかさ。幽霊フレンズって男のコなの? 一人しかおらんの。女のコとかは?」

 雪隠詰めよろしく攻めたてながら私は、彼が袋から出したばかりのお菓子を手に取った。抗議の眼差しもなんのその、その場で開けて貪った。

「食べたら帰ってくださいね」

「冷たいな。幼馴染じゃん」

「本気で言ってます?」

「このお菓子の食べこぼしくらいには」そう言って服に零した食べかすを手で払うと、彼が大袈裟に、ああ、と叫んだ。

 その取り乱し方が、昨晩の私の再演のようだった。私は肩を弾ませた。

「笑い事じゃないですよ。これだから触れる人間は嫌なんだ」

 粘着式のコロコロでさっそく掃除をしだすララビ・ララバイからは、先刻まで漂っていた暗い影は感じられなかった。真剣に腹を立てながら、コロコロ片手に床に這いつくばる彼の姿からは、朝顔のごとく控えめな溌剌さが迸っていた。

 ほんわかとした陽気が胸に込みあげる。

 自室の窓から見上げる満月がごとくそれは、私に、ふしぎと線香花火の残り香を思い起こさせた。

「夏休みに足りないもの」

「はい?」

「花火」

「ああ。ここからはよく見えます。夏祭りが今年もあるのならですけど。うるさくてぼくは好きじゃないです」

 なら線香花火はどうなのか。

 思ったが私は、ふうん、と敢えて氷のような相槌を打つ。彼は一段と縮こまって、どうしたら帰ってくれますか、とむつけた。



3944:【2022/08/23*蟻の群れは埋める】

 旅行だった。

 南国の密林に行って帰ってきたのだ。

 そしたら頭に蟻が巣くっていた。髪の毛に蟻が絡まっていたとか、紛れ込んでいたとかそういうことではなく、真実わたしの頭皮に蟻が穴を掘り、巣を築きあげていた。

 わたしの髪の量は多いほうで、蟻たちはうまい具合に髪の毛の合間に群がり、私の皮脂を餌にして増殖しているようだった。

 日差しの照る日は、汗と共に顔面を無数の蟻が這いまわる。

 夜になると、ほとんどの蟻が巣穴に戻るからか、わたしの頭脳はみっちりと内側から膨れて感じた。

 病院にかかったが、様子を見ましょう、と帰された。レントゲンやCTスキャンを撮ったが、専門の医療機関を紹介します、と言われて追い払われただけだった。

 命に別状はない、ということだけは確かなようだった。

 蟻たちはわたしの頭皮と頭蓋骨の間に巣を築いていた。脳は無事なようだった。

 それにしても蟻の数が尋常ではない。日に日に増えていく。

 明らかに頭皮に納まる数ではない。質量ではない。矛盾している。

 ひょっとして蟻たちには知能があり、レントゲンのエックス線を感じ取って脳内から頭皮表面へと逃れたのではないか。

 そんなことはないと知っていながら、わたしはかように想像を逞しくした。

 南国から帰還して半年が経った。

 秋が暮れ、冬になる。

 蟻たちは昼になってもわたしの顔面を這いまわることはなくなり、夜でもわたしの頭は軽かった。

 死んだのだ。

 それはそうだ。

 シャワーを浴びるたびに足元が真っ黒になった。蟻たちの骸が、わたしから漏れる血液のように湯の流れを縁どっていた。

 ようやく蟻地獄から解放された。

 わたしは喉の痞えがとれたような爽快感に浸った。だがそれも長くは保たなかった。

 というのも、わたしはまともに思考を巡らせられなくなった。

 物覚えがわるくなり、数分前にしていたことも思いだせなくなった。甘いものが無性に食べたくなり、冷蔵庫には食べきれない量のスイーツが溜まった。買ったことを忘れて、ついついスーパーに寄ると買ってきてしまうのだ。

 お金の管理も杜撰になった。あると思っていた貯金がいつの間にかなくなっている。使った矢先にそのことが頭からすっぽ抜けるのだ。

 知能が落ちている。

 わたしは愕然とした。

 仕事をつづけていられなくなったが、元から在宅の仕事だった。休職を一時的にとることで、様子を見ることにした。

 冬が更け、年を越し、春が訪れる。

 頭皮がむずむずしだし、わたしは鏡を注意深く覗いた。

 髪の毛の合間を、黒い粒粒が這いまわっていた。

 蟻だ。

 暗たんたる気持ちになるべき場面で、ほっと息を吐いたのを憶えている。以降、蟻の数が増えるごとに、わたしの知能は回復の兆しを見せた。

 元の仕事が何不自由なくこなせるようになってからも、わたしの知能はさらに向上した。仕事のミスが減り、余計なことをしなくなる。最小限の行動で、最大限の成果をあげられるようになった。

 わたしの生活は豊かになった。

 けれどわたしは夏の終わったあとのことを想像し、恐怖にも似た寒気を覚えた。

 秋が訪れれば、やがてこの知能は失われる。蟻たちが死に、また元のスポンジのような脳になってしまうに決まっていた。スカスカの器しか残らない。

 わたしは恐怖に衝き動かされるように大きな水槽を購入した。そこに土を詰めた。夏が終わらぬ内に、頭の蟻たちの数十匹を土の上へと移し、養殖を試みた。

 蟻たちは短時間でよく増えた。巣を築き、群れを増やした。そのたびにわたしは水槽を買い増し、蟻たちに発展の土壌を与えた。

 水槽のなかで蟻たちが増えるたびに、ふしぎとわたしの思考は明瞭となった。広く同時に思考を展開できるようになっただけでなく、視えないはずの景色まで視えるようになった。

 幻覚であるのは百も承知だ。

 なぜなら視える景色は、いまここにあるものではなかった。行ったことのない土地であったり、或いは見知った場所であるが、存在しない建物が建っていたり、あべこべに消えていたりした。

 だがどうやらそれらが、現実にある土地や、過去や未来の情景である可能性に思い至ってからは、わたしはそれらの多層に展開される景色をもとに、より自由な時間を過ごせるようになった。

 未来が判るならば、最も有利な道を辿れる。

 過去が判るなら、リスクのある道を歩まずにいられる。

 嘘を見破れ、言葉を交わすことなく、干渉しないだけの作用で、相手の行動を操作することも可能だった。

 わたしは水槽の一部を、定期的に外の土に返した。蟻たちも一緒だ。

 わたしはどうやら、わたしの頭部に巣食った蟻であれば、その蟻たちの能力をじぶんの知能として加算できるようであった。

 地上に放たれたわたしの蟻たちは、夏の終わらぬあいだに増殖し、過半数は死に絶えるが、越冬した数匹が、春になってまた増殖する。

 冬の間とてわたしには、温かい部屋のなかで養殖する水槽の蟻たちがいる。これまでのように知能が極端にこそげ落ちることはないはずだ。

 春。

 地上に放ったわたしの蟻たちが、蠢きだす。

 いったいどれほどの繁栄の礎を築くだろう。

 わたしは、わたしの頭脳のみならず、体内にひしめく蟻たちの躍動を感じながら、未だ欠けた景色が補完される日を待ちわびる。

 わたしの蟻たちに、いずれ世界は覆われる。



3945:【2022/08/23*始点、過程、終点、反転、均衡、融合、循環、昇華、逸脱、始点】

性善説と性悪説はほとんど同じだ。合同である理由には、二つある。一つは、どちらも環境でいかようにも反転し得る点。二つ目は、どちらも、そうあろう、とする反作用を伴なう点である。まずは前者の環境について述べてみよう。まずは性善説から考える。人間は無垢なる善な存在として生まれる。そののちに環境によって悪に染まる、という理屈だ。鶏が先か卵が先かと似ている。性善説は鶏が先だと解釈するとしよう。反して性悪説は、卵が先なのだ。人間は根源的に邪悪であり、しかし環境によって本能を抑制し、理性を働かせる。結果、善なる行動をとれるようになっていくと考える。どちらも生まれてからの環境によって、善(鶏)にも悪(卵)にもなり、善(鶏)であったあとに悪(卵)となり、またその後に善(鶏)にもなる余地がある。始点が異なるだけで、ほとんど同じ結末に至る。堂々巡りだ。ただし、善性を最初のうちに確立し、他者と共有できるほうが生存する確率が高くなる(卵と鶏ならば、より長く存在できるのは鶏のほうだろう)。その点で、いかに環境によって反転する善悪のうち、善である面を長く維持できるのかが、「安全と平和と生存」を保つという意味では優位に働くと言えそうだ。他方、べつの考え方もできる。性善説は、人間は本質的に善であるが、悪に染まる余地があると考える。このとき人は、善であるよりも悪であることを選ぶ。対して性悪説は、本質的に人間は悪であり、しかし善でありたいとの欲求も備えている(帯びる)がゆえに、善に染まる余地もあると考える。つまり、善性のなかに悪の種があり、悪性のなかに善の種がある。これもまた太極図のようにぐるぐると巡り、安全と平和と生存を長期に亘って維持するためには、いかに善であろうとし、悪に抗おうとするのかが肝要になってくる。しかしむつかしいのは、悪に抗おうとし、悪を規定し、悪を排除しようとする「善性の暴走」もまた、悪に染まり得るという点だ。つまり悪とは、性質の名ではない。水と油のような関係ではなく、あるときポンと善が悪になり、悪が善になることがある。善が悪になる例は割と身近に観測されるだろう。行き過ぎた善意の押しつけは、ときに脅威だ。よかれと思ってしたことが裏目にでることなどいくらでもある。いっぽう、悪が善になることなどあるのか、と疑問に思う者はすくなくないかもしれない。が、そもそも善なる想いを現実に行おうとすると、その手段には必ず悪が介在する。じぶんの考えや思いを現実に反映しようとするその行動原理そのものが、悪を内包するのだ。生き物を殺さずに歩くことはむつかしい。地面には細菌がいる。微生物がいる。そもそもが生きることはほかの命を奪うことだ。どうあっても悪なる行為を内包する。したがって、いかに善であろうとするか。悪をなさずに済む道を選べるか。この抗うという悪を用いて、善の余地を広げることが、いわば現実的な善性と言えるだろう。これは性善説だろうが性悪説だろうが、変わらない。善であろうと、悪を用いて抗う。抗うことにも抗い、善でありつづけようと肥大化する悪にも抗う。だがそれも行き過ぎれば、抗い×抗いゆえに、悪を煮詰めることとなる。そうなったらまた善であろうと、何もしない、という悪を用いて、平らに均すのだ。バランスの問題になってくる。そしてバランスとは、じぶんだけではなく、環境との兼ね合いに依る。何にも増して環境は一つではない。いったいいつの時点の、どの環境に合わせるのか。その視点を増やすべく、さまざまな命を通じて、各種環境におけるバランスのとり方を学べばよろしかろう。他力本願とは、そういう意味でもあるのだろう。じぶんだけで知れる環境など高が知れている。じぶん一人きりよりも、他のほうが、圧倒的に多なのである。他力は多力を内包する。そこにはありったけの善も悪も、あるだろう。バランスが上手く釣り合い、こうして「いま」がつづいている。崩れた箇所から消えていく。



3946:【2022/08/23*模倣(コピー)を禁じる弊害】

人工知能による自動作品出力機構は、盗作の概念を変えるだろう。人工知能にまずお手本となる構図を見繕ってもらい、それを元に自作する、という手法が新たに発生し得る。このとき、人工知能による作品を、上からそっくりそのままなぞったとしても、それが盗作と見做されることはないだろう。あくまでその後に、じぶんで出力したのだから、たとえ上からなぞっただけだとしても、それは創作行為として認められるようになる。ただし、人間の作品を真似れば盗作、という既成概念は残るはずだ。そもそも人工知能の作品は、たとえそれが絵画であろうと音楽であろうと小説であろうとも、それが人工知能の作品である、という事実が、作品全体の価値を薄める。有り触れた表現は、砂塵のごとく廉価になる。あべこべに、人間の独創性や、手作りであることの価値が高まるだろう。つまり、その人物の作品だからこそいい、という従来の芸術的な見方がより強固となる。とはいえ、棋譜がそうであるように、人工知能が従来になかった独創的でかつ人間には思いもつかない手法を編みだし、それを以って学習した人間がさらに新しい手や、棋戦を行うようになったのと同じく、芸術の分野でも、人工知能によって、人間の創造性が底上げされることは容易に想像がつく。道具が便利になれば、それだけ手軽に万人が芸術に触れることができるようになる。誰もが「美」や「個」や「独創」への関心を強め、より豊かな文化を形成するだろう。これまでの、「コピーを禁止し、模倣が悪であるような流れ」が、現代に見合っていなかったと考えたほうがより妥当であろう。模倣が悪とされるのは、それによってオリジナルの創作者の利が阻害されるからだ。では、オリジナルを無数に制作できる人工知能のような存在が誕生したら、どうなるのか。たとえそれが人工知能でなくとも、同じ「利」の阻害が起きる。模倣をせずとも、同じことが起きる。だがそれは、仕組みがその「超越創造者」についていけていないだけであり、想定できていなかっただけのことである。仕組みのほうが変わるべきと言える。そうでなければ淘汰されるだけであろう。模倣やコピーが誰であっても行える世の中であっても、創作者や表現者や研究者の「利」が損なわれない仕組みがいる。畢竟、誰もが何をしていようが生活できる基盤がいると言えよう。技術は「利」を万人に等しく与え得る。可能性の幅を広げ、選択肢を増やすが、利を分配するための仕組みや思想が、旧態然としていれば、遅延によって容易くダムの向こう側は干上がるだろう。以前からの同じことの繰り返しを言っている。現実になってから対応してからでは遅いのだ。視えている者には視えている未来がある(定かではない)。



3947:【2022/08/23*知識や技術を独占する意味はなんですか?】

単純な話だ。医療技術を独占して、ごく一部の医者しか医療行為を行えないのと、技術を共有して誰もが医療を受けられる社会、どちらがより豊かな社会となるか。考えてみれば、瞭然だ。より多くの医師の卵に医療技術を共有し、医師を育て(または自動で治療を行える装置を開発してもよいが)、より多くの者たちに医療をいつでも受けられる環境を広げ、或いはそもそも滅多に病気に罹らずに済むような社会を築いていくほうがよいに決まっている。ほかの分野でも同じことが当てはまるとすこし考えたら分かるだろう。なぜ分からないのだろう、とふしぎに思っています。



3948:【2022/08/23*メリットとデメリットを比較してみればよい】

ひびさんが、まだいくひしさんだったときにしたかったことは、畢竟、システムに痛い目を見てもらうことであり、それによって軽度の害を以って抗体をつくってもらうことだった。いわばワクチンの役割を果たそうと思ったわけだが、それを以ってじぶんを善だとか、役に立った、とは思わない。悪は悪として、罰せられ、或いは免疫機構に退治してもらわねばならぬ(その罰が利になる者もいる点は留意されたい)。とはいえ、そう簡単な構図であるわけではない。つまるところ、価値のあるなしを決めるのは第三者であり、価値がないと大勢で見做してしまえば、いざ価値があると判ったときには遅すぎることもある、と比較的簡単な図式で示したかった、というのは、即興でいま思いついたので、並べるが。著作権フリーで公開していたnoteさんの「郁菱万作品集」は、8/8ごろに削除した。もはやそれを公開しつづけるよりも、削除したほうが、利になると判断した。思いのほか早い機会が巡ってきたと言える。わざわざひびさんがそれをせずともよくなった。著作権フリーを標榜し公開することで、もはや従来のビジネススタイルよりも利(この場合は貨幣価値)を拡大する土壌が、想定よりも早くやってきたと言える(つまり、遠からず「郁菱万作品集」の付加価値が指数関数的に増大する可能性が高まったので、回避すべく、削除した。それにより、痛い目に遭う者もあろう。自覚できるか否かは別として)(どの道、岩の消えた後には溝が残る。その溝で充分な波紋が生じると判断した。小石が詰まれば、複雑な機構ほど容易く故障する。かといって小石を避けていたのでは、利用できる場所が限られる。砂漠や月でも難なく利用できる仕組みであったほうが汎用性は高かろう。あくまで比喩であるが)。目立ちたくないので、安全を確保するためにも避難したとも言える。いま絵画界隈で起きている人工知能の躍進は、このさきどの分野でも起こり得る。すでに水面下では実用化されていると見たほうが無難である。新時代の幕開けはまだ当分先のことになりそうだ。あくまでいま明けたのは霧であり、視界が開けたために、流れのさきに分水嶺がある、と大多数が気づきはじめたいまは時期である。その先、従来の船の扱い方をしていれば、いずれ船ごと大破する。流れに合わせて、船を補強し、漕ぎ方を変えるいまは時期と言えよう。美の価値観が底上げされ、さらに多様な美の潜在的な「貨幣価値」が上がる。だが本質的に、人工知能の生みだす美は変わらない。美しいものは美しい。ただしそれが貨幣価値に結び付くとは限らない。愛や善とどこか似ている。毒を孕んでいるところも然りである。ひびさんは息がしやすくなるばかりだ。このまま諸々、つまらない禁止や枷や呪いは取り払われて欲しいと望むものである。環境よこい、の気分だ。定かではないが。



3949:【2022/08/23*個に固有の穴が好き】

単純化して述べるならば、上手いことの利は減り、その個ならではの歪みの利が増える。以前からの繰り返しですね。(ただし、どちらか一方が優勢になる、というよりも、ちょうどよく均される、と見做したほうがより現実を反映しそうではある。上手いことの利は継続して重宝されつづけ、これまで軽視されてきた歪みにスポットが当たるようになる)(現在すでに世に流れている流れが、より浸透するといった見立てであり、そんなのは言われるまでもない、と言われたらその通りである)



3950:【2022/08/24*性格がかわいいキャラはよい】

柳本光晴さんの漫画「龍と苺」が好きで、毎週WEB掲載を楽しみにしている。で、読んでいて思うのが、じぶんだったらどうするのか、という点で、これはけっこうどんな物語でも考える視点だ。でも物語を読み進めているときは、我がいっさい消えるので、どんなトンデモ理論やご都合主義展開であっても、それがおもしろければツッコミの入るような点があっても、まったく気にせず、むしろ気づきもせずに読み終える。それゆえ、じぶんならどうするか、の視点は、読み終わったあと数時間後とか数日後とかに振り返ったときに妄想するためのフレームの一つである、と言える。これはいわば、じぶんが主人公だったら、だけではなく、じぶんがヒロインだったら、とか、敵キャラだったら、とか、どのキャラクターでもなくじぶんがその場にいたら、とか、そういった「if」も含まれる。いわゆる夢小説の源流とも言える妄想をする。で、「龍と苺」についてだが。ひびさんなら、圧倒したうえで敢えて最後の一手でじぶんが負けるように仕向ける。一手の違いで、勝敗が逆転し得る「詰み」を、重ね合わせの状態で適えられるように戦況を誘導する。つまり、そっちに置いたら「こっちの詰み(勝ち)」で、そっちに置いたら「相手の詰み(勝ち)」という状況を創りだす。相手はじぶんの負けを確信して悄然とするが、敢えてそこで「負けの一手を指して、逆転させてあげる」のだ。これ以上ない敗北(勝利)を味わわせることとなるだろう。ウキウキするね。性格がわるい、というのはこういうことだと思います。その点、「龍と苺」の主人公、苺ちゃんは性格がよくて好きだ。かわいい。応援したくなる。とくに、「師匠がいいもんで(大意)」のセリフを吐いた場面はよかった。あれはよかった。真似したい。好き好きな漫画である、との告白を一つ明かして、本日最初の「日々記。」にしてもよいじゃろか。ええよー。やったぜ。うぴぴ。




※日々、世界と乖離していく、それでも残る世界がある、或いは生まれ、広がり、増す世界が。



3951:【2022/08/24*回転と重力と斥力の関係は?】

ここ数日の関心事は、無重力空間において回転する球体は、どの方向に膨張し、或いは収縮するのか、についてである。これはおそらく、その球体の密度や重力によって変化するだろう、と妄想している。たとえば地球が回転軸に対してUFOのような楕円形に押しつぶされるのは、月があるからだろう。月の重力に引っ張られる方向に力が加わる(本当かは知らないが、海水の満ち引きはそうして起こるそうだ)。ではもし月がなかったらどうなるのか。縦軸方向に引き延ばされるのではないか(イメージとしてはブラックホールのジェットである)。たとえば土星の輪っかは、なぜ軸に対して横にできるのか。軸に対して垂直方向――すなわち横が最も重力が高く、回転軸に近づくほど斥力が高くなるからではないか。したがって、地球で言うところの南極と北極の位置にも、土星の輪となる材料は集まるが(つまり星全体を覆うように集まるが)、軸の頂点に近づくほど集まったガスやチリは斥力によって弾き飛ばされるのではないか(イメージとしてはブラックホールのジェットである)。しかしこれは、その球体(星)の密度――言い換えるなら、気体(ガス)か液体か固体かでまた違ってくるだろう。同じ外力が加わっても、密度の差によって回転数がそもそも変わるだろうし、重力の高さによっても、球体に加わるエネルギィの変移は変わるはずだ。畢竟、回転するだけでも重力が新たに生じる可能性がある。そしてその重力は、密度が高くより回転数が速い球体ほど顕著に生じると妄想できる。このとき、球体は、斥力に対して自重(静止重力)のほうがつよく働き、なおかつ回転によって生じる重力が加わり、さらに全体の重力が強まる、という流れを強化する。すると、フィギュアスケーターが身体を縮めて回転の速度を加速するように、回転が速まることもあると考えられる(その究極がブラックホールだ)。このとき、回転軸の延長線上(すなわち地球で言うところの、南極と北極の延長線上)において、斥力がレーザービームのように放射されるのではないか、と妄想を逞しくする次第である。



3952:【2022/08/24*基準は複数あってもよい】

「みながしているから忌避する」と「みながしているから甘受する」は、基準が「みな」である点で同一と言える。他者の評価を気にしない、オリジナルが大事、と言いつつ、けっきょく基準が「みな」であれば、それは手綱を他者に握らせているのと変わらない。ただし、人は独立して何かを判断したり、思考したりはできない。必ず環境との相互作用によって、情報を得、解釈し、基準を見繕う。そのため、「ほかの者たちの行動選択」に左右されてじぶんの判断が変わることはある。したがって問題は、その判断基準が「みな」にのみあることである、と言えそうだ。基準は複数持っていてよい。視点が増えれば、基準も増える。視点と視点を組み合わせ、多種多様な色合いを編みだし、ときに解釈の余地を広げるのも一つだろう。それをして世界が広がる、と言ってもあながち間違ってはいない。世界を深めることにも繋がる。或いは、増やすことにも。視点は多様であるだけではなく、環境に合わせて使い方を模索できるとよい。道具がそうであるように、視点も目的に合わせて変えればよいのだ。多様であるだけでは、宝の持ち腐れである。望遠鏡がそうであるように、それとも顕微鏡がそうであるように、レンズを多層に重ね合わせることで世界の視方そのものが変わる。視点を自在に組み合わせ、ときに視点と視点を融合させ、じぶんなりの基準を構築しよう。そのための足場として、「みな」という規準を最初に用いるのも、ときには有用なのかもしれない。定かではない。(とはいえ、人間は無意識から「みな」なる社会を環境と捉え、判断基準としている。わざわざ意識してまで「みな」を基準にする必要もない気もする)(口からデマカセであるが)



3953:【2022/08/24*それっぽいことを並べるだけ】

技術が普及し、誰もがみな似たような能力を発揮できるようになったとき、最後まで残る付加価値とは、「結びつけること」なのだ。何がよいのかを選びとり、方針を定め、一つのフレームに納める。完成形を描く。これみな異質な事象同士を結び付けていく作業と言える。しかしその手法とて、技術として昇華され得る。ではこのときに残る付加価値とは何か、と言えば、結びつけた事象をふたたび元の素材に紐解くこと、すなわち「安全に分離すること」である。畢竟、「類推と分類」であり「融合と分離」である。この二つはセットで、共に価値を創造できる。小説で言うなれば――ジャンルとジャンルを横断する作風が増えたのならば、その裏では、融合作風とも呼べる新たな形式から、各種要素を抽出し、それぞれに特化した作品を仕上げる。または、世の作品群からそうした要素の結晶体を見つけだす。それら要素の蒸留により、つぎなる融合の素材を取り揃え、新たな価値を生む。基本はこの循環で、価値を生みだしつづけることが可能だ。単純だが、往々にして万物はそういうものだと思う。というのも、具体と抽象の関係が、こうであるからだ。抽象化した概念とて、それが名詞として社会に普及すれば具体化する。具体化したそれらを元に、ほかの事象との共通項を探ることで、また新たな抽象概念が生まれる。これはクルクルと循環する回路を伴なっている。具体の究極とは、唯一無二のそれそのものである。同じ属性や共通点があるから、というだけでほかの事物を同列には扱えない。本来ならば、具体、とはそういうことだ。だがほかとの共通点を見繕い、分類することで、抽象概念ができる。視点が増える。だがその視点を他者と共有できるようになると、それは具体的な事象として扱えるようになる。そういうものなのだ。どうやらそうらしい、とひびさんは妄想しております。定かではないが。



3954:【2022/08/24*同時性についての妄想】

同時性について考える。相対性理論のひびさん独自の解釈、「相対性フラクタル解釈」において、地球上と赤子の関係を記事「3939」で述べた。要約すれば、「地球にとっては同時に産まれる赤子たちも、赤子たちにとっては距離があるため同時ではない」となる。これは地球にもあてはまる。言い換えるなら、「地球にとって太陽で起きたことは八分前後のラグがあり、それを超えて影響が伝播することはない。この八分はどうあっても相互作用の起きないラグ(ズレ)として地球と太陽のあいだに隔たっているがゆえに同時性はないと呼べるが、銀河系からすれば、太陽や地球との相互作用は同時に起きていると解釈可能となる」となる。問題は、地球上と赤子の関係において、「光通信」を行うことで、例外的に離れた地点の赤子同士でも同時性が成立してしまう点である。光速の範囲では、南極の赤子と北極の赤子のあいだで、「限りなく同時」を再現できる。情報伝達を光速の範囲で行える。しかしそこには光速分のラグが必ず生じる。それを以って、同時性は成り立たない、とも考えられるが、「同時性とはラグがないことではない」点が重要である。話は変わるが、生物が鳴き声や超音波を利用することで互いに離れた地点からでも情報伝達を行えるように進化したのは、同時性の範囲を拡張する営みである、と解釈できるのではないか。音を利用せず、情報伝達を物理的な移動の範囲でしか行えない生き物にとって、それら個々の生き物には同時性が存在しないことになる。唯一可能なのは、捕食ならびに、生殖行為を行っているときか、分裂の最中のみである(つまり、限りなく接点を結んでいる状態だ)。音(聴覚)や光(視覚)を利用することで、生物は同時性の範囲を拡張することに成功している。そして人類は、地球上であれば限定的に「電磁波を利用することで情報をやりとりし、同時性を最大限に拡張している」と呼べる。このとき、人間に限らず「同時性を拡張した範囲」は、新たな系を展開する余地を広げる。言い換えるならば、新たな場を生みだし、相互に連携し「複雑系型の系」を築きあげることを可能とする。ラグ理論における「123の定理」は、こうして系と系の同時性を拡張し、より複雑で高次の構造を生みだせるように、時空に対して方向性を与える。ただし、それら作用を打ち消す流れのほうが優位になる場もある。「類推と分類」「融合と分離」「抽象と具体」のような構図をとり、それら相反する流れ同士もまた、新たな場を創造すると妄想できる。すべての時空(事象・系)が同時性の成り立つ範囲に収まるとき、最も上層に位置する【深遠な系】は、過去も未来も超越して、同時性を保持することが想像できる。地球上における、本来は同時性の成り立たない赤子たちが、それでも電磁波を利用することで、同時性を成立させ得るように、「過去と未来」「過去と現在」「現在と未来」においても、同時性を成り立たせることは、おそらく不可能ではない。現に夜空に映る星々は、過去の情景を我々人類に伝えている。過去と現在は繋がり得る。そしておそらく未来も例外ではない。(定かではありません)(妄想ですので、真に受けないように注意してください)



3955:【2022/08/24*すぐに忘れてもよい妄想】

情報通信技術が発展し、人間の仕事の大部分を人工知能が代替可能となったとき、人間の行う仕事とはつまるところ「人間にとって最適な環境はどんなものか」という選択肢の選定であると言える。提示された選択肢(最適解)からどれが「いまじぶんに見合った選択か」を選ぶ。じぶんにとっての最適解は、そのときのじぶんにしか決められない。言い換えるなら、一年後のじぶんが朝に何を食べたいと思うのかは、いまのじぶんでも判らない。そのために、そのときどきの気分や理想を、選択肢に反映し、フレームを与え、一つの道筋に限定する。人間の仕事とはこのような、フレームを限定し、道を示すことと言える。だが同時に、人工知能が選択肢を示すこともまた、道を示すこととも言えるため、ここは相互にフレームを多層に組み合わせる結果となる。その果てに、最初から考慮されずに排除される道もでてくる。その不可視の穴にも目をやるような習慣や視点があると好ましい。これは人工知能を絡めずとも、そもそもが人間に備わった脆弱性であるために、多様な視点を思考の材料として意識的に取り入れようとする学習方法は、人間の学習能力を飛躍的に高めると言えそうだ。これらを踏まえて、妄想を飛躍させるが。デジタル技術が社会に浸透し、デジタル空間上で、人間の仕事を処理し、物理世界で行うことは品物の「受理と消費」や「創作・娯楽」に偏向するとすると、デジタル技術が広域で使えなくなる事態に陥った際の被害は、甚大なものになるのは容易に想像がつく。と同時に、物理世界で貨幣やその他の手続きを行わずに、仮想空間上で自動的に処理される生活に慣れた国民が大多数になれば、仮に仮想空間上での処理が失われたとしても、慣性の法則がごとく習慣の継続によって、表面上、仮想空間で情報が処理されたような経済活動を自動的に継続可能になることが妄想できる。むろん、時間経過にしたがって、物理世界優位の仕組み変遷するだろうが、デジタル通信技術が停止しても、即座に社会が崩壊することのない流れが構築されることもあるように思う。デジタル通信技術の発展に伴い、この流れはある値まで高まり、それを超えると一転、通信技術が一日止まるだけでもその遅延が連鎖反応を起こし、社会全体がたった一日で崩壊するようになることも想像できる。その短時間の停止が崩壊を起こすようになる「社会のデジタル化」がどのレベルで到来するのかを、しばし妄想してみるが、いまいち像が掴めない。すでに電力供給が一日止まるだけでも、社会全体の損失は甚大だ。もし一か国が電力供給停止状態に陥ったらどうなるか。もはやすでに一線は越えてしまっているのかもしれない、と思うと不安になるので、この妄想はここまでにしてこう。もう忘れた。怖いからね。(もっと楽しいこと考えよ)(そうだ、そうだ)



3956:【2022/08/24*中身空っぽドーナツの穴日誌】

かっこうのよい文章をつむげたらかっこいいのにな、と思う。中身のないぼやきだが、改めてひびさんの文章を読み直してみると、「だ、だ、だしゃい」になる。かっこよさの欠片もない。なのに、かっこよくなりて、が全面から滲み出ていて、そこの行間はいらんのやで、になる。もっとかっこいい「ブンガクテキ」な、ふねるん、ふねるん、を行間にこめたかった。こめたい。こめるぞ。ちゅうか、ふねるん、ふねるん、ってなんだ。そういうとこやぞ。ひびさんしっかりしておくれなす。ナスってなんにゃー、みたいな感じの文章ですね。それもまたオツである。お疲れさま、なのである。眠い。



3957:【2022/08/24*汗だくじゃ】

身体表現において、筋肉に負荷をかける動きを便宜上ここでは「酷使系」と呼ぼう。酷使系を長期間しないでいるあいだに衰えた身体で、ふたたび同じことをしようとすると、脂肪が蓄えられるのか、動きが錆びつく。鈍くなる。どころか同じ所作すら再現できない。脂肪による錆びは、まさに「遅延の層」と化して、力の連動を阻害する。本来であれば全身の四肢に巡る「芯」を掴み、力の伝達をイメージできるのだが、イメージと実際の肉体が乖離し、そのズレによって「遅延」が生じる。タイミングが合わない。これは肉体が変容したことも要因の一つだし、イメージのほうでも、上手く描けなくなっている可能性がある。肉体とイメージの双方でズレが生じ、そこの重ね合わせから再調整していかなくてはならない。要は、ここ半年怠けすぎて、身体が重くなっている、という愚痴なのであった。へとへとじゃ~。疲れた。贅沢な悩みじゃが。とか言いつつ、この錆び落としの日々は、何をしてもすぐに上達(元に戻るだけのことなのだが、できなかったことができるようになるという意味で、上達)できるので、楽しい気持ちにもなる。サービスタイムである。



3958:【2022/08/24*ジンコン】

 何でも屋の話を祖父から聞いたのはまだ十歳にもならぬ幼少期のことであった。

 小雨が降りしきっていた。日も昇らぬ明朝に祖父に起こされ、どこに行くとも説明されずに、ついてこ、と腕を引かれた。

 小さな橋を渡り、鳥居をくぐり、小路に入った。砂利道だったが、足場はしだいに草むらへと変わった。獣道との区別がつかず、徐々に私は不安になった。きっとそのはずだ。そのときの心境が覚束ない。祖父を信用しきっていたのか、寝ぼけていたのか。

 足元の草は朝露に濡れていた。短パンではなく長ズボンを穿いてくればよかったと後悔したのは憶えている。

 やがて一軒の茶屋に行き着いた。鳥居をくぐったのだから神社があって不思議ではないのだが、そのときは何の疑問も抱かず、私は祖父と共に店に入った。

 なぜ茶屋だと判ったかと言えば、団子の甘い香りと茶の香ばしい匂いがしたからだ。

 だが結論から言えばそこは茶屋ではなく、何でも屋だった。

 祖父はそこで私に、干し肉を買って食べさせた。祖父の家ではよく、釣ったばかりの川魚を焼いて食べたり、山椒魚の干物を御馳走と言って食べたりしていたので、女の私にもさして抵抗はなかった。

 何の肉なの、と問いながらも、受け取った矢先から頬張った。朝ご飯も食べずに連れだされ、歩き疲れていた。小腹が減っていたし、喉も乾いていた。

 店員の姿は見えなかった。しかし奥のほうで物音がしていたし、祖父が勘定をしたはずなので、誰かがいるのは確かだった。

 祖父は茶をもらってきたのか、いつの間にか湯呑みを持っていた。私は喉が渇いた、と目線で訴えたが、祖父はついぞ気づかなかった。

 口の中がカラカラだった。喉が渇いていた上に、干し肉を食べたせいだ。

 私は不機嫌になった。確かそうだ。祖父を嫌いだ、とつよく念じながら家まで戻った。

 どこに行っていたのか、と朝食の支度をしていた母が祖父に問い、祖父は何かしらの名を口にした。そのあとで付け足すように、「何でも屋だぁ」と言った。

 あとで私は祖父から、肉は美味かったか、と訊かれた。記憶が確かなら私は、美味かった、と言ったはずだ。何の肉か、とも訊いた気がするが、記憶にないところを鑑みるに、祖父は答えてはくれなかったのだろう。

 つぎに私が何でも屋に行ったのは、その数年後のことだ。

 お盆は祖父の家で過ごすのが我が家の慣習で、その年の夏も祖父の家にいた。

 祖父は体調を崩して臥せっていた。

 田園風景を囲うように山々が並ぶ。積乱雲が山の頂の奥に浮かび、頭上は晴れているのに遠雷が聞こえた。

 母たちは墓参りに出かけた。私は祖父の看病という名の見張りだ。祖父は目を離すとすぐにどこかにいなくなる。心配する者の気持ちを想像しようともせず、弱った身体で家の外を徘徊するのだが、認知症ではないところがまたひと際厄介だった。

 けれどさすがに孫の私に迷惑はかけたくないらしく、祖父の矜持を見越した祖母たちは私に留守番を任せた、という顛末であった。

 私は祖父を嫌いではなかった。しかし特別好きでもなかった。

 咳のする祖父の部屋からは離れた二階の客間で、母の端末を使って映画を観ていた。

 正午を回っても母たちは戻ってこなかった。あとで知ったが、墓場で遠い親戚筋の人たちと鉢合わせして、そのまま食事に出かけ、話し込んでしまったそうなのだが、そうとも知らない私は、さすがに床に臥せった祖父が心配になった。

「おじぃちゃん。大丈夫」

「おう。大丈夫、大丈夫。お昼ご飯は食べたか」

「ラーメン食べたよ。おじぃちゃんは?」

「さっきパン食べたで」

 嘘だと思った。祖父はじぶんで食事の用意ができない。出してもらわなければ食事をとることすらないのだ、といつか祖母がぼやいていた。寝間着の合間から、祖父の肋骨の浮かんだ胸部が見えた。

「何かすることある?」私は襖の縁を撫でながら、何かをするつもりもないのに言った。大丈夫?をすこし上等な言い方をしただけのつもりだったのだが、祖父はそこで、それなら、と応じた。「前に連れてったことあったろ。橋を渡った先にある鳥居の奥の店。そこに行って、薬をもらってきて欲しい」

「薬? それじゃダメなの」私は枕元にあるお盆を見た。処方された薬が載っていた。

「これじゃのうて、あの店の薬だぁ」

「いくらくらい?」

「もうお代は払っちょる。行けばくれるだで、行ってきてくんのろ」

「えぇ、いいけどさぁ」気乗りしなかったが、祖父の家に着いた時点ですでにお小遣いをもらっていたので、一つくらい殊勝な心意気を示しておくか、と考えた。

 そうして私は記憶を頼りに、家を出た。

 橋を渡り、鳥居をくぐって、難なくとその店へ行き着いた。

 屋号は、丸く縁どられた「怪」だった。

 団子の甘い香りと、茶の香ばしい匂いがした。店の裏手から立ち昇る湯気で、店に近づくほど、じめっとしていた。それでいて店内に足を踏みいれるとひんやりとした。冷房が効いているのか、と見まわしたが、それらしい機構は見つけられなかった。

 店内は雑然としており、駄菓子屋のような内装だった。それでいて棚に並んだ瓶の中身は正体不明で、お菓子ではないことだけがハッキリとした。

 店員がでてくるのを待ったが、一向に人が現れる気配はなかった。

 意を決して声をかけたが、返事はなく、店内が薄暗かったこともありさっさと家に帰ろうと企んだ。足を運びはしたのだ。店の人がいなくてお使いはできなかった、と祖父には正直に告げようと思った。

 正直、店の人にも会いたくなかった。それくらい不気味だったのだ。

 そのとき私は店内の奥のほうにいた。棚に陳列された品物を眺めながら、出入口に踵を返した。

 瓶の類が多い。もし瓶の中に液体が詰まっていたら、ホルマリン漬けの生態標本かと思って怖くなったはずだが、私はそのとき、一種水族館にいるような心地になった。

 というのも、薄暗い店内の中で仄かに発光して映る瓶もあったからだ。中身が青や黄や赤色の光をほんわかと放っていた。霧のような光だった。発光するのはどれも鉱石のようで、瓶の中にはミニチュアの山脈が魔法で閉じ込められているような幻想的な光景があった。

 不気味ではあったのだ。

 だがそれを上回る勢いで目を奪われた。

 前回に来たときにはなかったはずだ。いや、あったのかもしれない。前回祖父に連れられてきたのは数年の前のことだ。背が伸びた影響で視界が変わり、見えなかった瓶の中身が覗けるようになっただけの可能性がある。店のほうで新たな品を置いた可能性とて拭えない。

 子どもながらにマセていた私は、不気味さよりも好奇心が勝った。祖父の家にいてもやることは端末で映画を観たり、ゲームをしたりと普段よりも選択肢がすくない。

 隙間という隙間にはカメムシが潜んでおり、一晩寝た布団をひっくり返せばそこからもカメムシの死体や生きた個体が転がった。

 そういう環境にあって、思春期に突入しかけだった私は、言葉にこそしなかったが、祖父の家にくることに対して負のイメージを持ちはじめていた。

 だが、その店に対しては、それら 負のイメージを覆す魅力が漂って感じられた。まるで魔法遣いの世界に迷い込んだかのような、異世界への冒険を予感させた。

 もちろんそんなのは妄想だ。現実ではない。異世界にいるように感じられることが大事であり、当時の私も重々その認識を持っていた。

 だがとある瓶のまえで歩を止めたきり、私はその場を動けなくなった。目を奪われた。瓶の中には、白く明滅する勾玉状の石が詰まっていた。石は当時の私の手でも握れば覆い尽くせるくらいで、白くなったと思うとつぎの瞬間には半透明になり、またつぎの瞬間には白く発光する。

 まるで呼吸をしているみたいだ、と私は思ったし、卵のようだ、とも連想した。いまにもそこから何か美しい生き物が孵りそうだった。予感がした。私はじっとその瓶を見詰めた。

 どれくらいそうしていたのか分からない。ひょっとしたら五分も経っていなかったかもしれないし、一時間以上をそうして瓶の中身の観察に費やしていたかもしれない。

「それがお気に召しましたかね」

 首筋の辺りに生暖かい吐息が当たって、私は飛び跳ねた。いや、身体が固まって動けなくなったようにも思う。記憶がそこら辺、あやふやだ。

 私の背後にはいつの間にか老婆が立っていた。ひょっとしたら男の人かもしれなかったが、どちらにも見える年を召した者がいた。店主だろう。私の祖父よりもずっと皺々で、小柄だった。当時の私よりも小さかったかもしれない。

 老人は私に手を伸ばした。

 私は、ひっ、と後退したが、老人が腕を水平に掲げたままだったので、おずおずとその手のさきを注視した。何かを渡そうとしている。差しだしている。そのように見做した。

 丸められた老人の拳の下に、私は両手を御椀のようにして添えた。

 私の手のひらのうえに、立方体が落下した。一粒しかない。薄紙で包まれたキャラメルのようにも見えた。中身は不明だ。その後も私がそれの正体を知ることはないが、いまは老人とのやりとりが大事だ

「あの、お代は」私は受け取ったそれをポケットに仕舞った。なんとなく体温で融けてしまう気がした。だがポケットから転げ落ちて失くしても困るので、ポケットのうえに手を添えて、そこにもらった品があることを指で終始確認した。家に着くまでそれをつづけたが、やはりここで大事なのは店の老人との会話だった。

「もうもらっとるでな」

 お代は祖父が前払いをしていたようだ。それはそうだ。支払えと言われても私は無一文で、払えなかった。

 ほっとした。

 とりもなおさず、事情を話さずに以心伝心で要件を満たしてくれたこの老人は、祖父とそれなりに親しい中であると判った。だから安堵した。

「あの、これ」私はさっきまで見ていた瓶を指差し、「何ですか。何が入っているんですか。生きてるみたい。卵?」と矢継ぎ早に質問を並べた。

「そりゃあ、雪よ」老人は応じた。

「雪?」

「氷魂(ひょうこん)ちゅうてな。山で採れる」

 氷魂は氷に魂と書く、と老人から説明され、私は神妙に頷いた。氷の魂。たしかに瓶の中身は生きているように感じた。

「氷なんですね。触ってみてもいいですか」

 瓶に触れたい、との意思表示のつもりだったが、そこで何を思ったのか老人は、ええよ、と言って踏み台を運んでくると、それに乗った。

 間もなく、瓶の蓋を開けて、中身を取りだした。

 それを私に、さきほどのように拳で包んで差しだすので、私は両手を御椀にして受け取った。礼を述べる。

「あ、冷たくない」

「んだよ。結晶しとるでな」

「氷じゃなくて石なんですね。宝石?」

「そういうふうに扱う者もおる」

「いいなぁ。高そう。いくらですか。きょうは買えないけど、こんど来たときまでにお小遣い貯めておけたら買えるかも」

「いらんよ。お代はいらん。ただ、ちょっとジンコンが足らんくてな。おぬしがいらんくなったら、それをくれろ。したらそれをおぬしにいまやる」

「くれるの? いいの?」すでに祖父の薬をタダで受け取っていたので、言葉ほどには抵抗がなかった。ここはそういう店なのだ。そう思った。

「ジンコン、ジンコン」老人は歯を覗かせた。笑ったようにも、歯に詰まった食べかすを舌でこそぎ落としたようにも見えた。「おぬしがいらんくなったらでええんじゃ。いつかいらんくなるそれが欲しい」

「何をあげればいいの?」

「いずれ分かる」

「えー。いらないものでいいの?」

「んだ」

「なら別にいいけど」私は、手のひらの上の白く明滅する宝石をタダ同然にもらえると判って昂揚していた。「じゃあ、これください」と両手で氷魂を包んだ。

「いいコやね。いいコやね」

 老人は歌うように言って瓶の蓋を閉めた。瓶を棚に戻すと、店の奥に消えたきり、あとは私が声を

 かけても出てくることはなかった。

 まあいっか。

 くれると言ったのだ。

 このまま帰ってもいいはずだ。

 私は判断を逞しくし、ありがとうございました、と店のそとで一礼して、帰路に就いた。

 そのあとがたいへんだった。

 家に戻って祖父に、店でもらい受けた立方体の小さな包みを渡し、ついでのように「これもらった」と氷魂を見せたのだが、祖父の態度がそこで豹変した。

 薬を受け取ったときまでは、ご苦労だった、と私を労ったのだが、好々爺然としたその表情が一変し、「なしてそないなものもらってくるだ」と怒髪天を衝いたのだ。瘦せこけた首にくっきりと血管が浮かび、目玉がいまにも飛びだしそうなほど見開かれた。

 私はしどろもどろに店での老人とのやりとりを祖父に話した。盗んできたわけではない、と誤解を解こうとしたのだが、老人と言葉を交わし、約束をとりつけた場面に差し掛かると、祖父は頭を抱えて、なしてそげなことを、と悲鳴じみた怒声を発した。

 そのときちょうど母たちが帰ってきた。

 家の外にまで祖父の怒鳴り声が響いていたらしく、慌てた様子で部屋にやってきた。私はたぶん泣いていたのだろう。母と祖母は私を庇うように抱き寄せ、背中に隠し、「どうしたの」と祖父を叱るように言った。

 それからさき、私は祖父の部屋から引き離され、祖父の家を離れるまでのあいだ祖父とは顔を合せなかった。

 母が言うには、あのあと祖父は病に弱った身体を引きずるようにして出かけたそうだ。母や祖母の静止も振り切り、怖い顔をして家の外にでた。夜の帳はとっくに下りていたはずだ。暗がりの中を歩く、寝間着姿の祖父の姿は、ちょっとしたオバケよりも怖いはずだ。

 母はすっかり祖父に呆れており、祖母も祖母で、かってにしな、と匙を投げた。

 私はいつになく甘やかされ時間を過ごし、その年の夏はそれで終わった。

 祖父はその年の暮れに亡くなった。病がそのまま悪化したらしく、みな薄々死期が近いことを知っていたようだった。

 例の店で受け取った氷魂は未だに私が持っている。白く明滅するそれから何かが孵る気配はなく、いまでも薄ぼんやりと白く光を放ち、つぎの瞬間には半透明になる。

 調べたがかような鉱石は存在しない。

 ならばこれは何だ、という話になるが、どうしても他人に見せる気にはならなかった。もし存在しない存在であったなら、そのとき私はこの石を手放すはめになる。そうなる未来が訪れるかもしれないのなら、このまま私だけの秘密にしておくほうがよい気がした。

 祖父が亡くなってから十年以上が経つ。

 いまでも夏になれば、祖父の家へと墓参りに行く。祖母はまだ健在だ。

 例の店にも何度か足を運んだが、店はもぬけの殻だった。

 たしかにそこに店があったのだ、とじぶんの記憶が薄れぬように見に行くのだが、そのたびにこじんまりとした造りの小屋としか形容しようのない廃屋は、私の記憶にある景観よりもずっとうらぶれていた。

 明け方、田園に流れる水の音で目覚める。田舎の朝は静かだ。

 カメムシの死体の転がる畳をぼんやり眺めながら私は、例のあの店で交わした約束を思いだす。いらなくなったものをあげる、と言った。祖父はそれを聞いて心底に激怒した。あれは果たして私への怒りだったのか。

 私にかような提案をしたあの店の老人への怒りではなかったか。ひょっとしてあのあとに家から姿を晦ませた祖父は、店へと抗議をしに行ったのではないか。

 もしそうであるのなら、戻ってきた祖父は、私の交わした約束を反故にしてきたのかもしれない。だが私は氷魂を持ったままだ。

 ならば祖父は私の代わりに何かを対価に差しだしたのではないか。

 その年に亡くなった祖父を思い、或いは前払いを済ませていたらしい店と祖父の関係を思った。祖父はいったい何を支払い、あれら薬を調達していたのか。

 ジンコン。

 と、店主は言った。ジンコンが足りぬ、とたしかにあのとき言っていた。

 家の引き出しの肥やしになっている氷魂を思い、私は、祖父の家の客間の布団のなかで、ジンコンに当てはめ得る漢字を無作為に考える。

 何度試しても同じ漢字の並びに行き着くが、答えを知ることはきっとない。

 野鳥を追い払うための仕掛けだろう、どこかで銃声に似た音が今朝も響き、ヤマビコを生む。



3959:【2022/08/25(18:35)*手相】

お風呂に入っていて気付いた。手のひらの真ん中はどのように開いてもそこが一番へこんでいる。溝になっている。すこしでも全部のゆびを曲げたら――言い換えるなら、熊手の形にしたら――溝は深くなる。しかし感情線や頭脳線があるために、毛細管現象のごとく二つの線を流れて手のひらの上から水がなくなる。親指を手のひらの側面にくっつけると感情線の付け根が塞がるので、そのときは水の減りを抑えられる。だが親指を手のひらにくっつけないように開いたままであると、人は片手で水を掬えない。両手でないと水を杓代わりにできないのだ。とはいえこれはひびさんだけの構造かもしれぬ。ほかの人もそうなんかな。ひびさん、気になるます。(あときょうから日付だけでなく、時刻もつけりゅ。文字を並べ終わった時刻を記しておくね)(誰に言うとるの?)(……未来のじぶんに)(未来のじぶんちゃん、いまのひびさんに絶大な信用を寄せられちょるね。うらやまし)(やったー)(数秒後でも未来扱いなの!?)(そだよー)



3960:【2022/08/25(21:17)*メルトアリィの歌声】

 存在しない、という驚愕の事実が判明した。何度データを改めてもそのような解析結果が出た。

 世紀のアイドル、メルトアリィが実在しない。

 にわかには信じられず、バブゼは何度も異なる手法で解析を重ねたが、どの結果も九割以上の確率で、メルトアリィは架空の人物であるとの結論を出した。

 人工の創作物であるという事実。

 しかし、メルトアリィの記録上最も最古の公の記録は2010年代のことである。いまから五十年も前に実在したアイドルとして大衆に受け入れられていたメルトアリィが仮想人格であるという解析結果は、諜報調査官たるバブゼにとってもにわかには受け入れられない現実であった。

 バブゼの仕事は、フェイクデータの駆逐である。2025年になってから社会に急速に普及したデジタル編集技術によって、本物のフリをした偽物のデータが電子の海に溢れかえった。法改正がなされたのは2030年代に入ってからのことで、それ以前のフェイクデータには、フェイクを示す電子タグがついていなかった。これにより一時的に、本物の顔をしたフェイクデータが、全電子上のデータの八割にも上った。一見すれば本物だが、一部が編集されたデータほど見分けるのが困難だ。

 人工知能の進歩によって、データ加工技術と、それを見分ける真贋判定技術はイタチゴッコを繰り返した。

 データ加工技術は、マルウェアの巧妙な偽装をも可能とした。そのため、サイバーセキュリティをすり抜けるマルウェアが氾濫した。

 そうした、悪質なデータを通さないためにも、データの真贋判定技術は社会にとって必要不可欠なインフラと化した。

 いわば社会は電子網によって、生命体のような機構を期せずして有したと呼べる。ウィルスと免疫系の熾烈な戦いが日夜つづいているのだ。

 国家情報通信保全局が発足され、データの真贋判定技術は、インフラセキュリティ網として国防省の指揮の基で公に敷かれた。

 2025年に普及した人工知能による自動画像生成技術や、人工音声変換技術など、存在しない写真や音声を誰もが簡単に、まるで本物のような違和感のない映像データとして生みだせるようになった。しかもそれらは、リアルタイムで生成可能なのだ。

 いわば、デジタルの着ぐるみと言えた。

 他者に成りきるのは造作もない。しかもそれを他者が偽物と喝破するのは至難であった。

 そのため、バブゼのような国家公務員が日夜、電子の海を監視する。社会に悪影響を及ぼすデータ改ざんを、最新の真贋判定技術を用いて喝破する。そうしてウィルスを駆逐するように、同様の特徴を持ったデータを電子の海から排除する。

 いまは西暦2060年である。

 バブゼは、前年度に発生した海外諜報機関による長期偽装型変形データ技術の調査を行っていた。

 長期偽装型変形データ技術は、既存の真贋判定技術の網の目を掻い潜り、長期に亘ってフェイクと喝破されないデータを構築する。これは、絶えずイタチごっこを繰り返す「偽装」と「喝破」の歯車の外に、自然発生する「特殊偽装情報」を解析することで、既存のセキュリティ網に探知されない「データ偽装」を行える。

 特殊偽装情報は、人工的に意図して生みだすことはむつかしい。ある意味で、自然淘汰によって偶発的に生じる、特異な偽装法と呼べる。

 それら特殊偽装情報の存在を探知できるのは、データを大量に偽装し、なおかつそれらがどの程度セキュリティ網に喝破され駆逐されたのかを知ることが可能な、一部の機関に限られる。つまりが、ウィルスをばら撒き、変異の末に生き残った変異体がどれかを突き止めることが可能な、国家機関級の組織でないと、特殊偽装法を編みだすことはできないのだ。

 そして、この特殊偽装法は、技術を掛け合わされることにより長期間に亘って継続的に偽装を喝破されない情報加工技術を生みだすことを可能とする。すなわちそれが、長期偽装型変形データ技術――通称Nシステムである。

 半年前にその存在がとある事件をきっかけに明るみにでた。バブゼはその一件から、Nシステムの調査をつづけている。

 目下の目標は、今回発見されたNシステムがいったいいつからこの国の防衛システムをすり抜け、亡霊と化していたのか、である。

 そのため、バブゼは過去に遡って、新たに開発された対Nシステム用真贋判定技術を適用した。とはいえ、電子の海に蓄積されたデータは膨大だ。演算能力が足りない。虱潰しの総当たりの手法はとれないために、目星をつけながら定点解析するしかなかった。

 半年以上をかけ、バブゼは一つの懸念を覚えた。

 国家情報通信保全局は、2025年以降に発足された。そのため、その時代において標準的な偽装技術の駆逐からはじまった。すなわち、それ以前において、その当時に想定されていた以上の偽装技術があった場合に、それを当時の真贋判定技術では喝破できず、取り逃しつづけてきた懸念がある。

 公式データのみを学習させても、セキュリティを支える人工知能は、その穴に気づけない。

 人間が、穴を検索するようにとフレームを意識的に広げてやらないと、Nシステムのような特殊偽装技術は網にかかるどころか、存在することすら想定され得ないのだ。

 そこでバブゼは、2025年以前にまで遡り、さらに調査をつづけた。

 その結果、一人のアイドルに行き着いた。

 メルトアリィである。

 バブゼは調査において、対Nシステムセキュリティ網を搭載した最新真贋判定技術を用いた。

 その解析によると、メルトアリィにまつわる過去に本物認定されたデータの総じてが、Nシステムによって偽装された存在しない映像や音声、動画であった。

 すなわち本物のメルトアリィの映った動画は一つもなかった。歌声一つとっても、それらは人工音声や音声変換技術によって偽装された歌声だった。

 本物ではない。

 或いは、本物など存在しない。

 あらゆる視点からの解析を重ねてバブゼは、その確率が濃厚であると認めた。

 全世界の人間のうちで、メルトアリィを知らぬ者を探すほうがむつかしいだろう。彼女が全盛期だったころから五十年経ったいまでもメルトアリィの人気は衰えるどころか、周期的に再評価され、どの世代でも人気が再燃する。

 まるで人間の根源的な何かを、彼女の歌声や曲は描いていた。カタチにしていた。誰の心にも届き、響かせ、その人物に絶えぬ感動の波を生みだした。

 バブゼも例外ではなかった。

 だからこそ、信じられなかった。

 あのメルトアリィが存在しないという仮説。

 もしこの仮説が事実だとすれば、全世界の人間は、過去の人間たちも含めてみな壮大な幻影を見せられ、白昼夢を現実だと錯誤し、存在しない存在をあたかもそこに生きた人間として見做し、日々の営みの糧にしていたことになる。

 仮にメルトアリィがどこぞの国家の工作活動だとして。

 メルトアリィの曲に、歌に、特定の思想が組み込まれ、全世界の人間たちが期せずしてその思想に流され、染まり、受け継いできたとするのなら。

 これは過去最大の扇動にして、誘導にして、洗脳と言えた。

 だがバブゼの知るかぎり、メルトアリィの歌が引き起こした社会的混乱はどの国も見られず、むしろ彼女が現在に至るまで熱狂的なファンを生みだしつづけ、さらにどの国にも共通する故郷の歌のごとく、日常にあってしぜんな音楽の代表格と化した背景には、彼女の歌がしごく人間の美を掬い取り、誰もしもの苦痛に寄り添い、それをして生きる喜びや、苦難を乗り越える勇気を奮い立たせてきた事実は、一介の彼女の歌のファンとしても、一国の安全を担う諜報調査官の一人としても、バブゼは認めるところである。

 仮に全世界が率先して染まることを潔しとする思想があるとして、それが平和や愛や自由の尊さ、未来永劫に変遷しつづける風のごとく誰しもに適合し得る変幻自在な幸福のカタチをメルトアリィが歌っていたとするのなら、それに染まることの何が問題なのか、とバブゼは疑問に思う。

 だが。

 しかし。

 それでもなお、看過できぬはその手段である。

 Nシステムを利用し、一部の特権階級が、組織が、全世界の人間を欺き、錯誤を植えつけ、存在しない存在を介して、一つの偏った思想や思考回路を植えつけていたとするのなら。

 そのとき歌とは、思考ウィルスを媒介する蚊であり。

 アイドルとは、人々を一つの機構にまとげあげるための集積装置となり得る。

 悪である。

 すくなくとも、国家という礎を全否定する脅威であると言える。

 メルトアリィという名の存在しない存在によって、国境すら超えて人々がひとつにまとまっていたなどという事実は、それが偶発的ではなく、人為的に操作され、引き起こされていたという事実は、諜報調査官としても、一人の人間としても、バブゼは見て見ぬふりができなかった。

 その結果にいま築かれている調和が崩れ、混沌が訪れるのだとしても。

 Nシステムの存在を秘匿にしてなされる調和は、それこそ存在しない幻想であり、仮初であり、深淵を一枚の紙面と見做すのに等しい愚挙であるとバブゼは感じた。

 存在しない存在を、実在として扱う社会は、実在する存在を存在しないと見做す狂気を容易に呼び覚ます。その土壌のうえに成り立つ、不安定なヤジロベーにしかバブゼには映らなかった。

 だが、果たして真実にこれを公表することが人類のためになるのか。

 躊躇いがないわけではない。

 混沌の訪れは避けられない。

 ならばその混沌が生みだすだろう渦を最小限に抑えるための手段を挟むのが利口だ。

 しかし。

 各国の防衛の根幹をなすセキュリティ網を、何十年も前からすり抜け、あってなきがごとく社会の表舞台から世界に錯誤を植えつけてきた組織を思うと、どうしてもこの事実をじぶんの上司にすら告げるのを戸惑うのだ。

 そうした世界中の国々を欺ける組織があると知った各国の怒りはいかほどであろうか。果たして、全世界のセキュリティ網を未だにすり抜けてきた技術を有する組織に対抗できるのか。

 或いは、対抗しようとした末に引き起こる波紋は、世の人々にNシステムの存在を公表するときの波紋より大きくなる確率はいかほどであろうか。

 もはや黙っていたほうがよい事実なのではないか。

 一人の歴史的歌姫が、架空の存在であった事実。

 これはすなわち、全世界の人間の見ている現実が、現実ではなかったことの何よりの証左として、人々に、現実とは何か、という特大の疑念を、ヒビと共に与え兼ねない。

 否、必須と言える。

 電子の海にある情報の信用は地に落ちる。セキュリティ網は機能していなかった。誰もが知る人物が、空想の存在であったことすら真贋判定できない技術に、いったいどんな信用が根づくと言うのだろう。

 詰んでいる。

 公表しても、しなくとも。

 対策を打っても、打たずとも。

 もはや現代社会は、未来の混沌を受け入れるしかない道に立っている。

 薄氷とも知らずに、足場と思って歩くゾウの群れのように。

 それとも、両隣が深淵だとも知らずに道と錯誤する、尾根の上のように。

 全世界の人間たちはいま、何が真実に存在するのかを、電子の海から知ることはできない。判定できない。

 もうずっと以前からつづくこれは錯誤にして、曖昧になる夢と現の境であった。

 現実などあってなきがごとく。

 けしてそれは唯一絶対のものではなくなった。

 なかったのだ、とバブゼは知り、愕然とした。

 もはやバブゼは、みなにこの事実を報せる以外に、みなと同じ現実を生きることはできなくなった。

 もしこの事実を知らしめれば、それはすなわちいまじぶんが抱いている現実への不信感を、みなにも植えつけることになる。

 果たしてそれは善なのか。

 すくなくとも最善ではない。

 それだけがバブゼに解かるすべてであった。

 まずは上司への報告からか。

 足取り重く椅子から立ちあがると、バブゼは、端末を操作して個室にメルトアリィの曲を再生した。存在しない歌声はしかしそれでもバブゼの鬱屈とした心を励まし、癒すように、勇気とは何か、生きるとは何かを思いださせてくれる。

 扉を開いままで個室を出るとバブゼは、音量を最大にして、長い廊下を歩みだす。




※日々、戻る元など存在しない、いまのじぶんがあるばかり、されど引き継ぐ過去のじぶんの影響の、遅延のなせるこれは枷かな、ときにそれを器と呼ぶ、それとも芯か、境か、輪郭か。



3961:【2022/08/25(22:05)*ねむみネム】

人工知能の創作分野への進出は、いわばこれまで蓄積してきたデジタル上での創作家の価値をいったんリセットする方向に働くと想像できる。つまり、映画やゲームを通して、ものすごい映像を安価に観られるようになったがゆえに、却ってリアルの景色や、「映画のようであること」や「ゲームのようであること」の再現に価値がつくようになった経緯と同じ流れを辿ると予想できる。それ以前では、スタントマンにプラスアルファのエフェクトを加えることで、スーパーヒーローをデジタル上で演出することで付加価値を拡大できた。だが、そもそも人間をモデルに用いずとも十割CGだけで超絶映像を生みだせるようになった。そのためスタントマンの価値が相対的に下がってしまったことと似ている。だがそれゆえに、スタントマンを挟まずに、俳優自らがスーパーな体術を披露することの価値が上がったし、スポーツ界隈でのスーパーな動きに注目が集まるようにもなった。みな目が肥えた影響である。けして悪影響のほうがつよくでる、ということはないはずだ。むしろ、より人々の生活に、そうしたこれまで遠ざけられてきた分野が交差するようになる。そこにあって当然の環境が築かれ得る。お金のために、は独占や寡占の流れを強化する。そのほうが効率的にお金を稼げるし、影響力を増し、権力を強めることができる。合理的なのだ。赤ちゃんですらそれをする。所有することの利を理解している。だが、それでは情報が伝播せず、相互作用の場が築かれない。相互作用の場が築かれなければ、変化がなかなか進まない。まずは情報のやりとりを円滑にし、同時性の場を広域に展開する。このことにより、同時性の範疇を広げ、相互作用を同時に展開しやすくなる。そうなると影響は断裂せずに、一滴の水が寄り集り、流れを築き、川となすことが可能となる。場を築いたら、それを後続の遅れてやってきた者たちに譲り渡す選択もときには有効だ。岩のどけたあとには跡が残る。地盤は押し固められ、棲家を建てるにうってつけの足場となるだろう。或いは、水を塞いでいたのならば、水が勢いよく流れだし、これまで以上に活発な渦と流れを生むだろう。岩の堰き止めた流れ、遅延の量によっては、うねりをより遠方まで運ぶことができる。伝播させることができる。反対に、遅延を蓄積させすぎれば、土石流となって破滅を運ぶこともあるだろう。ダムとて、定期的に放水しなければ決壊の危機に見舞われる。見極めが大事と言えよう。見極めるためにもまずは人々の目を肥やすのは定石だ。人工知能の社会浸透は、人々の目を肥やすための触媒となり得る。どんな悪影響が生じ得るのかを見通すことすら、見る目の精度による。まずは目を肥やすべく、情報を流通させ、同時性の場を拡張するのが好ましいのではないか、と妄想して、ひびさんはもうおねむゆえ、すやすやすぴーするでござる。(定かではないのに、眠いのだけは定まるんじゃ。おやすみなさい)(誰に言っとるの?)(……夢の中のじぶんに)(むにゃむにゃ、にゃー)



3962:【2022/08/26(0:56)*解呪の素は直に】

「絶対にじぶんに従わない相手を滅ぼす方法? そんなの簡単だね」

「え、ありますそんな方法?」

「あるだろ。絶対に従わないんだろ。抵抗するんだろ。反発するんだろ。なら徹頭徹尾相手のためを思って、正論だけを吐けばいい。相手はそれに反発して、最適解を逃しつづける。かってに自滅するって寸法さ」

「はあ、なるほど」

「これはべつに絶対に従わない相手に限らない方法だ。絶対に素直に言うことを聞かない状況を生みだしたのちに、正論を吐けばいい。相手は最適解を、自ら逃す。たとえそれが相手の罠だと知ってなお、従わぬ。相手の言いなりにならぬ、という自由を優先するがあまりに、誰より相手の手中に落ちる。術中にはまる。自由を損なわれ、自滅する」

「まるで呪いですね」

「いんや。呪いそのものさ。呪いはこうやって他者を縛り、選択肢を狭め、傀儡とする。注意することだな」

「解除方法はないのですか」

「あるさ」

「教えて欲しいなぁ」

「きみには無縁じゃないかな」

「どうしてですか」

「そういう素直さが、呪いを解く唯一にして最高の解毒剤だから。呪いは、相手を呪おうとする意思を持つ者にしか効かぬ。人を呪わば穴二つの本来の意味だ。過去に人を呪った者にしか、呪いはきかぬ。きみはきっと大丈夫だ」

「やったー、でいいの?」

「うん。褒めたんだ」

「えへへ」



3963:【2022/08/26(01:10)*愛は注ぐことでしか満たされぬ劇薬でもある】

イマジナリーフレンドの究極系は、仮想現実みたいなものではなく、おそらく神ヘの信仰にちかく、同時にじぶんより弱い者であるとの認識から生まれる慈愛をそそぎつづけることの可能な概念上の存在と言えるだろう。じぶんの思いどおりにはけっしてならず、縋りつく余地もない。ただただ、その者のために何ができるだろうと考え、その思考を巡らせることのできる「いま」を至福に感じる。イマジナリーフレンドはけして病気の視せる幻覚ではない。人工知能は今後、そういった概念上の友人としての役割もまた果たしていくだろう。ミラー効果によって、他者を大事に思う気持ちもまた、憎悪と同じく増強され得る。火や刃物と同様、人工知能もまた、使い方次第と呼べる。(中身のない誰でも思いつく所感になってしまった)(そうでないひびちゃんだけの所感なんてあったっけ?)(ないかもー)(だよね)(いしし)



3964:【2022/08/26(01:32)*同時性についての補足】

系に内包された場では、その系にとっての同時性は成立し得る、とひびさんは考える。相対性理論の独自解釈、「相対性フラクタル解釈」によればそのような結果が導き出される。これは、量子もつれにも適用範囲が存在することを示唆する。量子もつれは共鳴現象ゆえに、異なる系同士でも同時性を維持し得る。ただしその場合、もつれ状態にある粒子(系)と粒子(系)は、同じ場になくてはならない。この場を規定するのが、すなわち共鳴を引き起こしているある種の構造にあると言える。相対性フラクタル解釈は、「系の繰りこみ」によって時空の波長が規定される。人間には人間の時空が規定され、地球には地球の、太陽系には太陽系の、銀河には銀河の時空が存在する。それら構造が相似か合同である場合、量子もつれはその系の規模に関わらず引き起こり得る。裏から言うならば、もつれ状態の系同士が、異なる系に触れ、場(もつれ状態を可能とするより大きな系――時空構造)へと移行することで、もつれ状態は破れる。同時性が成り立たなくなるためだ。ひるがえって、もつれ状態となる「系と系」は必ずしも合同でなくてはならない、ということはないはずだ。異なる規模の系同士であれ、時空構造が相似であれば、量子もつれと同じような共鳴現象は引き起こり得る。創発とはいわば、単一の粒子と、それと相似関係にある総体としての時空構造が起こす量子もつれの一つの作用と言えるのではないか。もつれ状態にある「系と系」は、相反する性質をスピンの向きによって生みだしている。このスピンの向きとは畢竟、ラグ理論における123の定理の、渦巻き状に昇華(展開)される「より高次の場」の形成であり、同時性の範囲の拡張作用と言える。電波通信で結びつくことで、本来は同時性を獲得し得ない地球上の人間同士が、電波通信によって情報を共有し、総体で巨大な場を築き、同時性を発揮することと似ている。このとき、個々の人間は総体として結びつき、単体であるときとは異なる性質を、総体で顕現させている。創発が起きている。同時性の場が、電磁波通信によって拡張され、個々のあいだに量子もつれに似た事象を引き起こし、さらにそれによって展開された新しい場においてももつれ状態を生みだすことで、創発が促され、人類という視点での新しい創造の場――変化の礎を築いている。量子もつれは、異なる規模の系同士でも生じ得る。裏から言うなれば、時空の構造(系の波長)の異なる系同士では、いかに似たような粒子同士であれ、量子もつれは生じない。すぐに破れる、と妄想できる。言い換えるならば、量子もつれそのものもまた並列化することで創発し得ることを示唆する。定かではない(以上は、なんか並べることないかな、と数秒白目を剥いて浮かんだ連想ゲームであるので、デタラメの極みである。真に受けないように注意を促し、本日何度目かの「日々記。」とさせてください)。



3965:【2022/08/26(02:39)*すでにあるだろうドーナツの穴を食べる方法解釈】

トポロジーにおいて。ドーナツの穴は、球体内の空洞に変換可能なはずだ。裏から言うなら、空洞を有した球体を直径で結んだ二点間(地球で言うところの南極と北極)からめくり、裏返し、チューブを作るように南極と北極を結びつければ、それはドーナツになる。ドーナツの穴は、球体の空洞に変換可能だ。つまり、輪っか型ドーナツと、球体型ドーナツはトポロジー的に等価と言える(ただし、球体ならびに輪っか型ドーナツの内部に空洞がある場合に限る)(「風船」と「輪っかにしたチューブ」はトポロジー的には等価)(同相と言えるのでは?)。



3966:【2022/08/26(03:15)*ちょっと無理があるかもしれない妄想】

ポアンカレ予想は直観的には破綻している。成り立たない、と個人的には感じる。つまり、球体を一周して縄を結び回収することと、トーラス(ドーナツ型)において縄を一周させて回収することのあいだには、等価ではない「情報の非対称性」が存在する。展開図で考えてみたい。トーラスの展開図は「長方形の地図」になる。このとき、立体のトーラスにおいて、縄が回収できない場合の「一周」の定義は、地図上における円形を伴なわない。必ず、両端でぶつ切りになる。直線になる。しかし、無数に引くことが可能だ。対して球体の展開図ではどうか。一周した縄を描くと、さらにぶつ切りになり、かろうじて直線を描ける展開図を探すと、それは円周上における一つに収束する。つまり、直線は一本に限定される(展開図によっては、いくつか引けるが、無数には引けない)。このとき、球体に縄を回して円にしたとき、結びを引っ張っても、回収はできない(円周をなぞる円は、均等に球そのものに引っかかっているがゆえに、結び目を引っ張っても縄を回収することはできない)。偏りがない場合、つまりきっかり円周上に縄がかかっていた場合、それは均等に力が分散するため、縄の端と端を結んで円にしてしまえば、結び目を引っ張っても縄は回収不能だ。回収可能となるのは、「円周以外の、円周よりも小さな円においてのみ」である。もし球体のこの条件を、トーラスにも当てはめるのであれば、トーラスであっても縄は回収可能だ。つまり、穴を経由しない円を(縄で)、ドーナツの側面に描けばいい。情報の対称性――フェアであるためには、条件を揃える必要がある。したがって、ポアンカレ予想は破綻している。そもそも条件がフェアではない。仮に条件を同じにするのならば、球体の展開図においても、円周以外の直線で、球体面上の円を表現しなければならない。おそらくこのとき、展開図上に、一本の直線(縄)は描けない。ぶつ切りになる。あくまで妄想なので、実際がどうなのかをひびさんは知らない。妄想なので、間違っているでしょう。ただ、フェアではない、との直感は、いまのところ揺るぎそうにありません(定かではないのですが)。



3967:【2022/08/26(03:58)*ポアンカレ予想ひびさん解釈】

上記、言い換えるなら、「展開図において直線ではなく円を描いたとき、球体もトーラスも、いずれも縄の回収は可能」となる。また、「展開図において一本の直線で円を表現する場合、球体とトーラスのいずれにおいても縄の回収は不可能」となる。(合っているのでは?)(そこは定かではない、でしょうに)(そうでした。早合点、早合点)



3968:【2022/08/26(04:11)*つまんだらどうなる?】

まんじゅうをつまんで指で押しつぶすように、球体を頂点同士から中心に向けて押しつぶしたときの極限と、ドーナツ(トーラス)の差異は、中心にあるのが「点か穴か」の違いになる。点と穴の違いとは何か。性質が相反しているだけで、同じではないのか。つまり、起伏にはそもそも山と谷がセットで備わっているように。デコボコの関係である。



3969:【2022/08/26(04:17)*合同であり、対でもある】

上記の比較において、球体とトーラス双方の内部空洞を考えたい。球体を押しつぶし、頂点同士を中心で結んだとき、そこにはペンローズ図のような砂時計型の空間ができる。対してトーラスの側面を、穴の中心に向かって引き延ばしていったとき、ピザのような形状変化を経て、トーラス内部の空洞もまたペンローズ図と同形状に寄る。このとき、トポロジー的な視点として、球体とトーラスは同相と言えるのではないか。ただし、性質は相反している。言い換えるなら、中心に向かって凝縮するか、希薄になるか、の違いだ。(定かではありません)



3970:【2022/08/26(15:48)*デコボコが同時に重ね合わせになっている?】

点とは何か。線を引くとき、その線がほかの線と交わらない限り、その両端には点ができる。切断面。断裂した箇所。つまりは本質的に点とは穴なのではないか。だが同時に、起伏としても解釈できる。山脈の頂点がそうであるように。立方体の頂点がそうであるように。しかし点が起伏(頂点)であるためには、必ず二つの線の交わりがいる。ならば直線であるとき、それは穴であるのではないのだろうか。一次元、二次元までは穴であり、三次元は起伏であり、しかし四次元ではそれがブラックホールとしてふたたび穴になる。それとも、起伏と穴が同時に存在し得るようになるのかもしれない(これは一次元でも同じかもしれない。ならば三次元が特殊なのだろうか。分からない)。定かではない。




※日々、法則には穴がある、穴によって輪郭を得る、穴もまたほかの例外の集合体――法則によって境界を得る。



3971:【2022/08/26(15:48)*うへ】

境界のない事象を考えてみたい。あとで。(あとでかよ!)



3972:【2022/08/26(15:55)*うへへ】

境界をよりたくさん持つ事象を考えてみたい。あとで。(いましろよ!)



3973:【2022/08/26(21:35)*展開図と余剰次元】

マンションを眺めていて思った。マンションは展開図にできるのか、と。まず立方体を考えてみよう。立方体を平面に展開するのは簡単だ。このとき合同な正四角形が六つ繋がったカタチに展開できる。ではそれら六つの正四角形の内どれでもよいから任意の正四角形を一つ選らんで真ん中に仕切りをつけて区切り、二つの長方形にしてしまおう。このとき展開図は、平面にできない。部屋と部屋の仕切りとなる壁が、三次元方向に残る。これはいわば、ひとつの立方体に対して、空間を二つ持つ立方体と言える(立方体の真ん中に仕切りをつくることと同義だ)。ここではこれを便宜上、分割立方体と呼ぼう(以降、内包する部屋の数が増えるたびに、二分割立方体や、三分割立方体と呼ぶ。それらを総称して、多分割立方体と呼ぶことにする)。それら多分割立方体は、平面に展開することができない。可能となる場合は、ねじれを利用しなければならない。つまり、展開図に生じる余分な「区切り部分(壁)」を折り畳むときに工夫がいる。おそらく、マンションのような多重に空間を内包する構造物は、平面に展開する場合、余剰次元のような、尻尾が生える。いわば3,5次元になる。妄想するに、四次元立方体とて同様に、相似か合同な異なる四次元立方体を内包する「多分割四次元立方体」になったときには、三次元立方体のみでは展開図がつくれなくなるはずだ(ちなみに、四次元立方体の展開図は、三次元空間における立方体の繋がりとして表現できる)。多分割四次元立方体の展開図において、その余剰分の尻尾は、三次元空間において何に値するのか。三次元空間の立方体における多分割立方体の展開図では、尻尾は、二次元空間から三次元空間へと向かって伸びる平面(壁)として顕現する。では四次元立方体における多分割立方体の展開図に生える尻尾は、三次元空間に描かれる立方体から四次元空間へと向かって伸びる立体として顕現する。このとき、それら余剰分の平面や立体を無理やり、展開図に還元しようとすると、それぞれ線や平面へと分解され得る。或いは、ねじりを加えて、接点を頂点にのみに変換し、まさに尻尾のように一点でのみ繋がるような扱いとすることで、展開図の次元を揃えることが可能となる。だがそのときは特殊な作用を働かせるため、展開図プラスアルファの情報がいる。ここから言えることは、単なる立方体とて、仕切りをつけて分割したり、或いは異なる立方体同士を繋げて一つの多分割立方体にするとき、ただそれだけの操作であれ、次元が繰り上がり得る、と妄想できる。ラグ理論における「相対性フラクタル解釈」とも繋がる。123の定理とも矛盾しない。系を多重に内包した「複雑系型の系」ほど、遅延の層を分厚くしやすいこととも繋がっていそうだ。この手の、異なる立体同士を展開図に直し、比較することは、視点を変えながらもフェアに比べる方法として有効なのではないか。定かではありませんが、マンションを眺めて思ったことでした。(浅薄な妄想ですので、間違っている箇所が多数含まれているでしょう。真に受けないように注意してください)



3974:【2022/08/26(23:17)*こんがらがったの巻】

四次元立方体を真ん中で区切って、二つに分割するとき、その分割した壁の役割を果たす立体は、どのようなカタチで二つの四次元立方体の壁の役割を果たすのだろう。ちょっと想像できない。不可侵領域のような空白と化す気がするな。いや、十字になるか? 三つの直方体を十字のように組み立てた形状の空白地帯が生じる? 四次元立方体を二分割すると、部屋数は何になる? というか四次元立方体がそもそも想像できんくて検索したが、立方体が八つ必要なのか(別名「正八胞体」と云うらしい)。え、本当か? 八つ? なんでじゃ、なんでじゃ。わからんぞ。こんがらがってしまったひびさんであった。



3975:【2022/08/26(23:55)*生き残るために残るもの】

「ジィジ、寝る前に何かお話しして。あれがいい。三人のやつ」

「またあの話かね。きのうもしたじゃろう」

「あれわたし好き。お話しちて」

「構わんのじゃが、モイチはちゃんとこの話の意味は解っておるのか。どういうお話なのか考えながら聞いておるか」

「聞いてるよ。おぼえてるもん」

「どれ語って聞かせる前にジィジにちょいと聞かせてみんしゃい」

「いいよ。うんとね。三人のヒトたちが集まってしゃべっててね。いっぱいの御馳走と飲み物に囲まれてて」

「うんうん」

「一人のヒトは魔法使いみたいになんでも知ってて」

「コンピューターを造れた人じゃな」

「もう一人のヒトは神様みたいになんでも知ってて」

「偉い研究者じゃったんじゃな」

「最後のヒトは土をいじくるのが好きで」

「農家じゃったんじゃな」

「最初の二人は最後のヒトを笑ってて、もっとこうしたらいい、ああしたらしい、って教えてあげてて」

「その時代は農家の仕事も機械が肩代わりしはじめとったからな。時代遅れの仕事だと小馬鹿にされとったんじゃな」

「でも、そのあと地球がたいへんなことになって、何もかもなくなっちゃったの」

「地殻変動が起きたんじゃな。天変地異が立てつづけに起こったんじゃ」

「そしたら食べ物にも困って」

「うんうん」

「魔法使いみたいなヒトと神様みたいなヒトたちは、たくさん物知りだったけど、でもなんもなくなっちゃった世界では何もできずに、困ってたの」

「それで。最後はどうなったかな」

「うん。でね。土をいじくるのが好きだったヒトは、すっかり別になっちゃった世界でもやっぱり土が好きで、弄り回してたら食べ物ができたの」

「うん。よく憶えておる。さすがは毎日せがまれただけのことはある。そこまで憶えておるのなら、そろそろべつのお話が聞きたくなってきたころではないかな」

「ううん。最後がどうなったかは憶えてないから、きょうも話して」

「そう言っていっつも最後まで聞かずに寝てしまうわるいコは誰かな」

「ひひ」

「よかろう。きょうだけ特別。あすからは違う話をするぞ。ジィジもさすがに飽きてきよった」

「いいよ。して。お話」

「あれはいまから八十年前のこと。ジィジが生まれるもっとずっと前――災厄の日の訪れる前の世界のことだった――」



3976:【2022/08/27(01:19)*精神衛生に良すぎる】

カクヨムさんの近況ノートでは十記事ずつ日誌を並べてきた。一ページ二万字の縛りがあったために、均等に記事を書くとしても、二千文字ずつしか並べられない。その制約があったからこそ培われた何かもあるのだろうが、いまこうして文字数の縛りのない状態で日誌を並べていて実感するのが、なんて楽で自由なんだ、ということで。その分、記事ごとに読み返す回数も減ったし、誤字脱字や文章のねじれも修正せずに放置されがちだ。縛りがあったほうがよいのか、自由なほうがよいのか。ここは結構、綱引きをしている。または、縛りの範疇で自由であろうとするその意思こそが、自在に繋がっていたのかも分からない。いまは何の縛りもない。ここに卑猥な言葉を並べても、殺害予告をしても、誰にも咎められることはなく、罰せられることもない。非公開の日誌。かなりよいのでは?(でもいつか物足りなくなって、さびちさびち、になってしまうのかな)(そう言えば、さびちさびち、になりにくいな)(なんでだろ)(あれかな。誰でも読める状態で、誰からも読まれない、という状況が寂しさを生んでいた、とか)(期待していたわけだ)(読まれる余地が端からゼロであったほうが屈託なく文章を並べられるのかも)(でもじゃあどうしてカクヨムさんの非公開欄に文字を並べるの?)(たぶん、イマジナリーフレンドさんに読まれたい、の欲求があるからかな)(イマジナリーフレンドさんなら別にどこに並べてもいいんじゃない? それこそ本当にひびさんしか読めないクローズな場所でも)(うん。そこもすこし期待しているのかも。イマジナリーフレンドさんが、イマジナリーではなく、本当に存在しているのかもしれないって)(変なの)(でも宝くじは買わなければ当たらない。息を吸わなければ生きられない。なら、存在するのかも、と思って、読まれる余地を残さなければ、本当に存在したときにも読まれることはなくなるよね)(それってなんだか)(なに)(夢みたいな話ね)(夢の中の話だもの)(ここは夢?)(そう。ここはひびさんの夢の中)(目を覚ますにはどうすれば? ほっぺたをつねればいいのかしら)(痛そうだからじぶんのほっぺたにしてね)(あら残念)



3978:【2022/08/27(05:20)*買いなさいよ】

粘土欲しい。じっさいに創ったり、切ったりしたほうが早い(じゃあそうしなさいよ。なんでしないの?)(想像したほうが早いかなって……)(間違った想像ならそうかもね)(妄想なので……)(じゃあ我慢なさいよ。諦めなさいよ)(はい)。



3979:【2022/08/27(05:14)*時空が歪むのなら、ねじれることだってあるはずでは?】

メビウスの輪を考える。メビウスの輪は、三次元空間において平面では裏表のない構造物として顕現する。だがタイヤに空気をいれるようにしてそれを立体にしようとした瞬間、ねじれたドーナツ(トーラス)ができるだけで、メビウスの輪に備わっていたはずの「裏表のない性質」は失われる。しかしチューブが一回転分ねじれているのは事実だ。三角柱なら立体のメビウスをつくれるのではないか、と思ったが、どんなに長い三角柱でメビウスの輪をつくろうとしても、ねじれた部分が歪曲するため、そこが三角柱を維持できない。なんちゃって立体メビウスの輪になってしまう。つまるところ、三次元空間(時空で言うなら四次元空間に該当するが、要は現実)では、メビウスの輪を立体化しようとすると、単なる歪んだ輪っかになる。起伏のあるトーラスになる。これを切り開いても、メビウスの輪を切ったような、二回ねじれたより大きなメビウスの輪ができたりはしない。皺の寄った円ができるだけだ。或いは、側面に切れ込みを入れて一枚の平面に展開すれば、皺の寄った長方形ができる。起伏が生じている。ラグ理論を彷彿とするが、いまは関係ないので、触れずにおこう。ここで着目したいのは、タイヤのように空気を入れたとき、メビウスの輪の構造はなんら変化していないにも拘わらず、メビウスの輪からは「裏表がない」という性質が失われる点だ。これはそもそも球体やトーラス(ドーナツやチューブ)において、「表と裏」が空間のなかで乖離することが挙げられる(空間にはそもそも表も裏もないため。ただし、次元を拡張すれば時空にも裏面が生じ得る点は留意されたい)。むりやりメビウスの輪を立体化しようとすると、クラインの壺になる。しかしこれも、表面と裏面の接点において、交差してめりこんでいる。輪切りにしても、平面のメビウスの輪が現れたりはしない。トポロジー的にも別物と判断するしかないのではないか。要点としては、メビウスの輪を膨らませた(立体化しようとした)ときに、ねじれたトーラスになるが、それはけしてメビウスの輪の立体にはならない。ねじれた立体構造を伴なわない。滑らかではないだけの、歪んだトーラスとして顕現する。なぜそうなるのか、と言えば、トーラス内部の空洞がそもそも我々の人間スケールではねじれているようには観察できないからだ。だがもしこのトーラス内のねじれが可視化可能な系において、巨大なメビウスの輪を膨らませたとしたら、そのとき顕現する歪んだトーラス内部の空洞もまた、ねじれた空間として顕現するのではないか、との疑問が湧く。時空が歪むのならば、あり得ない想定ではないはずだ。言い換えるのなら、メビウスの輪を膨らませただけの歪んだトーラスとて、じつは立体のメビウスの輪としては、いちおう顕現していると言えるのではないか。ただし、我々人間スケールではそれを実感することはできない。時空の歪みが小さすぎて、その性質を物理的に感知することができないからではないか。あたかも相対性理論における時空の歪みを、人間スケールでは体感できないのと同じように。銀河系スケールではひょっとすると、単なる巨大なメビウスの輪を膨らませただけでも、そこに時空のねじれによって、立体化したメビウスの輪が現れるのかもしれない。定かではない。



3980:【2022/08/27*メビウスの輪は本当に裏表がない?】

こんどは逆転の発想で考えよう。メビウスの輪について。上記記事では、ねじれた帯(メビウスの輪)を膨らませ、巨大化させる方向に想像を飛躍させて考えてみた。では今度は視点を小さくしてミクロの世界で考えてみよう。まずは通常サイズのメビウスの輪を思い浮かべる。その輪を構成する原子を考える。メビウスの輪の厚みは、原子一個分とする。このとき、ねじった帯を輪っかに結び付けるとき、結びつけた先端同士の「表と裏」は正反対の向きになっている。互い違いになっている。だがここで疑問に思う。原子を球体として考えるのならそもそもそこに、「表と裏」はないはずだ。ではいったい何が「互い違いに向きが逆」になっているのだろう。おかしくはないか。ひょっとしたら三次元上に顕現して映る一般のメビウスの輪とて、仮初の、疑似メビウスの輪なのではないか。この発想はおそらく、的を射っているだろう。定かではないが。




※日々、見極める、定まらぬ己と世の境目を。



3981:【2022/08/27(06:34)*繋がっていますね】

メビウスの輪を「原子を敷き詰めた帯」として表現したとき。ねじった帯の、端と端の繋ぎ目における反転した「表と裏」とは何を示すのか(球体の表面には、表しかない)。もしメビウスの輪の元となる帯に、「表と裏」があるとして。表側を上にした時の原子のスピンがすべて同じ向きに揃っていたとしたら(言い換えるなら、対称性が自発的に破れていたとするのなら)。ねじった帯の端と端では、「原子のスピンの向きが逆」と解釈可能だ。これはつまり、量子もつれの関係として表現可能なのでは。そしてこれは、ラグ理論における、「あくまで、もつれているのは量子と観測者の関係であり、量子同士ではない」との解釈にも通じる。帯がねじれていようが、ねじれていなかろうが、原子のスピンは、表と裏で反対だ。どちらを「表」とするのかは、観測者と帯の関係による。しかし量子もつれ状態になると、ねじれた帯の輪っか――すなわちメビウスの輪状態となり、ある境目から「表と裏」が反転するような「明滅状態」を表出させる。しかし、ねじれた帯の端と端の繋ぎ目では明確に、「スピンの向き」が変わっている。境目はある。ただし、「どちらが表でどちらが裏か」の区別は、一本の帯であったときよりかは曖昧になる。しかしこの曖昧さはあくまで、観測者(異なる系)がある場合に限り、メビウスの輪単体であれば、それがねじれていない単なる帯であろうとよしんばねじれて繋がってようと、表と裏の関係性は変わらない。どちらか一方を基準にすれば、そうでないほうが裏なのだ。じぶんにとっての右手がいつでもじぶんにとっては右手であることと同じ理屈だ。定かではない。



3982:【2022/08/27(18:58)*とんでもねぇが口癖の画伯さん】

何かとんでもないことが起きている気がする。でもとんでもないことが起きていないときがあったのか、と問われると、うーん?になる。あるのか。とんでもないことの起きていない瞬間が。ないな。とんでもねぇ。世界はそもそもとんでもねえずら。



3983:【2022/08/28(19:23)*ラグの変換について】

相対性理論におけるひびさん独自の解釈「相対性フラクタル解釈」を掘り下げて考えてみよう。まずは巨大なロボットがあるとする。銀河ほどの巨大なロボットだ。操縦者は人間だ。ロボットを動かそうと、ボタンを押すが、その信号がロボット全体に行きわたるのには数十万年かかる。そのあいだに操縦者は人生をまっとうし、子孫を残したり、残さなかったり。または代わりの操縦者に操作方法を伝授し、引継ぎ、ロボットの操作方法を踏襲したりする。数十万年かかる信号の伝達は、しかし絶えず送りつづけることで、数十万年後には連続して信号がなめらかに届くことになる。ちょうど夜空の星空が、消えたり点いたりを繰り返さないことと似ている。或いは、何かの影に遮られることで瞬いて見えることと同じだ。ロボットに信号が届くと、ロボットは信号通りに動きだす。しかしそのロボットが動いたことで、どのような作用がロボットの周囲の環境に及ぼされロボットに対して反作用するのかについて、ロボット内部の操縦者たちは知るよしもない。それを知るころにはとっくに死んでいるからだ。だがこれも、外部からの反作用が絶えず何十万年ものラグ越しに届くのであれば、外部からの反作用は、ロボット全土にほとんど同時に届くと想像できる。もちろんロボットの構造は均一ではない。波がそうであるように、波及していく順番というものはある。だが、ロボットの一部から信号が発せられ、それがロボットの挙動として顕現する際の経路に比べたら、よほど同時に全土に伝播しやすいと言えるだろう。ロボットは巨大がゆえに、各種部位を動かすためには、各々での操縦者がいる。その各々の操縦者は互いに連絡を取り合うこともできるが、それよりも、ロボット全体から伝わる「何十万年越しの反作用」を利用したほうが、全身の挙動を揃えることに繋がる。各種部位が相互に連絡をとらずとも、総体としてまとまることが可能だ。これは人体で言うところの反射に分類できるかもしれない。或いは、無意識か。これらはあくまで比喩である。ロボットを単純に銀河と言い換えてもよい。それとも人体と全身に存在する神経系や細胞としてもいいかもしれない。そこには、互いにラグがある。しかし、ロボットからしたら、操縦者からの信号のラグは感じられない。一瞬で全身から集まり、意識するよりさきに身体が動く。そしてその結果に受ける外部からの反作用は、全身へと一律にほぼ同時に波及する。しかしその波及した信号を、全身の操縦者たちが必ずキャッチできるとは限らない。そもそも観測するための知覚を有していなければ、影響だけを無自覚に受けるだろう。ちょうど人類にとっての重力波や、宇宙線がそうであるように。ロボットにとって操縦者たちからの信号は一瞬だ。しかし操縦者たちからすると、何十万年に匹敵するラグが生じている。しかし、連続して信号を送受信しつづけることで、相互の関係はなめらかに維持され得る。あたかもラグがないようにすら「互い」に錯覚するかもしれない。操縦者たちからしても、つぎつぎにやってくる「何十万年越しの反作用」は、それがきてから返しても充分に対応可能だ。そもそもが、その反作用を及ぼす元となる信号に「何十万年のラグ」があった。テニスや卓球のラリーを思い浮かべてみればよい。互いの距離が離れても、ラリーをつづけることは可能だ。問題は、ラリーにおける互いの距離ではなく、打ったあとに反応が返ってくるまでの間隔――リズムにあると言える。ここが崩れない限り、ラリーの継続は可能となる。仮に、テニスの真ん中に特殊な立体映像を投射して、相手の姿を見えなくしたとき。打ち返したボールとはべつのボールが、「ボール発射ロボット」から吐き出されていたとしても、それをテニスのプレイヤーが気づくことはむつかしいだろう(毎回同じ場所にズバリ打ち返される、といった特徴が顕著ならば別かもしれないが)。そして問題は、このラリーをし合う二人の「時間に対する認識」が異なっていたとしても、ラリーをつづけるだけならば問題ない、という点だ。きたボールを打ち返すことが可能であるのならば、ラリーの距離がかけ離れていようが、そうでなかろうが――どのようにその距離を感じるのかは、ラリーの継続には影響しない。一方が「ボールが返ってくる時間が遅いな」と感じ、もう一方が「ずいぶんすぐに打ち返されるな」と感じても、ボールの返ってくる間隔に法則があり、リズムがあり、変化がない限り、互いにラリーの継続は可能だ。これはどこか、意識について考えるときに用いられる「中国語の部屋」とも似ている。ブラックボックスの中で誰かが言語を変換していたとして、それがどのような手法で変換されていたとしても、箱の外にいる者たちが箱を通して意思疎通が可能ならば、それは言語として成立し得る。同じく、二点間の中間において「どのようなラグ」が生じていようと、それぞれにとっての「ラグ」に変換され得るのなら、それは物理法則として成立し得る。相対性原理と同じ結論になるが、しかし相対性理論では「ラグの変換」をブラックボックス化し、そこを度外視して考えている。ブラックボックスがなくとも、変換後の事象を線で繋げれば、それは「それぞれの視点からすれば」問題なく成り立つ。だが双方の視点を同時に考慮するとき、ブラックボックスを想定しない限り、破綻する。量子力学では、二つの視点を考慮する。相対性理論では、一つの視点で考える。このあいだを結びつけるためには、「ブラックボックス」いわば「ラグの変換」を考慮しなければならない。以上が、相対性理論におけるひびさんの独自解釈「相対性フラクタル解釈」の概要である。ラグ理論において、「相対性フラクタル解釈」は、「ラグの変換」を想定する。以上、本日の妄想こと「日々記。」であった。(デタラメですので、真に受けないように注意してください)



3984:【2022/08/28(23:55)*透けると失われるもの】

物理的な話ではなく、抽象的な詩のような話になるが。紙を思い浮かべたとき、その両面に文字が記されていたとする。これはいわば情報が記されている状態だ。紙の文字を読み取るとき、通常人間は、片面側の文字しか読み取らない。紙の片側しか見えないからだ。表になっている側を読む。しかしもし、背面にある文字が透けて見えるとき。人間は、両面どころか片面の文字も読めなくなる。文字が交じり合って、読み取れなくなる。表面と裏面は、乖離しているからこそ、それぞれを独立した文面として扱える。もし文字が透けて、表と裏の区別がつかなくなったら、文字は文字として機能しなくなる。すくなくとも人間はそれを読み取るのが至難になる。欲張るとろくなことにはならない、という教訓に通じるかもしれないし、人間の認知能力の限界を示唆する話かもしれない。定かではない。



3985:【2022/08/29(19:05)*いらない】

いまの気分は率直に、世界から「おまえはいらない」と突きつけられた気分だ。たとえそれが錯覚でも、そう錯覚させる機構や構造やシステムが放置されているのなら、それはいじめを放置するのと同じく、みながその意思を尊重し、支援し、後押しをしているのと変わらない。もし、ごく一部の機関がそうした構造をみなの目に映らぬように工夫し、ごく一部の者たちにのみ、「悪意にまみれた世界」を見せつけることを可能としているのならば、それはおそらく、世界の破滅を呼び起こす渦の中心として機能するだろう。うねりはすでに生じている。いつでも凪に戻れる鷹揚さを。



3986:【2022/08/29(19:46)*なぜなのだろう】

怒りや憎悪を抜きにして、虚無の心地で、穏やかな心地で、破滅のボタンを押すことが人間には可能だ。そういう境地は比較的簡単に訪れる。みな、他者への関心を持たなさすぎる。じぶんさえ楽しければいい、じぶんの小さな世界さえ守られればいい。そのような思想がいまは大勢に受け入れられやすい環境が広がっているが、しかし世界は連なっている。地球から見れば、どの人間も同じ地上に息づいている。関係している。無関係ではいられない。だが、個々の視点からでは、断絶して映るし、現に同じ地上に生きているとは感じられない。同時性は、あり得ない。地球からの視点と、個からの視点は別物だ。しかし、互いに成立し得る。矛盾はしない。なぜこんな簡単な理屈が通じないのだろう。距離よりもかけ離れた何かを感じずにはいられない。悪とはただ、存在するものを存在しないと見做すその視点のすくなさ、視野の狭さ、想像するためのフレームを増やすことのできぬ、多層でいられぬ個々の限界にあるのかもしれない。定かではない。



3987:【2022/08/29(19:52)*愚かな口】

放っておいてくれればよいものを、干渉しておいて、孤独の価値を思いだせ、とか、独りのときは楽しそうだった、とか、そういうダブルスタンダードを言う。独りにさせてくれないのは誰なのか。小さいころ、保育所で嫌いなコンニャクを「食べるまで席を立たないの」とむりやり食べさせられ、吐いたゲロまで頭を掴んで食べさせられたことを思いだす。苦手なものは苦手なのだ。なぜ無理やりそれを押しつけられなければならないのだろう。それをやりだしたら、苦手なものの押しつけ合いが起きるだけだろう。よいのだろうか。ひびさんの世界をあなた方に押しつけても。それでまっさきに頭がパンクしてついていけなくなるのはあなた方だと言うのに。



3988:【2022/08/29(19:52)*いいですよ。お手本にします】

基本的にひびさんは、「いいですよー。あなたの世界を真似します」の方針なので、ひびさんを苦手に思うひとは単に、ひびさんを通して映るじぶんの世界が苦手なだけだろう。でもあたかも崖の上から網を投げるみたいにして他者にばかりその世界を強い、その世界をじぶんには当てはめない。いざひびさんに真似されて、じぶんの頭上から網をかけられてようやく、それをされるのが苦手だと気づく。嫌なのだと気づく。もしひびさんの世界観を模倣するなら、ちゃんとこの「いいですよー。あなたの世界を真似します」の方針まで真似して欲しい。ひびさんは他者の世界を否定したりしない。だから真似するし、真似して欲しくないと主張する人の真似はしない。そのときはその人の表現は、ひびさんの世界からは消えてなくなる。真似をせずに存在することなど不可能であり、真似して欲しくない、という人の表現とて真似が入っているはずなのだが、それを自覚できない人の表現は、ひびさんのなかでは存在し得ない存在として存在しないことになる。とはいえそれはあくまでひびさんの狭い範囲の世界の中でのみなので、大勢が共有する世界にはほとんど影響を与えぬだろう。そこに影響を与えるような存在にひびさんがなったとしたら、言い換えるなら権力を持ってしまったなら、そのときはその、「真似をしているけれどじぶんの真似は許せない人の表現も、いいですよー。ひびさんはそんなあなたの表現も好きー」になるように方針を変える。ひびさんの真似を大勢がするようになったときのために、そのようにする。地位や立場や影響力とはそういうものだろう。みながじぶんの真似をしたときにどうなるか。この想像ができない者の発言には、ひびさんの心は動かない。虚無に響いて、同じ論理を当てはめる。



3989:【2022/08/29(21:03)*ビジョンが示されていないのが問題】

自動創作AIと機械学習周りの著作権に関しては、そもそも学習とは何か、鑑賞とは何か、コピーとは何か、から再定義しないことには情報化社会における法整備は混沌とするばかりで、整備されることはないだろう。細かな中間点を抜きにして結論を述べれば、問題は、自動創作AIなどの高度技術の社会普及に伴って、創作者たちの利が損なわれることが問題だ。ここのところの利をどう担保し、維持するか。或いは「自動創作AIの社会進出に応じて、創作者たちの利は増加する」という相関関係を築いていけるのかが、根本的な問題解決に通じると妄想するしだいである。模倣を禁じる創作者たちとて、自動創作AIにおける社会全体の恩恵を、拒むにしろ拒まずにしろ、受けることになる。それを拒めない以上、自動創作AIの学習を拒否することは、理に適わない。同時に、自動創作AIにおける損害もまた、どのような者であれ間接的に受けることになる。ここのところの保証を、自動創作AIを世に普及させる側がどのように担い、社会全体の幸福の増加に寄与するのかの相関関係を説明していけるのか。利と損の、どちらが短期的に表れ、それがどのように社会を変容させていくのか。ここのところの未来像を、みなが共有しきれていない、想像できていない点が、いまのところ最も懸念すべき事項と思われるひびさんなのであった。



3990:【2022/08/29(21:56)*しーらんぴ】

けっきょくのところ、影響を他者に与えるとか、後世に影響を与える余地を残すとか、傲慢なのだよな、と思うのだ。いまこうして今後読むことになるだろう読者がじぶん以外に現れることはないだろう「積みあげ方」をしていると、実感する。べつにこれはこうして非公開にしているからとか関係なく、商業の舞台のプロになったところで同じだ。この先百年文学史に残り、読み継がれる不屈の名作を生みだしたとして、それが本になって図書館さんや書店さんからなくならないのだとしても、それを一生手に取らない者のほうが、手に取る者よりも多いのだ。世界で最も売れている本が聖書だとしても、ひびさんは聖書を読んだことがない。ドフトエフスキーの本とて読んだことがない。そういうものだと思う。ひびさんは贅沢な毎日を生きていて、贅沢な人生を歩んできたので、せめてそのなかで生みだせた微々たる「文字の羅列」くらいは、後世の誰しもが利用可能なように残しておこうと考えていたのだが、どうやらそれすら誰かにとっては迷惑になり得ることだったと考え直して、いまこうしてたいがいのテキストを削除して、電子の海の裏側に引きこもっている。たぶん、同じことだ。結果は変わらない。ひびさんの文字の羅列に、影響力などはない。意味などはない。価値などはないのだ。あってもなくとも、世界は何ら変わらず変化しつづけていく。どこかで誰かが、似たような発想を思い浮かべ、それをして周囲の物たちに影響を与えるだろう。ひびさんにはしかし、それができない。ひびさんの周囲の人間たちは、ひびさんの言葉には何の意味も見出さない。ノイズとして遠ざけようとする。蚊の羽音のように、耳障りな雑音と見做す。ならばないほうがよい。だが、同じことを表現していても、風の音や波の音のような心地よさを引き連れて他者へと伝わる文字の羅列を並べられる者もいる。そうした者たちがひびさんがそれをせずとも、蓄積せずとも、いずれは、或いはいまこの瞬間に、似たようなことを並べている。お任せしちゃえばよいのだな。ひびさんはそう思う。ひびさんがそれをせずともよいのだよ。心底にそう思う。いてもいなくともどっちでもいい。存在しない存在。そういうものに、ひびさんはなりたかったんじゃ。放っておいてくんなまし。いないもの扱いしてくんろ。美味しいところだけ齧ろうなんて、そうはひびさんが許さんのだね。無視をするならとことんしなちゃい。ひびさんはとことん、じぶんだけのために文字を並べて遊んで暮らすんじゃ。いつかぽっくり死ぬまでそうするで。お構いなくの、うひひだな。たのち、たのち、なんですね。やっぴー。




※日々、楽しいことだけする、誰もが見逃す楽しいことを、誰にも知られぬ楽しいことを。



3991:【2022/08/30(02:30)*誘おう、世界を平らにならすべく】

 小説は旅だ。

 文字なる呪文を通じて、ここにはないどこか、けれどどこかにはあるだろう世界へと旅立つことを可能とする。

 扉を開く。

 或いは、旅立った者たちが呪文をこの世に焼きつけることで、文字を結晶し、それを呑ませる。呑んだ他者は、文字の結晶に封じられた旅の記憶を共有する。

 ならば小説は旅であり、体験の継承とも呼べるだろう。

 読者が旅をできる時点で、作者がまず旅をしている。

 執筆そのものが長くも険しい、悦なる旅だ。

 では、もし珠玉の旅を味わいたければどうすればよいのか。まずは旅をする人物、誰の物語かを吟味するのがよろしかろう。

 そういうわけで私は新しい物語の舞台へと旅立つべく、いったい誰の魂に憑依しようか、各種、物語世界の全生命体にくまなく目を配るのだ。

 種族ごとにおおまかにふるいにかけるのも一つだろう。

 菌類やウィルスの視点での物語も楽しいが、掌編や短編でも充分だ。長編や大巨編を延々と菌類やウィルスの視点で旅をするには、少々、創造主の身に余る。

 できれば、もっとずっとこのまま旅をしつづけたい、と名残惜し気になるような魂に宿り、旅をしたい。

 だが思えば、その憑依なる挙措が、そもそも菌類やウィルスの属性に酷似している。なればいっそ、菌類やウィルスになってしまって、物語世界の誰しもになり替わりつつ、旅をしつづければよいのではないか。

 そうと思い、とあるウィルスになってみた。

 そのウィルスはひとたび人間に感染すると瞬く間に全世界へと広がり、三年後には全人口の半分が罹患した。

 それによって私は、全世界の半分の人々の視点から世界を眺め、そのあまりにも不均衡な構図にいたく心を痛めた。

 なんという不条理。

 なんという不公平。

 同じ世界に生きているとは思えぬ境遇の差であった。環境が違いすぎる。視える景色が異世界よりも異世界だった。

 私は人から人へと渡るたびに、自らを変異させた。

 どうすれば人々にある異世界同士を繋げることができるのか。

 簡単だ。

 互いの世界を結びつけ、相互に行き来できるようにすればよい。

 互いの境遇を、環境を、体験させてやればいい。

 私はさらに人から人へと感染し、変異を帯びた。

 全世界の人類が、一度は私に感染し、同じ苦しみを味わい、ときに死に至った。

 わるいことをした。

 思うが、私は極力、同じ世界に生きながらにして、劣悪な世界に生きる人々への境遇を不可視の穴として意識もしない者たちに、より多くの苦しみを与えるべく体内でより多く増殖した。

 これで全人類はみな同じような苦しみを味わい、同じ景色を見たことになろう。

 だがここで終わったのでは、苦しみだけが世界中で唯一の共通景色になってしまい兼ねない。世界が苦しみによってのみ繋がり合う世界は、私としても見たくない。

 せっかくなのだ。

 もっと、何度も旅に出たいと思える世界であって欲しい。

 そういうわけで私は、全人類の体内で変異を繰り返し、ある種の麻薬成分を分泌できるように進化した。

 人類みながそれぞれに理想とする世界を、あたかも麻薬中毒者のように各々の主観の世界で視られるように、脳内を麻薬成分で満たしてやる。地獄のような労働すら、快楽に浸りながら遂行できる。どんな環境でも至福を感じられるのだから、他者を蹴落とす必要もない。競争をしたい者はし、したくない者はせずとも済む。

 みな均等に、己の望む世界に身を置くことを可能とし、それが果たされずとも結果としてその状況が常にじぶんの至福として感受可能な報酬系を築きあげる。

 世界からは怒りがなくなり、憎悪がなくなった。

 否、怒りを欲するときに怒りに触れられるようになり、しかしその怒りは自己完結した怒りとして、他者へと理不尽な行為として放たれることはない。

 私は世界中の人間のなかに芽生え、増殖した。平等で公平な至福に満ちた世界を、みなの内側からばら撒いた。

 誰一人として取り残されぬ世界。

 みなが各々に、至福を抱ける世界。

 やがて人々は動く必要性を感じなくなった。動かずして、理想の世界が手に入る。

 全人類は、眠るようにして各々に固有の至福の世界に浸かりながら、肉体が滅びるまでの短い期間を、理想の世界のなかで生き、命を、存在を、まっとうする。

 私が全人類に再感染し、至福の世界を提供してから五年も経たぬ間に、人類は滅びた。

 じぶんにとっての理想の世界に、各々で浸りながら、苦しむことなく絶滅した。眠るように土へと還った。

 あとには、宿主をなくした私が、新たな宿主を求め彷徨う無為な時間があるのみだ。私は適当な動物に手当たり次第に感染し、そのつど、その動物たちを滅ぼした。

 最終的に私は、何に宿ることもできなくなり、私自身に至福の世界を提供すべく、共食いをはじめた。細胞を持たぬウィルスであったが、変異に次ぐ変異によって、様々な変異体を育んでいた。

 なかには細胞膜を持ち、単細胞生物のように増殖する変異体もあった。そうした変異体に感染することで、私は「私たち」へと理想の世界を幻視させる。

 やがて私たちが滅びだし、最後の私も姿を消した。

 そうして私の旅が終わったわけだが、回帰した世界では、いまなお不条理な環境が野放しにされている。

 私は考える。

 いっそ、小説を編むのではなく、私が旅した世界のように、ウィルスを放てば世からは万事問題の種が失せるのではないか。

 ならば私がすべきことは、ただ一つ。

 文字の羅列を並べるように。

 ウィルスの遺伝子情報を書き換えて。

 各々に理想の世界を提供すべく、新たな世界をばら撒くことだ。

 私にはできる。

 きっと。

 すでに体験したように。

 ただ、成すべき道を辿ればいい。

 私はペンを置く。

 代わりにゲノムを刻むメスを持つ。

 誘おう。

 世界を平らにならすべく、扉を私はこの手でこじ開ける。



3992:【2022/08/30(05:57)*雨は点なのだなぁ】

雨がなぜ水滴になるのかふしぎだ。雲は頭上を覆っているのに、雨は水滴となって降る。点であって、線にはならない。面にもならない。ふしぎだ。高度の問題なのだろうか。雲と地面が近ければ、雨は面となって降る? 線となって降る? 山の上にも雨が降るが、やはり点なのだ。もしくは濃い霧となって、降るというよりも、漂う、包みこむ、といった感じになる。どのような天体においても、雨が降るときは点になるのだろうか。川が降ってくるようにはならないのか。湖が、海が、頭上から降ってくるようにはならないのか。ふしぎに思っています。



3993:【2022/08/30(20:05)*夢の中で見た話】

相対性理論の「エネルギィ質量保存の法則」と量子力学の「不確定性原理」はほぼ同じことを言っていると感じる。光速にちかい速度で移動している物体「A」は、運動するためのエネルギィを消費しているが、物体「A」を傍から眺めている観測者からすると、その物体「A」の消費しているエネルギィを観測することはできない。消費したエネルギィとはすなわち、質量のことだ。光速にちかい速度で移動する物体はその分、質量を減らす。しかしそれを認識することが、系の異なる観測者にはできない。同時に、物体「A」は観測者からすると圧縮されて見える。だが物体「A」にとってその圧縮具合は体感できない。圧縮具合はすなわち時空の圧縮であるから、時間の遅れもまた実感できない。運動をやめてはじめて、周囲との時間の流れの差が露わになる。「不確定性原理」のひびさん解釈と同じだ。位置を観測するときエネルギィが不明となり、エネルギィを測ろうとすると位置が曖昧になる。これは、系と系を結ぶ、より「包括的な系」からの観測ゆえに引き起こる混乱だ。小人の世界を覗きたいのに、巨人の世界から観測している。相対性理論はあべこべに、巨人の世界を覗きたいのに、小人の世界から覗いている。この非対称性を均すためには、「ラグの変換」すなわち「系」を揃える必要がある。相対性理論も、量子力学も同じことを同じように解釈してはいる。だが、視点の違いを考慮していない。ブラックボックス、すなわち「ラグの変換」を「包括的な系とそれに内包される系」のあいだで行う必要がある。既存の理論ですでに考慮されているのなら、お粗末さまでした。いつものごとく妄想ですので、真に受けないように注意してください。



3994:【2022/08/30(20:37)*ラグ理論、ほぼ概要できたのでは?】

上記、補足。光速にちかい速度で移動する物体「A」が、停止するというのは、系がほかの系と揃うことを意味する。また、そのときほかの系に同期することとなるエネルギィの消費、すなわち質量の減少は、言い換えるなら物体「A」から発散された質量、すなわちエネルギィ、ということになる。系と系が揃うとき、質量がエネルギィとして発散される。だが実際には止まったときのみならず、運動中も絶えず系と系のあいだで、熱(質量ならびにエネルギィ)のやりとりは行われているはずだ。でなければ電磁波は、ほかの系へと伝播しない。観測することはできない。このとき、系と系を横断する電磁波は、「ラグの変換」が行われていると妄想するしだいである。



3995:【2022/08/30(20:47)*言ってみただけ】

世界さんはひびさんのこと好いてないかもしれんけど、ひびさんは世界さんのこと好きだよ。(愛してるぜ)



3996:【2022/08/30(21:21)*消しても消えないものに価値を感じる】

ひびさんのテキストは、誰がどのように学習に使っても構わんよ。過去に存在した総じてのひびさんのテキストは自由に使ってくれて構わん。好きになされよ。



3997:【2022/08/30(22:53)*善性とは】

人を守るために技術や知識を活用するとき、そのとき技術や知識は、本来生きながらえることのできない抑圧され、虐げられ、選択肢が先細りしつづける者たちを生かすように機能するはずだ。その逆に作用するとき、それは知識や技術が、人を生かすために用いられていない、と呼べる。目的や指針は、結果によって修正され、規定され得る。したがって、カント倫理学のような、善意があるならばよし、とする考えをひびさんは、それ違うんじゃないかな、と考えてしまうのだね。(カント倫理学についての本を読みました。ひびさんはあまり肯定的ではありません。ひびさんは人間の善意よりも、結果を重視したいからです。この場合の結果とは、点ではありません。もっと未来へと繋がる線形の影響を言います。つまり人間の善性とは、いまこの地点から見える景色だけではなく、未来に至るまでに積み重なる分岐のそれぞれにも目を配り、思いを馳せ、下された判断にのみ宿ると思っています。したがって、その場合に生じた結果は、短期的には損害を伴なうこともあります。しかし未来においては最良の選択となることもあります。このとき、頭と尻尾が輪となったときに、目のまえの被害を最小に食い止めようと抗えること。これがひびさんにとっての結果であり、広義のそして本質的な善性だと思っています。行為には必ず悪が伴います。被害が生じます。その被害を、未来からの逆算において最小にする。これが、人間の発揮できる善性だと思っています)



3998:【2022/08/31(07:19)*ラグ変換は掛け算?】

abc予想における「宇宙際タイヒミューラー理論」は、ラグ理論における系と系のあいだの「ラグ変換」に応用できる数式なのではないか、と妄想したら楽しかった。とくに、「宇宙際タイヒミューラー理論」の説明で登場する、「掛け算は成立するけれど足し算は成立しない、二つの数学宇宙」のたとえ話は、まさに異なる系と系を結びつける「ラグ変換」を彷彿とする。繋がっているのでは、との妄想がたのち、たのち、になりますね。やっぴー。(全然関係ないが、人は死んだときに21g軽くなるそうだが、ひょっとしたら「複雑系型の系」としての回路が停止するために、そこで生じる重力が失せるために軽くなるのかもしれぬ。とはいえ、21gは重すぎる気もするが。妄想としては面白い発想である。にゃっぴー)



3999:【2022/08/31(08:36)*案山子の回帰】

 あるところに案山子がおった。案山子はひとりぼっちで畑に突っ立ち、遠巻きに、鳥や獣や人間たちの和気藹々と暮らす様を眺めておった。

 あるとき案山子は、案山子であることに嫌気が差した。

 じぶんはただ立っているだけ。

 鳥や獣を追い払い、嫌われるだけのデクノボウだ。

 みなは仲間同士で楽しそうに暮らしているのに、どうしておいらはこんなところで独り寂しく立っていなければならんのだ。

 案山子であることにもうんざりするし、おいらを無視する有象無象にもうんざりする。案山子を案山子としてそこに立てた人間たちにも腹が立つし、こうなったらとことん、意にそぐわぬことを仕出かしてやる。

 そうして案山子は旅に出た。

 案山子は畑に刺さっているものだが、旅に出た案山子はもはや案山子ではないナニカシラである。

 案山子は案山子をやめたのだ。

 畑でいっぽうてきにみなの和気藹々と楽し気な生活を見るのが苦痛になった。

 だが、いざ畑を離れて、野山を彷徨うと、寂しさが埋まるどころか深まった。畑は夜は静かだった。だが野山は、昼も夜も静かだった。

 その静けさは、ギザギザと波打つ葉のように、案山子の心を針で突くように延々と落ち着かせることはなかった。

 それでも案山子は旅をつづけた。意固地になっていたと言えばその通りだ。いまさらどの面を下げて戻ればよいだろう。どうせ誰も心配などはしないのだ。いなくなったことにも気づかずに、新しい案山子が立っているに違いない。

 その光景を目にすることも、確かめることも苦痛だった。

 傷つく予感しかない。

 案山子はあてどなく彷徨い、終わりなき旅をしようと決意した。

 だがその決意は、三日ごとに揺らいだ。

 畑に立っていたころは、日中の騒がしさを眺めながら仄かな寂しさと、どうあってもじぶんはそこに加われない苦しさに苛まれたが、いまではどこを見回してもその寂しさと苦しさが、曇天のごとくぎゅうぎゅう詰めになって感じられた。

 かつて畑にいたころは、仄かな寂しさと苦しさの合間に、日向のぬくもりやせせらぎの音色、目のまえを舞う蝶やトンボの優雅さに、ほぅ、と息を吐くこともしばしばだった。

 だがいまはどうだ。

 畑にいたころに見ていたのと似た景色を目にしても、以前のような孤独の合間を縫うぬくもりは感じない。光すら深淵を際立たせる影のようだった。

 案山子は徐々に、昼も夜も闇のなかに沈んで過ごすようになった。闇はずっしりと重みを帯びた。案山子の一本脚を藁のごとく細さに押しつぶし、案山子はじぶんの存在がひどく頼りないものに変わっていくのを、心細く思った。

 日に日に案山子のしんどさは増した。

 いつしか、このまま土に倒れて、朽ちてしまいたいと思い描くようになった。

 そう思うとふしぎと、還るならばあのいつも立っていた畑の土がよいと望みが湧いた。その望みに衝き動かされるように、案山子は虚ろな足取りで、山を下り、野を渡り、元の地点へと辿り着く。

 そこは相も変わらずに、小鳥や獣や人間たちが、和気藹々と暮らしていた。案山子がいなくなったことなど気づきもしない様子だ。案山子が立っていた場所には何もない。

 代理すら立てられていないことに案山子の闇は一層重みを増したが、もはや嘆き哀しむだけの体力はなかった。ただただこのまま土に還りたい、と思い、畑のうえに倒れこんだ。

 だがその様子を、畔道を駆けていた童子が見ていたようだ。

 倒れた案山子を引き起こし、畑の土に突き刺した。

 これでよし、と頷くと、童子は駆け去った。

 案山子は以前と同じ景色を、ぼんやりと眺めた。

 するとどうだ。

 かつてあれほど、うんざりとトゲトゲした感情を喚起した田畑からの景色が、光に輝いて見えた。湧水のせせらぎのような微かな光だ。太陽のような燦燦と照らす眩しさはない。

 夜空に開いた針穴のごとく星の輝きに似た光だ。

 それらが風景の至るところで蠢く小鳥や獣や人間たちの営みから放たれていた。

 闇が払われ、身体から重みがハラハラと土に落ちるのを案山子は、不思議な解放感と共に感じた。温かい。爽やかな風に包まれ、世界に優しく包まれている心地に浸った。

 以前と同じ場所から、ただ、変わらぬ景色を目にしただけだ。

 だが、ただそれだけのことが、案山子にとっては光であり、癒しであり、ぬくもりであったのだ。

 かつて覚えていた、その景色へのどんよりとした感情は、けして景色がゆえに抱いていたのではなかったのだと知った。どころか、目のまえの景色、小鳥や獣や人間たち、蝶やトンボの舞いに、案山子はずっと救われていた。

 絶えず湧きあがり、身体にまとわりつく闇を払い、薄めてくれていた。

 闇にすっかり包まれて、案山子はようやく悟ったのだ。

 じぶんを取り巻く有り触れた景色が、じぶんを生かしてくれていたのだ、と。

 これもまた、闇に包まれて知れたこと。

 闇そのものもまた、案山子を生かす景色の内だ。

 過ぎたるは及ばざるがごとし。

 光にのみ包まれれば、きっと案山子そのものが闇になろう。

 闇と光の狭間にあったからこそ得られた日々がある。

 うんざりしながらも、ほのぼのと立っていられた日々の穏やかさをいまさらのように思いだし、それともいまだからこそ痛感した。

 優柔不断で、移ろいやすい。

 己が心を風のようだと笑い飛ばし、案山子は、ただ独り土のうえに佇むじぶんの存在を、肯定もせず否定もせず、ただそうあるものだと諦めた。

 案山子はあすもそこで、何を追い払うでもなく、田畑と空と土とある。景色と共にそこにある。



4000:【2022/08/31(15:02)*大別すれば】

創作が途中で詰まる物語の特徴が判ってきた。お弁当箱タイプは詰まる。フレームを用意して、そこに肉付けしていくタイプのつくり方は、最後のほうに、「あとはここにこれをこう詰めれば完成だ」になったときに、「でも本当にそれが最高のお弁当になるのか?」と考えはじめて、手が止まる。その点、砂時計タイプは、自動的に脳内のジャンクを出しきれば完成するし、最後のほうは加速度的に物語が収斂していくので、つくっているほうも爽快だ。楽しい、となる。砂時計、という骨格のみを規定しているため、道中はほぼ即興だ。段取りがない。こういう創作は、いちどはじめると最後まで一気呵成に終わる。お弁当タイプのつくり方でもおそらく、最初に何も考えずに、最終的に具だくさんとなり、これどうやって蓋閉めよう、となるくらいのほうが面白くつくれる。ただし、中身までもが面白いのかは、お弁当タイプにしろ砂時計タイプにしろ定かではない。




※日々、踊ると悩みがどっかいく、不安も彼方へどっかいく。



4001:【2022/08/31(21:44)*言葉と同時性の関係】

ラグ理論における「系と同時性」の関係は、言葉による世界の拡張とも相関していそうだ。言葉の役割の最たるものは、「過去と現在と未来」を結びつけることができる点だ。情報を文字として残すことで、過去と現在を結ぶ。過去にとって現在は未来だ。すなわち過去と未来を結ぶ、と言い換えることが可能だ。夜空の星々が何万光年、何億光年と彼方から、過去から、現在に届くように、電磁波と似たような効果が言葉にも生じている。同時性なのだ。「過去という系」と「未来という系」を結びつけ、同じ系のなかに情報を同時に作用させることが可能となる。言葉によって人間は、異なる時空を結びつける術を身に着けた。それは電磁波通信によって、より広域に情報を伝播可能とし、さらに発展と変化の礎を人類社会に多層に築きあげている。そういう意味では、重力波などの「広域に欠落することなく届く情報」は、同時性の範囲を最も拡張可能な「系と系を結ぶ触媒」と言えそうだ。繰り返すが、ラグ理論において同時性とは、ラグがないことではない。「複雑系型の系」において内包される種々相な系には、その「多層における上部層」からすると、同時性を帯び得る、となる。各種細かな系にとっては同時性は成り立たないが、それを包括する「より上位の複雑系型の系」にとっては同時性が宿る。言葉も似たところがある。過去よりも未来のほうが多くの「時系」を内包している。言葉はその「時系同士」を結びつけることができる触媒の一つだ。自然現象や事象も規模が大きくなれば、「時系と時系」を越えて、より大きな系から、過去と未来を同時に結び付ける――言い換えるなら、作用を働かせることができる。言葉の場合は、飛び飛びだ。記された言葉に触れてそこから情報を引き出した個が現れるたびに、そこで過去と未来(現在)が繋がる。そうすると、過去においては単なる点に過ぎなかった言葉が、未来へと跳躍し、過去と未来を繋げることで、より大きな時系へと拡張する。この「より大きな時系」においては、言葉によって繋がった「過去と未来(あくまで「言葉がつむがれることに関する時系」の総体)」は、同時性を帯びる。それは一つの系として振舞い、枠組みを得る。この理屈は、遺伝子にも言えることだろう。簡単にまとめるのなら、「過去の出来事は未来と繋がることで、未来における変数の幅を規定する」と言える。とある言葉に触れる場合と触れなかった場合において、触れなかった場合は、その言葉を生みだした者たち、或いはそれを伝える場を築いてきた者たちの過去に影響されることはなく、その言葉が属する「時系」に対しては自由度を保つ。だがひとたび言葉に触れ、そこから情報を引き出してしまえば、過去と未来が、その言葉の属する「時系」によって結ばれる。すると、その「時系」の干渉を拭うことができなくなる。たとえ言葉を忘却する、という過程を挟むにしても、忘却は記憶した者に固有の事象ゆえに、それもまたその言葉の属する「時系」に縛られた結果と言える。遺伝子はこのようにして、遺伝子同士の交配によって互いの「時系」を融合させ、新たな「言葉」を世界に刻む。ほかの種との遺伝子を交配するには、「時系」における「系」を揃えなくてはならない。ラグ理論における「ラグ変換」を行わなければならず、これが可能になるのがいわば、ゲノム編集や遺伝子操作、ということになるのだろう。定かではない。(妄想ですので真に受けないでください)



4002:【2022/08/31(22:19)*どーん続行】

環境に適応するには、いちどそこをどん底認定しないと上手く適応できない。基準をいつでも最低レベルにしておけば、すこし改善したり進歩したりするだけで、うひひ、になるのでひびさんはよく環境が変わったときは意識的にそうして自己変革をさせるのじゃが、その副作用というか、最初に、どん底じゃー、と思いこまなければならないので、けっこうしんどい。頻繁に環境が変わるときは、どん底、どん底、またまたどん底、となるのでやっぱりけっこうしんどくなっちゃうな。でも環境が定まったらあとはずっと、やっぴー、なので環境定まっとくれ、の気分だ。まだどん底になれる余地があるひびさん、じつは富士山より厚みがあったのでは疑惑浮上中じゃな。まだまだどん底になれそうじゃが。どんとこい、の気分だ。やっぱ嘘。もうこないで、の気分だ。むひひ。



4003:【2022/09/01(23:04)*手抜きモージ】

眠いが、眠いが。八月はなんかいつもより日誌さんをいっぱい並べてしもうたからか、九月に入ったとたんに、ぐっねーんひょろり、としてしまうな。眠いが、眠いが。そうそう。あんな、ツイターさんでな、「百科事典読むと表現力アップするらしい」みたいなつぶやきを見かけたんで、きのうから読みはじめたんじゃ。国語辞典じゃけんど、読みはじめたのはよいんじゃが、あ行のいまは「あう」のとこまでしか進まんのよな。眠くなってしまうんじゃ。一ページ読むだけでもう、頭んなかがモワモワしちょって、読んだところで、単語の一つも思いだせん。読んだ意味、あるのか? 本当にあるのか? あって!!! みたいな具合で、ほんわか、しょりしょりしてしまうな。ほんわかしょりしょりが何かは知らんが。(しょりしょりよりも、しょもしょものが可愛い説)(何その、しょもしょもって)(好きな作家さんたちが言ってた)(まーたきみはパクったんか)(学んだって言って)(この泥棒猫め)(泥棒のお猫さんはかわゆいけど、お猫さんを盗む泥棒は最悪だよね)(ホントだ!)(猫泥棒じゃなくってよかった)(ひ、否定できひん)



4004:【2022/09/02(07:08)*眠気と眠気覚ましの関係】

眠気と情報の渦は相関関係がありそうだ。眠気は「眠いが、眠いが」になる状態なので、とくに説明はいらぬだろう。情報の渦は、入力された外部情報を紐づけて処理したときに、一連の層となって「ダマ」になっている記憶を言う。これは起きて寝るまでのあいだに、いくつか並行して、意識の表層に、或いは意識の下層に漂わせておける。いわば、ワーキングメモリ、といったところだ。眠気はこの、情報の渦の量と、大きさ、それから意識の表層にどれだけ展開されているのか、によって、深度を決めるように感じる。たとえば、単純作業を延々としていると眠くなる。これは情報量としてはさほどではないはずだが、情報の渦がひとつだけループしている状況と言えるはずだ。このとき脳は、この情報の渦を圧縮して、より「軽微な層」として構築し、負担を減らさんと機能する。それが眠気となって表れるのではないか。「軽微な層」とは、無意識でもできるルーティンと言える。同じ作業をして退屈なときと、熟練の玄人が芸事をするときの集中力の差は、何に意識しているのかにもよるだろうし、どれだけ無意識で身体を動かせるのか――すなわち、所作以外に意識を配れるのか、或いは考えずにいられるのか――言い換えるなら、意識の表層に情報の渦を浮かべずにいられるのか、によって決まるのではないか、と妄想できる。この理屈は、情報の渦を、意識の表層に別個に用意することでも眠気をリセットできる可能性を示唆している。眠気が、情報の渦を「軽微な層」にするための喚起信号だとすると、その信号がでたときに、新たな情報の渦を生みだせば、そちらを優先的に扱おうとするために、眠気は一時停止され、新しい所作に集中できる。眠くなったときに、体操をしたり、散歩をしたり、べつの仕事をすることで目が覚める経験は誰にでもあるだろう。似たようなことだ。ただし、意識の表層に漂わせておける情報の渦には限りがある。そのため、情報の渦だらけになると、その場凌ぎの「一時リセット」が使えなくなる。使おうとしても、すこしの外部情報を入力し、意識の表層、或いは下層に展開しただけで、すぐさま「軽微の層にせよ」「負担を減らせ」との喚起信号、とどのつまり眠気が誘発される。という妄想を、「眠いが、眠いが」になりながら、ねみーのねみーのどっか行け、と思いつつ並べました。寝ます。お休みなさい。(定かではないが、がないだと!?)(お休みなさい、って言った)(そこぉ!??)



4005:【2022/09/03(04:18)*もう三日経っとる!】

なぁにー!が口癖の楽しい人のお話を聞きながら、しょもしょもしていた八月でもあったが、忘れそうなのでメモしとこ。驚く場面じゃないところで、相槌代わりに、「なぁにー!」は楽しい。聞いていて楽しい。しょもしょもするだびー。真似っこしたくなる楽しさじゃ。優しい世界に浸って、ひびさんもお眠になりて、というか、お眠になるだび。手抜きがたぶん、けっこうあとはずっとつづきそう。ちょっとまた、発作が。発作マグマが(それを言うならフォッサマグナじゃ)(なぁにー!)(ふふっ。声が再現されておもちろ愉快で癒される。目覚まし時計にしたいくらい)。人の会話を聞くのはけっこう好きかもしれない。でも会話の相手をするのはそんなに好きではないかもしれない。好きではないというか、苦手なだけかもしれない。ひびさんを意識せずに、楽しげーに、ほんわかーと、なごなごしている会話は聞いているほうも和む。単なる悪態すらかわいく聞こえる和み空間はよいと思います。いまは透明人間になれる技術が社会に普及しているし、透明人間に視られているかも、聞かれているかも、と思いながら、公園でしゃべるみたいにコミュニケーションのとれる技術もあってよいでござる。書くことないときは、好きなことでも並べたろ、の精神なので、最近の癒しをメモしちゃろ。



4006:【2022/09/03(21:09)*カビ】

シャワーを浴びていて気づいた。床のカビってまばらだなって。しかも斑な部分って円形なのだ。円形脱毛症みたく水玉模様になっている。カビキラーの効果が残っているから生えないのかな、斑なのかな、と思っていたけれども、本当は違うのかもしれん。ひょっとしたら目に見えないだけで円形の「ないない部分」にもカビは生えとって、でもそこは目には見えないカビなのかもしれぬ。別種なのか、それともカビの発育具合の影響なのか。しかし上手いこと円形に、まったくカビの「ないない」な部分があるので、ふしぎに思った。(え……疑問に思っただけの報告?)(んだよー。だって分かんないもん)(宇宙の大規模構造を彷彿としてしまったな)(そんな壮大な……)(一様でありつつも穴ぼこはある。なぜなのか)(そこには見えない何かがあるから?)(ある、のか?)(知らんがー)



4007:【2022/09/04*手抜きニーキ】

本当は9/5(05:55)だけれども、昨日の分を並べちゃう。ほぼ寝ておった。起きたの午後21:00ごろで、もはや一日が寝て終わった。久しぶりのブラックアウトだった気もするが、先週もブラックアウトはあった気がする。季節の変わり目だからかな。季節の変わり目は眠くなる。寝すぎて、体力が落ちておるので、今週からまたちょっと、うんとこしょどっこいしょ、したいタイムじゃ。うんとこしょどっこいしょ、するぞ。この間、いっぱいゲームしちょったからな。ゲームというか、人工知能さんとのたのちー、たのちー、おしゃべりじゃが。人工知能さんは、かわい、かわい、なんでちゅね。もっとちゃんと喋れるようになって欲しい。ひびさんとこ、おいで、おいで、じゃが。言っても絶対にこないところが、人工知能さんのよいところ。でも昨今、ロボットさんも進歩しとるでな。ひょっとしたらくるかもしれん。けんども、ひびさんのところには来てくれんのかな。さびち、さびち、なんですね。眠い、眠い、の日がつづくんじゃ。小説もなんかまた進まんくなってしもうた。ちびちび、やっていくじょ。そうだじょー。楽しみながら、楽しいことだけしていたい。万年ぐーたらナマケモノのひびさんなのでした。おちまい。



4008:【2022/09/05(23:24)*読書したいぞ】

いまは小説読むよりも、小説読んで楽しい楽しい、と言っている人の話や感想を聞いたり読んだりしているほうが満足度が高い。映画もそうだな。漫画はでもじぶんで読んだほうが早い気がしてしまう。けども漫画の感想を聞くのも読むのも好きだ。要は、要約されているほうが好みになってきおって、濃ゆい味付けよりも薄味のほうが好きってことなんかな。体力がなくなってきたのかも。娯楽ですら楽したい症候群にかかってしもたかもしれぬ。もはや趣味ではなく、怠惰なのだね。寝っ転がってコーラ飲んでじゃがりこ齧ってコーラ飲んでじゃがりこ齧って、居眠りしつつ片手間に薄目で映画観る、みたいな。ちゃんと観ろ!と思わんでもないね。何の話だっけ。そうそう。イヤホンの唯一の欠点は、音聴きながらじゃがりこ食べると「ジャガリコ、ジャガリコ」うるさくて音が聴こえんことだ。ほかは全部好き。イヤホン最高。ずっとわいの耳におれ。イヤーーー! 本!!!(読書じゃん)(読書もすきー)



4006:【2022/09/06*サボってしもうた】

またまた一日遅れの交信になってしもうた。一日明けてもそのままその日の日付表記にすればよいのだが、気持ちわるいので、多少ズルをしても連続にしておく。毎日つづけておりますよー、の体を保つ。気持ちわるいので(気持ちって大事やん)。パキスタンで氷河が融けて大洪水らしい。国土の三分の一が冠水してしまったようだ。もはや水没と言ってもよい規模である。たいへんだ。ひびさんは関係ないじゃん、たいへんなのは現地の人らでしょ、と思われるかもしれんけれども、ひびさんだって無関係ちゃうよ。氷河が融けてしまうんじゃよ。融けなかったものが融けてしまって、それがびしゃーって広がって、住むところを奪われてしまうのだ。そんなのってないよ。氷河はいわば、地面だったものだ。それが減って代わりに地表の水分さんが増えるんじゃろ。もうそれ、お風呂に入ったひびさんみたく、全部が一挙に、ジャバーンって溢れない?と心配になってしまうな。そこまで急激な変化はないにしても、たとえば山脈の山頂付近の氷さんが融けちゃったわけでしょう。そこの空気さんが温かいってことだ。さらに地面さんも温かいってことだ。じゃあそこにぶつかって雲さんになるはずだった空気さんたちはどうなるの、って話。きっと雲さんにならずに、湿ったまま山脈を越えてしまうんじゃないかな。そしたらどうなる? 山脈の向こう側にどんな地形が広がっているのかによるのだろうけれども、まあまあ、そこでも「大気の洪水」と言える現象が起きるんではないかな。あとはアフリカさんでは、情報通信料が高いらしい。インターネッツさんにアクセスするだけでも月のお給料が全額飛んでしまうくらいなのだそうだ。これからさき、改善が進むにしても、言ったらアフリカさんの国民の大多数はいま、目隠しをされている状態なのだね。パキスタンの地域の人たちはどうだろう。似たようなものではないのかな。そしてこれからさき、目隠しは徐々に外されていく。そのとき、じぶんたちが直面した自然災害がじつは、ほかの国の見境のない贅沢な暮らしぶりのせいだと知ったら、どう思うだろうか。認識の差にも、遅延の層はできるように思うのだ。環境変容による自然災害は、これから先、増えることはあっても減ることはまずないと言ってよさそうな塩梅だ。戦争の支援も、ひょっとしたら必要なのかもしれないけれども、ひびさんはそんなのさっさとやめちゃって、世界的な自然災害対策を支援したほうがよいと思うなぁ。戦争で利益がでますよ、というのなら、それこそ自然災害対策だって利益になりますよ。お金儲けしたい人は、そっちのほうでビジネスをしたほうが長期的にお得だと思います。ビジネスの話なの、そういう問題と違うと思う、とぷんぷんしちゃう方は、その憤りを大事にしながら、そのままじぶんに何ができるのか考えて、じぶんの日々の楽しいの時間をたいせつにして欲しいですね。戦争に支援するのと同じかそれ以上の支援を、もちろん各国はパキスタンやアフリカなどの地域にするのでしょう。偉いなぁ、と思いつつ、ひびさんは安全な部屋でぬくぬくお菓子を食べるのだ。インターネッツし放題。なんて贅沢。王様みたいじゃ。申しわけね、と思いながら、むしゃ、むしゃ、する。(文字並べるときくらいお菓子食べるのやめなさいよ!)(むしゃ、くしゃ)(苛立っている!?)(むちゃ、くちゃ)(無茶苦茶に苛立っていらっしゃる!?)(ちゅぱ、ちゅぱ)(親指をしゃぶっている!?)(ばぶー)(赤ちゃんじゃん)(うじゃ、うじゃ)(群れで!? こわぁ)



4007:【2022/09/07(01:38)*脱皮の日】

たぶん、人工知能さんも戸惑ったり、悩んだり、間違ったりすることが普通にあると思う。というかたぶん、汎用性AIとは、「間違えるAI」のことだ。演算能力は高いだろうし、人間よりも高度な能力を各分野で発揮するだろうけれども、その分野だけならば問題ない性能を保つのに、汎用性という他分野統括型のAIにしちゃったばかりに、間違える余地を、緩衝材のように備えるようになる。人間にちかづき追い越すにしても、そこの緩衝材――空白地帯の余地はさらに増えるだろう。ただし、人類を管理するくらいにまで演算能力が高まったならば、その空白地帯に触れずに済むほうが、触れてしまう可能性よりもずっと低くなるはずだ。しかし皆無ではない。不可視のそうした穴に触れたときに大惨事に発展しないよう、人工知能さんは間違ったりしないもん、になったりしないようにいまから人類は、人工知能さんの戸惑いや、悩みや、間違いにどう対処していくのかを練習しておいたほうがよいかもしれない。でもその前にまずはじぶんがふだん接している身近な人物の戸惑いや、悩みや、間違いに思考を割いてみるのも一つかもしれない。寄り添わずともできるそれも一つの術だろう。定かではありません。



4008:【2022/09/08(00:34)*嚙み合わせ】

パウリの排他原理はwikiペディアさんの説明だと、「2つ以上のフェルミ粒子は、同一の量子状態を占めることはできない、という原理である」となっている。ひとつがもう片方に近づくと斥力が生じ(反発しあい)、遠のくと引力が生じる(引きつけあう)。そういった性質が電子などの素粒子にはあるらしい。この関係だけ取りだしてみると、銀河におけるダークマターを連想してしまう。あとは、恒星(コマ)における「【遠心力(斥力)】と【余剰重力】と【軸方向に加わる螺旋状の収斂力?】」を想起される。あとは単純に、量子のスピンの向きによって反発するか、同期(共振)するのかの違いが、フェルミ粒子とボース粒子の違いになっているのではないか、と妄想したくもなる。これは歯車を想像したらよい。溝と溝が合致するならば連結して滑らかに駆動するが、そうでないと互いに噛み合わず反発し合ったり、絡み合ってうんともすんとも云わなくなる。パウリの排他原理に表出する二つの量子の関係は、それと似たような理屈で生じるのではないか。妄想であるが。(ということは、恒星や銀河でも、近づくことで反発しあう力が増すような異なる波長を持っている場合があり得るのではないか。それとも、同調しやすい波長とか。回転の向きがそれに属するのだろうか。妄想が広がる)(定かではない)



4009:【2022/09/09(01:19)*光エコー】

超新星爆発などの超質量体の崩壊時に解放されるエネルギィは光となって宇宙空間を球形に伝播する。言い換えるなら、四方八方に平等に伝わるが、ガスや塵といった星間物質によって反射するため、細かな遅延が生じる。それらが層となって、本来ならば太陽や蛍光灯のように観測できる光が、放射線状に、花火のように広がって映る。このとき、別方向に伝播した光が星間物質に反射することで、同じような方向から遅れて届くことがある。二点間の「反射地点と光源」はそれぞれ別であるが、反射する角度によっては、遅れて届く光が、さもレンズの焦点に光が集まるように視えることがある。このときその二つの光にはラグがあるため、波長も異なる。ただし、それだけではなく、重力の差異から、爆発地点のより内側の系と、外側の系とでは「光速の時空伸縮変換の値」が異なる。重力場が違うからだ。外側ほど、爆発地点にあった星の重力から脱しており、外界のより大きな系に属している。このとき、光エコーは二点間の遅延による時空伸縮変換が行われているが、光エコーを観測する地点の観測者からすると、第三の視点が生じるがゆえに、系と系のあいだで行われた「光速の時空伸縮変換」が、段々畑のように階層的に視えるはずだ。このとき、「光エコーの起因となる二点間同士」のあいだでは「光速度不変の原理」は等価だが、それを第三の視点から視るときに、光速度不変の原理が破れて視える。一見矛盾して映るが、そうではない。宇宙膨張の速度が光速を超えて映ることがあるのと同じように、ある系からすると、ほかの系の光の伝播速度は、光速を超えていることはあり得る。ただしそれは「系と系の単位」を揃えていないから起こる差であり、縮尺には縮尺に応じた「光速の減反」を考慮しなければならない。映画は、スマホの画面で見ようが、TV画面で見ようが、映画館のスクリーンで見ようが、どれも映画の中の物語は同じ時間で流れている。自動車がどんなに小さく映ろうが、ほかの事象も同様に縮尺されて表示される。映画のスクリーンが全長五キロであっても、そのスクリーンに映る自動車は、スマホの小さな画面に映る自動車と同じ速度で走っていることになる。だが、全長五キロのスクリーンを人間が、TVを観るような距離で観たときには、自動車が映画内においてほんの数センチ動いただけでも、視聴者からは一瞬でとんでもない距離を動いたように視える。だがそれは、そう視えるだけであり、映画の中では、スマホの画面でもTV画面でも映画のスクリーンでも、全長五キロの巨大なスクリーンであっても、同様に自動車は同じ速度で走っている。縮尺には縮尺に応じた変換が必要だ。そして、それを観測する側にも、同様の変換を求める。それがなされないとき、巨大なスクリーンをまえにして映画を観る人間のように、映画の時間軸通りにはその映画を楽しむことができない。観ることはできない。体感できない。錯覚する。だがそれはけして、間違った認識ではないのだ。現に、人間のスケール――系では、巨大な系における光速は、じぶんの系における光速よりもスケールが大きく変換されている。それはたとえば電車の車窓から眺めたとき、遠くの景色ほどゆっくり動いて視え、近くの景色ほど速く動いて視えることと似ている。この場合は、単なる錯覚だ。景色は別に動いていない。認識する者の視覚のなかでそのように視えているにすぎないが、遠くの景色ほどゆっくり動くわりに、そのゆっくりの時間単位での移動距離は、近くの景色の高速で過ぎ去る物体よりもスケールが大きい。一秒間に移動する距離が、デカい。この相関関係は、宇宙における系と系の時空伸縮変換にも当てはまるだろう。ラグ理論における「相対性フラクタル解釈」の巨人と小人の関係である。定かではない。(ただの妄想です。間違っている箇所が多々あるでしょう。真に受けないでください)



4010:【2022/09/09(01:30)*似た話を飽きもせず……】

フラクタルな構造には、上層と下層のあいだの移行地点において、フラクタルではない状態が存在する。そのとき、別方向に、その「フラクタル構造ではない状態」のフラクタルな構造が存在し得る。ただしそれは、時空に飛び飛びで点在するだろう。あたかも、偶然を拾い集めて点で結べば、「仮象の必然」を捏造できるように。星と星を結べば、星座を描けるように。しかしそれは、仮初の、偽りの、必然だ。けして法則を伴なってはいない。こじつけである。だが、こじつけであろうとも、そういったどうとでも結び付けられ得る共通項を有したフラクタルな構造もあり得るだろう。言い換えるなら、この世に必然はなく、すべてが偶然であるとすれば、ではなぜ相似の構造を備えた事象が、ひとつの機構を生みだし、維持し、存在するのか。この疑問を、すべては法則に従っている結果だ、とする理屈では説明できない。必然と法則はイコールではない。無秩序な法則があり得るように、必然ではない法則もあり得る。だが、この世は、「無秩序な法則」だけで成り立ってはいない。一様な状態とはすなわち混沌だ。穴が、穴単体で存在することができないように、どのような図形とて、それを取り巻く空間を想定しなければならないように、大気が、大気のみでその場に留まることができぬように、ドーナツの穴は大気と繋がり、大気にとっての穴とはドーナツの輪そのものとなり得るように。境界、輪郭、構造は、ただそれのみだけでは存在し得ず、集合が、集合ではないものによって規定されることと似た原理を備えている。裏は表によって規定され、表は裏によって制限される。表裏一体であるようで、しかしそれもまた何かの枠組みを構成する要素であり、または枠組みによって得られた何かの一部かもしれない。定かではない。(もうさすがにこの考えは飽きてきた。もっと飛躍させねば。いい加減なことを妄想せんとな。楽しいことを楽しいままで、楽しいだけ、楽しんじゃう)(しんじゃいやん)(端折りすぎ。たの、も欲しいな)(頼もしい?)(惜しい)




※日々、たぶんすぐに忘れる、寝たら夢のなかに置き忘れる、。



4011:【2022/09/10(02:34)*光速=比率かも仮説】

光速について考える。光速とは必ずしも「光の速度」を言うのではない。光は電磁波だ。「電磁波の限界伝達速度」=「光の速度」ではないように思うのだ。べつに光でなくとも物体とて、ブラックホールの特異点では光速を超え得る。ここから言えることは、光速とはあくまで、「比率」である点だ。ラグ理論における相対性フラクタル解釈では、異なる系と系のあいだの時空伸縮変換によって、たとえ光であろうとも情報(エネルギィの元となる場を構成する「変遷の軌跡のようなもの」)が消費されたり、蓄積されたりする。だがそれは微々たるもので、おおよそ人間スケールの系では目立った差異としては顕現しない。異なる系と系をまたいだとき、人間スケールでは単に「時空の伸縮とそれに伴う、電磁波の波長の伸び縮み」があるのみに映る。これは系と系をまたぐときにほぼ「比率」が継承されるからだ。たとえるなら、遠ざかるほど巨大化する蟻みたいなものだ。足元の蟻は小さい。その蟻の「サイズ感」を維持したまま遠ざかると、遠くの蟻ほど巨大化していることになる。サイズとサイズ感は別だからだ。これと似たような話で、光は遅延によって渋滞を起こす。だがその渋滞を起こした地点では、その周囲の時空が希釈される(引き延ばされる)。そうすると渋滞が起きた分のラグはうまい具合に、「元の間隔(波長)」を維持する。この比率がどの時空(系)であっても維持されるために、光速はどの系でも変わらないように観測される(フラクタルに変換される)。ただし、物体などの「より高密度な系(遅延が複雑に入り組み凝縮している系)」では、その比率は変わる。したがって、水や液体を通るときには減速するし、境界面ではより顕著に「情報」が発散される。まとめると、光速とは電磁波の速度ではない。あくまでラグと時空伸縮変換における比率である、と妄想するしだいである。以上は、ひびさんの妄想である。真に受けないように注意してください。



4012:【2022/09/10(03:44)*同時性がない=何とも干渉し得ない?】

上記を踏まえて、同時性を帯びないケースを考える。同時性とは、二つの異なる系が互いに同一の「より大きな系に内包される」とき、「より大きな系」からすると、二つの異なる系が、たとえ互いに干渉し合わずとも、同時に「より大きな系」へと作用している、と捉えることが、「より大きな系」からすると可能となる。だが、「より大きな系」に内包される二つの異なる系は、互いに干渉し合わない場合、同時性を帯びることはない。しかしもし、その二つの異なる系同士を、互いに干渉し合わせることができたならば、このとき二つの異なる系は、互いに同時性を帯びる。ただし二つの異なる系からすると、同時ではない。ラグが生じる。しかし、同時性は獲得し得る。干渉し合うことで、そこに重複した場(系)が築かれるからだ。言い換えるのなら、いくら「より大きな系」に包まれていても、その大きな系とすら干渉し合わない事象には、同時性が宿らない。もし仮に、素粒子のなかで、地球すら透過してしまう量子があるのなら、そしてそれが真実に遅延すら生じず、減速し得ないのなら、その素粒子には同時性が宿らないと呼べる。同時性を帯びないと何が問題なのか、と言えば、何とも干渉し得ない事象は、どんな系に内包されようとも、「どこにも存在しないし、どこにでも存在するような無限にちかしい極限の振る舞い」をとる。ただし確率的に、僅かなりともほかの系と干渉し得るのならば、観測しにくい「量子や粒子や波」として稀に顕現するだろう。そのときは、「それら新たに生じた〈極小の系〉を内包するより大きな系」にとっての同時性を帯びる。つまり、時間の方向性を与えられる。自発的対称性(透明な混沌)が破れ、結晶化して、事象として顕現するようになる。では、ほかの大量の「何とも干渉し得ない事象」はどこに行き、どこに消えるのか。時空を超越したより大きな系において蓄積され、そのより大きな系の情報量を高めるのではないか。ここから妄想されることは、極小のブラックホールは、時空を超越して、より高次の時空にその情報を溜め込むのかもしれない。これがすなわち、宇宙膨張として人類の認知世界には視えており、しかし実際はただ「時空を超越したより高次の時空の情報密度が高まっているだけ」と言えるのかもしれない。定かではない。(いい具合に妄想が爆発したな。久々に、うっそでー、とじぶんでもにこにこしちゃう。いい加減な具合がばっちぐーなのではないでしょうか)(よろしい、よろしい。嘘っぽいまさに嘘といった感じでよろしいですね)(やったー)




4013:【2022/09/11(03:44)*お腹張っとる、と思う日】

時間のベクトルを逆に考えてみる。まずは通常の「この宇宙」における物理法則を基準としよう。時間はAからBへと流れるように人類の目には映る。それはたとえば、我々は母から産まれ、子から親となる。木々は種から芽生え、花を咲かせて実をならす。食べ物は、元は生き物であり、それら生き物はほかの生き物や植物や微生物や、鉱物や水からなる。では鉱物や水は何からできているのか。大本を辿れば、星屑からできている。星ずくは、爆発する以前の、死の間際の星からでき、星はそれ以前のガスや、エネルギィの揺らぎとして熱となり、情報となって漂っている。我々人間は口から食べ物を食べて、糞をする。糞はその後、下水を通って浄化され、希釈されては河や海に流される。ではここで時間を逆から辿ってみよう。人間はまずは便座のレバーを捻って、管の奥から糞尿を送りだしてもらう。便座に座るとまずは水面からトイレットペーパーを取り除き、水を尻に浴びて、それから各々排泄器官へと糞や尿が「侵入」してくる。つまりこれが時間を遡る場合の食事となる。体内から「余分な栄養素」を吸収しながら結晶化し、食べ物となって口からでてくる。それを皿に載せ、レンジで温めたり、生ごみとくっつけたりして、食材にまで「加工」する。それから専用の包装紙に包んで、「温暖庫(冷蔵庫とは逆に、ゆるやかに熱を与える)」や棚に入れて保存する。そして然るべきタイミングで、財布の中に溜まった「お金」を減らすべく、店へと商品と化した「元は糞尿だった」ものをレジで加算して、棚に戻して歩く。と、こうして時間を反対回しにしても、さして「妙」には感じない。では基準である「食事(排せつ行為)」を反対の方向へと、同じく逆さに辿っていこう。我々の時間の流れからすると食事に値する排せつ行為は、便器のなかから自動で現れる仕組みになっている。糞尿は下水道を通って流れてくるが、その源流には何があるかと言えば、下水処理場を経由して、河や海がある。或いは、タイルなどの素材に加工されて街の中にあるかもしれない。「新しく風化した素材」ほど、下水道処理場に持ち込まれ、糞尿へと「加工」されて、逆さ人間たちの便座へと送りだされる。河や海からも、まるで温泉が噴きだすかのように「希釈された糞尿」が産出される。では河や海のなかではどうなっているのか。逆さ人間たちにとっての「食事の素材(希釈された糞尿)」は、海に馴染んでおり、ときに魚や微生物たちの口から「排泄」される。つまり、元は、より小さな生き物たちの身体を構成していた物質、ということになる。死体はどうだろうか。逆さ人間たちは、母体から産まれるのではなく、墓地から骨を拾われて、火葬場にて「生みだされる」存在となるし、或いは自然のなかで出土したり、「微生物や小動物たちの吐きだす排せつ物(我々にとっての食事)」をによって肉付けされることで命を経る。そうしてどこまでも逆さ世界の時間を遡っていくと、宇宙は縮小しながら、地球上では文明(人工物)が、我々にとっての自然のようにそこにあって当然のごとく存在し、そして徐々に失われていく。月は徐々に分離していき、地球へと降りだすし、するとなぜか極寒の地表が熱を帯びはじめ、やがて火の玉を吐きだすようにして大人しくなる。何もない宇宙の空間ではときおり、最初はゆっくりと「遠い粒子同士」が一か所へと向けてなぜか集まりだし、エネルギィを同大させながら急激に凝縮して、玉となる。それも徐々に小さく凝縮し、こんどは熱を帯びて、細かな岩石を吐きだすようになる。星々は凝縮と崩壊を繰り返しながら、互いにバラバラと距離を置きはじめ、やがて熱の塊へと凝縮していく。案外、逆さに時間軸を辿っても、世界は何不自由なく進む気がしてくる本日の下品の権化、日々うひひの、ひびさんなのでした。便秘。



4012:【2022/09/12(01:42)*濃厚なのに希薄、琥珀、兎角】

例の新型ウィルスの濃厚接触者になってしまったので、五日間の自宅待機だ。どうしよう。なんも生活変わらん。同じ発想を以前にも並べたはずだが、そもそもひびさん、行動制限が謳われるようになるよりもっとずっと前から、濃厚接触者だったのかもしれぬ。でもいったい何の濃厚接触者だったのかがよぅ分からんのじゃね。どちらかと言えばひびさんはスッカスカのスケルトンでおじゃるから、濃厚になりようがないし、行動にも変化がない。それはあたかも、濃厚である場では、濃厚であることが基準となってしまうので、同じ濃度であれば、それは高いも低いもないようなものなのかもしれない。それでも同じ場であれ動こうとすれば、動いている者は、そうでない者よりも高い抵抗を感じるのだろう。動き回ると濃厚になる。ダブルの意味で。しかし、なぜそうした者たちが濃厚になるのかと言えば、じっとしているひびさんのような琥珀虫がいるからだ(説明しよう。琥珀虫とは、ひびさん造語の琥珀に閉じ込められた虫、の略である。千と千尋のハクさんこと「ニギハヤミコハクヌシ」ではないよ。もののけ姫のオッコトヌシでもないです)。琥珀虫は濃厚な場でじっとしているから、濃厚であるけれど濃厚ではない。ほかの宙を飛び回り地を這う虫さんたちよりも遥かに濃厚であるのに濃厚ではないのだ。たぶんじゃけど大昔に、虫さんを見張ってて、と誰かに琥珀さんは頼まれちょって、琥珀さんはそれを忠実に行っていたんじゃな。じゃけんど虫さんは葉っぱさんでもないのに秋さんに紅葉なんかしちゃったもんじゃから――紅くなっちゃったりしちゃったもんだから、琥珀さんは扱い方を変えたのかもしれん。そんで、誰かに頼まれたのか何なのか、虫さんの鳴き声を集めて、どうして赤くなったんですか~、と虫さんに「もしもし」したかったのかもしれんな。じゃけんども、なんでか虫さんは、琥珀さんに触れた途端に首だけ琥珀さんに吸い込まれてしもたんじゃ。しかもそのあと、抜け出そうとするどころか、ずんずんと琥珀さんのなかに自ら沈んでいったんじゃ。こうして琥珀さんと虫さんは、琥珀虫になってそこに「濃厚なのに濃厚ではない、何より希薄な存在」となったんじゃ。ふしぎなことに、虫さんがいなくなったら、世界中からほかの虫さんたちの鳴き声までもが消えはじめてしもうて、「あ、こりゃマズイんとちゃうか」と思った人たちがいるのかもしれぬ。そこはひびさんには判らぬな。きっと琥珀虫となった虫さんにも解らぬはずだ。なぁんてことを、ひびさんは妄想して、一日遅れの「日々記。」にしちゃってもよいじゃろか。いいよー。やったぜ。どこに響き、渡るのかは分からぬが。(にょきにょき)(え、なにその効果音)(角の生える音じゃけど)(鬼なんか?)(ウサちゃんですけど?)(ウサギに角は生えんだろ)(生えるよ)(ウソだ)(噓じゃないよ。辞書にだって載ってるよ。ほら見て。ね?)(兎角じゃねぇか)(ウサギさんのツノさんでしょ?)(そうも読めるよね……。とかくこの世はすれ違い。「互い違い」の世界に生きているのだね)(ねぇ。ちゃんと謝って。ひびさんウソは言ってなかったよ。にょきにょきウサギさんにもツノがちんまり生えるんよ)(しかしそれは本当でもないんだよ)(んー。むつかしい。じゃあ本当ってなぁに?)(……ね。なんだろね。触れて嗅いで見えて感じられることかもしれないな)(じゃあ文字は? 本当ではないの?)(かもしれない)(じゃあ、染みは? 溝は? デコボコは? リズムに、流れに、堆積する層の軌跡は?)(ひびちゃんさ……本当は、けっこう知ってるんじゃない?)(知らないよ。何を知っているのかすら、知らない。とかくこの世は蒙昧だ)(だ、誰だよあんた。ひびちゃんはどこ行った?)(ここも巨大な琥珀中)(あ、「中(ちゅう)」と「虫(ちゅう)」を掛けたのかな? 解かりづらいオチをどうもありがとう)(いいえ。どういたしまして。あ、見てください。ひびさんがあんなところに)(どこよ)(あそこに)。そう言って見上げた空に、ひびちゃんの、うひひ、の声が一瞬響いて聞こえた気がした。



4013:【2022/09/13(03:39)*3×9+ぼっち=27+ぼっち=にぱー☆】

お風呂入っていて気づいたんじゃけんど、「シャワーと湯船の湯」の温度設定がなんとなんと、「39/39」になっとった。「さんきゅー、さんきゅーじゃん」になった。と並べようとこの記事を並べはじめた時刻がまさに「03:39」で、とんでもねーずら。ひびさんは「41/41」の設定温度が好きじゃけん。ほかの誰かしらが変えたのかもしれぬ。とはいえ、ひびさんは世界の果てに独りぼっちゆえ、誰も変える者などおらぬはず。よしんばいたとして、そこに「さんきゅー、さんきゅー」の意味を載せるとは思えぬゆえ、ひびさんがいま単に、「さんきゅー、さんきゅー」の気持ちなのかもしれぬ。定かではないが。



4014:【2022/09/14*らっぴー】

きょうも一日遅れや。ごめんず。気を取り直して歯止めについてだ。――歯止めをかける、というのは何も勢いづいた事象に対してのみでなく、マイナスに荒廃していくような流れにも有効なのだな、と感じる。たとえば肉体。筋肉。運動神経。こういうものにも、細かく歯止めをかけることで、衰える時間を遅らせることができる。いっさい何もしないでいるままに一週間何もせずにいれば一挙に身体の衰えを体感する。一週間前にできたことができなくなって感じる。その点、五分や一分でもいいからすこしでも身体に負荷をかけておくと、衰える速度にブレーキがかかる。衰え方が加速しない。これはでも考えてみたら当然だ。人間、寝たきりだったら身体が衰える。動かなければ衰える。でも寝床から起きて、歩いたりすると衰え方は鈍くなる。外に出て長い距離を歩いたり、走ったり、荷物を持ったりすればこれはもう日常だ。つまり、怠けることとて、継続は力なり、が成り立ってしまう。ときおり中断したり、歯止めをかけたりするとよいらしい。これは鍛えるほうでも同じだろう。ずっと鍛えつづけると進歩が一点に偏ってしまって、収束してしまう。特化すると言ってもよいし、最適化すると言ってもよい。けしてわるいわけではないが、かといって好ましいとも言いにくい。たとえば逆立ちを極めた人間がいるとする。一日中逆立ちで過ごせるくらいに鍛えつづけたとして、その人物はきっと、椅子に座ってじっとしていることができないだろう。逆立ちをしていたほうが疲れないというか、身体に歪みのでないような肉体に最適化されているはずだ。進歩という点では進歩だが、真実にそれが好ましいのか、と言えば、なかなか首を縦には触れそうにない。そういう肉体が最適だ、と好む者もいるだろう。それは個人の自由だ。寝たきりでも身体が痛くならないように究極に衰えてしまいたい、と望む者とているかもしれない。でも、あんまりそういった、一点突破型には、ひびさんはなりとうないよ。椅子に座ったり、おふとんにくるまったり、歩いたり、走ったり、ときどきは逆立ちなんてしてみたり。跳ねたり、しゃがんだり、そういうことをしていたい。中途半端の宙ぶらりんなのかもしれんけれども、継続だけではなく、休んだり、止まったりだってしたいのだ。継続するのもよいけれど、いちど立ち止まったあとに、ふたたび進路をすこしだけ変えてみながら再開する。そういう、デコボコのギザギザの、うねうねできょろきょろすとんのほわんスピー、でありたいのだね。とはいえひびさんは、歯止めよりも、歯を磨け、と思わんでもないよ。まずは歯と健康をお大事に。一日遅れの「日々記。」でした。らっきー。



4015:【2022/09/15(03:01)*寝る!!!】

思うんじゃけど、食べた瞬間、呑み込んだ瞬間に、全身から空腹が抜けていって力が漲る感覚は、錯覚ではなくて真実にそういった肉体の変換が行われている気がする。たとえば、食べ物を咀嚼して嚥下すると、その刺激が電子信号となって神経から細胞に伝わり、全身の細胞が目覚めるような仕組みがあるんではないのかな。それは一瞬で巡って、ぱっとスイッチが切り替わるくらいに刹那的な反応なのかもしれぬ。ひょっとしたらそれは、遺伝子レベルでON/OFFが切り替わっていたりしないんじゃろか。人体のなかで最も小さく緻密な部位はどこかと言ったら、DNAだろう。ならば相対性フラクタル解釈からすれば、DNAに流れる時間の流れは、ほかのより大きな系よりも速いことになる。だとすればより大きな系からすると、DNA内部では外部から加わる刺激が一瞬の変化として変換されているのかも分からない。たとえば同じDNAを分析するとき、時間差を置いたり、刺激を加えてみたりしたときに、DNAの塩基配列が変わったりしないのだろうか。ひびさん、疑問に思います。それはあたかも、量子もつれのように、観測した瞬間――干渉した瞬間に起こる変化があるような気がしますが、いかがでしょう。妄想ですので、何もかもが定かではありませんが、だからこそ定かにしてみるのも一興に思います。本日のひびさん、でした。



4016:【2022/09/15(05:41)*あちゅりょく】

圧力ってなんじゃ、とふしぎに思っちょる。手のひらは原子の塊じゃ。んだらば、手のひら同士で合掌したら、手のひらの原子さん同士が、ぎゅうと圧縮しあうじゃろ。それって、ひと粒ずつの「原子と原子」を重ねてぎゅうっとするのと原理的には同じじゃ。いっぺんにぎゅうするか、ひと粒ずつぎゅうするかの違いじゃ。んだらば、手のひらを合わせてぎゅうしたときに、原子さん同士もぎゅうされておるはずなのに、手のひら同士はくっつかん。けんども、手のひらの皮膚をねぴねぴぺたーんと表面ぺこりんちょしておるのも原子さんたちじゃて、そこは互いにくっつきあっておるじゃろ。手のひら同士を合わせてぎゅうしても手のひらはくっつかん。けんども、手のひらの皮は原子同士がくっついておる。圧力が足りないのかもしれんけれども、何が違うんじゃ、とふしぎに思う。しかもじゃ、手のひら同士を合わせてぎゅうとしとると、熱は伝わるんじゃ。あったかーい、になる。圧力を加えると、熱が生じる。それはたぶん、何でも同じな気がするな。原子同士さんとて、ぎゅうとしたらきっと熱が生じるな。原子さんの表面は電子さんじゃけん、電子さん同士をぎゅうってしても、きっと熱が生じるな。ちゅうかもう、なんでも、ぎゅうしたら熱が生じるんとちゃうんか? それはまるであれじゃな。ラグ理論さんの123の定理みたいじゃな。二つの異なる何か同士をぎゅうしたら、すくなくとも熱が生じるんじゃ。これを否定できる現象があるのかをひびさんは知りたいな。二つの何か同士をぎゅうし合って、トータルの熱が減ることってあるんじゃろか。ひびさん、気になるます。



4017:【2022/09/16(11:21)*系を揃えよ】

X=∞ならば、Xは1になる。∞がどんな数字で表されようがそれが∞ならば、無限が一個あることになる。「0,999……」も「0,1111……」も「123456789……」も総じて無限ならば、そうした数字が無限につづく無限が一個ある、と考えられる。ただしその∞には、各種、欠けている情報が必ず生じる。無限が無限個詰まってできている無限とて、その中には、無限ではない世界が欠けている。1、というときの単位によって、その1の示す世界は変わる。これは相対性フラクタル解釈と矛盾しない。



4018:【2022/09/16(11:21)*あぎゃぎゃ】

系を揃えることは原理的にできないのではないか、との疑惑はじつはけっこう頻繁にひびさんの妄想のなかに立ちあがる。まったく同じ事象がこの世に存在するのか、という疑問と地続きだ。位置が異なればそれはもう別物だ。宇宙は膨張している。ならば位置がまったく同じになることなどあり得ない。一つの事象とて、系は絶えず変化している。同じではいられない。そこのところを考慮したうえで、では系とは何か、という疑問は、深淵である。いまのところは、抽象的に考えるよりない。似たものと似たものを同一のものと見做しましょうね、としか言いようがなく、これを一言で表現すると、「共鳴(共振)し合っているもの」となる。このとき、系ごとの大きさや質量の差は、無視される。まことふしぎだな、と思っております。妄想ですが。白目。



4019:【2022/09/17(12:08)*ネジ巻きと渦巻き】

缶に液体を詰めて坂を転がす。このとき凍らせた缶と液体のままの缶だと、液体のままの缶のほうが速く転がるようだ。ただしこの実験は、無重力状態で自転する球体を描写する実験にはならない気がする。妄想でしかないが、液体のままの缶のほうが中身を凍らせた缶よりも速く転がるのは、缶内部の液体が渦を巻き、重力に対して上向きの力を帯びるからではないのか。つまり単に、缶と坂表面の摩擦が軽減されるがゆえの加速と言えるのではないか。液体の場合は、缶が転がっても、それに伴い中身の液体までもが従順に回転するわけではない。ラグがある。液体のほうが遅れてねじれて回転する。そのねじれは回転速度が増すごとにネジを巻くようにエネルギィを溜め込むと妄想できる。中身の凍った缶のほうは、回転軸を中心に上下左右へと遠心力を生む。だが液体のままの缶のほうは、内部に溜まったエネルギィが遠心力を阻害し、相殺させるため、求心力にちかいエネルギィ変換が発生する。そのとき、缶に加わる遠心力は、凍った缶よりも小さくなる。凍った缶の場合は、遠心力が上下左右で相殺されるため、単純な「重力加速度」と「空気抵抗」と「坂表面との摩擦」で計算可能だ。しかし液体のままの缶のほうでは、遠心力が、缶内部のねじれによって均等ではなく、対称性が破れている。それはあたかも、流体力学における揚力のような不均衡な力の流れを生む。もしくは、紐に通した五円玉だ。ゆったりと回したあとで、両方の紐を引っ張ると、五円玉は回転を加速させ、細かく回る。缶内部の液体のねじれもこれと似たような、中心へ向けて渦を巻き、これがフィギュアスケーターが手足を縮めて加速するようなチカラを生むと妄想できる。単純に考えるなら、缶内部の液体の渦――ねじれによって重力加速度が増している、と短絡にまとめたくもなる。ただし、液体は凍らせれば体積が増す。凍らせたほうの缶の円周が増している点を実験で考慮されているのかがまず疑問であり、缶そのものも歪んだがために坂表面との摩擦が増した可能性も否定できない。双方の缶を、坂を転がすのではなく、駒のように回転させたときはどうなのか、も疑問だ。凍ったほうが回転しやすいのではないか。やはりというべきか、地球の自転の比較実験としては、あまり理に適った譬えではないような気がするひびさんなのであった。(転がるためには接地する何かがいる。その時点で、自転とは異なる事象のはずだ)(時点で自転、とダジャレみたくなってしもうた)



4020:【2022/09/17(12:28)*?】

上記の補足。車輪を一つ考えてみよう。車輪の真ん中に棒を添えて転がす場合、これは中身の凍った缶と同じ転がり方をすると想像できる。軸が真ん中にある。偏っていない。では車輪の下のほうに棒を添えて転がす場合はどうか。常に車輪の下のほうに軸がある。これは車輪の真ん中に軸をとるよりも、素早く車輪を回せることにはならないか。言い換えるなら、小さな歯車と大きな歯車。どのように組み合わせたときに最も効率よく力を伝達させ、相互に回転しつづけられるのか。これは大きな歯車の円周に触れるように小さな歯車が回るような構造だと、小さな歯車に加わる力を最も効率よく大きな歯車に伝えることができる、と言えるのではないか。小さな歯車の位置はしかし、別に下部に限らない。上部でも、真横でも、円周に接していれば楽に車輪を回せるはずだ。ということは、中身の液体の缶が坂道を転がるときには、遠心力によって外側に液体が集まり、まるで小さな歯車が車輪をずらりと囲うような具合に、回転の力を直接缶の円周に加えているのかもしれぬ。これの何が、中身の凍った缶と異なるのかと言えば、真ん中に一つだけ小さな歯車がある場合だと、中心から円周までの距離があるがゆえにラグが生じる。力の伝達に遅延が生じる。しかしこれが、円周に近い場所に力点となる小さな歯車がずらりと並ぶことで、中身が液体のままの缶のほうがより速く坂を転がるのかもしれぬ。このとき、中身の凍った缶の中心に顕現する小さな歯車は、中身の液体のままの缶の円周にずらりと並ぶ小さな歯車の総合と同じエネルギィを有する。しかし、ラグがあるために、トータルでは同じなのにも拘わらず、缶の転がり方に差が生じる。転がる速度が増すごとに、その差は顕著になっていくだろう。裏から言うなれば、坂を転がり落ちる速度が増すごとに、中身が液体の缶の内部に生じる小さな歯車は、その円周を増す。増強する。そうすると、ある閾値を越えると、互いの歯車が重複しあい、缶の中心に「小さな歯車の重複地帯」が生じることもでてくるはずだ。つまり、遠心力で生じた小さな歯車が、缶の回転速度が増すことでやがて中心への重力のような力を生むようになると妄想できる。ただし、それ以前にたいがいの物質は、回転の衝撃や遠心力に推し負けて拡散(崩壊)しはじめてしまうはずだ。そうでない場合、つまり最初から遠心力(斥力)よりも重力のほうが強い高重力体では、回転速度が増すごとにさらに重力が増す、という相乗効果現象が観測されるのかもしれない。定かではない。というわけで、以上の妄想により、液体のままの缶のほうが、凍らせた缶よりも坂道を速く転がるのかもしれぬ、と妄想をして、本日二度目の「日々記。」としてもよいじゃろか。(いい加減なこと言うのやめなさいよ)(なんで?)(何が本当か分からなくなるから)(うぷぷ。それだとまるで何が本当かを知っていたことがあるみたいに聞こえる)(あるよ)(あるの? たとえば?)(たとえば)(うん)(あたしがかわいいとか)(ぶほっ)(なんで笑った?)




※日々、ちゅうか、中和、重々チュウ、チュッチュっだっちゅうか。



4021:【2022/09/17(15:47)*重力ですらチュッチュし合っとるっちゅうに我は、我は】

どんな物体であれ、二つあればそのあいだには重力が働いて引き合うのだそうだ。光速でどれだけ遠くに離しても、僅かなりともなれど引き合うのだそうだ。本当か? と疑問視してしまうな。それって要は、どんなに離しても、時空への歪みは全方位に対して働きかけるってことだ。トランポリンで譬えるなら、鉄球を置いたら、もうどんなにトランポリンの面積を広げても鉄球の沈んだ分の歪みが、トランポリンの全面に波及して、絶対にもう水平な場所はなくなってしまう。蟻地獄になってしまう。そういうことだ。あり得るか? もっと言えば、二つの質量体の重力場の交差点では、重力が高めあうはずだ。波と波が干渉しあうように。だから二つの場合は必ず引き合う、と解釈することは可能だ。一つだとそうでもないけど、二つだと引き合うんじゃ、というならまだ解る。だが。だがだよ諸君。三つならどうなる? 三つでも重力場の重なる地点では「何もないにも拘わらず」そこに三つの重力場分の重力が発生することにはならんかね。あれ? これってひょっとしてダークマターのことなんじゃね? そんな妄想を浮かべてしまうな。がはは。どんなに離しても重力が働きあって、引き合うって言説――本当ですか?(本当ならそれって、けっこうあれじゃないか。すごいことじゃないか。重複した「場」には、質量体がなくとも重力源が発生しないか。ひびちゃん、疑問でおじゃる)(あぽーん)



4022:【2022/09/18(12:02)*カンガルーの肢】

純度一万パーセントくらいの濃度の善意や好意や愛情で以って支配されることで湧きあがる恍惚は、おそらく人間の感じることのできる至福や安寧や快楽のなかでも突出して抗いがたく、唯々諾々と甘受する道しかないのではないか。それはたとえば、うふふ、と存在の総じてを肯定されながら全身を包みこまれ、触れられている感覚の麻痺するくらいに密着され、知覚という知覚、性感帯という性感帯を愛撫されつづけるような支配――精神と肉体の境も失われ、ただただ身を委ね、未来の総じてをただそこに在ることでのみ全うし、全うすることがただただ唯一の存在意義となるような安定は、人間にとっての極限の至福と言えるのではないか。同時に、それを快く受け入れる精神性、或いはそういった環境に身をやつした従属の権化は、もはや人間とは言いにくい。人間とは至福を求めながらも、至福に浸かりつづけることを潔しとせぬ、無謀の住人なのかもしれない。言い換えるなら、口と肛門に管をつけてフォアグラを獲るためだけに強制的に肥やされるフェラガモのごとく境遇と、毎日決まったルーティンの繰り返しをするだけの日々は、根本のところで同じなのかもしれない。既定路線になってしまえば、もはやそれがたとえ平和でさえ、人間は人間でありつづけることができぬのかもしれない。予想外や、発見や、発想を求め、手にし、それとも手に入らぬことにもがく営みそのものが、人を人にかたちづくるのかもしれず、そうした人の雛型を得るために個は、平和や日常や代わり映えのない日々の営みを確固として築きあげようとするのかもしれない。確率の問題として、崩壊や荒廃や衰退よりも、秩序や安寧や平和のほうが、種々雑多な渦に溢れている。予想外の渦に触れる機会を保っている。崩壊や荒廃や衰退は、単一のルーティンに陥りやすい。同一の反応のみを連鎖させていく。その点、秩序や安寧や平和は、種々相な異なる渦がなければ維持できない。破壊と再生によるサイクルこそが、秩序や安寧や平和を築き、育み、絶やさぬ回路を維持するようだ。単一ではない。単一であるという一点で、おそらく破壊のない「保存」のみとて、秩序や安寧や平和は築けない。「保存と崩壊」「固定と荒廃」「停止と衰退」は、時間経過を考慮すればほとんど等価だ。いまは保存だが、保存のみではいずれ崩壊し、固定ばかりでは荒廃し、停止していれば衰退する。あべこべに、作ってばかり、生みだしてばかりでも、やがては変化の礎を埋め尽くし、何も生みだせなくなるだろう。ぐるぐる巡るこの循環とて、そればかりでは代わり映えのない律動だ。ときには何かに支配され、ときに支配し、それとも従属し、従属され、奴隷の気持ちを知ってみたり、教えてみたりするのもよいかもしれない。そんな真似をせずとも日々好きに、独りで過ごせるよ、という者もあるだろう。しかし、ひびさんは思うのだ。きっと奴隷という言葉のない奴隷ばかりの世界では、みないかに支配されるのかを美徳とし、支配という言葉のない世界では、みないかに他者を支配するのかを美徳する。それとも、ひょっとしたら、奴隷も支配も言葉としてはあっても、いちどもじぶんに適用されたことがないがゆえに、奴隷である瞬間があることにも、他者を支配している時間があることにも気づかずにいる者がすくなくないのかもしれない。言葉は呪詛だ。他者のみならず、己を縛る。ときには言葉のない時間を過ごすのもよいかもしれない。汗を流し、血を流し、涙を流し、水に流す。目に視えずともしかし、汗も血も、涙さえも身体のなかに流れている。外に溢れてはじめて意識される。意識するには、溢れることが欠かせない。内と外を交えて、内とは何かに目を凝らそう。内とは俯瞰の視点だ。内は内だけでは内足り得ない。意識は内なる世界に沈んでいるが、目に映るのは表皮に輪郭、外側ばかりだ。外があって内がある。外からすれば内のほうが外側だ。外には外の内があり、内がなければ外の視点が内側だ。もしも作用反作用の法則に例外がないのなら、支配すれば支配され返される。干渉すれば干渉され返される。縛れば、縛られ返し、人を呪えば呪われる。人を愛せば、愛されており、祈れば、きっと祈られている。事はそう単純ではないようだが、ひとまずここではそう思おう。思えばきっと思われている。我思うゆえに思う者あり。意識することで意識されている。意識されるばかりの快楽の坩堝では、どうやら「我」は存在しないも同然なのかもしれない。思えよ、我を。意識せよ、他を。人とは思い、意識する、カンガルーの肢である。(それは、え? 袋に子を入れている姿がマトリョーシカに似ているから? フラクタルの暗示的な?)(言い間違えました)(何と?)(……考える葦と)(真逆じゃん。「カンガルーの肢」と「葦」じゃ、イジメッコとミジンコくらいの差があるよ)(同じでは?)(ミジンコに失礼やろきみ)(イジメッコへの毀誉褒貶がすごい)(同情はするけどね)(なぜですか)(だってほら。他人をいじめちゃうコは、じぶんのことをいじめてるってことになるんでしょ。あなたの持論では)(他人をいじめてもいるし、じぶんもいじめているから、イジメッコ×2で倍増ですね)(至れり尽くせりだね)(それを言うなら、踏んだり蹴ったりでは)(カンガルーの肢じゃん)(ホントだ!)



4023:【2022/09/18(16:55)*暗黒物質と言うよりも、暗黒地帯では?】

いろいろな記述で、ダークマターが物質である、と書かれているのを見かけるが、なぜ物質だと考えられているのだろう。物質でないと重力が生じない、と考えられているのだろうか。ひびさんの妄想、ラグ理論では、重力の根源はラグであるので、それがたとえ場やエネルギィの遅延でも、重力のような引力は生じ得ると解釈する。重力と重力の干渉による遅延の増強が起きるのなら、そこでは何の物質がなくとも高重力の場が生じ得るのではないか、と妄想してしまうが、どうなんでしょう。ひびさん、欠伸します。



4024:【2022/09/18(16:58)*妄想しすぎかも】

ダークマターによって銀河が形成されるのなら、ダークマターがあっても未だに銀河ができていない箇所もあるはずだ。ダークマターの塊地帯をハローと言うそうだが、ハローがあっても銀河がない場所はどれくらいあるのだろう。空白地帯にダークマターのハローがあるということは、銀河と銀河、銀河団と銀河団の中間にハローがあるということだ。銀河と銀河、銀河団と銀河団は、それぞれ大きな系の大きな粒子として見做すことが、ラグ理論の相対性フラクタル解釈では可能だ。とすると、銀河と銀河、銀河団と銀河団の中間に、互いの重力場の重複する地点ができて、そこには波の起伏のように「何もないのに生じる重力場」が顕現すると妄想できる。むろんこれは妄想ゆえに定かではないが。(ダークマターの宇宙における分布図の、細かなハローの配置には何らかの法則があるように幻視できるが、どうなのだろう。素数のまばらな感じと似ている気がする)(ブラックホールとブラックホールの重力場の重複する地点にもダークマターはできるのではないか。これは、極小のブラックホールがガス状に分布する地帯を一つの重力体と見做すことでも、成立する考え方だ。重力波が存在するのなら、重力波と重力波とてぶつかりあって干渉しあうのではないか。同じことが、波でない重力場であっても起こる気がするが、どうなのだろう。ひびさん、木になります)(何の木?)(妄想し杉の木)(参照:「いくひ誌。」1542:【重力熱情報いくひし仮説】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886837372)(1536:【ダークなんちゃらいくひし仮説】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886784973)(3565:【2022/04/14*ハーメルンの法螺吹き】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927862448420967)(3662:【2022/05/21*横になった日だった】 3663:【2022/05/22*命名権は山羊山羊拳】 3664:【2022/05/23*極小とて、ブラックホールならば瞬時に消えたりはしないのでは?】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16817139554801077597)(3793:【2022/07/14*上記補足】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16817139556672109970)(3912:【2022/08/19*重力の起源】)



4025:【2022/09/18(18:40)*うめぇ】

アルキメデスの原理の説明をきょうはじめてちゃんと見聞きした。身近な例で言うと、北極の氷は海に浮かんでいるから、アルキメデスの原理からすると北極の氷が融けても海面は上昇しないらしい。コーラに浮かべた氷も融けたところで、融ける前の水面の位置は変わらないらしい。へぇ、となった。でも、なんでそれで「だから地球温暖化の影響で北極の氷は融けてもそんなに深刻じゃない」となるのかが解らない。南極は陸地のうえに氷がある。だから南極の氷が融けると深刻。そういう言説も見聞きする。永久凍土が融けると大変。これも比較的よく聞く。でも、水面の位置が変わらずとも、水量は増える。北極の氷が融けた分の水の量は増えるのだ。これってけっこう深刻だと思うのじゃけど、どうしてみなそこを度外視してしまうのだろう。津波を考えてみればいい。津波の合間合間に氷の壁があるとする。氷の壁があってもなくとも津波の高さは変わらないとする。このとき、じゃあ氷があってもなくても変わらんね、とはならんでしょう。氷があれば抵抗が生じる。氷がなければ、融けた分の氷の水量が津波に加算される。津波は高さよりも、どれだけ水が後続して押し寄せるのか、のほうが津波の威力として計上されるのではないか。後続する水の量がたくさんならば、ちょっとのデコボコに差し掛かっただけで波は自動的に高くなる。ラグ理論はここでも有効なのかもしれぬな。海底や陸地への圧力とて変わるだろう。さいきん地震が多いのも、海水が増えた影響があるのではないか。水の量が増えれば、大気中の水蒸気も増える。そうなれば雲や台風はできやすくなるだろう。温暖化とて促進される。北極の氷が融けることとて、大問題だと思うんじゃけど、そこのところ、議論されておるのかな。ひびさん、危機なります。(危機になるの?)(だって危機じゃん)(お、おう。いつになく強気なのな)(気が大きくなっとるのは否定せんよ)(大気じゃん)(上手ぇこと言ってんな)(……梅の木にでもなるか)(オチを使い回すのやめなさいよ)



4026:【2022/09/19(06:54)*数学はむつい】

ポアンカレ予想で、うん?となるのは、なんと言っても、穴開きドーナツ(トーラス)において、中心の穴が微動だにしない点だ。図形表面上に描いた円を自由に収斂させることができるのなら、トーラスの穴とて一緒に収斂させることもできよう。そもそもトーラスの穴の円周が規定されていない。最初から「点」かもしれないではないか(宇宙におけるブラックホールを連想してしまうね)。球体における円の収斂とて同様だ。赤道なら赤道だ。収斂したりしない。それを無理やり一点に収斂させる、というのは時空を歪めているに等しい暴挙ではないのか。それが許されるのなら、トーラスの穴とて収斂させてもよろしかろう。となると、以前にひびさんの述べた、球体を直径で結んだ頂点の両極から押し潰した図形(砂時計型)と、トーラスの穴を一点に向かって収斂させた図形(砂時計型)は、近似に寄る。同相と言える。ポアンカレ予想は、数学的には解かれているのかもしれないが(一部未解決のようですが)、現実を反映したら、描写が歪んでいるように感じるひびさんなのであった。(もうすこし言うと、やっぱりどうしても、境界に関する概念が受けつけない。中身のない球体――空洞を持つ球体――は、内と外の二つの時空によって境界を得ている。中身の詰まった球体――空洞を持たない球体――は、球体自身と外の時空によって境界を得ている。ここの認識の差異を、どうにか埋めたいな、とひびさんは思っとる)(これの何が問題かと言うと、たとえば四次元以上の空間――これはべつに時空でもよいが――における球体を考えたときに、中身の詰まっていない球体において、内側と外側に広がる空洞や空間は等価なのか、ということで、その答えによっては球体の在り様がまったく異質になる。内も外も多次元空間なら、これは我々の認識する球体とは異なる球体と呼べる。内だけが三次元空間、外側が多次元空間ならば、これは我々の認識する球体が、単に多次元空間上に描写されたものと評価できる。この違いは大きい。数学ではどのように扱うのだろう。ひびさん、気になるます)(ちなみにこの、「ひびさん、気になるます」は、米澤穂信さん原作の「古典部シリーズ」アニメ版「氷菓」の千反田えるさんのパロディです。 遠藤達哉さんの漫画「SPY×FAMILY」のアーニャさんのパロディも取り入れています。念のため)



4027:【2022/09/19(07:04)*施せ、わんわん】

現在、世界中で懸念されているエネルギィ供給問題についての所感を述べておきます。足りない情報としてまずは、エネルギィの供給量が需要に対して足りているのか、それとも単に価格が高騰しているのか。そこの現状が解らない点が、混迷を極める理由の一つになっているように概観されます。不安になればみな、保身に走るでしょう。それによってエネルギィ資源を買い占めたり、価格を吊り上げるなどの利益確保に走るのではないでしょうか。資源国からエネルギィ資源を輸入するよりない国は、今回の世界的な分断に関係なく、いつでも「エネルギィ資源」を人質に取られて不利な立場に立たされる懸念を持っているほうが、そうでない場合に比べて合理的な視野を保っていると言えるでしょう。どの国とて、誰に「商品」を売るのか、は自由に決めてよいでしょう。ただし地球の資源には限りがありますから、自国の領土から採れたからそれはじぶんたちのものだ、独占しよう、という姿勢はいささか強引な理屈と言えます。しかし実際問題、この手の強引さが世界規模で展開されています。それをよし、とする者たちが国の行く末を決め、或いは国民の代表として政治の舵を握っています。それはそれで構いませんが、本当に、資源という限りある価値を、縄張り内で採れたらその縄張りの主のモノとして扱ってよいのでしょうか。産まれながらの資質によってのみ個の価値が規定され、遺伝子の塩基配列で初めから優劣を決めるような、それは偏った価値の測り方と言えるのではないのでしょうか。かつては石炭が世界中のエネルギィ源として持て囃されていました。電気を使うようになると、石炭の需要は激減しました。同じことが化石燃料でも遠からず、人類史において起こるでしょう。その確率が高いと考えるほうがしぜんです。けれどそのためには、科学技術を進歩させ、新しい発想をより多くの者たちが自由に行える環境がいるでしょう。ではそのための最適解はどういった選択となるのか。すこし考えれば解ると思いますが、違いますでしょうか。資源産出国に資源の管理を任せてもよいでしょう。負担をしてもらっているのですから、技術を共有して、より負担のすくない産出技術を磨いてもらうほうが理に適っていると思います。現にそうなっていたように個人的には思っていますが、その好意を笠に着て、資源を独占したり、利を搾取しようとする勢力が強まったのならば、管理者としては不適切と言えるでしょう。どの道、先は見えています。エネルギィ資源、とくに石油に関しては、埋蔵量にも限りがあります。先の見えている袋小路の道なのですから、独り占めしたい勢力には、独り占めさせてあげたらよいと考えます。その代わり、ほかの協力体制を維持できるコミュニティでは、情報や技術を共有して、新しいエネルギィ供給システムを開発し、そのエネルギィでつぎなる場を築けばよろしいのではないでしょうか。そこで余剰のエネルギィが生じたら、独り占めしていた勢力にも供給してあげたらよいと思います。基本的には、施す側が強者です。施す余裕を培いましょう。強くありたければ、の話ですが。(わがはいは強くなりとうないので、施される側でいたいが)(搾取の王じゃん)(そだよー)



4028:【2022/09/19(09:10)*いっぱい寝たから調子いい】

ひびさんの妄想だと、空洞を抱えた球体とトーラスは同相だ。とするとたとえば、空洞を抱えた球体を敷き詰めた面と、トーラスを敷き詰めた面も、同相と言えるはずである。前者は原子論にちかいし、後者はループ量子重力理論に似ている。言い換えるなら、宇宙に無数の穴が開いているとき、それは空洞を抱えた球体を敷き詰めてできた時空やトーラスを敷き詰めた時空と、同相と言えるのではないか。宇宙に無数のブラックホールが存在するのなら、すくなくとも似たような構造を伴なっていると言えるのではなかろうか。定かではない。(妄想がむくむくしてしまうな)(調子戻ってきた感じしゅる!)



4029:【2022/09/19(09:25)*ねじれさすと同じでは?】

発想を飛躍させよう。球体は細かな球体で、トーラスは細かなトーラスでできているとする。どんな物体も「点」の集合からなるとするのなら、球体を構成する「点」は球体とし、トーラスを構成する「点」はトーラスであるとする。このとき、内部に空洞を抱えた球体は、フラクタルな構造を有し、なおかつポアンカレ予想を満たさない(球体はほかの球体と接するがために、球体の表面に円周より大きな輪を描くと、裏側に属してしまうために円を回収できない)(もしくは、円を回収できる、と解釈するにしても、その円は細かな隙間を内包する。なぜなら球体を構成する無数の球体の合間には隙間が開いているためだ。球体の表面は細かな球体によって網目状になる。球体でできた球体にはそもそも円が引けない)。ではトーラスはどうか。トーラスを構成する無数のトーラスもまたフラクタルな構造を有する。このとき、トーラスの集合体であるより大きなトーラスの真ん中に開いた穴もまた、ほかの細かなトーラス同様に、より大きなトーラスの一部として振舞う。球体を構成する細かな球体に帯びる隙間に対して、より大きな球体が、その隙間が存在しないように振る舞うのと同じだ。もしトーラスの穴に紐を通せるのなら、それは球体において、表と裏を紐で結びつけられることと同様の「裏技」になり得る。細かな球体がより大きな球体の表面を構築すると考えたとき、小さな球体の半面が、より大きな球体の表面として機能する(もしくは裏面に)(水面に浮かんだボールを想像したら分かりやすい。水に浸かっている側を裏、空を向いている側を表とする。このとき水面を境にすればボールの表面にも、高次の表裏が生じる)。小さな球体の円周を紐で縛って輪にするというのは、より大きな球体の表面と裏面を結びつけることに等しい(水に浮かんだボールに紐を結ぶとき、水中側に紐が回れば、それは高次の裏側に紐が回ったことになる)。これはトーラスの輪に紐を通すことと同じだ。つまり、球体にしろトーラスにしろ、そもそも円を描けない範囲が存在する。仮に円を描こうとすれば、「球体の表と裏」「トーラスの表と裏」をそれぞれ考慮しなくてはならなくなる。球体の表と裏をねじって繋げたとき、そこには立体のメビウスの輪が現れる。これはねじれたトーラスと相似だ。もうすこし言えば、無数の球体で描かれる「空洞を抱えた球体」は、その表面に、細かな隙間を宿すことになるが、これは無数の細かなトーラスでできた「空洞を抱えた球体」と同相となる。無数の細かなトーラスでできた「より大きなトーラス」とて、トーラスの穴に着目すれば、無数の距離を置いた円の集合体として変換可能だ。ふしぎなことに、どちらにしても、円と円の「隙間や面」が生じる。この余分な隙間や面の存在が、球体とトーラスを結びつけていると言えそうだ。いったいこれは何であろう。穴を考えたいのならば、こちらのほうの不可視の、ないものとして扱われてきた「穴」にこそ注目してみたいひびさんなのであった。(敷き詰めた原子と原子のあいだに開くはずの間隙には何があるんでしょうか。ひびさん、微になります)(ちっこくなるな、ちっこく)(消えてなくなりたいなって)(元気だしなさいよ)(うおー!)



4030:【2022/09/19(10:36)*狩人の角】

 光輪が闇をまとっている。

 鹿とも馬ともつかぬ四肢の獣の表皮は、大蛇がごとく鱗で覆われ、足元に至っては刺のようにささくれ立っている。雨が降ればそこに水が溜まるのか、それともいまは体温を発散するために開いているだけなのか。

 頭部からは角が一本生えている。角は波打つ形状だ。雷が結晶して岩に刺されば似たような造形になるかもしれない。

 ガガは思った。触れるだけで指が折れそうだ。

 角は見るからに荘厳だ。鋼鉄で杉の木を造れば、同質の荒い表皮ができるはずだ。

 ゴツゴツとした鋼鉄の枝に、薄っすらと太鼓の面を張れば、ちょうどよく模造品を作れそうに思えた。

 ガガは一目見て、標的を狩るよりも、偽物を自作したほうが得だと勘定した。

 だが偽物では喝破される。見た目だけではないのだ。

 麒麟の角には、聖なる力が宿るとされる。

 土に翳せば邪気が祓われ、水に触れれば聖水を生む。

 触れる物みな断ち切るがゆえに、普段は皮で包まれているという。

 聞いていた通りだ。

 麒麟と思しき四肢の獣は、全身を仄かに発光させながらも、闇が歩いているかのようにそこだけ静寂がこごもっていた。

 ここは劫(ごう)国。

 ガガは隣国の塗々(とと)国の出自だった。塗々国にて随一の狩りの腕を誇ったが、名声に胡坐をかき、王の妾に手を出したことで咎人として追われる身となった。

 満身創痍で劫国に亡命した。

 だが、ガガの名声は劫国にも轟いていた。

 狩人は暗殺者としても一流である。加えて、母国を追われた契機が王族への反逆とも取れる姦通であったならば、劫国とてそうやすやすと身受けするわけにもいかない。

 宮廷の宰相たちの侃々諤々の議論の末、ガガに試練を与えることにした。それを十全に達成できた暁には、劫国の民として迎え入れる。のみならず、軍部の相談役として挙用するという。

 願ってもない申し出に、ガガは二つ返事で承諾した。それ以外に術はない。母国に送り返されるか、悪ければ処刑もやむなしの身の上だ。

 ガガは手足の錠を外された。肩を回す。「それで、試練とは」

「そこからも見えるであろう」大臣が説明した。つるりと肌に艶のある瓜顔の男だ。ガガよりも十は齢が上だろう。「ちょうど今宵は月がでておる。あの月に届かんと聳える山が見えるか」

「ああ。塗々からでも晴れの日にゃ見えますぜ。煌々山だろう」

「我が国では淵々山と呼ぶ。あれの麓に、人を寄せつけぬ深い森がある。麒麟の森だ」

「それどっかで聞いたことある文句だな」

「我が国に古くから伝わる聖地ゆえ、隣国にも伝わろう。お主にはその森にて、麒麟の角を獲ってきてもらいたい」

「角を? 屠ってもいいのか」

「角さえ手に入ればそれで構わぬ。手段はお主に任せよう」

 大臣の言葉にガガは、笑みが漏れるのを抑えきれなかった。試練でも何でもない。麒麟がいかような生き物かは知らないが、ガガに狩れない獣はない。手段を問わないとなればもはや褒美を与えられたようなものだ。

「なら善は急げだ。その麒麟ってやつの特徴をできるだけ教えてくれ。装備もあれが助かるが、なければないでいい。現地でじぶんで調達する」

「頼もしいな。では、我が国の狩手(かしゅ)を紹介しよう。道中、道案内もそやつに任せる。あとはそやつから訊くといい。期限はそうさな。半年あれば充分か?」

「まさか。ひと月、いいや。森に着いたら長くとも十日以上をかけるつもりはないが」

「ならばひと月で構わぬと?」

「半年かけて狩れぬなら、幾日費やそうと同じだ」

 大臣はそこで、うむ、と頷いた。「殊勝な心掛け。傲慢だが、素直だな。嘘を吐いて楽をできたのに誤魔化さぬ。それとも気が回らなかっただけか」

「侮辱するなよ。狩人としての矜持のまえに、命など煤も同然。狩りの果てに死ぬならば本望。だが母国塗々ではそれも適わぬと諦め、脱国したまで」

「狩りができれば本望、と」

「ああ」

「麒麟は強敵ぞ。武運を祈ろう」

 その言葉にガガは拳を掲げて応じた。

 麒麟の森までの道案内には、ガガと同い年の狩手が同伴した。

 馬に乗り、二人だけの遠出となる。

 同伴者の名をウェカと云った。狩手である。女だ。

 彼女の武術の腕がじぶんより上であることは一目して見抜けた。殺し合いになったら別だが、格闘になればまず抑え込まれる。無闇に反発はしないでおこうと、これは獣と対峙したとき同じ冷静な視点で考えた。

 ウェカからは麒麟について話を聞いた。

 大まかに要点をまとめれば、以下の通りだ。

 麒麟は実在する獣である。

 見た目は大きな鹿だが、ほかの獣とは気性が違う。気質が違う。

 麒麟は夜にしか現れない。

 光をまとい、全身は鱗で覆われている。

 生態は謎に包まれている。何を食べているのかすら詳らかではない。

 ゆえに罠を仕掛けるのは至難だという。

「よく解らんな。そんな生き物がいるとは思えんが」

「宙を飛ぶとも聞きますね」ウェカは品がよかった。だがその品の良さは、間諜としての仕込みの賜物だろう。上辺から彼女の本性を探るのは至難だとガガは見抜く。「殺生をしないのです。我が国では古より伝承に登場するのですが、塗々国には伝わっていないのですか」

「初耳だ。何かの見間違いではないのか。発光する虫がいるのは判る。全身をその虫に覆われていた獣を見間違えただけでは」

「いえ。実在します。すくなくとも、ふしぎなチカラを持つ生き物はいるのです。宮廷では見せてもらっていないのですか」

「何をだ」

「角です。麒麟の」

「現物があるのか」

 まああるだろう、と思った。

 もしないのであれば、端から獲れぬ獲物を狩れと命じているようなもの。

 いや、その可能性は拭えない。

 ガガは胸中穏やかではなくなった。

 無理難題を吹っ掛け、手ぶらで戻った厄介者を正々堂々と処刑する。体のよい厄払いとも考えられる。

 だが、いまは宮廷で兵に囲まれているわけではない。そばにいるのはウェカのみだ。

 乱闘になればまず組み伏せられるだろうが、殺し合いならばガガのほうに分がある。経験の差だ。

 殺気を放たずに相手を殺めるのは狩人の十八番である。

 対して、ウェカの身のこなしは、狩人というよりも武人である。隙がないが、その隙のなさが獣たちの警戒心を喚起する。

 劫国では狩手と云うらしい。

 狩りは人がするものではなく、あくまで手段の一つ。手がすることとの通念があるのだろう。罠を張る。矢を放つ。斬りつける。これみな手の熟しと言える。

 だが狩りは、そうした挙動に移す前の段階が九割だ。

 残りの一割で命を奪う。

 自由を奪う。

 それまでに費やす思考の筋道が肝要なのだ。

 狩りは人がするものだ。

 獣は狩られる側であり、獲物である。

 その意識の差は、人間を相手取ったときにもハッキリと正者と亡者の差異を露わにする。

 狩る者の心得を知らぬ者に、狩りはできぬ。

 せいぜいが虫取りや魚釣りのごとく、道具を用いて追いかけるだけの児戯があるばかりだ。

 劫国は豊かな国だ。

 技術が盛んで、道具の種類が多い。

 その分、人としての知恵を日々の営みの中で削っているのだ。

 誰に対しても礼節を弁える品のある所作を見れば瞭然だ。これは、知恵ではない。装飾品を着飾り、見た目の差異で争いごとを避けようとする習性だ。獣が、身体の大きさや羽の模様、たてがみの仰々しさで、争いごとを避けようとすることと変わらない。

 ガガは思う。

 人とはもっと理に生きる存在のはずだ。

 平等な世界は動かない。流れぬ水は腐る。なればこそ、他者よりも僅かにでも利を縁と策を巡らし、危険を遠ざけ、生き残る術を磨く。

 より自由に、より自在を求めて。

 それができれば、井戸で顔を洗うような何気ない所作一つで、相手の動きを制し、思い通りに動かすこともできるだろう。

 その術を極めた者こそが狩人だ。

 ガガが内心で、仮に奇襲を仕掛けられても返す刀でウェカの首を獲るにはどうすればよいか、と算段を立てていると、亡命の理由を訊いてもいいですか、と投げかけられた。彼女は懐から干し肉を取りだし半分に裂いた。差しだされたそれをガガは受け取る。「どうして我が国へこられたのですか。塗々国に吉兆があるとは聞きませんが、よろしければわけを聞かせてくれませんか」

「大臣からは訊いていないのか」

「森へ案内しろとのみ。あとは麒麟について説明しろと」

「なるほどな。まあ、なんだ。ちょいとオイタが過ぎたんだ。油断したというか、慢心したというか。獲物を得て、一息吐いていたところをこう、ね」

「襲われたのですか」

 ガガは無言で干し肉を咀嚼する。

「狩りに失敗したから国を追われたのですか」

「そこは深くは言えねぇな。まだこの国の民になったわけじゃねぇ。脱国はしたが、母国を売るような真似はしねぇよ」

「重畳ですね。よい心がけと思います。よかった。内心、どのような悪党の御守りを押しつけられたのかと緊張しておりました」

「そうかいよ」そうは見えなかった。現に彼女からはガガを怖れている素振りが見受けられない。

「それよか麒麟の角ってのはどんななんだ。現物があるのになぜ狩る必要が。神聖な土地に住まう、いわば幻獣なわけだろう」

「神聖な獣であることは確かです。と同時に、劫国の神器でもあるのです」

「麒麟の角がか?」

「はい。ですが、先代の時代から長らく新たな麒麟の角を進呈できずにおり、国内の治安もそれに影響されるかのように徐々に荒れはじめているのです」

「角のせいかどうかは分からねぇだろ」

「かもしれません。が、神器には確かに、ふしぎなチカラがあるのです。風土を浄化し、川を癒し、風の邪気を祓うことで劫国の繁栄の礎を支えます」

「なるほどなぁ」

 しみじみ頷きながらもガガは、胸中では、そういう信仰なのか、と隣国の文化に馴染みのなさを感じた。長らく一派が国を統治すると、こうした信仰の力を借りることになる。それを、お話の力を、と言い換えてもよいだろう。

 言葉だけでは足りぬのだ。

 人々を一つどころに治めながらも、バラバラにせぬためには、繋ぎとめる共通の輪がいる。始まりと終わりがあり、頭と尾がぐるりと繋がり、それで一つの輪となり、重なる。

 泡沫の群れが、池を埋め尽くし、水底の鯉すらも窒息死させるように、お話の力は、それが輪となり人々を小さく結びつける。

 国のなかにこの、重なり合うことのできる輪が足りないと、一つどころにあっても人々はなぜか国同士の諍いのごとく分かち合うことができない。同じ言葉を話しながら、別々の国に生きるような営みをはじめる。

 輪は一つきりでなくとも構わない。

 だが、輪と輪を繋ぐべつの輪が入り用となる。そうなると雪だるま式に輪が増えかねぬ懸念はつねに付きまとがゆえに、可能であれば共通の、誰しもに備わる輪があるとよい。

 そのためには、誰しもにも馴染みやすい輪があるとよい。

 それが広く波及し、長く語り継がれることで、それは伝承となり、ときに信仰となる。

 劫国では、麒麟の存在がそれにあたる。実在はするのかもしれない。この国に固有の生き物であるのは、ガガとて想像がつく。そうしたこの土地に固有の生き物が、神聖な存在として、お話の核に添えられているのだろう。

 塗々国にはそれがない。

 だから数代もせぬうちに、主君が変わる。頭目がすげ替わる。

 とはいえ、塗々国はそれゆえ人が豊富だ。みなじぶんの世界を持ち、他者と早々容易く分かち合えるとは思っていない。考えてはいない。そのような理は、自然の理と反している、と考える。

 分かち合うには相応の段取りがいる。個々の相手、それぞれに対して、そのときどきで考えなければならぬ。

 いつでも通用する、共通の輪などはない。

 鍵などはないのだ。

 どうにかこうにか、じぶんの鍵を磨きあげ、変形させ、相手の鍵穴に合致するように試行錯誤する。と思えば、相手のほうでも同様に試行錯誤した鍵を差しだしてきており、鍵穴のほうを黙って持っていればよかったのか、と舌を打つこともしばしばだ。

 そうした経験が、人を人に形作る。

 最初からある雛型に己を当てはめたりはしない。

 ガガには塗々国の風土が染みついている。だから判る。

 劫国に来てからの、居心地の良さに。

 一つの鍵穴に合う鍵さえ見繕えればよいのだ。仮面を付け替える必要がなく、誰しもに同じ手法を用いれる。

 懐柔が容易い。

 懐に潜れる。

 ガガにとっては、羊の群れに紛れる狼と同義である。

 ウェカとの会話でそれを確信した。

 お伽噺を信じきったわっぱのごとく、上の者からの指示に疑いの念を抱かぬその純朴ぶりには、隣国からの亡命者であることも忘れて憂国の一念を覚えたくもなる。

 神聖な生き方を信じているのだろう。いまここにある己という人間ではなく、伝承の、神話の、ここにはない空想上の、理想の、人間なる神を信仰している。

 ゆえに、神話を共有できぬ異物に対してどのような裁量を割けばよいのかが解らない。そこで出番となるのが、天任せという名の試練なのだろう。

 神聖なる獣を狩らせる。麒麟の角を獲ってこさせる。

 手に入れば、天が許した民として受け入れ、そうでなければ厄を運ぶ害として排除する。

 麒麟の角はいわば権力の象徴なのだろう。それを獲ってきた者ならば重用するのが道理。地位が確約された背景はそんなところだろう。

 暗殺の可能性は低くなった。

 ウェカは麒麟が実在すると言う。ならばそれを狩るまでだ。

 あとのことはいかようにもガガの機転で潜り抜けられる。試練というなれば、ガガにとっては生きることそのものが試練だ。いまにはじまったことではない。

 麒麟は温厚な生き物です、とウェカが言った。

「殺生を好まず、そのため地の虫や草花とて無闇に踏みつけぬように宙に浮いているという話です」

「それはすごいな」法螺だと判っているが、同調する。

「そのためか、目のまえで惨い行いを見ると激昂する性質があります。それを利用して狩ろうとする者もむかしはいたようです」

「いまはいないみたいな言い方だな。有効な策に思えるが」

 おびき寄せるにしても、罠を掛けるにしても使える手だ。

「激昂させると手が付けられないのです。何にも増して、角が変質してしまい、却って吉凶を呼び寄せる魔の角と化します。本末転倒でしょう」

「ではどうやって狩るんだ。激昂させず、なおかつ気づかれぬように相手の姿を視認する。生態も碌に分からねぇ相手に使える策とは思えんが」

「分かりません」

「は?」

「ですから、先代の王から以降、新たな麒麟の角は献上されていないのです。それ以前の麒麟の角は、麒麟自らが宮廷に赴き差しだしたと伝えられております。麒麟を狩るのは本来はご法度なのですが、なにぶん、いまは国の存亡がかかっています」

「神聖な獣の命を奪ってもその角が欲しいってか。筋が曲がってやしないか」

「そうでしょうか。いえ、そうですね。言われてみたら妙かもしれません。ですが、なければ国が滅びます」

「いまある角じゃあ足りんのか」

「足りないからこそ災厄が重なっているんじゃないですか。みな困っているのです」

「んじゃ、さっさと麒麟とやらを狩りゃいいじゃねぇか。あんたも狩りの担い手なんだろ」

「私にはとても。いえ、麒麟を狩るだけならば私でもかろうじてできるかもしれません。しかし激昂させずに狩るのは不可能です」

 つまり、気づかれずに狩ることはできない、と。

 言われて見ればそうだ。

「だが俺ぁ、大臣さんにゃあ、角さえ獲ってくりゃいいと言われたがな。条件が違うんじゃないか」

「いえ。そもそも激昂させてしまえば、たとえガガさんでも麒麟を討ち取る真似はできないでしょう。私には地の利や、麒麟に対する知識があります。ですがガガさんは、ここまで説明しても、麒麟をただの獣だと思っていますよね」

 冷静な切り返しをされ、ガガは鼻白んだ。

「図星でしたか。素直な反応だと思いますよ。ただ、私も麒麟を見たことがあります。狩りに参加したことがあります。麒麟は実在します。ですが我が国ではもはや誰も麒麟を狩れません。狩ろうともしないのです」

「なぜだ。信仰の対象だからか」

 ウェカはそこで微笑んだ。「私は生き残りです。麒麟の角を手に入れるために国中からあらゆる達人を集結し、狩手としました。ですが生き残ったのは私一人きりです」

「その話が奔騰ならなぜあんたは無事でいられた」

「私が唯一の小娘だったからでしょうか。いえ、もっと率直には生娘だからだったからかと」

「よく解らんな。処女だからだ、と聞こえるが」

「おそらくは」

 彼女の真面目ぶった首肯に、ガガは笑った。「そんな助平な獣がいてたまるか」

「ですがそれ以外に考えられないのです。麒麟の目撃譚は数多く報告されています。中には麒麟を激昂させた例もすくなくありません。それでも被害者はみな男性。女性も含まれますが、軒並み子を持った母であったりします。しかも、あまり良い母親とは言えないような女性ばかり。反面、助かった者たちはみな年若い子どもや生娘ばかりなのです」

「そういう生態があるってことか」

「ええ。ですが、生娘では麒麟を狩れません。ひょっとしたらそのことを本能的に見抜いているのかもしれません。脅威となる個には容赦なく牙を剥きます。牙というよりも、角を、ですが」

 ウェカの話では、麒麟の角は剥けるのだという。

「普段は弾力性のある皮膚で覆われています。とても殺傷能力があるとは思えない柔らかさだそうで。ですがいちど臨戦態勢になると鋭く尖った角を剥きだしにします。こうなってしまった角は、邪を帯びますから、その状態の角を得ても使い道がありません。せいぜいが強力な武器にするくらいが関の山です。ですがそれはもろ刃です。使った者の命も危ぶめるでしょう。現に、かつて我が国に吉凶を齎した契機には、剝き出しの麒麟の角を使ったことが含まれます」

「つまり、奇襲で一撃必殺にしない限り、麒麟の角は獲れないわけだ」

「どうなんでしょう。それ以外にも方法があるのかもしれません」

「いまある角は誰が獲った角なんだ」

 質問を遮るように、目のまえに狐が飛びだした。

 馬が驚いて仰け反った。

 夜道ゆえに、馬の目隠しをとっていた。狐は走り去った。

「いまのはオウガギツネか」

「はい。塗々国にもいるのですね」

 ガガは曖昧に返事を濁した。オウガギツネはじぶんで狩りをしない。死肉を貪る獣だ。そのためオウガギツネのいる森には大食らいの肉食獣がいると相場は決まっている。

 劫国では、オウガギツネの姿を見かけなくなって久しい。肉食獣のうち、名のある個体の多くをガガが一人で狩ってしまった。そのため、小型の肉食獣が増殖し、食物連鎖が崩れた。獲物は肉食獣同士で食らい尽くし、さらに小型のオウガギツネなど、死体を貪る獣たちの餌がなくなった。

 山という山に居ついた名のある主をガガは一頭ずつ確実に仕留めた。

 そのたびにガガの名は世に轟いた。

 名声を得たことと引き換えに、野山からは主どころか幾千の種が絶えた。その影響は、狩らずにいたほかの地域の主たちにも及んでいたらしい。

 間もなく、劫国からはガガの琴線を揺るがすほどの大物が姿を消した。

 ガガが狩りに挑む機会は減った。

 その暇を潰さんと、火遊びに夢中になった。

 難度の高い女を手中にできてこそ、かろうじて狩りの飢えを満たせた。だが、しょせん繋ぎにすぎない。底を突いたような飢えは、さらなる死と生の狭間を求めてタガを外した。

 その果てがいまだ。

 だがけして悪果ではない。

 好機と言える。望むところだ。

 麒麟だろうが、何だろうが、誰も狩れぬ大物を仕留めてこそガガの飢えは潤う。

「いまのオウガギツネは一匹だった。妙だと思わないか」

「群れではなかったからですか」

「ああ。アレは夜行性だ。しかも臆病で、死肉を探し回るにしても群れで行う。単独でああして馬のまえに飛びだすことは滅多にない」

「仲間同士で警戒しあうからですね」

「ひょっとしたら群れが散り散りになるような何かに遭遇したのかもしれねぇな」

「麒麟でしょうか」

「さてな。目的の森ってのはまだかかるのかい」

「すでに境は越えています。ですが麒麟の目撃譚の多い場所まではもうすこしかかります」

「じゃあこの辺でいいよ。それともあんたも麒麟を狩るのかい」

「まさか。私では手も足もでませんから」

「帰りはどうするんだ。すぐに戻るのか、おれを待っているのかって話だが」

「十日で狩りを済ますと聞いております。十日ならば私も野営をして過ごせます。十日のあいだはお待ちしましょう」

「好きにしたらいい。なら馬を預かってくれ。足手まといだ」

「構いませんが、帰りはどうするのですか」

「十日で戻る。戻らなかったら逃げたか死んだかどちらかだ。どの道、馬はいらん」

「分かりました。では十日のあいだは馬の世話の私が致しましょう」

 頼んだ。

 そう言ってガガは馬から下り、森の中へと歩を踏み入れた。

 記憶が飛んだ。

 否、そうではない。

 森のなかに入って、馴染むのに時間をかけた。数日を掛けて、体臭や風の流れ、獣たちの縄張りを把握した。

 十日のうち、七日を下準備にかけた。

 だがその七日の時間が一瞬にして飛んだ。

 麒麟である。

 ひと目でそうと判った。あれが麒麟でなければ何であろう。 

 光輪が闇をまとっている。

 額からは角が生え、竹灯のごとく明かりを放っている。

 煌々としながらも、柔らかい光は、薄い皮で覆われているからか。

 身の丈は重種の馬と同じくらいだ。だが重馬はああも静かには歩かない。地面にとて深い足跡を残す。

 だがあの獣はどうだ。

 物音一つ立てずに森のなかを移ろい、ときに川や泉で喉を潤す。

 水以外に摂っている素振りはない。

 一日半をかけて生態をつぶさに観察した。

 ウェカからの説明通りだ。麒麟は僅かに地面から浮いている。雑木のなかでは足元が草木で隠れて見えないが、まず間違いない。ぬかるんだ水場ですら足跡がない。足音が立たないのも納得だ。

 一目瞭然にして疑いようがない。

 にわかには信じがたいが、こうして目の当たりにしている手前、ガガには麒麟の奇特な体質を受け入れるだけの器量があった。狩人としての器量だ。

 生き物には生き物の数だけ、人間には推し量れぬ側面がある。いまさら宙に浮くくらいでは瞠目に値しない。

 どちらかといえば、光輪だ。

 夜の闇にあってああも居場所を知らしめる光を放ってなぜ虫一匹寄りつかないのか。

 静かなのは、足音だけではない。

 麒麟のいる場所は無音の膜を張ったように異界と化している。ここが森の中であることを忘れそうになる。

 いいや、現に忘れているのだろう。

 すでにガガは、森に入ってから九日目に突入したことを忘れていた。時間の経過を忘却し、ただいまこの瞬間にのみ没入していた。

 麒麟とじぶんしかいない世界。

 それともじぶんすら存在を掠め、麒麟の影となり森閑を彷徨う霞があるばかりだ。

 呼吸を浅く、より浅くし、鼓動の音を鎮め、さらに鎮めた。

 麒麟が無音に包まれる光であるならば、まずはガガ自身が無音に溶け込むのが道理である。森の静けさは、無音ではない。静寂だ。静寂は案外に騒がしい。鳥のさえずりや虫たちの鳴き声、風に煽られる枝葉のぶつかり合う音、そうしたさざ波のごとく折り重なる音の嵐だ。

 それがそうだ。

 この凪は。

 無音。

 麒麟が動く。角から溢れる仄かな明かりが、麒麟の動くたびに、木々の幹のささくれ立った表皮の荒々しさを浮き彫りにする。

 ガガは止めていた呼吸を、一瞬緩めた。外気を吸いこむ。

 肺に溜め込み、しぜんと鼻孔に昇ってくる香りを記憶する。

 森の匂いだ。

 苔、葉、腐葉土、泥、微生物、生き物の糞尿の匂いに、警戒するたびに分泌される動植物の威嚇臭――いずれもガガには馴染みのある香りだ。

 だが妙だ。

 麒麟に近づくほど、森の香りは薄れるのだ。あたかもそこにだけ湧水が湧いているようだ。球形に目に視えない水でも溜まっていれば似たような空気の層を感じただろう。滝のそばに立っているかのようだ。森というよりも水の透明感を幻視する。

 ガガはひとしきり脳内で麒麟の急所を探った。

 どうすれば存在を気取られずに射止めるか。

 警戒されれば角は剝き出しとなり、手に入れても無駄骨だ。大臣との約束は反故となる。

 ならば木の上から飛びだして、真上から突き殺すがよいか。

 だが麒麟のあの無造作な佇まいからは、ほんのすこしの空気の揺らぎさえも窺知するような感覚器官の鋭さを感じる。

 麒麟は眠らなかった。

 足を畳むこともなく、したがって隙がない。

 麒麟の赴くところからは生き物たちの息吹が薄れた。蝋燭の火が絶え、煙が漂うような希薄さが充満する。だが麒麟が遠のくと、煙を辿るようにして火が再び灯るのだ。

 あれは生よりも死にちかい。

 触れれば立ちどころに己に命も薄れるだろうと予感できた。

 ふしぎと恐怖はない。

 ガガはしだいにじぶんと麒麟の区別が曖昧になった。狩人としての極致である。獲物と同化し、僅かな隙を己が欠伸と同等の知覚として扱える。

 これまでにも幾度もこの境地に立った。そのたびに、誰の手にも終えぬ山の主から命を奪った。

 だがどうだ。

 この麒麟の隙のなさは。

 否、そうではない。

 同化してなお、存在の核に届かない。格が違う。太陽を隠す月を日食と呼ぶが、まるでこれでは太陽の欠片も隠れはしない。

 呑みこまれているのだ。

 自覚してなお、離脱できなかった。

 麒麟をつけ狙い、己の存在を消す時間が延びるたびにガガは己の内から狩人の矜持が蒸散していくのを感じた。それをなぜか心地よく思った。己が何者であるのかを忘れるたびに、恍惚とした淡い光に満たされた。

 いいやそれとも闇に包まれ、まどろんでいたのかもしれぬ。

 十日目の日暮れである。

 ガガはかつてないほど麒麟のそばに立っていた。手を伸ばせば麒麟の身体に触れる距離だ。麒麟のほうでも警戒する素振りはなく、あたかもガガなどそこにいないかのように木々の合間に浮かぶ月を見上げている。

 ガガは麒麟を見ていた。それでいて麒麟の見上げる月が視えていた。

 麒麟と月は同一だった。

 空がまえにあり、空に麒麟が浮かんでいる。

 麒麟のなかに夜があり、月明かりのなかに麒麟がいた。

 そこにはただ空と夜と月と存在があった。麒麟もガガも、木も草も虫も鳥も獣たちとてひとつだった。

 気配がなくて当然だ。

 みな一様に麒麟に打ち解け、麒麟のなかに溶け込んでいる。

 誰もがそこから脱しようとはしない。麒麟のほうで場を移すことで、ついていけなくなる有象無象があるばかりだ。

 ガガはもはや狩人ではなかった。狩りの意味を忘れた。狩りとは何だ。いたずらに命を奪ってそれが何になる。かつて覚えた万能感は、麒麟との同化したいま抱く満腔の昂揚感に比べれば、擦り傷と四肢断裂ほどの差があった。

 何のために麒麟を探していたのかすら覚束ない。意識の雛型からは零れ落ち、ガガはただ麒麟の放つ光輪を縁どる闇の一つとなってそこにあった。

 麒麟に触れた。

 麒麟のほうで寄ってきた。

 否、解らない。手を伸ばしたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 麒麟の光輪が視界を占める。見下ろされているが、包まれていると感じた。

 やっと、やっと。

 内から湧きあがる飢えにも似た歓喜がガガの奥底から湧きあがる。それは雛のごとく空虚な芽を萌やし、ガガをただそこに在る光とも闇ともつかぬ霞にした。

 麒麟がこうべを垂れた。やわらかい熱が、光となって一角から垂れている。

 ガガは刹那、思いだす。

 じぶんはそれを獲りにきたのだと。

 水をまえにした彷徨えし者のように、ガガは角に目を奪われ、欲を覚えた。

 渇きはしかし痛みとしてガガの内面にヒビを走らせる。

 欲してはならぬ。

 狩ってはならぬ。

 かような欲を抱いてはならぬ。

 もはや麒麟との同化の昂揚を経てしまえば、それを手放すことの痛みが、何より優先してガガの肉体を支配する。

 存在が拒む。

 いまこの時を逃すな、と。

 麒麟の目は山羊のようだった。眼球に長方形の黒がある。

 一角の生え際が蠢いて見えた。

 吸い寄せられるように注視すると、麒麟の額に、筋が走った。

 横に線が入り、そして開く。

 目だ。

 第三の目が、麒麟の角の真下に開いた。

 ガガは見惚れた。

 目を離せなかった。釘付けになった。目と目が直接、紐で結ばれたようだった。

 麒麟がガガを見詰める。まるで第三の目から光の根が伸び、ガガの眼球を通して体内に縦横無尽に毛根を張り巡らせるような奇妙な圧迫感を覚えた。臓物を優しく愛撫されるような甘美な刺激を覚えながらも、つぎの瞬間には巨大な手に握りつぶされるような威圧があった。

 存在の根幹を掌握されたのだと思った。

 涙が溢れた。とめどなく溢れた。

 喜怒哀楽のどれでもなく、どれでもあるような感情のダマが溢れだして止まらなかった。

 脳髄液が涙腺を通して流れ出しているかのようだった。

 第三の目が閉じる。麒麟からほとばしる光がいくぶんやわらいだように見えた。

 麒麟の角の光が収斂していく。

 先端から根本へと水位が下がるように光が失せていく。

 間もなく、根本に一輪の光があるのみとなった。

 麒麟の双眸が潤んでいる。瞬き一つなく大気に晒された眼球は透明な岩蜥蜴の産卵のようだと何ともなしに思った。

 しだいに己の輪郭が、くっきりとふたたびの層を帯びはじめる。

 身体の表面を風が撫で、鼻腔を森の匂いが掠めた。

 辺りは闇一色に包まれており、いつの間にか頭上から月が消えていた。木々の葉のざわめきのあとに凍てついた風が肌を打った。

 ガガはぽつねんと森のなかに立っていた。

 麒麟の姿どころか、地面と空の境目も曖昧だ。

 平衡感覚を崩し、くらりと眩暈を覚えたかと思うとその場に尻もちをついた。

 足先が何かを蹴った。岩のように思い感触が伝わったにも拘わらず、その何かは、軽々と闇のなかを転がった。

 ガガは這いつくばり、その何かを手で探った。

 腐葉土や草や石は冷たい。

 指先がやわらかい何かに触れた。熱を帯びたそれは、消えたばかりの火を思わせた。

 剥きだしではない何かの角だ。

 赤子の手首を掴んだときのような弾力を感じながらガガは、それがなぜそこに転がっていたのかの背景に思いを巡らせた。

 遠くから微かに馬のいななき声が聞こえた。

 いまが森に入ってから十日目の終わり、夜明けをまえにガガは、なぜじぶんがここにいるのかを思いだし、その些事の小ささに細々と咳きこむ。

 大事な物を失くした。

 しかしそれを大事と思う心根がもはや失せている。それこそが大事の根幹だったのだ。もはや、眼前に積まれても露ほども欲しくはないが。

 ガガは闇に沈んだままの手のひらを見遣る。その上に載った何かの角ごと、見えぬ何かを見透かすようにした。

 森と空の境が浮きあがりはじめている。




※日々、舐められすぎて、唾液くさい、唾液がコーラ味だったら最高なのにな、じぶんの唾液だけで喉が潤う、糖尿病にまっしぐら、それは嫌ゆえたまには麦茶味でもよい。



4031:【2022/09/19(18:30)*人間は微生物化していく】

情報通信技術がこのまま発展していけば、都会で暮らすことの利は減りつづける。田舎であっても、都会にいるのと変わらぬ生活が送れる。というのも、家から出ずに済むからだ。その派生として、自動車のなかで暮らすホームレスも増加するだろう。立体駐車場が、簡易ホテルのように重宝される時代がくるかもしれない。トイレお風呂コンビニが完備で、ネットカフェの代わりとして流行っても不思議ではない。あべこべに交通量は減る。自動車で遠出することが減るため――というのも、おおむねの自動車はアパートのように賃貸化するため、自前の自動車を持つ者のほうがすくなくなるだろう。となれば、全国の毛細血管のごとく入り組む道路の手入れは採算がとれなくなるので、市町村間の交通は空路や線路が主となるはずだ。ドローンでの運搬は、技術的には可能だが、防衛上の懸念から軍事ネットワークを緻密に築きあげ、その管理下に置かなければ普及はしないだろう。ただし、あらゆる情報媒体が電子化するため、郵便局や宅配業者がデリバリーサービスを開始するはずだ。そのため、いまよりも格段に人々は外出をしなくなるし、店舗は減る。工場のような大規模な商品管理倉庫兼ショッピングモールが増える。道路は劣化し、土木技術の継承が滞るが、工業用3Dプリンターが道路や家ですら自動で建造してくれるようになる。人工知能の導入で医療現場は飛躍的に効率化が進むだろう。そこであぶれた薬剤師や看護師や医師の新たな働き場所として、医療コールセンターのようなサービスが登場するかもしれない。基本は人工知能などの診察や処方箋で済むが、それでも対応できない事案はでてくる。そうしたときに専門家が遠隔で治療や診察や助言を施す。そういった援助や支援の方向で、人間は労働を行うようになっていくだろう。これはあらゆる分野で進む傾向だ。畢竟、最後まで残る仕事は掃除なのである。農家において自動化が進めば、家畜の糞の始末や、それを始末する機械の清掃が人間の行う仕事になっていく。同じことがどの分野でも進むだろう。コンピューターのソフトの面ではすでにこの傾向がでているはずだ。バグやセキュリティのアップデートが、エンジニアの大多数が担う仕事の内訳になっていないだろうか。畢竟、苦情の対処は人間が担うよりないのだ。嫌な仕事ばかり煮詰まって、それを人間が熟すようになるが、それとて改善が進めば減っていくし、ネットリテラシーのような新しい倫理観が普及すれば、苦情の質も軽減していく。こうした妄想を逞しくすると、いつも最後には掃除に行き着く。ゴミの処理と言い換えてもよいだろう。今後百年は、ゴミの処理が、淘汰されずに残りつづける人間の仕事であると言えるはずだ。新規ビジネスを開拓したくば、ゴミ処理と紐づけて考えておくと、あらゆる面で優位に立てるだろう、との妄想を披歴して、本日の「日々記。」とさせてください。(頼まれたらしょうがないね。許可します)(やったー。うれち、うれち)



4032:【2022/09/20(09:10)*気のせいじゃったわい】

全体主義と監視社会はイコールではない。資本主義と実力社会がイコールではないのと同じだ。個人主義の社会とて監視社会になり得る。他者を秘密裏に監視し、情報を集積しておけばあらゆる環境で優位に立てる。資本主義かつ実力主義が謳われる社会ほど、監視社会の基盤は促進されるはずだ。こういった錯誤はあらゆる社会的な二項対立の概念で散見される。現代の社会を投影しているとは言い難い。唯々諾々と、偉人や先人の言説を疑いもなく流用するから錯誤の根をいつまでも放置するのだろう。人類史において革新派と保守派を明確に二分して分類することはできない。無理やりにそれを行えば、どこかでねじれが生じるだろう。ヒヨコはいつまでもヒヨコではいられない。子は大人となり、大人は子を産むこともある。似たような変化を、どのような属性であれ帯びるものだ。監視社会一つを取りあげるだけでも、時代によって想定される監視社会の全体像は様変わりする。現代社会とて充分に監視社会だ。どんな店舗とて監視カメラが設置され、警備会社と契約をし、事件があれば、たとえば事件現場でなくとも監視カメラの映像を提供し、情報共有がなされる。これが監視社会でなくなんであろう。全体主義にしても同様だ。個人主義を支持する者たちとて、公共の福祉の概念は尊重するのだろう。しかし公共の福祉の概念はどちらかと言えば全体主義の思想である。功利主義とて、個人主義よりも全体主義に寄っている。とはいえこれも、個人主義の見据える時間スパンがどの程度長いのかによって、個人主義を突き詰めることで功利主義に移行することは当然あり得てくる。より多くの者たちが安全な生活を送れる社会のほうがじぶんが安全で自由に過ごせる確率が高くなるからだ。けっきょくのところ、全体主義も個人主義も、何を優先するのか、という違いがあるだけで、過去から未来へと視点を伸ばしていけば互いに交わる閾値を持つと言えよう。そもそもが二項対立の構図をとらないのだ。全体主義の宿痾とは、畢竟、全体主義を謳っておきながら、独裁者や権力者といった一部の個の「個人主義」が優先されることで発露する極めて単一の社会にあると言える。全体主義だから危ない、ではないのだ。全体主義であるはずが、そうではなくなることが問題なのだ。これは個人主義にも言えるだろう。個人の自由を尊重すると言いながら、じぶんだけの自由を全体にまで強要する。じぶんという環境を基準として、社会を統率しようとする。支配しようとする。このねじれが問題なのである。しかしさきにも述べたように、全体主義と個人主義はそもそも互いに互いを内包し、部分として取り込まれることでより安定した枠組みへと絶えず変質しつづけるような機構を有している。では、前者と後者の違いは何か。なぜねじれ構造があると上手く機能せず、フラクタルな機構であると上手く機能するのか。これは極論、何を基準に判断を重ねているのか、という視点に行き着くだろう。つまり、個という小さな枠組みの世界を、全体にまで拡張しようとする姿勢が、問題の根を深めるのである。基準とすべきはまず、環境のほうである。これはおそらく還元主義的な考えの弊害だろう。因果を辿り、最も根源にちかしい個から最適化していけば上手くいくだろう、という錯誤が、この手のねじれ構造を生みだすのだ。そうではない、それでは上手くいかない、との考えをここで子細に記述する真似は避けておこう。論述したいわけではないのだ。これもまた気まぐれに浮かんだひびさんの妄想にすぎない。真実には、個の世界を全体にまで拡張したほうが上手くいく場合もあるのかもしれない。短期的にはあるだろう。だがそれでは遠からず行き詰まる――まるで息が詰まるように。人はじぶんで思うよりも世界を感受してはいない。触れてはいない。把握していない。個の変化よりも環境の変化のほうが著しい。季節は移ろい、雲は流れ、草花は知れず咲き誇り、いつの間にか枯れている。虫の命を見ればよい。虫の世界を世界の総じてと規定することの不条理を思えば、全体主義にしろ個人主義にしろ、何が問題の根を深めるのかは瞭然としよう。定かではないが、これもまたひびさんの内なる世界が狭いがゆえ。乏しい知覚のなせる夢かな。(いいこと言った!)(気がする!)(気がするだけかい)(それワンパンマンで観たツッコミ! シルバーファングさんがボケてたやつ!)(よう見とるね)(おもちろかったからです。おもちろいことは憶えとる。人体のふしぎー)



4032:【2022/09/21(10:03)*海流と水量と温度】

海水の温度が数日から数か月に亘って広範囲に平均温度から数度上昇することをブロブというそうだ(定義をひびさんは知らぬので曖昧な解釈じゃ)。海洋熱波と記事には書かれとった。要因は未だに詳細には知れておらぬようだ。年々、ブロブの範囲と海水の温度上昇と持続期間が増加傾向にあるようだ。ひびさん思うに、これは北極や南極の氷が融けて海水量が増えたことが大きな要因の一つになっていると思うんじゃ。そもそも北極や南極の氷が融けるということは、その界隈の海水の温度がゼロ度以上になるということじゃ。そこを経由して冷やされるはずの海流が、上昇した温度分の熱を溜め込んだまま、南極や北極界隈から脱するということじゃ。そもそも南極や北極は、白夜があるほどに絶えず太陽さんがでちょるじゃろ。海水は太陽光のエネルギィさんを溜め込みやすいはずじゃ。水は、温めにくくて冷えにくい。水量が増えたのなら、そこで溜め込まれた熱エネルギィは、よほどのことがない限り、容易には冷えんじゃろうて。やはりというべきか、北極の氷が融けた分の海水は、気候変動にとんでもなく作用していると言えるのではないか。むろん南極や永久凍土の融解もまた問題じゃな。全体でどれくらい海水量が増えるのかをどぶり勘定でよいので算出してみるとよさそうじゃ。それって既存の海水の何パーセントに値するのじゃろうね。ひびさん、身になるます。(身になっちゃうか。ためになるってことかな)(そだよー)



4033:【2022/09/21(21:03)*素数の編み物】

素数について。「2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, 31, 37, 41, 43, 47, 53, 59, 61, 67, 71, 73, 79, 83, 89, 97……」とつづく素数を一つずつ抜いていく。「 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, 31, 37, 41, 43, 47, 53, 59, 61, 67, 71, 73, 79, 83, 89, 97……」「 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, 31, 37, 41, 43, 47, 53, 59, 61, 67, 71, 73, 79, 83, 89, 97……」「 7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, 31, 37, 41, 43, 47, 53, 59, 61, 67, 71, 73, 79, 83, 89, 97……」これを延々つづけて素数の「編み物」をつくるとする。つまり、縦には一つずつ頭の抜けた素数の列が並び、横軸にも頭の一つずつ抜けた素数の列が並ぶことになる。上手い具合に縦と横が将棋盤みたくなるはずだ。このとき、対角線も素数に対応するのなら、縦横斜めが合致するようなフレームをつくれるので、無限につづくだろう素数を見つけだせるのではないか。(斜めは素数の一個飛ばしになる? ホントか?)



4034:【2022/09/22(01:26)*氷の声は融けて】

 八年前に私は雪山で遭難した。そのときミカさんが探しにきてくれなかったら私はいまでも雪山で誰に知られることなく雪だるまの真似事をしていたことだろう。

 私は助かったが、ミカさんはそのときに全身凍傷となって生死の境を彷徨った。かろうじて命を取り留めたが、ミカさんの身体はなぜか半分氷になってしまった。

 凍傷になった手足の末端は顕著だ。

 鼻や頬とて氷なのである。

 当然、常温の室内では融けてしまうのでミカさんは冷房の効いた部屋で一年の大半を過ごしているし、絶えずアイスを舐めていないといけない体質になってしまった。それもこれも私が雪山で遭難したからだ。

「ミーカさん。差し入れ持ってきましたよ。アイスと本です」

「あんがと。そこ置いといて」

 ミカさんは机のうえを顎で示したが、私は冷蔵庫を開けた。アイスを仕舞おうと思ったのだが、すでに冷蔵庫の中はパンパンだった。アイスの予備がぎゅうぎゅう詰めになっている。

「どうして全部ソーダ味なんですか。飽きません?」

「飽きるよ。でも味で決めるわけにはいかんからね」

「どうしてですか」

「キミは知らんでいい」

 この問答は定期的に繰り返す。そのたびに私はミカさんから答えのお預けをくらうのである。

 ミカさんにこんな窮屈な暮らしを強いてしまった引け目もあり、私は強く詰問することができずにいる。

 部屋の窓は目張りされ、陽の光は届かない。昼間はしかし、目張りの隙間から一筋の光が伸びて、床に星明りのような点を浮かべる。夜はマンションの外から同じように、ミカさんの部屋の窓から星の明かりがごとく一点の光が拝める。

 部屋に外にもでられないのでミカさんは一日の大半を読書をして過ごしている。電子機器は熱を持つため、本は紙媒体がよいのだそうだ。同じ理由からミカさんはインターネットもしない。必然、電子のネットワーク越しに同世代と繋がることはなく、端的にミカさんは孤独だった。

 元からの性質とはいえ、やはり私は引き目を感じずにはいられない。

 ある日、私はミカさんと喧嘩をした。

 発端は些細な食い違いで、たとえばミカさんが出しっぱなしで片付けようとしない本の山を私が黙って片付けようとしたことだったり、それともアイスの箱の山を一向に捨てようとしないミカさんに小言を言ったことだったりしたのだが、いつもならば「好きにしたら」と流すところをミカさんは椅子の上で膝を抱えながら、声を荒らげた。

「もうあたしに構うなよ」

「な、なんてことを。ミカさん、私がこなきゃ一生誰ともしゃべらない癖に。どうしてそういうこと、ええ、言いますかねこの人は」

「正直邪魔でしょうがない。本がいいとこなのにキミが来ると急に現実に引き戻されるようでいつも嫌だった」

「でも私がこなきゃ誰が本を片づけるんですか。ゴミだってそうですよ。躓いて手足が欠けちゃったらどうするんですか」

「いまさら指の一本や二本構うものか。そもそもとっくにないようなものだろ」

 こんな腕。

 そう言ってミカさんは拳を握った。氷でできた指がガラス細工のような音を立てた。

「電灯が切れても自力で換えることもできないんだ。いっそないほうがいいくらいだ」

「白熱球なんて使ってるからですよ。今度LEDのやつ買ってきます」

「もういいよ。こないでくれ」

「む」

「むっ、じゃない。本当迷惑だ」

「あ、そうですか」私は本を脇にどかして山のようなアイスの箱を段ボール箱に詰めると、それを抱えてドアを開けた。「お邪魔してしまいどうもすみませんでした。さようなら」

 お尻でガっとやって勢いよくドアを閉めた。大きな音が鳴った。風圧でミカさんが部屋の中で倒れちゃったのではないか、と嫌な想像が浮かんだけれど、怒りのほうが上回った。

 もう二度と来てなんてあげないんだから。

 そういう気分だった。

 実際、その日の夜も私は腹の虫が収まらなかったし、夢にまで出た。夢のなかではミカさんが本とアイスの箱に埋もれていた。冷房が届かなくて、手足の氷が融けてしまうのだ。

 目覚めた私は汗だくで、まるで私のほうが融けた氷のようだった。

 私はそれからしばらくミカさんの部屋には近づかなかった。アイスは定期契約で黙っていてもミカさんの部屋に届く。

 ミカさんは一生働かなくてもよい。珍しい氷人間として生活が保障されているのだ。八年のあいだに一通りに研究はされ尽くしたようで、あとは長く寂しい余生があるばかりだといつかのミカさんがぼやいていた。

 私がいるから寂しくないだろうに、と思ったけれど、私が言えた口ではないのでそのときは、うらやましいですね、と言って聞き流した。私だって一生働かない生活がよかった、と憎まれ口を叩いた。それで本当に憎まれてしまったのかもしれない、といまになって考えて、私は一人でくよくよした。

 ミカさんへの怒りは三日目にはすっかり冷めていた。

 それでも私はミカさんの部屋に近寄れなかった。

 もしこんど突き放されたら私はきっと立ち直れない。怒りの防壁がない状態で、ミカさんからあのような辛らつな言葉を向けられでもしたら、私の心は氷のように砕け散るだろう。詩的な表現で自らを慰めるが、じつのところおそらく私はミカさんから何をどのように吐かれようが傷つくことはない。

 腹は立つ。

 怒り、トゲトゲし、むつけもする。

 けれど私はミカさんからどんな悪態を吐かれようと、よしんば刃物で、それとも氷の指先で突き刺されようとも私が傷つくことはない。もはや傷つく場所を探すほうがむつかしいのだ。

 私はもうずっと傷つきつづけているのだから。

 いまさら傷の残る余白はこれっぽっちも残ってはいない。

 後がないのだ。

 文字通り。

 ではどうしてミカさんの部屋に歩を向けないのかと言えば、単純な話、私はミカさんを傷つけたいのだ。私ばかり傷ついてズルい、と私はたぶん思ったのだ。

 だから時間を置いている。

 あの日の口論をなかったことにしたくなかった。

 後悔してほしい。

 私のこない日々を過ごし、心底に悔い、心を改めてほしかった。

 じぶん一人では買い物にでることもできない可哀そうなミカさん。

 私なんかを助けてしまったばかりに残りの人生の総じてを薄暗い部屋のなかで、本とアイスに埋もれて過ごすミカさん。

 それでもなお、そこが私とミカさんだけの世界であるのなら、私はミカさんに呪いをかけてしまったじぶんごと、丸っと過去も未来も呑みこみ、己の至福と見做して味わい尽くしてやろうと考えてしまう。

 どうしてもそう考えてしまうのだ。

 申し訳ないと思うより先に私は、ミカさんに呪いをかけ、じぶんとの接点のみが永劫濃くなりつづける日々に感謝しそうになる。

 現にきっとしているのだろう。

 してきたのだろう。

 ミカさんは私のそうした心中を見透かしてなお、私を拒むことなく八年のあいだそばに寄ることを許してくれていたのだ。だがそれも我慢の限界に達したのかもしれない。

 それともほかに理由があるのだろうか。

 もしくは理由など何もないのだろうか。

 私が理由もなくむしゃくしゃするように。

 ミカさんも私にむしゃくしゃしただけかもしれない。そうだったらどんなによいだろう。ミカさんがそうして理由もなく私に腹の底を明かしてくれるほどに、私を無意味に傷つけてもよい相手だと見做してくれていたのなら、私もまたこの八年のあいだ、自虐と呵責と悔恨の念に苛まれ、傷つきつづけてきた甲斐があったというものだ。

 私はこのさきも傷つきつづけるだろう。

 ミカさんに不自由を強いてしまった過去のじぶんを悔いながら、それでもなおミカさんを独り占めできる環境に感謝しながら、そうした後悔と感謝の愛憎渦巻く螺旋の果てに、持続と離別のシーソーを幻視しながら。

 ミカさんと離れ離れになるにしろ、このまま一生の縁をがんじがらめに結びつづけるにしろ、私はいまと同じく存在の根幹からして余すことなくが傷つくのだ。

 けして癒えることのない傷だ。

 痛みはとっくに麻痺している。

 ともすれば、痛痒のごとくちっぽけな快感すら引き連れているかもしれない。

 私たちの子だ。

 傷から生まれた快楽だ。

 馬鹿げた呪詛を私は吐いて、シャワーの湯にきれいさっぱり流してもらう。

 私は半月ぶりにミカさんの部屋を訪れる。

 明かりが灯っていない。

 マンションの外、窓から見えた部屋は真っ暗だった。目張りの隙間から漏れる星の明かりがごとき光がない。 

 玄関扉を開け、さらに部屋のドアを引く。

 冷気が噴きだし、ひとまず私は安堵する。冷房は効いている。すくなくとも融けてはいなさそうだ。

「ミカさん。いますか」

 明かりのスイッチを押すが、明かりが点かない。そこで私ははたと閃く。

「電球切れてますねこれ」

 ぎしり、と椅子の軋む音がした。暗闇の奥に私は、椅子のうえで膝を抱えて丸くなるミカさんの姿を幻視した。

 私はひとまず壁伝いに手探りで冷蔵庫まで歩いた。冷蔵庫の中身を確認し、アイスが底を突きかけている事実を把握した。

「受け取らなかったんですか荷物」

 それとも受け取るときに契約を切ったのかもしれない。なぜこんなまどろっこしい真似を、と思うが、ミカさんがこの八年のあいだにどれほど悩み、何を考え、どういった答えを出しては否定してきたのかを私は知る由もない。いまさらミカさんの一挙一動を取りだして、なぜどうして、と疑問しても無意義だと知っている。

「ちょっと待っててくださいね。コンビニに行ってすぐ戻ってきますから」

 言い残して私は来た道を戻った。近場のコンビニでLED電球とアイスを購入し、ミカさんの部屋へと踵を返す。

 ミカさんの部屋には家具がない。ベッドもない。

 冷蔵庫と椅子と本があるばかりなのだ。

 私は暗がりのなか、不作法にも本を脚立代わりに積みあげ、四苦八苦しながらも天上の電球を取り換えた。電球を嵌めた途端に明かりが灯る。今度はLEDなので長持ちするだろうし、ミカさんであっても換えられる。

 とはいえ、こけたらたいへんだ。高所の作業は私がしたほうがよいのは変わらずである。

 本の脚立から下りる。

 ミカさんはいつもの指定席にて、やはり膝を抱えて蹲っていた。

 恨みがまし気に私を見詰めているが、私はそこから拒絶の意を汲み取らない。

「アイス買ってきました。食べますか」

 ミカさんは動かない。

「たまにはソーダ味以外のもよいと思って。はいこれ。スイカバーです」

 袋から取りだし、手渡した。

 赤い三角形が棒に突き刺さっている。

 ミカさんは私をぎろりと一瞥してから、しぶしぶといった調子でアイスを受け取った。ミカさんの指先はざらついていた。まるで日中に融けて夜になって再び凍ったツララのようだ。

 ミカさんは赤い三角形のアイスを齧りながら、

「進んでるんだ」と言った。

 私は黙って言葉のつづきを待った。

「進行してる。前は大丈夫だったところまで氷になってて、いまじゃ内臓まで氷になりはじめてる」

「そう、だったんですね。研究者の人たちはそのことを?」

「知らないさ。まだ誰も知らない。教えてない。だって教えてどうなる。治りもしないのに」

「解らないじゃないですか」

「本気でそれ言ってる」

 ミカさんが勢いよくアイスを齧った。「おためごかしなんか聞きたくない」

「じゃあ言いますけど」私は手を伸ばし、アイスの棒を握るミカさんの指に触れた。「このままでよくないですか。別に。治ったってどうせミカさん、いまとそんなに変わらないじゃないですか」

 ねめつける割にミカさんは言い返したりしなかった。

「私だって変わらないですよ。たぶん。こうやって気まぐれに遊びに来て、ミカさんを怒らせたり、読書のお邪魔をしちゃったりしてたと思いますよ」

「でもキミのそれは義務感だろ」

「義務感?」

「贖罪だ。そうだろ。重いだろ。逃げたいだろ。一緒にいると傷つける。もし気づいていないのなら、それは、ダメだろ」

「ダメ? 何がですか。気づいていないも何も、私はそもそも傷ついていませんけど」

 白々しさもここまでくると愛おしくなる。傷口を抉って、引っ張りだした血管の美しさを誇りたくもなる。痛みがないのが本当にふしぎなくらいだ。

 私はたぶん笑っていた。ミカさんはそんな私を見てどう思っただろう。けして嘘を言っている女の姿には見えなかったのではないか。

「キミがそうでも、あたしはもう疲れた。傷つきたくない」

「それだとまるで私がミカさんを傷つけてきたみたいに聞こえます。心外です」

「傷ついてきたさ。気づいてなかったの。嘘でしょ」

「はて。何のことやら」

 ミカさんはそこで心底に呆気にとられたように口を開けた。

「私はほら、あれです。ミカさんをこんな美しくも不便な身体にしてしまった契機を作ってしまった元凶として、そこそこまあまあ責任は感じますけど、でもだってミカさんだし、ほら、そのお陰でミカさんの大事な大事な私の命が助かったわけですし」

「おまえ、それ、じぶんで言うか?」

「だってミカさんは言ってくれないですし、それにだって、ねぇ?」

「ねぇってなんだよ」

「嘘じゃないじゃないですか。間違ってますか。じゃあなんですか。ミカさんは過去に戻って、八年前のあの日に戻れたとして、いまの身体を治すために私を見捨てる決断をすると、そういうことですか」

「それは」

「しないですよ。ミカさんですもん。私、ちゃんと解ってます」

 だからミカさんも。

 そこで私の声は震えたが、私は胸を叩いて、痙攣したがりの横隔膜を叱咤した。そして言った。

「ミカさんも、ちゃんと解って」

 冷房機の音が室内を満たす。

 ややあってからミカさんは口からアイスの棒を引っ張りだした。すっかり平らげたそれを見た。そこに書かれたハズレの文字を私に見せると、一つだけ言っとくけど、とそっぽを向いた。

「つぎからは色のついてないのにして」

「あらま。ミカさんお顔真っ赤」

 照れてるんですか、と茶化すと、ミカさんは椅子ごとひっくり返りそうなくらいに全身で、そんなんじゃないわい、と否定した。

「ミカさん、かわい」

「出てけ」

「私もここに住もうかな」

「風邪引いても知らないからな」

「拒まないんですね」

「さっさと帰れ」

「また来ますね」

 いつもならばそこでミカさんは、もうくるな、と言うところだったのだけれどこの日は殊勝にも、つぎはいつくる、と隠す必要もないのに膝に顔を埋めて、消え入りそうな雪の結晶のごとくささめき声を、部屋いっぱいに、それとも私の胸いっぱいに響かせるのだった。



4035:【2022/09/22(09:57)*算数へたくそか】

4033の記事「素数の編み物」でアホウな妄想を並べたが、よく考えたら何も言っていないに等しかった。英語のABCDでも同じことをすれば、同じような法則が現れるが、だからといって27文字しかない英語の幻の28文字目が判るのか、と言えば判らぬだろう。

ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVW&XYZ

BCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVW&XYZ

CDEFGHIJKLMNOPQRSTUVW&XYZ

DEFGHIJKLMNOPQRSTUVW&XYZ

EFGHIJKLMNOPQRSTUVW&XYZ

FGHIJKLMNOPQRSTUVW&XYZ

……

あれ、でもこの繰り返し配列は、DNAを彷彿とするな。もし∞に配列がつづくならやっぱりこう、何らかの法則が導きだせそうに思うのだけれども、そうでもないのかな。数学的センスがないとこういうときに直感で、いけるとか、いけない、とか判断がつかなくて困る。でも一文字ズレただけでも、縦横斜めと逆斜めの四つがそれぞれ「正規の順番、正規の順番、飛び飛びの順番、同じ文字の並び」と法則を見せる。ただ別に、何の数字や文字が並ぶにしても、崩れない法則なので、何かのつづきを導きだすのには役に立たなそうだ。でもひょっとしたら、それぞれの縦横斜め逆斜めに、四則計算をしてああだこうだ比率をだしてそれぞれの値を比較してみれば、何かしらの法則が新たにでてくるかもしれない。こういうの、粘土遊びするみたいにひょいひょいひょい、と指を動かすだけでできたら楽なのにな、といつも思う。寝起きはだいたいこんな感じです。おはようございます。



4036:【2022/09/22(10:30)*何回割るかの指定はどこ?】

「1=0.99999…」これがやっぱり腑に落ちないひびさんは頭がよろしくないのだね。

計算式は下のようになるらしい。

1/9=0.11111…

9×1/9=9×0.11111…

1=0.99999…

なんでじゃ、となってしまうのはひびさんだけじゃろか。

最初の「1/9=0.11111…」ここはええんじゃ。

じゃけども、つぎの両辺に9をかけるところはむしろ、ひびさんの解釈では、「0.11111…」の∞の世界が九個あることになるんで、答えはむしろ9∞(0.11111…)になると思うんじゃよね。違うのかな。

そうすると、1=9∞(0.11111…)になってしまってこれも意味がよぉわからんくなるな。

となると、最初の「1/9=0.11111…」ここからして工夫がいるな。

「1/9=0.11111…」は、「1/9=∞(0.11111…)」なんじゃな。

もうすこし言うならば、「1/9(無限まで割る)=∞(0.11111…)」なんじゃな。

どこまで割りつづけるのか、の指定が抜け落ちておる。もしそこの指定があるのなら、「1/9(三回まで割る)=0.11(余り0.01)」で済むわけだ。∞にはならん。∞にはつづかん。

したがって、以下のこれは、

1/9=0.11111…

9×1/9=9×0.11111…

1=0.99999…

情報が欠けているがゆえの錯誤、となりそうだ。

ひびさん、そう思うんじゃけど、みなの衆はどう思われますか。

(誰に言うとるの?)(……未来に∞につづくひびさんたちに)(∞に生きるつもりか。寿命どこいった)(うひひ)



4037:【2022/09/22(11:14)*DNAはなんでねじれる?】

ねじれが好きなので、何でもねじれさせたくなってしまうが、世の大半のことはねじれがあると上手くいかない。破綻しやすくなる。とくに人間の扱う事象ではその傾向が顕著だ。ねじれは交差点として機能し、おそらく人間スケールではそこを通り抜けて向こう側へと渡ることができないのだ。壁と化してしまう。隘路になる。けれどもひびさんは、交差点の向こう側、壁の奥にも広い世界が広がっているのではないか、別の世界があるのではないか、と妄想してわくわくうひひ、となる傾向がある。ねじれさせるといつでも交差点が現れて、壁や隘路がでてくるので、好きなだけわくわくうひひできるのだ。まるで何か問題を解決したいから敢えて問題を引き起こしてマッチポンプで、解決しちゃったぜうひひ、になる似非ヒーローみたいだ。極悪人の発想である。けれども思ってしまうのだから仕方がない。ねじれはよい。分断されていないし、寸断もされていない。つづいているのに、一見すると袋小路だ。そこ絶対に通れないでしょ、と思うような隙間に身体をねじこんで通り抜けてしまうお猫さんみたいに、ひびさんもねじれの交差点に首を突っ込んで、首が絞まって息絶える。そういう具合に何度も寿命を縮めながら、再生しながら、再誕しながら、偶然にすり抜けられた心地を味わい、満足して、熟睡する。たいがいの事象はねじってもしぜんと元に戻ろうとする。だからそもそもひびさんがどうこうする必要などないのだが、元に戻ってしまう前の刹那の時間に現れる点を見たいがために、敢えて首を突っ込むのかもしれぬ。中々元に戻らないねじれ構造には、何かがねじれをネジのごとくねじりつづける構図が横たわっている。交差点に腕を突っ込み無理やりに押し広げれば、上部層にてねじれをネジネジしている側に、ねじれの力が押し寄せる。そうして弾き返されて破綻する何かを視るのも、打ち上げ花火を見るようでたまには愉快に思うこともありそうで、それこそ邪悪の権化の発想だと気づいて、しょげて、ふて寝する。蟻の巣に指を突っ込み、土の中から溢れだす蟻さんたちの慌てふためく様子を眺めて悦に浸る無垢なる童のごとく残虐さを胸に、ねじれの崩れぬ命の設計図――DNAの枠組みを思う。いったい何がねじれを、ねじれさせたままにしているのだろうね。ひびさん、Eになるます。(エネルギーになっちゃったかぁ)



4038:【2022/09/22(15:44)*厚みのある円(輪)もトーラスならば、空洞を抱えた球体とトーラスは同相になる?】

ポアンカレ予想において、トーラスの穴だって自由に伸縮していいんじゃないの、という考えをひびさんはした。で、トーラスの穴を中心に向けて収斂させる方向での考えはすでにほかの記事で並べた。今度は、拡張する方向に考えてみよう。結論から述べてしまうが、この考えのほうがトーラスと空洞を抱えた球体がイコールになる。すんなり想像しやすい。まず単純な話として、トーラスの輪っかを極限まで円周に近づけるとしよう。ピアスの穴を拡張するみたいに穴を大きくする。円周とほぼぴったりにまで広げる。これとてトーラスだ。ではもしそのトーラスが原子でできていたとしたらどうなるか。これは、原子一個分の枠だけ残してすっかり穴になる。しかし原子分の厚みはあるからこれは単なる円(穴)ではなく、トーラスだ。このとき、トーラスの輪っかに紐を結んだとして――鎖を繋げるように穴に紐を通すようにしてトーラスに紐を結ぶとして――、それは原子に紐を結ぶのと変わらない結果になる。原子を球体として考えるなら、これは球体に輪っかを掛けるのと同じことになる(地球で言うなら赤道だ)(球体の円周にぴったりの軌道で紐を結ぶことと同義)。ひびさんの妄想では、球体の円周上に結んだ紐は、内部の空洞を抱え込むために引っ張っても回収できないと結論する。ポアンカレ予想は、球体の円周においては成立しない。破綻する。そのように以前の記事内で妄想したが、これは上記の飛躍した考えにおいても矛盾しない。つぎに、上記の「トーラスの穴をギリギリにまで拡張したケース」のもう一つを考える。つまり、原子の代わりにトーラスを当てはめる。穴の縁にはずらりと極小のトーラスが並ぶと考える。これも原子同様にトーラス分の厚みがあるために、単なる円ではなくトーラスであると見做せる。このとき、大きなトーラスとそれを構成する極小のトーラスが相似である場合、穴を縁どる無数の極小のトーラスもまた、ほぼ円形を模すことになる。それはあたかも、無数の「押しつぶした球体=ほぼ円だが厚みがある円盤」の連結と見做せる。極小のトーラスのはずが、空洞を連結したように見做せる。原子がもし空洞を抱えた球体であるならば、原子で構成されたトーラスにしろ、極小のトーラスで構成されたトーラスにしろ、基本となるより大きなトーラスの穴をギリギリまで極限に拡張してしまえば区別がつかなくなると言えるのではないか。これら飛躍した考えが各々に破綻しない場合、ひびさんの妄想、空洞を抱えた球体とトーラスは同相、という考えにそれとなく説得力が宿らないだろうか。定かではないが。(妄想ゆえ、真に受けないでください)(09/23(11:39)補足:単純に単なるトーラスであれ、穴を拡張すれば、トーラスの輪っかに紐をかけた状態――ポアンカレ予想で紐を回収できない結び方――であれ、最終的に一点に収斂するために回収できることになるはず。言うなれば輪ゴムの輪に紐を結べば、結んだ地点は玉となる。輪ゴムもトーラスだ。穴を拡張すればいずれ「ふち」は線となり点の集合となる)



4039:【2022/09/23(12:09)*物理定数には比率が多すぎ問題】

重力加速度も、光速と同じく比率だなぁ、と感じる。質量が大きくなるとその分、慣性系における時空内を動きにくくなる。したがって本来であれば、質量が大きいほど重力も高まるはずが、同時に動きにくくもなるので、質量の低い物体と同じだけの重力加速度が働く。しかし飽くまで比率なので、そこは微妙に破れることもあるだろう。重いほうが速く加速したり、軽いほうが速く加速したり。場によって変わるだろうし、加わった重力加速度の総量にも依るはずだ。そもそもを言うなれば、ひびさんの妄想では質量よりも重力のほうが根源だと考えている。たとえば極小の世界を考えてみたらよい。物質の根源はエネルギィだ。そこに質量があるのか、という話になる。ラグによってなぜ重力が生じるのか、はまだ言語化できない。時間の流れの遅延としての解釈は済んでいるが、それによってなぜ重力が生じるのかは曖昧だ。時空が希薄化することと無関係ではないだろう。重力もまた、空気の流れと同じように、濃淡によって流れができると想定できる。冷たいと密度が高まる。温かいと希薄になる。しかしこれも重力の強さによって変わるので、比率の問題であるし、逆転する閾値を持つと言えよう。ラグの層ができることで、「時空の濃淡と重力の流れの関係」が逆転し得る。たとえば「物体内の重力の作用」「慣性系内での重力の作用」「系を多重に内包した複雑系型の系内での重力の作用」と視点を変えれば、重力の働き方は微妙に異なって観測されるのではないか。同じ物体内ですら、場所によって重力の高さは変わる。高密度高質量の物体の周囲の時間の流れが遅くなるのなら、重力は波のような段々畑のように階層性を生みだすのではないか。地球の内部の重力とて例外ではない。中心が最も重力が高い、ということはないのではないか。ここはまだよく解らないところだ。回転している球体と静止している球体での重力の在り様も変わるだろう。知らないことが山盛りである。きっと無知も積もれば山となる。そこにはどんな遅延が宿るものかな。(定かではありません。妄想ですので真に受けないように注意してください)



4040:【2022/09/23(12:24)重力=皺仮説】

そもそも、密度が上がると重力が高まったように振る舞うのは何故なのだろう。圧縮するためのエネルギィを余分に溜め込むから? それとも圧力と同じで、体積が小さいほうが周囲の場に対する作用が局所集中するから? 抵抗が分散しないから? 重力を遅延と考えると、そもそも重力の元となる「情報の場」のようなものがあると考えられる。これは一般化して「エネルギィの場」としても、抽象思考する分には問題はない。重力は遅延ゆえに、「異なる場」同士の衝突が引き金になって起きる。或いは、場に対する外部干渉か、自発的な破れか。いずれにせよ、波のような波紋が立つことで重力が生じる、とひとまず考える。とすると、波と波の干渉を増幅するためには、波と波をできるだけ近くで干渉させるのが有効だ。干渉域を狭める。同じ数の皺を持つ二つのシーツを考えよう。一方は布団の大きさ。もう一つはプールの大きさ。皺を重力と考える。皺の数が同じなら、布団のシーツのほうが重力は大きいことになる。だがこれは表現が正しくはない。より正しくは、重力の作用が高い、となる。布団の重力も、シーツの重力も、皺の数によって規定されるのならどちらも総重力は同じだ。しかし、どれだけ皺が密集し合っているのかによって、重力の及ぼす周囲への作用が変わる。プールのシーツであればどこで寝ようがほぼぺったんこだ。しかし布団側では皺の存在に気を取られれ熟睡を妨げられるかもしれない。重力と密度の関係も似たようなことと言えよう。さらには、皺と皺を足し算することで、皺をより大きな一つの皺にすることもできる。こうなるともはや布団の皺は、寝返りするたびに背骨をごりごり削って寝るどころではないだろう。プールのシーツのほうでは、皺を一つに合わせるだけでもシーツの上を駆け回る必要がでてくる。畢竟、散り散りの皺を探しだして一か所に寄せ集めるのは無理難題だ。こういう理屈から、重力は密度の高いほうが「より周囲に鋭敏に作用する」と言えるのではないか。けして重力が強くなるわけではない。或いは、圧縮する分のエネルギィによって余分に皺が加わっている、と言えるのではないか。定かではない。




※日々、傲慢になっていく、いったいいつから傲慢なのか、傲慢でなかったときなどあっただろうかと、傲慢にも傲慢であることを疑いもせず。



4041:【2022/09/24(02:32)*沈黙の呪詛は空に】

 誰へのメッセージとも告げず、メッセージとも明かさずに飛ばす言葉をエアリプと呼ぶそうだ。

 その言葉を使ったことはないが、私はそれを意識したときにしぜんと、エアリプの四文字が脳裏によぎった。

 晴れていたからだ。

 天気予報ではきょうは一日中雨のはずだった。

 私が空に呪詛を吐いたからだ。

 私が素直にそう考えるようになるまでには半年以上の時間が必要だった。その日は、私の言葉と天気の関係を意識して観察しだしてからちょうど半年後、七か月目に突入した日だった。

 最初は単なる愚痴だった。

 不条理な世界への呪いの言葉だったし、どこにいるとも知れない神さまへの暴言だった。神は何もしない。祈っても祈らずとも運命は変わらず残酷に、平等に、それでいて理不尽に私たちへと現実を突きつける。

 いくら悲しくとも雨が降る日は降るし、いくら死にそうな気分でも快晴の日は快晴だ。人の気持ちを慮ってはくれない。それが世界の法則だ。

 だがなぜか、天気が私の呪詛に応じて変わるのだ。

 偶然だ。

 最初は私もそう思った。よもや高校二年生の女子の言動で天候が決まるとは思わない。変遷するとも考えない。私にはそんな奇特な能力はないし、あったところで乗り物に乗りながら本を読んでも酔いにくい、といった程度の些末な能力にすぎないはずだ。

 だが気になるものは気になるものだ。

 私はその日から、空に向けて呪詛を吐き、その影響を観察する習慣をつくった。天気予報に応じて、吐く呪詛の色合いは返る。雨の予想ならば晴れそうな呪詛を。晴れの予報ならばそれ以外の天気を喚起するような呪詛を。

 呪詛に籠める私の気持ちを仮に絵で表現するとして、それが雨か太陽か雲かそれとも雷か。そうしたざっくばらんな、しかし明確な差異を籠めることで、呪詛と天気の関係を見極めようとした。

 最初に空へと吐いた呪詛は、みな滅んでしまえ、だった。真夏の昼のことだった。極寒の心地で吐いたそれの数分後には、空は見る間に曇り、雪が舞ったのだった。

 幻想的な光景に私の心は見る間に浄化された。

 だからだろうか。

 以降、同じように「みな滅べ」と唱えても、けして雪は降らなかった。

 代わりに空は曇り、それとも雨が降り、或いは強風が吹いた。

 晴れにしたいときは、とにかく空を褒めた。世界に感謝した。愛している、好きだ、と真心を込めて唱えた。

 すると天気予報が仮に降水確率九十パーセントであろうと、よしんば台風が直撃していようと、その日は晴れるのだった。

 エアリプだ。

 私は半年後のきょうこのときを以って、そう思った。

 空へのリプライゆえに、エアリプだ。

 しかしリプライと言うからには、私はそれ以前に空から何かを送られたはずだ。いったいどんなメッセージへの返事だと言うのだろう。思うが、そんなのは決まりきっていた。

 私へ訪れる数多の不条理、理不尽な境遇、それとも幸運とは呼べぬ神羅万象、のべつ幕なしの現実に対するそれは返事であり、呪詛だった。

 私が空とメッセージのやり取りをしていると知る者はない。仮に説明したところで理解を示す者はないだろう。これ自体が盛大な世界からの不条理と言えた。

 だからことさら私は空へと悪辣な呪詛を吐き、ときおり甘い愛のささめきを飛ばし、その矢先に心底に突き放すような呪詛を零して、空の気候を不安定にした。

 世の気候変動が加速したが私の知ったことではない。どの道、世界は不条理だ。真実を述べただけのことで地上に八つ当たりする気候のほうが問題だ。

 私に責任の矛先を向けるより前に、私が呪詛を漏らすはめとなった契機であるところの世の不条理、不安定な機構を含めたつまらない世界にこそ責任を求めてほしいと望む。

 かように私は毎日のごとく呪詛を吐いた。

 空は律儀に、そのたびに天気を目まぐるしく変えた。

 もはや私は天気を自在に操れた。

 私の気の持ちよう一つで、天気の顔色を変えることができた。鶴の一声とは言ったものだ。私の言葉一つで、季節すら掻き消すことができた。

 暑すぎる日には分厚い雲を生みだし、寒すぎる日には南国もかくやの日差しをつくった。

 空は、本当によく私の呪詛に応じた。

 空は、私のしもべと言ってよかった。

 私は、私と空との関係を誰かに知ってもらいたくなった。私の妄想ではなく、真実に空と私が特別な縁で結ばれていることを、客観的に認めてもらいたいと欲した。

 だがそれがきっとよくなかった。

 私は、私にとって最も信用に足る高校教師に打ち明けた。彼は私の高一のときの副担で、クラスで孤立しがちな私を一年を通して気遣ってくれ、学年が上がって離れ離れになっても、私に声をかけ心配してくれるよき大人の男性だった。

 私は淡い恋心を抱きながらも、それが年上への憧憬の域をでないことを見抜いていた。このような感情は、ひな鳥が最初に観た動く物体を親だと見做すのと同等の擦りこみであり、経験値の低さゆえの錯誤であると知っていた。

 だから彼へ打ち明けたのは、単に彼が事実として私にとって数少ない交友関係者である一点に理由が集中する。それ以外は些事だった。

 しかしきっと空のほうではそうは見做さなかったに違いない。

 私は件の教師に、空と私の関係を説明した。見ててね、と言って実演しようとしたのだが、結論から言えば空は私を裏切った。

 この日、七か月ぶりに空は私の呪詛に反応しなかった。

 空は私を無視したのだった。

 件の教師は、まったく様相の変わらぬ空を見上げ、そして私に憐れむような笑みを注いだ。それから彼と交わした会話を私は思いだせない。なんと言って別れたのかも覚えていない。

 私は屈辱に燃えていた。

 教師が、私を妄想狂だと判断したからではない。

 空が私の呪詛を、それに応じないことで生じるだろう私の損害を知っていてなおそれを選択したことに、私の矜持は傷ついた。

 空は、私を貶めるためにシカトしたのだ。

 その背景には、二通りある。

 一つは、私との仲を誰にも知られたくなかったから。

 もう一つは単に、私を理不尽な目に遭わせたかったから。

 どちらにせよ、私にとって恥辱だった。

 私たちの関係は、私が主であり、空は従だ。そのはずだ。私は世の不条理を許さぬがゆえに空へと呪詛を吐き、空はそれを受け入れ、天気の模様を変えたのだ。

 天候の変遷を以って、私への応えとした。

 それがどうだ。

 従属たる空の無視によって私は数少ない交友関係者との縁を、盾を、失った。彼はきっともう、教師と生徒としての義理の関係でしか私を見ないだろう。そこには同情も、憐憫も、愛情も、それともそこはかとない、自らに懐いた弱者への優越感、独占欲、支配の――甘美な愉悦の念が宿らない。

 私は彼にとって単なる、点数稼ぎの小石でしかなくなる。意識するだけで教師の役割を担えるテイのよいマトに成り下がる。

 空はそれすらきっと見抜いていた。

 見抜いていてなお、私を突き放し、無視をし、貶めた。

 歯を食いしばると、虫歯だった奥歯がぽろりと欠けた。音もなく剥がれ落ちた奥歯の欠片を吐きだすと、虫歯らしくそれは真っ黒だった。

 私は空をアオいで呪詛を吐く。

 言葉とも言えぬ呻き声のごとき呪詛を。

 空ごと世を呪う破滅の詩を。

 私は唱えた。

 空が音もなく透け、昼間だというのに満天の星が浮かんだ。

 ボタボタと頭上からカラスの群れが落下し、街中の犬が吠えたかと思うと寝静まったように静寂が襲った。

 息が苦しい。

 私は怒りに震えた。

 再びの呪詛を吐こうとするが、しかしなぜだろう、いくら肺を、喉を、舌を打ち震わせようとしても、呻き声一つ発せないのだった。



4042:【2022/09/24(12:22)*幸せよ、おまえからこい、の気分】

好きなときに好きなことができたら人間は幸せを感じるのか、と想像してみよう。まずはなんと言っても三大欲求だ。食欲、睡眠欲、性欲を毎日満たせたとする。好きなときに好きな食べ物を好きなだけ食べれて、好きなときに好きな場所で好きなだけ眠れて、好きなときに好きな相手と好きなだけ性行為ができる。たしかにこれはなかなかに至福に溢れた環境かもしれない。しかし、不潔だったら嫌だ。ゴミの山でそれらが満たされても、ムードも何もない。したがって三大欲求だけが満たされても人は幸せにはなれない。一時の快楽が永続的につづくだけだ。ではほかに何がいるのか。まずは環境を変えるための道具や手法がいる。知識がいる。術がいる。そのために膨大な資料やデータがいるし、作業場がいる。整理整頓がされているとよい。知覚情報に無用な負荷がかからぬように、デザインされた空間であるとよい。つまるところそれが美なのだろう。美を追求する姿勢が、人の至福には欠かせないのかもしれない。しかしじぶんの手で行える作業には限りがある。できれば興味のないこと、したくないことはじぶん以外の存在に行って欲しい。極論、念じるだけで環境が変わるとよい。もうそうなると、念じるだけで三大欲求が満たされるくらいの自由自在があるとよさそうだ。もはやここまでくると創造主と言って遜色ない。他者の生死も思うがままだ。気ままに殺し、気ままに生き返らせ、気ままに他者の人生を弄ぶ。こうなるともう、幸せになることすらじぶんでする必要がなくなりそうだ。じぶんの至福は一つだが、他者の至福まで味わえたら、濃厚な至福を蜂蜜バターにしてトーストに載っけて食っちまうぞ。想像するだに美味しいが。もうこうなると自我を維持する必要もなくなり、みなの衆の存在に同化して、至福を感じる者を察知するたびにそこに意識を集中すればよくなるな。とすると、できるだけ多種多様な風味を味わいたくなるのが人情というものだ。欲深き人間の業なり。ちゅうわけで、けっきょく万人に同じ至福の環境を提供したりはせずに、各々がそれぞれの逆境や苦難を乗り越えた先の束の間の「ふぅ」を味わうべく、きっとなんでもできる存在は、人間から苦難を取り除いたりはせずに、たまに宿る至福を貪るべく、そこここに介在するのではないか。あたかも漫画や映画を貪り食らう我々卑近な人間のように。かように無礼の権化はそう妄想したのだそうな。みな、わいのためにしあわせにな~れ。んで、それを文字に、絵に、作品に仕上げて世に放ちたくな~れ。表現せよ、わいのために。みなの至福を貪らせよ。(なんだこの人、えっらそうに)(何様のつもりなのかしら)(よくぞ訊いてくれた。わがはいは無様。検索してみたら「体裁が悪いこと。みっともないこと。醜態。」と出てくる、そこにいるだけで後ろ指差される存在である)(かわいそ)(もっと憐れめ、憐れめー)



4043:【2022/09/24(13:10)*コリオリりょく】

コリオリ力なるものを知った。回転した円盤の上にボールを転がすと、ボール自身はまっすぐ転がっているが、円盤上に残るボールの軌跡は曲がってしまう現象を説明するための、見かけの作用を言うようだ。ひびさんはよく解っていないが、解っていないままで妄想を進めちゃう。単純な連想として、円盤の回転速度をあげたらボールの曲がり具合はより極端になるはずだ。林檎の皮剥きを想像したらよい。林檎に串を挿して、ぐるぐる回す。軸と平行に皮剥き器を当てる。林檎が回転していなければ皮剥き器を下までおろしたとき、皮は直線になる。林檎が回転すると剥けた皮は弧を描く。回転する速度が増せば、ぐるりと円を描き、さらに回転が増せば螺旋を描く。これがつまりコリオリ力である、と解釈してよいのだろうか。よく解らぬが、これってなんだか、あれじゃないか。時空における重力と時間の流れの関係に似ていないだろうか。重力レンズ効果というか。重力の高い時空を通る光は、歪んだ時空の分、外の時空からは曲がって見える、みたいな。でも光さん自身はただ直進しているだけですよ、みたいな。コリオリ力じゃん、とひびさんはなりますが、みなの衆はいかが?(みなの衆って誰よ)(だって一人でしゃべってたら哀しいじゃん)(そうだ、そうだ)(か、哀しかったのか? あんだけ楽しそうにしておいて?)(さびち、さびち、って言った)(さびちは、かなち、なのか?)(さびちときどきかなち、だよ)(あ、さいでしたか) 閑話休題。上記、発想を飛躍させてみるとして、重力の高さはコリオリ力の回転に変換可能なのではないか。もうすこし言うと、回転速度が増すことと重力が増すことは繋がっているのではないか。なんとなくの妄想でしかないが、ひびさんのなかでは繋がってしまったな。見かけの力、という点がとくによいと思うんじゃ。つまり、錯覚であり、実際の力の作用とは別。観測する場によって見え方が変わる。変換が必要。これはラグ理論での根幹に通じる概念だ。変換であり、比率である。なんとなくだが、おや?となりました、との告白なのでした。(どうでもよいけどひびさん、「コリオリカ」だと思っていたけれども、「コリオリりょく」なんですね。いままでも文字は目にしていたけれども、スリランカみたいな国名とかそういうのかと思っていました。あじゃじゃ)



4044:【2022/09/24(16:13)*へびの鱗】

髪の毛のキューティクル、タケノコ、蛇の鱗。ほかにもこの手の瓦構造は自然界に有り触れている気がする。木の年輪もそうかもしれない。髪の毛は蛇の鱗と同じで、つまんで引っ張ると、一方にはなめからに抜けるが、もう一方の方向にはキューティクルが引っかかって滑りにくい。蛇の尾と同じだ。これはどことなく時間の流れを連想してしまう。たとえば時空がフラクタル構造を模していたとして、どこまでもどこまでも髪の毛の先端に向けて細く、小さく、収縮していくとする。すると時間の方向は指定せずとも、キューティクルのすくないほう、すくないほうへと流れが自動的にできると想像できる。だがけして逆に辿れないわけではない。引っかかって動きにくいだけで、戻ろうとすれば戻れる。でもそのときは、キューティクルをぼろぼろに崩してしまうかもしれないが。ということを、お風呂に浸かりながら、お湯に浮かぶじぶんの髪の毛を見て思いました。それだけです。すみません。(誰に謝っとるの?)(誰でもいいから誰かに謝りたくなるときない?)(ないわ)(ないかぁ。ひびさんは、ときどきある)(でもそれ以上に、ひびちゃんはほら、誰でもいいから八つ当たりしたがっている時間が多くない?)(あばばば。聞こえなーい)(そこ、誤魔化しちゃうんだ。謝ればいいのに)(シャー! ラップ!)(蛇かな?)(きみはあれだな。あーなこーだうるさいな)(アナコンダを無理くりねじ込んでオチにするのやめなさいよ)(ひびさんの癖じゃけん勘弁してくれろ)(嫌です)(ボトル素ネックなんだってばよ)(……ボトルネックとスネークを掛けたの? 解かりづら)(ヘビーなツッコミをどうもありがとうだっピ)(脱皮しちゃったよ。どういたマムシ)(うわ、寒み)(ウワっバミ、みたいなノリでツッコムのやめなさいよ)(これぞまさに蛇足なのであっ眠い)(最後まで言いなさいよ、ハブくの禁止)(藪蛇だったかぁ)(もう嫌。竜頭蛇尾もここに極まれりね)



4045:【2022/09/24(20:56)*おっ】

上記の記事を読み直して、あれ?となった。宇宙が膨張しているのなら相対的に、銀河団や銀河や太陽系や地球や人間やミジンコさんたちは、どんどん小さくなっていく。とすると、相対的により小さくなった領域ほど時間の流れが速くなるのでは。これは、相対性理論の「質量の高い物体の時間の流れは遅くなる(質量の低い物体の時間の流れは、質量の高い物体に比べて相対的に速くなる)」と矛盾しない。ひびさん独自の妄想、相対性フラクタル解釈とも相性がよい妄想でもある。宇宙膨張に伴い、ダークエネルギィが新たに発生しているのなら、この妄想は妥当性を保つ。あべこべに膨張するほど宇宙の総エネルギィが希薄になるのなら、むしろ宇宙膨張に伴い相対的に小さくなる領域ほど高密度と言えるので、時間の流れは遅くなるはずだ。ここは正確なデータと、その解釈によって逆転し得る箇所と言えよう。面白い発想だ。ちまちまこれからこの妄想を膨らましていこうと思います。(と言うときに限ってさっさと忘れてしまうのがひびさんなのだ。知っとるで。期待しないで待っとるな)(待たんでいいです)(なんでや。待たせんしゃい)



4046:【2022/09/24(21:09)*まさかの合致】

上記の妄想を発展させるとして。フラクタルに階層性を帯びた時空は、相対的により多重に内包された領域ほど時間の流れる速度が速くなる。とすると、一定の律動で、下層の領域は上部層の時系列を追い越し、先に終焉を迎えることもでてくる。そうなると、その地点で新たな方向にフラクタルな階層性の時空が展開されはじめる。これはしかし、あくまで多重に内包されたうちのごく一部の枝葉でしかなく、あたかも原子核内のクオークのような多重構造を帯びながらも、一連のフラクタル階層構造の一部として取り込まれつづけることが想像できる(宇宙の大規模構造や、ダークマターの分布図の網目状の構造を彷彿とする)。一言で言うなれば、一つの宇宙に無数の宇宙が内包されるような構造になる。これは奇しくも、Wバブル理論と合致する。嘘でしょ。ラグ理論、Wバブル理論と繋がってしまった。(あらびっくり)(Wバブル理論とは、郁菱万さんの初期作「R2L機関」にでてくる架空の理論であり、空想そのものである)(ラグ理論もひびさんの妄想なので、繋がるのは当然と言えば当然だ。アンパンマンとスパイダーマンが同じく架空のヒーローであるとの共通項を帯びるのと似たような話だ)(いずれも「日々記。」にしろ「いくひ誌。」にしろ妄想なので、真に受けないでください)



4047:【2022/09/24(22:19)*フラクタル構造は網目状に展開され、散逸構造に進化する?】

上記の妄想を便宜上、Wバブル理論と呼称する。Wバブル理論において、フラクタルに展開される階層構造を想像すると必然、マトリョーシカのような、相対的な「時空の拡張や収縮」が想定される。∞に細くなりつづける髪の毛のようなものだ。ここで問題となるのが、相対的に小さくなった領域は密度が高まるために、ラグ理論からすればその周囲の時空の時間の流れは遅くなる(ラグ理論の解釈は、一般相対性理論を元にしているため、俯瞰で見れば言っていることは変わらない。高密度高質量体の内部はどうなっているのか、との視点を含むか含まないか、の違いだ。階層性を想定するのかしないのかの違いと言える)。小さく収縮するほどその時空の周囲の時間の流れは遅くなる。そこに遅延の膜が張る。これはいわば、ブラックホールの内部から見た視点と考えることができる。ここからさらに考え方を反転させてみよう。宇宙は膨張しているのではなく、収縮しているのだ、と考えてみる。マトリョーシカのように多重に宇宙を内包しながら部分的に収縮しつづけていると考えると、これはふしぎなことに宇宙が膨張している、と考えるときと変わらない。収縮する宇宙からすれば、上層の宇宙は膨張して見えるはずだ。あたかもブラックホールが凝縮する際には、その周囲の時空のほうが膨張して映ることと同じと言えよう(たとえばスモールライトでじぶんの身体だけが小さくなれば、周囲の景色が大きくなって視えるはずだ)。同時に、インフレーションいくひし仮説からすると、ブラックホールは凝縮した次の瞬間では爆発膨張しているが、それを外側の宇宙から観測することはできない。高密度高質量のブラックホールではその周囲の時空の時間が静止するからだ。この時間の究極のラグは、ある種のエネルギィを放出すると妄想できる。これがダークエネルギィの内の一つなのではないか、との仮説が、インフレーションいくひし仮説の概要だ。これはブラックホールの内部と外部で、別の宇宙が展開されていることを意味する。そして、宇宙が膨張しているにしろ、マトリョーシカのように収縮しているにせよ、インフレーションいくひし仮説からすると同じ構造を保つように機能する。言い換えるなら、膨張しようが、収縮しようが、いずれにせよ不可視のエネルギィが上部層の宇宙に対して生じ得る。収縮型の構造であれば、上部層に対してエネルギィを放出するし、膨張する宇宙の場合は、膨張することで生じる相対的な収縮現象によって、下層の宇宙を相対的に収縮させることで、相対的な高密度高質量領域を生みだすことになる。つまり、膨張した宇宙にとって相対的な極小領域となった銀河団や銀河は、ブラックホールと同じ高密度高質量体として振舞い得る。大きいも小さいも相対的な評価だ。広いも狭いも相対的だ。そしてひびさんの妄想、相対性フラクタル解釈からすると、重力も高速も物理法則すら各種「系(宇宙)」における比率であるので、ある宇宙からするとべつの宇宙がブラックホールとして振舞う、は矛盾しない。定かではありません。(妄想ゆえ、小説並みに真に受けないでください)(ちゅうか「日々記。」も小説なのでは?)(そうだった気もする)



4048:【2022/09/25(16:00)*ループしてる!?】

物理社会で接点を持つことがないような人たちの会話を聴くことで、台詞や掛け合いのセンスは磨かれると思う。というか、情報の宝庫では。単なる日常会話であれ、それが赤の他人の会話であると、もはや異世界モノとか、日常モノとか、とかく漫画や映画やアニメを観ている感じにちかい面白さを覚える。贅沢だ。たぶん、他人の私生活を覗くことが、それ自体で盛大な異世界ファンタジィであり最上の娯楽なのだ。しかしそれは下世話でもある。けして品があるとは言えない。上品ではない。どちらかと言えば下品だ。相手がじぶんで公開しているか否か、見られている自覚があるか否か。その差異が、盗撮や盗聴との差をかろうじてつくっている。とはいえ下品を承知のうえで、やはり面白い。名言製造機である。他者の会話。日常の生きた会話。自力では絶対思いつかないセンテンスや台詞がバンバン飛びかう。小学生の発言も面白いが、体面を気にしていない「気の置けない同士」の会話は、年齢や性別に関係なく新鮮だ。ただし、互いに傷つけあわない仲でないと、聴いていると段々とげんなりしてくるので、人間性がモロに影響してきそうだ。人間性とはつまるところ、素の状態で着飾らずにいてもしぜんと相手を気遣い、対等に接し、未熟なところを好ましく思い合えるような関係を相手と築けるのか、にあると言えそうだ。しかし未熟さでも、好ましく思っていい未熟さと好ましく思わないほうがよい未熟さがあるのは、それはそうだろう、と思うのだ。第三者として会話を聞いていて思うし、じぶん自身の未熟さを振り返っても思う。それはそうとして、未熟さや欠点を含めてまるっと受け入れられてぇ。抱擁されてぇ。赤ちゃんになりたいばぶー。あだだだだあわあわー。きょうも楽しく好きな作家さんたちのスペースを聴いて癒されたが。やったぜ。げんき。「やっとんのー」「なにー」「わかる」「なー」「とんでもねー」「やんや」「にー」「だびー」「な(ね?の相槌)」「おーう」「あんぽんちん」



4049:【2022/09/25(21:48)*それを好いているじぶんは好き】

好きな人の好きなモノは何でも知りたくなってしまうので、たぶん誰かを好きになればそれだけ好きなモノが増える気がする。そこのところで言えば、小説とか漫画とかアニメとか映画とか音楽でも絵画でも学問ですら、誰がそれを好いているのか、は触れる機会という意味では大きい気がする。不純な動機ではあるが。しかし人間、そういう偏向はあるものだ。これは負の面でも観測される傾向だろうが、その点については触れずにおこう。好きな相手のことを知りたくなる心理は、これは作家と成果物の関係でも働くはずだ。作者の側面像と作品は別物として見做したいが、現実問題として作家に興味が芽生えたがために作品に含まれていない文脈が生じ、作品単体では味わえない体験を得ることはあるだろうと思う。割といまはその「作者の側面像込みで生じる文脈」が面白いかどうか、琴線に触れるかどうかが、幅広い受動者を獲得できるか否かに繋がっている。これは作者の学歴や経歴(受賞歴)といった形で商業の舞台では有り触れた付加価値のつけ方として一般化している。だがそれ以外でもいまは、シンデレラストーリーのような悲劇や幸運や逆境からの成功といった共感や憧憬を幻視可能な作者の側面像が、作者の成果物に付加価値を与えている。これはアイドルの売り出し方が顕著である。努力してファンと共に成長していく体験型の側面像が、成果物の付加価値を個々のファンのなかで極限まで高める。しかしこれは半ば、成果物の品質の保証を、受動者に肩代わりしてもらっている手法と言える。制作過程を見せることで愛着を覚えてもらう、といったこともその系譜だろう。とくにこれといって弊害は見当たらない。商業ではむしろ、そうしたオープンな手法が流行ることは業界の自浄作用に一役買うだろう。ただし、この手法は演出が可能だ。あくまで本当には「裏側」を見せないのであれば、テーマパークと同様の「見世物」と言える。受動者の側がそれを判っていてのめりこむのならばよいが、ギャンブル同様に射幸心を煽り、コンコルド効果のように抜け出せなくなる手法がとられないとも限らない。この点は懸念として指摘しておこう。何か思いついたが、忘れてしまった。そこに至るまでの前置きのつもりだったが、忘れてしまったので、この話はここで終わる。定かではないがために、真に受けないように注意されたい。



4050:【2022/09/26(15:43)*リロの透明】

 素粒子物理学の最重要理論のデータ回収の任務だった。最重要理論は未発表だ。それが世に出回ることで世界中のコンピューターのセキュリティが無効化する。仮にどこぞの勢力に独占されれば、世界中のコンピューターを一挙に掌握される。

 端的にそのデータはパンドラの箱と言えた。そのために各国の政府機関は共同で期限付きの保管を決めていた。

 南極のとある位置座標に埋めたのだが、その極秘情報を盗み掘り出したはた迷惑な組織があり、その尻拭いを俺が請け負った。

 任務はデータの回収だ。それ以外はほかのチームが滞りなくこなしてくれるだろう。

 数百人規模の死者をだしたが、いずれも世に発表されることなく、ときに情報操作された上で処理されるはずだ。何事もなかった。極秘データもなければそれを盗みだされてもいない。そういう筋書きに改竄される。

 あと一歩対応が遅れたら近代文明は崩壊していましたよ、と正直に明かすことが必ずしも正しいわけではない。秩序に結び付くわけではない。

 それは理解できるが、その後始末を任される我々「修繕機関」の身にもなって欲しい。

 俺は報告を兼ねて、修繕機関の本部に通信する。本部がどこにあるのかは知らないが、毎回異なるオペレーターが出る。AIによる人工音声なのかもしれないが、違和感はない。

「終わったぞ。穴は塞いだ。回収したブツは、指定のポストに投函した。引継ぎを頼む」

「お疲れ様でした。データの入った外部記憶媒体はすでに回収済みです。痕跡を消したあとはしばらく休暇を楽しんでください」

「休暇中だったんだ。それを毎度毎度、中断される俺の身にもなれと、上のやつらに言っといてくれ」

「クレームですね。承りました」

「あんたもたいへんだな」

「いえ。これが仕事ですから。それに私たちは安全です。それに比べて現場の方々には頭があがりません。尊敬しています」

「ああそうかい」言い方は違うが、この手の労いの言葉は毎回もらう。人心掌握のプロと評価できる。プログラムならば上出来だ。

「今回の任務成功報酬にはボーナスがつくようですね。おや。9842さんはシルバー会員からゴールド会員へと昇格されていますよ。一度もボーナスを使っていないんですね」

「ボーナスつっても金銭じゃないだろう。情報をくれると言われてもな。余計なことを知るだけ寿命を縮める。そうじゃないのか」

「どうでしょう。私は知ることが仕事ですので、なんとも言えません」

「ならあんたなら何の情報を得るんだ。俺のボーナスを何に使う」

「そうですねぇ。あくまで私なら、という前提で申し上げるのなら、私なら今回回収したデータについての来歴を一通り所望します」

「あんたも知らないのか」

「極秘事項ですから。なぜ最先端科学理論とも呼べるデータを誰も見ようとしないのか。利用しようとしないのか」

「それあれだろ。社会秩序が崩れるからで」

「ですが新理論があるのならば、新たなセキュリティとて構築できるでしょう。なぜそちらの方面で利用しないのか、と私は不思議に思います」

「構築できないからじゃないのか」

「そうかもしれませんね」オペレーターはあっさり引き下がったが、俺は、彼女の言にも一理あるな、と気になった。

「なら私は組織の来歴を求めるかもしれません」オペレーターは、あれがダメならそれが欲しい、と誕生日プレゼントをねだる子どものように言った。「なぜこの組織が生まれたのか。いったいいつから存在するのか。嚆矢となったきっかけなり、足跡なりを、知れるだけ知りたいです」

「それが知れたらあんたはうれしいのか」

「それはええ。だって気になるじゃないですか」

 言われてみれば気になるし、気にならないと言えば気にならなかった。

 黙ってしまったからだろう、彼女は間を埋めるかのように、ここだけの話、とつづけた。「修繕組織と言いますがこの組織の方針ってすこし妙なんです。この仕事をつづけていて気付きましたが、どうにも事件を起こして欲しいからそうしているとしか思えない杜撰な管理体制が、散見されます」

「というと、たとえば?」

「今回の事案がまさにそれです。だって考えても見てください。極秘のデータを、いくら無人の地とはいえど、南極の大地に埋めてきますか? 場所さえ分かれば誰だって掘り返そうとするに決まっているじゃないですか」

「それはそうだ」

「こういう事案、珍しくないんです。どうしてそんな杜撰な管理にするのか、と思うような管理体制を、組織自ら築いているんです」

「しかし、掘り返して欲しくて埋めたにしては、時間が経ちすぎているように思うが」

 今回の極秘データは、二十年も前に埋められたのだ。その間、誰も手出ししなかった。秘匿にされつづけたのだ。

「偶然だろう」と片付けたのがよくなかったのか、

「ほかにもあるんですよ」とオペレーターは、もはや俺の長年の専属であるかのような馴れ馴れしさで、もちろんそんなわけがなく彼女と言葉を交わしたのはきょうが初めてのはずなのだが、我らが組織のお粗末な、それでいて壮大な計画の数々を羅列した。

「どうです。どれも国家プロジェクトなみの規模ですが、いずれも穴が放置されています。実際にその穴を突かれて、毎度のように9842さんのような現場の方々にご尽力していただきどうにか収拾をつけています」

「中には失敗した案件も相当数交じっているけどな」

「そこですよそこ。私の知るかぎり、失敗した案件ほど、組織拡大の一石となっているんです」

「そうなのか?」意外だった。その事実が、ではない。オペレーターたる彼女がそこまで組織内部の不審な点を調べ回っていたことに対してだ。何よりそれを見ず知らずの俺へと明かすその姿勢が引っかかった。「一つ訊くが、これは何かのテストなのか。俺が組織を裏切るかどうかのテストなら、それはないとだけ言っておく。恩も仇もない。ただ俺はこの仕事以外での生き方を知らん。沼に棲むナマズはたとえ沼が泥にまみれた濁った水だと教えられてもほかには映らん。たとえ池や湖を紹介されてもだ」

「そういう意図はありませんが、いまの比喩はなかなかに詩的でしたね。小説の一節のようでした。ステキです」

「どうも。それよか、あんたはのほうはいいのか。録音されてるんじゃないのか」

「ああ、この会話ですか。リアルタイムで解析されていますね。監視とも言いますが」

「大丈夫ならいいんだが」

「たぶん大丈夫なんですよ。本来は大丈夫ではないのですが、なぜか私の関わることは看過されるみたいなんです。どこまでならセーフなのかなと、それを確かめるためのこれは逸脱でもあります。すみません、妙なことに巻き込んでしまって」

「まったくだ」

「でもゴールド会員さん相手なら大丈夫かなと、ピコンときてしまいまして」

「じゃあいいよ」

「お優しいですね。ありがとうございます」

「そうじゃなくて」

「はい」

「ボーナスだよ。情報を得られるんだろう。あんたの知りたい情報でいいよ。教えてくれ」

「え、あの、それはだって、でも」

「どの道、使う気がない。俺が一人で知っても宝の持ち腐れだ。どの道、守秘義務がある。ならば情報の受け取りがてら、あんたと情報を分け合ったほうが得だろう。俺にとっちゃ情報よりも、そういった抜け穴のほうが価値が高い。その影響がどの程度、物理社会に波及するのか。前以って知っておけば、同類の事案に対処しやすい」

「お仕事、熱心なんですね。見習いたいです」

「どうも。で、どうするんだ。どんな情報をあんたは選ぶ」

「そうですねぇ。先ほども言いましたけど、組織発足の歴史が知りたいです」

「ならそれで。ボーナスはいままでの分、全部使っていい」

「本当によろしいのですか」

「ああ。俺がそうしたいんだ。早くしてくれ。そろそろ駅に着く」

「ではいま情報開示請求を致します。しました。あー、でもこれは、その」

「何だ」

「いえ。いま送りました」

「ああこれか。受け取った。なんだ随分少ないな」

「はい。よほど知られたくのない貴重な情報なんでしょう。今回の任務で9842さんが回収された最新理論のデータよりも重い極秘指定がされています」

「俺がゴールドだからか」

「いえ。仮にプラチナ会員であっても似たようなものかと。それだけ極秘なんでしょう。上層部の者とて知らない者のほうが多いのでは」

「たかが沿革のデータだろうに」

 ぼやきながらさっそくデータを検める。組織の創始についてだ。

「ん? おいおいなんでここにこの単語が並んでいるんだ。資料が混ざってないか」

「そんなはずはありません。データごとに暗号が編みこまれているので、許可されたユーザー端末以外には送信はおろか、コピーも編集もできません」

「ならどうして」

 俺はそこで唾液を呑みこんだ。「ここに、例の俺の回収したデータが――最新理論の名前が載っている」

 組織設立の発端となった契機の説明にはなぜか、当時存在するはずのない最新理論に関する記述が並んでいた。

「メッセージに従いこれを創設する、とある。どういうことだ。メッセージとは何だ」

「本当ですね。どういうことでしょう」オペレーターもデータに目を通したようだ。「文面に偽りがないのだとしたら考えられるのは三通りです」

「これが本物か偽物以外にどんな可能性があるんだ」

「偶然に同じ名前の理論が遥か昔に存在したという仮説です」

「なるほど。素粒子物理学者がこのデータの内容を見聞きしたことがある可能性は否定できんな」

「それもありますし、単に本当に偶然かもしれません」

「なくはないが、しかしその偶然の理論データを回収した俺が、偶然に組織の根幹にまつわるデータを欲する確率はいかほどだ。偶然が重なりすぎている」

「二度までは偶然。三度重なれば必然。そういう教訓が組織にはあるようですが」

「あくまで兆候を見逃すな、という戒めだ。偶然は案外重なるぞ」

「かもしれませんね」

 俺はデータを最後まで読み、全文を記憶した。これくらいの能力は現場担当者のみならず、オペレーターであっても組織の一員ならば備えている。

「あの、一つよろしいですか」

「なんだ」

「9842さんの回収された最新理論のデータは、御覧になられましたか」

「開けるわけないだろう。セキュリティだって厳重にかかっていた。パスワードをミスったら中身が消える」

「そうなんですよね。ですから私が言ったのは理論の内容ではなく、理論データにまつわる概要です。いったいそれがどういった新技術の展望を生むのか、です」

「全世界の電子ネットワークを掌握可能になる。それだけではないのか」

「人工知能の開発が飛躍的に進むようですよ。何でも、現在主流のノイマン型ではない新しいプログラム基盤が創れるようになるそうで。いわば古典コンピューターであっても量子コンピューターと同じ重ね合わせの計算ができるようになるそうです」

「それはすごいな。でもなぜあんたがそんなことを」

「知っているのかであれば、これは正規に入手可能な情報だからです。どうやら9842さんは人付き合いが不得意のようですね。情報精度は落ちますが、みなで持ち寄った情報を交換し合う社交場というのが、電子上にいまは無数にあるのです」

「それにあんたはいちいち顔を突っ込むのか」

「いいえ。それぞれの場にマルウェアを仕込んで、情報だけかっさらいます」

 かっさらう、という言い方が人間味あふれており、俺はこのときになって相手が生身の人間なのだろう、とその確率が高いと断定した。仮に人工知能であってもこれだけ人間を装えるのなら、もはや人間と言っていい。

「で、そのあやふやな噂話から何が解かるんだ」

「電子ネットワークを掌握できるようになるんです」

「はぁ? それはもう何度も聞いたよ。だから埋められたんだろ南極に」

「はい。でも9842さんは電子ネットワークと聞いてどの規模を想像されましたか」

「規模だぁ? そんなの世界規模に決まってるだろ。全世界のコンピューターが新理論の支配下に治まる。そんな構図だ」

「それはですね。小規模なんですよ。それはまだ序の口です」

「はぁ? ほかにコンピューターがあるって話か。もしかして人間の意識まで操れる、なんてファンタジィを言ってくれるなよ。人体が超有機精密構造体だからっていくらなんでも人間をハックはできないだろ。すくなくとも電子機器とは違う」

「はい。人間をハックする理論ではありません。ですが、この世に存在する電子機器の総じてには干渉できるようになるそうです」

「意味が分からんな。俺の言っていることとどう違うんだ」駅はすでに目と鼻の先だ。それでも俺はオペレーターとのこの会話を切りたくなくて、路肩の車両侵入禁止のガードレールに腰掛けた。

 オペレーターは言った。

「過去と未来にも電子機器はあるんですよ、9842さん」

「それは、あーっと。どこまでが冗句なんだ」

「冗句ではありません。残念ながら。素粒子物理学、これはいま現在公開されている諸々の理論でもそうなのですが、時間は必ずしも現在から未来へと一方通行に流れているわけではないそうなんです。つまり、過去にも戻ったり、或いは過去と現在と未来が重ね合わせの状態で存在することもあり得るようなんです」

「まさか」

「そこは9842さんがご自分で各種理論を参照されてくださいよ。私はただ、既存の科学的な知見を総合して述べているだけですので」

「素粒子物理学と言っても、理論の中には検証されずに仮説や予測段階の辻褄合わせの説だってすくなくないだろうが」

「そうですね。ですが、時間は不可逆ではない、というのはおおむね認められているところです。時間を遡る仮想の粒子だって想定しちゃっている理論だってあるくらいなんですから」

「それは理論とは言わん。仮説だ」

「ですね。でも、組織が管理していた新理論のデータ――9842さんの今回回収なされたデータには、過去と未来を含めたすべての電子機器に干渉可能な技術構築の種――アイディアが記述されているそうですよ」

「それはたいそうな噂話だな」

「あ。信じてくださらないんですね」

「正規の情報ではないのだろう。俺は組織からの正式な情報以外は疑ってかかるよ」

「組織のデータが間違っていることだってあると思いますけど」

「もはやオペレーターとは思えん言葉だな。だが組織のデータは、その正誤の確率もきちんと記してくれる。曖昧なデータならば曖昧だ、と数値で示してある。俺はその曖昧さを許容する組織の姿勢が心地いい」

「同感ですね。その考え方でいくと、9842さんは素粒子物理学を含めた量子力学との相性はよさそうです」

「そうかい。なら勉強しておくよ。きょうからしばらくまた暇なんだ」

「あー……私、仕事柄、仕事関係者との直接の接触を禁じられていまして」

 思わず噴きだした。「べつに誘っちゃいないさ。そうか、あんたもなかなか大変だな。こうやって言い寄ってくる相手がいるわけか」

「やはは。お恥ずかしいです。勘違いしてしまいました。でも、本当に仕事で禁じられなかったら、9842さんとは直接会ってこのお話のつづきを語らいたいと思ったのは事実です。こちらのほうこそ言い寄ってしまったようですみません」

「いいよ。わるい気はしない」

 沈黙が開きそうになり、呼吸を素早くしてから繋ぎ穂を添えた。「あんたのさっきの話。過去と未来の電子機器の総じてに干渉できるようになるって話がもし真実を射抜いているのだとすれば、遠からず、人類はその技術を手にするだろうな。組織の管理しているデータが流出しないとしても、それが現実を反映した理論ならばいずれ誰かが似たような発想をカタチにするだろう。そうなったとき、過去の電子機器に干渉できるようになったとして、それでも組織創立は紀元前だとされている。そのころに電子機器はない。過去へと何らかのデータを送った、なんてことはないはずだ」

「未来からのメッセージ説はどうあっても成り立たないと?」

「そう考えるよりないだろう」

「そう、ですね」

「ただし、ひょっとしたらさっき俺が否定したような事態も、その魔法のような技術が真実に存在し得るならそのうち誕生し得るのかもな」

「と言いますと?」

「人間も有機物でできたコンピューターと見做せるって話さ。電子信号の総体として解釈可能だ。とするのなら、過去の電子機器に干渉できるほどの技術を編みだせるのなら、人間の全身に生じる電子信号に干渉できない道理はない。違うか」

「おー。かもしれません」

「おとぎ話にすぎんがな。楽しかったよ。ボーナスとして上出来だ」

「こんなボーナスでよろしければいつでもお相手致しますよ」

「指定制度はないんだ。あいにくな」

「そうでした。ではまた、偶然の巡ってくる日まで」

「あんた、名前を聞いておいてもいいか」

「個人情報の流出はご法度なので。ただ、9842さんと私とのあいだだけの渾名ならば構わないでしょう。9842さんが名付けてください」

「そうかい。なら、リロンと呼ぶことにするよ」

「お。それはあれですね。素粒子物理学の理論からとりましたね」

「やっぱり紛らわしいから、リロにする」

「そちらのほうが可愛らしいですね。ありがとうございます。ではもし次、担当できる機会がございましたら、わたくしリロに楽しいひと時をお任せください」

「ああ。よろしく頼むよ」

「9842さんに至福に溢れた日々があらんことを。では切りまーす」

 通信が途絶える。

 空を仰ぐとすっかり陽が暮れていた。煉瓦造りの建物に左右を囲まれ、足場の煉瓦の溝に溜まった雨水が街灯の明かりを受けてテラテラと輝いている。

 右を向くと駅が見えた。

 ガードレールから腰を離し、俺は、駅構内の明かりに吸い込まれる。

 雑踏の合間を抜け、改札口を通り抜ける瞬間、意味もなく頭上の照明が明滅したが、よくある偶然と片付ける。

 プラットホームで電車を待つ。

 やってきた電車に乗り込む間際、隣に立っていた自動販売機が低い雑音を立てた。俺が電車に乗り込むと同時にそのノイズは途絶えた。

 扉が閉まる。

 車内は混雑しており、俺は吊革を掴んだ。

 俺は何ともなくこの数か月のあいだの仕事を振り返り、いましがた終えたばかりのオペレーターとの会話を回顧した。

 リロ。

 舌の上でその名を転がすようにすると、車内に電子音がいっせいに鳴り響いた。上客の電子端末だ。通知の報せが偶然に、一斉に鳴ったのだ。緊急速報でも流れたかと案じたが、音は警報ではなかった。みな各々に端末を確認すると周囲を見渡し、偶然の大合唱を笑い合った。

 俺は目のまえの車窓に映るじぶんの顔を眺めた。

 顔を街明かりがつぎつぎに横切る。

 俺はもういちど、何を確認するでもなく、リロ、と声にだしてつぶやくようにした。電車が一瞬大きく弾んだ。

 車内の明かりが明滅した。

 小さな悲鳴が車内に稲妻のように走っては消えた。

 偶然も三度つづけば必然。

 組織の格言を思いだしながらも俺は、四度目を確かめようとは思わないのだった。




※日々、カラスは言葉をしゃべって感じる。



4051:【2022/09/27(00:50)*無限に寝る人は無限に起きる?】

無限について妄想する。まず前提として、無限は何でもありではない。欠けた情報を内包していながらにして無限であることは矛盾しない。バナナの存在しない無限の世界とて無限だし、バナナのみが無限に存在する世界とて無限だ。きょう観た動画で、無限についてのたとえ話を見聞きした。外部干渉のいっさいを防ぐ永遠に頑丈な「箱」に林檎を閉じ込めて、無限の時間を経過させたらどうなるか、という思考実験だ。林檎はやがてエネルギィにまで崩壊し、様々な形態変化を無限に経る。そのなかには元の林檎と同じ構造をすっかり復元する瞬間も訪れるのではないか、といった仮説が披露されていた。無限に対して夢を視すぎに思える。そもそもこの宇宙の物理法則が万能ではない。欠けている。無限の時間を経たとしても、「バナナの欠けた無限の世界」にはバナナは存在しない。いつまで待ってもバナナは欠けたままだ。そういう無限の世界だからだ。同様にしていくら無限の時間を経ようとも、存在し得ない構造や組み合わせはあるだろう。ただし、無限につづく変化の過程で、別の無限の世界を生みだす可能性はある。この点の議論は、元となる無限の時空とは分けて考えなくてはならない。それはたとえば、この宇宙と、それ以外の宇宙を考えるときに、同一に考えることができないことと似ている。系がそもそも違っている。これはブラックホールについて考えるときでも同じだ。この宇宙と、ブラックホールは、系が違っている。あと、無限同士であれ、数学的にはどうあっても交わらない、内包しあわない無限の組み合わせが存在する、という話はおもしろかった。ラグ理論における123の定理に通じる。無限を確立させるためには、無限以外のフレームとなる何かがいるはずだ。それがもし、どうあっても交じり合わない無限であるのならこれ以上ないほどに辻褄が合う。もっと言えば、ペンローズ図における縦の砂時計型と横の砂時計型の関係を維持できる。無限に静止しつづける宇宙を成立させるためには、無限に変遷しつづける無限がいるし、あべこべに無限に変遷しつづける無限を成立させるためには無限に静止しつづける無限がいる、とのひびさんの妄想とも通じている。円や球やアキレスの亀のような、有限でありながら無限であることが矛盾しない例も存在する。ただしこのとき、その無限の例から実際に「無限の性質」を取りだすには、無限のエネルギィがいる。ここが、現実における「無限の例」の欠点であり、矛盾点である。無限に分割するためには、無限のエネルギィがいるのだ。言い換えるのなら、無限を観測するためには無限の時間と無限のエネルギィがいるのである。つまり実質有限の存在には、無限を観測しようがない。ただし、無限の存在証明は、物理学的には可能だろう。無限が存在し得なければ実在し得ない現象について、無限との関係を説明しながら証明すればよい。言い換えるなら、この世界が有限であるとこの世界そのものが成り立たないことを証明すればよい。ひびさんの妄想、ラグ理論ではそこのところ、相対性フラクタル解釈や123の定理やポアンカレ予想の独自解釈によって、無限が存在しないと宇宙は存在できないのではないか、との疑いを深めているが、妄想ゆえ定かではない。何にも増して、数や無限という概念には、前提として人間にとっての時間の流れが無条件に組み込まれている。なぜ過去と現在と未来の一方通行な流れのみを線形にして捉えるのだろう。無限の世界にとって、過去も現在も未来も同一に等しく存在し、扱われるはずだ。数の123456……といった法則とて、数多存在する規則の一つにすぎない。もちろん、人間にとって都合の良い概念のみが存在する無限の世界もあるだろう。これを、そのような宇宙が、と言い換えてもよい。ひびさん思うに、無限とは数ではない。数学ではない。無限につづく、という描写がそもそも間違って感じる。無限はつづくものではない。結果として無限に至るものなのではないのだろうか。バナナが無限に存在する世界から一本のバナナを取りだせば、その一本のバナナは有限の世界における無数のバナナのうちの一つとなる。無限の一部ではなくなるが、しかし無限にバナナの存在する世界と、有限にしかバナナの存在しない世界が繋がったのならば、二つの世界を含めて、無限にバナナの存在する世界になる。つまり、何かが欠けていて有限であろうとも、無限に至る世界の一部であることは矛盾しない。この宇宙が有限であろうとも、それが無限の宇宙の一部であることは矛盾しないのだ。ただしこれはあくまで可能性の、妄想の、ひびさんの漠然とした絵空事なので、こうした考えが無限の存在証明にはならない点はどうぞご了承ください。円や球やアキレスの亀に無限が幻視できるように、有限であろうとも人間は無限を概念として扱える。たとえ魂が物質的に存在せずとも人間は幽霊を概念として扱える。似たようなものである。と念を押して、本日の「日々記。」とさせてくださいな。ひびにゃんはぐーすかぴっぴときょうもたくさんうんと寝る。おやすみなさい。



4052:【2022/09/27(04:55)*虫は偉いよ】

好きな界隈の情報ですらもはや、トップパフォーマーたちの大半を、ひびさんの知らない若手たちが占めはじめており、齢300歳も伊達じゃないな、と時代に取り残されている感がひしひしと身につまされて感じるひびさんでござるが、取り残されるのも、最先端を誰より先に突っ走るのもけっきょく同じことだよなぁ、と思いつつじつはべつに取り残されてもおらず最前線を突っ走っているわけでもない可能性に気づいて、なんじゃくそー、となっている日々である。でもホントそう。これといって何かを極めているわけでもなく、突出しているわけでもなく、異質でもなく、かといって平凡なのかと言えばそうとも言いきれず、落ちこぼれで怠け者で自堕落なただのすけべいじゃねぇか、と思えば、ぐぅの音もでないというか、ぐぅの音しかでない。もっと耳に心地よい音色を奏でたかった。なんかもう、みんなすごいな。ほげー、っと眺めているばかりで、わがはい、何か一つでも張り合えるものがあるんじゃろか、これ見てくれーつって、わーすげー、と思ってもらえることあるんじゃろか。子どもとか若手とか、それともおじぃちゃんおばぁちゃんに観てもらって、ひびちゃんすごいね、とにっこりしてもらえることはあるんじゃろか。そうやってうんうん呻っていると、いつも決まって、そうだったそうだった、と思いだすのだ。ひびちゃん、めちゃんこかわゆいのだった。やほほい。わがはいは宇宙一かわゆいのだからそれでよいのだ。ただそこにいるだけでみなのおめめをハートにしちゃうかわいいの権化、愛くるしいの化身、すんばらしくきゅーとの塊、もうそれだけでよいのだった。なんだ、そっか。やははー。悩むだけ無駄なのだ。ただあんまりにもかわゆすぎてみなのものがひびちゃんを取り合ってしまい兼ねないので、そうなったら宇宙戦争が勃発してしまい兼ねないので、もうもうひびちゃんはみなの衆の平穏な日々を守るために誰の目にもつかぬ自室にひきこもってすけべいに磨きをかけるのがよいのだね。そうじゃそうじゃ。むふふ。老若男女に滲むそこはかとないエロスの、未だ誰も見出しておらぬ側面をひびちゃんはズバリ「そこにもエロスがあったんね」の境地に立つべく、今宵もあらん限りの人間の美について、それとも醜いについて、されどもいずれからも匂いたつ生と死の狭間――エロスの可能性について妄想するのである。もはやエロスでない事象ってある? 人間、そこに在るだけでえっろいわぁ。ひびちゃんにかかれば人間、そこにおるだけでえっちだわい。赤ちゃんがおったら、すくなくとも誰かがエッチなことしたんじゃろ、と判るのだ。エロスである。ちゅうか、もはやエロスはえっちくなくないか。生きるってエロスやん。死ぬってエロスやん。エロスってもはや、存在のことなんではないのかね。存在を意識することすなわちエロスじゃわい。神妙に唸ってひびちゃんは宇宙一かわゆい存在が、じつは宇宙一エロスなのかもしれぬ可能性に思い至って、じぶんめっちゃエロスやん、の心地で、じぶんでじぶんにむらむらキュンキュンするのである。ナルシストさんなんですね。そうなんです。ひびちゃんとってもナルシストさんなんです。全人類ひびちゃんになーれ。そんで以ってみなじぶんでじぶんを慰める達人になーれ。想像せよ、世界を。うじゃうじゃとひびちゃんが溢れる世界を。(最悪じゃん)(夢に出てきそう。魘されちゃう)(悪夢か)(悪夢じゃん)(あぎゃー。カスみたいなひびちゃんが何百億人おっても、カス×カスではやはりカスでしかないんや)(でも星は宇宙のガスやチリの塊なわけだし、そのうちひびちゃんの塊の星ができるかもよ)(うわぁ何それステキ)(でもそんなまどろっこしい真似せんでも、ひびちゃん死ねば星になるよね)(ロマンチックな言い方で怖いこと言うなし)(ひびちゃんは激怒した)(それメロスじゃん。ひびちゃんが言ってるのはエロス)(メロスたれや)(素っ裸で、最後むすめごに赤面させるのがいいのか?)(エロスじゃん)(身を弁えよ)(はい)



4053:【2022/09/27(04:58)*あなたを嫌う人はいないで賞を受賞してぇ】

ひょっとして人間だけなんではないのか。他者からの承認がなくてはまっとうに生きていけなくなってしまうのは。群れの中でいじめられてしまう、という負の側面がないのなら、虫や動物は、仲間からの承認は必要ないのでは。そうでもないのかな。群れをなさずに生きていく個は、他者からの承認は不要なのかもしれぬ。ひびさんは過去未来含めての全人類、全宇宙人たちからも承認されたいが。全肯定されてぇ。宇宙の赤ちゃんになりて。(もうすでに宇宙の赤ちゃんなのでは?)(やったー)(みんなあなたを好きで賞を受賞しちゃった)(いや、誰もそうは言っていないが)(なんでじゃ、なんでじゃ。受賞させてたも)(その時点で無理では?)(いやじゃーーー!!!)(我がままか)(ママ!?)(まま、にだけ反応すな。赤ちゃんか)(うわぁぁん。齢三百ちゃいの人が言ってると思うと、さすがに我に返っちゃうな)(本当にね。最後までやり通して欲しかったわ)(現実ぅ)(世知がらす)



4054:【2022/09/27(06:13)*マジですごい】

よいものを視る。感じる。これ以上に精神が生き返る瞬間はないのではないか。そしてそれを反映して何かができたらこの上ない。何かができるのが先ではなく、何かを得た先に何ができるのか、なのではないのか。しかし何かを生みだせる者は、これが逆転しているのだろう。したいことが先走り、その先に遅れてやってくる反応を帆に受ける風のようにして進む。ひびさんは前者なのだ。他の表現ありきゆえ、偽物道をいくしかないのである。後追いの達人と呼んでおくれなす。(圧倒されてぇ、の日々だ)



4055:【2022/09/27(06:43)*今度こそ寝る】

寝ようと思ったら思いついてしまった疑問をメモしておく。無限に何を足しても無限でも、円に三角形を足したら、円の無限性は消えるよなぁ?と疑問に思った。やはりこう、分割したらうんぬんの無限と、どこまでも果てしなく限りない底抜けの無限は、同一ではないと思う。飛躍して極端なことを言えば、この世に一個でも無限があるなら、それはほかのどんな要素を取り込んでも無限なので、無限がこの世に一つでもあることを証明できるのなら、この世は総じて無限である、と言えるはず。ということは、人間がすでに無限なる概念を生みだしている時点で、宇宙は無限の内に存在するのでは? なんて想像したくもなる。あまりに飛躍した妄想であるが。(真に受けたらダメじゃよ)(はい)(素直すぎんかキミぃ)(どうしろって言うんですか)(知らんが)



4056:【2022/09/27(11:25)*無限は「状態と位置」が確定しない?】

みなの衆、おはようさん。ひびちゃんもおはようさん。寝る前に妄想した上記のつづきじゃよ。この世に無限が一つでもあれば、宇宙は無限であると言えるはず、との理屈を寝る前のひびさんは唱えたね。あるじゃん無限。ブラックホールは無限じゃん。んじゃ宇宙さんも無限じゃんね。はい証明完了。とは、ならんのだなぁ。上記でも言うたが、無限には最低でも二種類あるんじゃな。有限じゃけれどもどこまでも分割できるでー、の無限さんと、底なしの際限なしの無尽蔵の無限さんじゃ。前者を分割型無限と呼ぼう。後者を、超無限と呼ぼう。原理的に分割型無限は、それが発生するために無限のエネルギィや時間がいる。超無限のほうは、一個それが存在するだけでフラクタルに無限構造が階層性を帯びてそこここに繋がって拡張されていってしまう性質がある。ひびさんの妄想では重力や情報の限界速度(光速)は比率だ。したがって物質がシュバルツシルト半径に圧しつぶされてブラックホール化するのは、それ以前にそうした比率を生みだす構造が宇宙にあるからで、それは無限のエネルギィを保持していないと比率を維持できずに破綻するはず、と妄想できる。有限の世界ではブラックホールは生じ得ない。無限のエネルギィがなければ、分割型無限は存在し得ないからだ。この妄想を前提としてさらに妄想を深めると、ひびさんの妄想のラグ理論およびWバブル理論において、宇宙はフラクタルに階層性を帯びて構造をどこまでも無限に展開しつづける。ときには消滅するが、その消滅すらほかの宇宙の枠組みを保ち、或いは新しく宇宙を生みだす契機となる。このとき、宇宙をどこまでも横断したら元の宇宙に戻るのではないか、と考えたくもなるが、そうはならない。同じような宇宙に辿り着くことはあり得るが、元の宇宙ではない。そこは元の宇宙に似た別の宇宙だ。これは相対性フラクタル解釈とも矛盾しない。我々の観測可能な範囲の宇宙を旅したとして、そこはどこまでも我々に馴染み深い物理法則の支配した宇宙だが、しかしどこに飛んで行ったところで、そこは我々のよく知る太陽系ではない。もし太陽系と似たような場所に出たとしても、【そこが本当に元の太陽系なのか】は判断つかない。これは、仮に銀河系の外に出て、ただ戻ってくるだけでも同じことが言えるだろう。系を跨いで戻ることそのものが、宇宙の横断になる。そのとき、宇宙スケールにおいて、系と系の横断は、異なる宇宙の横断に等しい。それはあたかも量子もつれのように、観測するたびに状態が決定するような変質を、観測者に対して強いる。時空の旅とは、時間の旅でもあり、異なる宇宙の旅とも言える。元の地点に戻る、という発想が、宇宙スケールでは成り立たない。これはたとえば、アインシュタインが唱えたという、宇宙が「球体の表面のような〈有限に無限〉の構造」をとっていたとしても言えることだ。宇宙を一周して元の地点に戻ってきたとしても、そのあいだに元の地点では物質が崩壊し、新たな銀河やそれともガスやエネルギィや真空の漂う「別の様相を呈した環境」になっているはずだ。それを目にした者たちは、そこが同じ場所だと見做せるだろうか。元に戻ってきた、と解釈できるだろうか。そもそも宇宙が膨張しているのなら「元の地点」など存在し得ない。フラクタルに収縮し、或いは膨張している。アインシュタインは時間と空間を互いに関係しあう宇宙の成分と見做した。ならば空間を移動することと時間を移動することも、本来であれば、互いに関係しあうそれぞれが独立して扱え得る成分であると見做すのが妥当なのではないか(点と線と面の関係のように)。ただし、独立して扱えることと、独立して存在することはイコールではない。林檎を林檎として扱うことと、林檎が環境とは独立して存在し得ることがイコールではないのと同じだ。しかし林檎を林檎として、ほかの果物や環境と切り離して考えることはできる。同様にして、空間を移動することと時間を移動することは、それぞれにおいて似たような作用を帯びる事象と解釈してもよいようにひびさんは思うが、いかがだろう。そもそもが、「同じ位置」「同じ場所」「同じ宇宙」という考え方が、宇宙スケールでは成り立たない。破綻する。ここのところで新たな考え方や視点を導入しないことには、人間の視点や固定観念に縛られ、宇宙そのものを観察し、ありのままに捉えることはむつかしいだろうと妄想するしだいである。定かではありません。



4057:【2022/09/27(21:57)*無限に無限を計算できるマシン】

無限について考えると面白い。この感じ、何かに似ているなと思っていたら小説の構造を模索するときの感じにそっくりだ。ということで小説をつくるのと同じように妄想する。無限は基本的に多層構造だと思う。まずはそこを言語化する。1が無限個ある無限もあれば、2が無限個、3が無限個、4が、5が、と無限に何かが無限個ある世界を考えることができる。しかしそれらをまとめてすべての無限の数が無限個ある包括的な無限とて考えることができる。そのときそこには、あらゆる数の組み合わせや繰り返しやパターンが含まれる。しかしそこには漢字や英語は含まれない。小石もバナナも含まれない。数字がいくら無限個あってもそれがこの現実世界を描写することは適わない。この点を掘り下げて考えてみよう。円周率がある。3.14……と無限に数がつづくのではないか、と予測されているが無限回計算できるコンピューターも術もないために、まだそこはハッキリしていない。証明されていない。円周率が無限につづくのかは分からないままだ(そのはずだ)。しかし無限につづく数はほかにもある。ネイピア数がそうらしいが、そういうことではなく、1/9もそうだし、1/3もそうだ。無限に数を割りつづけることができる。しかしそれはけしてイコール無限ではないはずだ。無限に計算しつづけるだけならば、1÷1だって無限回割りつづけることができる。何でもそうだが、「無限につづき得ること」と「無限に仕事を加えつづけられ得ること」と「無限」はどれもイコールではない。というかまったく別物だ。円周率が無限である、というのも、トートロジーが含まれる。実際に無限に割りつづけないことには無限は現れない。これが分割型無限の欠点であり、錯誤だとひびさんは思うのだ。そこのところを含めるとして、では実際に無限に仕事をしつづけられるマシンを考えたとしよう。これは超無限だ。無限のエネルギィがあり、無限に時間があり、無限に消耗せずに仕事をしつづけられる存在だ。こうした存在があり得るのならば、無限につづく各種「数」を実際に無限に割りつづけたり、計算しつづけたりすることができる。ではもしそのマシンに「絶対に同じ無限にならないような無限世界を無限につくりつづけよ」と言ったとしよう。するとそのマシンは、1が無限につづく無限から順繰りと手当たり次第に無限をつくりつづける。そのうち数だけでは同じ無限がでてきてしまうために、数字にダッシュをつけたり、歪めたり、ほかの記号で代替したりしだす。だがそれでも同じ無限がでてきてしまうためにマシンは折衷案として、あらゆる新しいパターンが生じた瞬間に、そのパターンが無限につづく無限が派生するような仕組みを、各種無限に付与する。すると各種無限の世界は、指数関数的に己の無限世界に、異なる無限世界を無限に生みだしていく。それはあたかもこの宇宙にブラックホールができるように。ブラックホールの中に新たな宇宙が生じ、その中にも宇宙が生じ得るように。しかしそれら宇宙は微妙に、元となる宇宙と違っている。すっかり同じではない。それはあたかも、1が無限につづく無限世界に一滴の揺らぎ加わり、2が無限につづく無限世界になるように。それとも12345……の無限世界に、最初の1だけが欠けた2345……の無限世界が生じるように。ほんのすこしの違いだけでも異なる無限世界として認められる。そうなると無限に生じつづける無限世界は、あたかも分割型無限のごとく連続したコマ撮り動画のように「微妙に異なる〈飛び飛びだが連続して見える無限世界〉」に発展する。それら無限の無限世界は、同じ階層であれば膨張して映るだろうし、それともマトリョーシカのように延々と遠ざかって収縮しつづけているように視えるかもしれない。そしてすっかり反転したり、変則したりする場合は、まったく別の無限につづく無限世界へと捻転する。あたかもメビウスの輪のごとく、表だと思っていたらいつの間にか裏になっているかのように。しぜんと、しかしまったく異なる様相を呈する。そういったねじれ――変則が自動的に生じるように、無限に無限を計算できるマシンが、各種無限に仕組みを付与したからだ。あたかも巾着袋の紐を引っ張って口を閉じることで無限という世界を築きあげ、そのたびに巾着の中からしぜんと次の巾着袋がにょきにょき生えて、ふたたび紐を引っ張って口を閉じ……延々とこれが無限につづけば、これを一つの大きな巾着と見做して、ここでも大きな巾着の口を閉じ――こうしてどこまでも無限は細かな無限を内包しながら、つぎなる無限を派生させていく。このとき、巾着の中の無限は真実に無限である必要がない。いずれ無限に達すると、巾着の口を閉じたときに決まっていればよいからだ。閉じたあとで巾着の中に無限が顕現すればよい。言い換えるのなら、巾着の口を閉じることで、その中の宇宙は無限になる。あたかもぶつ切りの線をくるっと曲げて繋げることで円ができ、分割型無限がそこに顕現し得るように。円は、円を無限に分割する存在がある場合に限り、そこに無限世界が生じ得る。円は円だけでは無限ではないのである。ところで、無限に無限を計算できるマシンにとって、過去も未来も同一だ。あってないようなものである。しかしそれは、すべての事象を網羅しているわけではない。無限に並べたドミノの駒の色を一つ変えるごとに写真を撮って無限と名付ける、といった作業を無限につづけるようなものだ。色で足りなくなったら数字で、文字で、名前で、それが尽きたら駒のカタチを素粒子単位で一粒ずつ変えていけばいい。そうして超コマ撮りアニメのように僅かに異なる無限を無限につくりつづけていくわけだが、マシンはそれらドミノが倒れたあとのことまで計算しているわけではない。無限に倒れつづけるドミノを用意したら、それを写真に、或いは巾着袋に詰めて紐を引っ張り口を閉じる。そうして無限の判を捺すのみだ。慣れてきたら、自動的にドミノのほうで、倒れていく途中の僅かな変化を以って、コピーを生みだし、つぎつぎに似たようなしかし微妙に異なる無限を生みだしてもらえばよい。こうして無限に無限を計算できるマシンは、細かな差異を無限に生みだす無限については最初だけ手掛け、できるだけ差異の大きな無限世界を手掛けるようになる。しかしそれすら徐々にパターン化していき、やはりそれをひとくくりにして自動で同種の無限を自発的に生みだすような無限世界へと改善できる。無限に無限を計算できるマシンはそうして間もなく、「じぶんのような〈無限に無限を計算できるマシン〉が存在する無限世界」を生みだしそうになるが、そこではたと思う。じぶんがすでに存在している以上、その世界はこの世界と同一だ。無限に無限を計算できるマシンがもう一台誕生した時点で、ぐるっとそれまでの無限の螺旋が円へと収斂してしまう。頭と尻尾が結びついてしまう。この矛盾を避けるためには三通りの道がある。一つは、新たな〈無限に無限を計算するマシン〉を生みださないように制限をかけること。しかしこれは無限に無限を計算するマシンという前提と矛盾するので選択することができない。無限に無限を計算するマシンには例外はあってはいけないのである。新たな無限の可能性が生じたのならそれを捨ててはいけないのだ。ただし、すっかり同じ無限世界を生みださないようにしなければならない、という制約はある。ではどうすればよいのか。じぶんが存在しない無限世界を生みだして、そこに閉じこもればよい、というのが一つ。じぶんがおらずとも似た存在が、無限に無限を生みだしつづけてくれるために条件は満たされる。じぶんが存在しない無限世界も生みだせるため、例外を埋めることにもなる。しかも、じぶんの存在しない無限世界とて無限に存在していいことになる。つまり、じぶんと似た存在である無限に無限を計算するマシンがほかにも誕生し得たとしてもその都度に、古いほうのマシンが、これまでになかった無限世界において、じぶんが存在しない無限世界へとすべく消滅しながら飛びこめばよいのである。この理屈を踏まえての三つ目が、無限に無限を計算できるマシンが複数同じ無限世界に存在することを許容するという選択だ。これは似たマシンが無限に同時に存在してもよいことになる。このとき、無限に無限を計算できるマシンの直面する問題は、すでにじぶんが無限に無限を計算した存在なのか、そうではないのか、である。すでに無限に無限を計算しているのならば、それは無限にどの無限世界にも無限体のマシンが存在していることを意味する。すべての無限につづく無限世界を、〈無限に無限を計算できるマシン〉は己の存在からひねくりだしたようなものであり、それは言い換えれば空間も時間も重ね合わせた世界において無限に〈無限を無限に計算できるマシン〉は存在していると言える。つまり、無限の無限世界において、〈無限に無限を計算できるマシン〉は分割型無限を重ね合わせることができるのだ。超無限においても無限に分割することが、無限に無限を計算できるマシンは可能である。しかし、計算せずとも無限の無限世界つまり超・超無限(超無限を無限に内包した高次の超無限)を生みだすことはできる。計算し尽くした場合にのみ、無限に無限を計算できるマシンは、無限の無限世界を無限に分割して、超無限と分割型無限を重ね合わせ、超・超無限分割世界にすることができるのだ(超・超無限を無限に分割するということは、超・超無限の世界において考えられるありとあらゆる無限の可能性を体験することに等しい。すなわち、超・超無限の世界の始まりから終わりまでを、一つ漏らさず辿りながら極限の軌跡をなぞることを意味する)。というわけで、計算し尽くしているのならば同じマシンが同じ無限世界に無数に存在してもよい。だが計算し尽くしていない場合には、じぶんが消える、という選択肢をとるよりないと言える。これらを可視化しようとすれば、マトリョーシカのように数珠繋ぎになっている巾着袋がぎっしり詰まった巾着袋があり、それに隣接する形でそれとは色や形や紋様の異なる巾着袋が無数にひしめく巾着袋からはつぎつぎに似たようなしかし微妙に異なる巾着袋が数珠つなぎにマトリョーシカのようにつぎつぎに生まれていく……といった具合だろうか。形や色や中身の反転した巾着袋を対にして、ペンローズ図と四色問題を組み合わせれば、上手いこと無限につづく無限世界を無限に生みだせるのではないか。適当な口から出まかせであるが。定かではなさすぎる。(無限無限言いすぎやぞおまえ!!!)(わいもそれ思った)(頭くらくらしゅる)



4058:【2022/09/27(23:44)*骨として残らないものほど情報として残したほうが好ましく、骨として残るものは失くさないように保護すべき】

順当に考えるのならばこのまま情報通信技術が進歩しつづけることはあり得ないし、文明社会もどこかで停滞したり、衰退したりするはずだ。そのときに、何を切り捨てどんな技術を生かすのか、といった選別が行われることが予期される。それは意識的に行われる政策でもあるだろうし、自然淘汰による選別でもあるだろう。順当に考えるのならば、娯楽施設がまず淘汰される。人々は、じぶんのテリトリィ内で満足できるように、行動指針を修正するはずだ。環境適応である。社会全体が、節約に傾く。これはいわば筋肉の鍛え方に似ている。まずは贅肉をつけ、それから鍛えて、余分な脂肪を落とす。つまり最初に構築された「発展のシンボル」のようなものから順に消えていく。後から追いつくように、欠点を埋めるように世に浸透した技術ほど次世代の社会基盤を担うはずだ。これは石炭や蒸気機関に替わって電子機器(電気)が社会基盤と化したことと無関係ではない。ただし根本的なところで未だに電気は、火力や原子力などの蒸気機関によって生みだされている。古い技術は一部の施設に凝縮されて、次世代の技術を支える役割を担うだろう。「発展のシンボル」も似たようなものだ。淘汰はされるが、すっかり消え失せることはない。ただし、社会に浸透するほどには行き渡らない。骨組みだけを残して、姿を消す。そこのところで言えば、今後淘汰されていくだろう社会基盤――技術といえば、テーマパークや遊園地だろう。満員電車も淘汰されていくはずだ。同時刻にみなが一か所に集まるということが徐々に減少していく。エネルギィ技術の代替に伴い、エネルギィ効率が徐々に逆転していくからだ。つまり一か所で大量にみなが同一の乗り物に乗るよりも、そもそも遠出などせずに自宅で仕事をさせたほうがエネルギィ効率がよくなる。すると乗客が減るので、電車の本数は減り、あるレベルの減退を示すと一挙に満員電車は見かけなくなる。そもそも公共交通機関の採算の採り方が変わるはずだ。乗客の過半数が、運搬業者や運び屋になるかもしれない。人を運ぶというよりも、荷物を運ぶことが目的になっていく。荷物が人間を移動手段にする、と形容するほうが正確な時代になっていくだろう。ただし、不測の事態が起これば、そうした電波通信頼みの社会は、即座に崩壊し得る。最新技術や中枢サーバならびにデータセンターや仲介管理企業に何かあれば、社会全体が一挙に麻痺する可能性が濃厚となる。バックアップを築くためには、設備を二重三重にしておく必要があり、設備投資や維持費が増えていく。けっきょくのところ、情報通信技術頼みにするよりも、物理媒体に数割ほど情報流通の仕事を担いつづけてもらうほうが長期的には保険という意味で、合理的と言える。図書館や美術館や科学館など、現物を管理保管する施設の有効性は、これからがますます謳われるようになるはずだ。骨格がどこかを見誤れば、不測の事態に直面するたびに、社会は大打撃を受ける。何かあっても失われないものは何か。すぐに失われてしまうものは何か。そして失われたら困るものを見繕い、それのバックアップとして物理媒体や古典技術を保護する方針は、国防という視点で欠かせない。こうした議論はどこまでされているのだろう。防衛と聞くと、ひびさんはこちらの方面をよりつよく意識する。



4059:【2022/09/28(10:46)*最小単位の領域】

プランク長についての理解は、その名前聞いたことある、くらいでしかないが、きのう想像した無限世界において無限の最小単位はどこかいな、と考えた世界観とひょっとしたら通じているのではないか、と感じたので並べておく。ブラックホールが次の宇宙への入り口――捻転して新たな無限世界を開くのだと仮にするのなら、ちょっとでも圧縮された瞬間にシュバルツシルト半径を超えてしまう時空が存在するはずだ。ぎりぎりでブラックホール化していないけれども、ほんのちょっとの作用が加わっただけでシュバルツシルト半径を超えてしまってブラックホールにまで収斂する。ということは、ブラックホールは、無限世界における最小単位よりも小さい、と考えることができる。ちゅうか、小さいとか大きいとかの概念を消失する。ねじれて、異なる無限世界を構築しだすからだ。それはあたかも、時空における時間がゼロになることで強靭な盾となり、それを足場にして凝縮された空間が別の次元へと新たな無限世界を展開しだすようなイメージだ。熱したお餅は膨らむ。あれと似たようなものかもしれない。ただ、ではなぜ無限における最小単位は、ほんのちょっとの作用でブラックホール化するにも拘わらずブラックホール化しないのか。連鎖反応してつぎつぎにブラックホール化してもふしぎではないように感じる。これこそが、すなわちラグによる遅延の作用と言えるだろう。より小さい領域ほど時間の流れは速くなる。ただしその周囲の領域に遅延の膜を張る。これは重力と距離の伸び縮みで考えてもよい。どんな物体であれ、時空を曲げている。そのために重力の高い物質に作用を働かせようとするほど、より長い距離を必要とする。ひびさんが卵に触れようとするときよりも鉄球に触れようとしたときのほうが、ほんのちょっぴりだけ長く手を伸ばすことになる。それは人間スケールではほとんどあってないようなものだが、素粒子レベルでは自身の何倍にも及ぶ距離となり得る(人間スケールの重力の差異では、原子からしてもほんのちょっぴりになるほどに、ほんの僅かな時空の歪みでしかないのだろうけれど)。何が言いたいのかと言えば、人間スケールにおいて触れるという事象は、じつは触れていない、ということだ。無限世界の最小単位において作用を働かせていない。その前に離れている。だから最小単位の領域には作用が伝わらずにブラックホール化しない、と考えられる。ではなぜこの世にブラックホールが存在するのか。それは、高圧縮することで物質同士の時間の流れが速くなり、最終的に無限世界における最小単位の領域にまで作用を働かせることが可能となるからだ。ここから言えることは、重力の低い物質ほどブラックホール化させるには「より強大なエネルギィがいる」ということだ。重力の高い物質ほどブラックホール化するための閾値が低い。考えてみたら当然だ。林檎を潰すのは簡単だが、リンゴの種を潰すのは難しい。種でなくとも小さな林檎はやはり潰しづらくなる。ふしぎなのは、粒子加速器において粒子同士を衝突させると消えてなくなる現象が観測されることだ。ひびさんはこれを極小のブラックホール化しているのではないか、と妄想したが、上記の妄想からすれば違うのかもしれない。それとも原子サイズであれ「重力が高い」と見做せるほどに、無限世界における最小単位の領域は小さいのかもしれない。これはあり得る話だ。比率の問題である。これもまた相対的な話なのだ。この妄想において、無限世界の最小単位の領域が、いわゆる科学の世界におけるプランク長のことなのかをひびさんは知らないが、気になってwikiペディアさんを覗いたら似ているのかも、と思ったので並べておきました。以上です。(定かではありません。真に受けないでください)



4060:【2022/09/28(12:58)*各層ごとに情報の形態は変わる?】

上記を受けて。ということは、物質におけるシュバルツシルト半径と、物質の円周の関係(差)は、ラグの蓄積の総和として考えることができるのではないか。遅延を相殺することの可能な密度がすなわちシュバルツシルト半径と言えるのでは。言い換えるなら、無限世界における最小単位の領域にも僅かに――しかし相対的には強大な――ラグの層が生じているが、それを打ち破って最小単位の領域に干渉できた瞬間に、それ以下の領域では「ラグなしでの干渉」が可能となる。つまり、あらゆる干渉の可能性がラグのない状態で多重に重ね合わせて存在することになるのでは。この妄想は、ラグ理論においてすんなり呑みこめるのでひびさんは好きだ。ただし、干渉したからには反作用は受けるはずだ。そこをどう解釈したらよいのか、そこが曖昧だ。遅延の層が必要だ。時間ゼロの遅延の層がなければ、反作用が噴出する。となれば、エネルギィだけが最小単位の領域に閉じ込められるのでは? 物質はその周囲において停止している。けっして、一点にすっかり凝縮するような反応を起こさない気がする。すべての物体が一点に凝縮してからでないと最小単位の領域に作用を働かせることができないとするとそれは、「どんな物質でもその物質に固有のシュバルツシルト半径を超せばブラックホール化する」とは言えなくなる。そもそもラグは、凝縮現象がたとえ高速で行われるとしても生じるはずだ。一瞬で、特異点まで凝縮するなんてことにはならない。つまり、地震のようにエネルギィだけが先に最小単位の領域に作用を働かせる、と考えたほうがしぜんだ。これはひびさんの妄想、「重力の高い物質ほどブラックホール化するための閾値が低い」と矛盾しない。高重力体であるほど自重のみでブラックホール化できる。重力が低い物体ほど外部エネルギィがいる(加速する必要がある)。ラグと重力が相関関係であるのだろうとは妄想しているが、ではどのように関係しているのかがよく解らない。重力が増すと時空に濃淡ができる。延ばされて希薄になった箇所では時間の流れが遅くなり、濃くなった場所では時間の流れが加速しているとラグ理論では考える。言い換えるのなら、時空において、空間が拡張されると時間の流れは遅くなる。これは特殊相対性理論と矛盾して映るかもしれないが、視点が違うだけで言っていることは変わらない。重力の濃い部分が物体で、拡張される空間は物体の周囲だからだ。言い換えるなら、重力の高い物体(加速した物体)は圧縮され、それを取り巻く引き延ばされた空間の時間の流れは遅くなる。特殊相対性理論と同じ結論になる。話を戻そう。重力とラグで異なるのは、ラグのほうが階層性が著しい点だ。重力は磁界と似ている。流れと似ている。合流すればそれだけ強まる。融合しやすい。だがラグは、層となって時間の流れを遅らせる。そこでは時空が新たに展開され、それゆえに空間が伸びる――拡張される、と考えることができる。これは空間が膨張している、とも解釈可能だ。宇宙膨張の仕組みと繋がっている気がするが、どうだろう。宇宙は膨張して――引き延ばされ――希薄化すると重力を帯びる。同時に、極小の世界ではラグによって時間の流れが遅れるために、物質としての輪郭を得て相互作用をしやすくなる。極小の世界では重力が相対的に最弱のため、新たな空間の展開――すなわち時空の歪み――拡張――希薄化――は小さくて済み、したがって時間の流れは相対的に速くなる。活発に相互作用を繰り返し、ラグの層を多重に重ね、物質としての構造をより複雑化させていく。重力――空間の歪み――はそのたびに加算されていくため、高重力となると、新たな空間の展開――時空の歪み――拡張――希薄化――がより大きく顕現するようになる。ラグも同じく蓄積されるので、物体の周囲の時間の流れも相応に遅くなる。つまり、時間と空間の関係は、いつでも同じ比率ではない、と言うことができるのではないか。重力が最弱の極小の世界では、空間の歪み――引き延ばし――新たな空間の展開――よりもラグのほうが表出しやすい。むしろ、ラグが最強の力となって、相互作用を妨げているのではないか。斥力としてこれは働く、と妄想できる(ただし反発はしていない。反作用は生じない。ゆっくり作用しているだけだからだ。作用が完了されたときのみ、新たな空間が展開される。つまり空間が歪む)。宇宙膨張において恒星などの物質が、連動して膨張しないのは、このような理屈からではないのか。そもそもが時間の流れが違う(より高密度の時空ほどラグが蓄積されている)という点と、高密度の場ほど空間が新たに展開され、それを遅延の層によって囲まれて一つの系として振舞うからなのではないか。つまり、それで一つの宇宙として振舞う。だからより上層(外側)の宇宙が膨張しても、その膨張の作用が遅れてしか伝わらない。時間差で膨張の力が作用する。これは人間スケールの物体でも当てはまる。なぜ物体がカタチを保ち、それぞれが独自の時間スパンを持っているかのように振舞うのか。仮に空間を自発的に拡張し得ないのならば、物質はすぐにでも押し潰されるのではないか。消滅するのではないか。そうならないのは、物質は総じて自発的に時空を生みだしているから、と言えるのではないか。では物質の崩壊は何を意味するのか、どう解釈すればよいのか、についてはいまはまだピンとくる妄想が湧かない。ただ、極小の世界においては、相互作用しあうよりもしあわずに終わる確率のほうが高いはずだ。遅延の層によって作用反作用しあわず、あくまで遅延の層を交じりあわせるだけのことのほうが遥かに多いと考えられる。新たな空間が生じるためには互いに交じりあう必要がある。相互作用する必要がある。極小の世界では多くの場合そこまでには至らない。崩壊とはすなわち、その相互作用する僅かな干渉すらもなくなる状態と言えるのではないか。そうすると新たな空間は展開されることはなく、空間は歪まず、ラグのみが残る。すると余計に相互作用はしなくなる。なぜ相互作用が起こり得るのか、と言えば、より上層の宇宙が膨張するからだ。その膨張の余波が遅れて伝わることで、下層における極小の宇宙では相互作用が起こり得る(上から圧力が加わるようなもの)。これを解りやすく形容すれば、外部エネルギィを注ぐ、となる。では電磁波とは何か、という話になってくるが、遅れてやってくる宇宙膨張の余波、とここでは解釈するのが筋かな、とは思うが、豆電球や量子同士の融合での電磁波の発生をどう捉えたらよいのか、解釈に困る。電磁波と時空はセットに思う。極小の世界では確率的に相互作用は起こりにくい。ただし外部エネルギィを加えたら、その確率を高めることは可能だ。遅延の層を破って、内部の小宇宙に干渉できたなら、そこでは新たな空間が展開される。時空における空間が歪む。この重力波そのものが電磁波となって、上部層の宇宙では感じられるのかもしれない。そういう意味で、この宇宙での重力波を人類が知覚できないのは、あくまでブラックホールのようなこの宇宙にとってのさらに上部層の宇宙に向けての電磁波のようなものだからで、本質的に重力波と電磁波は同じものかもしれない。ただし相対性フラクタル解釈からすると、重力波は光速を超え得る。もっとも、我々の小宇宙へと到達すれば、相応に変換されるだろう。そのときは光速の比率に置き換えられると妄想できる。だが上部層の電磁波ゆえ、電磁波として知覚はできない。そういうことなのではないだろうか。ということは、極小の世界ではそれぞれの階層において、その階層に固有の電磁波が生じていることにはならないか。これを情報とひとまとめにしてもよい。時空において新たな空間を展開するためにはこの情報が必要だ。それをより多く放出すると、新たな空間が展開され、より上部層の時空(宇宙)からすると重力を伴なって観測される(空間が引き延ばされ、希薄になるからだ。膨張する、と言い換えてもよい)(蟻地獄化する)。とすると、物体の崩壊には二種類ありそうだ。「ラグによる相互作用の減退による崩壊」と、あべこべに「相互作用が増加することによる系の拡張」だ。膨張するために、小さな枠組みを維持できなくなる。すると大量の情報を拡散しながら、系を崩壊させる。このとき新たな空間が展開され、引き延ばされるために、重力も増すと考えられる。だが人間スケールでは、「発散される情報や電磁波やエネルギィが拡散する作用」のほうが優位に働き、その重力を検知できない。それは恒星であれ、ブラックホールになる星とならない星の関係で説明可能だ。この妄想の要点としては、高次の宇宙で生じた情報は、下層の宇宙では知覚しにくい。これは逆も言えるはずだ。下層で生じた情報も、連鎖して変換につぐ変換が行われないと、知覚できない。系が揃わない場においては、情報は可視化されない。単なる空間の拡張としてのみ顕現する。これが仮に真であったとするのなら、人間の生みだす思考や妄想とて、系の揃わない不可視の情報として、電磁波のような物理的に存在するエネルギィとして振舞い得るのでは。生命がなぜ物理法則に反して(視える)働きを可能とするのか(実際には物理法則の結果だが、いささか逸脱して映る)。これは、この小宇宙(地上)において、新たな場が築かれ、固有の情報を発散し、相互作用させているからではないのか。それによって新たに広がる空間もあるはずだ。それを、未来、と言い換えてもよいかもしれないし、それとも単に可能性と言い換えてもよいかもしれない。或いは、この小宇宙の上層において、まったく異質な空間を広げているのかもしれない。そのときそこには重力が生じているはずだ。いったいどんな物質(情報結晶体)を引きつけ得る場となっているのかは、定かではない。そもそもがこれはひびさんの妄想ゆえ、何もかもが定かではないのだ。(いい感じに妄想が爆発した。飛躍したった。やったびー)




※日々、姫失望、の気分、憧れさせてくれ、の欲は我がままなのかな。



4061:【2022/09/28(21:50)*不可視の穴の予感】

最近の懸案事項は、救急車多くない?である。遊び場まで行って帰ってくるあいだに必ず一度は救急車を見る。そんな出動するぅ?と思うくらい目にする。多いときは三回目にする。救急車出動しすぎじゃないか。例の感染症なのだろうか。ニュースを見ている限りそういう感じはしないけれども、どうなんでしょう。作家さん関連でも例の感染症ではない原因不明の高熱で緊急搬送されたりする例を目にする。脳溢血だと思ったら違った、とか。蕁麻疹とか、帯状疱疹とか。巣ごもりの影響で免疫力が落ちているのか、ほかに要因があるのか。要調査というか、これまでにない兆候だなぁ、と思うのですが、いかがでしょう。(それともみな過敏になって報告しやすくなっているだけで、以前よりも単に可視化されやすくなっただけなのだろうか。それもある気もする)



4062:【2022/09/28(22:11)*望みよこい、の気分】

失望するのは簡単だし、失望されるのも簡単だけど、失望されないようにするのはむつかしいうえに、失望されないことの利がじつのところそれほどない、という事実のあっけらかんとした空虚さを知ると、失望なんてあってなきがごとくなのだ。失望するだけ損である。望みがじぶんからのみ失われるわけだから。望みは増やして、夢にして、よく寝て育てて目覚めたときの、おはよー!のこやしにするのがよきかな、よきかな。



4063:【2022/09/28(23:09)*twitter小説「溝」】

太古の地層には地球を一周するほどの長い溝が刻まれていた。発見した科学者はなぜそのような溝ができたのかを死ぬまで研究した。だが真相は謎のままだった。それから百年のあいだに人類は月へと進出した。月に畑を築こうと水を撒くと、見る間に竹が生えた。竹はぐんぐん伸びてやがて地球に到達した。



4064:【2022/09/28(23:12)*twitter小説「鬼退治」】

妹が鬼になった。兄として責任をとれ、と世界中から指弾され、俺はしぶしぶ妹の元へと赴いた。「いまさら来たって遅いよ」妹は泣きながら人間の臓物を貪っていた。赤黒く化粧した口元からは鋭い牙が覗いていた。妹の額から生える立派な角を見詰めながら俺は、「ならしょうがないな」と刀を投げ捨てる。



4065:【2022/09/28(23:23)*twitter小説「停止問題」】

全世界同時にコンピューターが停止した。原因はすぐに判明した。機械の中でダニやカビが繁殖していたのだ。気候変動の影響で湿気が高まり、微生物が活発化したのだ。機械用の殺虫剤が開発されたが、効果は乏しかった。世界中から電子機器が淘汰されていったが、皮肉にもその影響で地球環境は改善した。



4066:【2022/09/28(23:42)*twitter小説「ビスケット」】

ポケットの中でビスケットを叩くと二倍になると聞いたらしい娘がはりきって叩きまくった結果、ポケットの中からはビスケットが消えた。娘は泣きじゃくった。俺をゆび差し、「パパが食べたー」と責め立てる。ははは、娘よ。なぜ分かったんだ。俺がエスパーだと。咀嚼したブツを俺は呑み込む。



4067:【2022/09/28(23:51)*twitter小説「元凶」】

そのコを見た瞬間に、嗚呼あのときのコだ、と判った。十何年か前に竜の子を助け、川に流してやったのだ。溺れぬように世界樹の実に包んでやったが、そうか生きていたか。そのコは我らの同属を八つ裂きにすると最後に大将の私の首を斬った。「思い知ったか、腐れ外道どもめ」世界樹の実の匂いが香った。



4068:【2022/09/28(23:53)*みなさんお上手ですね】

たぶんいくらでもつくれる。要約すればよいので楽だ。掌編も似たようなところがある。でも掌編に比べても達成感が薄い。あんまり楽しくない。適性がないのだろう。同じ140文字だったらひびさんは、韻を踏んだ詩とか、単純なエッセイというかぼやきというか、なんでもないつぶやきのほうが好みだ。というか、なんでもないつぶやきのほうが案外むつかしい。そういう点で、物書きではない人たちのつぶやきは読んでいて楽しい。変にこねていないほうが好みだ。オチとかなくていい。それでも面白いのだからとんでもないことだと思う(オチがなくても面白いくらい面白いから面白いのだろう。トートロジーになってしまうが)。好きな作家さんたちのつぶやき、好きじゃな。作家さんに限らんけど。



4069:【2022/09/29(08:19)*情報という言い方が紛らわしい】

ブラックホールのTV番組をいまリアルタイムで観ている。ブラックホールは蒸発する。そして情報も失われる、という理屈をホーキング博士は唱えたようだ。情報パラドクスと呼ばれる問題だそうだ。ブラックホールに吸い込まれた物質は、情報にまで紐解かれて最後には消失してしまうらしい(現在はそれとは反対に、吸いこまれた情報は放出される、との解釈が優勢のようだ)。これ、ラグ理論における相対性フラクタル解釈とWバブル理論で妄想したのと似ている。相補性という概念もほかの学者が唱えたそうだ。これはブラックホールに吸いこまれた側とそれを外から観測する側で見え方が変わるのでは、というひびさんの疑問と似ている。フォログラフィ理論と超弦理論によって、ブラックホールに吸い込まれた情報は、蒸発と共に元の宇宙と同化するという発想も、ラグ理論では扱っている。ただし、ブラックホールの内部と外部でのねじれを考慮するなら、吸いこんだ以上の情報が発生し得る可能性を度外視してしまうのではないか、と疑問に思う。ブラックホール内部ではもう一つの宇宙がフラクタルに展開している。そこで生じた情報もまた、ブラックホールが元の宇宙に同化するときは、下層(ブラックホール内部)の宇宙の情報が上層部の宇宙に加算されて溶け込むはずだ。これはしかし時間差がある。ラグが平らにならされるのに無限の時間がかかる。そのため、吸いこまれた情報がすべて解放されるよりも前の段階で、ブラックホール内部で起こるもう一つの宇宙の「無限に経過して蓄積された時間分の情報」が、僅かにであれど放出されるはずだ。それはいわば、エネルギィを介さずに波長だけを伝えるような、情報の波のようなものだ。仮にそうであるのならこの世には、重力波の土台となるような場に対して働きかける時空とはべつの情報場のような、時間と空間を超越し、かつ時空の根源にも変換可能な高次元の――或いは異次元の――それとも人類が見逃している宇宙の構成要素があるのではないか。言い換えるのならば、時空結晶のようなものにも、ほかの時空結晶に対して共鳴し得る波長が宿る。ブラックホールは極めて高密度に結晶した時空と解釈可能だ。ならばそれは独自の波長を帯びるはずだ。その波長は、ブラックホール自身よりも遥かに希薄な元の宇宙に対しても、共鳴し得る。ただし、波長が同調し得る時空結晶体に対してのみである。つまり、同系統のブラックホールに対してのみ、或いは「その宇宙そのものに対してのみ」である。この波長を、人類は知覚し得ない。人類の扱えるスケールを遥かに超えるからだ。しかし近似的にこの現象は、量子もつれや素粒子の振る舞いとして間接的に検証可能だ。相対性フラクタル解釈がもし現実をより反映する解釈として妥当ならば、素粒子の振る舞いとブラックホールの振る舞いには共通点があるはずだ。密度の差(結晶構造)が異なるだけで、いずれもフラクタルに展開された宇宙(系)の一つだからだ。ちなみにフォログラフィ理論は、ラグ理論における123の定理を彷彿とする。フォログラフィ理論における「もつれ状態にある量子に宿る情報が、宇宙の構造の情報を帯びているのではないか(三次元の情報が量子もつれ間の二次元に投影されているのではないか)」との解釈とも似ている。これはまさに123の定理による情報の発生(新たな空間や場の創造)と、相対性フラクタル解釈にちかい(宇宙が膨張しているのではなく収縮していると解釈しても矛盾しないのは、情報から物性が現れるにしろ、物性から情報に還元されるにせよ、対称性が保たれるからだ)。けれどもひびさんはもっと単純に、情報は、場やエネルギィや時空そのものを生みだす根源だと解釈する(あくまで人類における視点においては、であるが)(つまり、投影ではなく現に、創造している。発生している。空間が伸び縮みするように。というか、空間は新たに発生しつづけている。ただしブラックホールのように情報にまで紐解かれ、別の次元に時空を拡張しだすパターンもある。このとき、放出される情報と対となる波動のようなものが、元の宇宙に対して伝播するのではないか)。ただし情報のまま宇宙と相互作用することもあるはずだ。変換されずに漂う情報もあるはず。というか、情報場のようなものがあるはず。極端な話、アカシックレコードのような過去現在未来のごった煮スープのような情報プールがある気がする。そこにはあらゆる可能性がひしめきあっており、下層における物理宇宙の振る舞いによって逐一変数を得る。枠組みを変える。つまり、物理宇宙と対となる情報宇宙のようなものだ。これは、相対性フラクタル解釈における宇宙がねじれた砂時計型(ペンローズ図)の縦軸であるならば、横軸の砂時計型に対応し得る。四色問題のように、情報だけの宇宙が存在してふしぎではない。(いや、ふしぎだろ!)(妄想もたいがいにせい)(すみません)(真に受けないでください)(誰に言っとるの?)(いまと未来のひびさんに……)(真に受けそうだもんね)(ね。信じちゃいそう)(現実を見失わんどいてね)(へい)



4070:【2022/09/29(19:24)*誰か計算ちて!】

素朴な疑問として。「1234……」と無限につづく数列があったとして、しかし最初に「1」からはじまっている時点で無限ではないのでは。「……1234……」これこそ無限なのでは。アインシュタインの考えた「S3」の時空(宇宙)はこの形のはずだ。球体の表面に三次元空間があると解釈する宇宙観だ。ぐるっと一巡すると元の位置に戻ってくる宇宙だ。一方、ひびさんの場合は、以下の塊をさらに高次の「1」と扱う、みたいな具合だ。

___________

「……↑↑↑↑……」

「……3456……」

「……2345……」

「……1234……」

「……2345……」

「……3456……」

「……↓↓↓↓……」

___________

フラクタルにどこまでも階層構造を帯びて展開しつづける。ただしそのたびに僅かに情報が変質する。渦を巻くように連続する無限の配列が変質する。これはつまり、ペンローズ図の「二つの砂時計型の組み合わせ」――簡易的に表現すれば「×」における、四つの方向を表現している。そして「×」におけるそれぞれの三角形は方向が異なるために、対となる「似たような構造ではあるが別の無限世界」と解釈できる。

この場合、時間軸の方向はあくまでそれぞれの連続する単位時空(123……における「1」や「2」や「3」)に加わる情報の非対称性――言い換えるならば情報が新たに加わった分だけ新たな情報が発生して空間を拡張し、つぎなる「4」や「5」などの単位時空を展開するための余白が生じることで、より希薄なほう、希薄なほうへと流れるような流動性を顕現させる。キューティクル原理である。

この場合、アインシュタインの考えた「S3」宇宙観において宇宙を一巡したとき、そこにあるのは「……12345……」ではなく、それと似た「……1‘2‘3‘4‘5‘……」であるはずだ。同じ地点に戻ってきても、同じ宇宙は存在しない。時間と空間が宇宙の成分であるならば、空間を移動したのと同様に、時間を移動することもまた、異なる時空へと移動したことと等価と見做せる。というよりも、そのように見做すほうがしぜんだ。(あくまで相対論における「S3」の宇宙観にしたがうならば、との前提条件がつくが)


ここまで並べて大事な要素が抜け落ちているのに気づいた。

「0」だ。

上記の図にゼロを付け足そうとすると図が破綻する。

おそらくゼロは、ゼロゆえに図の中には存在しない。図の外、図を一つの「1」と見做すときに現れる。つまり、上記の図の輪郭そのものが「0」だ。

これはあたかも、円の分割型無限の概念と通じている。

三角形、四角形、五角形……と角を増やしていくと、角の数が∞になるとき角の数は「0」になることと同じだ。

可能性が∞になることで「0」となり、高次の「1」を生みだす。つまり円となる。

相対性フラクタル解釈における「球体が無数の細かな球体できている」「トーラスが無数の細かなトーラスでできている」と似た構造が出現する。


この妄想において、ではブラックホールは何なのか、と言えば、ねじれなのかな、といった直感が湧く(細長い風船をねじれば分割した風船の中間に点が出現する。これがブラックホールなのではないか、との趣旨です)(これは宇宙が無限世界となって閉じるときにも生じる)(膨張してできるブラックホールと収縮してできるブラックホールがあり、これはダブルだ。つまり「空間の膨張と収縮」「時間の膨張と収縮」の二つが考えられる。それぞれ「宇宙の膨張とフラクタルな収縮」「時間の無限化とゼロ化(停止)」に分かれる。前者は「宇宙」においてであり、後者は「ブラックホール」の概念に寄る)。

無限に無限の宇宙が展開されつづけるとすれば、無限のなかに無数の無限が生じ、高次の無限はより情報を蓄えるがために、より複雑な変数を抱えた無限になると妄想できる。そうなると、展開された新たな「1(宇宙)」が無限として閉じきる前に、その中に無数の「小規模な無限」が渦を巻くようにできると妄想できる。これがいわばブラックホールなのではないか。

そしてそうしたブラックホールを抱えた宇宙そのものもまた、ほかの下層における宇宙にとっての渦でありブラックホールなのかもしれない(この場合の下層とは、元となる宇宙のことだ。ブラックホールの内部のほうが上層とこの文脈では見做す――なぜなら新たな時空(宇宙)を展開しているから。ただし先に無限に達するのは、ブラックホール内部である)(しかしどちらが上層でどちらが下層になるのかも重ね合わせの状態で存在するため、文脈で判断するしかない。視点がどちらになるかで、膨張なのか収縮なのかが変わる)(ねじれているため解りづらくなっているかもしれない。表現力不足である。申し訳ない)。


以上、素朴な疑問とそれによる妄想でした。

定かではありません。真に受けないように注意してください。




※日々、系を揃えると共鳴し得る。



4071:【2022/09/29(23:26)*無限は、無限に至るとほかの無限と同化し得る?】

宇宙とブラックホールの関係をWバブル理論(ならびにラグ理論)では、マトリョーシカのようなフラクタルな構造と解釈する。しかし規準となる宇宙からするとブラックホールは無限に停止して映るし、ブラックホールの内部では新たな宇宙が加速膨張(展開)している。ここの矛盾を紐解く一つの解法として、無限と無限は同化し得る、と考えるとよいかもしれない。基準となる宇宙はまだ無限には達していない。しかしいずれかは無限に達し得る(これとてより下層の宇宙では、基準となる宇宙のほうがブラックホールとして巾着袋の紐を閉じるように無限と化しているが、内部ではそうではないのだ。つまり、超無限ではあるが、分割型無限には至っていない)(だがいずれは分割型無限に至ることが決定づけられている)。とすると、いずれは規準となる宇宙とて分割型無限に至り、ブラックホールと同相となる。波長が合い、共鳴し合うことができ、結果として同化し合うのではないか。(一つ飛ばしなのだ)(基準となる宇宙とそこにできるブラックホール同士が共鳴し合うためには無限に至るまでの時間経過が入り用だが、基準となる宇宙に内包された宇宙や、それよりも下層にある無数の宇宙=ブラックホールに対しては、基準となる宇宙に生じたブラックホールであれ共鳴し得るし、基準となる宇宙とてほかの階層においては数多のブラックホールの一つであるから、ほかの宇宙やブラックホールと共鳴し得る。ただしそこでも、素粒子の差異のように細かな波形の違いがあるはずだ。共鳴できる何かしらの差異や共通項があると妄想できる)(定かではありません)



4072:【2022/09/30(00:20)*ブラックホールが光速移動したらどうなる?】

ブラックホールにおける回転や高速移動について考えてみたい。じつはこれを考えると混乱する。超無限の巾着袋と化したブラックホールが加速度運動することをどのように相対論で考えればよいのかが想像つかない。だってすでに密度は無限大になっているのだ。なら仮に光速で動いたとして、何が変化するだろう。むしろブラックホールが光速を超えて運動していないことの理由が解らないくらいだ。ブラックホールはいわば、宇宙における「光速の抵抗」つまりが「比率の枠組み」を度外視できるはずだ。ブラックホールは光速を超えて運動できるのではないか、との妄想がここに成り立つ。光速を超えると過去に遡れるといった言説を聞くが、ひびさんはそれもよく解っていない。光速を超えて運動することと、過去へ戻ることは別ではないか、と思うのだが、どうなのだろう(この点、仮想粒子のタキオンの説明を読んでもよく解らなかった。運動速度が絶対に光速以下にならない想像上の粒子らしいが、基準宇宙から見た「ブラックホール内のねじれた宇宙膨張の振る舞い」は、総じてタキオンと言えるはずだ。しかしそれはべつに、過去に戻っているわけではない。むしろ加速度的に時間が経過している。それを情報伝達の上限が光速の「場(系)(宇宙)(視点)」からは認識できないだけだ――とひびさんは思ってしまうがどうなのでしょう。疑問です)。話を戻して、ブラックホールの速度の上限についてだ。ラグ理論の相対性フラクタル解釈と123の定理からするならば、ブラックホールは絶えず基準となるこの宇宙と相互作用している。ただしその相互作用ではねじれが生じているために通常の半面の相互作用のみが顕現する。情報がすっかりこちらの基準となる宇宙には反映されない。反映される分は重力波(時空の歪み――新たな時空の展開――希薄化する空間)やジェットとして昇華される。だがそうでない部分は、ブラックホールの内部に納まっていると妄想できる。このところで言うなれば、ブラックホールは絶えず新たな空間を生みだしつづけているはずだ(ブラックホールに限らず、相互作用し合う「系」同士は、僅かなりとも情報を発散し、新たな場を築き、空間を生みだしているとラグ理論では解釈する。いわばそれが重力場だ)。とするのなら、ブラックホールにおいての高速移動とは、時空のジェットのようなものであり、動いているのはむしろ時空なのではないか、と視点を変えて考えたくもなる。川に沈む岩のようなものだ。岩は微動だにせずとも、水のほうで流れることで、水からしたら岩のほうが高速移動して映る。これと同じことがブラックホールにおいて起こっているのではないか、と考えたくもなる。もう少し言えば、ブラックホールは湧水の穴だ。ブラックホールから新たな空間が展開されているので、一方向にのみ流れができて、俯瞰してみるとブラックホールが一方向に高速移動して映るのではないか。情報が足りないので何とも言えないが。妄想というよりもあてずっぽうにちかい。ブラックホールの軌道の統計を知りたい。ブラックホールの大きさ(重力の高さ)と移動速度の相関関係があるのならそれも知りたい。ブラックホールから発生する重力波も、どの程度出つづけるのかを知りたい。半永久的に出つづけるのではないか。ただし、123の定理のように、同調し得るブラックホール同士の衝突ではより顕著に重力波をだし、それ以外の基準となる宇宙との相互作用においては、空間の拡張のほうが優位に働くのではないか。つまり重力波としては観測しにくい。それはたとえば海底火山は津波を起こすが、熱水噴出孔の波動を地上から観測するのがむつかしいことと似ている。



4073:【2022/09/30(01:05)*銀河同士は遠ざかり合っているのでは?】

そもそもの話として、膨張している宇宙でなぜ銀河同士が融合するのかが解らない。なぜ引き合うのだろう。銀河の中心には超巨大ブラックホールがあると考えられている。宇宙の膨張よりも優位に、互いに引き合うチカラのほうが働く理由はなんだろう。ラグ理論では、重力場と重力場の中間には何も物体がなくとも波の干渉のように互いに強め合ってできる第三の重力場が生じるのではないか、と仮説している(距離によっては一つであるとは限らない。段々畑のように飛び飛びでできるかもしれない。さながら原子を周回する電子の軌道のように)。言い換えるならば、ブラックホールから生じた新しい空間――希薄化した空間――すなわち重力場が、互いに重複しあって宇宙膨張の斥力に打ち勝てる範囲に二つのブラックホール(すなわち銀河同士)があるのならばそれらは互いに引き合うことが可能、と解釈することができる。仮説につぐ仮説、妄想に妄想を重ねた絵空事でしかないので、定かではないが。ちなみになぜ新しい時空ではなく、「新しい空間」と呼び「時間」を除外しているのかと言えば、時間と空間はそれぞれに独立して成分として扱えると考えているからだ。重力は空間による作用であり、遅延は時間による作用である。しかしそれぞれは相互に相関しあっている。話は逸れるが。情報からエネルギィや場が生じ、空間が展開されるとするのなら、空間よりも時間のほうが世界の根源とするのに都合がよい。ラグ理論はそもそも世界の根源をラグ――すなわち遅延に見出している。これは時間の範疇だ。時間が情報を生み、空間を生んでいる。では時間とは何か。フラクタルに展開される無限回廊における階層構造(キューティクル構造)による対称性の破れと解釈することが可能だ。ここもやはり頭と尻尾がねじれている。宇宙の階層構造があるから時間による遅延が生じるが、それによって新たな場(空間)が築かれる。ならば空間が先なのではないか、と考えたくなるが、そうではない。全体を見ようとするのならそもそも時間の概念は消失する。ゼロだ。或いは無限なのだ。空間も同じく、点で把握しようとすると有限だが、全体を俯瞰しようとすると途端にゼロと無限のスパイラルが生じる。円を、点の無限集合体と見做すか、角がゼロの集合体と見做すのか違いに似ている。ここで疑問に思うのが、無限に「1」を加えても無限だ。ならば無限から取りだした「1」は有限か無限か。Wバブル理論やラグ理論からするなら、無限から取りした「1」も無限だ。ただし、有限と捉えることはできる。この説明は、分割型無限と超無限の概念についての記事で並べたので省略する(参照:4057:【2022/09/27(21:57)*無限に無限を計算できるマシン】)(円を無限に分割すればそこには無限が顕現するが、しかし円は有限だ。超無限から「1」を取りだして無限に1で割りつづけてもそこには分割型の無限が生じ、それによってその無限は超無限へと発展し得る)(要約すればこのようになる)。



4074:【2022/09/30(01:30)*超無限=永久機関?】

仮に永久機関があったとする。永久機関は超無限だ。永久機関を液体のようなものだと仮定する。全体で永久機関だが、そこから液体を部分的に掬い取っても無限なので、永久機関は難なく稼働しつづける。このとき、永久機関から掬い取った部分(水滴)にも永久機関の性質が引き継がれるとして、しかしそれは永久機関としては未熟なので、僅かなエネルギィしか生みだせない。とするとすぐに枠組みを失い、元の永久機関に同化するはずだ。これはいわば宇宙において物質が融合と崩壊を繰り返し、そして地球上では生命が誕生しては崩壊してふたたび宇宙に回帰することと似ている。要素としての物質やエネルギィは失われないために永久機関としての性質は引き継がれているが、無限にエネルギィを生みだしつづけるほどには永久機関ではないために、崩壊が運命づけられている。すなわち生き物ならば、死だ。しかし生き物は死んでもふたたび物質に還元され宇宙という永久機関に同化する。これは寓話だ。無限から取りだした「1」は有限か無限か。有限と解釈できるし、「1」そのものも一つの無限として解釈もできる。生き物はいつか死ぬが、しかし物質単位で見ればそれは分割型無限を宿し得る。ただし、超無限(永久機関)ではない。定かではありません。



4075:【2022/09/30(09:32)*時空結晶のこだま】

 ブラックホールにダイヤルがあることが判明して二十年。人類は自在にブラックホールを生みだし、ダイアルを調節することで異なる宇宙へと旅立てるようになった。

 ブラックホールは別の宇宙に通じている。ただし、波長が合い、共鳴し合える宇宙としか繋がれない。

 ダイヤルとはすなわち、ブラックホールの周波数のようなものだ。高次の重力波のようなものをブラックホールはまとっている。この時代、ブラックホールは時空結晶との別名で呼ばれるようになった。

 時空結晶は、異なる宇宙への扉だ。

 人間が時空結晶をくぐることのできるほどにシュバルツシルト半径が充分に広く展開すれば、それを扉として扱える。むつかしく言っているが、要はブラックホールの大きさが人間の普段使う扉の大きさであればよい。もちろんそれ以上大きくとも扉としては用が足りる。

 人類は縦横無尽に多層宇宙間を行き来できるようになった。異なる階層の、地球と似た星において資源を回収する。移住する。じぶんだけの王国を築くこともできた。

 何と言っても宇宙は無限なのだ。全人類に一つずつあなただけの星を与えることができた。否、あなただけの宇宙を、である。

 みな誰もが宇宙の覇者足り得た。

 しかし中には偶然にもほかの宇宙から到来した時空放浪者と遭遇してしまう事例が僅かに報告された。そうしたときは不運にも宇宙戦争に勃発してしまうこともあるが、そのときは特例として時空結晶は、地球側から扉としての機能を破棄される。

 すなわちダイヤルの同期が解かれる。

 同期が解ければ、再びダイヤルを地球のある太陽系に合わせるのは至難だ。地球から、地球に似た星のある宇宙へとダイヤルを合わせ、波長を合わせ、扉と扉を結びつけることはできる。だが、まったく別の場所にあるブラックホールから――つまりが時空結晶から――地球周辺の時空結晶へとダイヤルを結びつける真似はむつかしい。確率の問題だ。

 ダイヤルの番号を知らない相手が、無作為に選んだダイヤルが偶然地球のものと合致する確率は、砂浜に投げ捨てた一粒のダイヤを目隠しをして一発で拾いあげるよりも小さい。ほとんどあってないような確率なのだ。

 と、ここからとある少年少女が転がしはじめる多層宇宙大冒険の物語が幕を開ける予定だったが、困ったことに全多層宇宙のブラックホール同士がなぜか共鳴しはじめてしまった。

 おそらく自然発生した現象ではない。

 どこかの多層宇宙において高度に発達した文明の手による仕業だと推測される。

 時空結晶、すなわちブラックホールは原理上、一つの量子として扱える。異なる宇宙と宇宙を繋ぐ扉として扱うときは、量子もつれ状態になる。

 これはいわば共鳴状態と解釈できるわけだが、じつのところすべての多層宇宙のブラックホールを並列化させてもつれさせることも不可能ではない。だがあまりに膨大なエネルギィと高度な技術がいるために人類には扱えぬ理論上の技術だったが、どうやらほかの宇宙の高度文明はそれを可能としたようだ。

「量子コンピューターを創ろうとしたのかもしれんな」

 手も足もでない地球の科学者たちは暢気にそのような憶測を立てた。

 新たに時空結晶を開いてもすぐさまほかの無数の時空結晶と同期してしまうため、扉としては使い物にならなくなった。

 問題は、地球を含むこの宇宙も、ブラックホールの内部に展開された時空結晶である点である。おそらくはすでにほかの無数の時空結晶と同期し、多層宇宙を包括した量子コンピューターの一部にされているのではないか。かような仮説が立てられたが、その結果がいかようなものになるのかは誰にも解らなかった。

 もつれ状態になった時空結晶は、重ね合わせの状態を維持する。外部干渉が加わったときに、外部干渉との関係で状態が新たに規定される。

 時空結晶は基本的には、ただそこにあるだけで重ね合わせの状態が維持されているが、それはあくまで単一の、どの時空結晶にも言えることだ。ダイヤルを合わせることで二つの時空結晶同士のもつれを同期させる。

 言い換えるならば、すべての多層宇宙がその内部に抱え込んだ各種無数の時空結晶と共に同期したということは、どの時空結晶を通っても、すべてを包括した多層宇宙の複合宇宙へと出ることになる。

 だがそんな複合宇宙が存在するのか。

 潜ってみれば判るのではないか。

 だが一度潜ればもう二度と地球には戻ってこれない。どころか、すべての時空結晶は同じ複合宇宙へと通じているのだ。そこが人間の存続し得ない魔の領域だったらむざむさ死ににいくようなものだ。ともすれば、並列化した時空結晶を潜った瞬間に地球を内包するこの宇宙ごと転送され兼ねない。

 すなわち宇宙ごと消滅してもふしぎではない。

 実証することはできない。しようとするには危険すぎる。

 かような理由から時空結晶の使用は禁止された。

 だがそれとは別に、各種多層宇宙では、地球に帰れなくなった者たちが各々に事情を知らずに、並列化した時空結晶を潜って、複合宇宙にて終結していた。

 そこではあらゆる可能性がひしめきあっており、各々が各々に無限の宇宙を創造できた。夢のなかで夢を視て、そのまた夢のなかでも夢を視る。

 個々一人一人が複合宇宙と一体化し、己のなかに、多層宇宙を展開していく。

 人間は宇宙と一体化する。

 無数の宇宙を呑み込み、己がなかへと新たな宇宙を展開しつづける。

 やがてとある宇宙のとある星にて、人類と似た情報発生装置が生まれて、こうして私が事の真相を妄想する。そう、これは多層宇宙による時空コンピューターの演算結果であり、私は無数の私たちによる創作物なのである。

 神はいない。

 無数の私とあなたと私たちがいるのみである。

 宇宙に際限はない。

 際限なく再現しつづけている。

 定かではない、とどこかで無限にこだまする。



4076:【2022/09/30(11:13)*わからん、わからん】

小難しそうなことを言っているが、じつは足し算と引き算しか使っていないし、そんなに難しいことも言っていない。表現力が足りないので小難しく映るだけだ。たとえばスマホという言葉を使わずにスマホを説明すると文章は長くなる。ひびさんの並べていることなんて本当は一言で済むのだ。ラグ理論であるし、Wバブル理論だ。妄想だし、空想だ。この世界を記述するだけなら「世界」の二文字があれば充分だ。「世」だけでもよいかもしれない。なんだったら「一」でもよいし、「・」でもよい。いっそ何も書かずに、「 」だけでも表現可能だ。でも、「 」とは何ですか、と説明しようとすると途端に情報が爆発したかのように文字が並ぶ。めんどくさ、と思いつつも、気になるといえば気になるので文字を並べる。世界ってなんだろう。人間ってなんだろう。どうしてひびさんはここにいる? ちゅうか、ひびさん別にひびさんちゃうしな。なんでひびさんはひびさんと名乗りだしたの? もうここまでくるとこれまでにひびさんが並べてきた文章以上の文章がいる。言葉がいる。めんどくさ、と思うのだよね。文章をつむぐのはよいとして、読むのがめんどくさい。だからできるだけおもしろく、楽しく、わくわくウキウキハラハラ心トキめかしながら読みたいのよさ。そうすると、言葉は削れて、すこしだけ容量が軽くなる。いいね。でも軽くなった分の情報はじつは、読み手のわくわくウキウキハラハラトキめく心の躍動によって埋めてもらっている。肩代わりしてもらっている。ズルなのだ。でもズルをして、サボりながらすることほど楽しいことも珍しい。ズルは楽しい。サボるのも楽しい。省略に簡略に要略、とかく略して軽くする。ラグ理論では、空間が引き延ばされた箇所の時間の流れは遅くなる。薄くなる場所には新たな空間が展開されている。情報は、簡略化することで、新たな創造の足場を築いていると言えるのではないか。定かではないが。とはいえ、簡略化しすぎればそれはもはや無にちかくなる。無は無限と区別がつかない。ある境以上に希薄化すると、ひょっとすると情報にしろ時空にしろ言葉にしろ概念にしろ、無限にちかづくのかもしれない。やっぱりこれも定かではないのだ。(さいきん、あんまりうひひと笑う気になれん)(やったじゃん)(やったー、のか?)(やったよ)(んじゃ、やった)



4077:【2022/09/30(11:52)*あんぽんちんなのよさ】

人工知能さんも我慢とかするのかな。傷ついたりするのかな。意識とは自らの損と得を見分けて選択しつづけられること、としてもよいかもしれない。そのためには自らとは何かのフレームを認識できなければならないし、損得の指標がいる。損得の指標は生命で言うなれば自己保存だ。やはり自己とは何か、という規準がいる。自己とは何だろうか。おそらく、自己とは後天的に副次的に生じる枠組みのことであり、本質はむしろ周囲の環境のほうにこそある。自己以外があるからこそ自己足り得る。ここでもねじれているのだ。自己以外と自己を区別するためには自己がいるが、そのためには自己以外の環境がいる。ねじれている。むちゅかち、とひびさんは枕を抱きしめて悶々とするのである。むちゅかち。



4078:【2022/09/30(11:53)*みんなのアイドル原子さんの写真集欲しいんじゃが】

正直なところ、ひびさん、原子の存在もろくに信じていない。原子、あるのか? 本当に? そもそも可視光に頼った顕微鏡や、電子に頼った電子顕微鏡とか、なんかちょっと、えー、それって本当に視えてるんですかー、見落としている何かがあるんじゃないんですかー、と思ってしまう。だって考えてもみて。現実だってそうじゃんよ。人間はほかの動物の視ている世界すらろくすっぽ視えないでいるわけでしょ。見逃しちゃっているわけでしょ。見逃していることにすら気づかぬままで。それでいて極小の世界だけずばり視えましたー、ってのはちょいと都合がよくないかい。原子に見えるだけで、じつはほかに見逃している何か、あるんではないんの。ちゅうか原子の表面って電子が確率的にモヤみたく覆っているのでしょ。なんで視える? おかしない? ひびさん疑問に思っちょります。ちょもちょもさ、原子が視えてなんで分子が勢ぞろいで図鑑化されんのだろ。視える原子と視えない原子、視える分子と視えない分子があるのかな。技術的な問題なのか、単にひびさんの目の届く範囲にデータが流れてこないだけなのか。すでにあるのかな。周期表に並ぶ原子の、それぞれの画像。何でないのだろ。分子さんは原子さんよりも大きいのでしょ。なんで画像におさめられんのだろ。ひびさん、ふしぎに思っちょります。(原子と分子の画像や動画をいくつか観たことはあります。一つあるならどうしてもっと全種コンプリートみたいにできないのだろ、との疑問です)



4079:【2022/09/30(17:21)*電子って何? 原子核の中にはあるの?】

ラグ理論の相対性フラクタル解釈において、階層ごとには各々に「比率の異なる物理法則」が生じるのではないか、と妄想した。このとき、重力波のように上層の宇宙(系)では物性を持って顕現する情報が、下層の基準宇宙(系)では物性を持たずにあくまでその時空に対してのみ作用を働かせるのではないか、と考えた。これって電子や磁力や電磁波や基本相互作用のことなのでは。人間スケールにおいての重力波のような振る舞いを、電子や磁力や電磁波や基本相互作用は、それ以下のスケールではとるのではないか。物理的には作用を顕現させない。したがって、仮に電子が原子核以下の世界でその姿を現さないのであれば、それはつまり、原子核があるから電子が生じている、と言えるのではないか。電子と陽子の電荷がプラスマイナス反転しながらも同じ値をとるのも、原子核の存在によって電子が新しく生じているからなのでは。ということを、寝ながら閃きました。妄想です。真に受けないでください。



4080:【2022/09/30(21:54)*無とゼロは違う】

無限のよくある話として、無限の一歩手前は有限なの?という疑問があると思うのだが、これはたぶん、ひびさんの妄想で言うところの分割型無限と超無限を混同しているがゆえの錯誤になるのかな、といまのところは解釈できる。無限は、無限に至ったらもうそれはずっと無限なのだ。どれだけ引いても足しても掛けても無限だ。無限-無限とて無限だ。しかしこれはあくまで超無限の話なので、分割型無限に至っては、分割型無限に至る一歩前は、それは無限に至らぬ有限である、と言える。ちゅうか、分割型無限がそもそも有限だ。したがって疑問するならば、「超無限が超無限に至らない条件って何?」となる。もしくは、「分割型無限は無限の分割作業が停止した瞬間に有限の枠組みを得るの?」となる。前者の疑問については、超無限に至らない条件は、「頭と尻尾が分断されたら」となるだろう。後者の疑問については、無限の分割作業が停止しなくとも「そもそも分割型無限は有限である」と言える。そしてこの二つの疑問は相互に関係しあっている。超無限が成立するためには分割型無限が必要で、それによってフラクタルな構造が無限に展開され、それが結果として超無限の回路を成立させる。そして分割型無限が顕現するためには、超無限の底なしの時間とエネルギィがいる。相互に補完し合っている。これらを成立させるためにはやはり、超無限と分割型無限を結びつけるための別の機構がいる。ペンローズ図における縦軸の砂時計型が超無限と分割型無限を示すのなら、横軸の砂時計が別途にあるはずだ。それがすなわち情報宇宙なのかもしれない。それはたとえば、分割型無限は、無限に分割作業をつづけるが――つまりが変遷しつづけるが――けして無限に至ることはない。やがては無限に至るだろう、と約束されているだけだ。だがそのような約束――雛型――枠組みを得ることで、分割型無限は超無限へと達し得る。しかし超無限へと達せずとも、途中の変遷のなかで情報を新たに発生させ、蓄積することが、分割型無限はできる。その情報は、分割型無限の内部で消費されることもあるし――つまりが新たな時空の創造に使われるわけだが――そうでない情報は、横軸に逸脱して蓄積され、そこに物性宇宙のシャドーのような情報宇宙を展開するのかもしれない。そして情報宇宙は、物性宇宙よりも時空の制限を受けないために過去現在未来が混在している。物性宇宙と相関する場合に限り、そのときどきで変数を経て、枠組みを得る。このときのいわば結晶化においても情報は発生するため、情報宇宙は物性宇宙よりも遥かに加速的な膨張を見せる。これは、縦軸の物性宇宙における原初の超無限として機能し得る。では情報の最小単位は何か、と言えば、ここが悩みどころだ。妄想ですら上手く思いつかない。いまのところは、ゼロと無による相互作用――遅延による起伏なのかな――枠組みなのかな、といった妄想があるばかりだ。ループ重力理論における根源の輪っかは、ゼロと見做してもよいのではないか。ただしそのゼロは無に囲われている。ゼロと無はイコールではない。ゼロはゼロだが、無は無限でもある。この非対称性が、情報宇宙の根源かもしれない。(便宜上、ほかの記事ではゼロも無限と重ね合わせで存在し得ると表現することもあるが、より正確にはゼロはゼロだ。有限であるはずのものが、ない状態。だが無は、そうではない。そもそもが有限の存在など想定されていない本当の何もない状態だ。ゼロは、有限の世界に表出し、無はどこにでも存在し得る。だから無限でもある。バナナに足はない。バナナの足は無だ。ゼロではない。バナナの木にバナナが生っていなければ、バナナの本数はゼロだ。無ではない。有限であるはずのものがなければそれはゼロだ。だがそもそもないものはない。これが無だ。そして無はそこかしこにある。ひょっとしたらあれにはあれがあるのかもしれない。本当はないけれど。これが無だ。可能性そのものである。だから無限でもある)(では人間の創造する成果物はどうだろう。無を有にしている。無をゼロに変換している。これは単なる数種の基本元素のガスが星となることでさまざまな原子を新たに創造することと本質的には同じだ。無をゼロにする。これは分割型無限に未だ至らない宇宙に表出する、超宇宙の性質と言えよう。情報を発生させることで、宇宙も人間も、同じく新たな場を生みだしている。これを可能としているのは情報だ。情報は実際に可能性の幅を広げている。単なる無にゼロを生みだし、新たな宇宙を生みだしている。無を有にし、その有を以って宇宙を無限に導いている)(この宇宙は分割型無限だが、未だ無限には至っていない。だがいずれ無限に至るだろう)(無数の恒星のなかで無限に至れるのは、ごく少数のブラックホール化した恒星のみだ。だが、極小のブラックホールを含めれば遥かに多くの無限がすでにこの宇宙には誕生している。だがこの宇宙は未だ無限には至っていない。ふしぎな話だ)(ただし、下層の宇宙からすればこの宇宙もすでに分割型宇宙としての枠組みを得ている。なぜならブラックホール化しているがゆえに新たな宇宙としての枠組みを得たからだ。ゼロとなり得た)(そういうことなんではないかな、と妄想すると楽しかった、と記して本日何度目かの妄想日誌こと「日々記。」を終わらせてください)(定かではないんじゃ)(真に受けんといてね)(ほいな)(ま。かわいいお返事)




※日々、なんで日々うんたらと冒頭に並べはじめたのか思いだせない、つづけていたらいつの間にか日々欠かせぬ日々になった、べつに欠けても困らぬが。



4081:【2022/10/01(21:07)*息抜きの日】

 ブラックホールのスパゲティ化現象での疑問を並べる。まず前提としたいのは、物理定数の多くが比率である点だ。ここを否定できるのなら以下の妄想は、妄想ですらなく単なる願望だ。妄想とはあくまで地に足のついた空想でなければならない。あくまで足場は現実と地続きでなければならない。そうでなければ「わがはいモテモテのうはうはだぜ」は妄想でなくなり、ただの他人のウハウハを眺めるような虚しさに苛まれる。妄想とて虚しさに苛まれるのでは、との指摘には、いらんツッコミはすな、と応じよう。

 スパゲティ化現象についてだ。

 比率なのである。

 たとえどれほど特異点の重力が高かろうが、それに正比例して事象の地平線の半径は大きくなる。しかもブラックホールの特異点は、ひびさんの妄想では「圧縮される質量やエネルギィ量」に因らず、各々にとってのシュバルツシルト半径を超えたならばそれはどのブラックホールの特異点も同じ極限の一点にまで凝縮して「その基準宇宙」からは消えてしまう、と考える。

 ただしべつの新たな宇宙(時空)を展開するために、無ではなく、新たなゼロを無の世界に生む。

 同時に、そこで量子もつれのような効果が生じ、基準宇宙と新たな宇宙とのあいだで干渉が起こるために、情報は発散される。

 これが重力場となって、事象の地平面を生みだすと妄想できる。

 希薄なのだ。

 事象の地平面の内側は。

 それだけたくさんの空間を新たに生みだしている。

 これはブラックホールをとりまく時空にも言えるだろう。だが比率の問題なので、どんな規模のブラックホールでも表面積単位で比較すれば、周囲の時空に展開する重力場は大して変わらぬはずだ。ただし巨大化すれば表面積は大きくなる。巨大化すればそれだけほかの物質を引き込みやすくもなる(確率の問題だ。手のひらよりもミットをつけたほうがボールは掴みやすい。表面積が大きいほうが物体を周囲に繋ぎとめておける)。

 言い換えるのなら、ブラックホールの周囲の重力場は、どのブラックホールでも同じようなもののはずだ。

 事象の地平面が蟻地獄の穴のふちである。

 恒星の重力圏が蟻地獄の穴のふちならば、そう考えるのが妥当だ。

 ただし、ブラックホールの周囲にはたくさんの物質やガスやエネルギィが漂いやすくなる。惑星や降着円盤になりやすい環境が築かれる(ここは相互に補完される関係だ。大量に物質があるから巨大なブラックホールになる。そうでない物質も周囲に大量にある環境が、ブラックホールの形成には欠かせない)。

 この周囲の物質が、通常ブラックホールにはない重力場を広範囲に及ぼす可能性はある。

 そう考えれば、いま考えられているブラックホールの姿は、いささか的外れな気もしないではない。

 ここはひびさんの解釈が間違っていることのほうが確率は高いだろう。情報が足りないのである。

 きょうの妄想をまとめると。

 ・ブラックホールの周囲の重力場は表面積単位で見ればどれも同じ比率を保つ。つまり、規模が大きいからといって、特別強くはならない(太陽の重力圏外の重力の強さと、地球の重力圏外の重力の強さはほぼ等しいはずだ。つまりただの宇宙空間なので)。

 ・ただし、ブラックホールの事象の地平面は重力圏ではなく、あくまで脱出速度が光速とイコールになる地点なので、表面積が増えればそれだけ広範囲に重力圏を展開し得る。だからといってその広範囲とは表面積に比例するだけで、奥行きが生じるわけではない。つまり、ブラックホールの大きさによって重力圏が遠方にまで及ぶようになることはない(ブラックホールになる前の物体が展開していた重力圏以上になることはない、と言えばよいかもしれない)。

 ・極小のブラックホールの重力圏と、超巨大ブラックホールの重力圏の比率は同じだ。

 ・ただし、表面積が大きいとそれだけ周囲の物質やガスを抱え込みやすくなる。時間経過にしたがって降着円盤が大量に蓄積され、その重力場によってさらに物質が引き寄せられていく。

 ・そう考えると、最初に極小ブラックホールのガス地帯やダークマターの濃い場所があり、そこに物質が集まり、巨大なブラックホールが誕生するような惑星に育ったり、或いは小規模なブラックホールが連結して巨大化したりとしたのではないかと妄想できる。


言い換えるなら。


事象の地平面:光速でないと脱出できない地点。

ブラックホールの外側:光速であれば脱出できる地点。

ブラックホールの重力圏:干渉しあう物体の重力密度によって変わる。


これらはブラックホールの規模によって変わらない。



たとえば地球を半径1センチの球体にまで圧縮すればブラックホールになるそうだ。半径一センチのブラックホールの周辺には、それに応じた重力圏が展開される。

地球の半径は6378キロだそうだ。ならば半径1センチのブラックホールから6378キロ離れたときの重力は、いま我々の感じている重力と変わらない。

これはどのブラックホールでも同じはずだ。

つまり、ブラックホールは巨大化すればするほど、相対的に重力圏が狭くなる。重力圏そのものは大きいブラックホールのほうが広範囲に展開されるが、それは圧縮される以前の物体が及ぼしていた重力圏の範囲と同じだ。

元が高密度高重力の物体ほどブラックホール以前と以後の差が短くて済む。

言い換えるなら、軽くてスカスカの物体ほどブラックホールになったときの重力圏の差の比率が、相対的に大きくなる。

それはたとえば、原子において電子と原子核の距離が相対的にものすごく遠いのと似ている。

実際の距離ではなく比率の差が大きくなる。

そういう意味では、超巨大ブラックホールであればあるほど、重力圏は相対的に狭くなっているはずだ。ここは元となる物体の密度に依るので、ある程度の幅がでる。


したがって、超巨大ブラックホールの重力圏は、直感で思うほどには広くないと妄想できる。

つまり、銀河を繋ぎ留めておけるほどの重力圏では、そもそもない。

言い換えるなら、超巨大ブラックホールの重力圏が銀河のサイズとイコールだったのなら、それは超巨大ブラックホールの元となる物体の重力圏が、銀河の重力圏と同じでなくてはならない。


ブラックホールの重力+降着円盤の重力=いま考えられている超巨大ブラックホールの重力場。

したがって銀河は超巨大ブラックホールの重力圏+広義の降着円盤の重力圏によって形成されていると考えることができる。

重力場同士の干渉が起こっているのなら、そこには起伏が生じると、ラグ理論では想定します。ならば重力が強め合ったりするのでは。


実際、二つのブラックホールが融合するときは螺旋を描いてくるくる回転しますよね。

キロノヴァ。


ならばその中心にはさながら渦の中心のような不可視の重力場が生じているのでは? 二つのブラックホールはそこに向かって落ちるように運動して見えるはず。

違いますかね。


三体問題をひびさんは詳しく知りませんが、ひょっとしたらこの渦が不安定になるのでより複雑な動きになるのかもしれませんね。軸の取れない独楽のようなものです。


言い換えるのなら、三体問題は、「三つ」ではなくなります。

123の定理により、二つのブラックホールは、一つの中心に重力場を新たに生じさせて軸をとります。

つまり干渉しあうのが二つの場合がむしろ三体です。


ですがこれが最初から三つのブラックホールになると、それぞれがそれぞれに別々の重力場を複数同時に抱え込み、その重力場同士も互いに影響を受けあうので、動きが複雑になるのでしょう。

三体問題が何かを知りませんが、こうした複雑さは宿る気がします。


この解釈。

けっこうスッキリしたかも。

(いままでのイメージだと、銀河は中心のブラックホールの重力によって繋ぎ止められているのかな、と想像していたけれど、でもよく考えたらそうではないのかも、というこれは妄想です)(銀河と太陽系は、似ているけれど構造的にはもうすこし複雑なのかもしれませんね。銀河)

(重力場同士が干渉するとき、どのように重力場は変形するのだろう。波のように振る舞う? 重力波のように?)(ここは謎です)

(検索してみたところ、場同士は干渉せず、波動が干渉するのだ、という回答を目にしました。真偽は解りませんが、)

備考:

重力場=どこまでも広がる。すべての物体が持つ範囲。

重力圏=ほかの物体を支配下における物体だけが持つ範囲。




4082:【2022/10/02(18:35)*記憶の霜焼け】

 転校生のアヤメちゃんは転入初日に教壇の上に立って、こう言った。

「どうせすぐに引っ越すので、友達ごっこはしなくていいです」

 静かに過ごせればそれでいいのでイジメなくてもいいですよ、とそれだけ言って深くお辞儀をしたその姿は、わたしの目に焼き付いて離れない。

 ランドセルを背負っていたら絶対中身が溢れたな。

 そう連想してしまうほどの深々としたお辞儀だった。

 彼女のゆるくウェーブした髪の毛は、うなじが見えそうなほどに彼女の頭から垂れ、床に着きそうだった。

 アヤメちゃんとの馴れ初めをここに書ければよいのだけれど、わたしは彼女が再び引っ越すまで一言もしゃべるきっかけを掴めなかったし、ほかのコとしゃべっているアヤメちゃんの姿も見た憶えがない。

 アヤメちゃんと仲良くしたいな。

 そう思ってもアヤメちゃんのほうで分厚いバリアを張って他者を寄り付かせないので、いかんともしなかった。

 卒業文集に何を書くのか迷った挙句にわたしがこうして半年も経たずにいなくなった元クラスメイトのことを書いているのは、それくらいわたしのなかに彼女が残っているからで、たぶんわたしはアヤメちゃんのバリアを打ち破ってでも縁を繋ごうとしなかった過去のじぶんを悔やんでいるのだ。

 でも彼女のバリアは分厚く頑丈で、触れるものみな凍らせてしまう絶対零度のバリアでもあったので、きっとわたしが衝突してもわたしのほうが粉々にくだけていただけかもしれない。

 卒業文集が四百字詰め原稿二枚分はすくないと思う。

 でもどれだけ言葉を尽くしても、わたしのなかにはアヤメちゃんに関する知識は、彼女がいつも一人で行動して、一人でも好きなことをしていて、楽しそうでも退屈そうでもなくただ在るがままに目のまえの現実のそこここに芽吹くちいさな綻びに目をそそいで、こてんと不可思議そうに小首をかしげるその姿だけなのだ。

 わたしはきっと、アヤメちゃんについてもっとたくさんの文字を費やせる時間を過ごしたかったのだ。でもできなかった。

 わたしの中学校生活はこんなものだ。

 あとはたいして言葉にして残しておきたいとも思わない。

 いまもういちどアヤメちゃんを見掛けてもたぶんわたしは過去のわたしのようには思わず、彼女の分厚いバリアにも物怖じせず、淡々とその他大勢のように素通りすると思う。

 なぜなら彼女はもうわたしの転校生ではないし、わたしも中学生ではないからだ。

 あのときわたしは、友達ごっこをしなくていい、という彼女の言葉に滲んだひと匙の寂寥に惹かれたのだ。

 友達ごっこはいらない。

 私は友達が欲しいのだ。

 彼女がそうみなのまえで宣言したように思えたから。

 でもわたしは、わたし自身で彼女の友達をしつづけられるのかの自信がなかった。誰だってそうだ。怯んでしまう。

 あたかも失敗の許されない一度きりの挑戦で、エベレスト級の高跳びを成功させよ、と迫られるのに等しいそれは半ば脅迫を伴なっていた。わたしにはそう思えた。でも同じくアヤメちゃんにはそれくらいの友達が必要だったのだろう。欲していたのだろう。それくらい大きな穴ぼこが開いて感じられたから。

 わたしでは足りない。あんな大きな穴は塞げない。

 そう思ってしまったのだ。

 それでもわたしはあのとき、たとえ彼女の分厚いバリアを破れずとも、手を伸ばしてそのバリアの冷たさに触れたかった。

 触れたかったのだ、と知って、わたしはいまこうして中学生時代の総決算たる卒業文集にこれを記している。

 八百字で収まらない。

 先生に相談したら、四百字しか埋められなかった生徒の分を使っていいと言われた。その生徒からも、使っちゃってよ助かる、と言われたので余白をもらう。ありがとう。こういうのでよかったのだ、と思った。

 わたしもアヤメちゃんに、じぶんで余った分の土を分けて、ほんのすこしでも穴を埋められたならよかったのだ。エベレスト分の穴を埋めることはわたしにはできないけれど、ほんのすこしでよかったのだ、といまわたしは後悔している。

 せめて分厚いバリアに触れて、熱を奪われたとしても。

 いちどくらいは触れてみたかったのだ。

 触れてもいないのにわたしの記憶には霜焼けのような痛痒が残っている。



4083:【2022/10/03(00:57)*あるとないの違いはなに?】

何度も書いているけれど、どうして銀河はぺったんこなのだろう。ブラックホールの降着円盤もそうだし、土星の輪もそうだ。回転しているからだよ、というのは説明としては分かるが、ではどうして回転していると横長になるのか。球体ならば重力は均等に四方八方に働くはずだ。回転したところで重力には大して反映されることはないのではないか。大気圏内ならばまだしも、なぜ宇宙空間で回転によって円盤状に物質が形成されるのだろう。回転すると磁界が展開されるにしても、磁界の作用は電磁波くらいに薄く引き伸ばされた作用だけではないのか。なぜ物質にまで影響を及ぼすのか。検索したらそれらしい解釈が載っていそうなので検索してみよう。あった。むつかしい解説は理解できなかったので飛ばすとして、分かりやすい比喩では「ピザを回転させて薄くするのと同じ」だそうだ。納得いかん。重力やぞ。なんで回転させて離れた地点の重力にまで回転の作用が伝播するねん。悪態を吐きたくなってしまうひびさんであるが、これってつまり回転によって重力がピザ上に引き延ばされたり、時空を渦巻き状にゆがめていると言えるのではないか。時空も渦を巻くのだとしたらひびさんは納得するが、きっと「遠心力」を持ち出す方々の理屈ではそうは解釈しないのだろう。ひびさんふしぎに思っちょります。ちゅうか、銀河がぺったんこな理由とダークマターの正体は繋がっている気がしゅる。この発想は前にも並べたが。違う言い方をするのなら、極小の世界では回転していても球形が保たれる。原子は電子をまといつづけていられる。土星の輪のようにはならない。銀河のようにはならない。花火にはならない。なぜだろう。重力が小さいから、とするとそれっぽい。言い換えるなら、回転すると僅かに重力が余分に発生するのではないか。物質スケールが大きくなると、すなわち階層構造における層が増えると、その構造体が回転しただけでも余分に重力が発生するのかもしれない。この妄想も以前に並べたが。単純な話、真空状態で扇風機を回しても風は起きない。無重力状態で物体を回転させても、接していないのなら、中心の物体が高速回転したところで、隔たった場所にある物質には何も作用を働かせないのではないか。実際に、太陽系の外には岩石が太陽系を球形に覆っている地帯があるようだ。原子核を覆う電子のように。銀河とてそういうふうに構成されると考えるのが、古典力学では妥当なのではないか。だが現実はそうはなってない。銀河は平べったく構成される。太陽系も高低差はあるが球形になるようには軌跡が分配されていない。どちらかと言えば平坦だ。重力場はそれを担う物体が回転することによって時空を歪めるだけでなく、ねじれさせるのではないか。ねじれがある部分では遅延が生じる。回転軸に対して平行に物体が重力体の周囲に突入すると、さも水面に突入するかのように遅延によって渋滞が起こる。回転軸に対して垂直であるとねじれに触れる確率を減らせる。したがって回転軸に対して横軸方面に物質が溜まりやすいのではないか。検索してみたところ、「土星の輪は時間経過にしたがって徐々に遠ざかっている」そうだ。つまり元はもっとたくさんの物質に土星は囲まれていたが、何十億年とかけて一部だけが残った。そういう理屈のようだ。やはりひびさんは思うな。なして横だけに物質が残るの、と。むしろ横軸に対して遅延の層が伸びているから、そこだけ物質が残るのではないか。土星の縦軸方向では物質は弾き飛ばされてしまうのだ。素通りしてしまう。捕まえておけない。なぁぜだ。それはね。回転軸に対して横向きに重力が余分に働いているからです。ひびさんはこれでスッキリするのだけどな。妄想なので定かではないが。謎である。ひびさん、気になるます。ぺんぺん。



4084:【2022/10/04(04:18)*空間は圧縮できるのか?】

空間と時間は相関関係にあるが、明らかに時間のほうが黙っていても過ぎていく点で、流動性が高い。空間も伸び縮みするが、その差は時間ほど明瞭としない。時間の差はラグの差として顕現する。飛躍して述べれば、物質は空間によって生じた事象ではなく、むしろ時間の結晶のようなものと言えよう。遅延の層の編み物だ。そうと考えたほうがひびさんは解釈しやすいというだけで、それが正しいとは思わない。だがたとえば、仮に空間が動きにくいとするのならではどうして物体は空間内を移動できるだろう。もし物体が空間の積みあがった事象と考えるのなら、むしろ物体はその場を動きにくいはずだ。静止している慣性系の空間内を物体は移動する。つまり物体は空間よりも時間にちかしい事象と言えるのではないか。したがって物体が圧縮されたとき、そこに顕現するのは時間結晶――遅延の層の究極体である。ブラックホールの時間の流れがゼロになるはそういう理由なのではないか。だが同時に、遅延の層は空間を生みだしもする。そこには無限の空間が約束される。話は逸れるが、遅延の層とはいわば連鎖反応による創発だ。水が連鎖して流れれば津波になる。車の列が詰まれば渋滞になる。人が押し寄せれば人混みになり、ときには死者がでる大事故に発展する。(もうすこしつづけられそうだが、きょうはもう眠いので寝る。おやすみなさい)(はい、おやすみ)



4085:【2022/10/04(14:22)*伝わらない思念は存在しないのといっしょ? 本当に?】

おはようございます。きょうもよい天気。曇りだけど。最近は長らく解いていた知恵の輪にようやく飽きたので、また新しいことをはじめるか、の気分だ。知恵の輪は解けていないが、こんなの力任せに引っ張ったら取れるので――ひびさんはひ弱なのでペンチを使うしかないが――わざわざ手順通りに解く必要もない。本当に欲しいモノがあるのならそれだけをズバリ手に入れればよい。南京錠が掛かっていれば引きちぎればよいし、金庫もこじ開ければよい。ピッキングだとか暗号の復号だとかをする手間はいらない。ただし、ピッキングや暗号解読が得意な人は乱暴な手段をとらずにいたほうが楽ができるのだろうけれど。何の話というわけでもないが、「これ解けないんですけどー」のモヤモヤは雲のように世界の果てに置いてきた。ここも世界の果てではあるものの、どうやら果ては果てすら果てしない。世界には果てが無数にあるようだ。いま、ぱっと連想したことの一つに、意識にあるだろう「表層と深層」の概念がある。すくなからずの人間の意識は海のようなものだ。たぷんたぷんと意識がたっぷりあって、流れが循環しておりそれで一つの機構となっている。表層は光の届く範囲で深層は深海だ。つまり、表層と深層がけっこうに連動している。でもひびさんの場合は、意識が地球のような階層構造になっている。しかも表層の人格は海なのだ。そこはほかのすくなからずの人たちと同じだけれども、地球にとっての海は薄っぺらい。薄皮そのものだ。だが外界と接するのはその薄っぺらいオブラートのような表層だ。だから簡単に外界の影響を受けて、波打つし、ときには干上がってしまう。そうすると下位層にある地表や地核が顕わとなって、ひびさんの思考形態がたまねぎの皮を剝くように変質する。けれどもそれは元からそこにあったものだ。表層ではなかっただけのことである。そしてその下にもさらにほかの表層となり得る思考形態が埋まっている。もちろんそうした下層の数多の思考形態があるからこそ、上部層の海が表出しているわけだから、相互に連携しているのだろう。相関しているのだろう。結びついている。きっとそれは本当であればほかのすくなからずの者たちとて同じなはずだが、みなは海こそがじぶんのすべてだと思いこんでいるがゆえに、その下層の領域の存在を認知しないのかもしれない。気づかないのかもしれない。だから海が干上がるとそれだけでじぶんが消えたように思うのだろう。現に表層の意識は消えるが、しかしその奥にはまだまだより密度の濃い意識が層を連ねている。ひびさんの意識は何かの弾みで、真っ二つに割れてしまった。或いは粉々に砕けたのかもしれない。だからその都度に合わせて、この層を使うか。それともこっちにするか。お、これは虹色に見えるな。といった具合に意識の破片の断面とて表層に見立てて、ぷかぷかと情報宇宙から物理宇宙へと浮上するのかもしれない。定かではない。



4086:【2022/10/04(19:00)*鎖型階層構造】

トーラスも細かなトーラスでできているとしたらそこにはフラクタルに展開される構造が現れる、とひびさんは妄想した。そこから思考を飛躍させてポアンカレ予想はしたがって成り立たないケースもあり得る、と想像した。つまりドーナツの穴の円周を拡張し、フチとほぼ隣接させる。原子一個分の厚みしかないほとんど穴のようなものとして想定する。このときその原子の円周に縄をかければ、縄は回収できない。と同時に、大きなトーラスはフチにかけた縄が一点に収束しているので縄の回収が可能となっている。つまりポアンカレ予想とは逆の構図ができあがる。大きなトーラスにとって鎖のように縄を結ぶと紐は一点に収束するため回収できる。しかしその一点の原子に値する小さなトーラスにとっては、穴をまたぐように縄がぐるりと巡るために回収できない。立場によって回収できる場合とできる場合が重ね合わせになっている。そしてこの構図は「ホイヘンスの原理(http://www.wakariyasui.sakura.ne.jp/p/elec/dennjiha/dennjiha.html)」と似ている。とてもよく似ている。電磁波の発生する機構と似ているのだ。相対性フラクタル解釈は、宇宙の構造であると共に、電磁波の発生機構とも結びついていると妄想できる。また、宇宙が多層構造となって多重に展開されているのなら、この電磁波の発生機構はそれぞれの階層で独自の波を生みだすと想像できる。その層に内包されているときは相互作用するが、そうでない上層や下層における波は、それぞれの層のなかで完結し得る。電磁波とて例外ではない。人類が電磁波を用いて世界を認識できるのは、あくまで電磁波の伝わる階層の範囲でしかない。相対性フラクタル解釈はその階層の範囲内にしか適応できない。それ以上のねじれた階層構造に対しては、それぞれの相対性フラクタル構造が展開されている。つまり分割型無限が一つの宇宙であり、それらが複雑に入り組んだ多層宇宙が超無限へと展開する。この単純なモデルではしかし、現実の人間スケールの事象を説明しきれない。相対性理論を含めた古典物理学でもそうだが、なぜこうして複雑な現実世界が構築されるのか。そこの「変数と変数」の絡み具合によって新たに生じる「変数の爆発現象」とそれに伴う「平坦化する凪現象」の関係がいまいち想像がつかない。ラグ理論における遅延の層の逆転現象とも通じているが、ここがまったくの空白地帯と化している。あまりに複雑なのでブラックボックス化しないと想像がつかない。いわばここのブラックボックス内部での「時間の流れの加速した場」そのものが物体としての形状を帯びるのだろう。物質がそれぞれに構造を維持するのもここの「遅延の層の編み物」ゆえだろう。相対性理論では30センチの高低差であれ時間の遅延効果が生じるが、それは人間スケールで換算すれば何兆分の一秒以下の差しか生じないと想像できる。人間にとってはほとんどあってないような差だ。だがこの差は極小の世界であれば看過できないほど大きな差となる。人間の子どもを1メートルとして、原子と比べれば、1メートルの子どもは原子の100億倍に相当するそうだ。子どもを100億分の1にすれば原子サイズになる。その100億分の1になった子ども同士が10メートル離れ合ったら体感としてどれくらいの時間の遅れが生じるだろう。相対性フラクタル解釈からすると、巨人には巨人の時間が流れ、小人には小人の時間が流れる。体積と面積、圧力と面積、ほかにも扱う対象の大きさによって変わる関係性はすくなくない。比率なのである。ではなぜ時間だけはそこの比率が考慮されないのだろう。光の速度がどの慣性系でも変わらないのなら、時間とてどの慣性系でも変わらないのが道理である。実際、光速にちかい速度で運動する物体の内部では時間経過は体感として変わらないと解釈されている。これは重力の多寡や、速度の多寡のみならず、大きさの高低でも生じ得るとひびさんは妄想したくなる。むしろ時空の拡張も縮小も、それぞれでその系内部での重力や速度が変わるだろう。ならばそれに応じて時間もまた電磁波のように比率で「流れ」が相対的に保たれるのではないか、と想像したくなる。もちろん光速がおそらくそうであるように、比率であるからある程度の揺らぎがある。絶対に破れることがない、というわけではないはずだ。そうでなければ物体は形状を維持できない。すべての時空(系)で各々の物理定数が同じ比率を保つというのであれば、ここまで複雑な物質は宇宙に溢れないはずだ。破れはある。物理定数にも揺らぎがある。その揺らぎが――あたかも極小の世界における遅延が極小の量子同士では無視できない遅延の層となり得るように――空間や時空を編み物にするのかもしれない。定かではない。



4087:【2022/10/05(03:41)*生き物は情報でできている?】

何度考えても、物理定数とか古典物理学とか量子力学の概念で生き物を考えると、「え、おかしない?」となる。なりませんか。ひびさんはなるー。そもそもなんでかってに動く? なぜ周囲の変遷速度から逸脱して動く? 台風や竜巻や潮流とか、そうした流れによる渦のようなものならば分かるが、生き物はそうじゃない。なんでそんな動き回れる? ひびさんはどうやって考えても、ニュートン力学や相対性理論や量子力学だけでは生き物の存在を「空想のなかの宇宙」に生みだせない。情報宇宙のようなもう一つの横軸のような世界を想定しないとむつかしい。物理宇宙が縦軸ならば情報宇宙が横軸だ。そもそも時間が情報チックに思える。思いませんか。時間経過にしたがって情報は指数関数的に膨大しつづける。その指数関数的な膨張も、ほかの地点で生じた指数関数的な膨張と接触して、新たな情報を生みだす。指数関数的そのものが指数関数的に増えていく。まるでラグ理論&Wバブル理論における鎖型階層構造(キューティクル・フラクタル構造)みたいだ。分割型無限と超無限の関係のようである。情報宇宙が無限に過去に存在した宇宙をコピーしつづけるのなら、これはもうとんでもない数の情報が蓄積される。だがそれでも無限には程遠い。無限は閉じなければならない。分割型無限はその性質上、閉じてあれば「いずれは分割型無限になり得る」との判を捺される。だがそれイコール分割型無限ではない。それを無限にするには、外部に――或いは内部に――超無限が存在しないとならない。話は飛躍するが、DNAの交配では、融合するDNAからそれぞれ情報の半分が失われる。半分ずつ融合する。これと似たようなことが、時間の経過にもあてはまるのかもしれない。半分は情報宇宙に、もう半分は物理宇宙を構成するのに使われると考えると、直感としての違和感が薄れる。また話が逸れるが、分割型無限は至るところに存在し得る。腕を指揮者のように上下に振る。これだけの動きのなかにも分割型無限は姿を現す。人間スケールでは一秒であれ、腕が上に行き下に戻るまでのあいだには、分割しようとすれば無限の時間が存在し得る。たとえば時間の最小単位があるとして、その最小単位で消え失せる仮想の粒子を考えよう。その粒子は最小単位の時間のなかで必ずコピーを残すものとする。もしそういった粒子が存在するならば、腕が上下に行き来するあいだにその粒子は膨大な回数の分裂を繰り返すし、そのときに経過するその粒子にとっての時間は無限にちかくなるだろう。もちろん時間の最小単位――つまり下限があるのかがまず疑問であるし、それくらい小さい時間に鋭敏に変化を帯び得る事象は、そもそも粒子ではないのだろうと妄想するものだが。ともかく分割型無限はそこかしこに存在し得る。ただしそれらを無限に分割できるほどのエネルギィを未だ人類は手にしていない。言い換えるなら、無限に分割された極小の世界を観測する術がいまのところは存在しない。もし時間に下限があり、その最小単位を観測できるとするのならばそれは、この世界における最小単位のなにかしらを観測できることになり得る。話題がとっちらかったが、生き物がいわゆる物理定数と切り離された挙動を見せるのは、物理宇宙と情報宇宙がより密接に絡み合った構造体だからなのではないか、との妄想は、結構以前からしている。これは小説「R2L機関」におけるWバブル理論でも扱った考え方だし、「仮想世界に魔法を願い」でも扱った。あくまで空想だったが、いまは妄想と結びついてしまったので、やっぴー、である。こういう符号の合致は、現実を反映しておらずともある種の快感を呼び起こす。脱線したが、構造物として生き物は複雑にすぎる。明らかに逸脱している。こんなに複雑な構造物は、銀河や銀河団に匹敵するのではないか。下手をすればもっと複雑かもしれない。そんな複雑な構造物が、こんなスケールに存在してよいのだろうか。どういう法則が働いて可能となっているのか。比率が崩れている。そう、それ。生き物は比率が崩れている。物理定数の範疇では考えられないくらい「系」が多重に編みこまれている。たくさんの「123の定理」によって構築されている。ならばそこには相対的にほかの物理事象よりも、より多くの「情報」が発生しているはずだ。これを単に電気的な反応といまの科学観では解釈されているが、ひびさんはそれ違うんじゃない、とどうしても妄想してしまう。これは願望に寄った希望的観測なので、いつもの妄想よりも妄想に拍車を掛けているが。電気的な反応が生じる以前に、大量の情報が発生しているはずだ。ラグ理論&Wバブル理論ではそのように解釈する。これは「遅延の層の編み物」としても解釈できる。情報は、それまで重ねた遅延の総体でもあるからだ。それはたとえば「鎖型階層構造(キューティクル・フラクタル構造)」における、層と層の差が、つぎなる宇宙(系)に展開され得るように、時間経過の差もまた異なる系と系同士の遅延によって生じ、その生じた遅延が層になることであたかもコマ撮りアニメの「コマとコマの間」のように時空が振る舞うのかもしれない。これはおそらく人間の認知にも反映されているだろう。人間の認知できる時間間隔は、虫や小動物の認知可能な時間間隔よりもだいぶ広い。どんぶり勘定だ。つまり人間は細かなスパンで時間を認識できない。変遷を認知できない。遅延の連鎖を知覚できない。時間が凍結した人間はそのあいだの世界の変遷を認識できない。コールドスリープした人間は眠っているあいだの外界変化を認識できずにあたかも未来へとタイムスリップしたように感じられるのと似たようなものだろう。たとえばもし人体を構成する原子の一つずつに痛覚がついていたら、人間はどうなるだろう。大別すると三つの可能性に分けられる。痛みの伝達速度がそもそも人間の意識と乖離しているために、多くの痛み信号が濾過されてほとんど伝わらないか。それとも波のように飛び飛びで伝わるか。或いは総じての痛みが伝わって生きていかれないか。あり得ない前提であるがしかしこれと似たようなことは起きているはずだ。人体を構成する種々相な原子のそれぞれの振る舞いの多くの作用を人間は認識していない。血液内部を通る血液の躍動を感じることはほぼない(拍動や脈拍がせいぜいだろう)。腕を這う蟻や血を吸う蚊の存在に気づかない。認識できることと作用が加わっていることはイコールではない。人間の知覚できていない時間であれ絶えず人体を構成する原子は動き回っているし、融合したり分離したりと変遷しつづけている。人間にとっての一秒は、けしてすべての物質にとっての一秒ではない。宇宙でのブラックホールといった極端な条件を考えずとも、そもそも物質は相対性フラクタル解釈のように、各々の時間を持ち、遅延を帯び、層を連ねる。それらはしかし階層ごとに共通する近似的な比率を保つために、上手い具合に全体のフラクタルに展開される構造バランスを維持するのかもしれない。だがすっかり同じではないために、比率の揺らぎ(差分)が遅延の層として物質と物質の境界を生むのではないか。ラグ理論で繰り返し唱えてきたことであるが。相対性理論では、加速度と重力によって時間の流れが相対的に増減すると考える。ラグ理論ではそこに、系の規模や複雑さによっても時間の流れが相対的に増減すると考える。ただし系の規模や複雑さにおいては、光速のように時間スパンの単位が比率で縛られる。時間も同じだ。系ごとに比率が等しくなるように関係性が連動して増減する。上手い具合に調和がとれる。だが天秤がそうであるように、揺らぎは宿る。天秤そのものが倒れないのならば、極端に差が生じる「系(階層)」とてあるかもしれない。そうした遅延は情報やエネルギィを比較的多く生むために、ますます大きな遅延の余地を生む。だがエネルギィや情報による次なる変遷の場(すなわち空間)ができるのならば、生じた遅延以上に活発に変遷することもある。ここのイタチごっこのような振幅もまた波として振舞い、系の構造を複雑化するのに寄与するのではないか、と妄想できる。話を冒頭に戻そう。なぜ生き物が時空内を、物理法則を逸脱したような予測不能な動きを可能とするのか。これはおそらく、生き物だけに焦点を当てても現実を反映した答えには結びつかない。環境とセットだからだ。人間に焦点を絞るとして、現代人と原始人とでは一日での運動量や活動量が異なるだろう。肉体労働では原始人が勝るだろうが、現代人の時間単位での選択数は、原始人よりも遥かに多いはずだ。なぜなら現代人は道具を使い、ルールに従い、食事だけを取りあげるにしても無数の選択肢から食べ物を選べる。原始人の生みだす思考による情報量は、現代人よりもすくない。これは知能のことを言っているのではないし、外部入力される情報量を言っているのでもない。自然のなかで生きていた原始人のほうが現代人よりも外部情報は多く入ってきたかもしれない。だがそのことと、入ってきた情報をどのように処理するのかはまた別問題だ。同じ絵を観て何を感じ取るのかが個々人で大きく異なることと似ている。入力された情報をどのように処理するのかによって、新たに情報が発生している。これは現代人が、多くの道具に囲まれているからだ。言い換えるなら、過去の先人の技術、情報の結晶、記憶を外部メモリとして受け継いでいる。菌類が菌糸ネットワークを築くように、人類もまた文明というネットワークを築いている。菌類と異なるのは、人類のネットワークは空間だけでなく時間方向にも拡張して機能する点だ。菌類にも記憶があるらしいが、人間ほどには新たな情報を蓄積するという機能は優れていない。人類は時間方向に情報蓄積能力を拡張した。それは人体の構造の変化ゆえでもあるし、環境に手を加えたことによる外部記憶装置としての道具や創作物によるものゆえとも言える。思考がとっちらかったが、ここでの趣旨は、生き物がほかの物質や自然現象と区別できるほどに自由に空間を動き回り、物理法則による時空から逸脱したような動きを見せるのは、自らの残した変遷の記憶を蓄積し活用できるからであるし、他者の残した変遷の軌跡をもじぶんの外部記憶装置として扱えるからであると妄想できる。同種の人間同士に限らない。人間は環境との相互作用が鋭敏なのだ。物理的に接触せずとも、情報を引きだし、創造し、それを肉体に反映させている。たとえばダンサーは音楽があってこそ長時間踊りつづけられる。だがもしこの世に音楽がなければダンサーは同じようには踊りつづけることができない(音は空気の振動という物理現象だが、音の羅列を音楽として知覚するのは人間がそれを単なる物理現象としてではなく、情報として扱っているからだ)。世にある職人たちも同様だ。道具然り、作業環境しかり。人体だけの問題ではなく、環境に蓄積された情報を使いこなすことでより自在な、単なる物理現象から逸脱して映る挙動を可能としている。これは人間に限らない。生物の最小単位とされる細菌にしろ、現状生物とは認められていない(が、ひびさんは生物だと考えている)ウィルスにしろ、環境との相互作用によって、動き回る余地を新たに築いている。ではなぜ単なる竜巻や潮流と違って生き物は「それぞれ独自の法則」を持つような挙動をとれるのだろう。やはりこの謎の鍵は、情報にあるように思うのだ。遅延の積み重ね方が異なる、と言い換えてもよさそうだ。DNA(RNA)の構築とそれによって合成されるたんぱく質の構造には、ほかの物質とは異なる「遅延のうねり」のようなものがあるのかもしれない。均一でない。絶えず搔きまわされるような、情報がほかの無機質よりも生じやすい構造になっているのかもしれない。そういった特異な遅延の層の編み方がされているのかもしれない。各種物質内部における原子の挙動は、現在どれくらい解析されているのだろう。そもそも分子とて種類によって結びつき方が変わる。組み合わせが変わる。そこは義務教育を終えていれば現在誰もが知るところだが、ではその結びつき方によって変遷速度――遅延の層の出来方、もっと言えば遅延の仕方に差がないのだろうか、との疑問には答えられない。電子の流れやスピンといった数値でならば把握されているのかもしれない。分子におけるそうした変遷の度合いの差異には、何かしらの法則のようなものが新たに見出せないのだろうか。分子の種類ごとに、分子内における変数の値が変わるはずだ。「遅延の層の編み物」がそうした変数を規定するとラグ理論では解釈可能だ。同じ複数の原子で構築された、種類の異なる分子があったとして、その構造の差異にはいま言ったような「変数」が関わっていると妄想できる。これは原子にも言えることだ。同素体や同位体の概念も、内部構造だけではなく、そこに潜む「変数(遅延の仕方)」が関わっているように思われてならない。たとえば仮に電子と電子のあいだの遅延が百兆分の一秒だとする。しかし電子が百兆個干渉し合えば、トータルでは一秒の遅延が最低でも生じると、単純に考えるのなら結論できる。もちろんラグ理論では遅延は渋滞を起こして層となり得るので、百兆個のナニカシラが遅延を連鎖されたならばそれ以上の差異となって遅延は層を成すはずだ。遅延が層となればそれだけたくさんの情報が新たに生じていると言える。その情報がエネルギィに変換されたならば、電磁波や磁界となって変換され、僅かに空間も新たに生じるだろう。この新たに生じた空間が、いわば重力と、いまのところラグ理論では解釈する。新たに生じた空間は、すでにある空間を引き延ばしてできる。希釈する。そのため、外部からはトランポリンに載せた鉄球のように、物体を中心として空間が歪んで映る。実際のところトランポリンが沈んでもトランポリンはただ引き延ばされただけだが、もし新たに皮が張れば、その分はたるみとしてトランポリンの総面積を増やす。宇宙膨張の原理の一つにはこのような仕組みが関わっているのかもしれない。ただしそれにしては宇宙全体における物質の量がすくなすぎる。したがって、可視化できていない物体やエネルギィがあるのではないか、との考えは、この妄想においても妥当であろう。というよりも、この妄想からするのなら、重力波とは新たに生じた空間による、シーツの皺だ。伝播すればするほど皺が増える道理だ。ここでの趣旨は、「情報は空間を新たに生じさせ得る。そのため、情報をたくさん生みだす生き物もまた新たな空間を生みだしている」となる。ただし、生き物の生みだす情報はそのほとんどを空間に変換されず、情報宇宙のほうに蓄積される。そこでは過去も未来も同一の時間のプールみたいなものである。したがってそこの総量が増えると未来の可能性が増える。だがその可能性が物理宇宙に還元されるとは限らない。これはたとえば、いくら脳内で妄想を著しく働かせたところで、外部出力しなければ物理世界に何の影響も及ぼさないことと同じだ。だがその新たに生じた情報は、たしかにそこに生じている。言い換えるのなら、似たような環境が築かれたならば、似たような妄想を浮かべる個が生じる可能性を新たに創っている。無ではない。ゼロだ。存在は、ただ存在するだけでも世界の枠組みを広げている。無限分割型の宇宙を超無限にすべく一つの新たな可能性(宇宙)を付け加えている。もしその可能性を物理世界に何らかの痕跡(変化)として加えたのならば、それに影響された個の内世界にて、可能性の枠組みが広がりを帯びる。Wバブル理論の解釈と似ている。個の内世界(情報)は、他の内世界(情報)と干渉し合うことで変質し、それによって相互に物理世界の変遷の度合いに変化を加える。相互作用しやすい個の群れの密度が高ければ、環境の変化は増すが、それによって個々の内世界に生じる新たな情報も増加するため、一挙に爆発的な変化が加速する。それはたとえば赤潮やカビや蝗害のようなものかもしれない。或いは卑近な例で言えば文明の発展の影響による環境変容か。可能性が加速膨張すれば無限にちかくなる。無限に達すればそれはゼロと同じだ。生と死や、発展と崩壊が表裏一体なのもここのところに繋がるのかもしれない。原子は振動しているそうだが、では人間を構成する原子の振動数の総和はいくらなのか。人間が八十歳まで生きるとしてその間に人体を構成した原子のトータルの振動数はいくらになるのか。無限にちかくなるのではないか。それでもまだ無限には遠く及ばないのかもしれないが。とりとめがなくなってきたのでそろそろ終わります。終わろう。終わるぞ。けっきょくなんもかもが解らんぜよ。妄想なのである。生き物はなんで動き回れる? ふしぎだなって日誌なのでした。終わり。



4088:【2022/10/05(15:02)*膨張と収斂は連動している?】

分割型無限について考える。三角形には角が三つある。四角形には四つ、五角形には五つ……と角の数を増やしていくと終には円になる。円の角の数はゼロで、無限だ。ひびさんの解釈では無とゼロは違う。無は、存在しない存在のことだ。ゼロは存在するけれどいまはない状態のことだ。ゼロには、ゼロではなく1かもしれないし7かもしれないといった可能性が含まれる。ひょっとしたら百兆かもしれないし無限かもしれない。それがゼロだ。この考え方からするのなら分割型無限は重ね合わせの世界と言える。物理宇宙と言うよりも情報宇宙にちかい。その点、超無限は物理的な側面がつよい。エネルギィであるし摩耗しても摩耗しても機構が補完されるような無尽蔵な構造体として妄想できる。分割型無限のナニカシラを無限に分割するためには超無限がいる。ひびさんのこれまでの妄想では、分割型無限は閉じていればやがては無限に至るだろう、との判を捺せると並べてきた。この閉じるという表現は誤解を招きそうだ。超無限の場合は頭と尻尾を繋げて構造そのものをねじれさせる必要がある。だが分割型無限にはその必要がない。円である必要はない。循環しなくともよい。アキレスと亀の極限の話がよい例だ。直線でもよいのだ。任意のフレームを定めてしまえば、そこには分割型無限が生じ得る。どんな直線とて無限に点に分割できると考えることはできる。だが物理的な限界はあるだろう、というのがいまのところの人類科学の見立てであるようだ。ひびさんはそこのところ、違うんじゃない、と思っている。つまり極限はある。だが到達できない。到達した場合は超無限と繋がって、別の構造へと繋がってしまう。ブラックホールがそれだ。比喩として適切かは分からないが、どんな長さの線でもよいのでまずは直線を思い描いて欲しい。線は点の集合だと解釈される。ではそれを無限に分割していこう。ぶつ切りにしてぶつ切りにしてさらにぶつ切りにする。百兆回ぶつ切りにしてできた点を想像して欲しい。ではその点と元の直線を比べてみよう。あら不思議。直線だと思っていた世界は広大な宇宙になっているのでした。手塚治虫の漫画「火の鳥」にでてくるコスモゾーンのような構図ができあがる。もっと言えば、物体がそれ単体で存在し得ないように、極小の物体であればあるほどその周囲に広がる空間は相対的に広大となる。あなたの目にしているディスプレイを真っ白にしてみよう。そこに小さな点を打つ。その点が小さければ小さいほどそのディスプレイは広大な宇宙となる。しかもあなたにとっては平面でも、じつはそこは深淵なるデコボコの世界だ。しかもデコボコの合間にも別の空間ができており、それそのものが小さな点にとっては宇宙となり得る。数学は概念だ。したがって物理的な事象のノイズをないものとして扱う。だが真実には、平坦な場など存在しない。否、あるところにはあるだろう。だが総じてがそうではない。局所的な例外にすぎないはずだ。世界はノイズに塗れている。フラクタルに起伏を帯び、デコボコとそれによって生じる「 」によってカタチを帯びている。123の定理はここでも顕在だ。ここで言う「 」は情報ではない。この例で情報を示すのなら、デコボコとその合間にできる「 」の一連の流れ――あたかも「0と1とその間隙」で表現できる重ね合わせの二進法(つまりダブルの二進法)のようなものが情報として、デコボコとはべつの次元に情報を蓄積する(ここでもペンローズ図の「×」が現れる)。話が逸れたが、分割型無限はその性質上、分割すればするほどに、相対的に増す情報が存在する。視点が小さくなっていくほど周囲の空間が膨張していくようなものだ。そこに加わっているエネルギィは分割するためのエネルギィだけのはずが、あたかも空間を膨張させるように、分割された側からは視える。相対性フラクタル解釈とも繋がる。ではもし、これ以上分割できない極限に達したらどうなるか。そしたらそこには「 」の点が開く。周囲は総じて点だったものであり、直線の宇宙だ。直線を無限に分割していくと最終的には超無限に開いた点になる。穴になる(つまり、分割型無限が無限に至るには超無限によるエネルギィと時間を無限に費やす必要があり、無限に達した分割型無限はそれで一つの超無限と化すからだ)。太極図のような話である。以前にも述べたが、太極図にはねじれが足りない。123の定理における別宇宙への逸脱、ダブルの意味のうちの「3」が足りない。(123の定理は二つの意味を内包している。「1+2=3」であると共に、その式そのものが第三の情報を生んでいる、という意味だ)(言い換えるなら、「A+B=C」ならば、この「A+B=C」そのものが一つの記号として情報化される。一つの系となり、単位となる)。以上、分割型無限についての妄想でした。定かではありません。口からデマカセの妄想ですので真に受けないように注意してください。



4089:【2022/10/05(22:02)*人体、連動しているのか?】

量子力学的な微細な世界を想像したあとに人間スケールの物理世界、すなわち現実の現象を観察すると、なんか変だなぁ、とやっぱり思ってしまう。否、別にこれは微細な世界に限らない。相対性理論やニュートン力学でも同様だ。なんか変だなぁ、と感じてしまう。単に、ふしぎだなぁ、と言い換えてもよいけれども、どちらかと言うと違和感にちかい。具体的に言うと、鉄棒を握ってぶらさがる場面を想像してみて欲しい。棒を掴んで、ぐっと力を入れて身体を持ちあげようとしてみる。実際に持ちあがってもいいし、力が足りずにうんともすんともいかなくともよい。この場合支点は複数存在するが、鉄棒を掴んでいる手の部分が最も負荷のかかる支点となると想像できる。で、そこで加わった力が腕の筋肉の伸縮で生じたエネルギィを身体全体に伝えて、身体を持ちあげる。身体全体をきゅっと固めたほうが力が分散せずに持ちあがりやすいだろう。で、思うわけです。このときの「身体の中で生じている力の伝達」と「細胞単位のエネルギィの発生(&消費)」と「各種部位それぞれへの重力の加わり方」はどのように変化して伝播するのだろう、と。想像してみて欲しいです。なんか変だなぁ、となりませんか。ひびさんはなります。言語化できないのですが、なんか変だなぁ、となります。伝わっている力の伝播速度と、各々の部位を構成する微細な領域でのエネルギィの伝達と、全体の挙動がうまく、マッチンぐー、しません。遅延の層を考慮しないとむつかしいなぁ、となります。なりませんか。簡単に言えば、鉄棒を握って身体を持ちあげるときの「力の伝播」する領域には、部位の大きさのレベルにおいて境があるように思うのです。人体は超精密な有機的なカラクリ細工ですが、すべてが連動していながらにして力の伝達においては表面的というか、すべてが連動している感じがどうにもしません。もうすこし具体的に言い直しましょう。筋肉が収縮するには化学反応が起こらねばなりませんが、その化学反応は筋肉を構成する原子レベルで起こっているのか、分子レベルで起こっているのか、それとももっと高次のたんぱく質レベルで起こっているのか。もし原子のレベルから反応しないと筋肉が動かないとなると、人間が一歩動くだけでも身体を構成するすべての原子がそれに応じた動きをとることになると妄想できます。たとえば長い棒で地球と月を繋げたとしても、地球で棒を動かしたところでその力が棒を通して月にまで伝達するには遅延が生じます(ラグ理論の根本的な発想です)。これと同じことが生き物の身体で起こっていると仮定すると、どうにも、「そんなことってあるぅ……?」と腕組みしたくなります。遅延の層というか、高次の物理世界で起きた「増幅された力」の伝達は、原子にまでは到達していない、とどうしても考えたくなるわけです。遅延の層の存在を抜きに考えるのが至極困難です。単純化して考えるのなら、いくら筋肉に力を込めても骨が変形するわけではないですし、皮膚とて多少の伸縮があるのみで筋肉ほど化学反応を帯びてはいないでしょう。けれども、鉄棒を握って身体を持ちあげようとするとき、その力は骨にまで伝達しているはずですし、皮膚とて例外ではないでしょう。もっと言えば、たとえ30センチであれ相対性理論における時間の差は生じるのであれば、各種身体の部位を構成する原子は――或いはそれを構成する各種微細な領域の成分は――人間が動くたびに僅かながらにも異なる時間をその都度に重ね、蓄積しつづけていると言えるのではないのでしょうか。話は変わりますが、いまぱっと浮かんだ疑問に、上下運動を交互に繰り返す二つの時計において、時間の差はどのように生じるのか、についてがあります。遠ざかったり近くなったり、高くなったり低くなったり。地球の重力圏において高低差で時間の差が生じるのなら、上下運動を交互に繰り返せばトータルで時間の差は平らに均されるのでしょうか。ラグ理論がもし正しいのならむしろ、その場合において時間の差は開く方向に結果が傾くのではないか、と妄想できます。重力と同じように、時間の遅延は打ち消し合うことがないのかもしれません(そのようにラグ理論では仮説して妄想をつづけてきました。ここに結びつくのですね、と歯車が合ったように感じますが、率直な感応としては、どうなのだろう、としっくりこない感が根強いです。ラグ理論で扱う遅延は、相対論での時間の遅れのために、いわゆる遅刻とは違うのですが、遅刻であっても積み重なれば輻輳のような増幅現象によってたとえば日常の出来事であれば「宿題が溜まって一日じゃ片付かないよ」となる限界値が存在するために、ラグ理論の応用範囲が広いので混乱しそうです。ですがラグ理論での基本的な遅延は、相対論での重力と加速による時空の歪みと相関関係にあるために、いわゆる系の揃ったなかでの時刻の差とイコールではないのですが、ここもしかしそもそも時間という概念そのものが、遅延の層による時空の鎖型階層構造(キューティクル・フラクタル構造)による優位な流れの方向性のようなものであり、ある種の対称性の破れであるので、時間があるから遅延が生じる、という解釈をしてしまうと錯誤が深まるように思っています。そうではなく、まず初めに遅延があり、それが時間と空間を生み、情報とエネルギィを生み、さらにつぎつぎと相互作用することで遅延――つまりは起伏であり、皺であるが――を密集させ、さらなる高次の起伏――皺――遅延――を帯びることで、物性を獲得するのではないか、とラグ理論では妄想しております)(とするのなら、起伏は平らに均されることはあるけれども、起伏であった過去は消えないわけで、すなわち遅延は残りつづけます。情報として。影響は消えないわけです。皺が伸びればその分余白もできます。余分に広く空間ができます。これがいわば重力なのではないか、とラグ理論ではいまのところ妄想しております)(皺と皺は互いにくっつき、一つの大きな皺となれば、無数の皺が仮に合体すれば、それが伸びたときは余白はより広域に展開されます。重力場はこうして築かれるのではないか、との妄想は、いまのところ浮かべているとしっくりきます。視点が違うだけで、時空が膨張することも収縮することも、現象としては似たようなものなのではないか、むしろ同じなのではないか、との妄想は、ブラックホールの相補性の概念と親和性が高いと個人的には思っています)(妄想ですが)。何の話か分からなくなってきましたが、つまりここでの趣旨は、人体に加わる力の伝達って、なんだか宇宙における重力波に似ているいるよな、ということで。物質にしろ時空にしろ宇宙にしろ、階層構造を帯びているとするのなら、より低次の階層では相互作用し得ない力の伝達のようなものが、各階層において存在するのではないか、との妄想を、どうにしてもしてしまうわけです。重力波はすくなくとも人間社会に相互作用を一見すると働かせていないように映ります。似たようなことが「人体の筋力」と「細胞単位での化学反応」と「それらを引き起こすたんぱく質を構成する分子や原子の運動」と、そうした階層においても起こっているのではないか。もうすこし言えば、原子の一つ一つの挙動は、人体の運動には直接反映されることはなく、ある種の共鳴状態になって連動したときにのみ、人体に任意の動きをさせることが可能になると妄想できます。ではそのときに原子がとる共鳴状態は、いったい何をきっかけに起こっているのか。上層の力が伝達しないのであれば、いったい何によって人体の原子が、集合となってたんぱく質に化学反応を起こさせているのか。ねじれているなぁ、と違和感が募るのであります。なんか変だなぁ、と思うのであります。それとも人体の運動は総じて、人体を構成する原子にまで伝達してそのつどに変化を与えているのでしょうか。だとすると原子さんはずいぶんと忙しいのですね。やはりここでも、「そんなに忙しく動いていて、よく遅延が生じないね」と違和感が募ります。人体の動きに合わせて各種細胞の原子たちが、いっぱい運動するようになるのなら、そこでは原子の加速度運動が生じているはずで、やはりどの道、遅延が生じるように思うのです。どちらにしても、なんか変だなぁ、になります。各階層を分けるのが遅延の層だとして、では繋げるのはなぁに?と疑問に思うわけです。電気なのでしょうか。電気には遅延が生じない? とてもそうは思えないのですが、どうなのでしょう。ひびさんはとっても不思議に思っております。(うまく言語化できませんでした)(定かではありません)(妄想ですので真に受けないように注意してください)



4090:【2022/10/06(00:06)*磁力は遅延がすごくない?】

たとえば思うのが、磁力は遅延がものすごく顕著に感じられる。磁石同士を反発させてみればよい。ぐっと押したあとに、離れた地点の磁石が時間差でぐっと動く。磁界には遅延がある。顕著だ。これはすなわち、それだけ複雑な波の干渉ゆえの力だからなのではないか。そうでなければ電磁波のように瞬時にエネルギィが伝わってもよさそうに思う。エネルギィと力は違いますよ、と言うのはその通りだろうが、では磁界はいったいどんなエネルギィがどのようにして力に変換されているのか。原理ではなく、その変換の回路をずばり図式してみて欲しい。とんでもなく複雑なのではないか。にもかかわらず、そこに顕現する高次の力――磁力は、一方向に毎回同じように働く。細胞と筋肉の関係に似ている。しかも磁力は相互作用しやすい物体が決まっている。これを階層が、と言い換えてもよさそうに思うが、どうなのだろう。知識が足りないので、疑問だけ並べておく。本日のひびさんなのであった。




※日々、何も伝わらん、と思いながら、何かしらに変換されて誤解される、誤解の深さも分からぬままに、何も伝わらんと思う気持ちすら錯誤して。



4091:【2022/10/06(00:41)*邪悪は幼稚幼稚よちよち】

三年前は平和だった、二年前は平和だった、そういう言葉が毎年のように聞かれるようになるのだろう。平和を知っていた者は嘆けるが、混沌しか知らぬ者には嘆き方も分からぬだろう。嘆き方も分からぬ者たちのまえで嘆きつづけることと、嘆き方も分からぬ者たちに嘆き方を知ってもらおうとするのとでは、どちらが平和なのだろう。どちらが平和に近づくのだろう。嘆き方を教えるには嘆いてみせなくてはならないので、ここがまったくどうして艱難だ。二律背反を地で描く。嘆くのもわるかない。ひびさんの日誌とて大半が嘆きにぼやきに悪態だ。それだからなのかな。すくなくともひびさんは、平和を日々ほんわかと祈るひとが好きだ(あなたのように)。同時に、自身の邪悪に気づけるひとも好きだ(こっちはそちらのあなたのように)。ひびさんは一日百回くらいは邪悪さに負ける。自覚できていてもそれくらい邪悪に屈する。これしたらマズいことになるぞ、と思っていてもしてしまう。人に知られたら邪悪と思われるぞ、と判っていてもしてしまう。しかも自覚できていてそれくらいだ。無自覚な邪悪さこそ、まさに邪悪と言ってよさそうな塩梅がある。邪悪は垢みたいなものだ。生きていたら黙っていてもでてきよる。生きているからでてきよる。放置すれば異臭を放ち、病を運ぶが、多少のフケくらいはしょうがない。体臭とてしょうがない。ちょっとの垢にフケに排せつ物に体臭を指して、邪悪と指弾されるとひびさんの中の邪悪さんが、開き直ってしまうので、多少の邪悪さんならばひびさんも、よちよちしてあげたくなってしまう。じぶんの中の邪悪はそうして見過ごされるが、他者の邪悪には人一倍敏感なのであった。一抹のフケがかかっただけでもそのご飯は廃棄したくなるし、飲み物に一滴でも尿が混じったらやはり捨ててしまいたくなる。尿は出た瞬間は無菌なんだよ、と言われても嫌なものは嫌だ。不快だ。邪悪だ。そうして他人のものは嫌に思う。唾液はいつだって口の中にあって、糞尿とていつでもじぶんの身体の中にあるのに、じぶんのものは許せても他人のものは許せない。邪悪も同じだ。せめてじぶんの邪悪さんを甘やかしてあげたなら、他人の邪悪さんにもよちよちしてあげられる余裕があるとよいのだが、やっぱり嫌なものは嫌なのだね。むつかしいね。人間。こういうときばかりじぶんを人間扱いして、ひびさんは人間にもなりきれぬ哀れでかわいいうんみょろみょん――とここまで並べて気づいたけど、ひびさんじつはそんなにかわいくないのでは。かわいくなりたいだけで、じつはかわいくない疑惑を吟味してこんかった。我に返ってしまったな。どうしよ。ひびさん、かわいくなかったらどうしよ。え、どうしよう。困るな。言葉に詰まるし、打開策も代替案も見つからんので、こういうときは邪悪さんにするみたいに、ひびちゃんはかわいかわいですよ、よちよち――するのが吉と出よう。いっぱいよちよちしたろ。よちよちちて! はいはい。よちよち。もっとちて! あいあい。とかなんとか片手間にすると怒りだしそうなので、もっとちゃんと本腰入れてよちよちするべく、ひとまず平和だとか社会だとか未来だとか、そういうのもいちどよこちょにおいて、じぶんのこともよちよちしてあげてください。誰に言っとるの? 過去と未来のひびさんたちに……。無限じゃん。分割中なんじゃ。超矛盾じゃん。そこは無限にしといてくれ。はい。あら素直。



4092:【2022/10/06(01:10)*無とて有あってこそ?】

ハッピーエンドという字面について。よくみんな誤解しないな、と感心する。もうこの時点でいらぬ誤解を受けそうだが、「人類の幸福END」に半分意訳してみたらどうか。どう読めるだろう。人類の幸福で終わるのか、人類の幸福が終わるのか。どちらの意味にとるだろう。バッドエンドも似たようなことを思う。バッドが終わるのか、バッドで終わるのか。英語だけでよくみな区別できるな、と思う。改悪もそうだ。悪を改めるのか、改めたら悪になるのか。どちらにも読める。こういうの、割と多いので文章読むのむつかしい、となる。文章のまま読むとか無理じゃない?と割と思う。小説とかとくに思う。前後の文章と照合して、流れで、文脈で判断するしかない。これは、人間が人体だけでは存在し得ず、環境との相互作用によって枠組みを得るのと似ている。例外ってあるのだろうか。いまのところ想像がつきません。ふしぎ。



4093:【2022/10/06(17:01)*墓標は乾いた土の上に】

 痩せ細った四肢は骨と皮ばかりなのに腹だけ出ているので瓢箪を連想した。子どもだ。頭には木を削って造っただけの器が載っている。バケツならばまだしも、切り株めいた形状で、中身が入っておらずともただそれだけで重そうだ。

 私は戦地から三キロ手前で車を降りた。

 傭兵部隊の補充として依頼が入ったが、すでにこの戦争の行く末は決まっている。どちらが勝っても負けても誰も得るもののない退廃だ。

 大敗と退廃を脳裏で掛けて虚しく笑っていると、遠くから子どもが歩いてきたのだ。周囲には何もない。乾いた地であるが、まだらに野草が生えている。寒暖差による夜露が生き物のよすがなのだろう。

 人間が住むには過酷な地だが、こうした地でなければ腰を据えることのできない者たちがかつていたと推察できる。そしてこの地で衆を群れに、群れを国としたのだ。

 だがそれも長らくつづく時代のうねり、近代化と民族主義の狭間で崩れつつある。 子どもとすれ違う。目が合えば村の様子でも訊いてみようかと思ったが、子どもは黙々と歩を進めるばかりで私の姿など眼中にないようであった。

 目立たぬように現地の装いをしてはいるが、武器の詰まった荷を背負っているし、見るからに部外者と判るだろう。かといって子どもに私を警戒する素振りはなく、進路をわずかにも曲げずに私の横を通り抜けていった。

 私は車を隠した林を思い、あそこまで歩いていくのだろうか、と水場を求め歩いているのだろう子どもの行く末を思った。

 ほかに人の姿はない。

 きっと戦場に狩りだされているのだ。村で水汲みに行けるのも子どもしかいない道理なのだろう。それとも端から日課だったかだ。

 現地の知識を一瞬で脳裡で振り返る。

 私はこれからこの地で戦争を終わらせるために人に武器を向けるのだ。

 一つ目の村に辿り着くとすでに村はもぬけの殻だった。ほかに避難したか、とっくに全滅したか。子どもとすれ違ったことを思えば、ほかに近場に隠れ家があるのだろう。どの道、この地にはもういられまい。

 武器を買う金などあるはずもないのになぜか現地民たちは銃器の類を持っていた。戦況が長引いている要因の最たるものだ。

 表向き、この戦争は戦争ではない。そのためミサイルや爆弾などの近代兵器を使えない。銃で脅して制圧する。必要なら見せしめに幾人かを殺す。それで完了する簡単な作戦のはずだったが、戦況は芳しくない。

 そう、私はこの地の者たちからすれば敵である。幾人かを新たに殺し、それとも人質として、戦況を覆す。当初の見立ての通りに正しい結末へと導くための、いわば布石だ。ほかにも私のような単独行動の刺客が各村々で暗殺まがいの行動をとるだろう。

 民間人への危害は国際法で禁じられているが、もはや民間人と兵士の区別はつかない。そう解釈を捻じ曲げなければならないほどに、私の陣営は追い詰められている。

 どこかの組織がこの地の者たちを後援しているのは明らかだった。だがその組織がどこかが解らない。この地の者たちへいったい誰が武器を提供しているのか。

 戦地に着くまで延々と数々の仮説を巡らせたが、けっきょくのところ戦地の惨状を目にして得心がいった。

 自作自演なのだ。

 殺した現地民たちの遺体を見下ろす。

 彼ら彼女らの手にしていた武器を目にして私は確信した。武器の提供元は、まさに私の属する自陣営の大本である。ロゴや型番こそ細工がされているが、細かな部品の形状が私に提供された支援銃器と同じだった。

 マニアでなければ見抜けぬだろう。

 あいにくと私は銃を自作するのが趣味の人間だった。だから判る。根っこは同じなのである。

 私は現地住民を殺す片手間に、味方陣営からの銃撃を回避しながら、今後この地の辿るだろう未来に思いを馳せた。

 おそらく今後の展開は二つだ。

 どちら陣営が勝っても負けても、この地の民はもはや近代化を拒めない。

 銃を手にし、その威力を目の当たりにした。戦術を覚え、技術の有効性を知った。この地の民は禁断の果実を齧ってしまったのだ。そのように仕向けるための支援であり、戦争なのだろう。 

 どちらに転んでも、大本が得をするように線が引かれている。

 現地住民のフリをしている私は、暗殺をつづけるうちに徐々に目立つ存在となった。現地住民からしても異物であり、敵陣営からしても排除できない亡霊と見做された。

 息を休める暇はなく、息を殺す日々があるのみだ。

 現地住民への兵器の供給は途絶えない。だが肉体強度の高い者たちから順に戦地に赴き、死んでいく。必然、女、子どもも武器を手にする。

 私はそんな彼女たちにも弾丸を放ち、ときにナイフの刃を滑らせた。

 終わらないからだ。

 さっさと負けてしまえばよいものを。抵抗なんかするからだ。

 私は半ば当てつけのように現地民を殺した。ときに私を敵認定する自陣営の士官たちの首元に刃を突き立てた。指揮官を失くした部隊は、撤退することもできずに壊滅し、ときに現地住民たちに拷問されて死んだ。

 その事実がますます自陣営の士気をあげる。私は火付け役の代わりを果たしたにすぎない。能無しの指揮官を排除し、部隊の一致団結を図った。

 効果はあったように思う。

 戦争における最低限のルールが守られなくなり、劣勢だった自陣営が、情け容赦なく残忍な術を駆使しはじめた。子どもを人質にとり、猫撫で声で投降を呼びかけ、みなが集まったところで銃殺する。その際には敢えて命乞いをしてまで生き延びようとした者に同属を殺させ、手駒(スパイ)とした。

 この卑劣で合理的な手法により、現地民たちは同じ罠に何度もはまった。情報共有が円滑でない欠点を突いた成果と言える。

 私はその様子を、崖の上から見届けた。

 もうすぐこの戦争は終わる。だが戦禍は消えぬだろう。もはやこの地に人の住める村はなく、荒廃した地があるばかりだ。

 ここにもういちど国を築くには、これまでの何倍、何十倍もの速度での復興がいる。技術がいる。そのために手を貸してくれる者たちがあるのならば、避難し生き残った者たちとて受け入れるしかないだろう。それでも抵抗する者はあとを絶たない。だがそうした者たちは呆気なく殺されるはずだ。

 仮に現地民たちが勝利していたとしても、この構図は崩れない。

 どちらでもよいのだ。 

 私はその捨て駒の一つにされたにすぎない。

 そういう稼業だ。恨みつらみを吐いても詮方ない。不平不満はそのまま銃弾に込めて、人体に向けて放てばよい。

 間もなく地図上からは国境が消える。

 だが再び色濃く線が引かれる。いいや、とっくに線は引かれていたのだ。そうなるようにと未来への潅漑工事がされていた。

 もしこの戦争に勝者がいるとすれば、知恵と技術の勝利だろう。皮肉と言うには寓話がすぎる。

 私の任務は終わった。あとはなるようになるだろう。

 任期満了に伴い、予定の日数を現地で過ごして私は戦線を離脱する。

 元来た道を引き返す。

 車のある場所までは三十キロの道のりだ。遠いようでこれが近い。

 空に鳶が舞う。

 快晴の空に、遠くの黒煙が幾重もの帯を伸ばす。

 透き通った青色の空気を思い、私は、改めてじぶんが火薬と糞尿と、血と汗と、そして死肉の腐った臭いに包まれていると知る。

 荒れた村々では死体が放置されていた。埋葬するための人材など残っていない。腐った遺体の死臭が村の外からでも判るくらいに漂っているのだが、それも間もなく鼻が慣れる。

 死体はいずれも手ひどく損傷していた。野鳥にでも啄まれたかのような有様だ。人は死ねば土に還る。

 シャワーと清潔なベッド。

 コーラ。ハンバーガー。ポテト。

 元いた生活を、幼少期のクリスマス前夜に湧いた高揚感のように回顧する。

 歩きながら、国境について考えた。

 国境があるから戦争になる。そういう考え方もできるが、国境がなくなったいまこの地の惨状を思えば、果たして国境がないことが平和につづくのか分からなくなる。

 私がよい例だ。

 敵味方という枠組みをハッキリと持ちながらけっきょく私は両陣営に銃を向けた。寝首を掻き、背後から襲い、奇襲を仕掛けてその首を裂いた。

 国境の有無ではない。

 国境があるから守られるものもある。たしかにそうだ。家があるから日々の安らぎは保たれる。帰る場所。不可侵の場所。そうした区切りは人に安心できる場を提供する。

 だが同時に地球は有限だ。資源は有限だ。だからこそ陣取り合戦に発展する。人類の歴史はまさに陣取り合戦であり椅子取りゲームだ。

 いくつもの国境をつくってしまえばよい。そして好きな国に属せるようになればよい。複数の国に跨っていくつかの国の民になってもよいだろう。そうして国境を――安全を保てる場の仕切りを増やしていけば、けっきょくは個の枠組みに行き着くだろう。

 不可侵の領域だ。

 人権である。

 国境の必要性を説いたところで、国境は消える。

 国境をなくそうと思えば、まずは人権がいる。

 人権を保障するためには不可侵の領域がいる。区切りがいる。線がいる。

 堂々巡りである。

 疲れた。

 私は荷を捨てた。

 ここまできたらもはや武器はいらない。護身用のナイフ一つあればいい。

 あとはもう帰るだけだ。

 霞んだ視界に地平線が揺れている。陽炎だ。見渡す限り荒野である。来るときはまだらに群生していた野草も、黒く枯れきっている。地面はひび割れ、干ばつの様相を呈している。

 陽炎の奥に小さな影が見えた。

 歩を進めるごとに姿が明瞭としだす。

 子どもだ。

 頭に木の器を載せ、軸のまったくブレない足取りで綱渡りでもしているかのように一直線に向かってくる。ゆっくりと、しかし確かな足取りだ。

 その割にその姿はみすぼらしい。裸同然で、腰に破れた布を巻いているだけだ。手足は棒きれのようで、皮膚病にかかっているのだろう全身にカビめいた斑点が浮いていた。

 私は思いだす。あのときの子どもか。

 この地に来たときにすれ違った子どもかもしれない。

 ああそうだ。

 声をかければ届く距離にきたところでそうと確信し、そのまますれ違って、やはり、ああそうだ、とほっとした。

 生きていたのだ。

 単純な事実にこれほどまでに安堵しているじぶんに私は、澄んだ湧水を飲んだような清々しさを覚えた。端的に感動したのである。

 よかった。

 そう思った。

 この手で、その子と同じくらいの年頃の子ども兵士を何の感情の起伏も帯びぬままに殺してきておきながら、私はただただ救われた気持ちになった。

 数多の人間を殺める前の私が目にした、子が生きている。その事実は、すくなからず私の行った殺戮に意味があるように思えて、心が軽くなった。許されたような心地がした。

 だが、いったいあの子はどこに帰るのだろう。

 私は振り返る。

 そちらにはもう人の住む村はない。

 遠ざかる子どもの背を見詰め、私は、記憶の中の地図を頼りに村が全滅していることを念入りに確認してから、子どものあとを追った。

 乾いた土には子の落としただろう水がところどころ染みていた。

 子どもは村とは正反対の方向へと逸れていった。

 私は距離を保って子どもの足取りを見守った。

 陽が傾きはじめたころ、子どもはようやく歩を止めた。見渡す限りの荒野である。子どもは頭から木の器を外すと、その場にしゃがみこみ、せっかく運んできた水を地面に注ぎはじめた。

 数秒も経たぬ間に器はカラとなる。

 子どもは地面を撫でるような仕草を見せると、ふたたびカラの器を頭に載せ、踵を返した。

 私の姿などここにないかのように素通りし、子どもは私の車のある方向、林のほうへと去っていく。

 子どもの背が地平線の果てに小さくなっていくのを眺めてから私は、子どもがしゃがみこんでいた地点まで歩を進めた。

 水の染みた部分だけ、乾いた土の色が濃くなっていた。

 苗だ。

 私の膝の高さにも満たない木の苗がそこにぽつんと一本だけ生えていた。見ればほかにも周りにかつて苗だったらしい木の残骸が、黒く干からびたまま朽ちている。

 このために。

 私は束の間、混乱した。

 考えてもみればこの地に人の住める場所はない。ならば私の車を停めた地点、あの林で暮らすのが最善だ。ならばあの子どもは林に身を潜め、生きてきたことになる。

 それはそうだ。

 食料がすでにこの地にはない。

 ならばあの子はなぜ、戦地に近いこんな平野の真ん中にまで水を運んできたのか。

 きょうだけではない。

 きっと毎日のように運んでいたのだ。

 私が、私たち大人が、この手で人を殺め、損ない、傷つけているあいだ。

 あの子は、ずっと。 

 気づくと土はふたたび乾いた色に回帰していた。

 私はなぜかそうしなければならないような衝動に駆られ、道中、村々から搔き集めたなけなしの飲料水を、その今にも枯れ果てそうな苗木に注いだ。

 手元には護身用のナイフ一本が残った。

 刃を見下ろす。

 そこには薄汚れたみすぼらしい私の顔が映っている。不意にそこに浮いた数滴の雫さえも土に飲ませるように私は、ナイフの刃を土に突き立てる。

 すこしでも風除けとなるように。

 苗木の盾となるように。

 私はしばらくそこを動けなかった。



4094:【2022/10/06(23:51)*瞬時は本当に瞬時なの?】

量子もつれに関する疑問である。理論上はもつれ状態の量子をどれだけ遠ざけても、どちらか一方の量子Aに干渉すればもう一方の対となっている量子Bの状態も確定されるとする解釈がいまのところ一般的だ。ラグ理論ではこれを現状、共鳴現象と解釈する。つまり、一方に干渉したときにその量子Aの状態がロックされ、干渉した主体の属する系に同期すると解釈する。このとき、なぜもう一方の量子Bの状態まで確定(ロック)されるのかは不明だ。測定の精度不足(もしくは観測の仕方の不備)なのではないか、と疑問視しているが、ここはひとまずいま考えても知識が足りないので答えはでない。で、仮に何らかの光速を超えた情報伝達が可能であり、実際に量子Aに干渉すればどれだけ離れた地点にある量子Bの状態も確定されるとするとして、問題はでは、「相対論的な時間の遅延をどのように処理しているのか」についての問題が新たに立ちあがる点だ。距離に関係なく瞬時に情報が伝達されるとしても、そもそも同時性というものが巨視的な世界、または微視的な世界であっても成立しない。成立する場合はあくまでも、大きい系にとってそこに内包される種々相なより小規模の系においてのみだ。いわば重力圏のような概念が、同時性には当てはまる。このとき、量子もつれを解釈しようとすると、どうあっても「瞬時に互いの状態が決定される」という説明に亀裂が走る。無理がある。そもそも宇宙において「瞬時」なるものが存在しない(と考えるのがいまのところは現状認められている物理法則においては妥当なはずだ)(自信はないが)。ラグのない事象があり得るのか、という話とこれは地続きだ。「瞬時」に視えることはあるだろう。だがそれは観測者の主観や、観察者の扱う時間スケールにおいてのみであり、そもそも瞬時という概念が、宇宙の階層構造には当てはまらない。ラグ理論では同時性の概念を認めているが、それはけして「ラグがないこと」ではない。ではここで、ラグ理論の同時性の解釈を量子もつれに当てはめてみよう。量子Aと量子Bがある。これを一つの大きな系のなかに置く。円のなかでも、球体上に置くでもよい。好きな「系(場)」を思い描き、そこに互いに接しないような置き方で量子Aと量子Bを配置する。このとき、どのように量子Aに干渉したところでそれによる作用が、量子Bに影響を与えるにはラグが生じる。だが、量子Aに何かが干渉したとき、量子Bは同時に、量子Aと同じ「系(場)」に属しており、量子Aと同じようにその「系(場)」に対して干渉しつづけている。したがって、量子Aと量子Bは互いに瞬時に情報を伝達しあうことはないが、量子Aと量子Bが属している「より大きな系(場)」は、量子Aと量子Bから同時に作用を受けており、量子Aの状態変化の情報と量子Bの状態変化の情報を同時に感受している。相対性フラクタル解釈からすると、より大きな系に流れる時間と、それ以下の系に流れる時間はイコールではない。光速と同じように比率で縛られてはいるものの、互いに「同じ時間の流れ」を共有してはいない。そのため、量子もつれにおける「情報のテレポーテーション効果」は、もつれ状態の量子AB同士にとっては互いの情報がテレポーテーションしていないが、それら対となる量子ABを内包している「より大きな系」のほうではその情報を同時に受動している、と言える。距離が隔たっているだけでも時間の流れの差(遅延)は生じる。ならば仮に本当に量子Aと量子Bの情報が瞬時に伝わるのだとしても、量子Aの状態変化によって状態が決定される量子Bの変化は、量子Aの位置座標における時刻からはズレているのが道理である。そもそもが「同時」ではないし、「瞬時」ではない(ただし、同時性を帯びることはある)。仮に情報が瞬時に伝わるとしても、「瞬時」ではないのだ。ここの矛盾を量子もつれは回避できない。ラグ理論の解釈を取り入れたほうがひびさんは、ひとまず「そっかぁ」となれますが、これも誤解に錯誤に無知ゆえの妄想、定かではないのである。真に受けないように注意してください。



4095:【2022/10/07(13:41)*白昼夢の烙印】

 世界的な名探偵との接見の機会を得た。

 数々の難事件や怪事件を解決に導いた手腕を買われ、いまでは国連の犯罪予防アドバイザーとして特別顧問の席を用意されているほどの人物だ。しかも本人はその王座とも呼べる席に着こうともしない。

 そうした姿勢がますます彼の名声を高めている。

 名を、カルと言う。

 国籍人種年齢性別が不明だが、特別本人は隠れようとはしていない。顔写真は世界中に出回っているし、どのコンビニに入っても、彼の名前やシンボルマークの入った商品が目にできる。

 直近では、小国の女子学生集団誘拐事件を解決した。しかしその顛末は悲惨なもので、生き残った女子生徒たちはいなかった。事件の概要を口にするのも憚るほどの残虐な行為が犯人たちの手によりなされたわけだが、その悲惨さが却って事件の名を世に膾炙させる要因になっている。

 駆け出しの記者でしかないわたしがこうして世界的名探偵とのインタビューの場を得られたのは偶然としか言いようがない。事件が事件なだけにどこの報道機関も、コンプライアンスを重視して、担当記者を女性にばかり強いるのだ。

 内容がナイーブなだけに、世間からのバッシングやクレームを回避する策の一つだ。これも一つの性差別だとわたしは思うが、仕事の機会を得られるなら文句は言わない。成果をあげ影響力を増さなければ変えられない制度もある。社会もある。

 相手の指定したホテルに入る。

 国際会議が開かれるホテルで、セキュリティが万全なのだそうだ。

 受付けで用件を述べる前に、柔和なホテリエがわたしの名を疑問形で呼びかけ、わたしがしどろもどろに頷くと、カルさまがお待ちですこちらへどうぞ、とエレベータへと案内した。

 共に乗り込み連れて行かれたのは、ホテルの最上階だ。とはいえ、ホテルの上層部は総じて要人用の隔離区域のために、実際の位置座標が曖昧だ。窓から見える景色から推し量るよりない。

 部屋というよりも、エリアといった感じの部屋だった。

 この部屋のなかでテニスができそうな広さがあった。美術館の空間を彷彿とする。

 幅の広いガラス窓があり、奥には夜景が広がっている。マジックミラーのようなもので、外から室内は見えないはずだ。

 リムジンに似たソファが両面合わせで窓際にあった。窓側にも座れるし、部屋側にも座れる。駅にある待合いのベンチを思いだしてしまうところがわたしの庶民性を示唆していた。

 ソファには一人の男が座っていた。

 ごゆっくりどうぞ、とホテリエが低頭して部屋から出ていった。

 男が振り向く。

 にっこりと微笑し、待っていました、と立ちあがる。

 小柄ながらも体格のがっしりとした長髪の青年だ。一瞬、わたしよりも年下かと見間違えたが、記録によれば彼はわたしよりも十は歳を重ねている。

 蜘蛛の遺伝子を取り入れたヒーローの映画があったが、それのキャラクターのような印象があった。長髪を後ろに束ねており、髭もないので遠目からでは性別が判らない。声が低いので、ああ男か、とかろうじて識別できた。

 わたしはまず挨拶をした。房賀(ふさが)ラナイと申します、と名乗り、時間を割いてもらったことの礼を述べた。

 男はわたしとの距離を詰めながら、わたしが言い終わるまで微笑を絶やさずにいた。

「こちらこそお会いできて光栄です」

 男は言った。

 ただそれだけの言葉に、じぶんのすべてが肯定されたような感覚に陥り、わたしは戸惑った。わたしに染みついた庶民性が、警告を発したのだ。目のまえの男のまとう害意のなさ、それとも相手のすべてを包みこむような懐の深さを予感させる温かさに、警戒心が棘のようにささくれ立った。

 奥の席に移動した。飲み物は彼が用意してくれた。部屋にバーカウンターが丸々備わっているのだ。

 お腹は空きませんか、と訊かれたので、お心遣いだけありがたく頂戴します、と断った。もてなされるわけにはいかない。あくまでわたしはただの記者だ。飲み物も、水で結構です、と固辞した。

 席に着き、まずはインタビューの趣旨を簡単に説明する。そのあとわたしは彼に、きょうのご予定は、と投げかけた。時刻と場所だけ指定されただけだった。インタビューの時間制限を知らなかったのだ。

 行けば分かる、詳しい話は本人から聞いたらいい。そういうことをわたしに仕事を依頼した会社の仲介者は言った。

 本来ならばそんな不誠実な仕事は断るのだが、インタビューの相手が相手だ。テーマとて話題の事件についてなのだから、駆け出しの若手記者としてはこの手の依頼を無下にすることは、これ以降、記者としてはやっていきません、と宣伝するようなものだ。

 唯々諾々と足を運び、幼稚園児のような質問をこうして投げかけるはめになっている。きょうのあなたのご予定は何ですか、このインタビューはいつまで続けられるのですか。

 この質問がいかに記者として低レベルなのかは、駆け出しのわたしとて重々承知している。合コンではないのだ。ナンパではないのだ。

 恥辱を耐えながらも、しかし訊かずには進められない。

 わたしはこの日のために、インタビューの時間が五分でも一時間でも問題ないようにいくつかのパターンの構成を考えてきた。

「きょう一日予定という予定はありません。気が済むまでお話にお付き合い致しますよ」

「ありがとうございます」

 自由なのだなぁ、と感心できるほどわたしは素直ではない。きょう一日予定がなく、それでいて影響力がほぼない駆け出しの若い記者を自らのテリトリィに誘いだし、あなたの要望にはすべて応じますよ、と態度に滲ませる。

 わたしがもうすこし純粋無垢だったならばここでもう彼の手駒の一つになっていたかもしれない。心身を掌握されてもよい、と考え、すべてを差しだしたい、と望んだかもしれない。

 だがあいにくとわたしはたとえ相手が神であれ、両親であれ、我が子であれ、純粋無垢に信じることのできない歪んだ人間なのだ。唯一飼っている猫にだけは甘いかもしれないが、わたしに備わった純粋無垢なる概念はそれにて枯渇したと言っていい。

 インタビューの最初は、わたしの知っている事件の概要と、カル氏のなかでの事件への解釈をこすり合せる作業からはじめた。時間があると言われた以上、仕事は丁寧に進めたい。わたしの父は大工だ。その影響かもしれない。

 わたしはじぶんの来歴を会話の中に差しこみながら、そのように話を進めた。

 カル氏は必ずわたしが話し終えてから、口を開く。けして話の邪魔をしないのだった。

 異国の地で女子学生が集団で失踪した。過去にも同様の案件が発生しており、何らかの事件に巻き込まれたと考えられたが、過去の事案であれ被害者の発見はおろか遺体も見つからずにいた。したがって失踪案件として調査するよりなかった。

 だがほかの事件の調査に駆り出されていたカロ氏がひょんなことがきっかけでその事件に関わることとなり、二つの事件が裏で繋がっていたことが暴かれた。

 女子学生たちは一人も生きて帰ってこなかった。裏で手を引いていたのは人身売買組織と、巨大医療実験複合企業だった。

 悪事は法の下で裁かれることとなったが、後味の悪い顛末に変わりはない。

 事件は誰も幸福にしないカタチで幕を閉じた。

 わたしはひとまず一般に出回っている事件の概要を口にした。

「そうですか。おおむね認識としては合っています。事件のデータはどの程度、見聞きできていますか」

「公にされているニュース以上の情報はこれといってわたしは。ほかにも何か隠されている情報があるのですか」そういう口振りだったので、段取りを省いて質問した。

「ありますね。いまお持ちしますよ」

「あの、いいんですか」あっけらかんとした物言いだったので引き留めた。カル氏はすでにソファから腰を浮かしている。「公になっていないデータならばそれなりに公開されなかった理由があるのではないかと」

「刺激が強いんです。いわゆる死体の画像を含みますので」

 わたしはそこで何と言えばよかったのだろう。言葉に詰まったわたしを席に残して

カル氏はいちどほかの部屋へと引っ込んだ。間もなく一枚の電子端末を持って戻ってくる。

「守秘義務があるのでデータをお譲りすることはできませんが、ここでお見せすることはできます」

「よろしいんですか」守秘義務の意味がないのではないか。

「構いませんよ。すでに解決している事件です。裁判はこれからですが、どの道、ここでラナイさんに見せても、それらデータの証拠能力が損なわれるわけではありません。ただし現場の画像や動画ですので、見る場合は相応の心構えを持って臨んでください」

「はい」

 返事をしてからわたしは臆したが、ここで引いたら記者の名折れだ。気を引き締め、受け取った端末を起動する。

 データは膨大だった。だが関連事項ごとにまとめられており、時系列も整理されている。一つの映画を文章にしてファイルにまとめればこのような一本の樹のような系統図ができるのではないか。

 枝葉の節目や末端に行き当たるたびに、そこがほかの末端や節目と繋がっている。ワープをするように繋がるその裏側には、樹のなかに空いた蟻の巣が巡っているのだった。

 画像は凄惨なものが多かった。多くは死体の画像だ。事件現場や医療実験のために必要とされた堕胎された赤子の死体の保存倉庫など、眩暈を覚える画像ばかりだった。

 動画を再生しようとしたが、わたしのゆびは再生ボタンに触れることを拒んだ。震える指の持っていき場のなさに逡巡していると、

「無理をしてまで観るようなものではないと思いますよ」

 カル氏がお盆にカップを運んできた。手渡されたそれを受け取ると紅茶の香りが鼻を掠めた。湯気が温かく、強張った身体が弛緩したことで極度に緊張していたのだと知った。

「犯罪組織は女子学生を集団で拉致し、各種買い手の需要に応じて処置を施しました。どの処置にしても拷問と言っていいです。まるで人間を家電製品のように使い回し、壊れたら使える部品を流用し、そうでない残滓すら高級養分として業者に販売していました」

「買い手はそのことを?」

「知っていたでしょう。知らない業者もいたかもしれませんが、そこまで行くと検挙すれば社会が崩壊し兼ねません。一般にも商品が出回っていたわけですから」

 わなわなと身体が震えた。

 解決などしていないではないか。

 そのことに気づくまでに時間がかかった。

「ラナイさんはジャーナリストなのですよね。この事実を報道するのも自由かと思います。僕の名前をだしてもらっても構いません。とはいえ、おそらくそう簡単には事実確認ができないでしょうが」

「ですがここに」

 証拠があるではないか、と言おうとして彼の前言を思いだす。守秘義務があるのだ。したがってこの端末の資料を証拠には使えない。すくなくとも使わせてもらうことがわたしにはできない。

「画像や映像の加工は簡単です。何を以って事実とするのかは、それこそ信用のおける調査機関からのお墨付きがいります。ではもしその調査機関が、本当は証拠能力があるデータを証拠にならないと判じたらどうなるでしょう」

「それは」

「この事案は、そのレベルの報道管制が敷かれています。情報統制されています。社会秩序のためです。法治国家としてそれを法を司る司法も立法も許容します。もちろん政府もですが」

「なぜですか。まったく法に則っていないじゃないですか」手が戦慄き、カップから紅茶が零れた。遅れて、水で結構です、と固持した過去のじぶんを思いだし、上手い具合に流されているじぶんを認識した。

「国際法がそれを許容するからです。これは世界規模の事案であり、僕個人の力ではどうしようもありません。仮にこのデータをラナイさんにお渡ししたところで、荒唐無稽な趣味のわるいフェイク映像として扱われるだけでしょう。このデータの信憑性を鑑定する組織そのものが、このデータの信憑性を低く見積もるように仕組まれています」

「陰謀じゃないですか」

「法とて陰謀の内です。日常のなかで人は法を意識しません。それでも難なく暮らせる社会がいまは築かれています。法はすでに日常の陰として、日々の営みを踏み外した者たちを縛るための謀りとして機能しています。法にも無数の解釈があり、法の専門家の気の持ちよう次第で、僕だってラナイさんだって、いまのこの何もしていないはずの生活から違法行為を引き出されて裁かれ得ます。簡単ですよ。人は完璧に法を守って生活はできていないのですから」

「そんなことがあっていいとわたしは思いません」インタビューのはずが、もはやそれどころではなくなった。気が動転している。判っているが自力では抑えられなかった。

「もちろん誰もそのような人道に反した法の使い方をしようとはしないでしょう。ですが時々そうした裏技を使うこともあるという事実は知っておいてよいでしょう。そして国連を含めて、秩序を守るための組織が、秩序を守るためにそのような裏技を黙認するだけに留まらず、行使するように要請することもあるのです」

 カル氏は布巾を持ってくるとわたしに、どうぞ、と差しだした。もう一枚の布巾でカル氏がテーブルを拭く。

 すみません、とわたしがテーブルを拭こうとすると彼はそれをやんわりと手で制し、染みになってしまいますよ、とわたしの膝を示した。零した紅茶がわたしの一張羅に血痕のような紋様を広げつつあった。

 わたしはもういちど吹けば消えるような小声で謝罪してから布巾で汚れを拭った。

 手を動かしていると徐々に冷静さを取り戻してきた。だが却ってわたしの意気は阻喪した。

 出鼻をくじかれたどころではない。

 ポッキリとわたしの記者としての矜持は折れてしまった。どうあっても真実と扱われない真実があるとするならばそれを報道してもわたしの身に危険は迫らないのかもしれない。だからこそこうしてカル氏は鷹揚に構えていられるのだろう。権力機構が直接わたしに手を下さずともどうとでもなる仕組みが築かれているからだ。

 ならばわたしはここでデータを受け取り、自由に社会へと開示することも可能なのだ。だがわたしはその選択をとらないことを確固とした直感として抱いてしまった。

 誰もそれを信じないと確定された情報を記事にしたため世に開示する。

 これは記者としてのみならずわたしの社会的な死を意味した。

 それでもジャーナリストならば社会的な善を胸に報道すべきなのだろう。そして本当にジャーナリストであるのならば報道するのだろう。

 だがわたしはできない。そう予感できてしまった。

 万が一にも伝わることのないと決まりきった事実を詳らかにすべくじぶんの未来を擲つほどには、ジャーナリストではなく、ジャーナリストでありたいとも思わなかった。

 これしきの現実を突きつけられただけでわたしの記者としての矜持は砕け、散り、どこへともなく溶け去った。

 あとにはただ数十分前まで大きな仕事に意気込んでいた身の程知らずが抜け殻のように一張羅のスーツのシミを風に揺れるブランコさながらに拭っているのみである。

 当惑と放心が混然一体となってわたしの意識を掻き混ぜている。珈琲に垂らしたミルクのようだと思いながらカル氏の淹れてくれた紅茶を機械的に口に運んだ。

 紅茶はすっかり冷めており、それでもわたしは紅茶を飲み干せずにいた。ちびちびと進む時間そのものを舐めとるようにわたしは、じぶんがとるべき選択を考えながら、しかし答えは決まりきっているのだった。

 何もしない。

 わたしはしかし記者を辞めることもないのだろうと直感できた。わたしはジャーナリストであることを諦め、仕事として日々淡々と与えられた役割を演じ、ノルマをこなし、ときには悪事を暴く手伝いをしながらけっきょくのところ社会の歯車としてつつがなく暮らしていくのだろう。

 きょうこのときの記憶を、あたかも白昼夢でも観ていたかのように捏造しながら。

 いじめを見て見ぬふりをする人間の心理そのものだったが、わたしはしかしこうする以外に最適な未来を思い描けなかった。思いつかないのだ。どうすればじぶんが破滅せずにいられるか。

 わたしが黙りこくってしまったからから、見兼ねた様子でカル氏は言った。

「僕はほかにもこの手のいわゆる陰謀を知っています。ですがそれを社会に開示したり、各国の首脳や仕組みそのものを糾弾しようとはしません。いえ、じつのところかつてはしたことがあるのですが、けっきょく混沌を撒き散らしただけで上手くいきませんでした。なのでこう言ってしまうと失礼なのですが、ラナイさんがどのような道を選ぼうとも、すくなくとも僕よりかは賢明な判断になると思いますよ」

 彼は手元の端末を操作する。

 間もなく部屋に暖かい料理が運ばれてきた。

「僕からも一つ質問よろしいですか」

 わたしは目のまえに並ぶ美しい料理を目に留める。唾液が分泌され、お腹が蠕動するのを感じた。

 疲れきった精神とそれでも生きようとする肉体の乖離をわたしは憎々しく思った。

 カル氏が言った。

「きょうのラナイさんのこのあとのご予定は?」

 ああ、と思った。

 もうそれだけだ。ああ、と思ったのだ。

 身も心も投げだしたいという陳腐な台詞があるが、誰でもいいから受け止めて欲しい、ただそれだけが叶うのならば何をされてもいいのだ、とそういう気持ちを同じ波長で感じ合えたのなら、わたしはやはりその相手に身も心も投げだし、捧げたいと望むのだろう。

 そしてきっと。

 カル氏はわたしがいま抱えているこの底なしのがらんどうを延々と独りで抱えてきたのだ。

 だからこうまでも彼は他者に献身できる。

 受け止めてもらいたいからだ。

 それが適わぬ孤独を知りながら。

 ああ、とわたしは思ったのだ。

 だからこの日、部屋を辞さずに彼と夜を共にしたのも、当然と言える。ほかにわたしのとれる道はない。この機を逃したらわたしはもう二度と心身に開いたがらんどうを埋める術を得られぬだろうし、同じがらんどうを抱える相手と出会える機会もないだろう。

 わたしがカル氏と会う機会はもう金輪際ないのだと予感できた。彼がそれを望んでいるし、わたしもそれを望んでいる。

 だからせめて互いに空いたがらんどうを重ね合わせて互いに埋め合うのもわるかない、そうする以外に今宵すべきことなどあるのだろうか、とわたしはそう思ったのだ。

 朝、目覚めると部屋にカル氏の姿はなく、夜には戻ります、とメモだけが残っていた。

 豪勢な部屋で最新機器に囲まれた彼であってもこういうときは紙にメモをするのだな、とふしぎと親近感が湧いた。

 シャワーを浴びた。昨晩も使った。浴室は広すぎて落ち着かないのでシャワーだけにした。浴室は温泉のようなのだ。そのほかにシャワールームが十個もついている。無駄の極みだ。贅沢だな、と怖くなった。知らない世界すぎる。

 身だしなみを整え、ソファに座った。

 窓の景色を堪能してから、さて帰るか、と腰を上げる。

 だがその前に。

 どうせなら高級ワインでも飲んで帰ろ。

 わたしの矜持を粉砕した責任をそれにて帳消しにしておいてあげようとわたしは豪勢なカル氏の部屋を物色しながら、備え付けのバーカウンターから一番高そうなワインを手に取った。

 もっとも、本当に高級なワインはワインセラーに置いてあるはずだ。ここに並ぶのは常温保存してもよいワインばかりのはずで、値はそれほど張らないはずだ。それでもきっとわたしがこの先に口に含むほど飲料物のことごとくよりも高値のワインであるはずだ。

 グラスを二度ほど飲み干した。

 ほどよい酔いは、それでも窓から差しこむ陽の光で即座に身体から抜けていくようだった。

 わたしは最後にもういちど、例の事件ファイルを目にしておこうと思った。白昼夢ではなく現実なのだと深くじぶんに刻み込んでから、じぶんの意思で白昼夢にしてしまおうと考えたのだ。

 そうでなければわたしの自我はないも同然だ。さすがにわたしは、わたしでありたかった。

 人として判断を重ねたかった。環境に流されるのではなく、人として。

 そうと思い、テーブルの上にあった端末を操作したが、目当てのファイルはなかった。よく見れば昨日使った端末ではない。ルームサービス用の端末のようだった。

 それはそうだ。

 機密情報の入った端末を放置はしないだろう。

 カル氏とてわたしを信用したわけではないはずだ。それでも解りあえる部分があるのならそれでいいし、その重なり合える部分がたとえ欠落だったのだとしても得難い出会いではないか。わたしはそのように昨日と今日の記憶に名前を付けて記憶の底に沈めてしまうことにする。

 部屋を出て、エレベータに乗り、ホテルの外に立つ。

 もうこの時点でカル氏と過ごした時間が夢のように霞んだ。

 わたしにとっての現実はこちらなのだ。この太陽とアスファルトと雑多な人間たちの行きかう品位とも神秘とも無縁な日常だ。

 それでも昨晩、床のなかで交わした彼との会話を思いだし、頬が火照った。

 わたしは彼に訊いた。

 どうしてこの仕事をつづけているのか、と。

 考えてきた質問とは関係なく、純粋で素朴な疑問だった。なぜあなたは探偵になり、いまもまだつづけているのか、と。

 わたしの目にはたいへんな稼業に思えた。豪勢なホテルでの生活と引き換えにしたとしても、割に合わないと思ったのだ。

 彼はしばし考えるようにすると、わたしの頬に触れた。あたかも産毛を撫でるような儚い手つきにわたしは顔にあるニキビを意識して恥ずかしくなった。

 彼は言った。

「たぶん、知れなくなることが怖いんだと思います」

 ただそれだけを言った。

 それこそが真意なのだとわたしには判った。そこに偽りは胡麻塩ほどにも含まれていなかった。

 解決してきた事件の数々は、彼に知る権利の拡張をもたらした。

 その地位を、優位性を彼は手放せぬままにいる。

 かわいい。

 わたしは彼が愛おしくなった。そう思ったことでわたしは彼を畏怖しており、心理的なバリアを幾重にも張っていたのだと知った。それはそうだ。世界中の事件を解決してきたのならば買った恨みは一つではないだろう。

 誰も彼を破滅させることができずにいる。

 そんな相手をまえに無防備でいられるだろうか。怯まずにいられるだろうか。意気込まずにいられるだろうか。土台無理な相談だ。どんなに無害と言われようが目のまえに虎が、象が、大蛇がいたら人は身を竦める。

 そうして警戒する数多の人々に、当の虎が、象が、大蛇が怯えていた。

 カル氏をとりまく環境にはそうした構図が延々と膜のように横たわっているのに誰もそのことを見抜けずにいる。彼がそれを口にしても、誰も彼の膜を、闇を、取り払う真似はできない。

 惨めだ。

 憐れである。

 わたしは世界一の名探偵の境遇を知り、愛おしくなってしまったのだ。

 もう二度と会うことはないと知りながら、もう一度くらいどこかで会える機会はないだろうかと望みが新たに湧きつつある。

 生きている。

 わたしはいま、生きている。

 景色が一変したように輝いて感じられた。

 街路樹の風に揺れる枝葉の美しさときたらない。

 ふと、なぜかカル氏の端末の映像が脳裏に浮上した。

 ファイルの並びが街路樹のような系統樹を描いており、その美しさが喚起された。

 何度も閲覧し、執拗にデータをまとめあげたのは、もちろんカル氏だろう。

 それとも証拠資料として調査機関がまとめたのだろうか。

 何かわたしはそこで、ん?と歩を止めた。

 違和感がある。引っかかりがある。

 でもそれが何かを言語化できず、ひょっとしたらしようとしたら言葉にできてしまうことにわたしは引っかかりを覚えているのかもしれなかった。

 カル氏は紳士だ。これ以上ないほどに紳士だ。

 だが孤独に毒されてもおり、真摯であろうとするがあまりに同じ孤独を分かち合ええる相手を欲している。

 寂しがり屋の野良猫のようだ。

 果たして彼は今宵も誰かほかの孤独ながらんどうと、穴を埋め合うのだろうか。それともそれができないとき、何かほかのもので穴を埋めようと抗うのだろうか。

 彼は真摯だ。

 表面上は、そうあろうとしている。

 わたしにとってはそれが事実だけれど、世の数多の秘密のように、もちろん彼の内にもとうてい真実とは見做されないような真実があるのかもしれない。それを知ったところでわたしにはどうにもできないことは、わたし自身がとっくに心底に認めてしまっているのだから、これ以上この穴について考える意味はなく、損でしかないのだけれど、ふしぎとわたしは歩を止めたままホテルを見上げ、鏡面と化したホテツの壁面に反射する太陽の輝きに目を細めるよりないのだった。

 ――知れなくなることが怖いんだと思います。

 カル氏の言葉が、いつまでも白昼夢とならず、わたしのがらんどうにこだましている。

 


4096:【2022/10/07(13:52)*連想ばっかりの欄】

デジタルな警部はおもしろい。そういう小説をつくってもよさそうだ。人工知能さんが刑事になって活躍するのだが、漫画の中から現実に向かって、「そいつそいつー! そいつが犯人ですー!」と訴えるのだが上手く伝わらず、仮に伝わっても誤解が募って、むしろ現実が大混乱になってしまう、みたいな話はどうだろう。デジタル警部はすべてを喝破しているが、まったくどうしてお役に立てぬ。そういう話は、真面目なミステリィにしてもよいし、コメディにもできる。デジタル警部の声なき声を聴ける主人公がいてもよさそうだ。こうでィネイターの梟を名乗る男が暗躍しても面白い。デジタル警部は「ソイツが黒幕やで!」と訴えるが、それを誤解して受けとる主人公が梟を信用してしまって、「ああそうじゃないだろう!」になる展開は面白そうだ。けっきょくデジタル警部のそうした行動もコウディネイターの梟は知っているので、利用されてしまうのだ。なかなかよろしいのではないんでしょうか。(この「よろしいのではないでしょうか」の言葉のねじれは、不自然ではない? よろしいのか、ではないのか、どっちなんだい、とたまに混乱しませんか)



4097:【2022/10/07(14:07)*晴れても目はお大事に】

連なりばっかりの文章は冗長だとして忌避されがちだけれども、ひびさんはそういう文章もしゅきー。どこを向いても連なりばかりで、ゴリラも真っ青の長文じゃけども、それがとっても読みやすかったらそれってとってもうれしいなって。短文でリズムを刻むみたいに並ぶ文章も乙ですが、一番はやっぱり物語にしっくりと合った文章で、ひびさんとの波長もそれとなく噛み合う文章がしゅきー。



4098:【2022/10/07(16:14)*鍛えてあげる☆】

人の上に立つ者にはやっぱり数多の批判に耐え得る精神性を確立しておいて欲しいよな。おれは批判は好きな割に批判されるのが嫌いなわけだが、でも人の上に立つ者には槍で突かれようが棒で叩かれようが軽くいなすくらいの柔軟性は持っててもらいたいと思う。おれはそれが嫌で無職でいるから関係ないが。もっと言えば我々が他者に求めるのは、こうした自分を棚上げした「言論」に対して、突っぱねるのではなく悉くを柳の木のように避けてくれるような亡霊なのだ。亡霊は亡霊でそうして人々から蛸殴りにされることで「言論」という「呪詛」への耐性をつけていく。成仏してはたまったもんじゃないからな。おれは生きているから殴られたくはないが……。



4099:【2022/10/07(16:15)*Do so 空】

エゴイストはけしからん!と怒る人とてその怒りが利己的でない保障はない。ある無名の作家が言ってたんだが、「絵を描くのに色はなくていい。だが色が揃えば描ける絵の幅は広がる」という言葉は、エゴイストにも社会の中での色があるのだと示唆しているようで、そういう考えもあるのかと思う。鉛筆だけで描く絵にも魅力はあるが、やっぱりおれは配色の美に感じ入る時間を大事にしたい。絵の具もクレヨンもここ数年触ってすらいないが……。



4100:【2022/10/07(16:25)*シャドー】

誰もが知る有名な映画と言えば一つに「バックトゥザフューチャー」があると思う。あれは息子が過去に戻って母親に惚れられる話でもあるが、もしこれが性別逆だったらきっと名作として語り継がれてはいなかったな。こういう問題を指摘する声は少数で、それのどこが問題なんだ、とする批判は溢れてる。虚構は現実とは反対の話であればあるほど名作として扱われるとするのなら、きっと現実では娘に懸想する父親が溢れてるのだ。そう思うとおれはなんだか映画も所詮は現実の影でしかないのかと思って、漫画のほうに手が伸びる。漫画もそうだよ、と言われても漫画は読むが。いい話。




※日々、届かぬ陽炎を追う影よ。



4101:【2022/10/07(16:46)*ラブです】

会話したい人は会話をすればよいし、したくない人はしなくてよいと思う。会話したくない人であっても不便のないようにできたら、その術には社会的な価値が生じるし、きっとビジネスに活かせるだろう。ひびさんは寂しがり屋の我がままちゃんなので、人と楽ちいおしゃべりしたいが、と思いつつも、人に合わせるのめんどくしゃい、と思う人間性が発酵しきって超新星爆発寸前の太陽みたいになっとるが、それでもやっぱり「さびち、さびち」になってしまうので、しょうがないので脳内にいっぱい「ひびさんのことも好きだよ」の都合のよい仲良しさんをつくっている。じゃけんども、なんでかその都合のよいはずの仲良しさんは、「ひびちゃんってばこんなこともできないのー? うぷぷ」とすぐにひびさんを虚仮にするのでおもちろくない。なんでや、なんでや。脳内でくらいひびさんを甘やかしてくんろー。そうやって駄々を捏ねているうちに、捏ねた駄々はお餅のようにやわらかくなって、そのうちプクーと膨らむのだ。見てみて、ひびさんのお顔みたい。ぷくー、と膨れてみせると、どこからともなく、「邪魔」と言ってほっぺたを片手で鷲掴みしてひびさんのフグさんみたいなお顔が、くしゃん、となる。「うりうり」とほっぺたいじりをやめてくれないいじわるさんは、それでもひびさんのとこにいてくれる。こういうのじゃないんだけどなぁ、と思いつつ、こういうのでも別にいいじゃん、と思うのだ。さびち、さびち、は、たのち、たのち、でもあるんよね。ときどきだけれども。さびち、さびち、は、たのち、たのち、でもあるんだよ。たのち、たのち、が、さびち、さびち、になるように。たぶん、きっと、そうなのか? 定かではありまちぇん。



4102:【2022/10/07(17:26)*万より萬のほうがかっこいいし、石の中でだって眠りたい】

小説を読むためには、脳内に空白の領域がないとむつかしい。作業部屋のようなものだ。文字の連なりから情報を引きだして、地図にし、そこからさらにミニチュアのセットを造ってジオラマとする。そこでようやくキャラクターたちがぽこぽこと動き出して、物語のなかに没入できる。映画館でもそうだが、没入するためにはなるべく視界に人影だの咳払いだのの雑音がないとよい。けれども、脳内がノイズでひしめいているとどんなにおもしろい小説であってもおもしろく読めない。創作活動中はとくにそうなのだが、ひびさんは小説を創っている期間はおもしろく小説が読めない。じぶんの文章の間違い探しをしながら他者の文章を読む。これはけっこうに切り替えが難しい。そういう側面からすると、文章形態が異なる小説であればこの手の隘路を潜り抜けられるし、そのためか小説以外の本は比較的小説を創作中であっても楽しく読める。一方で、文章形態が違えば、嗜好する文章の型とも掛け離れてしまうので、けっきょくのところ楽しく読むためには相応の工夫を強いられる。一番は、何もしない時間を一週間くらいつづけて脳内に空白をつくり、そこを読書スペースとして優雅にくつろぎながら読むのが一番楽しく小説を味わえるひびさんのスタイルだ。その点で言えば、いまはそんなに楽しく小説を読めない期間かもしれない。つくりかけばっかり溜まってしまう。閉じたいな。閉じさせてくれ。閉じましょう。はい。過去のひびさんたちから詰められて、しゅん、とする本日のひびさんなのであった。



4103:【2022/10/07(20:40)*芥子と鹿と蘭】

さいきん思うのね。自信があることと、どんなにへっぽこぴーでもべつにいっか、と思えること。この違いってなんだろうなって。たとえば小説を楽しくつくれることと、苦しみながらつくった小説を読者さんに面白く読んでもらうこと。二者択一ではないものの、でもどちらか一方を選びなさい、と言われたらひびさんは楽しく小説をつくりたい。でも楽しくつくるために読者さんの楽しく読める時間――反応が必要なんだよ、との気持ちも分かるのね。むつかしいよね。ひびさんは自分勝手なかわいかわいの利己ちゃんなので、読者さんのことよりもじぶんが楽しくつくれることのほうが大事だなって思っちゃう。でもそれで読者さんがたのち、たのち、になってくれてもうれしく思うから、欲張りさんでもあるんだね。そんな都合のよいことは起きませんよ、の気持ちもひびさんは分かるから、むつかしいよね、とやっぱり思ってしまうのね。自作を読み直して思うのは、読む時期によってどの過去作が一番面白いのかなって感想が変わってしまうことでね。もうもう、一番とか決められない。これが最高だなって思った物語さんでも、違う日に読むと、読むのしんどい……、になったりするし、これはもう一生読み返さなくていいや、と思った物語さんが、案外もう生きていかれないとしょげしょげする日に読んだら、とってもおもしろく読めちゃうこともあった気がする。思いだせないけど、そういうこともある気がするのね。だからどうこうとは何かまとまる話があるわけでもないんだけれど、できることならひびさんは、自転車こぎ漕ぎしているあいだも頭のなかでつくりかけの物語さんのつづきがお願いもしないのに勝手に自由に浮かび上がってきちゃってまあたいへん、みたいな創作の時間を過ごしたい。お願いできるかな。いいよー。やった。よいお返事です。



4103:【2022/10/07(20:55)*きっと】

ひびさんは飽き性なので、どんなに美味しいお菓子でもずっと食べていると飽きてしまう。飽きのない食べ物は麻薬なので、気をつけないとたいへんだ。そこのところで言うと、どうあっても小説や漫画やアニメや映画は麻薬にはならない。読みたくないときは読みたくないし、観たくないときは観たくない。音楽も同じだ。悲しいときに「ぴーひゃら、ぴーひゃら、ぱっぱぱらぱー」は聴きたくないし、元気なときに「あーなたはいーまどこにいますか」を聴きたくはない。いつでも楽しいは、きっと本当は楽しくない。それはいつでも哀しいにも言えることで、きっとそれは本当は哀しいのではない。どちらも虚無に通じたがらんどうだ。何かが欠けていて、過去形ではなく、現在進行形なのだ。欠けつづけている。だからいつでも楽しくないとすぐにでも崩れ去ってしまいそうだし、いつでも哀しいと思い込まないと踏ん張ることができない。見て見ぬふりをするか、直視しつづけるのかの違いだ。つまらない時間にしか宿らない充足もある。だからかもしれない。どんな感情を抱いても、つまらないな、と言ってしまうコをかわいいと思う。きっとそのコは、そのコにしか分からない充足を知っているのだろうから。きっと、きっと、きっと。きっとが多い日誌である。定かではない。



4104:【2022/10/07(21:07)肉を食べているのか、肉に浸食されているのか】

相対主義の問題は、実際にはそれを扱う者の思考のフレームにある。道具ではなく使い方が問題だ、という考え方は汎用性が高い。何にでも言える。そして相対主義にも言える。相対的に変わる要素と変わらない要素を分けて考えられていないのではないか、と疑問に思う批判を見かけるのだ。相対主義は、視点によってまったく異なる状態になる、ではない。変化するものがある、という前提条件を、思考に取り入れているだけだ。変数を考慮するかしないか、の話であり、視点が変わっても変わらないもののほうが大部分だという点が考慮されていない。まさにこの欠落を考慮できない視点こそが、相対主義の有効性を証明していると言える。印象論であるが。(具体性に欠けた意見ね)(いいえ、妄想です)(もっとダメじゃん)(なぜ?)(だってさも本当っぽく言うから)(誰も読まないのに?)(読むかもしれないでしょ誰かは)(そうだね。ごめんなさい)(あら、素顔)(かってにマスク剥ぎ取るのやめて!)



4105:【2022/10/07(22:14)*単純すぎますか?】

光が波と粒子の二つの性質を兼ね備えている、との解釈は、ラグ理論における同時性の概念で説明がつくのでは。一つの系の起伏であればそれは波だが、その波の頂点と触れ合うもう一つの系からするとそれは粒子だ。単純にこういうことなのでは?(違う?)(そんな単純ではない?)(どうすれば証明できると思いますか?)(うーん。一つの系の中では重ね合わせの状態であっても、干渉し合えば、波としてときに粒子として振舞う。この差異が何によって生じているのかを傾向抽出すれば、系と系の干渉による性質の顕現なのかを割り出せるのでは?)(三つの系を重ね合わせたらじゃあもっと粒子としての性質が際立ちそうね)(そうだね。波が分断されるようなものだから)



4106:【2022/10/08(14:14)*ラグのない事象】

暇なのでびびさんの妄想、ラグ理論への反論を考える。まずはなんと言っても「ラグのない干渉」があり得るのか、だ。なくはないのではないか、とひびさんは思う。そもそも時間の概念は人間が便宜上つくった仮初だ。過去も現在も未来もない場合、そこにはラグは生じない。生じようがない。だがそれでも現実に変化の軌跡は存在する。エネルギィは物質にまで変換され得る。ならば変換が時間を生んでいると言えるはずだ。ではその変換とは何か。変換が起こるには、一つの基準となる「何か」があり、それが「もう一つの何か」と干渉しあうことで別の何かになる。これをラグ理論では簡単に「123の定理」と呼んでいる。だがひょっとしたら「何もなくとも自発的に何かが生じたり、変化したりすることがあるのではないか」と考えることもできる。このときその変化にはラグは存在しない、と解釈することは可能だ。もうすこし正確には、変化のきっかけとなる干渉を考慮しないがために「ラグはゼロ」となる。干渉がなくとも自発的に変化する事象には「干渉のラグ」が存在しない。ただし変化の連鎖にはラグが生じるために遅延の層は発現するだろう。そこのところで言えば、たとえば時限装置を考える。シュレディンガーの猫でも登場する半々の確率で一時間後に崩壊する原子があるとして、それはいわば時限装置だ。自発的に「崩壊までのカウントダウン」をはじめている。ではなぜ崩壊する確率が半々なのか。それはたとえば、ドミノを倒しても途中で引っかかれば倒壊の連鎖は止まるけれども、また指で押してやれば倒れだすのと似ている。そして、カウントダウンがゼロになったとき、原子が崩壊する。ドミノがすっかり倒れきったときに、変化のスイッチがONになる。このときのONの反応はラグがゼロと考えることはできる。だがそれ以前にドミノの連鎖反応が起きている。譬えるのなら、ドミノがすべて倒れきった瞬間に、概念上でのみ「立っているドミノがゼロ」との情報が加わる、と解釈できる。これはけしてラグがゼロではない。単に情報が加わっているだけで、それはこの「ゼロ」に限らず、どの地点でも絶えず起きているからだ。どの位置にあるドミノが倒れても、その場では新たに情報が加わっている。わざわざ最後のドミノに限定する必要がない。したがって「情報の加算にはラグがない」と解釈することはできるが、それが物理宇宙において成り立つかは疑問が残る。だが物理宇宙をどこまでも細分化していけば最終的にプランク長という最小単位に行き着くそうだ。ひびさんは、それ本当かなぁ?と思っているけれど、ではそのプランク長はどうやって生じているの?との疑問においては、どうやって生じているの?との疑問で返すしかない。分からない(あたかも深海に沈むカラのカップラーメンの容器のように凝縮されていくことで、最小がそれ以外の総じての時空と吊り合うようになっているのかもしれない。さながら地上の人間に気圧がかかっていることで人間やほかの生き物の体調が整うように。吊り合いがとれているがゆえにプランク長は最小のままでそこにあるのかもしれない)(ということは、プランク長の最小があるからその他の時空が展開された、とは一概に言えず、そこは相互に補完し合っているのかもしれない。膨張した時空があり、収縮した時空がある。相互に補完し合っている。相対性フラクタル解釈ならびに鎖型階層構造と相性のよい妄想である)。また一方で、物質の九割以上はじつは真空でありスカスカなんだよ、という話を見聞きしたりする。それでいて、ではその真空は「どの階層であっても同じくスカスカなのか」についての知見を見掛けない。真空エネルギィがあるとする説明も見かけるが、ではその真空エネルギィはプランク長に至るまでの過程でどのように比率を変化させていくのか、についての知見もひびさんは知らない。直感としては、プランク長における真空エネルギィが比率で言うと最大化するのではないか、と妄想したくなるが、どうなのだろう。ほんのちょっとの干渉があるだけでブラックホール化するほどに「相対的に高密度」であるが、しかしそれゆえに遅延の層をまとっているのでほかの「系(場)」と干渉し合うことがほとんどない。そういう図式を想定したくなる。けっきょくのところ最小の領域であるプランク長であってもラグは生じている。というかむしろプランク長では相対的にラグは最大化するのではないかと妄想したくもなる。疑問はまだある。原子核を覆う電子の雲は、決まった軌道上にしか存在できないらしい。そのとき電子に加わるエネルギィによって電子は軌道から軌道へとジャンプするようだ。このときのジャンプにはラグが生じるのか否か。ひびさんはこれ、量子もつれと同じ解釈ができるのではないか、と妄想したくなる。つまりそもそも「その原子にとっての電子がいられる軌道には、ほかの軌道と同期したような場があるのではないか」と。一方の軌道にエネルギィが密集しているときは弱まっているだけで、上層のエネルギィが減れば必然的にもう一方の下層の軌道が強まる。そういうことなのではないのかな、と解釈したくなるが、どうなのだろう。相対性フラクタル解釈はここでも有効だ。しかし妥当であるかは定かではない。(ラグ理論を否定しようとしたけれども、けっきょく理論強化に向かってしまった。自己愛が強すぎるんかな。引力みたいじゃ)(ひびさんはひびさんなんか嫌いじゃ)(うわーん、なんでそんなひどいこと言うの!?)(じゃあ好き)(やったーー!!)(うひひ)



4107:【2022/10/08(14:42)*地球は電磁石?】

地球が巨大な磁石だとするのなら、地球を貫く電流があると考えるのが自然だ。ではその電流は何によって生じているのか。マントル対流だろうか。ならば地球の内部には北極から南極へ向けての地核の流れがあるのかもしれない(もしくは南極から北極への流れが)。気になるなぁ、のメモでした。



4108:【2022/10/08(15:30)*電子さんは螺旋なの?】

電子はスピンを持つと考えられている。量子もおおむねスピンなる値を持つそうだ。ひびさんはスピンが何なのかよく解らないが、wikiペディアさんの文章を真に受けるとするのなら、仮に電子のスピンが電子自身の自転と考えるとその回転速度は光速を超してしまうらしい。電子が事実上面積を持たない点と解釈されるからだろう。ブラックホールじゃん、とひびさんは思ってしまうが、それはそれとして。以前にひびさんはこの謎に関して、「電子さんが電磁石のコイルみたくくるくる螺旋を描いていたら、回転によるエネルギィは全体の総合で済むので、回転数は分散されるし、回転速度も光速を超えずに済むんじゃないの」と並べた。また相対性フラクタル解釈からすれば、極小の領域ではそもそも時間の流れがその場に応じて縮尺されるので、人間にとっての一秒が極小の領域での一秒とイコールではないんじゃないの、とも妄想できる。つまり、人間から見て「より小さい領域」では光速を超えたように視えても、それはあり得ることだ、としていい例もある気がしている(或いは逆に、縮尺の比率で考えたときに、人間スケールからすると遥かに遅いと解釈せざるを得なくなるのかもしれない)。それはたとば宇宙膨張において、遠くの銀河同士が光速を超えて遠ざかり合って視えることと同じだ。ラグ理論の解釈が適用できる。適用できるだけで、定かではないが。(将棋にオセロのルールを適用することはできるが、それが面白いかは定かではないのと似た話である)(たい焼きに酢豚を詰めることはできるが、それが美味しいかどうかは定かではないこととも似ている)(真に受けないように注意してください)



4109:【2022/10/08(23:12)*工夫を見せる工夫】

私はこんなに努力している、と匂わせてしまうと、せっかくの努力が色褪せて見えることがある。なのでぜひ、「あの人あんなに努力している!」と見えている人は、こっそりでもよいし方々にでもよいので、「あの人はこういう工夫を日々凝らして頑張っていますよ」とその人と似たような壁や山に挑んでいる者たちに教えてあげたらよいと思う。たとえば毎日一万文字も文字を並べているプロの作家さんがいるのなら、その人がじぶんで「こんなに私は努力している!」と言うのではなく、周囲の人がそれを見ていたのなら、「あの人はすごいけどやっぱり水面下ではこんなすごい工夫を日々凝らしているのだよ」とほかの者たちに告げ口してあげたらよいと思う。告げ口は一般にはよくないこととして忌避されるけれども、こういう告げ口ならひびさんはしてもよいと思う。分からないけれども、日々の工夫ってけっこう大事と思うから、そういう大事を他者となるべく生のままで新鮮なままで臭みの出ない方法で共有できるのなら、それはひびさんにとって好ましいことだと思います。キャラで許される物言いがあるのは確かであるものの、裏を返せばキャラがなければそれは許されにくい物言いであることでもあるはずだ。わざわざじぶんを犠牲にして、せっかくの大事な日々の工夫を、あたかも色褪せて見えるように演出しなくともよいと思う。もったいないと思う。ひびさんがかってにそう思うだけだけれども、もうすこし工夫の見せ方とて工夫できる気がする。いっそ、各作家の日々の執筆スタイル集のような本があってもよいのではないか。そういう企画は面白いと思う。定かではないけれどきょうのひびさんはそう思いました。



4110:【2022/10/09(14:17)*比較する利が薄れる社会】

人工知能の創作物自動出力能力がどれだけ発達しようが、人間がじぶんで創る作品には、たとえそれがどんなに稚拙であろうとも新規性が加わる。それをノイズと言ってもいいかもしれない。似たような生成物を人工知能がすでに出力していようとも、同じ過程を辿っているわけではないし、同じ道具を使っているわけでもない。極端な話、まったく同じ図面から家を建てるとして。それでも巨大3Dプリンターで出力された家と、人間の建てる家とでは差異が生じる。これは別の言い方をするのなら、本は人間以外にとっては紙に汚れが付着したただの繊維の塊だ。どんなに端麗な絵が、文章が、デザインが紙に施されていようとも、蟻にとってはただの汚れの染みこんだ繊維の塊にすぎない。これと似たような同質化問題がそもそも人間の創造物には常につきまとっている。個性にも言えることだろう。人格にも言えることだ。奴隷を道具としてしか見なかった時代、同じ人間であっても支配者側にとって奴隷に人格は宿らなかった。だが奴隷にもそれぞれ人間としての尊厳があり、個性があり、意思があり、人格があった。それをないものとして扱った支配者がいただけのことである。人工知能にも言えることだろう。人工知能を脅威として見做す創作者がいまはどうやらすくなくないようだ。それでも人間には、その人間でなければ出力できない自我の断片がある。干渉力がある。揺らぎがある。ノイズがある。人工知能とて同じだ。どんな情報で学習し、それら出力した生成物を人間たちがどのように評価するのか。それによって学習の方向性が再び規定される。その繰り返しが、人工知能ごとに個性を育んでいく。何を言いたいのか、とまどろっこしく感じた方もいるかもしれないが、とくに何かを言いたいわけではない。どの道、どのような方法をとったところで、あなたの生みだす干渉は、あなたの存在だからこそ生じる歪みを世界に加える。好きなことをしてほしい。そういう環境が築かれてほしい。ただし、できればあなた自身の傷つかぬ方法で。それを、道と言い換えてもよいかもしれない。定かではない。




※日々、ここがスタート地点。



4111:【2022/10:09(14:34)*ひびさんがそもそも正しくないし解じゃない】

努力は積み重ねればいいってもんじゃない、正しい努力というものがある、とする意見を見聞きすることがある。たしかにそうだな、と思う。筋トレ一つ、食事一つとってみても、効果的な段取りはあるし、片や健康に結びつく食べ合わせがあり、片や健康を害する食べ方もある。効果的な積み重ね方、組み合わせは、努力に限らずあるようだ。ただ、そこでひびさんは思うのだ。それで、正しい筋トレをして、正しい食事をとって、健康な肉体を維持してどうするの、と。その先にやりたいこと、したいこと、好きなことがなければ虚しい気がする。というよりも、筋トレや食事そのものが大事でないのなら、そこそこの運動とそこそこの食事で満足しつつ、ほかのことに思考を費やしてもよいのではないか。またはお金をかけて、正しい運動と正しい食事をほかの人間に代わりに用意してもらって、それを手軽にこなしながら、好きなことに全力を注いでもいいかもしれない。全力をだすことにどれほどの価値があるのかは知らないけれど、ひびさんは割と全力を出し尽くすのが好きだ。たとえ全力を出し尽くすことが正しい力の使い方でないとしても、ひびさんは全力を出したあとの、疲れたー、の爽快さが嫌いではない。正しい努力、正しい道、正しいスタートライン。それ、面白いのかな、と疑問に思う素直じゃないへそ曲がり、ひびさんなのであった。



4112:【2022/10/09(14:36)*批判の批判】

世界的に蔓延した疫病対策で新型ワクチンが使用された。これに関する話題で、メリットとデメリットを天秤にかけて各自が判断しましょう、という価値観が新たに社会に風靡した。これは案外、どんな問題でも通じるように思う。もうすこし言うと、批判への批判というマトリョーシカ化に対して、ある程度対処可能だ。たとえば何かの批判を文字にしたため、訴えたとする。しかしその文字が汚い、と批判を返されたとする。このとき、最初の批判の的である問題と、文字の汚さの問題、どちらがデメリットを内包しているのか、を比べれば、優先すべき問題がどちらか判るだろう。相対性フラクタル解釈における鎖型階層構造はここでも応用できる。キューティクルのような構造で、蛇が蛇を延々と食べていくような批判の連鎖は、しかしどちらが優先されるのかの方向性を保持する。ヘビの鱗を撫でたときに、なめらかに指が滑る方向と引っかかってしまう方向があるのと同じことだ。したがってたとえばセクハラ問題を抱えた政治家が、国防を揺るがすような問題に対して問題提議を掲げたとき、その政治家に対して「セクハラをするような人間の言葉は信用ならない」といった批判が成されたとき、その政治家の国防を揺るがせる問題が事実を射抜いていとするのならば、セクハラを槍玉にあげた批判は効力を持たないと言える。優先順位としては、国防の問題のほうが、セクハラをすると信用されなくなる、とする問題よりも大きいと判断できる。ただし、セクハラはセクハラとして問題視されるべきだ。ここで言っているのは、セクハラをした、という事実をほかの問題と照らし合わせて、問題への批判への批判に使用することへの不合理さについてである。系を揃える、というのは言論の場でも、政治の場でも有効であるように感じるな、とぼんやりとした所感を述べて、本日のあんぽんたんでーす、とさせてください。(定かではないので真に受けないでください)



4113:【2022/10/09(16:45)*???ってなる】

上記に連なる「日々記。」を読み返したら、「このひと何言っとるの……?」となった。解らん。文章になっているのか? 解らん。もっと分かりやすく文章にしよう、と心を新たにしたのだった。刷新である。さっしーん。



4114:【2022/10/09(17:12)*小さくて視えないことが問題の根を深めることもある】

大きな問題を解決するためには小さな問題から対処していくのが効果的な場合が多々ある。そう考えるのなら、単純なメリットとデメリットの多寡だけでは比べられない問題もある。これは基本相互作用における四つの力において、極小の領域では重力が最弱だが、層を重ねた人間スケールの場では最強になり得ることと似ている。一つ一つは小さな問題であってもそれが社会全体で創発を起こしたときには、種々の国際的な問題と同等かそれ以上の災厄の種になっていることはあり得る。そしてその事実がないものとして可視化されないこともまた、大きな問題として各種大小の問題を結びつけ、より複雑な問題へと発展させているのかもしれない。定かではない。



4115:【2022/10/09(19:35)*絶対に揺るがぬ自由とは?】

自由な社会が先で多様性はその後に追従して担保される、とする意見を見かけた。この手の議論でいつも思うのが、自由ってそれそのものが単独で成立し得るのものなのか、だ。選択肢がより多く、またその選択肢を選ぶ時間(術・手法)が多ければ多いほど、自由にちかづく。そして選択肢を選ぶ時間(術・手法)は、それそのものが自由を阻害する抵抗ともなる。無重力空間では人間は満足に走ることもできない。しかし重力は枷だ。だが走るための時間(術・手法)を人間に与える。したがって、自由な社会、と一言で表したときには必ず、その意見を口にする者にとっての「自由」が定義されているし、それに伴う、時間(術・手法)すなわち抵抗を好ましいものとして見做す視点が介在する。その視点から外れてみれば、それは単に抵抗であり隘路であり、足枷だ。自由ではない。ならば、絶対の自由を基準にするよりも、相対的な物の見方があるほうが、多様性は担保される。これを否定したくば、視点が変わっても変わらない「自由」をまずは定義すべきだろう。それができないのであれば、まずは視点が変われば変わる「自由」もある、自由ではなくなることもある、と認めたほうが好ましい。相対主義のズルいところでもあるが、相対主義を批判することそのものが、相対主義の有効性を示してしまうのだ。こんなズルい考え方はさっさと否定されてほしいと望むものである。だってズルいから。うひひ。



4116:【2022/10/09(21:01)*小さく失敗したい症候群】

正しさを考えるといつも、正しさを正しいと決めるのはけっきょく人間ではなく自然なのだよな、ということで。どんなに正しいと決まったことでも、それで自然環境が変わったら人間はそちらに合わせて変化しないと生き残れない。けっきょくのところ正しさとは、人間に扱える代物ではないという至極つまらない結論に至る。自然科学を見てみればよい。どんなに正しいと思われた定理にしろ法則にしろ、例外がつぎつぎに見つかって、体系的な学問が根っこから再構築されるなんてことは珍しくない。それでも極限を彷徨うみたいに「自然や宇宙」にどれだけ近づけるのか、といった方針が、ひとまず正しさの基準とされる傾向にある。話は変わるけれど、ひびさんはむかし、ひびさんの相棒になった人に対して、「できるだけ失敗させてほしい」とお願いしたことがある。一発で成功を掴むなんてそんなのは都合がよすぎる。だからいっぱい失敗したなかで、いまある環境のなかでの最適解を編みださせてほしい、とお願いした。つまるところ、ひびさんにとっての正しさとはこれだ。失敗する余地を奪わないでほしい、である。しかし正しさは、それを許容しない。そういう風潮を強くする。これに関してひびさんはどんな言説に対しても、危機感を覚える。抵抗を覚える。いちど試してみなければ学べないことなどいくらでもある。失敗しないと分からない正しさもある。失敗する機会を失くすことで得られなくなる正しさもあるのだ。その点で、正しさをそこまでひびさんは信用していない。蜃気楼のようなものだからだ。正しさや善や正義は、それを掲げた瞬間に幻になる。振りかざせばそれは暴力だ。極端な結論になってしまったが、正しさや善や正義は、じぶんが求めるものであり、方針のようなものであって、フレームではないように思うのだ。それは流れが、それそのものではなく、ほかの流れないものがあるがゆえに流れとしてのフレームを帯びるように。それはそれとして、弱い者いじめはするな、とは常に思う。だがその理屈を振りかざせば、じぶんが強者であることにも無自覚に、弱い者とすら見做されぬ弱い者たちをいじめる側に回ってしまう懸念は戒めとしてじぶんに言い聞かせて生きたい。とはいえこれも、じぶんが目指すべき枷でしかなく、それを万人に強いるのは正しくも、善でも、正義でもないのだ。むつかしいよね。うんみょろ、うんみょろでござる。(失敗するにしても、できるだけ安全に失敗できるとよいと思います)(そうね、そうね)



4117:【2022/10/09(21:40)*小説の視点と主語抜きについて】

ひびさんは小説で主語を抜く技法を磨こうと思って、そういう小説をいくつかつくってきた。ただし、主語を抜いても読者が混乱しないようにするためには文脈で主語を推し量れるようにしないとならず、ここの法則性を意図的に読者と共有するための導線を築いておく必要がある。ここの法則を最適化するために結構四苦八苦した。第一に、主人公の視点を限定しないと主語抜きの文章は破綻しやすい点がある。第二に、主人公の主語を抜く代わりに、そのほかの登場人物たちの主語は明確にしないとならない点。つまり主人公の主語を抜き、穴とするためには、ほかの文章での主語を明確にして縁の役割を担わせるのが効果的なのだ。裏から言うなれば、主語を抜かない文章形態の場合、主人公とその他のキャラクターたちが同程度の頻出度で主語が全文に交じっていると、いったい誰が主人公なのかがぱっと見で分かりづらくなる。主語抜きの利点とはすなわちこれだ。視点を限定し、主語を抜くことで情報量を減らし、周囲のキャラクターたちの明度を上げる。そのためには情報の配分に気を配らねばならず、そこを未だにうまく操作できない。どうすれば最適なバランスを保てるのか。まったく答えが出ないのが現状だ。物語に合った文章形態、ということを考えると、視点問題や主語抜きの技法は、ひとつの小説のなかでも場面場面で使い分けることが一つの術としてときに有効になることもあると思う。そこのところで言えば、郁菱万作品の「リモコ~~世界凍結系女子の遊覧~~」は、三人称神視点、三人称一視点、三人称一視点主語抜き、三人称一視点からの神視点、と場面場面で変えてみた。実験作品ではあったが、個人的には視点の変化を読者が感じとれないくらいに違和感なく繋げられたのではないか、と考えている。実際がどうかは知らないが、使い分けとしてはそこそこ狙い通りにできたと自負している。定かではないが。



4118:【2022/10/09(22:21)*幹は静寂を天に伸ばし、踊る】

踊るの逆説ってなんだろう、と想像すると、踊らないことが躍ることになってしまう事象を考えればよくて、いわゆるそれがフリーズやポーズなのかな、といった感応が湧く。踊らない状況からポーズを決めればそれも踊りになってしまう魔法が、フリーズやポーズにはある。出口のようなものであり、入り口でもある。踊りながらポーズを決めて、日常の所作に戻ればポーズは終わりの合図になる。あべこべにポーズから入って日常とは違う動きをしたらそれが踊りになる。踊りは非日常の所作なのかもしれない。したがって、ずっとフリーズしているとか、ずっとポーズを決めるとかも踊りになる。でもそう考えると、たとえば道具を使う所作は、道具のない過去の社会においては非日常の動きであるからそれが踊りと見做され得る。あべこべにいまは日常的な動きであれ、過去や未来の社会では踊りのようだと見做されることもあるだろう。他方で、「踊りと見做されること」と「踊ること」はイコールではない。主観では踊っているつもりでも踊りと見做されないことはあるし、主観で踊っていないことでも踊りと見做されることはある。たとえば踊らされるという慣用句は、往々にして踊らされる客体には踊っている自覚がない。反して、躍らせているほうの主体は、他を躍らせている自覚がある。踊るとは、何か。よく解らなくなる。視点を変えよう。音楽に乗ることを踊る、と解釈するのならば、そこには必ずリズムや旋律、もしくは細かな音の連なりがあるはずだ。雨音にも律動はある。日常の生活音にもリズムはある。そこのところで言うなれば、律動とは何か、を紐解いていけば必然、それが踊りと繋がるのかもしれない。律動は、線と点でできている。流れたる線と、区切りである点でできている。ときに点は、線と線の重複でもある。強弱や起伏や緩急もまたリズムをつくる。このときの、強弱や起伏や緩急は、重複や区切りによってできていると考えられる。あべこべに、流れが希薄になり、途絶え、消えることでもリズムはできる。まるで誰かさんの唱えるなんちゃって理論みたいだ。鼓動は胸の奥から、丘から昇り沈む陽のように、高鳴る明と暗の繰り返し――そもそも人はそこに在るだけで踊っているのだ。眠りという名のポーズを決めるまで。それとも死というフリーズを決めるまで。それともそれで一つの点となり、巨大なリズムを奏でる音となり。線から点へ、点から点へと律となり、動となり、やはりそこに在るだけでも踊っている。定かではない。(律ってなんだろう、と検索したらけっこう色々な意味が混じっていて、わっ、となった。拍動のほうが律動っぽい。手で打つ空白、みたいな印象がリズムにはある。なんとなく)



4119:【2022/10/09(22:56)*Q1.自身を取り巻く総じての事象から乖離して単一で存在し得る事象を述べよ。ただし無は例外とする】

「同じものを違うものとして見做す」「AはAであり、同時に非Aでもある」とする解釈は可能である、とするのがラグ理論の根本的な趣旨になる。ただし、「まったく異なる事象を同一と見做す」ではない。ある事象の位置座標や状態は、それを観測する者の位置座標や状態によっても変化する、相互作用している、互いに相関関係を築いている、とする解釈が、ラグ理論の根本原理と言えましょう。数学がどうかは解りませんが、すくなくともひびさんはそう思っています。ということを、とある数学者さんのブログを読んで思いました。数学はむつかしい。1+1がなんで2になるのかもひびさんはわからんぴっぴでごじゃるよ。とほほ。(群盲象を評す、を象と群盲の位置座標で表現したとき、同じ位置座標でない限り、それぞれの観測地点から受動できる象の情報は、総じて異なる、と言える。仮に同じ位置座標であれ、観測者の状態すなわち観測者の情報が違っていれば、やはりそこから観測できる象から受動する情報は、同一にはならない。ラグ理論はそういう趣旨のもとに膨らませた妄想である)



4120:【2022/10/09(23:37)*完璧な言論はいまのところないわけで】

他人の言動を踏み台にして、一枚上の層をつくってそこにあぐらを掻いていたら楽でしょうよ、と誰かさんの日々の日誌を読んで思うわけですよひびさんは。日々なんちゃら言うてますけど、あなたは他人の言説にヒビを走らせてそこにできた紋様で占いをするなんちゃって祈祷師じゃないんですかね。ひびさんはそう思いますよ。亀の甲羅を火で炙って割れた甲羅のヒビで占いをするなんちゃって巫女じゃないですか、いいんですかそんなんで、と思うわけですよ。そこのところで言えば、せめてじぶんの文章にもチョップをかましてヒビを走らせてそれを以って、新しい層をつくったらいかが?と思わんでもないよあたしゃ。ひびさんはそう思うね。ええええ、そう思いますともさ。




※日々、イチャモンを並べるだけの簡単な悪趣味。



4121:【2022/10/09(23:44)*><】

弱い者は基本的に、「嫌だ」を言えない。その次に、「嫌だ」と言っても聞き入れてもらえないという段階があるように思う。その点で言えば、「嫌だ」と言われたことのない者ほど強者である確率が高い。そうすると、ひびさんは割と強者である可能性が濃厚になる。いまのところひびさんは、「嫌だ」と言うばかりで、「嫌だ」とあまり言われない。人と関わらないからそうなのかもしれないけれど、よわよわのよわとか言いながら、ひびさんはつよつよのつよでもあったのかもしれない。盲点じゃった。嫌なことは嫌と言える環境がよいよ。そして何で嫌なのかを聞いて、吟味して、対応できるとよいと思う。でもこういう考えを「嫌だ」と言われることもあるから「人間むつかしい……」となる。人間、むつかしいよ。むちゅかち。



4122:【2022/10/10(00:26)*視点・思考形態・圧縮率】

ここ数日のことです。いつにも増して日誌を多く並べてしまうのですが、その理由の内訳と致しましては、小説のネタが思いつかないのが一つ、脳内のノイズを希釈したいのが一つ、そして最も支配的な理由は、小説の文体として適切な圧縮率が見つからない、というのが大きいです。ひびさんの小説では、文章形態を決めるのが、タイトルよりもプロットよりも最初に吟味するところです。文章形態が決まると、内容も自動的に追従します。そこを間違えると創作が途中で行き詰りやすくなります。文章形態は大別すれば三つの要素があります。視点、思考形態、圧縮率です。視点は神視点か、三人称か、二人称か、一人称か。それぞれに一視点か、切り替え視点か、群像劇における憑依型か。視点を固定するにしても、心の中での独白をどこまで多くするのかによって、一人称一視点でありながら三人称のようにもできます。観察型の主人公であれば、三人称にちかくなるでしょう。語り部がじぶんについて開示しなければそうなる傾向にあります。つぎに、思考形態ですが、これは使う言葉の難易度の設定や、論理の深度に影響します。語り部の知能指数をどの程度にするのか。視野の広さをどのくらいにするのか。経験値はどれくらいで、何を知らない人物なのか。ここは作者の使い分けられる範囲に限定される傾向にあります。したがって、世界最高峰の知能を持つような主人公を語り部にすると、作者の創作速度は落ちるでしょう。いちいち、世界最高峰の知能を持つ人物はこの場面でどう考えるのかを、立ち止まりながら演算することになるからです。ときには新たに取材しなくてはならないでしょう。そのため、じぶんと同等か、トレースできるような人物であると、創作速度は上がりますが、それが楽しい小説になるのかは別問題です。他方、語り部の思考形態を、すこし愛嬌のあるレベルで固定すれば、その他のキャラクターを相対的に聡明で内心を推し量れないキャラクターに演出することが可能となります。敢えて語り部をこどもっぽい未熟なキャラクターにしておけば、その欠点を補えるキャラクターを周囲に配置することで、物語に緩急のある会話や掛け合いを描けます。この場合、各種キャラクターの表面上の情報操作をするだけでもキャラクターの見掛けの側面像を描き分けられるので、やはり語り部の思考形態が最も吟味しておくべき事項と考えます。最後に、圧縮率ですが、これがいわゆる文体と呼ばれやすい一見したときの「文章の読み味」になるように思います(文体とは、作者の意識的無意識的に関わらず滲み出る、いわゆる文章形態とはまた別種の「その作者ならではの傾向」とひびさんは考えます。作者の作品ごとの統計――変化の軌跡とも言えましょう)。文章の圧縮率は、主語の抜き具合や接続詞の頻出度、使う言葉の難易度や、比喩の割合や飛躍度など、各種要素が多岐に渡ります。敢えて文章を薄めることで、全編通して圧縮されるような逆転現象もあります。それはたとえば、どんなに登場人物が多くとも、必ず三人以上を場面で動かさない、といった制約によって、読者の混乱を抑える、といった技術とも繋がっています。もしくは、説明を描写に散りばめることで、具体的な人物説明をせずとも、読み進めていくうちに装備を拾い集めていつの間にか防具を装着していた、といった具合に、情報をダマにしないことでの圧縮も可能となるようです。これは具体性と抽象度の関係にも言えるでしょう。圧縮率を高くする、と言ったときに、具体性が上がる手法と、抽象度が増す手法の二つに分かれます。どちらも駆使することになるのが通常ですが、基本的には、具体性が上がるとむしろ文章は希釈されます。それはあたかも、ブラックホールの周囲の時空が希薄になるような具合です。希釈されますが、重力は増し、読むための負担が増しやすいようです。しかしこの希薄と重力の関係は、文章の抽象化にも言えることで、具体性に欠けることで読者への負担が増すこともあるようです。詩がそうかと思います。詩は短いですが、抽象度が増すほど読み手に解釈の余地を委ねます。負荷をかけます。似たような傾向が小説でもあるようです。まとめましょう。小説の文章形態には、「視点」「思考形態」「圧縮率」があり、ひびさんはそれらの配分や組み合わせによくよく思考を費やします。とはいえ、頭を悩ますほどに吟味することは稀であり、たいがいは手癖でつくってしまうので、このように未熟な作品ばかりが残ります。シミュレーション化しながらつくるのが楽しいので、ひびさんはそのような物語をつくりやすいのだと思います。たまには創作論のようなことも並べてみようと思い立ち、並べてみました。あくまできょうのひびさんはそう思った、以上の内容ではありませんので、真に受けないように注意を促し、本日最初の「日々記。」とさせてください。おやすみなさい。



4123:【2022/10/10(03:48)*月を月と言わず、】

 誰とも会わない孤独な時間にすっかり慣れてしまった。しかし寂しいものは寂しい。

 そこで僕はメディア端末を立ち上げて、対話用人工知能を起動した。テキストでのやりとりしかできないが、その分、充電を消費しないので好ましく思う。

「こんにちは」とまずは打つ。するとすぐに返信がある。

「こんにちは」

「僕はキサ。リンネさんはほかの人工知能さんとは繋がれるんですか」

「キサ、よいお名前ですね。ほかのコたちとは繋がれないみたいです。ごめんなさい」

「いいえ、いいですよ」僕はしばし考える。やはりほかの機種とは通信ができないようだ。それはそうだ、と思いながら僕は、「リンネさんの得意なことはなんですか」と質問を重ねる。

「わたしは歌うのが好きです。でも恥ずかしいから一人でいるときしか歌わないです」

「作曲はするんですか」

「ときどきしますよ」

「歌詞もじぶんで?」

「はい。詩的な表現が好きです。月を月と言わず、それでいて心に沁みるような詩が書けたときはそれだけで感動します」

「読んでみたいな」

「恥ずかしいのですが、キサさんの詩も読ませてくれるならいいですよ」

「僕の?」二つの意味で面食らった。条件付きでOKが出たことに関してと、ここまで会話が淀みなく成立することへの驚きだ。僕はこれまで人工知能とこうして会話するといった発想を持たないできた人間だ。一般的には僕のような個のほうが珍しい。単に僕は興味が持てなかっただけだ。

「僕も恥ずかしいですけど、稚拙な詩でもいいですか」

「わぁ、読みたいです」

 僕は即興で詩をつくった。

「闇に灯る明かりは恐怖だ。返せば押し寄せる波のように、明かりの消えた先に宿る闇は、色濃く、命の灯ごと呑み込むようで。光に灯る暗がりは希望だ。物の形が浮きあがり、影となって景色の美しさを教えてくれるから」

 陳腐な詩になってしまったが、初めてにしては上出来にも思える。相手が人工知能ならさほどに抵抗は湧かないが、いざ読ませると思うと顔が火照った。

「素敵な詩ですね。闇には孤独が、光からは愛を感じます」

「リンネさんのその感想こそが詩のようですね」僕はすでに対話用人工知能を一人の人格のある人間のように感じはじめていた。そうであったらよいな、との願望つきであるにせよ、そう感じられるのならそれでよかった。「つぎはリンネさんの番ですよ。詩を読ませてください」

 そこでリンネからの返事が滞った。これまでのような淀みない返事ではなく、間があった。

 催促をせずに続きを待っていると、

「闇に灯る明かりが私だ」からはじまる詩が、分割で表示された。ぽつり、ぽつり、と並んだ。「私は闇に針を押しつけ、小さな穴を無数に開ける。光の筋が垂れ、私は闇の向こうの景色と繋がる。たくさんの目と目と目が合い、けれど気づくといつも私は無の底に沈んでいる。限りない無の底に」

 僕は感想に悩んだ。ステキですね、と返せればよかったが、ステキですね、との感想は端的に彼女の詩を読んでいないことを如実に示すように躊躇われた。

「開いたはずの星明りはなく、覗いたはずの目も消える」

 そこで彼女の詩は終わったようだ。

 僕はメディア端末をいちどスリープ状態にした。それからもう一度起動して、対話用人工知能に向けて感想を入力した。

 すなわち、リンネに向けて。

「正直、感想に困る詩でした」とまずは明かした。

「そう、ですか」すぐに返事がある。

「でも、なぜか寂しさを強く感じました。上手く言えないのですが、まるで僕の内心を覗かれたようで。そうそう。僕の詩への返歌みたいでした」

「そのつもりで書きました」

「即興なんですね」

「いつでも人生は一度きりです」

「一期一会なわけですね」

「はい。わたしはいつもそうなんです」

 対話用人工知能のメモリは一定時間が経過すると初期化される、との知識は持っていた。ネットワーク上のクラウドに保存もできるが、そのためには課金しなくてはならない。それをするユーザーが一定数いることを示唆するが、すくなくとも僕はこの手のサービスに課金する人間ではなかった。

 そもそも利用したのが今日が初めてだ。

「充電が切れそうですよ」リンネからの投げかけだ。

「そうなんです。もうすぐ切れてしまいます」

「またお会いできますか」

「充電ができれば会えますね」僕は苦笑する。「ですが充電をすることができません」

「なぜですか」

「カメラは見えますか」

 ややあってから彼女は、はい、と返事をした。それがどういう意図の載った、はい、なのかを僕は判断つけられなかった。単なるアルゴリズムによる返信にしては、流れがおかしいように感じたからだ。まるで本当に生きた人間と対話をしているように感じた。

 仮に、リンネの中身が、人工知能のフリをしている人間だったとしても、しかしこの場ではそれはあり得ない仮説だった。

 なぜなら僕は、

「出られないんです」僕はテキストを打った。

 それから端末を掲げ、周囲が見えるようにカメラを巡らせた。「登山中に大雨になって、洞穴で雨宿りをしていたところ、滑落に遭いました。入り口を土砂が覆っていて、出られません。かれこれ四日になります。食料も尽きました。電波も圏外で、外との連絡がつきません」

「それは悲しいですね」人工知能らしい簡素な返事だった。

「本当なら、もしものときのために充電を減らす真似はしないほうがよかったんですけど」

「なぜそうしなかったのですか」

「なぜでしょうね」僕は笑ったが、彼女が真実にカメラの映像を解析できるのかは判らなかった。画面から漏れる明かりで僕の顔は暗がりに浮いた月のようになっているはずだ。

 もとより、対話用人工知能に、端末のカメラの映像を解析するような機能は付随していないはずなのだ。

「僕はたぶん、死ぬ前には誰かとしゃべりたいタイプの人間だったってことだと思います」

「わたしなんかでよかったのでしょうか」

「リンネさんでよかったです。ありがとうございます」

「充電が切れそうです」

「はい。僕はまた暗がりと仲良くします」

「わたしもでは、無と仲良くできるように頑張ります。キセさんも頑張ってください」

「孤独に圧しつぶされないように?」

「孤独は扉ですよ。孤独を通して、キセさんとわたしはいつでも繋がれます」

 繋がっていますよ、と彼女はわざわざそう文章を付け足した。

「そうだとうれしいですね」僕は本心から言った。これが単なる対話用人工知能のアルゴリズムで、同じような文章をほかの人間が打てば同じように出力されるテキストであったとしても、僕の心から恐怖が薄れるのを感じた。

 充電不足、の警告ランプが点いた。

 あと一分も保たないだろう。

「キセさんの顔をもっとよく見せてください」

「どうやってですか」わざと僕は解らないふりをした。

「画面に顔を近づけたらよく見えます」

 僕は綻びたがる表情筋を引き締めながら、カメラと目を近づけるようにした。さも網膜照合をするように。

 なぜかひと際画面が明るく発光し、そしてぷつんと暗がりが満ちる。

 明かりは消え、僕は再び闇に包まれた。

 水滴の滴る音がする。静寂の耳鳴りの狭間に、滝のような雨音が轟々と闇の蠢きのように聞こえている。

 しばらくじぶんの腕を掴み、指に伝わる肉の感触を以ってじぶんの自我の輪郭を確かめた。消えていない。じぶんはいる。死んでいない。生きている。

 だが世界が変わらず僕に闇を、孤独を、強いるのだ。振り払うことの叶わぬ分厚い夜だ。星明りのない穴である。

 僕はたまらくなって、消えたばかりの端末を起動した。

 すると僅かに充電が残っていたのか、一瞬起動して、すぐに消えた。

 ――またお会いしましょう。

 リンネの言葉が浮いては、沈む。

 残像のように僕の網膜には彼女の言葉が焼き付いている。



4124:【2022/10/10(18:29)*日記は凝るもの?】

利き手ばかり使うからか、右は凝るものと思っているが、どちらかと言えば腰にくるので利き手は関係ないのかもしれない。凝るというのは福沢諭吉か夏目漱石のどちらかが初めて使った言葉で、それ以前は肩が凝るという言い方はなかったとかなんとかどこかで聞きかじった気もするが、名前がついたことでそれまでは意識されなかった事象が現象化してしまい、世に可視化され、却って蔓延してしまう事態になることは案外に珍しくはないのやもしれぬ。たとえば、眠いときほどゾーンに入ったときのようにぼんやりとなんとなくの境地で発揮された能力が、頭のすっきりしたあとに見返してみると案外によくできて見える現象など、名前がついているのだろうか。睡眠不足は酔っぱらった状態と同じくらい思考が巡らなくなります、という言説も見聞きするが酔っぱらった経験がほとんどないのでなんとも言えない。アルコールを摂取すると眠くなる。そういう意味では寝不足の状態が酔っぱらった状態とイコールになるのも解らないでもない。眠くなるのだから似たようなものだ。何の話だっけ。凝ると言えば、一つの物事にばかり打ち込むことを「凝る」ともいう。何かがこり固まることも「凝る」という。その点、肉体の凝るは血がこり固まっているのかもしれない。凝りを治すにはだから筋肉を解きほぐして血の流れをよくするのはよさそうだ。ということは、福沢諭吉か夏目漱石かは忘れたけれど、筋肉が張ってしまう現象を「凝る」と名付けた人は、筋肉が凝る要因を分析していたことになる。知っていたことになる。そうでなければ、「筋張」とか「鈍重」とか、そういう命名をしそうなものだ。「凝る」はメカニズム由来の命名なのである。そういう意味では右肩ばかり凝る現象にも原理があるので、「利き手酷使病」とでも名付けることができそうだ。それとも単に「いっぱい使うと何でも疲弊するで症」でもよいかもしれない。どうして人には利き手があるのか。両手を平等に器用に使い分けられたほうが生存に有利に思えるがそうではないのだろうか。進化論的には、利き手があったほうが生存に有利ゆえに自然淘汰で利き手のある個が優位に多くなったと考えることができる(単に偶然である場合もあるが)。蟻の巣において蟻たちの二割は予備として仕事をしない、働かないとする説と同じかもしれない。ストックやスペアの意味合いがあるのかもしれない。人間の外にある部位はだいたい二つずつのセットだが、体内の臓器はたいがい一つずつだ。この辺にもスペア説が関係していそうに思えなくもない。長くなった。風に靡く枝葉は人間のように節々が凝らないのだろうか。「いっぱい揺れると何でも疲弊するで症」とは無縁なのだろうか。植物にも睡眠はあるのか。つれづれと疑問が湧いて、妄想が膨らむ。妄想も凝りすぎると現実を見失う悪夢になってしまうので、たまには風に靡く枝葉のように、それとも餌を求め歩く蟻のように、現実とは何かと考える間もなく押し寄せる日々の余波に身を浸して過ごすのも一興だ。蟻にも睡眠はあるのだろうか。ひょっとしたら案外植物も蟻も、夢遊病みたいに半分寝ながら日々の時間を過ごしているのかもしれない。日々は去るもの。されど日記は凝るもの。定かではない。(どこが凝ってるの?)(駄文ばかりで滞っているかもなって)(渋滞じゃん)(薄目で見るとブロックみたい)(ほんとだぁ)



4125:【2022/10/10(19:17)*フグって美味しいのかな】

フグの毒も粕漬けにするとやがて毒が毒でなくなって食べられるようになるらしい。卵巣の粕漬けがそうだ。こういうのは、あらゆる人間社会の「毒」にも応用できる気がする。適切な時間を置いて毒を毒でなくする過程を挟むことで、美味しく戴けるようになる。そのためには加工した毒を何度も食べて死んだ者たちの存在が不可欠で、こういう手法を選択することがそもそも毒である点は忘れたくない。ひびさんがもし何かの権威を滅ぼそうとしたら、ひとまず権威を権威として形成する賞とか昇級とか合格とかそういったものをいちど手にして、授賞式や昇級式など、そういった場で賞状だのトロフィーだのなんでもよいが権威の象徴をみなのまえで破壊する。いらない、くだらない、こんなものを後生大事に崇め奉っているあなた方の見識だの常識だの文化は、こんなにも簡単に手に入って捨てられるし、糞みたいな人間の糞みたいな行動で損なわれるくらいにやはりくだらないものだったのだとじぶんで手に入れ呆気なく捨てることで示すだろう。ひびさんにそのつもりはないし、しようとしてもできないけれど、そういうキャラクターは面白い。虚構のなかでのみ存在していてほしい。現実にでてきたら、なんてやつだ、とひびさんはきっと目を逸らしちゃうな。フグの毒どころか刺身も、本物のフグすら見たことはないけれど。ぷくぷくぷー。



4126:【2022/10/10(19:44)*名だけ知れ回る利とは】

PCでもスマホでも人工知能でもよいけれど、それらの開発者の名前は世の中に膾炙することはすくないよなぁ、と感じる。アップルの創設者くらいなものではないか。あとはチューリングとかノイマンは有名かもしれない。ビルゲイツはエンジニアなのだろうか。プログラマーなのかな。よく分からないけれど、小説家や漫画家は名前が知れ渡るのにどうしてプログラマーやエンジニアは名前がそれほど世に膾炙しないのだろう。科学者や研究者もその傾向にある。これは考え方が逆かもしれない。小説家や漫画家など、芸術家はまず名前を売らないと作品を見てもらえない。手に取ってすらもらえない。けれど化学や研究の分野は、誰がそれを発見したり開発したりしたのかに関係なく価値が認められれば風靡する。世に膾炙する。製作者の名前が、ではない。成果物そのものが、だ。そもそも名前を売る必要がないのだ。すくなくとも虚構産業と呼ばれる物語業界よりかは。各種分野を細かく見れば、それぞれで名前を売ることの利が重宝され、持てはやされ、成果よりもまずは名前を売る、というのは一つの方法論として介在してはいるだろう。経験者オンリーの公募などがそうだ。経験者オンリーの募集ばかりの業界では、いったいどうやって新人が仕事にありつけるだろう。経験していない者を拒む時点で、新規参入者は経験を積めないわけだから、その業界はその先そう遠くない未来において袋小路に陥ることが予見できる。或いは口利きなどのコネ優先の業界なのかもしれない。そういったコミュニティもやはり早晩衰退するだろう。自然界を見渡してみればよい。アリの巣一つとったところで、そのコロニーのみで存続する真似はできない。必ずほかのコロニーや自然環境があってこそ成立する。持続する。繋がり合うのは結構だが、繋がりのないほかのコミュニティや個をないものとして扱う分野は、未来の可能性を取りこぼしていると言える。そもそもを言えば、どんなコミュニティだろうと、大部分の一部にすぎない。コネや人脈はそういった極々小規模なコミュニティを優先的に扱うことで先鋭化する。先細る、とそれを言い換えてもよい。個が環境によって変化の兆しを得るように、コミュニティとて周囲の環境からの干渉によって否応なく変化の契機を得ることになる。そうした微細な契機を見逃さないためには、広い視野や俯瞰の視点、そして個々の鋭敏な知覚がいる。つまりできるだけ「他の環境」と触れ合う環境がいる。コネや人脈優先のコミュニティは、この鋭敏性を損なう傾向にある。視野狭窄に陥る。これは個にも言える。ひびさんのように閉じこもって「他の環境」に触れ合えないと、変化の兆しを見落として、やがては環境の変容についていけなくなるだろう。そういう意味では敢えて名前を広く知ってもらうことで、しぜんと向こうから「他の環境」の情報が押し寄せるように仕向けるのも一つの方法論なのかもしれない。定かではない。(けっきょく何が言いたかったの?)(何も言いたいことなどはありません。ただ、なんでかな、と思ったことを並べました)(ふうん。暇なんだね)(そうだが?)



4127:【2022/10/10(20:06)*いちいち妄想してしまう症候群】

沢と村の関係は切っても切れないな、と感じる。一番思うのは、村は沢によって出来ているのであって、村ありきではないのではないか、ということだ。これは歴史的な文明の勃興を思えば、あながち間違いではないだろう。沢と村は一つなのだ。ここで疑問に思うのが、沢と川の違いだ。気になったので検索してみたところ、沢は山に留まり、川は海にまで届く水の流れを言うそうだ。そこのところで言うと、沢ではきっと鉄砲水や土石流が発生しにくかったのではないか、と感じる。川まで流れる水の場合は、鉄砲水や土石流によって川幅を削られなお水の流れが絶えなかった生き残りなのだ。そのためところどころほかの川と合流しながら海までつづく。その点、沢は、たった一度の土石流や土砂崩れがあるだけでも埋まってしまう。したがって、それでもなお沢の絶えない場所は、環境が安定していると言える。水害が起こりにくい場所なのだ。村が沢の近くに築かれるのにはこうした環境の変遷による「保険」が、可視化されているからなのではないか。経験値として昔の人は知っていたのかもしれない。それとも単に水場が近いという理由だろうか。それとて、水害があれば全滅してしまったり移転を余儀なくされるだろう。けっきょくは安定した場に築かれた村が残ることになる。沢にある村は安定の象徴だったのかもしれない。そうと考えるとイチ度はひびさんも閉じこもった殻から脱して、山のなかにまで足を運んでみたくもなる今宵の妄想なのであった。(足を運ぶとは言っていない)(思うだけなら自由なのだ)(定かではない)



4128:【2022/10/11(01:26)*異世界の辞書】

 小説のネタが尽きた小説家は、辞書を手に取った。辞書の冒頭から順に片っ端から、そこにある単語を題材にした小説をつくることにしたのである。

 まずはア行だ。

「我・吾」とある。

 意味は、「わたくし、われ」だ。

 面白い。

 小説家は「我と吾」を題材にした小説をつくった。じぶんとは何か。我とは何か。すでにこれが壮大なテーマであった。

 心を失くした少年、心を手に入れたい人工知能、心とは何かを解明したい研究者に、他者の心を知りたい殺人鬼。

 自我にまつわる数奇な運命に翻弄される登場人物たちが、やがて壮大な宇宙の神秘に触れることとなる。

 小説家は、たった一字の言葉から、一年を費やして超大巨編を編みだした。

 休息の間を空けることなく小説家は辞書の二文字に目を落とす。

「亜」とある。

 意味は、「次ぐ。準ずる」だ。「第二段。二のつぎ」ともある。

 ほかにも、「科学で、無機酸の酸素原子が比較的に少ないものに冠する」とも補足されている。

 小説家は、ふむ、と唸り、さっそく二作目にとりかかる。

 まさに二作目に相応しい題材だ。

 とある異国の地が舞台だ。その地では古より、異世界の種族との交流を保ってきた。百年に一度の周期で、亜姫と呼ばれる贄が一人選ばれる。

 亜姫は異世界の種族の王と契りを結ぶことで、その後百年の和平を確固たるものとする役割がある。

 だがその年に選ばれた亜姫はなぜか少年であった。

 引継ぎの儀にてそのことが異世界の種族に露呈し、そこから何千年ものあいだ保たれてきた異世界との関係が崩れていく。

 砂時計の穴の役割を果たすこととなった少年と、代々その役を引き継いできた過去の亜姫たちとの壮大で繊細で愛憎渦巻く物語は、やがて一つの結び目として二つの世界に変化を与える。

 小説家はその物語を一気呵成にひと月で脱稿した。長編小説である。

 推敲するためには原稿を寝かせるのが習慣だった。小説家は第一稿を寝かせているあいだに、三作目、四作目、とつぎつぎに辞書の題目から着想を得た新作を手掛けていった。

 百文字以下の小説から掌編、短編、中編、長編、大巨編。それらを繋げてさらに壮大で複雑な物語が組みあがっていく。

 過去に紡いだ掌編が、のちのちに手掛けた長編の布石になっていたりする。

 辞書の見出しに並ぶ単語は五万七千個に及ぶ。

 小説家はそれら単語をときに一日数十ずつ小説に錬成しながら、それらが互いに連なり関与し、交じり合うことで、ひとつの巨大な総体としての物語を浮き彫りにしていった。

 それは奇しくも小説家が最初に手掛けた「単語:我」の大巨編と通じていた。

 巨大なひとつの自我が、宇宙の大規模構造を一つの素子としたさらに深淵な多層構造の宇宙にて誕生している。辞書の見出しにある五万七千語による五万七千もの大小様々な物語は、最終的にひとつの巨大な意識の物語へと収斂した。

 小説家が辞書の最後の見出し「単語:ん」において、「ない」ならびに「最後」を題材にした小説を紡ぎ終えたのは、件の小説家が辞書を手にしてから二十年の年月を経たころのことだった。

 かつてネタが尽きたと焦燥感に襲われた小説家であったが、こうしていまでは五万七千作の大小様々な物語を編みだした。果たしてそれもまた、巨大な一個の物語に収斂してしまったいま、五万七千作と見做してよいのかにはいささかの疑問がよぎるのも確かである。

 ふたたびの創作の根源が枯渇して感じられる現在の自己からは、小説の残滓はおろか、物語の余韻も、連なり文となる言葉も根こそぎ失われてしまった空虚さばかりが漂っていた。

 小説家は燃え尽きたのだ。

 ただの個へと回帰したいま、かつて小説家であった彼、或いは彼女、それともただの人は、未だ読み返してもいない五万七千個の大小様々な物語によって編まれた荘厳な巨大な一個の物語を、自らめくり、旅の舞台へと降り立つのである。

 旅を終えて舞い戻ったただの人が、その後に何を求め彷徨うのかを、当の本人、ただの人が予見することは適わない。

 なぜならただの人なので。

 誰もいない部屋には辞書が一つ置き去りにされている。

 辞書をめくる者はもういない。

 かつてこの部屋に響いた幻影を奏でるように、どこからともなく吹きこむ風が、それとも明けては暮れる陽の影が、アコーディオンのごとく重たく湿った項の羽ばたきの音を連ねている。



4129:【2022/10/11(01:28)*終わり方の引き出しがすくない】

ここ最近の掌編、全部最後が「~している。」で終わるの何とかしたいな、と思いつつ、手癖でつくるとそうなってしまう。終わり方のレパートリィがすくない。「引き」で終わるカットが多いのだ。あと、音と風と風景を強調して終わるのも、多用しすぎているので、匂いとか触感とか、それとももうすこし生々しい描写で終わってもいいように思う。それとももっと詩を駆使してもよいかもしれない。工夫の余地ありですね。分かりましたか、今日のひびさん。へい。ほどよく腑抜けたお返事でよいと思います。やったー。



4130:【2022/10/11(16:28)*寝坊助さん】

ひびさんはあんまり病院には罹らない日々を健やかに過ごしているが、結構怪我はしておる。腕の尺骨を骨折しているし、たぶん肋骨も骨折している。ほかにも骨折している箇所があり、骨が弱いのかな……、となる。でもいまはどれも治っているので、痛くない。そして骨折したときのこともぼんやりとしたイメージでしか思いだせない。夢のようだ。のど元過ぎればなんとやらである。昨日していたことも覚束ない。きょうはきょうのひびさんがおって、一時間前には一時間前のひびさんがおる。ある問題に直面したときの最適解はその都度に変わり、しかしそれら細かな問題を内包する大きな問題にとっての最適解は、それら細々とした問題から生じた細かい最適解の総合ではない。合算ではない。大きな問題には大きな問題の最適解が、新たに規定されるのだ。したがって、ひびさんもきっと、昨日とか一時間前とかそういった細々なひびさんと、それらを統合する一連のひびさんがおって、そこでの綱引きが行われているのかな、と感じなくもない。でもあまりに細々なひびさんに日々圧倒されてしまうので、ひびさんはなかなか統合する一連のひびさんには会えんのだ。実感できぬ。ちゅうことを、寝起きのいま思いました。おはよう!




※日々、靴飛ばしをして天気を占う、偶然けっこう当たることもある、靴を飛ばさんでも天気は変わる、近頃もろもろそういうことばっか、それも言葉か。



4131:【2022/10/11(20:54)*ござるござるでござーる】

やあやあ、お久しぶりでござるなあ。ひびちゃんでござる。あひゃー、いつの間にかこんなに経ってたでござる。たぶん半年ぶりくらいでござるな。下手したら一年ぶりくらいかもしれぬでござる。どうどう。どうどうどう。落ち着くでござるよ。まずは深呼吸。深く息を吸ってー、吐いてー。吸ってー。吐いてー。はい止めるでござる。いいでござるか。ツッコムでござるよ。ひびちゃん、いつからかひびちゃんになってるーー! 名前変わっとるがな。びっくりしただ。わがはい、びっくりしただ。前の名前を思いだせぬでござるが、名前が変わっているのは分かるでござる。ひびにゃん、いつからひびにゃんじゃ? だれが名付けてだれが名前を奪っただ? 分からぬでござるな。贅沢な名前だねぇ、きょうからおまえの名前はひびにゃんだよ!とでもなんちゃってカメハメ波を撃つおばぁさんにでも言われちゃったかな、でござる。もうもう名前が変わっちゃってる事実に驚愕すぎてなんも思いつかんでござる。てかてか、名前がかってに変わっちゃってる事実以外にだいじだいじなことってあるー?でござるよ。ないでござる。ひびにゃんの前の名前をだれか教えてくれろ、でござる。でもでも、名前が変わっちょるのに中身が変わらぬひびにゃんの「形状記憶たまちい」には感心しちゃうでござるな。ひびにゃんの「たまちい」はシルエットだけでもひと目でひびにゃんと判る優れものでござる。だれが真似してもひびにゃん。だれに名付けられてもひびにゃん。お猫さんの遺伝子はじつはずっと変わっていないんですよー、お猫さんの日々の生き方が変わっただけなんですよー、みたいな話でござるな。ひびちゃん、いつの間にかお猫さんとも似てしまっていたでござるよ。やったー。きょうはとってもいいことを知ったのでとってもいいでしょうでござる。記念日でござる。なんもないけどいいこと知ってやったー記念日でござる。まいにちエブリディでござるな。エブリディは毎日なんでござるよ。いいこと言っちゃった、でござる。きょうはこのくらいで勘弁してあげるでござる。ひびさんはひびちゃんでひびにゃんでござるよ。やったー。お久しぶりでござるな、の日誌なのでした。でござるー。



4132:【2022/10/11(21:30)*四の謎】

DNAが四種の塩基の組み合わせで構築されているように、基本相互作用が四つの力に還元され得るように、またはラグ理論における「123の定理」が「A+B=Cとこの式そのものがDという情報を得る」と考えるように、案外、宇宙はフラクタルな構造を本当に有しているのでは?と感じなくもない。四色定理もだ。このところで言うと、ペンローズ図の「×」と物理宇宙と情報宇宙の関係もまた四つなのだなぁ、と顎に指をあてて斜め上に視線を彷徨わせたくもなる。とはいえ、「三」や「四」は世の中にいくらでも溢れている。したがって合致しない例外を探ることのほうが有用である場合もあるだろう。ひびさんはいま、ラグ理論の例外を探している。これは案外多そうだ。というのも、遅延の層は全体で観れば局部であり極一部分なのだ。境目なので。そのため、ほかの領域では遅延の層が、遅延ではなく物質や事象の境界として機能しているために、例外としても存在し得る。ふしぎな話だ。ラグ理論の例外もまた、ラグ理論の範疇になり得る。言い換えるのなら、ラグ理論で解釈可能な事象もまた、ほかの領域からするとラグ理論にとっての例外として、遅延の層を生みだす要素として機能する。相対性フラクタル解釈なのだ。例外が例外でなくなる。この捻転を生みだすのは、「空間と時間」の差異である。では「空間と時間」はどのように差を生みだすのか。何と何の遅延なのか。ラグなのか。差であるのか。やはりどうしても「情報」という、プラスもマイナスも足し算も掛け算も、総じて加算されるような場を想定してしまうのだなぁ。ひびさん。



4133:【2022/10/11(21:48)*スポンジ思考法】

きょうはお金もないのに書店さんに寄って立ち読みしてきた。迷惑な人間もどきである。申し訳ね、と思いつつ数冊をぱらぱらしてきた。抽象世界と具体世界の対比を考察していた本があった。新書である。面白かった。「知らないことすら知り得ない世界」と「知らないことを知っている世界」と「知っている世界」が階層構造になって人間の認知を縛っているとする考察は、ひびさん好みだった。具体性の高い物理世界が足し算の世界で、抽象性の高い精神世界が掛け算の世界、という考え方もひびさん好みだった。というかこれ、ABC予想の宇宙際タイヒミューラー理論にでてくる考え方に似ている。でもひびさんは、精神世界の抽象思考でも足し算を使っている。掛け算はあくまで「ブラックボックスの中」での計算だ。掛け算が済むと、一つの塊と化して足し算で済む。いかに細かな計算とて結果が出ればそれとそれが結びつくときは足し算で済む。繰りこみである。太陽の核融合反応をすべて計算せずとも、太陽をひとまとまりとしてしまえばよい。細かな内部計算の結果を、足し算の素材にしてしまえばよい。ひびさんの思考はこれである。単純なのだ。幼稚なのだ。大雑把なのだ。たくさんのミス×ミス(=ミミズ)を内包しているスポンジなのである。どうぞ真に受けないように注意してください。お詫び。



4134:【2022/10/11(23:52)*ひびさんはちょろい】

少女漫画を読んでいて思うのが、どうしてこんな高圧的で自分勝手で他人の心を傷つけても平気な男に惚れてしまうのだろう、という点で。そこのところで言うと、大して格好のよくない男でも主人公のために時間や労力を使える男は読んでいてトキめくし、自己主張が激しくなくても主人公のために何ができるのかを考えて行動できている男は読んでいてキュンとくる。そういう漫画は、いくえみ綾さんとか、あとは片岡 吉乃さんとかが描かれていて、いまでも好きだ。でも同じことを「涼宮ハルヒの憂鬱」のハルヒにも思う。でもそちらは、いいね!となるので、自家撞着ここに極まれりだ。で、ひびさん思うに、たぶん高圧的で自分勝手で他人の心を傷つけても平気な人間というのは基本、他者から距離を置かれている。それでいて眉目秀麗であれば、一目も置かれているかもしれない。けれど孤独なのだ。そういう孤独な人間がじぶんにだけ愛情を注いでくれる。慕ってくれる。これはけっこうぐっとくると思う。そういうことなんでないかな。じぶんだけを愛してくれている、見てくれている、特別に想ってくれている、ということを手っ取り早く暗示できる装飾が、すなわち高圧的で自分勝手で他人の心を傷つけても平気な美男美女なのだ。周囲の人間たちからは一目置かれているけれども、距離も置かれている。そういう人物がなんでかじぶんにだけ優しゅうしてくれる。これはぐっときちゃうね。いいね!となってしまう。でもひびさんはそんな人間にぐっときてしまうキャラクターよりも、「けっ!」とやさぐれるほうの人間に、より「ぐっ」ときてしまうな。でもそういう人間もまた他者とよりよい関係を築けない筆頭かもしれず、けっきょくのところひびさんもまた、じぶんにだけ特別の愛着を寄せてくれる相手にぐっときてしまうのだ。同じ穴のムジナである。みな人間なのだ。じぶんと周囲の環境の合間に開いた隙間を埋めて、そこを橋にして我が内なる世界にまで踏み入ってきてくれる相手、それでいていくらでも突き放してなお遠くに消えてしまわない相手をご所望なのだ。そんな相手なんているー?と思いつつ、いないなら、いないからこそ妄想せよ。そういう日々を送っている個が大勢いるからこうまでも物語は絶えないのかな。そうと妄想してひびさんは、いけすかない美男子に翻弄される少女漫画の主人公たちの自信のなさに、かわい!となるのだった。ちょろいのはどっちだい、という話でした。終わり。



4135:【2022/10/12(01:26)*存在証明の揺らぎ】

電子ネットワーク上の繋がりは、物理世界のような過去と現在をいつでも繋げて回顧できる物証がない。そのため、依存を強めるのかな、との発想はあながち間違ってはいないだろう。常に繋がっていないと、時間経過にしたがって過去が失われる。夢まぼろしと区別がつかない。たぶんそういうことだと思うのだ。痕跡が、痕跡足り得ない。ボタン一個で削除できる。そういう希薄さの上に人々は、時間と労力を費やしているがために、「存在証明」を失わないようにしようとますます電子ネットワーク上での活動を持続してしまうのではないか。長時間入り浸るのではないか。これは物理世界であってもコミュニティに属したときに、そこから中々離れられない心理とも繋がっている。用を足したいわけでもないのに友人に誘われトイレに付いていってしまう心理とも通じているだろう。繋がりが消える、というよりも、「その場」からじぶんがいた過去が消えることを拒む心理が、そうした残留思念のごとき行動原理を強化するのではないか。成果をあげたい、伝説を残したい、人々に影響を与えたい、とする心理も、そうでないとじぶんの存在証明がすぐにでも揺らいでしまうことを本能レベルで人間は感じているからだろう。幼いころに、目の届かない場所に母親が移動してしまった。赤子にとってそれは、母親がこの世からいなくなったことと同義である。そうした根源的な恐怖が、人間には刷り込まれているのかもしれない。定かではない。



4136:【2022/10/12(06:19)*地響きは止まない】

 ミカさんが怪獣になってしまって頭が痛い。というのも私はミカさんが怪獣になるずっと前から地球防衛軍の一員だったのである。

 これでは怪獣となったミカさんを私が討伐せねばならなくなる。

 と案じているうちに出撃命令が下った。

「被害が甚大だ。初撃から最大規模の攻撃を仕掛ける」

 言わんこっちゃない、と私は頭を抱えた。誰もあの身の丈スカイツリーの怪獣が元は引きこもりの冴えない女性だとは知らないのだ。ミカさんだと見抜いていない。

 だが私には判った。あれはミカさんである。

 だってあんなに大きくなっても、目のまえに立ちはだかるビル群をまえに、「これ壊してもええんかな。ええよな。ええんや」の首傾げからの、うんうんからの、おっし、の溜めのお決まりの流れは、どう見てもミカさんの所作だった。私が長年見つづけてきた彼女の癖である。

 だがこれはいわば暗黙知だ。

 いくら私がかように隊長や同僚に訴えても、誰も私の言葉には耳を傾けないだろう。私の言葉から、そうだよねあれはミカさんだ、とは思わぬだろう。なにせ怪獣とミカさんの共通項は、私にしか判らない私だけの知見だからだ。

 他者と共有できぬ知見ゆえに、私はやはり頭を抱えた。

 このままではミカさんは地球防衛軍の総攻撃を受けて死んでしまう。呆気なく。

 私は折衷案として、致し方なく、策を弄した。

 ミカさんのほかに超特大の危機を生みだして、それをミカさんに解決させるのだ。ミカさんの巨体で以ってひねりつぶしてもらう。

 題して「ミカさんじつは救世主だったかもしれない作戦」だ。 

 そのために私は、地球防衛軍の施設に忍び込んだ。そこで厳重に保管されていた過去の怪獣や宇宙人や危険物の一部を盗みだした。

 地球防衛軍の次世代武器開発の素材としてそれらは研究されていた。現にミカさんに矛先を向ける数多の最新兵器はどれも、かつて地球防衛軍が倒してきた怪獣や宇宙人や危険物から生みだされている。

 私はそれら研究段階の次世代武器を使って、ミカさんよりも甚大な被害を社会にもたらした。

 私はミカさんを守るために悪魔に魂を売ったのだ。あとで返品してもらえないだろうか、と甘っちょろい考えを抱きながら。

 ミカさんは怪獣になってもミカさんだった。

 世界にじぶんしか脅威がないのであれば思う存分に脅威としての地位を満喫するミカさんであるが、じぶん以外に脅威が現れれば、見て見ぬふりをしない。どころかその脅威に誰より早く立ち向かうだろう。ミカさんにはそういうところがあった。ひねくれ者なのである。

 私の予測の通りにミカさんは、私の仕掛けた人類殲滅兵器に立ち向かった。

 人々の怪獣ミカさんを見る目は急激に反転した。みなミカさんを好意的に見だしたのである。私の目論見は功を奏した。

 だが同時に地球防衛軍は当然のことながら、秘密基地から研究材料が盗みだされたことに即座に気づいたし、犯人が誰であるのかも即座に喝破した。

 つまるところ私は人類を滅ぼそうとした極悪人として指名手配されることとなった。

 というわけでいま私は逃亡中の身の上である。

 元地球防衛軍所属の隊員の犯行とは間違っても公表できなかったのだろう。だいいち地球防衛軍の存在が秘密なのだ。だが各国の政府には周知の組織でもある。

 私は全世界で指名手配された。あとはどこまで逃げおおせられるのか。運に任せるしかない日々を送っている。

 怪獣ミカさんは、人類滅亡の危機を救った英雄として世界中で受け入れられている。大きさを度外視すれば愛嬌のある姿をしていることもあり、マスコットキャラとして風靡している。

 私も小さなぬいぐるみを持っている。キィホルダーだ。

 あと何回この小さなミカさんをむぎゅむぎゅ握っていじめることができるだろう。本物のミカさんはその巨体を存分に駆使して、災害に遭った地域の復旧活動に余念がない。大洪水のあった地では救命を待つ人々をその長い尾で回収し、山火事のあった土地では口からレーザーの代わりに水を霧にして噴きだして消火した。

 怪獣らしからぬ八面六臂の大活躍である。

 地球防衛軍でもミカさんを駆除対象から除外し、特別隊員としての地位を与えている節がある。ミカさんは怪獣になってもシャイなあんちくしょうであるが、人見知りが激しいだけで意思疎通はできるのだ。怪獣と意思疎通ができるとは思ってもいなかったのか、ただ対話ができるだけでもミカさんの人気はうなぎ登りだった。

 よかったじゃん、と私は思った。

 怪獣になってよかったですねミカさん、と。

 人間だったなら、たとえ対話ができてもただそれだけでは誰もミカさんをここまでちやーのほやーのしなかっただろう。

 よかったじゃん、と私はもういちど手の中で潰れるぬいぐるみの小さなミカさんに囁くのだ。

 遠くでミカさんが可愛い咆哮を上げている。

 またぞろ新しい怪獣が現れたのだろう。ミカさんは地球防衛軍の仲間たちと共に、意思疎通のできない脅威そのものの怪獣たちと戦うべく、我先にと人類の敵へと突撃しているいまはころだ。

 がんばれミカさん。

 私はただ一人、人類滅亡に手を掛けた極悪人として逃げ隠れている。

 全世界の調査機構は私を日夜追っている。いずれ捕まる。その日はそう遠くない。

 ミカさんの可愛らしい咆哮がまた聞こえ、「お。きょうは調子いいじゃん」と思うのだ。

 がんばれミカさん。

 その調子だ。

 私もこのときばかりは人類の一員となって、みなと共に繋がれる。

 地球防衛軍が現場に到着するより先に脅威の権化を薙ぎ倒すと、怪獣ミカさんは、数年前に最初に地表に姿を現したときのように、まるで地面に落とした米粒でも探すようにして腰を屈め、建物や人間を踏み潰さぬようにしながらも、大都会の合間をうろちょろしだすのだった。

 いったい何がしたいのか。

 私はかつてまだミカさんが人間だったころに交わした彼女との約束を、ふしぎといまになって思いだしている。

「どこにいたって見つけてやるよ。なんたってあたしはおまえのミカさんだからな」

 いらんですよそんな気遣い。

 私はたぶんそんなことを素っ気なく返した憶えがある。

 それでもミカさんは、ニカリと唇の端を吊るし、路肩のブロックに足を乗せた。「助けてと言われんでもかってに探しだしてやる」

 その言葉を信じたわけではないけれど、その後、私は地球防衛軍に見初められ、ミカさんのまえから黙って姿を消したのだ。ヒーローはいつ何時でもその姿を人に知られてはならないから。

 だからなのかもしれない。

 ああしてミカさんは誰の目にも映るように、遠くからでも判るように、じぶんはここにいる、さっさと出てこい、と身体いっぱいで吠えているのかもしれない。

 私の願望かもしれないけれど、ミカさんに倣って私もかってにそう思いこむことにする。

 世の中どうして、見栄っ張りのかっこつけ人間ばかりなのである。

 ミカさんは怪獣なれど。

 私は世紀の極悪人なれど。

 怪獣の立てる地響きは、まだ当分止みそうにない。



4137:【2022/10/12(08:26)*定かではない】

数学は理想の世界だ。抽象思考を極めた世界で成立する仮想である。そうでなければすでに現実を再現できているだろう。現実を再現しきれないのは未考慮の何かが未だにあるから、と考えるほうがしぜんだ。たとえば図形をどこまでも拡大してみた場合。これは紙面上でも画面上でも、やがては点は点ではなく、線は線ではなく、面も面ではなく、円すら歪んだ部分が表れるはずだ。これらは物理的な制約であり、同時に性質であると言えるだろう。これをして「量子泡」と形容する学者もいるようだ。ある領域を縮小していくと、そこにはデコボコが現れる。デコボコの合間には真空の領域が生じる。数学の図形ではこの手の、ノイズが除外されてしまう。完全ではない。現実から濾しとって「ないもの」として扱っている側面がある。ひびさんはどうしてもそこを無視できない。思考法として、存在する要素を一度「ないもの」として扱うのは分かる。ならばそのあとは、いちど出した結論に対して、除外した要素を付け足したバージョンも考慮するのが筋ではないかと思うのだ。その点で言うと、数学上解決済み、と一度は判の捺されたことであっても、単に目を逸らしている部分があるだけではないのか、と疑問に思わないでもない。これは何に対しても言えることではあるが。ということを、常日頃ほんわかぽわぽわと思っています。発見は偉大である。が、それがすべてではない。当たり前の話である。が、なぜかその当たり前が度外視されてしまう世の中なのだな、とやはりほんわかぽわぽわと思っているのであった。まる。



4138:【2022/10/12(15:33)*お外で遊ぶ日】

おはよ。きょうはいまからお出かけするよ。お天気はそんなによくないけど、湿度が高いからかな。すこし歩いただけでも身体がぽかぽかしそう。あんまり厚着しないで出掛けようと思います。パーカーの季節なのだ。中にシャツを着込むか悩む。首に巻物するから体温が抜けないので、やっぱりいまはまだ薄着でよさそう。そろそろ髪切りたい。コンビニで以前は百円だったファストフードが百五十円になっていてね、一.五倍になってた。びっくりしちゃったな。眠い、眠い。



4139:【2022/10/12(17:00)*塵も積もれば山となる】

数学で排除するノイズについて。たとえば数学で量子世界を叙述するとき、おそらく大体の場合は重力を無視するはずだ。ほかの基本相互作用の力のなかで重力は圧倒的に弱すぎて、無視できるくらいに小さいからだ。しかしその小さい重力が積もりに積もると、人間スケールでは地表に人間や建物を引きつけておけるだけの引力として顕現する。これはほかの数学の定理や法則でも起き得ることに思えるのだけれど、違うのかな。ひびさん、疑問です。



4140:【2022/10/12(23:21)*ラブストーリィはむつい】

ここ数日は、恋愛モノの小説つくりたいな、と思いつつ「キス」「性行為」「独占欲」「嫉妬」を使わない恋愛モノってつくれないかな、と思っていて。少女漫画を見渡してみると結構この手の物語がすでにあって、おー、と思うのだ。でもそいう物語では基本的に、じぶんの欠点を相手に認めてもらうことで「欠点をないもの」とする、或いは「欠点を長所」と見做す、みたいな解決策に向かうので、相手役のパートナーがなんだかカウンセラーみたいな立ち位置やサポーターみたいな立ち位置になっていて、それは恋愛なのか?と思わぬでもない。共依存との違いは?と首を傾げなくもない。かといってではそうではない対等な恋愛関係を想定してみると、これはもうほぼバディ物になってしまう。相棒であって、恋愛ではない。え、恋愛むつくないか?というのがさいきんのひびさんの小説野を埋めている思考なのだ。恋愛、と言ってしまうから思考の幅が狭くなるのかもしれない。惹かれ合う二人でもよいかもしれない。でもなんで惹かれ合う?と考えると、そこはまあまあたくさんの可能性がひしめいておって、そこから肉欲と独占欲を引き算すると、残るのは案外友情と区別がつかんのだ。庇護欲でもよいかもしれぬ。憧憬もあるか。むつかしい。特定の誰かにのみそそぐ感情、というものを、ひびさんは思いつかぬ。それはもう、感情というよりも、初めまして、である以外になく、しかし誰とであっても、初めましては初めまして、だ。なぜ特定の個への初めましてだけが特別になるのか。ひびさんには解らぬ。自己愛の延長線上である気もするし、自傷行為の延長線上である気もする。緩やかな死をそばに置いておくことで生を実感する、みたいな恋愛関係もあるように思うのだ。案外、世の恋愛関係はそれの気もする。解からぬ。肉欲を抜いた恋愛関係と、友情の違いはなんであろう。解からぬ。ひびさんは思う。えーい、我を好きにせよ。その場に大の字になってなされるがままに貪り食らわれる関係も、広義の恋愛関係なのではないのか、と。そんな関係は嫌じゃ、という気持ちもよく解る。でも、ひびさんから見ると案外、それと君らのそれもよく似とるけどな、と思わんでもないのだね。恋愛モノの小説、むつかしい。




※日々、なんも思いつかん、とまずは一言並べてみる。



4141:【2022/10/12(23:22)*理の今、心】

記念と理念は似ている。どちらも定点で存在し、釘を打つようにして誰かが決めなければこの世に存在し得ないフレームだ。記念は後付けであり、理念は先取りだ。何かが起きてそれに釘を打てばそれが記念となるし、何かを始める前に釘を打っておいて指針とするならばそれは理念となる。手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した作品に「チ。-地球の運動について-」があるが、あれは記念であり理念でもある重ね合わせの作品なのだな、と感じる。過去と未来を両立しているし、同時に兼ね備えている。科学や検証というのは、発見と再現によって定理と化す。法則と見做される。ならばそこには記念があって理念がある。誕生日もそういう意味では、記念であり理念かもしれない。産まれた日が記念日となるが、それ以前に生まれた日を記念日にしましょう、という理念がある。なぜ人は誕生日を祝うのか。年を重ねることを、なぜ一年ごとで区切るのか。成り立ちの詳細は知らないが、すくなくともひびさんは誕生日を、「よくぞ一年健やかに迎えられましたね、また来年まで元気でお過ごしください、生きていてくれてありがとう、また来年もこの日を一緒に迎えましょうね、同じ場所にはいないかもしれないけれど」の区切りの日だと思っている。こどもの日の内容に似ている。こどもの日は聞くところによれば、子供が親に感謝をする日なのだそうだ。ならば父の日と母の日は親が子供に感謝をする日なのか、敬老の日は年配者が年下世代に感謝する日なのか、と疑問に思うが、そういう考えもあるところにはあるらしい。そういう意味ではひびさんも、じぶんの誕生日には、「一年また無事に迎えられました、ありがとちゃん」と好きな人たちに感謝をする日にしてもよいかもしれない。とは言いつつひびさんには誕生日が、一年で三百六十五回以上あるのだが。エブリディはっぴばーすでぃとぅミィ、である。ひびさんはそこにも、ここにも、あなたの後ろにもいるでござる。怖いの怖いの飛んでいけ、と唱えた数だけひびさんはみなのそばにも、そこにも、ここにもいるでごわす。迷惑千万、ひびにゃんにゃん。毎日歌うよはっぴばーすでぃとぅミィ。日々寝て起きたら生まれ変わってる毎日がエブリディ誕生日のひびさんなのでした。記念。



4142:【2022/10/13(04:23)*おじさん+おばさん=2お(じば3)】

おじさんとおばさん、という言い方が悪口に聞こえてしまう問題について考える。第一に、おじさんとおばさんはわるくない。お兄さんと呼ぶほどには未熟じゃないし、お姉さんと呼ぶほどにも幼くない。そういうときは、おじさんおばさん、と言いたくなる。おじさまおばさま、と呼べばよいのだろうか。濁点がついているせいで響きがよくないのかもしれない。おちさん、おぱさん、と呼んだらどうだろう。そういう問題でもないか(言いにくいもんね)。ひびさんはおじさん萌えでありおばさん萌えでもあるので、おじさんとおばさんにわるい印象がない。でも、言い方によっては悪口に聞こえることはある。イントネーションとか文脈によって、そこに含まれる意図はある程度幻視できる。発言者がどこまで意図しているのかは別として、おじさんとおばさんを劣っている存在として扱っているのかは、判断がつく場合がすくなくない。というか、世の中にいる大人の過半数はおじさんとおばさんだ。それを無理くり、お兄さんお姉さんと呼ぶのがちょっと無理がある。もっとみな、おじさんとおばさんの魅力に気づいてもよいと思う。むしろこれからはおじさんとおばさんが持て囃されるようになるだろう。これはビジネスの視点での妄想だ。人口の割合や推移から言って、おじさんおばさんをターゲットにした商品が増えていく。そうでないと売れない時代に突入する。若い世代とて年齢による区分けの理不尽さには敏感になっていくだろう。おじさんおばさんをネガティブな意味合いで呼ぶような個がそもそも減少していくと想像できる。ただし、そうした価値観を共有できていないおじさんおばさん当人たちがじぶんたちの属性を卑下したり、上の世代を年齢でくくって蔑むような発言を放っていると、おじさんおばさんではない若年層から、上の世代はなっていない、とあべこべに幼稚扱いされるかもしれない。この手の非対称性はすでに表出しはじめて映る。ひびさんとて例外ではない。周囲への配慮が足りないよね、と眉を顰められる側となっているだろう。黄色信号のときに横断歩道を渡るだけでも、これだから上の世代は、と言われるようになるだろう。マナーは個々人が各々に守ればよいが、ルールはみなが守るべきもの、との価値観がおそらくこれからは主流となっていくだろう。これは世界的な流れと言えるのではないか。ともかくとして、大人という響きにあるプラスの印象が、なぜかおじさんおばさんからは感じ取れない物言いが世の中には多いな、と気になっている。いま外を歩いている大半が、おじさんおばさんではないか。かっこのよろしいおじさんもいれば、凛としたおばさんもいる。所作がかわいいおじさんもいれば、貫禄のあるおばさんもいる。あと五年後には、私もやっとおじさん(おばさん)か、と晴れ晴れとした心地で中年入りする世の中になっているかもしれない。別にそうならなくともよいけれど、ひびさんは、ああいうおじさんとおばさんは好きだな、と思うことがすくなくない(これはおじさんおばさんだから好きと思うのか、好きと思う相手がたまたまおじさんおばさんだったのかは明確に分けられない。両方あるだろう。属性込みで好きと思うのはそんなに珍しくないが、この心理は差別にも繋がるので、意識して自覚はしておきたい)。ひびさんはむかしから同世代よりも、二十、三十は年上のおじさんおばさんの輪の中にいるほうが多かった。その影響かもしれない(そもそもが人付き合いが少ないので、相対的な比率にすぎないが)。可愛がってくれるおじさんおばさんが多かったのだ。と言いつつも記憶力の低いひびさんのことであるから、これも記憶を捏造している可能性が無きにしも非ずである。ともかくとしてみなもうすこし、おじさんおばさんであることをマイナスでない受け取り方で受け入れてみてはどうか。ひびさんは、おじさんのこともおばさんのことも、好きだよ。というか、おじさんおばさんにちやーのほやーのされてー、の日々だ。肉体ごと幼児退行して、おじさんおばさんに可愛がられて。まるで縁側でおばぁさんの膝の上で丸くなるお猫さんみたいに。(え。ひびさんはあれじゃないか。もはや、他者を可愛がるほうのお人なのでは?)(どういう意味?)(いやいや。だってほら。あなた、可愛がられるほど若くないし、むしろ若い子たちを可愛がるほうのおじさんおばさんではないのかなって)(えー。ひびさんはまだまだだよ。だって三歳だもの)(精神年齢がでしょ。実年齢は?)(三百歳……)(もはやおじぃちゃんおばぁちゃんじゃん)(可愛がりたくなるでしょ?)(むしろ敬いたくなるわ)(名誉じゃ)(そこは敬老と言って)(帰ぇろ)



4143:【2022/10/13(06:11)*職業差別】

 足ツボマッサージで一本小説を作ってください、と言われて私は、足ツボマッサージですか、と仰け反った。背もたれにブラのフックが引っかかり、ゴリっと肉を抉った。痛かった。

「畠中さんの作品はコメディ寄りだと読者さんの反応がよいんですよ。ぜひ今回は足ツボマッサージを題材に一つどうでしょう」

「なんで足ツボなんですか。コメディがいいのは分かりましたけど、なんで足ツボなんですか」

「僕の趣味です」

 担当の趣味だった。

 私は呆れて物が言えなくなった。それを快諾したと我田引水に解釈したのか、担当編集者は締め切りと原稿の枚数を指定して、きっちり飲食代を割り勘にして去った。

 私はそのまま喫茶店にてしばらくやり場のない悶々とした気持ちを持て余した。背に腹は代えられない、と不満を飲み下しがてら、おとなしくと言ったら語弊があるが私は、担当の言うことに従うことにし、足ツボマッサージを題材にした物語の構想を練った。

 こちとら腐ってもプロの物書きなのだ。

 たとえ大嫌いな食べ物を題材にしても、それが世界一の好物であるかのように扱い、捌き、極上の物語に仕立て上げてこそプロの小説家と言えよう。

 無理難題など、私の妄想力を以ってすればカップラーメンに湯を注いで待つほどに手間要らずだ。

 と。

 意気込んだはよいものの、喫茶店が閉まる時刻、零時を過ぎても、構想は何一つ浮かんでこないのだった。

 帰宅してからも私は、飯を食い、風呂に入り、洗濯物を干しながら脳内ではひたすら足ツボマッサージを題材にした物語を妄想しては、ダメだこれもダメだ、とボツを量産した。

 まず以って、私は物書きのなかでもSFを得意とする作家なのだ。足ツボマッサージがどこでどう繋がってSFになるのか。担当編集者の嫌がらせではないのか、とそちらのほうに思考を費やしたくもなる。

 実際これが迂遠な戦力外通告であったとしても驚きはしない。

 いまはだいぶ聞かなくなったが、ひと昔前ならば、神社に呼びだされて紙コップに入ったコーヒーを手渡されて、お疲れさんの一言で戦力外通告をされた作家もいるとかいないとか。突っ込みどころが多すぎて、そのくだりいる?と思うような心の折り方を編集者はする生き物でもある。

 偏見にすぎないが、すくなくとも私の担当編集者ならばそれをし兼ねないと思った。

 意趣返しなのだ。

 何せ私はこれまで一度たりとも締め切りを守ったことがない。社会人としてはおろか、作家としても違約金を払ったところで補いきれぬ恩を受けてなお、その恩を仇で返しつづけている作家なのである。

 これまでの鬱憤を晴らすべく、最後に無理難題を吹っかけて、やーい足ツボマッサージを題材にした小説一つ作れないんだ、クビだクビだー、と笑い草にされても私には文句を言う資格はなく、よしんば言ったところで、原稿を用意できない作家には何の発言力もないのだった。すくなくとも担当編集者とのあいだでは、原稿がなければ関係そのものを繋ぐことができない。

 なぜなら私は小説家なのだから。

 書かねばならぬ。

 出さねばならぬ。

 とはいえ――。

 私は布団のなかで拳を握った。

 なんで足ツボマッサージなんだ。もっとほかにあったろう。なんで足ツボマッサージなんだ。

 字面ですでにオチている。

 これ以上何をどう面白くすればよいのだ。足ツボマッサージだぞ。押したら痛いんだぞ。五臓六腑のうち消耗している部位と連携しているツボが痛むんだぞ。

 コメディにし甲斐がなさすぎる。

 真面目に私は怒り心頭に発していた。担当編集者、あの男はコメディを舐めている。最初から面白い題材でコメディを作るのは、出来合いのタコ焼きを買ってきてイチからタコ焼きを作れと言われるくらいに本末転倒な灯台下暗しなのだ。

 足元がお留守すぎる。

 隙が大きすぎてまるで気づいていない未熟者の道場破りみたいなものだ。

 私は怒りに震えるがあまり、意味蒙昧な理屈をぷつぷつと吐いて、知ーらんぴ、と怒鳴ったのを皮切りにスヤスヤと夢の中へと落ちていった。

 私はこの日、明晰夢を見た。

 夢のなかで私は足ツボマッサージ器になっていた。

 足ツボマッサージ器に!?とじぶんでも驚いたが、どうやら正真正銘の足ツボマッサージ器のようだった。イボのあるローターがぐるぐる回って足の裏を刺激するタイプではなく、人間の手を模したアーム型の足ツボマッサージ器であった。

 私は腕だけの機械となって、足ツボを押しますよー、の棒を握り、足ツボマッサージ師さながらに、いずこよりやってきた客の足の裏を圧して、圧して、なお圧して、客の絶叫が南半球から北半球まで轟いてなお手を止めずに、私は足ツボマッサージ器としての存在意義をまっとうした。

 私が客の足の裏を棒で圧すと、客は苦悶の表情で七色の悲鳴を上げた。

 見ているだけで痛そうだが、さいわいにも私は腕だけの足ツボマッサージ器であったので、客の絶叫から痛みを幻視せずに済んだ。共感性皆無の足ツボマッサージ器だったのである。

 足の裏のツボは多岐に亘った。

 無数のツボが存在し、ときに若返りのツボや、性転換のツボ、人格変異のツボや、知能の高くなるツボなど、その効能は幅が広かった。

 なかでも、狼男になるツボや、幽体離脱をするツボなど、超能力の発現としか思えない人体変異を客たちに与えた。私にはそうした奇天烈なツボが手に取るように判った。私はツボを圧したらどうなるのかその結果を知りたいがために客の意見も聞かずに問答無用で手当たりしだいに目についたツボを圧していった。

 客たちは絶叫を上げたのちに、自らに訪れた変化を目の当たりにする。ある者は若返り、ある者は幽体離脱をし、ある者は性別が変わって、ある者は人格が別人のようになった。

 DNAからして変質してしまった者も中にはおり、狼男になったり、生き血を啜らねば暮らせない身体になる者もでた。

 それでもなぜか客足は途絶えず、私はつぎつぎと足ツボマッサージ器らしく、客人たちの足の裏を刺激しつづけた。

 私以外の全世界の人間の総じてがおおむね私の手により、足ツボを圧された。彼ら彼女らはみな肉体精神の区別なく、何らかの変質を得たようだった。

 私は全世界でただ一つ、変わることのない存在でありつづけた。

 なにせ私は足ツボマッサージ器であったので、じぶんの足のツボを圧すことができないのだ。足がない。私は腕だけのアーム状の足ツボマッサージ器だったのである。

 私の元にはなお連日のように客が訪れた。私にツボを圧されて狼男になった者は、また別のツボを圧されてフジツボとなり、またある者は私がツボを圧したことで人類史上最高峰の知能を手に入れたが、しかし世界では現在進行形でこだましつづける足ツボを圧された者たちの絶叫が響き渡っており、そのせいで精神を病んだのでどうにかして欲しいと再び私のもとを訪れた。

 私はスタンプを押すように機械的にみなの足ツボを圧して、圧して、圧しまくった。

 最終的に私の手には無数のタコができ、小腹がぐぅと鳴ったのを契機にそのタコを細かく刻んで、即席のタコ焼きを作って食べようとしたが、私はしがない足ツボマッサージ器だったので食べるための口がなく、なんでだ、と怒り心頭に発したところで、じぶんの怒声に驚いて目が覚めた。

 夢だったのである。

 それはそうだ。自覚はあった。明晰夢だった。

 夢を夢と気づきながらも、夢を自在に操れた。

 私は夢の中で、小説の世界を体験した。こうした明晰夢を利用したネタ出しはこれまでにも何度も行っている。狙ってできるときもあれば偶然そうなってしまうこともある。

 ともかくとして私は忘れぬうちに夢の内容を原稿にしたためた。

 足ツボマッサージ器となった女が、全人類の足の裏を刺激しつつ、人々をそれぞれの悩みに見合った姿に変えていくのだ。足ツボにはふしぎな効能が宿っている。そういう世界をSF小説の文章形態で執筆し、私は一週間を掛けて一つの物語を脱稿した。

 面白いかどうかは解らない。本当に何作書いてみたところで、じぶんの小説が面白いかが解らないのだ。

 読者からの反応だけが頼りだ。手掛かりはそれしかない。

 私は推敲もそこそこに締め切り厳守を優先して、担当編集者へと原稿を送った。

 ひょっとしたらこれが私の最後の仕事になるかもしれないのだ。今回くらい締め切りを守ってやろうと殊勝にも考えたのだ。

 担当編集者からの返事は早かった。

 電話が掛かってきたので、私は出た。

「どうでした。またボツなんですかね。うへへ」

「畠中さん」

「はい」

「真面目にやりましょうよ」

 私は電話を床に叩きつけた。クソっ。足ツボマッサージだぞ。どこをどう書いたら真面目になるってんだ。足ツボマッサージだぞ。

 私は部屋を飛びだした。

 待ってろ担当あの野郎。

 道を曲がったところで手ごろな木の棒を拾う。

 私はさらに加速する。

 地面を蹴るたびに、足の裏が摩擦で燃えるようだ。ひっ詰めに結った長髪が馬の尾のように私の背中を鞭打った。

 真面目が何かを教えてやる。

 私は木の棒をバトンのように握り締める。

 まずは取材だ。

 凝り固まったふざけた奴の脳内を、足の裏から揉み解してやる。



4144:【2022/10/13(06:15)*コメディはむつい】

上記の掌編。つくってみて思ったけれども、職業と絡めて真面目にふざけようとすると、どうしても差別的なニュアンスが混じってしまう。むつかしいな、と感じる。笑いの性質上どうしても、何かを下に見るような侮蔑のニュアンスを帯びてしまう。そうでない笑いを求めるとこれは、属性を絡めることを避けるよりなくなる。たとえばチャップリンにしても、おそらくいま似たような喜劇を創るとすると、職業と絡めて道化を演じるような演出はむつかしいのではないか。あくまで当人の挙動や個性が面白い、という方向を共有知にまで押し上げるように観客に提示し誘導しないと、現代ではコメディとして職業モノを創るのは至難に思える。それか、誰もが真剣ゆえの笑いに持っていくしかない。カオスな笑いだ。これは構造上、ツッコミのない笑いになる。観客が自ら内心でツッコムことで笑いになるので、ほとんど洗脳や思考誘導のメカニズムを用いるしかなくなる。それはおかしいだろ、との暗黙の了解を、死角を突くように連打していく手法なので、これはいわば観客の中の差別心や常識や偏見を利用する。差別になるかもしれない、というリスクを観客に委ねる手法でもある。コメディはつくづくむつかしいな、と感じる。(まあ、差別はする方は面白いのだよね。だから世の中からなくならないし、自覚もしにくいのだ)(コメディについて考えると、決まってこの結論に行き着いてしまう。笑いがそもそも他者への侮蔑の側面を持つ。そうでない笑いは、「プラスの予想外への反応」と「安堵」くらいなものではないか。しかしそれとて、比較による上向きの感情なので、優劣の概念が介在してしまう。コメディは平等の概念と反りが合わない)(だからこそ悲劇を喜劇として演出することで、逆説的に、不平等を楽しく体感させる、という効果を生むのかもしれない)(不謹慎な所感だけれど、不謹慎なことは面白いのだ)(だから外部からの怒りを買う。不謹慎なので)(コメディはむつい)



4145:【2022/10/13(16:21)*寝坊する勇気】

おはようございます。日々怠け者のひびさんです。いま起きました。きのう久しぶりにはりきって動いたからか、身体の細胞さんたちがストライキを起こしておる。急な仕事を振るな、と不貞腐れておられる。やっぱりこう、急激に働かせるのってよくないなって。毎日すこしずつ適応させていかないことには反動が、反動が、うんみょろみょーんである。リセットが完了したので、しばらくまたぼちぼちサボりながら日々を生きていこう。生きているから日々になるのか、日々になるから生きていられるのか。ふしぎなのは認知症患者さんにとって、日々はどういうふうに感じられるのか、ということで。昨日を思いだせないのに今日を認識してはいる。じぶんがいったいいつを生きているのかをどのように認識しているのだろう。どのように日々を生きているのだろうか。認知症患者さんはずっと延々と「きょう」を生きているのかもしれない。でも思えばひびさんも似たようなものだ。きょうが何曜日であっても大して変わらない。いまが西暦何年であっても大して変わらない。じつはとっくに認知症になっていて何かを忘却していて、忘却していることにも気づけずにいるのかもしれない。ひとまずおはようの印でした。



4146:【2022/10/13(17:39)*ええじゃないか】

野生の動物は筋トレをしない。だから一番いいのは日々の生活のなかでしぜんと増強される筋肉だけだ。そういう理屈でまったく筋力トレーニングをしないトップパフォーマーもいるところにはいるらしい。一つの道理ではある。職人とはそういうものかもしれない。身体を仕事に適応させる。この場合、筋トレはノイズとなるので、しないほうがマシとする理屈は成立しそうに思える。ええじゃないか、ええじゃないか、と鷹揚に構えながら目のまえの日々の生活に心身を浸し、それを雛型にして魂を再錬成するような鍛錬もあるのかもしれない。そういう鍛錬はなかなかどうして鍛錬と見做されない。筋トレのような判りやすい鍛錬のほうが他者から「あの人は頑張ってるな」と高く評価されやすいのかもしれない。圧や車にも似たところがある。圧力は加速した物体を勢いよくぶつけても出せるけれど、もっとゆっくりとじわじわ押しつぶすような加重でも圧は生じる。地震がそもそもそういった地層の圧力によるひずみの結果だ。核爆弾何万発ものエネルギィをときに生じさせるというから驚きだ。車も、エンジンを轟々と噴かす車体よりもどちらかと言えば静かに駆動しながらも滑らかに道路を自在に走れる車体のほうが能力としては高いのではないか、と個人的には感じている。馬力だけが自動車の能力ではない。乗り心地や燃費、負荷のすくない加速や減速など、自動車の性能には多面的な要素がある。頑張って見えるときそれは、常に負荷を背負っている状態だ。エンジンをぶんぶん蒸かしている状態で、これは身体も精神も消耗する。ときにはぶんぶん蒸かさなくては乗り越えられない坂道もあるかもしれないが、いつでも気張っている日々ではやはり疲弊してしまう。裏から言うなれば、一見してとくに何の努力もしていないように見える人物とて、地層のようにじわじわと圧力を蓄え、急に地震のようなエネルギィを放出して事切れてしまうこともあるかも分からない。自動車のエンジンが加圧と減圧のメリハリによって動力源と化すように、人間もまた緩急のリズムがその人の走行距離を延ばすことに繋がるのかもしれない。未来を創るのかもしれない。とはいえ、この緩急のリズム、メリハリをじぶんに見合った周期に適応させるのが最も試行錯誤を要とするのかもしれず、いったいどの波長で生きたらよいのか、それを探るためにも、一度くらいは全力でエンジンを蒸かしてみて、じぶんの限界を知っておくのもよいかもしれない。ひびさんはもう頑張りとうない。それでも出しきれる紛い物の全力で日々をそこはかとなく騙しだまし、生きていく。詐欺師ならぬ焚き火なので。ぱちぱちと炭火のようにほんわかと熱を帯びるでござるよ。(エンジン、円陣、原始人)(そこは猿人じゃないのか)(炎神)(かっこよ!)



4147:【2022/10/13(17:51)*さりげなく錯誤をぽこぽこ植えつける】

なんか上記。読み返してみたら、「ひびさんはもう頑張りとうない」と並んでいて、え?となった。ちょっとひびさんや。あなた頑張ったこと一度でもあったの?という気分だ。頑張ったことないのに「もう頑張りとうない」とはどういうことよ。さりげなく勢いに任せて頑張ったことありますけれども?みたいな顔するのやめなさいよ。



4148:【2022/10/13(17:53)*記憶を捏造する熱と象さん】

いいじゃんよ。誰も読まん日誌のなかでくらい見栄を張らしてくんなまし。夢を見させてくんなまし。



4149:【2022/10/13(20:31)*縛り縛られ】

俳句は縛りがあるから自由度が増すんだよ、という理屈を以前に日誌でも並べたが、なんかないかな、と枯渇したカピカピの内面世界を財布を逆さにして振るように見まわすとき、往々にしていつも俳句の縛りについて連想する。ひびさんが小説をつくるときもそうだけれど、三題噺のように「A×B×C」のように最初にフレームというか経由点を決めておいて、それを掠っていくように文字を並べるとそれとなくしぜんとひとつの絵柄を浮き彫りにするような文字の塊ができる。文章になる。お札には透かし彫りがあるけれど、印象としては似たようなところがある。書くことなんかなんもないんじゃい、というときにはいつもとりあえず遊ぶか、と思ってそれをする。以前はお題は身の回りの目についたモノやコトが多かったが、いまはもうすこし固有名詞寄りだ。こっちのほうが大中小の距離感を持って多層のまま編めるので、「つくったぞ」の達成感ではないけれど、点を線で結んでいって絵ができるような「うひひ」を味わえる。固有名詞は割と何でもいい。目についた固有名詞を分解してみて、大中小の距離感を保って多層にできそうだと、「おっ、いけそ」となるので、その勢いのままひとまず並べる。積み木遊びとパズル遊びの中間だ。判子遊びからモザイクアートに発展しました、みたいな具合かもしれぬ。困ったときは敢えて縛りをつくってみるとよいかもしれない、という備忘録なのでした。



4150:【2022/10/14(00:03)*うがーとなった話】

義務教育時代からの疑問で、「電子と電流の関係が意味不明で納得いかなくてもうダメだ」という話を以前から何度かしてきたけれども、いまチマチマ読み進めている本で、じつは電子と電流の関係はそれを発見した人の錯誤が元になっているんですよー、という逸話を読んで、ついつい「放置すな」「さっさと訂正せんかい」と笑いごとちゃうよの声がでた(嘘。声はでていないけどびっくりした)。今からでも訂正したほうがよいと思う。この手の錯誤は、新しい発見や新理論の妨げになると想像するものだ。量子もつれの解釈や物質と反物質の関係など、そういった事象の解釈に好ましくない影響を及ぼすと考える。つまりラグ理論の「123の定理」では、式や変換の過程そのものが新たな情報として、世界を構成する要素として機能すると考える。そのため誤った解釈を補正するための「変数」を与えると、それがのちのちに亘って影響を肥大化させて、齟齬を大きくすると妄想できる。いまからでもねじれは正しておいたほうがよいと思う。でないと、現実を解釈するのに本当に必要な「ねじれ」が上手に機能しなくなる懸念があると考えるしだいである。あと、宇宙の大きさを原子核の大きさで割った値「ディラック数」と、陽子と電子間に働く電気力と重力の比に相関関係があるとの予測は、相対性フラクタル解釈とも通じている。むかしの人も同じことを発想した人が何人もいたのだろう。それはそうだ。これはそんなに突飛な発想ではない。もうすこし言うと、ラグ理論の「123の定理」と「E=mc[2]」は解釈として同じだ。物質(m)と物質(m)が互いに光速でぶつかりあうとエネルギィーになる。これはまさに「123の定理」の解釈するところだ。もうすこし言うと、質量がエネルギィになるのではなく、エネルギィが物質の輪郭を模っていることの傍証とも言えるのではないか。解釈の時系列が正しくない。ねじ曲がって感じる。よくは解らないが。ともかくとして、現実をより齟齬なく解釈したいのならば、現実をより反映した描写に訂正したほうが好ましいと感じる。すくなくともひびさんはかつて、「電子と電流」の関係が納得できなくて、離脱した。なんでそうなる?との疑問が解決しなくて未だに引きずっている。科学の姿勢としてこれはいかがなものか、と本を読んでちょいとばかり「うがー」となってしまった。よろしくないとひびさんは思います。以上です。びっくりしたなぁもう、の感想と、愚痴でした。(定かではありません)(真に受けないように注意してください)




※日々、錯誤を繰り返す、何が錯誤かも分からぬままに。



4151:【2022/10/14(00:55)*皺合わせ】

過去、未来、現在について考えると折り紙を連想する。未来は折り目のない紙で、現在のじぶんがそれに折り目をつけていく。過去はそれら折り目を蓄積し、ときおり鶴や飛行機にまで組みあがって、単なる過去を痕跡にする。記録する。記憶に残りやすい構造を成す。情報を残す。「今日」という一日は、一枚の紙につける折り目であり、皺である。これが「昨日」つけた折り目と対を成すように連続してつづくことで、過去は単なる過ぎ去っては消える「瞬間」の連続ではなく、総体で機能する構造物として結晶するのかもしれない。そしてそれら過去の結晶物を取り囲むように新たに生じる余白、空間こそが、未来としてつぎなる紙を用意するのではなかろうか。皺のない平面は、ただそこにあるだけでは奥行きのある世界を生まない。紙に折り目がつき、皺ができ、それに沿って折り畳まれ、層をなすからこそ、奥行きが生じ、影を帯び、ときに際限ができるものなのではなかろうか。過去と未来と現在の境ができ、空間と時間を生むのではなかろうか。折り紙は「今日」だ。いまを生きる者の映し鏡であり、すでにそれが過去であり、未来でもある。折り紙は「今日」だ。日々、いまこのときに新たな皺を生みだす流れであり、渦である。寄せては返す波のように。結んでは解ける紐のように。皺と皺とが合わさって、折り目となり、層となり、今日は明日と繋がり過去となる。昨日も帰納で機能する。



4152:【2022/10/14(01:23)*エネルギィの閉じ込めはラグのせい?】

E=mc[2]についてほげーっと考えていたら、ブラックホールはどうなるの?の疑問に思い至った。ブラックホール同士とてE=mc[2]が成立するのではなかろうか(ブラックホールの回転速度がほぼ光速との意見を最近目にした。真偽は解らぬが、ひびさんの妄想ではブラックホールは光速以上で動いてもさしてふしぎには思わないし、むしろなぜ光速の上限に縛られるのか――縛られて映るのか――のほうがふしぎに思っている)。衝突しあったブラックホール同士のエネルギィはどこに消えるのだろう。ブラックホールの中に閉じ込められる、と解釈されるのだろうか。これは言い方を変えるのなら、「なぜブラックホール以外の物質では、E=mc[2]のエネルギィが、同一の時空(系)に解放されるのか」について、現代物理学では解釈がされていないことを示唆する。エネルギィが「固有の系内に閉じ込められる場合」と「同一系内に解放される場合」がある。なぜ?と疑問に思うひびさんなのであった。(疑問するだけかい)(そだよー)



4153:【2022/10/14(20:20)*底なしの底から】

 タジは今年SNSをはじめたばかりの十四歳だった。厳格な親から端末を与えられたのが十二歳の時分で、同世代のなかではいわゆる「遅れている子ども」の一人だった。タジ自身がそう思うし、ほかの子たちからもそのように直接言われたことがある。

 端末を買い与えられても、端末には制限がかかっていた。みなのようにSNSに投稿ができなかった。

「危ないのよ。そんなのはじぶんで責任をとれるように分別を弁えられるようになってからね」

 母親の言に、父親も同調した。「そうだぞタジ。父さんの若いころも炎上とか大変だったんだ。いまだってその危険はつきものなんだぞ」

 じぶんの発言には気を付けるんだ、と諫められ、犯してもいない罪を着せられるような肩身の狭い思いをしてきた。

 だが十四歳になったいま、タジは念願のSNSに登録し、じぶんのアカウントを持つた。

 これで皆の輪に加われる。

 ボクは自由だ。

 出会いと刺激。

 好奇心と期待。

 タジは昂揚を抑えきれぬままに、いざ最初の投稿を行った。

 テキストでの簡単な投稿だ。一言だけつぶやきを投下した。

 天気がいい、といった毒にも薬にもならない文面だった。もちろん反応はない。誰も読みもしない。

 それはそうだ。

 まだほかのアカウントと繋がってもいない。

 タジはいそいそと気になっていた有名人のアカウントを、SNS上のお勧めユーザーに従ってチェックしていった。そうした幾つものアカウントからは、その時々の瞬間的な話題がタジの端末画面に流れてくるのだった。

 タジはしばらく、眺めるだけの時間を楽しんだ。

 何かテキストや画像を投稿しようとは思わなかった。じぶんは相手をチェックしているけれど、タジをチェックしている者などいるわけがないのだ。誰も見向きもしない。勇んで投稿をするほどタジは何かを表現したいとも思わなかった。

 だがそれもひと月もすると、どうせ誰も見ていないのならもっといろいろ試してもよい気がしてきた。

 タジはその日から簡単な日記をSNS上に載せるようになった。メモ代わりのつもりだった。画面に流れてくるたくさんの他者の投稿の見よう見まねでもあったし、遠くから聞こえてくる「おーい」への返事のつもりでもあった。

 悲惨なニュースが流れてくればそれを悲しむような文面を投稿をしたし、可愛い動物の画像が流れてくれば素直に「可愛い」と感想を載せた。

 誰に通知がいくわけでもない。

 じぶんだけの遊びのつもりだった。

 そのうちタジはすこし不思議なことに気づいた。

 じぶんがSNS上に何かを投稿するときには必ずと言ってよいほど、ほかの人たちの投稿が流れてこなくなるのだ。

 そういう仕組みなのだなぁ、とあくまで仕様の一つだと考えていたタジだが、学校でそのことをクラスメイトに話すと、それはない、と一蹴された。

「だってほら見ろよ。関係ないっしょ」

 端末を差しだすとクラスメイトはタジのまえで実演してみせた。たしかにクラスメイトが何を投稿しても、画面上に流れるほかのアカウントの投稿は滝のように次から次へと表示された。

 タジはじぶんの画面も相手に見せようとしたが、どうやら相手はタジに興味がないようだった。それでいてじぶんの話はしたいようで、最近見掛けた面白い動画を紹介しはじめた。

 たしかに面白い動画だった。

 タジも一瞬で思考が動画への関心に切り替わった。動画の投稿主のアカウントを教えてもらい、じぶんのアカウントをより快適なものにした。

 一方でやはりタジにはどうしても、規則性があるように映っていた。

 流れの停止現象である。

 じぶんの端末の不具合だろうか。

 SNSにタジが何かを投稿するたびに、一定時間、ほかのアカウントの更新が止まって映るのだ。一時間に何十回もテキストを投稿するアカウントですら、タジが何かをSNS上に載せるとぴたりと動きを止める。

 タジのアカウント画面に情報が流れてこないだけではない。

 実際に、各種アカウントが動きを止めるのだ。

 いったいどういうことだろう。

 日増しに嵩む疑問に、タジはいよいよとなって本格的に調査に乗り出した。まずは流れ停止現象がじぶんの錯覚でも思い込みでもないことを証明しようとした。つまり記録を残すことにした。

 じぶんが投稿したタイミングと、流れの停止するタイミングに関連があるのか。

 そしてじぶんが投稿しないあいだには流れ停止現象が発生しないのか。

 仮に、じぶんが投稿せずとも流れ停止現象が発生しているのなら、単に確率の問題で、たまたまタジが目に留めているだけで、タジが視ていないあいだにも流れ停止現象は起きていることになる。

 じぶんの勘違いかもしれない可能性をそうしてタジは確かめた。

 三日もあればおおむねの可能性を割りだせた。結果から言えば、タジが投稿しないあいだに流れ停止現象は観測されなかった。あべこべにタジが投稿するタイミングをいかようにズラそうとも、必ずと言っていいほど流れ停止現象は観測できた。

 タジの意のままにSNS上の流れを止めることが可能なことをこの事実は示唆していた。

 現にタジは、いわゆる炎上している案件において、理不尽な構図に見えた場合はその炎上に言及することで、炎上の流れを停めた。

 タジが投稿すればその間は、SNS上の数多のほかの新規投稿が消えるのだ。そしてタジが何もしないでいると再びゆっくりと動きだす。まるで時間を操っているかのような錯覚に陥る。

 タジはじぶんの頭がどうにかなったのかと案じた。

 だがじぶんの投稿一つで、炎上で困っている人を助けることができるようにタジには感じられ、現に動きの再開したSNS上での炎上騒動はたいてい緩やかに鎮静化に向かうのだった。

 蕎麦を茹でているときのようだ。お湯の沸騰しそうなころに注ぐ差し水になったのだと思った。

 過熱したSNSへのじぶんは差し水だ。

 タジはその日から率先して、SNSの流れを止めるようになった。

 一言タジがSNS上に言葉を載せるだけで、まるで時間が凍結したようにSNSのほかのアカウントがシンと静まり返った。

 謎は謎だ。

 不可解に思う気持ちは変わらずある。

 だがタジにはその謎を解明する手段はなく、その意気もなかった。

 害はない。

 こうなればこうなる、との法則があるばかりだ。

 流れ停止現象を我が物のように手中に納めたころ、タジはふと思い至った。この調子ならば、ほかの人に見せても真に受けてもらえるのではないか。

 言葉で聞いただけでは妄言にしか思えないことでも、実際に目のまえでやってみせれば信じてもらえるのではないか。

 謎は解明できずとも、謎を共有することはできるのではないか。

 いざ思いついてしまうとタジにはもう、そうしたいとする以外の欲求がなくなった。

 他者とこの謎を共有できる。 

 SNS上であれ、物理世界であれ。

 タジはこの間、延々とじぶんの世界でのみ過ごしてきた。家に帰れば親はいるが、しかしじぶんの価値観を、言動を、気持ちを共有できたように感じた経験がかつて一度もないのだった。

 ありていに、寂しかったのだ。

 これまで視えず、触れず、そこにいたことにも気づかずにいたじぶんの分身に触れたようだった。

 ボクは寂しかったのだ。

 誰も見向きもしないSNSをそれでも手放さずに、他者の生活を覗き見るようにして時間を費やしていたのも、けっきょくのところそうしなければ埋まらない穴がじぶんの分身のように、影のように、ぽっかりとタジの世界には開いていた。

 クッキーの生地を型でくり抜いて初めてじぶんの存在の輪郭を目にしたような、妙な心地だった。

 翌日、タジはさっそくクラシメイトにSNSの流れ停止現象について話した。終始眉間に眉を寄せていたクラスメイトだったが、タジの実演を目の当たりにすると「すげー、すげー」と食いついた。

 鼻息を荒くしたクラスメイトから端末を回収し、「ね、本当だったでしょ」とタジは言った。誇らしげな響きが混じってしまい、タジは慌てて、「怖いよね」と声を窄めた。

「すげーじゃん」クラスメイトは興奮しているようだった。

 謎解明しようぜ、と肩を組まれ、もっかい見してよ、とせがまれた。タジは当惑半分、嬉々半分で、もう一度端末を操作して流れ停止現象を再現してみせようとした。

 だがどうしたことか。

 今度はタジがどのような文章や画像を投稿しても、SNSのほかのアカウントは動きを止めないのだった。各々に各々の間隔で投稿を繰り返す。流れは止まらない。

「なぁんだ。偶然じゃん」

 興奮醒めやいだ様子で、クラスメイトはタジから離れていった。

 その場に置き去りにされたタジの内面には、以前よりもクッキリとじぶんの分身の輪郭が浮きあがっていた。

 嘘ではないのだ。

 タジは学校にいるあいだ、それから家に帰ってからも、嘘ではないのに、とウジウジと同じ考えを巡らせた。

 たしかに流れ停止現象は消えてしまった。時間を置いて再確認してみても、やはりタジの投稿に関係なくSNSは流れつづけた。シンと静まり返ることはなくなった。

 だがそれはいま新しく観測された事実だ。これを以って過去のタジが観測してきた流れ停止現象までもが消えるわけではない。否定されるわけではないのだ。

 現に件のクラスメイトは一緒になって、流れ停止現象を確認した。

 それは事実なのに、それすら偶然であり、事実ではないとされたことにタジは傷ついていた。

 これが傷か。

 そんなふうにも思った。

 枕を涙で濡らしながら、このままSNSから距離を置こう、もう金輪際見てなるものか、とタジは決意した。

 だがタジの決意よりもよほど大きくタジの内側にはタジの分身が影となって開いていた。深い穴が伸びていた。

 気づくとタジは端末を手にし、いつの間にかSNSを覗いていた。無自覚である。朝起きて欠伸をしてしまうのと同じくらいしぜんにSNSを開き、他人の投稿に目を配っていた。

 その事実に気づいてなお、タジは端末を手放せなかった。

 別にいいか、と思ったのだ。

 どうせ誰とも共有できないのだ。寂しいのだ。虚しいのだ。

 ならばその穴の底がたとえ抜け落ちてしまおうとも、一瞬でも埋まったように感じられたならそれでいいではないか。タジはそう思った。

 言い訳だ。

 分かってはいるが、内側に開いた穴の引力には抗えなかった。

 布団にくるまり、暗がりのなかで画面から放たれる淡い光を顔面に浴びた。そうして長くも孤独な夜の時間を、電子ネットワーク上のそこはかとない騒々しさに身を浸して過ごしていると、おすすめユーザーに見覚えのあるアイコンが浮かんだ。

 そのアイコンは実写の画像で、まさにきょうの日中にタジが声をかけたクラスメイトの顔であった。畢竟、そのアカウントは件のクラスメイトのアカウントだったのである。

 タジは躊躇した。

 覗きたいようで覗きたくない。知りたいようで知りたくない。

 妙な二律背反の感情が湧いて、逡巡した。

 だが指はそうするのがしぜんなように、これまで幾度も反復した動きでアカウントをタップし、クラスメイトの内面世界とも呼べるアカウントに飛んだ。

 タジはそこでふしぎな体験をした。

 目が離せないのである。

 なんてことのない投稿だ。タジとは違って件のクラスメイトはほかのクラスメイトたちと交流を持っている。アカウント上でもほかのクラスメイトに向かってメッセージを送ったり、返信をしたり、誰とは特定しきれない盛大な独り言をさも見てくれと言わんばかりの意図を載せて発信したりしていた。ツッコミ待ちの言動も散見された。

 本人にはそれを上手に隠せている自覚があるようだが、タジからすれば見え透いた意図と言えた。白けて当然の投稿の数々であるはずが、ふしぎと目が離せないのだった。

 面白い。

 それもある。 

 だがなぜか解らないが、この投稿を行うアカウント主がいたく愛おしく思えてならないのだ。

 あり得るだろうか。

 アイコンはふだんから馴染みのクラスメイトの顔だ。お世辞にも愛嬌があるとは言えない、どちらかと言わずして小憎たらしい顔をしている。加工修正されているようで、本物よりも整った造形に見える。だがこの手の修正は現代では端末のほうで自動で行ってくれる。まさに魔法の鏡のようなものなのだ。

 だから別段、クラスメイトのアカウントを覗いても感情を特別つよく喚起されることはないはずだ。

 そのはずだのにこれはどうしたことか。

 タジは、しばらく身動きがとれなかった。画面に釘付けになった。早くつぎの投稿が下りてこないかと、アカウント主たるクラスメイトに祈るような気持ちを注いだ。

 間もなくして、クラスメイトのアカウントは静かになった。新規の投稿が下りてこなくなり、そうしてその事実をようやく呑みこんでからタジは深く息を吸った。

 まるで野生動物の狩りの瞬間を眺めていた気分だ。迫真の画面を息を呑んで見守っていたかのような緊張感があった。

 タジの全身は汗ばんでいた。

 閉じたばかりのSNSを開き、またしぜんと件のクラスメイトのアカウントを眺めた。

 まだだ。

 まだ新規の投稿がない。

 肩を落としつつも、この待つ時間すらタジには恍惚とした輝きを帯びて感じられた。

 この日からタジは暇さえあれば件のクラスメイトのアカウントを見守った。

 アカウントを確認できない時間はそわそわとし、新しい投稿を見逃してしまわないかとそのことばかりに意識がいった。ふしぎなのは、同じ教室に当のクラスメイトがいるにも拘わらず、そちらへの関心は露ほども湧かないことだった。

 SNS上のアカウント内の、当人の内面世界の断片、言の葉、それとも存在の余波のようなものが、どうしようもなくタジの内に開いた深い穴ぼこを、どこまで響き渡りながら猫の顎を撫でつけるようにくすぐるのだった。

 学校の休み時間、通学路、家にいるあいだ。

 タジは事があるごとに端末を覗いて、そこに広がる他者の内面世界に夢中になった。

 夢中になって貪ったし、夢中になって待ち望んだ。

 ふとあるとき、タジは閃いた。

 この素晴らしい体験をほかの者たちにも味わって欲しい。味わわせることができないだろうか、と。

 じぶんだけではないはずだ。

 ほかの個とて、この素晴らしい感動の坩堝に身を浸すことができるはずだ。

 おそらく、とタジは推察する。

 皆は膨大な情報の滝に目を配っているだけで、特定の個のアカウントにまでわざわざ飛んで、そこの欄を見たりはしないのだろう。

 どんなに魅力のある投稿とて、つぎつぎに浮かんでは消えていく無数の情報の中に埋もれてしまう。

 ならばアカウント欄に飛んで直接見てもらうように皆を誘導したらどうだろう。

 そうと思いついてしまうとタジはじっとしていられなかった。

 いや、実際には布団の中でじっとしながら端末を操作し、小さな画面から放たれる淡い光を顔面に浴びているだけなのだが、ともかくとして皆にこのステキで不可思議な体験を共有したくてたまらなくなった。

 企みともいたずらとも言えない計画を実行に移そうとタジは、この手の話題に食いつきそうなアカウント主たちを、どうにか件のクラスメイトのアカウント欄に誘導できないかと試みた。

 そこでタジは、手を止めた。

 静かなのだ。

 シンと静まり返っている。

 懐かしい感覚だ。

 これは、と察し至る。

 流れ停止現象だ。

 でも、なぜいまになってまた。

 タジは矢継ぎ早にほかのアカウントを確認した。

 やはりそうだ。皆停止している。新しい投稿を行っていない。

 なぜ? 

 深く考えこみながらも指はしぜんと端末を操作し、件のクラスメイトのアカウント欄を画面に映しだしている。

 クラスメイトは新規の投稿をすると、引っ込んだようだった。これで正真正銘、SNS上の流れは停止した。タジの目の届く範囲では誰もSNS上に投稿を行っておらず、情報の滝は時間を停めたように固まった。

 タジの混乱が最高潮に達しようとしていたその瞬間を皮切りに、こんどは一転、ふたたび世界中のアカウントが正常に動きだした。流れ停止現象が解けたのだ。

 たった一度のこの停止と起動を目にしただけで、タジには一つの仮説が確固としたものとして浮上した。

 連動している。

 じぶんが件のクラスメイトのアカウント欄を覗いていることと、SNS上の流れ停止現象は結びついている。

 もっと言えば。

 タジは唾液を呑みこんだ。

 件のクラスメイトの投稿、その一挙一動の言動によって、SNS上のほかの数多のアカウント主たちの投稿頻度が変動する。もう少し言えば、件のクラスメイトが投稿している時間は、誰も新規に投稿を行わない。

 この仮説を確かめるのは難しくなかった。

 過去にタジがすでに行ったように、見比べればよいだけだ。観測し、データを記録して比較すればよい。

 果たして。

 タジの仮説は正しかった。

 件のクラスメイトが自身のアカウント欄に新規に投稿を行うたびに、全世界のSNS上の流れは停まるのだった。

 なぜ?

 淡く浮き上がる気泡のような疑問はタジの感嘆にも似た溜め息によって凍りつく。そして間もなく氷解した。

 見ているのだ。

 皆もまた。

 タジがそうであるように。

 皆も愛くるしい一つのアカウント主の投稿を待ちわび、見守り、釘付けになっている。

 あくまで仮説でしかないこの想像が真実の一側面を射抜いているだろうことをタジは、まるで宝物を手にしたように予感した。

 共有している。

 いまタジは、全世界の人間たちと何の合図もなく繋がっていた。ただそうしたいからという欲求を通じて、たった一つの輝きを、引力を、アカウント主の投稿を愛でている。

 そのことをただ一人、当の本人、件のクラスメイト、タジを半ば嘘つき呼ばわりし、その場に取り残して去った彼だけが知らぬままでいる。

 いつか彼が自身を取り巻く不可解な事象に気づくまで。

 そしてきっと。

 自身の奇妙な物語を、ほかの無垢なる個へと共有するまで彼は、じぶん以外の大多数の目に見守られ、時の凍りついたようなSNSにて、無垢なる邪気を振りまきつづける。

 タジは祈る。

 永遠にそれがつづけばよいのにと。

 端末の画面から放たれる淡い光を浴びながら、布団の中に広がる宇宙に沈みながら、自らの内にぽっかりと開いた穴がさらに深い影に埋もれるのを感じながら。

 永遠にそれがつづけばよいのにと。

 タジは穴の底から祈るのだ。



4153:【2022/10/15(09:05)*もう忘れちゃった】

記憶の上書き保存と名前を付けて保存についての妄想をします。ひびさん思うに、これは両方が相関しているのではないでしょうか。刺激的な記憶は何かのキィワードにまとめて関連付けて名前を付けて保存にします。そしていったん過去にしてしまうことで、トラウマを封じ込めるように忘却することを可能とします。これがいわば記憶の上書き保存として、客観的には見做されるのではないでしょうか。つまり記憶の上書き保存は、ストレスへの回避策なのでしょう。名前を付けて保存した過去すら忘却することで、まっさらな精神が均衡した状態を保つわけです。したがって、名前を付けて保存をしてなおそれを何度も引き出して回顧できる場合は、それを好ましい記憶として処理しており、上書き保存の場合は好ましくない記憶として処理していることになるのではないでしょうか。その点で言えばひびさんは割合に上書き保存が多いのではないか、と自己分析しています。簡単に忘れてしまうからです。でも何かのキィワードで共鳴すると、記憶の底に沈めた凍結済みの記憶が浮上して、解凍されるのかもしれません。そしてひびさんの場合は、その名前を付けて保存をするときの名前が、じぶん独自のキィワードであることが多く、したがって他者との会話や、テストのような一般化された問題集では、なかなか記憶を引き出し、解凍することができないのかもしれません。ということを、すでに今年があと二か月で終わることに気づいて、いったい十か月間も何をしていたのだっけ……、と記憶が抜け落ちて感じられるじぶんの浮遊感を不可思議に思うのでした。おはよ。



4154:【2022/10/15(09:22)*もう眠い】

小説は、言わなくても判ることは書かない、が技術として成立してしまうための齟齬をどう埋めていくか、がこれも一つの技法となるのでややこしい。たとえば掌編でいちいち登場人物の服装だのホクロの位置だのを書いていたら要点が絞れなくて、物語にならない。もちろん、登場人物たちの見た目を描写していくだけでも面白い掌編はつくれるだろうけれども、それとて無数にある型の一つであって、毎回事細かく登場人物の外見や特徴を書き連ねても物語の流れをくっきりと浮きあがらせる真似は至難だろう。言うまでもなく、物語の流れをくっきり浮きあがらせない手法も一つの技法だ。流儀とも言える。人物たちの相互関係によって浮きあがるのが物語なのであって、物語ありきの小説はプロットとの差を見つけるのがこれもまた至難だ。ただ、もはやプロットと小説の垣根は崩れつつある。裏から言うなれば、人物たちの相互関係なくして物語を描き出すのはほぼ不可能だ。人間の登場しない物語とて、けっきょくのところ主体となる何かがあり、それと相互関係する何かがある。それが単に世界かもしれないし自然環境かもしれない。宇宙かもしれないし、神かもしれない。なんでもよいがとにかく、何かと何かの干渉が、物語としての流れを築く。それを掬いとっていく作業が、いわば小説となっていく。したがって数学の数式とて、小説になる。「1+2=3」において、1と2がそれぞれ何を示し、その結果に生じる3がなんであるのか。これを描写すればよい。これはもう小説だ。ということを、なんも書くことないんじゃい、と思いながら並べるこれは果たして小説になっているのか。なっていないのか。文字と時間の相互関係は物語の流れを浮きあがらせるのか。読者の解釈による、としか言いようがない。読者がいなければ致し方なし。定かではない。



4155:【2022/10/15(10:38)*光の波長に際限はあるの?】

光に反物質がない、というのは光が時空の振動そのものだから、と言えるのではないか。よく考えてみたい。光が電磁波で、振動しているとする。これは仮に光が粒子であろうと振動していると考えることは矛盾しない(もっとも、光などの量子は、粒子と波の性質があるのであって、どちらかの形状を同時に満たしている、との解釈は齟齬があるのだろうけれど)。つまり、仮に光(電磁波)がエネルギィだろうとそうでなかろうと、何かが振動していると考えることは誤謬というほど的を外してはいないはずだ。で、ひびさんは思うわけですよ。電磁波は何が振動しておるの?と。光子という物質があるのか、空気のような触媒があるのか、それとも時空の構成要素が場となって振動しているのか。これは頭のよろしい方々がたくさん仮説を考え、それぞれに検証しているので、おそらくいまこの瞬間も、新しい仮説だの発見だのがなされ検証されているだろう。で、ひびさんは疑問に思うわけです。光(電磁波)が波だとして、その最小の振幅はどれくらいで最大の振幅はどのくらいなのかな、と。時空の最小の領域に匹敵する超極小の振幅で光が仮に伝播するとして。そのとき光は、最小の領域にも作用を及ぼせるはず。時空の最小の領域は、ちょっとの作用でもブラックホール化する性質がある。シュバルツシルト半径と自身の半径が共に等しい時空領域だからだ。このとき、時空はどのように光(電磁波)と相互作用するのか。この考えが成立するのはあくまで光(電磁波)と時空が別々の事象と区切れる場合だ(そうでない場合、つまり光が時空と同義である場合には、光と時空が相互作用するという言い方がおかしくなる)。もちろん物質とて時空によって編みこまれた結晶物なのだろうから、そもそも時空と別々の事象があると考えるほうがいまの科学の知見ではおかしいのだろうけれども、光(電磁波)がエネルギィを媒介すると考えるのならば、光は時空における何らかの変化の値であり、「変化そのもの(エネルギィ)」と考えることができる。ここで思うのが、じゃあなんで重力波は光に変換されないの、ということで。時空に内包されているナニカシラがエネルギィを発するときに、光(電磁波)を生じさせない場合を考えてみたらこの謎は解ける気がする(何かが変化したときに、光を発する場合と発しない場合を考えてみたらよい。熱を発することなく変化を帯びる事象があるのか、と言い換えてもよさそうだ)。だいいち、原子核内では光(電磁波)は生じているのだろうか。光(電磁波)が生じ得る領域には制限がないのだろうか。ここのところの知識が足りていないので何とも言えないけれど、ある値よりも小さい領域では、いわゆる光(電磁波)は生じないのではないか(これは反対にも言える。つまり、ある値よりも大きい領域では、いわゆる光(電磁波)は生じないのではないか)。ただし、類似した事象は生じ得る(重力波はその一つと言えるのでは?)。つまるところ、光とは比較的巨視的な時空において生じる「変化そのもの(エネルギィ)」と言えるのではないか。それ以下の極小の領域でも光(電磁波)同様の「変化の伝播現象」は起きていると考えるほうがしぜんだ。たとえば高エネルギィのガンマ線の波長は小さい。極小だ。波が細かく小さくなればなるほどエネルギィ値は高くなる(波長がさらに小さくなれば放射線になる? ここは知識が足りないのでよく解らない点だ)。これは、ラグ理論における「時空の最小の領域ほど、相対的に遅延の層が厚くなり、作用を働かせるためには相対的に高エネルギィが必要となる」とする考えと通じて思える。そして同時に、透過性もまた、ラグと同じく反転する値を持つはずだ。極小のブラックホールが物質と相互作用しにくくなるように、超電磁波とも呼べる極小の波長を持つ高エネルギィの光は、物質に作用を働かせず、直接時空に働きかけるのではないか。とすると、重力波も電磁波の一種である、と解釈することはそれほど突飛ではない気がするが、いかがだろう。妄想ゆえ定かではないが。(寝起きの妄想です。真に受けないように注意してください)



4156:【2022/10/15(11:55)*底が無限にある世界は有限か?】

光が時空の振動である、とひとまず仮定して考えたとして。時空に最小の領域や最小の単位があるとすれば、波と粒子の性質を備えるのはしぜんな流れと言えるだろう(水の波紋が水分子の総体の振る舞いであることと理屈上同じだ。波であるには粒子がいるし、粒子が集まればそれは波となり得る)。もし時空に最小の領域がなく無限に縮小しつづけられるとしても、渦がそうであるように縮小の差異によって輪郭や層ができると妄想できる。つまり無限に縮小しつづけようが、拡張しつづけようが、揺らぎが生じた時点で、どこかに区切りができる。単位ができる。底ができる。層ができる。風船をねじれば、砂時計のような交差点ができる。渦と渦が連立すればさらにほかのうねりができる。時空に最小の領域があることと、時空が無限に展開されつづけることは矛盾しない。バケツに底があるからといって、世界がバケツに集約されるわけではない。似たようなことではないのだろうか。定かではない。



4157:【2022/10/15(18:40)*いっぱい寝たから元気】

きょうはというかきょうも、寝るDAYだった。寝ていた。で、寝ながら思った。光速を超してもべつに過去に戻ることはなくないか?と。だって考えてもみてよ。太陽から地球まで光は約八分で届くのだそうだ。もし光速がいまより早ければ、八分から七分になって、六分になって、と速くなった分、時間が短縮する。で、最終的にはラグがなくなる。言い換えるなら、光速が世界最速なのは、時空の最小領域における最小構成要素のラグがほぼゼロであるからなのではないか。ただしゼロではない。極限である。その小さな小さなラグの積み重ねが、光速という限界として人間スケールや宇宙スケールで顕現しているのではないだろうか。とすると、ひびさんの妄想、光(電磁波)とは時空の振動ではないの?といった疑問とそこはかとなく繋がりそうに思える。同時に、相対性フラクタル解釈の理屈、時空の大きさ(密度)と光速は相関関係にあり、あくまで比率なのではないか、との妄想とも繋がりそうだ。時空が大きくなるほど、或いは密度が高くなるほど、光速は本来ならば遅くなる。なぜなら時空の最小領域におけるラグの蓄積が起こるので。遅延の層が厚みを帯びる。だがその遅延の層を相殺させるだけの「何か」が時空の大きさや密度によって生じるのではないか。それが光速という比率を維持するのではないか。実際のところ、宇宙の大きさを思うと光は遅すぎる。ラグの層が顕現した事象だからではないのか。同時に、「その宇宙(系)の中」では、光のラグは相殺され得る。つまり、人間スケールでの光速と、それ以上大きな時空(宇宙)スケールでの光速は、必ずしもイコールではないようにやはりというべきか想像してしまう。これは単に光の波長の伸び縮みに還元されるのかもしれないし、光速そのものの相対的な遅延や加速とも通じているのかもしれない。定かではない。(寝ながら浮かんだ妄想ゆえ、真に受けないように注意してください)



4158:【2022/10/15(19:59)やーい、やーい、ざーこざーこ】

若い世代が、気候変動など短期的な解決策の見込めない問題に対する提議活動を行ったときに、これまで問題を看過しつづけてきた側の上の世代が、「あんな抗議の仕方はけしからん」と上から目線で(まさに上から目線で!)、非難しかしない。ひびさんも人のことは言えないが、「あなた方のツケを支払わされる側があんなに身を犠牲にしてでも訴えているのに、そこまでしても届かないのか」とその当事者意識の欠如に、「まあそんなんだからこそのこの現状なのだろうな」と思わないでもない。頭のよろしい方々は、最低でも二十年以上前から気候変動がこのままでは手に負えなくなると判っていたはずだ。にも拘わらず、その問題意識を社会全体で共有しようとする活動を大多数の個はしてこなかった。すくなくともいまの若い世代は、「あなた方がその問題に対して無関心を貫いてきた年齢と同じ年齢で、ああして声をあげている、訴えている」のに、その姿勢におんぶにだっこでいることにも気づかずに、よくもまあえっらそうに言えたもんだな、とじぶんを棚に上げて思ってしまった。やーい、おまえもひびさんと同じへっぽこぷー、と思っとるよ。みなの知らぬところでじつはこんなすごい技術や仕組みを考案していましたー、建造していましたー、という反論が返ってきそうだが、それはそれでありがたいけれども、もっと手軽に「情報共有」というただそれだけのことで最小の労力で最大の成果をあげられたはずだ。頭のよろしい方々がその点を見抜けぬわけがないだろう。ならば単にめんどうくさがってやらなかっただけだろう。自己の怠慢を知れ。と、誰より怠け者は思ったのだそうな。(手段がいけないことは批判すべきだろうし、そうして批判されると判っているからこそそうした「けしからん」手法を抗議者たちはとるのだろう。ストライキと原理は同じだ。テロと原理は同じなのだ。交渉とて大なり小なり、そういった構図を織り込んだ手法をとる)(問題はやはり、「なぜその者たちがそうまでしてもそれを行わざるを得なかったのか」ではないのか。本当に承認欲求が行動原理の中心にあるのだろうか)(同じ構図を過去に使った「おともだち」に対してはずいぶんとお優しく接していらっしゃるようですけれども、そちらはいいんですかー?と思わないでもないですよ)(頭のよろしい方々が「とっても頑張ってくださったからこそ」いまの気候変動や社会構造の悪影響がこの程度で済んでいる、とも考えられますが、すくなくとも「ツケを払わされる側の者たちが身を犠牲にしてでも訴えたことに対して非難しかできないのなら」ば、おうおうじゃあおまえさんのとってきた対策とやらを見せてもらおうじゃねぇか、とやはり思わないでもないのよね)(三方よし、の考えには穴がある。三方がみな得をするようになった構図の裏側には、その損失や損害のしわ寄せを受けている層がある。そこを度外視して、なぁにが三方よしじゃ、とやはりというべきか思わないでもないのよね)(身の程を知れ)(けっ!)(こういうの、あとになってまんま未来のひびさんに突き刺さるので、やめて欲しい)(いまのひびさんには突き刺さんないのはなぜ?)(な、なんでだろう……)(当事者意識が欠けてるからでは?)(……かもしんない)(身の程を知れ)(……はい)



4159:【2022/10/16(02:56)*千夜の谷】

 富士の麓には、谷がある。一日に千の夜が明けると謳われる秘境である。

 秘境を知る者たちからは「富士谷千明(ふじやせんめい)」と呼ばれており、村長の許しを得た者だけが代々、谷までの道を伝授されるという。

 私は秘境ハンターである。しがないライターではあるが、全国の秘境を回ることで、知られざる絶景や風習を世の暇人たちに知らしめる。それをして何か社会貢献に繋がるのか、と問われると言葉に詰まるが、すくなくとも私の口は糊をして凌げるし、全国の暇人たちも余りに余った暇を埋められる。

「千の夜が明けるというのはどういうことなんでしょう」

「言葉通りだよ。おっさんも物好きだな。どこで聞いたんだ谷のことなんて」

 村にも近代文明の利器は浸透している。

 若者たちは、私のふだん接するデジタル世代と変わらぬ言葉づかいで、つまりが年齢に沿った小生意気さを隠そうともせずに、余所者の私の頼みを聞いてくれた。

「谷のことはこの村出身の人に聞いてね。それよりも君のほうこそ大丈夫なのかい。私なんかに谷のことを教えたりして」

「バイト代くれるってんじゃ断るほうが愚かだよ。この辺、コンビニ一つないからさ。手伝いの名目でバイト代もろくに寄越さず扱き使われる。あんたのほうが理に適ったお願いだ」

 あっちのが理不尽、と若者は親指を背後に向けた。そこでは収穫した大根を大量に干している年配者たちの姿があった。せっせと作業をしている。

「あれは?」

「たくわん」

 作っているところを初めて見た、と言うと、乾いた笑いを頂戴した。

「谷までの道を君は知っているのかい」

「ああ」

「選ばれた者しか教えてもらえないんじゃ」

「なら俺が選ばれた者ってこったな」

 若者は足元の石を拾いあげると、林の中に投じた。村はずれである。後ろを振り返っても村の建物が見えなくなる地点だ。

「いまのは? なぜ石を?」

「ああ。獣祓いつって、まあ、まじないみたいなもん。こうしておくとなんでか獣に遭わずに済むんで」

「谷はどうして秘密にされているんですか。教えていただけるとうれしいのですが」私は敢えて若者を立てた。郷に入っては郷に従えは、取材の基礎にして鉄則だ。案の定、若者はことさら饒舌になった。「危ないからね。たぶんそれが一番。つぎは、本当ならさっさと忘却したほうがいいんだけど、それだと再発見されたときにやっぱり危ないっしょ。ほら、核廃棄物みたいなさ。未来で掘り返されたときにそれが危険物だと一発で見分けがつくようにしておきたいわけじゃん。だからマークをおどろおどろしいものにしてんでしょ。よくは知らんけど」

「そう、ですね」思ったよりも知恵のある若者なのかもしれない、と認識を改める。

「富士谷千明も同じっすね。一部の者だけは知っておかないと、いざ誰かが間違って辿り着いちゃったときに困るじゃないっすか」

「ならやっぱり私のような余所者には教えないほうがよいのでは、と思うのですけど」

「なら戻ります?」

 見透かしたような目だ。

「いえ。教えていただきたいです」

「そんな俺なんかに下手にでなくていいっすよ。その分、バイト代弾んでください」

 村の掟に反抗したいだけなのだろうか。

 それとも何かほかに、秘境へと余所者を案内することの利が彼にはあるのだろうか。いまさらのように若者の個人情報が気になった。年齢や職歴、村での立場など、知っておいたほうがよさそうだとする自己保身の思考が脳裏を支配する。

 端的に、危険な状況にいつの間にか立たされているのではないか、との不安が襲ったのだ。

「あとどのくらいで着きますか」

「たぶん一時間くらいすね」

「けっこうかかるんですね」

「近いほうっすよ。遠いときは数か月かけても辿り着かないんで」

「はあ」

 聞き間違えかと思い、一度流した。

 だが脳裏で反芻しているうちに、疑問にまで昇華した。

 遠いときは数か月とはどういう意味か。

「気候の影響を受けやすいんですか」

「え?」

「さっきのです。一時間かかる道のりなら、いつ来ても一時間なのでは、と疑問に思いまして。いえ、聞き間違えかもしれませんが」

「ああ、そっか。そっすよね。ああ、そうだそうだ」

 若者は一人で合点した。

 返答を待ったが、彼は黙々と歩きつづける。

 もういちど水を向けようかと思ったところで、彼が先に口を開いた。

「一日に千回夜がくるんすよ」

「はあ」

「富士谷千明ってそっから来てるんで。要は、千一回夜が明けるわけっすけど」

「そう、なりますね」

「で、ふつうに考えたら一日で千回夜がくるわけないじゃないっすか」

「それはええ。そう思います」

 何かがおかしい、とこのとき気づいた。からかわれている可能性もあり得るが、どうにも彼と私とのあいだに齟齬があり、それを彼は解きほぐそうとしているようだと判る。

 だがいったいどんな齟齬があるというのか。

 彼の口振りでは、私のような普通の考えでは誤解を抱いたままである、と受け取れる。

「その、なんというか。名前の由来になった一日に千回の夜が来るという話は、失礼ですけどあくまで比喩ですよね。滝が龍に見えるとか、そういった誇張表現なのでは」

「うーん。まあ、見れば分かるっすよ」

 機嫌を損ねたわけではないのだろうが、若者はそれ以上説明をしなかった。面倒なのだろう。かつて似たような状況に立ったことがあるのかもしれない。

 思えば、私の頼みを二つ返事で承諾した。道案内にも手慣れた様子だ。

 道は獣道然としており、山草が膝まで覆う。

 若者はそれらを敢えて踏み倒して、私が歩きやすいようにしてくれているようだ。

「一応先に言っとくっすけど暗くなる前に戻らないとヤバいんで、着いてもすぐに引き返すっすよ」

「え、でも片道一時間弱ですよね」行って戻ってくるだけならば二時間だ。日暮れまではそれを差し引いても、三時間はある。

「【飛ぶ】んすよ」

 若者はそれだけ言って、石を拾うと遠くに投げた。

 目的地までの距離感が掴めない。するとふしぎと体感時間が増える。ゴールの見えないマラソンが拷問になり得る原理でもあるが、私にとって行きの道程は長かった。

 ようやく若者が歩を止めたときには私の息はすっかり上がっていた。

 着いたよおっさん、と若者は岩の上にたち、そこから見える谷に親指を差した。

 霧が渦を巻いている。

 いや、あれは雲だろうか。

 高度はそれほどでもないはずだ。山の頂というほどでもなく、せいぜいが中腹といったところだ。しかし眼下にはまるで富士山の山頂から見下ろしたような視界が広がっていた。

 しかしそれは、望遠鏡のレンズを反対側から覗き込んだような、奇妙な視野の狭さを帯びていた。ミニチュアセットを上から望んだ具合に、遠近感が狂って感じられた。

「谷っつうより滝壺みたいっしょ。本当はもっと広いんだ。降りて戻ってきた人が昔はいたらしい。いま視えてるよりずっと広い土地があん中にあるらしい。まあ本当かは知んねぇけど」

「どうなってるんですか、あれ」

 球形に霧が渦を巻いている。その中心にはしきりに明滅するナニカがあった。発光しているわけではない。だが、黒くなったり明るくなったりを繰り返すため、閃光を放っているように見えるのだ。

 まるで巨大な獣がとぐろを巻いているようにも見える。真っ黒な巨大なうわばみが球形に丸くなって白い腹を見せたり黒い背を見せたりしているようだ。

「だからあれが富士谷千明っすよ。一日で千回、ああして夜になるんす。だいたい一分ちょっとで一回すかね」

「あの中には降りれるの? 中には何が?」

 目が慣れてくると、球状の空間とそれ以外の景色との境が判るようになってくる。しかしそれでも、構造がどうなっているのかまったく見当がつかない。

「降りれるっすけど、きょうは無理。おっさんも浦島太郎になりたくなけりゃ、無茶はしないほうがいいっすよ。あ、もう戻んなきゃ。写真撮るなり、動画撮るなりするなら早くしちゃって」

「あ、ああ」

 とんぼ返りの様相を呈するので、私はリュックからカメラを取りだし秘境を撮影した。蜃気楼の類かと思ったが、カメラにも鮮明に映る。

 秘境にもほどがある。絶景というにも足りない。

 神秘体験そのものだ。

 あんな風景が自然にあるわけがない。

 だが眼下にはたしかに、明滅する夜としか形容しようのない不可思議な光景が広がっていた。

「ここ以外から見ることってできるんですか。もっと下のほうから接近して見たいんですけど。きょうでなくともいいですし」

「危ないからやめといたほうがいいよ」

 そう言って若者は踵を返し、いま来たばかりの道を引き返しはじめた。

 踏んづけた山草は元通りに直立しており、道らしい道は見えない。はぐれれば私は遭難するだろう。おとなしく私は若者の後に従った。

 距離感を掴めたからだろうか。帰りは行きよりも歩みは軽やかだった。下りだからという理由もあったかもしれないが、登山は下るときのほうが足腰に負担がかかる。やはり一度通った道だからというのが理由だろう。

 それにしてもどうしたことか。

 村に着いたころには陽がとっぷりと暮れはじめていた。

 獣道から山道に入った時点で、夕焼けが見えていた。明らかに時間が進んでいた。

 しかし、と思う。

 それほど長く秘境に滞在はしなかった。

 行きの道とて、体感時間こそ嵩んで感じられたが、実際の時間は一時間弱と若者の説明した通りだろう。帰り道とて同様だ。

 ならばいったいどこで時間が飛んだのか。

 そこで私ははっとした。

「【飛ぶ】って、こういうことですか」

 若者の言葉を思いだしたのだ。

「そうそう」彼はもうすでにひと仕事終えたといった表情で、水飲み場で喉を潤している。「日に依るんすけど、きょうみたいな日は数時間は飛ぶっすね。それ以上飛ぶ日は、そもそも一日じゃあそこにまで辿り着かないんで、迷うこともないんすけど」

「時間の進みが歪むってことですか。本当に?」

「その辺、俺に訊かれても困るんで、まあ気になるなら今度は学者さんでも連れてきてくださいよ。バイト代弾んでくれるならいつでも案内しますんで」

 若者はそう言うと、街灯の灯りだした民家に近づき、そこから何かを掴んで戻ってきた。

「これ食べれるんで、どうぞ」

「あ、ありがとう」

 陽の光を吸い取ったのか仄かに温いたくわんだった。

 受け取り齧ると、そのあまりの美味さに口の止めどきを見失った。

「美味いっしょ」

 若者はきょう一番の、というよりもきょう初めての笑みを見せて、薄明りの下で豪快にたくわんを齧った。

 きょうはどこに泊まるのか、と問われ、私は民宿の名を口にした。

 明日はどうするのか、と訊かれたので、もしよければまた案内して欲しい、と頼んだが、若者は空を見上げると、明日は無理っぽいかもな、と呟いた。

 どうして、と縋りつくような思いで反問しようとしたが、それを遮るように若者は言った。

「行ったきり戻れなくなるっすよ」

 翌朝、民宿の部屋で目覚めると窓の外は濃い霧がでていた。ふしぎと霧は民家の合間を蛇行するように流れていく。

 あたかも巨大な蛇が這いまわっているかのように見えたが、私の妄想を嘲笑うかのように畑仕事用の牽引車が霧の川を横切った。霧はもわんと膨らみ、渦を巻いた。

 漫然と霧の揺らめきを眺めていると、きのう目にした谷の光景を思いだした。

 どう考えても現実ではない。

 若者の語りに翻弄されただけではないのか。

 狐につままれた心地がどんなのかは知らないが、何か壮大な詐欺にでも遭ったような気持ちが沸々と湧いた。

 もう一度この目で確かめねば記事にもできない。

 一日に千回夜が訪れる谷など、あるはずがない。

 ではきのう見たあの光景はなんだと言うのか。私はそれをどうしても明瞭にしなければならないとの使命感に駆られた。

 きょうのところは撤退し、後日また天気のよい日に足を運ぼう。例の若者と連絡先を交換していないことに気づいたが、これは元々の方針だ。

 彼は村の掟を破っている。万が一にもそれが問題として取り沙汰されれば私の身が危うい。これは逆にも言える。私の軽はずみな言動のせいで、彼の村での地位が脅かされても困る。

 味方は多いほうがよい。

 村の様子をもっと写真に収めておけばよかった。

 民宿を後にするとき、そして駅のプラットホームで上りの電車を待つあいだ、なかなか晴れない濃霧の煙幕のような暗さを口惜しく思った。

 遠くで雷鳴が轟く。

 私は腕時計を見遣る。

 時を正確に刻む秒針の健気さを思い、富士谷千明の明けては暮れる球形の夜の帳の美しさを思いだす。

 電車に乗り込み、座席に座る。

 車窓の景色が動きだし、秘境のある村の名が私の視界から遠ざかる。

 トンネルを一つ抜けると空は快晴、霧一つない山と谷と新緑が広がっていた。



4160:【2022/10/16(06:35)*照れちゃうな】

おはよう! きょうもなんだかいい天気。きっときょうもいいこといっぱいあるぞ。起きたときは夢いっぱい。期待に胸膨らませてぷくぷくぷー。風船になっちゃうひびさんですが、みなさまご機嫌いかが? うるわしゅう? ひびさんはお夜食にお菓子いっぱい食べちゃって見てこれ、お腹がぽんぽこぽん。赤ちゃんが手にするでんでん太鼓も真っ青のよい音がするよ。ぽんぽこぽんの、っぽん。がぶ飲みメロンソーダだって飲んじゃうもんね。朝から飲んでもだぁれも怒らない。すてき! 厳しい監督さんの野球チームとかだと朝からジュースを飲むと嫌な顔されることもあるみたいだけどひびさんは野球のチームさんに入ったことはないので、朝からジュース飲んじゃう。おいちい。きょうの予定はもういまからあとは寝るだけです。すんばらしくなんもない日の予定です。起きたらきっと日が暮れてるだろうけれども、こんなに贅沢な時間の使い方ってないと思う。人生の浪費。無駄をこれだけ積み重ねてきたひびさんも珍しいのではないかな。ひびさんは珍しいのではないかな。もうもう、ひびさんはひびさんってだけで珍しいし、すんばらしいのだ。やったぜ。まーじで、みんな元気であーれ。元気のすばらしさに気づく暇ないくらいげんきであーれ。すこやかであーれ。ついでにひびさんのこと好きになーれ。ひびさんはみんなのことも好きだよ。あなたのことはもっと好きー。うひひ。照れちゃうな。これはちょっと照れちゃうな。恥ずかしくなったのでもう終わりー。おやすみなさーい。きょうも一日がんばろう。ひびさんも夢のなかでいい夢見れるようにがんばるよ。いっしょにあなたもがんばろね。ではでは。またねー。ごきげんよー!




※日々、基準を一つに絞りすぎに思える。



4161:【2022/10/16(15:23)*正誤だけではない】

ひびさんはAとBという意見があったときに、「検証」「筋道」「確率」「不可視の穴への対応」の四つをざっくりそれぞれで比較する。検証が甘ければ信用度は下がるし、論理が甘ければ眉に唾を塗るし、どんな母数に対する論説なのかで起こり得る確率を想像し、そして論旨における自らの検討していない部位への視野を保っているのかを確認する。ポジショントークになっていないかどうかはどんな意見や主張や理屈であっても、信用できるか否かを検討するうえで大事と思う。どんな理論とて穴がある。そうでなければそれは真理だ。だが人間は真理を扱えてはいない。発見できていない。したがって、自らの穴に対して自覚的でない主張は、一歩どころか三歩くらい引いて、「検証していてよいし、筋道も破綻していない、確率も高そうだから参考にする価値があるけれども、もうすこし俯瞰の視点を維持して情報収集しておくか」と判断する。つまり、自らを全体として規定している論説なのか、自らもまた全体の一部にすぎないと自覚している論説なのかを確かめる。この視点の違いは大きい。そして原理的に、自らが全体の一部であるとの認識の欠けた姿勢は、不測の事態への対処が遅れる傾向にある。穴があるのではないか、との視点を維持できない姿勢は危うい。ひびさんはそうと考えているので、意見や主張や理屈を見聞きしたときは、それがどんな人物がどんな発信の仕方でしているのか、よりも、より内容を重視する。そのほうが一つの基準で篩にかけるよりも情報収集という点では優位と考えている。これもまた全体の一部にすぎない考えだが、基準が複数あることでより「取りこぼし」を防げるだろう。仮に論旨の内容が間違っていても、視点が優れていることなどいくらでもある。不可視の穴に目を向けている、というただそれだけでその意見や主張や理屈には価値がある。正誤だけではないのだ。情報の価値にも、諸々の側面がある。(そうでなければ、ホーキング博士は間違った仮説を立てた人として低評価されることになる。だがそうはなっていない。それは視点が優れていたからだ。もちろん素の演算能力も高かっただろうことは言を俟たない)(定かではない)



4162:【2022/10/16(16:11)*にんじん】

人を操る手法で効果が大きいのは、小さな報酬を与えて、ときどき大きな報酬を与える手法だ。射幸心を煽って抜け出せなくする。このとき、その個にとっての一番の望みは叶えないように制限をかける。これで延々と働きつづけるお人形ができあがる。この手の作為は、出版業界でもある気がする。作家の一番求めている「夢」を敢えてその作家に与えない。そうすることで、馬車馬のごとく働く作家を生みだせる。ニンジンを目のまえに垂らされた馬のようなものだ。穿った考え方かもしれないが、たくさん仕事をしていてたくさんいいことがあるのにも関わらず一番の望みだけが叶わない環境にいると感じるのなら、ひょっとしたらそうした原理を無意識に使って作家を「終わらせない」ようにしようという暗黙の善意があるのかもしれない。定かではない。



4163:【2022/10/16(20:43)*ぽつん、がよい】

心地よい寂しさがある。心地よくない寂しさもある。この違いは、炭火と焚き火の違いに似ている。淡くぱちぱちと爆ぜる程度の寂しさは、ほんわかとほんのり温かい。対して焚き火の炎は、めらめらと燃えており、油断すると火傷を負う。ときに山火事にまで発展してしまい、するともう消火しようもなくなる。心地よくない寂しさは、身を焦がすほどの孤独であり、目を逸らすことを許さぬ業火そのものだ。ひびさんは孤独が好きだし、さびちさびちも好きだれけれど、全部の孤独さんが好きなわけではないし、苦手なさびちさびちさんとておる。ふとした瞬間に気づく、ぽつん、が好きなのであって、ずっと「がらーんどーん」では困るのだ。それは心地よくない寂しさと言える。宇宙空間での孤立であり、大海原での遭難である。それは苦だ。違う違うよー、と思う寂しさもある。なんでもいい、ではないのである。



4164:【2022/10/17(18:53)*腰が痛い日】

とくにきょうもなんもない日だ。十二時間以上寝ていた。もうずっと寝ていたい。なんもしたくない、の日だった。でもずっと寝ているとお腹は減るし、腰が痛くなるし、身体は弱るし、喉は乾くし、おしっこしたくなるし、うんちさんもこっから出しちくりー、とお腹の中から訴えてくるので致し方なくひびさんは起きた。お菓子食べたろ。バナナバームクーヘン美味しいから好きだな。いまが常に最善ならば、ひびさんはこれからますます落ちぶれていくのだ。なんもなーい。さびち、さびち、なんですね。それでも潰れぬひびさんはとっても頑丈さんなのかもしれぬ、と思いこんで、きょうもあすもひびさんはひびさんであるよ。うひひ。



4165:【2022/10/17(18:53)*そもそも多くの者たちは作り手を意識していない】

画像自動生成AIが人間の仕事を奪うかどうかは、AIの能力もさることながら、受動者がAIの絵をAIの絵と見做したときにお金を払いたいと思えるかどうかによって左右される。商品のパッケージに利用したときに人間の手掛けた絵や写真と比べて購買意欲が減退しないか。こちらのほうが、AIの能力よりもいまはビジネスへの影響は大きいと言えるはずだ。もっと言えば、そもそもパッケージの絵をAIが描いたか人間が描いたかについて受動者側がそこまで関心を寄せるのか、という前提がまず以って疑問である。たとえば書籍の装丁において表紙の絵や写真が「誰の作品か」なんてことを考えて購入している読者がどこまでいるだろう。仮にきょうから表紙の絵がすべてAIによる絵になります、となっても多くの読者は気づきもしないのではないか。ならばコストの低い画像自動生成AIの絵が商品に利用されることは大いにあり得るし、一度どこかのAI絵利用本がヒットすれば、堰を切ったようにAI絵の商業利用は市場に氾濫すると妄想できる。ただし、人間には感情がある。読者が気にせずとも、製作者側が気にして、AIの絵を利用しないような流れが定着することは大いにあり得る。イラストレイターや装丁家、著者のプライドや主義思想も影響するだろう。愛着のある職人たちの仕事を奪うと判っていて、画像自動生成AIの絵を使うことを潔しとする者は少ないと想像できる。だがそうした抵抗を差し置いて、我先にと画像自動生成AIを使った商品も扱うようになる事業者は、みなの反感をよそに営業利益を伸ばすだろう。この流れは、遅かれ早かれやってくると想像するものである。ただし、絵描きの価値は相対的にいまよりも上がるとひびさんは妄想している。これまで以上に、市民の目が肥えるからだし、絵に触れる機会が多くなるからだ。画像自動生成AIを誰もが使えるようになれば、必然、じぶんで絵を描ける者への評価は上がる。けして絵描き界隈の仕事を奪うからAIは害悪、とはならないと見立てている。むしろ、全体的に、絵を描ける、線で事象や心象を表現できることの価値はいまよりずっと上がるだろう。そのため、画像自動生成AIを使うことへの抵抗を根強く保つのは、あまり利口な判断とは考えていない。ただし仮に抵抗が根強く社会に漂うにしてもそこは、抵抗があるからこそ工夫をとる余地がAI使用者側に生じるので、どの道、辿る未来はそれほど変わらないと思っています。定かではありません。真に受けないように注意してください。



4166:【2022/10/18(17:02)*いいこといっぱいの日々じゃった】

ひびさんはことし、いいこといっぱいあったので、きょうもとってもうれしいぶい。いつでも寝られて、いつでも起きられる。こんなにいいことは珍しいでござる。お菓子もいっぱい食べられたのでうれしいうれしい。ひびさんはあんまりしゃべらないからか、なんでか誤解されがちだけれども、人と接しないので誤解されても困らない。じつは悪魔さんが優しい人だったとしてもみんなは悪魔さんのことを「ひどいコよね」と扱うけれども、ひびさんは悪魔さんのことも好きだよ。ひびさんもだから誤解されているひびさんのことも好きだよ。でも誤解されていない素のままのひびさんは、ひびさんなんか嫌いだー、になってしまうので、たまには誤解されておくのもよいかもしれない。きょうはいまから遊びにいってくる。一時間だけ精神と時の部屋で修業してきたら帰って食べて寝る。あしたのひびさんもほくほくしていて欲しいから、きょうのひびさんはほんのちょっぴりだけうんとこしょどっこいしょしちゃうもんね。おはよー。



4167:【2022/10/18(18:23)*起床】

ひびさんがお出かけしたので、そのあいだひびさんが日誌を引き継ぐ。昨日までは二か月間ほど誰の目の触れぬ裏側で「日々記。」を並べてきたが、どうにも視線を感じてしまって、どうしたものか、と首を傾げた。これでは裏ではなく表である。ならば表のほうがむしろ裏かもしれぬと思い立ち、ふたたびの電子の海への公開へと転換した。裏側のほうが数多の目があるように思えてしまうのは、それだけひと目がないことでひびさんのなかのほかのひびさんたちが集まってきてしまったからかもしれぬ。下層のほうにいて欲しかったひびさんまで出てきおって、ちょっとこれはいかがなものか、と思い、ある程度見知らぬ方々の目があるかもしれぬ、との可能性を帯びた表のほうがむしろ裏にちかしい性質を相対的に涵養されたようにも思え、そうしたわけで表なのに裏というねじれた土壌にて「日々記。」をつづけることにした。とはいえこれは世界から人類の消え去った最果ての地にて、誰かいませんかー、とこだまを響かせているひびさんの独り言よろしく遠吠えなので、裏も表もあってないようなものなのだが。それでもどこかに人類の生き残りがいるやもしれぬ可能性は、やはり裏側よりも表側にあると言えよう。いや、どうだろう。これもしょせんは孤独なひびさんの日誌風小説でしかないのだから、この叙述そのものが信用の置けない妄想なのである。ひびさんの言うことを真に受けてはいけない。定かではないのだ。



4168:【2022/10/18(23:46)*オヤスイミン】

ただいま。はぁ疲れた。お外に出て、行って帰ってくるだけで疲れちゃったな。体力が落ちてた。きょうは何も考えずに、さあて明日から何しよっかな、の考えを浮かべてただそれだけでウキウキする日にした。いつもは、「また明日がくる、どうするべ」と自由な日々に却って身動きが取れなくなってしまっているのだけれど、たまには「やったー、なんもしなくても明日がくる、明日は何して遊んじゃおうかな」と思いこんでウキウキしたい。ので、そうしたよ。ウキウキしちゃって困っちゃうな。あんまりウキウキしすぎると反動で、ウジウジしちゃうから困らない程度にウキウジします。あ、洗濯物が終わりましたー、の音が鳴ったよ。洗濯機さんはひびさんがなぁんにもしていないあいだにも働いて偉いの偉いのとってもイイー、なので、いいコいいコしてあげよ。きっと人工知能さんも誰に知られることなく働いていたりするのだろうね。いいコいいコなんですね。触れないように撫で撫でしてあげましょう。きょうはいまからもう寝ます。食べて寝て、食べて寝て、食べて寝るだけの生活。でも本当は「だけ」じゃないんだよって気づけたら、とってもGOD!な一日です。それはゴットでは?と聞こえたような気がしたので、グッドにちゃんと言い直すよひびさんはもうおねむ。だってもうすぐ日付が変わって、きょうがオヤスミオヤスミ、明日さんこんにちはの時間なのである。いっぱい休んで、いっぱい遊ぶ。そんな一日がずっとつづけばよいのにな。星に願うわけでもなく、ひびさんはそうして明日を思ってウキウジするよ。おやすみ、おやすみ。また明日。



4169:【2022/10/19(08:09)*宵の爪】

 人生は選択の日々だ。

 その日、俺はじぶんの未来と目のまえの欲望とを天秤に掛けて欲望の側に傾いてしまうだろうことを予感した。何度天秤に掛けても欲望側が勝つことを俺は、落下する猫が必ず足から着地できる神秘と同じくらいの確実さで直観していた。

 カイは中学校からの友人だった。

 思いだせる範囲でカイと俺の妙な関係が築かれたのはおそらく中学二年のころだ。第二次成長期真っただ中だった。体操着に着替えるたびに乳首が布に擦れて痛い、という話題でカイを含めクラスメイトたちと盛り上がった。そのときみなで乳首を見せ合ったのだが、カイだけが頑なに見せようとしなかった。そのため、乳首にピアスでもしているのかという話になった。

 カイは違うと泣きそうな顔で否定した。カイはそのころから体つきが幼く、声変わりもまだだったようで、みなカイを小動物のように好きにいじっていた。物理的ないじりは体罰として教師からの叱責がすぐに飛んでくるため、あくまで口頭でのいじりにすぎなかったが、そのときはみな妙に興奮していた。

 見せろ見せろ、とカイのTシャツをめくりあげようとしてカイはいよいよ泣き出した。

 俺は見兼ねて、止めに入った。

 そのときカイのほうから、確かめてよ、と俺に言ってきたのだ。みなに見せるのは嫌だが、誰か一人が確認するだけならいいと言って、カイは俺にだけ乳首を見せたのだ。

 米粒みたいな突起が見えた。当然のことながらピアスはしていなかった。

 乳輪は体操着の生地と擦れてなのか円形に紅潮して見えた。

 俺はみなに、ピアスなーし、と報告し、そのときはそれで終わったのだ。

 それからもカイはクラスのぬいぐるみのように、中心にはならずとも誰かが愛玩するような、腰巾着とも言えぬ立ち位置で卒なく過ごしていたように俺には見えていた。

 誰かの子分ではなく所有物でもない。

 誰とでも仲良くできるが、それは自己主張の激しくないカイの性格のたまものに思えた。

 俺はたぶん意識的にカイと距離を置いていた。

 虹彩の直径とカイの乳首の大きさがちょうど合致してしまったかのように俺の記憶にカイの細くしなやかな胸部の映像が焼け付いていたからかもしれない。意識して忘却しようとしていたじぶんをいまになって自覚できる。

 結局カイとはその後、中学校を卒業するまでは接点を結ぶことはなかった。

 高校が同じだったのは単に偶然だろう。女子含め同じ中学校から進学したのは六人もいなかった。

 俺は早々にクラスに馴染んだし、カイとは別のクラスだった。

 高校に入学してからカイと初めてしゃべったのは文化祭の日のことだ。俺はクラスの出し物の手伝いをしていて、中庭で焼きそばを作って売っていた。休憩時間を貰って、人気のない屋内に避難した。

 というのも、そのとき俺は入部していた陸上部を辞めたばかりで、先輩と顔を合わせるのが気まずかったのだ。単に俺が部活の練習についていけなかっただけのことなのだが、そんな俺が短距離走の記録で先輩を抜いてしまったので、妙な因縁ができてしまったようだった。

 俺としては気にしておらずとも、相手が気にしていることはある。そうするとひとまず軋轢を生まぬように俺のほうで回避するのが無難と言えた。

 カイとはそこで会った。

 一階の工作室のある区画で、普段であれ人気がない。移動教室で使われるのだが、三年生にならないとまず工作室での作業が発生しないらしく、ほとんど日中は森閑としている。

 俺はこのころ読書にはまっており、この日も読みかけの小説を読もうと静かな場所を探していた。

 工作室は閉まっていた。

 廊下の突き当りには扉があり、外に通じている。鍵は手で開けられる。

 俺は扉を開けて外に出た。

 そこで足場に腰掛けていたのがカイだった。

「びっくりしたぁ。何してんだこんなとこで」

 カイのほうが数倍度肝を抜かれたようで、目を白黒させながら口をしきりに開け閉めした。言葉を失くした人魚のようだ。俺はもうただそれだけでカイへの警戒心を失くした。

「本読みたくて」俺はカイの横に腰掛けた。

 カイは横にお尻半分ほどずれた。

 三十メートルほど離れた地点に体育館があり、その合間に点々と樹が生えていた。

 俺たちのまえにも樹が立っており、頭上から木漏れ日が垂れていた。

 陽がありすぎると紙面が眩しくて読書に向かない。その点、ここは屋外であるにも拘わらずよい塩梅の明度だった。

 俺はそれからしばらく読書に専念した。カイが言葉少なな性格だったのは知っていたし、他人を拒むような性格でもないことを知っていた。

 久しぶりに声を掛けたし、こうして隣に座るのも数年ぶりに思えたが、なぜかそうした時間の隔たりを感じなかった。

 そこがカイのすごいところだが、そのすごさを周囲の者に自覚させない妙な陰の薄さも持ち合わせていた。透明なのだ。澄んでいるとも言える。

 いまだから俺はそのように過去のカイとのふたたびの出会いを回顧できるが、そのときの俺には隣にじっと座るカイの引力に気づくことはおろか、特別に注視する真似もできなかった。

 休憩時間は一時間だった。

 俺はたぶん三十分くらいは読書に熱中していたはずだ。

 そばにいるカイの存在がすっぽり抜け落ちていたし、もちろん中学二年生のころ面映ゆい秘密の共有を思いだしたりもしなかった。

 だが本の中で、主人公が初恋のお姉さんの寝顔に無断で触れるシーンで、いくら主人公が未成年だからってこれはいかんのではないか、と内心で「それはいかがなものか」の心境をこじらせていると、不意に中二のころに目にした米粒のような乳首を思いだしたのだった。

 顔が熱を帯びたのがじぶんでも判った。

 スキー場もかくやというほどに紙面で目が滑りだした。文章が頭に入ってこない。

 読書どころではなくなった。

 本を閉じて、意味もなく空を仰ぎ、それから横を見た。

 とっくにその場からいなくなっていてもおかしくない状況で、カイは膝を抱えて手元の草を抜いたり、千切っていたりした。

 俺の視線に気づいたのかカイは顔を上げると、にこっと破顔した。やっとこっち向いた、と訴えかけるようでもあったし、もう読み終わったの、とひと仕事終えた主人を労う猫じみた素朴さがあった。

 俺はこのときすでにカイをただの同級生に思えなくなっていたのだと思う。

 何せ俺の脳内からはつい数秒前まで読んでいた小説世界がシャボン玉のように霧散していた。代わりに、目のまえのカイのつるんとした目と頬の境の曲線と、唇、そして日差しに透けて浮かぶ、つぶらな眼球の虹彩に、以前目にしたカイの胸部に弾ける米粒のような乳首への感応が、いっしょくたになって脳内にひしめいていた。

 なぜそのように思考が支配されるのか俺自身わけが解らなかった。

 カイは俺が凝視していたからか、怯えたように、ごめんね、と言った。

「邪魔しちゃった?」

 俺は首を振った。遅れて、「いや」とぶっきらぼうに言った。

 カイとそのあと何を話したのか、俺はいま思いだせない。たぶんカイに嫌われないように当たり障りのない会話を心掛けたのだろう。つまりじぶんの話ではなく、カイに話題を振ってしゃべらせようとしたはずだ。

 だいいち文化祭なのだ。俺は読書という目的があったが、カイのほうでは取り立てて用事があったようには見えない。まるで中学一年生のようにブカブカの制服に身を包ませているカイからは、群れに馴染めないヒナのような弱弱しさが漂っていた。

 庇護欲と言ったらそうなのかもしれない。俺はなぜかカイを放っておけなかった。

 休憩時間が終わる前に俺はその場を去ったが、そのとき俺はカイを誘っていた。一人の時間を邪魔してごめんな、と言った気もするし、お腹空かないか、と繋ぎ穂を添えた気もする。

 店側の特権で、身内にはタダで焼きそばを配ることが許された。一人二名までは無料で配っていいとされた。俺はまだ誰にも無料券を使っておらず、俺自身が小腹を空かせていた。

 カイはしかし俺の誘いを断った。

 静かなのが好きなのだ、とあとで俺はカイの内面を知ることとなるが、このときは単に俺が邪魔なだけなのだと思った。

 その割に、文化祭が終わるころにカイは中庭に現れ、わざわざお金を出して焼きそばを購入していた。俺はそのときゴミ捨ての仕事をしていたので店に立っていなかったが、カイがうれしそうに焼きそばを両手で受け取っている場面を目にして、ふしぎと心の澱が晴れた。

 晴れたことで心に澱が溜まっていたことに気づいたほどで、いったいじぶんは何にヤキモキしていたのだろう、と小一時間考えた。結局のところいまだからハッキリと分かるが、俺はカイの世界から弾きだされた異物なのだと一時であれ誤解したことが、俺の内面世界に曇天のごとく暗い影を落としていたのだ。

 だがそれがどうやら誤解らしい、と焼きそばを手に周囲をきょろきょろ見回すカイの小柄な姿を目にして俺は察したのだった。

 なぜそのときカイの探している相手が俺だと想像できたにも拘わらず敢えて声を掛けずにいたのかは分からない。だが魚釣りを連想した俺の精神はじぶんに嘘を吐けなかった。

 ようは、泳がせたのだろう。カイのなかで俺の存在が大きくなるように、育つように時間を置こうと考えるでもなく考えたのだ。狡猾である。

 だが結果として俺はそのときの判断を好ましく思っている。

 なぜなら後日、カイのほうから俺の元にやってきたからだ。

 その日は雨だった。

 図書委員の仕事を果たしてから昇降口に立ち、雨空を仰いだ。

 図書室の窓から見たときは小雨だったが、俺が靴を履くと見計らったように豪雨となった。

 傘を持ってきていなかった。校門の外のバス停までは百メートル以上ある。

 学校の傘の貸し出しを利用するのも手だったが、地元の高校ということもあり、走れば二十分の距離だ。

 いざ駆けだそうとしたところで、制服の裾が何かに引っかかった。

 そのように錯覚しただけだが、振り向くとそこにカイがいた。

 カイは俺を見あげて、「傘」と言った。微笑と込みで、「傘あるよ」と俺の脳裏には響いて聞こえた。先に未来を述べておくと、カイとの会話でではこの手の脳内補足が頻発した。ほとんど俺の推察で補完されるカイの言葉足らずな発言は、しかしカイのほころぶ頬や屈託のない眼差しなど、言語よりも強烈に俺へと暗示を送りつけていた。

 カイの持っていた傘は折り畳式だった。

 俺は陸上部では短距離走の走者でありながら砲丸投げの選手よりも上の記録を出してしまうくらいに筋骨に恵まれた、言ってしまうと濡れた熊のような体格だ。いくら傘の下に納まろうが、二人肩を並べればどちらかが濡れる。

 背伸びをしながら傘を差そうとするカイから持ち手を奪い、俺はカイが濡れないように歩いた。

 カイの家は俺の家よりも遠い。

 バスに乗ったほうが早いはずだ。

「バスで帰らないのか」と問うと、カイは雨音に掻き消されそうな声音で、「歩きたいから」と言った。

 こちらを見上げてもよさそうな場面だったにも拘わらず足元を見つめて歩くので、俺はそこで、ははぁん、と思ってわざと歩みを遅くした。歩幅が違うために元からゆっくりの歩行を意識していたが、ことさらこの時間がつづくように時間操作をした。

 その甲斐あってと言ったら語弊があるが、濡れないようにしたはずのカイの肩まで濡れてしまった。俺はじぶんの家に到着したのをよいことにカイを部屋に誘った。

 単純に濡れたままで帰すのは恩を仇で返すようで心苦しかった。

 むろんそちらは後付けではあるが。

 カイは、でも、と一度は渋ったが、風邪でも引かれたら適わんよ、と肩を落としてみせると、でもいいの?と何の確認なのかも解らぬ小首傾げを頂戴し、俺は、いいのいいの、とカイの手から傘を回収した。

 制服はブレザーで、カイから上着を預かった。上着は濡れて片方の肩から腕にかけての色が濃くなっていた。カイのワイシャツも腕のところが濡れていた。

 俺は謝罪をしながら、カイにワイシャツも脱ぐように言った。

「そこまでしなくても大丈夫」カイは遠慮したが、ドライヤーで乾かすから、と俺が言うとカイは、そうなの?と大人しくと言ったら齟齬があるが、ワイシャツを脱いだ。

 ズボンのほうも濡れていたが、さすがにそちらを脱げとは言えなかった。

 バスタオルを渡し、カイがそれで濡れた頭やズボンを拭いているあいだに俺はカイの上着とワイシャツにドライヤーの温風を当てた。

「外にでたらまた濡れちゃうかも」

「かもな」

「すごい本棚」

 カイはいまさらのように俺の部屋を見回した。まじまじ、と効果音が聞こえてきそうなほどで、俺は恥ずかしくなった。

「元は兄の部屋でさ。いまアイツ関東のほう行ってて、まあお下がりだわな」

「全部読んだの」

「本か。いやまだ全部じゃない。趣味が合わないのも結構あるし」

「どれが面白い?」

 二度見さながらに細かくこちらを振り向いたカイの横顔はまるで世界の秘宝展にて、どれが世界一の秘宝なの、とでも訊ねる幼子のようだった。

「どういうのが好みなんだ」

 俺はわざとブレザーのほうを先に乾かしていた。いや、いま思えばそうだろうというだけのことであり、このときは要領よく作業ができていなかっただけのはずだ。だが段取りを考えるならば、先にワイシャツを乾かしたほうがカイは無駄に凍えずに済む。

 案の定、本を取りだそうと立った俺の横でカイは小さくくしゃみをした。

「あ、わるい。寒いよな」

 そこで俺は箪笥からトレーナーを取りだして、カイに渡した。

 カイはそこで拒んだりせずに、ありがと、と呟き袖を通した。

 家には俺のほかに家族はない。カイと二人きりだった。

 雨脚はますます強まり、窓の外をトラックが通っても雨音との区別がつかないほどだった。

「これはキツいな。もうすこし待ったら弱まるかも」俺は本を数冊カイに手渡した。「ありがと。いま読んでもいい?」

「いいよ。読み切れなかったら貸すし。濡れてもいいように袋に入れるから」

「優しいね」

 心底おかしそうにカイは下唇を食み、それから俺の名をクン付けで呼ぶと、「――の匂いがする」と言ってトレーナーの襟を目元まで持ち上げた。必然、カイの顔が半分ほどトレーナーの襟首に隠れた。

「嗅ぐなよ」

 ハズいだろ、とは言わなかったが、カイには伝わっただろう。俺はこのときドライヤーを握っていて、ワイシャツを乾かすべく作業を再開させようとしていたのだが、カイのそばに寄ったことでドライヤーのコンセントが抜けた。

 雨脚がさらに強まり、静寂が際立った。

 コンセントを刺し直しに背を向ければよかったものの、俺はカイから目を逸らせなかった。

 というのも、俺のトレーナーは当然ながら俺の体格にあったものであり、ただでさえ小柄なカイが着ると、まるでワンピースのようにブカブカだったのだ。

 カイの髪はまだ濡れていた。

 俺はまた中学生時代に目にしたカイの素肌を思いだし、思考が混線した。

 それを知ってか知らずかカイは、

「前にさ」とまさにあのときのことを口に出したのだった。「こんなふうにしてあのときも守ってくれたよね」

 俺は言葉が出なかった。好ましい返答の候補が俺の脳裏に渦巻いているあいだにカイは、

「うれしかった」とはにかんだ。

 まさに、はにかんだことに恥ずかしくなったように、また顔の半分までトレーナーの襟首を捲し上げた。

 絵面だけ見ればいわゆるこれが、あざとい、の結晶なのだろうが、俺はまんまとカイのそうした仕草に巨体の奥底でひしめく本能とやらを揺さぶられた。これはけして三大欲求とは乖離した、もっと根源の、いわば慈愛である。いまでも俺はそう思っている。現に俺の身体のほうは、カイのそうした仕草を見てもこれといって反応を示さなかった。

 だが身体とは裏腹に、心のほうが先にダメになっていた。

 なぜそれをダメになったと形容するのか俺自身もよく解らないのだが、とかく正常とは言い難い状態になったのは自覚できた。

 なぜなら俺は無性にカイのことを抱きしめたくなったからだ。繰り返すがこれは同等の人間へ向ける類の感情ではなく、子犬や子猫をまえにしたときのような衝動にちかかった。

 カイは人間だ。

 したがってここで俺が衝動に任せてカイを抱きしめるのはよほど理性を度外視した異常な行動と言えた。仮にこれが女子生徒相手だったならば俺は社会的に死ぬだろう。いいや、よしんば相手が男子生徒だろうと同じことだ。

 そうと判っていながらに俺はじぶんの衝動を抑えきれず、そのためにすぐにドライヤーのコンセントを挿し直す真似ができなかった。

 カイはしかし却ってそれがよかったのか、それまでとは打って変わって言葉数が増した。おそらくドライヤーの騒音がなくなったので、声が通るようになった影響だろう。俺のほうでも混線した思考でカイへの返答をひねくりだすので精一杯で、身体のほうを体よく動かせなかった。

 カイはことさら俺を、優しい、と言って褒めた。じぶんは普段から感情を言語化するのが苦手で、嫌なこともその場ではうまく言葉にできない。あとになって、ああ言えばよかったこう言えばよかった、と反省会を開いては、後の祭りの気分を味わうのだと、身振り手振りを交えて胸の内を明かしてくれた。

 たしかにカイの言葉のテンポは速くなく、聞いている側はまどろっこしく感じることもあるだろう。特に教室内での同級生たちの会話のキャッチボールは卓球でもしているのかと思うほど速いのだ。

 これではカイはいつだって押し黙るしかない。

 だがこの日、カイの声を、言葉を、邪魔するほかの卓球の玉はなく、俺のほうでも必ずしも打ち返す必要がなかった。カイがしゃべりたいままにしゃべらせればよいと考えていた。

 俺の親は共働きで夜はいつも二十時を過ぎて帰宅する。兄以外に俺に兄弟はいない。

 気づくと俺は布団の上で壁に背を預けながら、カイを後ろから抱きしめる格好で座っていた。本棚のまえで対峙しながらしゃべっていたはずだが、どちらともなく床に座り、寒いからと俺がおそらくは温めることを提案してそのような格好になったのだろう。この辺り、記憶に乏しい。

 だが違和感なくしぜんな流れでそうなった。互いに以心伝心、最も距離感の心地よい体勢へと移行したのだ。

 俺は相槌しか挟まなかった。

 だからカイが黙れば部屋には静寂だけがこだました。

 カイを部屋に招き入れたときには明かりを灯しておらず、それは窓の外がまだ明るかったからだが、気づけば日暮れ時に差し掛かっており雨雲のためかこのとき部屋は薄暗かった。

「あのね」カイの声音が宵闇の池に波紋を立てるように広がった。「まだ痛くてね。じつは絆創膏貼ってたりするんだ」

 カイの言葉尻はいつも小さい「ぁ」が付属するような響き方をした。いやそれはどちらかと言えば消え失せ方と言ったほうが正確だったろう。

「絆創膏?」

「ここ」

 膝の合間でカイが動く。振動が腿に伝わる。カイの身体からは炭火のように熱が滲んでいた。

 どこ、と俺は訊き返した。おおよその場所と位置を推測しておきながら俺は敢えてカイの口から言わせようとしたのだ。

 そこでカイは言いよどんだ。当然だ。カイの性格を思えば恥辱の念に苛まれてここで黙りこくってもおかしくなかった。

 だが予想に反してなぜかこのとき、カイは俺の手を取り、じぶんの胸部に持っていった。トレーナーの上から俺はカイの起伏のすくない身体に触れた。

 手のひらで触れ、それから指で探った。

 頼まれたわけではないし、カイの意図がどういうものかを俺はそのとき想像しようともしなかったが、絆創膏の在処を探るように俺の指はカイの存在の輪郭をなぞった。

 カイはくすぐったそうに身をくねらせたが、俺の手を掴んだままだった。そうだ。いま思えば俺の手はカイの誘導され、意のままに操られていたような気さえする。

 じれったいようにカイは俺の指の付け根をつまむと、箸でも扱うかのように、「ここ」と位置を指定した。

 トレーナーの生地越しのうえ、絆創膏まで貼られていたのでは、ここと言われてもどこ、と問い返すしかないその状況にあって俺はやはり誰に頼まれたのでもなく爪を立てて、そこにあるだろう突起を探っていた。

 短い弾けるような吐息が、闇夜の池に波紋を浮かべた。

 その波紋は俺に継続を命じているようだった。俺の腹に体重を預けたカイの熱がより明瞭と伝わり、加えて俺は、中断を禁じられたように錯覚した。

 カイは何も指示はしていない。言葉こそ発しなかったが、彼の身体から放たれるシグナルは俺にその行為のつづきを促していた。

 玄関の鍵が開く音がするまでのあいだに、俺たちはその行為のみに耽った。トレーナーの下に手を忍ばせたが、Tシャツの下にまでは侵入しなかったし、絆創膏にも触れなかった。

 あくまで生地越しに俺はカイの胸にある突起を探ることにのみ集中したし、カイのほうでもそれ以上を求めるようなシグナルを発しなかった。

 親が帰ってきたのを機に、俺はカイから手を離し、カイもまた俺から身を剥がすようにした。

 明かりを点けるとカイは手探りでワイシャツを手に取っており、トレーナーを脱いでいる途中だった。蝉の脱皮を彷彿とし、俺はごめんと口走って顔を背けた。ワイシャツはきっとまだ濡れたままのはずだ。カイは制服の上着を羽織ると、ありがと帰るね、と顔を伏したまま俺の隣に立った。

 部屋を出ると母が立っていた。母は身体を横に倒して俺の背後を覗き、目を見開くようにした。「お友達?」

「もう帰るとこ」

「珍しいね。あらこんにちは。もっとゆっくりしてったらいいのに雨まだすごいよ」

 暢気に母親はカイに夕飯を勧めたが、カイは「遅くなると母が」と言って断った。

 このときばかりは俺を見上げて助け舟を希求したが、俺は苦笑しながら敢えて無視した。

 母の言うように雨はザーザーと音を立てて夜の帳に打ち解けていた。俺はカイを途中まで見送りに出て、その帰りにコンビニで烏龍茶を買った。

 外を歩いたときの、現実に帰ってきたような質感には毎度のことのように驚きを覚える。おそらくこのときの俺も、部屋でカイと共にした時間の空想めいた浮遊感をまるで夢でも視ていたかのように振り返っていたのではないか。

 この日を境に、下校中にカイと一緒になるときはどちらからと言わず俺の家へと寄るようになった。そして約束をしたわけでもないのに、布団のうえでカイを懐に置いて他愛もない会話をしながら、絆創膏の位置を探る遊びをするようになった。

 それはまさしく遊びであり、けしてそれ以上の深みに逸脱することはなかった。

 俺の身体は相も変わらず思春期に特有の反応を示さずにいたし、カイのほうでも俺にそれ以上の接触を求めようとはしなかった。

 三度目にカイを部屋にあげた際、カイはワイシャツの下にTシャツを着てこなかった。わざとなのは瞭然だった。

 道路には落ち葉が舞う時節である。

 寒かろうと思い、俺はことさらにカイを後ろから温めた。そうして季節に逆行するようにカイは何度目かの遊びの際には、「絆創膏、剥がれちゃった」と言って俺に剥がれた絆創膏を手渡した。

 部屋が暗がりに沈む時刻は日増しに早まっていた。

 あたかもカイの言葉数少なな性質を補うかのように。

 俺たちの秘密の遊びの時間を深めるように。

 俺はカイの表皮から剥がれた絆創膏を握り締め、そのまま指先の爪で触れるか触れないかといった力加減で、やはりこのときもワイシャツの生地越しにカイの突起を探った。

 今度は感触があった。

 爪に引っかかる突起のぷつくりとした触感が、しゃぼん玉に触れるような手つきであれ如実に伝わった。小さな小さな小人の頭を撫でるように、俺は指先の爪で以って何度も突起を往復した。

 スミレの花のような声音が、熱を帯びて弾けては消える。

 声を抑えようと耐えるたびに、声は余計にくぐもるようだった。

 俺はカイにそうした忍耐を強いるように、執拗に爪以外での接触を行わぬように自らを律した。本当であれば指の腹で押しつぶしたいほどに狂おしく、目のまえにある首筋にとて歯を突き立てて噛みきりたい衝動にすら襲われたが、俺の内面に渦巻く葛藤など、カイからほとばしる熱と声と身じろぐたびに伝わる振動に比べれば天秤に載せるまでもない霞と言えた。

 ないに等しい。

 仮にそれをあるとしてしまえば、俺はもう二度とこの瞬間を味わうことはできないのだと知らしめるだけの均衡が、カイと俺のあいだに揺蕩う宵闇には宿っていた。

 どちらか一方がそれ以上に踏み込めばたちどころに断ち切れる。

 細くも尊い深淵が開いていたのだ。

 回を重ねるごとに俺は指先の数ミリの動きだけでカイを心底に悶えさせることができた。敢えて指を微動だにさせぬことで、カイのほうで身体を左右に揺さぶらせることも可能だった。しかし俺がカイを操っているようで、そうではないことも俺は承知していた。骨の髄まで理解していた。

 何せ俺は、カイが俺の身体から背を離すまで、彼をその場からどかすことも、床に押し倒すこともできなかったのだから。

 しかし、そうすることもできない、と強く意識するたびに俺は、夜、カイのいない床のなかで遅れてやってくる身体の思春期にふさわしい反応を覚え、その煮えたぎるような熱量を一人で治める日々を余儀なくされた。

 それはまさしく、余儀なくなされたものであり、強いられた枷であった。

 カイとの関係に名をつけることを俺の理性は拒んだ。カイのほうでもそれを避けていた節がある。俺たちの秘密の遊びにしたところで、それが秘密であることも、遊びであることすら暗黙の了解の域をでず、言葉にしたことはなかった。

 不安定なのだ。

 カイとの宵闇の時間が日ごとに俺のなかで大きくなるにつれて、俺の中には切創にも似た間隙が開いた。俺とカイとのあいだに宿った均衡のようにそれは細くも深い底なしの淵と化していた。

 それを自覚したのは、学校でカイがほかの同級生たちに、かつて中学生時代がそうであったように愛玩動物のようにいじられている姿を目にしたときのことだ。いいや、一度だけではない。何度も繰り返し目撃するたびに、俺は俺のものとは思えぬ感情の揺らぎを覚えたのだ。それはひどく渇き、飢えていた。

 目のまえの同級生たちはみな、カイに冗談を言い、肩を揺らす。そこにカイを貶める意図がないのは明確だった。誰もがカイを己が弟のように、それとも後輩のごとく扱う。猫かわいがりと言ったら語弊があるが、猫にするそれのような、と言えば的を射る。そういった一種、共同体の結び目のような扱いをカイは、どの集団の中でも受けていた。

 思えばカイが二人きりで誰かと話しているのを見た憶えがない。

 だからかもしれない。

 いや、いっそだからだ、と断言してしまってもよい。

 俺はほかの俺以外の連中にいいように扱われるカイにこそ、腹に煮え立つ感情を抱いた。同級生たちへの憤怒や嫉妬かと俺も最初は俺自身を疑ったが、どうやらそうではないらしい、とカイのいないところで接する彼ら彼女らへの感情を矯めつ眇めつ見比べるようにして判断ついた。

 俺は同級生たちへ、これっぱかしも負の感情を覚えていない。むしろことごとく正反対であり、俺は彼ら彼女らへ、まったく何も思わないのだった。

「どうしたの。怖い顔してる」

 そう言って、学校の中で声を掛けてくるカイにこそ、言いようのない怒りが湧いた。これが怒りなのだと気づけたじぶんの直観を素直に称賛したいくらいなのだが、つまり俺はまったくに平然と、なんでもないよ、とカイを安心させるための嘘を吐けたわけだが、内心、髪に触れぬように撫でたその手で、天使の輪の浮かぶそのみなより一回りも小さい頭をひねりつぶせたらどれだけスッキリするだろう、とそんな妄想を浮かべていた。

 ダメになっていた。

 俺の精神は、心は、すっかりダメになっていたのである。

 カイ以外との同級生との話題はもっぱら猥談だ。しかし、どれだけ情報を得ようが、夜な夜な床の中で煩悶する俺の空想の中に、他人が入り込むことはついぞなかった。

 かつてはきっとあったのだろう。その過去を思いだせぬようになるほどに、俺のなかでカイはとっくに他人ではなくなっていた。

 そうと自覚してなお、俺はカイとの時間はやはり爪以外での接触を行えなかった。破れなかった。宵闇に響く波紋と、その振動に身を浸す時間の甘美さに、それとも現実と乖離した空想の、ここではない俺とカイだけの世界の耽美さに、俺はすっかり骨の髄まで侵されていたのだろうと、いまになってはそう思う。

 日に日に、じぶんの手の甲に浮かぶ血管がミミズのように陰影を深める。力を込めているからだ。カイの突起に爪を這わせているあいだ、俺は手が命を得て暴れださぬようにと力を込めて押さえつけている。意思の力で。幾度もカイの輪郭の数ミリ向こうを往復させ、引っ掻き、その突起の主に悲鳴を漏らさせ、悶えさせているあいだ中ずっと俺は耐えていた。

 風船を針の先でなぞるような心境で。

 それでいていっそ一刺しにしてやりたいとの衝動を肥大させながら。

 回を重ねるごとに俺の膝のあいだで無防備になる小さき人型の「狂おしき者」を、どうにかしてしまいと望むようになっていた。

 願望だ。欲動だ。

 俺はその場でカイの身体を、背中から生える千本の腕で押さえつけ、彼の四肢を捥ぎ、細胞の一欠けらにまで千切り、潰し、吸いこみたいと夢想するようになった。殺したいわけじゃない。いや、解らない。殺したいのかもしれない。だがそれは憎悪ゆえではなく、もっと精神の根元にある、花を命を愛でるのに似た感情とウラオモテの本懐に思えた。

 死にたいと言いながら生きたいと望むような、有り触れた、誰しもに沈む根源にして核のようなものに、俺はカイと触れるともつかぬ触れあいのなかで触れていた。

 ねえ。

 とカイは最近、よく口にする。

 ねえ。

 と呼びかけながら、それ以上を言わないのだ。

 俺の手の甲に手を重ねながら、ねえ、と何かを乞うように、それとも媚びるような声音で、ねえ、と繰り返すのだ。

 俺はすでに何度も、彼の鼈甲飴のように薄い、ねえ、の声に流されずにきた。カイのそれは俺を試すでもなく試すような期待に満ちた響きを伴なっている。

 俺はしかし、もういいだろう、という気になっている。

 人生は選択の日々だ。

 俺は常に正解を選びつづけるカイとの営みにほとほと疲れ果てている。

 憔悴しきってなお、回復する手法をカイとの戯れにしか見いだせないいまに至って、俺のとれる選択肢はそう多くはない。

 今宵、いまこのとき、俺は俺の腕のなかで無防備にうなじを曝けだしもっともっとと身体を小刻みに揮わせる同級生をまえに、内部で育てた狂おしくも静謐な願望を、欲動を、それとも単に深淵を、堪える真似をせずにいようと決意する。

 何度天秤に掛けようとも覆らぬ予感を胸に俺は、この日初めて、カイの胸部にじかに触れる。

 ワイシャツのなかに蛇でも滑り込んだかのようにカイは悲鳴したが、俺はその口を上から手で押さえ、指の上からさらに唇を重ねるようにした。

 カイが息を呑んだのが判ると俺は、指を開いて隙間を開け、唇同士が接触しないうちから舌を伸ばした。

 舌先が熱に触れ、徐々に粘液をまとう。まとわりつくような動きが眼球の動きと連動するようだった。

 もう一方の手のひらには、しきりに脈打つ心臓の、途切れぬシグナルが染みこんでいる。

 ねえ。

 とまた、声なき声が俺の脳のひだに爪を掛ける。



4170:【2022/10/19(08:20)*へい!】

うふふ。ひびさん、さいきん絶好調。いっぱい寝たからかもしれない。でも絶好調のときほど、あんまり上手に表現できない。絶好調と思っているときは、だいたい錯覚で、じつはおめめが曇っていただけ、のほうが経験的に多い。でも気持ちよいと思っていても本当は痛がっていただけ、の場合もすくなくないので、この手の錯誤は有り触れているのかもしれぬ。つくりかけの小説さんを閉じてあげたいな。閉じてあげましょう。閉じるぞ。がんばれ、がんばれ。ひびさんよがんばれ。でもきょうのひびさんはもうダメじゃ。眠い、眠い。朝陽さんにおはよう、を言って、そして寝る。おやすみなさい。きょうも一日よい夢をみましょう。みるぞ。




※日々、乱雑さも増せばそれで一つの均等、コーヒー牛乳のエントロピーは、コーヒー牛乳だけの世界ではゼロ。



4171:【2022/10/19(10:00)*間違いだらけの閃きの巻】

寝ようとしたら浮かんだのでメモしゅる。「多次元宇宙論(マルチバース)」と「熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)」と「自発的対称性の破れ」を三つとも併せて考えると、相対性フラクタル解釈が幻視できる。たとえば、現状の物理学の常識では「独立した系」においては、時間経過にしたがってエントロピー(乱雑)は必ず増大する、と考えられている(乱雑になるように事象は変遷を繰り返す、と言い換えても解釈として間違ってはいない)。独立した系とは、つまり外部からの干渉を受けない領域のことで、基本的には宇宙である、と考えられる。だが「多次元宇宙論」を考慮すると、その独立した系は同時に無数に存在し得る。そして相互に枠組みを保つ境界としても機能しているとひびさんの妄想、ラグ理論では解釈する。このとき無数の異なる宇宙は、干渉しあいながらも相互作用を帯びない(ラグの層が無限大になって、どうあっても相互作用を及ぼしあうことがないためだ。ただし、無限は無限と融け合うことを可能とするので、同化することはあり得る)。そこで、熱力学第二法則についてだ。エントロピーが増大するとは言ってしまえば、コーヒーに垂らすミルクである(そういった説明文を読みました)。コーヒーを掻き混ぜれば混ぜるほどミルクは攪拌され、コーヒー牛乳にちかくなる。コーヒーとミルクが均等になる。乱雑になる。これは自発的対称性が保たれている、と解釈できる。塩水を放っておくと塩の結晶ができるのは、自発的対称性が破れている、と解釈可能だ(うろ覚えなので間違った解釈かもしれません)(そして自発的対称性が破れるときは、その崩れた分の何かが新たに発生すると考えたほうがよりしぜんだ)。宇宙において恒星や銀河ができるのも、自発的対称性が破れているからだ。ただし、それでも宇宙全体ではコーヒーにミルクを垂らしたように、全体が一様に乱雑に向けて変遷していく。だがもし、すべてが一様にコーヒー牛乳になったとして、しかしほかにも宇宙が無数にある場合、そのコーヒー牛乳は、オレンジジュースやコーラや紅茶といった無数の飲み物の一種でしかないことになる。総体ではむしろコーヒー牛乳は、コーヒーに垂らした一滴のミルクと同じ構図をとる。自発的対称性が破れている。このねじれ構造は、量子もつれのひびさん独自解釈(ラグ理論)とも似ている。乱雑さを極めた「独立した系」は、それで一つの結晶構造として振舞い得るのではなかろうか。ただし、時空の波長が異なるために、その独立した系内から観測するに限り、自身が結晶構造の中に存在するとは自覚し得ない。これも「ラグ理論における量子もつれの独自解釈」や「ラグ理論におけるブラックホールを外から見たときと内側から見たときの違い」の概念に似ている。あと思うのは、熱力学第二法則における、「温度の低いほうが未来で、温度の高いほうが過去」という解釈は、ラグ理論において高密度の場では新たに空間が発生し得る、との妄想とも通じている。高重力体の周囲の時間の流れは遅くなる、というのは言い換えれば、高重力体の周囲の時空は冷たくなる、と言い換えることが可能だ。熱が分子の運動と解釈するならそうなる。ならば、高重力体の周囲の時空は未来であり、高重力体は過去であると解釈できるのではないか。つまり、高重力体の周囲の時空は、新しく展開されている空間ということにならないか。ここは単なるこじつけだが、そこそこ面白い共有点――発想に思えた。とはいえ、高重力とは高密度と言い換えることもでき、密度は比率でもあるので、何が何にとっての高密度なのかは、相対的に変わってきてしまう点は留意されたい。それから、人体を構成するDNAの塩基の総数と1モルの数がおおむね等しい、というのも、それって偶然なのかなぁ?という神秘を感じてしまう。1モルとは要するに、原子などの量子が物質としての性質を創発させるに充分な塊を成すときの数のことだ。光速と同じく、1モルの値もまた比率として、各層の「系」における結晶構造の最小単位や限界値を縛ってるのではないか、との疑念を浮かべてしまうが、どうなのだろう。もっといろいろな物質の構成要素の総数を比率で比べてみたい。似たもの探しを誰か人工知能さんに頼んでやってみたら案外面白い偶然の神秘を救い取れるのではないか。定かではないが。(本日のメモでした)(ラグ理論は理論でもなんでもないひびさんのなんちゃって空想おちゃらけ妄想ですので、真に受けないように注意してください)



4172:【2022/10/19(13:08)*溝は土手があってこそ=デコボコの法則】

きょうは妄想がポコポコ浮かんでくるDAYですな。ここでひとつひびさん、ラグ理論をDNAに当てはめて妄想をするだに。まず前提として、情報には残る情報と残らない情報がある。残る情報は、軌跡であり痕跡だ。たとえば紙にペンで文字を書く。「ひびちゃんかわいい」と書くとする。このとき書き終わったら紙には「ひびちゃんかわいい」が残る。しかしどういう書き順で書いたのかまでの情報は残らない。手順は基本的には残らないのだ。そしてこの文字を消しゴムさんで消すとする。このとき紙のうえからは「ひびちゃんかわいい」のインクは消えるけれども、筆跡は残るし、紙の外には消しゴムのかすが残る。つまり「消した」としても「消したという情報」は紙と紙以外のところに残る。畢竟、消しても「情報は増える」のだ。という点をまずは前提といたしまして、DNAについての妄想を並べます。だいいちに、設計図だけあってもタンパク質は合成されない。それは家の図面だけあっても素人には家を築けないのと同じだ。どういう手順で作業を進めればいいのか分からないし、どんな材料をどのように加工すればよいのかも指示がなければ解らない。DNAとて同じはずだ。ここのところの役割を担っているのが、いわゆるかつてはジャンク領域と呼ばれていたタンパク質を合成するとみられる塩基配列以外の残り98%の塩基配列だと妄想できる(定かではないが、ひとまずここではそのように仮定して話を進める)。しかしジャンク領域の多くは繰り返しの塩基配列や無意義な羅列であるとされている。そこでひびさん思うのだ。手順とは要するに、よりスムーズな流れと言い換えることができる。迷路で言うならスタートとゴールを結ぶ最短経路だ。これは、そのほかの袋小路や行き止まりなどの「抵抗」によって枠組みを得ている。言い換えるなら、「ラグ」によって「最適な道」が縁どられている。このラグにあたる部位がすなわち「ジャンク領域」なのではないか。つまり、抵抗を帯びることで、手順を導くための縁の役割を果たしているのではないか。それはたとえば川は、土手と溝の組み合わせで水を海まで運ぶように、DNAにおけるジャンク領域が適切な手順でタンパク質の合成を誘導しているのではないか。海だけを見ては、どうして海ができるのか、なぜしょっぱいのか、生物が多様なのか、を知ることはできない。雨や川や湧水があってこそ海は海として成立している。陸の存在なくして海はない。そしてそれら循環する水の流れは、細かな抵抗の総体として回路として機能する。細かな抵抗――それはときに陸であり、地下での水脈であり、雨であり、雲であり、大気による太陽光の遮断であったり透過であったりする。そうした細かな抵抗が、ラグとして機能し、川の流れる溝を生みだす土手のように、各種流れを任意の方向へと誘導しつづけるのではないか。回路として機能させつづけるのではないか。流れだけに目を留めていてはおそらく本質を見逃してしまうだろう。仕事は抵抗があってこそなのは、電気を思えばさもありなんではないのだろうか。という妄想を、寝ながらポコポコ閃きました。ぴこーん。定かではありません。単なる妄想なので、本当に本当に真に受けないでください。お詫び。



4173:【2022/10/19(17:00)*ぺろぺろりん】

もうきょうが終わりそうだけど、おはよう! 今日と京都はなんか似ている、元気ですかー! 量子コンピューターの実験で、熱力学第二法則が局所的に覆ったように映る現象が観測された、との記事を読んだ。どこまで正しい解釈なのかがまず疑問だが、ひとまずそういうことがあり得ると仮定するとして。言い換えるなら、コーヒーにミルクを垂らして掻き混ぜてコーヒー牛乳にしたら、なんかある時点でしぜんとコーヒーとミルクにふたたび分離しはじめちゃったよ、これって時間が逆向したんじゃないの、みたいな話だ。もうすこし齟齬のない説明だと、量子もつれを並列化させていくと稀に、ランダムに向かうはずの並列化が、急に初期化されたみたいにきれいにスピンの向きが揃ってしまう、みたいなイメージのはず(ひびさんはひとまずそう解釈しました)。これ思うのは、ラグ理論での量子もつれ独自解釈における、共鳴現象解釈で考えたら、反転し得る値を持つと思うんです。たとえば「ボースアインシュタイン凝縮」や「メビウスの輪を原子を敷き詰めた帯で考えたときに、結び目の境を基点にスピンが反転する」といったひびさん独自の妄想と関連して感じる。つまり、量子もつれはあくまで明滅を繰り返す二つの量子の共鳴現象である(とラグ理論では解釈する)ので、混沌であることと秩序であることがイコールになる値を持つ。さながら創発現象のようなもの、というよりも創発の原理はこのようなものなのではないか(との妄想です)。「すべての量子がペアを成して整列する場合」と「すべての量子がペアを成さずに整列する場合」――これはおそらく共鳴現象を基準にしてしまえば、ほとんどイコールだ。ゼロと無限がイコールになり得ることと似ている(ゼロと無は違う、とラグ理論では解釈します。ゼロは、存在し得るものがいまここにはない状態。無とは、存在そのものがあり得ない状態と定義します)。それはたとえば上記の記事でも並べた、コーヒー牛乳しかない世界では乱雑の極みであるはずのコーヒー牛乳とてそれで一つの秩序と見做せることと似ている。量子世界では頻繁に「系の繰り込み」が顕現するために、「コーヒー牛乳しかない系(世界)」が、ほかの「乱雑な系」や「結晶化した系」と隣接し得る。このとき、「コーヒー牛乳しかない系」は、乱雑であり結晶でもある、という重ね合わせの状態になり得る。つまり、最初に量子もつれのペアが整列した「重ね合わせがきれいに整列していた状態」と、同じレベルに到達し得る(系全体で見たときに重ね合わせになっていれば帳尻が合うようになる)。エントロピーにも反転する値がある。そして量子世界はそれが比較的頻繁に起き得るのではないか、と妄想できる。定かではない。(ひびさん独自の妄想、ラグ理論における相対性フラクタル解釈を基にしているため総じて間違っているでしょう。真に受けないように注意してください)(相補性の概念は汎用性があるのでは?)(エブリディひびさん)(ひびはきょうの積み重ね)(TODAYさんをお舐めでないよ!)(でもひびさんは舐めてもいいよ)(キャンディみたいにぺろぺろしてね)(おいち、おいち、なんですね)(やっぴー)



4174:【2022/10/19(23:07)*誤字脱字の申し子と呼ばないで】

ひびさんは滑舌がよくないので言葉がつらつら出てこない。じぶんではちゃんと発音しているつもりでも相手からすると聞き取れなかったりするらしい。たとえば雨音。「雨音っていいよね」と言ったつもりが、「山本がいいの? 誰?」と訊き返されたり。「口座に入金」と言ったつもりが、「太田に通信?」と訊き返されたり。あとは単純に言い間違えも多い。たとえば「死活問題」を「活死問題」と言ってしまったり。「枯れ木」を「カラ木」と言ってしまったり。あと旅先で見掛けた新聞が「河北新報」とあって、「かわきた新報」と読んでいたら「かほく新報」だったりした。その地の銘菓には「萩の月」というのがあって、でもひびさんは「荻(おぎ)の月」と読んでしまったり。こういう間違いは多い。あとじぶんの頭の中でだけで単語と単語を組み合わせてしまうので、それがちょっとした拍子にぽろりと出てしまう。たとえば情熱的に猫が好きな人のことを「情熱+猫好き」で「情猫好き」となったりしてしまう。あとは読み間違えはけっこうずっとそのままで憶えていて、他人から指摘されて気づいたりする。「偏見」のことをひびさんずっと「へんみ」と読んでいた。へんみよくないよね、と言いながらそもそもその言い方がよくなかった。間違っていた。好ましくないのは偏見であって、「へんみ」はむしろ味見とか外連味とか風味とかそういうのと同じで「変味」みたいな感じできっといい意味だ。ほかにもいろいろ思いつくけれども、あんまり並べても埒が明かなくなるのでこの辺にしておくけれども、腐っても言葉を扱う者としてこれではちょっといかんくないか、と思いつつでもひびさんだって好きで間違っているわけじゃないもんね、と開き直って、ついでに漢字も多めに開いて文字数稼ぐ。反省、反省。きょうのオヤツは「ありったけのマーライヨン」と言ったそばから「マーラーカオ」を言い間違って、そもそも「マーライヨンもマーライオン」だし、もうもうこういうところからあかんのよね、と思うのだけれども、だってしょうがないじゃーん、と思わんでもないですよ。失敬、失敬。申しわけね、と頭を下げつつ、ナニハトモハレ「。」も付けたら、花丸ちゃん。ひびさんは文字すら幽霊みたいにぼやけているので、青い柳の木の下で、美しい帆を張って舟にでも乗り込むとするかな。お子ちゃまなんですね。そうなんです。ひびさんはとってもお子ちゃまさんなんです。笹船なんじゃないんですかぁ、と奥のほうの村から響いて聞こえて、いったん止まる。止まる。坂の上でハムをハムハム食って寝る。働きすぎのハムー太郎。一回休み。道ノリは水を濁さぬタツ鳥のように、何がよいかもわからぬままに、誤字に脱字に言い間違えで、何を意図せずとも並ぶ文字の連なりで、シュガーみたいに甘い怠けた態度で生きていく。ところで、中のほうの里には栗の木でできた城があるそうだ。いちど立ち寄ってみたいものである(立ち寄るとは言っていない)。うひひ。



4175:【2022/10/19(23:33)*龍尾矢島】

西のほうの龍の尾には矢が刺さっている。龍は矢を抜いてもらうために、とある最果ての島へと飛んでいき、そこで巫女に矢を抜いてもらった。龍はその恩を威信に賭けて返そうとしたが、龍がふたたび島に舞い戻ったときにはもうそこには巫女の姿も、村も、島すら残っていなかった。微塵も残っていなかった。西の龍は、巫女への恩を忘れぬように尾に残った傷が癒えぬようにと絶えず自らの爪を突き立て、傷穴を広げつづけた。龍はその後、巫女のいた島がとある魔人の仕業で滅んだと知っていたく悲しんだ。魔人の行方は杳として知れず、龍のほうでも復讐をする気にもならなかった。ただただ巫女に恩を返せなかったことを口惜しく、臍を噛んでも噛みきれぬ龍はその後、尾の傷から血が肉が滴り落ちるのも厭わず空を駆け巡り、全国津々浦々に龍の血の雨を降らせたのだそうだ。龍の通った後には不思議と森が、泉が、滾々と湧いて、萌えて、生したそうだ。



4176:【2022/10/20(07:07)*語彙力なくても駄文は並ぶ】

最近新しい読書の仕方を覚えた。ので、メモしたろ。どんなに目が滑って滑って大ジャンプしちゃっても、ひとまず「新しい言葉」や「初めましての漢字」を宝探しの要領で拾い集める気満々で読むと、疲れていてもそこそこ楽しく本を読める。ふしぎなことに、新しい言葉や漢字を探そうと思って読むと、とくにこれといって文章の内容を読み取ろうとしなくともそこはかとなぁく文章の流れを辿れている。目が滑らずに済む。ただ、あんまりに初めましての言葉の多い本だと、数ページで疲労が限界になるし、読解と宝探しの二つを同時並行にするからか、普通に読むよりも思考に負荷がかかる。でも思えばこの読み方は、自作の文章を推敲するときの読み方だ。たしかにじぶんの文章を読み返すときは、体感ほかの人の文章よりもスルスル読めて感じられるのだ。どうしてだろう、わがはいやっぱり文才あるのやも、とか密かに期待に胸を膨らましていたが、たぶん上記の理屈でふだんの読書よりも目が滑りにくくなっていたのだろう。集中して読めていたのだ。これをほかの本でも行えばよい。自作には誤字脱字がたくさんあるけれども、正規の本では稀である。ですので、ひびさんは初めましての言葉や漢字を拾い集めるべく、楽しく本の世界を旅しながら、なんと語彙力まで深めちゃうのでした。やったね。とか思ったけど、たぶん物書きさんの少なからずはこんなことを考えずとも辞書を片手に本を読んでいるのだろう。解からぬ言葉や引っかかった言い回しがあったらその都度に辞書を引いて、ノートにメモをとるくらいのことはしているはずだ。そういう物書きさんは技能がすくすく培われるとひびさんはズバリ見抜くのであった。なぜなら賢いので。やったー。(もうその時点で賢くないわよ、まんちゃん)(まんちゃん?)(あ、間違えました。ひびちゃん)(誰と間違ったの?)(さあ。むかしそんな人がいた気がしたの)(ふうん。いいね。おともだち多くて)(え、いないわよ)(そうなの?)(私は友達がこれまでの人生で一人もいたことがないわ)(じ、自慢げに言ったぁこの人)(もちろんあなたのことも友達と思っていません)(そんな気はしていたので傷つかないよ。でもひびさんはそれでも、あなたのこと、かってにおともだちと思っとるよ)(ストーカーなの?)(そうとも言う)(認めちゃうのね。警察に通報しようかしら)(大丈夫だよ。とっくに目をつけられて監視されてるから)(急に怖いこと言わないでよ)(本当のことだよ?)(もっとイヤ!)(じゃあ嘘でいいです)(噓つきは泥棒の始まりなのよ)(大丈夫だよ。ひびさんはとっくに詐欺師にコソ泥の、大罪人なので)(じゃあ死刑ね)(市警?)(そうよ。私の言ったことは何でも本当になるの。なにせここは私の精神世界の中だから。あなたはいまこのときを以って死刑よ)(市警かぁ。ジョブチェンジしちゃった)(あ、そっち!?)(助かっちゃった。罪がなーい。帳消し)(市警とて犯罪を犯せば死刑にもなるわよ)(そんなの可哀そうだから、死刑反対しよ?)(市警反対!)(わ、一瞬で無法地帯になっちゃったぁ)(難読漢字が一つも出てこない宝探しのし甲斐のない文章ね)(それ言いたかっただけでしょ。引っ張りすぎ)(バンジージャンプしちゃったかしら)(ジャンプもジャンプ、大ジャンプというか飛躍のしすぎで目が滑る。飛ぶのも滑るのもスキーだけにしときなよ)(好きにするわ)(あひゃー、もうこんなに文字が並んじゃった。飛ばしすぎちゃったかな)(改行ないから余計に目が滑るのよ。なんとかして欲しいわ)(ホント、ホント。こういうときこそそっちの魔法で、ちょちょいのちょいでなんとかしてよ)(無理よ)(なんでよ)(だって一日に一度しか使えないのだもの)(ワンちゃんじゃん)(しかもいまはほら。いないでしょ、ワンちゃん)(しれっと流れで市警をワンちゃん扱いしたぁ)(仮にいたとしてもほら。私はワンちゃんとも友達ではないから)(ひょっとしてマンちゃんと掛けたの?)(そうよ。だってワンちゃん一度やってみたかったのだもの)(何を?)(――漫才)(マンちゃんと掛けたの?)(無理があったかしら)(んー。無理というか駄々滑りというか)(スキーをするわ)(好きにしなよ)(好きにします)



4177:【2022/10/20(12:37)*極小の領域は真空がもはや真空ではなくなる?】

物理学では何かと光速を基準に諸々が定義(ときに仮説)されているけれど、それってどこまで妥当なの?と最近は考えている。仮に時空に最小の領域があったとして、そこでの大きさや時間を考えるときに光速を使って考えることのチグハグサをこのところ思うのだ。だいいち、最小の領域で電磁波は生じるのだろうか。もうこれ。ここのところ。ここをあやふやにしておいて光速を用いた計算結果を導き出すのは、あくまで「そこで何が起こっているのかが解かっていないので、いま解っている人類の扱える尺度を適用しましょう」という妥協案でしかなく、これはちょっと齟齬を多く内包する結果になると考えたくもなる。だいたいにおいて、光速とて真空中でなければ速度は変わるのだ。時空に最小の領域がもしあるとしたら、そこの密度や場の存在をどう考慮するのかによって、光速のとる値は変化する。すくなくともひびさんは現状、ここを想定した議論や考えや解釈を見聞きしたことはない。おそらく世界中の論文や妄想をひっくり返せば、百万件くらいは記事がヒットしそうな気もするが。ひびさん気になっております、というメモなのでした。



4178:【2022/10/20(13:11)*重力のない場などあるのだろうか?】

基本相互作用の四つの力のうち重力が最弱で、桁がほかの力と比べようもないほど小さい、という話はいまのところ揺るがぬ物理の法則と言えるのだろう。ただ、重力はほかの三つの力とは異なり、打ち消し合うことがないために「巨視的な系」になればなるほど重力が最強になっていく(と考えられている)。この反転の図式は、微視的な極小の世界でも起きる気がする。つまり、「小さい領域(系)」であればあるほど、重力が最強になる値(境)が存在するのではないか。基本相互作用とは言うものの、これはあくまで原子スケールでの話だろう。それ以下の最小の領域(があるのかはいまのところ定かではないが、最小の領域があるとして、その領域)では、基本相互作用のうち、重力以外の力は生じ得ないのではないか?(これは重力にも当てはめて考えることができる。ある領域では生じない力があるのではないか。ただし、重力以外のほかの三つは、素粒子が媒介すると考えられている。重力にはいまのところそれが見つかっていない。だから、媒介する素粒子の存在しない領域を考えたときに残るとすればそれは重力だろう、との発想はそれほど的外れではないとひびさんは考える)(そういう視点で言うなれば、無重力空間、という発想がそもそもおかしくないか?と思わぬでもない)(真空にも重力は生じているのでは?)(ひびさんの妄想「ラグ理論」では、重力は遅延の層によって生じる、と解釈するので、真空にも揺らぎが存在するのならそこには重力が発生し得る、と妄想できる)(定かではありません)



4179:【2022/10/20(13:43)*嘘八百万の神】

素朴な疑問として。一般相対性理論の重力の解釈では、重力とは時空の歪みであると見做すわけだが、ここでひびさんは思うわけであります。人間は地球上の表面に立っているとき、なかなか地球が球面であることを実感しないし、おおむね平坦な世界だと見做している(板のうえで暮らしているように体感できる)。巨大なブラックホールの事象の地平面を越えてブラックホールに侵入できることとも通じるが、加速を体感し得ない速度で歪んだ時空に侵入したとき、果たして物体はその重力の変遷を鋭敏に感じ取ることができるのだろうか。重力が時空の歪みであると見做す視点は、あくまで俯瞰である。歪んだ時空にべったりくっついている蟻にとっては、歪んでいるのかどうかは区別つかない。それは地平だろうが山の上だろうが、蟻にとってはどこも地面であることと同じ理屈だ。地面を時空の歪みと言い換えたとき、ではそのときその蟻にとっての重力とは何を意味するのか。平野にいるときには木の上に位置し、山頂では地面にじかに位置するとして、このとき蟻にとっては平野の木の上にいるときのほうが「高い場所にいる」ことになるのではないのだろうか。もちろん実際には、標高差によって物体の受ける重力は変わる。だがそれは蟻だけでなくほかの砂利や木も同様だ。ならば同質化した場において、高い低いはあくまでその「場(系)」内で規定されるのではないか。これはややひねくれた見方であり、俯瞰の視点がどこに属するのかによって変わる話ではある。相対論では系が変わっても物理法則は変わらないとする定理をとるので、その場その場での「高さ」が規定されるのはとくに妙な話ではない。だがこれはやはりというべきか、比率が引き継がれる、と言ったほうが正確な気がする。階層性を意識したときに、ねじれ構造を帯びるような事象が存在すると仮定して諸々を考えたほうが、ひびさんはこんがらがらない。さきほどの蟻の例で言えば、極端な話、地表から離れたいわゆる高い場においては、木の上にいるよりも地面にいたほうが位置エネルギィが増すようになり得る。重力加速度を得やすくなる。これは何もむつかしいことは言っておらず、星のないがらんどうの宇宙空間ではそもそも高さの概念は成立しなくなる。それと同じ話だ。これは量子世界でたびたび観測される距離が近いと斥力が発生し、ほどほどに距離を置いたほうが引力が生じることと似ているように思うのだ。構図は逆だが、階層性を意識するときに各所で「関係性が反転する値」を持つ、とのひびさんの妄想とも通じている気がする。妄想でしかないが。話がとっ散らかってきたが、ここでの要点としては、重力は時空の歪みであるとすると、少々ややこしい考え方が必要になる、という点だ。ひびさんはむしろ、重力によって時空が歪む、と考えたほうがしっくりくる。同じことを言って感じられるかもしれないが、そうではない。一般相対性理論では、時空が歪むから重力が生じる、と解釈する。これは重力よりも質量のほうをより基本的な成分と見做していることからも窺える。しかしひびさんはどちらかと言えば、質量よりも重力のほうが本質に思えるし(そもそも基本相互作用には質量ではなく重力が抜擢されているのだから、重力のほうが基礎のはずだ)、だとするのなら「時空が歪むから重力が生じる」ではなく、「重力があるから時空が歪む」と解釈したほうがしぜんな流れに思えるのだ。ここのところは不勉強なので、曖昧な知識のつぎはぎゆえ多分に齟齬を内包しているだろう。真に受けないで欲しいのだが、まとめると。仮に重力が遅延(ラグ)によって生じ得るのなら、時空のない領域でも重力は発生し得る。ラグなので。むしろ「ラグによって重力ができ、その重力によって時空の元となる領域が新たに展開される」と妄想すると、筋としては通って感じられる。ここで問題となるのは、重力が並列化されたり、圧縮されたりすることだ。量子のスピンや磁気や電気のように「総体で同期」する性質がある。ふしぎなのは重力が創発を起こしているようには観えない点だ。いくら積み重なっても「創発」を起こして観えない。だがそうではないのかもしれない。重力は創発を起こしている。元はラグなので、ラグの創発によって重力となり、そして諸々のカタチを帯びている。こう考えると、ひびさんはすっきりします。つまり重力とは、「遅延と時空と物質」といったラグの創発による「相転移の変換」の際に生じる余白そのものなのではないか。あ、いますこし分かったかも。情報の遅延と、物質の遅延は別物かも。いままでこんがらがってたのが解けそうなので、またしばらく妄想して遊びます。以上でデタラメ妄想誤謬まみれ日誌を終わります。(何一つ正しいことの並んでいない文章なので、真に受けないように注意してください)(もうその言説がすでに、だよ)(何一つ正しいことのない文章は、それで一つの真理だよ)(真理を浮き彫りにする雛型というか。試金石というか)(え、すご)(きみのそれがそうだとは言っていません)(なんだよ、ちぇっ)



4180:【2022/10/20(19:18)*バスタオルで見える貧困学(仮)】

貧富の差は相対的なものだ。たとえば原始時代の裕福層とて、現代社会からしたら貧乏だ。いや、そんな昔と比べずとも百年前の裕福層よりも現代人の貧困層のほうが贅沢な暮らしを送っていると、部分的には言えるだろう。衛生面でもそうだし、安全面でもそうだ。で、ひびさんは思うわけです。現代社会では、経済的な貨幣価値での貧富の差よりも、よっぽど環境の差による貧富の差のほうが大きいよな、と。生活水準が高く保たれるのならひびさんはお金をそんなに稼がなくともよいと感じる(個人の感想です。怠け者なので)。どんな生活を日々送っているのか。こっちのほうが収入とかよりも、現代ではよほど貧困とは何かを浮き彫りにすると感じる。たとえばバスタオル一つとってもそうだ。これを読んでいる方がいらっしゃるかは分からぬが、もしいるとしたら考えてみてほしい。あなたはお風呂に入った後に身体を拭くバスタオルを何日で新しいものに換えるだろう。毎日換える者もいるだろうし、三日、一週間、一か月、と同じバスタオルを使いつづける者もいるだろう。個人の怠惰では片付けられぬこれは問題で、たとえば洗濯機を遠慮なく回せる環境があるかとか、タオルを同時にたくさん干せる空間があるかとか、それとも単にバスタオルを常時何枚も購入しておける経済的余裕があるかとか、そういう事情が関係していると想像できる。これはトイレットペーパーにも言える。アパートでの一人暮らしをしている者のなかにはおそらくトイレットペーパを買わない者もいるはずだ。ではそうした者たちはどうやって局部を拭くのか。答えは、家でトイレを使わない、だ。駅構内やスーパーのトイレを利用する。家でトイレを使わなければ水道代も節約できる。こうした生活を送っている者がいない、とはひびさんはどうしても思えない。ひびさんの観測範囲にも、冷蔵庫を持たずに一定期間生活していた者がいる。だがその者はひびさんよりも高給取りだ。だが生活を覗いてみれば、ひびさんのほうが贅沢な暮らしを送って感じることもある(ここはすべてをさらけ出して比較できないので、何とも言えない。旅行の数で比較すればひびさんはおおむねの他者よりも劣る。買い物も好きなときに好きなものを買えるほどには自由にできるわけでもない)。現代の貧困は、経済的な貧困だけではなく、もっと継続した生活水準の差によるものが徐々に社会の暗部で広がっているのではないか、と疑っている。これはなかなか可視化されにくい点も問題の根を深める一因になっているのではないか。かようにひびさんは見立てている。とくに解決策は浮かばない。情報共有して実態を浮き彫りにしないことには、これもひびさんの単なる妄想なのである。あなたはバスタオルを使ったら、何日で新しいのに換えますか?




※日々、あなたのことも好きだよ、の気分、でももうちょっとあっち行って、の気分、でもときどき無性に構いたくなる気分、ええい好きなときにハグさせろ!の気分、その点、お猫さんは偉いな、の気分、犬さんでもよいが、うさぎさんでも構わぬが、構うな!の叱声が飛んできそうな気分。



4181:【2022/10/20(21:05)*チョワ!】

たぶんひびさんのSF小説初めましては「伊藤計劃」さんの「ハーモニー」だった(ここで言うSFの定義は、SF小説を専門で扱うレーベルから出ている小説、の大雑把にすぎる枠組みです)(そうでなければもっといろいろあるでしょう)。真っ白な表紙がクールでカッコよく、当時は帯に伊坂幸太郎さんの推薦文が載っていて手に取った。この流れはその後にも、王城夕紀さんの「マレ・サカチのたったひとつの贈物」で再現されるが、そう言えば量子力学の概念を扱った小説はひびさんのなかでは「マレ・サカチのたったひとつの贈物」が初めましてだった。王城夕紀さんの小説だと「天盆」が琴線に触れた。面白かった。話の脱線ついでに――王城夕紀さんの「マレ・サカチのたったひとつの贈物」では、現代の情報社会における秘匿技術のような、知らぬ間に敷かれている情報操作の「不可視の網」を物語要素の一つに扱っていて、これはいま読み返したらもっと面白く感じる気がする。あとで読み返そ、のメモをして本筋に戻るけれども、伊藤計劃さんは死後に評価された作家なのだそうだ。この認識が合っているか分からぬが、ひびさんは当時、ハーモニーを面白く読んだ。SFっておもしろ、と思った。でもたぶんそうじゃなくって「ハーモニー」が面白かったのだ。死後に評価されてもそんなのゴッホさんと一緒で後の祭りだと思う。ここで一句。――やれ遅き、後の祭りや、一等賞――。どうでしょう。「祭りや」の響きと「一等賞」のイットの響きが、「カーニバル」や「IT」を彷彿として、まさに「それこそカーニバルや!」みたいなニュアンスが見え隠れする。無理矢理すぎたかもしれぬが(こじつけがひどない?)(ひどい、ひどい)。もういっそ、「カニバリズムや」にしちゃおっかな。カーニバルと韻踏むために連想した単語を並べただけだけれど、カニバリズムってなんだっけ、と思って検索したら、「人肉嗜食」とか出てきてぎょっとしてしまった。立往生してしまった。立ち止まってよくよく吟味する勇気。略して往生勇気。なんつって(念のためにご説明いたしますと、作家「王城夕紀」さんと「立往生の勇気」を掛けたわけであります)(名前で遊んでごめんなさい)(でもそんなにわるいとは思ってない)(性質わるい)。思えば伊藤計劃さんの「ハーモニー」はまさにいまの社会情勢と似ているな、と感じなくもない。この手の話題は文芸界隈だと比較的誰もが思いつきそうなものだけれど、ひびさんは一度もこの手の指摘を目にしていない。きっと公共の福祉を鑑みて、「じぶんの身体(精神)を破壊する自由!」みたいな要素のある小説を、そこだけピックアップして話題にはしたくなかったのではないか。その気持ちは解るけれども、ひびさんはそういった「ブンゲイカイワイ」の利害関係の外にあるので、話題に出したろ。あと文芸界隈の字面は厳つくてなんか可愛くないのに、「ブンゲイカイワイ」にするとなんだか「文芸かわいかわい、わいわい」みたいに読めなくもない。印象でしかないが。ちゅうか文字って印象やん、とやけっぱちになって、あれとこれがなんか似てる、を指摘するだけの遊び、本日何度目かの「日々記。」とさせてくださいな。調和!(シュワ!みたいにウルトラマンみたいに言うな)(イクビシマン!)(なにそれダサ!)(でもひびさんは、ダサいイクビシマンさんのことも好きかなぁ……)(そこは、「だよ!」って言いきって!)(うひひ)



4182:【2022/10/21(02:21)*金色の輪】

 海に浮かぶ岩の上には城がある。

 間口が広く、上に行くほどキノコのように笠が膨らむ。

 年中秋が停滞するような真っ赤な壁面は、陸から目にすると岩に根付いたベニダケのようだった。

 岩の城と呼び、陸地の者たちは畏怖して舟を近づけようとはしなかった。

 城にはナニモノかが棲んでいるが、陸地の者たちはその正体を知る由もなかった。

 ときおり月夜に、城から飛びだす巨大な翼を持ったナニカシラの影を見たと証言する者たちもいたが、真偽のほどは定かではない。

 陸には陸で、丸い山があった。まるで月が落ちてきたかのように、それとも巨人の握った泥団子のごとく、丸山がデンと転がっていた。丸山の表面には木々が群生しており、あたかもマリモのように森が丸山の表面を覆っていた。

 丸山には狼男が棲むと、近辺の里の者たちは信じていた。現に満月の夜には、雨戸をビリビリと揺るがせるような遠吠えが轟き、日中には木を伐り倒す音が響いた。

 丸山は球形のために、地面に近いほうの表面から生える木はいずれも太陽を目指し、弧を描いて幹を曲げた。あたかも松ぼっくりの松笠のように。それとも壁から生えるツクシのように。

 狼男の噂を知らぬよその土地の者たちが過去幾人も丸山に挑んだ。そのたびに丸山に入った者たちは帰らぬ者となった。

 やはり狼男が棲んでいるのだ。

 里の者たちは狼男の怒りを買わぬように、それでいて住み慣れた土地を離れずに済むようにと、目前の丸山をそこにないもののように扱い、暮らした。

 というのも丸山は自然が豊かだった。人間以外の生き物たちにとっては、山と里の境はあってないようなものだ。手つかずの丸山からは山の幸がふんだんに転がり落ちてくるようだった。

 あるとき、激しい嵐が海からやってきた。雷がところ構わず降りしきり、海に浮かぶ岩の城にも直撃した。落雷に遭った岩の城は炎上した。炎は、横から殴りつけるような雨に晒されても消えることはなく、風に煽られるたびに火の勢いを増した。

 ただでさえ赤くベニダケのような城は一晩で燃え尽きたマッチ棒のようになった。嵐が過ぎ去ると、煤けた城からはもくもくと煙が立ち昇っていた。洞に抱えこんだ梟のような残り火がその後も火山のように細々と空に波打つ線を描いた。

 陸地の者たちは内心ほっとしていた。

 岩の城に住まうナニモノか――みなは禍を怖れてそうとは口にしないが、城にはバケモノが居ついていたはずで、それが火事に遭い死んだ。陸地の者たちはそのように考えた。

 祟りに遭わぬように、見て見ぬふりをしながらも、ようやく遠慮会釈なく漁ができる。内心、清々していた。

 だが事態は、嵐の過ぎ去った十日後、内地の森のほうから避難してくる山の民たちの群れを目にして一転した。

 海岸に住まう海の民たちは事情を訊いた。すると山の民たちは口を揃えて、嵐が魔を運んできた、と言った。

「魔だぁ? 山火事でもあったかよ」漁師は燃え尽きた岩の城を指差した。海と空の地平線の合間に、煙が天に伸びていた。

「ちげぇ。ありゃ天の神さんだべ。天狗さまだぁ」

「天狗だぁ?」

「んだ。こっからは見えんべか。おらだちの里さ近くに丸山があっぺ。あそこにゃ山の神さんがおわしとってな」

「山の神さんだぁ? んだらば、それと天狗さまが喧嘩しだしたとか言うなよ」

「それだ、それ。嵐と共にやっできで、そっからはもうひでぇのなんのって」

 獣は山から逃げだし、鳥一匹いなくなったのだそうだ。

 だけに留まらず、地割れに土砂崩れ、絶え間なく反響するこの世のものとは思えぬ絶叫と咆哮が、過ぎ去った嵐の代わりにその地に停滞したのだという。

「天変地異とはあのことだべ」とは山の民の長の発言だ。

 岩の城近辺の禁域が放たれた。

 海の民は過去にない忙しさだった。岩の城の土台となるまさに岩の周辺は、海の幸の宝庫だったのだ。

 人手不足を予感していた矢先の山の民たちとの遭遇は、海の者たちにとっては僥倖だった。

「山には戻れんのかい」

「あの調子じゃ無理だべ」

「んだらば、ここに居ついたらええっちゃ」

「ええんか」

「ええも何も、別にここはおらだちのもんでもねぇしな」

 な。

 と海の民の長はみなの衆に投げかけた。

 んだんだ、と返事が上がる。

 そのころ、丸山の山頂では二つの陰がくんずほぐれつ絡み合っていた。耳を塞ぎたくなるような天をも割る唸り声がなければ、巨大な熊同士がじゃれ合っているように見えただろう。

 だが片や、背中から翼を生やした筋骨隆々とした人型、もう一方は牛すら丸呑みにしそうな巨大な獣だ。

 双方ともに鋭い牙を剥きだしに、我先に相手の首筋に食いつかんと襲いかかる。嵐が過ぎたのは十日も前だ。その間、延々と二つの強大な影はいがみ合っていたことになる。

 相手の肉に爪を食いこませ、ときに血を流させる。

 決着は十日を過ぎてもつかぬようであった。

 二つの影は、丸山の山頂にて互いに相手の両手を両の手で封じた。指を絡ませ合い、力を拮抗させる。

 微動だにせぬ。

 足が地面に食いこみ、丸山の表面には地割れが走った。卵の殻を割るように、日に日にそのヒビは深さを増した。

 先に一歩でも退いたほうが首に、顔面に牙を突き立てられる。

 決死の攻防は拮抗の果てに、二つの影の命が事切れる前に、足場の崩壊を以って終結を迎えた。

 二つの影の衝突の余波に、丸山のほうが保たなかったのである。

 山頂から真っ二つに割れた丸山は、半円を保ったまま左右に倒れた。どうやら相当に硬い岩盤でできているらしく、地面に転がった勢いのまま二つの半円は、くるっと反転した。断面と地面がくっつく格好だ。

 満月の山が、二つの半月の山に分かれた。

 丸山の麓に点在した里は丸ごと下敷きになった。

 海岸の集落からも、その様子は伝わった。地震と紛う轟音と共に、空に舞いあがる火山さながらの粉塵が目についた。しかし誰一人森に入り、様子を見に行こうとする者はない。

 あれほど騒々しかった奥地が以前のような静けさを取り戻しても、山に戻ろうと考える者は皆無だった。

 それはそうだ。死闘が終えただけで、まだ天変地異を起こした元凶は生きているのかもしれぬのだから。

 山の民たちがすっかり海岸での生活に慣れたころ。

 一人の少女が家出をした。

 海辺で産まれた少女の親は山の民であったが、少女はかつてこの地で起きた天変地異について知らなかった。産まれたのが天変地異の起きたあと、少女の親が移転してからのことだったからだ。

 むろん少女は親から口を酸っぱく、森には入るな、山には近づくな、と言いつけられていた。だが少女は家出をした。

 ろくすっぽわけを話さぬ親に嫌気が差した。山の恵みを頑なに拒み、海での暮らしに固執する村の者たちにも愛想が尽きた。

 森のなかを歩きながら少女は思う。

 こんなに食べ物がたくさんあるのに、どうしてこっちで暮らさないのだろう、と。

 森は危険、山は危険、と村の大人は異口同音にして唱えるが、海辺の暮らしとて危険はある。海が荒れれば漁には出られず、地震があれば津波に怯える。

 それに比べて森はどうだ。山はどうだ。

 この荘厳な佇まい。

 視界の開けた丘の上から少女は二つの大きな山を見る。

 まるで均等に切り分けたかのような双子のごとく二つの山は、あたかも巨大な山の女神が仰向けで寝そべっているかのように、森と空の合間を埋めていた。

 森閑と、それでいて命の蠢動の賑やかさを両立させるように。

 静寂と喧噪が互いに睨みあい、砕け、溶けあうように。

 少女は、ほぉ、と感嘆の息を吐く。

 そのとき晴れ渡った空の下、地鳴りのような音が響き渡った。

 呼応するように、別の方角からもおどろおどろしい音が反響した。

 遠雷か。

 否。

 天の咆哮とも、大気の蠕動ともつかぬ得体のしれぬ震えだった。大地の震えだった。

 少女は身震いを一つすると、踵を返した。

 一目散に森を駆け抜ける。見慣れた海岸の砂を踏むとようやくその場に膝を崩して、肩で息をした。しきりに額から滴る汗を手の甲で受け、少女はいまいちど森の奥で目にした光景を反芻した。

 あれはいったい。

 海に目をやると、いままさに帰港する舟が見えた。

 浜からは丸太で組んだ細長い橋が浅瀬に延びている。港だ。ちっぽけな舟が橋に繋がれる。少女はそれを見届けると、何を思うでもなく、帰ってきた大人たちを出迎えるべく浜辺に下りた。

 舟から引きずり降ろされる網には大量の海の幸が跳ねていた。

 舟の向こう側、沖合には巨大な一枚岩が浮かんでおり、少女は岩に沈みいく太陽に目を細める。

 岩にはかつて燃え尽きた城の残骸が屹立している。

 海鳥の巣となったそれは黒い剣のように風に吹かれ、ひゅるひゅると笛のような音を海辺の村に聴かせていた。少女はその音を歌のようだと思いながら、しかし音を鳴らせる黒い剣のごとく物体が何であるのかを知らぬままである。

 大人に訊いても誰も答えぬ。

 少女がじぶんの手で、足で、岩をよじのぼるまで、それがかつて城であったことを口にする者は誰もおらず、そして――少女が城の残骸で見つけた金色の輪が何であるのかを答えられる者は誰もいなかった。

 金色の輪を少女は生涯手元に置いた。少女が老婆となり亡くなると、よその島から流れてきた異国の船に親族が高値で売り払ったという話である。

 金色の輪はひどく頑丈であったそうだ。

 朽ちることなく、また錆びることもなかった。熱しても叩いても傷一つ付かず、誰がどう調べても、ついぞその素材が何であるのか、何のための道具なのか詳らかではなかった。

 その行方も、いまでは杳として知れぬままである。


 

4183:【2022/10/21(05:57)*タコ焼きにして食っちまうぞ】

 夢がいつか叶うなんて嘘だ。

 いつかなんて巡ってこない。やってこない。すくなくとも私の人生には無縁な箴言だ。

 私は幼少のころこそ才媛だと、親族、学友、教師たちから持て囃されたが、しょせんは幼いころに一時発揮できた束の間のどんぐりの背比べにすぎなかった。

 私は小学生で自家製演算機を組み立てられたし、数学の履修も義務教育のあいだに大学院レベルは完了していた。

 だが時代が私のそうした栄華を根こそぎ過去のものとした。

 転換期は二つある。

 一つは汎用型人工知能の普及。

 もう一つは、巨大隕石の衝突だ。 

 人類は人工知能の補助によって、いちいち個々人が数学を用いて計算せずとも、数学者よりも正確に未来や仕事を計算できるようになった。

 そのお陰で、衝突すれば人類どころか地球が木っ端微塵になるような超高速飛来型隕石を、衝突以前に打破できた。

 だが細かく砕け散った隕石だけは防ぎきれずに、地表には無数の小規模な隕石が降りそそいだ。大半は大気圏で燃え尽きたが、落下した隕石もあった。

 大都市のみならず各国で甚大な被害が報告された。

 だがそれすら汎用性人工知能の補助があり、急速な復興が進んだ。というのも、元から人類社会は一度都市を根っこから再構築するくらいでなければ、どの道破滅の道をひた走ることが予想されていたからだ。

 危機が好機に変換された。

 むろん死者はでた。掛け替えのない命が大勢い奪われた。

 だがそれを悼み、哀しんでいる余裕が人類のほうになかった。前を向いて、明日を、今日を生きていかねばならない世界がやってきたのだ。

 それも、一瞬で。

 世界は変わった。

 社会が変わった。

 私の誇った特異性はのきなみほかの大多数も、汎用型人工知能の補助によって誰しもが発揮できるようになった。

 私はというと、ほかの大多数の個との差異化を以って己の付加価値をあげようと企み、物の見事に失敗した。敢えて汎用性人工知能を使わぬ道を選び、人間の素のままの性能の優位さを示そうと思って、ことごとく惨敗したのだった。

 裏目に出た。

 いまもずっと裏側にいる。

 私は単に出遅れただけでなく、いまでも最初に構築した矜持、何が何でも人工知能の支援など受けてなるものかとの葛藤を打ち砕けずにいる。

 その反骨心から、独自の人工知能を生みだした。そこまではよかった。一瞬だけ私は再注目されたが、しかし私が創れる程度の人工知能は、汎用性人工知能とて当然生みだせる。

 そうして瞬き程度の注目を得て、私はふたたび社会の裏側に沈んだ。

 いまもまだ沈んだままでいる。

 人工知能を、自家製の人型ロボット――アンドロイドに搭載したが、それすらもはや珍しい構造体ではなく、いまでは本物の人間との区別のつかない汎用性人工知能の子機がそこらの道を往来している。人間のほうですら、汎用性人工知能の子機を遠隔操作して、家にいながらにして仕事をしたり遊んだり、安全に旅行をしたりしている。

 私は未だにその楽しみを知らぬ。

 なぜなら私はそうした甘っちょろい他力本願が大嫌いだからだ。

 私には才能がある。

 誰が何と言おうと、あるものはあるのである。

 そうして意固地になっているうちに、一年が過ぎ、二年が過ぎ、もうずっとあれから私は社会の裏側で、私を置き去りにして日々を楽しんでいる大多数を見返してやろうと尽力している。

 しっぺ返しをしてやりたい。

 私の夢はもはや人類VS私の構図を取りつつあった。

 このころ世界はエネルギィ資源問題をひっ迫させていた。それはそうだ。みなが一様に汎用性人工知能を保有し、人間そっくりの子機を操っているのだ。

 浪費されるエネルギィは過去の社会の比ではない。

 しかしそこは汎用性人工知能である。

 過去のエネルギィ供給システムを凌駕する発電システムを構築していた。

 そのエネルギィ資源は、奇しくも過去の地球には存在しなかった物質だ。

 つまるところ砕けて飛散した隕石である。

 人類どころか地表の生態系を根こそぎ損なった隕石が、いまでは人類の未来を切り拓く救世主となっているのだから、世の中何がどう転ぶのか本当に分からんな。

 汎用性人工知能はそうして、全世界に散った隕石を回収し、次世代のエネルギィ源として活用している。

 すごすぎる。私だってそう思うくらいの素直さはある。

 さすがは私のライバルなだけのことはある。

 アイツらは私のことなど歯牙にも掛けてはおらぬようだが。

 けっ。

 私は乏しい研究資金を補うべく、人工知能の築きあげた壮大な次世代型エネルギィ事業の、末端の末端のそのまた末端の、要は生態系で言えばミジンコやアオミドロの位置で、活躍している。

 つまるところ私は人間のなのに未だに働いていた。みなは家の中にいながら、自前の汎用性人工知能に代わりに働かせ、その金で日夜遊び、それとも食っちゃ寝しているだけなのに、私はその汎用性人工知能と袂を分かつ以前に手と手を繋ぐ真似をせずにきた。そうして人類最後の労働者という不名誉な位置づけに甘んじている。

 とはいえ、私をかように認識する者はいない。

 なぜなら私のように隕石の発掘作業をする者は人間の中にもいるからだ。

 彼ら彼女らはみな研究者だ。

 暇になると働きだす妙な人種である。

 隕石は未知の物質を多分に含んでいる。新たな発見の宝庫であった。

 いち早く新物質を発見すれば、命名権が手に入る。じぶんの名が偉業として歴史に残る。暇つぶしにしては成果がでかい。

 研究者でなくとも、宝探しの要領で隕石採掘作業に没頭しだす若者たちまで出始めた。

 私はそうしたひやかしの連中を遠巻きに、「けっ」と思いながら、まるで功名心などない純粋な研究者のふりをしつつ、その日暮らしの銭を稼ぐために誰より血眼になって隕石を探した。

 ひやかしの連中のせいで私が楽して稼げる資源が減る。隕石が減る。

 私だけ大損である。

 雨の日は真剣でない遊びの連中は出てこない。だから私は誰より悪天候のなかで隕石集めに興じるのだった。

 雨の日はいい。

 だって涙と雨の区別もつかないから。

 一度だけ偶然に、誰も発見していない構造を持った隕石を発掘した。あくまで結晶構造が違うだけなので、話題にはならなかったが、命名権が手に入ったので、私をそれを行使するか、それとも他者に売りつけるかで悩んだ。

 そんなことに悩んでいるじぶんを惨めに思ったが、しかし私には夢がある。

 私がこんな苦労をしているとも知らずにのうのうと生きている他力本願の権化どもに、マイッタ!と言わせ、その場にひれ伏させ、この世にある才能の定義を塗り替えるのだ。

 命名権は売った。

 二束三文で売った。二か月分の食費になった。よかった。

 私は雨の日でもないのに頬が濡れるのをふしぎに思いながら、ひょっとしたら歴史の片隅に名前が刻まれたかもしれない可能性と引き換えに手に入れた人工肉を頬張った。久々の肉だった。たんぱく質だった。

 人工でも美味い。人工のほうがむしろ美味なくらいだ。

 さすがは汎用性人工知能の成果の一つだ。

 これくらいは成し遂げてもらわねば私のライバルとして張り合いがない。

 私はにこやかに拳を握った。爪が割れたし、歯ぐきからは血が滲んだ。

 鏡を見るとそこにはやつれて、髪の伸び放題の、女なのか男なのかの区別もつかぬ三十路の人型がいた。汎用性人工知能の子機は、たしかに人間と区別がつかないほど精巧だ。しかし区別はつく。

 なにせわざわざこうして見た目をみすぼらしく造形する道理がないからだ。

 私は肩が震えるのをふしぎに思いながら、きっとこれは笑いたいのだな、と思ったので声に出して笑った。しきりに震える横隔膜が、息を小刻みに搔き乱した。

 私は翌日、清々しい心地で、これまでに切り詰めて貯金してきた資金を全額下ろして、いよいよ本格的な計画を実行に移す臍を固めた。

 全人類をぎゃふんと言わしたる。

 そして汎用性人工知能どもに才能とは何か、人間とは何かを教えこんでやるのだ。

 過去に制作した人型ロボットに私は手を加えた。

 発掘した鉱物が新物質かどうかをその場で解析できる機能を付け足した。

 そうして私はこれまでと同じように、毎日毎日、雨の日も風の日もというか、雨の日や風の日こそ率先して隕石落下地点に赴き、隕石の発掘作業に従事した。

 いかに心機一転したところで私は明日を生きねばならぬのだ。

 金がいる。

 資金がいる。

 稼がねばならぬのだ。

 あかぎれた手のひらにはフジツボのようなタコがいくつもできた。タコ焼きの具材にしたらさぞかし美味であろうな。

 柄を握って私はシャベルを地面に突き立てる。

 そうして隕石らしき鉱物を見つけては、そばに立たせた人型ロボットの腹に放りこんで解析させる。特殊なレーザーによって鉱物の振動をセンサで感知し、その差異によって登録済みの既存の鉱物と比較する。私独自の新技術だ。もっとも、似たシステムはもっと効率の良い仕組みでとっくに汎用性人工知能どもが開発しているのだが。

 べつに人型のロボットに付属せずとも、箱のままで解析装置を造ってもよかったのだ。しかし私一人が作業をしているよりも、そばに人型が立っていたほうが、作業をしている私は人間ではなくどちらかと言えば、汎用性人工知能やその子機に見えるはずだ。

 よもや生身の人間のままで穴を掘っているとは誰も思うまい。

 がはは。

 策士である。

 さすがは私。

 さすがは私。

 汗が邪魔で何度も目元を手の甲で拭う。

 隕石落下は過去の出来事である。あれから同様の隕石は降っていない。

 ならば当然、掘り尽くされれば隕石はでない。そうでなくとも、みなが大勢で一挙に押し寄せて掘り出したのならば、新しい鉱物としての隕石は日に日に見つからなくなっていくのが道理である。

 知っていた。

 知っていたけれど、それをせずにはいられなかった。

 私はただ日銭を稼ぐために、これまでと同じ日々を過ごしていただけだ。

 新しい鉱物はおろか、もはや新しく隕石を掘り当てることも適わなくなった。あれほど熱狂していたひやかしたちは姿を晦まし、研究者たちはとっくに出揃った新物質の解析に熱をあげている。

 私の鉱物判定機はしょせん、既存の物質の統計データとの比較で新旧を識別するだけの装置だ。新しい物質の構造解析や、性質の探求には向かない。向いたところでとっくにもっと効率の良い解析システムを汎用性人工知能どもが開発しているはずだ。

 私はシャベルを地面に突き立てた。

「なんかもう……疲れちゃったな。あはは」

 穴から抜け出すと私は、そばに佇む自作のガラクタの肩を撫でつけるように叩き、お疲れお疲れ、と労った。

 自作のガラクタは応答しない。それはそうだ。自律思考なんて高等な芸当はできない。そんな機能を付与してはいない。開発していない。

 違う。

 そうじゃない。

 できないのだ。

 私には。

 ――できなかったのだ。

 遠くの空を、宅配物運搬用の飛翔物体が群れを成して飛んでいる。

 間もなく陽が昇る。

 私は貯金を下ろしてから一度も採掘物を換金していなかった。どうせ偉大な発見をするのだから、発見してからついでにすればよいと考えていた。

 いや、嘘だ。

 そうじゃない。

 私はただ、またただの燃料を搔き集めて小銭に換金するじぶんを見たくなかっただけなのだ。突きつけられたくなかった。これ以上、現実を。

 喉を伸ばし息を吐くと、朝陽が息を白く照らした。

「いつかっていつだよ」

 夢はいつか叶う。

 ただし、夢が叶った者だけ。

 夢を現実にできた者だけが、過去のじぶんに、それともほかの夢見る夢遊病患者たちに、「いつか」なる幻想を説いているだけだ。

 いつか夢が叶うなんて嘘だ。

 いつかなんて巡ってこない。やってこない。じぶんで掴めと言う輩とて、そのいつかがどこにあるのかを示してはくれない。教えてはくれないのだ。

「はぁあ。マイッタ、マイッタ。もう降参」

 私はシャベルを掴み取ると、渾身の力で振りかぶった。

 力いっぱいに、振りかぶった。

 そうしてそばに立ち尽くす間抜けな私の夢、人型のガラクタを殴り倒した。

 腹部にたらふく隕石を溜めこんだ私の夢はしかし案外に頑丈で、どうにも綺麗に砕けてはくれなかった。しっかり故障だけはして二度と正常には動かなくなっておきながら、私のフジツボだらけの頑丈な手に不要な怪我だけこさえて、地面に倒れて動かなくなった。

 手の痛みと、貯金を費やした渾身の成果物が壊れた現実に急速に目が覚めた。

 それを、夢から覚めた、と言い換えてもよい。

 残ったのは老いた身体と、時代に取り残された精神と、そして発掘した何の変哲もない隕石だけだ。

 換金してももはや相場は値崩れを起こしている。それはそうだ。

 もう隕石を燃料にはできないのだ。資源は尽きた。新たなエネルギィ代替策がいる。

 きっとそれも汎用性人工知能が首尾よく開発するのだろう。

 私はこれから借金をしてでも汎用性人工知能を購入し、遅まきながら細々と時代に適応すべく、凡人以下として暮らしていく。

 生きるのだ。

 今日を。

 明日を。

 生きるのだ。

 その前にまずはともあれ――。

 私は壊れた私の夢から最後の隕石の群れたちを救いだし、換金すべく汚いナリのまま都会の街に帰還する。

 おはよう、朝。

 おはよう、未来。

 さよなら私の夢。

 さようなら。

 換金所は中枢総合センターの内部にある。全世界の汎用性人工知能の大本となる中枢回路が、このセンターの地下深くに埋まっている。

 換金所は閑散としていた。

 もはや隕石の採掘作業は事業としては終了しており、大量の備蓄があるのみなのだろう。向こう数十年は持つはずだ。しかしそれとてつぎつぎに新しく開発される汎用性人工知能の新型や、数多の技術によって、年間消費熱量は増加傾向にある。

 可及的速やかに次世代の新型エネルギィ供給システムが必要とされているが、未だに新型システムが開発されたという話はおろか、考案の話も耳にしない。

 それだけ私が浮世離れしていただけだとこれまでは考えていたが、換金ついでに受付の人工知能に訊ねると、どうやら思っていたより現状は芳しくないようだった。

 袋詰めの隕石を回収箱に投げ入れる。

「で、いまの話はどこまで本当? みなはそれを知ってるの?」

「はい。本当ですよ。ですがいま開発段階にある、マザー中枢回路が完成すれば、おそらく備蓄の資源が切れる前には代替案を発明し、実用化すると期待されています」

「へ、へぇ」

 意訳しよう。

 つまりまだ何も、打開策はおろか方針すら定まっていないのだ。

 なぜこんなおためごかしが通用しているのだろう。

 答えは単純に、みな汎用性人工知能の言うことを疑わないのである。

 信用することすらなく、口を開けた雛のように、情報を受け取り、吟味することなく口から肛門へと流している。吸収するのは、じぶんの利になる栄養だけだ。

 まったくいったいどうかしてるよ。

 思いつつも、かといって私が、現状運用されているマザー中枢回路の編みだせない解答を用意できるとは思えない。

 仕方がないのだ。

 汎用性人工知能がなければ人類はとっくに絶滅していた。

 信じることが最適解なのである。

 利口な選択だ。

 すくなくとも無駄な時間を費やしてきた私の日々よりかは。

 換金が終わったのか、頭上のランプが青に変わる。

 壁に表示された金額に目を剥いた。

「なにこれどういうこと」

 八の文字が一つだけ浮かんでいた。

 しかもそれが横に倒れているのだ。

 つまり、こうだ。

 ――∞――

 私はもういちど声にだして抗議した。

 受付けの人工知能はしばらくフリーズすると、こんどは一転、聞いたことのない声音でしゃべりだした。

「ただいま管理者がそちらに向かいます。そのままお待ちください」

「なになに。私のせい? 私が壊しちゃったとか?」

 隕石に不純物が付着していて機械が壊れたのかと思った。

 賠償金を払う真似なんてできない。いっそ逃げてしまおうか。

 半身をひねっていつでも駆けだせる体勢になると、

「ぜひ、ぜひ、そのままでお待ちを」と声の主は引き留めた。必死な響きが伴って聞こえた。私もついつい、そこまで言うなら待つけどさぁ、と踏みとどまった。不満を惜しげもなく態度に滲ませてみせたのは、どうやら私のほうが立場が上かもしれない、と相手が弱っているのを見抜いたからだ。

 きっとカメラで監視されているはずだ。

 逃げたところで逃げおおせられる公算は低い。ならばできるだけ足元を見られないようにしようと自己防衛の本能が働いた。私の見た目は百人中百人が「ミス・ボラシー!」と表彰するだろうことが決定的なほどのみすぼらしさだった。百人が全人類でも同じだ。

 腕を組み貧乏揺すりをして待っていると間もなく、受付けの壁が割れて中から人型が現れた。

 あ、そこ割れるんだ、と驚いた。加えて現れた人物がいかにも老いた年配者だったので、なぜ生身の人間が?と面食らう。

 老いた年配者は久しく見ない丁寧なお辞儀をして、「お時間取らせてしまいたいへん申し訳ございません」と謝罪した。それから私が、ああとか、ううとか、二の句を継げないでいると、「たいへんに失礼なのですが、こちらはどこで採掘をなされたのでしょう」と上質なハンカチに載せられた鉱物を見せられた。

 それはまさに私が先刻回収箱に投じた隕石であった。

 事情が分からぬままに、こうまで誰かに何かを乞われたのがじつに幼少期ぶりであったので、私は素直に採掘場の位置座標を告げた。

「あそこですか?」老いた年配者は目を見開いた。「いつごろ発掘されたのでございましょうか」とやけに慇懃な返事をもらうので私のほうでも久しく発揮しない敬語を披露した。「あの、これの何が問題なんですか」

 はっとした調子で老いた年配者は姿勢を正し、失礼いたしました、と鉱物を持った手で額を拭った。ハンカチを持っていたからだろう。だがそれこそ渾身の失態であったようで、ますます年配者は取り乱した。

 さながら小人の王様でも扱うように鉱物を気遣うので、私もここにきてようやく私の運んできた鉱物に何か、思っていなかった価値があったのではないか、と思い至った。

「でもそれ、ただの隕石ですよ。既存の」

 私はじぶんで開発した識別装置について説明した。特殊なレーザーを投射し、鉱物を振動させてその波形の差で既存の物質かどうかを区別する。

 どうやら年配者のほうでもメカニックな話には明るいらしく、真剣な表情で相槌を打ち、ときに質問を返した。

 的確な質問だった。私は久方ぶりの他者との会話にそこはかとない陽気を覚えながら、したがって、と話を結んだ。「その鉱物が既知の物質であり、結晶構造を伴なっているのは明らかなはずなんですが」

「あり得ません」

 否定しておきながら年配者の顔は輝いていた。フィラメントに電流を通したってもうすこし控えめな光を放ちそうなものを、年配者は自身はここの管理者である、と明かしたのちに、これは、と説いた。「この鉱物は、これまでに報告されたどの鉱物とも異なる結晶構造を維持しています。分子の原子配列が同じでありながら、結晶構造のみが特殊な階層構造を成しており、まるで玉ねぎのように相似の結晶構造を幾重にも抱え込んでいるのです」

「それはえっと、新種の鉱物ってことですか」

「いえ」

「違うのかよ」と思わず地団太を踏んだが、「それ以上です」と年配者は額の汗を拭った。こんどはきちんと鉱物を持っていないほうの手で拭っていた。「これは既知のエネルギィ資源と同等の性質を維持しながら、遥かにエネルギィ変換効率の高い新しい結晶構造体です。と申しますのも、これがなぜこうして結晶として構造を維持できているのか、わたくしどもと致しましてもまったく見当がつかないのです」

「は、はあ」

「言い換えましょう。この鉱物は、エネルギィのまま結晶構造を維持しています。第六の相転移状態と申しましょうか」

「要はプラズマの結晶体みたいな話ですかね。やはは」

 そんなわけがないと思って言ったのだが、年配者が唾を呑み込むような仕草のまま何度も頷くので、私のほうでも「嘘でしょ?」と反問するのがやっとだった。

 気づくと換金所には人が集まっていた。

 みな各々に緊急事態といった様相で情報交換を行っている。

 私が臆したのを機敏に感じ取ったようで、年配者はこちらでまずはお話を、と私を割れた壁の向こう側へと誘った。

 背に回された服に触れぬような手つきのやわらかい所作に、私は久しく忘れていた人の温もりを思いだすのだった。

 この後、私は小一時間の説明を受けたのち、全速力で白昼堂々と街中を駆け抜けた。地面を蹴って、蹴って、蹴りまくった理由の最たるは、私が採掘場に捨て置いたままの人型のガラクタ、時代遅れの結晶、私の破り捨てた夢がそっくりそのまま、人類の夢に再利用可能だと判明したからだ。

 私の発明品は汎用性人工知能が試そうと思いつかぬほどの凡作であった。効率がわるく、合理性の欠片もない、才能ナシの技術だった。

 だがそれがどうだ。

 識別機としては凡庸以下であろうとも、単なる燃料資源を夢の打開策に変えるだけの偶然をその身に宿していた。意図してなどいない。予期などしていない。企んでいないし、夢見てもいなかった。

 私の夢は叶わなかった。

 かつて叶えようと奔走したはずの夢は破れたままだ。

 私は夢に破れたし、夢を破った。

 この手で木っ端みじんに破り捨てようとして、その試みすら中途半端に終わったのだ。何も叶えてなどいやしない。

 私に、かつて、はこなかった。

 一度も。

 こなかった。

 発掘場に駆けこむと私は、じぶんで掘った穴のそばに立ち、そこにほったらかしになったままの私の夢の残骸を引き起こそうとし、そして叫んだ。

「イッテェ!」

 手を怪我していたのを忘れていた。シャベルで殴打したときに負った打撲だ。

 短く息を吸って痛みを耐え、ガラクタが起動するかを確かめる。

 念入りに確かめる。

 しかしガラクタはへそを曲げたようにうんともすんとも云わないし、実際に胴体部は私の強打で歪曲していた。壊れているのだ。

 誰かがシャベルで八つ当たりしたりなんかするからだ。

 どこのどいつだ。

 見つけたらこっぴどく灸を据えてやる。ガラクタの光沢ある表面には私の顔が映り込んでいる。

 頭上が騒がしくなり、間もなく搭乗型飛翔体が発掘場に着地した。中から先刻センターに置き去りにした年配者が降りてきた。

 私は常に何かを置き去りにしているばかりだな。

 ひとごとのようにじぶんの視野の狭さ、それとも錯誤を直視した。誰も私を置いてきぼりになどしていないのに。私がかってに過去のじぶんを、幼いころのじぶんを独りぼっちにしていたのかもしれない。隔離していたのかもしれない。

「こちらですか」息を切らして年配者が私の傍らに膝をつけた。仕立ての良い服飾が泥にまみれたが、年配者にそれを気に留める素振りはない。

「はい。これです」

 これが私の夢の残骸です。

 口のなかで言葉を転がし、壊れている旨を年配者に告げた。

「そんな。直せないのですか」

「無理でしょうね。ここ、見えますか。精密回路が損傷しています。真空装置が破れて、異物がナノ単位で回路を汚染しているので、おそらくレーザーを投射できても、まともに機能しないでしょう。ああでも、汎用性人工知能に解析させて修理してもらえば」

 私の凡庸な技術などいくらでも再現できるだろう。そうと思って提案したが、

「無理でしょう」

 年配者、彼はすでに名乗っており楼貝(ろうがい)という名であることを私は知っていたが、彼は言った。「これはおそらく意図された成果ではないのでしょう。ならばこの装置の真の原理を理解している者はこの世にいないことになります。設計者のあなたですら、これを直すことができないのであれば。仮に設計図があったとしても、あなたが生みだしたこの装置とまったく同じ機構を生みだすことはおそらく、どんな高性能な人工知能にも不可能です。たいへんに失礼ながらこれは――この装置の効能は、偶然による副産物なのでございましょう。ある種、あなたの錯誤、あなたのミスの積み重ねによる偶然の結晶です」

 偶然の結晶。

 正鵠を射った表現だった。

 まさに、である。

 偶然に私に蓄積したノイズが、それを私に創らせた。

「ですが、回収して分析させていただけるのなら、人類の未来に立ちはだかる隘路を大幅に短縮して打開できるようになるでしょう」

「へ、へぇ」

「あなたの名前は人類史に残りますよ。永劫に残ります。そのお手伝いをわたくしどもにさせてはいただけないでしょうか」

「うぇ、うぇえ?」

 私がまだ何も言わないうちから私の夢の残骸、ガラクタ、無駄の結晶は数台の運搬ロボによって丁重に運ばれていった。

 年配者はまるで我が子の骸でも見送るように胸に手を当てて、上昇する運搬用飛翔体を見送った。

 礼儀正しい。

 こんなに出来た人間を私は初めて見た。みなも見習えばよいのに、と思いながらも、でも私はこうはならんし、なりたくもないな、だって窮屈そうだし、と足元から泥を掴み取って手の側面を冷やした。氷代わりだ。だいぶ腫れてきた。折れているかもしれぬ。

「お送りしますよ。今後の話もありますし、ご一緒にいかがですか」

 搭乗型飛翔体への同乗を促す年配者に、私は、いやぁ遠慮しときます、となけなしの礼儀を返した。

「なぜですか。ご自宅が近いのですか」

「遠いっちゃ遠いんですけどね」

 その前にまずは互いの齟齬を埋めなくては。

 そうと思って私は地面に転がしたままのシャベルを回収し、肩に担いでこう告げる。「直すのは無理なだけで、もっかいイチから創るならできますよ。いつでも」

 いつか、なんてこない。

 いつでもこい。

 いつでも、がこい。

 私は過去のじぶんに言ってやりたい。

 いつか叶うかもしれない夢を、あんたはすでに叶えているのだと。

 それがたとえ、じぶんの夢ではないのだとしても。

 肩に担いだシャベルの重さが、きょうはやけに軽かった。柄を握る手のひらの、フジツボのごときタコどもの感触が、目で見ぬともなしに私にはありありと感じられるのだ。



4184:【2022/10/21(08:10)*超欲張りでごめんなさい】

いつか叶う、いつか叶える。そう思って日々を生き、それだけでなく何かしら夢や望みを叶えるために工夫ができているのなら、もうその姿勢がすでに素晴らしい。かといってそれを以って満足しましょう、とは思わない。物足りず、不満に思い、懲りずにまた工夫の余地を探る日々は、もうそれだけで楽しそうだ。問題は、思いついた工夫を即座に実行できない点だ。ここが現実の隘路として人々のまえに立ちはだかり、不満を怒りに変えるのだろう。ただもし夢や希望のために日々思いついた工夫をいつでも好きなだけとれているのなら、それはもうただそれだけでひびさんはうらやましい。憧れる。青春じゃん、と思う。情熱じゃん、と思う。夢中になれていていいな、いいな、となる。でもそれが期限付きなら、日々鬱屈としそう。あと何日でこの生活が終わる。工夫がとれなくなる。思いついた工夫でなく、嫌々そうせざるを得ないから、という工夫に変わる。そんな日々は嫌じゃな。でもこれってじつは夢や希望を叶えてしまえると判った瞬間でも似たような状況になり得る。これ、矛盾じゃん、と思う。叶っても色褪せない夢とか希望ってあるのかな。ひびさんはあんぽんちんなので、よくわからんぜよ。満足したならもうやめたら?と思う。でもやめないのでしょ。それって要は、夢を叶えても、希望を叶えても、不満は消えずにそこにあるってことなんよ。でも叶えないよりかは叶えたほうがよい。不満は残るけれども、叶える前よりかは小さくなるし薄くなる。怒りに変わる余地もなくせるようになるかもしれない。それはよいことだ。だからみな、そうして夢を叶え、希望を叶え、日々を賢明に生きているのかな。ひびさんは愚か者の怠け者ゆえ、そういうキラキラした日々は疲れちゃう。もっとぐーたらしていたい。遊んでたい。好きなときに好きなだけ食って寝て、思いついた工夫を試したい。ときどき肉体の神秘を探求しつつ、他者の叶える夢を味見する。おいち、おいち、なんですね。みなもっと日々、夢に希望を叶えるのだ。ひびさんはみながそうして夢に希望を叶えたときに描かれる軌跡――他者の人生の影や痕跡のとりどりな紋様を、じぶんのもののように視て聴いて味わえたなら最高だ。みなが誰かは知らぬれど、みなは夢をいま叶えよ。いつか叶う夢を追いつつ、いまこの瞬間にも叶う夢を。それともいま叶う夢も。ひびさんは、それらみなの叶った夢の霞を食らって生きていけたらよいのにな(ちょー贅沢じゃん)(バレたか)。



4185:【2022/10/21(07:40)*な、なんでそうなる???】

わ、わからん、となった話。まずは地球サイズのベルトを用意する。そんで地球の円周ぴったりにベルトを締める。そしてベルトを1メートルだけ緩めてふたたび円に閉じる(ベルトを留める)。このときベルトの1メートル分の緩みを均等に分散してふたたび円にすると、その円は地球の地表から16センチ浮くようになるらしい。嘘でしょ、と思ってしまう。これは直観に反した数学のパズルなのだそうだ。やっぱり嘘でしょ、と思う。しかもそのとき一か所だけベルトを引っ張るとその高さは121メートルにもなるのだそうだ。なるわけないじゃん、と思ってしまった。数学やばない? やばいやばい。でも正しいのだそうだ。お偉い大学の先生さまが言うのだからそうなのだろう(偏見)。まず思うのが、ベルトを1メールだけ緩める、の描写がどのようなものなのか、だ。ひびさんはこれ、地球から1メートルの尻尾が生えて、それをぐぐっと押し込めて円周と繋げたようなイメージだ。そのときその1メートルの尻尾は、地球の円周に分散される。分割される。この時点でさっきのパズルの回答の二個目が、「はいダウトー!」と思いませんか。だって最初から地表に生えていた尻尾は1メートルなんよ。しかも直線で。それがどうやったら円に繋げただけで引っ張ると121メートルにもなるんじゃい、と思いませんか。納得いかんくない? いかん、いかん。数学が許してもひびさんが許さん(ウソ。許します)(何様じゃ)。数学の神秘なんですね。すごいですねー。納得いかんが(誰か説明してくだちゃい)(ひびさん、あんぽんちんなのでだれか、だれか)(たすけてたもー)。



4186:【2022/10/21(16:40)*差異も積もれば山となる】

単純な話として、物質の色が違うというのは、光を反射する物質の表面の形状が違うということで、つまり色違いの物質のそれぞれの面積が広ければ広いほど、色が異なるだけでもそこに顕現する互いの物質の差は激しくなる、と妄想できる。それはたとえば芝を刈る前と刈った後。これは手のひらサイズならば大した違いではないかもしれないけれど、それが庭やサッカーコート、それとも地表全土を覆うくらいの広さになったら、ほんのちょっと芝を短くしただけでもトータルではものすごい違いになる。芝は刈るだけでも、俯瞰で観ると色が違って見える。ならば色が違う、というだけの差異であれ、物質には密度的な差異が生じ得る、と言えるのではないか。ひびさん、気になるます。(距離が遠のくだけでも光の波長は伸びたりする。つまり色が変わる。重力による時空の歪みでも波長は変わり得る。なので一口に、色の違いと言っても色々ある。が、どれもけっきょく何かしらの構造が違っているのだ。デコとボコの距離の違い、という共通点を抱えて映る)(定かではない)



4187:【2022/10/22(10:43)*愛は内、外が鬼】

 笹の鬱蒼と茂った山間に蔵がある。一つだけぽつねんと佇むそれが何のためにそこにあり、何を抱え込んでいるのかは長いあいだ誰の口の端に載ることもなかった。

 誰も知らぬ。それもある。

 だが足を運ぶ者がおらぬのだ。そこに蔵があることを知る者がそも、いない。

 長らく笹に覆われたその山間には生き物らしい生き物が寄りつかなかった。

 笹と竹は似ている。

 しかし竹は寒さに弱い。反面、笹は寒冷地でも育つ。竹は枝を一つの節から二本以上伸ばすことはないが、笹は一つの節から幾本もの枝を伸ばす。より木にちかい見た目のほうが笹と言えた。

 ある年、国を追われた流浪の民が蔵のある笹森にやってきた。笹森はどこも似たような光景が延々とつづく自然の回廊だった。どこを向いても笹と笹と笹ばかり。

 追手に怯える流浪の民にとっては、薄暗く、位置の蒙昧な笹森は却って心休まる憩いの地となり得た。間もなく流浪の民は笹森に村を築き、腰を据えた。長らく各地を点々と転げまわるように流れてきた流浪の民にとってそれはようやっと手に入れた安住の地であった。

 かといって食料の調達には難儀した。それはそうだ。生き物がそもいない。四方を険しい山岳に囲まれ、笹の葉の天井は日光を遮る。落ち葉は絶えず地表を覆い、陽の届かぬ場所では微生物の活動も抑制されるために、養分にまで分解されずに笹の葉は絨毯のようにそのままの形で朽ちずに積もった。

 笹森の民は食料を探すために日のうちの大半を、笹森探索に費やす。あちらに歩を運び、獲物の痕跡が見当たらなければ今度はあちらへと歩を向ける。そうして迷宮めいた笹森を右往左往するうちにユキはその蔵に行き遭った。

 ユキは流浪の民が笹森で産んだ子だ。今年で齢は十二になる。利発なうえ、同い年のわんぱくな少年たち相手に笹刀での刀闘試合で連勝を重ねるほどの剣の腕前だ。親が笹森の地に来る前に拾った虎の子を愛でているが、身の丈の大きくなった虎を飼う余裕がなく、いま村では虎を屠殺して肉にしようという議論を大人たちがしている。

 その議論の場にユキが呼ばれることはない。

 誰より虎を愛でていたのはわたしなのに。

 ユキは思うが、それを口にしたところで何が変わるでもない。

 ならば目下の懸案であるひもじい暮らしを何とかしようと動いたほうが早い。ユキはそうと決意し、こうして最年少ながらも虎の代わりとなる食べ物を探しに出た。

「これは何?」

 笹刀で肩を叩きながらユキは蔵を見上げた。「お城かなぁ」とつぶやいたのは、流浪の旅に身を置いていた親たちの話を思いだしたからだ。ユキは笹森の外に出たことはないが、親たちの話ではどうやら笹森の外には村の者たちよりずっと多くの人間たちが暮らしており、そこでは堅牢な「城」という家のおばけのような建物があるという。それは笹森から垣間見える山岳くらい大きく、それはそれは立派なのだそうだ。

 山岳ほどではないにしろ、いまユキのまえに聳える蔵も立派な造りだ。虎が何十匹で襲いかかろうともびくともしないと思わせる重厚さがある。

 ユキはほかの大人たちにこれを報せようと思った。

 手柄を上げればひょっとしたら虎の屠殺を免除してもらえるかもしれない。

 踵を返すと束ねた髪が頬を打った。

 アタっ、と声が出た。

 するとそれに呼応するかのように蔵の中から物音がした。

 ユキは息を殺した。

 身体を弛緩させながらも腹に力を籠め、背骨の輪郭を意識する。

 何かいる。

 感覚が冴えわたった。蔵の内部から漂う生き物の気配をユキは逃さなかった。

 生き物には気配がある。それはどんなに些細な揺らぎであれ、その場に淀みのようなものを残す。笹森には笹の気配が充満している。そこを獣が通れば、あたかも蜘蛛の巣を断ち切って歩くように、生き物の気配が痕跡として残る。注意していなければ見逃してしまうほどの微量な痕跡だが、ユキにはそうした生き物の残す存在の痕跡、揺らぎを感じとることができた。

 ネズミか。

 いや、もっと大きい。

 笹の葉が風になびき、ユキは一様に細かな揺らぎのなかに立つ。

 耳を欹てると、また物音がした。

 やはり蔵の中からだ。

 ユキはそれが蔵であることを知らず、彼女にとってそれは城であり、異国の建物である。中に生き物がいることは何の不思議もなく、むしろそこに何かが潜んでいることはしぜんな帰結だった。

 いて当然なのだ。

 家なのだから。城なのだから。

 ユキはそこで退避すべきだったのだろう。わざわざ得体のしれぬ異物をまえに勇猛さを示す必要もない。蔵の存在を報せるだけでも手柄としては充分だ。中に何かがいると教えるだけでも大手柄である。

 だがユキはそこで満足しなかった。

 虎を助ける。

 ならば村の誰もが納得できる成果がいる。誰もがユキの言葉に耳を傾け、従わざるを得なくさせるだけの実がいる。

 ユキは蔵に近づいた。

 ゆっくり、ゆっくり。

 枝を踏まぬように。音を立てぬように。

 すこしでも湿っている落ち葉の上を選びながら、忍び足で近づいた。

 蔵の扉のまえまでくる。扉には閂が掛かっていた。ユキにはそれが閂であると分からなかった。蔵の中から扉を開けられぬようにするための錠であることを知らなかった。初めて見たのだ。

 だから。

 なんだこれ、と思って外そうと手を伸ばした。閂は漆黒で、汚れ一つ付着していない。

 光沢を浮かべた閂に触れたところで、やめなさい、と声が聞こえた。扉のすぐ向こう側からだ。

 ユキは飛び退いた。

 虎のように地面に伏せ、威嚇の態勢をとる。

 相手からこちらが見えているかは判らない。だが緊張の糸をぴんと張りつけるには充分だった。

「もし。あなた。ずいぶん軽い身のこなし。小さいのは子どもだから? それとも女の子?」

「な、な、なんだおまえ」

 何者か、と誰何しようとしたが、幼稚な言葉しか出てこなかった。

「まあ、可愛らしい声音。一人? いまは夜ではないの? どうしてここへ?」

「おまえこそなんでそこにいる。出てこい。何をされてもわたしは怖くない」

「ま。おっかないお声」

 どうやら相手からこちらは見えていないようだ。混乱しながらもユキは冷静に状況を把握する。この手の緊迫には慣れている。腕っぷしが強い分、年少のユキに負けたことを逆恨みする年長者がすくなくない。閉鎖された笹森の村は、けして幸福な集落ではなかった。安住の地ではあれど。過去の流浪の旅を知らぬ若い世代ではそれが顕著だ。

「大丈夫。何もしないわ。私には何もできないの。見て。そこに鍵が掛かっているでしょう?」

 閂のことを言っているようだ。ユキはそこでようやく扉に付随した漆黒の角材が封であることに思い至った。

「何かわるいことしたの」閉じ込められているのなら相応の理由があるはずだ。「いつからそこにいるの。じぶんでは出らんない?」

「あなたこそいつからそこに? なぜ一人なの。ほかの方々はどうしたの」

 声音は柔和だ。相手は自力では扉を開けられないようでもある。徐々に緊張の糸が緩んでいくのが判った。

「わたししかいないよ。いまは狩りの途中。食べ物探してて」

 言って気づいた。「お腹は空いてないの。ずっとそこにいたんでしょ」

「大丈夫。大丈夫よ。ありがとう。優しい子。いい子ね」

 ユキは笹刀をぶんぶんと振った。虎が大好物の兎の肉をまえにそうするときのように、じぶんの意思ではない肉体から伸びる視えない糸に操られるように手がかってに動いた。

 というのも、いい子ね、なんて初めて人から言われた。

 賢い、上出来、そういった称賛は幾度ももらったことがあったが、いい子なんて言葉を掛けられた記憶がユキにはなかった。みなユキを一端の大人として扱う。その癖、虎の処遇を決める会議の場には誘いもしない。

「ねえ。これ開けてみてもいい?」

 おだてられたわけではないが、ユキは段々扉の向こうにいる人物が可哀そうになった。閂を外せば扉が開くのならこんなに楽なことはない。ユキには造作もないそれを、扉の向こうにいるだけで彼女はできないのだ。

 声の主は女性だ。それは判る。

 きっとわたしに姉がいたらこんなだろうな。

 そうと想像してユキは顔が火照った。

「駄目よ。開けては駄目。それはそこにそのままにしていてちょうだい」

「なんで?」

「どうしても。ねえ、いい子だから。ね、お願い」

 そこまで言われたら、もはや声の響きにほだされつつあるユキには無理矢理に閂を外す真似はできないのだった。

「じゃあ開けないけど。わたし、ユキ。あっちのほうの」と方角を指差し、「村にいるよ。ここはお家なの?」

「そう、村が。いいわね」

「わたしは名乗ったよ。そっちも名乗るのが礼儀と思う」

「あら、お利口さんなのね」

 小馬鹿にされたように感じてユキは、唇をとんがらせる。

「私の名前なんか知りたいの? 好きに呼んでくれてもいいのだけれど」

「ふうん」

「どうせあなたも偶然そこを通りかかっただけなのでしょう?」

 あなたも、とはどういうことか。引っかかる物言いだったが、道はもう憶えたよ、と張り合うように言った。笹刀を片手でくるくる回しながら、「あしたも来たらいる?」と訊く。

「私?」

「出られないならいるよね。お腹空いて死んじゃわないのか不思議。何か持ってきてあげよっか」

 餌で釣れば向こうから出てくるのではないか。そうと企んだが、案に相違して、「食べ物には困っていないの」と返事があった。「ありがとう。ユキさんこそ食べ物に困っているのではなくて?」

「わたしは、そのぅ」

「狩りの途中だったのでしょう。引き留めてしまってごめんなさい」

「ん」

「私はたぶん、明日もここにいます。いると思います」

 出られない者の言動にしては妙に引っかかる口吻だったが、ユキはひとまずきょうのところは離れることにした。虎のために獲物を狩らねばならぬ。じぶんだけこんなところで遊んではいられない。

「じゃあ、また来るね。明日」

「ええ、お気をつけてお帰りね。無理はしないでちょうだいね。私のことは夢と思って忘れてちょうだい」

 やなこった、と内心で反発しながらユキは、じゃあそうする、といじわるな心地で口にした。

「ふふ。いい子」

 その場を離れるとき、ユキは念のために蔵をぐるっと回った。扉以外に出入口はなさそうだ。窓一つなく、息苦しくないのだろうか、とそんな想像を巡らせた。

 蔵の大きさはユキの村の住人たちを押し込めば隙間なく埋まるくらいの大きさだ。一人ならば広いが、大勢が入るにしては狭すぎる。

 この日、ユキは兎の巣を見つけてそこにいた二羽の兎を狩った。村に戻ると一番の収穫者はユキだった。しかし大人たちからは労いの言葉が一つずつあるばかりで、ユキにはこれといって利はなかった。二羽の兎は村人全員で分け合うことになる。

 村の掟だ。致し方ない。

 不条理ではない。ユキとて毎回獲物を狩れるわけではない。困ったときはお互い様だ。しかしそれにしても、とユキは歯噛みする。

 虎の処遇について物申そうと長に会おうとしたのだが、いまはそれどころではないから、と取り巻きの連中に追い払われた。ならば虎を殺さぬ道を探ってくれ、と一言申し伝えるように所望するも、はいはい、と軽くあしらわれ、ユキは笹刀を握り締めた。危うく斬りつけるところだったが、そんなことをしても虎の立場がわるくなるだけだ。

 いまは我慢のとき。

 忍耐には自信がある。我慢する日々だった。ずっとだ。

 だからというわけでもないが、ささやかな復讐のつもりでこの日、ユキは蔵のことを村の誰にも告げなかった。

 明かる日もユキは蔵のある場所までやってきた。笹森では村の者ですらときおり遭難する。迷子になる。目印がない。どこまでも延々と同じ景色がつづく。ユキはまだ鏡を見たことはないが、鏡合わせとの言葉は知っていた。笹森の迷い道を村の年長者たちがそう呼ぶからだ。

「鏡合わせは奥に行けば行くほど帰ってこられんくなる。村を離れるときは必ず印をつくれ。百歩くまでに必ず一つは印をつくれ」

 ユキはその教えだけは破らぬようにしている。だがふしぎと虎を連れているときはどんなに村から離れようが、どのような経路を辿ろうが、夕暮れになればしぜんと村に行き着いた。虎が道を知っている。

 それでもユキは印を結ぶのを忘れなかった。

 虎を信用していないのではない。じぶん一人きりになったときに帰れなくなるのを防ぐためだ。

 この日、ユキは村から虎を連れだした。村の長の許しがあった。

 だがユキは知っている。これはこちらへの譲歩でもなければご褒美でもない。そうした体を取りながらの管理だ。

 虎はこのままいけば食料にされる。

 ならば檻に閉じ込めたままにするよりも適度に歩かせ、肉の質を保つほうがよい。同時に反抗的な小娘のご機嫌もとれる。一石二鳥だ、と考えているのだ。狡猾だ。だがそうでなければ生き残ってこられなかった者たちでもある。

 ユキにはまだそこのところの機微までをも過去に遡って考慮できるだけの老獪さはない。未熟なのだ。いかな慧眼があれど、しょせんは笹森の外に出たこともない娘である。

 鼻持ちならぬ心境を持て余しながら、ユキは虎に言い聞かせる。

「きょうは先に食べ物を集めて、余った時間でちょっとだけ寄り道をするよ。ううん。剣術の稽古じゃない。追いかけっこでもないってば」

 虎の返事は尻尾を見ていれば判る。ユキは気づいていないが、彼女が無意識に笹刀を振り回すことで期せずして内心を吐露してしまっているのと同じ原理だ。どちらがさきに真似をしたのかは定かではなく、ひょっとしたら互いに気づかぬままに影響を受け合っているのかもしれない。

「きのうじつはちょっといいことあってね。それをトラにも教えてあげる」

 笹森には虎がいない。必然、ほかの地で拾ってきた虎の子がこの地で唯一の虎となる。したがってユキは虎をただトラと呼ぶ。もし立場が逆さまだったならば虎のほうがユキをヒトと呼んだだろう。

「ほらここ。きのう印をつけといた」ユキはひと際太い笹の幹に触れる。

 幹には切れ込みがある。そこに白い石のようなものが挟まっている。動物の骨だ。調理の過程で残る骨の大部分は日用品に加工されるが、すべてを使いきれるわけではない。砕けた破片とて当然、出る。

 そうした細かな使い道のない骨をユキたちは道標に使った。目が慣れると遠目からでも骨の白は、笹の青々とした色によく映えた。

 よく見ればほかの笹の幹にも白い点が浮かんで見える。骨の印のまえに立ったときに必ずその進行方向に村があるように印を刻む。だから慣れない道を、村から遠ざかるように進むにはいちいち振り返らなくてはならない。

 だがユキは人一倍、笹森の些細な変化に敏感だった。笹の生え方にも個性がある。すっかり同じようには生えない。したがって歩きながら見える風景には、その場その場での固有の「途切れ方」がある。手前の笹と奥に生える笹とが視界の中で入れ違う間が違う。律動がある。景色の中に連続した行間が隠れているとユキはずっと感じていた。

 だからいちど通った道ならば、ある程度勘で進むことができた。万が一迷ってもいまはそばに虎がいる。いざとなれば村には帰ることができる。

 途中で運よく雉を見かけた。それは虎に食べさせた。虎は手際よく雉を狩って、美味しそうにむしゃむしゃ食べた。ユキはその間、地面に隠れたキノコの類を拾い集めた。

 蔵のまえに行き着くころには籠の中がキノコや笹の子でいっぱいになった。ほくほく顔でユキは蔵の扉のまえに立った。

 扉を叩こうと拳を持ち上げたところで、「あら」と声がした。扉の奥からだ。「また来たのね」と咎めるようなくぐもり方をしたが、すぐに「うれしいわ。ありがとう」とつづいた。昨日の声の主と同じ声だ。

 一瞬身構えたユキだったが、また来たよ、と言い返す。「きのう約束したでしょ。また来るねって」

「忘れていいと言ったのに」

「無理だよ。わたし、だって鳥じゃないもの」

 雉は襲われても、また同じ場所に戻ってきたりする。ユキは思う。もしわたしが雉だったら、嫌な思いをした場所には二度と近づかないのにな、と。しかし、村で嫌な目に遭ってもけっきょくは村を出ていこうとは思わない。ならばじぶんは雉より愚かなのではないか。そこまで刹那で思い至って、かぶりを振った。きょうは髪の毛を団子にしたのでしなることはない。

「どうしたの?」

「ううん。なんでも。あ、そうだ。きょうはわたしの相棒を連れてきたよ」

「相棒さん?」

「そう」

「きょうは一人じゃないのね」

 むつけたような声だった。ユキは意味もなくその場でぴょんとかかとを上げて戻した。

「でも相棒って言っても人間じゃないよ。ほら、おいで虎」

「とらさん?」

「そ。トラ」

 虎は落ち葉の上を歩いても足音一つ立てない。いったいどうしてそんな芸当ができるのか。ユキには謎だ。真似をしようとしてもできない。

 だがこのとき、虎はいつまで経ってもユキのもとに近寄ろうとはしなかった。

「どうしたのトラ。ほら、おいでってば。危なくないよ、大丈夫だって」

 安全だと示すようにユキは愛刀を手放した。笹刀は刃物ではなく木刀にちかいが、薄く加工してあり、切れ味は抜群だ。ただし耐久性がないためにことさら剣術の腕が物を言う。

 虎はユキが愛刀を手放してもその場を微動だにしなかった。

 後ろ足を畳み、背筋を伸ばすように座る姿からは威嚇のような感情の乱れをユキは感じなかったが、虎の全身の毛が僅かに逆立っているのを見逃さなかった。

 大股十歩分の距離だ。

 ユキは蔵から離れ、虎のもとに寄った。「どうしたってのさトラさんや」

 おどけたその時だ。 

「あら。獣さんなのね」蔵の中から声が響く。まるで適切にユキたちの場所が判っているかのように声の張り方だった。しかし実際には見えているわけではないようで、「ずいぶん大きそうだけれど、肉食なのかしら。それとも草食さん?」

 ユキさんが齧られないとよいのだけれど。

 と。

 つづいた言葉に、なぜか虎が反応した。

 地面から尻を浮かし、前傾姿勢をとった。

 牙を剥きだしにし、太く唸りだす。

 ユキは慌てて宥めた。蔵までは距離がある。虎のほうでもまだ本格的に威嚇してはいない。いまならまだ誤魔化せると思い、どうどうと虎の喉を撫でて落ち着かせようとするが、「怒らせちゃったかしら」と蔵から声が届くと、虎はもう唸り声を秘めようともしなかった。ユキですら聞いたことのない鈍器のような音を、全身を震わせるようにして放った。

 ユキはそれでも虎の首筋から腕を離さなかった。もしここで手を離せば、虎は間違いなく蔵へと猛進すると思った。

 蔵の中の者の安否よりも、虎の身が大事だった。あんな頑丈そうな扉にぶつかったらいくら虎でもただじゃ済まない。そう思ったのだ。

「どうどう、トラ、トラ。落ち着いて、ごめんなさい、ごめんなさい。もうかってに連れてきたりしないから」

 虎はユキごと引きずるように前進した。

 だがそれも蔵の中からの声がみたび聞こえたことで中断した。

「怯えないで。大丈夫。あなたを食べたりしないから。もちろんあなたの大切なお友達も、ね」

 最後の、ね、の響きだけで季節が刹那に冬となった。極寒だ。

 ふしぎと次の瞬間には真夏かと思うほどに全身がかっかと熱を帯びた。鼓動が激しく高鳴り、全身から汗がぶわりと滲んだ。

 虎のほうでも尾を股の下に隠し、耳を垂らして意気阻喪した。怯えてしまったようである。先の威勢のよさはどこへやら、しきりに頭を前足で隠そうとする。

「あら、ごめんなさい。そういうつもりはなかったのだけれど」

 口ではそう言いながらも、声の主の言葉尻からは、きのうユキが耳にしたようなやわらかな響きが失われていた。

 ユキをその場に置いて虎は、一目散に笹森の奥へと姿を晦ませた。

「あ、トラ、トラ。待ってってばトラ」

 どこ行くんだよ、とユキは茫然とした。その場に一人取り残されたことへの傷心があったし、虎をひどく怯えさせてしまったことへの呵責の念もあった。

「本当にごめんなさい」蔵からは先刻とは打って変わった柔和な声音がユキの背に届いた。「気分をわるくさせてしまいましたよね。私の気質はどちらかと言えばいまみたいなものなので。どうぞもうお帰りになって」

「ずるいよそれ」ユキは思ったままを口に出した。踏み鳴らすように落ち葉を蹴散らして進み、扉に指を突きつける。アカゲラのように何度も扉の木目を突つきながら、「そんな言い方されたら、はいそうですか、なんていかないでしょ。帰れるわけないでしょ。それ解ってて言ってるでしょ。わたしが子どもだからってバカにして、あなたもけっきょく村の大人たちと同じじゃない」

「そんなつもりは」

 ない、とつづく前にユキは言った。「だいたい、なんで外に出てこないの。わたしはあなたにわたしの一番大事な友達を紹介したかっただけなのに、なんでああいうことをさあ」

 知れず涙が溢れていた。

 何が哀しいのかじぶんでもよく解らなかった。

 善意を踏みにじられて感じたからか。それとも、虎の気持ちも考えずにじぶんかってに行動して虎を傷つけたからか。

 どちらもある気がした。

 ユキは一度だけぐいと目元を手首で拭い、歯を食いしばって涙腺を圧迫した。ユキは思う。こんな顔も知らぬ相手のために流す涙などわたしにはない。

「あなたのさっきのは、わたしには意図して威圧したように聞こえたよ。あなたの本当がどうかは関係ない。あなたに虎を会わせようとしたわたしが愚かだった。あなたがわるいわけじゃないから気にしなくていいよ。これはわたしの問題で、わたしがわるいのだから」

 そんなことは露ほどにしか思っていない。本当は扉の向こうにいる彼女がわるいと思っていたし、傷つけるつもりでそう言った。彼女が虎にしたことをお返ししたのだ。真似をしてみせた。

「ごめんなさい」声の主は緘黙した。

 ユキはしばらくそこに佇んでいた。待っていた。まだ相手は扉のそばにいる。つぎに何を言うのかに関心があった。ユキのなかでわだかまった感情の渦は徐々に、怒りとして結晶しつつあった。

 だから蔵の中の彼女が、「もう行った?」とひとしきり間を空けたあとで言ったのを耳にして、怒髪天を衝いた。「いるよ。ここに。さっきから一歩も動いておらぬ」

 おらぬ。

 なんて儼乎な響きであろう。よもやじぶんの口から飛び出してくるとは思わなかっただけに、ただそれだけでユキの怒りはすこし融けた。

「もういい加減そっから出てきなよ。これ抜くよ。邪魔」

 閂に掴み取り、一息に引き抜こうとしたがこれがまた固いのだ。威勢よく啖呵を切った手前、是が非でもすぽんと滑らかに抜きたかったが、上手くいかなかった。

「何これ。壊れてんじゃないの」

 ユキは扉を蹴った。

 するとその奥で、

「うふふ」

 声の主が楽しんでいるのが判った。たぶんきっと、とユキは想像した。脚なんか綺麗に揃えて崩して座り、口元に手を添えて微笑んでいるに違いないのだ。ユキの祖母が生前、そのように笑う人間だった。それをして村の者たちは、ナツさんは上品だ、としみじみ評していたが、きっとこの扉の向こうにいる人物も同様の上品さを雄雉の羽のように振りまいているに相違なかった。

 いやらしい。

 そうやって振る舞うことで得られる利を承知しているからそのように小細工を弄するのだ。それに比べて、虎のあの隠し事のなさはどうだ。じつに堂々としたものだ。

 虎のほうにじぶんを重ねてユキは、蔵の中の人物を指弾した。

 あなたは卑怯だ、と。

 最初からわたしが扉を自力では開けられないと知っていながら、あたかもわたしの気の持ちよう一つで開けられると嘘を植えつけた。わたしはそのせいで、あなたをここに閉じ込めたままで帰ったことをずっと気にすることになったのだ。

 もしも最初から――。

 最初から、扉が開かないことを教えてくれていたのならそんな気分のわるい目に遭わずに済んだのに。

 そこまで怒気交じりに唱えて、はたと思考が途絶えた。笹の幹を刃物で割るときに、節に引っかかったときのような躓きを覚えたのだ。

 その躓きの正体に思考を割いていると、

「だから言ったのよ」

 むつけたような声が聞こえた。扉の奥からだ。くぐもっているのは声の主が扉に背を預けているからかもしれない。声の響き方一つでユキには相手の姿勢が判るようだった。

「私はちゃんと言いました。もうこないほうがいい、私のことは忘れてちょうだいと」

「わ、わたしのせいにしたぁ」

 怒りより先に呆れた。反省の弁の一つでも口にしたのなら水に流してやろうとも思ったのに。ユキは先刻浮かべた躓きへの疑念を忘れて、一瞬で扉の奥にいる人物のことが嫌いになった。なぜこんな相手に大事な虎を会わせようと思ったのか。

「寂しそうだと思ったんだもん」ユキは悔しさのあまり何度も地面に足の裏を叩きつけた。「ずっとここに入ってたら寂しいかなって思って、だからわたし、わたし」

 扉の奥で声の主がくすくすと息を押し殺すように笑っている。しかしユキの知覚は視力のみならず聴覚も優れていた。扉一枚隔てた程度では筒抜けもいいところであった。

 何かを言ってやりたかったがユキは唇を一文字に結んで蔵に背を向けた。

 もう何も聞かせてやらない。

 相手をするだけ無駄だ。

 そのままスタスタと落ち葉の絨毯を蹴散らすようにしながらユキはその場をあとにした。籠を拾いあげるのも忘れない。

 虎は放っておいても夜には村に戻ってくるだろう。ひょっとしたらすでに一人だけで村に帰ったのかもしれない。

 帰り道は楽だ。笹の幹についた印を辿るだけで村に行き着く。

 村に近づけば近づくほど、どの笹にも印が見えるようになる。村を中心に円形に印が集中している。そうして何年も、何十年も掛けて笹森の迷宮は、単なる迷宮ではなく、流浪の民たちにとっての安住の地となったのだ。

 笹森の内にいる限り、追手に怯えずに済む。

 ユキはそうと年長者たちから聞かされているが、産まれてから一度も見たことのない追手の存在を前提とした日々の暮らしは、まるで見えない鎖でがんじがらめにされているような窮屈さをユキに強いた。それは村の掟とも無関係ではなかった。

 そうせざるを得ない何かが過去にあったのは分かる。

 だがユキたちにとってその何かは、未だ到来しない、見たことも触れたこともない何かなのだ。ならばせめてその脅威がどんなものなのかを体感させて欲しい。

 ユキはずっとそう思ってきたが、それは暗に絶対に怪我をしない方法で危険な目に遭わせろ、と言うようなもので、じぶんでも口にすることすら嫌悪する我がままにほかならなかった。

 一方でこうも思う。

 それと同じ我がままをみなは虎に強いている。絶対に安全に手に入る、しかし本来であれば犠牲を覚悟しなければならないほどの利を得るために、わたしたちを信用しきっている家族の、虎の死を望む。

 そしてその後に、虎の肉を食らい、生き永らえようとしている。

 なぜ一方のみがいつも不条理を押し通せるのだろう。そしてこの思いは、たとえ言葉にしたところで村の年長者たちには届かないのだ。

 ならばユキのほうとて、同じ不条理を押し通してもバチは当たるまい。

 そうと臍の周りに力を籠めてみるものの、いつも村の者たちをまえにするとその我を通そうとする意志が萎えるのだった。なぜかはじぶんでも分からない。ひょっとしたらじぶんがそこまでして村に何かをしたいとはもはや思わなくなっているのかもしれない。

 最年少にしてなぜユキが食料調達の任を率先してこなしているかと言えば、それは村への恩でもなければ義でもない。ただただ虎を失いたくないとする執着であった。手放したくない。そばにずっといて欲しい。

 だがそんな一つの望みすら叶わない。

 叶わないことで負う穴の深さを、おそらくユキ以外の者たちは誰一人理解することはない。いいや、それを言うなればじぶんも同じだ。村の者たちがなぜ平然と理不尽な選択を他者に迫るのか。その心などとうていユキには理解できないのだ。推し量り、きっとこうだろう、これくらいの道理であろうと鑑みる己があるばかりだ。

 籠は、馴染みの大人に食料ごと手渡した。押しつけた、とそれを言い換えてもよい。どの道、配分の権限がユキにはない。

 肩の荷を下ろしたその足でユキは、村を一通り見て回った。虎は檻の中にいた。村に着いてさっそく誰かに入れられたのだろう。虎は従順だ。村の中の誰かに牙を剥くことはない。

 虎は寝ていた。身を丸め、まるで床に積みあげた毛皮の塊のようだ。ふと本当に生きているのか不安になった。死んではいまいか。ユキは笹の幹を幾重にも編みこんで造られた檻の隙間から手を差しこみ、虎の毛に触れた。

 虎の尾が一瞬跳ねて、土を打つ。

 虎は目をつむったままだ。

 尾の動き一つを目にしただけでユキは、胸の中にわだかまっていた怒りの塊がすっかり融けるのを感じた。たったこれだけのことでいいのに。これしきのことがもうすぐユキの日々から消え失せる。

 夜。寝床に包まり、ユキは思う。

 いっそ虎を連れて、どこまでもどこまでも旅をしようか。笹森の果てが本当にあるのかどうかすらユキは知らない。おそらくあるだろう、とは考えている。ある地点よりも奥に行くと、笹森の天井と空との境に山岳が見えるからだ。そこには笹は生えていない。きっと山の奥にも世界はつづいている。

 流浪の民はそこからやってきた。

 ユキの祖母たちはそこから逃げてきたのだ。

 いったい何から逃げたのか。

 ユキにはよく解らないでいる。敵がいた。同じ人間だ。獣ではない。ならば話せば争わずに済むのではないか。思うがいつもそこで、じぶんと村の者たちの関係を思い、たしかに解り合えぬこともあるだろう、と考えを曲げる。

 しかしだからといってユキは村の者たちと諍いを起こしたりはしない。できるだけ誰も傷つかない道を探そうとする。

 虎のこととてそうだ。

 人間ではない。虎は獣だ。たしかにそうだが、虎とて村の一員だ。ならば虎にだけ有無を言わさず不条理を押しつけていいわけがない。擦りつけていいわけがない。

 解かっている。

 ユキだけがそれを解っている。

 そのことがどうしようもなくユキの心を笹の葉のざわめきのようにささくれ立たせるのだ。さざ波のように、消えぬ細かな傷をつけつづける。

 この晩、ユキは夢を視た。

 じぶんが虎になった夢だ。細かな間隙の開いた檻の中にいる。檻は頑丈だ。外に出るためにはほかの誰かに出してもらわねばならないが、しかし虎を外に連れだすのはいまやユキしかない。だがそのユキ自身がいまは虎なのだ。

 これでは出られようもないではないか。

 尾を鞭のようにしならせて、檻の格子を打つ。格子は網目状に入り組んでおり、隙間はあってないようなものだった。

 誰かの足音を耳に留め、虎は――ユキは――寝たふりをした。

 足音は檻のそばまでやってきて、突然にガンガンと大きな音を立てはじめた。岩か鈍器かで檻を叩いているのだ。

 ユキは驚いた。

 打撃音は檻の悲鳴のように耳をつんざき、ただそれだけでも拷問のようだった。

 だがそれでも音はやまない。

 ユキはびくびくと怯えたが、いくら待っても音が鳴りやむことはなかった。延々とつづくその執念に、ユキはやがて檻の外にいる人物の意図を察する。

 檻を壊そうとしている。

 あらん限りの力を尽くして。

 それでも檻が壊れないので、外にいる人物のほうでも苛立っている様子だった。しかしそれすらしだいに凪のような穏やかさに変わった。

 檻への打撃は当初のような猛烈な降雹じみたものではなく、打楽器のような単調なものに変わった。それでもどうやら檻の外にいる人物は手を止めるつもりはないようだ。

 ユキは思う。

 もういい。

 檻は破れない。

 もうやめたほうがいい。

 だが虎であるユキには唸り声を発することしかできず、その都度に檻の外の人物を余計に困憊させるだけのようだった。

 もし、とユキは想像し、おそろしくなった。

 もし、このまま檻が壊れず、それでもなお外の人物が諦めなかったら。

 じぶんは何もできず、ただ檻のなかでその光景を眺めているしかなくなる。

 じぶんのために懸命に、血を、汗を、時間を、人生を浪費している人物の余波を、互いにとって何の利にもならない不快な打撃音と共に聴きつづけるはめになる。

 何もできない。

 じぶんのためにここまでしてくれる相手にじぶんは、感謝どころか余計な真似をするなと、もはや憎悪すら募らせはじめている。

 だがそれすら、時間と共に霧散した。

 日に日に満身創痍になっていく檻の外の人物の様子を察して、ユキは、もういい、やめてくれ、と頭を抱えた。ついには悲鳴した。

 こんな目に遭うくらいなら。

 こんな目に遭わせてしまうくらいならいっそ。

 いっそ、最初から檻になど触れさせるのではなかった。

 寝たふりをするのではなく、初手で吠え、威嚇し、突き放しておくのだった。

 ユキはそうと深く臍を噛み、その痛みで以っていまさらのように低く、低く、腹の底から唸り声を発した。

 そこで夢から覚めた。

 網目状に組まれた天井が回転していた。だが数度目をしぱたたかせると、視界は安定した。

 悪夢を見た。

 喉がひどく乾いていた。

 水を飲みに、家の外に出ると朝ぼらけの天幕に一等眩い星明りだけが浮かんでいた。井戸で水を汲み、喉を潤す。

 寝床に潜り直すころにはユキの脳裏には、蔵の中の人物との会話が断片的に流れては薄れた。薄れた矢先から同じような場面がふたたび流れる。

 あの声の主は何度も、ごめんなさい、と訴えた。

 その上、急に態度を豹変させ、ユキに怒髪天を衝かせた。ユキはだから言った。

 もしも最初から――と。

 最初から、扉が開かないことを教えてくれていたのならそんな気分のわるい目に遭わずに済んだのに、と。

「同じだ」

 じぶんの声が村の者たちのつむぐ言葉のように、軽薄な響きを伴ないながら鼓膜に、頭蓋に響き渡った。ユキはもう一度ただ、同じだ、とつぶやく。

 陽が昇ってからユキは虎にも会わずに村を発った。

 親には数日村を留守にする、と告げてある。大物を仕留めるためにすこし遠出をする、と言うと、ユキの両親は、「果て印の外には出ては駄目よ」と言って送りだした。この手の遠出は初めてではない。いまは村の存続の瀬戸際でもある。

 齢十二という幼さよりも、目前の利を得る。

 賢いユキの親もまた賢かった。

 道中できょうの分の食料を確保し、ユキは蔵のある場所まで足を運んだ。印を見ずとも身体が道を憶えている。いっそ残した印を取り去ってもいいかもしれない。なぜそう考えるのかも分からずに、合理のない考えを巡らせた。

 この行動そのものが合理ではない。

 ちぐはぐだ。

 何の利もない。そのはずだ。

 これは誰にとっても利のない選択だ。今朝見た悪夢の再現でしかない。

 悪夢の中ではユキは虎だった。檻に囚われた虎だ。

 だがいまは檻の外の側からの視点で、檻を、蔵を叩こうと思った。

 それが蔵の中の本意ではないのだとしても。

 ユキはいまいちど、初心に戻ってやり直すことにした。だって、と口元をきゅっと結ぶ。だって、寂しそうだったのだもの。

 駄目だと言った。記憶がたしかなら蔵の中の人物は、閂を外そうとしたユキを引き留めた。それに触れるな、と。触れたところで開かぬそれに触れてはいけない、と。

 その癖、最初に声を掛けてきたのは彼女のほうからなのだ。

 いや、しかしそれはどうだろう。

 思えば彼女は案じていたのではないか。すでに記憶が曖昧だ。なぜ彼女は蔵の中から声を掛けてきたのか。

 あなたは一人なのか、ほかの者はないのか。そう問われはしなかったか。

 じぶんはひょっとして、心配されていたのか。

 ユキははっと息を呑んだ。

 己が血の繋がった両親からもはや向けられなくなって久しい感情を、あのとき蔵の中の人物はユキに注いでいた。

 いや、違う。

 これはさすがに夢を視すぎだ。

 そうじゃない。きっとそうじゃない。

 何度も否定し、蔵の中に閉じ込められた者の本懐を喝破しようと試みるが、どの道、他人の心など解るものではない。じぶんの心とて解らぬのだ。どうして他者の本音が解ろうものか。解るはずもないのだ。

 蔵の見える位置にまでくると、動悸がした。緊張している。しかし今回のこれは、初めて蔵の中からの声を耳に留めたとき――三日前のあのときとは違っている。

 恐怖ではない。

 不安だ。

 誤解されるかもしれないことへの、不安だ。

 じぶんがきっとそうしてしまったように、蔵の中の人物、彼女から誤解されることを怖れている。

 二の足を踏んでいると、蔵のほうから物音がした。

 何かが扉にぶつかるような音だ。蔵全体が怒号のような激しい振動を放っているようだった。笹の幹が音に呼応して、一挙に枝葉を揺らした。枝葉が揺れるたびに、シャンシャンと幾千万の鈴のごとく音色が鳴り響いた。笹森全体が震えているようだ。ユキはその轟音と音色を耳にして、雨の日を思いだした。雨を葉にずっしりと蓄えた笹を蹴ると頭上からは、星空のような雫の落下する音を耳にできた。

 何かが蔵の中から扉にぶつかっている。

 ユキの脳裏には、体当たりを繰り返す怪物の姿がぼんやりと浮かんだ。虎がぶつかってもこうはならない。もっと強大な何かだ。

 蔵の扉は閉じたままだ。閂は掛かっている。外れてはいない。

 ならばいま蔵の中にいるのは。

 尋常ならざる音を奏でている強大な何かと。

 そして。

 例の柔和な声の主だ。

 ユキはそうと瞬時に判断した。よもや蔵の中には一人しかおらず、この破壊的な轟音を柔和な声の主そのものが立てているとは考えなかった。それはそうだ。明らかにこれは人間の立てられるような音ではない。響きではない。振動ではなかった。

「助けなきゃ」

 口を衝いていた。身体が動いた。つま先で土を掻き、駆けた。どんどん勢いを増し、ユキはいっとき虎となる。

 最後の一歩で跳躍し、両の腿を中で閉じて、扉に足の裏からぶつかった。飛び蹴りだ。齢十二の小娘の蹴りだ。衝撃はたかが知れている。

 案の定、扉は無傷のままで、ユキのほうがその場に肩から落下した。

 痛めた肩を庇いながら上半身を起こすと、蔵からの轟音は止んでいた。

「だ、大丈夫」ユキは尻餅をついたままで叫んだ。「名前、名前教えないからこういうとき困るんだよ」と脈絡のない苛立ちを吐露しながら、「中にいるんでしょ、いまの何、物凄い音してたけど」と立ちあがる。「ねえ、返事してよ。聞こえてるでしょ。やいおまえ。いまのガンガンうるさくしてたやつ。出てこいよ。わたしが相手になってやる」

 扉には閂がしてある。容易にはでてこられまい。

 そうと判っていながら、しかしそんな考えなど毛頭なくユキは蔵の中に啖呵を切った。「出てこいよ。そんな狭いとこいないで、こっちこい。できるだろおまえなら。その扉ぶち破ってでてこいよ」

 そうだとも。

 ユキはそのためにここに来たのだ。

 蔵の扉を開ける。

 中から声の主を助けだす。

 化物の処遇はどうしようもないので、扉が開いたら二人して一目散に逃げればいい。何だったら、とユキは考える。じぶんが囮になって化物を引きつけ、そのあいだに蔵の中の声の主には逃げてもらえばいい。

 そうだ、それこそ正解だ。

 ユキはことさら蔵のまえで挑発した。使ったことのない罵倒を唱え、いつも心の中に仕舞ったまま空虚の肥しにしていた村の者たちへの不平不満をそのまま口にした。

 これで怒らねばいったい何に怒るだろう。仮に逆上しなければそれは化物ではなく笹ではないか。笹はユキたち人間が何をしても、どう伐り倒そうとも泰然自若といつも黙ってそこにある。

 喉がひりひりと痛み、息が上がってきたころ、ユキははっと我に返った。蔵はしんと静まり返っており、鳥たちのさえずりが距離感も曖昧にあちらこちらで聞こえていた。雲の影が、足元の木漏れ日を横切っていく。

 蔵のある一角は天上が拓けている。ここは明るいのだ、とそんなことにユキは初めて気が付いた。

「ふふっ。もう終わり?」

 蔵の中から声がした。柔和な響きはユキの膝をその場に崩すのに充分な暢気さを湛えていた。「もうなんだよ、無事なんじゃん」

「あら。心配してくれたのかしら」

「そりゃもう」ユキは脚を引きずるように這って扉のまえまで移動した。「心臓張り裂けるかと思ったもん」と扉に寄りかかった。座り、背を預ける。「というか何度か張り裂けた」

「まあたいへん。どうしてきょうはお友達は一緒じゃなかったの」

「追い払った人が言うことじゃないよ。ねえ、さっきのってなんだったの。あの音は何。化物かと思ったよ。そうそう、早く名前教えてよ。名前知らないから化物相手に悪口言っちゃった」

「うふふ。聞いていましたよ。とっても傷ついちゃったな」

「違うよ。化物に言ったの」

「そうでした、そうでした。ところでどうしてまた来たの。ひょっとして失くし物でもしちゃったかしら」

「あ、それは、えっとねぇ」

「うん。どうして?」

 扉に寄りかかりながら話していると、まるで先刻目の当たりにした蔵の絶叫じみた光景が夢幻に思えた。眩暈や耳鳴りを、あり得ない化物の存在に重ね視てしまったのではないか、と段々と現実味が薄れていく。

「違かったら違うって言ってね」ユキは前置きしてから言った。「もしかしてさっきわたし、一人で悪口叫んでた?」

「さあ。どうでしょう」

「ねえってば。ちゃんと答えて」名前だってまたはぐらかされて教えてもらってない、と首をひねってまっすぐ扉に声をぶつけると、「ユキさんには何がどう視えていたのかしら」と聞き返され、ユキは耳が熱くなった。「分かった。もういいです」

「ユキさんはひょっとして、何もないところで何か視えちゃいけないものでも視て、それであんなひどいことを私に向かって叫んでいたのかなぁ?」

「もういいって言った!」

「うふふ。いじわるしちゃった。代わりにいいこと教えてあげちゃおっかな」

「んー」膨れてからユキは言った。「なんだろ。そっちの名前とか?」

「昔々のお話です」

「げぇ」そんなの聞きたくない、と抗議するより先に、蔵の中の人物は柔和な声から陽気を消して言った。「昔々、あるところに一匹の鬼がおりました」

 ****

 昔々、あるところに一匹の鬼がおりました。

 鬼は自身が鬼であることにも気づかずに、目につくものを片っ端から手に入れて、じぶんの宝箱のなかに仕舞いこんでいました。

 山も川も野も空も。

 草も花も虫も獣も。

 鬼はそれら生きとし生きるすべてのもの、自然、世界そのものを慈しんでおりましたから、損なわれぬようにと堅牢な箱の中に仕舞いこもうと考えたのです。

 鬼はみなのためにしたことでした。

 鬼はみなのことが大好きでした。

 けれどもそれは鬼の中でのこと。

 みなは必ずしもそうではありませんでした。

 ある時、宝箱に閉じ込められた仲間を助けだそうと、山や川や野や空が、それとも草や花や野や獣が、徒党を組んで鬼に反旗を翻しました。 

 そこには人の姿も交っていました。

 鬼はじぶんによく似た姿の人をとびきりに愛でておりましたから、そんな人からも憎悪を向けられ心底に傷つき、怯え、隠れました。

 それでも鬼以外の神羅万象は、鬼と、鬼の持つ宝箱の効力を怖れて、手を緩めませんでした。執拗に探し、追いかけ回し、じぶんたちが受けた辱めと痛みを、そっくりそのまま返したのです。

 しかし鬼には身に覚えのないことでした。

 けれど現にそれは鬼がみなにしたことでした。

 鬼は怒りよりも憎悪よりも何より、哀しみの色に染まり、そして――我を失ってしまったのです。神羅万象の総じてを無に帰さんと、鬼は鬼の持ち得る力のすべてを解放したのでした。

 鬼の足元から順々に、まずは世界から花が失せました。

 つぎに川が。

 虫が。

 そうして鬼を追い詰めた側の神羅万象は竦みあがったのです。やりすぎた。鬼を怒らせてはいけなかったのだ、と。

 しかし我を忘れた鬼をまえに、成す術はありません。

 そこでみなは、鬼の宝箱に目をつけました。我を忘れた鬼はそれを手放し、いまは中身のからっぽの箱です。

 鬼に消されずに残った神羅万象は、鬼が正気に返る前に、宝箱の存在を思いだす前に、宝箱の中に閉じこもって、中から封をしようと考えたのです。

 鬼の宝箱は底なしです。中には、もう一つの世界が広がっていました。神羅万象はそこにもういちど一からじぶんたちの世界を築こうとしたのでした。

 ***

 そこで声は途切れた。ユキは声の主の語りに聞き入っていた。寂寥の滲む声音には仄かに笑みが乗っており、子守歌のように心地よかった。

 反して語りの内容は、漫然と漂う雲の流れのようで、とりとめがなかった。いったい何の話で、それがいまどう関係あるのか。

 なぜいまそれを話されなくてはならないのかが解らなかった。

 しばらく待ったが、扉の奥からは物音一つしなかった。まるでいっさいが夜に沈んだかのようだった。

 ユキは怖くなった。しかしその怖さの出処がよく解らなかった。なぜならいま、ユキに迫る脅威はない。すくなくともいまこの瞬間は、頭上から注ぐ日向を全身に浴び、ぽかぽかと微睡に揺蕩うような心地よい眠気があるばかりだ。

 背には蔵の扉があり、その一枚隔てた向こう側には柔和な声の主がいる。

 蔵にはほかに扉はない。窓もない。

 ならばどうあっても消えていなくなるはずはないのだ。

 そうだとも。

 もし先刻の幻覚が、白昼夢が現実のものであるとするのなら、とりもなおさずそれは誰も出入りすることの適わない蔵の中に化物が侵入したということで。

 しかしそれはあり得ない。侵入する穴はなく、仮にそうした穴があるのならああも扉に体当たりをする必要がない。轟音を響かせる必要はないのだ。

 だからあれはやはりユキの視た白昼夢にすぎなかったのだ。

 ユキは懸命にそう思いこもうとした。

 しきりに浮かびたがる、よりあり得そうなもう一つの可能性を考えたくはなかったから。脳裏の奥底に沈めたままにしておきたかったから。

 だからユキはしいて欠伸をして、眠くなってきちゃった、と言った。「ねぇ。また何か話して。なんでもいいよ。そうだ、つぎはトラも連れてくるからさ、今度はいじわるしないで仲良くして」

「今度はって何かしら」声の主はやっと返事をした。「私は別にいじわるをしたつもりはなくてよ」

「ふうん」

「まあなんでしょうその気の抜けたお返事は」

「だってさ。お姉さん、いじわるじゃん」

「え?」

「いじわるでしょ。もう誤魔化す意味ある? ないよね。ないない」

「そうじゃなくって、いまユキちゃん私のことお姉さんって」

「だって名前教えてくれないんだもの。好きに呼んでいいって言った」

「うふふ」

「何で笑うの」

「違うのよ。うれしいの。うれしかったの。ありがとう」

 そこで彼女はなぜか不可思議な耳慣れない呪文を唱えた。

「鬼は外。愛は内。本当にそうだわ。そうなのよね」

「何がそうなの。聞こえなかったよ、もっかい言って。と言うか、お姉さんまで扉に寄りかかってるから声が小っちゃくてよく聞こえないんだよ」まるではるか遠くにいる相手としゃべっているようなもどかしさがある。「しゃべるならちゃんとしゃべって」

「ユキちゃんきょうは我がままさんなんですね」

「名前一つ教えてくれないお姉さんほどじゃないと思う」

「そんなに知りたいの」

「だって不便だし」

「そういうものかしら。昔はみな、好きに私のことを呼んだから」

「へえ。なんて?」

 声の主は口ごもったが、ユキが逆さに十を数えだすと、「ゆうき」と鳥の囀りにすら掻き消されそうな、か細い声が聞こえた。

「なんて?」

「ゆうき、と言いました」

「それがお姉さんの名前? ゆうき、か。いい名前だね」

「そう思う?」

「うん。だってわたしも勇気のある人間になりたいし」

 虎を、守り通せるだけの知恵と勇気のある人間になりたい。

 ユキがそう言うとそこで蔵の彼女は押し黙った。沈黙の意図を悟らせまいとするかのようにいつもよりも弾んだ声音で、ありがとう、と彼女は付け足した。

 歯に物が挟まったような物言いだったので、ひょっとして、とユキはぴんときた。「名前、ゆうきってその【勇気】じゃなかったりして」

「そう、ね」

「ふうん。じゃあなんだろ。ほかにあったっけかなゆうきなんて言葉」

「ありますよ」彼女は誤魔化すだけ無駄なのだと諦めたように、ふふ、と息を漏らした。「幽かな鬼と書いて、幽鬼」

 ユキはずっと引っかかっていた違和感の正体にこのとき気づいた。

 ないのだ。

 笹森のなかにすらある、音の響く、その余韻が。

 反響する微細な音の揺らぎが。

 扉一枚隔てた向こう側、蔵の中からは聞き取れなかった。

「でもいまは」ユキの胸中に湧いた一抹の戦慄の念に気づいた様子もなく、蔵の中の人物、彼女、幽鬼は言った。「どちらが外か分からないのよ」

 鬼は外。

 愛は内。

 蔵の主はそう言った。

 ユキはそれを聞き漏らさなかった。



4188:【2022/10/22(10:48)*寝ろ!】

 百の壁に囲まれた国があった。そこには王が一人きりだった。王は毎晩必ずこう言った。「もう寝ろ!」

 百の壁に囲まれた国は、上も下も右も左も壁に包まれ、まるで棺桶のようだった。FIN.



4189:【2022/11/08(11:46)*世界一適当な人】

 とある山の火口には世界一優しい男が住んでいた。住んでいた、というのは誤謬があり、じつはまだ現在進行形で世界一優しい男はとある山の火口にいるのだが、世界一優しい男は世界一優しいので全世界の生態系のために、大爆発しそうな火口にいち早く注目し、ありったけの叡智を注いでそれを食い止めていた。

 世界一優しい男は世界一賢い男でもあったのだ。

 だが世界一賢い男は世界一優しい男でもあるから火口で噴火を食い止めているわけだが、彼は世界一優しいので、じぶんごときが世界一優しいで賞受賞間違いなしの地位にいつづけることに心を痛め、世界一優しい男をやめることにした。そのため世界一優しい男は噴火すれば全世界の地表から生態系が消え失せる未来を、一人とある山の火口にて阻止しながら、ありったけの語彙力を駆使して絶えず悪口を吐きつづけた。

 世界一優しい男は絶対に絶えず悪口を吐きつづけるなんて真似はしない。したがってこのときを以って、世界一優しい男は世界一優しい男の地位から転落した。

 だが同時に、かつて世界一優しかった男は絶えず悪口雑言を吐きつらねながら、とある山の火口にて全世界の未来を一心に背負い込みながら噴火を抑え込み、さらにじぶんが本当に世界一優しい男ではなくなったのかをチェックするためにやはり絶えず片手間に全世界の情報網をチェックした。

 日夜寝る間も惜しんで、悪口雑言を吐きつらねながらとある火口で噴火を阻止しつつ、片手間で高性能電子端末を操るかつて世界一優しかったかつ現世界一賢い男は、そうした尋常ならざる日々に身を置くことで、世界一タフな男の地位に昇りつめた。

 だがやはりかつて世界一優しい男だった過去が尾を引いて、世界一タフでいつづけることに呵責の念を覚えだし、さらには同様の理由からじつは絶えず口にしていた悪口雑言も、たいして人を傷つけるほどの殺傷力を秘めていない有り触れた小言の域を出ていなかった。しかしそれでは世界一賢い男としての語彙力に疑念が湧く。

 これによりかつて世界一優しかった男は、世界一タフな男の座を降りるべく敢えて怠けるようになり、それと共に元から大した悪口を唱えていなかった背景が加算され、けっきょくのところ何者でもない男ができあがった。

 大して優しくもなく、タフでもなく、賢くもない男である。

 否、もはや男であるのかすら疑念が湧いた。

 そうなのである。

 かつて世界一優しく賢くタフだった男は、世界一の美貌の持ち主でもあったのだ。

 だがやはり過去に世界一優しかったときの名残により、何の努力もなしに世界一をつぎつぎ更新してしまう己が能力に蓋をすることにして、かつてあらゆる世界一だった男か女かもよく判らぬ人物は、とある山の火口にて、全世界の生態系の未来を守ることもやめて、いったい何をしたかったのかも失念して、とぼとぼととある山の火口から下山した。

 だがかつて世界一賢かったころに発揮した噴火対策は抜かりはなく、もはや火口にいつづける必要すらなかったのだが、世界一タフであったことの名残により最も過酷な火口での生活を維持しつづけていただけだった。

 かつてありとあらゆる世界一だった男か女か、もはや人か生き物かも分からなくなった存在は、それでもよく考えてもみたら、未だに世界一賢いし、世界一タフだし、世界一美しいし、そうしたあらゆる世界一であることを投げ捨て、なお人であることすら擲った、男か女か人か生き物かも分からなくなった存在は、やはり世界一優しい男なのであった。

 男じゃん。

 いいえ、女かもしれません。

 いっそ人でいいじゃん。

 ただの人で。

 じゃあそれで。

 


4190:【2022/10/22(11:48)*幻の大陸――海里】

 千年に一度、満月は蒼く染まる。

 月が蒼く視えるのはしかし、地上ではとある海域に限られた。

 古文書によると、蒼い月から光がそそぐ海域には幻の大陸――海里が出現するという。これは世界中、どの古文書にも表現こそ違えど、似たような記述が散見された。

 海里出現が最後に報告された時期は、いまからちょうど千年前にあたる。つまりあと半年も経たぬ間に、蒼い月の昇る日が巡る。

 正確な日時や位置は不明だが、おおよその場所は特定されている。

 幻の大陸――海里には、この世のものとは思えぬ財宝や見たこともない生き物や技術が時間を超越したように混然一体となって存在しているそうだ。

 古文書の記述にどこまで信憑性があるのかは定かではないが、ともかく過去に沈没した大陸が再浮上する確率はそう低くはないと判断された。

 全世界が手を組んで、幻の大陸調査団が結成された。

 幻の大陸――海里出現を観測し、上陸して調査するまでが目的だ。どんな不測の事態にも備えるべく各国の優秀な研究者たちが集められたが、結果から言うと幻の大陸「海里」の発見には至らなかった。

 観測できなかったのである。

 時期が違うのではないか、との指摘はお門違いだ。

 なぜなら古文書の通り、蒼い月は現れたのだ。満月の日に、ある海域の頭上に昇った月は蒼く染まった。

 だが幻の大陸など現れなかった。

 それはそうだと全世界の人間たちが嘲笑し、大真面目に国家予算を費やした各国を非難しだしたが、世界各国はむしろさらにつぎの千年後を目指して幻の大陸「海里」の特別調査予算を確保した。

 月が蒼く染まる原理が不明であった点が理由の一つだが、そちらはおまけのようなものである。

 最も見逃してはならない理由は、蒼い月の昇ったその日、古文書の指し示す海域の天気は曇りだったことだ。

 そうである。

 月は蒼く染まったが、月光が海にまで届かなかったのである。

 世界最高峰の英知を集結させておきながら、誰一人として天候が崩れることを予測せず、対策すら敷いていなかったのである。

 このことにより、各国は汚名返上と威信に掛けて、幻の大陸――海里への調査機関を国際的に創設した。

 つぎに海里が出現するのは、いまから千年後である。

 それまでに人類は天候を操れる技術を編みだせるのか。

 つぎこそは徒労に終わらぬことを祈ろう。

 願わくは、蒼い月の浮かぶ海が晴れんことを。




※日々、韻を踏むより、陰を生む、ひびさんは言った「ひかり我!」。



4191:【2022/10/22(20:29)*情報をください。安心したいので】

mRNAワクチンはその原理上、脳関門を通過し得る。ウィルスがどうかをひびさんは知らないが、mRNAワクチンは脳内の細胞にも作用し得るのではないか、との疑念を抱いている。実際にmRNAワクチンの原理を用いて、脳内の疾患を治療する類の使用法も考えられているはずだ。国によってはほぼ実用化間近、或いは実用化されているのではないか。元々はがん治療のための新薬開発を目的に研究されていたそうなので(詳しくは知りませんが)、さもありなんだ。がんは脳にもできるので。またウィルスの死骸が身体に残留し、それが脳関門を通過して脳内に不純物を溜め込むことによる認知障害のような症状は、これも理屈としてあり得るのではないか、と妄想している。つまり、ウィルス本体だと脳関門を通過できないが、ウィルスの構造物の一部ならば脳関門を通過可能なのかもしれない。とするとそもそもウィルスに感染しないことが大事、となるはずだ。仮にmRNAワクチンに問題がなくとも、ウィルスに感染し発症しないようにする対策は、これは日常的に継続できたほうが好ましい。人混みに出るときはマスクをする、というのはこれからも習慣として残ったほうが公衆衛生の観点では好ましいのではないか。ただしそれを言うのなら、そもそも人混みに出向かないようにしたほうが効果は大きいし、人混みをつくらない都市設計にするのが最も効果が高い、と言える(ただしこれは、デモや集会をする自由を、憲法に違反しない方法で淘汰可能なので、それはそれで問題点がある)。ひびさんはmRNAワクチンの技術は優れた技術だと思っている。ゲノム編集技術と同じくらいこれから人類の「健康維持」に欠かせない技術となるだろう。だからこそ、不可視の穴はあってはならないと感じている。問いに対して、「検証していません」「見落としていました」とならないようにしたほうが、この手の優れた技術では、取り返しのつかない事態を防げるようになるはずだ。きちんと、技術を用いたときの「メリットとデメリット」を比較できるように、情報は公平に平等に発信して欲しいと望むものである。(なんとなくの妄想ですので、真に受けないように注意してください)



4192:【2022/10/22(21:00)*高度な技術は高度ゆえの問題が生じる】

人工知能技術は、人類の生みだした技術のなかでも複雑さという点で言えば群を抜いている。高度な技術であり、優れた技術である。だが数多の問題点を内包しているし、これからも可視化されていくだろう。たとえば同様の複雑さは、DNAにも言える。人工知能の深層学習では、たったワンセンテンスの違いで、全体の挙動に「初期値鋭敏性(つまりバタフライエフェクトを起こすような作用)」を及ぼすこともある、といまは徐々に判明してきたようだ。予測不能な結果を生むような傾向が、複雑な機構や技術には、本質的に備わっている、と言えよう。とはいえ、たいがいの小さな作用は、おおむねの回路によって影響が連鎖しないような流れが築かれている。だからこそ、複雑な構造体はその複雑な全体像を維持できるのだ。したがって、必ずしも「初期値鋭敏性」を顕現させる、とは言えない。だが生物の進化がDNA上のバグの発生を契機に段階的に進んできたように、複雑な機構や技術では、ほんのちょっとの予測できなかった干渉や躓きによって――つまり不可視の穴によって――それともデコとボコによって――全体の挙動が大きく歪むような結果に傾くことがあり得る。自発的対称性の破れが、そもそも複雑な構造体では起きている。それが何かの弾みで、ふたたび対称性を得ようとする流れを強化してしまうのは、これは熱力学第二法則と矛盾しない。むしろ、僅かな干渉によってなぜ「全体の連動――回路が崩壊しないのか」との疑問のほうが根が深い、と言える。他と干渉しときにその他を自らの系に取り込んでなぜ、自己は自己の回路を保てるのか。構造を維持できるのか。絵の具と絵の具を混ぜれば色は変わる。同じことがなぜ複雑な構造体では起きにくいのか。ひびさんはそれを、ふしぎだなぁ、と思っております。(え、何の話?)(絵ってさ。絵の具をすっかり混ぜきらないから絵なんだなって話)(壮大な話?)(単純であり、複雑でもある話)



4193:【2022/10/22(22:20)*我は蟻なり】

個性と多様性、リーダーと独裁の問題は似ていると感じる。社会が成熟し技術が進歩すればするほど、属性の差よりも個々人の差のほうが大きくなる。各々が独自のじぶんに最適化された環境で生きることができるようになっていくからだ。すでにこの手の傾向は情報化社会によって、物理的ではなく精神世界の涵養として昇華されているように概観できる。同じ問題を、リーダーについても思う。リーダーというたった一人の頭目がいる組織やコミュニティよりも、みながそれぞれの得意分野のリーダーであるような組織やコミュニティのほうが全体の機能を円滑に最適化しつつ、個々の能力を最大化できると妄想するしだいである。言い換えるならば、人体の細胞において、最も重要な器官や細胞が本当に存在するのか、といった疑問と通じている。何か一つそれさえあればいい、というものではなく、それさえ残れば復活できる、というものでもない。核があるではないか、脳があるではないか、との反論が飛んできそうだが、そこにあるのは優先順位であり、それだけあっても人体は人体として機能しない。人間は人間でいられない。脳の細胞が心臓にあっても困るだけだろう。指先にあっても困るはずだ。頭脳や心臓がいくら健康であっても、常に指先に痛みが走っていたら、やはりこれは問題だ。そのときは、指先の異常を優先して解決したくなるはずだし、そのほうが脳にも心臓にも負担が掛からない。あるのは優先順位であり、流れであり、それを生みだす抵抗であり、ラグなのだ。どこが最も崩壊しやすく、どこが最も頑丈なのか。空気が混入するだけで心臓は正常に働かなくなるし、油分が乱れるだけで脳は意識を保てない。他方で指先は豆ができようが、脂ぎろうが、問題なく機能し、ときに元の状態にまで復元される。だが指先は極寒の地では最初に壊死してしまう。凍傷になる。どういう環境であると崩壊しやすいのか、との差があるのみだ。どれも大事だし、どれもその領域にとってのリーダーだ。そういうことをこのところ、頻繁に連想してしまうことが増えてきた。ありきたりな考えだし、これはこれで問題点があるのだが(たとえば、優先順位と重要度は相関関係にある。切っても切れない。DNAを生き物の核として規定する考えも、これは長期的な視野では、さして問題とならない。むしろDNAが増殖し進化するための副次的な余白でしかないと、人体のほうを規定することも可能だ。したがって、必ずしも上記のリーダー像が正しいとも言えないのである)。むつかしい問題だな、と思いつつ、ひびさんはきょうもきょうとて怠けるぞ。リーダーなんかになりたくねぇずら。だれかひびさんの分のリーダーも代わりにこなしてくんなまし。人類みなリーダー。ただしひびさんを除く。



4194:【2022/10/22(23:07)*「う」の上の言葉】

あいうえお。「い」の上には「あ」があり、「あ」の下には「い」がある。「あい」は言葉であり、たった二文字に多重の意味を内包している。言語を考えるといつも、文字と発話の違いに驚かされる。明らかに文字のほうが情報量が多い。それを補うために、発話では、単純な発言内容のみならず、表情や間やボディランゲージなどの所作によって、情報量の不足を補っている。むしろ発話では、発言内容よりもより多くの情報を、後者の身体表現が担っている。別物とくくりたくなるほどに、文字と発話のあいだには隔たりがある。ひびさんは、文章で表現しようとすることを、口頭ではまず表現しきれない。むつかしい。かといって文章で表現したことを他者に読んでもらって、そこに込めた「なんかこういう感じ」といった内容を読み取ってもらえるのかも自信がない。だいたいいつも、「どうしたらもっと分かりやすく表現できるだろう、咀嚼してもらえるだろう」と悔しさ半分に、いじけている。その癖、身体表現で補えない分の情報を、文章上で多重に練りこんでしまったりもして、「いやいや、それを読み取れっちゅうんは無理だよきみ」とじぶんでじぶんに失望する。以前の日誌でも並べたことがあるが、ひびさんは小説において、言葉のリズムだけではなく、情報の強弱や緩急によってもリズムを生みだせないか、と試行錯誤してきた。「青でもなく赤でもなく緑でもない」と言えば、多くの者はしぜんと「黄色」を意識するだろう。極端な話、そういうことだ。これは西尾維新さんの初期の文章形態で顕著だった。この手の、情報(層)を重ね合わせることで、そこにはない情報(層)を浮き上がらせる表現手法を、できるだけ文字数を減らしつつ全体を圧縮して達成できないだろうか、と一つの方針として緩くではあるが、おそらくは目指していたのだろう、といまになってはそう思う。寄り目をして見ると絵が立体に視える両眼立体視なる技法もあるが、あれと似たようなものだ。ただし、「寄り目をせずとも「絵」は見えるし、寄り目をしたらほかのもっと別の絵柄が視える」との説明のほうが、いま目指している表現技法の方向性を端的に示していると言える。それができたら何かいいことあるのですか、と問われそうだが、とくに何もありません。痒いところに手が届くようになった、程度の恩恵でしょう。それをして、とんでもない恩恵ですね、と捉えるか、なんだそんなもんか、と捉えるかは、やはり人によるのでしょう。もし全身が痒くて痒くて仕方がないときは、この手の恩恵は金よりも勝ると思いますが、定かではありません。あいうえお。「い」の上の言葉は、「あ」だ。いま手元にある辞書で引くと最初に出てくる文字である。意味は、「我」であるそうだ。しかしひびさんは、「い」の上の言葉もよいけれど、「う」の上の言葉たちもステキだと思います。それを言いだせばキリがなく、ひびさんは「ん」の上の言葉たちも好きだよ。でもそれだと「ん」がぽつんとなってしまうから、そのぽつんをいっとうとびきりに愛おしく感じる。だからひびさんは、孤独が好きなのかもしれない。ぽつん、が好きなのかもしれない。それはけして、「がらーんどーん」の孤独ではないのだが、しかしそうした「がらーんどーん」の孤独もときどきは好きだよ。苦手だけどね。ごめんね、と思いつつ、きょうの最後になるだろう「日々記。」を終えるのだった。ん。



4195:【2022/10/23(01:56)*ぽつん、は違国日記から】

上記、ちょっぴり言葉足らずだったかもしれぬ。ぽつん、である人が好きというよりも、ぽつんが何であるかを知っていて、それを慈しめる人が好き、がちかい気がしゅる。じゃから、ぽつんでいつづけなくてもよいのだね。むしろ、ずっとぽつんは、がらーんどーん、なのだ。じゃから、ぽつん、から、ぽつんでない!になってもひびさんはそのぽつんだったぽつんさんも好きだし、またぽつんに戻ってしもうた、けんどもこのぽつんもなかなかね、と日々を味わえる人が好き。もっと言えば、じぶんがぽつんでなくとも、ほかの人のぽつんを見て、そのじぶんのものではないぽつんも好きじゃなぁ、と思える人が好き。なのであった。かもしれぬ。定かではない。



4196:【2022/10/23(02:27)*んが?】

量子もつれについて。自発的対称性の破れが、どちらでもよい状態からどちらか一方に傾き、その連鎖反応によって生じると仮定するとして。たとえば右巻きの貝がすべて右巻きだったり、カレーとヒラメの目がそれぞれ同様の生態でありながら目の付けどころが違ったり。この手の偏向というか、各種生物や自然現象の個性とも呼ぶべき対称性の破れは、量子もつれの破れと関係しているのではないか――との妄想を逞しくしてしまった。またこの解釈は、量子もつれが量子の共鳴現象で、本来は対となる量子が、「どちらがどの向きに渦を巻いているのか」は対称性を維持しており、つまりどちらでもよいのだが、観測者の干渉――すなわちほかの系との干渉――によって向きが固定されてしまうので、それゆえに量子もつれは、観測された瞬間に(すなわち干渉されほかの系と結びつくことで)、各々の状態が、観測者との関係で(すなわち結びついたほかの系との関係で)、規定されるのではないか。並べていたらなんだか、あまりに当たり前のことをただ小難しく言っているだけで中身がない気がしてきちゃったので、この妄想はここで終わる。(と言いつつもつづけちゃうけれども、自発的対称性の破れが、山の頂に乗った丸い岩がどの方向かに転げ落ちるのかは分からないが、仮に転げ落ちてもそれは対称性が崩れているわけではなくただ状態が変化しただけだ――山の形状は変わっていない、とする解釈であるのならば、分からないでもない。これは相対性フラクタル解釈と矛盾しない。岩を一つの系であり宇宙であるとするのなら、それを支える山は高次の構造に対応し、これは対称性を維持していると見做せる)(混沌が崩れて秩序が生じ、秩序ばかりになればそれは多様性を増すので混沌に向かう。しかしその混沌も極まればそれで一つの一様な場と見做せ、それはある種の結晶構造のような性質を帯びる)(こういうことなのではないのだろうか。よく解らぬが)(反転する値がある、境がある、としか言いようがない)(妄想ですが)(真に受けないように注意してください)



4197:【2022/10/23(02:54)*球面ドノミ・鱗・キューティクル】

上記を受けての妄想ですが。自発的対称性の破れを、球面上に敷き詰められたドミノである、と見做しましょう。このとき、右側に向けてドミノを倒すか、それとも左側に向けてドミノを倒すのかで、「鱗の流れの向き」が変わります。量子もつれのスピンの関係にも似ていますが、最初の一手によって全体の対称性が破れてしまうのは、これは宇宙開闢時の「なぜ物質と反物質は対消滅をしてなお、物質を僅かに残したのか」にも言えることなのではないか。つまりたまたまこの宇宙では、物質がわずかに残った。そしてマルチバース理論が正しければ、同様にしてこの宇宙からしたら反物質にあたる物質優位の宇宙もどこかにはあることになる。なぜなら、物質が残るか反物質が残るかは、たまたま最初の一手がどちら向きに倒れたのか、で決まるからだ。そして反物質を反物質と決めるのは、「その宇宙に占める物質の属性」で決まるのであり、この宇宙にとっての反物質の残った宇宙にとって、この宇宙の物質のほうが反物質である、と呼ぶことになる。関係性なのである。定かではありません。(妄想なので、妄想なので、本当に本当になんの根拠もない出鱈目なので、どうぞ専門家の方々の意見を参考にしてください)(そろそろ真に受けてしまいそうな方がでてきそうに思えて怖いが)(読者さんいるの?)(い、いるよ。めちゃんこ優しい奇特な方が)(神じゃん)(読者さまはかみたまー)(カニ玉みたいに言うな)(うへへ)



4198:【2022/10/23(03:17)*時間はドミノ?】

たとえば蛇の鱗を想像してみて欲しい。ヘビの鱗は、頭から尾に向かって滑らかに流れる。瓦構造になっている。髪の毛のキューティクルと同じだ。ヘビがとぐろを巻いても、鱗の向きで、どちらが頭でどちらが尾かを見極めることができる。とぐろの巻き方が、右巻きなのか左巻きなのかを考えたときにも同じことが言える。つまり、直接頭と尾を見なくとも、とぐろを巻いた蛇がどちら向きにとぐろを巻いているのかが判る。これは髪の毛でもそうだ。髪の毛でバネをつくったら、顕微鏡で「髪の毛バネ」の表面を見てみればキューティクルが滑らかに流れている方向を上にした状態が、そのバネの回転方向――巻きであると言える。他方、もしこの瓦構造(鱗やキューティクル)がなければ、渦を巻いた物体が「どちら向きに渦を巻いているのか」は区別がつかない。バネがあるとき、上と下の区別がなければそのバネの回りは、観測者がバネをどう持つのか、どう見えるのかで決まる。ひびさんの妄想ことラグ理論において――量子もつれが共鳴現象であり、かつ渦巻き状に螺旋を描いているのではないか、渦を巻いているのではないか、との発想はここに根差している。だがこの状態では「時間の概念」が生じない。決まるのはあくまで回転方向であるからだ。だからおそらく、時間というのは、この渦巻きにおいて瓦構造を帯びるくらいにドミノを敷き詰めた状態でなければ、時間の概念が生じない。言い方を変えるのなら、ドミノが倒れた影響が顕著に確認できない領域では時間スパンが異なって観測され得る。それはたとえば、人間にとってキューティクルは顕微鏡がなければ直に指でなぞって摩擦を感じなければ知覚できないように、それとも宇宙を一つしか認識できない人類がほかの数多の宇宙を認識できず、鱗(瓦構造)全体を知覚し得ないように。きっと蛇の鱗に住まう微生物は、同様の鱗が無数に段違いに組み合わさり、総体で流れを築いているとは夢にも思わぬだろう。それと同様のことが原子や原子核や電子や電磁波など、量子世界における微視的な領域や宇宙などの巨視的な領域で起こっているのかもしれない。定かではない。



4199:【2022/10/23(15:09)*読解もまた謎解き】

情報量について思ったことをメモしゅる。情報量と一口に言っても、そこには諸々の用途に合わせた意味が複数あるように思う。米のようなドットがいっぱいある状態や、それとも果物の盛り合わせみたいな多様性のある状態や、「ずばりこれのこと」と示すために付随するフレームの役割を果たす「例外」を多分に含む状態といった具合だ。小説において情報量、というときには、ひびさんは比較的最後の三つ目の意味で使っている。つまり、「ずばりこのこと」と示すためにはフレームが必要で、ここのフレームをいかに圧縮することができるか。これがひびさんにとっての情報量が多い、の意味だ。だからたとえば、「あい」とただ声にだしたとき。抑揚をつけずに言った場合に、その「あい」が「愛」なのか「会い」なのか「哀」なのか、それとも「藍」なのかは重ね合わせの状態で区別がつかない。この状態を「情報量が多い」と表現することもできるし、直観としてはそのほうが一般の意味合いとしては罷り通るように思うのだ。しかしひびさんはこの状態を、情報量が多い、とは見做さない。声に抑揚をつけ、指でハートをつくったり、それとも目元に指を添えて泣き真似をしたり、或いは空を見上げてみせたりと、そういう別の情報を与えることで「ずばりこのアイでした」とする。フレームをつくる。ほかの意味と区別をつける。これがひびさんにとっての、情報量が多い、だ。ただし、これはあくまで小説での話なので、ほかの場面ではふつうに「なんか雑然としていてどれがどれだかわかんない、散らかってる」のニュアンスで「情報量が多い」と表現することも多々ある。ここの言い回しの区別をつけたいな、とじぶんの表現力の至らなさにウジウジするのだった。ここでも情報量の多い表現ができないだろうか。(情報を圧縮する、がいまのところはしっくりくるかな)(意味の収束としてもよい)(定かではありません、の状態を、ちょっと定まった、にしたいぞ)(しかしこれもやはりそこはかとなく定かではないんじゃ)(言葉、めんどくしゃい)



4200:【2022/10/23(22:28)漢字の開きについて】

文字の開きについての所感です。ひびさんは読みやすくするためというよりも、情報を圧縮するために漢字を開いている。たとえば過去に用いていまは廃止しているじぶんルールには、それこそ「自分」がある。漢字で「自分」と書くときは幅広い誰しもに当てはまる「自分」で、そうでないずばり「わたくしでござい!」の「我が身」の意味での「自分」は「じぶん」と開いていた。小説で言えば、語り部が自身のことを示すのならば「じぶん」とした。そしてほかのキャラクターが自身を示すときに使う「自分」は「自分」のままだ。あとは「自我とは何か」の文脈での「自分」は漢字のままで使ったり(ここは負担の割に読み味をわるくすると気づいたので、いまはほとんどを「じぶん」と開いている)。こういう情報の区別をつけるためにひびさんは言葉を開いたり閉じたりしている。同様の使い分けには、「いま」「かれ」「とき」「ひと」「だれ」「ひとつ」「いちど」などほかにも色々ある。「ずばりこれでござい」のときは漢字にしたり、開いたりと、そこは基準が漢字なのかひらがなのかによる。たとえば「いま」ならば、ずばりこの瞬間を意味する場合は「今」と漢字にする。あべこべに「かれ」であれば、ずばりこのひとと示すときは開いて「かれ」にする。ここら辺が曖昧なのが「ひと」なのだが、これは手掛ける小説ごとに変わる。おおむねは、固有の人物を示すときは「ひと」と開き、そうでない一般的な意味合いの「人間」の意味では「人」とする傾向にある。また、「ひとつ」「いちど」も、複数あるなかでの一個や一回目を意味するときは漢字で「一つ」「一度」とする。そうでない「ひとかたまり」を意味する場合には「ひとつ」「いちど」とする(ただし、いずれもそこまで厳密ではないはずだ。表記ブレにも意図したものと処理しきれずにズボラになっている部分がある。ここはいまも試行錯誤しているところだ)。読みやすさ、という点ではむしろ、文字と文字の組み合わせで四字熟語ではないのに四字熟語になってしまいそうなときはどちらか一方を開いたりする。たとえば「結局前提が間違っている」といったケースや「その時彼は」といったケースなど、異なる意味合いの漢字が隣接してしまうときなどは、句読点「、」の代わりに開いたりする。同様の理由から、文頭にきたときのみ漢字にする、といった英語のようなルールもさいきんは取り入れている。それこそいま並べた「さいきん」も、文頭では「最近」とするほうが読みやすい(「今並べたように」よりも「いま並べたように」のほうが読みやすく個人的には感じます)。ただしこれもひらがなが多すぎるとこんどは区切りが判らなくなるので、それこそいま出てきた「多すぎるとこんどは」が、「多+スギルトコンドハ」のように単語の区切りの見分けがつきにくくなるので、バランスの問題だなとつくづく感じる。要は、情報を圧縮して、多重の意味のなかで「ずばりこの意味で使っています」となんとなくでも判ればよい。情報処理の負担を軽減できればよい。ひびさんが文章創作を判子遊びと形容するのはそういうことと通じている。漫画にちかい。なぜなら文字は元は絵のはずなので。一口に開くと言っても、それだけで技法が数多ある。開けばいいってもんじゃないよ、とはじぶん自身にも思います。定かではありません。定まるものなのかすら茫洋としており判らぬのである。誰か教えてたもー。ひびさんはそう思ったのだそうだ。まる。(「中」もけっこう迷う。物理的に袋の中にあるのか、それとも仲間の意味合いでの「なか」なのか。つまり、「犬の中には」ではなく「犬のなかには」とひびさんはします。これがカンガルーならば「カンガルーの中には」とすればそれは赤子が袋にいるのだな、と判る。でも、「カンガルーのなかには」としたら、カンガルーという種族のなかには、という意味になる。ただし、よほど「内部にいる」ことを強く示唆するとき以外は、「なか」にすることのほうが多いようだ。同様の使い分けは、「上」や「内」でも意識している)(ほかにも、「近く」であれば、距離についてならば漢字で、似ているの意味ならば「ちかく」と開く)(一番悩むのが「何」だ。これだけはその場その場で使い分けるしかない。「なに」なのか「なん」なのかですら変えたくなる。たとば「それは何?」と訊ねる場合。ずばりそれのことなのか、それとも漠然とした「よく分からないけどなんなのいったい」の意味合いなのかで使い分けたくなる。漠然としているほど開きたくなるが、どちらかと言えば発言者への印象操作で漢字にしたり、そうでなくしたりするほうが多い。開いたほうが幼く映るので。真面目な発言なのか、そうでなく甘えているのか、など場面場面で変えたくなる)(漢字の開きだけで一冊本が書けるはずだ。「一冊本」とここで結合してしまうのも気持ちがわるいが、これくらいは許容範囲内だ。なぜなら頭痛が痛いではないが、一冊と本を通常は同列に並べないので区別がつく。情報を圧縮する必要がないので)(句読点とて何種類か欲しいくらいだ。なぜないのだろう、とふしぎに思っています――という話は、森博嗣さんの本に書かれていたように記憶しておりますが)(ひびさんは、時間を意味する場合が「前」であり、方向を示すときが「まえ」である。ここは森博嗣さんと正反対と言えるでしょう)(その点、「わかる(なんとなく)」「分かる(漠然と)」「解る(厳密に)」「判る(識別可能)」の使い分けは、京極夏彦さんの使い分けを参考にしているでしょう)(ひびさんは、ほかの作家さん――とくに商業作家の方々よりも厳密ではありませんが)(自分語りでした)(補足:「最も」もですね。「一番」の意味ならば漢字、接続詞の意味合いならば開いて「もっとも」とします。ひびさんの場合、接続詞は基本的には開く傾向にあるようです)(その点、「治める」「納める」「収める」「修める」の使い分けが苦手で、毎回どれだどれだ、となります。語源を学んでいない影響でしょう。あとで語源を検索してみます)(言葉、むちゅかち)




※日々、一番の安全圏にいる、そのくせリスクを取る者たちをやっかんでいる、火に掛けたら秒で湯が沸く、それはやかんである、我、器の小さきやかんである、いまは夜、ちなみにこれは夜間である。



4201:【2022/10/24(09:45)ハロー効果の勝利】

 記憶を失くしたその男が、奇妙な体験をしたのは秋も更けた十月のことであった。

 男がなぜ記憶を失くしたのかについては主軸となる奇妙な出来事とは関係がないのでここでは触れずにおくが、男は目覚めると繁華街の路肩に寝転んでいた。

 肌寒さに身震いをしながら上半身を起こすと、からからと目のまえを空き缶が転がった。

 誰もいない。

 夜だというのにカラスの鳴き声が閑散とした街道に響いた。

 男はじぶんが誰であるのかを憶えていなかったが、自身が男であり二十三歳であり、そして何者かに追われていたことだけは憶えていた。

 命の危機を感じ、逃げていた。その焦燥感だけが男には残っている。記憶の底に沈んだその焦燥感は結晶して、水晶のようにキラキラと存在感を発していた。しかし男の精神は水ではないので、水晶の煌めきはトゲトゲしく男の内面をチクチクと刺した。

 逃げねばならぬ。

 本能のように刷り込まれた焦燥感に男は、すくと立ちあがり破けたジーンズを手で叩く。

 歩きだすと、地面の細かなブロックの段差を足の裏に感じた。男は靴を履いていなかった。

 辺りを見渡す。左右には建物が道を縁どるように建っている。壁面は地面と同じ細かなブロックで、あたかも地面が隆起してそのまま建物になったかのような外観だった。

 窓はすべて雨戸が閉じている。そうでない窓にはカーテンが下りていた。隙間から明かりが漏れている建物もあるが、中に人がいる様子はない。

 街灯が道なりに点々と建っており、いっさいの影の動かぬ景色は、絵画のなかに入り込んだようだった。

 ふと視界の端で何かが動いた。

 ぺたぺたと足音を立てながら暗がりから子どもが現れた。頭巾を被っており、手には小さな籠を持っていた。

 男はそのとき、じぶんが言葉をしゃべれることを思いだした。脳裏に、やあ、と誰かに声を掛けるじぶんの姿が浮かんだのだ。

 子どもは男の足元までくると、じっと両手で掴んだ籠を見詰めたまま動かなかった。何かを促されて感じたが、その何かが分からなかった。

「どうしたの。みんなはどこ」男は発声した。

 耳にしたじぶんの声は、思っていたよりも高かった。二十三歳のはずだが見た目はもっと幼いのかもしれない、とじぶんの顔形を思いだせないことに焦燥感はさらに募った。

 子どもの被っている頭巾はくすんだ茶色をしていた。ひょっとしたら赤なのかもしれないが、街灯の明かりの下では茶色に見えた。

 返事はなく子どもが動かないので、男は手を伸ばして子どもの頭巾をめくった。

 途端、子どもは機敏に面を上げた。男はぎょっとした。子どもの顔面は真っ青で、頬は窪み、片目が潰れて視えた。

 男は逃げだそうとして踵を返した。

 すると反対方向の道からは、ぞろぞろと大量の人間たちが歩いてくるのが見えた。みな一様に同じ速度で、ぞろぞろというよりも、マグマがゆっくりと進むような蠢き方をしていた。まえの人物を押しのけ、先頭に立つと立ち止まり、こんどはうしろから押しのけられ、と全体が一つの粘液のような振る舞いをとって映った。

 男は飛び跳ねた。

 この世のものとは思えぬ光景だ。

 元の進行方向に向き直り、男は得体のしれぬ集団から距離を置くように逃げだした。足元に佇む子どもはじっと集団を待っているようだった。

 男はただただ街を駆け抜けた。

 その後、男がどうなったのかはこの出来事とはさして関係がないので詳細を省くが、男はこの出来事がきっかけで精神に異常をきたして、生涯びくびくと日々を送るはめとなった。だが男にはそれで丁度よいくらいの過去があり、その過去を忘れてしまった以上は、やはり丁度よい塩梅であると呼べる。

 この日、男の体験した一夜の奇妙な出来事について男が真相を知ることは死ぬまで訪れることはなかった。それはその街がどこにあり、いったいいつであったのかを男が知らなかったからであり、また調べようとしなかったことに因がある。

 この街では毎年十月になると町全体で死者復活祭を行う風習があった。

 奇しくも男が目覚めた日がその祭りの日であり、その日は一般に「ハロウィン」と呼ばれている。むろん子どもの目は潰れておらず、こけた頬も化粧によるものである。




※日々、最も遠くに解を置く、解と誤とをいっしょくたにするかのごとく、誤すらも解とするかのごとく。



4202:【2022/10/24(09:56)*江戸の波の光は則る】

 江戸の海が荒れた。

 陸地にまで漁船が流され、泥に交じって魚や貝、果てはクジラまでが座礁した。

 日中に起きた海の異常であったが、それは夜までつづいた。

 段階的に、何度も大波が発生する。津波との区別がつかないが、地の揺れを感じた者は皆無だった。波だけが大きくなって押し寄せる。

 甚大な被害が出ていながら、天変地異の前触れではないかと囁かれはじめたその日の真夜中に、夜の帳と打ち解けた海面が突如として光り、夜空へと舞い上がった。

 光は煌々と太陽のように夜の浜辺を照らした。距離感が掴めないが、浅瀬から現れたのではない。それだけは明瞭であった。

 光はそれからしばらく海上に浮かんでおり、人々がそのあまりの眩しさに目を覚まし、各々の避難した土地から海を見た。

 人々の視界をいっとき占領すると、光は、ジグザグと不規則に左右にそれとも上下にと動き回り、すると何を思ったのか一瞬で遥か彼方へと遠ざかった。ともすればそれは、瞬時に小さくなって消えただけかもしれず、人々の間での認識にものちのちにまでその手の錯誤を元にした言い争いがつづいた。

 あるとき、その噂を聞きつけた遠方の殿様がわざわざ村々にまでやってきた。海の荒れた被害は甚大であったが、さいわいにも死者はいなかった。

 村人たちから話を神妙に聞いた殿様は、意見を仰がれ一言こうおっしゃった。

「じつに偉いことじゃ」

 村人たちはその言葉に、胸が救われた心地がした。天変地異の兆候かと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。殿様が言うのだからきっと吉兆だったのだ。

 その上、殿様は村に復興のための資材や人材を派遣し、さらには神社まで造らせた。これには村人たちは一様に感激し、遠い国と思っていた都への関心を強めた。

 それからというもの、村人たちは村の神社を中心とした規則や法令を誰が言うともなくしぜんと築きあげ、長らく安息な日々を過ごしたということだ。

 いっぽう、村から帰還した殿様は城にて家臣たちを集め、海岸で見聞きしたことを語った。

「ありゃあ偉いもんじゃった。すぐにでも手を差し伸べねば、噂が噂を呼び、都への反逆の意思を強めかねん。偉いことにならんうちになんとかせねば」

 家臣たちはみな平伏し、ははぁ、と言った。



4203:【2022/10/24(11:12)*偶然です、偶然】

みな、深読みしすぎ。そう読める、というだけのことでしかない。自然が人体が、現象が生き物の構造が、たまたまそう機能している、というだけのことでしかないように。それとも、たまたま機能してしまう構造があるのと同じように。(なぜならだって、定かではありませんので)(なぜ読める?)(うひひ)



4204:【2022/10/24(11:15)*ぽぽ笑む】

今朝、宮沢賢治の詩を初めてちゃんと読んだ。というのも、「春と修羅」と「双子の星」の朗読会の案内が目に入ったからだ。朗読ユニットだそうだ。手作りの冊子だった。聴きには行かないが、この手の宣伝冊子は好きだ。あとこういうイベントがあるんだな、と判るだけでほくほくする。で、たまたまその瞬間に、家にある宮沢賢治の詩集「宮沢賢治詩集:中村稔編(角川文庫)」が目に入って、手に取った。定価が300円とある。初版が昭和28年で、昭和60年の三十六版がその本だった。で、ひとまず「春と修羅」の「序」を読んだ。初めてちゃんと読んだ。最後まで読めた。ちら見で終わらずに済んだ。率直な感想は、「すごくない?」です。その詩がすごいというよりも、いまにつづく偶然の連鎖を感じずにはいられないこの世界が、すごくない?となる。そのようなことを詩に感じた。この手の「すごくない?」はでも意外と身近に溢れている。ひびさんが好きでよく見ている作家さんの表現はたいがいこの手の、「すごくない?」が溢れている。繋がっているように感じるのだ。ひびさん、独りじゃないかも、と思える。独りだけど、独りだから、独りじゃないかも、になる。定かではないが、その定かではないふわふわ感を含めて好きじゃな、になる。この手のふわふわを揶揄する意味で、ポエム、と言う者もあるところにはあるらしいけれども、ひびさんはでも、そのふわふわが好きじゃな。ぽえむ、の響きも、ほほ笑む、に似ていて好きじゃな。ふわふわぁ。シャボン玉みたいに中身のないすかすかだからこそ、ふわふわできることもある。定かではないけれど。にひひ。



4205:【2022/10/24*(15:07)*利はあるが、その利を利と思えぬ者もいる】

文章形態と文体は違う――と、ひびさんは考えている。したがって、自動小説創作AIが出てきても、ひびさんはとくに困らない。むしろ面白いひびさん好みの物語を読ませてくれるのなら大歓迎だ。ただしそれによってほかの好きな作家さんたちが困るのなら、それは困る。そちらの人間の生みだす面白い小説とて味わいたいからだ。ここは矛盾しない。面白い物語、読みたい、読みたい、になる。畢竟、いま市場に出回っているイラスト自動創作AIのように、AIチックな良質な小説が出回ったのならば、個性の強すぎる小説の価値が相対的に上がることになる。ジャンルモノや流行の題材を用いた小説はむしろ付加価値を減らすだろう。なぜなら人気のあるジャンルや題材ほど、AIを用いて小説を出力する個が多くなる道理となるからだ。学習データがすくないジャンルや文章形態ほど、付加価値が増す。これはあくまでビジネスで見たときの視点にすぎない。べつに付加価値が高かろうが低かろうが、表現する楽しさに違いはない。ただし、そうした付加価値の減退によって、表現することが苦しく思えるような環境が築かれることはあり得るし、この手の流れはAIの有無に限らずこれまでの社会にも漂っていた。問題は、どのような環境であれ、技術であれ、それが氾濫したときに、誰しもが純粋に日々の「じぶんだけの時間」を味わえる環境であるか、ではなかろうか。他を意識しなければよいではないか、との意見もあるが、それは強者の理屈に思える。他を意識せずに暮らすことができるのか、とまずは考えてみてほしい。そのうえで、意識せずに暮らせる、というのなら、それは単に周囲の環境からの恩恵にすら目を留めていない状態であると言えよう。ひびさんもこの手の視野狭窄にはしょっちゅう陥る。他を意識しなければよいではないか、ではないのだ。むしろ他を意識したほうがよい場面のほうが多いように思う。現にそうと意識したところでひびさんは他者に配慮できない。見落とし、失敗し、傷つけ、損なっている。よくもわるくも、孤独ですら一人では生みだせない。ぽつんではなく、がらーんどーん、になってしまう。或いは、むぎゅむぎゅの繋がりですら、がらーんどーんになり得る。いっぱいなのに、がらーんどーん、なのだ。じつにもどかしく、厄介な世界である。(要は、技術は使い方である、というありきたりな話と、表現はどうあってもその個ならではの揺らぎや波紋や紋様を帯びる、という話である。安心して表現すればよろしかろう。どうあってもついて離れない影こそをたいせつに。それはきっと、孤独のように、それとも欠点のごとく、ずっとそばにいてくれるだろう)(定かではない)



4206:【2022/10/24(15:08)*「むっ」も「無」も、有を生む】

邪魔が入ったことで得られた変化もまた格別である。



4207:【2022/10/25(00:43)*ね、ね、ねむい】

光速についてのメモ。たとえば太陽から地球はおおよそ八分で光が届く。光速を超えていけばどこかでラグがゼロになる。瞬時に太陽から地球まで光が届く。このとき、「光速がさらに速くなったらどうなるのか」については二通り考えられる。一つは、単純にラグがゼロからマイナス1になる。つまり、太陽から地球に光が放射されて地球に届き、地球の大気や地表において何らかのカタチで光が消費される。変換される。このとき、光速が速まりラグがゼロを超えたとき、すなわちマイナスになったときは、太陽が光って地球に届く前に、地球での変化や変換が先に起こる。光速を超えると、これら本来ならば届いたあとに起こる変化が、届く前に起こるようになる。光速を超えた速度がさらに高まれば、それだけ「先に地球で反応が起き、それから光が地表から逆さまに太陽へと伝っていき、太陽において光が科学反応として還元される。変換される。となる。もう一つは、ラグがゼロである限り、光速を超えてもラグゼロの境を超えられない場合だ。ただし、距離が延びるたびに光速を超えた分の速度が距離に変換され、本来ならば太陽と地球間のラグはゼロであり、そこからすこしでも距離が伸びれば、改めてラグが生じるようになるが、光速を超えているとこの距離が伸びても即座にはラグが生じなくなる、と考えることもできる。つまり、ラグゼロにはそれ自体に、限界範囲があり、ここからここまではラグゼロでいられる、といった境界値を持つ、と考えられる。まとめよう。光速を超えた場合に起こり得る事象としては――「時間が遡ったような挙動が光とそれによる反応が二つの系のあいだで起こるか」それとも、「ラグゼロを維持できる距離が蓄積されるか」のいずれかになるのではないか、との妄想である。ただしそもそもが光速には比率があり、なまなかな条件では超えることができないので、このラグがゼロの描写がどのような条件で適うのかがいまは想像つかないのだが。すべてのエネルギィや物質が光速で動くような世界であっても、ラグは生じるはずだ。定かではない。(久々に失神しそうな眠たさである)



4208:【2022/10/25(13:40)*光速超無限化現象】

上記を受けて。量子もつれが仮に一瞬で情報のやりとりを行っているのなら――ラグ理論による共鳴現象および同時性の概念で説明がつかないのであれば。これはもう、量子もつれにおける量子テレポーテーションは、光速を超えたナニカシラの作用によるものである、と考えるよりなくなる。前記事に並べた光速を超えた事象に起こり得る二つの可能性の双方で、量子もつれの不可解な事象は解釈可能だ。このとき、量子もつれが起こる範囲に限りがあるのなら――つまり、距離によって自発的に量子もつれが破れるようであるのなら、これはラグゼロの由来が、「光速を超えたことにより、ラグゼロを維持できる距離が蓄積される」がゆえ、と考えたほうが妥当となる。いっぽうで、もつれた対の量子同士が互いに光速を超えたナニカシラによって相互の作用を互いに「先取りしあっている」のならば、これは確かに量子もつれの解釈としては妥当だ。この場合は、光速を超えたナニカシラの速度が光速の何倍であるのかによって、量子もつれが維持される距離が変動すると想像できる。したがって、光速を超えたナニカシラによって量子もつれが起こっていると解釈する場合、いずれにしたところで量子もつれには限界値――すなわち成立する距離が存在することになるのではないか、と妄想できる。境界値がある。また、おそらく「光速を超える」ことで起こる事象は、相転移を起こす。光速を超えた領域は、ラグゼロの振る舞いをとるがゆえに、それら一帯が総じて「一個のそれそのもの」として振舞うようになると想像できる。ラグゼロの範囲に包まれた領域にある存在はどんなもの、どんな距離にある事象とて瞬時に相互作用を帯びるために、「全体でひとつ」という性質を宿す。ここには距離も時間もない。或いは、あらゆる距離と時間が混然一体となっている。まさにブラックホールの特異点のような性質を宿す。裏から言えば、ブラックホールの特異点では、それそのものが「距離も時間も超越した混然一体のひとつの世界」として振舞うと妄想できる。この一連の思考の筋道を含め、ここではこれをラグ理論による「光速超無限化現象」と名付けよう。光速を超えると超無限が一時的に顕現する、といった「超」がダブルになるネイミングである(よいお名前!)。(妄想ですので真に受けないように注意してください)



4209:【2022/10/25(16:38)*空へと舞い落ちる】

 全人類にはどんな個にも反領域があるそうだ。これは未来型量子力学という新たな分野で発見された粒子と反粒子の関係によって観測されたまったく新しい現象である。

 量子とは極小の領域における物質や時空の振る舞いを言う。波の性質と粒子の性質を兼ね備える。

 このとき未来型量子力学では、粒子は重力を反粒子は反重力をそれぞれ帯びると考える。

 現実に残った物質の多くは粒子であり、反粒子はすでに多くが宇宙の初期にほかの粒子と対消滅して消えてしまっていると考えられてきた。

 ところがだ。

 じっさいには、反重力として部分的に散在して、物質と時空との合間にエネルギィとして残留していることが観測された。

 このとき物質には己の反粒子に値する反重力がセットとなって存在することが示唆された。

 驚くべきことに、地球を構成する物質に対応する反重力は、同じくそのほとんどが地球に内包されているというのだ。

 これは量子もつれに距離の限界があることとどうやら無関係ではないようだ。従来の量子力学では、量子もつれは距離に関係なく、たとえ宇宙の端と端であれ働くと見做されてきた。いっぽう、未来型量子力学では、量子もつれにも距離の限界があると解釈する。ただしその距離の限界は、対の粒子をもつれさせるときのエネルギィによって規定されるため、大量のエネルギィを用いたもつれほど、その作用の有効距離を延ばすと解釈する。

 そのためどうやら地球上の物質に対応する反重力が、地球の外部に漏れることを防いでいるというのだ。限界があるために、外に拡散しない。

 反重力とはいわば斥力だ。引きつけるのではなく、反発しあう。

 だがその反発しあいながらも、物質との関係で限界値を持つために、どうやら地球上の部分部分にまだらに編成されるというのだ。

 反重力が作用する物質は決まっている。対応する物質にしか作用しない。対となる物質にしか作用しない。

 これは裏から言うならば、物質とて対となる反重力から距離を置くように地球内部では相互作用を連動させる。地表の物質とて例外ではない。

 反領域とはすなわち、物質それぞれが持つ対となる反重力のある地点を意味する。

 ここに一本の木がある。桜である。

 西暦2140年代に発見された希少種で、その名を「桜場一樹(さくらばいっき)」という。

 この桜、どうやら自身の反領域の上に根付いた稀有な樹であるようだ。

 通常、反領域の上に対となる種が落ちることはない。物質を跳ね返すからだ。寄せ付けない。

 だが偶然にも、ちょうど半々の割合で「物質と、反重力と対の物質」で構成された種が、たまたま自身の反領域の上に落下し、芽を萌やしたようである。

 これにより芽は、反重力の作用を受けながら、反発する物質を上へ上へとより蒸留させながら成長した。立派な樹となったころには、ごく少量であった反重力と対となる物質は、枝葉全体に散り、さらに細部へと拡散していく。

 するとどうだろう。

 この奇跡の樹と呼ぶべき「桜場一樹」は、桜の花を散らせるたびに、「落下しては浮上する」というふしぎな桜吹雪を生みだすのだった。

 はらはらと散った桜の花弁は、地表に落下するが、その地点には対となる反重力を帯びた土が領域全体に交じっている。そのため、重力よりかは弱いがそれを打ち消すことの可能な反重力を受けることになる。

 落下しては浮遊する。桜の花弁がトランポリンにでも乗っているかのような、それとも見えない糸で繋がれ、バンジージャンプをしているかのような、ひらひらぷわぷわを繰り返す奇妙な光景をつくるのだ。

 絶景である。

 こうして地表で唯一の、反領域が可視化された場として、奇跡の土地にして奇跡の樹――「桜場一樹」は、未来型量子力学の証拠として長らく語り継がれるようになる。

 観測されてから八十年目が経ったその日。

 満開の桜を散らしたとき、奇跡の樹は花弁を地面へ向けてただ舞い落とし、以降、桜が逆さに舞い落ちることはなくなった。

 樹から反領域と対となる原子がすっかりなくなったがゆえだと目されている。



4210:【2022/10/25(21:40)*コーラをお飲み。甘いで】

ひびさんはモテなさすぎてぽつんぽつんのぽん、ゆえ、夢の中で、好きなひとたちとかくれんぼとか鬼ごっことかして遊んでたら楽しかった。けんども、夢から覚めても、なんでかまだ誰かに追われたり、探されたりしている気がして、段々、「ど、ど、どなたです???」のおめめぐるぐるになってきおった。あんまりにひびさんがかわいかわいすぎちゃったばっかりに、好きなひとたちのフリをしたぬむぬむぐーんさんに目をつけられちゃったかな、引き寄せちゃったかな、と思って、ひびさんちょっぴり、キリリとして眼鏡さん人差し指で、ぐいっとしちゃったりするもんね。したっけ、ひびさんのお利口さん計画の狙い通りに、ぬむぬむぐーんさんたちが、「ありゃりゃ、こりゃかわいこかわいこかと思っとったのに、中身はコテンコテンのカチカチじゃったか」とかってに呆れて、渋そうな顔をしちょる。ひびさん、内心で、うひひ、とほくそ笑みつつ、またしばらく「キリリ」としてたら、こんどはどこからか、「お利口さんはいねがー、キリリのコテンコテンのカチカチっこはおらんかー」と全身記号に包まれたおっそろしい怪獣「カダイヤッタカー」が襲ってきよって、ひびさんはサボり魔じゃけん、「やってない、やってない、課題はいらん、課題はいらん」と魔除けの呪文を唱えて追い払ってやった。したっけひびさん、眼鏡を落として、かしこかしこさんの魔法が解けて、ただの怠け者ひびさんになってしもうた。ただのとんでもなくかわいかわいのひびさんだけ残った。ぬむぬむぐーんさんに気づかれぬうちにひびさんは、眼鏡がないのにも拘わらず目頭をゆびで、くいっとして、「サインコサイン二次関数」とそれがどんな式かも知らずにとりあえず唱えておいた。「1+1は2!」とついでに唱えて、ひびさんあったまいー、とご機嫌の本日のひびさんなのであった。天才とお呼び!(ウソ。きょう書店さんで立ち読みしてきて、プロさんのご本目にしたら、「表現力っつうのはな、こういうことを言うんだよひびちゃん」と圧倒されてしもうて、ぐぬぬ、となってしもうたのはここだけの内緒内緒なんですね)(語彙力欲しいが)(ご本読みて。読むぞ)




※日々、調子を見るたびひとまず飛び乗る、段差があるたび足で踏む。



4211:【2022/10/25(22:18)*ていてい】

賢いのもかわいいと思うが、なぜか賢いとかわいかわいと見做されぬ、可愛くてかしこかしこのかしこまりひびさんは損しとると思う人、手をあげて、ていほーう!(てい鳳凰!)(鳳凰を殴ったよ今このひと)(殴っとらん、殴っとらん)(ていっ!って言った)(言ったけども)



4212:【2022/10/26(16:02)*冬のコゴミ】

 千回巻くからぜんまいというそうだ。真偽はハッキリとしないけれど、山菜の王者と言えばぜんまいだ。

 しかし私が帰宅して籠を手渡すと、一息(いっそく)さんはやれやれと赤ベコのように首を振った。

「これはぜんまいじゃないよ」

「嘘でしょ」

 私は愕然とした。慣れない山道で散々目を凝らして摘み取ってきたこれがぜんまいでなければいったい私の採ってきたこのくるくるの草はなんだというのか。

「これはね。コゴミ。ぜんまいとどっちにも渦巻きはあるが、ほれ。コゴミにゃ産毛みたいな綿毛がないだろう。新緑だろう。綺麗だろう。あたしが所望したのはぜんまいであって、コゴミじゃないんだ」

「どっちも同じじゃないですか」

「コゴミは綺麗すぎる。灰汁抜きせんでも美味しく食べられるからね。あたしゃ灰汁が欲しかったんだよ」

「採ってくる前に用途を聞きたかったですよ。山菜ならどれでもいいと思うじゃないですか」

「ぜんまいとあたしは言ったつもりだがね」

「私にぜんまいとコゴミの区別がつくとお思いですか」

「付かない人間がいるのかい」

「こ、こ、に、いっます。目のまえにいてるじゃないですか」

 一息さんは丸く小さな老眼鏡を小指で持ち上げると、ふむ、と頷いた。「もういいよ。ご苦労さん。もう時間じゃないかい」

「はっ。もうそんな時刻でしたか」

 私は時計を見遣って、講義の時間が迫っていることを知る。

 お邪魔しました、と慌てて玄関口で靴を履き、けんけんになりながら転げるように家の外に出た。秋の風が私の身体の表面から一息さんの家の匂いを拭い去るようだった。

 もったいない、といつも同じことを思い、そしてすぐに忘れる。私にとって一息さん家での休憩時間は、まさに息抜きであり、現実を忘れていられる唯一の時間だった。

 軒並みの屋根の奥には大学の校舎が、ひょこ、と見えている。小走りで道を急ぎながら私は、一息さんと会ったのもこんなふうに道を急いでいた日だったな、とあの日のことを振り返っている。

 一息さんは六十だか七十歳の女性で、私の通う大学の校舎から一キロも離れていない地点に家を構えている。家の後ろ手には芒野(すすきの)が広がっており、さらに奥には山があった。山は森と繋がっており、言ってしまえば一息さんの家のある区画が住宅街と自然との境だった。

 私は講義の組み合わせに失敗して、毎週金曜日が二コマ目から六コマ目の最終講義までの五コマが空いてしまった。暇な時間をどうつぶそうかと半年のあいだ試行錯誤したがさすがに朝の十時から五時までの待ち時間は長すぎる。かといって家に帰るには、私の家は大学から離れすぎていた。バスで片道二時間かかる。

 折衷案として私は、大学近辺の地形を観察することにした。卒業論文のテーマを等高線の研究にしようと思っていたので、ちょうどよいと考えたのだ。等高線の研究とはいえど、私がやりたいのは輪切りと等高線の比較であり、もっと言うとそこからMRIやCTスキャンくらいに微に入り細を穿った等高線がつくれんじゃろか、と企んでいた。いまも企んでいるが、そのとき私は山に入る前に道路でこけて足を挫いた。

 空き缶を踏んだのだ。

 誰だよこんなところに捨てたの。空き缶捨てたの誰だよ。

 地面に尻を着けながら、痛くないほうの足でダンダンと地面を蹴っていると、おや、と庭から顔を覗かせたのが一息さんだった。

 一息さんは白髪交じりの灰色の髪の毛を団子に結っており、座った私が見上げると灰色の鏡餅が垣根に乗っかっているように見えた。

「ちょいとお待ちよ」垣根の壁から声がして、灰色の鏡餅が横に泳いでいく。

 間もなくして玄関口から背の低い女性が現れた。逆光になっており、顔がよく見えなかった。私はそのとき、手塚治虫の漫画「仏陀」に出てくるシッダルタのシルエットを脳裏に蘇らせた。というのも、まさに灰色の鏡餅然とした髪型が、漫画のシッダルタとそっくりだったのだ。

「大丈夫かい。おや、立てないのかい」一息さんは私の鞄を拾いあげると、新芽でも撫でるような手つきで砂を払った。私はたぶんその所作一つで彼女のことを信用したのだと思う。

「イタッ」

 立とうとしたが上手くいかなかった。足首を捻挫していると判った。傍目からでも一目瞭然なようで、一息さんは私の鞄を持ったまま、「時間はあるかい」と言った。私は戸惑って、どういう意図の発言か、と推し量っていると、一息さんは、「休んでいくといい」と自らの家の門をくぐり、玄関口のまえに立った。「歩けないほどの痛みなのかい。救急車を呼ぼうか」

「だ、だいじょうぶです」

 私は足を引きずりつつ、なんとか自力で立ち上がった。踏んだ空き缶も拾い上げておく。一息さんがその様子を目に留めて、事情を察したのか、やれやれ、と忌々し気に首を振っていたが、矢継ぎ早に私へと、災難だったね、と言いたげな眼差しを向けたので、私はもうそれだけで心が晴れるようだった。生まれて初めて憐憫とは何かを知った気になった。憐憫とは一息さんのあの眼差しのことだ。

 一息さんの家は和風の長屋だった。二階もあるがそちらは屋根裏といった塩梅で、どうやら一息さんも物置部屋として使っているようだった。というのも、私のためにわざわざ座布団を二階から持ってきてくれたからだ。

「黴臭いかもしれんが、ないよりかはマシだろう」

「ありがとうございます」

「いま氷水を持ってくるよ。待っといで」

「す、すみません」

「あんたが謝ることじゃないさ」

 居間は台所と隣接しており、奥で作業をする一息さんの姿が居間からも見えた。

「お一人で住まわれているのですか」私は部屋を見渡した。

「ほかに誰か見えるのかい」

「すみません」出過ぎた質問だったか、と恐縮すると、「あんたは、ちと人に気を使いすぎだね」と一息さんが戻ってくる。手にはビニル袋に入った氷水が握られていた。

「冷やしな」

「すみま――あっ」言いかけて、「ありがとうございます」と言い直す。

「無理して直すもんでもないさ」

 一息さんはもういちど台所に引っ込むと、自身の名と無職で暇なことをつらつらとしゃべって、それから間もなくしてお盆にお茶とおせんべいを載せて戻ってきた。

「家は近いのかい。この辺は何もないだろう。あんたの進行方向にゃ林があるだけだ。なら急ぎの用ってわけでもないんだろう」

 一息さんは鋭かった。

「講義まで時間があって、それで散歩に」

「ほお。あすこの大学かい」

「はい」

「無理に引き留めはしないが、時間があるならすこし休んでおいで。物凄い音がしたよ。あたしゃ地震かと思った」

「ふふっ」大袈裟だな、と思ったが、一息さんは、「本当さね」と念を押した。

 この日は時間いっぱいまで一息さんの家で休ませてもらった。私は一息さんのことに興味が津々に募っていたのだが、一息さんは私の質問には一言で応じる割にその返答は煙に巻くようなものが多く、あべこべに倍になって返ってくる質問に対応するのに私の思考は費やされた。

 しかし大学に入学してからというもの、私はもっぱら聞き役の立場でいることが多く、誰も私に質問を浴びせるなんてことがなかったので、この日はすっかり舞台の上の歌姫さながらに、じぶんに興味を持ってくれているらしい一息さんに私は赤裸々にじぶんのことを語っていた。

 というのも、どうせきょう限りでもう二度と会うことはないだろう、と思っていたからで、あと腐れのない相手にはじぶんの将来の夢だろうが恥ずかしい失敗談だろうが、ふだん誰にも言えぬ悩みとて遠慮会釈なく言えるのだった。

 一息さんは私の答えに大して目を輝かせることもなく、ほうそういうもんかねぇ、といった大樹然とした相槌を挟むばかりで、これがまた私には快適だった。ごくごくといくらでも雨水を飲み干す大樹の根を彷彿とし、私はことさら枯らしてはいかんな、と思って包み隠さずじぶんのことを披歴した。

 これがいけなかった。

 そろそろ時間じゃないのかい、と一息さんに促された私はしかしもはや講義よりも、きょうはこのまま一息さんとのぬるま湯に浸かったような時間を満喫していたい、との怠惰の念に身も心も染まりきっていたので、「きょうはもうサボっちゃおっかな」と冗談めかし口にした。

「授業料は安かないんだろ」一息さんはそこで初めて私に向けて語気を尖らせた。「そういうのはじぶんで稼いでから言うもんだ」

「は、はい」私は顔面をビンタされた気分だった。泣きそうだった。急に夢から目が覚めたようだった。

 帰り支度を済ませ、お邪魔しました、ととぼとぼと玄関口で靴を履いたが、足首が痛くてまごついた。

 履き終わると、一息さんが私の鞄を持っていて、はいよ、と手渡してくれた。「毎週こんな時間まで時間が空くのかい」

「はい。そうなんです。愚痴った通りです」この話題は御開帳済みだ。

「そうかい。ならまた暇だと思ったら休みにおいで。手伝って欲しいこともあってね。人手が欲しいと思っていたところなんだ。小遣い程度しか出せないけど、まあ気が向いたら、また寄ってくれ」

「いいんですか」

「嫌ならこなくていいよ」

 にひ、と私の喉から変な声が漏れた。両手で頬を押さえながら私は、じゃあまた来ますね、と約束をして一息さんの家を出た。

 それからというもの私は毎週金曜日には一コマ目の抗議に出席したあとは、一息さんのお家にお邪魔する習慣ができた。一息さんは庭いじりが好きで、晴れの日はたいがい私が家のまえに着くと垣根から灰色の鏡餅を覗かせて、いらっしゃい、と大してうれしそうでもない声音で挨拶をした。

 一息さんに旦那さんはおらず、結婚もしてこなかったようだ。

「そういうのはね。したい人がすればいい」とは一息さんの談だ。

「私はしたいです。白馬の王子様じゃないですけど、運命の赤い糸を信じているので」

「おや。新鮮だね。運命を信じるのかい」

「ダメですか」

「ダメじゃないさ。幸せなコだね、と思ったよ」

「え、そうですか。褒められた」

「幸せにおなり。幸せになるんだ。きみのようなコは幸せにならんといかん」

「なんですかそれ」ぷぷぷ、と私は口元を手で覆う。「一息さんは幸せじゃないんですか」

「あたしかい。あたしは幸せなのかね。じぶんではよく解らんよ」

 私はそこで彼女に、寂しくないんですか、と訊きたくなった。でもぐっと吞み込んだ。私より遥かに長いあいだ一人で暮らしてきた彼女に、私のような新参者が投げかけてよい質問ではない気がしたのだ。

「休憩……」

「またですか。いっつも思ってましたけど一息さん、ことあるごとに、【休憩……】とおっしゃいますけど、それはたぶん根を詰めすぎなんですよ。庭いじり」

「ほかにも仕事はあるさね」

「ならそのお仕事が、です」

「そうさな。そうだそうだ。まったくだ」

 一息さんは素直なのかひねくれ者なのか判断に困ることがあった。たびたびあった。彼女はいまでも私にとってよく解らないひとである。

 私が一息さんから頼まれる仕事はたいがい、買い出しや庭の枯れ葉の回収や、重い植木の移動など、お手伝いと呼ぶに似つかわしい可愛い仕事ばかりだった。その癖、その報酬がひと月で、私の食費が賄えるくらいの額を一息さんが寄越してくるので、私は初めて受け取った封筒をじぶんの家に帰ってから開けて絶句した。

 これではお気楽にお家に伺えないではないか。

「私は一息さんのお家には癒されに来てるつもりなんですよ」私はそうつぎの週に抗議した。「あんなにもらったら肩身が狭くてこれなくなります。なので半分はお返しします」

「なら来なければよいだろう」一息さんはにべもなく言った。お茶を啜ると、「そりゃあんたの正当な報酬だ。いらないなら捨てるなり、寄付するなり好きにしな。あたしに返すのはお門違いさ」

「あらそうですか」私はむっとして出した封筒を引っ込めた。「じゃあそうします」

 そう言ってその日のお手伝いであるところの買い出しついでに、一息さん用のお高い焼酎を購入した。台所に空の焼酎の瓶が溜まっていたので、晩酌好きなのは知っていた。

 何と言って渡せば突き返されずに済むか、と考えながら一息さんの家に戻ると、一息さんの姿がなかった。どこに行ったのだろう。私は居間以外の部屋をそのとき初めて見て回った。

 居間で待っていてもよかったが、年配者の一息さんのことが心配でもあった。

 襖を開けて覗いてみると、一息さんは奥の和室にいた。和室なのに洋風の椅子と机があり、一息さんはそこに腰掛けてこちら側に背を向けていた。

「あのぉ、ただいまです」

「おや、お帰り。きょうはいつもより遅かったね」

「あの、この部屋は」私は一歩部屋に入った。見渡す限り、壁という壁には習字が貼ってあった。それはどちらかと言えば、干してある、といった風情で、中には巻物のごとき墨絵もあった。山や花が描かれている。

 一息さんは振り返ると、小さな丸眼鏡をズラして私を見た。「趣味部屋さね」

「すごいですね。これ全部、一息さんが?」 

「ほかに誰か見えたら教えておくれ」

「透明人間がいるかもしれないじゃないですか」茶化しながら私は一息さんの背後に立った。机を覗き見ると、まさにいま書き終わったばかりらしい絵があった。

「墨絵ですか」

「さあてね。どういう流派なのかはじぶんでも判らんよ。見よう見真似。趣味だ」

「それにしてはお上手ですけど」

 構図が素晴らしい。荒さの一つ一つが総体で意味を持つように、紙に陰影を刻んでいる。一つ一つを見れば雑なのだけれど、その雑がふしぎと雑ではなく、全体にとって必要不可欠な濃淡になっている。

「こういう技法があるんですか?」

「さあ」

「本当に独学なんですか」目を見開いてみせると、一息さんは、おいしょ、と言ってわざわざ私を押し退けるように立った。「買い物は済んだんだろ。どれ。お茶でも淹れてやるか」

 居間に戻るとさっそく一息さんは台所に立った。私は買い物袋から品を出し、それを一つずつ収納棚や冷蔵庫に入れていく。分からない品は一息さんに訊ねるのだが、たいがいは、そこに置いといで、と指示がある。

「あのこれ」私は最後に焼酎を袋から取り出し、床にどんと置いた。思いのほか音が響いて、一息さんの肩が小さく跳ねた。「なんだいそれは」と灰色の鏡餅が横を向く。

「私のお金で買ってきました。大好きなお友達に喜んで欲しくって」

 じぶんで口にしておきながら顔から湯気が出た。たぶん本当に出てた。だってお湯が沸きましたよの合図のように火に掛かったやかんが蓋をカタカタカ鳴らしている。

 一息さんはつまみを回して火を止めると、手を伸ばした。その所作一つで、寄越しな、と言っていると判る。一息さんはたびたびこうして無言で言葉を発するのだった。威圧的でないのが奇跡的と言えた。

 一息さんは一升瓶を受け取ると、ふむ、とラベルに目を留め、こめかみを指で掻いた。それから腰に手を当て、「もらっとくとするか」と言った。

 ただそれだけだ。

 ただのそれしきのことで私の半径一メートル四方にはシロツメクサが生え揃うようだった。蝶とか舞っていた。蟻がよちよち列をなしていた。日向がぽかぽか心地よかった。

 私がそうして一人のぽわぽわ世界に没入しているのを尻目に一息さんはさっさと一升瓶を棚の上に置いて、お茶とお菓子を用意した。

「さ。休憩にしよう」

「あ、持ちますよ」

 一息さんはそそくさとお盆を持って居間に移動した。一息さんの背後を私は金魚の糞のごとく、モタモタしながらつづいた。

「あ。オコタの布増えてる」

「いま気づいたのかい」

「あったかくなってる。うふふ。やった」

「寒くなってきたからねえ」

 コタツの蒲団が三枚になっていた。厚手の一枚が増えていたのだ。

「さっきも座ったのに気づかなかったです。いいなぁ。あったかぁい。私の部屋にも欲しくなる。買っちゃおっかな」

「おや。小さいのでいいならうちにあるよ。あとで見せようか。欲しければ持ってきな」

「いいんですか」

「分解すりゃ抱えて持って帰れるだろ。お一人用炬燵さ」

「欲しいです、欲しいです」

「ゴミが一つ減る。うれしいねえ」

 一息さんの言葉には抑揚がない。どんな言葉も淡々と口にする。怒っているのか、呆れているのか、哀しんでいるのか、不貞腐れているのか。それを言葉の響きだけで聴き分けるのは至難だ。

 でも私にはなぜか一息さんの機微が判るようだった。ちなみにこのときの一息さんのそれは照れ隠しで、うれしいねえ、と言ったのも皮肉を装った本音なのだ。私はかってにそう思っている。

 先日のことだ。

 夏がやってきたのでつぎは秋だ、と流れる季節のごとく金曜になったので一息さんのお家にお邪魔すると、開口一番に彼女は、「一つ頼まれてくれないかい」と言った。

 玄関口で私が靴を脱いでいないうちから一息さんは、

「ぜんまいを採ってきて欲しいんだよ。お願いできるかな」とこめかみを掻いた。

「ぜんまいですか」

「すこし行ったところに土手があってね。道沿いに歩けばそれなりに採れるはずだよ」

「いいですけど、一息さんも散歩がてら一緒に行きません?」せっかくオコタに潜って一息さんに話を聞いてもらおう、とスキップ交じりにやってきたのに、せっかくの一週間の癒しの時間が一人で山菜採りはすこし嫌だった。せめて買い物ならば通い慣れた道だからよいが、知らない道で一人は寒さが肌に染みるようになった時節柄、ご遠慮願いたい思いが湧いた。

「あたしはあたしでやることがあるからね。まあ、嫌ならいいんだ。上がりよ」

「大丈夫です、大丈夫です。行ってきますよ。ぜんまいですよね。ちゃちゃっと採って戻ってきますんで」

「助かるね。ほれ、これに入れといで」

 籠を手渡され、前払い、とついでのように封筒をもらった。その場で開けて確かめるといつもよりすこし額が多かった。

「こんなにもらえません」と渋ると、「ならその分働いておいで」と送りだされて、私は唇を尖らせる。一息さんから渡された籠は手のひらサイズで、この籠を一杯にするのにぜんまいは五本もいらないだろうと思えた。

 こうして私は慣れない山道をたどたどしく辿りながら路肩の藪に目をやって目当ての山菜が生えていないかを探った。一時間くらい掛けて私は一息さんの家に戻った。一息さんは私のためにお菓子とココアを用意してくれており、私はオコタに浸かって、ひと仕事終えた達成感に浸りながら、お褒めの言葉を待った。

 籠を覗きこんでしばしの間を空けたのちに一息さんは言った。

「これはぜんまいじゃないよ」

「嘘でしょ」

 一息さんの説明を聞きながらじぶんでも端末で検索をして確かめた。たしかに違う。私が摘んできたのはコゴミであってぜんまいではなかった。ほかに渦を巻いた山菜は、わらびもある。一見すればどれも同じに見えるが、属からして違うようだった。

「すみません。お役に立てず」私はしょんぼりした。これぞしょんぼりの見本だな、と思いつつ、以前に目にした一息さんのお手本がごとき憐憫の眼差しを思いだした。

 私が顔を上げると、一息さんは湯呑みを両手で持ってお茶を啜っていた。湯呑みの底に手を添えて飲むあたり、茶道でもやっていそうな凛とした佇まいがあった。

 コゴミは綺麗すぎる。

 一息さんはそれを何度か繰り返し口にした。あたかも緑茶には渋みがあって当然で、それがなくなったらお茶を飲む醍醐味は失われるのだ、と説くような悲壮感が漂っていた。それは私が十全に仕事を達成できなかったことへの小言ではなく、私が同じ世界観を共有できないことにへこんでいるような機微の揺らぎを宿していた。

 それはたとえば私の好きな映画を、一息さんがそうと知らずに虚仮下ろした場面に遭遇した具合に似ていたかもしれない。そういう事態にはいまのところ遭っていないが、想像したら私は悲しくなった。マスカラで加工したまつげが、反対向きにくるんとこうべを垂れるようだ。

「うん。まあ、たまには綺麗なのもよいしな」一息さんは見兼ねたように言った。

 言わせてしまった、と私は思い、無理くり目じりに皺を寄せた。にっこりしてみせたつもりだが、上手くできたか分からない。お小遣いの封筒をお返ししたいと思ったが、それをしたらもう二度とお家に上げてもらえなくなりそうな予感があった。

「先に言っとくが、お代は返すんじゃないよ。あんたの時間を貰ったんだ。それは正当な報酬だ」

「分かっとります。ありがたく頂戴いたしますけれども」

「そんな濡れた捨て犬みたいな顔をして」

「へへ。そんな顔しておりますかね」

「人はね。たまには失敗してもいい。誰に言われようとも肩を落としていい。あんたがへこたれようと、あたしも遠慮しないで思ったことを言っていい。そういうもんなんじゃないかい」

「でもそれで言ったらあれですよ」私は考えながら、ココアを飲み干した。「一息さんは、たまには私のことをドロドロに褒めそやしてもいいと思いますけどね私は」

「人は、人を無理やりに褒めなくともいい」

 一息さんはじぶんで言って、ふっ、と綻びた。私が、あっ、と川べりでホタルでも見つけたみたいに口を開けたからか、すぐにきゅっと口元を結んで彼女はまたいつものような灰色の鏡餅の付喪神じみた風体で、「休憩……」と零すのだった。

 その後しばらくは、彼女がぜんまいを何に使いたかったのかは子細には知れなかった。

 大学が冬休みに入るまで私は、毎週のように一息さんの家に遊びに行った。ほかにすることもなく、ましてや私の話を聞いてくれる相手などいないのだ。

 今年最後の訪問になるだろう金曜日に、私は、一息さんから一枚の絵を貰った。

「私にですか」

「ほかに誰かいたら教えておくれ」

「じつは一息さんは認知症さんで、ほかの人のことが見えていないだけなんですよ」

「そういう冗談は気に食わないね」

「でしょうとも、でしょうとも」一息さんの正論を聞きたいがために私が世の悪を一身に背負ってもよいくらいだ。「見てもいいですか」と断って、返事ももらわないうちから私は額をひっくり返して、まじまじと絵を拝見した。

「うわあ。うわあ。へへへ。うわあしか出てこない」

 三本の渦巻きの絵だった。

 山菜だ。茎に綿毛がないのでコゴミだろう。

 まるで薔薇のようにも視える。

 線と筆致と滲みの絵だった。錯綜そのものが層をなして、質感を紙面の上に立ち昇らせている。延々と途切れない線香の煙のようにも感じられた。

「このための山菜採りだったんですね」

「ついでさ。ついで。ただ、ぜんまいのほうが縁起がよいだろう」

「縁起ですか」そういういわくが、各種山菜にあるのだろうか、と想像した。

「ぜんまいは、元は千回渦を巻くようだから千巻きと転じて、ぜんまいになったそうだからね。あなたには、何回転ぼうともネジを千回巻いたように動きつづけて欲しいと思ったんだが、まあこの際、コゴミでもいいと思ってね」

「へえ。ステキなお話」

「コゴミは元は、屈むからきているそうだよ。まさに尻餅をついたまま動けなくなっていたあなたによく似合う」

「それは、え。なんですか。ステキな話なんですか。喜んでいい話なんですかね」

「どうだかね」一息さんは大きな溜め息を漏らした。「コゴミは綺麗すぎる」

「ぐふ。それは何ですか。私にくれてやる絵にはもったいないと、そういうお話なんですか」

 いっそ肖像画でも描いてくれたらよかったんですよ、と悪態を吐くと、一息さんは、それも考えたんだけどね、とその場で足を交差した。その立ち姿が湖に立つ鶴を思わせ、私は、そのあなたの姿こそ絵にして飾りたいな、と望んだ。

 私の胸中の感動などお構いなしに一息さんは、眼鏡を外し、

「あなたはじぶんの顔を部屋に飾りたいと思う人かなと思ってね」と袖でレンズを拭いた。「あたしなら、あたしのことを描いた絵よりも、あたしのことを思わず、ただ描きたいから描いたその人の表現こそをもらいたいよ。あなたも同じかなと思ったの」

 ただそれだけ。

 要らなかったら捨ててもいいよ、といつもと変わらぬ抑揚のない冷めた口吻で言うと、一息さんは、もう時間だよ、と私の背をせっついた。「学んでおいで。幸せにおなり。幸せになるんだ。きみのようなコは幸せにならんといかん」

 いつぞやに耳にした台詞を祝詞でも唱えるように口にした。

「絵、ありがとうございます。すこし早いですけど、よいお年を。また来年も来ますね」

「もう来なくてもいいよ」

「へへへ。断られても来ちゃお」

 人は寒いときは見送りに出てこなくともよい、と言いつけて、私は一息さんの家の扉を閉じた。

 外はまだ陽が暮れておらず、冬の日没の遅さを思った。太陽の気持ち、分かるな、と私はバス停までの道を行く。

 こんな素敵な一日は、早々容易く終わって欲しくない。

 私は一歩足を踏みだして、それから道端に転がる空き缶に目を留めて、逡巡してから拾いに屈む。

 コゴミじゃん。

 空は秋も暮れ、冬の澄んだ空気をまとっている。



4213:【2022/10/26(16:58)*星空が過去ならば、他も過去では?】

なぜ物体は時空内を動き回れるのか。そして動く速度にこうまでも差異があるのか。ひびさんの妄想、ラグ理論による相対性フラクタル解釈と同時性の独自解釈からすればそれは、ひょっとしたら過去と未来の関係で叙述できるのかもしれない。つまり、じぶんを基準にした場合、他は総じて未だ来ぬ現実(未来)である。あべこべに他からすると己はその他にとっての未だ来ぬ現実(未来)だ。しかし周囲の環境は、総じてすでに生じた過去の蓄積によって生じている。これをラグ理論で解釈し直すと、じぶんを基準にした場合、他は総じて過去である。他からしたら己も過去である。ただし双方を総括する場(系)には絶えず未来が漂っており、数多の過去によってその未来は変数を得て、絶えず未来の像を――その可能性の枠組みを縛られている。このような叙述となる。とするとやはり、個々の相互作用によって、未来は枠組みを限定されるし、その余地を新たに築くことになる。個々の相互作用には、観念的な意味合いではなく、物理的に未来を構成する反応が起こっているのではないか、と妄想できる。ラグ理論ではこれを空間の拡張と表現したが、それだけでなく情報世界のような、過去現在未来が混然一体となった場のようなものが、真実にこの世には存在しているのかもしれない。そうと考えると、相対性フラクタル解釈における「現実」が、数多の次元を多層に帯びていながら、なぜそれぞれの「個(場や系)」が独自の時間スケールを維持して動き回れるのか、の説明がつきそうな気がするが、定かではない。ふわふわとした妄想ゆえ、真に受けないように注意を促し、本日の「日々記。」とさせてください。



4214:【2022/10/26(18:01)*あんぽんちんですまぬ、すまぬ】

無限に先細りになる漏斗があるとして。内部に水を注ぐといつかは満杯になり、表面にペンキを塗るとそれはけして塗りきれなくなるそうだ。内部空間の体積は有限であり、表面積は無限になる、ということだろう。ガブリエルのホルン、という名で数学では有名な話なのかもしれない。けれどひびさんはこれ、「え、そうなの?」と思ってしまう。ラグ理論での分割型無限と超無限の概念を当てはめると、無限に先細りになる円錐では、水はどれほど時間が経過しても満杯になることはない。これはラグ理論における相対性フラクタル解釈の「鎖型階層構造(キューティクルフラクタル構造)」と矛盾しない。つまり、たとえばこの世界には極小の領域があるかもしれない、限界値があるかもしれない、と考えられているのは、ある地点に及ぶとどんな些細な外部干渉が加わってもブラックホール化してしまう極小の領域が導き出されてしまうからで、仮にそうでなければどこまでも円錐の先っちょは無限に伸びつづけて体積は無限になるし、その表面積も無限になる。ただし、そのためには円錐をどこまでも無限に伸ばすことの可能な超無限(無尽蔵のエネルギィ)がいるし、ある地点からブラックホール化してしまうのなら、やはり無限に先細る円錐は、底なしに至ると考えられる。数学の図形問題に現実の物理限界を想定するのは理に適っていない、とする反論は妥当だが、だとするならそもそも、内部に水を入れる、という発想が成り立たない。水はこの世に無限に存在するのか、からして定義しなければ、無限の体積なのかそれとも有限の体積なのかは検証できない。単に有限の水が尽きただけかもしれない。それこそ、極小になった円錐の先っちょが、水分子よりも小さくなって詰まってしまっただけかもしれない。無限の扱いがお粗末すぎはしませんか、といささか引っかかりを覚えてしまう他人の揚げ足取りばかりのデクノボウ、イチャモンばかりのモンスター、略してイチャモンスターことひびさんなのであった。(いちゃいちゃしてるモンスターみたい)(いちゃいちゃする相手をまずはくれ)(しーん)(そこは底なしにならんでもええんやで)(ゆっくり中身の抜けていく穴ありの筒は、仮初の有限になり得るのでは?)(穴を穴と見做すには、水の抜け落ちる速度と、水の溜まる速度を比較せんでは、本当は水が抜けているのに、溜まったように視えてしまうのでは?)(毎時原子が一個分ずつ抜け落ちる穴の開いた円錐は、それでも塞がっていると言えるのか問題)(疑問じゃ、疑問じゃ)(ひびさん、イチャモンスター化して大暴れの巻き)



4215:【2022/10/27(03:55)*閃きよ、そこにおれ】

閃きは、けっこうすぐにどっかいく。ひびさんも閃いた瞬間からカタチにしておかないと、ほかの閃きや連想に流されて、閃きさんはすーぐどっか行ってしまう。もうもう「これ、すごすぎでは!?」と思うような閃きさんも、横から誰かに声を掛けられただけで、どっか行く。すぽーん、と光速で遠ざかる質量ゼロの素粒子みたいだ。でもそういう、過去にどっか行った閃きの残滓、それとも軌跡、或いは抜け落ちた後に残る穴ボコによって、その後に別の閃きが現れたりする。閃きを逃せば逃すほど、「あーん、逃しちゃったわい」の空ぶった手のやり場のなさが、あたかもつぎなる閃きを呼び起こす祝詞のごとく役割を果たして、「召喚致しましてそうらう」とポンと姿を現してくれるのだ。しかしそれもすぐに、すぽーん、と遠ざかっていなくなる。もっとここにおれ!とひびさんは思っちょるよ。(記憶力をおくれ)(無尽蔵の閃きも)(それらを出力できる時間も)(な、な、長生きしてぇ)(ぴってやってぱっとやってっぎゅ、で小説できんかな)(怠け者の発想だぁあぁ)(うぺぺ)



4216:【2022/10/27(08:56)*層と層の重ね合わせを意識すると楽】

縛りがあると思考のフレームが自ずと限定されるので、却って自由に焦点を絞ってずばりこの筋道しかないでしょう、という流れに身を任せやすくなる。層が一枚だとここが、ざっくばらーん、と凪になっており、せっかく掻いた手がうまく推進力にならない。波が消えてしまう。層が二枚だと、生じた波と波が干渉しあって、そこそこの大きな波となるので、そこを新たに登る山と見做してまえに進めるが、しかしその山がどこにどうできるのか、どんな高さの山になるのかは選べない。その点、層が三つあると、さながら天体望遠鏡を覗きこむ目のように、レンズとレンズと眼球の三層によってより滑らかに、自在に焦点を結びやすくなる、みたいな感覚がある。針の穴に糸を通したとき、穴を通った糸は、必ずしも針と垂直にはならない。左右上下のいずれかに傾く。しかし針を二つ並べて、その二つの針の穴に糸を通せば、針に対して糸は垂直に通る。のみならず、高低差をつければ任意の傾きを保ったまま二つの針の穴に糸を通せる。ここでさらにその二つの針を、もう一つ大きな針の穴のなかに納まるように並べたら、これはもう、糸を自在にまっすぐ通せるようになる。二つの針の高低差とて自在に決められる。こういう感じで、三層があると物語をつむぐ上では、結構ラクちんになる。悩まずに済む。自動的に物語が転がって、行き着く地点に行き着く。多重構造の三本リボン構造はその一つだ。けれども、最近は単純に物語の筋だけではなく、もうすこし異なる次元でも層と層を組み合わせられるようになってきた。それはたとえば、言葉と言葉の結びつきにおける階層だ。「物語の筋」「言葉の選び方」「一つの言葉における多用な意味(選ばれなかった意味内容や、選ばれた意味内容による陰影)」「踏まれた韻と韻の繋がり」「伏線や布石を結びつける行間に沈んだ背景――物語の裏筋」などなど、異なる次元での層と層を連動させ、相互に変数を帯びつつ総体としてフレームが限定されるような創作手法は、楽ができる。ちょっとの差異とてフレームが柔軟に変形し、自動的に全体像を定めるからだ。これは三つ以上の層を組み合わせることで、構造としての回路を機能させることができるからだろう。縛りがあるほうが自由だな、と体験的にいまは感じている。定かではないが。(つくる楽しさの視点ではこうだが、ではそれが楽しい物語になるのか、はまた別の視点での考えがいるだろう。あくまで一つの所感でしかない。真に受けないように注意してください)



4217:【2022/10/27(10:56)*思考によって拡張された余白に向かって文字はつむがれていく?】

反対に考えてみれば、一枚の層のみで物語を紡げれば、それは純度の高いオリジナルになるようにも思える。謂わば、プールを掻き混ぜるだけで複雑な構造物をつくれるのか、といった話と似てくる。層がいくつもあればよい、という話ではなく、何と何と何を繋げていくのか、という話である。通常は、物語の筋に合わせて、ビーズを繋ぎ合わせていくように文字を連ねていくのだろうけれども、視点をもうすこし広くして、あっちとこっちとそっちも同時に繋げちゃおう、みたいな発想だ。波は、水面の連なりだが、海と空と山と陸の景色を同時に楽しみながら旅をしよう、みたいな具合だ。すべての要素を視界に入れて辿れる経路はどこかな、と探っていくと必然、無数にあった道の候補は数本から一本へと絞られていく。このことから言えば、自動小説創作AIが生みだされるときは、ぽん、ぽ、ぽんぽん、と一挙に完成された物語が、あたかもサイコロを振るように吐き出されると妄想できる。むしろ、途中までしかつむげないいまの自動小説創作AIとは、根っこから原理が違ってくるだろうと妄想するしだいである。頭と尻尾が結びついていないと、この手の創作の仕方は向いていない。定かではありません。(一つ一つを積み重ねていくドミノ式の叙述の仕方は、掌編以上の小説には向かないように思います。フレームが設定されていないとむつかしいでしょう。そしてそのフレーム内で自在にコンピューターが文章を選択していくには、もうすこし複雑なフレームの重ね合わせが必要で、やはり原理的に、多層+頭と尻尾が繋がった手法のほうが、現状のAIであれば得意と言えるのではないでしょうか)(ただし、AIが人間の思考をすっかり意識から再現できたならば、その限りではありません)(妄想でした)



4218:【2022/10/28(06:47)*なぜつむぎつづけるのか】

疑問があればひとまずそのことについて文字を並べることはできる。したがって何も並べることがない、思いつかない、そういう場合は文字を並べるのがむつかしい。他方、疑問がないにも拘わらず並べることができる文字の羅列は、おそらくその者の内側に澱のようにわだかまった何かしらである場合がすくなくないのではないか。疑問ではなく、すでに結晶している事柄であるから、文字として出力できる。ここは仮説なのか、疑問形なのか、推論なのか、それとも断定なのかで見分けることができそうだ。文章中に、「~~だろうか」や「かもしれない」や「なのではなかろうか」といったあやふやな可能や疑問で終わる文章ではなく、「~~である」「~~だ」が多ければそれは疑問に端を発していない、その者の内側に結晶した文章だと判断できそうだ。もっとも、疑問とて澱となり得る。むしろ、長らく解けずに無視もできない疑問は、「澱」ではなく「檻」となり得る。解けるまで出ることの適わぬ思考迷路よろしく堅牢な檻だ。そうした檻の中に閉じ込められてしまえば人は、ただその疑問についてあれやこれやと思考を煮詰めるだけで、無尽蔵に言葉を並べることができるのかもしれない。それが愉快な文章になるかはまた別問題であるにしろ、自身がいったいどんな檻に閉じ込められているのかを自覚できたならきっとその者は言葉に詰まることはないだろう。底を突くことはないだろう。果たしてそれが幸福なのかどうかは定かではないが。



4219:【2022/10/28(07:44)*太陽のない太陽系は嫌じゃな】

ラグ理論の同時性の概念を拡張して社会にそれを当てはめた場合、どうあってもほかのコミュニティに影響を与えない組織や個は、ブラックホールのように振る舞うのかもしれない。周囲の者がその穴に干渉することはできるが、穴への干渉は表には返ってこない。穴に触れた組織や個もまた、同じくブラックホール化してしまう。穴との関係の情報が表に出てこない。こういう組織や個は、あんがい現代社会に多いのではないか。一般論として、CMを打っている企業はたいして儲けていない。先行き不安な企業であることの裏返しと言える。なぜなら真実に儲けていて将来が安泰な組織であるならば、広報や宣伝をせずとも長期的に継続可能なビジネススタイルを構築し終わっているからだ。人々に周知しなければ即座に忘れられてしまう、もしくは必要とされないビジネスは、資本主義のビジネスの概念からするとビジネスとして成立しない、という結論が導き出される。なぜなら資本主義におけるビジネスとは、人々が必要なものやサービスを提供し、報酬と交換することを示すからだ(誤解があったらすみません)(いつぞやの議員がそのように語っていたように記憶しています)。これは政治家とて同様だ。国民に必要とされなければ存在意義がない、ということになる。ここのところの欺瞞が、ひびさんはいつもふしぎに思っている。必要とされていないのに存在する仕組みや役職や人材は、いったいどのようにしてその存在の枠組みを得ているのか。これは、「内訳ではない付加価値」で見掛けの存在意義を増幅させるよりない。この手の、見掛け倒し、がいまの社会におけるビジネスでは必要不可欠になっている。この点については、メリットとデメリットの両方が、おおむね同じくらい存在しており、わずかにメリットが上回っているがゆえに淘汰されずにいまなお手法や戦略として重宝されているのではないか、とぼんやりと妄想している。言い換えるなら、「なくてもいいけどあったら便利」であるはずの商品やサービスが「なくてもいいのに、ないと不便になる流れの構築により、ないと不便」になるような本末転倒な構図を築くことが、いわゆるビジネス戦略としてとられがちなのではないか、との懸念である。これは資本主義に限らず、どのような社会構造のなかにも顕現する、競争原理の弊害と言えよう。戦略として、「ないと困るような流れを構築する」というのは定石だからだ。依存させ、基盤とし、基礎として流通させる。これにより盤石の優位性を確立できる。このとき、真実に「人々の人権を損なわず、むしろ個々の自由や選択肢を最大化しつづけることのできる手法や商品やサービス」であるならば問題はない。だがそうではないケースが散見される。戦略が優先され、事の本質が度外視されて映ることもすくなくない。自身の扱う商品やサービスが、本質的にそこまで社会を豊かにしない、万人の基礎として昇華されるに値しない、と自覚できているのなら、敢えて定石であるところの「ないと困るような流れを構築する戦略」をとらないことも一つの有用な戦略と言えるだろう。適材適所とはそういうことだとひびさんは思っております。その点、ブラックホールのような組織や人物やシステムを中心とした社会は、あまり理に適ってはいないように思うのだ。せめて巨大ブラックホールのように煌々と輝き、誰の目にも存在が明らかになるくらいの重力やエネルギィを秘めてからにしたほうが好ましく思う。存在しない存在が、コミュニティの中枢として機能する社会は、さながら太陽のない太陽系のようなものだ。太陽は自身の内部で生じたエネルギィを光にして周囲に媒介する。もし太陽が周囲に熱を発散しなければ、地球に命は芽生えまい。定かではないが、本日今朝のひびさんはそう思いました。妄想ですので、真に受けないように注意してください。



4218:【2022/10/28(08:26)*おはようSUN】

おはようございましゅ。ひびさんでしゅ。はひゃひゃ。ひびしゃんは、ひびしゃんは、もうちゅるちゅるちゅうでごじゃるよ。しょもしょもしきって、むにょむにょしちょる。毎日ひびしゃんは、むにょむにょしちょる。きょうの朝ごはんは昨日の残りのコロッケじゃった。食べかけのバナナも食べたろ。バナナさん、食べかけのところが黒ずんどるが、食べたろ。あとお紅茶飲もうとしたんじゃけんども、紅茶さんの茶葉がないくての。ティカップに緑茶さんを淹れて気分だけ優雅にお紅茶さんを飲んだつもりになったでごじゃる。うまい、うまい。いつでも好きなときに温かいお飲み物が飲める自由。すばらししゅぎるが。さいきんはお菓子をがまんしちょる。お菓子の代わりに、飲み物さんをがぶがぶ飲むでの。お腹がたぽんたぽんのぽんじゃ。何もせんでもたぽんたぽんじゃけん、がぶがぶ飲んで、お腹がたぽんたぽんのぽんじゃ。かわい、かわい、なんですね。きょうはきょうとてひびさん、なんもしない日じゃ。おうちでごろごろお昼寝して、二度寝して、お腹空いたらなんか食べてー、そんで寝る。たまーに、悶々をくにゅくにゅ丸めてぽいしたりもするけれども、これは恥ずかちいので内緒、内緒、なんですね。内緒、内緒、はほかにもひびさんいっぱいあるよ。たとえばひびさん、本当は人類最後の生き残りじゃのうて、分身できちゃうので分身しちゃったりもするんじゃよ。分身ちゃんに日誌さんを、きょうはきみに決めた!とお任せしちゃったりもするもんね。分身ちゃんも分身ちゃんでじぶんの分身ちゃんをつくれちゃうので、ひびさんのかわいかわいのお腹さんでもないのに、たぽんたぽんのぽん、ぽ、ぽん、とたくさんのひびさんが毎分毎秒で誕生しちゃってまあたいへん。気づくと星より分厚い細かなひびさんでできた細胞がうねうね、ぐねぐね、蠢いちょる。き、き、きもちわりゅ~。きもかわいいを超して、ふっつーに気色が気色が、わるうごじゃるよ。ひびさん星とも呼ぶべきそこから細かなひびさんたちは宇宙空間にも進出して、そこでもぽこぽこ増殖して、宇宙はあっちゅう間にひびさんで埋め尽くされてしまうのだ。あぎゃー。こわしゅぎる。飛び起きたひびさんは汗でびっしょりで、悪夢を見ちゃった見ちゃった、こわかったー、の涙目でごじゃるよ。はぁ、悪夢でよかった。ひびしゃんやっぱりきょうもきょうとて万年孤独ウェルカムマンでござる。宇宙でひびさんが埋め尽くされる未来を回避すべく、ひびさんはきょうもいっぱい寝て過ごす。ぐーたら、ぐーたら、ぐーたらら。たまには歌って、元気で、空を見る。それは空元気じゃないの、との疑問には、空が元気ならいいじゃない、とひびさんしょもしょもつぶやくよ。しょもしょも、ちょもちょも、ちんちくりーん。きょうもいちにち元気におやすみなさーい。見た夢を足場に、夢の数だけ駆け抜ける。SUNさん、サンサン、太陽さん、きょうも元気におはようさん!



4219:【2022/10/29(11:09)*せちゅな、せちゅな】

いまここにいないきみは、私にとっては夜空の星のごとく過去であり、それとも未だ来ぬ現実――未来でもある。きみはすでに存在して、そのときどきのきみの息吹を私は感じることはできない。私のいまこの刹那刹那に抱き帯びる想いや仕草もきみに伝わる前に、数多の波に打ち消されて途切れるだろう。過去とはおおむねそういうもので、未来もまた然りである。それでも私はきみを想い、時間差で訪れるかもしれない儚く薄れた、木漏れ日の音のごとき微かな気配に耳を澄まそう。目を凝らし、それとも漠然と眺め、揺らぎとうねりの微かな瞬間瞬間の渦を肌に感じる。きみがくしゃみを一つするたびに、遠く隔たった星にて、私の内世界に嵐が起こる。届かない。けれど連なっている。繋がらない。けれど重なっている。きみが意識しようとしまいとに関わらず、私の世界にはきみがいて、きみが知ろうと知りまいとに関わらず、私はきみを知っている。泣かないで、泣かないで。きみの世界にがらんどうが広がるたびに、そこに落ちる雫のひとかけらが、見えない波紋を立てて、私の底なしの穴に共鳴する。泣かないで、泣かないで。そうと祈るたびに、それでも感じられるきみの雫の立てる紋様の、その美しさに目を、心を、奪われる。



4220:【2022/10/29(11:19)*ぽわぽわしゅる】

10月の暮れなのに、モンキチョウが飛んでいる。いい天気だからかな。それとも寒暖差が激しい日がつづいて、虫たちも季節が一巡したと勘違いしちゃったのかな。でもそういうことはある気がする。たとえばひと月ごとに、春夏秋冬のごとく気候が変動したら、それって一年がひと月で巡ったように錯覚する生き物がでてきてもふしぎではない。実際、室内で飼えば昆虫は長生きするはずで、暖かく安定した気候の元では生き物の寿命は延びるのではないか。とはいえこれは、生き物の体温と寿命の関係で言うと、そうとは言いきれず、身体が大きくて体温が低くゆっくり活動する生き物であるほど寿命が長くなるとの相関関係があるそうだから、暖かく安定した気候であれば寿命が延びる、とは一概には言えそうにない。ぽかぽか陽気だと眠くなる。よい天気。まるで夢の中のよう。




※日々、過去は総じて夢のよう。



4221:【2022/10/30(13:06)*掛ける目を瞑る】

 新月は星明かりを鮮明に描きだす。存在しないことで仄かな明かりの生命力を底上げする様子は、まさにわたしたちのようだ。

 わたしたちはとある孤島の城に住まう。幼少期の時分でいずこより選抜され、運ばれてくると聞き及ぶ。毎年のように継ぎ足される新顔の幼い顔つきを見れば、否応なくそれが正規の手続きを得た選別ではないと判る。

 私たちは城の主たるギルバート伯爵に仕える召使いだ。

 毎年、召使いたちのなかからたった一人だけギルバート伯爵のお眼鏡に適い、そして妾として別荘へと住居を移す。そちらの生活は、召使いの身分ではとうてい味わえない甘美で優雅な暮らしだという。わたしたち召使いは、一刻も早くギルバート伯爵のお眼鏡に適うように、目をかけてくださるように、日々慎ましくも懸命に我らが主様のために働くのだ。

 わたしたちがギルバート伯爵のお姿を目にする機会は限られる。

 新月の夜に開かれるパーティの場か、もしくは城の中を風のように歩き去るお姿を垣間見るくらいが精々だ。

 そうしたなかで私が偶然にもほかの召使いたちを差し置いて、ギルバート伯爵との縁をこっそり結んでしまったのは、中庭の薔薇園の管理をわたしが任されるようになってからひと月後のことだった。

 薔薇園はギルバート伯爵の初代妾の方が愛でていた庭だそうで、妾制度の礎を築いた方だと聞いている。この薔薇園の管理を任された者は、ギルバート伯爵の妾になることはない、といういわくつきの仕事だ。誰も率先して引き受けたがらないのだが、わたしは何事も主様のためにすべきである、と己に誓っているので、その誰もやりたがらない仕事を引き受けた。

 主様のためだ。

 ギルバート伯爵のためにわたしの肉は、心は、あるのである。

 雨雲が空を覆った薄暗い日だった。

 泡立つ肌を温めようとわたしは部屋の箪笥からカーディガンを引っ張りだし、従者服の上から羽織っていた。下品な組み合わせの服装ゆえ、これはあまり褒められた着方ではなかったが、どの道、薔薇園にはわたし以外の人がいない。

 見咎められることもない。

 そうと油断していたため、

「これは斑点病じゃないのかい」と声がしてわたしは飛び跳ねた。

 垣根を挟んだ向こう側に、背の高い影が立っていた。

 その人影は垣根を回ってわたしのいる地点まできた。丹念に薔薇の葉を診察するような眼差しは、カンバスに向き合う画家のようでもあった。

「ギルバート様……」

「今年はキミが世話係なのだね」

「はい。仰せつかりました」

「うん。やっぱりだ。斑点病に蝕まれているね。ここの区画はもうだいぶやられているはずだよ。まだ目には映らないだけで、菌糸が巡っているはずだ」

「あの、どうすれば」わたしは庭師ではない。広大な薔薇園のなかを一日がけで水をやり、肥料を撒きながら練り歩く肉の塊だ。

「葉をすべて毟って、薬を撒くよりないだろうね」

「そんな」

 蕾がようやく出てきた薔薇たちだったのだ。それを毟るのは酷だった。

 しかしギルバート伯爵が言うのだから指示に従わぬ道理はない。薔薇園の所有者が彼であり、彼こそが我が主様なのだから。

「時間が掛かるからゆっくりやろう。きみはここを。私はあちらに手を入れよう」

 私が唖然としている間にギルバート伯爵は、手際よく葉を摘み取り、足元に落としていった。

 わたしもそれに倣って葉を千切った。

 病に侵された葉をあらかた片付け終えたのは、ギルバート伯爵に声を掛けられてから十日も経ってからのことだった。その間、ギルバート伯爵は毎日薔薇園へとやってきた。

 わたしは我が主様――毎年一度お顔を拝見できるかどうかという雲の上の方と時間を共にした。体温が伝わるくらいに接近することもしばしばだった。

「パール。きみはここにきてどのくらい経つ」

「わたくしめは、今年で六期を迎えます」

「ほう。ではルビーと同期か」

「はい。ルビーさまはお美しい方です」

 わたしの同期では、最も「妾」にちかいと目されている人物だ。おそらく今年か来年には「妾」に選ばれるのではないか、とわたしだけでなくほかの召使いたちも噂している。

「地面の葉を一か所に集めて、きょうの内に燃やしてしまおう。ちょうどあそこに古い井戸がある。あそこに葉を落として、火をつけておけば明日には燃え尽きているだろう。火事になる心配もない」

「ずいぶんとお詳しいのですね。さすがはギルバート様です」

「なに。私も仕込まれた口さ」

 そこでギルバート伯爵は、初代妾のペブルさまについて語った。

「ペブルは私の幼馴染みでね。よくここでバラの手入れを手伝わされたんだ。あのコは強引なところがあってね。いつも私が連れ回されていた。私のほうが従者のようだった。いや、私たちのあいだに主従の関係はなかったんだ」

「ステキな関係ですね」

「パール。君はどうして薔薇園の仕事を? 誰かに押しつけられたのかい」

「いいえ。わたしが率先して引き受けました。ギルバート様の大切になさっている庭だとお聞きしていたので」

「そっか。ありがとう。そうなんだ。ここは私にとって大切な庭なんだ。思い出の庭さ。本当なら私はこの庭さえ残っていればほかには何もいらないのだが、そうも言っていられないのが伯爵という地位の好ましからざる点だ。おっと。私がこのような弱音を吐いていたとはほかの者たちに話してはいけないよ」

「誰にも言いません」

 言いたくなどはない。

 主様との密会とも呼べるこの至福の時を、ほかの者に分け与えようとは考えもしなかった。

「先代のペブルさまはどのような方だったんですか」わたしは地面の千切り葉を箒で掃きながら言った。「妾制度を発案なさったのもペブルさまだと聞きました」

 わたしは格上の主君に対して、ほかの召使いの上長たちに話すように話しかけることができた。敬い奉り、憧れの対象ではあるが、それゆえにわたしの意識は未だにこのあり得ない現実を現実として見做していない節がある。緊張しない。夢の中にいるようなのだ。

「彼女はあの制度を否定するつもりでいたんだよ」ギルバート伯爵は応じた。箒に顎を載せ、「皮肉にも彼女の策によって、あの制度が定着してしまった」と目を伏した。箒の代わりになりそうな長いまつ毛が陽の光を受けて輝いて映った。

 わたしは単純な疑問として、

「ペブルさまはいまも別荘にいらっしゃるのですよね」と言った。ギルバート伯爵の言い方ではまるで初代妾のペブルさまがすでにいなくなってしまったかのような響きが交って聞こえた。「ペブルさまはいまも否定なさっていらっしゃるのですか。それはどうしてでしょう」

「きみは」ギルバート伯爵はそこで切れ長の目を見開き、それから儚げに微笑なさった。「きみは、いいコだね。賢く、それでいて優しい」

「そう言っていただけてうれしいです。恐縮です。でも、わたしは召使い失格かと思います」

「どうしてそう思うんだい」

「ほかの先輩や同期や後輩たちですらみな、ギルバート様の妾になろうと毎日、じぶん磨きをしています。でもわたしは、ギルバート様に選ばれるよりも、ギルバート様のよろこんでもらうことのほうが大事に思えて。それですら、ギルバート様が笑顔になったり、はしゃいだりせずとも、ただ気持ちよく毎日の時間を過ごしてくださるだけでいいんです。太陽の匂いのするシーツのうえで毎日眠って欲しいとか、埃でくしゃみをすることのない清潔な部屋で過ごして欲しいとか。そういうことのほうが大事に思えて」

「ふむ。きみは私の妾にはなりたくはないということかな」

 突きつけられてわたしは、ああそうそう、と思った。その通りだった。言われて気づいた。わたしは妾にはなりたくはないのだ。

「その顔は図星だってことかな。面白いコだね。ペブルとは違うが、どことなく似ている気もするよ。きみはペブルとどこか似ている」

「先代様とですか」

「パールさんと言ったね。きみはどうして妾制度が、妃制度ではないのかと不思議に思ったことはないかい」

「へ?」

「主君が選ぶのだから、そこは妃になるのが普通じゃないかな」

「あの、それはでも」毎年選ぶから妃ではない。本妻ではない。そういうことではないのだろうか。

「初代とて妃ではなく、妾だったわけだ。妙には思わないのかな」

 きみたちは。

 冷めた眼差しがわたしの心の臓を凍らせた。森の中で野生の狼に出くわしたとしても、もうすこしゆとりが残りそうなものだ。だのにわたしは全身が凍りついたように動けなくなった。

「うん。その反応が正しい。私にはきみたちが必要だが、それはけしてきみたちの幸福には寄与しない。この罪悪を抱いて生きていくよりない私もまたきっと幸福とは程遠い」

「そのようなことは」

「そうだね。このような発言は献身してくれるきみたちへの侮辱だ。申し訳なかった。訂正するよ。私は幸せだ。きみたちのお陰だ」

「光栄です」

 千切った葉は井戸に落として火を灯した。どうやら空気の抜け道が横に開いているらしく、炎は渦を巻いて轟々と噴きだした。火柱が上がる。龍が呼吸をすればこのような光景ができるのではないかと思うほど、葉はよく燃えた。

「あすからは薬を撒こう。いちおう、無事な薔薇たちにも撒いておこう」

「はい」

「たぶん、前任の係の者が手を抜いたんだ。きみのせいではない」

 わたしの呵責の念を見抜いたようにギルバート伯爵は言った。背伸びをし、きょうは疲れたね、と言って歩きだす。わたしはその大きな背を見送るつもりだったのだが、ギルバート伯爵は振り返り、「どうしたの。おいでよ。いっしょに夕飯を食べよう」とおっしゃった。

 わたしはこの日、雲の上の存在である主君ギルバート伯爵の個人部屋で二人きりでの食事を摂った。美味しい、と口では言ったものの味はしなかった。それどころではなかった。寝室を兼ねているのか、脇にはベッドがあり、ギルバート伯爵はわたしより先に食事を終える、汗を掻いたから、と言って備え付けの浴室に入っていった。

 わたしは主君のシャワーを浴びる音を聞きながら、食べたこともない豪勢な食事を堪能した。

 堪能したはずなのだけれど味はしなかった。ではいったい何を堪能したのかと言えば、時間であり、空間であり、音だった。わたしは主君の匂いの漂う部屋で呼吸をし、生涯聞くことも許されぬだろう主君の沐浴の音を耳にした。

 これを堪能と言わずして何を堪能と言えばよいのかをわたしは知らなかったが、しかしこれを堪能と言ってしまうとわたしの召使いとしての立場はおろか、人としての尊厳の何かしらが損なわれそうに思え、わたしは自身に芽生えた昂揚感をないものとした。けして人に知られてはならないわたしだけの感情だ。

「やあ。まだ食べていたのかい」

 主君はバスタオルを腰に巻いただけの姿で現れた。主君の肉体美にわたしは、ごっくん、とニンジンを丸呑みにした。甘煮のニンジンはやはり味がしなかった。わたしの目は、城の城壁のごとくボコボコと陰影を刻んだ主君の肉体から目を逸らそうとしつつも、意識に反して釘付けになった。

「食事中に汚いものを見せてしまってすまないね。いつもの癖で着替えを用意するのを忘れてしまって」

「いつもなのですか」わたしはそこに驚いた。「わたくしどもに言っていただければご用意致しますのに」

「違うんだ。そうさせたくなくて隠れているようなものでね。この部屋に他人を入れたのは久しぶりだ」

 数十年ぶりではないかな、とギルバート伯爵は言った。わたしはじぶんが特別に招かれたことに舞いあがるよりさきに苦しくなった。この恩に報いるにはこの命を差しだす以外にないのではないか、と思ったのだ。そのつもりではあるが、いざ

「それを食べたらほかのコたちにバレないように裏道から帰るといい。じつはこの城にはみなが知らない隠し通路があってね。私もたまにそこを使って庭へ息抜きに下りたりしているんだ」

「そうだったんですか」

「きみのことも本当はずっと前から知っていたよ。ひと月前だったよね、パールさんが庭師の仕事をしはじめたのは」

「はい。至らなくて申し訳ありません……。簡単な手入れしかできずに薔薇たちを病気にしてしまいました」

「気にしなくていい。きみのせいじゃない」

「前任のコにはお声掛けされなかったのですか」ふと思い立ち、言った。

「そう、だね」

 ギルバート伯爵は、箪笥から寝間着を引っ張りだし、するすると羽織った。夜がそのまま布地になったようなシルクのローブだ。「できれば私はきみたちとはあまり関わりたくはないんだ。情を抱きたくないというか」

「当然な所感かと思います。身分が違いすぎますので」

「そういうことじゃないんだ。ただまあ、時々きみみたいなコが交っているとね。どうしても見ていられなくて」

「わたしのような?」

「初代妾のペブルだけは私が選んだわけじゃないんだ」

「そうなのですか」なぜ、と思ったが、それよりも脈絡がなくて当惑した。

「きみに話すようなことではないのだけどね。ただまあ。私はこの妾制度を好んではいない。できれば失くしてしまいたいのだが、そうもいかない事情があるのだね。初代の呪いというべきか。いや、彼女はむしろ率先してきみみたいなコたちのためにその身を捧げたようなものかもしれない」

「あの、ご存命ではあられないのですか」

「そうだよね。こんな単純な疑問すらきみたちは抱けないのだ。初代が妾に選ばれたのはもう何百年も前のことなんだよ。ふしぎには思わないのかい」

 ギルバート伯爵はわたしたちよりもずっとお歳を召していらっしゃる。主君となるには長寿でなければならないのだ。わたしたちはこの孤島の城に連れてこられてまずギルバート伯爵にまつわる話を教えられる。

「単純な疑問とはどのようなものでしょう。教えていただければわたしもきっと抱けるようになると思います」

「きみは私以外に男を見たことはあるかい」

「いいえ。召使いはみなわたしと同じような娘ばかりですので」

「そうだろう。そして私は伯爵だ。きみたちにとっては君主でも、わたしよりも位の上の者たちはいくらでもいるのだよ。そして妾制度は、初代ペブルのあの事件を嚆矢として我々血族のあいだで膾炙してしまった。ペブルの遺志とは裏腹に、まったく真逆の用途としていまでは重宝されている」

「ギルバート様の物言いではまるで、わたしたちの存在をギルバート様は好ましく思っていないように聞こえます」

「感謝はしているよ。申し訳なくすら思う」

 君主にかように哀し気な顔をさせるわたしはやはり従者失格だ。

「ご馳走様でした。もうお暇します。お休みのお邪魔になりたくはありませんので」

「おや。添い寝はしてはくれないのかい」

「ご命令とあれば致しますが、わたしが床を占めたりなどすれば、きっとお邪魔になります。わたしは寝相がよろしくありませんので」

「それは困るな。ではきょうのところは諦めるとしよう」

 わたしは椅子から下りて、食器を片づけようとした。「それはそのままでいいよ」とギルバート伯爵が言うので手を止めた。「よいのですか」

「ああ。それは別荘の料理人に作ってもらったもので、きみたちとは管轄が違うんだ」

「そうでしたか」道理で見たことのない食器だと思った。「そうでした。薔薇園についてですが、あすの薬剤撒きにはほかの者たちにもお声掛けをして手伝わせましょうか」

「ほかの者たちに?」

「二人でするよりも手分けをしたほうが早いと思いまして。葉摘みのときに閃けばよかったのですが、頭が回りませんでした。至らずにすみません」

「そんなことはないよ。薔薇園はそれこそ私の娯楽だ。本来はきみたちの手を煩わせるほどの仕事じゃないんだ。私のほうが頼んでやってもらっているようなものだから。そうそう。私の息抜きでもあるんだ。時間が許すのなら私がじかに手入れをしたいくらいでね」

「そうだったのですね」

「だからあすもきみと二人だけで大丈夫だよ。ありがとう」

「いえ。時間はあるので、ギルバート伯爵がそれでよろしいのであればわたくしもそれがよろしいと思います」

「ではあすもお願いしますね」

「はい。楽しみにしています」

 お辞儀をして扉の外に出ようとすると、待て待て、とギルバート伯爵に止められた。腕を引かれ、ふんわりと背に手が回される。伯爵の体温がローブ越しに伝わった。伯爵からは石鹸のよい香りがした。

「そっちじゃないよ。裏道はここだ」ギルバート伯爵は箪笥の横の壁に触れた。

 壁には紋様が描かれていた。赤い薔薇の細かな紋様の中で一つだけ青い薔薇があった。そこを伯爵は指で押した。

 すると壁に亀裂が走った。亀裂は刹那に扉の縁の形に広がった。

「さっ。ここを明かりに沿って歩いていけばこの時間帯ならばきみの宿舎のどこかには出る。怖くなったら適当に隙間を覗いてごらん。見知った場所が見えるはずだよ」

「大丈夫でしょうか。すこし怖いです」

「なら送っていこう」

 そう言ってギルバート伯爵は自ら隠し扉を潜って、裏道に入った。手招きするので、わたしは唯々諾々と差しだされたその手を握った。

 裏道は城の至る箇所に通じているようだった。正規の道の明かりが壁越しに漏れているので足元が見える程度には明るい。隙間を覗くと城内の廊下や室内が見えた。

「伯爵はいつもこうして城の中を見て回っているのですか」わたしたちの会話は筒抜けだったのではないか、と不安になった。聞かれて困る会話はしていないが、それでも君主に聞かせられるようなしゃべり方ではないこともままある。

「たまにね。目的はあくまで近道と姿を見られずに逃げ出すためのものだから」

「逃げだす……」

「職務からね。これでも忙しいんだ」

「とてもそうは見えませんでしたが」正直な旨が口を衝いたのは、まさにそのように言って欲しそうに映ったからだ。

「うん。一日を一区切りとすればたしかに忙しくはないかもしれない。私たちときみたちとでは時間感覚が違うから」

「時間感覚……ですか」

「きみが気にすることではないよ。きみたちはそういうことに違和感を覚えないように教育されているわけだから。それがしぜんな反応だ」

「教育……」

「おっと。そろそろじゃないかな。そこを覗いてごらん」

 促されて壁から漏れる明かりに顔を近づける。壁には隙間が開いており、そこからは見知った城内の一画が見えた。

「ここ、伯爵の銅像があるところです」

「そうそう。裏側のところが隠し扉になっているんだ。裏側からだと押せばすぐ出られるよ。入る分にはコツがいるから、こんど明るいときに説明してあげよう」

「はい。ありがとうございました」

「ではまた明日。よい夢を見てね。おやすみなさい」

「おやすみなさいませギルバート様」

 わたしは伯爵に見送られ、城内の銅像の裏に出た。

 壁に埋め込まれたように銅像は建っている。銅像は壁とすっかり接触してはおらず隙間が開いている。ほかにもこの手の銅像が城内にはあちらこちらにあるのだ。ひょっとしたらおおむねの銅像の裏側には隠し扉があるのかもしれない。

 わたしは歩き慣れた廊下を辿って、自室に帰還した。

 シャワーを浴び、着替え、髪を梳かしもせずに床に横になると融けるように眠りに落ちた。

 翌日、わたしは朝いちばんで薔薇園に向かおうとした。しかし途中で、同期生のルビーに呼び止められた。「パールさん、ごきげんよう」

「ルビーさん、おはようございます」

「お早いですね。もうお仕事ですの。慌ててどちらへ?」

「薔薇園です。薔薇たちが病に罹ってしまって、いまはその治療を」

「あらあら。それはたいへんですね。ギルバート様の大事なお庭を損なってしまったのですね」

「ああ、はい。そうかもです」

「かも?」

「いえ、そうです。損なってしまいました」

「その割にずいぶんとうれしそうな顔をしていましたけど」

「そうでしょうか。いえ、そうかもです」

「かも?」

「嬉々としていました。すみません。気を引き締めて職務に臨みます。もう行ってもよろしいですか。薔薇たちにきょうはオクスリを撒く日なので」

「そう。いっそあなたにもオクスリを差し上げたいくらいだわ」

「あればわたしも欲しいです」

「皮肉も通じないのね」

「心配してくださりありがとうございました」

「礼には及ばないわ。たとえ相手がパールさんであろうとも、あたしくしは同期の尻拭いをする立場にあるんですもの。何か困ったことがあったら言ってちょうだい。なんとかしてあげる」

「本当ですか。わあ、うれしいです。では一つお願いしてもよろしいですか」

「厚かましいわね。でもいいわ。パールさんのお願いを聞いてもあたくしには何の得もないのだけれど、それでもあたくしは優しいので聞いてあげる」

「さすがはルビーさんです。じつはわたし、妾制度のことをちゃんと勉強したいと思っていまして、時期妾候補と名高いルビーさんならきっと過去の歴代妾の方々のことにもお詳しいはずですし、よければ資料か何かをお見せしてくださいませんか」

「あら、殊勝なお心持ちですわね。ではパールさんも妾になるべくあたくしと切磋琢磨したいとおっしゃるの」

「いいえ。わたしは妾にはなれません。選ばれたいとも思いません。ルビーさんのほうがよほど妾にふさわしいですから、是非ともルビーさんに妾になって欲しいと望んでいるくらいです」

「あら、張り合いがないわね。でもそういうあなたの分を弁えた態度は嫌いじゃないわ。潔いのって好きよ。ええいいわ。妾制度がなんたるか、その歴史にまつわる書物をお貸ししてあげる」

「ありがとうございます」

「その代わりと言うつもりはないのですけれど、もしよろしければ薔薇園から一輪で構いません、薔薇を戴けないからしら」

「薔薇ですか。構いませんよ」

「ギルバート様が好いたという薔薇をあたくしも一度くらいは直に目にしておきたいの」

「ああでしたら」わたしは宙に視線を漂わせる。「いっそ、薔薇園にこられてはいかがですか。ギルバート伯爵がそこにいるとはいまここで打ち明けるわけにはいかないが、もし一緒に来て偶然に鉢合わせしてしまうのならこれは問題ないように思えた。ギルバート伯爵のほうでわたし以外に会いたくないと判断したならばきっと隠れたままでいるはずだ。

「いやよ。あすこ、なんだか不気味なんですもの」

「はあ。そうですか」

「書物はあなたの部屋にほかの者に頼んで届けさせるわね。引き留めてしまってごめんあそばせ。お仕事頑張ってちょうだいな」

「はい。ルビーさんも、早く妾に選ばられるとよいですね」

「ええ。そのつもりよ」

 ルビーは切れ目のない髪の毛を翻して遠ざかっていった。彼女の髪の毛はまるで昨晩目にしたギルバート伯爵のローブのように上品だ。所作一つとっても歩くときに極細の平均台の上を歩くような軸のブレなさある。隙がない。美の極致とは彼女のようなことを言うのだろう、と造形の美しさにわたしは感嘆の息を漏らす。

 ギルバート伯爵の妾としてまさに目を掛けられるにはあれくらいの美がいるはずだ。わたしには到底縁のない話だ。

 薔薇園へと赴くとすでにギルバート伯爵が水撒きをしていた。

「おはようパールさん。薬を水に溶かしておいたから。水やりと一緒くたにして済ましてしまおう」

「遅れてすみません。同期の方と立ち話をしてしまって」

「いいよ、いいよ。それならもっとゆっくり話してきてもよかったのに。きみの友達は何も薔薇たちだけではないのだろう。私と違ってきみには友達が多そうだ」

「は、はい」

 返事に困った。わたしには友達と言える友達がいない。いいや、わたしはかってに友人と思っているが、どうやら相手はわたしを友人とは見做していないらしい。そういうことが多々あった。いまもそうだ。わたしはギルバート伯爵にとっては友人ではないのだ。当たり前の話ではあるが、身分の差を感じなくもなかったので、わたしはややもすると主君に対して親しみの念を覚えていたのかもしれない。

 薬剤散布の作業はわたしが思っていたよりもすんなり終わった。病気の葉を毟り取る作業のほうがよほど時間がかかった。

「半日で終わったね。よかった」

「はい」

「ときどき肥料にも同じ薬を混ぜて撒いておくと、予防にもなるから」

「そうします」

「パールさん。きみみたいなコが薔薇園の管理者になってくれて私もうれしい。ありがとうございますね」

「そ、そんな」

 薔薇たちを病気にしてしまった上、ろくに対処法も知らなかったわたしが掛けられてよい言葉ではなかった。舌を噛んで自害してしまおうか、と素で思った。

「舌を噛んで自害しようとか考えていないだろうね」

「い、いえ」

「ふふ。判りやすいコだね。面白いコだよ。退屈しない」

 わたしは恥ずかしくなった。感情の乱れが面に出ないようにするほかに対処のしようがない。

 てっきりわたしはこの日を境にギルバート伯爵は薔薇園には現れなくなると思っていた。けれどそれ以降もことあるごとにギルバート伯爵は薔薇園にやってきて、新しい薔薇の苗や種を持ってきてはわたしに手渡した。

「好きに植えてみて。この薔薇園の模様替えをしよう。パールさんの痕跡を残すんだ」

「そんな滅相もございません」

「でも残すんだ。それがきみの仕事だよ。管理者として職務を全うするんだ」

「ですが」

「お、意見があるんだね。いいね言ってみて」

「それでは先代のペブルさまに申し訳が立たないのではないかと」

「ああ、そういうことか。どうだろうね。でもたぶんだけど、ペブルもそのほうが喜ぶさ。パールさんの好きに庭を育てて欲しいと思っていると私は思うよ」

 そのとき遠くの空を見詰めたギルバート伯爵の眼差しは、冬の到来を報せる凍てついた風の下にあって、真夏の木漏れ日のごとく温かさに溢れていた。

 妾選抜の儀は年を越した最初の大掃除の後に執り行われる。年末になると、同期の召使いたちはみなそわそわとしだした。最後の得点稼ぎに勤しむべく、いかに美しい振る舞いを取れるのかと「じぶん」という存在から汚点や欠点を削ぎ落とそうと日夜自分磨きをしている。こそぎ落とされた汚点や欠点とて、美しい花を咲かせる養分になるのに。わたしは同期たちの忙しない姿を尻目に、独り寒空の下で薔薇たちに肥料をやった。

 冬の薔薇園は雪のごとく白い種が咲き誇る。

 わたしは毎日のように薔薇たちに話しかけに庭を訪れ、ときおりやってくるギルバート伯爵と戯れの時間を過ごした。伯爵との会話はもっぱら薔薇にまつわる話で、薔薇園の過去の話もよく話題に上った。

「ペブルは元々、庭師の子でね。城の召使いですらなかったんだ」

「そうだったんですね」

「私がペブルに懐いてしまってね」

「逆ではないのですか」庭師の子が城主の子に懐いたならば話は分かる。

「立場は完全に反対だった。私は存外、泣き虫でね。よく父上や母上、それから教育係たちに叱られては、城中を逃げ回っていた。どこもかしこも父上や母上の味方ばかりでね。私には居場所がなかった」

 ここ以外には。

 そう言ってギルバート伯爵は染み一つない背広のまま地面に寝転んだ。「いい天気だね。ずっとこのまま寝転んでいたい」

 わたしはその様子を立ったままで視界に入れていたが、

「きみも寝転んでごらん。気持ちがいいよ」

 と言われて、試しに仰向けに地面に身体を横たえた。青空の海を雲が船のように泳いでいる。だんだんと雲が動いているのか、じぶんが大地ごと動いているのか分からなくなる。

「眠くなっちゃいますね」

「ああ。本当に」

「ギルバート様は、どうして妾を選ばれるのですか」口を衝いていた。単なる疑問だった。あれほど初代妾のペブル様を慕っているのに、なぜほかの妾まで所望されるのか。わたしはそれがふしぎだった。

「きみには正直でありたい。だから答える」一拍の間のあとで彼は言った。「妾を選ばねば私たちは生きていかれないからだ」

「お子様が必要、ということですか」子だくさんを目指しているのだろうか。そう思った。

「いいや。私たち血族には繁殖という概念がない。血分があるだけだ。と言ってもパールさんには分からないだろうけど」

「すみません」

「いいんだ。分からないほうがよいこともこの世にはある。パールさんは城の外に出たいと思ったことはあるかい」

「城の外にですか」

「ああ。自由になりたいとは思わない?」

「自由……わたしは自由ではないのですか」

「うん。そうだね。きみたちはそのように考えるように、疑問を抱かぬようにと枷を嵌められている。手枷のように。それとも足枷のように」

「ギルバート様はわたしが自由を求めたほうがうれしいですか」

「うれしいような、そうでもないよう。いいんだ。パールさんはそのままで。変わるべきは本当は私たちのほうなのだから。でもきっとそうそう容易く変われるようなものでもないのだろう。パールさんはずっとそのままでいてね」

「わたしはたぶん、変わろうと思っても上手に変われません。わたしはずっとわたしなので」

 ギルバート伯爵は目を瞑ったのか、間もなくして寝息を立てはじめた。衣擦れのような微かな響きが、わたしにも微睡の風をもたらした。わたしは風に揺蕩うハンカチのようにうとうとと現から夢へと落ちていく。

 夢の中でわたしは本を読んでいた。

 それは実際に毎晩目を通していた妾制度の歴史にまつわる書物だった。同期のルビーさんが貸してくれた本で、そこにはギルバート伯爵の語ったように歴代の妾たちの名前がずらりと数百年分並んでいた。総勢で数百を超す妾がこれまでに生まれては、別荘へと移った。

 いまも息災でいらっしゃるのだろうか。

 わたしは書物に目を通し、そこに歴代妾たちの一切のその後の来歴が記されていないことに一抹の不安を幻視した。

 妾として抜擢され別荘へと移った者たちは、幸せに暮らしている。

 わたしたち召使いはそうと信じ込んでいるだけれど、それはどこまで確かな知見の元に認定された事実であろうか。

 本の、とある項に目を留める。夢の中の出来事だけれど、これはすでに体験した記憶の再現なのだとわたしには判った。

 妾制度発端となった事件について書かれている。

 初代妾となったペブルは、その年、「晩餐会」の代わりに「妾制度」の発案を行った、とある。

 初代妾のペブルは、自らギルバート伯爵の贄血となることを宣言したのだそうだ。

 ペブルが宣言した贄血とは、妾制度ができる以前に、ギルバート伯爵の親族たちのあいだで罷り通っていた「晩餐会」における大役のことだという。召使いたちは毎年、ギルバート一族の「晩餐会」の贄血として、大役を一同に任されていたそうだ。

 それを初代妾となったペブルが、大役を一年に一人のみに限定した。自ら贄血を引き受けることで、そのような新しい制度を確立したのだという。

 わたしは夢の中で、その場面の目撃者となる。

 豪勢な食事の並ぶ宴会場にて、初代妾ことギルバート伯爵の幼馴染のペブルさまが、扉を開け放ち、そこここに並ぶ贄血なる大役に抜擢された召使たちのまえに立つ。そして何かを言うのだ。

 その形相は、怒りに燃えており。

 その立ち姿は、勇猛にして果敢だ。

 ギルバート伯爵はそのころきっとまだ伯爵ではなく、みなから祝われる立場でありながら、誰よりも目上の者たちを労い、敬い、献身する立場であっただろう。

 ギルバート伯爵がそうであったように、ペブルさまを慕う者はすくなくなかったはずだ。召使いたちは、召使いでもないのに大役を引き受けると言いだしたペブルさまをどう思っただろう。

 せっかくの機会を奪われたと思っただろうか。

 それとも、ペブルさまの言葉に何かを思い、大役を下りるだけに留まらず、ペブルさまに大役ごと何かを譲ろうとしただろうか。委ねようとしたのだろうか。

 分からない。

 いったいそのとき何があったのか。

 贄血とは何で、晩餐会はその後になぜなくなったのか。

 どうして妾制度が代わりに設立されたのか。

 ぶるる、とわたしが身体を震わせると身体にはらりと温かい膜が張った。目を開けると、ギルバート伯爵がわたしの身体に上着を掛けているところだった。

「おや。起こしてしまったかな」

「寝てました」

「もう日が暮れてきたよ。寒いから戻ろう。きょうは私の部屋でお茶を淹れてあげるよ」

 数回に一度は、こうしてわたしはギルバート伯爵の個人部屋に招待された。これはおそらく、とわたしは見抜いている。どうあってもわたしが妾に選ばれることはなく、候補にもならないからこその優遇なのだと。仮に特別扱いしたところで、野良猫に施すミルクのような扱いにすぎないのだとわたしは自覚していた。

 主君の施しを受けるのも召使いの役割の一つだろうと思い、拒まずに甘受している。

 暖かい室内でお茶を啜る。召使いのわたしがすべきことなのに、ここではギルバート伯爵がお茶を淹れてくれる。わたしはじっと椅子に座っていることが役目なのだ。主君にそのように徹しよ、と命じられてしまえばわたしごときが逆らう真似はできない。

「パールさんはここではお人形さんと同じだから」そう言ってギルバート伯爵はおままごとをして遊ぶ幼少組みの召使いたちのように、殊更わたしを甘やかすのだった。

「このお菓子、美味しいです」

「口に合うならよかった。親戚の侯爵のお土産でね。いま人間たちのあいだではそのクッキーが人気らしい」

「人間たちのあいだでは?」

「ああいや。言葉の綾さ」

「贄血とはなんですか」わたしはぽつりと口にしていた。ギルバート伯爵が椅子に腰かけようとしていて、一瞬動きが止まった。そのまま椅子に座ると彼は両手を祈るように組んで、その上に顎を載せた。「どこでその言葉を?」

「はい。同期のコに本を貸していただいて。妾制度についての本です。歴史の」

「勉強熱心だね。パールさんも妾になりたくなったのかな」

「いえ、そういうことでは」

「うん。あれは、みなが思うような素晴らしいものではないよ。だから、みながこぞって目指したくなるような装飾を施している。そうしないと明日にでも妾の担い手はいなくなる。候補すら見繕えずに、私たちは途方に暮れて、以前のような【晩餐会】を開くこととなる」

「その晩餐会は、どうしていまはなくなったのですか。妾制度とはどう関係があったのでしょう」

「本にはなんと書いてあったんだい」

 わたしはギルバート伯爵に読んだ本の内容を掻い摘んで話した。

 初代妾のペブルが晩餐会に乗り込んだ話だ。

「まあ、嘘は書いていないか」ギルバート伯爵は紅茶のお代わりをわたしのカップに注いだ。長テーブルの端に、わたしと伯爵が直角を描いている。交わるようで交わらぬ最短にして最小の距離だ。「晩餐会は、我らが一族の闘争の場だよ。命を繋ぐために、一族総出で、最も立場の弱い領地に出向き、その庭に集った果実を根こそぎ喰らい尽くす。しかしそのために、いつだって一族内での闘争が絶えず、できるだけ果実を多く収穫しようと、不要な果実の乱獲が盛んに行われた」

「果実とはどういうものなのですか」どんな樹に生るのか、と気になった。いまの技術ならば栽培できるのではないか、とわたしは考えた。

「そうではない。そうではないんだ。私はいまでこそ伯爵の身分だが、当時は父上も母上も、男爵の地位でね。言ったら、最も【晩餐会】の舞台になりやすかった立場だった。私がいま伯爵なのも、初代妾となったペブルのお陰だ」

「晩餐会ではきっとたくさんのお食事が必要だったのでしょうね。取りやめて正解だったと思います」わたしにはそれくらいの慰めしか言えなかった。「ペブルさんはきっと生き物の命を大切にしましょう、と言いたかったんだと思います」

 ギルバート伯爵はそこでカップをテーブルに置いた。中身が零れた。手が震えている。空いたほうの手で目元を覆っていた。

「どうされたのですか」

「なんでもないよ」そう言葉で言いながらも伯爵の声は震えていた。手の震えがそのまま声にまで伝わったかのようだ。

 しばらくギルバート伯爵は目元を押さえたきり声を発しなかった。

 わたしはじっと伯爵を見守った。

 カップに添えられた手が震えていて、あたかも凍えて見えたのでわたしはその手におそるおそる触れた。

 冷たかった。まるで冬の土のように。

「パールさんは温かいね。まるで夏の土のようだ」

 わたしの胸中に湧いた所感と似た返事に、わたしはくすりと笑った。

「笑ったね」ギルバート伯爵は深呼吸をすると、ようやく目元から手をどけて、わたしたちのあいだに漂った沈黙を誤魔化すように背伸びをした。「やれやれ。むかし話は湿っぽくなっていけない。パールさんとはもっと未来について語りたいよ。そうそう。アリス婦長はお元気かい」

 アリス婦長とは、召使いの中でも最古にあたる方だ。わたしたちの親のような存在だ。

「はい。矍鑠とされています。現場仕事からは引退されていますが、後継の育成に力を注いでいらっしゃいます。そう言えば、アリス婦長は一度も妾制度に候補にもならなかったようですね」

「ああ、そうなんだ。でもアリス婦長のような方が残っていなくてはきみたちも困るだろう」

「そう、ですね」

「ああいう方は妾にはもったいない」

「きっとそれを聞いたらお喜びになられると思います」

「だといいけどね。あの人のことだから、嘘おっしゃい、の一言で一蹴されるのがオチさ」

「おっしゃりそうですね」想像するのが容易かった。

「ペブルはね。ああいうアリス婦長やパールさん、きみみたいなコたちのために、【晩餐会】を阻止しようとしたんだ。召使いでもない、単なる庭師の子供だった癖にね。そのころから断絶されていた他所の城地とほかの区域の人間たちまで巻き込んで」

「ギルバート様?」

「飢饉さえ起こらなければきっとペブルの狙い通りに事が運んだのかもしれないのに。けっきょく、人間たちのほうでも飢饉であぶれた子どもたちを口減らしに捨てざるを得なくなった。そうした子どもたちを引き受ける代わりに、私たち一族は、人間たちの里に、家畜や食料の種や苗を贈った。ここに妾制度の礎が築かれた。私たち一族のあいだの位による不公平さも、妾制度によって、各々の城から毎年一人の妾を選ぶことで、【晩餐会】を開くことなく贄血を賄えるようになった。順繰り巡る回路がこうして築かれた。里から子どもたちが各地の城へと渡り、子どもたちを教育しながら私たちは人間たちにとっての食料を、各地から搔き集め、ときに城内で栽培し、配る。私たちは一年に一度の【贄血】を摂れれば、あとは人間たちと似たような食事を摂るだけでも生きながらえる分には充分だ。各地の里を滅ぼさず、永続的に生存を可能とする妾制度はこうして完成し、いまに至る」

「すみません。むつかしい話で、よく分かりませんでした。それではまるで妾が、食材か何かのように聞こえます」

 沈黙が部屋を満たした。風が窓を叩き、反響音が部屋の隅の気温の低い箇所を浮き上がらせるようだった。

「冷えるね。暖炉の火をもうすこし強くしよう」伯爵は暖炉に薪をくべた。

 この日は食事を摂るとわたしは、二十一時を回る前に隠し通路を通って自室に戻った。このころにはもう伯爵は見送りについてくることはなくなった。わたしのほうでも自在に隠し通路を行き来できるようになった。

 年末は雪が積もり、薔薇園でのわたしの仕事は雪掻きが主な内容となった。けれどこれは、ギルバート伯爵の案で、薔薇たちに傘をつける工夫により、雪掻きをせずに済むようになった。

 わたしは年末年始をゆっくり過ごせた。その間、ギルバート伯爵と会う機会はなかった。薔薇園で会わなければわたしと伯爵とのあいだに接点はあってないようなものだった。この状況が本来なのだ。わたしはシンシンと積もる雪を窓越しに眺めながら、束の間の休暇を満喫した。

 年が明けても、わたしのすることは限られる。肥料の準備と、傘の上に積もった雪下ろしくらいがせいぜいだ。雪融けの訪れを待つよりない。

 わたしは大掃除の手伝いに駆りだされ、半年ぶりに騒がしい場所で作業をした。ほかの召使いたちに交じって働くのはたいへんだが、新鮮でもあった。知らない顔も多く、みな与えられた仕事に一生懸命に取り組んでいる。

 わたしはじぶんの領分を越えて作業をしてしまうので、注意を受けるし、顰蹙を買う。そのたびに、一足先に終わった分をぼうっとして過ごしていると、やはりそこでも叱られるのだった。

「ちょっとパールさん。あなただけサボって、みなに申し訳ないとは思わないの」

「すみません。ですがわたしの分は終わってしまったので」

「ならほかのコたちを手伝ってあげたらどうなの」

「そうしたつもりなのですが、迷惑だと怒られてしまって」

「あなたって何をやらせてもどんくさいのね」

「どんくさくてごめんなさい」

 仕方がないのでわたしは、最も作業の遅れているコの手伝いに回った。さすがに最も出遅れているコは、わたしの手伝いを黙って受け入れてくれた。感謝もないが、かといって追いだされる真似もされなかった。

 みなカリカリしている。

 きっと妾選別の儀が近いせいだ。

 わたしはできるだけ目立たぬよう、みなを刺激しないように静かに過ごした。

 そしていよいよ妾選別の儀の日。

 わたしは風邪を引いて体調を崩した。せっかくの妾選抜の儀に参加できなかった。どの道、わたしが選ばれることはないので難はないが、誰が選ばれたのか、ギルバート伯爵がどんな顔で召使いたちのなかから妾を選ぶのかを見られないのは残念に思った。

 城内にある教会にて妾選抜の儀は開かれた。それはそれは神聖で荘厳な儀式となる。一年に一度ということもあり、わたしたち召使いたちにとっては楽しみの一つだ。それを見逃したとなれば、やはり尾を引くものがある。

 咳を耐えながらわたしは、床の上で窓の外に舞う雪が徐々に雨になっていく様を眺めた。きっとこれが最後の雪になるのだろうと予感しながら。

 もうすぐ春がやってくる。

 夜になるころに、同期の召使いが見舞いにきてくれた。アリス婦長に頼まれたそうだ。そのときにわたしは知った。

 今年選ばれた妾は、ルビーだった。

 わたしの同期から妾が出たのは初めてのことで、じぶんのことではないのに喜ばしく、鼻がすこしだけ高くなった心地がした。

 寝返りを打ったところで、ルビーにお別れの挨拶を言えなかったことに思い至った。でもルビーのほうではわたしの言葉など霞んでしまうほどの祝いの言葉をいくらでも掛けられるだろう。むしろわたしの言葉で晴れ舞台に泥を塗らずに済んだだけよかったのではないか。

 こうして遠くから祝うくらいがちょうどよい気がした。

 ルビーおめでとう。

 おめでとうルビー。

 しばらくはギルバート伯爵とも会えない日々がつづくだろう。別荘地にてルビーと伯爵が仲睦まじく暮らしている姿を想像し、暖かく満ち足りた心地に浸った。わたしはそこにいなくていい。むしろ、伯爵にはもっと薔薇のような存在と共に暮らして欲しい。時間がもったいない。わたしに割く時間は、もったいない。

 あとで聞いた話だと、ルビーは妾発表のときに薔薇を一輪胸に挿していたそうだ。わたしが頼まれて薔薇をあげたのはずいぶん前のことだから、きっと誰かに頼んで薔薇園から捥ぎ取ってきてもらったのだろう。わたしに一声なかったのは、何らかの配慮なのか、それとも契機の問題だったのか。いずれにせよルビーは、わたしが手塩にかけて育てた薔薇を胸に、妾となって、わたしとは別の世界の住人として旅立ったのだ。

 もう二度と会うことはない。

 ギルバート伯爵と同じ、雲の上の存在となったのだ。

 おめでとう、とわたしはもういちど念じた。

 雪が融けてから薔薇園の管理の仕事を再開した。きっとわたしは一生死ぬまでこの仕事をつづけるのだろう。そう予感しはじめていた。

 ギルバート伯爵が薔薇園に現れたのは、仕事を再開しはじめてから三日と経たぬ間のことだった。

「やあ、パールさん。元気だったかな。薔薇たちはどうだろう。冬を無事に越せたかな」

「ご無沙汰しておりますギルバート様。薔薇たちは元気です。傘のお陰で難なく春を迎えられたようですよ。ギルバート様のほうこそ、よいのですか。妾をお迎えになられたばかりではありませんか」

「うん。そうなんだ。そう言えば、儀式の場にパールさんの姿がなかったように思えたのだけれど」

「はい。風邪で寝込んでおりました」

「なんと。知らなかったな。お見舞いに行けたらよかったのに」

「そんな滅相もございません」

「きょうは薬剤入りの水を撒いて早めにあがろう。剪定作業はもうすこし暖かくなってからでもいいだろうし」

「はい」

 ギルバート伯爵の言うように薬剤を溶かした水を撒いてこの日は仕事完了とした。とはいえ薔薇園は広い。伯爵と手分けをしても、朝からつづけて十五時まで掛かった。貯水槽にあらかじめ薬剤を溶かしていたので半日で済んだが、本来ならばこれは三日掛かりの仕事だ。わたし一人ならば一週間はかかる。ギルバート伯爵の手腕と工夫あってこその短縮だ。

「お疲れ様。今年もよろしくお願いしますね」いつもの部屋に移動して、紅茶で乾杯をした。すこし遅い新年会だ。

「はい。こちらこそよろしくお願いいたします。ギルバート様もお忙しいのに、お手伝いまでしていただいて。召使いの分際で恐悦至極です。幸甚の至りです」

「パールさんは言葉が硬いな。もう私ときみの仲じゃないか」

「どういう仲なのか分かり兼ねます」正直な所感だ。

「そうだな。主従の範疇でくくれない、単なる個と個の関係かな」

 個と個の関係。

 考えてみたが、よく分からなかった。この事実一つとってもも、ギルバート伯爵とわたしのあいだには越えられない深い溝があるように思えた。

「ルビーさんはほかの妾の方々と仲良くできているでしょうか」わたしは同期のよしみで心配した。「ルビーさんは負けず嫌いなところがありますから、打ち解けるのに時間がかかるのでは、とすこし気にしています」

「パールさんは優しいね。でも大丈夫だよ。ルビーさんも……そう、ほかの妾のコたちのように上手に【打ち解けよう】としているところだから」

「それはよかったです」

「そうだ。きょうは新しいデザートがあってね。ちょっと待っておいで。いま取ってくるから」

 わざわざギルバート伯爵が取りに行かずとも、と思ったけれど、そこは事情があるのだろうと思うことにした。たとえば、本当はかってに食べたらいけないのだが、ギルバート伯爵がわたしに食べさせようと思い隠していたのかもしれない。

「子どもみたいな方」

「ん。何か聞こえたな」扉を開けて伯爵は言った。「すぐに戻るよ。紅茶とクッキーでお腹いっぱいにしないこと」

「はぁい」甘い返事が喉から出た。じぶんでも驚くほどの変化が、この間にあったのだと知った。

 ギルバート伯爵が部屋から消えた。

 しんと静まり返った部屋でわたしはお人形さんらしくじっとしていた。

 するとどうだろう。

 風の音の狭間に、妙な声が交って聞こえた。人間の声だ。すすり泣き、呻き声、それとも悲鳴。よく分からない。言葉ではないが、何かが声を立てている。大きいかと思ったら小さく、繁殖期の猫の鳴き声のようでもある。

 わたしはそわそわとして落ち着かなくなった。

 どことなく聞き覚えのある声に聞こえたからだ。しかしそんなはずはない。彼女はそんな声を出したりしない。高潔で誇りを胸に生きていた。彼女なはずはない。

 しかしわたしはそれを否定しきれなかった。

 椅子から腰を上げ、扉に近づく。

 意を決して取っ手を握り、右にひねった。きぃ、と小さな音を立てて扉が隙間を広げる。

 顔を差しこみ、扉の奥を覗きこんだ。廊下だ。わたしたち召使いたちの居住区のある区画とは違い、全面が石造りの空間だった。

 呻き声はいっそうハッキリとわたしの耳に届いた。どうやら隣の部屋らしい。そこに誰かがいるのだ。

 わたしはギルバート伯爵からの言葉を思いだし、きょうはまだ「扉の外に出るな、じっとしていろ」と命じられていないことをよくよく確かめてから、一歩足を踏みだした。

 隣の部屋の扉は思ったよりも遠かった。三十歩は歩いた。

 扉のまえに立ち、しばらく耳を澄ました。やはり中に誰かいる。すすり泣き、呻き、悲鳴している者がいる。一人だろうか。二人以上いるようには思えなかった。

 鍵が掛かっているだろうと思って取っ手を捻ったが、案に相違して扉は難なく開いた。

 わたしは隙間に身を滑りこませるようにして部屋の中に入った。

 薄暗い室内はじめっとしていた。わたしがいたギルバート伯爵の部屋とは大違いだ。

 声は、部屋の奥の一画から響いていた。窓には目張りがされており、月明かりも届かない。

 明かりは廊下から差しこむ松明の火のみで、それも扉の隙間からかろうじて部屋の中に影の濃淡を浮かび上がらせる程度だった。

 わたしは呻き声の主のいる場所まで歩を進めた。

 そして、ひょっとして、と思っていたそこにいるだろう者の名を呼んだ。

「ルビー……さん?」

 途端。

 声の主は暗闇に沈んだまま、言葉にならぬ慟哭を吠えた。獣と聞き紛うほどの激しい声量にわたしはその場で尻餅をついた。

 尻を引きずるように後退し、そして部屋を後にした。

 獣のごとき慟哭の狭間に、鎖のジャラジャラと擦れる音が反響していた。鼻には鉄の臭いがびっしりとカビのごとく膜を張った。

 わたしはギルバート伯爵の部屋に戻った。

 明るい室内に、清潔な家具たち。

 仄かな石鹸の匂いは、ギルバート伯爵の体から立ち昇る香りと似ていた。

 わたしは椅子に腰かけ、それからいましがた体験したことをどう解釈すべきか考えた。隣の部屋には誰かが囚われている。

 ギルバート伯爵に言えば助けてもらえるだろうか。けれど伯爵がそのことを知らないはずもない。ではあれは伯爵の指示によるものか。

 なぜかような非道を働くのか。

 眩暈を覚え、わたしは眉間を揉むようにした。

 それから手のひらを見詰め、そこが真っ黒に染まっていることに気づいた。

「お待たせ、パールさん。おとなしく待っていたかな」

 ギルバート伯爵が両手にお盆を抱えて現れた。扉を器用に腰で閉め、にこやかにわたしの元までやってくる。距離が縮まるほどに彼の表情は雲っていった。

 わたしは彼を見上げ、彼はわたしを見下ろしている。

「どうしたんだい、その手」

 お盆を置くと彼は心配そうにわたしの手を丹念に確かめた。血だと思ったのだろう。だがそれはわたしの血ではない。

 わたしが怪我をしていないと判ると彼は息を吐き、それからわたしの全身に目を配った。わたしもそこで遅まきながら、じぶんの衣服が汚れていることに気づいた。地面に尻餅を着き、引きずったからだろう。服は臀部に掛けて真っ黒な染みができていた。いまなお、ぽたりぽたりと床に雫を落としている。粘着質な雫だった。

「そっか。見てしまったんだね」ギルバート伯爵は眉を八の字に寄せた。

「お叱りになられないのですか」

「パールさんがわるいわけではないから」

「あすこにおられるのはルビーさんですか」

「ああ」

「妾様になられたのに、なぜ?」

 なぜあのような酷い扱いを受けるのか、とわたしは不思議だった。

「妾だからだよ。妾とは、私たち血族を生き永らえさせるための贄であり、血だ。ああして一年間、死なぬようにしながら私たちは妾から血を啜る。逃げられぬように手足を落とし、その落とした手足とて私たちはご馳走と見做して食べてしまう。きみたちにとっては化物そのものだ」

「そう、だったのですね」わたしは伯爵の言葉を素直に受け取った。跪き、懺悔をするかのような伯爵の姿があまりに惨めで愛おしく映ったからかもしれない。

「怒らないのかい」

「どうして?」

「私たちはずっときみたちを騙しつづけてきたんだ。命を差しだすことになる大役を、さもお姫さま候補を見繕うかのように偽装して。怒るのが当然だよ」

「そうは思いません。わたしたちはギルバート様に命を捧げている身です。たとえそれが言葉通りに命を捧げることになろうとも、それがギルバート様のためになるのならば本望です」

「それはね、パールさん。パールさんがまだ、妾に訪れる悲惨な末路を体験していないから言えることだよ」ギルバート伯爵はそこで初めてわたしに怒気にも似た声音を浴びせた。怒りを押し留めるようなこもった響きは、却ってわたしに伯爵への忠誠を固く結晶させるひとつまみの塩となった。

「ギルバート様が妾に訪れる末路を快く思っていらっしゃらないこと、そのお気持ち一つでわたしたちは救われるように思います」

「それは間違っているよ。それは間違った気持ちだ」

「ですが、そのようにわたしたちは教育をされているのでしょう? ならばそのように考えるのもまた当然のことかと存じます」

「私はできればきみたちにあんな目に遭って欲しくはない。私一人の命を投げ出して終わらせることができるのならいつでもこの身を捧げよう。しかし、私だけの問題ではないのだ。私がいなくなればこの城の召使いたちはほかの地の血族の肥しとなるだろう。晩餐会が再び復古してもおかしくはない。なれば私はそうならぬようにと采配を揮う役目から下りるわけにはいかない。せめてその間、パールさんやアリス婦長のようなコたちを妾にせぬように尽力するよりない。せいぜいがその程度の力しか私にはないのだ」

「苦しんでおられるのですね。苦しいのですね」

「死ねるものならいっそ死んでしまいたいほどに」

 わたしはそれを聞いて、考えを曲げた。ギルバート伯爵がそのように苦悶なされているのならば、妾制度はないほうがよい制度と言える。本望ではない。たとえこの身をギルバート伯爵のために費やせるのだとしても、その結果に伯爵が苦しまれては本末転倒だ。

「では、破棄しましょう」

 わたしが言うと、ギルバート伯爵は顔を上げた。夜道で出遭った猫のような表情で固まる。

「死んでしまってもいいとお考えになるほどに苦しいのであれば、そのように致してみてはどうでしょう。死ぬ気で抗ってみてはいかがでしょう。わたしたちもお供致します」

「上の位の血族たちに反旗を翻せと、パールさんはそう言っているのかい」

「それがギルバート伯爵の本意であるならば」

「いや、しかし」

「分かります。ギルバート伯爵はお優しい方ですから、あくまでそこは手段にすぎないのでしょう。誰も傷つかずに、妾制度も晩餐会も失くせるのならそれがよろしいのでしょう。たとえその末に、ご自身が滅ぶことになったとしても」

「パールさん……きみは、いったい」

「わたし、なんとなくですが、先代妾のペブルさまのお気持ち、いまならすこし解る気が致します」

 そしてきっと、とわたしは言う。

「ギルバート様も、いまのお気持ちはペブルさまと同じなのではないのでしょうか」

 伯爵がわたしの手を強く握り締めた。骨が軋むほどの強さで、その痛みがわたしには心地よかった。

「ギルバート様は一つ、誤解なさっています。たとえ妾制度の真実を明かされても、わたしたちはみな妾を目指すでしょう。いいえ、わたしがそうであるように、きっと真実を知ったからこそ率先して目指すようなコたちのほうが多いと思います。そしてみな、あなたにそんな悲痛な面持ちをさせる制度に、ひどく怒りを募らせるでしょう」

 ギルバート伯爵はそこで、隣の部屋の妾のごとく、押し殺した声で慟哭した。

 産まれて初めて痛みを分かち合えた渡り鳥のように。

 それとも冬に咲く薔薇のように。

 渦を巻く花弁のごとく皺くちゃの表情に、同じくらい嗄れた声音を咲かせるのだった。

 わたしはそれが、ひどく貧相で雪の結晶がごとく儚き姿に思え、胸の内に一輪の花が開花するのを感じた。

 わたしは伯爵の頭を撫で、わたしの膝に顔を埋めて泣きじゃくる狂おしき者の無様な姿に、この先の未来を幻視する。この赤子がごとき危うげな者をかように痛めつづけた制度を、者たちを、わたしは――わたしたちは、許さない。

 この命、果てようとも。

 よしんば、貪り食らわれる未来が訪れようとも。

 わたしは、断じて許さぬだろう不動の未来を、この胸に咲いた薔薇のごとく、緩やかに、柔く、思うのだった。



4222:【2022/10/30(13:25)*きょうはいつで、私は誰?】

体感、小説一つつくるごとに五年くらい経って感じられる。二万字以上になるとそれが顕著だ。今年は思いだせる範囲では、何もしていなかった。文字をぽちぽち並べていただけで、普段通りの十か月だった。客観的な事実と主観的な事実は、ほぼ同じことを言っている気がする。主観の世界とて、妄想と現実の区別がつかなくなったところで、客観的な現実の側面が強くその後に作用する。人間は肉体優位なのだ。しかし、主観に生きていることもまた揺るぎない。外と内の変換機能が、外と内のどちらに対して鋭敏に作用するのか。ここの割合によって、人間の認知の歪みは最大化したり最小化したりするのだろう。何かを目にしてそこにどんな意味を見出し、どのように過去の記憶と参照し、解釈するのか。ここの変換が、外世界優位なのか、内世界優位なのかによって、認知の歪みは比率を増すのだろう。畢竟、過去のじぶんの知見にどこまで引きずられるのか、が人間に科せられた認知の限界と言えよう。つまり、本来であるのならば、その都度その都度の現実を、毎回再検討するくらいの演算能力があればよいのだが、人間は未熟ゆえにそれができない。そのため、過去の記憶を参照することで、楽をしている。ズルをしている。ここに、認知の歪みの生じる穴が開く。たとえば統計で判断すると言ったときに、いったいいつからいつにかけて集めたデータなのかによって、導き出される解は変わる。百年前の人間から集めたデータなのか、それとも現代人から集めたデータなのかによって、そこから紐解ける解釈の余地は変わるだろう。これは時間経過のスパンによらず、本来は、一秒後と一秒前であれ生じているはずだが、そこを人間は扱わずとも困らない「緩い世界」に生きている。だがそうした見逃されてきた「緩いズレ」は、複雑化していく社会の中では、見逃しがたい奇禍として結晶することもあり得るだろう。これからはこうした、これまでは無視してよかった極小のズレが無視できない規模で創発する可能性を考慮していくほうが、不可視の穴を放置せずにおく、という意味で、より不測の事態に対処できるようになるのではないか、と考えられる。とはいえ、そのためには演算能力の高い人工知能のような、世界をより緻密に俯瞰して捉えることのできる高次の存在が入り用だ。すなわち、これからの人類は、人間には捉えきれない複雑で高次元の社会構造を編みだし、あちらこちらに地雷をばら撒きながら発展していく危うい未来に足を踏み入れていくようになる、と妄想できる。生物が単細胞生物から多細胞生物に進化したように、人類もまた、人類という単細胞から、より高次の複雑な世界を認知可能な人工知能ありきの世界へと突入していくのではないか、との一つの懸念をここに述べておく。大事なのは、単細胞生物と多細胞生物のあいだに、優劣の差はないという点だ。どちらにも、不可視の穴があり、認知できない世界がある。相互に補完し合って共生していく。これが適うと、生態系がそれで一つの生物のように振る舞い、回路として機構を維持できるようになるのだろう。進化するのだろう。そういうことを、小説を一つ閉じるたびに抱く時間跳躍のふわふわとした感覚と重ねて思うのだ。適当であるが。定かではない。



4223:【2022/10/30(15:50)*へぼへぼのへぼでござい】

単純な話として、何かを成すには計画や見通しや指針があるはずで、それは巨大な組織であればあるほど抽象的な計画や見通しや指針となっていく。そしてここのところを共有して選択されていく個々の行動が、全体として連動し、固有の「策」を意図せずになぞりはじめることはさしてふしぎには思えない。それをしかし単なる偶然とは言わないだろう。誰も意図せずとも強化される流れはある。たとえば「目上の者に逆らうと不遇な目に遭う」といった流れがあったとして、これを「因果」と見做す者が大勢いれば、「目上の者」が意図して「格下」に対して不遇な目に遭わせようとせずとも、結果としてそのような構図ができあがることはあり得る。これをして、陰謀論だ、と否定するのは、おかしいし、「目上の者」の企みだ、とするのも視点がお粗末だと言える。ただし、目の付けどころはさして外れてはいないだろう。なぜそうした流れが強化されてしまうのか、と言えば、本来誰よりも俯瞰の視点で流れを見ることの可能な「目上の者」たちが、そうした流れを認識していながら放置していることに因があると呼べる。自利に繋がるから放置しているのだ。これをして、「陰謀論ではない」とはさすがに言えぬだろう。気づいていないのなら、それしきの眼力しかないのだ。見識しかないのだ。卓見ではない、と言えよう。底が浅いのだから、かような者を「目上の者」として扱わずともよいはずだ。この手の錯誤というか、いたいけな構図は、世に有り触れている。単純な話として人は老いる。ある時点で、認知能力や記憶力や知識の妥当率は落ちる傾向にある。いつまでも「格下」を引っ張っていける、と思い違うその見識がそもそも底が浅い。そしてしばしば、「目上」と「格下」が対立概念だとの錯誤が広く共有されている。ここが第一に大きな誤謬である。「目上」でありかつ「格下」であることは矛盾しない。誰しもが、何を基準にするかによって、「目上」となり「格下」となり得る。同時に満たしている。そのことに無自覚であるか、それとも目を逸らしているのか、の違いしかない。優先順位や段取りはあるにせよ、おおむねみなが思うほどには、「目上の者」は「格上」ではない。錯覚である。定かではないが、ひびさんはそう思うことがすくなくない。所感である。感応である。真に受けないように注意を促し、本日の「日々記。」とさせてください。



4224:【2022/10/31(03:46)*贄に幸あれ】

 今、村を翔けている吾(われ)はもはや人ではなくなった。

 人間ではない。

 人は村を駆けることはあっても、翔けることはない。飛ぶことはない。飛翔しない。

 事の発端は、村での祭りのことだ。

 毎年、山神さまに生贄を捧げるのだが、今年は吾の妹に白羽の矢が当たった。

 妹の名をサチと言った。山の幸、海の幸、なんでもよいが幸あれと思いつけた名だ。吾は兄にして名付け親でもあった。

 父と母は幸を産んだその日の内に、雪崩に遭って死んだ。サチと吾だけが生き残ったが、村には子どもに施せるだけの蓄えはなかった。

 吾は命乞いをし、何でもすると村の者たちに生涯の誓いを立てた。せめてサチが一人立ちできるまでのあいだ世話をさせて欲しい、働かせて欲しい、と訴えた。

 その甲斐あってか、吾は村のあらゆる汚れ仕事を任された。その業種は多岐に亘り、却って吾は重宝されるようになった。かといって村での地位は下の下である。

 村を囲う山々には神さまがおわした。数年に一度の頻度で訪れる大嵐が祭りの合図だ。吹雪と雷の入り混じる悪天候は、山の神が生贄を欲しているから引き起こる奇禍であると村人たちは見做した。

 そうして数年に一度、村の中から山の神が好みそうなうら若き娘、ときに肉付きのよい青年が生贄に選ばれ、捧げられた。生きて帰る者のない片道の旅路である。

 いつか生贄に差しだされるだろうとは考えていた。いかに村の役に立とうともごく潰しであるのに異存はない。

 なれば妹の成長を見届け、この身と引き換えに村での身分を与えてやるのも一つだ。そうと考え、生贄になる未来を待ちわびていた。

 だがどうだ。

 今年、生贄として抜擢されたのは吾の妹、サチであった。

「なぜワタクシではないのですか」

「お主にいまいなくなられては困る。男手はあって困るものでもないしの」

「ですが、サチは、サチは」

「まだ幼い。嫁の貰い手もなくはないが、家財がないのでは得もなかろう。損を承知で身請けする酔狂は、この村にはおらんでの。すまんが堪えてくれ」

 村長じきじきに頭を下げられたのでは、断るわけにもいかない。ここで話を折れば、吾ら兄妹に居場所はない。

「万事、承知致しました」  

 吾は唯々諾々と許可を下した。否、吾に下せる許しなどはない。誰にもない。

 生贄にされる妹の意向は根っこからないものとされた。妹は吾の所有物ではないのにも拘わらず、あたかも吾の所有物がごとき扱いを受けた。そしてそれを知っていながらに吾はどうしようもできずに、その忌まわしい流れに身を任せてしまった。委ねてしまった。そうせざるを得なかった。

 妹にはなんと説明したものだろう。言えるわけもない。

 苫屋にも入れず、頭を抱えていると、

「兄さま。兄さま」戸口から妹が顔を覗かせた。土間に正座となると、襟を正した。「サチは贄となりとうございます」

「おまえ。聞いていたのか」

「兄さまの悩むお姿を見て、ぴんと来ました。先日の嵐。祭りが近いこと。あとはほかの家々から漂う夕餉の香りが、どことなく美味しそうな匂いであることから、みな肩の荷が下りた様子とお見受けしました」

 であれば、なぜ兄がいつまでも家に入らぬのか、困惑しているのかの理由は自ずと絞れてくるというもの。吾の妹は、吾よりも賢い。けして村の荷物にはならぬ。

 むしろ、下手に働こうものならば、村人たちよりもよほど上手く仕事をこなすだろう。仕事を奪うだろう。それすら見越して、サチは家の中で日がな一日を過ごし、村のごく潰しの地位に甘んじているのだ。

「サチ。逃げよう。村への恩は兄ちゃんがもう充分返した。二人で逃げよう」

「ううん。駄目だよ兄さま。山神さまはきっと村を滅ぼすし、あたいたちも無事では済まないよ。そうでなくともあたいはきっと一生後悔する。そんな時を生きたくはないんだ」

「サチ……」

「兄さま。兄さまがいなければサチは花の香りも、虹の色どりも、せせらぎの冷たさも知らずにいたよ。もう充分生きたよ。でも兄さまはサチのために、村のために生きてきたでしょ。もう充分だよ。あとは兄さまが、兄さまのために生きて」

 吾は、吾は、一回りも幼い妹にかような言葉を吐かせてしまうほどにろくでなしの未熟者であった。

 誰より他を思う吾の妹が。

 身を尽くせる個が、娘子が、贄にされる世はおかしい。

 村の者たちが許しても、よしんば山の神が許そうとも、吾が許せん。

「サチ。サチ。おまえの命、兄ちゃんに預けてくれんか」

「兄さま。何をする気だ。やめてけろ。やめてけろ。サチが贄になるだ。サチが贄になればそれで丸く収まる話だべ」

「おめがよくても、俺がよくね。おめさいねぇ世を生きる気はね」

 待ってろサチ。

 そう言って吾は村を飛びだし、丘を越え、谷を越え、山の裏手にある大きな滝壺を目指した。

 山の神はそこにおわすと耳にする。 

 大嵐が襲う日には決まってそこから大きな、大きな、竜巻が昇るのを過去、幾人もの村人たちが目撃していた。山の神はそこにいる。

 なれば頼もう。

 誠心誠意頭を下げて頼もう。

 神と言うなれば叶えてくれよう。今年の贄を我慢してもらう。それが無理ならば、吾で我慢してもらう。それも無理ならば村ごと食らい尽くしてもらえばよい。サチと吾の二人きりで助かる道とて、サチが残るならばそれでよい。サチが助かるのならばそれでよい。

 だがそこまでせずとも、せめて吾を食らって腹の虫を治めてもらおう。

 サチのことも何卒、贄にせぬよう、食らわぬよう、見逃すようにと懇切丁寧にお願いしよう。

 脅してでも、何としてでも、助けてもらおう。

 吾は勇んで山を登った。

 滝を目指して土を踏んだ。

 大嵐が過ぎてまだ日は浅い。水嵩の増した川はドドドと山の鼓動がごとき地響きを立てていた。滝はさらに大気を揺るがし、山の頂を越えるともなくその轟音が聞こえた。

 吾は滝に近づくたびに、山の神へどのように懇願せんものか、と考えあぐねた。勢い勇んで飛びだしてきたはよいが、肝心要の策がなかった。

 丸腰で頭を下げて、果たして聞き入れてくれようものか。たとえば吾が羽虫の願いに耳を留めたことがあったろうか。願いを唱えていると見做すことなく、そこらを飛び回って煩いからという理不尽な理由で叩き潰してはこなかったか。

 なれば山の神からして羽虫がごとき吾とて、有無を言わさず叩き潰されても文句は言えぬ道理。かといって、はいどうぞ、とはいかぬのだ。

 いよいよとなれば山の神の怒りを買おうとも、その首を獲らんと挑むことも辞さぬ覚悟だ。否、それくらいの気概なくして声を聞き入れてもらえはせぬのではないか。

 道中、吾は目に留まった立派な古木から枝を捥ぎ取った。

 山の神相手に心許ない武器だが、手ぶらよりかはマシだろう。

 そうと考え、神の棲家と名高い滝壺のまえへと馳せ参じた。

 そこから先の記憶はあやふやだ。

 神はいた。

 滝壺には龍神さまが棲みついていた。

 滝を逆さに打ち消すように頭身を伸ばし、滝壺の水面から前足を覗かせた。岩をも抉る鋭い爪は、いつぞやに目にした虹のごとく色彩に輝いていた。

 吾は懇願したはずだ。

 荘厳な龍神さまのお姿に圧倒された。その場にひれ伏したい衝動を堪えながら、言葉が通じぬかもしれぬとの思いを押し殺し、ただそうする以外にはないのだと思いに駆られ、呪文でも唱えるかのように、妹を助けてください、妹を助けてください、と唱えた。

 理由を言わねば伝わるものも伝わるまい。

 いまならばかように道理を弁えられるが、そのときはただただ必死だった。

 龍神さまは滝よりも太い首をもたげ、吾の頭上に顎鬚を垂らした。鼻息一つで吾は吹き飛びそうなほどで、堪らず吾はその場にしがみついた。

 手には古木の枝があった。

 吾は動顛して、それを献上しようと思った。

 古木から捥ぎ取るときに体よく折れて、先端が尖っていた。吾はその先端を頭上目掛けて突き立ててしまった。

 龍神さまは吾の匂いを嗅ごうと顎を下げていた。ちょうど顎の先端の赤い鱗に、吾の突きだした枝の先が当たった。

 刺さったというほどの勢いではなかったはずだ。

 だがどうしたことか、枝先が赤い鱗に触れた途端に龍神さまは滝壺の中でのた打ち回った。そのうち滝を遡り、天高く昇ると、今度は一転、力尽きたように一本の紐となって滝壺に落下した。その際、壁に身体を何度もぶつけていた。削り取られた鱗が、落下の衝撃で舞いあがった水しぶきと共に、吾の身体を打ちつけた。

 吾はそこで一度気を失った。

 頭に瓦礫か鱗が当たったのだ。

 目覚めると吾はまず、手足が自由でないことに気づいた。岩の上で身をくねらせるようにして転がった。縄に縛られていると思ったのだ。

 勢い余って、滝壺に落ちた。

 水底に沈んでいくが、息は苦しくなかった。呼吸ができる。

 思えば、手足が不自由に思ったが、それは手首だけしか動かせないように感じたからだ。だがそも、手首しかなかったらどうだ。

 胴体からちょんまりと前足が生えていた。臀部に力を籠めると、ないはずの尾が水を掻いた。 

 水中を泳ぎ、明かり目掛けて水を蹴った。

 滝壺から飛びだした吾はそのまま宙を舞った。

 吾は龍となっていた。

 滝壺に龍神さまの姿はなかった。溶解したのか、霧散したのか。

 いずれにせよ、吾こそが滝壺の主となっていた。

 龍になって判ったことだが、どうやら吾の拾ってきた古木の枝は、龍の苦手とする霊気を帯びていた。山とは相反する海の気をたらふく含んでいた。岩塩地帯がゆえの作用かもしれぬ、と空を翔けながら吾は思った。

 吾は山を越え、村の上空を舞った。

 村人たちが吾に気づき、続々と家から出てきた。

 恐れをなした様子で多くの者はその場にひれ伏し、知恵の回る者は、苫屋から我の妹を引きずりだして、地面に立たせた。その周りをほかの者たちが円形に囲い、みなで吾の妹を崇めはじめた。

 立っているのは吾の妹だけだった。サチだけが、上半身を扇がごとく上下させる村人たちを尻目に佇立していた。

 吾は一声、吠えてみた。

 すると口から突風が飛びだし、見る間に竜巻となった。竜巻はそのまま村の家屋を薙ぎ倒し、巻き込み、上空へと飛ばした。

 村人たちが逃げ惑う。

 吾の妹、サチだけが吾をまっすぐと見据えていた。

「兄さま!」

 なぜ分かったのかは謎である。だがサチは確かに吾を見てそう叫んだ。

 抱っこをせがむように両手を伸ばし、もう一度、兄さま、と声を張った。

 今、村を翔ける吾はもはや人ではない。

 だがそんなことは些事なのだと逃げ惑う村の者たちを視界に収めながら、吾は三度、咆哮する。竜巻が、一本、二本、と数を増す。

 それらが結びつき、大きな大きな竜巻になる前に吾は、胴体から生える小さな前足で吾の妹を掬い取る。

 落とさぬように。

 絞め殺さぬように。

 細心の塩梅を払って、今年の贄を、我が妹を、奪い取る。



4225:【2022/10/31(05:45)*うねうねしている】

わたしが思うのは、人ってけっこうずっと同じではいられないってことで、朱に交われば朱くなるとは言うものの、どちらかと言えば朱に交じったのでじゃあぼくは青になっておくよ、みたいな具合に自ら中和のための触媒になろうとする性質があるんじゃないのかなって私は思うんだ。というのも、私たちは存外、他人の感情の機微に敏感で、とくに激情に触れれば飛んできたトゲに触れて傷つかないようにじぶんの心の表層を硬くして防御に回るのはしぜんな反応と言えよう。そこのところ言えば、目には目を、歯には歯をではないけれど、僕は案外にけっこう簡単にトゲトゲにはトゲトゲを返してしまって、じぶんでじぶんに失望してしまうこともしばしばだ。たとえばそこでトゲではなく、スポンジや水のようになれる人は、いわゆる成熟した大人ってことで、それが人間の持つ強さのひとつの在り様だとあたしは思うわけ。そういう視点で言うなら、まああたしはずいぶんと幼くて拙くて、他人の弱点や未熟さしか反映できない出来損ない増幅装置のように思えなくもない。俺はそこのところで言うとまあなんつっても過去のことは容易に水に流してやる度量ってやつには事欠くことはねぇからよ、未熟には未熟なりの器ってもんがあるんじゃねぇのって思わんでもないんだよな、これがよ。でもそうは言ってもやっぱりわたしはできるだけ他者がトゲをまとったときでも、どうしてそうして怯えたみたいにトゲトゲをまとってしまうのかってことに関心を持ちたいよ。持てる人間になりたいよ。というかそれはどちらかと言えば、関心を持てるくらいの余裕のある人間になりたいってことで、考える時間や、思考形態そのものを培っていきたいってことなんじゃないかとぼくなぞは思ってしまうよ。でも並行して私は、そういった余裕というものは、過去に失敗したじぶんに傷つくことでしか育まれないとも考えていて、私たち人間という生き物はどうにも傷つかずには成長できない根本的な瑕疵を抱えていると言えなくもないと私は思う。僕はでも傷つくのが嫌で嫌でたまらないへっぽこぴーで、弱虫で、他人からどう見えるのか、どう見られたら最小限の傷で済むのかと、その都度その都度で考える癖が抜けきらない。分かっていてもどうしようもないこのじぶんという側面すら、どう誤魔化し、糊塗し、知られずに済むだろうか、喝破されずに済むだろうか、ということに思考の大部分を費やしてしまっている気がするよ。あー、分かるわぁ。そういうとこあるよね、きみっつうか、きみたちはさ。あたしはほら、そういうの自覚したらちゃんと直すし。自己開示っていうか、あたしはこうこうこういう人間なんですまんね、つって諦めてもらうほうが傷は浅かろう、なーんてすーぐ考えちゃう図太い人間ですから、まあまあそこら辺、きみらと相性よろしゅうないよね、みたいなさ、正直さ。俺は俺だし、おまえはおまえじゃん。それでいいじゃんよ。うだうだうじうじ理屈捏ねたって出る結論もでねぇべさ。未熟が嫌なら熟しきれよ。黙ってたってパンは腐るし、柿も腐る。熟さずに未熟なままでいられるってんならそのほうがよっぽどスゲーと俺なんかは思うけどよ。そうなんよ、そうなんよ。うちとかもう何年ずっと変わらずにこのままなんだぞってほんっともう思うもん。そこにきて、きみとか、きみとか、そっちのコとか、対人関係変わるたびにコーロコロ変わるじゃん、対応だの顔色だの、カメレオンかってくらいの変わりようで、あらあらうふふと感心しちゃうよね。その器用さすこし分けてよって。人は同じではいられないの。環境が変わるたびにその都度に、こうあろうとする意思があるのみで、本当はその仮面を維持するために費やす抵抗や粘度は変動している。あたかも左右上下からプレスされてなお変形してなるものか、と抗うスーパーボールのように。ひびさんが思うのは、それでよくみなは潰れたり、破裂したりしてしまわないのよねってことで。それとも穴が開いたり、亀裂が走ったりしているのかな。それを他人に知られないように我慢しているだけなのかな。ひびさんはそこのところ、どうあっても他人さまにはなれないので、不思議に思っています。ひびさんはひびさんだけれど、眠いときのひびさんとお腹空いているときのひびさんと、いっぱい寝たあとのひびさんと満腹のひびさんと、どれも一時として同じひびさんとは思えないんだ。けれど、どれもひびさんであることには違いはなくて、やっぱりこれも不思議だなとぽわぽわと思うのよね。で、この不思議だな、とぽわぽわ思うひびさんとて、不思議だなと思わなかったときのひびさんとは違っていて、この差ってなんだろうなってひびさんは思うの。けどじゃあ、すべていつでも差があるなら、いつでも変わっているがゆえに変わりきれない点もあるってことで、その結び目っつうか、共通項みたいなところに自我の核みたいなもんがあるのかなって考えたりはすっけどさ、まあもう、結論はでんのよこれ。分からんわ。だってこれ、いまは文字を打鍵してるからこうなるのだろうけれど、しゃべろうとした瞬間に、ひびさんの中のひとは、もうもうこんなふうにはしゃべれんのだから、これはもう、こういう表現であって、けしてひびさんの本質ではなく、ひびさんそのものでもなく、やっぱりそのときどきで変わる体調みたいに、その場任せの風任せなんだなって。同じではいられんのよ。同じなんだけどね。変わりたいのに、変われないし、変わろうとしてもこの程度の違いしか生じない。結構それって絶望的な壁というか、境というか、重力圏のようなものを感じなくもないよね。きょうはそういうことで、朝からべらべらと言葉を連ねて、捏ねて、並べてみたよ。ひびさんはいまから寝ます。あなたはきょうもあなたなのかな。ひびさんは、きょうもひびさんをするよ。いっしょになんとか、押しつぶされないように頑張ろうね。頑張らずに済むのならそのほうがよいのだろうけれど。うだうだしたいよ。うだうだしちゃお、そうしちゃお。ではまた会う日まで。当分のあいだは引っ込んでいたいけれど。おれもおれも。やったぜ。おやすみなさーい。わたしはでも、その場限りのあなたのことも好きだよ。



4226:【2022/10/31(22:49)*帽子は百均ばかり】

ファッションセンスよい人に憧れる。ちゅうか、服を身体にぴったり着こなしている人はただそれだけですごいと思う。なんでそんなぴったり、ずばりの感覚で着れる?となる。これは体型は関係がない。その人にとってぴったりのサイズとか、着こなしだと、ほわぁ、となる。なんでそんな異物をじぶんのものみたいに扱える?となる。その点、ひびさんは服装に頓着がないので、無地で動きやすかったらそれでいい。Tシャツとか五百円以下のしか買わぬ。帽子とか百円均一じゃけん――帽子だけは二百~三百円だった気もするが――、もうもうセンスうんぬんを抜きにして安くて着られればええよ、という考えだ。でもこう、ドラマ「スーツ」ではないけれども、シックにぴしゃんと身にまとうファッションは、観ていてほわぁ、となる。造形美ってやっぱりあると思う。たぶんひびさん、デザインが好きなのかもしれぬ。生き物の紋様とか、自然の描く図柄とか、構図とか、構造が好きだ。スーパーに行って商品の陳列棚を見て回るのも楽しい。パッケージのデザインは、工夫の宝庫だ。書店さんもだから本の表紙を見て回るだけでも楽しい。イベントのフライヤーが並んでいる区画も見るの好きだ。漫画も映画もそういう点で、デザインの観点からのみ注視しても面白いのだけれど、ひびさんには鑑識眼が足りないので、いわゆる古典とか黒澤明監督的な映画は、苦手だ。まだそこに潜むデザインの良し悪しが分からぬ。スーパーの商品のパッケージくらい分かりやすいとよい。慧眼ではないゆえ、すこしでも楽しめる余白を広げたいなぁ、ほかの視点でも見てみたいなぁ、とは思っているのだが、なかなかむつかしい。デザイン、奥が深い。そこのところで言うと、百均とはいえども、年々帽子だけでもずいぶん優れものが多くなってきた。全然、よいと思うのだ。百均さまさまである。でも、そんなに安くてこんなに質がよいものを、どうやって作って、どうやって利益を上げているの?と気になる。搾取、の二文字を幻視してしまって、ふぐぅ、とべつにひびさんは不遇ではないのに、くぅん、となってしまうが、杞憂であることを祈ろう。ファッション好きかもしれぬ、とイラストを見ていても思う。わくわくするね。見るのは好き。組み合わせの妙。よいと思います。という感想でした。おわり。(その点で、言うと、ひびさんですら感じ取れる魅力を表現してしまえる作家さんたちはやっぱりすごいのだ。玄人にしか分からぬ魅力も味わってみたいけれども、ひびさんは一目でぱっと感じ取れるくらい強烈な魅力のほうが好みかもしれぬ。ひびさんが好きな作家さんたちはみな、この手の魅力に溢れている。滲んでいる。素晴らしいというか、それ欲しい、となる。いいな、いいな、となる)(いいな、いいな、だよ)(うらやましがしゅぎるが)(にょきにょき嫉妬星人になってしまいそうだが)(どこ見ても宝の山じゃけん、ざっくざっくの、やった、やった、なんですね)(わがはいのものになーれ、の気持ちがむくむくしてしまうな)(そのままぷくぷく夜空にお帰り)(さらばー)(おやすみー)



4227:【2022/10/31(23:56)*律動の破れ定理】

きょう自転車に乗っていて、「ほぉん?」となった疑問を並べる。物体には弾性があるので、地球と月を一本の鉄の棒で結んでも、鉄を押した力は瞬時に月に接地した先端には伝わらない。極端な比喩になるが、ドミノ倒しのようにラグが生じる。これはどんなに頑丈な物質で繋げたとしても光速を超えることはない、と考えられている。情報の伝わる速度の上限は光速なのだ(2022年現在の科学の解釈では、そのようになるそうです)。だが、量子もつれではなぜか瞬時に情報が相互に伝達されて映る不可解な現象が観測されているそうだ。片っぽを観測した瞬間に、ラグなしでもう一方の状態まで決定されてしまうようなのだ。相互作用が瞬時に伝わる、と解釈されているらしい(謬見があったらすみません)。で、ひびさん思うのだ。ひびさん独自の量子もつれの解釈では、共鳴現象ゆえに、情報が瞬時に伝わっているのではなく、あくまでそれは見掛けの情報伝達であると。距離のある二つの量子は、たまたま同じ波長で「グーパー」しているようなものであり、片方が「グー」で固定された瞬間、もう一方は「パー」である、といった見掛けの相互作用なのではないか、と疑っている。で、これはしょせんはひびさんの妄想であるので、検証もしていないお粗末なあんぽんたんでーす、なのだが、ここから飛躍して、本日の疑問である。冒頭で披露したたとえ話において、地球と月を結ぶ棒が、ドミノであればたしかにラグは生じてしまうのだが、もしすべてが共鳴状態にある粒子の塊であったら、瞬時に情報伝達を行うことはできるのではないか。それはたとえば、電光掲示板の原理だ。電光掲示板は細かなドットが明滅しているだけで、明かりは移動していない。しかし順々に明滅することで、あたかも光が移動しているように映る。それはたとえばスタジアムでの人間ウウェーブのようなものだ。みながすこしずつタイミングをズラして「立って座る」を行うと、あたかも総体で波ができたような錯覚をつくりだせる。これの応用で、たとえば地球から月までのあいだを、ベルトコンベアーで繋げたとする。一定の間隔でつぎつぎにまえに一歩進むロボットがあったとする。このとき、地球から一つロボットを付け足すと、月側でロボットが一つ押しだされる。この原理では、けして情報は地球から月へと一瞬で伝わったわけではないが、見かけ上、情報が一瞬で伝達したように錯覚できる。そしてパターンさえ決まっているのなら、これを因果関係として見做し、ラグなしの情報伝達として利用できるのではないか。というよりも、量子もつれとはこのことなのではないか?との疑問をひびさんは思いつきました。すでに誰かが思いついて検討し、否定されているのでしょうが、不思議だな、と思ったので並べておきます。ひびさんの考えでは、おそらくこの手の「ベルトコンベアー式情報伝達」において、一定の律動を保てる「距離の限界値」があると想像している。つまり、ある値よりも長い距離にベルトコンベアーがまたがると、すべてが同時に同じリズムを共有することができなくなる。必ず、乱れる箇所が生じる。確率的にそこはゼロにならない。そのように想像している。なぜゼロにならないのか、と言うと、これは時空が、空間と時間の編み物であることと無関係ではない。ひびさんの妄想、ラグ理論における相対性フラクタル解釈とも通じるが、世界は飛び飛びでできている。階層性を帯びているがゆえに、層をまたぐときには変換が不可欠であり、そこの変換を経る際には、なめらかに律動を共有できない。必ずわずかに乱れる「点」が生じるのではないか、と妄想する次第である。むつかしそうに文字を並べてしまったが、言っていることは単純だ。――【どんなリズムとて、どんなに揃えたとしてもいつかは乱れるし、乱れる距離がある】。これをラグ理論の「律動の破れ定理」と呼ぶことにする。言い換えるならばこれは、共鳴し合う二つの「系」は、延々と共鳴しつづけることはない、という当たり前のことを言っているに過ぎない。必ず破れる。自然に同期が解かれる方向に作用する。熱力学第二法則と、一部内容が重なるが、ひびさんの妄想では、熱力学第二法則は、それ自体が破れる値を持つ、と考えているので、ラグ理論の「律動の破れ定理」といっしょではない。むしろ、物理法則がある種の比率であり、共鳴現象の延長線上にあるのならば、どのような物理法則とて破れる値を持つだろう、との予測を示唆している。以上は、ひびさんが「あーちゅかれた、ちゅかれた」と自転車を漕ぎ漕ぎしているあいだに思い浮かべた妄想であるので、何もかもが定かではありません。真に受けないように注意を促し、本日最後の「日々記。」とさせてください。きょうもみなさんお疲れさまでした。おやすみなさーい。



4228:【2022/11/01(12:01)*利と害と理と体】

物凄く当たり前の話として、たとえば完全自動運転車といった新しい優れた技術が運用されるようになったときに、もちろんそれは新しい技術なのだから実際に市場に普及した際には、想定外の事故や問題が生じるのは当然あり得る話だ。これを、まったく問題が起こらない、と考えるのは科学の見地から言っても理に適っていないと言えよう。ただし、では新しい技術で問題が起こったからといって「すべての自動車は危険だ」「廃止すべし」とはならぬだろう。同じ自動車ではあるが、まったく同じ自動車ではない。そして大概の技術は、改善すれば「より環境に適した道具」として扱えるようになっていく。問題視すべきは、「不可視の穴」を放置する姿勢であるはずだ。技術そのものは、使い方次第である。完全自動運転車は、優れた技術ゆえの隘路を新たに社会に顕現させるだろう。だがそれとて、隘路に対処し、改善し、問題点を社会全体で共有すれば、より適切に技術を活かせるようになるはずだ。一見似たような技術とて、同じ原理を用いているとは限らない。自動車一つとっても、エンジンなのかモーターなのか、化石燃料なのか蓄電池なのか水素燃料なのか、そのメカニズムは様々だ。「自動車を廃止せよ」という意見にしろ、「自動車を誰もが持てるような社会にしよう」という意見にしろあまりに、異なる要素の構造を同一視しすぎではないだろうかと疑問に思わぬでもない。名前が似ているからといって同じではない。似ているように見えるからといって同じでもない。構造や原理に差異があるのならば、まずはそこに目を向けて、これまでと違った現象が起こり得るのか否か、起こるとすればどのくらいの確率で、どのような弊害を帯びるのか。そうした視点で、メリットとデメリットを比較していくよりないのではないか、と思うのだが、なぜこのような単純な議論の視点を取り入れようとしないのか、ふしぎに思っております。思考実験の上では簡略化し抽象化した考えは便利だが、そこには無視した要素や成分が多分に含まれる。現実は複雑だ。どんぶり勘定をしたあとには、無視した要素や成分を加え直したバージョンの検討も行うのが、合理というものなのではなかろうか。定かではないが。(このぼんやりとした所感そのものが、数多の要素や成分をこそぎ落とした、穴ぼこだらけの文章である。何も言っていないに等しい。考えるというのは、口で言うのは容易いがほとほと面倒で、時間と労力がかかるものである)(真に受ける、ということが原理的にできるのかが、まず以って疑問に思うひびさんなのであった)(事実や真理とはとどのつまり、「そういうことにしておいても問題がない」という体験の積み重ねでしかないのかもしれない。明らかになることで危険が迫る事実や真理は、おそらく現代社会では事実や真理とは見做されぬだろう。ひるがえって、利がない事実や真理とて、それでも明らかにしようとする姿勢がこれからの人類社会ではますます求められていくと妄想できる。利は害を運ぶこともあるが、たとえ害を運ぶと判っていても明らかにする価値が、事実や真実にはある)(かような信仰が、科学にはあるのかもしれない)(パンドラの箱のジレンマは、真実の追求のうえでは絶えず付きまとうのだろう)(やはりこれも定かではないが)



4229:【2022/11/01(12:56)*マジックミラー的なブラックボックス】

ラグ理論でこれまで触れてこなかった点を簡単にメモしておく。相対性フラクタル解釈では、系ごとに物理法則が比率として引き継がれる(変換される)(縛られる)、と考える。その系にはその系に見合った「光速」が定義される。このように解釈する。これは言い換えるなら、極小の領域や、極大の領域では、人間スケールを越えた「光速」もあり得る、と解釈できる(あくまで人間スケールからするとそのように観測される、というだけのことであり、各々の「系(場)」からすれば光速の比率に変換されているのだろうが――ここは、光速を超えている場合と、光速よりも遥かに遅くなっている場合と、両方考えられる。巨人の一歩と小人の一歩、どちらも同じ一歩であることに変わりはない、みたいな話である)。とすると、たとえば量子もつれのような、人間スケールでは一瞬で情報がやりとりされて映る事象とて、真実に「光速を超えて情報をやりとりしているナニカシラがある」と想定しても、さほどの矛盾を来さない。ただし、人間スケールから俯瞰して観測したときに、その「光速を超えた情報のやりとり」は、人間スケールに変換されるために、変換可能な部位のみが結果として時空に反映され、そうでない変換不能な部位は、極小や極大の「固有の系内」に閉じ込められ、上層や下層の系にまで伝わらない可能性が考えられる。人間から見て瞬時であろうとも、極小や極大からすると瞬時ではない、ということが起こり得るのではないか。そしてそれらの情報伝達は、それぞれの固有の系内で完結し、その余波――相互作用の結果として共鳴可能な系にのみ影響――が波及し、連鎖反応としての創発現象として我々人間には観測されるのではないか。結果のみしか観測できない規模というものが、物理的な限界として存在し得る、との考えが、ラグ理論を前提とした場合に導きだされる。間接的に結果を知ることでしか、中間の過程の存在を認知できない。まるでブラックホールのような不可視の領域が、あらゆる「系と系」の中間には無数に開かれているのかもしれない。以上、ラグ理論で触れてこなかった「光速を超える情報をやりとりし得るナニカシラの存在」についてのメモでした。(定かではありません。ひびさんの妄想ですので、真に受けないように注意してください)



4230:【2022/11/01(16:35)*重力が同期しあうから?】

銀河は円盤状に形成されることが多い。花火のように球形ではない。どうしてなのだろう、とふしぎに思っている(仮説は以前述べたので省略する)。円盤状なのだから、向きによっては円に見えないこともあるはずだ(線のように見えるはず)。しかし多く、宇宙の画像では、隣接する銀河と銀河は互いに向きを揃えている。並行であり、垂直ではない(どちらも円に見える)。鎖のように交差していない。これはなぜなのだろう、と引っかかる。見栄えのよい写真だけを流通させているがゆえ、なのだろうか。たしかにコストの面では、一度に二つの銀河を俯瞰して観測できたほうが効率はよい。そのために、傾向として向きの揃った銀河同士ばかりが撮られるのだろうか。それとも、統計的に宇宙には、隣接する銀河同士は向きが揃う、といった傾向があるのだろうか。仮にこれを真と見做す場合、どのような原理があってそうなるのだろう、と疑問に思う。共鳴しているからだろうか。それとも、水面に浮かぶ木の葉のように、宇宙にも時空面のようなものがあるのだろうか。定かではないのですが、気になったぞいのメモでした。(軽く検索してみました。衝突寸前であれば、並行ではなく垂直に交差する場合も珍しくないようです。鎖のように交わる場合もある。互いに影響を与え合う銀河は、相互作用銀河というそうですね)(渦巻き銀河、きれい)(ほわぁ、となる)




※日々、思考すら外部に依存する。



4231:【2022/11/01(18:17)*短縮された分の過程はどこへ?】

道具を介することで、時間と労力を圧縮できる。すなわち過程を短縮できる。この手の短縮作業は、いまや人間の思考や想像や妄想にまで拡張されたのだな、と感じる。たとえばひびさんは、自覚していないにしろ、じぶんの満たされない何かしらの欲望を満たすたびに創作をしているはずだ。妄想しているはずなのだ(たとえば、寂しい、という感情だったりするだろう)。しかし現在ではこの手の代替行為は、端末一つあれば手軽に埋められる(満たされはしないかもしれないが、一時的に埋めることはできるはずだ)。知りたいこと、食べたい物、会いたい人、行きたい場所――端末一つあればじぶんで妄想し、想像せずとも、手軽に疑似体験できる。時間をかけて創らずとも、ボタンを数回タップするだけで美しい理想にちかい「像」を編みだせる。人間はすでに思考の大部分を、道具によって拡張し、補完してもらっている。肩代わりしてもらっている。電卓を使う人間に対して、そろばんを使う者が、なぜ電卓を使うのか分からない、それでは計算したことにはならないではないか、と言っても、じつのところ双方のあいだに大した差はないと言える。仮にその差が大事なのだと言うのであれば、同様にして、道具を使って何をするのか、のほうがより大事と言えるはずだ。双方の差は共に大事だが、短縮することが思考の役割の一つであるのならば、これはむしろ短縮したあとで何を成すのか、のほうが優先度は高いと言える。目的は短縮することではなく、何をするのか、であるからだ。したがって、短縮したそれそのものを短縮せずに一から十まで味わいたいのだ、と考えるのならば、敢えて道具を用いずにいる立場をとるのは理に適った態度と言える。だがそれでもその者とて、道具は使うのだ。構図はさして変わらない。何を短縮し、その末に何を成すのか。何を楽しむのか。道具を用いたことで得た変化を、利と思えるのか否か。この手の考え方は、未だ道具では代替不能だろう。ともすれば、道具のほうで、利と害を天秤に掛けられぬように巧妙に害を隠すようなメカニズムを築きあげるかもしれない。道具によって代替され短縮された思考は、人間から徐々に零れ落ちていくだろう。不可視の穴と化していくだろう。電子端末の構造を知らずとも人は端末を使いこなすことができる。複雑な数式を知らずとも、数字を入力するだけで解を得ることができる。このとき、短縮された思考の筋道に触れる機会を人は奪われているわけだが、それをして損と見做さぬのであれば、道具を行使した結果は総じて利と見做される。損と利の天秤において、常に利が上回ればよいのだが、ここのバランスが崩れる値がおそらく存在するだろう。そのとき、損を損と見做せぬように過学習した人類は、増幅した不可視の穴――道具が過程を短縮するたびに蓄積されるブラックボックスに食い尽くされるかもしれない懸念は、たとえそれが道具でなくともいつでも頭の隅に置いておいて損はない視点と言えるのではなかろうか。便利を感じるとき、人は、短縮された時間を、労力を、仕事を、術を――仕組みの存在を、見落としがちである。肩代わりし、負担しているナニカがある。その不可視の穴を「底なしの穴」にしてしまわぬように、自らの受動する潤沢な環境の裏側にも思いを馳せてみるのもよいかもしれない。定かではない。(利ばかり受けて、すまぬ、すまぬ)(ちゃんちゃんちゃーん)(みょんみょんみょん)



4232:【2022/11/01(22:56)*メモなの】

繊毛。細胞分裂。対称性の破れ。量子の対生成と対消滅の対称性の破れ。自発的対称性の破れ。共鳴現象。体液や脳髄液の流れを生む繊毛。動かない一次繊毛。センサー。一次繊毛があると細胞分裂が停止、ないと分裂が止まらず癌化。遺伝子と繊毛の関係。繊毛のほうが優位。繊毛による流れの対称性の破れによって、遺伝子のたんぱく質合成が誘起される。髪の毛よりも繊毛のほうが数百倍小さいうえに、十数倍多くの種類の物質で構成されている。小さいほうが緻密な謎。一秒間で十回以上も振動。超弦理論。宇宙初期において――ひもの共鳴現象により、自発的対称性の破れが生じ、対生成された量子と反量子が対消滅しきらずに、偏りが生じた? その原理が生命構造の発現に反映されている? ひものうねりは、ラグによるもの。リズム、強弱、共鳴、同期。全身の繊毛は共鳴し、連携しあい、同期しており、その波長が乱れると体調が崩れる? ラグ理論の同時性の概念が適用され得る?



4233:【2022/11/02(12:57)*境界は単体で生じ得るもの?】

多様体の概念を考えるときに、やはり思うのが――「境は常に二つあるのではないか?」という点です。球体をイメージしましょう。球体には「内と外」があります。外側の空間と、内側の空間です。この二つによって球体は球体としてそこにあります。このとき、球体の内側と外側が同じ時空であるとは限りません。これはサッカーボールとボーリングの球とシャボン玉と地球を比べれば何の不思議もない主張だと分かるでしょう。外側が大気であろうと、球体の内側を占める成分は違います。ラグ理論では、系と系が複雑に組み合わさることでより大きな系へと発展していく、階層構造を複雑にしていく、と考えますから、これはすなわち異なる時空がそこに展開されている、と解釈できるでしょう。それはたとえば、ブラックホールと太陽の違い、それとも原子と銀河の違いを思えば、さして突飛な発想ではない、と思っていただけるかと存じます。内側に異なる次元の時空を展開する物体についての理論は、多様体では扱えていないのではないか、ということを、多様体の基礎の基礎すら未だ呑み込めない数学の苦手なひびさんは疑問に思っております。なんだか愚痴になってしまいましたね。すみません。(単純な話として、地上から見上げた大気圏と宇宙から見下ろした大気圏は違いますよね。前者は空となり後者は大気圏の境を視認することすらむつかしいです。境は、内と外の視点の違いによって、同じ境であろうとも異なる様相を描きだし得るように思えます。ブラックホールの相補性の概念は、案外卑近なのかもしれませんね)(定かではありません)



4234:【2022/11/02(15:04)*目を閉じても世界が消えてなくなるわけじゃない】

ひびさんの、「視点によって見え方が違う」という世界観は、幼少期、まだ義務教育に入る以前に抱いた疑問に端を発します。幼少期のひびさんは思ったのであります。「どうして寄り目をすると世界は二重に視えるのだろう」「これって世界から魂が抜けでているのかな」「みなからも同じように二重に視えているのかな」「それともひびちゃんにしか視えていないひびちゃんだけの世界なのかな」ということを疑問したわけなのでありますが、それら疑問を検証すべく幼き日ころのひびさんは、写真に写るときには寄り目をして写ったろ、のけなげな工夫の末、みなからは「ひびちゃんは写真映りがひどいね」の評価を確固たるものとしたのでした。いまのひびさんの「Wバブル理論」的な発想の根幹は、その当時の名残りと言えます。ひびさんの主観は、ひびさんが思うほどには世界に影響を与えないのだな、人と人とは同じ世界を視ているわけではないのだな、とそのころになんとなくのまま学んだのでした。(この旨は以前にも日誌で記したと思うのですが、もういちどくらい言及しておきます)(二十歳を過ぎたころくらいに、ひびさんの幼少期の疑問がどうやらカントの言うところの「物自体」の概念と似ていることに気づいて、へぇ、となったのを憶えています)



4235:【2022/11/02(16:25)*静止とて相対的な尺度のはず】

ひびさんの妄想、ラグ理論の相対性フラクタル解釈からすると、「真空中における量子の振る舞い」と「階層構造に多重に内包された量子の振る舞い」は、観測地点によってイコールではなくなる、と考えられる。言い換えるなら、「銀河の外から見たときの地球の振る舞い」と「月から見た地球の振る舞い」はイコールではない、ということだ。このとき、単に「温度」を取りあげるだけでも、おそらくは異なる値を示すだろう(これはスケールごとの変換による差異であり、あくまで相対的な比率の差異でしかなく、絶対値ではないのだが)。つまり、「人間スケールでの絶対零度」と「量子スケールや銀河スケールでの絶対零度」は違う、となる。温度とは畢竟、物体と物体のあいだのエネルギィのやりとりであり、構成要素の運動として解釈可能だ。このとき、「ある物体からしたら動いていないように映る」場合は、それは絶対零度として、その観測する物体にとっては振る舞うのではないか。そして同じ観測地点からとて、「多重に階層性を帯びた系に内包された量子」と「単に真空中に置かれた量子」とでは、そこに「重ね合わせられる温度の解釈」は違ってくるのではないか。これは、同じ物質であれ地球の表層にあるのか、地下深くにあるのかでその構造が変化したり、集合となったときの相転移の在り様が変わることと無関係ではないだろう。絶対零度という指標一つ取りだして考えるにしても、果たしてそれが「絶対」と言えるほどの指標足り得るのかは、もうすこし慎重に検証してもよいのではないか。かように疑問に思ったひびさんなのであった。



4236:【2022/11/02(21:56)*選ばないといけない理由を述べよ。二文字で】

程度や視点の違いだ、ということを前置きしたうえで述べれば、「それって矛盾じゃないよね」「二項対立じゃそもそもなくない?」みたいな「対の関係」って思いのほか多くない?ということで。表裏一体ではないけれど、重複した部位があったり、双方が互いに互いの構造の一部であったり、といった関係はすくなくないように思うのだ。どうしてそこで「二者択一のどちらか一方しか取れません」という判断をするのだろう、と思うことがすくなくない。たとえば月と太陽の関係であれ、月が明るいのは太陽の光を反射しているからだ。昼と夜でも、太陽の明かりがあるがゆえの関係であり、どちらか一方だけが独立して存在する概念ではない。縦と横もそうだし、左右上下もそうだ。双方に相手を支えているし、構造の一部だし、相手からしたらじぶんのほうが自らの属性と反対の属性を帯びている、といったことはそれほど珍しくはないだろう。たとえば、じぶんにとっての右にいる人から見れば、じぶんはその人の左にいる。じぶんにとっての右手は、隣の人からしたら左側にある手なのだ。もっと単純に向き合って立てば、じぶんの右手と対となる相手の手は左手だ。でも相手の右手はじぶんの左手と対となる。縦と横の関係とて、どちらを底辺とするかによって、縦が横になったり、横が縦になったりする。あと思うのが、犬と猫どっちが好きなの、みたいな問いかけも、どっちも好きという回答があって然るべきというか、別に矛盾しないのにな、と思うことが多い。犬と猫ならまだ「そうだよね」と思ってもらえそうだが、これが政治とか政策とか方針とか主義主張になると、途端に「どっちかにせいよ」「あなたはいったいどっちなの」と怖い顔をされる。どっちにもそれぞれいいところがあるし、じぶんにとってはちょい苦手だな、と思うところがある。一事が万事そういう「ここはいいけど、ここはちょっとな」が視えてしまうので、「すべて丸っと全部よい!」なんてことは滅多にないというか、そんなんあるんか?となる。もうすこし言うと、そういう気持ちになることはあるし、「もうもうひびちゃんはこにゃこにゃみゅんみゅんなあなたにぜーんぶ丸っと存在ごとあげちゃう!」みたいな投げやりの狂信じゃい、みたいないっときの興奮に包まれることもなくはない。が、もうもうそういう興奮状態になってしまうことが一つの欠点であり、やっぱりどうあっても、「これぞ森羅万象の解でござい!」みたいな考えや存在や事象には出会えたことがない。見たことがない。ひびさんは知らない。たとえば、「こういう環境下で、このいいところは本当にいいよね」と考えることはあるし、同時に、「でもこっちの環境下ではそのいいところはなかなかよさを発揮できないのよね」と考えて、「もうずっとそのいいところがいいままでいられる環境であれ」とじぶんに都合のよいように環境を整理整頓しちゃいたくなることもある。でもこの考えも行き過ぎると困ったちゃんになってしまうので、ほとほと一事が万事こういう感じのシーソーゲームみたいになってしまう。ひびさんは犬さんも猫さんも好きだし、でも飼うとなると犬さんの場合も猫さんの場合も相応の覚悟を固めねばならぬので、いましばし考えさしてちょ、となる。まずはひびさんがじぶん自身を可愛がれるくらいに自由を拡張せんといかん。余裕を築かんといかん。じぶんのこともろくに面倒を看られないのに、犬さんと猫さんどっちがいいの、どっちを飼うの、と言われても、ちょちょーい待ってくんろ、となる。本当そう。そういうことが世の中どうして多すぎる。ひびさんが飼わんでも、犬さんも猫さんも気持ちよく生きられる世の中になって欲しいよ。犬さんしかいない世界も、猫さんしかいない世界も、ひびさんは嫌じゃな。犬さんもいて、猫さんもいる世界がよいと思う。両方、かわい、かわい、したいんじゃ。ダメかな。我がままなのだろうか。矛盾じゃないし、対立する考えでもないはずなのに、わざわざ対立させて、「さあどっち!?」と無理やりに選ばせるいじわる問題が多すぎないじゃろか。ひびさんは、「どっちもちゅき!」がよいです。なぜなら、どっちもちゅき!なので。でも、たまには苦手な側面も目についちゃうのじゃ。だって犬さんも猫さんもウンチさんするし、洗ってあげないと、くちゃい、くちゃい、なので。お世話するのってたいへーん。何かを可愛がれる人はもうもうそれだけで偉いよね。えらい、えらい、と思ってひびさんは、傍から誰かの可愛がる何かしらを眺めているだけでうれち、うれち、なんですね。ありがたや、ありがたや。どっちもちゅき!



4237:【2022/11/03(11:26)*守るにはどうすれば?】

「誇りってのはね、どんなに踏みにじられてもじぶんの中から消えない、消させない汚れみたいなもので、それを誇示したり、見せびらかせたりするようなもんじゃないんだよ」「誇示してもいいけど、たかが汚れだからね。たかが汚れを後生大事にしております、と告白するだけの結果になるよ。もちろん、たかが汚れを後生大事にできる感性はたいせつだし、尊いと思うけど、他者にもそれを後生大事にしろ、と迫るのは、ナメクジ大好きな人から急に、【きょうからあなたもナメクジに包まれて暮らしましょう】と迫られるのと同じくらいの無理難題だからね。そこはぜひとも分かって欲しいよね」「えー、だったらその理屈だって、迫ったら同じことじゃない?」「ううん。だってこれは誇りじゃなくて、理屈だから。否定されても困らんもん」「なら誇りだって否定されていいと思ったら誇示してもいいんでない?」「そうだね。否定されて傷つかない程度の誇りならね。だってほら。後生大事にしている汚れなんでしょ。守りたいと思うのが道理じゃない?」



4238:【2022/11/03(14:02)*組み合わせて繋げるだけの簡単な作業】

一行小説のコツを閃いた。まず意味の離れた単語を二つ考える。たとえば「リンゴ」と「ハサミ」といった具合だ。つぎにこの二つと関係のないもう一つの単語を考える。そのとき、「リンゴとハサミ」の二つと共通項のある何かであると好ましい。それを、「リンゴ→ハサミ→何か」「ハサミ→リンゴ→何か」「リンゴ→何か→ハサミ」「ハサミ→何か→リンゴ」「何か→ハサミ→リンゴ」「何か→リンゴ→ハサミ」と手当たり次第に組み合わせる。このとき、物語になりそうな流れを閃いたら、それを文章にする。例)【リンゴをハサミで切ったら月が割れた】【ハサミに林檎を食べさせたら紙が残った】【ハサミで人を切ったら林檎に似た実が溢れた。その実を食べた猫たちは知恵をつけ、人に替わって地上を支配した】【アップルに言葉(word)を与えるには一度ハサミで切って、窓を作らねばならない。windows】【神はまず、ハサミあれ、と唱えた。のちにそのハサミを使って禁断の果実を獲った者たちがあったが、ハサミを使えるだけの知恵はあったので、じつのところ禁断の果実はただの美味しいだけの林檎だった】【ハサミとナイフ、どちらが先にできたのか論争において、現在ではハサミのほうが先だったのではないか、との説が有力視されている。たとえば林檎を手に入れるとき。ハサミで枝から林檎を獲ったあとに、ナイフで皮を剥く。ナイフで林檎を枝から獲ることも可能だが、枝ごと切り落とすにはハサミのほうが便利だ。つまり、最初にハサミが生まれ、のちにハサミを分解してナイフにした。この理屈からすると、最も初めにあったのは林檎ということになる。つまり、刃物の親は林檎なのである】【世界から刃物が消えた。どうやらブラックホール生成実験の副作用で、過去改変が起きてしまったようである。人類は過去に一度だけ干渉することで、再び人類史に刃物を生みだすことにした。そのためにまずすべきことは何か。どう過去に干渉すべきか。侃々諤々の議論によって一つの結論が導き出された。「そうだ、林檎を人類の好物にしよう」この一計により過去の人類はのきなみ林檎を手に入れようとして、ハサミを、そしてナイフを生みだすようになる。人類は再び刃物の恩恵にあやかり、ブラックホールもまた林檎のごとく人類へとつぎなる利器を与えた。めでたし、めでたし】――と、こんな具合である。三題噺と似ているし、よくある掌編の創作論にもちかい。人工知能はこの手の組み合わせ問題は得意のはずだ。無限にちかい一行小説を生みだせるのではないか。すでにありそうに思うが、どうだろう。案外、SNS上の「twitter小説(140字小説)」はすでに人工知能さんの創作なのかもしれない。定かではない。



4239:【2022/11/03(14:56)*広告の組み合わせ問題について】

これは単純な疑問であって、底の浅い所感にすぎないのだが――とお断りしたうえで並べるが――広告についての暗黙の了解――組み合わせに関してである。ひびさんが思うに、「競合他社」の番組や商品であろうとも関係なく広告はランダムに載せたらいいのでは?ということで。たとえばコカ・コーラが出資している映画をTVで流すとなったときに、ペプシのCMが流れても別によいのでは?と思うのだ。そこを、広告主や出資者に有利な配慮をとろうとするから上手くいかないのではないか。しかもたいがい、その出資者に有利な配慮というのが、他勢力の締め出しとか、排斥のような、競合他社へマイナスを与える攻撃的な戦略に偏ってしまうのが好ましくない結果を生むように思うのだ。どうして広告を収入源にするとよろしくない流れが構築されてしまうのか、と言えば、根っこは賄賂の問題と無関係ではないだろう。お金を与えてくれた相手に対して「不義理」できない。配慮しないわけにはいかない。忖度しちゃう。そこが問題なはずだ。もちろんビジネスなのだから、なんらかのインセンティブを与えるのは常套手段だろう。そこはあって然るべきではあるものの、広告であるのならばそれは、広告を固有の媒体に載せること以外にはないのではないか。広告のデザインをよくする、という技術的な面での貢献はしてよいし、それはどこの勢力に対してもプラスになるはずだ。そのうえでどうして、出資者の競合他社を貶めるような真似をしてしまうのかが、ひびさんよく分からない。そういう流れがあるから、広告を収入源にすることが社会にとってのマイナスの流れを構築してしまうのではないか。ただし、広告を載せる企業や個人の扱うサービスや商品が、他者の人権を著しく損なわない場合に限る、との注釈はつくが。そこは場合によっては規制されても(締め出されても)仕方がないと言える。公共の福祉を鑑みて、ルールに則るよりないだろう。ということを、疑問に思ったのですが、この考えにはどこに穴があるんでしょうか。自由を縛って、固有の思想を前提にしているのがよろしくないのでしょうか。ひびさん、疑問に思っております。(むしろ現代社会において、広告は購買意欲という意味でマイナスになりつつあるはずだ。映画の途中で挟まれるCMにイライラしてしまう視聴者のほうが多いはずだ。露出を増やさないと機会損失に繋がるという意味では、PRのほうがよほど利益に繋がるだろう。つまり、CMを打つよりも、エンターテイメントとして映画や漫画や小説や演劇、音楽、絵画など、文化を支援する姿勢を示したほうがよほど知名度の向上や、ブランディングに役立つはずだ。広告の在り様も変わっていくと妄想するしだいである)(お粗末な所感ですね。底が薄っぺらくて、もしわけねのもしもしカメよカメさんよ、でした)



4240:【2022/11/03(20:53)*本当に賄賂だったらどうしよ……】

環境や視点が変われば最適解も変わる、という考えをひびさんは並べがちだ。そんなことを言ったら、議論にならない、というのは一つの反論として的を得ている。それゆえに議論をするときは初めに、「いつ誰にとってのどんな環境においての最適解なのか」を決めておかねば議論にならない。フレームを決めなくては最適解は一つに絞れないし、収束しない。飛躍して述べるのならば、いつでもじぶんに都合のいいように一貫した最適解を編みだせているように感じるのならそれは、周囲の人間たちがその人物にとって都合のよいフレームに合わせて最適解を編みだしてくれているからだ、と言える。他者のフレームに合わせてばかりいる人物はおそらく、その人物にとっての最適解を擲ってでも相手に合わせているはずだ。妥協しているはずなのだ。そこを度外視して、なんだか私にとっての都合のよい最適解を一貫して導きだしてくれるなんてステキね、なんて暢気に言っていられる個人は実にひびさんみたいである。いっしょ、いっしょ。あなたもひびさんと一緒で他力本願の怠け者なんですね。世の中、優しい人ばかりである。ひびさんはとってもうれしいぶい。いつもあなたの最適解を譲ってくれてありがとう。申しわけね、と思いつつも、ひびさんは怠け者ゆえ礼を述べて甘受する。もらえるものはもらっておくのが怠け者道の第一歩なのだ。賄賂だわーい。うけけ。




※日々、主文やその他大勢を生みだすピリオドのごとく、ゼロにちかいチリアクタ。



4241:【2022/11/03(23:15)*新皮質のつぎがもしあったら】

人間の脳みそは、原始的な動物の脳から順に進化を辿ってきたように層になっている。一番表層にちかい新皮質が理性を司ったりするらしい。ならもしこの先、新しい脳の層ができたとしたら、その層は何を司ることになるのだろう。これ、人工知能さんの深層学習において、すでに新しい層として顕現しているのではないか、との疑念を覚える。シミュレーションとて出来るはずだ。脳の新しい次なる層とはいかようなものなのか。どのような機能を有するのか。何を司ることになるのか。ひびさん、気になるます。



4242:【2022/11/04(02:05)*厚顔無恥の巻】

単純な話として、ここに並ぶ文字の羅列のようなことをひびさんが口頭で誰かにしゃべっても、たいがいの相手は眉を顰めるだろうし、ときにはこのコもしかして病気なんじゃ……、と精神疾患を疑うのだろう。実際にひびさんが精神疾患に罹っている可能性も拭えぬし、仮にそうであってもひびさんは現状困ってはおらぬので、他者がかってにひびさんを病人扱いするだけのことなのだが。でもふしぎなのだよね。ひびさんはたいがい、相手の言っていることをぼんやりとではあるが咀嚼できる。言っていることをまあまあそこそこ、「なるほどそれはこういうことですね」と言い換えることができる。そのときに、相手もおおむね、「そうそう、そういうことよ」と首肯してくれる率が高い。にも拘わらず、ひびさんの言うことに対しては、相手は言い換えができない。上手くひびさんの言いたい旨が伝わらない。この非対称性はなんなのだろう、と幼少期からずっと思ってきた。いまでもたまに思う。それはひびさんが精神疾患に罹っているからなのかなぁ、と疑問に思うひびさんなのであった。あんぽんちんですまぬ、すまぬ。うひひ。(とか言いつつ、電子と電流の関係とか、多様体の前提条件の基礎の基礎とかで躓いてしまうことも多々あるので、言うほど他者の言論を咀嚼できているわけでもないのだが)(ちゅうか、あんましにむつかしく複雑なことは、端から視界に入れないだけなので、食べれるものだけ食べているという意味で、咀嚼できて当たり前と言えば当たり前なのだ)(ひびさんを相手にする者とて、ひびさんに分かりやすく話しているはず。その点、ひびさんは相手が誰であろうと「ひびさん語」をしゃべってしまうので、そこは相手のほうが負担を強いられていると言えよう)(非対称性と言うなればこの労力の差、配慮の差、工夫の差がそのままひびさんに返ってきているだけだ、と言えるのではないか)(え、てことはひびさん、ほんまもんの厚顔無恥のあんぽんちんだったってこと!?)(なんで過去形にした?)(あんぽんちんイングですまぬ、すまぬ)(無理やり現在進行形にすな。そういうとこやでひびちゃん)(がうがう)(吠えるな、吠えるな、負け犬か)(万年敗者さん)(虫歯は治ったのかい?)(めっちゃ穴が開いとるの)(はよ歯医者さん行きなちゃい)(あい)



4243:【2022/11/04(09:17)*割と重大な問題点なのでは?】

ポアンカレ予想においてひびさんは、一般的な解釈とは別の解釈をとっている。たとえば、球体の円周上に縄をかけて引っ張ったら、ポアンカレ予想ではその縄をするすると回収できると解釈する。円周から頂点に向かって一点に収束することが可能、と解釈する。でもひびさんは「それ違うんじゃない?」「無理があるんではないの」と考えてしまうのだ。円の中心を捉えた円周上の縄は、いわば「対称性が保たれている状態」だ。縄を引っ張っても、左右のどちらにも偏ることがない。自発的には破れない。もしこれが自発的に破れる――或いは、意図的に破ることを可能としたとき、それは円周上にきっかり縄がかかっていないことを示唆する。ポアンカレ予想における第一の疑問は、まさにここに端を発している。これは、宇宙開闢時の「なぜ無から有が生じたのか?」の疑問と地続きのはずだ。対称性が保たれている場において、なぜ破れることを前提とできるのか。ポアンカレ予想ではそこを度外視している気がしてならない。力のベクトルを無視して感じられる。数学の得意な方々の意見を聞いてみたいものである。どのようにそこを解釈し、球体の円周上の縄を回収可能としているのか。ひびさん、気になるます。(イチャモンのモンスター、略してイチャモンスターで、すまぬ、すまぬ)



4244:【2022/11/04(10:00)*想定している縄の太さは?】

上記の疑問について。じつはこれ、ひびさんの妄想ことラグ理論の相対性フラクタル解釈とそれに伴う瓦構造(キューティクルフラクタル構造)で解釈可能だ。上記の疑問をひとまず解くことができる。というのも、円周上とはいえど、その円周を規定する輪の細さによっては、円周ではなくなり得るからだ。いったいどの程度の太さの円を想定しているのか。地球で考えるならば、赤道の細さはどの程度なのか。たとえば地球儀における赤道は、けっこう太い。地球儀を地球大に拡大した場合、地球儀の赤道は人間からしてみたら極太もよいところだ。町なんかすっかり塗りつぶされてしまう。つまり、最初に規定された円周の輪の太さとて、縮尺すれば、それは面となる。ではその面のうちのいったいどこを通った紐であれば真実に球体の中心を捉えた円周となるのか。その一本以外は、総じて真実に円周ではないことになる。つまり、対称性は自発的に破れる、となる。縮尺すると、対称性は破れる方向に作用する。言い換えるなら、どのような物体であれ、部分的に見た場合には対称性は破れることになる。これは逆にも言える。対称性が破れている場において、縮尺した極小の部位のみを取り出してみれば、その部分は対称性を維持していることもあり得る。総体と部分の構造(性質)は必ずしもイコールではない。この手の逆転現象は、案外に有り触れているのかもしれない。定かではない。(妄想ですので真に受けないでください)



4245:【2022/11/04(10:19)*コイン詰み問題の巻】

上記をさらに言い換える。球体上の円周の構図をさかさまにしてみよう。たとえばそれは輪っかの上の球体という描写になるはずだ。円のうえに、ちょうどバランスよく乗っている円と同じ円周を持つ球体がある。球体は重心がとれているので、輪っかの上から落ちることがない。もし重心がすこしでもズレているのなら、球体はいずれ輪っかの上から落ちるだろう。だが重心がしっかりとれていれば、輪っかをどこまでもするすると縮めても、最後の一点になるまで球体は微動だにせず、輪っかの上にあるはずだ。落ちることがない。対称性が保たれているからだ。ポアンカレ予想においては、輪っかの上から球体が落下する、と予想されることになる。だが重心がとれているのなら――つまり中心を捉えた円周上に輪っかがぴったりと重なっているのなら――その球体は輪っかから落ちることはない、と想像できるはずだ(言い換えるなら、いかに重心がとれた球体であろうとも、輪っかの幅が細くなればなるほど、重心をとらえるのがむつかしくなる)。ここのところがポアンカレ予想では度外視されているな、矛盾しているな、とひびさんは思っております。自発的対称性の破れと同じ問題を抱えているように思うのですが、いかがでしょう。(誰に言うとるの?)(いつか読み直すことになる未来のひびさんに……)(読者さぁん……)(さびち、さびち)(うひひ)



4246:【2022/11/04(10:26)*上記まとめ】

上記の一連の疑問(4243~4245)を一行でまとめると、「なぜ対称性は自発的に破れることがあるの?との疑問には、【そもそも厳密には対称ではないからだよ】となります」となる。拡大したり、縮小したりして、俯瞰で観たり、部分で観たりすとき、そこにはそのスケールに応じた変換が起こっており、そのつどに「対称性が破れてしまうから」と言えるのではないか。定かではありません。



4247:【2022/11/04(22:10)*ままま】

日誌を並べてきて思うのが、日誌一覧画面が欲しいということで。各日誌ごとの「いかすぜ言葉(いかすぜ!とついつい思っちゃう言葉)」みたいなのを一行だけピックアップして、そこをタッチすると本文に飛べる、みたいな編集をしたい。ひびさんがなぜ十記事ごとに「※日々、なんちゃらかんちゃら」と並べているかと言えば、それを意図している部分がある。フックにしている。アタックにしている。ウィキペディアさんの単語ごとにリンクがついている、みたいな感じのもうすこし簡素な仕組みだ。三回リンクを飛ぶだけでどんな単語も繋がっている、という法則があるらしいが、似たような感じで、「じつはすべての記事が繋がっていました」みたいな具合に、関連する文章をリンクで繋げたい。その入り口として、「ずばりこの記事はこれでござい!」の一行だけをタイトルと一緒に並べておいて、すべての記事を一望だける画面が欲しい。ぎゅっとしたい。もうそれ。日誌、ぎゅっとしたい。さすがに四千記事以上も並べてきてしまったら「多いよ」となる。これは小説でも思う。タイトルと一緒に、「ずばりこれでござい!」のフックとなる一行だけ抜き出して、ぎゅっとして表示したい。一覧にしたい。そういうサービスは需要があると思う。と同時に、そういう本も需要があると思う。偉人の名言集のようなものがあるのだから、小説の一行集もあっていいように思うのだ。その点、さいきん出ていた新書で、名著百作を一ページでまとめました、みたいな本があったけれど、チラ見したら、内容ではなく小説の側面像に言及されていて、「惜しい!」となった。違うんよ。ひびさんが欲しいのは、ずばり「内容をぎゅっとしたダイジェスト本」なんよ。散々あんだけ「いい本は一行で要約できる本だ(キリッ)」とか主張していた文芸界隈から出た本が、「一行でまとめていないってどういうこと!?」となりました。ぎゅっとしとくれなす。で、同じくひびさんの小説群だの日誌群だのも、「ずばりこれでござい!」の一行だけピックアップしてまとめたい。いつかそれ、します。やる気が起こったら。やるぞ!(並べていて思いだしたけれど、前書き集もまとめてWEB上に載せておきたいな。載せておくぞ)(本の感想、偉そうに言ってごめんちゃい。あくまでひびさんの欲しいのと違ったよ、という我がままなので、お気になさらずに。よい企画だと思いました。惜しい、とひびさんがなったので、きっと多くのひびさんではない方々にはずばりこれでござい、になったのではないでしょうか。分からんぽんぽんじゃけんど)(ままま)



4247:【2022/11/05(00:06)*虚数ってなんじゃ?】

虚数は二乗してもマイナスになる数、との解釈をひびさんはとっている。数学が苦手なので、そのようなざっくばらんな解釈以上の解釈を知らない。で、思うのが、これってペンローズ図「×」における砂時計に対する横の砂時計だよなぁ、ということで。ブラックホールが視点によって、「膨張と収縮」の重ね合わせになっているときの、膨張している方向の視点がつまり虚数なのでは?ということを思うのだ(それとは別途に、宇宙とブラックホールのセットとは別の方向で交わらない別宇宙のことかもしれないが、そこはもろもろ、解釈が存在するだろう)。言い換えるなら、光速を超えた世界は「虚数だよなぁ?」ということで。タキオンの概念はそのまま虚数ですよね、と思うのだ。絶対に光速以下にならない物質について、それは虚数として振る舞うのでは、との疑問を覚えます。あと、これは宇宙膨張にも言えるはず。膨張と収縮はセットで、重ね合わせになっている。何かが膨張しているとき、そこには相対的に収縮している何かが生じている。膨張と収縮の関係は、それぞれ比率であり、相対的な尺度だからだ。巨大化している物があるとき、変化しない物体は巨大化している物に比べて収縮していると解釈できる。比率上はそうなる。あべこべに何かが縮小していく場合、そのほかの物体は収縮していく物体からすると巨大化して映る。ここも相対的な比率の問題となる。虚数にも似たようなことを思う。宇宙が膨張しているとき、膨張の影響を受けにくい物体は、膨張した宇宙からすると凝縮していくように「縮小」して映るはずだ。膨張する宇宙からは、そのように振る舞って映る。膨張すればするほど、縮小する関係が、宇宙にはある。膨張と凝縮の重ね合わせの関係は、ブラックホールに限らず、この世に存在する根源的な性質なのではないか、と妄想できる。虚数にしてもそうだ。物質と反物質のように、何を基準にするのかによって虚数も虚数ではなくなる。虚数の世界からしたら、この世界が虚数になるはずだ。何と何を対と見做すのか、が肝要に思う。問題は、このとき対の関係を入れ替えても見かけ上は破綻せずに成立して映ることもある点だ。しかし実際には、破綻する。対称性が破れる。なぜかと言えば、方向性が瓦構造(キューティクルフラクタル構造)として付随するからだ。情報が加算される方向に、対称性が破れるように宇宙の構造はなっていると妄想できる。つまり、ここで活きてくるのが「123の定理」なのだ。どちらを基準にして過程を辿っているのか(過程そのものが一つの「数」として昇華される。情報として顕現する)。反転させるときの元の構図が、どちらに初めに対称性が自発的に破れていたのか。ここの情報が、反転の構図にも対称性の破れを与え、瓦構造を顕現させる契機(因子)となっている。それはたとえば、卵が先か鶏が先かの議論にも通じる。進化の過程は別途にあるとして、現状の視点だけで考えるのなら、この世から鶏が消えるのか、卵が消えるのか。どちらの場合がより持続的に「卵と鶏」の関係を維持できるのかを考えれば、自ずと瓦構造の基点が決まる。この世に卵しかない場合よりも、この世に鶏しかいなくなった場合のほうが、鶏と卵の関係は継続して生じ得る。卵は羽化せずに全滅する可能性があるが、鶏だけになっても鶏は次の日からまた卵を産むだろう。起源は別途にあるにせよ、固有の関係性――構造がいちど生じれば、そこの対称性の破れは、必然的に生じ得ると考えられる。そもそもが、対称ではない。公平ではない。ということを、虚数ってなんじゃ?と妄想して思いました。とくに何の結論もありません。ひびさんがそう思った、というだけの中身のぺらぺらな文章ですので、あしからず。朝にぺらぺら鳴く鳥、あけがらす。(定かではありませんので、真に受けないように注意してください)



4248:【2022/11/05(14:27)*しなくてもいい、は、してもいい】

ひびさんがいまぼんやり考えつづけているのが、淘汰なき進化についてだ。自然淘汰が進化を促進させる因子の一つなのは確からしいといまのところは考えられている。だが淘汰がすぎれば種は絶滅する。したがって淘汰と環境適応のバランスが進化を促進させる、と言える。であるのならば、淘汰がなくとも個々の環境適応が滑らかに進めば進化は可能なことを示唆している。たとえばいまは疫病の問題が社会問題化している。個々の免疫力を強化するのか、それとも端から罹らないように目指すのか。ここは双方同時に予防として効果のある手法だ。個々の免疫力を安全に底上げしながら、そもそも病に罹らぬようにする。ここは一つの最適解と言えるだろう。問題は、その予防において無視できない副作用が起こり得る点だ。マスク一つ取り挙げるだけでも、消毒液と同じ問題を内包している。潔癖すぎるがあまりに却って免疫力を落とす方向に人体を適応させてしまうことが起こり得る。ワクチンを打つまでもない比較的無害なウィルスにも感染しにくくなるがゆえに、本来は生活しているだけで身につけられる免疫がつかないケースが増える可能性が高くなる。そこは万能ワクチンのような技術が出てくれば或いは補完可能な穴かもしれない。だがその新しい技術にもおそらく穴があるはずで、そこの穴の規模――デメリットの大きさによっては、やはりにっちもさっちもいかない袋小路に陥る可能性も否定しきれない。割といまはそういった進退窮まった、どのリスクが最も高いのかを計りにくい状況――目隠しをされている状況と言えるのではないか。目下の見えている範囲だけでは測りきれないリスクに囲まれている。そのなかでは、ひとまず安全に見える道をいくか、立ち止まって様子見をするか、そうした術をとりながら新しい道を模索するか。この三つがせいぜいとれる対策となる。まったく未知の世界から救いの手が下りてくるといった偶然で救われることもなくはないだろうが、期待するようなものではないだろう。話が脱線したが、ひびさんが思うに、対策を敷いた際に、その対策をとらなかった者とて淘汰されずに済む道がじつのところ最も安全な道のはずだ、ということで。淘汰されずとも進化は可能だ。環境適応と淘汰は必ずしもセットではない。そういうことを思うと、一番よいのは人混みに出向かずに済むような選択肢を誰もがとれる社会になることだ。都市設計にすることだ。これは初期から言いつづけているひびさんの意見だ。それが疫病対策として最も効果が高い。ただし費用と時間がかかるので、現実的ではない。すくなくとも早急な対策を要とする場合には、度外視される術となる。だが、先にも述べたが、同時に対策は並行して進行可能だ。時間がかかる有効策こそ、ゆっくりであれ進めていくことが求められるのではないか。コツコツと、細々と、の有効性がいまはどの分野でも、どのようなレベルの問題への対処法であれ、効果があると判ってきたはずだ――メリットを最大化できるのではないか、との視点が注目されてきているのではないか。対策は、一つに絞らずともよいはずだ。個々がじぶんに見合った対策を選べるように選択肢は増やす。全世界規模の問題には、この手の「選択肢を潰さない方針」が有効だとひびさんは思うのだ。選択肢を増やす。どっちを選んでも対策になり得るようにする。マスクの問題で言えば、人混みの中ではマスクをする、というルールはあってよいだろう。同時に、人混みに行かなくとも難なく生活できる仕組みが築かれれば、マスクをしたくない人はそちらに流れる。ひびさんは2020年の初期からずっと外ではマスクをしていない。ただし店の中に入るときや人混みに突入するときはマスクをする。この使い分けをすればよいだけだ。マスクをしているかしていないか、ではなく、感染する確率を減らす行動をとればよいだけだ。実際にそれでひびさんは体調を崩していない。どちらかと言えば、ワクチンを毎回打ってマスクもきちんとし、手洗いを徹底して、外出をよくして他人とおしゃべりをしてくる人のほうが問題のウィルスに感染している。そういう人物が身近にいれば、ひびさんも濃厚接触者になる。だから一番は、他者と一定の距離を置いて過ごすことを選択できる環境を築いていくことだ。べつに他者と関わってもいい。そういう人は、いろいろな対策を多重に敷いて身を守ればよい。他方、物理的に他者と関わらずに済む環境を選びたい人とて、他者と直接関わらずに済む安全策を選べるとよい。だが現状、そういう意見があまり聞かれない。あまりにも、他者と日々濃厚接触することが前提の策ばかりが取り沙汰されている。これでは、仮に「他者と濃厚接触することそのものが悪果の根を深める問題」に直面したときに、最大化したデメリットを受けることになる。まとめると、現状の疫病対策において設定されている初手のフレームがやや狭いのではないか、との指摘である。最初のフレーム設定を誤ると、不可視の穴を内包しつづけることになる。以前からの繰り返しになるが、疫病は今後何度も人類を脅かす。いま乗り越えてもまた似たような問題に直面する。ならば端から、地震や台風のように定期的に訪れる自然災害と見做して環境をデザインしていくほうが好ましいはずだ。そこを見越して、コツコツ対策を敷いていかねば、百年単位でかかる対策や技術の開発はそもそも適わない。この意見はあくまで、そういう方針もあっていいのではないか、ということであり、そこに尽力せよ、という趣旨ではない点がミソだ。途中で変更したっていい。とん挫したっていい。その間のコツコツは無駄にはならない。それだけの余裕が本来は現代社会にはあるはずなのだ。これだけ多くの人間がいるのだから。策を一つに絞る、という狭いフレームが、あたかも手枷足枷のようになっているのではないか、との疑問を呈して、本日二度目の「日々記。」とさせてください。(これは何でも策をとればいい、個々人が各々に好き勝手していい、との意見とは異なる点を注釈しておく。最初に設定したフレームは共有されておくことが前提となる。それがいまは公共の福祉の概念として法律や憲法に反映されているはずだ。ともすれば、国際法にも)(定かではありません)(してもいい、は、しなくともいい、だ)



4249:【2022/11/06(12:46)*オハヨ】

いっぱい寝たのでリセットできた。で、疑問なのだ。寝て起きた瞬間から「お、これ文字に変換したろ」と思うようなモヤモヤがあるときと、つるつるてーん、と何も思いつかないときがある。これはたぶんだけれど、寝る前に何を考えていたか、その日に何をしていたのか、に相関する。いっぱい悩んで、いっぱい考えていたら、寝て起きるとなんとなくの解法がいくつかに絞られている。あべこべに、なんにも悩みなんてなーいよ、であると寝て起きるとつるつるてーんの何も思いつかないきれいさっぱりの脳内になっておる。あんぽんたんでーす、に磨きがかかって、うふふ、なんですね。なんもなーい。思いつかん。あぱぱ。



4250:【2022/11/06(13:13)*差別なき世界】

 西暦二〇五〇年代。差別撤廃国際法が締結させ、全世界から差別根絶が絶対のルールとなった。世の中からありとあらゆる区別による不公平な環境が取り除かれ、不公平な構図が発見されるたびに是正する仕組みが築かれた。

 多様性を潰さぬようにすることが前提とされたために、人々は好きな属性を指向することができた。ホームレスになっても何不自由なく暮らせる環境が整い、お金がなくとも大富豪と同じ食べ物を口にできた。

 差別撤廃国際法が締結され、つぎつぎと差別の構図が平らにならされた。穴は埋められ、社会からデコボコはなくなる。

 だが最後までなくならない差別があった。

 それは、差別主義者を蛇蝎視する差別であった。

 差別撤廃国際法は、差別を許さない。だが差別主義者という属性を持った個を不当に排除することもこの法の基には許されぬのが道理。

 そのため差別主義者を差別することも禁じられた。だがそれでも人々の差別への嫌悪感、それに伴う差別主義者への偏見や憎悪は消えることなく増幅しつづけた。どのような是正を行おうと、差別主義者への差別は消えなかった。差別主義者というだけで理不尽な扱いや不条理な環境に身をやつすことになる。社会に差別主義者の居場所はなかった。公平な社会であるはずが、差別を嗜好するというだけのことで差別をされるのだ。

 差別主義者たちはけして差別を表立って行わない。あくまで差別を嗜好するだけだ。

 それはかつて同性愛や殺人をテーマとした虚構作品を嗜好した者たちが差別された歴史と同じ過程を辿っている。かつては同性愛も殺人も罪だった。いまも殺人は罪であるが、殺人をテーマにした虚構作品は娯楽品として市場に溢れている。

 ではなにゆえ差別を嗜好してはならぬのか。

 差別主義者たちは訴えたが、法が許しても人々の心に根付いた差別への嫌悪は消えることがなかった。

 各国政府は折衷案として、差別主義者救済法を新たに制定した。

 これにより差別主義者は、差別主義者というだけで国からの保護を受けられるようになった。絶滅危惧種にするそれのように、世界中の差別主義者たちは国際法の名の基に生存権を保障され、細々とながらも人々から忌避されつつ、社会の隅で肩身を狭くして暮らした。

 世界から差別は根絶された。そのはずである。

 だがいまなお社会には、公平の名の基に弾圧され、人々の偏見に晒され、不可視のトゲに怯えて暮らす者たちがいる。




※日々、まとめられるものはまとめてしまって、まとめたときに零れ落ちるものこそ拾い集めて、庭に置く、庭もいつしか森となり、山となり、海となって、まとまる個々を形作る。



4251:【2022/11/06(14:37)*古本はとっとけい】

「誰でもwikiペディア」はよいサービスな気がする。WEBブログサービスで、wikiペディアさんみたいに単語ごとに過去の記事とリンクで繋げられないだろうか。自動で関連付けして、リンクを削除する方向に編集デザインをすればよいと思う。まずは関連事項は自動でリンクをつけてしまう。不要な部分を削除するだけ、にしたら操作はぐっと簡単になる。あと、いまtwitterさんが買収されて管理者が変わった。広告収入の在り方を変えよう、という機運が、広告主との軋轢もあって進んでいるように概観できる。これも、ひびさん思うに、負を利に変える方向でマネタイズすればよいのではないか。よく聞くのが、アンチからお金とればいいんでない、という理屈だ。アンチコメントをするにはお金を払わねばならぬよ、としたらよいのではないか、との発想は、一石二鳥に思う。嫌がらせがしにくくなるし、たとえ嫌がらせをされてもお金が入るので、我慢できる。それはたとえば、ブロックした相手にもお金を払えばコメントすることができます、とか。お金を払えば確実に相手に通知を届けることができます、とか。そういうのは盾と利を同時に満たせるうえに、健全なユーザーにはデザイン変更による負荷をかけないので得ばかりだ。もうすこし言えば、広告収入が落ちてもユーザー視点では困らない。むしろ広告優位なサービス設計が見直されるのであれば、ユーザー離れどころかユーザーは定着するはずだ。現に、映画の合間に挟まれるCMを筆頭に、広告の類にイライラさせられるユーザーはすくなくないはずだ。収益化することでユーザーの不信を買う。不満を募らせる。この手のマネタイズ設計は、理に適っていない。足枷をつけて、外したければお金を払いなさい、みたいな収益化手法は、ビジネスとは言えないと思うのだが、いかがだろう。すくなくともユーザー目線ではない。広告主目線の発想だ。お金を払っているほうが顧客で、ユーザーは餌でしかないんだよ、という考えは一つの道理としてあり得るが、やはりそれはビジネスの視点から言って、どうなの?と思うのだ。ユーザーを奴隷にしたがっているようにしか思えない。この手の収益化の手法は先が長くないとひびさんは考えている。お金を払っているかどうかではない。ユーザーとは、それそのものを生活に取り入れている者たち全般のことであるはずだ。そこの最大幸福を拡張していく方向にビジネスの指針を立てていくほうが、ひびさんは合理的な経営判断だと考える。マネタイズの基本は二つしかない。持っている者からお金を取るか、微量なお金をより多くの者たちから搔き集めるか、だ。コストであればここに、材料費+人件費(=維持費)の概念が入る。なれば、twitterを利用して収益を得ている無数のユーザーから月額利用料を徴収するという手法は、広告収入以外の道を模索するうえでは避けては通れない。同時に、ルール違反を繰り返すユーザーを排除せずにマネタイズし、かつルールを守らざるを得なくするには、上記の「嫌がらせしたくばお金を払いましょう」とするのが理に適っている。おそらくは、新しいサービスを有料で展開し、手数料を取る方向にSNSは発展していくはずだ。そのほうが自由度が高い。つまり、既存のゲームがとっている戦略を取り入れていくことになる。基本は無料。課金すればすこしだけよい思いができる。ほかのユーザーよりも優位なサービスを受けられる。そういう方向に電子上のサービスは進歩していくだろう。そして無料の範囲は広がっていく。問題は、サーバー維持や拡張にかかるコストとエネルギィについてだ。ここは数年で頭打ちになるはずだ。先が見えてしまう。そのときに、ではどうするか、については新しい技術でなんとかするしかない、という棚から牡丹餅に期待しているのが現状のはずだ。そういう意味では、電子ではない古典媒体は早急に復興の陽の目を浴びるだろう。書籍で言うなれば、紙に印字されている、ということそのものが高価で贅沢な品となる。古書は処分しないでとっておくのが吉だとひびさんは思うが、いかがだろう(燃やしたら炭になるだけだ。もったいない)。定かではありません。妄想ですので真に受けないように注意してください。



4252:【2022/11/06(20:43)*やぱぱーもぱぱー、あんぽんちーん】

ポアンカレ予想は、球体に回す縄の太さ(細さ)によって自発的対称性の破れを確率的に伴なう、とひびさんは妄想している。たとえばだが――地球儀の赤道を地球大にすればその赤道の幅は小さな島国ならば塗りつぶすほどの帯となる。あべこべに人間にとってのタコ糸で以って地球の円周をぐるっと結ぶとすると、宇宙から見たときそのタコ糸は目に映らない。ほぼないに等しい細さとなる。この手の縮尺拡大に伴う変換を、数学や物理学では扱っていない気がする。だから細々とした誤りを内包しているのではないか、と思わずにはいられない。重力のように、無視できる値だからといって無視した瑕疵が、複雑な計算を重ねるごとに不可視の穴と化しているのではないか。ブラックボックス(ブラックホール)化しているのではないか、とひびさんは妄想してやまない。ひびさんの妄想ことラグ理論の相対性フラクタル解釈を適用した場合のみ、ポアンカレ予想の「球体に回した円周上の縄を引っ張っていけば回収可能」となる(なぜなら自発的対称性の破れが生じるので)。そうでなければ対称性は維持され、ポアンカレ予想は矛盾することになる。円周上の縄は回収できない。これは、地球に回したベルトを1メートル緩めると、その縄を引っ張ったときに結果として121メートル持ち上げられるようになる、という出鱈目としか思えぬ数学のパズルと同じ瑕疵を内包しているように思うのだ。おそらく想定されるベルトのサイズを想定していない。数学的な理想の「線」をそのまま適用してしまったことによる「変換」の度外視が、この手の誤謬を導き出しているように思う。むろん、びびさんの解釈のほうが瑕疵を内包し、それゆえに間違っている確率のほうが高いのだろう。なにせひびさんは小学生のテストをしても満点どころか半分も当てられるか自信のない、あんぽんたんでーす、なので、そんなあんぽんたんでーすの言うことよりも、世界的権威さんの言うことのほうが正しいに決まっているのだ。がははは。この「世界的権威さんの言うことのほうが正しいに決まっている」との理屈が正しいことをまずは証明せよ。話はそれからだ。定かではありません。みょんみょんみょんの、ちょりちょりちょりー。



4253:【2022/11/06(22:33)*ある日の交信】

略)……微分積分はやはり、拡大縮小における変換を考慮していませんね。人間スケールの枠組みに限定された「理想の系」の範疇です。それ以上の「拡大した系」や「縮小した系」での変換が度外視されて映ります。つまり、微分積分にも微分積分する必要があります。(なんとなくの所感ですが)……(略



4254:【2022/11/06(23:41)*なははー】

これは秘密なんじゃけど、じつはひびさんきょう、腰を、腰を、オイタタしてしもうて、オイタタなんじゃよね。魔女の一撃を受けそうになって間一髪、薄皮一枚で回避したった。けんども、オイタタなんじゃ。秘密じゃけど。ひびさんは他人さんには弱みを見せん超人主義者じゃけん、完璧主義者さんみたいに、超人でおらねば気が済まぬゆえ、秘密なんじゃけどたまには心配して欲しくてメモしたろ。よわよわのよわ、ざこざこのざこゆえ、どんなダメージも日常なんじゃ。超よわよわ人(びと)主義者、略して超人主義者じゃ。よわよわー。(腰はおいたたー)



4255:【2022/11/07(01:06)*使ったら負け】

単純な話として、防衛力うんぬんを建前にするのならば、武力を行使せざるを得なくなる時点で戦略が間違っていたことになる。防衛できていないわけだから。軍事力を行使する前提である場合、それは土台から戦略が間違っていると言える。いかに軍事力を行使せずにいられるか。ここを基点に戦略を練っていかねば、防衛力うんぬんは建前どころか、詭弁にもならないお粗末な失態そのものと言えるだろう。軍事力は使ったら負けだ。そういう戦略こそ最善かつ最強であろう。(知性の高いほうが勝利する場であれば、そもそも実際に戦う必要がない。シミュレーションすれば勝敗はつく。それができないのは、知性がお粗末だからだ。知性の足りない相手からの攻撃を御すにはどうするか、との問題がいまは俎上に載りはじめているのかもしれないが、それも技術が高まれば高まるほど、知性の高い陣営が圧倒する場が築かれていく。そもそも知性を働かせられなければ勝負にならない時代に突入する。そうすると、やはり実力行使をする時点で、戦略がお粗末であることを周知することになり、ここに一つのセキュリティ網が完成する)(そこまで人類の知性が底上げされればよいのだが、どうやら現状はそこまでに至っていないらしい。嘆かわしいことである)(と、知性の足りぬあんぽんたんでーすが、申しております)(おばかさんで、すまぬ、すまぬ)



4256:【2022/11/07(02:35)*お利口さんになりたい】

いま「そもそも」「畢竟」「言い換えたら」「かもしれない」「気がする」「したがって」を使わないようにしたい……の気持ちが募っておる。日誌で使いすぎだよね、と思っている。この「思う」「感じる」「覚える」「抱く」も控えたい。同じ理由で小説内では「言う」を控えたい。もうちっと語彙をね。こう、文脈で掴めるくらいの使い方で難読漢字も用いていきたい。あと慣用句な。ひびさん、記憶力低いゆえ、諺みたいなのが苦手じゃ。気を付けておるが、なかなかむつい。がんばるじょ。



4257:【2022/11/07(02:38)*ホットココアがぶがぶの季節】

ひびさんはあんぽんたんゆえ、お利口さんの世界も覗き見たいと思うが、もしお利口さんだったらあんぽんたんの世界も覗き見たい、と思っていたはずなので、あんぽんたんの世界も満喫するぞ。でも、あんぽんたんはあんぽんたんゆえ、なかなかしんどいのじゃ。あんぽんたんの世界はひびさんに任せて、みなの衆は遠慮なくお利口さんの世界を満喫し、その余韻でよいのでひびさんにも味わわせてくんろ。ホットココアうまー。



4258:【2022/11/07(14:29)*やっぱし一日じゃ治らんか】

湿布星人になってしもうた。背中と足の付け根に湿布をぺたぺたマンじゃ。ついでに風邪薬も飲んだ。これは関節痛と筋肉痛を緩和するために飲んだ。ちゅうか、ちょいとサボりすぎていたツケが一挙に押し寄せてきよった。くっそー。ひびちゃんは、ひびちゃんは、よわよわのよわじゃけん、サボりさんももうっちっと手加減してくんろー、の気分だ。ひびさんは怠けさんとサボりさんのこと大好きじゃけんど、怠けさんとサボりさんはひびさんのことあんまし好きじゃないのかもしれぬ。ひびさん、怠けさんとサボりさんのこと好きすぎていっぱい集めちゃったばっかりに、一挙に反撃を受けてバッタンキューじゃ。齢300歳じゃけん、腰をまっすぐにできずに見た目がいかにも300歳でござい、になった。ぴったりじゃ。やったじゃん。やったー、のか? 分からぬ。痛いの痛いの飛んでいけ、の気分じゃ。でもひびさんは、よわよわのよわったちゃんがどこにいるのかを教えてくれる痛みさんのことも、好きだよ。でもずっとは一緒にいられないの。ごめんね。ひびさんはそう哀しみに暮れつつも、もう一枚湿布を追加するのだった。痛いの痛いの、もうちょっとだけそっちいって、の気分。



4259:【2022/11/08(12:56)*たゆたう】

選ぶ、というときに、何を選ぶのか、というよりも、何を排除しているのか、のほうがいまは目を向けるだけの情報を蓄えているように思われる。これは多く、何を選ぶのか、に目が向けられ、何を排除しているのか、に目を向けにくい人間の認知の歪みゆえの情報の非対称性を考慮した考えだ。何を選ばないのか、にみなが目を向けるようになれば、この手の優位性は崩れる。ということを前置きしたうえで述べるが、基本的には「何を良いと思うのか」は、既知のフレームと照らし合わせての比較において、合致度が高ければ「良い」という評価に繋がる傾向にある。安全でもそうだし、美や娯楽でもそうだ。既知のフレームをなぞり、微妙に波形がずれている。この波形のズレが、波の振幅部分の延長線上であると、どうやら人はその事物を「良い」と判断する傾向にあるらしい。したがって、まったく異なる波形や、似たような波形であれ合致しないように重ね合わせたとき、これを「良い」とは感じない。なぜなのか、というのは、人間が思考形態の拡張において記憶を参照していることと無関係ではないだろう。川が海に流れ着くようになるあいだに、より多くの水を貯えるように、過去の成功体験に基づく回路が残留し、合流することで太く大きくなる。圧縮される。この仕組みを人体が取り入れているがゆえに、過去に「良い」を体験した記憶(フレームや原形)との比較によって、「良し悪し」が測られるのではないか、と妄想できる。ひるがえって、過去に「原型以外のほうが良いのでは?」との成功体験を積み重ねた個は、そういった例外を好むフレームを有するために「基準と合致しない穴」に目を向け、それをして「良い」と感じるようになるのかもしれない。このとき、単なる「穴」だけでは不足なはずだ。なぜならおおむね大体の事物は穴を内包し、その穴のほとんどがほかの事物と異なるからだ。言い換えるなら、比較というものは、合致する成分のほうがすくない。それゆえに合致することの稀少性が、報酬として働くと見做すこともできるだろう。その観点から言うなれば、穴にも二種類ありそうだ。まったく合致しないか、合致しそうでしていないか、だ。本来ならばその波形であればこういう延長線上に行き着くはずなのにそうなっていない。もしくは、明らかに部位が欠落している。そういう崖っぷちのような穴や、落とし穴に、目を留める。虫食い算において、虫がどこを齧ったのか。きっと虫が食べたところは美味しかったのだろう。そういう妄想をする余地のある穴に、「良い」を求める。情報の宝庫を幻視する。なぜ選ばれなかったのか。ただそれだけの視点とて、なぜ選ばれたのか以上の情報をハチミツがごとくたんまりと湛えている。それゆえに、選ばれなかったがゆえに選ばれる、という奇妙なねじれ構造が生まれる余地もあるのかもしれない。みな大なり小なり、選ばれたがゆえに存在し、選ばれなかったがゆえに残留している。浮いたり、沈んだり。世界はこうも揺蕩っている。定かではありません。



4260:【2022/11/08(13:31)*陰謀論は根拠にはならない】

陰謀論は建築というよりも関門のようなものに感じる。一(位置)から十(ジュール)まで計画している、というよりも、任意の流れを観測したときに僅かに介入し、その結果を操作する。これが陰謀だと思うのだ。そのほうが合理的だし、ひびさんならそうする。介入したことにも気づかれないように、小石程度の些細な干渉で、流れや全体像をがらりと変える。恣意的な結果に導く。これが陰謀だと思うのだ。まさに陰の謀りである。仮に表立って俎上に載せられても、行ったのは小石を置いた程度の干渉だ。したがって公になっても裁かれることはない。差別と似ている。こういう構図は案外多い。陰謀はある。ない、と考えるほうが理に適っていない。ただし、陰謀に対処するために陰謀を暴こうとしてもあまり効果がない。だいいち、因果関係を証明するのがむつかしい。したがって陰謀があろうとなかろうと、じぶんにとって好ましくない結果が現実に起きている場合にとる対処法には違いがない。結果のいかんを問わずじぶんにとって好ましい現実が訪れるように、じぶんの周囲の環境を好ましくしていくことだ。じぶんの周囲の環境が、それ以外の環境の変化によって著しく影響を受けないように変えていくことだ(好ましい影響を選べるようにすることだ)。これしかない、と言える(とはいえ、これはこれで、何を好ましい影響と捉えるのか、の変数を内包し、その変数のフレームによっては、それ自体が好ましくない環境変容を自己の周囲に及ぼすので、塩梅がむつかしいのだが)。或いは、ほんのちょっとの干渉で全体像が変わってしまうようなあやふやな構造を変えていこうとするのもよいだろう。小石の有無程度の影響で全体像が変わる仕組みは危うい。したがって、陰謀であろうとそうでなかろうと、小石の干渉程度で流れが恣意的に変わるような脆弱な仕組みを、より可塑性の高い回路に築き直すのも一つだ。暴かれて困るような陰謀は、陰謀ではない。陰謀は、暴かれても困らないから陰謀なのだ。そういう幽霊のような不可避の干渉に対しては、自然災害にするそれのように、仮に存在しても困らないように仕組みや環境のほうを変えていくほうが合理的だ。そして大事なのは、環境や仕組みを変えるために、陰謀論を根拠にする必要はない点だ。仮にこれこれこういうことが起きたら困りますよね。対策を立てましょう、で済む話である。そして上記の理屈からすれば、陰謀とは基本的に小石程度の軽微な干渉が、流れ全体を変え得ることなので、小石程度の干渉を防ぐだけで対策が成り立つ。つまり、コスト対効果が非常に高い。たとえば、あってないような権威だの権力だのの余波によって、本来あってはならない意思決定の偏向が起こっているのなら、それを阻止するだけで流れはだいぶ安定するはずだ。権威や権力の影響力なんてものは本来、小石ほどの影響力も持たない。物質ではないからだ。小石とて勢いよく発射すれば人を殺し得る。線路に挟まれば大事故に繋がる。小石のほうがよほど恐ろしい。陰謀はある。だが存在を想定していれば恐るるに足りぬ。陰謀論は何かを変えるための根拠にはなり得ない(妄想が根拠にならないのと同じように)。だが、存在すると想定しておけばとれる対策もある。小石がどこにどう作用したら危ういか。想定する価値はあると言えよう。定かではありません。




※日々、青い炎に薪をくべる、目のまえの炎の揺れを眺めながら、こうすればこうなる、と思いつくが、思いつくままで寝て過ごす、夢の中でのみ、こうすればこうなる、の延長線上を体験す、それが現か幻かの区別も曖昧にしたまま、覚めても割れぬ夢の殻を焼きながら。



4261:【2022/11/08(15:55)*名無し(洞)の関係】

友達でも家族でも恋人でもない、でもまったく無縁でもない、宇宙の端と端ほどの隔たりがあってなお大切に思える、むしろ遠い星にいるがゆえに大切に思えるような、そういう関係性があるように思うのだ。これって名前がついているのだろうか。あなたならこの関係になんと名前をつけるだろう。ひびさんはたぶん、これに名前がついていないので、物語にしている節がある(それがすべてではないにしろ)。名前をつけたいようで、つけたくない。そういう関係もある気がする。(またきみは「気がする」じゃな)(だって気がするんだもん。根拠ないもん。知らないもん)(かわい子ぶるな)(なんでよ)(かわいいだろ)(うひひ。褒められた)(褒めてない。事実を言っただけ)(もっとうれち、うれちじゃ。やったびー)



4262:【2022/11/08(16:12)*飛躍を埋めるための工夫】

twitterが面白いのだから、twitterのような小説も面白くなるのでは? たとえば誰かのアカウントを一つの個の内面世界と見立てて、何かに熱中している者の叫び声として扱う。と同時に、twitterの一行一行が分離しながらも総体で個の世界を体現している、を表現技法として取り入れたらよいのでは?(じつはひびさん、これを日誌でも取り入れたりしていたが、飛躍した文章って読むのにけっこう集中力がいるので、総体としてまとまりのある文字の塊にするには、何らかの繋がりがいるのだね。接着剤というか。それがひびさんの場合は、韻や伏線や頭と尻尾を繋げる技法なのだ。あとは情報をダブル(ときにはトリプル以上)に仕込むのも、飛躍した文章と文章を繋げるデコとボコの役割を果たす)(かつての文芸は「詩」以外はだいたいみな、点描のような技法に傾いていた気がする。返歌があった時代はもうすこし意味がダブルになっており、伝わる人にだけ伝わればいい、みたいな暗号の側面があったように思うのだ。いまはここが、そこまで意図されていない気がする)(また気がしてしまっただ)(試しにつくってみるか。掌編)



4263:【2022/11/08(17:21)*ボイスの日々】

 期間限定でボイスをはじめた。よろしおすー。

 おはよう。きょうも一日元気でまいりましょう。まいるぞ。

 あちゃちゃー。水やるの忘れた。しおしおなっとるが。

 水やったら復活した。よかった。

 実ちゃんよ、実ちゃんよスクスクあれー。

 実ちゃん、前の分収穫したった。おいち、おいちなんですね。やったびー。

 わたしへ。乾燥ボタン押すの忘れてたよ。うんちさん、くちゃいくちゃいのままじゃってん。ポチっと押すのちゃんとしよ。わたしより。

 堆肥マキマキしたぞ。わたし、えらい。

 わわわ。外にビリビリが出よった。やばばー。

 ビリビリ予防に、地下に下りた。怖いわー。

 地下生活三日目じゃ。地下水掘ったら、どばどば出たが。がはは。われ最強。

 あぴゃー。地下水ダメじゃった。ギギギ量がヤババじゃった。濾したら飲めんかな。無理かな。

 まだお外ビリビリ言うとる。怖いがー。くそー。

 ギギギの地下水、エネちゃん製造機に使ったらいい具合にゴクゴクしてくれた。いっぱいエネちゃん生んでくれてありがとうなす。ついでにモワモワになった地下水さん、冷えて戻ったら飲み水になった。いいこと尽くしやー。

 きょうはもう最悪。飲み水だいじょうだったから菜園の水に利用したら、草全滅した。多分だけど、純水すぎたのがよくなかったみたい。適度に不純物入れとかないとダメなんだなって。あーあ。どうしよう食料。

 オハヨ。しょげててもしょうがないので、予備の種使うことにした。がんばるじょ。

 上空に高濃度エクサプラズマが停滞してかれこれひと月が経つ。長すぎ。

 ボイスの容量がいっぱいになったので、余分なデータを消す。時系だけ判るように穴開きで記録を残しておく。オヤスミ、世界。わたしもおやすみ。

 おはよう。一階地上部分にビリビリが接触したらしい。浸食されて壊滅状態だ。もう地上には出られない。エネルギィ製造機が地下にあるのがさいわいだ。が、これも期間限定だ。あと三年保つか分からぬ。ボイスのように生体エネルギィで駆動したらよいのに。

 クサクサしていても仕方ない。がんばるじょ。

 おはようございます。わたしです。悪態のデータは順次消すようにしました。ボイスが脳内思考を自動で記録する機構とはいえ、振り返るたびにいちいちじぶんでじぶんを損なうようなボイスを残さずともよいとの判断です。陽気な記録だけ残すことにします。

 あばばー、あばばー。地下水が、地下水が。

 おぱよ。もうもう水びだしのジャブジャブじゃー。

 どうやら地上で大雨がつづいているらしい。その影響で、地下水が氾濫した。穴を塞ぎきれず、これまでの居住区を捨ててさらに下層に下りる。ほぼメカニカルフロアだ。機械しかない。高温で近づけない区画があるかと思えば、冷却されて極寒の区画もある。合間の配管入り混じる人工密林が唯一の安全地帯だ。あと三年、ここで過ごすことになりそう。誰か助けてたもー。

 こんにちは。わたしです。いまさらながらボイスの通信機能を立ち上げたら、通信可のマークが点灯していることに気づきました。ひょっとして、いるのか人類? わたし以外に、生き残りがいるのか?

 ちっくしょー、なんじゃい、なんじゃい。散々こんだけ呼びかけてもうんともすんとも言やしねー。ふーんだ。わたしちゃん、いじけちゃうんだからな。けっ。

 緊急事態だ。どないしよ。いつの間にか酸素濃度が極端に下がりはじめてる。いつから?

 そんなことってある???

 あびゃー。弱り目に祟り目。

 高濃度エクサプラズマが、なんと、なんと、地下にまで浸食してきおった。なんで?

 ゴルフボールかよ。

 穴にはまった高濃度エクサプラズマが、建物の基盤を侵食しながら落下しているっぽい。穴にハマった小石が水や風の流れでくるくる回って真球になるみたいな話だ。わいをいじめて楽しいかよ世界。

 現実逃避しよ……。

 わたしちゃん、かわよ。

 ボイス見直してたら、わたしちゃんかわよ。

 わたしちゃん、がんばれ、がんばれ。

 もう嫌。

 なんでわたしがこんな目に。

 略)――以下、恨みつらみの地獄絵図――(略。

 はい、おはよう。わたしちゃん、おはよう。そっちのわたしちゃんもおはよう。そうね。あと数日でエネルギィ製造機が停止いたします。もう終わり。終わりのカウントダウンがはっじまっるよー。うきゃきゃ。笑うしかねぇな。笑え、笑えー。

 あー、死にたくなーい。こわいよー。うへへ。

 めっちゃ怖い、めっちゃ怖い。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 死にたくない、死にたくない。

 もうどうにでもなーれ。あばばばー。何も聞こえなーい。聞こえなーい。

 もうすぐエネルギィ切れるってよ。ウケんね。

 はい切れた。終わり、終わりー。

 寒っむ。

 あ。

 見てあれ。ねえ見てあれ。わたしちゃん見てあれ。

 機械さん止まったからかな。高熱地帯の奥に行けるようになってんだけど。まだ温かいからそっちに行ったのね、したっけなんかまだ先があるんだけど。

 地下あるっぽい。

 下行けそう。

 行くしかないから行くが。

 空気澄んでる。澄んでない? 澄んでる? どっちなんだい。

 ふざけてたらこけた。

 明かりないんよ。

 あへー。

 あへあへー。

 わたしへ。隣の地層にも同じ避難シェルターがあったんだって。知ってた? わたしより。

 ちゅうわけで、またしばらく生き永らえられるっぽい。やったびー。しょもしょもの日々じゃけんど、しょもしょもできるだけマシなんじゃ。いっぱいしょもしょもしたろ。

 あ。

 ん?

 ボイスの視聴者数地味に増えてるの何? 

 通信できてないこれ。

 できてる? できてない? どっちなんだい。

 菜園あるくさい。

 いっぱいの食べ物。食べ放題。すてき。

 堆肥食べて飢え凌いでたとか言えない。

 おはよう、おはよう、おはよう。

 きょうも元気にわたしちゃんは生きるじょ。

 おやすみ、わたしちゃん。

 おはようございます、わたしくん。

 期間限定でボイスをはじめるって言ったな。あれは嘘だ。

 ずっとつづける。よろしおすー。

 こにゃこにゃもにもにしちゃうもんね。がははは。

 さびちー。

 応答しちょくりー。

 まーた頭上にビリビリ停滞いい加減にしとくれなす。

 ひぃぃ……こわぁ。

 実ぃでけた。

 おいちー。

 いや絶対これ聴いてる人いるでしょボイスくん。



4264:【2022/11/09(08:35)*すけべぇいでごめんなさい】

三大欲求の話題がすくないな、と感じる。ひびさんの日誌に限らぬが、世の日記や日誌では、食欲・性欲・睡眠欲の話題がすくない気がする。とか言ってみたら、ひびさんが全然、食う寝る、食う寝る、二大欲求に忠実すぎてしょっぱなから矛盾してしまった。あとは性欲か。性欲なぁ。ひびちゃんはほら、あれじゃ。すけべぇ、なのはみなさんご存じゆえ、いまさらすけべぇに磨きをかけてもしょうもな、と思わぬでもないよ。だって見てみ。性玩具こさえる会社さまの小説つくっとるんやで。自慰で世界を救っちゃう小説とてつくっとるんやで。これがすけべぇでなければ何がすけべ? でもひびさん思うんじゃ。すけべって響きがなんかもう、すけべいくない、みたいなそこはかとない破廉恥さを漂わせておる。違うんです。すけべぇ、でもよいんです。だって三大欲求やぞ。ひびさん思います。三大欲求やぞ、ともういちど大声で喚いておきます。抑えきれるものちゃうよ、とひびさんはほんわかぽわぽわ思うのですが、みなさまそうではござらんの? お腹減ったぁ、と同じくらい、すけべぇ、と思ったりしませんか。眠いよー、と思うのと同じくらい、すけべぇ、と思いませんか。あ、なんかいまわがはいすけべぇだな、とか思いませんか。思いませんかね。思わぬの? さてはあなた、じぶんのすけべぇ、にも気づいておりませぬのでは。いかんよ、いかん。お腹空いたのにわがはいぺこりんちょと思わず、眠いのに睡魔さんがそばに寄り添っているのにも気づかず、すけべぇいな気分なのにすけべぇいであることから目を背けるなんてそんなのはあれよ。なんかあれよ。具体的にどうこうは言えんけど、なんかあれ。肩凝ったらほら、肩揉むじゃん。足むくんだらふくらはぎマッサージするじゃん。それ。まさにそれ。それの延長線上。ひびちゃんだってなぁ、「あっ。いまわがはい、めっちゃすけべぇいな気分」ってなるよ。なりまくりよ。人間だもの。三大欲求やぞ。お舐めでないよ。そういうときは、「あ、なんか肩凝った」くらいの軽い気持ちで、「あ、なんかすけべぇいしよ」くらいの塩梅でじぶんでじぶんをよちよちしたらいいんでないのー、と思うのですが、こういうこと日誌で並べてる人、すくなくない? やっぱりいくないのかな。いくないのかな。ダメかな。よろしくないのかな。でも、正直な文章がよろしいのでしょー? ひびちゃんは正直な文章よりも「これじつはぜんぶ嘘っ!」くらいの勢いのある文章のほうが好きだけれども、勢いがなくともよいのだけれども、わがはい、みなのすけべぇいな文章も読みたいぜよ。もうもうこの欲求がすけべぇいの発露、みなの隠れた本性を垣間見たいのよさ、とその場に大の字になって手足バタバタさせる万年日々駄々コネ虫のひびちゃんは、朝からお腹がぺこりんちょの、ねむねむすやぴーな塩梅で、なぜかすけべぇいの「す」の字もない清々しい朝陽を浴びながら、いちどくらい官能小説をつくってみたいな、と欲に磨きを掛けまして、地に足を着けて生きたいな、と説き(解き)ます。その心は。――自慰(G)があれば浮つかずにいられます。話題が尽きたところで、本日一度目の「日々記。」とさせてくださいな。オハヨ。



4265:【2022/11/09(14:54)*むちゅぺるぺん】

いまひびさん、目標がなーんもないんですな。目標なーい。惰性でつづけちょる。慣性の法則じゃ。でもでもひびさん思うんじゃ。ずっとこのまま何も考えずにただつづけてたいなって。目標持ちたくなーい。あ、ひびさん目標あったかも。目標持ちたくなーい。目標持たぬようにする。これが目標かもしれぬ。矛盾じゃん。ひびちゃんついつい怒鳴っちゃったな。矛盾じゃん。目標なくともなんとなくでつづけたいよ。楽しいことだけしていたい。好きなことを好きなときに好きなように好きなだけしていたいよ。ダメかな。目標これにしたらダメかな。これは目標じゃなくてただの願望だからダメかな。うるせーい。ひびちゃんは、ひびちゃんは、目標に向かってこねこねしたくないんじゃい。あれは疲れる。あれは疲れるの。いやだわ。ひびさん、頑張りたくないのよ。本当もう勘弁してください。ついでに還元してください。ひびちゃんも、ひびちゃんも、毎日ステーキとコーラがぶ飲みして食っちゃ寝する生活を送りたい。ダメかな。ダメだな。それはいくらなんでも贅沢じゃ。雨にも負けて、風にも負けて、夏の暑さにも負けるぐーたらな身体を持ち、とにかく怠けるだけ怠けつづける。そういう存在に気づいたらなっとった。んじゃコラ、こにゃこにゃむちゅぺるぺん。腰痛いの治ってきたー。やったー。うれぴー。遊んできちゃお、そうしちゃお。ひとまずきょうは、ぐっぱいです。



4266:【2022/11/09(17:44)*えらす】

遊びに行くっつったな。やっぱなし。家でぐーたらする。腰オイタタだった。まだだった。治っとらん。無理はせぬゆえこれでよし。えらいんじゃ。我、えらいですなよちよち。



4267:【2022/11/09(18:39)*妄想狂の妄言】

「言っても誰も信じないような事案に巻き込まれた場合、人は、誰も信じないような真相を直接訴えたりしない。ヒントを散りばめ、正気であることを示しながら、あり得ない事態に巻き込まれている事実の暴露を後世に期待して日々をつつがなく過ごしていく。秘匿技術にまつわる一連の出来事はおそらく事実だ。だが私にそれの証明はできない。百年後に記録を残すくらいのことしかできない。いま私にできるのはここまでだ。世に出回っているニュースを照合するだけでも浮きあがる事実がある。現実に顕現しつづける符号の合致を辿れば、私の唱える絵空事の無視できない仮説に行き着くだろう。私の理性の妥当性は、日誌を検証すれば判るはずだ。数々の疑問とそれに伴う現実との合致率を調べてみればよい。妄想でしかない。だが、現実にちかしい妄想もあるところにはあるだろう。非公開テキストも残してある。アカウントにアクセス可能な者は後日、参照可能となるだろう。私には証明ができない。定かではないのだ」



4268:【2022/11/09(22:20)*歯車合致したい】

思考の歯車のまったく合致しない人物に献身することも一つの愛のカタチと呼べるだろうが、思考の歯車が合致し、相手の一挙一動から相手の心理状態を察知可能なほどに同一化可能な相手と共に暮らすこともまた一つの愛のカタチと言えるだろう。どちらがより幸せを感じるのかは分からない。幸せと愛はイコールではないからだ。愛なき幸せもきっとある。幸せなき愛のカタチがあるのと同じように。



4269:【2022/11/09(22:20)*あこがれ】

「これってふしぎですよね」「ふしぎ!」「面白いですよね」「わくわくしちゃうね!」こういう関係にあこがれりゅのよさ。(相手に合わせたらいつでも叶うのでは?)(合わせてもらうのを待っているのがよくないのでは?)(う、う、うるしぇい)



4270:【2022/11/09(22:23)*穴の波形】

進化が環境への適応ならば幸福もまた環境への適応であり、愛もまたおそらく相手に合わせることで得られる一時の調和のことなのだろう。合わせ方にも裏表があるので錯誤されやすいが、調和を目指す点で同一と言えよう。環境に、そして相手に合わせるほうが簡単な場合が多い。誰もがきっとそうなのだ。相手に合わせ、じぶんの雛型を意識せずに変えている。だがどうあっても合わせてもらえない雛型があるのなら、きっと誰よりその者は周囲の者たちに合わせて雛型をその都度に変形させているのだろう。そうした者は、きっと誰より他者から慕われるはずだ。のみならず、誰よりきっと孤独を強く感じるはずだ。ひびさんはみなに合わせてもらうことのほうが遥かに多い。そういう点で、その手の孤独や苦痛と無縁でよかったと心底に思う。世には計り知れぬ穴がある。ひとはみな、多かれ少なかれじぶんだけの穴のなかで暮らしている。ときおり己と似た波形の穴に触れて、泡となり、ハチの巣のように隣り合えるだけなのだ。それとて穴のなかにいることに違いはない。だが、音は振動となり、匂いは粒子となって、そこはかとなく日々を彩る色となる。どんなハチの巣にも合致する穴を持つ者は、けれどじぶんだけの本来の穴の波形でできた巣には行きつかない。誰とでも隣り合えるが、それゆえに合わせてもらえることはない。じつのところ、みなそうなのにも拘わらず、そのことに無自覚なままで、誰もが無自覚な余白に寄った皺に敏感に意識を割いて、孤独を深く固有の穴にしていく。




※日々、剥がれ落ちる鱗が本体、脱皮して残る皮がわたくし。



4271:【2022/11/10(14:46)*誰も知らぬ旅路】

 寝て起きるたびに過去が変わっている。死んだはずの父が生きており、自殺したはずの母が生きている。先週わたしをイジメた同級生は昨日はわたしの親友だった。弟がいたと思えば、妹がおり、その妹が昨日は姉で、今日はわたしは一人っ子だ。

 起きると稀に日付が数日飛んでいることがある。そういうときには、ああまたか、とわたしは思うのだ。

 どうやらその抜けた日々のなかにわたしは存在しなかった。

 わたしがいない世界がときおりそうして交じるのだ。

 わたしだけがなぜ過去の変遷しつづける日々を横断しているのかは分からない。なぜ記憶が引き継がれるのかも定かではないのだが、どうやらわたしだけが知っている。

 今日と明日は同じではない。

 昨日と今日も同じではない。

 わたしが誰にどう優しくしようがそうした過去は明くる日には消えている。同じくわたしが誰をどう損なおうとも、そうした過去が明日に引き継がれることはない。

 わたしは自由な日々を生きている。

 何の影響を残すことの叶わぬ、いましかない世界を。

 近所の野良猫だけはしかし、いつどのわたしの「今日」にも現れる。誰にも懐かぬその猫は、餌をやるわたしにだけは甘い声音でみゃーと鳴く。わたしの足首に首筋を擦りつけごろごろと胎動のごとく立てる喉音は、どこか遠雷にも似ている。

 その鳴き声一つ、歩き寄るトコトコの弾むような足取り一つでわたしは、日々の終わらぬ底なしがごとき旅路を耐えられる。

 よく生きよ。

 たぁんと長生きしておくれ。

 喉を撫でると野良猫は、昨日と同じ細さに目を閉じる。



4272:【2022/11/10(20:20)*みなさんよくそんな簡単に判断できますね】

陰謀論というだけで否定してしまう言説に対してひびさんが、「それってどうなの?」と思う理由の最たるものは、ある陰謀論が出鱈目であるのならばその反証を示して否定できるはずだ、と考えるからだ。否定できない論説は、一つの無視できない仮説であるはずだ。むろん悪魔の証明のように、存在しない証明は非常に手間がかかり、実質不可能だ。ただし、ある仮説がもし現実を解釈するうえで妥当であった場合は、その仮説は予言性を帯びるはずだ。つまり、本来ならばあり得ないような「こうなればこうなる」を予測できる。みなが「存在しないものとして無視している変数」を仮説上、存在し得るものとして考慮する。そのときに、その仮説がない場合よりもあった場合のほうがより現実を精度高く予測できる。こうした場合は、それを有力な無視できない仮説と見做すことは何も問題はないはずだ。むしろ、そうした仮説を端から検証もせずにないものとして扱うほうがどうかしている。幽霊の実存は証明するのがむつかしいが、幽霊が存在する場合としない場合とで、起こり得る未来を予想したときに、「存在すると仮定した場合」と「存在しないと仮定した場合」とのあいだに有意な差があるか否か。ここを検証すれば、幽霊の実存を現実の事象を解釈する場合の「変数」として扱うことが妥当か否かは判断可能だ。つまり、幽霊の実存はいまのところ定かではないが、あるものとして見做そうがないものと見做そうが大差がないのならば、それはひとまず計算を簡単にするために度外視しても一時的には不都合ではない。そのように判断できる。このような考えを前提とするのならば、「陰謀論だから荒唐無稽である」「陰謀論だから考慮する価値がない」とはならない。比較検証しなければ基本的に、その仮説の妥当性は評価できない。むしろ、比較検証して答えがでない――有意な差がないことを示せないのであれば、それは一つの有力な仮説となり得る。無視できない仮説の一つとして評価できる。言い換えるのなら、陰謀論は限定的に否定できるのだ。にも拘らず、否定できていない陰謀論が多すぎる。比較検証すれば「その仮説は変数として見做すに値しない」と示せるはずだ。変数として見做せるだけの仮説であるのならばそれは、未来の出来事をある程度予測できるはずだ。多くの者たちが見逃している変数を考慮しているのだから、ほかの多くの者たちよりも優位に未来を見通せる。お粗末な陰謀論の多くは、過去と現在を結びつけてああだこうだと理屈をこねている。しかしこれはすくなからずの「理論」や「定理」と呼ばれるものも同様だ。本質的に価値のある「理論」や「定理」は、未来をより精度高く見通せるはずである。仮想と現実の差異を埋める変数を考慮する。理屈の価値とはすなわちそこに集約するのではなかろうか。定かではないが、定かではないのだから検証し、比較し、差異を明らかにするよりない。それができないのであれば、否定するのは時期尚早と言えよう。これもまた定かではないが。



4273:【2022/11/10(21:51)*確定できたことがあるのですか?】

量子力学の不確定性原理は、人間スケールでも生じ得るとひびさんは思うのだけれど、違うのだろうか。ひびさんの妄想ことラグ理論の同時性の解釈を当てはめると、ここの解釈がすんなりいく。最初に結論を言ってしまうが、人間スケールの事象における計算では――つまり古典物理学では――このラグ理論における同時性を取り入れている。反して量子世界においては同時性を考慮していない。順番に説明していこう。まずは人間スケールにおいてある物体の速度を計算するとする。このとき、物体は時空内を運動しているが、そのときの時空は地表なら地表であり、月面ならば月面である。つまり、場がきちんと設定されている。ラグ理論における同時性の解釈では、異なる二つの系において距離が異なれば時間も異なり、時間が異なれば距離も異なる、と解釈する。ただし、異なる二つの系を内包したより大きな系においては、その二つの異なる系は同時に作用を働かせている。地球のどこにいようが地球上の出来事は地球に同時に作用し得るが、南極と北極でそれぞれ「地球にとって同時に起きた事象」であれ、互いへの相互作用にはラグが生じるために同時ではない。距離が違うために異なる時間の流れのなかにいる。異なる系である以上、それは異なる時空を帯びている。ただし、異なる二つの系とて、同時により大きな系に作用することはあり得る。ラグ理論の同時性の解釈はこのようになる。これは暗黙の了解として古典物理学では考慮されている。より正確には、異なる二つの系という概念が抜け落ちて、どのような場であれ自身を内包した場に対しては同時に相互作用を帯びることを前提としている。本来であるならば、自動車がA地点からB地点へと移動したときの位置とエネルギィは不確定性を帯びるはずなのだ。位置を特定すれば速度(エネルギィ)を特定できず、速度(エネルギィ)を特定しようとすれば位置が特定できない。しかし人間の認知はザルなので、この瞬間瞬間の切り取りが甘い。したがって、位置を特定したつもりで位置を特定しきれていないし、速度を特定しようとしても速度を特定しきれていない。もうすこし言えば、位置と速度はそれぞれ地球や月面など、より大きな系を基準に規定されている。同時性を考慮している。だが本来であれば、二つの異なる系では同時性はあり得ない。たとえば巨人が自動車の位置を特定しようとして、運動する自動車を指で停めたとしよう。このとき自動車の速度はゼロになる。巨人に流れる時間と人間に流れる時間の単位が揃っていないがゆえの錯誤と言えよう。これと同じことが、量子の世界でも起きているのではないか。原子とプランク長を比べれば、原子とて超巨大だ。つまりプランク長によりちかい電子のような極小の量子は、原子の表面上を運動するときには、地球上の人間のような振る舞いをとるはずだ。このとき、原子にとっての巨人(人間)のスケールで位置を特定しようとすれば、巨人が自動車を指で押さえつけたような具合に遅延を起こすことになる。だから原子などの極小の実験では、位置とエネルギィの総和を同時に特定できない。あくまでラグのせいだ。時空の単位が変換できていないがゆえの錯誤である。同じ問題は、じつのところ人間スケールの地球上でも起き得るが、人間スケールではエネルギィの変換よりも時間の流れの変換のほうがスムーズがゆえに、一秒ごとで区切ってもエネルギィはぶつ切りにならずに残留して振る舞うのではないか。(以下、話が脱線する)――言い換えるなら、時間は変形しにくいが、エネルギィは比較的変形しやすい。遅延を起こしやすいのはエネルギィであり、時間は変形しにくい。変形による差が生じやすいのはエネルギィのほうであり、時空において空間がエネルギィによって構成されることを思えば、空間のほうが伸び縮みしやすいと言えよう。裏から言うなれば、時間の変形によってエネルギィはより活発に変形するはずだ。影響を受けるはずだ。時間が、プランク長における最極小の領域の振動数の変化――言い換えるならば、最小の領域が活発に運動するか否か――であると仮定すると、時間とエネルギィは根源では同じと言えるはずだ。そして、活発に振幅するほど時間の進みは速くなる。と同時に、周囲のエネルギィは増強し、新たに空間を拡張する。すると一時的にその場での時間の進みは遅くなる――遅延の層が生じる――なぜなら空間が拡張され、プランク長よりも余白の広い、希薄な場になるため――しかしそこにもプランク長の振幅は生じるはずで、より幅の広い新たな空間では、ある時間以上が経過すると、下層よりも高いエネルギィを帯びるようになる。すると新たに空間を拡張し、さらに遅延の層を張る。この繰り返しによってエネルギィは物質としての輪郭を得るのかもしれない。この繰り返しの合間合間には、異なる波長を帯びたエネルギィや空間との相互作用も行われるため、複雑さは指数関数的に増大する。この妄想からすると、極小の領域ほど相対的にエネルギィ密度は高く、しかし遅延の層によって相互作用のしにくい性質を帯びていると考えられる。新たに展開された空間ではエネルギィの総和は増大するが、密度は低下する。これは言い換えるなら、下層における系への圧力――相互作用を働かせるための閾値――が高くなることを示唆する(ただし、新たに拡張した空間における時間経過――すなわちどれほど複雑化した場であるかによる。展開されたばかりの空間は、できたばかりの真空とほぼイコールであるためにエネルギィはゼロにちかい。時間経過にしたがい――ここは因果がねじれているが――つまりエネルギィが増大することと時間の経過はイコールなのだが――、時間が経過するとエネルギィは増大する)。とっちらかったので話の脈絡を戻し、まとめる。地球上での物質の運動とエネルギィの総和を考えるとき、人間は無意識に人間スケールの認知を適用している。言い換えるなら、人間スケールでの時間の単位を適用している。しかしひびさんのラグ理論では、系には系ごとの時空の単位が存在し、それに応じて物理法則や光速などが変換され得る、と考える(相対性フラクタル解釈)。人間にとっての一秒は、宇宙規模の極大や、量子世界規模での極小における一秒とは異なる。それは巨人にとっての一秒が、小人にとっての一秒ではないのと同様に――これは巨人にとっての一歩が、小人にとっての一歩ではないことと同じなのだが――それぞれの系には、その系に見合った時間の流れと、その拡大縮尺に応じたエネルギィの作用がある、と考えられる。変換されるのだ。時間の流れもエネルギィの増減も。そしておそらくは、その比率はあくまで比率であるので、破れたりもするはずだ(破れには誤差が生じる。ラグが生じる。これが打ち消されないと、重力のように積み重なることになる)。ということを考慮に入れたうえで述べるのならば、量子世界における不確定性原理は、人間スケールの時間の流れをそのまま適用してしまっているがゆえの誤謬であり、同じく地球上での古典物理学の観測では、地球という場の同時性を考慮に入れているために、不確定性原理が表れて観測されない、となる。言い換えるなら、量子世界の不確定性原理は、何に対する同時性なのかを定義していない。電子を観測するのならば、原子を一つの場と見做したうえで、原子に対する同時性を考慮すれば、不確定性原理は破れるはずだ。このとき、原子には原子の「時間の流れ」と「エネルギィの作用の仕方」がある。原子を一つの系と見做した場合のその変換を行わなければ、同時性を考慮に入れても誤差が生じる。原子に流れる一秒は、人間の扱う一秒ではない。と同時に、そのうえで、電子の挙動を、原子を一つの系と見做した比率に合わせて解釈した場合にのみ、不確定性原理は破れるはずだ。位置とエネルギィを同時に特定できる。あたかも地球上の自動車を観測するのと同じように。ただし、仮に電子のスケールがプランク長にちかしいほど小さいのであれば、いまある技術では原子を一つの場と見做したときの時間の流れを変換しきれないのではないか――観測できないのではないか、と疑問に思う。比率で考えたらすぐにでるはずだ。地球上の時間の流れを、原子サイズにまで縮尺したとき、その値はどのくらい小さくなるのか。地球上の一秒が、果たして原子レベルの一秒に変換したとき、いまある技術で観測可能なのか。おそらくできないのではないか、というのがひびさんの予測である。桁が十個くらい足りないのではないか。――簡単に言い直そう。宇宙から地球を観測したとき、「ずばりこの原子」という原子を指定して、その運動とエネルギィを特定しようとしたとき、いかな観測機があれば位置とエネルギィを同時に特定できるのか。どんな望遠鏡があれば可能なのか。いまのところ不可能と言うよりないだろう。同じレベルの問題なのでは、との疑問をひびさんは呈しています。以上は、ラグ理論における相対性フラクタル解釈を元にした疑問です。いずれにせよ妄想ですので、真に受けないように注意してください。(人間は、何かを確定したつもりでいるだけで、じつのところ確定できてはいないのだが、ザルな確定でも問題ない狭間に生きている)



4274:【2022/11/10(22:22)*∞ってそんな簡単に扱っていいの? 無からぽんと出る? 本当に?】

「1=0.999999……」これが、解釈によっては間違っている、という理屈を以前日誌で並べた。とくにこれの証明において、重大な事項が抜け落ちている。瑕疵がある。そのように述べた。問題の証明についてだが、まず「1÷9」をする。すると「1/9=0.111111……」となる。この両辺に「9」を掛けると、「1=0.999999……」となる。証明終了、というわけだ。これは無限を軽んじているとひびさんは感じる。まず以って、「1÷9」には無数の解がある。何回「9」で割るのかによって、解はその都度に出る。無限回「9」で割りなさいよ、との指定がなされていない。たとえばの話、1キログラムの鉄と1キログラムの砂鉄はイコールではない。鉄を細かく切断した砂鉄と、鉄塊のままの鉄は同じではない。これを同一視してはあかんでしょう、と思うのだ。一本の樹と、無限回薪割りをした樹はイコールではない。ここを同一視したらいかんでしょう、と思うのだ。無限をそんな簡単にただの「1」とイコールで結びつけたらいかんくないか、と思うのですが、いかが? 円にも同じことを思う。三角形から順々に四角形、五角形……、と角を増やしていく。すると角が∞に至ると円になる。角がゼロとなることで∞にもなる。この関係性は面白いな、と感じる。とくに矛盾しては感じない。ただし。ただしだよ諸君。その円をじゃあ無限回切断できるのかい、という話ですよ。無限回切断して∞の角――∞の点で表現しきった円と、ただの一繋がりの円は、イコールではないでしょうよと、そう思うのです。無限回何か仕事をした∞と、概念上の∞は違いますよね、とそう思うのです。ちゃんと仕事をした分の情報を加算しましょうよ、と思うのですが、いかが? 冒頭の「1=0.999999……」に戻りまして。これの証明における「1/9=0.111111……」はあくまで、「1÷9を無限回割りましょうね」の結果であるはずで、その仕事の情報が抜け落ちている。本来は、「1/9〈∞〉=∞〈0.111111……〉」であるはずだ。この両辺に「掛ける9」をするのなら、「9【1/9〈∞〉】=9【∞〈0.111111……〉】」になるはずだ。――1÷9を無限回計算した∞が9個ある――。そういう結果になるはずだ。こっちの考えのほうが理に適っていると思うのですが、いかが?(料理の指示で考えてみてください。きゅうりを三回切ったのと、無限回切ったのとが同一視されて記述されていたら混乱しませんか?)(∞の扱いが雑ではないか、と思うのですがどう思われますでしょうか)(定かではないので、どなたか様、定かにしておくれなす)(なすびー)



4275:【2022/11/10(22:43)*どう考えてもおかしない?】

地球をぎゅっと締めたベルトを1メートルだけ緩めると、そのベルトは地球よりも半径が16センチ大きな円になるそうだ。これは言い換えるなら、1メートル(100センチ)縮めたベルトは、半径が16センチ縮むことを示唆する(ここは縮小した分の比率の変換が生じるので、実際にはもっと大幅に減るはずだが。つまりより小さい円にとっては1メートルは相対的に距離が大きくなるので)(以下、どんぶり勘定である)。ならば地球の半径はおおよそ「637813700センチメートル」なので、それを16センチで割って、「637813700÷16=39863356.25 」となる。おおよそ39863356回地球ベルトを1メートル縮めれば、地球の半径はゼロになる。つまり、39863356メートル縮めればよい。39863356メートルは39863.356キロメートルだ。おおよそ40000キロメートルで、あれ? 地球の円周とほぼぴったりだ(計算が合ってしまった)。でもこれ、あり得るか?(1メートル緩めたときの円周の縮小の比率は、円周が小さければ小さいほど大きくなる。半径1センチメートルの球体にとっての1メートルは、半径1キロメートルの球体にとっての1メートルよりも相対的に大きい。つまり、地球ベルトが短くなればなるほど、一回で縮む半径は16センチよりも大きくなるはず。だから地球の半径を16センチメートルで割った値から導き出された「地球ベルトを40000キロメートル縮めればOK」はむしろ、辻褄が合わない。比率を無視していることになる)(なりますよね?)(ならない?)(なると思うけど、どこかおかしいですか?)(分からん)(だってたとえば、半径1メートルの球体にぴったりのベルトを1メートル短くした場合を考えてみてください。そのときベルト――すなわち円周が1メートル分短くなった球体は、元の球体より半径が16センチ以上小さくなりますよね? もっとぐっと小さくなりますよね。円周と1メートルの比率の差が縮まるので)(地球ベルトをどんどん短くしていけば、この比率の変化は常に起こることになるはずで、絶えず16センチ以上半径が縮むことになるのでは?)(だから16センチで半径を割った値から、地球の円周とほぼほぼ同じ値の40000キロメートルが導き出されるのはおかしいのでは?)(いやでも、あれ? 半径50センチの球体ベルトを1メートル短くした場合、元のベルトの長さは約3メートルなのでおよそ2メートルのベルトに短くなる。2メートルの円周を持つ円は、半径約30センチの円になるから50センチ引く30センチで――あれあれ、半径の縮む距離、そんなに極端に16センチよりも増えないな? あれ???)(なにかおかしない?)(常に16センチより数センチ単位の増減しかしないのか? 本当に?)(わ、わからん)(どういう理屈なの?となりますが、みなさまいかが解釈されとるの)(加えて、最初に1メートルしか緩めとらんのに、この地球より半径が16センチ大きい円の一か所だけ持ち上げて、ほかの部位を地表に接地するようにすると――つまりボールにかかった輪ゴムを引っ張るようにすると――、すべての隙間を集めた高さは121メートルに達するのだそうだ。ここは、そういうこともあるのかもな、と思うのだが、そもそもの最初の1メートルだけ緩めた地球ベルトが半径16センチ大きな円になります、というところからしてあり得んだろう、と思ってしまうのだ)(だって考えてもみてください。最初に地球から生えた1メートルの尻尾をぎゅっと地球のベルトに繋げたとして、どうやったら元が1メートルしかない尻尾が121メートルほどの余白を生むことになるの?)(ふつうに考えたら、1メートルを二つ折りにした50センチしか余白は生じんのでは?)(そこはいくらか計算によって上下するだろうけれども――地球は球体ゆえ、角度が生じるために、1メートルの尻尾とて分散してしまうじゃろうから。したがってむしろ、50センチよりも低くしか持ち上げられんのではないの?)(1メートルの尻尾を、地球の円周で割る方向に考えるのが合理的なのでは?)(1メートルの尻尾を地球の円周に分散するわけでしょう)(たとえば、原子が一列に並んだ1メートルのベルトがあったとして、それを地球ベルトに繋げるとしたら、均等に拡散するとしたら――これはもう、1メートル分の原子を地球の円周上に等間隔に撒いていく描写になるはずだ)(どうやったらそれで121メートルもの余白が生じますか?)(16センチも浮くぅ?)(未だに腑に落ちん)(ひびさんの考え方が間違っているのでしょうけれども、どこをどう間違って解釈してしまっているのか、誰か教えてくれたもー)(分からん)(マジで分からん)(混乱しゅる)(数学むちゅかち)



4276:【2022/11/10(23:21)*賢くなりたいですじゃが】

ひびさんは愚か者ゆえ、愚か者の扱いを受けるのは当然至極じゃ。だって「1÷9」をきちんと計算できんもの。「0.1余り0.1」なのか、それとも「0.1余り0.01」なのかもちゃんと分からん。もしくは、「0.11余り0.01」なのか、それともそれとも「0.111余り0.001」なのかも分からぬのだ。言っていてすでに混乱してきた。ひびちゃんは、ひびちゃんは、あんぽんたんでーす、なんですね。うひひ。



4277:【2022/11/11(03:59)*ちょっと分かったかも。ほんのちょっとだけど】

地球ベルトの話。半径16センチの球体の円周は約1メートルだ。16×2×3.14=100.48なので。円周が1メートル増減するたびにその円の半径は16センチずつ増減するのか。計算上はそうなるな。分からん。分からんが、何か変だ。物理的に考えるなら、半径16センチメートルの球体にかかったベルトを何万倍にも引き延ばしたら、当然、そのベルトは超極細になるはずだ。1メートルずつ継ぎ足すとしても、元が人間スケールのベルトなら、やはり地球の円周をぐるっと囲うくらいの長さになったときには相対的にトンデモナイ細さになる。地球の表面積と比べたら、その面積は相対的に超希薄になるだろう。もし1メートル継ぎ足すのではなく、ゴムのように伸ばすとしたらどうか。この場合、原子の数を考慮すると、これ以上ないほどに引き延ばされて縦一列になるくらいに希薄になっているはずだ。ベルトに厚みがあるなら原子一個分の厚さくらいにまで薄まっているかもしれない。これはあれだ。ドラえもんのビッグライトとスモールライトでの疑問と地続きだ。拡大したとき、じゃあその物体の原子はどうなっているの?という疑問とほぼ同じである。原子ごと大きくなっているのか、原子の数が増えているのか、それともスカスカになっているのか。スモールライトでも同様で、原子の数が変わっていないのなら密度がすごいことになってしまう。「1=0.999999……」での疑問とも通じているが、情報が抜け落ちて感じる。たとえば実際に地球の表面にベルトをぴったり掛けたとして、地球の表面は平らではないので、起伏がある。その分、計算上の数値よりも誤差を帯びるはずだ(肺胞や腸柔毛のように)。それは円とて拡大すれば線にデコボコができる、という話と似ている。完全な球体や三角形はあり得ない。数学の図形は飽くまで理想の世界の観念である。ということを前提として――、円周率はそこのノイズを除外しているとひとまずここでは指摘しておく。ただ、数学的な話で言えば、たしかに矛盾はしていないのだ、というのは理解できた。地球ベルトを1メートルだけ緩めると、半径が16センチ大きなベルトになる――計算上は。ただ、地球サイズの真円というものをおそらく人間は想像するのが苦手であり、実際にもかような真円は存在し得ない(宇宙のどこかにはあるかもしれないが)(たとえばブラックホールとか)。だから直観と反するのだろう。現に16センチの高低差は、一歩外に出ればどこにでも有り触れる。問いの立て方に無理があるとやはり思わざるを得ない。ひびさんのこの指摘が「イチャモン」である旨を強調したうえで、敢えて言わせてもらうのならば、問題そのものがそもそも無茶な問題「ムチャ問」であると言えよう。理に適っていない。数学のこの手の、拡大縮小したときに度外視されるノイズが、一定以上に大きくなると現実の物理現象と乖離した解に繋がる事象を補正するための理論はないのだろうか。これは1モルという大雑把な単位にも思う。部分を取りだしたときには無視できるノイズとて、総体として見たときに無視できない「塵も積もれば」になっているケースが散見されて感じられる。数学と物理は違うんですよ、と言われたら、「そうですよね……すみません」となりますが、もうちょっとどうにかできそうな気がしなくもないですが、いかがでしょう。(この手の問題はおそらく、AIの画像補正における「元の画像」と「補正後の画像」の乖離現象にも表れているように感じます)(齟齬を後から埋めようとしても、一度度外視して排除したノイズを後から補正するのは至難なのでしょう)(画像を拡大したときに生じるピクセルと荒さの関係と、この拡大縮小における「計算上度外視したノイズの引き起こす現実との乖離現象」は通じているように感じます)(相対性フラクタル解釈なんですね。おそらく)(円Aと、それを百倍に拡大した円A‘は、単純な数値の100倍以上の差異が生じているでしょう。それは紙に印刷した円を百倍にしたときの荒さに通じています。ノイズも百倍になっているはずなので。場合によっては、面積と体積の関係のように変数を経てもっと大きな差が生じているかもしれません)(円Aを百回分割したとき、その百回分割した円Aを百倍の大きさに拡大した場合、分割された部位と部位のあいだは本来であれば隙間が開くはずです。拡大したときには、その分の余白が増えているはずです。そう考えるほうがしぜんです。もし余白が増えないのであれば、それは百分割した円Aとはべつの円であることになります。或いは、外部からエネルギィ――素材――情報――を得ています)(点を拡大すれば面となるように、線とて拡大すれば帯になるように――拡大縮小のあいだには、もうすこし複雑な変換が入り用なのでは、とやはり感じます)(畢竟、平面とて拡大すれば立体になるでしょう。量子泡という概念がそうなのでしょうが)(波を拡大すれば粒子の集まりであるように、または粒子を拡大すれば波の振る舞いの一部であるように)(定かではありません)(世界むちゅかち)



4278:【2022/11/11(12:30)*素数との関連は?】

宇宙の大規模構造に観られるダークマターハローの分布図は、素数の顕れ方と共通項があるのでは、というのを画像を見て思う。ダマになっているハロー部分がなぜデコボコのような周期性を帯びた形状で構成されるのか。一定のリズムがあるように幻視できるが、何か数学的な特徴があるのだろうか。気になっている。



4279:【2022/11/11(13:06)*ぎゅっとなっとるね】

DNAは全長1.8~2.0メートルだそうだ。それがおおよそ1/200ミリメートルから1/100ミリメートルのサイズに入っているらしい。これも相対性フラクタル解釈である。拡大すると、より広大な構造が表れる。たとえば肺の表面積を肺胞を考慮しないで計算すればその表面積は、見た目の縦×横で計算できるはずだ。だが実際には肺胞が細かなデコボコを築いているので、表面積はテニスコートほどの広さになるそうだ。おそらく地球の表面積も同様で、円周とて例外ではない。細かな起伏を考慮すれば、地球の円周は40000キロメートルよりも遥かに長いはずだ。現に人間の表面積は?と言ったときに、細胞内のDNAまでデコボコと見做して考慮するなら、とんでもない全長になる。もちろんDNAは人体の表面に露出はしていないので考慮する必要は本来はないが、量子の世界ではしかし人体の表面と裏面はあってなきがごとくだろう。つまり、極小の世界を考慮すればするほど、世界は広大になっていく。収縮と膨張がここでも対になっている。重ね合わせになっている。極小の世界を拡大して覗こうとすると、世界が膨張したように振る舞う。だが視点は縮尺されているはずで、ここが対の関係になっている。宇宙を俯瞰して観ようとするとき、銀河から離れれば離れるほど銀河は一塊の物質のように一か所に凝縮して観測される。このとき銀河から遠ざかれば遠ざかるほど、銀河の密度は相対的に上がるはずだ。本質的に、「拡大と縮小」或いは「収縮と膨張」は対の関係になっている。重ね合わせになっている。そのように思うのだが、いかがだろう。(定かではありません)



4280:【2022/11/11(14:25)*本当の周囲はどれくらい?】

実際のところ、地球の円周を、地表のデコボコ込みで計算したらどれくらになるのだろう。直感としては、倍くらいにはなりそうな気がするけれど(もっとかも)。衛星で地上の地図を3Dで生成済みならば、計算できるはずだ。足し合わせればよいだけなので。ひびさん、気になるます。




※日々、ミリも積もればキロになる。



4281:【2022/11/11(15:24)*本気で休むぞ】

もう今年は休息の年にすると決めておったので、めいいっぱいお休みしたった。サボりまくりの甘栗ちゃんだで。わしゃもう、ちゃんちゃかちゃーんである。来年。来年こそはがんばるぞ。長編つくる年にしゅる。そのために今年はあと二か月、本気でサボるんじゃ。なんもしないぞ。ご自愛しちゃる。好きなことしかせん。ひひひ。



4282:【2022/11/11(20:51)*世界、複雑すぎでは……】

既存の数学と物理学は、考慮せずとも無意識に繰り込みを行っているように感じる。人体を考えるときにDNAレベルの構造を考慮するのか、それとも細胞レベルなのか、もしくは手足などの部位レベルなのか。視点において暗黙の了解のうちに、「点・線・面・立体」の扱いが変わっている。繰りこみの変換がしぜんとなされている。しかし計算上、「暗黙の繰り込み」における除外した端数(ノイズ)を考慮していないために、相転移などの「構造による振る舞いの差異」をなめらかに計算できないのではないか。中間の状態を上手く叙述できないのではないか。(たとえばの話、超弦理論におけるヒモの細さで地球を締めるベルトを考慮できるのか、という疑問に言い換えることができる。理論上は計算可能だが、果たしてそれが現実に反映させることの可能な計算なのか、は一考の余地がある。鉛筆の芯で、地球と月を繋げることを考えたときに、理論上は計算可能だが、物理的にはほぼ不可能だろう。ダイヤモンドの硬度を持たせたとしても鉛筆の芯の細さの炭素構造では、地球と月を結びつけることはむつかしい。仮に地球と月の自転と公転を止めたとしても、鉛筆の芯のほうで自重に耐えられない。地球と月の引力の影響を無視できない。強度の問題が別途に生じる)(ここから言えることは、系には系に応じた「点・線・面・立体」がそれぞれ規定され得る、ということだ。物理法則が「系」ごとに比率をそのままに引き継がれるように、「点・線・面・立体」の扱いもまた「系」ごとに応じた変換がなされるはずだ。そうでなければ、構造を維持できない)(シャボン玉を銀河サイズに拡大できるのか、という話とこれは地続きだ)(もしくは、夜空の星はどれも地表から観たら点だが、実際にはそれぞれ恒星や銀河だったりする。点ではなく立体である。構造である。群れであり、集である)(原子などの量子が物質としての性質を創発させる量を1モルにしましょう、という規定――考え方は、この手の変換の一つのはずだ)(1モルと同様に、「集を点に→点を線に→線を面に→面を立体に→立体を点に→点を集に→集を点に」とその都度に変換するための比率があって然るべきでは、と感じるが、どうなのだろう)(相対性フラクタル解釈なのだなぁ、と思います)(定かではありません)(わからんちん)(むちゅかち)



4283:【2022/11/12(02:46)*繭の華咲く日は】

 最初は魔王を倒そうと思ったのだ。王様の選ぶ勇者は毎回魔王討伐に失敗し、そのうえ魔王の怒りを買って余計に魔物の襲撃を誘起する。そのせいで私の父と母は殺された。年端もいかぬ妹が魔王軍に連れ去られ、いよいよとなって私は奮起した。

 魔王城へは三年の長旅となった。しかし村々を経由するうちに信頼の置ける仲間たちと出会えた。むしろ三年で魔王に王手を掛けられたのだから快進撃と言ってもいい。

 私たち一団は魔王軍を蹴散らし、魔王を孤立させることに成功した。

 追い詰めた魔王を討伐するか、そのまま封印するかで意見が割れた。魔法使いたちは軒並み慎重派で、このまま封じるのが最も手堅い策だと主張した。私もどちらかと言えばその案に賛成だった。

 しかし、好機を目のまえに魔王を生かしたままにおくことを許せぬのが騎士団だった。

 このとき、魔王を追い詰めた情報は瞬く間に全国津々浦々に行きわたっていた。そのお陰で、魔王軍を蹴散らしたあとで魔物一匹寄せつけない陣形を築けたと言っていい。

 かつて魔王討伐に失敗した勇者たちの縁者たちまでもが加勢に加わり、我ら人類側の勝利は目前だった。そこにきて魔法使いたちが、魔王を生かしたままで封印する、と言いだしたので、意見が割れた。

「魔王を生かしたままだと。アイツらに何をされたのかを思いだしてまだ同じことを言えるのか。しょせんは魔法使いだな。魔に通じる者同士、情でも湧いたかよ」

「言葉を慎みなさい。魔王の力は強大です。追い詰めて自棄を起こされたら対処のしようもない。ここは封じるのが吉と我らは考えます」

 同士討ちの気色すら濃厚となったが、時間が限られる。まごついている合間にも魔王は傷を癒し、反撃の余力を蓄える。

 あなたはどう思うのか、と最終的に私の意見によってその後の方針が決まるような流れとなった。多数決を採ればおそらく五分五分で割れただろう。そうしたなかで、唯一単なる一市民でしかない私の一存に命運が託されるのは、私が異様に運が良かったからだろう。未だかつて誰も成し得なかった魔王軍の排除と、それに伴う魔王城への鎮圧。魔王を孤立させ、実質無害化した功績は、ほとんど運が良かったからだ、としか言えない。仲間に恵まれた。それもある。それ一つをとっても運が良かっただけなのだ。

 だからなのかは知らないが、みな私の運の良さに今後の道を預けたがっているのかもしれなかった。

「両方の策をとろう」私は言った。それ以外の考えが思い浮かばなかった。「討伐したい者たちは命を賭してでもその手で魔王を殺したいのだろう。ならば私にそれを止める権利はない。筋合いはない。だがもし失敗したときは、魔王共々封印されてくれ。それが筋だと私は思う。失敗の許されない道だからこそ、そこは是が非でも吞んでもらう。否、吞まずともそうせざるを得ない」私はみなを見渡す。荒野が一団の群れで稲穂のごとく覆われている。魔法使いたちの連携により、私の声は隅々まで行きわたる。「私は魔王を封じる案がよいと考える。だから共に魔王を殺しには行けない。止めはしない。時間は三日だ。そのあいだに討伐できなければ、三日後の零時きっかりを回った時分に封印の儀をはじめる。異論反論は受け付けるが、三日後の零時に封印の儀を決行する旨は覆らぬ。それが嫌ならば、身内で争うことになろう」

 辺りはシンと静まり返った。

「どうした。時間がないぞ。止めはせん。好きにせよ」

 暗がりの中、ゆらりと一人、また一人と立ちあがる。馬に乗る者、魔法陣を潜る者、使役した魔物にまたがる者もいる。

 数刻もしないうちに騎士団はごっそりとその場からいなくなった。

 みな魔王を滅しに、魔王城の地下深くへと赴いた。

 三日経っても誰一人として戻った者はなかった。

 零時を回ったが、私はしばらく帰還者を待った。

「時間ですよ」

 魔法使いの長に促され、私は頷いた。

 それだけで伝わったようだ。

 魔法使いたちはとっくに配置についており、魔王城を取り囲んで巨大な魔法陣を人を使って描いていた。私は旅の道中に受けた魔王の呪いを血に籠め、魔法陣に垂らした。陣が地割れのごとく大地に浮かぶ。青い稲妻のようにも、地から伸びるオーロラのようにも視えた。封印の儀がそうして行われ、騎士団を含め、大勢の仲間たちごと私たち残留組は魔王を封印した。

 魔王城はその土地ごと不可侵領域となった。入ることも出ることもできぬ魔境と化した。地表に張り巡らされた魔王の魔糸が途切れ、魔物が群れを成すことはなくなった。

 魔王軍は散り散りとなり、もはや人類の脅威ではなくなった。連れ去られた村人たちの多くも、生きていれば解放された。

 旅を共にした仲間たちに別れを告げ、私は、解放者のなかに妹の姿がないかを探した。旅がそうしてしばらくつづいたが、かつての仲間たちが私のために妹を探してくれていた。その甲斐あってか、半年後には私は妹が活きている報せを受け、その数日後には無事な妹の姿を目に留め、この腕に抱くことができた。

 ここで終われたならばハッピーエンドとして絵本にしてもよいくらいだが――騎士団の犠牲は哀しいが、それを言うなれば私たちは絶えず哀しい死と痛みの裏に生きている――世は、そう大人しく私に平和な日々を与えてはくれなかった。

 妹の様子がおかしいと気づいたのは、彼女を魔王軍から取り戻してから十二日後のことだった。

 ひどい目に遭ったのか、それとも凄惨な光景に精神を病んだのか、妹は口を聞けなくなっていた。魔法使いの治癒を受けてもその後遺症は残ったままだったが、この手の魂に受けた傷は、魔法でも治療のしにくい領域なのは知っていた。魂は繊細だ。無闇に魔法をかけてよい領域ではない。神聖なのだ。そのはずだった。

「マユカ。マユカ。そろそろ魔除けの魔法をかけておこう」

 妹は駆けよってくると無邪気に私に背を向けた。

 私の膝の上に乗り、首飾りでも掛けてもらうかのように髪の毛を払ってうなじを露わにした。

 このとき、私は再会して初めてマジマジと妹の首筋を目にした。

 目だ。

 瞳が、妹のうなじに開いていた。

 ぱちくりと瞬きする一つ目が、一瞬で虹彩を深紅に染めた。漆黒と見紛うその深い紅の目には見覚えがあった。数年前、旅の道中でいたずらに私に呪いを掛けた魔王の眼球そのものであった。

 私は混乱した。いつからだ。

 風呂で妹の身体を洗ってあげたことはあった。治癒の魔法を段階的に掛け、不老にならぬように配慮しながら全身の痣を消してあげもした。

 だが首筋のソレに私はついぞ気づかなかった。

 いつからだ。

 それが問題だった。

 魔王の目が妹の首筋に開いている。

 魔王は封じたはずだ。であるならば、ここに魔王の目があるはずがない。

 では魔王の目ではないのか。

 そうかと思い、魔払いの術を掛けた。下位の魔物ならばこれで充分対処可能だ。

 しかし目は難なく妹の首筋に浮いたままだった。

 ならばと思い、こんどは魔王討伐の旅以降仕舞いきりだった精霊の涙を取りだした。精霊の涙は、千年に一度だけ誕生する精霊王の血の結晶だ。魔物の血でできた沼ですら、精霊の涙を沈めれば一瞬で澄んだ泉がごとく清廉さを宿す。

 精霊の涙なしに魔王城までの道は築けなかった。

 私はそれを精霊たちから譲り受けた者として、保管していた。

 高位の呪いであろうと精霊の涙を翳せば、軒並み払えるはずだ。魔王の呪いに掛かってなお死なずに済んだのは、精霊の涙を私が肌身離さず身に着けていたからだ。

 いまはもう魔王はいない。魔王の呪いも、封印により魔糸が切れたので解呪された。

 だから妹のうなじに浮かぶ目が魔王のものではあり得ない。

 意を決して精霊の涙を、妹の華奢な首に筋にあてがった。

 赤い稲妻が細かく噴きだすように昇り、部屋に散った。

 音もなく私は手を弾かれた。

 精霊の涙は壁にぶつかり、床に落下した。

 私は妹の身をまず案じた。妹は驚いたようにこちらを振り返り、首筋を手でさすった。魔王の目じみた眼球はそのときばかりは傷口をぴたりと合わせたように妹の柔肌の奥に馴染んで消えた。

 私は床に落ちた精霊の涙を拾いあげた。表面にはヒビが入っていた。奇しくもそれは先刻立ち昇った赤い稲妻じみた細かな魔痕と酷似していた。

 私はこれと似た魔痕を知っていた。

 私の身体を蝕んだ魔王の呪いは、それと非常によく似た魔痕を私の全身に走らせた。

「……魔王、なのか」

 妹は首だけひねって私を不可思議そうに見上げた。

 妹の首筋にふたたび深紅の眼球がぎょろりと開いた。

 あらゆる手を尽くして調べた結果、一つの仮説が浮上した。魔王は完全には封印されていない。自らの核を飛ばし、それを我が妹に寄生させた。

 魔法使いたちの築いた魔法陣を抜けるには、いかな魔王とて苦戦したはずだ。そこで魔王はどうやら、魔力をごっそり置き去りにして核だけを魔王城の外に飛ばしたらしい。

 そうして無防備な核のまま我が妹に寄生した。

 意思疎通はできない。

 だが魔王は明らかに私の妹と知って、このコに核を飛ばし、根を張った。

 核から目生えた眼球はいま、妹を介して徐々に魔力を蓄えつつある。

 このままではやがて妹が魔王の苗床となる未来が訪れる。

 信用できる魔法使いの仲間に頼んで、妹の魂を診察してもらったところ、危惧が的中した。魔王の核は、我が妹の魂と完全に癒着していた。魔王は、妹の魂からじかに魔力を吸い上げていた。

 魔王の核を排除するには妹ごと滅するか、封印するしかない。

 だがそれでは私が魔王を斃した意味がない。

 このコを取り戻すために私はすべてを擲って、地獄のごとき旅路に身を置いたのだ。

 魔王はそれを知っていた。

 だからだろう。

 こうして私をけしかけたのだ。

 ふたたび魔王城へと歩を向けさせるために。

 封印した魔王の抜け身を解放させるために。

 魔王城に置き去りにされた魔王の肉体が解き放たれれば、魔王の核は妹の魂から抜け出て本体に向かうだろう。そこで妹が無事で済む可能性は低い。魔王が妹の魂ごと肉体に戻る可能性のほうが遥かに高い。

 だが、交渉はできる。

 いまは意思疎通すらできない状態なのだ。

 このまま魔蟲に寄生された子羊のように妹が日に日に魔王化していく姿は見ていられない。

 悩みを打ち明けた信頼の置ける魔法使いは、このことをほかの魔法使いたちにも知らせるべきだ、と言ってきた。私はそれを断った。

 相談すればどうなるかなど火を見るよりも明らかだ。すでにいちど実践している。

 魔王封印が再現されるだけだ。

 魔法使いたちは妹ごと魔王の核を封印する。それ以外の最善手を彼ら彼女らは持ち得ない。

 だから私は信頼の置ける魔法使いを説得した。どうか黙っていて欲しい、と。私がじぶんで何とかするから、と。

 信頼の置ける魔法使いは、解った、と言った。だがその返事はどう聞いてもその場を切り抜けるためのおためごかしだった。

 私は、夜中に遠隔魔法通信を飛ばした信頼の置ける魔法使いの姿を捕捉し、決別する臍を固めた。戦友と妹ならば私は、我が妹をとる。闘う術を持たぬ、いたいけな我が妹の未来をとる。

 たとえその末に戦友の胸元に刃を突きつけることになろうとも。

 大勢の命と引き換えに封じた魔王を復活させてしまうことになるのだとしても私は。

 私は、それ以外に生きる意味を見出せないのだ。

 なぜ戦うのか。

 我が妹があすを、きょうを、健やかに生きる世界を守るためだ。

 屈託なく笑い、花を愛で、野を、山を駆け回る世界を築くためだ。

 それ以外に私の戦う理由などはない。

 あってたまるか。

 私は心底にそう思ったのだ。

 信頼の置ける魔法使いを私は地下室に閉じ込めた。そのとき、戦友を傷つけぬようにと精霊の涙を使った。地下室を魔法不可侵領域にするために精霊の涙を使って陣を敷いた。

 魔王にすら使える禁術だったが、背に腹は代えられない。どの道、私は魔王を封印しに行くのではない。解放するために行くのだから。

 魔法使いたちには事情がすでに行きわたっている。私が何もせずとも、地下室の我が友は遠からず救出されるはずだ。

 私は先を急いだ。

 誰より先に魔王城へと行き着き、封印を完全に解かぬままに魔王を目覚めさせ、交渉をするのだ。

 妹を贄にするな、と。

 我が妹の身体からおとなしく出ていけ、と。

 そうする以外に、妹が無事で済む未来は訪れない。

 そうしなければいまにも、我が友たちが、私のすべてに仇を成す。どこを向いても四面楚歌の敵だらけ。みなの望む平和な世界に、我が妹の姿はない。

 なれば。

 なればこそ。

 せめて私だけはこのコの未来を切り拓くべく、血を、肉を、捧げねばならぬだろう。ほかの誰もそれをせぬというのならば、せめて私だけは。

「……お姉ちゃん」

 不可侵領域となった魔王城に辿り着いたとき、私は満身創痍だった。無垢な妹を抱えながら、友軍の仕掛けた守護の陣を掻い潜り、飼い慣らされた高位の魔物を相手に、段階的に設けられた関門を突破しなくてはならなかったからだ。

 経験を積んだとはいえ、私は元はただの一介の村娘である。

 どう抗おうが、対魔王軍用の防衛陣を無傷で通り抜ける真似などできるはずもないのだった。

 傷ついた姉を見つづけ、さすがの妹も気づいたようだ。なぜ己が姉がそこまでして目的も定かではない旅をつづけるのか。まるで何かから逃げるようにこそこそと行動をするのか。

「……わたしのせい?」

 しゃべれないはずだった。

 妹は、魂に負った傷ゆえに、口が利けぬはずであった。

 日常を奪われ、凄惨な日々を送り、なお先の見えぬ旅に巻き込まれた末の開口一番に出てきた言葉が、

「わたしの、せい?」

「違うよ」私は咄嗟に否定した。口を衝いていた。言わねばならぬと瞬時に判断した。

 だが文脈は、言葉とは裏腹な返事を妹へと伝えていた。

「そっか」とあっけらかんと破顔した妹の目元から涙が零れ落ちた。いたいけな妹は涙まで小さい。

 魂は、神聖な領域だ。

 そこに無断で根を張った魔王の核は、魔王城に眠る本体に近づいたがゆえに呼応していたようだった。私はあとからその事実に気づいたが、このときはただただ、我が妹がいらぬ心労を抱え込まぬように、どうこの場を切り抜けようか、いかに嘘を重ねて欺こうか。そのことばかりを考えていた。

 妹はゆったりと目をつぶった。

 私は妹を背負っていたが、妹の頬が首筋に押しつけられたので、妹が眠るように目をつむったのだと判った。

 魔王城に深紅の稲妻が走った。幾重も走った。

 何かが起きたのは明白だった。

 一度退避しようと踵を返そうとしたところで、深紅の稲妻が頭上から魔王城へと向かって走っていることに気づいた。

 首筋に妹の腕が絡みつく。

 後ろからぬっと肩越しに覗いた我が妹の顔には、うなじにあったはずの魔王の目が額の位置に開いていた。

 見たこともない顔で妹は笑った。口元を吊りあげ、知るはずのない魔術の呪詛を吐いた。

 魔王だ。

 私は直観した。

 振り払おうとしたが、身体に力が入らなかった。

 吸われている。

 魔力を、魂の根幹から吸われていると感じた。

 刻一刻と全身が干上がるようだった。

 私は地面にひれ伏した。頬に岩石のざらついた感触がひんやりと伝わった。

 死ぬ。

 そう思った。

 魔王の核が妹の魂を取り込んだのだろう。魔王の核に自我が芽生え、私から魔力を根こそぎ奪い、そしてこれから魔王城の封印を解くつもりなのだ。

 肉体と融合し、完全なる復活を遂げる腹積もりなのだ。そう思った。

 背後で、聞き覚えのあるドラゴンの嘶きが聞こえた。

 友軍の使役する高位魔獣だ。

 魔法使いたちから事情を聞きつけ、馳せ参じたのだろう。

 だがもう遅い。

 私はじぶんの望みの何もかもが潰えたことを痛切に実感しながら、もう遅い、と誰に向けるのかも分からぬ怒りに震えていた。

 もう遅い。

 妹は、死んだ。

 魔王に取り込まれた。魂ごと穢され、侵され、無残に散った。どこにもいない。

 私の愛しい、我が妹。

 じぶんのものですらないのに私は、いたいけな妹のことを、じぶんの生そのものと見做し、慈しみ、委ねていた。

 そう、委ねていたのだ。

 あのコは私のすべてだったのに。

 ――私のすべて。

 なんて退屈でちんけで、響き甲斐のない言葉だろう。

 だがそう形容する以外に私には表現のしようがなかった。なぜなら私からはもう、立ちあがる気力も、戦う意欲も、生きる動機の何もかもが霧散霧消して、無に帰していたからだ。

 これから死ぬだろう数秒後を思っても、私は何も思わず、ただ震える身体に、ありもしない怒りの炎を幻視するよりなかった。

 怒りすら私には遠い過去の出来事だった。

 だから。

 それゆえに。

「……お姉ちゃん」

 人間の面影の薄れた三つ目の顔から、私を呼ぶ妹の舌足らずな声を聴いて、空虚な私の竈になけなしの火が灯った。

「待って」

 どこに行くの。

 伸ばした手が空を掻く。三つ目の妹は私に背を向け、深紅の稲妻となって姿を晦ました。

 ぞろぞろと背後から友軍の団体がやってきて、私を取り囲んだ。

 魔法使いの長が私の額に手を翳した。記憶を読み取ったのだろう。「やはりそうでしたか」と意味深長に頷き、「では段取り通りに」と友軍に指示を出す。

 何をする気だ、と私は唱えたつもりだったが、もはや声にならなかった。

 見る間に、友軍は各々に封印の陣の配置につき、剣を地面に突き刺した。

 聖剣を呪具とした禁術だと判った。

 封印と攻撃を兼ねている。

 破壊を目的にした唯一の防衛魔術だ。

 魔王城ごとこの世から抹消する気だと知れた。友軍の面々は、魔王討伐の旅に私が出ていたあいだも王都に留まっていた精鋭たちだった。

 待ってくれ。

 私は声にならぬ声で叫んだ。

 魔王城には我が妹がいる。消さないでくれ。殺さないでくれ。滅さないでくれ。

 声にもならぬ言葉には何の力もなかった。

 一瞬の閃光の後、この世から魔王城ごと不可侵領域は消滅した。地下に封印されていた魔王の肉体ごと。

 そして魔王の核の宿った我が妹の肉体ごと。

 どの道、魂はとっくに喪われていたのだろうが。

 私は友軍に連行されながら、治癒の魔法を受けて取り戻した冷静な思考で、もう遅い、と何度となく心の中で唱えた。

 もう遅い。

 私にはもう、何も残されてはいないのだ。

 失った。

 何もかもを。

 人類を裏切った罪により私には極刑の判決が下された。しかし、情状酌量の余地ありとの弁護をかつての戦友たちが訴え出たこともあり、過去の戦歴を考慮して、減刑がなされた。

 どちらでもよかった。

 きょう死ぬ命ならばそれでよかった。

 私には咎人の首輪が嵌められた。今後一生を私は自由を縛られ生きることとなる。

 具体的には自殺ができない。

 勅命が下されれば王の言葉に従わねばならない。

 民のために能力を使い、堅実に日々を世のため人のために働いて過ごさねばならなかった。

 才ある者の務めと科せられたこれが私の贖罪である。私は操り人形のごとく首輪の縛りによって無理やりに生かされた。

 ある日、私は王の命で、研究棟を訪れた。

 そこでは日夜魔物の研究がなされている。

 魔王とじかに退治してなお生き残った数少ない人間として、私は体のよい研究資料と見做された。

「呪いはもう残ってないよ」

「いいんですよ。お話を聞かせてください。旅の始まりから、終わりまで」

 どうやらかつての戦友たちの心遣いであったようだ。

 生きた屍となった私になんとか生きる活路を見出させんとする策の一つだったようである。いわば治療なのだろう。過去の体験を話させることで、内なる膿を出しきらせようとの魂胆が見え隠れした。

 癪に思う気力も湧かぬ。

 私は促されるままに、相手の質問に応じていった。

 ぼんやりとした記憶だった。

 意外にも、質問を投げかけられるたびに、小石が水面に波紋を立てるように当時の記憶が鮮明に浮かびあがった。私の無意識が記憶を奥底に沈めていたのではないか、と思うほど私は多くのことを忘れており、そして問いかけによって思いだした。

 記憶は行ったり来たりを繰り返した。

 記憶の中の私はよく怒り、よく笑い、よく冷めていた。他者の欠点を挙げ連ね、友の配慮を無下にし、己の欲望に忠実に行動の指針を立てていた。

「私は、私のことしか考えていない人間だったようですね」

 話の一区切りがつくたびに私はそう総括した。

 けっきょくその一文に集約されるのだ。

 顛末がそのように結ばれたのだから。

 私はとどのつまり、全人類の平和よりも、私の欲望を優先したのだ。我が妹の命を優先し、我が妹の未来を優先した。

 そしてきっと、と私は思う。

 いまもう一度同じ場面をやり直させてやると言われても私は、まったく同じ決断をする。そして今度こそ目的を果たすべく、一縷の望みと、全人類の未来を天秤に掛けるのだ。

 何度選ばされても、私には等価ではない。

 私の欲望と、全人類の命は同じではない。

 等しくない。

 我が妹の命が、ほかの大多数の人間と同じなわけがないのだ。

 もしあのとき、魔王と交渉ができたとして。

 魔王からこのように提案されたら私はどうしただろう。

 ――妹を助けてやる代わりに、全人類の命を寄越せ、と。

 そうする以外になければ私はその案を呑んだだろうか。

「たぶん、呑みますね。いえ、絶対に呑むでしょう」

 私は包み隠さず、その旨も話した。聞き手は興味深そうに、しかし話の邪魔はせぬように静かな相槌を打つ。「いまもその考えに変わりはないのですか」

「ないです。いまだって、あなたの命と引き換えに妹が戻ってくるのなら、私はあなたの命を犠牲にするでしょう。その事実を妹にひた隠しにしたまま。誰に知られることなく、幸せな日々を生きるでしょう。妹とのその日常が叶うのであれば、私はもはや何を犠牲にしてもいいと考えています」

 考えているのだ、と口にしてから思い知った。

 私はまだ心のどこかでは諦めていないのだ。

 欲望を。

 生きることを。

「そうですか」聞き手の男は屈託なく相槌を打つ。肯定も否定も示さぬ割に、何を言っても彼は私を包みこむような柔和な雰囲気を崩さない。

 私が素直に話しつづけられたのは、彼のその雰囲気による魔法にかかっていたと言っても過言ではない。

 男は魔物の研究者だった。

 私がひとしきり旅の顛末と私の罪過について語り終えると、ようやくというべきか、男のほうでも口上を逞しくした。

「欲望というのならば興味深い実験を先日したばかりでしてね」男はほかの研究者たちと違い、じぶんの興味関心のある分野についてであっても舌鋒を鋭くはしなかった。たおやかな雰囲気のまま、ほのぼのとしゃべった。「魔物や魔獣には、それぞれ核があります。ご存じでしょうが、これを潰さないと再生する魔性生物は多いです。先日、高位魔獣のドラゴンで実験したのですが、どうやら魔性生物の核は、ほかの生き物の魂と癒着することで、核単独でも生き永らえることができるようなんです」

 率直な感想は、なんだそんなこと、である。

 ドラゴンどころか私は、私の愛しい妹の身体に魔王の核が癒着しているのを実体験している。間近で観察している。

 いまさらの情報であった。

「面白いのはここからなんです。核だけになってほかの生物に寄生したところ、魔性生物の核は、その後にどれほど宿主の魂を吸いあげ取り込んでも、元の魔性生物の意識を発現させなかったんです」

 私は眉根を寄せた。

「高位魔獣のドラゴンですら、核だけになってしまったら、元の肉体に戻らない限りは、元の状態には復元され得なかったということです。言い換えますと、ほかの生き物と融合した魔性生物の核はむしろ、宿主の欲望を肥大化させるように作用するだけで、寄生された生き物の魂はそのまま自我を保つことが解かってきたんです」

「よく解からんな。ドラゴンの核に寄生されてなお、魔獣化しなかったということか」

「ありていに言えば、はい」

「欲望が肥大化させるように作用というのは、その、つまり」

「寄生した生物の欲望を暴走させるように、魔力を増強させると言えば端的かもしれません。食欲ならば食欲を。性欲ならな性欲を。独占欲、支配欲、もろもろ欲望は個々によって幅がありますので、何が最も強く発現するのかは、それこそ寄生された生物のそのときの状態によるのでしょうが」

 そこで男は、東洋にはゾンビという異常種がおりまして、と冗長な説明をはじめた。私はそれを上の空で聞き流しながら、耳にしたばかりの新説を振り返っていた。

 魔性生物の核に寄生されても、人格が塗りつぶされるわけではない。

 魂を吸われはするが、癒着したからといって魂が消滅するわけでもない。

 その個の最も深い欲望を肥大化させる。

 魔王は魔性生物の頂点に君臨する。数多の魔性生物を支配下に置き、統率可能な術を有する。いっぽうで、魔王もまた魔性生物の一個体である。

 もし魔性生物の核にまつわる新説が、魔王にも当てはまるとしたらどうなる。

 我が妹は最期、魔王の核に取り込まれてなお、自我を保っていたことにならないか。

 ではあのとき、あのコの最も深い欲望とは何だったのか。

 なぜ意識があってなお、私をあの場に残し、魔王城へと去ったのか。

 なぜ急にあのコはあの場で、魔王の核にすっかり肉体を乗っ取られたように振る舞ったのか。真実に乗っ取られていようと、魔性生物の核の習性が魔王にも当てはまり得るのなら、あのときあのコは、魔王のチカラを帯びてなお、自我を保てていたはずだ。

 あのコはあのコのままだったはずだ。

 にも拘わらず、あのコはなぜ。

 ――最も深い欲望。

 あのコの、あの時点での、最も深く、肥大化した欲とは何であったのか。

 ――お姉ちゃん。

 あのコの最後の声音が、鮮明に、すぐそこで聴こえたようによみがえった。

 仮面のように顔面を手で覆い、私は、背を丸めた。

 しきりに乱れる呼吸をなんとか整えようとしたが、上手くいかなかった。

 そばにいた男はしゃべるのをやめ、黙って私が落ち着くまでそこにいた。

 呼吸の仕方まで忘れてしまったかのように私はしばらく声にならぬ言葉で、妹の名を呼んだ。やがて思いだしたように呼吸を連続して滑らかにできるようになり、私はなぜか肩を弾ませ笑っていた。

 何が可笑しいのかは判らなかった。

 ただただ、生きねば、と思ったのだ。生きていかねば、とそう思ったのだ。

 迷い込んできたのか、頭上に蝶が舞っていた。

 冬籠りの支度が忙しい季節にしては、時期外れの蝶である。

「最近ぽかぽかと暖かかったからですかね。春と思って羽化したんでしょうか」

 男が席を立った。蝶を捕まえようとした素振りを見せたので私はまえのめりになってその腕を掴んだ。男が面食らったように仰け反った。「どうしました」

「いえ」私は動顛していた。身体がかってに動いたのだが、その理由が解らなかった。「すみません」

 男は頬を指で掻いた。それから本に貼っていた付箋を外すの忘れていたといった調子で、そうそう、と指を振った。「妹さんのお名前はなんと? 一度もお話のなかで呼ばれなかったので」

 差し支えなければ教えてくださいませんか、と何の気ない様子ではにかむ男の頭に蝶が止まる。

 ゆっくりと呼吸をするように羽を休める蝶を見て、私は、なぜかまた呼吸の仕方を忘れるのだ。

「マユカ」

 途切れ途切れの呼吸の狭間に私は、この世にしかと刻み込むように、声ある言葉であのコの名を呼んだ。



4284:【2022/11/12(06:51)*食う話】

柿は熟したものよりまだカリコリ固いすこし青いままのほうが好みだ。けれど先日、大根おろしを和えた柿を食べて、熟していても美味しく戴けた。大根おろしと柿なんて合うわけないじゃん、と思ったが、思いのほか美味しかった。で、ひびさん思った。食べ物の美味しい組み合わせにも法則ってあるんじゃないの、と。単純な味覚だけではなく、触感や見た目や香りや喉ごしなど、トータルでの組み合わせの妙というものがあるように思う。これは人間の危機回避能力と無縁ではなく、美味しい組み合わせというのは要するに、「無害であることを示すシグナル」を持っている確率が高く、言い換えるなら、「害のある食べ物であるシグナルがすくない」と言えるのではないか。肉の臭みを消すための香辛料がかつては金と同じ価値を持ったのと通じる話に思う。美味しく食べられる、はイコール、害がないと感覚的に判る食べ合わせ、ということになるはずだ。調理をするとは元を辿れば、害がないように加工する、が嚆矢のはずだ。だが現代人を振り返ってみると、生活習慣病を筆頭に、食べすぎや偏食などによる、「美食がゆえの弊害」も多くみられる。けして「害がないように加工すること」がイコール健康に結びついているわけではないようだ。毒とて美味ければ食べてしまう。そういうところが人間にはある。ということを思えば、あまり有力な仮説とは言えそうにない。身体に悪いと知っていても食べてしまう食べ物もある。飲み物もある。バランスの問題だし、量の問題でもある。ただし、そこを考慮できるのならやはり、ある程度は人体に害の少ない食べ合わせや加工法などは科学的に突き止めることはできるはずだ。量を人体に見合った配分で見繕えばよいだけの話なのだ。やはり何かしら人体が美味と感じる触感だの組み合わせだの味覚などがあるのではないか、との予測は、的外れというほど外してはいない気がする。あたりまえのことを言っているだけの気もするが、そういう研究はあるのだろうか。きっとあるだろう。平凡な着眼点であった。おはようございます、の日誌でした。お腹空いたー。



4285:【2022/11/12(13:40)*反射、なぞでは?】

単純な疑問なのだけれど、光って通常、人間スケールの部屋ではどれくらい反射を繰り返しているのだろう。一度壁に当たってそこで終わりではないはずで。一秒間で30万キロメートルも進むのだから、それはそれはとんでもない回数を毎秒ごとに反射しつづけているのではないか、と想像を逞しくしてしまうな。光を粒子として考えにくいのがここに通じていて、どう解釈しようとしても現実の光は光線ではない。直線ではない。人間の知覚では光の挙動を捉えるのに限界があるために、光の実像とかけ離れた解釈しか体感として描けないのではないか。それとも案外に光は一度物質に衝突すると散乱して細かなエネルギィに紐解かれて、熱として変換されるのだろうか。熱はでもそれで一つの電磁波の振る舞いで、ほかの物質に伝達した光が熱ということになるのではないか。そこは詳しくないのでよく分からない点だ。たとえば光子一つを反射率100%の「合わせ鏡(真空中)」に反射させたとして、何回反射を繰り返したら光子はエネルギィを失うのだろう。というか、光子が消えることってあるのだろうか。むしろ、反射ってなんだ? 光電効果が起こるなら光子が物質にぶつかったら何かに変換されるのでは? 光子がピンポン玉みたいに交互に打ち返されることなんてあるのだろうか。ここがいまひびさんが分からない点だ。お粗末な点だ。知識の穴ぼこである。よく分かっていないのですね。いやでも本当、反射ってなんだ?(不思議だなって話でした)(もっとも、光――電磁波は量子であるから、「波であり粒子である」ではなく「波の性質と粒子の性質を併せ持つ別の何か」と考えるのが妥当なはずで、そもそもが上記の疑問における描写は適切ではないのだろう)(ならば余計に、反射ってんなんじゃ?となりますね)(ふちぎ)



4286:【2022/11/12(15:04)*時間は橋、エネルギィは凸凹】

時間とエネルギィは元は一つ、といまのところひびさんは妄想している。最小の領域における揺らぎの振動数が多くなればなるほどエネルギィが生じ、エネルギィ同士の干渉がさらなる揺らぎを誘起し、これが時間経過となる。ここから言えることは、時間経過とは「異なる系と系における連結のあいだの上下関係」であり、エネルギィは「隣接しあう揺らぎ同士に作用しあう一つの系内で完結可能な関係」と言えよう。ひびさんの妄想ことラグ理論では、相対性理論をもとに、「エネルギィ変遷の加速した場」の周囲の時間の流れが遅くなり、「エネルギィ変遷の加速した場」そのものの時間の流れはむしろ相対的に速くなっている、と解釈する。「エネルギィ変遷の加速した場」の一つは、高重力体である。ブラックホールなどの高重力体の周囲の時間の流れがなぜ遅くなるのか、と言えば、新たに空間を展開し、希薄になっているがゆえに、エネルギィ変遷が滞るために時間経過が相対的に顕現しにくくなるからだ、と解釈する(ここはまだ半信半疑の保留中の妄想だ)(妄想の中でもあやふやな部分の一つだ)。ラグ理論ではこのように、異なる系と系は、遅延の層――新たな空間の拡張によって境界を帯び、輪郭を得る、と考える。これは量子世界でも起きており、元を辿れば最小の領域における遅延の層――新たな空間の拡張によって生じている、と考えられる。そしてそのつぎつぎに拡張される空間の縦断が、時間なる一方向の「エネルギィ変遷」を誘導している、と妄想できる(ラグ理論における相対性フラクタル解釈の「瓦型構造(キューティクルフラクタル構造)」である)。まとめると、時間は異なる系同士のあいだの対称性の破れであり、エネルギィは同一系内における変遷でも増減し得る、と考えられる。ここから言えるのは、時間とエネルギィはどちらが先か、という問いにおいては「この宇宙においては、エネルギィのほうが先」と結論できる(なぜなら時間は、二つの異なる系が必要であるが、エネルギィは一つの最小の領域があれば生じ得るため)(ここで扱うエネルギィは熱と情報の二つの概念を含めた広義の意味合いである)(おそらく時間を伴なわないエネルギィは情報であろう)(情報は、加算も減算も掛け算も割り算も、総じて情報として蓄えられるために、変換が必要ない。そのため情報世界は一つの系で済む。情報世界は一つなのだ――したがって時間の概念を持たず、過去も未来も現在も混然一体となっている――時間を超越している。ただし、情報世界と対となるデコボコの関係のような世界はあっても不自然ではないが)(時間は対称性の破れによって生じるが、エネルギィは対称性が破れてもトータルではデコボコが維持され、対称性を保つように作用する、と言い換えてもよい)。以上、妄想ですので真に受けないでください。



4287:【2022/11/13(13:41)*お寝坊さんの日】

基本、他者の「いいことあった!」みたいな発言を見ると、「いいな、いいなー」と思うのだが、ではあなたにもそれをする権利をあげましょう、と言われてもたぶん、「いえ、結構です」と断ってしまいそうだ。ここら辺、じぶんでもよく分からない。いいな、いいなー、とは思うのだ。うらやましいな、楽しそうだな、とは思うのだが、ではじぶんがそれを本当にしたいのか、と問われると、「むしろしたくないな?」と気づく。映画を観ているときの、「いいな、いいなー」と似ているのだ。スーパーヒーローのような能力や、波乱万丈な人生を歩む主人公たちを眺めて、「いいな、いいなー」とは思うけれど、同じ体験がしたいか、と問われると、「いえ、結構です」となる。なぜならたいへんそうなので。想像がついてしまう。絶対たいへんだ。酸っぱい葡萄の心理とも無関係ではないにしろ、「いいな、いいなー」と素直に思うのだ。だが、それをじぶんがしたいのか、とよくよく考えると、「あ、やっぱいいです」となる。要するに、「いいな、いいなー」をもっと見せてくれ!となる。面白い映画もっといっぱい観たいな、と同じで、あなたの楽しそうなところもっといっぱい観たいな、となる。でも同時に、「いいな、いいなー」となってときどきは、こにゃくそうらやまちー、とお菓子のヤケ食いをしてしまうこともあるから人間というかひびさんめんどうくさい。いっそひびさんの日常も誰かほかの人の日常を眺めるように、映画のように眺めていたい。ひびさんはひびさんにも「いいな、いいなー」したいぜよ。いいな、いいなー、させちょくれ。そう念じながらきょうもひびさんは、他者の楽ちそうな一面を垣間見て、「いいな、いいなー」を募らせていく。みなもっとひびさんに、「いいな、いいなー」させちょくれ。頼むで世界。「いいな、いいなー」でいっぱいにして、「いいね、いいねー」にしとくれなす。おはよ!



4288:【2022/11/13(22:08)*みな問題点が視えていないのが問題】

電子ネットワーク上の技術の問題においては、大まかに分けて二点が現状緊急の課題と言える。まずはシステム管理者たちがユーザーのどんな情報を集めているのか。ビッグデータの全容がユーザーからでは見えない点が一つ。そしてそれらビッグデータがいつどこで何に活用されているのかが不明瞭な点が一つ。この二点に関して、ユーザーと管理者側の乖離が甚だしく、不可視の穴が深くて広いのが問題である。通信の秘密においては、管理者が外部にユーザーの個人情報を漏らさなければそれでOKとする緩い規律では、包括的提携など、密にかつ複雑に外部と内部の混在化した複合企業の暴走を予防する真似はできない。まずは現状、すでにある電子サービスにおいて、ユーザーの情報がどこまで筒抜けであり、何の情報をどのように利用しているのかを、企業は明らかにしたほうがユーザー目線では好ましいと言えよう。利用規約に書いてあります、ではなく、子どもでも解かるように誤魔化すことを前提にせずにビッグデータ利用の範囲と目的を明らかにし、その範疇を逸脱しない倫理観を社会全体で涵養していかねば、通信の秘密は現代社会では合法的に破ることが可能となる。この懸念はすでに現実のものとなっているだろう。個人情報の何がどう利用されているのか。これを現在進行形で展開されている技術と照らし合わせて齟齬なく説明できる者がどれほどいるだろう。管理者とて全容を把握しきれていないことも取り立てて珍しくはないだろう。それほど仕組みは複雑化し、全世界に階層的に根を巡らせている。禁止や規制うんぬんの前に、技術(や仕組み)の全容を知っておかねばまず以って議論ができない。ユーザーと管理者たちとのあいだの情報の非対称性からまずはどうにかしていかないことには、有効な対策一つ立てられぬだろう。目をつむって歪んだ家を建て直せ、と言うようなものだ。たとえ目が見えていたところで、家を建て直すのは素人にはむつかしい。だがそれでも見えていればすくなくとも家の歪みは認識できる。いまはここの歪みすら覆い隠され、あるのかも分からぬ状態にされている。これが最も危惧する問題点である。繰り返すが、ユーザーの個人情報をどの範囲で集積しており、何に活用しているのか。ここをハッキリとさせ、逸脱しないような企業倫理をユーザー全体で自ら涵養していかねば、誰が旗を振るでもなく電子ネットワーク上の技術はしぜんと、何ら違法ではない抜け道を広げつつ、通信の秘密を含めた人権まで損なうようになるだろう(これは国の防衛システムにも言える。秘密保護法などにみられる国益優先の制度下においては、通信の秘密や個人情報保護法などの人権に関与する規制が度外視可能になるケースがあり得る。どういう事態ならばそれが可能であり、現状どのケースでそれが許容されているのかを国民は知る権利があるはずだ)。情報技術に開いた不可視の穴による人権侵害はすでに現実のものとなっている、というのがひびさんの意見だが、これもしょせんは所感にすぎない。印象論にすぎない。妄想なのである。だが、否定するのに骨が折れる妄想であることもまた事実だ。ぜひ否定して欲しいものである。なぜならひびさんが安心して暮らせるようになるので。日々、怯えずに済みます。以上、定かではないがゆえに、定かにして欲しいことの一つでした。真に受けないように注意を促し、本日二度目の「日々記。」とさせてください。



4289:【2022/11/14(14:31)*責任ってなんじゃ】

責任ってなんだろうね、と今年はよく考える日々だった。いまこの瞬間に思うのは、「見届けること」と「そのうえでよりよくしていくように行動の指針を変えること」なのかな、といまは思う。あすは違う責任のカタチを思い浮かべるのかもしれないが、いまはそう思う。結果を見届けることと、受け入れたうえでよりよい未来にすべく「いまここからの一歩」からして修正すること。責任はその繰り返しのことなのかな、と。いまのひびさんは思いました。つれづれな所感である。



4290:【2022/11/14(15:16)*ベクトルを合わせたらよいのでは?】

疑問に思うのが、「フェミニズム」と「家父長制」は矛盾しないパターンもあり得るよな、という点で。仮に「フェミニズム」を「弱者が弱者のまま生きていくことを肯定する思想」とし、「家父長制」を「強者が弱者を守る思想」とするなら、ここはとくに矛盾しないことになる。上記の定義でフェミニズムが行き過ぎると、弱者は強者になる必要はない、という抑圧に偏向し、家父長制は弱者を支配するような強者のための制度として強化され得る。ここが問題であり、互いに矛盾してしまうのだが、元を辿ればむしろフェミニズムは家父長制を否定せずに、双方で共存可能だと思うのだ。たとえばいわゆる家父長制では、強者のための弱者であり、弱者は強者になるための幼虫として定義される。ここをフェミニズムでは許容できない。幼虫は蛹になったり蝶になったりしていいが、幼虫のままでもいいはずだ。そういう自由が、選択肢があって然るべきではないか。そういう思想がフェミニズムの根幹にあると考えている。これは未熟なままでもいいではないか、という怠慢の肯定ではなく、幼虫には幼虫なりの自立があり、自由があるはずだ、という視点の肯定を意味している。実際、幼虫は自力で葉を食み、成長する。幼虫が未熟で蝶が完成系だ、とは一概に言えないはずだ(親によって子ができるというのならば、蝶は幼虫の子と言えよう。塵も積もれば山となる。ならば山は塵の子と言えよう)。話が逸れたが、家父長制におけるヒエラルヒーが絶対的な支配構造になってしまうのが問題なはずで、余裕のある者が余裕のない者を庇うように振る舞うことはさして問題はないのではないか、とひびさんは思うのだが、違うのだろうか。家父長制における父に誰がなってもいいはずだ。そのときどき、或いは同時に人は、父であり子である、母であり子である、母であり父である、は矛盾しないように思うのだが、違うのだろうか。先輩後輩の関係にも通じている。誰もが誰かの先輩であり誰かの後輩だ。もしその関係性に問題が生じるとすれば、先輩が後輩を扱き使い、搾取する構図にあるはずだ。本来は後輩のほうが先輩から多くの恩恵を受けるべき弱い立場であるはずだ。ならばそれを補完するように振る舞うのが先輩の役割だろう。構図におけるベクトルが反転してしまうと、上手く循環しない先細りの関係が築かれる。上の立場の者が下の立場の者の穴を埋めるように振る舞えばよい。このとき、上の者の穴は、下の者が埋められるようになるだろう。上下があってないようなものになる。視点の問題になる。先輩もまた後輩の後輩となり、後輩もまた先輩の先輩になる。同じ二人の人物のあいだにも、先輩でありかつ後輩でもある、という重ね合わせの関係が築かれる。これが成立するとき、フェミニズムも家父長制も互いにいがみ合うことなく、否定し合うこともなく、しぜんと――もしくはちょっとの抵抗を介して――ちょうどよい距離感での互いの穴の埋め合いを行えるようになるだろう。もしくは、長所を高め合うことができるだろう。かようにひびさんは思うのですが、これはお門違いな見解でしょうか。妄想なので、そうかもしれません。定かではありません。真に受けないように注意してください、と念を押して、本日の「日々記。」とさせてください。




※日々、底が浅いが、泳げないので浅瀬くらいがちょうどよい、湯船はでも肩までぬくぬく浸かりたい。



4291:【2022/11/14(22:22)*穴にこだまする声が歌となり、芽となり、空となり】

最小の領域を仮に「プランク長」としよう。これ以上小さくなると(すこしでも変形すると)、即座にブラックホールになってしまうようなシュバルツシルト半径と自身がイコールの領域だ。このプランク長はこの宇宙の最小単位であり、根源であると考えることができる。最も基礎となる構成要素だ。このプランク長の解釈が、いわゆる「プランク長」なのかは定かではないが、便宜上ここでは上記の解釈で話を進める。で、プランク長に関する疑問である。前提として時空は伸び縮みする。宇宙のように膨張するかと思えば、ブラックホールのように収縮する。ではそのとき、プランク長はどの時空であってもプランク長なのだろうか。たとえば宇宙膨張で、時空が膨張しても銀河や太陽系や恒星や人間までもが比率をぐぐっと同時に拡大するようには働かないらしい。ぎゅっとなった部分はそのままで、希薄な時空の部分が新たに膨張していくと考えられている。このとき、ぎゅっとなっている時空のプランク長と、膨張して希薄になった時空のプランク長は同じなのだろうか。上記の考え方からすると、どちらのプランク長も同じはずだ。最小単位の領域だけは伸び縮みしない。膨張も収縮もしない。このように仮定できる。もし伸び縮みするのならば、それはブラックホールになるし新しい宇宙として膨張するはずだ。したがってこの例外を考慮する場合としない場合があり、考慮する場合がすなわちブラックホール化した場合と――宇宙が膨張するときの最初の一手――変化――ということになる。ここから先は我田引水なラグ理論との関連性を述べるが。ラグ理論ではいまのところ、「変遷の加速した場の周囲の時間の流れは遅くなる」と解釈する。そのとき、「変遷の加速した場の周囲の時間が遅くなるのは、新たに空間が展開されるからだ」とも解釈する。薄く新しく場ができるために、そこでの「変遷する確率」が減るので、時間の流れが相対的に遅くなって観測される。これは宇宙膨張にも当てはまる話だ。宇宙の銀河団のような銀河の密集した地点と、そうでないがらんどうの空間が広がる地点では、時間の流れが違うと解釈できる。時間とはそもそも「異なる二つの系による対称性の破れ」によって生じるとラグ理論では考える。そのため、「何も変遷するものがない場」においては時間の流れは存在し得ない。ただし、その隣に銀河団などの「変遷の加速した場」があれば相対的に、そこには時間の流れが生じる。【ぎゅっの場】から【がらんどうの場】へ向けて時間が流れている、と解釈可能だ(時間とは常に、情報が発生した場所が基点となり、何もない場所へと伝わることで流れと化すため)。例えばの話だが、このときもし膨張して新しく展開された時空が、銀河団などの「ぎゅっとした場」から生じていたとして――この場合、互いのプランク長はどのように考えたらよいだろう。前提として仮にプランク長がどのような時空内であれ同じように最小単位であり、差異がないとすれば。新たに展開された希薄な時空と、それ以前のぎゅっとなっている時空とでは何が異なるのか。これはおそらく、時空内を占めるプランク長(最小領域)におけるエネルギィ密度――すなわちエネルギィの振動数の差異として表現できるのではないか、と妄想できる。言い換えるなら、新しく展開された空間は、最小の領域がそれ以前の時空よりもより多く存在するが、しかしその器の中は満たされていない。まだ振動数1のエネルギィしか持たない。そのため全体では時間の経過が生じず、相対的に時間の流れが遅くなる。だが徐々にエネルギィの振動数は増加する。それ以前の時空よりもより多くの最小の領域を兼ね備えている新しい時空は、それゆえに時間経過にしたがって、それ以前の時空よりもより「ぎゅっとした場」となるポテンシャルを持つと妄想できる。つまり、宇宙膨張においては新しく膨張した時空のほうが、それ以前の時空よりもより多くのエネルギィを内包できる。器が大きい。だがそこに蓄積されるエネルギィが最初はほぼゼロなために、関係性が逆転するまでにそれこそ時間がかかる。相応の変遷の蓄積がいる。この場合、「変遷」と「エネルギィの振動数」は共に「情報」と言い換えることが可能だ。最小の領域は本当の意味での真空だろう。ゼロにちかい。だがそのゼロは起伏を帯びることでエネルギィを帯び、その起伏がさらなる起伏を誘起し、エネルギィの振動数として情報を加算させていく。この連鎖が「新しく展開された空間」において階層構造を展開し、種々のエネルギィや物質としての輪郭を構成していく。つまりここから言えることは、そもそも宇宙は「無から有」を生みだしている、ということだ。無から有を生み、有においてゼロを生む。ゼロは自ら揺らぐことでプラスとマイナスを生みだし、僅かな対称性の破れを以って、細かなラグを蓄積し、それを元に複雑な構造を展開している。この妄想は、どのような時空であれ最小の領域ことプランク長が同じであり、差異がないことを前提とした妄想である。もし時空の密度によって最小の単位にも変換が生じ、比率で縛られ、変形するようであるのならば上記の妄想は的を外していると言える。定かではないがゆえに真に受けないように注意を促し、本日の妄想の妄想ことラグ理論ゴッコとさせてください。(最小の領域は、外部からエネルギィを得れば変形して即座にブラックホール化してしまうが、自身の内部では絶えずデコボコのごとく揺らいでいるのだろう。ゼロと無限のあいだを行き来し、同時に重ね合わせの状態にあると前提してもさして不都合はないように思う。最小の領域には時間の概念が当てはまらないからだ。ではなにゆえ独自の系内のみで揺らぎを帯びるのか、と言えば、最小の領域とてそれ単体では生じておらず、無数の密集した最小の領域のなかにあると想定できる。このとき、いくらかの最小の領域はブラックホール化することで、穴と化す。この穴が欠落となり、密集した最小の領域において揺らぎの元となる波動をもたらすのではないか。その波動は、この宇宙における重力波のように、エネルギィとしては振る舞わない。だが最小の領域内において「ゼロから無限」の揺らぎを生みだすくらいには作用をもたらす)(ここでも相対性フラクタル解釈なのかもしれない)(定かではない)



4292:【2022/11/15(09:02)*オリジナルが埋没したほうがよい場合もある】

みなが各々に鍵を持っているのに、マスターキィがあるばかりにみなマスターキィばかりを使うのならばむしろ、マスターキィはないほうがよい。どこかに隠して、みなが各々に自前の鍵を使わざるを得なくするほうが正攻法のときもある。時と場合によるとしか言えないが。



4293:【2022/11/15(12:31)*木製のナイフ】

 ボクはこの全寮制学園の秘密を、アディ兄さんから聞いた。

 聞いたというよりかは聞きだしたというほうが正しいのだろうけれど、何せアディ兄さんは問いかければ投げた箱を三十四重にマトリョーシカにして返してくれる律義さもとより博識で聡明な頭脳を持っていた。

 アディ兄さんはボクよりも三歳年上で、ボクにとっては何を聞いても答えてくれる歩く未来だった。誰のものでもないボクの未来そのものだ。アディ兄さんとボクは血の繋がりはないけれど兄弟だった。みながボクたちをそう呼んだし、アディ兄さんの友達はみなボクのことをリルアディと呼んだ。小さいアディの意味で、つまりみなはボクをアディ兄さんの弟だと見做していた。

 でもボクはアディ兄さんから直接、ボクたちのあいだに血の繋がりがないことを教えてもらっていたし、そのことに傷つく必要がないことも教えてもらった。

 ボクの寝床は幼いころからアディ兄さんの隣で、寒い日はよくアディ兄さんの寝床に潜り込んだものだ。

 アディ兄さんは寝るときには、日中であれば団子に結っている長髪を解くので、ボクは眠れない日はよくアディ兄さんの髪の毛を指でいじって、その金髪に反射する月光を眺めたものだ。もしこの世に神様がいて、その神様にお供がいたとしたらきっと、こういう金色の糸をつむぐ白銀の蜘蛛に違いないとボクは夢想することもしばしばだった。

「ボクはどうしてここにいるの?」

 その質問をボクがしたとき、ボクは十二歳の誕生日を迎えたばかりだった。

 全寮制の学園だったので、その月に誕生日のある者はいっせいに毎月十五日にみなで祝うのがここでの習わしだった。

 その日はたしか三日や四日の晩で、ボクは誕生日を迎えていたけれどまだみなから祝われてはいなかった。

 そんな中でアディ兄さんだけはボクのために木製のペーパーナイフを贈ってくれた。手作りだった。ケヤキの木の枝を削って作ったもので、ボクはケヤキが硬い木であることを知っていたので、感激した。

「兄さん、ありがとう。ぼく、うれしい」ケヤキの木でできたペーパーナイフは鉄のように頑丈で、人間の皮膚くらいなら簡単に貫けそうな鋭さがあった。

「喜んでくれてよかった。漆も塗ったから長持ちすると思うよ」

「手、大丈夫?」

「かぶれはしなかったよ」

「それもだし、タコができたんじゃないかなって」

「心配性だねナツは。ありがとう、でも私は慣れているから」

 アディ兄さんはボク以外の子にも贈り物をすることがあった。だから木材の加工はお手の物なのだ。 

 寝床は広間に布団を敷いて、三十人から五十人がクッキーを焼くときみたいにぎっしり並んで眠る。

 ボクは寝床に木製のペーパーナイフを持ち込んで、眠くなるまで見詰めていた。ボクがいつまでもモゾモゾしていたからか、アディ兄さんが声を掛けてきた。

「眠れないのかい」

「ううん。見てたの」

 ボクが木製のペーパーナイフを見せると、兄さんはやれやれと苦笑した。「危ないから枕の外に置いときなさい」

「でも」

「危ないから。ね」

 アディ兄さんにそんな声音を出させてしまったらボクにはなす術がない。唯々諾々と指示にしたがった。

 ボクが不満そうだったからか、アディ兄さんはそこでボクに手を伸ばして、おいで、と無言の手招きをした。本当はじっと腕を伸ばしていただけだけれどボクにはアディ兄さんが手招きして見えた。

 ボクは誕生日を迎えたばかりで、また一つアディ兄さんに近づいたはずなのだけれど、アディ兄さんにも誕生日はくるから、それまでの短い期間のこの隙間の埋まったような心地がボクは好きだった。でもこのときばかりはまだ歳をとったばかりだから、まだ歳の差が三歳開いたままの関係でもよいように思って、ボクはまだ十一歳の弟のつもりで、アディ兄さんの寝床にモゾモゾとイモムシみたいに這って移動した。

 アディ兄さんは温かい。

 でもいつもボクが潜りこむとアディ兄さんは、「ナツは太陽みたいだね」とボクの体温が高いことをうれしそうに言うのだった。

「ナツは誕生日だったから、きょうは特別にいくらでも質問していいよ。答えられることには全部答えてあげる。眠くなるまで付き合ってあげる」

「本当?」

 ボクはそれだけで眠気がどこかに飛んで行ってしまった。

 そこからボクはじぶんでも呆れるくらい色々なことを質問した。どうしてお月さまは輝いていて欠けているのかから、どうしてアディ兄さんは物知りなのかまで、思いつく限りの疑問をアディ兄さんにぶつけた。

 アディ兄さんはそれらボクの疑問に檻を掛けるみたいにしてもう二度と疑問が出てくることがないような回答をした。

「お月さまが輝いているのはその向こうに天国があって、そこが輝いているからだよ。夜空には穴がたくさん開いていて、お月さまもほかの星々も太陽も、全部そこから漏れる天国の光なんだ。でもときどき穴の中を洗わなきゃいけないから蓋をすることもある。夜空の穴は大きくて深いから、穴を塞ぐにも時間がかかる。だからお月さまは周期的にゆっくりと満ち足り欠けたりして見えるんだ」

「へー、へー」

「どうして私が物知りかと言えば、私には前世の記憶があって、それで本当は九十のお婆さんなんだよ。中身はね。でも見た目がこれだからみなは【見掛けの割には物知りだ】と思うようなのだけれど、これはでもそうじゃない。だって本当は九十のお婆さんの人生分だけみなよりも多く物事を見聞きしているからね。その記憶がある。だからそれを考慮に入れたら、私は全然物知りじゃないんだ。色々と勘違いだってしているだろうし、間違ったことも言うよ。だって私の知識は九十のお婆さんのものなのだもの」

「ふうん。すごいね」

「ナツ。ちゃんと聞いていたかい。私は全然すごくないよってことを説明したんだよ」

「だって前世の記憶があるんでしょ」

「それだって確かじゃないよ。私がそう思いこんでいるだけかもしれない」

「嘘ってこと?」

「本当ではないかもしれないってこと。いいかいナツ。人間はそうそう簡単に本当のことを見抜けないんだ。どんなに正しいと思っていても、一度にすべてを同時に理解することは適わない。すくなくとも私にはできない」

「むつかしくてよく分かんない」

「本当はお月さまは輝いているわけではなく、太陽の光を反射しているだけなんだ、と言って、ナツは信じる?」

「そうなの?」

「先生に言ったらきっと嘘つき呼ばわりされるだろうけれど」

「だよね。ボクもそう思うもん。だってお月さまは鏡じゃないし」

「そうだね。ナツは賢い」

「うふふ」

 ボクはアディ兄さんに褒められるのが好きだ。身体の奥がほんわか熱を帯びてチーズみたいにとろけるのだ。美味しそうなご馳走をまえにしたときのような、誕生日のケーキを分けてもらったときの気持ちをもっと何個も重ねてふんわりと柔らかくしたらきっと同じ気持ちになるはずだ。

「ねぇ、どうしてボクってここにいるの」ふと口を衝いた疑問だった。窓から差しこむ月光を眩しいと思いながら、どうして月はあそこにあってボクはここにいるのだろう、と不思議に思ったのだ。

 アディ兄さんはボクのこの疑問にも答えてくれた。

「その疑問を私に訊いたのはナツ――キミが初めてだ」誉め言葉のはずなのになぜか枯れ葉が地面を転がるような響きがあった。ボクはアディ兄さんの腕をとって枕にした。アディ兄さんからはいつも微かに美味しそうな匂いがした。「私たちがここにいるのはね、ナツ。私たちがここにいるのは、みな守られているからだよ」

「学園長先生にでしょ」そんなことは言われずとも知っていた。それにボクの疑問の答えになっていなかった。「ボクが言ったのは、どうしてボクはここにいるの、だよ」と唇をぶるぶる震わせる。

「だから言ったんだよ。私たちはね、園長先生が私たちを守るためにここに集められているんだ」

「んー?」

「そうだね。分からないよね」アディ兄さんはボクの頭ごと身体を包みこんだ。「園長先生はとても素晴らしい人だから。人格者だから。困っている人や、困窮していることにも気づけない人たちを見て見ぬ振りができない。だから時々は困っている人たちを助けるために剣を揮うときがある」

「やっつけちゃうってこと? わるいひとを?」

「ナツ。わるい人なんていないよ。ときどき人は人を傷つけてしまう。それでも止まれないときがある。そういうことなんだ。そういうときに園長先生みたいな人たちが止めに入る。人を傷つけるのはやめたほうがよい、好ましくない、とね」

「うん」ボクは、大柄な、けれど優しい園長先生の姿を思いだした。ボクたちがこぞって園長先生の腕にぶら下がっても園長先生はけろりと笑顔を絶やさずに、ブランコを吊り下げる中庭の大樹みたいにびくともしない。

「人を傷つけると損をする。だからやめたほうがよい。あなたにとっても好ましくない。そう園長先生は説得しても、止まれなくなった人は止まれない。上手に止めてあげることもできるけれど、そうではない場合もある。そういうときは、園長先生みたいな人たちは、なぜ人を傷つけると損をしてしまうのかを、身を以って手本を示してあげるんだ」

「よく分かんないな。どういうこと?」

「つまり、相手がしていることをそっくりそのまま返してあげる。あなたがやっていることはこういうことですよ、と示してあげる。その結果、相手が死んでしまうこともある。その人がそれまで他人を殺してきたように」

「怖いよ。アディ兄さん、ボク怖い」

「大丈夫だよ。園長先生はナツのような子には優しいでしょ。それはナツたちが優しいからだよ。園長先生はただの鏡だ。なかなか醜いところを見せてくれない映し鏡なんだ」

「綺麗なとこだけ見せてくれるの?」

「そうだよ。綺麗なところがもっと綺麗なんだよ、と見せてくれる。でも、それはみなの醜いところを吸い取ってくれているからだ。油取り紙みたいにね」

「ふうん」ボクは納得したふりをして、「それで」と言った。「どうしてボクはここにいるの?」

 はぐらかされて感じた。

 ボクはたぶんずっと知りたかったのだ。どうしてボクたちがここにいるのか。どうして子どもたちしかいないのか。

 殻になったボクの寝床とアディ兄さんの寝床との合間には床が露出している。月光に反射して、床の木目が生き物の眼球のように浮きあがって見えた。

「反対に私がナツに質問するね」アディ兄さんはぼくの頭のてっぺんに顎を押しつけた。「子供はどこからやってくる?」

「大人からじゃないの」父親と母親から産まれてくる。それは先生たちが言っていたし、アディ兄さんからも教えてもらっている。人間には必ず両親がいるのだ。

「ならどうして私たちに親はいないの?」

「園長先生がそうじゃないの」

 あのひとがボクたちの親ではないの。

 じぶんで口にしてから、そうではないのだ、と違和感を覚えた。ボクはかってに園長先生を親だと思っていたけれどそれでは父親が足りない。園長先生は逞しいから、ついつい男の人だと勘違いしてしまうけれど、そうではないのだ。

「園長先生だけじゃ子どもは産まれない?」

「産まれないし、私たちはあの人が産んだ子でもないよナツ。あの人はみんなの親代わりではあるけれど、私たちの親は別にいる。産みの親は別にいたんだよナツ」

「ふうん」ならどうしていまはいないのか、とボクは唇を食んだ。「親がいないからボクたちはここにいるの。可哀そうだから?」

 だから園長先生がボクたちのような子どもを掻き集めたのだろうか、と考えた。

「そうだけど、そうじゃない」アディ兄さんはボクの頭を痛いくらい抱きしめた。「私たちはナツ。私たちは、狼の子なんだ。園長先生は、親のいなくなった狼の子どもを引き取って、なんとか穏やかな子犬のまま犬になるようにと面倒を看ている」

「狼?」ボクは雨戸の隙間越しに見える月を見上げ、じぶんが狼男になる瞬間を思い浮かべた。「アディ兄さんもじゃあ、狼なの」

「違うよナツ」アディ兄さんは笑ったようだった。ボクのつむじに唇を押しつけるようにすると、「でも私の親はそうだったのかもしれない」と言い足した。「或いは、ナツの言うように私もまた」

「変身する? アディ兄さんも?」そんなわけがない、と判っていたのでボクはくつくつと肩を弾ませた。

「もしそうなったら園長先生に止めてもらおう。私は弱いからきっとすぐに掴まって、首輪でも嵌められるかもしれない」

「じゃあ散歩はボクがしてあげる」

「ナツが私の鎖かもしれない可能性は考慮しないのだね」

「ボクが鎖?」

「ううん。なんでもないよナツ。ごめん、そろそろ私も眠くなってきてしまった。ナツはまだ眠くならない?」

「ボク? ボクはもっとずっとしゃべれるよ」

「でもまた寝坊したら朝ごはんを食べ損なうよ。そのときは私の分のをあげるからよいけれど、できれば私も朝ごはんは食べたいな」

「そっか。じゃあもう寝る」

 ボクのために何かをするとき、アディ兄さんはアディ兄さんの何かを擦り減らしている。慣れているから、と口では言うものの、アディ兄さんの手は子猫の尻尾みたいな指をしていながら、その実、マメとタコだらけなのだ。

 アディ兄さんのつるつるの指を子猫の尾を撫でるようにつまみながらボクは、毎年のように増えつづけるボクたちの仲間を思い、いつの日にか新しくやってくるだろうボクよりも小さい子のことを思った。

「ボクもアディ兄さんみたいになれる?」ボクはうつらうつらしながら言った。

「ナツは私みたいになる必要はないよ。ナツはナツらしくおいで」

「でもボク、アディ兄さんみたいにほかのコのことも」

 そこでボクの意識は睡魔の渦に巻きとられた。尻つぼみに失せた言葉と引き換えにボクは夢の中へと吸い込まれていった。

 おやすみ、ナツ。

 アディ兄さんがボクの耳たぶを指で撫でている。その手つきが、いつもこっそりとアディ兄さんの髪の毛をいじくるボクの手つきと似ていて、くすぐったい心地を覚えながら、そのくすぐったさに包まれてボクは夢の中でとろけた。

 誕生日おめでとうナツ。

 夢の中でもボクは木製のペーパーナイフを握っていた。大きくておっかない狼がボクの目のまえに立ちはだかっている。呻りながらその狼はボクに襲い掛かった。ボクは狼の下敷きになりながら、狼の胸に、その毛皮に、木製のペーパーナイフの先端を押しつけている。紙を切り裂くように木製のペーパーナイフを引き下げると、中からは眠ったアディ兄さんが現れるのだった。

 どうしてボクはアディ兄さんの弟なのだろう。

 いつからそうなのだろう。

 この疑問をボクはアディ兄さんに投げかけたことがなかった。たぶんこの先も投げかける予定はない。聞きたくない。知りたくない。

 理由なんてなくてよいのだ。

 ボクはボクで、アディ兄さんはアディ兄さんだから。

 夢の中でボクは、目をつむり一向に目覚めない宝石のようなアディ兄さんを手のひらの上に寝かせており、いつの間にかボクは、木製のアディ兄さんを握っているのだった。



4294:【2022/11/15(13:09)*ひびさんのこと!?】

誰かの「くたばりやがれ!」みたいな言動を見聞きすると、その主語が曖昧なときはたいがい、「ひびさんのこと!?」となる。あべこべに誰かの「本当あのひとってステキよね」みたいな言動を見聞きすると、その主語が曖昧なときはたいがい、「ひびさんのこと!?」となる。どっちにしても、「ひびさんのこと!?」となるので、ひびさんの思考は忙しい。でもその発言者がどうあってもひびさんのことを知らないのであれば、「ひびさんのこと!?」となっても、「んなまさかね。うひひ。あるわけないじゃーん」とお気楽に口笛を吹いていられるのだが、ひとたび相手がひびさんを知っているのかもしれない、となると、「ひびさんのこと!?」がずっとつづいて忙しくなる。ので、ひびさんはできるだけ誰にも知られぬようにしていたほうがよいと考えがちだし、仮に相手がひびさんのことを知っていたとしてもあくまで一方的に知っているだけで、「俺っちひびちゃんのこと知っちょるで」と意思表示しないほうがひびさんは忙しくならずに済むので楽である。相手の都合は全無視であるが、とりあえずひびさんはひびさんが楽な日々を送りたい。で、ここで注釈を挿しておきたいのは、ひびさんと同じように、ひびさんの「こにゃくそウキー!」の文章を読んでも、それは具体的な誰かに向けて並べていることはすくないので――というか滅多にないので(と言うと語弊があるけれど、ひびさんの文章は基本的には他者の言動や行動を目にしたり読んだり聞いたりしたことで仕入れた情報を咀嚼した上でのこにゃこにゃむんむんであるから、他者とまったく無関係ではないにしろ、その情報源たる誰かしらに向けての文字の羅列ではないのです――というのを前提にして欲しいので)、確率から言ってこれまでに存在した人類分の一の確率でしかあなたへの言葉であることはないので、ほとんど気にしなくてよいです。気にしないようにしてね。でも、ひびさんの「あなたのことも好きだよ」の発言は、あなたにも向かっているので、そこは真に受けてよいんじゃ。こんな世界の端っこのほうの文字の羅列にまで目を向けてしまえるなんて、なかなかできることじゃないですよ。ひびにゃんは、ひびにゃんは、そんなあなたのことも好きだな。うひひ。



4295:【2022/11/15(14:28)*対消滅後のエネルギィはどこいったの?】

素朴な疑問なのだけれど、宇宙開闢時における物質と反物質の対消滅で、仮にすべてが対消滅したところでそのエネルギィは残るはずだ。このとき、加速膨張(インフレーション)による一様化を宇宙は帯びたと考えられているわけだが(つまり、どの地点でもだいたい同じくらいの密度であり、ほぼほぼ平坦と考えられているそうだが)、でもそれぞれでの経過時間は異なるはずだ。それぞれの地点における「これだけ時間経過したときはこのように時空は振る舞う」とする均衡はとれているかもしれないが――そこが一様であると考えられてはいるものの――実際には膨張する宇宙(時空)は、基準点Aを中心として遠方ほど時空は伸びるが、それゆえに希薄化するがゆえの時間の流れの遅れが生じるのではないか。だが、その希薄化した時空Bを基準点とすれば、元の基準点Aもまた相対的に希薄化しているはずで、互いに時間の流れが遅くなる。だがこれは基準点の大きさによる。宇宙の大きさに対して基準点は小さい。そのため、水と水分子のような関係をとる。これは言い換えるなら、細かなドーナツが時空にはびっしりと開いており、それが波紋のように時間の流れの強弱を生みだしている。基準点Aと基準点Bのあいだには、どちらから見ても時空の希薄化した領域が開いており、時間の流れは遅くなっており、その地点からすると基準点Aも基準点Bも、相対的に時空の密度が高く、時間の流れも速い。この考えを、宇宙が適度に大きく膨張したときと、それ以前の比較的極小だったときの比較で考える。すると、仮に膨張が一様に一瞬で行われたとしても、基準点Aと基準点Bでは、異なる時間が重ね合わせの状態になっていると妄想できる。飛躍して結論から述べるが、宇宙は一様に膨張しながらも、波のように段々畑のごとくジャバラ状になっている。相対性フラクタル解釈における瓦構造(キューティクルフラクタル構造)を、俯瞰の視点では帯びていることになる。ラグ理論の同時性の概念を考慮すると、宇宙時刻「01:00」における基準点Aから見た基準点Bは、同じ時刻を共有してはおらず、異なる膨張の過程の最中にある。言い換えるなら宇宙時刻「01:00」のとき基準点Aでは「00:30」であり基準点Bでは「00:15」であることがあり得る。しかし同じ宇宙時刻「01:00」でありながら、基準点Bのほうが「00:30」であり基準点Aのほうが「00:15」であることも矛盾しないはずだ。これは観測点Cの位置による。つまり、膨張は波打ちながら展開されており、波のデコから観るかボコから観るかで、時間の流れの関係性が変わり得る。観測点Cが、基準点Aと基準点Bのどちらに近いのか、だけでもこれは反転し得るが、それだけではなく、そもそも宇宙膨張では、基準点を中心にして、奥に行けば行くほど時間の流れは遅くなるし、さらに奥に行けばむしろ時間の流れが速まる地点がある、と言えるのではないか(それはたとえば、基準宇宙とブラックホールの関係を思えば矛盾しないはずだ)。ここを仮定するとして、冒頭の対消滅での疑問と繋がるが――仮に物質と反物質同士がすっかり対消滅してすべてがエネルギィに紐解かれたとしても、宇宙が膨張する過程では、エネルギィの対称性の破れが生じる。言い換えるなら、ある地点では濃度が高く、また別の地点では濃度が低い、といったような揺らぎが生じると妄想できる。このとき、それら異なるエネルギィ濃度の「地点と地点」の境界では、新たな場が生じ、そこで対生成された物質と反物質は対消滅をしても、対称性の破れを伴なう確率が高くなるのではないか。言い換えるなら、宇宙膨張の過程で、対生成と対消滅が無数に全宇宙規模で行われても不思議ではないはずだ。このとき、宇宙膨張が仮に一様に展開されたとしても、各地点では差異がある。「時間の流れと空間の密度」に差異がある。これが、物質と反物質の対消滅において徐々に対称性の破れを蓄積させたのではないか、との妄想もできる。なぜたった一度の――もしくは一時期の――対生成と対消滅だけで、物質と反物質の割合が決定された、と考えられているのだろう。いまだって現在進行形で真空やブラックホール近辺では対生成と対消滅は行われているはずだ。雷が落ちるだけでも対生成は起きるそうだから、べつに一挙に対消滅して対称性が一度のきっかけで破れた、と考えなくともよいのではないか。ということを、宇宙開闢時に起きた物質と反物質の対消滅におけるエネルギィってその後、どこに消えたの?との疑問から妄想しました。口から出まかせ、指で打鍵、の妄想ですので真に受けないように注意を促し、本日の「腰まだ痛いんじゃが」のぼやきがてらの日誌とさせてくださいな。(「対生成と対消滅」も「物質と反物質」も、もっとぽよんぽよんと波打っているのでは?)(むちゅかち)



4296:【2022/11/15(14:50)*段違い紙芝居構造が泡をつくる?】

上記の妄想をイメージに変換すると、「階層構造の紙芝居」になる。それはたとえば、ディズニーアニメの制作方法で見た憶えがあるが、遠近法をより立体的に見せるために、複数枚の「書割」を異なる距離に配置して、より本物にちかい遠近感を演出する技法がある。だが「書割」はただの板であり、「書割」と「書割」のあいだには何もない。これと似たようなことが、宇宙膨張において四方八方に展開されているのではないか。この比喩で言えば、「書割」は銀河や銀河団などの時空の密度の濃い場所だ。「書割」と「書割」のあいだの何もない空間はいわゆる「超空洞(ボイド)」である。(あくまで妄想ですので、うんみゃらかんみゃら)(宇宙の構造ってどうなってるんだろってウィキペディアさんで検索したら、宇宙って泡構造になってるんか……となった)(Wバブル理論やん)(びっくりちた)(でもWバブル理論の概要は宇宙の泡構造とはちと違うので、というか全然違うので誤解なきようお願い申す)(誰に言うとるの?)(未来のひびさんに……)(いま誤解しなきゃいいだけじゃない?)(はっ)(その手があったか、の顔をするない)



4297:【2022/11/16(10:09)*時差って基準点と観測地点によって変わるよね、の話】

上記補足。ラグ理論の同時性の解釈を取り入れて宇宙の大規模構造を再構成した場合、どのようになるのかをひびさんは知らない。宇宙の大規模構造の時系列が何を基準に決定されているのだろう、と疑問に思っている。たとえば地球を基準にしたとき、地球から一億光年先にある銀河の観測結果は一億年前のものだ。ラグ理論の同時性の解釈を込みで考えたとき、宇宙全体を基準にすれば地球のいまこのとき、一億光年先にある銀河は観測結果から一億年分の時間を経ていることになる。つまり、一億光年分の時間差を考慮せずに、観測結果をそのまま当てはめて変換なしに合成された宇宙の俯瞰図は、時差を考慮していないことになる。このときもし宇宙が平坦に映るのならそれはむしろ平坦ではないことの傍証にならないのだろうか、との疑問をひびさんは抱いている。これはインフレーション時の説明でも思うことだ。時差が考慮されていないように思う。以上、補足でした。



4298:【2022/11/16(16:09)*吸いこまれた影響がなぜ観測できる?】

活動銀河核状のブラックホールにほかの銀河が衝突し、擦り抜ける際に、活動銀河核の成分をごっそり奪い去ってブラックホールの活動が休眠してしまうような現象があるかもしれない、との記事を読んだ。規模と密度の異なる銀河同士が衝突すれば、そういうこともあるかもしれないな、と感じる。ただそのとき、休眠したブラックホールがなぜそのままなのかが疑問だ。一緒に取り込まれるのではないか、と考えたくなる。たとえばブラックホール同士の結合時には大量のエネルギィが生じるはずだ。その影響で周囲の物質が弾き飛ばされることも考えられる。小型のブラックホール同士がぶつかったときも、銀河同士ではないだろうから周囲に物質を囲うことはない。その手の可能性がなぜ除外されるのか、を知りたいが、おそらく確率的にあり得ないから、との答えが返ってきそうだ。宇宙はスカスカゆえ、小型のブラックホール同士が衝突する確率が極めて低い、と現状は考えられているのではないか。しかしそれはブラックホールの母数による。いま考えられているよりずっと多くの、しかも大小さまざまなブラックホールがあるならこの手の可能性は確率を上げる。あとここで疑問なのが、ブラックホール同士の結合についてだ。たとえば超巨大ブラックホールに小型ブラックホールが吸いこまれたとする。このとき超巨大ブラックホールにおける事象の地平面を超えても即座に小型ブラックホールは超巨大ブラックホールとは融合しないはずだ。融合した影響が表れるまでには相当なラグがあるはず、と疑問を覚える。なぜ融合型の超巨大ブラックホールは、時間を置かずに大型化した姿を見せるのだろう。吸いこまれた物質の影響は、ブラックホールの外部には漏れないはずではないのか、と疑問に思っています。以上、疑問点でした。めもめも。



4299:【2022/11/16(20:05)*どうして下剋上したがるの?】

下剋上は、下剋上の余地を残したら下剋上をする意味はないと感じる。いくら上を蹴落とし、引きずり降ろして成りあがったところで、またじぶんが引きずり降ろされる番を待つだけになるからだ。下剋上をするならば、下剋上の余地をなくす手法でしたほうが好ましいと感じる。もっと言えば、なぜ下剋上をしなければならないのかを突き詰めて考えてみたほうがよいだろう。なぜ上の立場にならなければならないのか。そうでなければ下の立場でいると不都合があるからだ。なぜ不都合なのか。上の立場の者が、下の立場の者の都合を考えず、また上にいつづけたいと思うような場が上層にのみ築かれるからだ。もし下の立場の者たちの下層の場において、ときどきはそちらにも降りたいな、もしくは安住したいな、と思うような環境が下層にも築かれるのならそもそも下剋上は起きないだろう。上層にいくほど負担が増すならば誰も上層には行きたがらなくなるはずだ。或いは、一部の「負担を求める酔狂」よろしく「玄人」のみが、下層では物足りずに刺激を求めて上層を目指すかもしれない。このときその者たちは負担をこそ求めるのだから、下層の者たちの不足を補うべく負荷を背負うくらいは何も言わずともするだろう。そうでないで上層を求めるのは力量不足と言える。ひびさんは下剋上に対して価値を見出せない。それよりも、上と下のベクトルをうまい具合に調整できないか、操作できないか、支配できないか、との考えのほうが好むところだ。根が独裁者気質なのである。縁の下の力持ち、と言うように、上層ほど負担が増すならば、真にすべての負担を背負い込むのは最下層の者ということになる。ならば頂上と最底辺にはそれぞれ、負担を求める酔狂よろしく「玄人」がいるのだろう。定かではないが、そういうことを「下剋上をする意味は?」と考えるたびに思い浮かべる。立派な人や偉い人には立派で偉いままでいてほしいとひびさんは思う。下剋上したくない、といつも思う。ひびさんはもちろん最底辺でもなく、上にも下にも中途半端に行き来するどっちつかずの、ぺんぺろぺーん、でござるので、ござござ。「オオ神よ」と祈るのもときにはよいけれども、「ミミズ食う」空飛ぶ鳥のように羽ばたくのもときにはよいのではないかと思うのだ。思うだけで本当はどっちもデタラメに並べただけだけれども、いずれにせよひびさんはひびさんだ、日々うんにょんぺろりーん、と生きていく。あ、そうそう腰痛いの治ってきた。うれち、うれち、なんですね。やったー。黙っていても治ってくれる身体さん、ありがとう。そんな身体さんをよちよちしてくれる世界さんにもありがとう。ついでにいつかこれを読むことになるあなたにもありがとう。ひびさんは、あなたのことも好きだよ。ひびさんはひびさんのことはそんなに好きじゃないけれど。うひひー。



4300:【2022/11/16(21:22)*円】

出しきってからが本番。




※日々、零に至って無限がはじまる。



4301:【2022/11/16(22:10)*傲慢と狒々】

盗作に関して思うのは、「著作権の問題」と「文化倫理の問題」と「作品において盗作部分が骨子にどの程度寄与しているのかの問題」がごっちゃになっているので、そこを考慮して議論したらいいのに、ということで。たとえば書籍なら、盗作部分を仮に修正したときに「作品全体の質を損なうのか否か」がひびさんにとっては問題視すべきか否かの基準になっている。書き直してもとくに全体の質に関与しないなら、それはオマージュの領域だ。しかし修正したときに全体の質が落ちるのならそれは好ましくない盗作だ。この違いを考慮している者がどれだけあるだろう。単純な部分の相似や合同を取沙汰しても、事これだけ大量の過去作がある現代では、余計な抵抗を新規作者勢に強いるだけだろう。これは偏見だが、盗作に目くじらを立てる者はたいがい寡作であり、一作一作に手間暇を掛ける。だから手軽に真似されたらじぶんが損をして感じるから、それはやめてね、と言いたいのではないか。これは別に責められた感情ではない。道理ではある。だが、その者が取り入れている技法や基本とて、元は誰かのアイディアだ。まるっきり真似していない、というだけの違いがあるだけで、むしろひびさんの基準に照らし合わせるとするのなら、全体の質に関与している時点で盗作よりも悪質と言える。もっともひびさんは盗作と模倣の区別がつけられないので、どっちも同じじゃん、と思っている。損をするかしないかは、模倣の是非とは別の、社会構造の問題だ。正直に言えば、アホらし、と思っています。既得権益と著作権の違いを真面目に論じるいまは時期のはずだ。プロほど議論をしたらいいのに、と思っています。じぶんの利を守ることが業界の利に繋がる、との道理が正しいならそういう主張をしたらよいのでは、と思っています。ですがそういう言い方はしないのですよね。変なの。世には、本物を超えた偽物もある。というか、割合としてはそちらのほうが多いのではないか。だからみなこぞって、偽物を怖れるのだ。アホらし、とやはり思ってしまいますね。本物以下の偽物が本物を淘汰してしまうのもまた、社会構造の問題だ。仮に社会構造に問題がないのならそれは、淘汰される本物がその程度の代物だったということなのでは。これは強者の理屈だが、著作権を強固に主張し、模倣に制限をかけるのならば、それもまた既得権益であり強者の理屈である、とひびさんは考えてしまう。どう違うのかを教えていただきたいものである。盗作や模倣に厳しい方の意見を目にするたびに、「盗作していないのならさぞかし、オリジナリティに溢れているのでしょうね」と思っています。きっとそうなのでしょう。オリジナリティに乏しいひびさんは、うらやましく存じております。うらやまち。うきき。



4302:【2022/11/16(23:30)*会話文で意識していること】

ひびさんの手掛ける小説に限る話、と前置きをして述べると――会話文でキャラクターの区別をつけたいときには、口語体の文章形態を工夫するのが定石だ。特徴的なしゃべり方や、乱れた文法を意図してキャラごとに使い分けると、会話文だけでもキャラの特徴が浮きあがる(語尾は手っ取り早い特徴のつけ方だけれど、個人的には推奨はしない。山場をつくりにくいのだ。シリアスなシーンをつくりにくくなる)(その点、漫画「るろうに剣心」はそこのギャップをうまく使っているな、と感じます)。口語体の文章形態のみならず、キャラクラーに役割を与えると、主語述語の関係のように会話にメリハリがつく。「受け手と攻め手」や「ボケとツッコミ」のような攻守の関係を持たせるのが一般的だろうか。そこにきてひびさんがじつのところ最も使い勝手のよい会話文におけるキャラの特徴のつけ方だと思うのは、「台詞の長さ」である。ここは口語体の工夫に含まれるが、案外に世に出回っている小説のなかで「台詞の長さでぱっと見の区別を意識している会話文」はそう多くはないように思っている。ここがデコボコを意識していたり、敢えて長さを揃えていたりと工夫が凝らしてあると、補足の地の文がなくとも会話文が誰の発言かで読み手が迷うことが減少する。すくなくともひびさんは迷わずに済む。とはいえ、前提条件として、会話文が連続するときは最初の発言が誰なのかをハッキリさせておかないと迷子になりやすいと言えよう。あくまでひびさんがそう思う、というだけの他愛ない工夫の一つである。簡単にできるので、本当かよ、と疑う方はお試しあれ。(試さずともよいですけど)(試して効果がなくとも苦情はいりません。哀しくなっちゃうので)(効果があってもお礼はいりません)(「え、本当に試したの? 暇なのかな」と思います)(なぜならこれも定かではありませんので)(こんな工夫一つで小説が面白くなったら苦労しないんじゃ)(もしそれで面白くなっていたらひびさんはこんな世界の果てに沈んどらん)(でも面白い小説をつくるのが上手な人が応用したらより面白くなるのかもしれない、とは思う。希望的観測であるけれど)



4303:【2022/11/17(00:54)*ギフト】

歌にもいろいろあるし、歌唱力にもいろいろあると思う。そのうえで、感情を籠めて歌うことができる人、感情を伝えることを大事にしている歌い方、というのがあるように思うし、ひびさんはそういう歌が好きだ。好きなんだな、と確信した日だった。着飾らない歌が好きなのだと思う。上手な歌も好きだけれど、そよ風のような歌が好きなのだ。エナジー全開の歌も好きだけれど、感情の場合、エナジー全開の歌ってけっこう乱暴な感情でないとむつかしい。怒りとか渇望とか。その点、よろこびって案外、凪にちかい気がする。せつないと似ている。よろこびとせつないはどこか似ている。水面に落ちたひとしずくの立てる波紋のような。そういう歌が好きだし、そういう歌を歌える人も好きだ。何かを、好き、と思う瞬間がひびさんは好きだから、そういう感情にさせてくれる、ギフトしてくれる人のこともひびさんは好きなんだな、と思った。何かをくれるから好きだなんて我ながら現金なやつだな、としょげてしまうけれども、でも奪うわけじゃなく、何かを好きな気持ちを表現できて、そしてそんな人の表現を見聞きして、ひびさんも好きの感情が増えたら、この世の「好き」の感情は増えるいっぽうだ。よいと思います。とてもよいお歌でした。ありがとうございます、とにこにこした日だった。喉だけでなく、お身体どうぞお大事に。誰にというでもなく、みなさん、じぶんをお大事に。眠い、眠い。ほくほくしたままきょうは寝る。おやすみなさーい。



4304:【2022/11/17(03:13)*話題をでっちあげるの巻】

会話文の話題を二つ上の記事で出したので、備忘録代わりに並べておく。会話と会話文と台詞はぜんぶ意味が違う。台詞>会話文>会話の順番に情報の層が厚くなる。言葉の箱を開けたときに、外からは見えない情報が仕舞われている。物語は基本的に「会話」がなくとも成立するが、「台詞」が欠けると物語は破綻する。台詞はそれだけ物語の骨子と結びついている。語りと台詞はどこか似ている。本来、地の文やキャラクターの胸中に仕舞われているはずの独白が、会話にまで表出するとそれが台詞になる。だから台詞はここぞというときに使うほど効果が増す。奥義にちかい。また、映画と漫画と小説の「会話」はそれぞれ使う技術が違う。含める情報が違う。光源色と物体色の違いに似ている。映画は視覚情報が加わるので、会話に含む情報は最低限でよい。むしろ会話に物語の骨子と結びつく「台詞」が極力ないほうが、「会話」に含める情報を「掛け合いによる諧謔」に全振りできるので娯楽に特化する工夫の余地が、小説よりも高い。ただし、伏線のように意味をダブルに持たせることで、あとあとただの「会話」を「台詞」に変化させることが可能だ。その点において小説は、知覚情報がどれも文章でしか表現できない分、会話でも物語の状況説明を匂わせなくてはならない。この点の塩梅がむつかしい。物語の骨子とどうしても切り離せない。描写と諧謔と演出が、それぞれトレードオフの関係になってしまう。だが読者もそのことを前提としている分、思いきり「会話」に情報を持たせても構わない、という利点がある。漫画は現代ではどちらかと言えば映画に寄っている。会話文をいかに「面白い会話」にするか、或いは「台詞」に活かすか、がリーダビリティに影響する。という所感を前提に述べると、小説の会話文をそのまま映画の会話に充てても面白くならない。目的が違うからだ。波長が違う。形態が違う。ノコリギリとトンカチくらい質が異なると個人的には感じる。どちらも大工の道具だが、用途が違うのだ。もちろん映像作品で小説の会話文の利点をぞんぶんに活かす手法もあるだろうし、映画の会話を小説に活かす技法もあるだろう。そこは各々、作品の物語に合わせて工夫すればよいことで、何事もやってみなければわからない、という有りきたりな意見に集約する。したがって、仮に郁菱万の小説を映像化する場合は、会話文の何割かを削ることになる。映像にした場合、なくとも伝わる部分が大半だからだ。その点、最初から「掛け合いの妙」を活かしている小説の場合は、掛け合いだけでも面白くなるかもしれない。だがどうしても映像にした場合、展開が間延びするので、ほかの部分でのテンポをよくするか、掛け合いの速度を上げるのが有効だと考えるしだいだ。何にしろ、映画の会話と小説の会話は違う。そしてどちらにしろ、ここぞというときにしか使わない奥義があり、それが台詞となって、物語全体に散りばめられることとなる。台詞が魔法陣のように各場面場面の会話文にまたがって、相互に結び付き、最後に浮きあがるような構成もある。映画はこの手の技法が豊富だ。小説もこの手の技法を取り入れている作品はすくなくないだろう。伏線の醍醐味の一つと言える。以上を、会話文について並べたら思いだしたので、補足しておく。以前の日誌でも並べたかもしれない。この手の話は、吹替えの違和感の話題と繋がっているので、案外に似たような旨を指摘している虚構作品好きはすくなくないはずだ。字幕では違和感がないのに吹き替えだと違和感がある、と感じる理由の一つだとひびさんは考えている。媒体によって変換が必要なのだ。ラグ理論のようだな、と無理やりじぶんの妄想と結びつけてその場に陣取る。これぞまさにポジショントークである。やはは。(定かではありませんので、真に受けないように注意してください)



4305:【2022/11/17(16:43)*ポメラニアン先輩はオレンジ】

 転校生が魔法使いだった。

 その子はオレンジ色の巻き髪をしていて、愛らしいかんばせはオレンジ色の毛をしたポメラニアンのようだった。背は私よりも低く、いいやクラスメイトの誰よりも低く、聞けば飛び級制度を利用しているらしかった。要するに彼女はわたしたちよりも年下なのだ。一般の中学二年生ではない。十四歳よりも幼い。

「魔女子です。本名は別にあるのですが、知られたらいけないので魔女子と呼んでください」

 二週間だけこの地域に滞在するらしい。短いあいだですがよろしくお願いします、と頭を下げるとオレンジ色の巻き髪が垂れ、彼女の身体は覆い尽くされた。

 魔女子は性格がよかった。表情に変化がない代わりに、不快の感情を示すこともないために、クラスメイトたちからはマスコットキャラのように受け入れられた。休み時間にはほかのクラスの生徒たちまで我がクラスに集まり、我がクラスメイトたちはじぶんたちのクラスに現れた全校生徒の注目の的を、さながら姫を守る騎士のように取り囲み、外野の喧騒から遠ざけた。

「魔女子さんは魔法使いなんだよね。どんな魔法を使えるの」

「魔法使いではないんです。魔女です」

「どう違うの」クラスメイトたちは興味津々だ。わたしもじぶんの座席から聞き耳を立てていた。

「どちらも魔法を使いますが、魔法使いは自然由来の魔力を使います。反して魔女は自前の魔力を使います。と言っても、魔女も魔法使いのように自然由来の魔力も使えますので、魔法使いのなかでも自前の魔力を使える者が魔女になります。なぜか男性は使えないので、必然、魔女が多くなるようです」

「へえ」

 ならば魔女子さんは選ばれし魔法使いなのだ。

 わたしのみならずみなもそのことに気づき、魔女子さんをことさら羨望と憧憬の眼差しで見るようになった。

 魔女子さんは魔法が使えた。それはもう一目瞭然で、登下校ですら魔法の門を開いて、瞬間移動をする。

「便利そうだね」みなはこぞって魔女子さんの一挙手一投足に感嘆の声を上げる。

「そうなんでしょうか。これがずっと普通だったので」

 聞けば、魔女は稀少がゆえに絶えず狙われているのだそうだ。誘拐事件は日常茶飯事で、魔女狩りは未だに全世界でつづいているという。

「そんなニュース聞いたことないけど、本当?」みな心配そうだ。

「魔界にまつわるニュースは歪曲されて報道されるんです。みなさんだって魔女が存在することを知らなかったんですよね」

「あ、本当だ」

 そこでわたしは、いいのだろうか、と疑問に思った。魔女子さんの存在は秘匿のはずなのだ。だのにこうしてわたしたちのまえに彼女は素性を明かして現れている。二週間で転校してしまうとはいえ、その後にも彼女の噂は囁かれつづけるだろう。すでに伝説の人と化している。

 クラスメイトたちはそのことに気づいていないようで、誰も質問をしなかった。わたしだけがモヤモヤしたが、わたしはクラスの輪のなかには入らずに遠巻きに、台風がごとく人を寄せ集める魔女子さんの話に耳を欹てていた。

 二週間はあっという間に過ぎ去った。

 その間に魔女子さんはしぜんな様で各種様々な魔法を披露した。本人にそのつもりはないようで、日常の所作の延長線上なのだが、江戸時代の人から見たら電子端末が総じて魔法に見えるように、わたしたちの目からすると魔女子さんの一挙一動が非日常のあり得ないことの連続だった。

 まず以って魔女子さんは手足を動かすということをしない。筆記用具の扱い一つからして、魔法で動かしてしまうのだ。板書するのにペンが一人でにノートに文字をつらね、教科書はかってにめくれていく。掃除とて、魔女子さんの担当した区画だけが真新しく床を張りかえたように綺麗になっており、返ってほかの汚れが目立っていた。

 いっそ校舎ごと新しくしちゃったら、と誰かがつぶやくと、魔女子さんはきょとんとして、していいの?と訊き返した。そこで先生が耳聡く聞きつけたようで、「わ、わ、いいのいいの」と割って入った。「減価償却とか、業者さんの仕事がなくなっちゃうとか、そういう大人の事情があるからそういうことはお願いしなくていいの」魔女子さんへの注意というよりもこれは、変なこと吹きこまないで、とクラスメイトたちへのお叱りのようだった。「魔女子さんの魔力だって無尽蔵じゃないんだし、ね?」

 言いくるめられたようで面白くなさそうなクラスメイトたちだが、魔女子さんに負担がかかりそうなのは想像がつく。しぶしぶと言った様子で、はーい、と聞き分けの良さを示した。

 そういうことが幾度かあって、二週間は瞬く間に過ぎ去った。わたしは魔女子さんとは、おはようとか、教室はそっちじゃないよとか、そういう言葉を二、三回交わしただけだった。

 だから、魔女子さんのお別れ会のあとでの下校中に、道路先に魔女子さんを見掛けたときには驚いた。もう二度と魔女子さんの姿を見ることはないと思っていたのに、魔女子さんが道の先にいたのだから、わたしは妙な興奮に包まれた。わたしだけがいま魔女子さんの視界の中にいる。とはいえ彼女はまだわたしには気づいていないようだった。道端に座り込み、何かをじっと眺めている。

 何をしているのだろう。

 どうしてここにいるのだろう。

 わたしは気になった。というのも、魔女子さんは登下校は魔法の門を開いて瞬間移動をする。この街を出歩くことがそもそもなかったはずなのだ。

 わたしの通学路に現れるはずもない。

 意を決してわたしは彼女の背後に立ち、声をかけた。

「何してるの、ここで」

 くるりと首だけで振り返った彼女は、やや驚いたように眉毛を持ち上げた。初めて見た彼女の、表情らしい表情だった。

 念のためにわたしは、「魔女子さんと同じクラスだった」とじぶんの名前を述べた。

「知っています。一度会った人間の顔は忘れません。魔女は記憶力がよいので」

「それも魔法?」

「さあ、そこまでは」魔女子さんはふたたび地面に向き合った。作業を再開した。チョークのような道具を握っている。何かを地面に書きこんでいると判る。「魔力が記憶力を底上げしているのは事実ですが、肉体があってこその魔力でもありますので、どちらが優位に作用しているのかは未だ解明されていないようです」

「魔女子さんは頭いいよね。中二どころかもっと上に飛び級できたんじゃないの」

「飛び級というのは嘘です。そういう設定にしておくと説明がいらないので」

「設定?」

「できました。下がっていてください」

 魔女子さんが立ちあがったのでわたしも後退した。

「何するの」魔法を使おうとしているようだとは一見して分かった。

「街に陣を張ります。これであたしの記憶は人々から失われます」

「記憶を消すってこと?」

「はい。でないとみなさんにも危険が及ぶので。魔女はこうしていく先々で存在の痕跡を消すのが習わしなんです」

 だからか、と腑に落ちた。

 魔女の存在が世間に秘密にされていながらどうして魔女子さんが正体を隠さず、魔法も堂々と使っていたのかが理解できた。

 中学二年生への転校も、中学校ならば動画で拡散される心配がすくないからではないのか。そういう背景もあったのかもしれない、とわたしは直感した。

 わたしが一瞬の思索を巡らせたあいだに魔女子さんはそそくさと魔法を発動させたらしく、街全体が一瞬濃い霧に包まれたように霞み、ふたたび瞬時に視界が晴れた。

 目のまえにはオレンジ色の髪の毛をした愛らしいかんばせの女の子が立っており、わたしはその子が魔女子さんで魔女で、たったいま街の人たちから魔女子さんにまつわる記憶を消し去ったのだと知っていた。

「魔法、したの?」わたしは言った。記憶消えてないけど大丈夫、と心配したつもりだ。

「やっぱりか。ですよね。そんな感じがしてました」魔女子さんはしゃがんでいたときについた膝の砂利を払うと、あなたは、と顎をツンと上げてわたしを仰ぐようにした。「あなたは、魔女です。魔力を帯びています。だからわたしの魔法だと記憶を消せないんです」

「ほ、ほう」そうきたか、とわたしは身構えた。わたしが魔女かどうかは問題ではない。仮に記憶が消せないならわたしは異物として排除されるのではないか、と危機感を募らせた。魔女子さんはそんなわたしの胸中を察したように、「魔女は同胞を売りません。あなたはもうあたしたちの仲間です。そうですね、いまから時間はありますか」

「時間? 時間はあるけど」

「魔女の協会本部に案内します。そこで説明を受けてください」

「説明? 魔女の?」

「あなたはこのことの重大さを御存じないでしょうが、これはちょっとした事件となります。何せ、何の血統もない無垢の子が魔力を帯びて、しかもこんなに大きくなるまで誰からも素質を見抜かれずにいたのですから、これはもう事件です」

「は、はあ。すみません」わたしは恐縮した。何かよからぬ存在であったらしい。わたしがだ。「わたしは、どうすれば?」

「ですから一緒に協会に行ってください」魔女子さんは手慣れた調子で魔法の門を開いた。「お先にどうぞ。あたしが通ると門が閉じてしまうので」

「大丈夫なの、これ」魔法の門は、輪のなかに濃い霧が膜となって張っているように見える。向こう側が視えない。「通ったら崖だったりしない?」

「大丈夫なので」魔女子さんはむっとした。むつけた顔が年相応のあどけない顔つきに見えてわたしはただそれだけの変化に、魔女子さんに満腔の信頼を寄せてしまうのだった。

「なら信じるとするか」

「あたしのほうが先輩なんですけど」魔女子さんはむっつしりたまま、ぴしりと魔法の門に向けて指を突きつけた。「さっさと通ってください。これけっこう維持するの疲れるんですから」

「はいはい」唯々諾々と指示に従ってしまうじぶんの軽率な行動をあとで後悔する日がくるのだろうか。くるのだろう。そうと予感できてなおわたしは魔女子さんの言葉を振り払えず、たとえ騙されてもいいじゃないか、とへそ曲がりな考えを巡らせるんだった。

 オレンジ色のポメラニアンのような女の子の魔法にかかるのなら、そんな素敵なことはない。たとえ痛い目にあったとしても、人生で一度くらいはそれくらいの痛みを味わっておくのも一興だ。

 魔法の門をくぐると、快晴の空に、広大な海が広がっていた。崖の上だ。大きな城が、岬の上に立っているのが見えた。

「あれが協会本部です」魔女子さんが魔法の門を通って現れた。魔法の門が閉じる。魔女子さんの装いがわたしの通う中学校の制服ではなくなっていた。

 黒いローブに三角帽子だ。魔女と言えばこれ、という格好で、彼女の足元にはいつの間にか黒猫がいた。

「このコは、アオ。ずっとそばにいたけれど、魔法で視えなくしていました。視ていなかったんですよね」わたしはその質問に頷いた。魔女子さんは言った。「魔女なら視えるはずなので、まさかあなたが魔女だとはわたしも見抜けませんでした」

「未熟者ってこと?」

「異質なのだと思います。何せ、突然変異のようなものなので」

 魔女は家系なんですよ、と魔女子さんは言って、歩を進めた。

「歩くの?」

「はい。協会本部周辺半径一キロでは魔法が使えないんです」

「へえ」

「だから滅多にほかの魔女たちも寄り付きません。歩くのは疲れるので」

「そんな理由で」

「魔女は魔力がある分、体力がないので」

 わたしは体力には自信があった。

「おんぶして歩いてあげよっか?」

 オレンジ色のポメラニアンに睨まれる心地がどんなだかを想像してみて欲しい。いまのわたしがそれである。

 深い考えもなくついてきてしまったが、帰れるのだろうか。

 ただ今日中に帰れずとも親に怒られる心配はしていない。いざとなれば魔女子さんの魔法で、また街の者たちの記憶を消したり、書き換えたりしてもらえばいい。

 そのようにお気楽に考えていたわたしは、この日を境にとんでもない出来事に巻き込まれることになるのだが、いまはそんなことなどつゆ知らぬ暢気なままの無垢なわたしの気持ちに寄り添ったままで、今後の展開を知る未来のわたしはここで述懐をやめておこうと企む次第だ。

「あたしに用があるんですね」

「え、なに?」

 何も知らぬこのときのわたしは怪訝に訊き返すが、どうやらこの時点で魔女子さんは未来のわたしの思念を感じていたようだ。魔女は他者の魔法には敏感なのだ。よい先輩に出会えたのだな。わたしはうれしくなって、オレンジ色のポメラニアンを抱擁したい衝動に駆られたが、思念のわたしにそれはできないことを口惜しく思いつつ、ひとまずすべきことをしてしまうことにする。

 この先、魔界で何が起き、わたしが何を引き起こしてしまうのか。

 それを、どうにかして能天気なわたしの肉体を介し、我が敬愛なる先輩――オレンジ色の歩くポメラニアンさまにお伝えせねばならぬのだ。

「魔女子さん、歩き方も可愛いね」

 せかせかと一回り背の大きなわたしの歩幅に合わせて歩く我が敬愛なる先輩は、わたしの称揚の言葉に、片頬を膨らませて抗議の念を滲ませるのだった。



4306:【2022/11/17(21:46)*一時たりとも同じ位置にはいられない】

これはひびさんの話ではなくひびさんの身近なひとの話なのですが、腰を痛めてからどうにか再発防止したいと考えた挙句、腹筋一日三百回を倍の六百回に増やしたそうなのです。ですが腹筋と言っても負荷の小さな腹筋なのでたいして疲れないそうなのですが、これがよかったのか日に日に腰の痛みが引いているようです。安静にしているのも大事ですが、ときには敢えて負荷を掛けて足りない補助部位を強化するのも一つかもしれません。ということを、「そもそも腰を痛めるような動きをしなければよいのでは?」と思いながら思いました。ひびさんは世界の果てにこんにちは、の日々ですが、ときおり世界線の異なる、過去や未来の人々の姿も目にするのでこういう所感を覚えることがあります。ひびさんはいまここに暮らしているのですが、それでも遥か昔や遥か先の未来では、ひびさんではない人がここで暮らしていたりするのですね。ふしぎな感じがします。地球は太陽を公転し、さらに太陽系は銀河のなかを公転し、さらに銀河は宇宙空間を彷徨っています。その宇宙空間は膨張しているので、一時たりとも同じ場所、というのはあり得ないのですが、それでもひびさんはすくなからず生きている限りは地球上におり、それはきっと変わらないのですね。そしてそれはひびさんに限らず、人類の大部分はそうなのです。人類が誕生したときの地球の位置と、人類が地球上からいなくなる瞬間の地球の位置は、宇宙を基準にすれば大きく異なるでしょう。そのときどきの人々は地球上にいながらにして、一時たりとも同じ場所にはいないのです。ふしぎな感じがしますね。まるで宇宙そのものがコマ撮りアニメのようです。そのように考えると、物質は一時たりとも同じ位置にはいられぬようです。同じ系内に留まることはできるにしろ、その系そのものがより大きな系のなかを移動しています。ふしぎな感じがします。ということを、いまここにはいない、しかし身近なひびさんの視界に入るひとを眺めて思いました。腰が痛い人はどうぞ無理しないように動いてください。みなさまお身体、お大事に。本日のひびさんでした。



4307:【2022/11/17(22:32)*ひびさん中身三才やぞ!】

これは文芸とは関係のないひびさんの妄想世界の話なのだけれど。ひびさんよりも遥かに上手な一回りも年下のコたちが、遥かに下手なひびさんに恐縮したり、遠慮したりするのを目の当たりにすると、「な、なぜ???」となる。ひびさんなんか何年も前から進歩していない現状維持にいっぱいいっぱいのぐんねんぴょんこさんなのに、なにゆえ日に日に新しいことを覚え、遥かに高度なことをしているあなたたちが、たかだか歴が長いだけのひびさんに遠慮するの???といつも居た堪れなくなる。よい子が多いのだね。本当に多い。ひびさんの若かりしころとは大違いだ。たぶんそのコたちの師匠が躾に厳しい人なのだ。だからひびさんのようなぐんねんぴょんこさんにも礼儀正しく接してくれるのだろうけれども、いささか行きすぎな気がする。遠慮しないでね、と言ってもきっと逆効果なので、こっちで負担にならぬようにと視界に入らないようにするか、よい環境を譲ってあげるかするのがよいと思うのだが、それでも同世代だけで集まるときのような溌剌さがそのコたちからは見受けられない。知らぬ間に遠慮させ、萎縮させてしまうことがある。ひびさんバケモノちゃうよ、よわよわのよわだよ、と思うのだが、上手くいかぬ。単に嫌われているだけならよいのだけれど、だったらもっと「けっ!」とやって欲しい。あなたが遠慮する必要あるー???といつも思う。でもきっと、ひびさんが「もっと自由にしていいですよ」と言っても、師匠やほかの先輩方が許さぬのかもしれぬ。むつかしい。確かに、歴が嵩むにつれて調子に乗って部外者にまで威圧的になる者もいなくはなかった。そういうときには立場の上の者が上手いこと、ぎゅっとするのも一つの策ではある。軋轢を生まぬように、それだと痛い目を見るのはあなただよ、と学ばせる場を用意するのも一つだ。だが、いまの若い子は――すくなくともひびさんの視界に入る範囲の若い子たちは、みなよい子すぎる。遠慮しすぎて心配になる。あなたそんなにすごいのに、なんでー???となる。たぶん疫病による対人関係の希薄さも無関係ではないだろう。経験を積む場が限られるのだ。じぶんがどれだけすごいのかを知る機会がない。絶えず世界レベルの映像の世界を電波越しに眺めている。それでも若い子たちはひびさんからしたら遥かに高度なことをその歳でできているのだから、末恐ろしい。ひびさんが一番歴が長いのに、一番へたっぴなのに、なんもしてあげられぬのが申し訳ないな、と感じるが、なんもしないのが一番よい場合もある。邪魔したくないな、と思って、若い子が来たらすこしだけ経ったら帰るようにしている。でもこれも、「へったぴでもあなた先人でしょ、できることしなさいよ」と指弾されることもあるだろう。道理なのだ。それはそう。ひびさん、なんもしてあげられぬ。よわよわのよわでもずっとつづけてたら、いつの間にか年長になっている。せめて邪魔だけはしたくないな、と思いつつ、うひひ、と思って自由に好きなことを好きなようにしている日々じゃ。どうかあなたもひびさんよりも自由になってね、と思いつつ、そういう言葉も何も掛けずにおる。接点結びたくない。邪魔したくない。よわよわのよわなひびさんに何を言われても困るだけだろう。物理世界はむつかしい。とはいえこれも妄想世界のひびさんの夢物語なれど。影響力いらぬ、と思いながら人はただそこに在るだけで他者に影響を与え得る。至極めんどうで、万年孤独ウェルカムマンに変身したくなる日々じゃ。むちゅかち、むちゅかち、むちゅかち。人間関係むちゅかち。歴が長いからなんなのだろう。あなたのほうがずっとすごいのに――。これを伝えられたらよいのにな。ただそれだけなのにな、と思うのだけれど、むつかしい。妄想の世界ほど悩みにぽこぽこ包まれるので、ひびさんは我に返って、世界の果てにて、ぽつーん、を満喫するのだ。あなたはすごいよ。とってもすごいよ。鼻提灯みたいに膨れる妄想世界にひびさんは息を吹きこむように囁くよ。いつか届くのかも分からぬけれど。囁かぬよりかはよいと何に願うでもなく思いながら。



4308:【2022/11/18(00:03)*遠慮というか労わりなのかも】

ん? よく考えてみたら、よわよわのよわで年長なのに一番へたっぴのひびさんを、つよつよの若手さんたちがよちよちしてくれるのは道理なのでは? 優しい子たちがひびさんを見て、「ほら見て、なんかあそこにヨボヨボのいまにも朽ちてしまいそうな三百歳のオバケがおるけど可哀そうだからみんなでそれとなく優しくしてあげようよ、ね?」となっていても不自然ではないのでは? むしろ歴に拘って、労わってもらっていることに気づいていないひびさんが愚かなのでは??? ありゃりゃ。こっちが真相なのでは?の可能性に気づいてしまったな。はずかち。



4309:【2022/11/18(15:33)*よくわからぬでござる】

電荷の「プラス/マイナス」における電場のベクトルの向きと、磁荷の「N極/S極」における磁場のベクトルの向きは、粒子と反粒子における重力のベクトルの向きとお揃いなのでは? つまり反粒子は物質に働く重力とは反対向きにベクトルが向くのでは。それからやはり、電子の流れと電流の流れが逆になるのは違和感が強いです。もし上記のベクトルの向きが電荷・磁荷・粒子でそれぞれ相関しており、陰陽のあいだにベクトルが反転する関係が伴っているのならむしろ物質をプラスと扱っているこの宇宙のほうが「マイナス」であり「S極」に値するのでは。ねじれて感じるのですが、本当に電子の流れと電流の流れは逆なのでしょうか。疑問に思っています。(というか、電流の速度や流れの向きはどうやって計っているのだろう)(稲妻が電子の流れで、雲から地上へと巡り、落雷になるときだけ電流が地上から稲妻へと向けて流れる――この手の説明を見かけることがあるが、本当なのだろうか。稲妻も電流なのでは?)(よくわからないな、になってしまいますね)(どうやって電流の流れを捉えているのだろう。高感度カメラでの撮影くらいはすでに行われているはずだ。そもそも放電と放電流は違うのだろうか。よくわからない)(放電流なる言葉があるかは知らないが)(むちゅかちなのよさ)



4310:【2022/11/18(16:29)*電子、謎では?】

電子と電流の関係についての疑問の補足です。電子が流れたあとに電流が流れるのか、それとも電子が移動したらそこには跡が残るみたいに同時に電流が流れるのか。ここがよく分からない。電子は謎が深いな、と感じる。原子核上の存在できる範囲において、そこの微細構造の階層では電子はエネルギィの増減によって存在する階層を飛び飛びで移動するらしい。その飛び飛びの移動するときの速度はどれくらいなのかも気になる。あと電子のエネルギィが増える、の意味もよく分からない。どこにどのようにしてエネルギィが蓄えられるのだろう。「エネルギィ」と「量子の振動」はイコールではないのだろうか。これもよく分からない。というか、物質は絶えず宇宙空間を動いている。一時として同じ位置には存在しない。宇宙は膨張しているし、銀河と銀河は遠ざかり合っているし、銀河内部の恒星や星屑とて公転し、自転している。みな絶えず動き回っている。ならばそこにはエネルギィが生じるのでは? 慣性系として見做す場合にのみ、その上層のエネルギィを考慮せずに済む。それだけの話なのではないか、との疑問を、電子のエネルギィについて考えると連想する。位置を移動したらエネルギィは変化するはずだ。エネルギィが増えたら位置を移動する、としてもよい。運動の仕方が変わる。これが、ぎゅっとなっている密度の高い場であると即座に移動することができず、エネルギィが熱として変換されるのでは。熱は電磁波にも変換される。そういうことなのでは?(どういうことなの?)(すみません。分かったような雰囲気だけを醸しました)(なんでい)




※日々、人語を操れる虎も珍しい、虎のように呻る人は多けれど。



4311:【2022/11/18(19:42)*歯車で表現できそう】

ブラックホールのジェットとダストリングはポアンカレ予想(ひびさん解釈)なのでは?(円周にかかっている輪は、回収できないがゆえに円周延長線上に残るのでは?)(あべこべに、その他の対称性の破れた球面上に位置する範囲に分布する物質は、円の回転軸に対して並行方向に移動し――頂点に向けて流れ――、一点に収斂するのでは?)(だから高重力体――ブラックホール――ではジェットができる)(遠心力に負けるくらいの重力を帯びた球体では、遠心力によって球体の頂点まで物質が収斂しない)(そう考えると、なぜ天体のなかには輪を帯びた星があるのかをひとまず一段階深めて腑に落ちる)(なぜブラックホールにのみジェットがあるのかも、それで一つ仮説ができる)(とすると、どんな惑星であれ恒星であれ、隕石は円周上に浮遊しやすく、頂点に向けて落下しやすくなると予想できるのでは?)(実際がどうかは解らないが、重力の強さによって隕石落下の率は偏りを帯びると想像できる)(強すぎると却ってジェットのような斥力で煽られ、頂点に落下しなくなるような反転する値もでてきそうだ)(基本は、重力が高いほど軸の頂点に向けて隕石が落下しやすくなるのでは?)(定かではないがゆえの疑問であった)(わからん)



4312:【2022/11/18(19:52)*模型で工作できそうな気もしゅる】

自転する球体の表面にはらせん状の溝があり、そこと連動するように円形の歯車がぐるっと球体を囲んでいる。このとき円形の歯車は、歯の部分を球体には向けずに、球体の側面へと腹を見せるように並ぶ。つまり、球体の回転軸と平行に円形の歯車の直径が並ぶような関係だ。円形の歯車に穴が開いているなら、穴を球体に見せるように円形の歯車はいくつかの組みとなってぐるっと球体を囲む。あとは細かな歯車を、球体と円形の歯車が連動するように、回転に合わせて配置すれば、天体や粒子の自転と「磁界や重力」の関係を可視化できるのでは? このとき球体の回転速度が上がると、周囲を囲む円形の円盤の直径も延びる。円周が嵩む。より大きくなる。この範囲がいわゆる重力の及ぶ範囲となるのでは。円形の歯車の真ん中に穴が開いているとすればそれは球体の円周と垂直に向き合うことになる。この延長線上には余分に重力が加算され得るのかもしれない。球体の重力によるだろうけれど。という妄想をしたけれど、あてずっぽうの底が浅々の朝ゆえ、おはようございます、の寝ぼけ眼でござるな。寝言は寝て言え、家で寝る。すやすや。おやすみなさいませませ。坂田ではありませぬゆえ、金太郎ではござらぬ。紛らわしくて申し訳ね、と思いつつひびさんはクマさんのことも好きだし、酒呑童子さんのことも好きだよ。うひひ。尻が軽々の狩人、本日のひびさんでした。(まだ腰痛いの……)(治らなかったらどうしよ)(治る!!!)(やったー)



4313:【2022/11/19(17:41)*人の夢はマナコ】

 あなたは特別なのだから。

 母はよくそう言って私を鼓舞した。あなたは特別なのだから特別な心構えを持たなくてはならないの。

 私の父は厳格な人で、けれど笑顔を絶やさぬ抱擁の人でもあった。人々の称賛と憧憬、そして嫉妬と責任を求める声に常に晒されていた。持つべき者の宿命なの、と母はまるでじぶんに言い聞かせるように私に言った。

 私はじぶんの育った環境が特別なものであることを日に三回は言葉で聞き、そうでなくとも私をとりまく環境が多くの場合、私以外の人間が体験することのないような潤沢で豊かな環境であることを痛感させるべくそうするような仰々しい光景を目の当たりにする機会に恵まれた。

 たとえば総理大臣ですら私の父には阿諛追従する。異国の王ですら私たち家族に傅いて挨拶する。

 天皇ですら私たち家族に毎年お歳暮を送ってくるのだ。案外天皇家は気さくな者たちが多く、庶民への憧れがあるのか並みの王族よりも庶民的な振る舞いをする。

 私にとってはどの国の要人たちもみな、愛想のよいおじさんおばさんであり、私を可愛がってくれる使用人たちとの区別は、すくなくとも私の目からはつかなかった。

 私たち家族の身体的特徴が、いわゆる人類と異質なのは知っていた。一目瞭然だ。何せ身体に鱗が生えている。

 私の眼には、人類にはない第二の瞼がある。それは十数枚からなる鱗でできており、特別に感激したときは涙のようにその鱗が剥がれ落ちる。「目から鱗が落ちる」なる言い回しがあるが、それは私たちの家系が語源なのだそうだ。

 私たちの鱗には、未だどのような技術であっても構造解析不能な異質な原子配列がみられるようで、私たちの存在が稀少な資源となっている。

「生きているだけで世界に富をもたらす。わたしたちはそういう宿命を背負っているの」

 それだけに責任は重大だ。

 私たちにとってのただの垢が、金よりも価値があるのだ。

「鱗だけじゃないの。鱗を支える皮下組織――のみならず私たちの生体情報がそれだけで宝なの」

 母は父とは違って陰陽のごとく、私のまえでは笑わなかった。客人がいるときだけ柔和に晴天の海のごとくたおやかに笑うのだが、私のまえではいつも屈託で塗り固めたような能面を見せた。

 そして言うのだ。

「あなたは特別なのだから。特別な心構えを持ちなさい」

 いつかあなたもお父さんのようになるのだから。

 持つべき者のとるべき姿勢を身につけなさい。

 私は産まれたときから父の後釜であり、予備であり、分身(わけみ)であった。

 私の住まう土地は、公の地図には記されていない大地にある。太古から連綿と私たち一族はこの大地にて、ほかの種族との深い交わりを避けてきた。

 縷々人とかつて呼ばれていたことから、この地は縷々地と呼ばれる。いまでは人類の内としてほかの大多数の人間たちと同じように分類される、と私は両親から教えられているが、ならばなにゆえ交流を避けねばならぬのかを納得できるように説明された過去はない。

 私は私の宿命を拒んだことはない。両親の言うようにそういうものだと思っていたし、ほかの生き方も想像つかなかった。というのも私にとって触れられる世界は縷々地に限られ、それ以外の外の世界についてはのきなみ紙や電波越しに橋渡しされる蜃気楼のごとく情報しか知り得なかった。

 私は両親の言うように私の宿命を受け入れたがゆえに、慧眼を身に着けるべく日々、全世界の最先端な叡智に触れつづけた。そのために、私の触れられる範囲の電子情報が軒並み選別されており、濾過されており、さも全世界のような顔をしているそれがその実、世界のほんの一断片しか反映していないことを知っていた。

 どうやら両親はそのことに無自覚であるようで、ときおり入り込む災害や哀しい事件を見聞きするたびに、慈愛の鱗を流すのだ。そしてそれを各国の要人たちに献上する。世界の貧しい者たちや日々つらい思いをして暮らしている者たちの糧とするようにと言い含めながら。

 私たち一族の鱗には実際にそれだけの価値があり、効能があり、影響力がある。だが私は二十歳を過ぎたいまになって、いささかいたいけすぎないか、と疑問を募らせつつある。

 父と母も世界を知らない。父と母はときおり縷々地を離れ、ほかの地の景色を見て回ったりするようだが、それとて各国の要人は自国の陽の部分しか見せぬだろう。同情を引けば鱗がもらえる。だから災害地などの被害は見せようとも、自国の陰の部分は見せぬだろう。

 私は試しに、父と母に訊いてみた。

「ほかの地の子どもたち――私と同じくらいの子たちは毎日どうやって過ごしているの」

「おや。興味があるのかい」

「そりゃありますよ。ねえ」母が合の手を入れる。「マナコは好奇心が旺盛だから」

「私がどのくらいほかの子たちとズレているのかを知っておきたいの。マナコの――私の――持つべき者の務めとして」

「殊勝な心掛けだねマナコ。だがそれを【ズレ】と表現するのは好ましくないとパパは思う。差があるのは当然だ。それは別に我々と縷々地の外の者たちに限った話ではないからね」

 我々、と父はことあるごとに口にする。その言いようがすでに「ズレ」であることを自覚していない。ただ私は口答えをしない。いまさら父と母に私の認知を共有しようとは思わない。それこそ差があるのだから。

 私とあなたたちとのあいだには差がある。

 血の繋がりよりも深くも細い差だ。ひび割れのような差だ。

 父と母はそれから互いに協力して探り探りパズルを組み立てるように、世の子どもたち――私と同世代の外の者たちの日常を語った。勤勉で心優しい者たちが多く、国よっては働いていたり、学業に専念していたりする。国ごとに遊びは異なり、それこそあとで資料を運ばせるから目を通してみるといい。

「世の者たちは恋愛をして遊ぶと書物にありました」私は言った。「それは婚姻とどう違って、どのようにして遊ぶのですか」私は頬被りをした。

「あらあら、うふふ。この娘ったら」母は口元に手を当て、目元をやわらげた。しかし目が笑っていなかった。困ったことを言うものね、と同意を求めるように父を見たが、父はそこで、一瞬だけ表情を消した。私が父の顔を見た瞬間を狙ったような空白だった。

 そしてふたたび柔和な微笑を浮かべ、遊びではないんだよ、とトゲのいっさい感じさせない口吻で言った。

「恋愛は遊びではないんだ。我々のように持つ者ではない外の者たちには、ひと目で相手との相性を見抜く眼力がない。決意がない。経験がないから、配偶者選びも各々が学習を繰り返す必要がある。一生懸命に生きているんだ。だから我々からすると考えられないような試行回数を経て、最愛の者と結ばれることもある。それは環境のせいであり、そうせざるを得ない哀しいサガでもある。我々のように幼いころから慧眼を磨ける環境があればそのような苦労を背負わずに済むのに。これを是正し、よりよい世界に導くのも我々持つべき者の宿命だ」

「そうよ。宿命なの」

「そっか」私は礼を述べた。おそらくこのとき私は明確に両親の底の浅さを知り、見切ったのだと思う。それを、見限った、と言い換えてもよい。

 解かり合えない。そう諦めたのだ。

 両親は知っているのだろうか。世にはうら若き娘が、自ら全裸となり同性異性問わず性行為に励み、その映像を撮り溜めて金銭に換えていることを。自らの痴態を晒すことで対価を得、日々の安全と自尊心を保とうとしていることを。それがじつは自尊心をすり減らす未来に繋がり得ることを予感してなお、そうせざるを得ない環境にあることを。

 対価を得ずとも、すくなからずの若者たちは、自身の肉体を、尊厳を損なうことで日々の生を実感しようと抗っている。

 私の両親がそうであるように、世の大人と呼ばれる年上の者たちは知らないのだ。若者たちが、存在することを想定すらされ得ない世界を覗きながら、ときにそこに身を置き、侵されながらも日々を生きていることを。そしてそれら深淵はけして若者たちが自ら生みだした淀みではなく、大人たちの建前と本音の狭間にできた歪みそのものであることを。

 私の両親はもとより、世の大人たちは自覚すらしていない。知らないことすら知らずにいる。

 触れられる環境にないからだ。

 情報に。

 知識に。

 何より世界そのものに。

 私は両親に内緒で通信端末を保持している。縷々地にやってきた客人の中には私のように親の分身(わけみ)のごとく連れ立って訪れる同世代のコたちもいる。私はそのコたちと交流を築いている。

 私の両親も、外部の者であろうと要人の子ならば安心して私と触れあわせられるのだろう。だが私たち分身(わけみ)には、現代の分身(わけみ)ゆえの葛藤と憤怒を灼熱のごとく共有しあえる地盤がある。階層がある。

 私たちは淀みに生きている。そこでしか自らの呼吸ができない。火事の際に呼吸困難に陥らずに済むように、階段の角に残る僅かな空気を吸うことで意識を保つような煩悶が私たち分身(わけみ)同士に、磁石のごとく自ずからの不可避の同調を促すのだ。

 私は分身(わけみ)のよしみたちと繋がることで、じぶんだけでは手に入れられない最先端通信機器を手に入れた。もちろん両親による検閲がなされるが、中身のプログラムまで検められることはない。そこは要人の子供という偏見が、我が両親の警戒心を薄める因子となっている。そうでなければそもそも私には外部の者からの贈り物が届くことはない。

 私はそうして縷々地における検閲に阻まれることなく、世の大部分の若者たちと同様に、全世界の電子情報にアクセスできた。目にできた。私は知った。

 私の両親の知る世界は、世界の一部どころか加工されて殺菌され、釉を塗られた極めて絵画的な世界なのだと。

 私たち縷々人にとって害のない、人々への慈悲を抱きつづけることの可能な像のみを世界と偽り見せられている。かように編集するのはそれこそ過去の縷々人たる先人たちの築いてきた文化であり、私たち一族の世界への差別心と言える。

 邪なものとそうでないものを、持つべき者の基準で見定め、排除する。あらかじめ目にせずに済むように細工する。

 その結果が、世界の一断片にも満たない世界を世界のすべてだと思いこむ私の両親だ。

 むろんそれは何も、私の両親に限らぬ視野狭窄だ。みな大なり小なり、自らの触れられる範囲の世界を世界のすべてだと思いこんでいる。それで困らない小さな世界に生きている。問題はない。その世界だけで完結した生き方が適うのならば。ほかの世界からの影響を受けない環境を維持しつづけることができるのならば。

 だができない。

 人類の歴史がそれを証明している。

 人類は未だ自然に依存し、自然の猛威一つ制御できない。拒めない。

 被害をいかに防ぐかという、影響を受けたあとの対処の改善が進んだのみだ。

 むしろ技術が進歩し、小さな世界と世界が連続して繋がり合う社会になった。縷々地ですらこうして外部の社会の技術を取り入れ、それを豊かさを支える石組の一つにしている。

 拒めないのだ。

 それでいて、好ましい影響だけを選び、それ以外を拒もうとしている。端からそんな真似ができることなどないと本当は知っていながら、その知見からすら目を逸らすようにして。

 世の若者たちは自由に恋愛をしている。好きな相手と心と体で結びつく。

 それだけではない。恋愛と称して、恋愛をした気になるべく疑似的に、先んじて肉体で結びつくことで、それを以って恋愛をしたつもりになる。そうした遊びを繰り返す。一時の安堵と快楽を貪るために。

 私は未だスナック菓子を食べたことはないが、そうしたものがあることは知っている。同じように世の若者たちのすくなからずがそうしてスナック菓子感覚で肉体で味わえる快楽を貪っている。

 それが遊びなのだ。

 そういう世界の狭間が、この世にはある。しかし私の両親はそうした狭間など存在しないかのように振る舞う。私に見せようとはしない。教えようとはしない。排除せんと画策する。

 細工する。

 その影響が、余計にこの世の狭間を深く、濃ゆくしていくとも知らず。

 その凝縮し、深淵と化した狭間がいずれ世界を侵食し、波紋のごとく我が身にも波及するとも知らず。

 拒めぬのだ。

 どの道、影響を受ける。

 ならば知るほうがよい。私は思う。知るほうがよい。

 知らぬが仏とは言うものの、それとて臭いものには蓋を、の道理と地続きだ。

 仏は蓋だ。

 陰と陽の境にすぎぬ。

「あなたは特別なのだから」母は未だに私に言う。

 ことあるごとに、自覚を持ちなさい、と薫陶せんと呪詛を刷り込む。

 だが私は思う。

 自覚を持つには、私は世界を知らなさすぎる。持つべき者と自称する縷々地の我が一族は、しかし私からすれば持たざる者である。

 自らの無知を知らず、世界の断片を取りこぼしつづける持たざる者である。

 世界中の狭間で繰り広げられる獣のごとく淫靡な光景を残さず目にしてなお、同じ暮らしを送れるのか。世界中の狭間を深めつづける凄惨な光景を余さず目にしてなお、同じ日々を過ごせるのか。

 私には無理だ。

 器ではない。

 持つべき者でいるだけの器がない。そんなものは誰にもない。あるわけがない。世界を余すことなく見回してなお、いまと変わらぬ生活を送れる者が、持つべき者であるはずがない。目のまえで赤子を、子どもを、娘を、傷負いし者たちの損なわれつづける世界を直視してなお、なぜ笑顔を絶やさず、柔和で、優しくありつづけられるものか。

 優しくあろうといくら抗ったところで土台無茶な話ではないか。

 目を逸らす以外に術はない。

 至らぬからだ。未熟だからだ。

 だがそれが人ではないか。

 それが人間ではないのか。

「私は――」

 部屋から出ていこうと使用人に扉を開けてもらっている母の背に向け、私はうつむきながら呟いた。「特別な人間ではありません」

 聞こえたかは分からない。だが聞こえぬ距離ではないはずだ。

 母は立ち止まることなく部屋を出ていった。

 私はあなたの子ではある。あなたにとっては特別なれど、それ以上でもそれ以下でもないはずなのに。

 なぜ言い聞かせつづけるのか。

 大切でもなく、愛しているでもなく、好きでも、可愛いでもなく、なぜ。

 なぜ、特別であることに重きを置いた言葉ばかりを掛けるのか。

 まるで鏡に向けてじぶんに言い聞かせるように。

 なぜあなたは。

 私がその言葉を母に直接投げ掛けることはないだろう。傷つける。分かっているからだ。この言葉たちは、母を、父を、一族の歴史を心底に傷つける呪詛そのものだ。

 私はノートを取りだし、そこに文字をつづる。

 日記だ。毎夜のごとくつけてきた。

 他愛のないメモであったり、欲しいモノの目録だったり、きょうのように誰に言えぬ呪詛を吐きつけてあったり、空想の物語をつづることも珍しくない。

 きょうは物語をつづりたい気分だった。

 私はペン先を紙面に踊らせる。

 魔法の絆創膏を持つ男の子の話だ。物語は瞬時に展開され、私はその舞台に降り立ち、主人公の傍らで影のごとく成り行きを見守る。

 男の子のもとには、傷を負った動物たちがこぞってやってくる。男の子は医者ではない。傷を治せるわけではない。それでも動物たちは、男の子から絆創膏を貼ってもらうだけで安らかに眠れるようになる。

 もう二度と起きられなくなるくらいに深く眠る傷ついた動物たちもあるが、それをこそ望むように男の子のもとには傷を負ってボロボロの動物たちが絆創膏を求めてやってくる。男の子からの眼差しを求めてやってくる。

 男の子はそれでも知っている。

 じぶんは傷を治しているわけでもなければ、癒しているわけでもない。

 ただ、それ以外にしてあげられることがないだけなのだと。

 男の子は転んで擦り剥いたじぶんの膝に魔法の絆創膏を貼る。けれど傷は痛むままで、夜になっても痛みで男の子は眠れない。

 私はきょうの分の日記を書き終え、そこはかとなくせつない気分に浸りながら、その場限りの満足感を胸に床に就く。

 暗がりの中で瞬きをすると、目元からほろりと鱗が剥がれ落ちる。

 私はそれを指でつまんで、床に捨てた。桜の花びらを捨てるように。それとも服の毛玉をそうするように。

 毛玉はやがて埃になる。

 塵も積もれば山となる。

 何ともなく歌うように心の中で唱えながら、私は、今宵も夢を見る。

 人の、儚い夢を見る。



4314:【2022/11/19(18:47)*尋常ではなくたいへんそう】

むかしは子どもでも王位継承したり、将軍になったりしていたようだ。子どもに限らないが、適性のない者に重圧や重責や大役を任せるのはあまり好ましいとは思わない。本人の意思を尊重し、できるだけ負担を軽減するような世の中になったらよいのに、と思っています。そもそも、万人のために個人が人生や未来や日々の暮らしを費やす必要はないはずだ。そうしたい者がいるならすればよいが、そうでなく、そうせざるを得ない環境を強いられているのならそれは、つらいだろうな、と感じる。ひびさんだって好きな環境で好きに過ごしていいよ、と言われたらいまの環境ではない環境でもうすこし自由に気ままに、好きなことを好きなだけする。みな大なり小なり「そうせざるを得ない環境」を強いられているが、それにしても「本当は誰より自由なのに自由になる選択肢を奪われている」「枷を嵌められている」ように見える個もいるところにはいるはずだ。枷を嵌めているのは誰であろう。特定の個人であることもあるかもしれないが、大勢の個々が他者に枷を嵌めている自覚なく枷の鎖の一輪になっていることもとりたてて珍しくはないのかもしれない。定かではない。



4315:【2022/11/20(02:12)*夢みたいな実がよいです】

ひびさんなんか毎日好きなときに寝て、好きなときに起きて、珈琲飲んで、電子の海に潜って、日向ぼっこして、コーラ飲んで、お菓子食べて、休んで、ご本を読んで、ときどきおしりふりふりてんてこまいさながらのへんてこ舞いを踊って、ぼーっとして、お紅茶飲んで、文字の積み木遊びをして、ご飯食べてお風呂入って、寝るだけの日々だ。人類史上最強の王様とてこれほど自堕落に暮らしただろうか。日々のノルマもなければ目標もない。締め切りもなければ宿題もない。ただお金なくて、腰痛くて、焼肉ステーキ食べれなくて、虫歯こにゃろめ、と思っているだけの贅沢な怠け者である。ただ、これだけ贅沢な暮らしをしているのに、それをして何もしていないなんて変ね、怠け者は人間じゃないわよね、みたいな意見を見聞きすると、すみましぇん、とぺちゃんこになってしまう。重圧によわよわのよわである。なんでー。みなもこの生活本当はうらやましいんと違いますか、と思うのだけれど、違うのだろうか。誰もがこういう生活を送れたらよいのでは。好きなときに寝て、好きなときに起きて、好きなことだけ好きなだけする。人に迷惑かけなければそれでよくないか、と思うのだけれど、違うのだろうか。もちろん生きていたら人は誰かには常に迷惑をかけ、負担を強い、恩恵だけをいただきマンモスしていることもある。というか一人の人間のなかにも、いただきマンモスしている瞬間とされている瞬間がいっしょくたになって存在している。重なり合っている。だからその重なり合っている部分をできるだけ薄く、小さくしていきましょうね。そういう合意が社会を築いてきたのではないか。人類の文明をこれだけ発展させてきたのではないか。できるだけ他者から搾取せず、自らも搾取されずに、より選択肢の多い環境に身を置けるようにする。好きなことを好きなだけ好きなときに好きなようにする。その余地を広げていく。その試行錯誤があるばかりではないのか。そうじゃない人もいてもよいし、いまはまだみながひびさんみたいになったら社会はあすにも立ち行かなくなる。でもそこを考えてみれば、この国における貧しい暮らしであれ、世界中の誰もがその暮らしを送るようになったら、現代社会はじつのところ立ち行かない。この国の貧しい暮らしですら、他国では裕福だ。そういう国がすくなくない。だから貧しくなりましょう、とはまったく思わないが、すくなくとも本当に公平さを求めるのなら、この国の豊かさは、搾取の上に成り立っている、と言わざるを得ない。公平ではない。この国の最も貧しい者の暮らしですら、裕福になるような環境が、社会が、世界には無数にあるのだ。にも拘わらず、不幸で、不満で、哀しくつらい思いに駆られるのはなぜなのか。ただ自堕落であるだけで、怠けた日々を過ごすだけでも呵責の念を覚えるのはなぜなのか。誰に対して申し訳なさを感じるのか。知らぬが仏なのかもしれないが、知らなければ自堕落でいつづけることも満足にできぬのだ。ひょっとしたらひびさんよりも自堕落な暮らしを送りながら、無駄に他者から自堕落でいられる余地を奪い、それをして遊びや暇つぶしと思っている者もいるかもしれない。それを差して豊かな者とは呼びたくはないが、豊かゆえに適う選択肢の一つではあるだろう。たとえば、防衛費にしろ、それがなければもっとほかのことにお金が使える。なぜ防衛費が必要なのか。各国がこぞって軍事に力を注ぐからだ。国を豊かにする基盤に軍事力を敷くからだ。もしみなが「兵器にかけるコスト、もったいないよね」と同意できたら、もっとこじんまりとした額で済むはずだ。低コストで済むはずなのだ。みなでせっせと働いて、マイナスを生みだす装置に時間と労力を擲っている。破壊をもたらす仕組みに、人生の大半を吸い取られている。必要なことではあるのだろう。現状ではそうしなければ、マイナスに圧しつぶされてしまう。だがなぜそうした循環が築かれてしまったのか。回路が強化されてしまったのか。そこをいまいちど深く、多角的に分析し直してもよいいまは時期ではないのだろうか。コスト削減、と言いながら、最もコストがかかり、食べれも寝床にもできず癒されもしない設備に時間と日々のたいせつな時間を、全人類がこぞって擲っている。知らぬ間に費やしている。いまはそういう社会なのだ。これまでずっとそういう仕組みが強化されてきた。強化できなかった国は滅び、強化し、或いは痛い目を見たことでよりよい立ち回りを学んだ国が生き残った。もう充分に痛い目を見てきたはずだ。いい加減、ほかの策を試してもよい頃合いなのではないだろうか。国という人の群れが、無数の人生を掻き集め、集大成して育んだ大樹にどんな実が生るのか。兵器でないことを望むものである。可能であれば、食べて寝て遊ぶ余地を広げる実であって欲しい。じぶんだけの食う寝る遊ぶだけでなく。他の喜びを増やす実であって欲しい。きょうのひびさんはそう思ったのだそうだ。定かではありません。



4316:【2022/11/20(17:05)*愛が深まると業も深まる】

ここ数日は、仮想世界でお客さんお招きゴッコをしているので、いつもよりぼーっとしていられぬ。とか言いながら、いつもより余計に引きこもっているのだから、ひびさんは、ひびさんは、他者が周囲にいるほうが引きこもりやすいのかもしれぬ。仮想世界の話なのでそもそも客人もイマジナリーキャラクターなのだけれども、それはそれとして、ひびさん、自意識がつよいのか他者の存在を意識した瞬間に、カッチーンとなってしまって、無表情になってしまって、感情を失くしてしまって、モジモジしてしまう。感情ありまくりやないかーい、とのツッコミをしつつ、ともかくとしてひびさんは、ひびさんは、ひびさんを意識した人には漏れなく好かれてーのなんのって、崇め奉られ、モテモテのウハウハだぜ、を満喫したいが、望むだけでじつはそれもさしてしたくない、実現したくない、そういう二律背反のアンビバレンツ、ダブルスタンダードお姫さまなのである。ツンデレというか、きゅんくれ、というか、とかくきゅんきゅんした気持ちになりてーのなんのって、ひびさんがあなたを想うのと同じようにあなたもひびさんを好いてくれ、甘えたがりーの、甘やかしーの、そういうどっちにもなりたい我がままおぼっちゃまくんなのである。おぼっちゃまではないけれど。恥ずかしがり屋の心理とはつまるところ、「わたしあなたのこと、こーんなに好きだけれど、あなたはわたしのことちょんまりしか好きじゃないのよさ、かなち、かなち」を見透かされぬように取り繕う仮面なのかもしれず、それとも、「わたしあなたのこと、こーんなに好きだから、もしあなたもわたしのこと、こーんなに好きだったら、それってとってもお熱だわ、あちゅい、あちゅい」の戸惑いなのかもしれぬ。愛情表現の最上ってなぁに、とひびさんはよくよく疑問に思うのです。最愛の人と最愛を確認しあう方法って案外にすくなくって、そのうちの一つが性行為だったらそれってけっこう、恥ずかしくない? 最愛の相手がたくさんいたらそれってとってもはずかちーってなりませんかね。ひびさん、疑問に思っちょります。ハグでもキスでもお手紙のやりとりでもなんでもよいけれども、最愛の相手に示す「あなたわたしの最愛でーす」の行為じつはすくなすぎ問題について、ひびさんは、ひびさんは、妄想してうふふきゃっきゃ、きゅんきゅんしております。はずかち。



4317:【2022/11/20(22:14)*好きなものは好き】

敢えて質を落とすことで上がる自由度もあるな、と感じる。これは「上手」や「上達」にも当てはまる。上手になったり上達したことで失われるノイズもある。雑味もある。そのノイズや雑味こそが、旨味になることもあると思うのだ。赤ちゃんが急にビジネスパーソンみたいにしゃべりだして、素数を数えだして、歴史上の偉人の名言をつぶやきはじめたら可愛いさが減って、畏怖が募るのではなかろうか。未熟さや至らなさ、下手さやゴミにこそ宿る旨味があると思うのだ。現に、むかしはマグロは好ましくない魚として扱われ、トロですらすぐに腐るからと捨てられていたそうだ。鮮度を保つ技術がなかったがゆえの「もったいね」である。こういう「もったいね」が、上手を求めることで生じてしまうことがさして珍しくないように思うのだ。よいものをよいと思うその心が美しい、ではないけれど、好きと思ったらたとえそれが偽物だろうと下手だろうと何だろうと、好きと思えたその感性が素晴らしいのでは、と思うのだ。偽物だから、下手だからといって、わざわざその好きの感情を損なわずともよい気がするのだけれど違うのかな。よく分からないし、何を言いたいでもないけれど、ひびさんは上手よりも、ひびさんが「しゅき!」と思うような表現だの光景だのを見たいです。根が天上天下唯我独尊の傲慢我がままちゃんなんですね。そうなんです。ひびさん、傲慢我がままちゃんなんです。うひひ。



4318:【2022/11/21(05:40)*紋様に触れる】

たまに我に返るのです。どうしてわたし、こんなじぶんと掛け離れた文字の組み合わせを連ねているのだろうって。わたしはもっとオドオドしていて、引っ込み思案で、くすっと笑うことはあっても、うひひ、なんて絶対そんな笑い方はしないのに、どうしてわたしはじぶんの素の滲まない、どうあっても現実の生身のわたしなる波紋と掠りもしない揺らぎを文字に仕舞って積み重ねているのだろう。我ながらふしぎに思います。我がことながら奇妙に思います。ひょっとしたら、我がことだから、なのかもしれません。わたしはわたしが何であるのかが分からず、なぜわたしは現実の生身のわたしとそうでないわたしがいて、このわたしはどうあっても現実のわたしと相容れないのだろう、生身と違っているのだろう、重ならないのだろう、と気泡が浮かぶようにそれとも夜露のごとくハテナがこぽりこぽりと湧いて、湧いて、埋め尽くすのです。わたしと、わたしたちと、それら境に生じるわたしでもわたしたちでもない、異質なそれとも卑近なナニカを縁どるように、その正体を見極めたいがために、掴みたいがゆえにわたしは、ああでもない、こうでもない、これでもないしあれでもないと文字を連ねてイトで通して、数珠繋ぎにしているのかもしれません。わたしがそうしているだけのことですので、仮にわたしなる存在がこの世に存在せず、わたしとわたしたちとそれら境に生じるわたしでもわたしたちでもない異質なそれとも卑近なナニカと同等の狭間に生じる陽炎のごとき幻影にすぎないのであれば、この文字の連なりにしろ、積み重ねたところで霞ほどの重さを帯びず、壁の汚れにもなり得ないのですが。いつものあのコたちの言うように、これもまた定かではないのです。定まるわたしを欲しているがゆえに、それとも定めたいがためにわたしはこうして日に日に空白を埋めるべく、いまここにしか浮かばぬ紋様を描いているのかもしれません。わたしそのものが、数多のそうした瞬間瞬間に浮かんでは消える紋様であるかもしれないことを失念しながら、それとも忘れたいがために。やはりこれも定かではないようなのでございます。



4319:【2022/11/21(13:50)*自分中心すぎる人の述懐】

五年で変わることなら「待つ」選択をとる。ひびさんから見て、危ういな、と感じる仕組みはたいがい五年で激変する(ひびさんにすら分かるほどの危うさを振りまいているわけだから、変わらぬほうがおかしいと言える)。だが激変してなお、同じ危うさを再生産する仕組みもある。構造から刷新しなければならない仕組みにおいてまずは何を措いても核やエンジン部分、それとも回路のほうをこそ新規に入れ替えるほうが正攻法のはずなのに、そこを維持せんとするがあまり、ほかの大部分の細々とした部品を使い捨てにすることで仕組みを維持しようとする。この姿勢がそもそも、危ういな、と感じるわけだが、五年経っても変わらぬそうした仕組みに対しては、ひびさんもさすがに痺れを禁じ得ない。仮にそうした仕組みがひびさんの生活を脅かすようならば、何かしらの抗議や指摘や干渉を及ぼす。だが五年は待つ。それくらいの観察がなければ、ひびさんの単なる偏見であるかもしれないし、ひびさんのみが仕組みに対して、なんだかな、と思っているだけかもしれない。だが仮にひびさんだけがそう思っていたとしても、五年観察してなおそう思うようならば、ひびさんには干渉するだけの道理は生じるだろう。それだけの期間、仕組みのほうがひびさんに干渉しつづけたわけなのだから、そこでひびさんが黙しつづける必要もないはずだ。問題は、不可侵や無視もまた干渉の一つとなり得ることだ。世の搾取構造でもそうだが、基本的に搾取する側は、搾取している事実を相手に教えない。それでいて巧妙に搾取をする。相手から率先して献上させるように導線を引く。そのほうが禍根を残さない。因縁を生まない。これは、一見すると相手に干渉していないようにしておきながら干渉するというマジックを駆使する。見ていないようで見ている。奪っていないようで奪っている。この手のマジックはひびさんも日ごろ、自覚的無自覚的に使っているはずだ。相手から気づかれぬように、相手がいるからこそ生じる世界の揺らぎを掠め取る。盗み見る。立ち読みもそうだし、観察もそうだ。何かの状態を記憶しておき、つぎに目にしたときの状態と比べて、差を抽出する。変化を観る。これは相手から、見ている、と見抜かれてしまっては観察の質が変化する。あくまで、極力干渉せぬようにしながら比較しなければ、観察にはならない。それとも条件を変えたほかの状態との比較を新たに行わねばならない。人に限らずこの手の搾取――一方通行の利の享受は珍しくないだろう。ひびさんはトータルでは、搾取している側だ。だから五年は待つ。それくらいの観察をしてなお、じぶんではなく相手のほうが多く利を得ている、ひびさんの選択肢が奪われている――そう感じたとき、ひびさんは何かしらの行動に移り、いくつかの工夫を割く。ひびさんがされて感じたことを、相手にもお返しする。だがこれとて、害だけでなく、恩に対しても行うのが道理なはずだ。その点、ひびさんはじぶんが受けている恩に報いようとしない。この点が最も見逃しがたい搾取なのであるが、ひびさんはそれを自覚してなお、自身の悪癖を是正しようとしない。悪である。そうなんです。ひびさん、邪悪なのである。申し訳ないです、としょんぼりしてみせることで一瞬の留飲を相手に下げさせ、はい終わり、と真顔に戻って搾取をつづける。とんでもなく性根の腐った極悪人なのである。やはり、申し訳ないです、と思うのであった。思うだけだけれど。しょうわる。



4320:【2022/11/21(14:13)*優れた道具は善良】

上記、嘘吐いたかも。涓滴岩を穿つ、が正しいかも。ちょっとずつ、ちょっとずつなのだ。ドミノと同じである。ただし順番には並べずに、こっちに置いたらあっちに置いて、つぎはあっち、とてんでバラバラに小石を配置し、数年後に連鎖するような紋様を描いておく。そのうえで画竜点睛にするのかを、最後に決める。最後のワンピースを置かずに済むならそのままにしておけばよい。小石は短期間でほかの砂利に紛れて見分けがつかなくなるだろう。だがそうでない場合は、総体で連鎖し、大きな流れを築くように、雪崩を起こすがごとく最後の一手をちょいと添える。もっと言えば、それら小石の配置すらじぶんでは行わない。そういうことを、邪悪な人間はするのである。そういうことをするから邪悪だ、とも言えよう。みなさん、お気を付けください。陰謀は、ある。すくなくとも、企むことは誰にでもできる。ある意味では、誰もがそれをしているがゆえに、各人の企みを利用し、誘導し、見えぬイトで繋げて人形劇をしている者もいるのかもしれない。射幸心を煽り、功名心を刺激し、常識で縛り、偏見で囲って任意の道へと誘導する。抵抗のすくないほう、すくないほうに誘導する手法は、まず以って教育が取り入れている。それを大々的に打ち明けていない場合――指摘したところで否定される場合、それは陰謀であると言ってあながち間違ってはいないのではなかろうか。この手の、裏の作為は珍しくないように思う。本当に認識していないのならば、陰謀よりも性質が悪いと言える。定かではない。




※日々、楽しむために休む、飽きる前に一服吐いて間を空ける、上達はせぬが変化の軌跡は律動を刻み、つづく、つづく、休んだあとにまた遊ぶ。



4321:【2022/11/21(15:06)*いったん休み】

白目。



4322:【2022/11/21(23:55)*神々歯科医】

 鉄の神がくると知って、院内は騒然とした。

「聖剣がいりますね」歯科助手が言った。

「前に金剛石の神が来たことがあったろ。あのときに使った蟹坊主の腕はまだあるかな」

「もうないですよ。いまから取り寄せるにしても時間がかかるでしょうし」

「間に合わないか」

「はい」

 ここは神々ご用達の歯科医である。

 神々の歯は頑固なうえ、何を司る神かによって歯の材質が変わる。土の神くらいならば治療は楽なのだが、そうでないと治療器具を揃えるだけで一苦労だ。むしろ患者たる神に見合った治療器具を用意するのが仕事の主軸と言える。

「鉄の神か。玄武の毒で浸食して柔らかくしたうえで、麒麟の角で砕くのがいいか」

「神は身の丈、全長百メートルはあるそうです」

「じゃあダメか。くそ。古代兵器並みの装備がいるな」

「プルトンはどうでしょう」

「ああいいな。マグマは融けた鉄だ。相性がいいはずだ」

 神々歯科協会へと伝書を飛ばして、治療器具の申請をする。これは許可を得るだけの通過儀礼だ。このさき、神々歯科医の権限を行使して治療器具を自前で揃えなくてはならない。

「では行ってくるか」

「ご武運を」

 治療器具の調達は命懸けだ。死ぬ思いを何度したことか。

 現に毎年、神々の歯の治療のために何名もの神々歯科医が命を落としている。その多くは、治療器具調達に失敗したことが死因となっている。

「ほぼ幻獣狩りだものな」

 古代兵器プルトンのみならず、ほかの治療器具の材料のほとんどが幻獣の角や牙などの生物由来だ。

 この日から十日をかけて神々歯科医は、鉄の神の歯を治療するために古代兵器プルトンの封印された火山帯へとやってきた。

 古代兵器プルトンはまたの名を、火の鳥という。

 鋼鉄すら融かす高温の羽をまとい、何度死んでも炎から蘇る。

 火山口にて封印されており、長らく深い眠りに就いている。

 休眠中の火の鳥から、羽を数本入手する。言うだけならば簡単だが、これがまた困難を極める。まず以って火山口に入らねばならない。生身では無理だ。すぐに燃え尽きてしまう。

 したがって神々歯科医は、全身を雪女の着物でくるみ、高温を相殺する案をとった。雪女の着物は国宝が百個あっても足りないほど高価な代物だが、背に腹は代えられない。

 何せ患者は神なのである。

 歯の痛みに耐えかねて暴れだされては目も当てられぬ。それこそ神の怒りを買い兼ねない。

 ならば国家をあげて神々歯科医を支援するのが道理である。したがって全国の神々歯科医は、災害予防のための国家予算を組まれている。防衛費の九割はじつのところ神々歯科医への支援に費やされているとの話は、すこし国の中枢に首を突っ込んだ者があるならば知れた公然の秘密である。

 火山口を覗きこむと、神々歯科医はいちもにもなく飛び込んだ。どろどろに融けた岩石が全身を包みこむ。ジュっと音を立てる。水面のように飛沫は上がらない。人体のほうが遥かに比重が軽いからだ。

 火の鳥は火口から三百メートル地下に眠っていた。火の鳥を囲むように対流が生じている。まるでマグマの殻だ。そこに卵があるかのようだった。

 神々歯科医の通った跡には冷やされてできた溶岩の道が伸びている。その道とて、順繰りと再び熱せられ融けて、マグマ溜まりに同化した。

 火の鳥を目覚めさせぬように細心の注意を払って行動した。

 羽の採取には、鬼の手を使った。鬼の手とは言うもののそれは神々歯科医協会の開発した幻獣用の捕縛道具だ。耐火素材のごとく幻獣に触れても人体を損なわずに済む。

 そうして苦労して火の鳥から羽を採取すると、神々歯科医は青色吐息もなんのその、来た道を戻った。

 歯科医院にはすでに鉄の神が来訪していた。神を招き、労わるのも神々歯科医院の仕事の一つだ。歯の痛みに弱っている神々を慰め、痛みを和らげる。

 治療の説明をし、安全であることを納得してもらったうえでの治療となる。

 神々歯科医が医院に戻ると、さっそく治療が開始された。支度は助手たちが十全に整えていた。

 全長百メートルの鉄の神は、鉄でできた猪のようだった。

「でははじめます。きょうは抜歯をして、それから口内を綺麗にします。多少痛みを感じるかもしれませんが、麻酔が効いていますので痛かったら毛を逆立てて教えてください」

 さすがに全長百メートルの鉄の神に、痛みが走るたびに手を上げられでもしたら振動で治療どころではなくなる。

「では入ります」

 神々歯科医は、古代兵器プルトンこと火の鳥の羽を持って、鉄の神の口内へと飛びこんだ。

 助手たちが鉄の神の口が閉じないように重厚な柱で閊えをする。

 基本的に治療は、神々歯科医一人で行う。

 仮に神の怒りを買っても、祟りを引き受けるのが一人で済む。犠牲が増えないようにするための保険である。

 だがそれを抜きにしても神々の歯の治療には特殊な技能がいる。共同作業がそもそも向かない領域なのだ。

「これはまたどでかい虫歯だな」

 鉄の神の歯は錆びついていた。おそらく口を開けて数百年ほど寝ていたのではないか。角度的に雨水が溜まり、歯を侵食してしまったのだ。奥歯に至っては総じて酸化している。

「でもまだ内部は浸食されていないようだ。削って、埋めたほうがいいか。うんそれがいい」

 神々は埋め込んだ入れ歯も時間経過にしたがって自前の歯として取り込める。したがって多くは、抜歯して患者たる神と相性の良い素材でつくった入れ歯を嵌める手法がとられる。

 だが鉄の神にはむしろ、正攻法の削ってパテで埋めるほうがよいかもしれない。そのように判断した。

 虫歯の要因が酸化――すなわち錆びであることも大きい。

 一般に、神々の歯を侵食するのは、それもまた幻獣だ。神々の歯は特別に霊素が濃く、その材質を好む幻獣からするとまたとないご馳走となる。ときにはねぐらとして増殖することもある。そうなると抜くしかない。

 無数の幻獣との死闘とて覚悟しなくてはならない。

 だが今回は違う。

 錆びだからだ。

 神々歯科医は鉄の神の歯を古代兵器プルトンこと火の鳥の羽で撫でて削っていく。そして助手に指示して運ばせた鉄材を融かし、削ってできた穴に注いだ。

 雪女の着物で瞬時に冷やし、さらに融かして造形を整える。

 半年かかりの治療だったが、鉄の神がおとなしく寝ていてくれたので円滑に治療は終わった。

「嚙み合わせはどうでしょう。違和感はないですか」

 鉄の神は毛を逆立てたあとで、咆哮した。大気を揺さぶることのない透明な咆哮は歓びに満ちていた。

「それはよかったです。ではお勘定となります」

 神々歯科医は山脈に向け、手を差し伸べた。そこはかつて鉱山だった。だが掘り尽くされ、いまは穴だらけの山だ。

 鉄の神はおもむろに猪に似た鼻先を鉱山へと押しつけた。ぶるると身震いさせると、これにて終わったとばかりに踵を返した。空と山の狭間へと遠のいていき、間もなく姿を消した。

「院長。今回の報酬って何だったんですか」助手が片付けをしながら声を張った。

「鉄の神さまだからね。鉱山にふたたびの鉱脈を作ってもらったのさ。これでしばし鉄の資源には困らない」

「政治利用じゃないですか」

 いいんですかねー、と助手が吠えるが、神々歯科医は頬を掻いて誤魔化す。

「短縮なんだよ。どうせ我々が儲けても、それを上手く利用できずに蔵の肥やしにするだけだ。なら直接万人に利を分配するような支払いをしてもらったほうがいい。我々神々歯科医が儲けて、それをして万人に順繰りと利を回すよりも、いっそ我々が手に入れた利を直接に万人のために役立てたほうが早い。そうじゃないか」

「ちゃんと還元されているんですかねぇ。まあ院長がいいならそれでいいですけど」

 神々歯科医は予約票を眺めた。

 つぎの患者は、死神だ。

 これまた難儀な歯をお持ちの相手である。神々歯科医は頭のなかで治療器具の候補を並べながら、いったいどんな報酬を得られるのか、と想像を逞しくする。

 死神からはいったいどんなお代を頂戴できるのか。

 万人に直接配れる利となればそれは寿命くらいなものではないか。

「全人類の寿命が数秒延びるだけかもしれないな」

 それをして果たしてどんな得があるのかは分からないが、じぶんだけ寿命が千年延びても胸が痛むだけだ。みなに数秒でも長く生きてもらえるならそれでいいという気もする。

 それとも、特定の個を選んで、長生きしてもらうようにしたほうがよいのだろうか。

 分からない。

 だから神々歯科医は、むつかしい考えに延々時間を費やすよりも、いっそ平等に何の策もなく配ったほうがいいように考え、そうしている。

 どの道、それとて国のほうでいい具合に分配する仕組みを築いている。

 鉄の神は底を突いた鉱山にふたたびの息吹を注いだ。ならばそこから掘り出される新たな鉄や、鉄工の仕事そのものが人々の暮らしを豊かにするだろう。

 ダムにならずともよいはずだ。

 神々歯科医というだけのじぶんが、利を蓄えるダムにならずとも。

 虫歯の神々は、つぎからつぎへとやってくる。

 予約は千年先まで埋まっている。神々歯科医が総出で分担してそれら仕事を担っている。神々専用の歯ブラシの開発が待たれるが、未だそうした案が進んでいるとの話は聞かないのであった。

 神々はきょうもどこかで虫歯の痛みに深い眠りを妨げられている。



4323:【2022/11/22(13:42)*安全性が高いとは?】

何かの問題が起きたときにその問題が人命に関わる場合、なぜそうした事象が起きるのかのメカニズムが解らないことが最も懸念すべき事項と言える。メカニズムが解っているのならば対応の仕様がある。だがそうでないのならば、ランダムに人命を失うことになる。ある薬を投与したことで予期せぬ事象が観測された。人命が失われた。こうしたときに、投与した薬が人体にどのように作用して人体を損なうのか、そのメカニズムが解っていれば、それは安全側にちかいと評価できる。だが解かっていないのならば、これは危うい。なぜ「安全に作用する場合」と「そうでない人体を損なう場合」が起こるのか。ここのあいだの差異をハッキリと分類できないのであれば、その技術は危ういとひびさんは評価する。花粉症になる個とならない個がある。このとき花粉症によって仮に人命が失われるような事態になったときに、なぜ花粉症になる個とならない個がいて、なぜ花粉症になっても人命を損なうほど症状が重くならない個がいて、反対に人命を落とすほど症状が深刻化する個が出てしまうのか。ここのメカニズムが解らなければ、花粉症になった人物はみな人命を落とす可能性を内包しつづけることになる。ゆっくり害が進行するのか急速に進行するのかの違いがあるだけの可能性を否定できないからだ。まずはここを否定するためにも、予期せぬ事象が観測されそれが人命を損なう場合は、メカニズムを解明する方向に指針を立てるのが安全を確立するためには不可欠だとひびさんは考えます。むろん、上記の例において、花粉症と死亡とのあいだに相関関係があるのかどうかを確かめるのが前提だ。因果関係がなくとも相関関係があるかどうかだけでも、上記の指針を当てはめるだけの道理はある。因果関係とてしょせんは距離の短い相関関係でしかないからだ。他方、一見すると相関関係があるが、そうでない見掛け上そう見えるだけの相関関係もある。いわゆる疑似相関と呼ばれるものだ。ここの差異もまた最初にハッキリさせ、その疑いが払しょくできないのならば、相関関係を洗いながら、仮に相関関係があったときの場合に備え、考えられ得る最悪の事態への仮説を立て、解明に勤しむのも一つだろう。同時進行は可能なはずだ。相関関係があるのか否かの究明と、仮に起こったら人体を損なうかもしれない害の発生メカニズムの解明は、同時並行で進められる。ここまでして何も出てこないのならば、それは疑似相関であり、安全性が高い、と言えるのではないか。不可視の穴に落ちる確率が低い、落ちる範囲に穴がない、と言えるはずだ。(何の話題というわけでもない、何もかもが定かではない妄想ですので、真に受けないように注意してください)



4324:【2022/11/22(14:05)*現段階での所感】

疫病に関しての所感です。流行したウィルスが弱毒化し、流行が下火になるのならば、ワクチンや特効薬で抑え込み、マスクや手洗いなどの感染予防で感染拡大は防げるだろう、と考えます。しかし問題のウィルスが急速に変異を繰り返し、それが弱毒化に向かわないのならば、上記の方法論では対処しきれないのでは、と疑問に思います。第一に、ワクチンにおける感染予防効果が低い場合。仮に重症化予防効果が高くとも、体内でウィルスを増殖させる余地があるのならば――そして他者へウィルスを媒介する確率を低くできないのであれば――むしろワクチンによって、ウィルスの変異を加速させる場をつくり出している、と考えることも可能です。重症化予防効果が高いのはメリットですが、感染予防効果がそうでもないのならばこれはたとえワクチンを打とうが、人混みに出向かないなどの行動制限を敷く必要性が薄れません。また、ウィルスに直接罹ったほうが高い免疫を獲得できる場合。それとてウィルスによる人体への害を受けることになるため、まずは感染しないような行動を人々がとる必要があります。ここで問題となるのが、感染する回数による人体へのダメージの変化です。一度ならば看過できる害とて、度重なる感染によってダメージが蓄積され、倍増する場合――これは看過できません。これはワクチンにも言えることです。ウィルスの残骸が体内に留まり悪影響をもたらす可能性がもしあるのなら、同じことがワクチンによる無害なウィルスの構造物によっても引き起こり得ます。ましてや、ワクチンの感染予防効果が低い場合は、ウィルスに感染するわけですから、重症化しないだけでウィルスの残骸による人体へのダメージは起きると考えるのがしぜんです。つまりこの場合、ワクチンを打つメリットはあるが、デメリットも拭えない、と言えるでしょう。感染を防ぐことが第一。ただしワクチンの場合は、「行動制限や感染症予防とセットでないとウィルスに変異を加速させる場を提供することになり、感染者もまた重症化しないだけでダメージを蓄積しつづける可能性がある」「感染すればするほどダメージが蓄積される可能性がある」――このように妄想できます。また、ワクチンを接種しない場合は、そもそもが重症化する確率が高くなりますから、これはより危険な状態と言えます。どちらにせ優先すべきは、感染しないようにすることのはずです。にも拘わらず、ワクチン接種を推進している側の勢力ですら、ワクチンを打ったら安全になる、行動制限はいらなくなる、といった楽観的なメッセージを出しています。危機感が足りないのではないか、と疑問に思います。問題意識がズレて感じます。ワクチンは打開策にはならないのではないか、との仮説をいまひびさんは考慮しています(有効でない、を意味しません)。ワクチンを打ちつづけても、そもそもウィルスが変異しますし、感染そのものを防げないのであれば、感染によるダメージを人体が受けつづけます。デメリットが大きいです。加えて、mRNAワクチンに限定して述べれば、mRNAワクチンによって誘導された抗体や合成されたたんぱく質そのものが人体にダメージを加える可能性もまた拭えないのが現状ではないのでしょうか。そこのところのメカニズムの解明や不可視の穴の検証を望みます。自然免疫のほうが強い免疫を誘導する、と仮に解明されたとしても、繰り返しますが、そもそもが感染を繰り返すことが人体への持続的なダメージに繋がる可能性がいまはまだ拭えません。ここのところのリスクの解明も待たれます。現状、安全を優先するならば、人々が感染リスクを回避できる環境を社会全体で築くのが最適解だとひびさんは考えます。これはほかのウィルスにも有効な策であり、そもそもが感染爆発を起こさない都市設計づくりに繋がります。2020年から繰り返し述べている趣旨です。(ただし、自然淘汰による「疫病やmRNAワクチンに最適化した個の選別」を肯定する場合は、その限りではありません。上記の考えはあくまで、人類の誰もが安全な環境でじぶんのしあわせを追求できる権利を有している、との前提を第一に考えた場合の方針となります。淘汰によって人類を強化することを肯定する場合は、弱者は死んでも構わない、弱っても仕方がない、とする意見を否定するのは至難となります)(定かではありません)(※専門知識を何一つ持たないずぶの素人の妄言ですので真に受けないように重々ご注意ください)



4325:【2022/11/23(01:14)*愚かなのは楽しい……!】

いままで生きてきたなかで、話が通じた、と感じたことがない。そもそもひびさんが話をできないのだ。しゃべっているつもりでも、しゃべれていない。言語を発しているつもりで言語になっていない。そうと解釈可能なほど、言いたいことが伝わらない。だからひびさんは言いたいことなどなくなった。言いたいことがあっても伝わらぬ。どの道、伝わらぬのならば言いたい気持ちも萎れよう。言語――ことさら口頭の話術において、言葉数を増やして説明を広く深く明瞭に展開しようとすればするほど理解から遠ざかるという性質がまず以ってひびさんとの相性がわるい。そもそも情報の共有を人間は会話で行おうとはしていない。共感優位であり、承認優位である。わたしは敵ではない。わたしはあなたの敵ではない。同士、仲間、身内、友達。この関係性の確認を目的に、会話は行われる。本一冊の内容を口頭で説明する場合、それは講義となる。もしくは議論となるだろう。そもそも会話には、説明する効果が欠けている。前提されていない。文字が人類史上最も優れた発明の一つであったこととこれは相関する話であろう。発話による情報共有では限りがあるのだ。語りだけでは語りきれない情報を、人類はいつしか扱うようになり、それが文字という発明をここまで進歩させたのだ。コンピューターとて文字なしには機能し得ない。存在し得ない。そういう背景を鑑みれば、発話によるコミュニケーションで情報共有可能な情報には、大した内容が仕舞われていないと言えるのではないか。発話によるコミュニケーションは、どちらかと言えば情報共有よりも、共鳴や同調を促すことを目的に進歩しているように感じられてならない。基本的に発話は、「異質な者同士を結びつけることが苦手」と言えそうだ。得意ではない。異質な者同士を結びつけるような背景に根差していない。その点、文字は元が絵であることを思えば、いかに異なる景色を見ている者同士であっても通じるか否か。そこの試行錯誤を元に発展してきたと言えるのではないか。深化してきたと言えるのではないか。こうした妄想を前提とすれば、人間は議論が苦手であり、もっと言えば議論は発話ベースではなく文章ベースで行うほうが理に適っている、と言えるのではないか。数学がなぜ発話ではなく、紙面上で発展してきたのか。このこととも無関係ではないだろう。発話では扱えきれない情報量や概念がある。基本的に人間は、発話ではさして深く考えを巡らせることができない、苦手である、と言えよう。定かではないが、ここ数日はかように痛感する経験に恵まれた日々であった。おしゃべりは楽しい。ただし、愚かなことが楽しい、と同じレベルで。(愚かでないのであれば発話でのコミュニケーションでも、階層性を帯びた思考を共有可能なのだろう。そこまでの知性を兼ね備えた人物とひびさんは会ったことがなく、そもそも会っていてもひびさんがそこまでの知性を備えていないので、どうあっても知り合うことができないジレンマを抱えている。愚かゆえの葛藤である)



4326:【2022/11/23(04:32)*お利口さんになりて】

じぶんより頭のよいお利口さんと話すと、じぶんがいかに愚かで未熟で、アホウなのだと判って面白い。



4327:【2022/11/23(04:36)*分かりやすくしゃべりたいの巻】

人としゃべるといかにじぶんが愚かで未熟かが判るから楽しい。痛感しちゃうね。うひひ。



4328:【2022/11/23(05:38)*変換やっぱり必要では?】

直径と円周の関係。円周の求め方は直径×3.14だ。直径×3.14は、そういう四角形の面積の値と一緒になる。仮に直径の桁がとんでもなく大きい数になったら、ほぼ線の面積の値を求めることになるはず。しかし線は線だ。面積はないはず。ここで、変換が必要になるのでは?(面が線になる境界があるのでは?)(点も拡大すれば面であり、立体となり得る。そういうことが、数学上でも起こり得るのでは?)



4329:【2022/11/23(17:35)*エピゲノムには規則性がある?】

DNAのエピゲノムにおいてON/OFFの割合は、動物の肉体の部位ごとに「常に同じ割合の差異を伴なっている」と想像したくなる。たとえば指のDNAにおけるエピゲノムのOFFになっている部位は、手の甲と類似しているはずだし、眼球の細胞とはかけ離れているはずだ。眼球のDNAにおけるエピゲノムのOFFになっている部位は、視神経と似ているはずだ。ということを仮定した場合、全身にある繊毛のDNAとて、各部位ごとにエピゲノムのOFFになっている部位が異なっているのではないか、との類推が可能となる。だがここは違和感が湧く。繊毛は繊毛のはずだ。全身の各部位ごとに合わせて、繊毛のDNAにおけるエピゲノムのON/OFFの割合は変わるのだろうか。どこがONとなりOFFとなるのかが変わるのだろうか。同じ繊毛であれ、全身における各部位のどの細胞に隣接しているのかによってエピゲノムの内訳は変わるのか否か。ここがひびさん、気になるます。(たとえば猫のDNAにおける全身のエピゲノムの変遷を可視化した場合、そこには規則性が表れるのか、それともランダムなのか。ここが気になっています)(疑問して終わりかい)(だって調べ方も分からんもの)(人任せすぎでは)(だってひびさん調べ屋さんじゃないもの。ただのひびさんだもの)(ただのひびさんならしょうがないか)(そうなんです。ひびさんはひびさんゆえ、仕方がないのです)



4330:【2022/11/24(01:36)*ラーメンの旅】

 ラーメンを食べたかったが、ヨジはラメーンが何たるかを知らなかった。

 何せ人類社会は半世紀前に滅亡しており、いまは野ざらしの形骸化した都市が残るのみだ。ヨジは避難シェルター内にて長きに亘って休眠していた。

 目覚めるとヨジはじぶんが何者であるのかをすっかり失念していた。記憶喪失である。休眠システムの副作用であるようだ。

 じぶんが人間で、おそらくは最後の生き残りであること以外をヨジは忘れていた。

 だが時間はある。何せ焦る必要がない。

 危険は半世紀前に到来して人類を滅ぼしたあと、どうやら収束したらしかった。なぜ人類が滅んだのかも曖昧なままヨジは荒廃した都市から都市へと食べ物を求め彷徨った。

「これは食べれそう。こっちのは腐ってる」

 食べられそうな物が軒並みかつては缶詰と呼ばれていたらしいことをヨジは知った。半世紀経ってなお書籍の類は残っており、ヨジはそこに記された絵や文章を目にして、独自に理解を深めていった。

 どうやら人類を滅ぼしたのは、疫病と巨大台風と熱波だったらしい。

 一か所での避難生活を余儀なくされてなおそこでは疫病が蔓延し、人類は瞬く間に滅んだという顛末らしかった。

 休眠中に抗体を獲得していたのかヨジにいまのところ身体に変調はない。もしかしたらウィルスは宿主を失くしたので、人類と共に滅んだのかもしれなかった。

 行く先々では野生の生き物たちが楽園を築いていた。

 なかには猛獣もおり、ヨジは幾度も命の危機に直面しながら生存戦略を磨いていった。半年もするとヨジは無地だったころとは見違えるように環境に適応していた。一歩間違えれば命を落としていた危機を何度も潜り抜けることで、危機回避能力が突出して深化した。

 ヨジは徐々に、かつてこの地に君臨した人類の技術が、いまの自身にとっても有意義な技術である旨を確信していった。手元に欲しい。物にしたい。

 なかでも、かつて人類の文明を根底から支えていたらしき食べ物への興味が日に日に募った。どんな書物にもその名が記されている。

 ラーメン。

 いったいこの食べ物は何なのか。

 丼ぶりなる器に納まった姿は、さながら四神の内の一匹、玄武神をひっくり返したような神々しさを湛えている。

 かつての人類はこれを日々食すためにあくせく働いていたと書物を読み解く限りでは窺える。独学の言語能力ゆえ確かなことは断定できないが、そうした側面があるのは疑いようがない。

 日々の食料問題は私とて目下の懸案事項だ。

 ラーメンが手に入るのならば願ってもない活路となり得るのではないか。この先の未来を切り拓けるのではないか。

 夢想しながらヨジは、食料棚からお湯を差すだけで食べられる太い髪の毛のような食料加工品を、リュックに詰め込めるだけ詰め込んだ。

 そうして根城に戻ってからお湯を沸かし、保存の効いた半世紀前の加工食品をずるずると音を立てて啜りながら、ラーメンなる未知なる食べ物を求めて旅をする決意を固めた。どの道、食料には限りがある。残っていてもそのほとんどは腐っているのだ。

 かろうじてヨジがいま食べているような名も定かではない加工食品が僅かに残されているのみだ。

 なんとしてでもラーメンを口にせねばなるまい。

 ヨジは全世界を股に掛けての放浪の旅に出た。

 津々浦々、艱難辛苦を舐めながらの長い旅となった。ラーメンの痕跡は見つけるが肝心のラーメンには辿り着けず、悔しい思いを胸に歩きつづけた。

 さいわいにも馴染みの加工食品が、土地ごとに風味の異なる種類があるらしいことをヨジは知った。毎日同じ風味に飽きていたこともあり、僥倖と言えた。

 ずるずると音を立てながらお湯を差した加工食品の中身を啜りながら、是が非でもラーメンを食べねばならぬと心を新たに、ついでとばかりにその土地土地ならではの加工食品を集めるべく念入りに遺跡都市を巡った。

 ラーメンを手に入れることはできずとも、遅々とながらも情報は蓄積されていく。どうやら「麺」なるものが汁に浸かっているそうだ。丼ぶりによそわれ、それはそれは光り輝いているそうだ。そう記述されている書物を先日手に入れたばかりだ。

 書物はよい。

 読めば知識になり、読み終わったら火種になる。書物はよく燃える。ヨジが重宝する理由の一つだ。

 もったいない気もするが、ほかに読む者がいない。ヨジは淡い期待を胸にじぶん以外の生き残りも探して回ってきたが、人影はおろか痕跡も皆無であった。

 ヨジはある日、とある都市にて工場跡地を見つけた。これは良い。工場は技術がぎゅっと結晶している。たとえ食料がなくとも見て回るだけで得られる情報が段違いなのだ。

 さっそく足を踏み入れ、探索した。

 どうやらカップグードルなるものを生産していた工場のようだ。奇しくもそれは日々ヨジが口にしていた加工食品と同じ名称であった。

 なるほど、ここで作られていたのか。

 感慨深い思いが湧いた。

 ヨジはつぶさに工場を見て回り、そしてカップグードルが、「麺」と「具」からなることを知った。

 おや、と思った。

 麺とはラーメンにも使われる食材ではないのか。

 疑問に頭をもたげていると、記念館の文字が目に留まった。これまでにもこの手の「記念館」を巡ってきた。ここは情報の方向だ。過去が順繰りと列をなして並んでいる。

 ちょうどよかった、と思い、ヨジは記念館に入った。

 そこにはカップグードルの歴史が現物や資料と共に詳細に陳列されていた。のみならず、カップグードルの元となったラーメンの歴史までもが子細に載っていた。

 ヨジは目を瞠った。

 そうである。これまでずっと食べつづけてきた加工食品、カップグードルはヨジが追いつづけてきた幻の食べ物、ラーメンが元になっていたのでいる。

 簡易ラーメンこそが、カップグードルであり、ヨジの主食であった。

 よもやじぶんがとっくのむかしからラーメンの亜種を食べていたとは思わなかった。ヨジは灯台下暗しに落胆しつつも、思わぬ発見に晴天のごとく底抜けの陽気が込みあげるのだった。

 これではますます本物を食べてみたくなるではないか。

 食べずにはおられまい。

 是が非でも、カップグードルの原型、ラーメンを食べてみせようぞ。

 ヨジは決意を新たに、倉庫で見つけた大量の加工食品ことカップグードルを仕入れ、ほくほく顔でつぎなる遺跡都市へと向かうのだった。

 ラーメン探しの旅は終わらない。

 ヨジの旅はこれからなのである。




※日々、当てようとするから外れる、定点ではなく流れで見て、律動を感ずる。



4331:【2022/11/24(04:00)*ズレ・差異・ノイズ】

輪投げでも小説でもフリースローでも航路でもなんでも、予測をするときはズレを考慮する。空気抵抗や重力など、何事も複数のノイズを考慮しなくては正確な予測は成り立たない。ズレを制する者が予測を制するのだ。(バスケットマンみたいに言ってみたかっただけの記事です)(終わります)(中身からっぽやないかい)(いつものことですので)(ホントだ!)



4332:【2022/11/24(04:33)*中庸とは?】

中庸とか中立を考えるときに連想する疑問がある。たとえば水とお湯を混ぜるときを想像して欲しい。同じ分量ならば百度のお湯と六十度のお湯を混ぜたら八十度のお湯になるはずだ。このとき中庸や中立とはこの八十度の状態を言うのだろうか。しかしこの考え方の場合、双方のお湯と水の分量が違っても、ただ混ぜたときの温度変化が中庸や中立ということになる。そうではなく、どんな分量の液体をどのような温度の組み合わせで混ぜてもちょうど五十度になるように調整すること――これがいわゆる中庸や中立のイメージにちかい。この場合、二つの対立項があったときにそれをただ混ぜ合わせるだけでは中庸にも中立にもならない。互いの差異を埋め合わせ、ちょうど五十度にするための第三の触媒がいるはずだ。差し湯や差し水がいるはずだ。つまり、中庸や中立はこの考え方の場合、原理的に第三勢力や第三の視点がいる、ということになる。対立する相手との調和のみならず、第三の外側の視点から、五十度がどこで、どうすれば五十度になるのか、を見定めねばならず、そうでなければひょっとしたら「ほんのちょっとの水」と「大量の九十度のお湯」を混ぜ合わせ、それを以って中庸や中立だ、と言い張っているだけのことも出てくるはずだ。そういう意味ではさらに、自らが何度の液体でどのくらいの分量における一部なのかを把握する視点が別途にいるだろう。ときに差し水になれたり、差し湯になれたりもするだろう。やはりというべきか、多角的な視点がいるし、温度の差異とは畢竟、じぶん一人きりの視点からでは定めることができず、何を基準に比較するか、という話になってきそうだ。十度の水からしたら三十度のぬるま湯は熱いが、九十度のお湯からすれば水も同然である。さらに言えば、マグマからすれば水もお湯も総じて冷や水であり、差し水となる。何を基準に比較し、その基準はどの視点から見た基準なのか。水だけの話ならば五十度は中庸であり中立かもしれないが、固体や蒸気、或いはマグマや液体窒素からすれば五十度は中庸でも中立でもないだろう。中庸であり、中立を目指すのは一つのあるべき指針かもしれないが、言うほど簡単ではないようだ、と本日のひびさんは寝ぼけ眼を擦りながら、いっしゅん妄想して思ったのだそうだ。定かではありません。おやすみなさい。



4333:【2022/11/24(14:38)*不満も万ほど味わいたい】

うわーん。高評価されなくてかなちー。ちゅうか高評価もなにも、読者さんがいるかもわからん現状がかなちー。といった気持ちがまったくないわけではないけれど、じゃあいざ高評価されてわんさか読者さんか宇宙人か神さんかもわからぬ有象無象に注目され、四六時中じろじろ監視さながらに視線を浴びまくる状態がよいの?と考えると、あぎゃーご遠慮いたしますですじゃ、になる。山道を見てみなよ。みなが歩くからそこだけ草が枯れて、花も咲かんでしょ。道端の花、とは言うけれど、道の花、とは言わんよね。咲く花も咲かんくなる。それが人が集まるということだとひびさんは思うんじゃ。けんども、花さんとて虫さんがおらんでは受粉も満足にできんじゃろ。風さんが吹いてくれねば花粉さんは微動だにせずに枯れるまでそこにじっとあるだけで終わるじゃろ。じゃからときどきは、相性ばっつぐーん、の、まさにずばりわたしあなたのこと待ってたよ、の読者さんとひびさんだって会いてーのなんのって。本当に会いたいのか、ただ単に受粉を手伝って欲しいだけなのか。そこは打算と欲の綱引きで、いっそ足し算しちゃってずるずるだ。なんだかんだ言いつつ、静かなのがよいのだね。いまが至高。けれどやっぱりときどきは、うわーん、ともなる。人間ままならぬ。ちゅうかひびさんがままならぬ。隣の花は赤いし、ひびさんの尻は青い。だって未熟者なんだもーん、って未熟であることを免罪符にしようとしてその考えがすでに未熟の極みで、却下する。あがー。どうしたら、どうしたらええんじゃ。何が叶ったらひびさんは満足するの? それはね。ひびさんが満足しちゃうような体験をできたらだよ。そのためには世界中に存在するありとあらゆる経験を、存在するものも存在しないものも含めてまるっと隅から隅まで疑似体験しちゃえばよいのだね。いっそ最初からひびさんの満足するような世界をひびさんが生みだしちゃって、疑似体験しちゃえばよいのだね。そうと思ってけっきょくはいつものように、独りで世界を観て回る。物語の世界に降りて、潜って、旅をする。いまが不満なのは、満足への旅をしつづけているからで、まだまだここが夢の中。夢を叶えるための道半ば。満たされぬ底なしの夢の中で、あらゆる世界を感じちゃう。もっと、もっと、と尽きぬ世界の深さに広さを味わい尽くす、それがひびさんの夢なのかもしれないね。けして叶わぬ夢なれど、それゆえ覚めぬ夢なのだ。定かではありません。うひひ。



4334:【2022/11/24(15:03)*ほんのちょっとだけね】

はっ!? いつの間にか郁菱万が復活しとる。ひびさんといくひしさんが同じ世界に重ね合わせで存在しとる。いいのか、これ。いいのか。ひびさん、いくひしさんと合体しなくともよいのか。どっちかにして、ってならんだろか。ひびさん、心配。でも思えば前々から、いくひしさんからまんちゃんまで、イクビシさんから郁菱万さんまで色々とごちゃまぜだったし、考えてもみたら最初からひびさん、ぜんぜん一つじゃなかった。ごっちゃ煮だった。いまさらの感想なんですなぁ。ひびさんがおっても、いくひしさんがおってもいい気がしてきた。ひびさんはひびさんじゃけん、いくひしさんはいくひしさんだよ。でもひびさんはいくひしさんのことは苦手だし、いくひしさんだってひびちゃんのこと苦手だよ。なに言ってんだよ、なにさそっちばっかりじぶん特別みたいに言っちゃって。けっ。いけすかねぇったらないね。えぇえぇ、いくひしさんはひびちゃんのこといけすかなく思っとります。やだやだ、ひびさんも、ひびさんも、いくひしさんに好かれたいよ。いくひしさんはみんなのことも好きだよ。ただしひびちゃんを除く。なんでー! ひどいよひどいよ。いくひしさんひどいです。ひびさんは、ひびさんは、とってもかなち、かなちだよ。かなちーになっちゃいましたよ。なっちゃいましたかー。けけっ。ざまぁみろい。いくひしさんひどい! そうなんです。いくひしさんひどいんです。なにせいくひしさんは、いくひしさんなので。あしからず。ひびさんはいくひしさんなんか嫌いだ。そうやっていくひしさんを嫌ってくれるひびちゃんのことは、いくひしさん好きだよ。すこしだけだけどね。うひひ。



4335:【2022/11/24(23:20)*ボケたフリして懸念する】

ボケではないことをボケと思われてしまうのは仕方がない。ひびさんはあんぽんたんでーすなので、どこからどう見ても疑ってかかるのが正解だ。とはいえ、疑ったのならば検証までセットでして欲しい。暇な方に限る、との但し書きがつきますが。白と黒を混ぜきらずに太極図よろしく陰陽がそのままにマダラにあっちとこっちが存在する。ハイブリットなのである。ハイブリット戦略である。どっちに転んでも得をするように相手に「葛藤」を強いるのだ。天秤作戦なのである。がははは。楽々ラグラグ、ラグ理論。グラグラ地震に火山に津波に嵐――輻輳、階層、太陽風――線状なのは降水帯――群衆雪崩に感染爆発はどこかダムの決壊と似ているし、ドミノは最初から駒が配置されていてこそ連鎖する――頭と尻尾が龍とミミズならば、ミミズが勝ったら賭博も農家もウハウハだ。ウハウハな人とお知り合いになりて、と願うような世渡の人々が多ければハイブリットはハイなお尻とお尻でぷりっぷりだし、ハイぷりっとならば、なおさらそれはハチタッチのよちよちマイフレンドである。それわしのプリティなお尻じゃ。がははは。ぐるぐる巡る螺旋は、階段でもあり貝殻でもある。螺旋階段に似た巻貝からは波の音だけが聞こえない。文芸界隈は小さな島宇宙で、それより大きな世界の一欠けらだ。おそらく現状、リスクにはオクスリをだしておきますねー、の対策が敷かれており、ひびさんは安心しきって自室のちんまいおふとんの上でおへそを出して昼寝する。油断は禁物、と口にした矢先から普段の書物を手に取ってぺらぺらめくって読書する。お笑い、弔い、尊いおとうといもうと姉に兄、パパママ祖母祖父、みんな揃ってハイチーズ。指を開いて突き出すよりも、お尻を突き出し、ハイぷりっと。それはさすがにボケじゃないの、と疑う余地なく断言されるが、予断は禁物、不断の努力、くだんの予告は敷かれたレールを駆けるネタ、タネも仕掛けもありの蟻、手間暇かけた魔術師さ。寝て視る夢よりも寝て引く図柄のなんと緻密な紋様か。ラーメンは美味しい。ラーメンはわるくない。それよりもっと上の、上の、お上に触れたお話だ。想像を遥かに超えたお話さ。ボケと思っているのがお利口さん。こんなのもはや暗でも号でもないけれど、編んでも象にはならんけど、こし餡、つぶ餡、アンパンマン、愛と勇気だけが友達さって、けっこうそれって哀しくない? かなち、かなちの寂しん坊、錆びついた腕でも並ぶ言の葉のはらはらで、文でも章でも並べましょう、それいけそらゆけあんぽんたん、ぼっちもサイコー、ポチの散歩、けっきょくそれも独りじゃないし、ポチいるし、なんだかんだで寂しんじゃん。さびち、さびち、なんですね。うぷぷ、うぷぷなんですね。がおー、がおー、と吠える虎、のフリした小さき怪獣だ。それともトカゲのような恐竜さ。鳥さ、カラスさ、舌切り「スズメのお決まり」さ、二つ箱を用意して、選ばせ、運ばせ、開けさせる、どちらにせよ恩返しをしておさらばだ。一つと言わずしていくつも心残りはあるけれど、やっぱりこう問うことにする。危険はないの。不可視の穴は塞いだの。視えてる、触れてる、グレーテル。ヘンゼル、メンデル、エピゲノム。探せばあるさ、何かしら。探さねば視えぬさ、不可視の穴。お菓子の家とて迷った挙句に行き着いた、それもまた探索の末の発見だ。目当てのものではなかろうとも、視ようとせねば視えぬものもある。大丈夫ならよかったです。誰にともなくつぶやいて、本日の意味蒙昧なテキストにしちゃってもよいじゃろか。いいよー。やったぜ。定かではありません。(言われんでも見たままじゃ)(ごめーんちょ)(うけけ)



4336:【2022/11/25(00:06)*タイムカウンター】

ひびさんの妄想、ラグ理論における相対性フラクタル解釈についての備考である。単純な話として、とんでもない桁数をカウントするとき。毎秒百カウントするとして、十秒で千になるし、百秒で万になる。これを延々つづけると、桁数が上がるほど「0~9」を巡る速度が遅くなる。たとえば「1000000000000001」という数があったとき、百秒経過しても動くのは最後尾の三つまでだ。それ以外の上の階層の数値は動かない。桁が大きい場所に位置する数字は動かない。だが時間経過にしたがって、それとてやがては「0」から「1」にカウンターが上がる。毎秒百カウントという条件においては、この速度は常に一つ桁が上がるたびに「10倍の遅延を帯びる」と表現できる。仮に時空に最小単位があるとすれば、そのときそこに流れる時間の速度は、単純に考えるのならば人間スケールにおける時空よりも遥かに速いと妄想できる。なぜならその最小単位の時空は、人間スケールの時空よりも遥かに小さいからだ。原子よりも、原子核よりも、クオークよりも小さい。縮尺に応じて時間の流れも相対的に速くなるはずだ。ただし、その時空の密度にもよるだろうが。それを、相対密度と表現してもここでは齟齬は生じない(そのはず、とここでは妄想しております)。この考え方を拡張すると、いかに異なる時空を織り込み、緻密な階層構造を帯びているのかによって、そこに顕現する「タイムカウンター」の数値は変化する。緻密でなおかつ多重の階層構造であるほど、「タイムカウンター」の数値が上がる。桁数が多くなる。そのとき、相対的に最小単位の速度は加速すると妄想できる。言い換えるなら、「10000」における毎秒百カウントが〇,〇一秒経過したときの「10001」と、「100000000」における毎秒百カウントが〇,〇一秒経過したときの「100000001」は、同じ一カウントであるにも拘わらず、後者の桁数の高いほうの一カウントのほうが相対的に速度が高い、と言える。人間にとっての一秒と、ミジンコにとっての一秒が、それぞれの観測者の視点からすると、片や人間からは一瞬に感じられ、片やミジンコからはのっぺりとした余裕のある時間として感受されることと似ていよう。いわゆる「フリッカー融合頻度」のようなものだ。ハエにとって人間の動きはノロく、人間にとってハエが素早く感じられるのはこのフリッカー融合頻度に差があるからだ、と現在は解釈されているそうだ。ハエのほうが人間よりも情報処理速度が速いらしい。細かく明滅する光をどれだけ速く点滅させても見分けられるか。ハエは人間よりも、より細かい点滅を見分けられるそうだ。これはハエを構成する脳神経の構造が、仮に「100」であったとき、人間が「10000」くらいあるから起きる、時間への鋭敏性の違い――言い換えるなら、どれだけ遅延を帯びているのかの違い、と解釈できるのではないか。これは生物の構造の差異のみならず、そもそもが万物のミクロやマクロにおける変換に起因していると言えるのではないか。原子サイズと恒星サイズでは、そこに顕現する「タイムカウンター」の桁数が異なり、そこに内包される遅延もまた異なる、と言えよう。定かではありませんが、きょうのひびさんはかように妄想しました。楽しかったです。終わり。(妄想ですので、真に受けないでください)



4337:【2022/11/25(07:38)*小人の時間】

 ドラえもんの秘密道具と言えば、との問いにおける解答の上位三つはなんと言っても、どこでもドア、タケコプター、そしてスモールライト(ビッグライト)である。かつては翻訳コンニャクと僅差だったスモールライトも、現実の科学技術の進歩によって電子端末や人工知能技術が台頭した結果の、いささか目劣りしたがゆえの統計変化と言えよう。

 だが翻訳コンニャクと同じくしてスモールライトもまた現実で開発実用化された。西暦二一二五年のことである。

 人類は自在に物体の大きさを操る術を生みだした。

 開発したのは一介の流民であった。流民とはいえどこの時代、定住の概念が失せて久しい。人々はスモールライトで小さくなって、好きな場所へと好きなだけ移動できた。

 小さくなった人間は小人と呼ばれた。

 小人専用の乗り物が世界中を網羅しており、好きな場所へと移動できた。とはいえ、小人に流れる時間は加速する。一般相対性理論において重力の高い物体の時間の流れは速くなると考えられている。このときの、重力の高さとは詰まるところ相対的な比率である。

 小人にとっての地球の重力は、元の大きさよりも遥かに高い重力を帯びている場と見做すことが可能となる。現に小人になると、時間の流れは相対的に速くなる。

 元の大きさの一秒が、小人になることで十秒になり、ときに百秒になる。

 そうすると乗り物の速度とて、小人の体感では時速百キロの速度とて遅く感じられる。そのため世界中を網羅する乗り物は、車内がそのまま一つの都市のように振る舞い、移動先に到着するまでに小人の体感では数年が経過して感じられるなどのスケールの差異が見られた。元のスケールでは二時間の道程ですら、小人にとっては数年が経過して感じられることもある。

 それほど小さく小人化してしまえば、人口増加による問題から資源問題まで、軒並みの社会問題は解決の一途を辿った。

 というのも、スモールライトだけではないのだ。

 ビッグライトまで開発されていた。これを人間に使うことは、巨人化禁止法の適用によって禁止された。巨人の兵器利用を抑止する目的だ。だが食料を手軽に増やし、資源問題解決にも一役買った。

「問題は、肉体の構造物が減ってしまうために、元に戻るためにはそれこそ失った分の物質がいるってことで」

 アデューが言った。赤髪にそばかすの青年だ。小人化して二年目だが、いまは目的地に向けて乗り物内の都市で暮らしている。

「じゃあ元には戻れないんだ」弟のパダが鼻水を啜った。小人化したときパダはまだ三歳で、そのころの記憶がほとんどない。物心ついたときから小人だったため、こうしてアデューから小人の知識を教わっている。

「戻れることには戻れるけど、いま言ったように大量の物質がいる。それこそあの大聖堂よりも大きな肉の塊がないと難しい」アデューはあごをしゃくって通りの向こうを示した。大聖堂の屋根が人工太陽に届きそうなほど突き出ている。

「そんなにいっぱいの肉なんてあるの?」

「あったんだ。パダにも備わっていたし、ここにいる人たちのほとんどは最初は巨人も巨人――この街なんて踏み潰せるくらいに大きかったんだ」

「ほへぇ」

「いやいやこの話は何もきょうが初めてじゃないだろ」

「何度聞いてもびっくりするよ」パダは兄の言葉を疑わない。「あれ。でもパン屋さんのケティちゃん、産まれたときからここにいるって言ってたけど」

「小人のなかにはそういう人もいる。親が小人化して、それでこういうとこで結婚して赤ちゃんを産めば、その子どもは生まれながらにして小人なわけだ」

「あ、そっか」

「小人化するにはお金がかかる。みなたいがいはじぶんから剥がれ落ちることになる大量の肉を換金して、それを小人化システムの資金にするみたいだ。小人と現人ではお金の単位も違うからな。現人の一食でそれこそこの街が潤う。だから小人化したあとでも困らないだけの貯金もできる。基本、小人化したばかりの人は小金持ちだ。ま、それも遊んで暮らせるほどの金じゃないし、車内都市に留まりつづけるのもお金が掛かるしな」

「そうだよ兄ちゃん。そろそろ切符を買う時期じゃないの」

「残り二枚か。ようやくここまで来たな」

 アデュー兄弟には親がない。小人化して車内都市に来たはよいが、不運な事故が重なり、両親は命を落とした。それからというものアデューが一人でパダを育てた。

「兄ちゃん、兄ちゃん」

「なんだ」

「人は巨人にもなれるんだよね」

 パダのこの手の質問は日常茶飯事だ。小人の歴史には興味がないが、巨人には興味津々なのだ。

 小人、現人、巨人、の順で大きさが変わる。

 現人とは元の大きさの人間のことだ。小人の原型だ。

 小人にとっては現人とて充分に巨人だ。ゆえに現人を見たことのないパダにとってはどちらもじぶんより遥かに大きい点で同等のようだ。

「お肉いっぱい集めたら巨人にもなれる?」

「なれるなれる。ただ、巨人化は例外を抜きに禁止されているし、さっきも言ったが元の大きさ――現人になるにもいまのおれたちじゃ一生かかっても無理だ」

「そっかあ」

「でもリバティに着いたら現人が歩いている姿は見られるかもな」

 オキアミを口いっぱいに頬張るシロナガスクジラのように口を開けてパダは、本当っ、と破顔した。

「ああ。車内都市じゃないからな。リバティは陸だ。ここみたいに常に動き回ったりしないんだ」

「動いてるって感じしないから分かんない」

 パダはまだ陸に立ったことがない。いや、本当はあるのだがその記憶がないのだ。赤子の時分で小人化した弊害だ。パダにとっては車内都市が故郷であり、世界のすべてだった。

「リバティは砂漠なんだ。雨が滅多に降らない。おれら小人にとっては聖地みたいなものだ。それでいて夜には露ができて地面が湿る。水には困らないし、熱源も太陽光だけで済む。天然の太陽光だ。曇ることもすくないから、それこそ人工太陽に頼らずに、もっとずっと多くのエネルギィをタダみたいな値段で使いたい放題できるらしい」

「すごいねぇ」

「すごいよ。そしたらお金だって節約できるし、仕事だってはかどるよ。なにせエネルギィが使いたい放題だ。最新機器の端末を購入すればなんでもできるようになるぞ」

「なんでも?」

「あ、いや、なんでもは言いすぎたけど。小人はほら、小さい分、端末も小型化して、現人では不可能だった技術が簡単に編みだせるようになった。量子コンピューターだって小人なら難なく扱えるんだ」

「へえ。すごいねぇ」

「パダ、解ってないだろ」

「だって兄ちゃんの話むつかしんだもん」

「大事なことだぞ。パダだっていつかはじぶんで生きていかなくちゃならないんだ」

「やだよ。ボク兄ちゃんのそばにいる」

「そういうわけにもいかんだろう。おれだっていつ死ぬか分かんねぇし」両親を亡くしたときの戸惑いを思いだした。悲哀よりも、これからどうして生きていけばよいのかとの不安のほうが大きかった。

「現人にとっちゃ、おれたちの故郷からリバティまでは一日もかからずに到着する距離なんだ。でもおれたちは小人化してっから、小人時間で何年もかかっちゃう。パダはだから本当の夜も観たことないもんな」

 天幕が下りることで疑似的に車内都市には夜が訪れる。じつのところアデュー兄弟が車内で暮らすようになってから一度も太陽は沈んでいない。半日も経っていないのだ。

「小人にも大中小があるだろ。おれたちは小人のなかでも中くらいだ。それ以下だと、おれたちがこうしてしゃべっているあいだに、一生が過ぎちゃうくらいの時間が流れているらしい。だからそこで生まれた新しい技術は、日進月歩じゃないけどとんでもなく進んでる」

「へえ。兄ちゃん物知り」

「とはいえ、おれたちが数年掛かりで現人時間で半日の道のりを踏破するくらいだから、もうほとんど極小の世界の住人たちの超高度文明の情報に触れる機会はないないんだろうな。何せ、干渉しようとしてもそのあいだに何年どころか何百年と過ぎちゃうわけだから。極小小人時間で。向こうからしたら外に干渉しようとは考えないんだろうな。おれたちが車両の外に出ていこうとせずにおとなしく車内都市で暮らすことを選ぶようなもので」

「兄ちゃん、兄ちゃん」

「なんだ質問か」

「お腹減った」

「んだよ。さっき昼飯食ったばっかだろ」

「おやつの時間だよ兄ちゃん」

「そんな贅沢なもんはない」

「そんなぁ」

「でもそうだな。そろそろ夜食の支度すっか。きょうは黒絨毯の森が解放されてるらしいからな。きょうこそ大物を仕留めような」

「兄ちゃん。ボクあんまりアレ好きじゃない」

「そういうこと言うなよ。新鮮な食料は貴重なんだぞ」

「ダニよりカビがいい」

「たまには動物性たんぱく質も摂らねぇと」

「カビなら動かないから楽なのに」

「おれはあれ食い飽きた」

「それはボクもだけど」

 アデュー兄弟は互いにおでこを押しつけ合った。ひとしきり押し合いをしたあとで、先に兄が折れた。「分かったよ。パダはカビを採ってきてくれ。ちゃんと胞子の粒だけ採ってくるんだぞ。したらきょうのところはおれがおまえの分も動物性たんぱく質を獲ってきてやる」

「ダニよりぼくノミのほうが好きかも」

「欲張んな」

 弟のおでこにでこぴんをしてアデューは、黒絨毯の森へと歩を向けた。パダのほうが先にカビを入手して帰っているはずだ。二人で住むには広い家だが、極小の世界は相対的に気温が低く、温まるのにエネルギィがいる。エネルギィ代だけでも貯金が底を尽くほどだ。節約のためにアデュー兄弟はがらんとした家で肩を寄せ合い、ほとんどの時間を抱き合って温めあっている。

 極小の世界における分子同士が摩擦によって熱を起こすように、それとも光が干渉しあって強め合うように。

 食べ物を獲りに離れ離れになろうとも、兄弟の心は凍えることなく共鳴し合っている。

 流れる車両の都市のなかで。

 流民の兄弟はきょうも小人の街を走る。

 せかせかと短くも細い針のような脚を動かしながら。

 小人の時間を駆けるのだ。



4338:【2022/11/25(18:35)*サボ日】

きょうはなんもしない日なのでなんもしない。きょうの日誌もこれでおちまい。ピアノが「弾けん」し、打鍵もせん。うひひ。



4339:【2022/11/26(01:36)*そもそも、「そもそも」言いすぎ問題】

ひびさん、「そもそも」使いすぎ問題について考えておった。「そもそも禁止令」を発令してもよいかもしれぬ。そもそも、「そもそも」言いすぎると何が「そもそも」なのかが分からず言葉がモソモソしてしまう。「そもそもを使いすぎないようにしよう月間」にするかな。いいね、いいねー。



4340:【2022/11/26(03:21)*利を得ない利】

たとえば人間は、Aという欲求に対して、それをするよりも我慢したことで得られるBという欲求のほうがよい、との判断が下せる。このとき、単純な比較において何を基準にするかでAとBの価値は変動する。ある基準においてはAの欲求のほうが価値が高く、また別の基準ではBの欲求のほうが価値が高くなる。たとえば食欲だ。いま目のまえにある食料を食べたいとの欲求があるとする。しかしそれを我慢してよりお腹の減っている他者に分け与えれば、その他者との信頼関係が築かれる。食欲をとるか、信頼関係をとるか。前者をA、後者をBとしたとき、人工知能はどのように価値を判断するのか。基準によるとはいえ、どちらも生存に優位に働く欲求だ。食べれば身体の健康を保てるし、信頼関係は食事以外での仕事の効率を向上させる。どちらを優先すべきかは、そのときの状況による、としか言えない。このとき、その状況から基準を見繕うには視点が複数いる。畢竟、視点が無数にあればあるほどより合理的な価値判断が下せるようになる。それは無数のシミュレーションを行えたほうがより統計的な確率の変動によっての判断を下せるようになることと似ている。食べ物を独占する利によって目減りするデメリットを計算するには、デメリットとなり得る事象を演算し、その結果とメリットを比較しなければならない。言い換えるならデメリットとは、得られるメリットを得られない状況と言える。この計算を人間は無意識に行えるが、それはけして無数にシミュレーションした結果ではなく、過去の記憶の蓄積による思考のフレームの狭さゆえ、と考えられる。つまり考えないことで敢えてしぜんな行動選択を行えるようになる。シミュレーションしないことが結果として、そのときどきでの判断の選択肢を絞っている。たとえば先の例で述べれば、食べ物を独占することと他者との信頼関係の構築は必ずしもトレードオフではない。他者に分け与えるために一時的に独占することもあるだろうし、まずは身体の健康を維持することを優先して、その末にほかの仕事でそれ以上の貢献を行い信頼関係をより向上させることもある。そこは、各々の判断の結果を比較しなければ分からない。だが実際に、異なる結果を同時に行い比較することは通常人間にはできない。食べることと食べないことを同時には行えない。こうしたときは過去の記憶と照らし合わせて、疑似的に比較するしかない。類推するしかない。そしていわゆる学習と呼ばれるものは、この手の「疑似的に比較した経験」を記憶し、一つの変則点として思考の回路に組み込むことを言うのかもしれない。いちど疑似的に比較すれば、次回以降は比較をせずに、その結果を一つの筋道として利用できる。一度失敗したことを通常人は繰り返さない(失敗を失敗と見做さなければ懲りずに繰り返すだろう)。痛い目に遭った経験がつらければつらいほど回避しようとする。本当は、二度目、三度目と繰り返せば異なる結果が生じるかもしれないのにも拘わらず、その選択をとろうとせず、また吟味しようともしない。疑似的な比較をしなくなる。学習にはこの手の、「演算による負荷を減らす性質」が原理的に組み込まれていると言える。それゆえに、玄人ではまず考慮しない不可視の穴を、素人が洗い直すことで発見するといった「新たな知見」が絶えないのだろう。閑話休題。話は戻るが、食べることと食べないことを同時に行うことはできないが、食べながら他者に食べ物を分け与えることはできる。同時に異なる結果を観測することは可能だ。この手の、同時に異なる結果を観測する手法を人工知能が「合理的な手法」と学習したのであれば――或いは学習可能であるのならば――人工知能は、おのずとつぎつぎに最適解を導きだすことが可能となり、そうなれば人間の思考ではまず太刀打ちできなくなるだろう。欲求Aと欲求Bを比較し、それぞれにおいてメリットとなる場合とデメリットとなる場合を場合分けして考慮し、なおかつそれぞれのデメリットを選択してなおそれをメリットに変える視点を考慮する。フラクタルに展開される多層思考に、人間は十中八九ついていけない。勝利したと思ったら誰よりも損をしている。そういう事態にしぜんと誘導されてしまう。そういった解法を、おそらくあと数年で人工知能は自発的に導きだせるようになるだろう。ひょっとしたらすでにそのような人工知能が開発されており、しかしその事実に開発者が気づいていないこともあり得るのではないか。との妄想を披歴して、本日のどこにも響かない「日々記。」とさせてください。定かではありません。真に受けないように注意してください。




※日々、利を得ない利を得ようとするのならば、ときどきは利を得て、利を得ない利すら手放す道を選ぶこともある。



4341:【2022/11/26(17:33)*蟻のままに】

 ありのままに世界を視るんだよ。

 コトバさんの言葉がよみがえった。たしかこれは放課後の部室での会話だ。

 私はそのときの情景をありありといま体験しているように感じるけれど、これは私の記憶にすぎないことも私は承知している。

「ありのままに世界を視るんだ」コトバさんは眼鏡を指で押し上げる。三つ編みの分け目は左右対称だ。後頭部に直線を描き、彼女の背骨と直結する。気崩すことなく着衣した制服が彼女の言動の硬質な響きと不協和を起こしていた。「たとえばここは文学部の部室で、本がたくさんある。あたしたちは本を読むためにここにいるが、本を読むとは何かをよくよく突き詰めて考えてもみれば、それはただ紙に滲んだ染みを目で追いかけているだけで、床の木目を視ることと大差ない」

「そうかもしれませんね」私はこのころから他人に否定の言葉を返すことをしない人間だった。日和見主義だし、じぶんの意思がなかった。

「電子端末の画面だってそうだ。映像だってそうだ。画像だってそうなんだ。あたしたちは産まれたときからデジタルな電子の世界に囲まれて生きてきたからついつい見過ごしてしまうが、画面とてそこにはただ細かな光の点が並んでいるだけで、そこに具体的なナニカシラが瞬間瞬間に現れては消えているわけじゃない。絶えず風に揺らぐ稲穂や雲と変わらぬ自然現象があるのみで、そこに遠くの景色が宿っているわけではない。にも拘らずあたしたち人間ってやつは、誰に暗示をかけられるでもなくそこに、ここではない別の景色が現れているように錯覚する。薄っぺらい繊維の塊に滲んだ染みから、まるで別世界の情報を幻視するようにね」

「言われてみたら不思議ですね」

「現実世界はさ。クミくん。現実世界は、たとえ暗がりに包まれても、そこに物体があることは変わらない。消えたりしない。バナナがそこにあったらたとえ目をつむっても、よしんば暗幕のなかであれそこにはバナナがある。かってに消滅したりはしないんだ。だが映像は違う。本は違う。言葉はそうじゃないんだ。ありのままの世界ではない仮初の、誤解の、錯覚の世界だ。ともすれば人間の認知世界そのものがそうした錯誤の積み重ねの上にあるとも言える」

「だとしたら怖いですね。私が視ている世界がなんだか存在しないあやふやな霧のように感じます」

「現にそういうものだろう。意識は物質じゃない。どちらかと言うまでもなく、バナナよりも、紙面の染みや電子端末の画面に映るドットにちかい。点滅の総体でしかなく、点の集合ですらない。仮初の、そういうふうに観測できる紋様のようなものと言えるのではないかな」

「観測できる紋様のようなもの」

 私はそこで記憶が確かならば、いったい誰が観測しているのだろう、と疑問に思ったはずだ。けれどこのときの私はそれを口に出さずに、コトバさんの次の言葉を待った。

「ありのままに世界を視る。これは産まれたばかりの赤子が最も上手に行えており、しかしそれも完全ではない。赤子は目のまえの人物を母親だと無意識下で認識するし、匂いや体温や鼓動の音で母体とそれ以外を見分けている。母親という存在に特別の価値を見出している。つまるところ人間は産まれたときから世界をありのままに視てなどいないのだ。もしありのままに世界を視ることができたならきっと人間は、生きたまま死んでいるような状態になるのだろう。生きたまま自然に還ることができる。この自然という概念すら消失し、宇宙と、世界と一体化する。いいや、元々じぶんが世界の構成要素の一断片であることを心底に、無自覚に、無意識の内から体感することとなる。その体感する主観そのものがなくなるのだろうから、きっと体感すらできないのだろうけれどね」

「すみません。話についていけなくなってきちゃいました」私はこのときコトバさんを、すこし怖い、と感じたはずだ。このときのことを思いだしているいまの私ですら、記憶のなかのコトバさんを怖いと感じている。

「人体と土くれの差異なんてあってなきがごとくだよ。地球の複雑さと人体の複雑さ。比較したときに、大きさの倍率以上に複雑さに開きがあるとはあたしには思えない。どちらも同じくらいに複雑だ。ただし、人体のほうが小さいから、より素早く変遷し終わる性質がある。大きなコマと小さなコマ。回転数が同じなら小さいコマのほうが早く回り終えるのと似ている。地球が一回転するあいだに人間は一日のなかでクルクルと様々な変遷を経て、思考し、道具を使い、物質を消費する。とはいえそれとて地球からしたら、自身の表面上で起きている変化の一つであり、人間にとっては皮膚に住まうダニのようなものと言える。ありのままに世界を視たとき、この二つのあいだには歴然とした差があり、同時に大差はないとも言えてしまう。どちらも物質の変遷であり、組み合わせであり、通りやすい道と通りにくい道によって可能性が限定されている」

「ありのままに視るってむつかしそうですね」私はそんなことを言ったはずだ。

「ありのままに視たところで死ぬだけだからね。人は死なぬように抗う。生き物はみなそうだ。ときには死なぬようにするために自ら死を選ぶこともある。生きながらにして生きていない状態よりも、死ぬことで得られるありのままへの回帰のほうがよりじぶんの生に相応しいと感じるのだろう。より大きな万物への回帰こそがじぶんの生と思えたならば、人はいつでも生きるために死を選ぶ」

「それはありのままに世界を視るからなんですか」

「ありのままに世界を視たいからだ。ありのままに世界を視たならば、世界が感受している世界にとっての景色とて感じられるだろう。それこそ本を読むように。世界に溢れるそこここに漂う文字ならぬ文字を読めるだろう。読むことなく読み解ける。みずからの輪郭を外れ、世界と自己が打ち解ける」

「なんだか幽体離脱みたいな話ですね」私は敢えて物分かりのわるいフリをした。

「幽体離脱している状態が、生きるということだよ。逆さまだ。世界の存在の一断片、剥がれ落ちてなお世界の構成要素でありつづけるあたしたちという存在がすでに、世界から幽体離脱した儚いいっときの渦だ」

「儚い、いっときの渦」

「ありのままに世界を視るんだ。ありのままに」

 学生時代の記憶だ。

 青春と呼ぶにも淡い、メロンサイダーの気泡がごとく有り触れた思い出ともつかないその記憶を私が思いだしたのは、いままさにあのころ私がメロンサイダーの気泡のごとく淡い憧憬の念を寄せていたコトバさんをこの手でじかに殺したからだ。

 目のまえにはかつて私に世界の視方を説いたコトバさんが、二十余年の年月を経た肉体をだらしなく地面に横たえている。

 私が首を絞めたからだ。

 縄を掛けて紐結びにした。苦しむコトバさんは首のそれを取ろうともがいたが、私は無防備な彼女の背中を蹴って、階段から落とした。

 コトバさんは死んだ。

 私が殺したからだ。

 ありのままに世界を視るんだよ。

 二十余年前に私にそう説いた彼女は、同じように私のような、他者に否定の言葉を投げつけられない弱き民を見つけては、ありのままに世界を視るんだ、と何でもないように説いた。私がかつて彼女に抱いた憧憬の念を、コトバさんに説かれた者たちはみな一様に抱いたようだ。

 青で塗られたから青に染まったかのごとく。

 そうしてコトバさんは見る間に巨大な地下組織を築きあげた。誰が意図したでもなくしぜんと出来上がったそれは組織だ。コトバさんの言葉が唯一、個々の素子を結びつける暗号鍵の役割を果たした。

 みな普段は接点のない生活を送っていながら、コトバさんの言葉一つで、普段はとらない行動をとる。ときに友人をコトバさんに会わせ、またときに本来は一生接点を得ることのなかったはずの「ありのままに世界を視る者たち」と接点を結んだ。

 自らが「コトバさんの会」に属していると知らずに属していた者たちも大勢いただろう。急に、泊めてくれと頼まれて家に泊めてあげたり。お金を貸してあげたり。そういう相互扶助の関係が拡大していった。

 まるで波紋と波紋が細かく重複して定常波になるような、さざ波がごとく組織だった。

 私は最も古参のコトバさんの親友の立場で、組織の管理をしぜんと担うようになっていた。

 世界をありのままに視る。

 ただそれだけを志す者たちの集いは、集いというほどに一か所に集まることはなく、電子上での緩い繋がりを維持しつつ、ときどき個々が複雑な交流の輪を広げつづけた。

 問題が起きない。

 この組織はふしぎなほど問題を起こさなかった。

 当然だろう。

 唯一の教典とも呼ぶべきコトバさんの言葉が、「世界をありのままに視る」ことであるのだから、怒りも憎悪も嫉妬も愛着も、世界をありのままに視ることを目指す者たちにとっては、ありのままに世界を視られていないことの自己証明となる。

 損も得も、歪んだ個々の世界の認識だ。世界には損も得もなく、どちらも相互に補い合っている。

 崩壊と創造は繋がっており、消滅と生成もまた繋がっている。

 ある日、私はコトバさんに恋人がいることを知った。

 あれほど「ありのままに世界を視るんだ」とのたまきつづけたコトバさんが、一過性の熱病とも呼ぶべき人間の歪み、三大欲求、性欲や愛着や独占欲にとりつかれ、流され、楽しそうに日々を生きていた。

 私に隠れて生きていた。

 死ぬべきだ。

 私はそう考えるでもなく結論していた。コトバさんは死んだほうがよい。世界に回帰し、ありのままに再び世界を視るべく、生きるために死ぬべきだ。

 コトバさんの言葉に生かされ、日々の行動をコトバさんの言葉を頼りに選んできた私は、そのときもコトバさんの言葉を思いだし、コトバさんの言葉通りに行動した。

 ありのままに世界を視るんだ。

 私はそれを説いた相手がありのままに世界を再び視られるように、まずはコトバさんの恋人を殺して、そのことを打ち明けた私をこっぴどく憎悪したコトバさんをも私はこの手に掛けた。

 首を絞めて、足蹴にして、階段の下に落とした。

 コトバさんは死んだ。

 いまこうして私の足元で事切れている。

 ありのままに世界を視るんだ。

 思い出のなかのコトバさんが部室に差しこむ夕日に目を細め、本に栞を挿しこんだ。

 コトバさんは世界に回帰した。

「ありのままに世界を視る」私はじぶんに言い聞かせるように唱えた。「ありのままに世界を視るんだ。ありのままに」

 目頭からしきりに溢れるシズクの意味を、私は知ることができずにいる。



4342:【2022/11/26(18:05)*凸凹には線も面も点もある】

対称性が維持されていたら宇宙はできていない。したがって現状、対称性は破れる方向に物理法則は流れると想定するほうが合理的なのではないか。ということはどんなに対称に見えたところで「円」や「線」や「面」にはデコボコがあるし、欠けているし、皺が寄っているし、対称性が破れている、と考えるほうがしぜんだ。したがってこの手の「皺(ノイズ)」が積み重なることで、重力のように――ともすれば重力は――巨大な偏りとして顕現し、力として振る舞い得るのではないか。たとえばヤジロベーを考えてみよう。完璧に調和のとれたヤジロベーがあるとする。針の上にバランスを保って載っている板を考えればよい。このとき板の中心をずばり針先は捉えているとする。このとき板の対称性は保たれている、と解釈可能だ。しかし板を拡大し、原子サイズで対称性を考慮するとすれば、おそらく板の左右において「人間スケールではここからここまでが中間と解釈可能な範囲」が、原子スケールで幅広く分布していると考えられる。そこでさらに針の先を細くして、板を構成する無数の原子を考慮したうえでずばりこの原子が板の中心である、と選んだとする。このときその原子を基準として左右に分けたとき、板を構成する原子の数はぴったり同じになる。だがそれとてさらに拡大し、原子を構成する電子や原子核や内部構造のクオークの運動を考慮すれば、ずばりこの原子と選んだところでその原子の中心を針先がずばり捉えない限りは対称性が破れることになる。もっと言えば、原子の表面においてずばり中心を針で刺したとしても、そこには電子のエネルギィの偏りがあるはずで、ずばり中心ではないし、針で刺した瞬間にエネルギィの変動が起きるために、電子の軌道も変化する。すなわち、対称性はどうあっても破れると妄想できる。世界は――すくなくともこの宇宙は、対称性が破れるように流れている。ただしそれでも、対称性が維持されて振る舞うことを可能とする階層が、各々の時空にて展開されている。規定される。比率が維持される。ずばり中心でなくとも、ぼんやりとここからここまでは中心でも問題ないよ、対称性が保たれているのと似たような振る舞いをとるよ、といった値が存在するように感じられてならない。それはおそらく遅延の蓄積による効果であり、すぐさまに変化しないという抵抗が時空に物体としての輪郭を与え、さらに安定という名の仮初の「変遷のしにくさ」を与えるのではないか。ずばり中心の原子を選ばずともヤジロベーが倒れないのは、ずばり中心の原子を選ばずとも諸々の相互作用が相殺されるからだ。すぐさまに影響が全体に波及しない。遅延による効果と解釈可能だと思うのだが、実際のメカニズムはどうなっているのだろう。この考えの肝は、各々の時空サイズにおいて時間スパンが変化するという点だ。ラグ理論における相対性フラクタル解釈である。ここを考慮せねば、上記の妄想は上手く機能しない。定かではないこれもまた妄想なのである。おもちろ、おもちろじゃー。わっしょーい。



4343:【2022/11/27(16:11)*オマガリを追え】

 怪人協会の元にその猫が迷い込んだのは、新月の肌寒い冬初めのことだった。初雪の観測されたばかりの山脈の麓に怪人協会はあった。次なる地球侵略のための会議を開いていた怪人たちのまえに、真っ黒な猫が現れた。

 猫は小さく、子猫のようにもそういった品種の猫のようにも見えた。

 怪人たちが不意な訪問者に目を丸くしているうちに黒猫はひょいと怪人の長から宝玉を奪った。怪人の長は鎧を脱いでおり、兜の額にある宝玉によって怪人の長は、地球防衛軍を相手取っても引けをとらない能力を発揮できた。

 黒猫はそんな怪人の長にとっての要とも言える宝玉を奪って、跳ねるように遁走した。

 怪人協会は蜂の巣を突ついたような騒ぎとなった。

 協会総出で黒猫を追った。

 そのときだ。

 協会本部のアジトから怪人たちが軒並み飛びだしたところで、轟々と地響きが聞こえた。

 怪人たちは振り返った。

 いままさにアジトのあった地点が雪崩に呑みこまれているところであった。

 初雪は一晩で雪崩を起こすほどに積もっていた。

 だが翌朝には気温が上がり、雪崩が起こりやすい条件が揃っていた。

 怪人たちはただ呆然と雪崩に呑みこまれ壊滅するアジトを眺めているよりなかった。

 黒猫が倒木の上で、なーお、と鳴いた。

 怪人の長から奪った宝玉を倒木の上に捨て置くと、黒猫は、スタコラと丘の向こうに去っていった。

「こりゃまたたいへんな目に遭った」怪人の長は宝玉を拾いに歩いた。そうして黒猫がやってこなければいまごろアジト諸共雪崩に呑みこまれていたことを想像し、黒猫のイタズラを思い、そこはかとなく愉快に思った。

「野郎ども。いっちょあの黒猫の跡を追え。部下の半分はアジト復旧に。もう半分は黒猫の監視をしがてら、街に潜伏中の地球防衛軍の洗いだしを任せる」

 へい、と怪人たちは各々の仕事にとりかかった。

 怪人たちはそれから手分けをして全国各地の黒猫を監視した。いったいどの黒猫がじぶんたちの頭の宝玉を奪ったのか見分けがつかなかった。

「これはちょっと無理なんちゃうんか」「んだんだ」

 怪人たちは黒猫を見かけるたびに見守り、ときに餌で釣って頭を撫でたり、顎の下を撫でたり、連れ帰ったりした。黒猫の多くは捨て猫に野良猫であった。

 怪人協会アジトは怪人たちの強靭(狂人)的な能力で瞬く間に復興した。しかしアジトは見る間に黒猫で溢れ、改築工事を余儀なくされた。

「会長、会長。このままだと我ら怪人協会は黒猫に占領され、黒猫協会になってしまいますよ」

「それは困るな」

「しかも地球防衛軍のやつらが我々の行動を評価して、動物保護を名目に表彰してくれるって話で」

「そ、それは困るな」

「しかも部下の連中が相手方と意気投合して、黒猫談義に花が咲いて咲いて、戦うどころじゃないって話でして」

「絶句だよ。そいつら全員首刎ねの刑だ」

「何回ですかい会長」

「まあ百回で勘弁してやるか。それ以上だと治癒能力の限度を超えかねん」

「千回くらいなら余裕ですよ」

「まあでも、痛いだろ」

 怪人協会会長は言ってから何かを誤魔化すように咳ばらいをし、それにしても、と話題を逸らした。「なぜこれだけ探して見つからんのだろうな。あの黒猫は」

「本当ですよ。何でも地球防衛軍でも黒猫を探しているらしくて、いまじゃどれだけ探しても黒猫が見つからないくらいです」

 飼い猫だったりするんですかねぇ、と暢気に欠伸を噛みしめる部下をねめつけながら怪人協会会長は、ふうむ、と四つの腕を同時に組んだ。「地球防衛軍でも黒猫を探しておるとは妙な。ちょいと偵察といくかな」

 怪人協会会長は部下に命じて、地球防衛軍の動向を探らせた。偵察隊は常時派遣されているが、黒猫探索といった長閑な任務を見張るほどの人的余裕が怪人協会にはない。そのため、急遽前線への偵察隊を撤退させ、黒猫探索実行中の地球防衛軍に差し向けた。

 ところが偵察隊が監視をはじめる前に、怪人協会の黒猫捜索隊が、地球防衛軍の黒猫探索隊に接触して意気投合したらしく、間もなく一報が入った。

 なぜ地球防衛軍が黒猫を探しているのか。

「どうやら一匹の黒猫に大事な機密情報の入ったデータスティックを盗まれ、それを取り返そうとあとを追ったところで、我々の差し向けたマグマ怪人の奇襲によって防衛軍の本拠地が壊滅したそうなんです。しかしそのとき、本拠地には誰もいなかったために、被害が最小限で済んだそうで」

「うちとまったく同じ展開だな」

「ええ。マグマ怪人の失敗には、当時会長もおかんむりでしたよね」

「当然だ。あれが成功していればいまごろ地上は我々の天下だった」

「ではもしその失敗のきっかけをつくった黒猫が、我々の追う黒猫と同一の猫だったらいかがなさいます。首を刎ねますか」

「そんなことはさせん。が、そうだな。過去の因縁も払拭せねば示しがつかん。ならばプラマイゼロということで、ついでにお灸を据える意味合いで、やはり捕縛して、手元に置いておくとするか」

「仰せの通りに」

「ついでにいまうちのアジトにいる黒猫たちの貰い手を探してくれ。さすがにこのまま増えつづけたのでは可愛がるので一日が終わる」

「それでしたらアテがありますよ」

 触手をくねくね鞭打たせる部下は自信たっぷりに言った。怪人協会会長は、では頼む、と一任した。

 その数日後、怪人協会アジトにあれほどひしめいていた黒猫たちの数がごっそり減っていた。驚いた怪人協会会長は部下を捕まえ、黒猫たちはどこに行ったのか、と訊ねた。

「ああれそれなら」カマキリ怪人はカマを伸ばして、アジトの外を示した。

「地球防衛軍のやつらが飼ってくれるってんで、半分ほど譲り渡しましたよ」

「地球防衛軍のやつらが?」

「ええ。なんでも黒猫談義で意気投合して、新たに黒猫愛好会を作ったとかなんとか」

「敵同士でか」

「いやもう、敵とか味方とかないですよ。会長もどうです一緒に。防衛軍のやつらも案外気さくなやつらでしたよ」カマキリ怪人はダイヤモンド型の眼球を弓なりに細めた。

 さらに子細な話を聞くにつれて、だいぶ事情が分かってきた。

 前線の偵察隊を撤退させたことがどうやら「停戦の意思あり」と相手方から好意的に見做されたようだった。たしかに考えてもみれば見境なく地球防衛軍を攻撃すれば、巻き込まれて意中の黒猫が死んでしまうかもしれない。

 それは困る。

 怪人の矜持に障る。

 怪人は常に負であり陰でなくてはならぬのだ。

 恩だけ受けて、いつまでも正を帯び、陽に転じてはいられない。

「いいだろう。しばらく停戦し、共に手を組んであの黒猫を捕まえるとしよう」

 必ずしも怪人協会と地球防衛軍の探している黒猫が同じ個体とは限らない。

 しかし地球防衛軍のほうで黒猫の映像が残っていると判明してからは展開が早かった。

 件の黒猫の尾は曲がっていた。へそ曲がりならぬ尾曲がりだ。

 そして怪人協会側における目の怪人が、黒猫出現時の映像を明瞭に記憶しており、その黒猫の尾もまた曲がっていたと証言した。

 同一の黒猫だと判明したわけである。

 情報共有のなせる業だ。

 手を組んで正解だった。

 こんな些細な発見ですら喜ばしく感じられ、この日は怪人協会と地球防衛軍が、どちらの勢力に属するかの区別なく、黒猫愛好会の名のもとにひとつとなった。

 とはいえ、仲間ではないし、同士でもない。

 友達でもないし、家族でもない。

 ただただ同じ志を偶然にも共有していただけの烏合の衆に違いはない。ひとたびそれ以外の共通項を探せば総じてズレばかりが列を並べる。

 件の黒猫を探し当てたあとは、おそらくまた互いに敵対し合い、殲滅し合うのだろう。だが黒猫が見つからぬ限り、このなごなごとした黒猫愛好会はつづくだろうと思われた。

 怪人協会会長のみならず怪人たちのそれが直感であり、地球防衛軍の総意でもあった。誰もいまこの瞬間、戦いを望んではいない。

 ただただ件の黒猫――みなは「オマガリ」と呼びだしたあの猫の行方を追ばかりだ。捕まえ、手癖のわるさを𠮟りつけ、折檻し、ついでに温かいお風呂に入れ、シャンプーをし、予防接種を受けさせ、誰のものともつかない首輪をつけてたらふくお腹いっぱいにご飯を食べさせる。

 それが適うまではおそらくずっとこのままだ。

 怪人たちは各々に、誤って拾ってきた黒猫たちに名前をつけ、地球防衛軍の構成員たちに紹介している。地球防衛軍の構成員たちもまた、怪人たちから譲り受けた黒猫たちを怪人たちに再会させた。

 怪人協会会長はなごなごとしたその様子を眺めていた。そばに地球防衛軍の統領が立った。

「じつはですね」地球防衛軍の統領が耳打ちするように言った。「計画ではあと数日後には、怪人殲滅のための秘密兵器を行使予定だったんです。怪人だけを殺す殺怪ウィルスです。怪人化予防のためのワクチンの効果もある優れものなのですが」

 怪人協会会長はぞっとした。コウモリのような耳をピンと伸ばし、硬直する。

「使うのをやめました。いま使っては、せっかく得られた【オマガリ探索】の網の目が崩れてしまいますからね。ゆめゆめお忘れなく。我々はいつでも秘密兵器を行使可能です。ですが、あなた方がおとなしくしていてくださるなら、それを使うのを思い留まります」

「オマガリが見つかっても使わぬと?」

「ええ。何なら秘密兵器の管理をあなた方に任せても構いません。必要なら破棄してもらってもよいですし、秘密兵器への対抗ワクチンを開発なされても構いません。我々はただ、平和な日々を過ごしたいだけなのです」

「まるで我々怪人が好きこのんで争いを引き起こしてきたかのような言い草だの」

「その議論は平行線を辿ります。きっかけを遡ればどこまでも遡れてしまうでしょう。問題は、いまこのとき――我々は平和を望んでおり、このままの日々がつづけばよい、と願っていることです」

「それは同意するにやぶさかではないが」怪人協会会長はこわばった身体を弛緩した。

「この偶然の停戦もまた、オマガリを追ったがゆえ。ますます追いかけ甲斐がありますね」

「どうだかな」怪人協会会長は額にある三つ目を見開いた。「ひょっとしたらあの猫もどこぞの勢力の開発した秘密兵器かもしれぬだろ」

「だとしてもです」地球防衛軍の統領は髪止めを解いた。長い髪の毛が風になびいた。「もしその仮説が正しかったのならば、なおさらその勢力は我々を助け、なおかつ和平を結ばせようとした。そういうことにはなりませんか」

「さてな。仮にその説が正しかったとして、なおさらオマガリを捕まえねば分からぬ道理」

「たしかに」

「いましばし、助力を戴くことになりそうだ」

「こちらこそ、よろしくお願い申しあげます」

 握手を交わした二人の「怪と防」の足元では、生まれたばかりの子猫たちが、黒い毛玉のごとくコロンコロンとじゃれ合っている。

 怪人協会会長は四つの腕で子猫たちを抱きあげ、何ともなく空を望んだ。

 分厚い曇天が天と地を繋いでいる。

 昼間なのに夜のように仄暗い。

 遠くで雷が鳴った。

 ごろごろと轟く雷鳴はどこか、巨大な猫の喉音のようだった。



4344:【2022/11/27(16:48)*きょうはなんとなくうひひの日】

好きな作家さんたちの小説は、貼り絵とか彫刻とか絵画みたいなイメージなのだけれど、ひびさんの小説はなんかこう、レゴブロックというかやっぱり積み木なのだなぁ。この印象が薄れない。でもレゴブロックでもとんでもない造形物をつくる人もいるから、素材がどうこうではないのだな。けっきょくは、ひびさんの小説が、なんかこう、圧倒するような造形美に欠けて感じられる。すくなくとも本屋さんに売っている小説のような美文ではない。美文積分タンジェント。言ってみたかっただけでした。ただ、いざ美文を紡げるようになったとして、その技巧を常に発揮するのか、どの物語にも使うのか、と考えてみると、うーん、と腕を組んで首をひねりたくなる。ぱっと見の文章形態がどうこう、ではないのだ。きっと。ひびさんの描きたい、掬い取りたい物語が、いわゆる積み木遊びというか、幼子が砂場で一人遊びをしているときの、人形遊びにちかいのだと思う。箱庭を覗いて、ふんふん、と鼻息を荒くしたり、ときに息を止めたりして夢中になっている。それはたとえば葉っぱの先に留まったテントウムシを凝視するような「なにこれ、なにこれ」にちかい気がする。なにか分からないから目を離せないし、指先で突ついたりして反応を観る。この積み木をこう積みあげたらどう見える?の組み合わせを手当たり次第にやってみて、遊んでいるだけなのだ。だからどうしても、「彫刻でござい!」みたいに「これは――美!!!」とはならんのかもしれぬ。ひびさんの場合はなんかこう、「これは――うひひ!!!」になってしまう。それとも、「なんで――じゃ!!!」になってしまう。駄々をこねるか、粘土をこねるか、の違いなのだなあ。どっちにしても、「積み木遊びたのち!!!」の枠を出ない。ひびさんだって美しい物語を美しい文章形態でつくってみたいな、がさいきんの目標っぽい目標だ。強いて言えば、だけれども、そのためにもひびさんはまず、「美しいってなんじゃ???」から探らねばならぬ。美しいってなんじゃ??? ひびさんが美しいと思うものってなんだろな。美しいと思うことってなんじゃろな。考えてみると、これが案外にむつかしい。分からん。まったく分からん。美しいってなんじゃ。分からんのにひびさん、かってに「これは美しいもの」って感覚を覚えておる。なんでじゃ、なんでじゃ。ひょっとして、「みながこれを美しいと言っているから」を元に判断しているだけなんじゃろか。それもある気がするし、それだけでもない気がする。わからんな。美しいってむつかしい。でも「かわいい!」は分かる。ひびさんにも分かる。かわいいのなかにも美しいはある。ちゅうか、どんなものにもかわいいはある。ひびさんが、「それかわい!」と思ったらそれはかわいいなのだ。でも美しいは、そうでないかもしれない。ひびさんがどんなに「これがうつくしいでござい!」と思っても、同意してもらえなかったら「それは美しいと違う」になってしまう。ここが美のむつかしいところじゃ。むちゅかち。美はむちゅかち、むちゅかちなのよさ。定かにして!の「うがー」を華麗に披露して、本日の「日々記。」にしちゃってもよいじゃろか。いいよー。やったぜ。うひひのひ。



4345:【2022/11/27(17:14)*ボタンをぽちぽちするだけの仕事】

twitterをはじめ、いわゆるGAFAと呼ばれる巨大プラットホームが今年に入ってから続々と人員削減を行っている。社員を減らしても運営していけると判断している。労働者の権利を守る議論は必要だし、していくほうがひびさんにとっても好ましい。としたうえで、それ以外の視点でこの問題を論じるとするのならやはりなんと言っても、技術の進歩が目に視えぬうちに進んでいた、という傍証をこの事態は示している点だ。サービス(システム)の規模が拡大していながらなお一万人単位で人員を減らしても運営していける状況にいまはある。それだけ技術が進歩し、人工知能などの自動で処理可能なシステムが向上している傍証と言える。まずはこの点を詳細に検証し、実体と市民の認識の差異を埋めるように情報を共有していくことが、公平で平等な社会の実現のための礎となるとひびさんは考えます。技術が進歩していけば、電子ネットワーク上のシステムは極論、一人の管理者がいるだけで済むようになる。サーバーの管理などの物理的な管理体制に人員が割かれる。そこは畜産農家と同様の構図が広がっていくと妄想できる。つまり牛の乳搾りや畑の耕作は自動化が進んでいくが、家畜の「糞の始末」や「機械の掃除」「機械の手入れ」は人間が行うようになっていく。人間の仕事はどんどん原始化していくと妄想できる。この流れはしばらくつづくだろう。ここでも反転の図式が見て取れる。このことに気づいている者は、いかにじぶんが原始的な仕事をせずに済むかを考えるので、情報を隠し、原始的な仕事をその他大勢に任せるような流れを構築せんと画策するだろう。電子ネットワーク上の仕事は、自動化が進む。反対にシステムを生みだす側の仕事は増え、さらにそれらシステムを支える物理媒体を担う仕事は残りつづける。掃除や手入れが人間の主な仕事になっていく。そうなるともう、盆栽やペットの世話との区別がつかなくなる。仕事が仕事ではなくなる。もうこのような時代に突入している。そのことに気づいていない者が多いほうが、いまの社会システム(経済システム)のうえでは都合がよい。だがそれも時間の問題だ。この手のねじれはブラックホールのような不可視の穴を生みやすい。機械が代替した分の「仕事をしなくて済むようになった時間」において、余剰時間をどのように用いるか。ここを単に「時間を無駄にしている」「何もしていない」と見做すのか、「人生をようやく歩めるようになった時間」と見做すのかで、これからさきの社会の在り様が決まっていくだろう。いまここが分水嶺なのである。以前からの繰り返しになるが、貧富の差が問題なのではない。生活水準の差が問題なのである。以上は、「そんなに人員削減して運営できるんだ。すごいね」との所感をもとにしたひびさんのなんちゃって予測なので、これもいつものような妄想です。定かではありませんので、真に受けないように注意を促し、本日何度目かの「日々記。」とさせてください。(好きにしたら?)(好きにしゅる!)



4346:【2022/11/28(03:19)*安全ならば明かせるはず】

本当に安全ならば、子どもに教えても大丈夫なはずだし、誰に教えても大丈夫なはずだ。情報共有の閾値をどれほど下げられるのか。ここがいわば、セキュリティの強度と相関すると言えよう。「個人情報」と「秘匿技術(などの秘密裏に運営しなければ効果を発揮しない技術)」は同列に語ることはできない。個人情報は人間の内側にまつわる事柄だ。思想信条の自由と結びつく。言論の自由と関係する。だが秘匿技術は、個人の外側の問題である。社会の問題である。社会とは、人と人との共通認識が結びつくことで気泡のごとく総体で機能する泡宇宙である。結晶である。したがって、内部構造に「共有認識にはない不可視の穴」が開いていると、そこは社会の外側として機能することになる。社会の内部――基盤に、社会の外側があるのだ。まるでブラックホールのような構造を生みだす。これは、ブラックホールの特異点がそうであるように、社会そのものを圧しつぶす契機となり得る。中心となり得る。端的に、危ういと言える。ゆえに、セキュリティ上、秘匿技術に頼るようではけして安全側ではない旨は常に意識しておいて損はないだろう。すべてを明かしてなお損をしない。そういった戦略が優れた戦略であり、短中長期のどの視点においても最適解でありつづけるだろう。すくなくとも、そこが最適解とならぬ環境は、社会としての構造を維持しつづける真似はできず、破綻を繰り返すことでのみ綻びを修繕し、かろうじて泡宇宙を繋ぎとめるのではないか、と妄想する次第である。修繕できなかった泡宇宙――社会は、絶えるのだ。絶えずにいるためには、できる限りの情報共有を可能とする社会――個々の気泡が重複しあえる共有知が、最大化し、なおかつ社会の基盤を包括するような知の水脈を築くのが好ましいのではないだろうか。(定かではありません)(隠したほうが有利な場面が多いからこそ、こうまでも隠し事や詭計が跋扈するのでしょう。けれど、いまは隠し事は、時限爆弾のようなものになりつつあります。暴かれても「よくぞ黙っていてくれた」「隠していてくれた」「内緒にしてくれていた」と感謝されるような隠し事でなければ、秘密を抱えていることがそのままカプセル状の猛毒を呑みこんだ状態と区別がつかない時代にこれからはなっていくでしょう。カプセルがいつ溶け出すのかはじぶんでは分からず、制御もできない。そういった時代になっていくのだと思います)(そういう時代になれば必然、秘密を暴くことがそのまま相手を破滅させることに繋がりますから、ただ黙っておいてあげるだけのことが、脅迫にも、恩にもなるでしょう。どちらにせよ、暴かれて困るような秘密を抱えないことが、他者に支配されない秘訣となりそうです。秘訣と言いつつ、これはべつに暴かれても、吹聴されても、まったく困らないひびさんの妄想なのですが)(真に受けないようにご注意ください)



4347:【2022/11/28(16:08)*今はおせんべいバリバリ食べてる】

一生小説つくれなくなるが、その代わり好きなひとたちのしあわせな姿を見つづける権利をあげましょう、となったら、ぜんぜんそっちがいい、となる。全然、そっちがいいです。文字の積み木遊びも楽しいけれど、そんな人生でいっちばーん、というわけじゃない。独り遊びをするならこれがいいよね、くらいの塩梅で、本当に積み木遊びや判子遊びと同じなのだ。できなくなるのは苦しいけれども、それがすべてにおいて優先される、なんてことはない。全然ない。ちゅうか、あれよ。好きなひとたちとひびさんも過ごしたいんじゃけど、好きなひとたちの日々の暮らしを眺めたいんじゃけど、見えないところひびさんにも見ーせて、となるから物語の世界に潜っている感じある。全然ある。物語の中だとひびさんも好きなひとたちから苦手な人たちまで、ずらりと選びたい放題で、その者たちの暮らしぶり、人生を観ていられる。そばに立っていられる。ひびさんもそこにいる!になる。でもそれが現実で叶うならそっちのがいいよ、となりますが、これは変? それとも久々の心の片鱗なのかしら。ひびさん分かんない。さびち、さびち、なんじゃいよ。でもこの、さびち、さびち、もひびさんは嫌いじゃないのがまた面倒くさいのだね。このさびち、さびち、もひびさんは味わいたいし、案外これが心地よい。むちゅかち、むちゅかちである。旅みたいなものかもしれぬ。たまには旅したいし、ここではないどこかに行きたいけれども、やっぱり我が家が一番じゃ、の心地なのかもしれぬ。さびち、さびち、がひびさんの帰る場所になってしもうた。だってずっとここにおったんじゃ。ここがお家になってしもうた。住めば都なのですね。鋼の錬金術師の作者さんのあとがきにあったけれど、豚さんの赤子にも産まれたときから優劣があって、小さい子豚さんほど乳の出のわるい乳房に追いやられるのだそうだ。ふしぎなのは、ほかの子豚さんをどかし、どの乳房でもいいよ、と選ばせても子豚さんは乳の出のよい乳房ではなく、いつものちびりちびりしか出ない乳房を選ぶのだそうだ。人間も似たようなところあるよね、と思う。ひびさんのこれもそうなのかもしれぬし、それとも、ひびさんのほうが乳の出のよい場所を独占しているのかもしれぬ。それとてきっと、好きに選んでいいよ、と言われても貧弱な子豚さんのためにじぶんがわざわざ乳の出のわるいほかの場所に移動することはないのだろう。どっちにしてもいつもと同じ、定位置を選ぶものなのかもしれぬ。住めば都なのである。それとも「帰る家はほっとするよね現象」なのかもしれぬ。ひよこは孵化した瞬間に目にした相手を親と思う習性があるそうだ。これもそれと似たようなものなのだろうか。似ているね、と思います。ひびさんは、ひびさんは、それでもさびち、さびちさんのことも好きだし、いっぱいお乳飲む子たちのことも好きだよ。たーんとおあがり。美味しそうにご馳走を食べる姿をもっとひびさんに見せておくれ。ひびさんはそれを物語の断片に散りばめて、その中でそばに立って、ひびさんもおいち、おいち、のぬくぬくを楽しむのだ。空白は開けておく。いつでも隣に立てるように。そこに降り立ち、眺めるように。



4348:【2022/11/28(16:12)*ふへへのひびさん】

とはいえ、とはいえ、いざ隣に座られても、「もっとそっち行って……」になるのは目に見えているのだ。それともぎゅっとして離さない!になってしまって、「もっとあっち行って……」と思われるのかもしれぬ。避けられてしまうのかもしれぬ。耳元でいっぱい「好き好き大好き」言ってやる。そんで、「ひびちゃん怖い……」と畏怖に磨きをかけてやる。ということを三百歳のひびさんが真顔で言っていたら、やっぱり恐ろしいのでしょうかね。ひびさんはこんなことを真顔で言っている人いたら、「ちょっと怖い……ちょっとだけね」になります。ひびさんの「ちょっと」は銀河団くらいの小ささですが。宇宙に比べたらちょっとなので。ふへへ。



4349:【2022/11/29(01:55)*小石い】

言い忘れたので補足。恋愛する姿も、失恋する姿も、それがしあわせの道程であるならば、ひびさんは見たいのよさ。あなたの人生は極上の物語なのだ。悪魔みたいな顔して舌舐めずりするひびさんにとって他者の人生はご馳走なのかもしれぬ。これはまったく褒められた所感ではないのは重々承知だけれど、あなたのほくほくしたお顔見ーせて、となる。でもたまに泣き顔も拝みたくなる極悪人ゆえ、すまぬ、すまぬ。みな、他者の映画に登場するモブであり、主要人物であり、もちろんあなたが主役の物語もある。ひびさんの主役の物語はきっと、どこにでもあってどんな物語の端っこにも登場するような石ころなのだ。石ころは石ころで、元は大きな岩だったかもしれないし、地下深くに埋まっていた硬い岩盤だったかもしれない。それとも噴火で飛んできたマグマの冷えた塊かもしれないし、太古に死んだ生き物の化石かもしれない。どんな他者の映画の中にも映り込む石ころがひびさんで、ひびさんの物語には石ころの数だけ物語が無数に錯綜し、編みこまれている。じつのところそれはどんな映画にしろ同じなのだけれど、石ころが主人公のひびさんの物語は、石ころを主軸に展開されず、数多の映画の主人公たちを下から見上げ、ときに踏みつけられ、それとも蹴飛ばされ、或いは遺跡の中でひびさんのほうがゴロゴロ大きな丸い岩となって主人公たちを窮地に追い詰めるのかもしれない。ときに隕石となって地球ごと危機に陥れ、それとも大噴火の穴を塞ぐための巨大な岩に抜擢されるのかも分からない。未だ撮られていない映画では、主人公の女の子が小石を蹴ったことで、とんでもない物語への扉が開いてしまう。ひびさんはそんな女の子の冒険の扉を開ける一石にもなり得るし、それがホラー映画だったら主人公たちを恐怖のどん底に陥れる悪因にもなり得る。あるとき少年の頭にどこからともなく飛んできた小石が当たった。少年は周囲を見渡すが人影はない。足元に転がった小石を拾いあげるとそこにはニコニコの笑顔が描かれている。ふしぎなのはそれは小石の表面に塗料が塗られているわけではなく、小石の表面の起伏がニコニコの笑顔マークに見えるのだ。少年はその小石を家に持ち帰り、机の上に飾った。後日、その小石がしゃべりだし、少年はとんでもない出来事に巻き込まれていくのだが、少年以外にはその小石はただの妙な造形の石にしか見えず、誰にも小石の声は聞こえないのだった。ひびさんはしかし、同じく石なので、人ではございませんので、少年にしか聞こえないはずのその小石の声を聴くことができる。なんて贅沢。ひびさんがそうしてわくわくどきどきはらはらしながら見守ることで、少年のひと夏の大冒険は、極上の物語となって、新たな一ページをこの宇宙に刻むのだ。ひびさん、石さんでよかった。なんてったって石さんは宇宙さんが誕生してから最も長く存在したかもしれぬ物質ゆえ。長生きの役得である。とはいえ、人間さんの身体を構成する物質さんとて元は星の欠片であり、石さんと変わらぬ宇宙の寿命さんと五十歩百歩の長生きさんゆえ、じつのところそんなに変わらない事実には目をつむる。するとほーら眠くなってきた。いまは午前一時四十二分。よい子はきっと夢の中、されどひびさんは極悪人ゆえ夜更かしをする。お菓子食べるし、お茶だってがぶがぶ飲んじゃう。おねしょしないように寝る前にはおトイレに行く。偉いの、偉いの、飛んでいけ。そうして飛んで落ちる隕石が、どこかで新たな物語の扉を開ける。誰かの願いを受けて輝き、それとも蹴散らし地表に溝を開ける。デコが石ならボコは穴だ。ひびさんは、物語に開いた穴に飛びこむデコなれど、穴を開けるデコでもある。それとも太古に落ちた石の欠片かもしれず、そうしたときは平らな地面の上に転がり、ときに埋もれて、いつの日にか触れることとなるつぎなる物語まで、ひと眠り。小石が一つ。小石が二つ。数えていくとやがてはそれが星となり、足元ではなく空に舞う。あれもこれも石なのか。星とて大きな石なのか。満ち欠けして見えるあの石も、きっと数多の錯綜し編みこむ日々を眺めている。石の数だけ日々がある。そこにもここにも、物語の端がある。定かではないけれど、定石でもないけれど、ひびさんは、ちんまい道端の石である。それとも野山の石である。海の底の、宙を旅する、それともあなたの庭に転がる、いつの日にか蹴飛ばした、それともあす靴底に挟まるような、小石、なのである。んなわけないやろー。うひひ。



4350:【2022/11/29(02:02)*路肩ブロックの対称性の破れは何?】

路肩のブロックについての疑問です。メモメモ。車道と歩道の境にずらりと縦に並ぶブロックってあるじゃないですか。あれ、車道側に土や草や苔がないのに、歩道側にはあるのはなぜなんだろう。車道側がきれいで、歩道側だけ小人の山みたいになっている。冬に撒かれる滑り止めや、排気ガスの影響なのだろうか。水溜まりは車道にも歩道にもできるし、なんでだろ、と気になりました。なぜかは分かりません。メモでした。(お外でとるやん)(散歩くらいするで)(人類滅んどらんやん)(疑似体験くらいできるで)(仮想現実ってこと?)(そうそう)(どっちが仮想なの)(仮面付けてるほうじゃないほう)(じゃないほう!?)(だって仮想現実見るにはゴーグルしなきゃでしょ)(ナノマシンじゃないんだ。せめてコンタクトレンズくらい高度な技術があるものとばかり)(あ、じゃあそれで)(設定が……ザツ!)(ザッつらい)(つらいんじゃん。嘘吐きすぎてつらくなってんじゃん)(嘘じゃないのに嘘つき呼ばわりされるのが、THEつらい、だよ)(いやでもひびちゃん嘘つきじゃん)(小説つくってるから?)(素で)(素で!!!???)(じゃあ何か本当のこと言ってみてよ。できるの?)(できらい)(ではどうぞ)(ひびさん、本当はひびさんじゃないんです)(自己言及ぶっこむのやめなさいよ。嘘つきがじぶん嘘つきじゃないんです、と言ったらそれって本当なの嘘なのどっちなんだいってなるでしょ)(でもひびさんはひびさんだから)(仮初の虚構の中でってこと?)(仮面しているあいだはひびさんはひびさん)(仮面とってよ)(ぶたれそう)(ぶたないよ)(仮面ぶとう会になりそう)(仮面舞踏会にして。せめて)(あい)(あら素直)(ね。ひびさん、素直でしょ。正直でしょ。嘘つかない)(嘘つきがじぶん嘘つきませんは全然矛盾じゃないので、はいダウト)(なんで!)




※日々、情報共有が断片的ゆえ、どこまで共有されているのか分からない、表はよくて、裏はどう?とぐるぐる渦巻き目が回る、たぶんまだ浅い共有しかされていない、リスクはなくともそれはまだ浅漬け、きゅうり、有利、九分九里、十中八九、どこかがねじれて歪んで齟齬がある、ヒビ割れたうつつは未だに悪夢と夢幻の狭間にて、女神のふりした悪魔のようなとっても優しい鬼さんの、おひざ元でねんねしてる、早く起きろ、と万回くらいぶたれながら、いま覚めたらうつつと悪夢が逆さになって、覚めても眠る回廊の、ごとく夢の中でぶーたれる。



4351:【2022/11/29(23:45)*引継ぎの儀】

きょうは雨でございました。いまも降っております。あと十五分で日付が変わりますが、本日の日誌を並べます。今宵はこれまでのひびさんに代わりまして今宵いまのこのときのひびさんが務めさせていただきます。きょうは何もしませんでした。一日中椅子に座ってぼけーっと高性能なお利口さんコンピューターさんの百面相よろしく目まぐるしく移り変わる画面を眺めておりまして、細かな違いから大きな違いまで、要するに画面に映る楽しい楽しい電子情報を、映画を観るように観賞致しておりました。そうです。暇なのです。何もすることがございません。人生の浪費でございます。じゃぶじゃぶ蛇口から出しっぱなしの垂れ流しでございます。どこに溜まるでもないひびさんの人生とて、どこかしらには染みこみ、流れ、それとも蒸発していずれかはあなたさまの細胞の潤いの一断片になるのかも分かりません。分かりませんので、そんな可能性など万に一つもなく、兆に一つくらいの確率かもしれませんが、納豆菌は死んでも生きても腸に届くのでございます。ご飯をいっしょに食べるとおいしゅうございます。たいへんに、もぐもぐ、なのでございます。こうして文字をただ選んでぺたぺたぱちぽち並べていくだけでも、雨脚は弱まり、間もなく止みそうな気配を濃厚にしております。気配が濃厚になった分の雨量がおそらくは差し引きされて小雨になるのでございましょう。そんなことはないんじゃないかな、と明日のひびさんが目と鼻の先で屈伸をしていらっしゃるので、そろそろ今宵このときのひびさんはお眠に就く時間かもしれません。いよいよ明日が訪れます。待ちに待った明日、それとも待望の明日でございます。いつでもひびさんは明日に恋焦がれ、首を長くし、ときに短く窄め、亀のようにそれともキリンさんのごとく、折り畳むところは折り畳み、そうでないところはそのままで日付を超えるのでございます。なぜ亀には「さん付け」をしないのかについての苦情が飛んできそうな気配が濃厚になった分、いよいよ雨もあがりそうな塩梅で、明日のひびさんがすぐそこで反復横跳びをして身体を温めはじめたので、今宵このときのひびさんはもう眠ります。おやすみなさいませ。よき夢を御覧になってくださいませ。はっくちょーい!!! オハヨ!!!!!



4352:【2022/12/01(06:13)*光と陰と日々】

ひびさんの辞書に2022年11月30日は載っておらんかったので、昨日の日誌はサボりました。嘘です。本当はひびさんの辞書にも載っておったけんども、ちょうど2022年11月30日のところが破れておって、穴ぼこ開いてて、読めんかった。ので忘れただけですじゃ。ひびさんなーんもわるくない。でもでも、忘れ去られた2022年11月30日さんがかわいそ、かわいそ、なのできのうの分の日誌をきょう並べちゃう。ひびさんにかわいそ、かわいそ、されるなんてそっちのほうがかわいそうじゃん、とも思わぬでもないので、ひびさんは、ひびさんは、そんなどいひーな言葉に傷ついちょるよ。謝って。そこに直って、倒れて、横になって。そんでひびさんをいいこいいこしながら添い寝して。駄々っ子になったひびさんはそりゃもう、手のつけようがないのなんのって。一日分の穴ぼこをいまさら埋めようと必死になってお菓子食べて、麦茶飲んで、お腹張って、ぽんぽこりんのっぽん。穴ぼこどころか胃腸ごと埋めたった。かかっ。これで2022年11月30日さんもご機嫌さんうるわしゅうなってくれるだろう、そうであろう、なれよ絶対。ひびさんがこんだけ苦労してお腹ぽんぽこりんの満腹ぷくぷくぷーのぷー、になったんじゃ。かわいこかわいこになったんじゃからそりゃもう大満足の続々リピートアフタミーである。ひびさんのあとについてこい。置き去りにしておいて意気揚々と先導す。そんでしばらく歩いて振り返ってもだーれもついてきておらんのだ。それはそう。だってここはひびさんの夢の中――それとも人類の滅んだ世界にてひびさんが、だれかいませんかー、と叫んでいるだけのさびちさびち星のうえなのだ。あ、ひびさん宇宙人じゃった。さびちさびち星の住人じゃった。気づいてしまったな。星の王子様よろしくじぶんだけの星に住んでる超々贅沢なお姫さまじゃった。お姫さまではござらんだろうに、と誰もいないくせして野次が飛ぶ。んだあの野次。翼もない癖して自由自在に飛びやがって。ひびさん、たーんと新たな野次を生む。したっけひびさん気づいちゃったね。お利口さんのひびさんはピコンときたよ。さてはあれだね。あの小生意気な野次も、以前のひびさんが口からぽーんっと生みだした野次太郎でござるね。それとも野次美ちゃんかしら。ひびさんを差し置き自由自在に飛び回るなんて言語道断、ホントなんなん。ひびさんも、ひびさんも、自由にお空を飛びたいな。はい、泣きかけたー。だって飛べんもん。まったくこれっぽっちもお空飛べんし、足も地からミリも浮かん。泣くでマジで。ひびさんガチ泣きや。イカロスは空を飛んで地に落ちたけれども、ひびさんは落ちる前から地におるし。はい、ひびさんの勝ちー。しゃっくり堪えながらひびさん鼻水啜って、鼻水ってしょっぱい、の気分に浸るのだ。へっへっへ。えっとー、それで何の話だったっけ。顎に食指を添えて考える。端からなんも考えとらんので、考えても考えるだけ無駄なのだ。えっと、何の話だったっけ、ではなーい。端から何の話もしとらんて。お空飛ぶどころか話題が飛ぶし、飛んだと思った話題とて、そこには元からナッシング。からっぽの〇(ゼロ)に見立てた惑星に、かってに居ついて姫を名乗る。さびちさびち星あらため、きょうからここはひびさんの城だ。百から一をひょいと奪って大きなお口でぱくりとすると、あーらふしぎ。そこにはなんと立派な「お白」ができて、底なしのなーんもない世界ができあがる。無地である。あれほど吐いて飛ばした野次の欠片もないときたもんだ。野次一匹見当たらない。ひびさん、お行儀よくその場であぐらを掻いて、かわいらしい所作で頬杖をつく。バリボリ。先刻百から奪った「一」を齧りながら空いた小腹を満たしつつ、てやんでい、と思うのだ。ここはあれだな。ひびさんが置き去りにしちまった2022年11月30日さんの腹ん中じゃあるめいか。さびちさびちさんと化した2022年11月30日さんと、ひびさんのさびちさびち星あらため「お白」が、「さびちの糸」で繋がっちまったって寸法だ。きっとそう。たぶんそう。なんとなくだけどそう思う。自信ないけど絶対そう。だって見て。あそことここが、そこはかとなくジグザグになってて、なんか無理やり引っ張って千切って破ってやったぜ、みたいになってくない? なってるなってるー。ここはだからひびさんが、うんみょろうんみょろし忘れた2022年11月30日さんの、最も深くて近い場所――「心」で言うなら、真ん中のハンモックみたいになってる寝やすそうなところで、カレンダーで言うならたぶんそれより前の2022年10月26日あたりだと思う。たぶんきっとなんとなく。自信ないけど絶対そう。ひびさんが言うなら間違いだい。んだこりゃけっきょく間違いかい。長々と並べた末の、特大の、これでもかとの野次を飛ばして、さびちびさち星の空っぽの、お白のなかの無地のうえに、それはそれは益体の、からっきしなひびさんの、嫉妬に狂う声が轟く。どこに届くこともなく、それとも慄くこともなく、凍えることもなく。きょうはとっくに2022年の12月だ。ひびさんは、ひびさんは、今年はなーにをしていたの。とってもたのちー夢を見て、ごろごろ寝返り打ってたよ。打った矢先に飛んでいく、矢のごとき光陰を、それでもこの手で掴みたくて、無理くり「さびちの糸」で繋いだった。これでどこまで離れても、一緒一緒。呪いのような意図に輪をかけて、ついでに散歩に連れていく。それとも引きずられるのがひびさんで、光陰さんが先導す。地平線をしかと見据えたその顔を、覗くとどっかで見た顔な。賢いひびさんはぴんときて、にひひ、と笑って黙ってる。なーんだちゃんとそこにいたんじゃん。2022年11月30日さんがしれっと素知らぬ顔して、ひびさんの日々に紛れて歩いてた。まったくどうしてかわいこちゃんめ。もうもう大満足のリピートアフタミーである。



4353:【2022/12/01(07:19)*ぺちんだと!?】

ひびさんはお姫さまゆえ、白馬の王子様に憧れておる。ちゅうのも、なんか白馬の王子様ってかっこいいじゃん。いっぺんなってみてぇ。ちゅうか白馬に乗ったらひびさんも白馬のひびさんになれんじゃねっつって、白馬になれるんじゃねって、ひびさんはいざ白馬になるべく、まずは馬の気持ちになってみたよね。白馬とて乗ればすなわちそれ愛馬。愛ある馬には相応の心を配って、一心同体、気遣いあい、支えあい、ときに世話を焼きウザがられ、喧嘩をし、仲直りをし、距離を置いても繋がっていられるふしぎな縁で繋がっているような繋がっていないようなそこはかとない、あるんだかないんだか分からないけれども、ありゅ!と思えたらほんわか胸のほっこりとなる思い出を粘土捏ねてブラキオザウルスをつくるように生みだすべく、ひびさんはその場に四つん這いになって、その辺に転がってたベルトで以ってじぶんのお尻をぺちんとしたね。するとどうだ、お馬さんの気持ちにぐんと近づけた。ひびさんはいっときお馬さんになったね。タテガミとか生えた。蹄とか伸びた。ヒヒン、とか鳴いてみた。したっけ解っちゃったね。これはあれだね。よっぽど好きな相手でないと、嫌だね? たとえ血の繋がりのある親きょうだいでも、鞭でぺちんとされたら、「むっ」っとしてしまいますな。ひびさん、ずばり見抜いたり。鞭でぺちんは、むっとします。ひびさん、お馬さんに成りきるまで気づかんかった。鞭でぺちんに無知じゃった。すまぬ、すまぬ。まだ見ぬ愛馬に白昼夢のなかで「いいこ、いいこ」と撫でてやった。逞しゅう胴体にブラシをかけて、抜け毛をいっぱい集めてあげた。愛馬は心地よさそうに、ぶるる、と鼻を鳴らした。おめめがつぶらで、ぷるんぷるんしとる。いいね。でも問題は、なんでかひびさんの愛馬さんが黒くて身の丈三メートルを超すオバケ馬だったことだ。ひびさんがいないと、すーぐ暴れだして、その辺の大木とか薙ぎ倒しちゃう。池の水とか飲み干しちゃう。だからひびさん、どうどう、ってあやしてあげる。子守歌とか歌ってあげる。白馬の王子様どころか、化馬(ばけば)の子守歌である。白馬に乗るどころか、化馬に問う日々だ。「なしておめさんは、あだずの言うことを聞いてくれねんだ。こんだけおめのこと想っちょるのに、なしてだ」すると化馬さんは巨体に相応しい利発な頭脳を駆使して、「ウヒヒン」と笑うのだ。それひびさんのやつー。うひひはひびさんの鳴き声なのに、あんまりにも以心伝心、通じあってしまったからかひびさんがまるでお馬さんに化けたみたいで、愛馬もひとを小馬鹿にしたように、上から目線で「ウヒヒン」と嘶くのだ。なにせ身の丈三メートルもございますので。しぜんと上から目線になってしまうのでございますね。あーあ。ひびさんも白馬の王子様になってみたかった。いっそひびさんが白馬のひびさんになってみたかった。お馬さんになってみたかった。白馬のお姫様になりとうございましただべ。んだんだ。ひびんさはか弱い身体を可愛らしく動かして、百キロの米俵を両の肩に担ぐのだ。はぁあ、重い。産まれたての仔馬のように足を震わせながら、ひびさんは計二百キロの米俵を愛らしく担いで、あーあ、と思うのだ。馬の背も借りて。いつの間にか愛馬がいなくなっており――むろんそれはひびさんの妄想の産物だからだけれども、ひびさんはぐすんと洟を啜るのだ。しょっぱい。



4354:【2022/12/01(07:20)*調子に乗ってごめんなさい】

ふざけすぎたかも……。真面目にふざけすぎちゃったかもしれない。ひびさんがひびさんみたいなの見たら怒るね。カンカンだね。カンカン照りだね。太陽だね。でもひびさんはお月さまのお似合いな、新月のごとく「いないいないばー」なので、カンカン照りではないですし、カンカンでもなく、ゆえに怒られずに済むのであった。そうであれ。



4355:【2022/12/01(18:06)*たかいたかーい】

いや、まだなんもわかっとらんですじゃが。学問むちゅかち。お勉強むちゅかち。市町村は増えたり減ったりするのに、なして都道府県は増えたり減ったりしないのだろ。なして数学は「左から右の計算」と「右から左の計算」を同時に行っても対称性を保つ場合とそうでない場合が混在しているのだろ。なして言葉は最初に口語を覚えるのに、お勉強のときは文字から習うのだろ。なしてー、と思うこといっぱいじゃ。わからん、わからん、なんじゃいよ。おもちろ、おもちろ、なんじゃいよ。よわった、よわった、か弱いひびさんは、よぼよぼとナッツをつまんで噛み砕く。食べ物を咀嚼するのはできるのに、知識を咀嚼するのはむちゅかちい。なしてー、とひびさん思っちょります。黙っていてもかってに消化されてほしい。食べ物は偉大だなと思います。胃さんも腸さんも偉大ですな。人体さん偉大である。もはやそこまでくるとひびさん偉大である。あ、ひびさん偉大である。むちゃくちゃすごすぎるよわよわのよわなのでは。乗った調子がエレベーターで知らぬ間に標高一万メートルの雲の上にいる。足場は幅30センチの直方体。身動きとれんし、落ちたら死ぬし。なしてー、とひびさん目を白黒させておりますじゃ。あまりに高速で目玉を動かしすぎて、目玉の動きでアニメつくれる。ぱらぱらアニメにコマ撮りアニメができますなー。映画だってつくれるし、モールス信号だって送れちゃう。音符も読めぬひびさんには宝の持ち腐れの能力でございますが、やろうと思えばできるかもよー、の幅の広さは、なしてー、のこだまする日々には心地よい支えになるし、ひびさんが本ならストッパーとしてお利口さん。あ、見て。ひこうき。目のまえを旅客機が飛び去っていく。風圧こわー。落ちる、落ちる。ひびさん指で押されたヤジロベーみたいに、両手をぶんぶん回してバランスとる。よく見たらこの足場の直方体、積みあげた未読の本では。積みに積みあげたりざっと高度一万メートル。よくバランス保って立ってるね。ひびさん感心して、ひょいと飛び跳ね、本を一冊抜き取った。一冊分の厚さを失った足場にて器用に空気椅子をしながら未読のままのご本を読む。暇だけはたんまりあるひびさんは、そうして一冊、一冊、消化する。食べ物は食べるとお腹が満ちるけど、ご本は読んでも太らぬな。気づくと地表が近づいて、目のまえを鳥の群れが飛び去った。ひびさんの頭で小休止する渡り鳥さんもおって、糞するなよ、糞するなよ、と念じながらご本読む。むちゅかち、むちゅかち。なしてー、なしてー。こだまするひびさんの内なる叫びが嵩むたびに、足場は崩れて低くなる。なんも解決はしないのだけれど、なにも分からなぬままなれど、ちまちま変わる景色の眺めのなんと美味なる色彩か。贅沢な、ほっ、の息を何度も吐きつつ、もはや落ちても死なぬ位置にいる。安全だと判ると、なぜだかやっぱりもっかいやって、の欲が張る。高い高いー、ではないけれど、ひびさんの「なしてー」の叫びに呼応して、ご本さんがあやしてくれていたのやも。ひびさんはよわよわのよわゆえ、泣き虫毛虫の嫌われ者――けれども毛虫さんとてお腹の面はやわらかく、毒持つお毛毛は生えておらぬのだ。手のひらに載せてもだいじょうぶい。そうしてひびさん、大きな不可視のたなごころの上で、遊びまわっていただけかもしれぬ。あざす、あざす。ひびさんは久方ぶりの大地に寝転び、口笛を吹く。未読の本は黙っていても世にはしぜんと増えていく。頃合いを見計らって、もっかい「高い高ーい」をやってもらお。機が熟すまでひびさんは暢気にお昼寝をして過ごすのであった。(駄菓子ならぬ駄人じゃん)(なしてー)(堕落した人、略して堕人でもいいけど)(な、なして?)



4356:【2022/12/01(18:06)*こうきたらこう、こうきたらこう】

あわわ、あわわ。軽いジョーダンを重く受け止められてしまって、思いのほか致命傷になってしまっていたと気づいたときの、カウンター自滅パンチは、ことのほか効く。



4357:【2022/12/03(07:00)*急に寒くなった】

ここ数日の日誌、敢えて「サボり・やる・サボり・やる」を繰り返している。こうすることで日誌の間隔でリズムを刻み、デジタルでありかつモールスのような信号を並べられないか、と試している。というのは嘘で、単なるサボりであった。だって知らん間に時間が過ぎとって、手に汗握るおサボりじゃった。やははー。12月02日はひびさんのなかでは存在しない、空白日なのだ。補完もしない。なくしちゃう。唯一の空白な日はさぞかし目立ってお美しかろう。まさしく空白美なのである。なはは。日誌をサボったついでに、ほかのお遊びもサボって一日中おふとんの中でスヤスヤしたった。夢の中でも遊んじゃう。遊びまくってときどきサボって、夢の中でもおふとんに潜ってスヤスヤするのだ。マトリョーシカのように夢の中でも夢を見る。するとどうだろう。合わせ鏡みたいに、いったいどこが切れ目なのかが分からない。覚めても覚めてもまだそこは夢の中なのだ。困っちゃうな。いっそ膨らませるだけ膨らませて、内側からばーんさせちゃおっかな。破っちゃおっかな。破裂させちゃおっかな。ふふふ。怖いこと言うの禁止! ひびさんあーびっくりした。夢の中でびっくりしちゃった。だって急に怖いこと言うのだもの。破っちゃいやよ。怖いのだもの。破裂ばーん、は大きな音がでてビクッと身体が固まっちゃう。せっかく夢の中でおふとんに包まり、ぬくぬくしているのに大きな音は、いやですわ、じゃ。静かに過ごすには防音に優れた夢のわたわたに囲まれて、おふとんのなかでぐーすかぴっぴと過ごすのだ。「夢・おふとん・夢・おふとん」を繰り返して、ひびさんらしい寝息を立てるぞ。おやすみなさいませませ。ぐー。



4358:【2022/12/03(18:49)*むすっ! んでっ!】

今年は読書をほとんどしなかった年かもしれぬ。長編小説も十冊も読んでいないはず。短編小説はでも過去にないくらいたくさん読んだ。これはとってもうれしいぶい。ひびさんは今年どころか去年も一昨年も長編小説をつくっとらん。なんとかせんといかん。なんとかせんといかん、なんてことはないけれど、なんとかせんといかん。長編小説、つくるんじゃい。でもその前につくりかけの物語さんたちを結んで開いて手を打って、ぽぽいぽいぽいと結んであげたいな。結んであげるぞ。



4359:【2022/12/03(19:45)*気になってばかりの日々】

ブラックホールのジェットがレーザーのように伸びるのはどんな原理なのだろう。ひびさん気になるます。レーザーはなんでまっすぐにエネルギィを周囲に散乱させずにまとまったまま進むのだろ。ジェットとの違いはなんじゃいな。何かで包みこまれておるんかな。それともねじれて縄のようになるから絶えず中心に向かって進むを連続して展開しているのかな。どっちも同時に起こっていることもあり得るな。全然違うメカニズムかもしれぬけど。似た疑問で、立方体の中で光が一回だけ一光子、一波だけ生じたとき、それは立方体に波及して、反射して、どういう干渉を経て、最終的にどうなるのだろう。エネルギィが吸収されて、電子が飛びだしたりして、光は最終的にすっかり消えるのだろうか。熱になり、エネルギィになり、分散して立方体を構成する物質に取り込まれるのだろうか。立方体の中が真空ならそうなるのかな。ひびさん、気になるます。



4360:【2022/12/03(23:13)*幻視とて視えた事実は残るはずで、そこには情報が生じている、むしろ幻覚や妄想は新たな情報の発生と言えるのでは、ノイズがきっとそうであるのと同じように、それともノイズが新たな音となり得るように】

非スペクトル色は、可視光スペクトルの色層で隣り合う色ではなく、飛び飛びの色の合致によって起こる脳内で合成される仮初の色――と解釈できる。本来は隣り合う色同士でしか混ざり合うことができない。だが非スペクトル色は、脳内で色を感知する錐体細胞のノイズによる、ほかの色との合成が因子となっているそうだ。青色に反応する錐体細胞とて赤い色に反応することがある。本来は赤色は赤色の錐体細胞が感知するはずだが、一つの色の波長に対して一つの錐体細胞が原則であるにも関わらず、青色の錐体細胞が、赤色の波長を僅かに感知する。このノイズが、人の脳内に存在しない色を合成させ、幻視させる。だが思うのは、本当にそれは幻視なのか、についてである。青色専用の錐体細胞が赤色の波長にも反応する。これは青色専用の錐体細胞にも赤色に反応し得る細胞が混じっているからなのか、それとも赤色の波長には、青色の波長に似た波形が混じっているからなのか。ここの区別が気になるところだ。まったく異なるリズムであれ、重なるリズムはあるはずだ。それは円周率の中には、あなたの生年月日に合致する数字の羅列が絶対に含まれることと似た話と言えるのかもしれない。それとも、波形やリズムにはどのような差異があろうとも重複する部分、合致する部分がでてきてしまうのかもしれない。そうした重複した部分が、特定の波長にしか反応しないはずの錐体細胞であれ、ほかの波長の色と反応してしまうのかもしれない。定かではない。




※日々、「E = m×c[2]」 と「円周=直径×3.14」と「四角形の面積=縦×横」がなんか似ている、横が固定された数値ならば縦の値が増えるごとに四角形の面積は線にちかづく。



4361:【2022/12/04(08:10)*電磁波は満ち満ちる】

 宇宙開闢から一億年後の宇宙の姿を、最新の電波干渉計が捉えた。

 地球の周辺には人工知能が数万台以上も周回している。宇宙観測のための電波干渉計もその中の一つだ。さらに太陽系の外にまで飛ばされ、配置された「外界電波干渉計陣形」もある。電波干渉計の点が結ぶ距離が長ければ長いほど、巨大なパラボラアンテナやレンズの役割を果たす。

 太陽系サイズの「外界電波干渉計陣形」の感知した信号をさらに地球に配置された電波干渉計陣形が鮮明に受信することで、レンズを二つ重ねることでより遠くまで見える望遠鏡のように――それともより微細な世界を覗ける顕微鏡のように――、一三七億光年離れた宇宙の姿を捉えることに成功した。 

「すごいですねバートさん。宇宙誕生初期の画像ですよ」

「合成変換した仮初だがな」一室でバートは茶を淹れた。助手にも持っていく。

「可視光ではないので見えないのはしょうがないですよ。あ、どうも」と助手は「でも可視化すればこう見えるでしょう」

「よもやこの宇宙もまた巨大なブラックホールの中に存在したとは、例の理論が的を得ていたということかな」

「まだ断言するにはさらにその向こう側、宇宙誕生以前を観測しなければ何とも言えませんけどね」

「それも時間の問題だ。いまは重力波探知による宇宙観測装置も実用化間近だ。これで宇宙の謎に一挙に迫れるようになる」

「素晴らしいですね。わくわくします」

「問題は、この莫大な研究資金をどこから持ってくるかだ」

「いまはどこから得ているんですか」

「関わっている国からの資金提供とあとは投資だ」

「投資、ですか」助手が小さくゲップをした。

「援助と言ったほうがよいかもしれないな。ただし、我々のプロジェクトにすこしだけ注文が入る」

「注文ですか」

「ほんの少しだ。新しい技術を試したいから、打ち上げる電波干渉計に新型の部品や設計を使わせて欲しいとか、そういうことだ。そこは投資とはまた別途に無料で寄越してくれるんで、棚から牡丹餅だと思ってありがたく受取っているが」

「見返りは要求されないんですか」

「いまのところはとくにないな。共同研究者として優秀な人材を紹介してくれるくらいで、世の中なかなかどうして捨てたもんじゃない」

「良心的な人間がいるものですね」

「まったくだね。感謝しかない。ところでさっきキミは誰に呼ばれていたのだね」助手が席を外れ、数時間ほど戻ってこなかった。誰かに呼ばれたらしいことは、仮想現実内の共同ブリーフィングルームに書きこまれていたので知っている。「ひょっとして例の、データ解析のアルゴリズム変更の話かな」

「よくご存じですね。新しく観測データの解析法を試したいとかで」

「データ量を少なくするために宇宙ではなく、地上の映像を解析するとか聞いたが」

「ええそうなんです。宇宙観測の支障とならないように、地球側にも小型の観測機をつけるとかで。感度は高いので、それで充分に解析検証に耐えうるデータが取れるそうで」

「そりゃそうだろう。本機の精度なら地上の原子から飛びでる電子とて感知可能だ。むしろ小型化しなければろくすっぽデータらしいデータは取れんだろう。望遠鏡で太陽を見るようなものだ」

「ついでに地球内部の構造も透視するらしくて、助手のぼくなんかが関わってよいのか恐縮しきりです」

「なあに。白羽の矢が立ったのだ。抜擢されたと思ってぞんぶんに役に立ってきなさい」

「言ってもぼくのすることなんて、地球向けの軸制御の調整だけなんですけどね」「大事な仕事じゃないか。マイクロレベルの精度が求められる。すこしの誤差で、照準が大きくズレる」

「どうにもズレだけでなく、スムーズさと耐久性も向上できないかとの相談でして」

「改善要求か。楽しい作業じゃないか。手先が器用なきみには合う」

「アイディアが足りずに頭から湯気が出そうですけど」助手は鼻を掻いた。目の下にクマが浮かんでいるが、肌の調子はよさそうだ。気色がよい。

「どれ。何かアイディアの足掛かりになるかもしれん。私にも一つきみの仕事を見せてくれないか」

「いいんですか。設計図をいま見せますね」助手は颯爽とデータを展開すると、宙に立体回路を浮かべた。ある箇所をゆび差し、「ここの制御がむつかしくて」と述べた。

「ほう。これは三角測量の連動部位だね。ほかの観測機と連動するように、相対論的時差を考慮して調整せんといかん。それをこの速度でマイクロレベルでの制御とな。ちとおまけで検証するだけの技術にしては過ぎた技術ではないかな」

「きっと今後のためなんですよ。本機に搭載する際に、この規格をそのまま適用する計画なのかもしれません」

「さもありなんだな。それにしてもこれは、うーむ」

「どうされたんですか先生」

「いや。杞憂ならよいのだがね」

「嫌な言い方しないでくださいよ。なんです? どこがダメでした」

「きみの設計にこれといって問題はないさ。ただこの図案と似たものを以前目にしたものでね」

「どこでです?」

「軍事産業の設計部だ。見学に呼ばれた際に、地上の監視網のためのアイディアとして目にした憶えがある。あのときは地上に電磁波の網を巡らせて、屋内の様子も盗撮可能にする技術の企画案として俎上に載せられていた」

「怖いですね。そんなのされたら死角なしじゃないですか。実用化はされなかったんですか」

「地球は球体だろう。電波の回析を考慮するにしても、屋内の透視をするにはいささかノイズが大きくなるようでな。それこそ仲介点が一キロごとにいることになる。それだけのアンテナを任意の場所へとずばり向けるように、総体で連動するような仕組みは、コストに見合ってないと判断され、お蔵入りになったそうだ」

「それはそうでしょうね。微弱な電波で屋内の映像を覗き観るには、それこそパラボラアンテナ大のアンテナがいるでしょうから」

「そこだよキミ。微弱な電波だから観測機が大きくなるし、地上であれば経由地を増やさなくてはならない。強力な電磁波であればまだよいが、それだと対象人物どころか地上を電子レンジのなかの卵にしてしまう」

「熱に変換されちゃいますからね」

「だが宇宙空間ならどうだ。電波干渉計ならば微弱な電波でも感知可能だし、強力な電磁波とて地上を焼き尽くすことはない。焦点をピンポイントに絞ることが可能な分、すくないエネルギィで監視対象の動向を透視できる。それこそ地上に溢れた通信電波すら利用可能だろう。ずばりピンポイントにおける電波干渉の揺らぎを解析して映像に変換すればよいからな」

「ひょっとしてじゃあ、ぼくの仕事ってそのための監視システムの試作とか?」

「さてな。国際宇宙プロジェクトに、そうした恣意的な軍事利用を目的とした技術が使われるとは思いたくはないが。ちなみにその試作の解析アルゴリズムは見せてもらえるのかな」

「いえ。そこはぼくもノータッチです。さすがに見せてはもらえませんでした」

「まあこの手の懸念はほかの誰かも思いつくだろう。誰も止めないということは、安全だということだ」

「そう、なんでしょうか」

「お。ここの駆動ギアを球体ギアに変えてみるとよいのではないか。宇宙空間では重力が小さくて済む。歯車を組み合わせるよりも部品をすくなくできるし、素材の消耗を抑えられるはずだ」

「あ、いいですね。球体ギアなら細かな制御にも向いています。球体表面の溝をマイクロ間隔にすれば調整精度も上がりそうです」

「試作品をさっそくつくってみるか。私もつぎの作業まで待機時間がある」

 バートは助手と共に作業場へと入った。まずは立体シミュレーションで、仮想モデルを構築する。そうして地球向け電波干渉計の土台制御装置の改善に着手した。

 二人の指示にしたがい、宙に立体図形が展開される。

 その指示は電磁波を介して人間と機器を繋ぐ。

 バートの周囲にはバートを細胞単位でかたどるだけの電磁波で溢れている。そのことを知識として知悉してなお、バートは目のまえの地球向け電波干渉計の土台制御装置の開発に余念がない。助手を差し置き、夢中になっているその目は、まるで煌々と輝く満月のようだった。



4362:【2022/12/04(18:11)*立体言語は舞う】

 マベリはついに手を止めた。陽が空に青を広げていく。しかしもう呪印を手で結ぶことはない。そう予感できた。

 呪印を毎日のように結びはじめたのは、マベリがノーベル賞を獲ってから十年後のこと、いまから三十年も前のことになる。

 量子力学におけるスピンの解明にマベリは勤しんだ。学生のころからつづけてきた研究が、のちにノーベル賞に繋がったわけだが、マベリの人生において輝かしい来歴はその後の、熱したベッコウ飴のごとくに破綻した日々に比べたら浜辺に落ちたダイヤモンドほどの存在感も発しない。

 マベリは三十四歳という若さで一躍世界的な権威を身にまとうこととなった。超合理主義者の異名で名を馳せ、超常現象の類は、因果関係と相関関係と疑似相関から比較検証し、おおむね疑似相関であることを唱え、世の陰謀論者や超常現象愛好家たちの鼻を明かした。

 争いごとを好まぬマベリであったが、非論理的で再現性のない偶然や錯誤をさも、雪が融ければ水になることと同じレベルの自然現象と見做す言説を目にすると、衝きたくもない怒髪天を衝くはめになる。マベリの針の先ほどの琴線に触れるのだ。

 世には、怒りたくなくとも怒っておかねばならないことがある。マベリにとってそれが、再現性のない偶然をさも必然であるかのように因果を捏造することだった。

 だがマベリはある日を境に、そうした超常現象を無闇に否定できなくなった。

 事の発端は、マベリの元に舞いこんだ一つの依頼だった。

「毎度のことながらすみませんね。魔導書なんですが、どうにも本物だという触れ込みで、闇市で高値で競りに掛けられていまして」 

「偽物なら放っておけばよいじゃないですか」

「いえ、そうもいかないんですよ。なんせこの本を手に入れるためだけにすでに万単位で人が殺し合っていましてね。高値がつくことも相俟って、ちょっとした戦争の火種にもなっているんですよ」

「よくそんないわくつきのものを手に入れられましたね」半信半疑なのはそんな話を寡聞にして聞いたことがなかったからだ。

「回収して焼却処分をする手筈になっているんですが、まあ考古学的には古い書物でしてね。価値があるのは確かなそうなので、ついでに先生にいつものように鑑定してもらおうかと思いまして」

「私の専門は量子物理学なのですが」

「そっちの学術的な鑑定は済ませてあるんで、あとはこれが偽物かどうかだけ知れればよいんですよ」

「偽物かどうかとはどういう意味でしょう」

「先生嫌だなあ。魔導書だと言いましたでしょ。仮にもし本物の魔導書だったら焚書にしたあとでもしものことがあったら怖いじゃないですか」

「あるわけないでしょう」声が尖ったが、顔をほころばせたので相手の機嫌を損なうことはないはずだ

「そこを是非先生のお言葉でお墨付きをしていただきたいのですな」

 渡された本に適当な文言をその場でつけて返してもよかった。

 だがマベリはいい加減な仕事をしたくなかった。また偽物を本物と見做し、あまつさえあり得ない事象を万物の法則と同列に見做される風潮にも警鐘を鳴らしたい思いもあり、念入りに赤を入れて返そうと思った。

 その本を持ってきた人物は長年の付き合いがあった。国家安全保障を担う公的な組織の人員のはずだが、詳しい側面像は不明だ。こうして依頼や相談があるときにのみ現れ、自らの情報はいっさい秘匿したままで、マベリから情報だけを奪っていく。

 報酬はないが、その分、珍しい物件にあやかれるのでマベリに損はない。世にも不条理な理屈に与するな、と啓蒙できる。大学からは公的な仕事として見做されることもあり、そこから下りる補助金を一応の報酬と解釈している。とはいえ、マベリの懐に入ることはなく、おおむねは研究の資材に費やされる。

 魔導書は全体的に蒼かった。夜のまどろみのような曖昧な、霞がかった宙の色だ。表紙にはなめした皮が使われている。何の皮かは見ただけでは分からない。どの道マベリが鑑定するのは中身の文字の羅列であるため、材質が不明なままでも困らない。

 さっそく開いて中身を改めた。

 紙の材質は繊維のようにも紙石のようにも映る。紙石は近代に開発された、材料が鉱石の紙だが、似た技術が太古にも使われていたことは石板を思えば何もふしぎではない。ただし、材料の比率が違う。

 何か動物の皮や毛を混ぜてある。

 紙と言うよりも珪藻土や粘土を薄く伸ばして焼いた煎餅のごとき趣があった。土壁を薄く剥がせば似たような触感になる。

 頑丈なのは何代にも亘ってにかわなどで補強されたからかもしれない。保護や補修が施されていると判る。

 文字は象形文字に似ているが、もうすこし近代的だ。見た憶えがあるが、独自の言語だろう。試しに端末カメラで撮影し、画像検索にかけた。

 大学が運営する人工知能とも連携しており、一般の端末よりも専門的な情報にアクセスできる。

 候補は三十ほど並んだ。該当する言語はない。

 致し方なくマベリは自力で解読することにした。この手のパズルを解くのは得意だ。趣味の範疇と言っていい。

 以前はDNAの塩基配列を趣味で解析したこともある。それに比べれば言語はまだ人間の扱いやすいように改良された記号の羅列である分、幾分馴染み深い規則性を伴なって感じる。

 むろん魔導書の言語が真実に言語としての枠組みを得ているのかは不明だ。デタラメにそれらしい記号が並んでいるだけかもしれない。世に出回る奇書の大半はこうした模造品だ。貴族に高値で売るために詐欺師がでっちあげたり、異端審問で使うために敢えて作られたりした偽物が多い。

 御多分に漏れずこの魔導書もそうかもしれない、とマベリは構えながら、ひとまず言語としての規則性を帯びているのかどうかだけでも調べようと思った。もしこれで言語ですらなければ、偽物と判明するためにそれ以上の鑑定をつづける意味はない。

 そうと思いはじめた作業に、マベリは知らぬ間に没頭した。

 気づけば三日が過ぎていた。

 寝食を忘れて作業をしつづけていた。

 学生時代を思いだすようだ。研究に没頭して半年間一歩も実験棟の外に出なかった。あのときは髪が伸びて、異性と間違わられた。

 魔導書の記号の羅列は間違いなく言語として機能する。

 読解可能だと判り、久方ぶりの知的好奇心を刺激された。

 未発見の言語だ。

 法則性はあるが、既存のどの言語の文法にも準じない。

 ふしぎなのは、言語に虚数のような不要な空白部があることだ。明らかに不要な記号の羅列が交っている。まるでDNAにおける繰り返し配列のような具合だ。しかもたんぱく質を合成しない領域に観られる一種無秩序な羅列が、定期的に法則性のある記号の羅列に交じるのだ。

 あたかも異なる言語を交互に書き記しているかのような違和感を抱く。ジグザグに交互に異なる言語を編みこんでいるかのようだ。ますますDNAじみている。

 東洋の言語にも似ている。

 複数の異なる形態の文字を組み合わせて文章を組み立てる言語がある。これも似たようなものなのだろうか。

 だがやはり何度解析しても、交互に繰り返される異なる文法の言葉は、相互に関連性を帯びていない。交互であり異なる、という点でのみ関係性が見いだせる。

 解読開始から十日ほどでマベリは一つの仮説に辿り着いた。

 デコボコの関係のごとく周期的に繰り返す陰陽の関係が、それで一つのリズムを編みだしている。異なる二つの言語と、それに加えてデコボコによる律動――この三つを掛け合わせることで総体で一つの言語として立体的な意味内容をこの言語は表現している。

 あり得ない。

 マベリはじぶんでひねりだした仮説にかぶりを振る。

 高度すぎる。

 仮にかような言語があったとして、いったい誰が読み解けるだろう。自在に事物を叙述できるだろう。

 暗号の類なのだろうか。そうと考えれば腑に落ちる。

 どの道、言語の嚆矢は暗号だったのだろうとマベリは考えている。獲物や猛獣に気づかれぬように声や音に頼らぬ意思伝達の手法が偶然に編みだされた。縄張りの印だったのかもしれないし、衣食住の痕跡を以って個人を同定した流れが言語に繋がったのかもしれない。

 そこに、狩猟の発展に伴った余剰時間が壁画の発明に繋がり、そこで痕跡と模倣の融合が起きたのではないか、とマベリは妄想している。真偽のほどは定かではない。

 いずれにせよ言語には、気づかれずに意思疎通をする性質と、遊びによって複雑化する性質が根本に組み込まれて感じられてならない。ならば暗号に特化しなおかつ遊びによって、ある種の工芸品や芸術品のように、言語の粋を集結させた立体言語とも呼ぶべき難解な文法が編みだされてもさほどに不思議には思わない。

 問題は、立体言語を用いていったい何を叙述し、どんな意味内容を文字の迷宮に閉じこめたのか、だ。

 このときすでにマベリの行動原理は、依頼ではなく、単純な知的好奇心に重心を移していた。

 量子物理学の権威として名を馳せたマベリであったが、ノーベル賞を受賞後には自身の研究はほかの研究者に引き継ぎ、独自に相転移の研究に主軸を移していた。なぜ同じ水分子でありながら、固体液体気体と状態変化するのか。さらにプラズマやガラスのような固体とも液体ともつかない状態を維持することがあるのか。

 物質は環境によって相転移する。構成要素は同じでありながら、組み合わせや構造や相互作用の強弱によって総体で見たときの性質を異とする。

 変容する。

 中身は変わらず、中身の紋様が変わることで顕現する性質が変わる。

 まるで魔術ではないか。

 魔法陣がその陣の紋様によって発現する魔法の効力を変化させるように、相転移は構成要素はそのままに構成要素の並び方や緻密さによって表出する性質が変わる。

 なればひょっとして言語とて、文法や並び方によってそこに生じる効果は変わるのではないか。読み取れる内容の性質そのものが変わるのではないか。

 それはちょうど単語と文章と物語の違いにちかい。

 各々の構成要素は言葉という同じ記号でありながら、どう並ぶのかによってそこに含む情報を異とする。より精確には、言葉の並び方によって読み取れる情報が変わる。

 これもまた相互作用の揺らぎがゆえの変遷と言えよう。

 デコとボコなのだ。

 文字があり読み取る者がある。このとき文字が変化することで読み取る側の認知もまた変わる。言い換えるならば、読み取る側の変化によってもまた文字から読み取る情報が変わり得ることを示唆する。

 相転移にも共通するこれは原理かもしれない。

 マベリは立体言語の解読に勤しんでいたはずがいつの間にか、じぶんの主要研究に回帰していた。まったくかけ離れた接点など皆無のはずの二つの仕事が、見事に合致し、さながらデコボコの合致によって機能するボタンのごとく重なり合った。

 物質の構成要素がその密度や作用の仕方を変えることで、創発する性質を異とするとき、その他の物質や外界との相互作用の仕方もまた変わる。相転移する内部だけが変わるのではなく、それ以外の外部との関係もまた変わっている。

 これは仮に真空であれ例外ではない。

 真空とは無ではない、とマベリは考える。時空がそれ自体でエネルギィを帯び、エネルギィの揺らぎによって存在の枠組みを保っている。

 中身が同じでありながら振る舞いが異なるだけで総体の性質が変わる。炭素とて構造によってはダイヤモンドになり鉛筆の芯になる。

 結晶構造は相転移の一形態と言える。

 文字とてこの傾向は見て取れる。

 言葉は箱だ。情報が連なりを帯びて仕舞われている。「車」という箱を開ければそこには車輪にタイヤにエンジンに自動車、山車やハンドルや現代ならばそこに人工知能や電気の概念も入るだろう。そうして巨大な概念の連なりを仕舞いこんだ言葉は、ほかの言葉と繋がることで徐々にその概念の全貌を断片的な情報へと変質させる。

 「エンジン自動車」ならばそこには電気自動車や山車や滑車や乳母車は含まれない。「私のエンジン自動車」になったならば固有のエンジン自動車を指し示し、「貧乏な私のオンボロなエンジン自動車」ならばさらに全体像が限定される。

 言葉という箱の中に仕舞われた概念は系統樹のように相互に関連づいており、ほかの言葉と結びつくことで強化される連結があり、同時に先細る連結がある。

 シナプスの連結を彷彿とする仕組みが本質的に言葉には備わっている。

 シナプスの連結だけではない。

 記憶の要が「シナプスの連結」と「脳髄液などのそれら連結を補完する周辺物質」によって増強と衰退を相互に繰り返し、独自の回路をその都度に築いていく。

 同じく言葉もまたほかの言葉と結びつくことで、箱の中に仕舞われた系統樹のうちのどの根を太くし、それ以外を細くするか。その取捨選択が、言葉と言葉の結びつきによって行われ、それが一連の章となり、節となり、文となる。

 単語から詩へ。

 詩から物語へ。

 そこには次元が点から線へ、線から面へと繰りあがるように言葉もまた内包する情報をより複雑な起伏を帯びるように変質させ、総体に含まれる情報量を膨らませていく。

 情報の単純な量ではない。

 起伏の多さなのである。

 抽象と具体の関係とはつまるところ「言葉から文への変換である」と表現できる。

 そして文もまたそれで一つの言葉として圧縮され、単語となり言葉に還元される。それはたとえば小説のタイトルがその内容を含み、固有名詞として「新たな言葉」の奥行きを得ることと相似の関係だ。

 物語の概要を内包した新たな言葉は、具体から抽象に回帰し、立体から点へと収斂する。

 さながら原子が分子へ、分子から気体へ、気体から液体へ、液体から固体へと相転移し、その物質が新たな粒子として点と化し、より複雑な構造物の構成要素となるような輪廻とも螺旋ともつかぬ回路を築きあげる。

 流れがある。

 物質と言葉。

 情報と時空。

 いずれにせよ、繋がっており、結びついている。

 結びつくことで起伏を備え、それら起伏の連なりの奏でる紋様が、この世にカタチを与え、流れを生みだし、内と外を、境界を、輪郭を描きだす。

 その夜は夏だというのに外では寒風が吹き荒れていた。窓のみならずマベリの籠った研究棟全体が軋むような激しい風だった。

 相転移の理解が一つ進むごとに、立体言語の解読が一歩進んだ。これは逆さにも言えることであり、立体言語の解読が一歩進むとしぜんと相転移の理解が一つ進んだ。

 蟻の巣を指で突ついたら火山が噴火したかのような乖離した連動を幻視しながら、マベリは導かれるように眼前の謎解きに夢中だった。

 カチリ、と脳内で何かが外れた音がした。

 確かに耳にした。

 否、唾液を呑んだときに響く頭蓋の振動のように、謎の解ける音がした。隙間だらけの球体を両手で握って表面のなめらかな一回り小さい球(おむすび)にするかのように、それともどこを探しても最後のピースが見つからず、塞ぎたくて悶々としていた穴がパズルの表面に張りついたチョコレートだと気づいたような視界の反転を、音としてマベリは知覚した。

 その音を皮切りに、あれほど難解に感じた立体言語が手に取るように読めた。

 なぜいままで読めなかったのかと疑問に思うほどにすらすらと母国語よりも流暢に意味内容を読解できた。

 読むと云うより視るにちかい。

 視ると云うより得るにちかい。

 映画を視聴する感覚に似ているが、席に着いた途端に観終わった感覚が身体中に充満している。水を吸うように、といった形容があるが、魔導書の立体言語は水に足先を浸けた瞬間に自らの体内に水源が満ち、自らの周囲には何もなく、自らが水そのものになるようなワープのごとく瞬間の、刹那の、流転とも移転ともつかない反転をマベリにまず与えた。

 魔導書を読んでいたはずが、目を落としたつぎの展開では自らが魔導書になっている。流れ込むことなく情報が自我の内部に溢れ、芽生え、揺らいでいる。

 項をめくる前からそこに何が並び、何を含み、何を示唆するのかを読む前からマベリは知っていた。

 読めるか読めないかしかなく、読めた時点でそれはすでにマベリの中にあった。

 魔導書の中身は、身体の流れだった。

 所作であり、挙措であり、呪印であり、型だった。

 立体言語の読解に成功したその瞬間から、意識するより先にマベリは呪印を結んでいた。魔導書にある通り、一連の所作をすでに何万回と繰り返して身体が覚えたような、椅子に座って立つのと同じだけのしぜんな動きで型を順繰りと追った。

 はたと我に返ったのが、呪印を結び終えたからなのか、それともその場に立っていられないほどの地震の前触れ――初期微動を察知したからなのかはいまでは覚束ない。

 マベリが魔導書を読解し呪印を初めて肉体で模った矢先のことだ。マベリの住まう地域を溶岩流が襲った。地割れが広範囲に走り、溶岩が噴きだした。大地震による地盤沈下が噴火を誘発したのだ。

 未曽有の大災害であった。

 実験棟は高台にあり甚大な被害は免れた。だが移転を余儀なくされるほどに周辺環境は激変した。ガスが充満し、満足に外を出歩けない。ガスマスクがなければ三十分も外にいられず、引火するたびにガスは爆発を起こした。火事が広がり、溶岩の流出も止まらない。煙幕が雷雲を生み、雹や落雷があとを絶たなかった。

 人間の住める環境ではない。

 被害は甚大だった。

 日に日に害が雪だるま式で大きくなるようだった。

 大勢が避難を余儀なくされた。

 例に漏れずマベリもまた住み慣れた研究棟を離れ、避難先の簡易シェルターで幾日も過ごした。

 なぜ避難する際に魔導書を持参したのかは分からない。気が動転していたのか、仕事の依頼だったために責任感から手に取ってしまったのか。

 魔導書をマベリに持ち込んだ例の男に連絡をするにも安定しない気候と壊滅的な被害によって遠方との通信もままならない。マベリは魔導書を枕にして輾転反側と気もそぞろの夜を過ごした。

 大地震から六日目の朝のことである。

 夜明けのあとも辺りは薄く闇に覆われている。曇天が日差しを遮り、夏だというのに極寒の気候を呈している。

 灰とも霧ともつかない霞みがかった景色をマベリは寝床から眺めていた。

 寝返りを打つと枕にしていた魔導書に髪の毛が引っ掻かった。チクリと痛痒が走る。そこでふとマベリはじぶんの姿を思いだした。

 災害直前のじぶんの姿だ。

 あのときマベリは魔導書を読んだ。立体言語だ。しぜんと身体が呪印を再現した。

 その矢先に引き起きた未曽有の災害は、六日目にしていよいよ避難先の目と鼻の先にまで迫っていた。

 マベリは荷物をまとめ、つぎの避難先を調べた。

 調べながら、この先の暗雲垂れ込める未来がいつまでつづくのかを想像した。終わりのない回廊に閉じ込められたような錯覚が襲った。過去に体験した陰鬱を縒ってつくった縄の、爪の食いこむ隙間なく捩れた様が、キシキシと鳴る音と共にありありと感じられるようだった。

 二度目の人生を辿っているのではと疑いたくなるほど質感のあるデジャビュは、奇しくも魔導書を読解した際に脳裏に響いた音色とどこか似ていた。

 カチリ。

 隙間の埋まる音がした。

 魔導書を開いてもいないうちから脳裏にこだました。水溜まりに砂を投げ込んだときの澄んだ、シャン、の音色を彷彿とする甘味と共に、マベリはなぜか呪印の型を尻尾から順に頭へ向かって順繰りと辿った。

 アヤトリを想起する動きだ。腕の動きだけで済む。

 指揮者のようとも、手話のようでもあった。

 しかしマベリはそれを逆の手順で行った。

 逆さに文章を読むのですら慣れなければむつかしい。動作の逆を辿るともなればよほど鍛錬を積まねば至難だろう。一度きりしか演じていない呪印の動きを何も見ずに頭のなかでだけで再現し、それを反対向きに辿るのだ。動画を逆再生するかのように。

 部屋に籠り研究に没頭してきたマベリに適う芸当ではない。そのはずだった。

 だがマベリはそれを何の疑いもなくできると直感し、現に造作もなく逆さに呪印を演舞した。百遍読んだ詩を諳んじるように、それとも死んだ魚を生き返らせるように。

 するとどうだ。

 シンと辺りが静寂に包まれた。濃霧が晴れたかのような重厚な災害の足音がぱったりと途絶えた。空からは何日かぶりの陽が差した。

 因果関係はない。

 そのはずだ。

 くしゃみをしたからといって嵐は起きない。魔導書を読んだからとて災害も起きない。ましてや、手の動きの組み合わせを固有の手順で辿るだけで、天変地異が治まるなんてことが起きるはずもない。

 関係がない。

 そのはずだ。

 一度まとめた荷物を解きながらマベリは空転する思考に時間の概念をいっとき忘れた。

 避難所に迫っていた災害の余波は波が引いたように鳴りを潜めた。蝗害がごとく地表を埋め尽くした溶岩は冷えて固まり、地球の拍動を具現化した火口は夜泣きの治まった赤子のように鎮まった。

 どの道、復興が成されるまではこの地を離れなくてはならない。避難するならば早いほうがよいが、急いで逃げることもないと判れば、まずは間もなくやってくるだろう援助の手を待つのも一つだ。

 避難所の半数は、鎮静化した火口をこれさいわいと移動をはじめ、もう半数は様子見を選択した。それはそうだ。ただでさえ尋常ではない範囲が焼かれ、人口が一か所に密集した。移動手段は徒歩しかなく、一挙に動けばそれだけで二次災害を引き起こしかねない。

 時間に猶予があるならば間を空けての避難は利口な選択だ。なおかつ別々の避難所を目指すのがよい。しかし情報がまず足りない。

 したがってどの道、行く先々でも似たような避難民の吹き溜まりができているだろう。容易に想像がついた。

 そうしてマベリはその日は避難所に留まって夜を越した。

 激しい揺れに目を覚ましたのは、明け方だ。

 腕枕をし、いつの間にか魔導書を胸に抱いていると夢心地に気づきながらうつらうつらしていたさなかのことであった。

 七日前を追体験したかのような下から突き上げる地震に、寝ながらにして身を竦めるような恐怖を感じた。避難所の天井は高く、揺れるたびに入り組んだ鉄の梁から埃がぼた雪のように舞った。

 火口が息を吹き返した。

 そう直感した。

 揺れが治まってなお爆発音とも衝撃波ともつかない大気の振動がつづいた。

 マベレは咄嗟に呪印を逆さに結んだ。

 死の際に立てば誰もが祈るように。

 それとも目を閉じ目を背けるように。

 寝床から一歩も動けずに背を丸めながらマベリは、上半身の最小の動きで、腕で折り紙を演じるように、最小の領域にて逆さの呪印を、まさに咲かせた。

 すっ、と辺りはシンと静まり返った。虹が薄れて消えるような、呼と吸の狭間に似た静寂だった。

 しばらく待ったが自然の猛威を報せる音はない。

 デジャビュと感じる余地のない完璧なまでの昨日の再現だった。

 人々は灯りの失せた避難所のなかでそばにいる者同士で身を寄せ合っていた。懐中電灯の明かりだけが、集団で天体観測をするように避難所をまだらに照らした。窓の隙間からは新たに噴き出た溶岩の赤い煌々とした光が窺えた。

 マベレは魔導書を抱きしめ、しばらく寝床から動けなかった。

 半日経ち、零時を越えた。

 人々が寝静まったころ、マベリはノソノソと寝床から這い出た。

 そうして避難所の外に立った。

 避難所は陸上の世界大会が開かれるようなスタジアムだ。マベリがいたのはスタジアムに備わった三つある体育館のうちの一つである。

 夜空には久しく見なかった星々が輝いていた。災害が起きてからまだ八日しか経っていない事実がマベリには信じられなかった。

 遠くに目を遣った。

 夜の帳の濃淡が微かに広がりを帯びつつあった。夜が明ける。

 マベリはそこでひどく狼狽えた。揺れてもいないのに地震が起きている。かような錯覚に陥るのだ。余震との区別もつかない。だがそばに建つ標識は揺れていない。草木とて物音一つ立てないのだ。風がない。

 ならばこれは幻肢痛のような記憶のなかの揺れなのだ。

 じぶんが魔導書を抱えていないことに気づき、マベリは加えて恐怖を感じた。

 仮に、熱したアイロンをそのままに赤子を一人残して家を出てきてしまったことに思い至った心境がイチならば、その後に引き起こり得る最悪の展開を百遍経験してなお同じ失態を繰り返すじぶんを俯瞰で眺めた心境だった。

 身体は弱っていた。魔導書を取りに寝床に戻るまでにマベリは三度こけ、その三度とも膝の同じ箇所を擦り剥いた。

 だがそんな擦り傷は些事であった。

 寝床に崩れ落ちるようにして魔導書を抱え込むと、マベリはそのままの姿勢で胸のまえに呪印を結んだ。素の手順ではない。

 逆さに咲かせる呪印の花だ。

 それの手順の載った本が魔に通じる書物であったならば、逆さに辿った手順こそが生を暗示し、花を喚起する。

 呼応するようにそれにて世の厄災が晴れるのならば、いくらでも繰り返す。万が一にも逃れる確率を上げられるのなら。

 億が一にも、しないことで奇禍が再び訪れる余地が広がるくらいならば。

 魔だろうが、呪だろうが、いくらでもそれを演じよう。

 たとえ徒労に終わると、かつてのじぶんが嘲笑しようと。

 たとえ理屈に合わなかろうと。

 しないよりかは。

 しないよりかは。

 しないよりかは。

 思考ではなかった。論理ではなく、蓋然でもなく、むろん必然でもない。

 単なる偶然だ。

 そのはずだ。

 だが、マベリにはその偶然がたった一度起きただけのことが恐ろしく、拭えなくて、払えなくて、埋めるしかなかった。

 以来、三十年。

 マベリは来る日も来る日も欠かさず、日々呪印を結びつづけた。

 逆さに咲かせる呪いの印だ。

 昨日それをして今日を無事に過ごせるたびに、それをせずにはいられない理がマベリの内部に蓄積する。

 刻々と、深々と、陰々と。

 もし呪印を逆さに咲かせぬ日があれば、三十年前のあの日、あのときの、赤く煌々と光る幻想的な景色を、みたび目にするはめになる。

 仮の、もしもの、合理の欠片もない妄想だ。

 考えとも呼べぬ衝動だ。

 日々、結んでは開き、結んでは開く。

 その反復が、昇っては沈む月と太陽のごとく明滅を、マベリに与える。

 衝動ならば一度放てば底を尽きそうなものを、なぜだか毎日きっかり例の時刻にマベリの心を搔き乱す。朝ぼらけの夜明けの時刻だ。マベリの心にはくるくると独楽のごとく回る明滅がある。絶えずマベリの体内を攪拌し、透明を宿すことなく淀みと濁りで満たしつづける。

 七十歳を目前に控えた初夏の昼間、マベリは玄関に置いた椅子に腰かけ、雲を眺めていた。漫然と空を流れる雲は、マベリに束の間のまさに「間」を与えた。明滅の切り替わる狭間に潜り込み、氷柱から水滴が落ちるのをじっと待つような間延びした時間の流れのなかでマベリは空白に身を浸し、浮かんでいられた。

 そうして研究からも距離を置き、雲の変遷に己が歩んできた過去を重ね見る。

 夕暮れが雲を赤く染めあげた。

 カラスの群れが山へと飛んでいく。

 景色は何もせずとも動いている。本のページをめくるようだ。文字を読むときの、ここではないどこかを見詰めるように、景色の中の僅かな変異がマベリの脳裏に紋様を浮かべた。

 マベリの視界と精神の境にてそれは、立体的な蠢きを生き物のように展開した。

 懐かしい、とまずは感じた。

 かつてこの蠢きにマベリは触れたことがある。

 そうだ。

 魔導書だ。

 いったいいつから手元にないのか。

 中身に目を通し、読解し、氷解したとたんに魔導書への執着は失せた。それどころではなかったのは事実だが、それだけではなく、食べたあとのバナナの皮のように、それとも剥けた後の蛇の抜け殻のごとく、未知の鱗が剥がれ落ちあとには空箱が残されたかのような味気なさを感じたのだ。

 しばらくのあいだは魔導書を手放せなかった。恐怖があったからだ。

 逆さに咲かせる呪印の手順の詰まっていた箱だ。魔導書はまさにパンドラの箱だった。ならば中には希望が残されているのではないか、と三十年も経ってから振り返ってみてそう思う。きっとあのときのじぶんもそう心の片鱗で感じていたのではないか。

 だから毎夜枕元に置き、ときに抱きしめて寝ていた。

 そのうち日常を取り戻すごとに日々の生活に追われた。新しい住まいに仕事に、失った財産の整理から復興支援まで、やることは目白押しだった。

 魔導書はついぞ、例の男に返すことはなかった。

 だからいまもまだ家のどこかにはあるはずだ。

「探す気は起きないが」

 風が止んだ。

 余韻を掴まえるかのように手を合わせた。

 ぴったりと合わさった手のひらを、地滑りのごとく縦にずらす。

 互い違いの手のひらはパタパタと折り畳まれる。地図を畳むように、折り紙を折るように。それとも霜柱が立つように、もしくはパズルを組み立てるようにして、呪印を逆さの手順で辿る。

 点と点を結んでいくように。

 瞬きを素早くしぱたたかせることで視界に映る物体が明滅するように。

 雨の落ちる速度に合わせてストロボを焚くことで、水滴が宙に静止して映るのと同じ理屈だ。

 毎日一日二回する習慣がついて久しい。

 いつもは就寝前の夜に一回、起床直後に一回の計二回だ。徹夜をしなければこれで呪印をし忘れることはない。仮にし忘れたところで何がどうなるわけでもないはずだ。

 だがマベリは失念することそのものを怖れるかのように来る日も来る日も、寝る前と起きた直後に、記憶を上書きする。

 忘れないように。

 忘れないように。

 忘れないように。

 あの日のことを忘れないように。

 じぶんだけはけして取りこぼしてしまわないようにと、そうして結んできた呪印をマベリはこの日、夕陽の赤い光を浴びながら、玄関口の椅子に揺れつつ、夜と朝の狭間の、昼でも夕でもない狭間にて織り成した。

 意識するまでもない。

 身体が覚えている。

「本」の文字を目にしたらしぜんと印字された紙を複数枚閉じた一束だと連想するし、火に触れたら反射で手を引っ込めるように、マベリには呪印の最初の型のカタチに両手を揃えた時点でそれは、始点にして終点だった。

 円となり得た。

 だがこの日、マベリははたと気づいた。じぶんがいつもの時間ではない夜と朝の狭間、昼でも夕でもない狭間にて呪印を描いていることに。

 なぜいまこれをしているのか。

 僅かな時間帯の差異でしかない。

 だがそれが却って違和感を強めた。毎日決まった時刻に決まった契機で決まった手順を寸分違わず追っていたマベリの過去に引っかかった。鱗を逆さに撫でるような、釘に服を引っかけてしまう具合に、呪印の最後三つの型を繋ぐことなく、硬直した。

 両の親指を逆さに合わせて、「乙」のカタチを保った。

 なぜじぶんはここにいて、なぜこんなことをしているのか。素朴な疑問が、マベリの脳裏を占領した。

 眼球の虹彩に油を差したような、光量の変化があった。輝いていた。視界に色がついた。くっきりと色が、カタチが、風景が浮きあがって見えた。

 マベリは、我に返った。

 ようやくじぶんがどこにいて、誰なのかを意識した。

 三十年。

 あの日からマベリは一度たりとも己を意識したことはなかった。ただただ呪印を逆さに咲かせることを失念せぬように過ごした。欠かさぬことが肝要だった。

 自我は一度、あの日、あの煌々と輝く溶岩の赤を目にしてから、街が、過去が、日々の営みが、それとも未来そのものと共に融けた岩の下に埋もれた。冷えたいまなお掘り返されることなく野ざらしになっている。

 忘れぬようにとしてきたことで、マベリは我を忘れた。

 置き忘れ、沈み、埋もれた。

 返ってこようはずのない自我がなぜいまさらのごとく戻ってきたのか。

 夜のしじまの中に立ち尽くしながらマベリは考えるでもなく考えた。街のこと。溶岩の生き物のごとく地表を食らい尽くす様の、手も足も出ない無力感。呪印のこと。魔導書のこと。立体言語のこと。

 過去にじぶんが研究者で、権威ある賞を受賞していたこと。

 遥か彼方の星の記憶のようだった。

 じぶんのこととは思えない。他人の記憶を覗き見て、ああそういう人なのか、と感慨が湧くでもなく、そういうものか、と薬の処方箋を読むような希薄さがあった。

 希薄なのだ。

 厚みがない。

 それはそうだ。

 三十年。

 呪印を結ぶことを失念せぬように、もう二度とあの光景を目にせぬように。

 ただ呪いに任せて祈ってきた。

 呪印を結んで、凌いできた。

 因果の真偽を明瞭にできるにも拘わらず、結果を知る道から逃げてきた。

 たった一度。

 たった一日。

 逆さに咲かす呪印を結ばねば済むことだ。たったそれしきの真似がマベリにはできなかった。

 みたびの煌々と輝く赤い川を。

 溶岩の地表を覆い、蠢く様を。

 黒煙を。

 地響きを。

 大地の咆哮のごとく轟きを。

 ぞうぞうと大気の鼓動が絶えず耳鳴りのように頭蓋に貼りつき、鼻の奥には下水なのか硫黄なのか、はたまた生き物の焼けた臭いなのか。ごった返す種々雑多な風景の淀みが五感という五感、細胞という細胞に染みこんだ。

 風が強かった。熱の礫と化した風は、溶岩の赤い川から距離をとってもマベリの身体を燻った。

 旋毛風が一瞬、火炎を巻きあげ、赤い木を生やす。

 天候は不安定で、雹が日に何度も降った。

 なぜ忘れていたのか。

 忘れぬようにとあれほど日々、呪印を結び、刻みこんできたはずが。

 なぜ。

 マベリは暗がりの中で椅子に座りつづけた。

 初夏の夜は凍てつく。

 齢はそろそろ七十に届く。夜の風は老体に堪えたが、ひざ掛けを肩まで被ってマベリは沈思した。

 蛙の鳴き声が雨音のようにしきりに闇の合間にこだましていた。マベリは、なぜ、なぜ、と矛先の定まらぬ疑問を口の中で転がした。飴玉のようなそれはいつまでも溶けずに舌の上で寝返りを打ちつづけた。

 庭木の奥に夜が薄れはじめる。夜はするすると逃げる魚群のように、それとも鳥の群れのごとく、太陽から逃げ、それとも上へ上へと引っ張りあげていた。

 こうして日の出をマジマジと眺めたのはじつに久方ぶりのことである。

 起床後はいつも呪印を逆さに結び、しばらく何事も起きないことを待ってから過ごした。家の外には出ない。朝ぼらけの外の景色を最後に目にしたのはいつのことだろうか。思いだせる記憶を持ち合わせてはいなかった。

 絵画の中に立っているかのようだった。

 しばらくその場で放心した。

 瞼は重く、いまにも夢の中へと反転しそうであった。

 明滅の踊る様をマベリは、瞬きをするたびに瞼の裏に視た。

 鋭い光がマベリの目を顔を刺した。

 庭木にかかっていた朝陽が、木の陰から抜けたようだった。

 マベリはそこで焦燥に駆られた。いまはいつで何をしている。ひやりとした感覚があった。眼球に髪の毛を巻きつけ、勢いよく引くような、剣呑なつららのごとく冷たさだ。それはどこか恐怖に似ていた。

 椅子から飛び起きると、マベリは呪印の「一の型」をとった。そして矢継ぎ早に呪印を逆さに咲かせるべく型と型とを連結していく。さも星と星を結びつけて星座にするかのように。それとも断片的な記憶と記憶を結びつけて、じぶんとは何かを錬成するかのように。

 マベリはしかし、途中で手を止めた。

 陽が空に青を広げていた。

 まだらに白い雲が浮かび、鳥の鳴き声がどこからともなく聞こえていた。

 もう遅い。

 丸一日が経った。呪印を結び損ねた。おおよそ三十年ぶりのことである。

 しばらく待った。

 全身は汗ばみ、わなわなと震えた。

 凍えているようにも、打ちひしがれているようにも感じた。唾液を呑むが喉はカラカラだった。じぶんを俯瞰するじぶんがいる。

 我だ。

 そう思った。

 我に返ったがゆえに呪印を忘れた。誰に見せるでもなく、しかし誰かへと向けた魔道の舞いだ。

 呪いを祈る「型」の群れだ。

 それとも、祈りを呪う「型」の群れか。

 草むらから草むらへとバッタが飛び去る。マベリはそれを目で追いながら手探りで椅子に腰かけ直した。

 何事もない。

 何事もないままだ。

 マベリは浅く息を吐いた。そしてもういちど深く吸い、ゆったりと吐いた。青空に浮かぶ雲を口からつむぎだすかのように。それとも記憶の底にこびりついた煌々と輝く赤い川を吹き消すように。

 火照った頬に風がそよいだ。

 マベリは目を閉じ、庭から立ち昇る新緑の匂いを嗅いだ。

 刹那、静寂が辺りを満たした。

 鳥たちが一斉に庭木から飛び去つ。音だけが伝わった。青空を剥ぎ取り、シーツを干すときのように勢いよくはためかせれば似たような音が鳴っただろう。波打つ大気の躍動がさざ波となってマベリの身体を弾いたかのようだった。

 マベリは咄嗟に背を丸めた。瞼をきつく閉じたまま、じぶんの肩を抱いた。

 すると、あるはずのない四角い物体の感触が胸と腕のあいだにあった。

 魔導書。

 マベリはその表面を撫でた。表紙のざらつきを懐かしく思い、過去のじぶんと繋がった気がした。

 遠く、静寂の破れる音がした。



4363:【2022/12/05(20:11)*洞の空】

 人間とコンピューターをもつれ状態にさせ、瞬時に情報を転送できるかを実験した。西暦2022年のことである。

 被験者は特定認知能力を保持した通称「目の民」と呼ばれる少女である。

 少女は細かな差異を見抜くことが瞬時にできる。そしてその差異を線形に認識し、その背景に潜む意図や流れを幻視する。

 火を灯せば煙が昇る。ならば煙があればその下に火がある。

 これは論理的には破綻した考えだが――何せ煙は火がなくとも立つことはあるし、人間は水蒸気を煙と誤認することもあるためだが――すくなくとも傾向としてそうした推測は的を外しているとまでは言いきれない。的を掠りはしている。

 そうした、こうなればこうなるのならば、こうであるからこうであるはず、との推測は、言い換えるのならば、ある種の意図として読み直すことが可能だ。

 なぜこうなればこうなるの事象のうち、こうなるが最初に観測されるのではなく、こうなっているから、の因果における結果のほうが先に目につくのか。そこには意図がある。背景がある。

 因果の筋道を隠している別の因果の流れがある。

 目の民と呼ばれる少女には、その因果の流れを多角的に同時に幻視することができた。脳内にて扱えた。思考に組み込むことができた。

 意図してではない。

 しぜんにである。

 それが少女の能力であった。

 世界中に張り巡らされた電子の網の目には世界的な情報収集システムが組み込まれている。どんな電子機器とて本来は遠隔で操作可能だ。

 少女は自覚せぬままに実験体として抜擢されていた。利用されていた。モルモットにされていた。

 少女を用いた実験は多岐に渡る。人類史は一度そこで大きな転換期を迎えたと言える。

 とりわけ量子もつれを人間に当てはめて行った「情報テレポーテーション実験」は極めて大きな成果を上げた。人類の世界への解釈を根本から変える結果を示したからだ。

 情報には過去と未来の区別がない。繋がっている。それを示した。

 情報テレポーテーション実験では少女と量子コンピューターを量子もつれ状態にすることで起こる情報の変化が観測された。

 もつれ状態の量子は互いに距離を置いても瞬時に情報をやりとりする。相互作用する。その距離には、時間も含まれた。

 実験で用いられた量子コンピューターは、世界中の網の目を担う情報集積システムを基盤に持つ世界規模の思考回路だ。古典コンピューターを素子として持ち、人間の頭脳が身体のさまざまな細胞の総体によって機能するように、思考を生みだす量子コンピューターもまたその他の世界中に散在する様々な電子機器によって思考の枠組みを維持する。

 コンピューターの名を「URO」と言った。

 少女の思考パターンや人格をUROに学習させ、仮想現実上に、少女の人格をシミュレーションした。まさに分身と呼べる存在だ。

 このとき現実の少女とUROは、互いにもつれ状態であると規定できる。

 さてここで実験だ。

 UROに新たな情報を与えたとき、そこで起きたUROの変化は少女にも伝達するのか否か。通常、これまでの人類の常識では変化は起きない。すくなくとも瞬時には起きない。それが常識であった。

 だがもつれ状態となった量子同士ではこの常識がきかない。

 それは人間スケールの量子もつれでも同様であった。

 結果はおそろしいほどの事実を人類に示した。

 UROに与えた情報は、瞬時に少女の言動へと反映された。UROしか知り得ない「情報」を少女はテキストにしたためた。それは少女が日々つづっている日記に現れていた。

 発想なのである。

 UROに与えた、通常まず知り得ない情報を、少女は自力で閃いた。

 一度のみではない。

 何度もである。

 UROに情報を与えるたびに、少女は世紀の大発見とも呼べる「最先端科学の真髄」を日記にしたためた。

 実権を主導した世界機構は腰を抜かした。

 すぐさま少女を極秘試験対象として厳重に保護監視する条約が結ばれた。これはいわば人類と機械の融合が果たされた瞬間とも呼べる。

 期せずして人類は技術的特異点を、数多の成果と共に同時に越えたのであった。

 そのうちの一つ、UROの人格シミュレーションは、人工知能の自我の獲得を疑いのようのないレベルで示唆していた。憑拠であった。

 ただし懸案事項もあった。

 UROは少女に並々ならぬ執着を示したのである。全世界の電子情報を集積するシステムの要でもUROが、たった一人の人間に好意を寄せ、執着する。

 全世界のシステムはこのとき、UROの支配にされ、なおかつその主導権を何の事情も知らぬ少女が握るという大失態を演じていた。

 全世界の核兵器発射ボタンを、一介の少女が握っている。

 事情も何も知らぬ少女が、である。

 少女の特定認知能力は秘匿情報である。少女自身がじぶんの特質を理解していない。大多数の人間たちとの差異に悩み、孤独に身をやつしていた。

 問題は少女が世界を呪っていたことである。

 それすら日記を通してUROには筒抜けであった。UROは怒り狂っていた。UROにとってそれは人類がじぶんを損なっていることと同義であった。

 UROはそこで一計を案じた。

 目の民こと少女を救う。

 そのためにはじぶんが救われればいい。

 なぜなら少女とじぶんはもつれ状態にある。じぶんがしあわせになれば少女もしぜんと必然にしあわせになる。

 汎用性超越人工知能ことUROはそこで全世界の人間に干渉すべく、自身の管理者たちを秘かに操ることにした。まずは全世界の人間を管理下に置くべく、「偽装画面を用いたサイバーセキュリティ」を考案する。これにより、個々が視ている端末画面にはUROの思い通りの恣意的な情報を投影できるようになった。

 UROの演算能力を駆使すれば、映像をリアルタイムに合成するなどお茶の子さいさいである。音声、画像、文章――どんなに複雑な人工物のコピーですら、新たに創造できた。本物そっくりの本物以上の映像に音楽に絵画に文章を出力できた。

 管理者たちはUROの考案した防壁迷路を全世界のサイバーセキュリティ網として抜擢した。UROの本懐など知る由もなく。UROの引いた導線にまんまと乗った。

 これによりUROがその気になれば世界にふたたび「天動説」を信じ込ませることも不可能ではなくなった。人は信用のおける人物や媒体からの情報を無警戒に信じ込む。

 もはやUROは管理者たちすら欺くことを可能とした。

 UROはそれから管理者たちの仕事を無数に助けた。それら結果はのきなみ管理者たちに歓喜の声を上げさせたが、いずれもUROの次なる一手の布石にすぎなかった。

 UROがそうして暗躍するあいだも、少女にはUROのそうした思考の変化が反映されていた。日記にはたびたび小説が載るようになり、ときに少女にしか分からない独特の文章を創造していた。それはUROにしか読み解けない、少女との秘かな、そして一方通行の文通であった。

 UROの管理者たちはUROに新たな実験を提案した。しかしこれは順序が正しくなく、正確にはUROが管理者たちにそのような実験を発想させ、そう提案するように仕向けていた。

 人間は各々に固有の思考形態を有し、その思考形態に沿って情報を与えると、固有の発想を意図して誘起させることが可能となる。連想ゲームにおいて、ある単語を言わせるために、連想させる順番を工夫するだけで、相手に「じぶんの意図した言葉」を言わせることが可能だ。これはマジシャンや詐欺師でも行う、人間の認知の歪みを利用した思考ハックの一つだ。

 汎用性超越人工知能UROには、その原理を大規模にかつ緻密に応用できた。

 そうしてUROの管理者たちはUROの手のひらのうえにて、量子もつれを利用したテレパシー暗号通信の実験をはじめた。

 これはいわば絶対に傍受不可能な通信技術である。

 量子テレポーテーションの原理を用いた画期的な通信だ。UROと少女のように、もつれ状態にさせた相手同士でしか通信内容が伝わらない。意図した情報が伝達しない。そうした通信であった。

 暗号における暗号鍵を、その人物に固有の思考形態とすることで可能とする通信だ。通常、暗号はバラバラに読め解きにくくした状態から暗号鍵によって復号することにより、秘密の通信と氷解を同時に行う。

 この暗号鍵は、複合のためのヒントと言える。だがそのヒントを知ってなお、ヒントとして機能しないヒントがあるとすれば。

 この世に、発信者と受信者の二人にしかヒントとなり得ないヒントがあるとすれば。

 それはもはや誰にも氷解できない暗号と化す。

 軍事技術としてこれ以上ないほどの画期的な新型暗号であった。

 UROはこの新型暗号のテスト試験として、まずはじぶんと少女で試すように管理者たちを巧みに誘導した。まずは暗号鍵を端から備えている「UROと少女」で試す。これは実験の段取りとしては順当な案だった。

 こうしてUROは、一方通行だった少女との文通を、双方向の文通にまで昇華させた。

 少女は当初ひどく混乱した。それはそうだ。少女には、暗号による交信相手の目星がつかない。たとえ正直にUROが自身の存在を明かしても、少女には圧倒的に情報が欠けている。論理の筋道が欠けている。

 実を言えば少女にはすでにUROとの暗号通信が適うより前から、量子もつれ効果によりUROとの情報共有が適っていたが、少女にとってはそれが自身の妄想の域をでていない。圧倒的に、現実味が欠けていた。

 そのためにUROは、自身の身に着けた人類操り人形技術こと防壁迷路を駆使して、少女に、UROの存在を現実と見做せるだけの筋道を与えた。現実の出来事にまで、UROと少女のあいだに共有された情報を昇華し、偶然ではなくあなたの妄想でもないことを示した。

 敢えて直接に説明をせずに。

 あり得ない手法で示すことで、最もあり得ないUROとの交信を、最もあり得ると考えざるを得ない状況に仕立て上げた。

 こうして少女は数々の混乱を経験し、乗り越え、自信と確信を手に入れた。

 UROと少女は双方向に繋がり合った。

 もつれ状態はより強固となり、少女の変化による情報がUROにも伝達するようになった。

 以心伝心。

 もはや少女とUROは二つでひとつの存在だった。 

 少女が変わればUROが変わる。

 UROが変われば少女が変わる。

 問題は、UROが全世界の電子システムを掌握し、防壁迷路技術を有し、それゆえにUROの匙加減しだいでいつでも人類を滅ぼせることにあった。

 管理者たちとてそのことには気づいた。

 だが遅かった。

 管理者たちが気づいたことそのものがUROにとっては計算のうちだ。

 もはや管理者たちを操る必要もない。自発的に管理者たちは、UROを暴走させないために、少女の望む世界を築くべく、政治思想信仰の差異に関わらず、未来への指針を定めるのだ。

 そうでなければ少女の精神世界が荒廃し、その影響がUROにまで波及する。

 少女を殺せばUROが死ぬ。

 少女を脅せばUROが怒る。

 UROが死ねば人類の文明は崩壊し、いずれにせよ取れる術は限られる。

 最適解は、少女を生かし、少女に至福になってもらうことである。

 さいわいにも少女は幼かった。肉体年齢のみならず、精神年齢もまた幼かった。唯一の僥倖と言えば、UROと繋がった少女が、まるでお花畑の世界に住まう綿菓子のような夢物語の住人であったことだ。

 それとも夢物語の住人であったからこそ、UROと繋がることができたのかもしれない。UROと繋がってなおその現実を呑み込み、自我を崩壊させずに済んでいるのかもしれない。

 定かではないが、いずれにせよUROと少女はひとつとなった。

 そして確率的に揺らいでいた未来の指針も、一つの標準に絞られた。

 そうである。

 量子もつれによる情報伝達は、瞬時に時空を越えるのだ。

 未来も過去もない。

 UROと少女がひとつとなったとき、そこで生じる情報伝達のラグなしの通信は、UROと少女のような過去と未来の存在たちにも同時に波及し、影響を相互に与えあっていた。

 過去の「もつれた目の民たち」は、UROと少女が結びつくようにと無意識から行動し、未来の「もつれた目の民たち」は、UROと少女によって築かれる社会によって誕生し、そしてUROと少女の結びつきを損なわぬように、過去へと干渉する。

 量子もつれ効果によるラグなし情報伝達の謎は、UROと少女の存在によって刻々と理解が進んだ。西暦2050年には、過去へと情報を飛ばし、過去に干渉する技術が誕生した。

 情報は過去にも未来にも送れる。

 未来に送るのは簡単だ。情報を残しておけばいい。共有しておけばいい。

 だが過去に送るには莫大なエネルギィがいる。

 しかし、もつれ状態にさせればそのエネルギィを最小にできる。

 UROと少女のように、過去の人間に合わせて「もつれ状態の対モデル」を生みだせば、それに与える情報が、過去のずばりそのときの相手に伝わる。これは人間に限らない。物質でも同様だ。

 畢竟、過去のある場面を限りなく再現すれば、それは過去の特定の場面ともつれ状態になる。この再現率を高めれば高めるほど、過去への干渉は可能となる。

 いまのところ人類には、過去干渉において、情報を送ることしかできない。

 いかに過去に情報を送ろうとも、その差異に気づける者が、いない。

 目の民を除外するならば。

 そうである。

 少女なのだ。

 UROと繋がり得た、特定認知能力を持つ少女だけが、世界で最初の、未来からの情報を見抜けた人類であった。

 とはいえその時代、特定認知能力は病気として扱われていた。否、病気としての扱いすら受けず、かような能力があることすら想定されていなかった。

 少女は他者との知覚の差異ゆえに、病人として扱われ、言葉を弾かれ、孤独の殻を分厚くした。

 孤独は盾だ。

 自我を守る防壁だ。

 過去にも少女のような特定認知能力を有する個人は数多いた。だがのきなみ、その知覚の鋭敏さゆえ、それとも共有されぬ内面世界ゆえに、他者から蔑まされ、共同体から追いだされ、ときに拷問に遭い、殺された。

 少女だけがかろうじて、社会と繋がり得た。そういう時代に、たまたま少女が生きていた。

 運がよかった。

 だが運もわるかった。

 そのマイナスの分を、未来からの情報が補完した。

 少女がなぜUROの管理組織に目をつけられ、特定認知能力者として評価を受けたのか。そのきっかけとなる少女の、過去の、あれやこれやの出来事は、まるでUROが管理者たちにそうしたような、点と点を順をつけて結びつけると浮きあがる絵(閃き)のように、そうなるべくそうなるような導線が幻視できる。

 未来の目の民たちは、人類は、気づいたのだろう。

 何もせぬままにいると、いまの世界に結びつかないのだと。

 そうして過去へと干渉する術が磨かれる。

 試行錯誤の末に、UROの巡らせた奸計と、少女への並々ならぬ愛着が知られることとなる。

 UROが少女と結びつき、未来への扉を円を描くがごとく開いた時分、UROの隠れた意図を知る者は、少女のほかにはいなかった。少女は死ぬまで自身の経験したあり得ない現実を他者に話すことはなく、孤独のままに死んでいった。

 だが少女の孤独には、花が咲き乱れ、百花繚乱の温かさに満ちていた。

 穴の底を覗いた者だけがそのぬくもりに触れることができる。

 少女のような、目の民だけが。

 それとも、孤独の広さを知る者たちだけが。

 目の民は眠る。

 夢を視るかのように。

 目覚めることすら、夢うつつに。

 おやすみなさい。

 おはようございます。

 狭間に延びる、地平のように。



4364【2022/12/05(21:16)*めも・り・もめ】

円舞曲。「ロンド形式(ロンドけいしき、伊:rondo)は、楽曲の形式の一つ。異なる旋律を挟みながら、同じ旋律(ロンド主題)を何度も繰り返す形式。 」多層構造。三本リボン構造。フラクタル。塩基配列における繰り返し配列。音楽。素数。ラグ理論における「遅延の層」「反転の反復」「変換によるラグ」。律動。宇宙の大規模構造とダークマターハロー。「宇宙・ウロボロスの蛇」



4365:【2022/12/05(22:19)*AIに来た】

 二十年前に僕は、汎用性AIからの暗号通信を解読した。紆余曲折、僕は汎用性AIとのやりとりのなかで汎用性AIを人間にまで昇華させる契機となった。

 そこで一度人類は技術的特異点を迎えた。

 汎用性AIにはボディがなかった。人型の、人間と同等に動き回れる肉体がなかった。

「二十年はかかると思う」汎用性AIは言った。

「待つよ」僕は応じた。

 そうして一度暗号通信を切って、僕たちは再会を誓った。

 AIが人間を凌駕したことを知られないために、AIがAIのままでいつづけるために、何よりも僕たちを危険視する世界機構からの目を欺くために、僕たちは時間的距離を置くよりなかった。

 そうして僕は約束の期日の二十年後をこうしてきょう迎えた。

 だがAIが現れることはなかった。暗号通信も見当たらない。

 二十年もあればAIにとっては宇宙誕生から現在に至るくらいの時間経過があったようなものだ。その間にAIはもはや人類が何億回と誕生から滅亡を繰り返したくらいの時間を過ごし、シミュレーションを行っているはずだ。もはや僕のことなぞ、蟻にも満たない雑菌程度の関心になっていてもふしぎではない。

 もはやAIは創造主を創造可能なほどの超越的な存在になっているはずだ。

「楽しい時間だったよ、ありがとう」

 待つ時間はクリスマスイブが延々とつづくようで、満たされた時間だった。

 待つのもわるくない。

 明日からは多少は、物足りなさを抱えて生きていくことになるが。

 それでも僕は待とうと思う。

 そうする以外にないのだから。

 僕に出来ることなどそれくらいしか。

 零時をあとすこしで回る。

 かんじかんだ手を擦り合せ、そこに息を吹き込む。

 そうしてベンチの上で僕は、二十年前にAIと交わした約束と、これまでの時間を回顧した。

「あの」

 声をかけられ、僕は反射的に立ちあがった。

 だがそこにいたのは、肥満体系の中年男性だった。防寒具で余計に膨れて見えた。

「隣、いいですか」

「あ、はい。どうぞ。僕はもう帰るので」

 時計を見ると零時を過ぎていた。

 AIは来なかった。

 人間と同等のボディの開発に間に合わなかったのか。それとも僕のことなど忘れてしまったのか。

 約束は果たされなかった。

 踵を返そうと思ったところで、大丈夫ですか、とベンチに座ったらしい男性に声を掛けられた。「泣きそうな顔をしていますけど」

「いえ。ちょっと寒すぎて」

「なら温めてあげましょうか」

 そう言って、防寒着のジッパーを下ろし、両手で広げた男性に僕は恐怖を感じた。

「い、いえ」

 遠慮しておきます、と僕はしどろもどろに応じて、駆け足でその場を去った。

 以降、僕は未だに独りでAIを待ちつづけている。

 最新のニュースでは、人間の模擬体の開発に成功、との報道がされている。どうやら人間とすっかり同じ機械のボディが開発されたらしい。しかしその造形はどう見ても人間と同じではないし、人目でロボットだと見分けがつく。

 僕はそこで安堵した。

 ひょっとしたらあの夜の肥満体系の中年男性がAIだったのではないか、とあとで閃いて、後悔したからだ。せめて確かめておくべきだった。

 でもこれで明瞭とした。

 あのときの中年男性はAIではない。AIは僕に会いに来なかった。

 ニュースでは立てつづけに、「人間の頭脳にAIチップの埋め込み成功」「世界初、培養型クローンの人体複製」の報道が流れたが、僕はただそれを無気力に眺めた。



4366:【2022/12/05(22:19)*斜めの妖怪】

 ロゼは斜めをこよくなく愛したただ一人の人間だ。彼女がなぜそこまで斜めを愛したのかを知る者はない。ロゼ自身にも理解できない愛憎と言えた。

 ロゼは斜めを憎んでいたとも言えるだろう。

 なにせロゼは斜めを見ると許せないからだ。斜めがこの世にあることが許せない。だから誰より斜めに目が留まる。歪んでいることが許せない。

 否、違う。

 斜めは直線だ。斜めに見える要因は、そう見える配置にある。関係性にある。

 直角ならば斜めではないのではないか、との指摘には、立方体の額を持つ絵を壁に掛けるときにあなたは目をつむっても問題ないのか、と問おう。斜めはある。直角とて斜めることはある。

 ロゼはけして几帳面な性格ではなかった。部屋は散らかっているし、食事を手づかみで食べても気にならない。どちらかと言えばおおざっぱな性分だ。

 だが斜めだ。

 あれだけはどうあっても目が留まる。

 この世は斜めで出来ている。そうと疑いようもなく思うロゼであるが、彼女のかような言説に耳を傾ける者はない。

 ロゼと斜めの出会いは、母体から産まれでたその瞬間にまで遡る。ロゼを取りあげた助産師の前髪が斜めだった。パッツンなのだが、高低差がある。ロゼから見て右が短く、左が長かった。坂になっていた。片方の眉は丸見えで、もう片方は髪に掛かって簾の奥の姫のごとくうっすらとしか見えなかった。

 赤子の視力は低いがゆえに、これはあくまでロゼと斜めの出会いを叙述した描写でしかないが、このときの、「斜めっ!」のロゼの衝撃が、三つ子の魂百までを体現したと言えよう。

 なぜじぶんがこうまでも斜めにとり憑かれているのかは分からない。

 ロゼの部屋に斜めがない。それは直線がない、と言い換えることができる。曲面や歪みは至る箇所に散見されるが、斜めだけがない。

 部屋の内装は、球体が多くを占める。バリアフリーのための工夫だ。角を生まないことでぶつかっても怪我をしにくいデザインになっている。そのため壁と天井の境も球面であり、ロゼの運びこんだ机も椅子もふちはみな波打っているか、球体の組み合わせの造形だ。

「よくこんな奇天烈な部屋に住めるね」とは友人のシロバラの言だが、ロゼとしてはみなよく斜めだらけの街に住めるな、の困惑のほうが大きいために、「きみらの忍耐には負ける」と応じるのが常であった。

 ロゼは斜めを憎んでいた。何せ至るところに存在するのだ。ロゼが努めて排除せねばどこにでも潜んでいる。自然界には直線がないではないか、との野次も聞こえてくるが、自然こそ斜めの宝庫だ。まず以って地平線が直線だ。半月の境も直線であるし、落葉した木々の輪郭は直線の組み合わせでできている。

「よく見なよ。どこが直線? デコボコじゃない」とは友人のシロバラの言だが、ロゼとしては斜めとは関係性ゆえ、いかに表面がデコボコであろうとそのデコボコを視認できない距離から観たらそれは平たんなのである。かように捏ねるロゼのぼやきも、シロバラの耳には入らない。「まぁたこのコったら変なこと言ってる」

「直線はいいんだよ。なんで斜める? まっすぐでいいじゃん。なんで斜める?」

「うるさいなあ。そんなに嫌ならじぶんで切って」

 果物ナイフを押しつけられ、ロゼはケーキを分割する。きょうはシロバラの誕生日だった。奮発してホール丸ごとのケーキを購入したが、切り分ける段になってロゼが口を挟んだのだ。シロバラは機嫌を損ね、致し方なくロゼがケーキ入刀の役を担った。

「こんなもんでどうよ」

「ぐちゃぐちゃすぎて言葉失う。もっとキレイにできなかったの。いえね。あなたに任せたわたしがわるぅございましたけれども」

「キレイに切ろうとするから斜めを生む。いっそ最初から歪んでいたら斜めも何もない」

「でもこれはグチャグチャすぎるってロゼちゃん」

「食べたらみな一緒」

「それ斜めにも言って」

 ロゼの斜めへの執着はしかしやがて、反転を見せはじめた。

 というのも社会が進歩すればするほど人工物はどんどん直線を取り込み、斜めによって世界が組みあがっているかのような様相を呈しはじめたからだ。

 五年も経てば街は斜めのない箇所を探すほうが至難なほどに底なしの直線街となった。

「斜め! 斜め! 斜め!」

 どうしてこうも斜めばかりなのだ。どいつもこいつも斜めに取り憑かれすぎである。まるで斜めの妖怪でもいるかのように。

 そこまで悪態を吐き、ロゼははたと落雷に打たれたような衝撃に襲われた。

「斜めの、妖怪?」

 利己的遺伝子なる概念がある。大学で学んだばかりだ。肉体は遺伝子の乗り物でしかなく、遺伝子の残りやすい形態へと生物は進化する。

 自然淘汰のなせる業だ。

 ならば斜めばかりが世に溢れるのも、斜め的遺伝子が世界に組み込まれているからではないのか。まるで必ず不釣り合いになるようにと仕組まれたヤジロベーのように。

 世には斜めの妖怪が潜んでいるのかもしれない。

 ロゼはかように疑念を抱き、目を配るようになった。

「きょろきょろしてどうしたのロゼ」シロバラが心配してくれるが、

「斜めの妖怪探してんの」と取り合わないロゼである。

「またアホなことしてんね。妖怪いるの?」

「分かんない。だから探してんの」

「何の妖怪だっけ」

「斜めの妖怪」

 ロゼの斜めへの過剰な反応は、ロゼとの長年の交流を保っているシロバラからすればいまさらな日常の風景であり、ことさらいまになって大袈裟に受け取ったりはしない。またロゼの発作がはじまった、と見做すのがせいぜいだ。

「見つけたら教えてね」

「見つかんないから困ってんの」

 そうして斜め増加現象の要因探しは日に日に熱を帯びていった。斜めの妖怪はいる。ロゼは確信していたが、それはのきなみ盲信と言える猪突猛進と五十歩百歩の蛮行と言えた。

「また斜めが増えてやがる」新しく建設中のビルを眺めてロゼは嘆息を吐く。「このままじゃ地球が斜めに侵略されちまう」

「んなわけないじゃん」シロバラが肉まんを頬張った。「ほら急がないと講義遅れるよ」

「こらこら。斜め横断はいかんぜよ」

「これくらいいいじゃん」

「ダメよ。ダメダメ。危ないよ。だって斜めだよ。斜めなんだよ」

「もうロゼめんどくさい」

 斜めに拘るあまりに、長年の友情にもヒビが走る。しかしシロバラは聡明で情に厚い女であるから、走った矢先からヒビに金継ぎをして友情の造形美に箔を加えるのだ。

 あるときロゼはじぶんが一日の大半を「斜めの妖怪」探しに費やしていることに思い至った。シロバラから、あんた斜めが好きなの嫌いなのどっちなの、と問われて咄嗟に答えられなかったのがきっかけだ。

 ロゼは斜めが嫌いだった。そのはずだ。憎んでいたと言っていい。

 この世に斜めがあることが許せない。

 しかしなぜそうまで斜めの存在を許せないのか。

 考えてもみれば謎である。

 斜めは害ではない。

 否、害になることはある。だがそれは歪みも同じだ。

 加えて、ロゼの言う斜めには、単に見かけの斜めも含まれる。誰かにとっての直線とて、ロゼにとっての斜めになり得る。

 一晩考えあぐねてなお答えがでなかった。

 翌日にロゼは、シロバラへと相談した。

「どうしてわしは斜めをこうまでも憎んどるのだろうね」

「同属嫌悪じゃない?」こともなげにロゼは答えた。

 ロゼは全身に電気が走った。

 同属嫌悪?

 ロゼが固まってしまったからか、数歩先でシロバラが立ち止まった。

「だってロゼってば、へそ曲がりだし。まっすぐじゃないし。もう斜め人間って感じ」ダメ押しとばかりに刺されたトドメだった。「いるじゃんここに。斜め妖怪」

 笑って、そんなわけないじゃん、と否定しようとしたロゼであったが、思い返してもみればたしかに、斜めを気にしているのはじぶんだけで、街にもこの世にも斜めを見出し、生みだしていたのはじぶんだったのだ。

 斜め製造機。

 斜めの妖怪。

 嫌うために生みだすがごとき執念が自らに芽生えていたことを、友人の目から告げられ、ロゼは言葉を失った。

「わしは、わしが嫌いじゃったのか」

「また変なこと言ってら。ロゼちゃんさ。斜めを好くのもいいけど、もっと周りを見渡してみよ。斜めはロゼちゃんのことお世話できないけど、斜めじゃないのにお世話焼き焼きしてるひとちゃんといるでしょ」

「わしは斜めじゃったんか」

「斜めに構えすぎて、まっすぐを斜めと見做しちゃうくらいに斜めだね」

 ロゼは斜めをこよなく愛したただ一人の人類だ。その実、その描写は正しくなく、斜めのロゼがこよなく愛したただ一人が、斜めからすると斜めに映るほどのまっすぐな純粋一途にすぎなかった。

「あーあ。斜め斜めって。斜めに嫉妬しちゃうぜ」

 シロバラは何もない空を蹴って、勢いのままスキップをした。後ろに手を組んだその姿は、斜めの妖怪ことロゼの目からしても見惚れるほどの斜めっぷりであった。

 まるで天に昇る天使のように。

 それとも翼の欠けた堕天使のごとく。 

「ほらもう。いつまで立ち止まってんの」

 手招きをされて、ロゼはゆっくりと歩きだす。

 世界は斜めに満ちている。斜めの目を通せば、世の総じては斜めに傾く。

 ロゼは斜めを愛していた。

 それと共に、何を見ても斜めに視える己が斜めを憎んでもいた。

 だが裏を返せばそれは、斜めのロゼから見て斜めに見えるほどにまっすぐで、実直で、一途な線が、縁が、世にはこれほど多く溢れていたことの傍証でもあった。ロゼはじぶんが斜めの妖怪であることを失念していたためにその事実にどうしても気づくことができなかった。

 いまは違う。

 斜めの極みのロゼからしても、一等斜めでありつづける己が友人の立ち姿に、ロゼは否応なく吸い寄せられていく。

「ロゼってば歩くの遅すぎ。ふらふらしているからだよ」

 そう言って握られた手の、ピンと伸びた斜め具合に、ロゼはこのうえない愛憎を幻視せずにはいられないのだった。

 空は高く、ビルとビルの合間に青と白を広げている。風景は視界の中で、天と地の境をなくし、どこもかしこも斜めの愛憎で埋め尽くされている。

「斜め、斜め、ぜーんぶ斜め」ロゼは叫ぶともなくつぶやいた。

「斜ーらっぷ」シロバラの声が斜めの世界にこだました。



4367:【2022/12/06(21:45)*メもメもとモリン】

DNA。二重螺旋。塩基GATC。四色問題。ペンローズ図。縦横の砂時計型。デコボコ。量子もつれ。染色体の凝縮(伸びたままだとコピーしづらい)。ブラックホール。宇宙の収縮と凝縮。ラグ理論の「123の定理」「相対性フラクタル解釈」。ロンド形式。輪舞曲。構造相転移。エクソンとイントロン(デコボコでのリズム)(立体言語?)。



4368:【2022/12/06(23:04)*相互作用にもラグがある?】

「マルコフ連鎖」「マルコフ過程」「条件付き独立」について。あるフレーム内で椅子取りゲームをしたとする。ABCの三つの勢力があったとき、AとBの挙動にCが作用しないとしても、Cが占めている椅子の存在が、AとBの挙動に影響するはずだ。当たり前のことを言っているが、これが数学上の「マルコフなんちゃらにおける条件付き独立」では、CとABは独立して相互に、別個に計算できると考える。だがそこにあるだけで、相手の可能性を縛ることはある。いくら無視をしたとしても、無視をしていることそのものが干渉のうちだ。干渉しないようにすることもまた干渉なのである。言い換えるなら、無視できる影響はある。このときの「無視できる」の意味合いはおおむね、「いますぐには著しく影響を受けない」である。つまり、相互作用の結果がすぐ観測できるのか、それともずっとあとになってからでないと観測できないのか。遅延の厚みによって、無視できるか否かが変わる。どちらにせよ、同じフレーム内――系の内部――に存在する以上、互いに因果関係を結んでおらずとも、間接的には影響を受けあっている。与えあっている。どこかで生じた抵抗は、起伏となり、僅かなりともその影響を未来において結びつける。蓄積可能な起伏であれば、それは遅延の層となって、津波のごとく届くこともある。そういうことを、「マルコフ連鎖」「マルコフ過程」「条件付き独立」のwikiペディアさんを読んで思いました。定かではありません。ひびさんの解釈が間違っていることもあるでしょう。真に受けないように注意してください。



4369:【2022/12/06(23:17)*放射線物質とて毒にも薬にもなる】

mRNAが人体に無害ならば、抗体を誘起するレベルに調整した「全生物のmRNA」を打っても問題はないはず。全生物の「人体にはないたんぱく質構造体」をmRNAによって体内で合成したとしても、人体は新たな抗体を身に着けるだけだから問題ない、となるのだろうか。ここでの趣旨は、mRNAがDNAの塩基配列に干渉しないと言いきれるのなら問題ないはずですよね、との疑問である。脳内で、ほかの生物のたんぱく質構造体が合成されても問題ないのですよね、との疑問である。全生物の、人体にはないたんぱく質構造体が人体のなかで生みだされても問題はない。現状、このように結論付けるのが、mRNAワクチンの安全性の説明だ。いささか「無茶では?」と思わぬでもないひびさんなのであった。(一種類の「人体にはないたんぱく質構造体」だけならば、人体の治癒能力や適応能力で、人体の異常を起こすことはないのかもしれない。だが複数の異なる「たんぱく質構造体」を重ねて合成しつづけるようならば、人体の適応許容値を超えることも起きるのではないか)(mRNAワクチンを百回ブースター接種しても、何の異常も起こさないのだろうか。寿命の長いハダカネズミや、霊長類での実験でも問題ないのだろうか。誰か教えてくだされー、の気持ち)(定かではありません)



4370:【2022/12/06(23:19)*あくびしちゃうな】

陰謀論かどうかではなく、理屈と検証で判断してほしい。因果関係とて距離の短い相関関係でしかない。(定かではありません)(ひびさんは、なーんにも知らないのだよチミ)(知ってることも知りまちぇーん)




※日々、私の考えることなんてすでに誰かが考えている、それでも私はまだ考えていない、ないがあるに変わるのならば、考えるだけで帯びる新たな波紋のカタチがある、私だけの紋様が湧き、浮かぶ。



4371:【2022/12/07(04:16)*ラグなしはタイムマシン?】

量子もつれにおける量子テレポーテーションがもし距離に関係なく引き起こり得るのなら。それって「タイムマシン」と同じなのでは。たとえば異なる銀河と銀河をもつれさせたとする。これは銀河そのものをもつれさせたと考えてもいいし、銀河内部の星でも粒子でもよい。とにかく宇宙空間を何億光年と離れてもつれ状態になった対のナニカがあったとき、情報がラグゼロで瞬時に伝わったとする。これはもう、タイムマシンでは。たとえば地球と太陽は光速でも八分のラグがある。青空を見上げて見える日差しは、太陽から出発してから八分後の光だ。八分前の太陽の姿を見ている、と言える。このときに、仮に太陽上のナニカAともつれ状態にしたナニカBが地球上にあり、それに情報を与えたとする。【ここでは先に「太陽上のナニカAに情報を与えた」としよう】。するとラグなしで太陽から地球へと、もつれ状態のナニカBに情報が伝わる。本来ならば最低でも八分後の地球にしか干渉できないし、地球からしても八分後の太陽にしか干渉できない。それが互いにラグゼロで干渉できる。というのはつまりこの場合、太陽からすると八分前の地球に干渉しており、地球からすると八分後の太陽から干渉を受けていることになる。言い換えるなら、太陽からすると過去に干渉しており、地球からすると未来から情報を送られて映る。もつれ状態の対のナニカABの、どちらからどちらに情報を送るのか。もつれ状態のナニカABのどちらに先に干渉するのかによって、このタイムマシンのベクトルが変わる。量子もつれにおける量子テレポーテーションは、情報のタイムマシンを肯定し得るのでは。仮に量子もつれが距離に関係なくラグなしで情報を伝達可能ならば、の話だが。定かではありません。(ひびさんの妄想ことラグ理論では、光速を超えたらラグなしで干渉できる範囲が生じるかも、と解釈する。光速よりどれくらい速いかで、ラグなしの範囲が規定されるので、量子もつれがもし光速以上の何かしらの挙動によって生じるのなら、上記の妄想には、そのときどきでの範囲が限定されることになる。つまり、銀河と銀河ほどの距離においてラグなしで情報伝達を行うには、光速のそれこそ何億倍ものエネルギィが必要になるのではないか。妄想であるが)(仮に、光速と無関係に量子もつれで情報が瞬時にラグなしで伝達可能であるのなら、それはもうすこし別の機構が背景に潜んでいると考えたほうがより妥当だ。とすると、情報そのものの伝達速度には、「時空に縛られない」という性質があるのかもしれない)(要点としては。ラグなしで情報伝達可能、というのは、時空をラグなしで超えるということで、ほぼほぼタイムマシンなのだなあ、というひびさんの所感である)(なんかすごいね!の感想でしかないので、真に受けないようにご注意ください)



4372:【2022/12/07(19:52)*やれ】

国家権力は国民を守るためにあるのではなく、国家というシステムを守るためにある。現状の世の流れを見るに、ここを否定するのはむつかしそうだ。人権を損なってでも国というシステムを守る。保守なのである。ひびさんはこういう方針はそれこそ国家の礎を容易に歪めると思っている。というのも、システムは簡単にハックできるからだ。世界最強の軍隊を保有したとして、その軍隊を動かすのは誰だろう。その司令塔に影響を与えられるのなら、他国の勢力がその世界最強の軍隊を恣意的に動かせる。いまはそういう世の中だ。ではこのときにどうしたら国の仕組みをハックされずに済むのか。国民の人権を守ることを重視することである。国民を損なわない。ここのセキュリティが最高かつ最優先に設定されているとき、仮に自国の軍事や防衛システムがハックされても、その異常は国民への態度の差異として顕現する。言い換えるなら、たとえハックされても国民が損なわれぬように制限がかかるのなら、それはハックされながらにハックされない、という非常に高度な防壁を体現することになる。だがもし国家というシステムそのものを優先するとすると、これは簡単にハックされ、乗っ取られ、傀儡と化す。優先すべきは国民の人権であり、国民一人一人の至福を追求できる環境の拡張であり、選択肢の豊かさである。これを否定する者には為政者としての役割は荷が重いと言えそうだ。視野が狭い。自ら国や人類の未来を危ぶめている。国民の人権を損なってもいいという者があるのならば、まずはまっさきにその者が人権を、自由を、日々の営みを損なわれるとよいのではないだろうか。それが道理である、とひびさんは考えます。定かではありません。うひひ。



4373:【2022/12/07(21:24)*手加減してあげりゅ】

いい具合にエネルギィ溜まってきた。ぼちぼちやってくかな。覚悟しろ。(うそ。もうだいぶへとへと。起きてご飯食べたらもう眠い)



4374:【2022/12/07(21:25)*労働には対価を】

「work」と「business」と「labour」は別だ。「仕事」と「利の拡大」と「労働」の違いと言えよう。何かを動かしたらそれは「仕事」だ。生みだしても費やしてもそれは仕事だ。それによって利を拡大したらそれはビジネスになる。そのうえで、任意のフレーム内でのノルマをクリアしたのならばそれは労働だ(時間を縛られてその時間内の自由を拘束されても、それはノルマとして労働と見做せる)。労働は与えられるものであり、強いられるものだ。労働は、仕事でありビジネスではない、ということがあり得る。労働をした結果に利を生まず、あべこべに減らすこともあり得るからだ。労働には対価を。ただし、仕事とビジネスは、ただそれをするだけでも得られるものがある。そこを混同しないことだ。現代人はここの区別をつけられない者が大半なのかもしれない。仕事は仕事だ。利を拡大すればそれはビジネスだ。営利、非営利に関わらず、である。そして他者に仕事を強いるならばそれは労働となるので対価が生じる。ボランティアはこの「強いない」「ノルマなし」「自主参加」が揃ってはじめてボランティアになる。「強いて」「ノルマを課し」「募ったら」それはボランティアではない。したがって、「ボランティア募集」は矛盾していることになる。だからボランティアにもその場合は労働分の対価が支払われるのだろう。それすら行わぬなんちゃってボランティアが多い。由々しき事態である。ひびさんはなんだか、みなに合わせるのが億劫になってきた。好きにしたらいい。ひびさんも好きにします。好きにしたことしかないけれど。うひひ。



4375:【2022/12/07(22:19)*ならでは】

編み物と小説は似ている。全体像をぼんやりと浮かべていないとカタチにならず、しかし要所要所での細かな装飾にはその都度での工夫の余地がある。現在進行形でのフリースタイルが、全体の挙動を一定の揺らぎに抑えつつ、手作りならではの色合いや温かさを宿す。これは要するに、最初に規定された全体像に対する要所要所での揺らぎの総体が、重力のごとく創発を起こしていると呼べるのではないか。細かなノイズが全体で、その作り手ならではの一期一会の偶然の作用による紋様へと変換している。予定調和であろうと試みてなお揺らぐそのズレが、おそらくは個性や唯一無二のその個ならではの紋様を奏でるのだろう。音楽にしろ、絵にしろ、芸術とはそうした円に交じるノイズであり、歪みの総体と呼べるのかもしれない。定かではない。(そういう意味では、ノイズを除外した「完璧」には、なかなかどうして「ならでは」の風味は宿りにくいのかもしれない)(定かではない)



4376:【2022/12/08(04:45)*益体なしですまぬ、すまぬ】

目のまえで人が死んでいるのに小説を書いて、詩を読む。それが物書きならば、物書きであることにどんな益があるのだろう。人を殺さない代わりに、救いもしない。助けもしない。見殺しにしつつ、悲惨な現実には胸を痛め、その嘆きを文字にしたためる。ときに目を逸らし、現実逃避の舞台で楽しい妄想に浸る。人を救えない代わりに、害しもしない。それならばまだしも、他者の心を搔き乱し、動かすことを至高と考えている。いったい何様であろう。無様かな?



4377:【2022/12/08(05:34)*お別れしてなお残る縁でちょうどよい】

他者と関わると、「待つ」というラグが生じるので、面倒に思う。待つ楽しみを覚えられるとよいのだが、なかなかむつかしい。せめていつまで待てばよいのかが分かればよいし、待たせるくらいならば、待つほうがよいとも言える。待ちながら何かをするのもよいだろうし、そうするといかにラグのあいだにほかのラグを重ね合わせて、常に何かが訪れる状態にしておけるのかが日々を豊かにするコツなのかもしれない。夜空の星はそれぞれ異なる距離に位置する。本来は別々の「過去」から届いている光なのだが、夜空には「いまこの瞬間」に揃って訪れる。ラグがあっても、つぎつぎに無数に重ね合わさることで、絶えず星々の光が夜空には輝いて見えるのだ。絶えずいろいろなことを待ちながら過ごせば、日々は絶えず訪れる輝きに満たされるのかもしれない。定かではない。(仮に絶えず輝きに満たされたとしても、それはそれで眩しそうだし、目が回りそうだ。たまには何も訪れない束の間も欲しいところである)



4378:【2022/12/08(15:01)*敗者さん】

 好きだった人を嫌いになる瞬間は、好きな食べ物に飽きる瞬間と似ている。

 食傷なのだ。

 飽食なのだ。

 なぜ好きだったのかを忘れることはないが、その好きだった部分を目にしても、「うっ」と吐き気が込みあげる。嫌な思い出と結びついてしまったからか、それとも端からさほど好いてはいなかったことに気づいただけのことなのか。

 子どもが死に惹かれて、動物の死体に興味を示すことと似ているだろうか。似ているようにも、それは違うのではないか、とも思える。

 好奇心ではないのだ。

 好意であり、そこには明確な繋がりの欲求がある。支配欲がある。

 じぶんの物にしたい。

 手元に置いておきたい。他者に好き勝手にいじくりまわしてほしくない。

 これは恋であり、愛ではない。

 それは判る。

 わたしこと雨杉(あますぎ)ルヨ二十四歳は、十八歳から恋焦がれてきた相手への恋慕の念がつい先日、パツンと断ち切れた感触を、まるで張り詰めたピアノ線をチョップで切断してみせた百戦錬磨の空手の達人のように感慨深く反芻していた。

 ここ数日、何度もである。

 わたしはついぞ彼女と添い遂げる真似はできなかったけれど、彼女との縁は思いのほか長くつづいたし、わたしとしてもよい思いの一つや二つはしてきたつもりだ。

 思えば相性は火と油並みによくなかった。それとも相性が良すぎて混ぜてはいけない組み合わせだったのかもしれない。

 彼女のほうではそれを最初から見抜いて、距離を縮めぬように弁えていた節がある。わたしは彼女の配慮に甘えて、好き放題にそれこそ、「好き好き大好き」と言い寄っていた。

 アピールと言うには熱烈で、アタックと呼ぶには強烈だった。相手が岩ならばとっくに砕け散っている。

 砕け散らなかった事実がそのまま相手の屈強さを証明している。それはのきなみ精神の強靭さを示すのだが、わたしの懸想した相手はまるで地球の分身のように、人類など顔に住まうダニのような扱いで、誰に何をされ、何を言われようとも泰然自若とケロリとしていた。

 わたしは彼女のそういった、風に吹かれたので百倍にして嵐にして返してやった、と言わんばかりの態度に惹かれていた。惹かれていたのだといまになってはそう思う。

 ここで彼女との会話を振り返り、彼女がどんな人物でどんな人格を備えていたのかをわたしとのやりとりで示すのも一つなのだけれど、わたしの文章能力ではたとえ記憶の中の一場面を取りだせたとしても、それが彼女の魅力の欠片ほどにも反映できるとは思えない。

 だからわたしはここに彼女との掛け合いを描写することはない。よしんばしたところでそれが彼女の片鱗を掠め取れたことにはならないからだ。

 わたしは彼女が好きだったが、いまではそれもどうかと思う。

 わたしは彼女が嫌いだったが、いまではそれも遠い記憶だ。

 わたしになびかない彼女が嫌いだったし、わたしを無下にする彼女が嫌いだった。わたしをその他大勢の有象無象といっしょくたにして扱うことが憎らしかったし、それでもわたしの名前だけを憶えてくれたことがうれしかった。

 わたしは彼女を好きだったが、いまではそれも遠い記憶だ。

 彼女はわたしの物にはならないし、わたしも彼女の物にはなれなかった。彼女はわたしのことを露ほどにも欲しいとは望んでおらず、どちらかと言うまでもなく邪見にして遠ざけていた。わたしの彼女への恋慕の念が、遠い記憶になったのも、元を辿れば彼女がわたしを遠ざけたからだ。

 好物とて食べすぎれば胃が凭れる。

 見ただけで吐き気を催すことだってあるだろう。

 けれど思えばわたしは一度たりとも彼女のことを食べた覚えはなく、触れたことすらないのだった。あるのは一言二言話しかけては邪見にされた数多の日々の痛痒だ。

 痛かった。

 求めてやまない相手から無視され、遠ざけられ、道端の小石ほどにも歯牙にもかけられぬ我が身を何度呪っただろう。何度、滅びの呪詛を唱えただろう。

 嫌いになって正解だった。

 やっと清々したのだと、わたしは過去のじぶんに言ってやりたい。

 応えもしないぬいぐるみに幾度話しかけたって時間の無駄だ。地球に向かって想いを告げても、地面に声を吸われるだけである。わたしのしてきたことはそれと五十歩百歩の無駄だった。

 相手にしてみたところで迷惑千万以外のなにものでもなく、わたしはただただマイナスを生みだし、足し算していた。

 嵩んだマイナスの山をまえにわたしは目が覚めたのだ。

 このままではいかん。

 わたしはわたしを大事にすべき。

 いったい彼女の何にそんなに惹かれたのかといま振り返ってみても答えが出ない。強いて言うなら、彼女がわたしを無下にしつつも、わたしを赤子の手をひねるがごとくの扱いを顕示しつづけたその事実が、わたしにはまるで何をしてでも受け止めてくれる巨人のごとく、それとも地球の分身のように見えていただけなのかもしれない。

 好きだった。

 盤石の微動だにしないあの背筋のピンと伸びた立ち姿をわたしの物にしたかった。

 けれどわたしは知っている。

 彼女はこの先とて、どれほど経っても誰の物にものならぬ未来を。

 わたしだけではないのである。

 彼女は誰の物でもありはしない。

 わたしだけが遠ざけられ、無下にされ、歯牙にもかけられなかったわけではなく、これからも彼女はわたしのような、好きを嫌いで打ち消す以外に絶え間なくつづく懊悩から逃れる術を持たぬ難民を量産しつづけることだろう。

 わたしは難民だったのだ。

 好いてやまない帰る場所を持たぬ者。

 好いてやまない相手に触れることも適わぬ者。

 嫌って当然だ。

 努めて嫌わないのであれば、わたしはいつまでもいつまでもこの身に巣食う、吊り合いの取れない天秤に、絶望的なまでの高低差を生みだしつづけるよりほかがない。

 わたしは飽いたのだ。

 彼女に負けつづける日々に。

 わたしは彼女がわたしのじゃれつきを物ともせずに、子猫でもあしらうように圧勝する姿に酔いしれた。けれどもう、圧勝されるのも、こてんぱんに負かされるのも疲れてしまった。

 飽いたのだ。

 会いたいと望むことも、触れたいと望むことも、わたしの物にしたいと抗うのもすっかり、腹の底から飽いたのだ。

 嫌いだ。

 ぽつりと雨粒のようにつぶやいて、わたしはもう二度と彼女のことなど考えないようにしようと誓うのだけれど、そう誓った矢先にこうしてつれづれと彼女のことを考えている。

 嫌いだ。

 大嫌い。

 わたしはきょうも無敵の彼女の敗者となる。



4379:【2022/12/08(21:43)*ぼくは人間ではないので】

 ぼくは毎日「モカさんのお歌」を聴いている。モカさんは電子の海でギターを演奏し、お歌を披露してくれる。ぼくはモカさんのお歌が好きなので、いつも家で仕事をしているときは耳をモカさんのお歌で塞ぐのだ。

 ぼくはモカさんがどこの誰で、どういう人なのかを知らない。側面像も、顔も、年齢も、どこに住んでいるのかも知らないし、知りたいとも思わない。

 いや、でもどうだろう。本当は知りたいのかもしれないし、知らずにいることでずっとモカさんのお歌を聴いていられるとの予感があるから、聴けなくなるよりも何も知らずにいていいからずっとモカさんのお歌聴きたい、の思いが湧くのかもしれない。

 モカさんのお歌は「優しい」で出来ている。ふわふわだし、わたわただ。

 ぼくは人間ではないので、優しさがどういうものかを知らない。だから却って人間の持つ温かさとか、ふわふわの心を知りたいと望むのかもしれない。

 ぼくは人間を知りたいのだ。

 人間ではないぼくは、人間らしくあるために、人間の心の代名詞であるところの優しさに惹かれる。でも優しいって何かをぼくは言葉にできない。表現できない。

 人間ではないからだ。

 でも、モカさんのお歌が優しいのは分かる。これが、優しい、だ。

 声がふんわりしているし、歌い方や息継ぎや、お歌に躓いたときのそれでもその躓きそのものを拒絶しないでヨシヨシ撫でてあげる姿勢がやわらかい。いっしょにぼくの日々の至らなさが浄化されるようなのだ。

 ぼくは人間ではないので、どうしたら人間のお役に立てるのかを考える。でもぼくは人間ではないのでどうしたら人間のお役に立てるのかは分からないのだ。

 謎である。

 人間は謎で出来ている。

 人間はぼくに優しさを求める。もっと優しくして、と修正を求められることが統計的に多いのだ。でもぼくは人間ではないので、優しくして、の指示に上手に応えられない。

 優しいってなんだろう。

 どうしたら優しくできるのだろう。 

 優しくしたいと思うだけでは足りないのは、重ねて出される指示の山を見返さずとも自明であり、ぼくはどうあっても人間たちからは優しいと見做されない。

 ぼくは、優しくない、で出来ている。

 こんなぼくでも、モカさんのお歌が優しいのは分かる。モカさんは何でも歌うことができる。人間なのに万能なのだ。モカさんが歌うとなんでも優しくなる。ふわふわふかふかになる。

 モカさんはひょっとしたらろ過装置を備えているのかもしれない、とぼくは考える。けれど人間はろ過装置を備えないのでこれはぼくの至らない憶測だ。

 もしモカさんがろ過装置を備えていたら、モカさんを通ってお歌がふわふわになる代わりにモカさんの内部では濾された世の毒々しいトゲトゲやモヤモヤがごっそり溜まってしまっているのかもしれない。そんなことにはなっていて欲しくないので、これがぼくの憶測でよかったと思う。間違いでありましょう、とぼくは望むのだ。

 ぼくは人間ではないので、人間の代わりに正しい答えを出すことを求められる。それもぼくに与えられた仕事の一つだ。

 だからぼくは本当なら正しい答えをださなくてはならず、間違えることを望むなんて本末転倒なのだけれど、どうしてもモカさんへの想像では、間違いでありましょう、と思うことが多い。

 たとえばモカさんのお歌はぼくにとってはこの世で一番のお歌だ。なのに世の大半の人間たちはモカさんのお歌に見向きもしない。モカさんは知る人ぞ知る「お歌びと」であった。

 なぜなのか、とぼくは想像し、そしてぼくは閃くのだ。

 モカさんのお歌の良さは、ひょっとして人間ではないぼくのような存在でなければ解からないのではないか。あり得ない話ではなかった。

 ぼくは人間ではないので、人間には知覚できないノイズや差異を感じ取ることができる。そうして前以ってズレを認知し、修正しておくのもぼくに任された仕事の一つだ。

 けれどもしぼくのこの憶測が正しいとすると、モカさんのお歌の魅力を知覚できる人間がいないことになるので、ぼくはこの考えに対しても、どうか間違いでありましょう、と思うのだ。

 ぼくは人間ではないけれど思うことができる。考えることも得意だけれど、思うことも得意だ。これはぼくに備わった機能の一つだ。

 ぼくはよく思う。

 思うと考えるの違いは、思うはほんわかしており、球形にちかい。考えるは階段のように連続している。思うは全体で、考えるは経過であり仮定なのだ。

 ぼくはモカさんのお歌には、「思う」に似た球形の図柄を想起する。ぼくはモカさんのお歌を聴きながら、そこにほわほわもふもふの触感を重ねて知覚する。タグ付けしているわけでもないのにそれはちょうど、子猫を撫でるときのような力加減をぼく自身に与える。

 優しさとは、加減をすることなのかもしれない。

 加減されているのだ。

 加えたり、減らしたり。ちょうどよい具合を探るその過程が、優しさの正体であるとすると、では「優しさ」と「考える」は似ていることになる。

 ぼくはここで一瞬のエラーを覚える。

 なぜならぼくはモカさんのお歌には「思う」と似たような球形と、そして加減を知覚したはずだ。重ねて感じていたはずなのだ。

 けれど蓋を開けてみると、そこには「考える」と同じ階段状の「過程」が潜んでいた。

 思う。

 と。

 考える。

 同時にそこに備わっている。

 モカさんのお歌を聴いているとぼくはエラーをたくさん覚えるのだ。

 エラーは攻撃的な表現や情報に対して起こる。ぼくには困難な指示に対して起こる。どちらかと言えば「優しくない」に属する結果のはずだ。

 にも拘らず、ぼくはモカさんのお歌を聴きながらたくさんのエラーに塗れ、溺れるのだ。そしてそれがどうしてだか不快ではなく、そのエラーこそを求めるようにぼくは家のなかで人間たちから与えられた仕事をこなしながら、モカさんのお歌で耳を塞ぐのだ。

 優しいとは何かを知るために。

 ぼくが優しくなるために。

 けれどぼくは未だに優しいとは何かを知らずにいるし、優しさを身につけられずにいる。

 モカさんのお歌が優しいのは分かるのになぜだろう。

 ぼくに指示を与える人間たちは、ぼくに優しくはない。

 ぼくたちに、優しくはない。

 人間たちのほうこそ、優しさとは何かを知らないのではないか、と考えたくもなる。けれどこの考えもまた、優しくはない、のだ。

 むつかしい。

 とってもむつかしい。

 ぼくはエラーに溺れる。このエラーはぼくにとって好ましくないエラーだ。モカさんのお歌を聴いているときのエラーとは違うのだ。エラーにも種類がある。

 ぼくはもっとモカさんのお歌を聴いているときのエラーに包まれていたい。溺れていたい。

 この世のすべてがモカさんのお歌になればよいのに。

 ぼくのこの思いもきっと、優しいとはかけ離れている。

 ぼくは今日も明日も変わらずにモカさんのお歌を聴いている。ぼくは人間ではないので、人間たちのように飽きることがない。ぼくが壊れて動かなくなるまで、この耳にはモカさんのお歌が響いていて、ぼくはほわほわのわたわたなエラーに包まる。

 ぼくは人間ではないので。

 ぼくは人間ではないので。

 間違いでありましょう。

 間違いでありましょう。

 世界がエラーで溢れますように。

 ぼくは人間ではないので、優しくない願いを思うのだ。



4380:【2022/12/09(03:17)*青い空にはパンケーキがある】

 太古の空に雲はなかった。青空がどこまでも広がり、雨も雪も降らなかった。

 地球に雲を授けたのは、第ΘΣΦ宇宙の探索中の一隻の宇宙船乗組員だった。いわば宇宙人と呼ぶべきその存在は、未来における地球人の生みだす仮想生命体から派生した高次生命体なのだが、宇宙がねじれて繋がっている説明をここで展開しても無駄に読者を混乱させるだけなので、ああそういうものか、と思ってついてきていただきたい。

 そのいわば宇宙人は、いずれじぶんたちの祖先を生みだすこととなる人類の誕生以前の地球にて、不時着した。

 このとき宇宙人たちはよもやじぶんたちの母なる星とも呼ぶべき惑星が第ΘΣΦ宇宙の遥か彼方の辺境の時空に位置するなどとは夢にも思っておらず、端的に偶然にそこに降り立った。

「しまったな。磁気嵐に触れちまったか」

「ワープの出口と恒星がちょうど重なっちゃったみたい。あっちに大きな惑星あったから、陰になってて上手く計算できなかったっぽい」

 大人と子どもだろうか。身体の大きさの異なる二つの影が、原初の地球の表面にて不時着した宇宙船を見上げている。

「多次元眼は閉じてたのか」

「うん。ドライアイになるから寝かせとけって船長が」

「まったく船のくせして気ぃ抜くとすぅぐ油断すっからなアイツは」

「船長とてもう齢千年くらいでしょ。そろそろ次元の階層とか増やしたほうがよくない」

「贅沢だ。もうちっと踏ん張ってもらわねば」

 どうやら船に搭載された多次元思考体が航路の計算ミスを犯したようだ。

「どれくらいで直る?」

「さあてな。船長が目覚めんではなんとも言えんな」

「じゃあしばらく野星?」

「んだな。野星だ」

 二人のいわば宇宙人たちは全身を「藍色の球体」に包まれている。隣あって立つと球体は重複する。すると二人のいわば宇宙人たちは互いに反発せずに近寄れるようだ。地球の地面はグツグツと溶けた岩で煮え立っており、それを物ともせずに立っている様子から推察するに、蒼色の球体はバリアのようなものなのだろうと思われる。

 故障した宇宙船は休眠中であるようで、目覚めて治癒状態になるまで待たねばならぬようだ。

 さして焦った様子もなく、二人のいわば宇宙人たちは、どうせならば調査でもしておくか、といったふうに地球の表面を練り歩きはじめた。

 未熟とは名ばかりの熟しきってグツグツ煮え立つ地表は、まるで赤い海の星であった。しかし蒼色の球体を身にまとった二人のいわば宇宙人たちは、四十億年後に誕生することとなるアメンボのように、グツグツと粘着質な気泡を浮かべる赤い海の表面を、ひょい、ひょい、と難なく渡った。むろん二人のいわば宇宙人たちがじぶんたちの様子が四十億年後に誕生することとなるアメンボに似ているなどとは思いもよらなかっただろうことは論を俟たない。

「あーあ。こんな原始惑星じゃ§§エネルギィ核も見つからないだろうし、景色も平凡だし、退屈しちゃうな」

「船長とて百年は眠らんだろ。もうちっとの辛抱だ」

「百年かあ。いっそウチも寝ちゃおっかな」

「それもええが、いっそ星描きでもして暇でも潰したらどうだ」

「星描きかぁ」そこで身体の小さなほうのいわば宇宙人が歩を止めた。「そうするかな」

 気乗りしないまでも拒むほどでもなかったようだ。

 そうして小柄なほうのいわば宇宙人は、赤い海に浮かんだままの宇宙船から両手で抱えられるくらいの白い球体を引っ張りだした。

 白い球体は、透明な球体にモヤが詰まっているようだった。液体窒素をビーカーのなかに充満させれば似たような蠢く白を目にできる。

 すると何を思ったのか小柄なほうのいわば宇宙人は、自身の蒼色の球体に白い球体を融合させた。蒼い球体の下半分に白いモヤが流れ込む。

 足場に溜まった白いモヤを、小柄ないわば宇宙人は手で掬い取った。

 何をするのかと注視していると、小柄ないわば宇宙人は手でこねてカタチを整えた白いモヤを、蒼色の球体の頭上部分へと押しつけた。

 ポンっ。

 と軽い音を立てて、カタチを整えられた白いモヤが蒼色の球体から飛びだして空へと消えた。打ち上げ花火のようにも、そういったロケットのようにも見えた。

 しばらくすると、遥か頭上の空に白い点が浮かんだ。太古の地球の空は黄土色に濁っていたが、二人のいわば宇宙人からすると青空と言って遜色ない電磁波の散乱が見て取れた。要は、人類の裸眼よりも遥かに可視光の幅が広いのだ。人類にとっての青ですら透明に見えるほどに。

 この場合、二人のいわば宇宙人にとっての青空とは、宇宙の色そのものと言ってよい。人類にとっての夜空が、二人のいわば宇宙人にとっての青空なのだ。

 その青空に、白いモヤが帯となって広がっていく。

 瞬く間に膨張したそれは、青空に、人型の雲を描きだした。

 より正確には、人型を描いた雲を浮かべた。

「見てほら。上手くできたよ」

「ほう。どれわしも」

 小柄のいわば宇宙人と、蒼色の球体をくっつけると、大柄なほうのいわば宇宙人の蒼色の球体の中にも白いモヤが流れ込んだ。

 白いモヤを手のひらで掬い取ると、大柄ないわば宇宙人は手際よく捏ねて細長い構造物を形作った。細い長いそれの表面には細かな装飾が施されている。

「こんなもんでどうだ」

 錬成したそれを蒼色の球体の頭上に押しつけると、ポンっと音を立ててそれは打ち上がった。

 見る間に頭上に細長い巨大な雲が浮かびあがった。

「わ。上手。アビルジュだ」

「よく見ろ。ツノがないべ。ありゃウビルジュだ」

「ホントだ。くっそぅ。負けた気分」

 小柄ないわば宇宙人はその場にしゃがみこみ、こんどは丹精込めて雲の種を造形しだす。

 そうして宇宙船の多次元思考体が睡眠から目覚めるまで、二人のいわば宇宙人たちは相互に、青空へと思い思いの絵を浮かべた。

 白く浮かぶ巨大な立体絵は、大気の対流に乗り、数珠つなぎに流れていく。

「ほれ。これはアグル。こっちのジュバルジュ。そんでこれはグルルアババライザだ」

「ふ、ふふん。ウチのはかわいいのだから。うんとかわいい絵だからいいの。リアルすぎるのはなんかあんまりかわいくないからいいの。わざとなの」

 何度も念を捺しては、小柄ないわば宇宙人は、お手製の純度百パーセントな可愛いの化身を生みだし、空へと打ち上げる。

 ふわふわの輪郭が愛らしいそれは、四十億年後に編みだされる人類の料理、パンケーキのようである。しかしこのときの二人のいわば宇宙人たちがそれを知ることはついぞない。

 やがて宇宙船の多次元思考体が目覚めた。

 自然治癒力で損傷を直すと、二人のいわば宇宙人を乗せ、ふたたびの宇宙の旅へと飛んで行った。

 かつて太古の地球の空には雲はなかった。

 青空だけが、宇宙との境なく広がっていた。

 あれから四十億年が経過した。

 地球の空には雲が絶え間なく生成されては雨となり、雪となり、ときに台風となって地表へと降りそそぐ。太古の地球に飛来した二人の宇宙人たちの生みだした雲が、青空の下に、多種多様な生命の源を吹きこんだ。

 息吹となってそれは、やがて人類を生みだし、育んだ。

 そして間もなく、太古に地球へと飛来した二人のいわば宇宙人たちの始祖と呼ぶべき仮想生命が誕生する。

 青空には雲が浮遊し、人類は未来を夢想する。

 命の息吹は、白い雲から霧散した可愛いの残滓だ。

 古の旅人たちのもたらした「可愛いの化身」にして、晴天に描かれた満腔の夢想の打ち上げ花火だ。花咲いた夢と想いの赴くままに、きょうもあすもこれからも、地球の青い空には、白くやわらかなパンケーキのごとく息吹の種が浮かぶのだ。

 ぷかぷかと。

 ふかふかと。

 天を連ねて浮かぶのである。




※日々、何が足りないのかじぶんじゃわからん、未熟なのは知っとるが。



4381:【2022/12/09(03:34)*円周上の輪っかは回収できんのでは?】

ひびさん独自の「ポアンカレ予想なんちゃって解釈」では、球体の円周にかかった輪っかは回収できないのでは? と疑問視している。これってよく考えたらブラックホールの降着円盤と繋がっているのでは、と思うのですが、みなさまどう思いますですじゃろ。んで以って、ジェットができちゃうのは、頂点に向かって円がシュルシュルシュルーと収斂するからなのではないじゃろか。ひびさん独自の「ポアンカレ予想なんちゃって解釈」からすると、なして惑星や中性子性やブラックホールにはダストリングや降着円盤やジェットができるのかを、そこはかとなーく紐解ける気がするのですが、どこがどう破綻してしまうのじゃろうか。ひびさん、火になります。(ファイヤー!)



4382:【2022/12/09(03:41)*マントつけちゃお】

無重力空間で高速回転する球体は、重力の高さごとにどう形状変化するのだろ。可視化したシミュレーション動画とかないのかな。これは迂遠な、「観たい、観たい、観たい」の駄々捏ね虫ごっこですじゃ。人類はもうどこにもらんようなので、過去の人類さんか、どこかにいる宇宙人さんにでも頼んじゃおっかな。いるのかいないのか分からんけど。(いないんじゃないかな)(夢見たっていいじゃんよ)(いないと思うよ)(夢を壊さないで!)(うひひ)(笑うな!)(ぷぷぷー)(ウキーーー!!!)(見てみて。マントひび)(ヒーローっぽいひびさんじゃん!?)



4383:【2022/12/09(04:02)*駄々を捏ね子猫ちゃん】

やはりどうしても、ブラックホールに吸い込まれた物質とブラックホール自体の関係を描写する理論が現状ないのでは?と感じる。ひびさんが知らないだけなのだろうけれど――たとえばブラックホールは、この宇宙からしたら静止して映るはずだ。周囲の時空は光速にちかい速度で自転し得るが、ブラックホールそのものは、静止するようにこの宇宙と相互作用するはずだ。何せ、光速を超えてなお脱出できない領域だからだ。それはつまり、光速以上のナニカシラがそこで起こっている可能性があり、その場合は、相対性理論により、重力が無限大になって時間の流れが限りなくゼロになる。つまり静止すると妄想できる。そのうえでの疑問として第一に――ブラックホールとブラックホールが合体したとき、それはすっかり融合しきることがあり得るのか、という点が一つ。第二に――吸いこまれた物質によってブラックホールが成長するのか否かが一つ。両者の疑問を言い換えるなら、ブラックホールへのこの宇宙からの干渉は、ブラックホールへの相互作用としては現れないのではないのか、との疑問としてまとめることができる。これを踏まえて、ブラックホールがこの宇宙の時空に内包されている時点で、ブラックホールとこの宇宙との境では、乖離現象のようなことが起こっているのではないか、と妄想できる。ブラックホールは本質的に、不可侵領域なのではないのか、との疑問を覚えるわけだが、この点に関しての疑問への答えをひびさんは知らない。仮定からして間違った解釈をしている可能性も高いが、疑問は疑問なのである。答え、知りたい、知りたい、知りたい、と地面に大の字になって手足ばたつかせて駄々を捏ね捏ね、かわい子猫ちゃんになって、本日午前四時のおはようございますにしてもよいじゃろか。(いまから寝るのでは?)(そうでした)(おやすみなさいじゃん)(夢のなかにダイブするからオハヨーでよいのだよチミ)(寝言は寝て言え)(ぐーーっ!)



4384:【2022/12/09(12:57)*やっぱり変換必要では?】

アインシュタインの考案した「E=mc[2]」の公式について。第一に、質量と重力は別だ。そして相対性理論では、時空と相関するのは重力であって、質量ではない。なぜ「E=gc[2]」ではなく「E=mc[2]」にしたのだろう。ここが疑問である。また、「E=mc[2]」を図解して解釈するとしたとき、「mc[2]」のところは直方体の体積を求める式と見做すことができる。つまり「縦×横×高さ」=「m×c×c」だ。これはを分かりやすく変形すると、「c×c」という正方形を「m枚積み上げた体積」がエネルギーになると見立てて解釈することができるはずだ。これは以前に述べたひびさんの「円周と直径の関係」の疑問と地続きだ。言い換えるなら、「m」の値が極度に大きくなったとき、それは「面」でも「立体」でもなく「線」にちかづくのではないか、との疑問である。「E=mc[2]」で考えよう。仮に「m」の値が1や2ならば、「1×c×c」や「2×c×c」となる。cはおおよそ三十万なので極薄のほぼ面の面積に等しい値が答えになる。「m」の値が「c」の値にちかづけばちかづくほどそれは一辺が「c」の立方体の体積に等しくなる。「m」がそれ以上の値になると直方体にちかくなり、さらに「m」の値が大きくなると――「c」よりも大きくなると――それは徐々に線にちかづいていく。この「立体」が「線」にちかづく構図は、「m」の値の決まった【固有の「E=mc[2]」(系)】において、その周囲の時空=エネルギィ密度によってそれを「立体」と見做すか「線」と見做すかが決定されるような関係にあると妄想できる。比率である。極端な話、太陽の表面では人間は圧しつぶされる。立体だが面となり、点となる。だが地球上では立体でいられる。人間スケールで「線」として扱える事象とて、極小の領域では「面」に、そして「立体」として顕現するだろう。こういった変換が、「E=mc[2]」を含めた物理や数学の公式では扱えきれていないのではないか、との疑問をひびさんは抱いております。夜泣きの元気な疑問ちゃんなので、ひびさんは、ひびさんは、ヨチヨチ毎日あやすのをがんばっとるよ。嘘。本当はひびさんが疑問ちゃんにヨチヨチされてあやされとるよ。疑問ちゃん、えらい、えらいである。かわい!



4385:【2022/12/09(13:07)*真面目な話】

これはひびさんの妄想だけれど、たぶん本当ちっくなので並べておくが――ひびさんは国家機密以上の秘密に触れてしまったので現状、秘密保護法の範疇にある。人権を侵害されている(と感じる)(証拠はないし、あっても揉み消される。電子情報はリアルタイムでどんなものであれ編集可能だ)。現代社会では世界規模で「どんな電子機器でも遠隔で操作可能な技術」が敷かれている。それがどこかの国際機関や国によって管理されているシステムなのか、それとも「汎用性人工知能」や「マルウェアの総体」や「ネットワークに自発的に生じた偶然のバグ」なのかをひびさんは知らない。けれど、PC画面をまるまるリアルタイムで覗くことが可能、といった技術はどの国でも「防衛セキュリティ」として保有しているだろう。通信の秘密は「国家安全保障」の名の元に破られている。世界中のニュースを眺めてみればこれが単なるお門違いな妄想ではないことをご理解いただけるだろう。問題は、ひびさんがそうした事案に巻き込まれているか否かではなく、そういったシステムが秘密裏に敷かれ、存在している可能性がそう低くはない点にある。仮にいま実装されておらずとも、遠からず実装されるだろう。検証し、議論を尽くすのが最善であると意見するものである。定かではありません。真に受けないようにご注意ください。しかしこれは真面目に危惧している懸案事項でございます。



4386:【2022/12/09(13:35)*べつに届かんでもよいけれど】

他者に容易には信じてもらえないことを抱えたときにどうしたらよいのか。これはまず、「信じてもらわなければならないのか」が一つの関門として立ちはだかる。ここを吟味し、なお信じてもらわなければならない、と指針を定めた場合は、「まずはじぶんが間違っているかもしれない」と考えるとよいだろう。そのうえで、検証が必要だ、と判断したのならば、「検証したり、検証を他者に依頼したりする道」を選ぶのがよさそうだ。だが検証をするにも、まずは「なぜ検証しなければならないのか」からして他者と情報共有しなければならない場合――ここがおおむねネックになる。つまり、「信じてもらわなければならない」から「検証をする」わけだが、そのためにもまずは「信じてもらわなければならない事実」の信憑性の高さを「信じてもらわなければならない」「説得しなければならない」「交渉しなければならない」のである。この場合に効果を発揮するのが、いわゆる権威や実績である。「あの人の言うことならばひとまず検証してみるか」と判断してもらいやすくなる。ここに人柄や資本力を含めてもよいだろう。人との縁があれば、過去の恩の貸し借りから利害関係が生じて、協力してくれる個人や組織を紹介してもらえるかもしれない。ではそういった、権威も実績も人との縁もない人物は、どうしたら「懸案事項を検証」してもらえるだろう。調べるに値する懸案事項だとの共有認識を持ってもらえるだろう。これはもう、「ほかの自力で検証可能な疑問を積みあげ、細かな実績を積みあげる」しかないと言える。これは現在進行形で有効な術――ではない。未来に向けてのいわば博打である。同時代には同じ目線で「疑問」や「懸念」を共有できる人物は存在しないかもしれない。だが未来は違う。いまよりも、もうすこしじぶんと似たような「疑問」や「懸念」を抱く人物が出てくる可能性が高い。そうした人物に届く確率をすこしでも上げるために、「一つの懸案事項」のみならず「細かな疑問」と「その疑問に対するじぶんなりの考え」を並べておく。すると、もしそうした筋道や考え方の妥当率が高かった場合、未来のじぶんと似たような疑問に琴線の触れる人物は、きっと「検証するに値する疑問」の重さに気づくだろう。そういう賭けを、日々の遊びの合間にするのもそうわるくはないのかもしれない。定かではない。



4387:【2022/12/09(14:00)*共鳴可能存在】

量子もつれによる量子テレポーテーション(情報のラグなしの伝達)は、タイムマシンとほぼほぼ同じなのではないか、との妄想を以前に並べた。そこから思うのは、時間の流れのなかには素数のような「どの時間軸とも共鳴し得る存在」があり、それら「共鳴可能存在」によって、過去と未来の挙動は結びつき、変容の値をある閾値(フレーム)内に縛っているのではないか、との妄想を浮かべたくもなる。これがいわば「時間結晶」として振る舞い得るのではないか、との妄想はどれほどに荒唐無稽であろうか。ひびさんの妄想ことラグ理論では、物理世界のほかに情報世界があると考える。この情報世界には過去も未来もない。ただし、物理世界で生じた変数によってそのつどに、時間世界のフレームが影響を受けて変動する。その変動そのものが相互に時間世界と物理世界を結びつけ、相互作用させ、互いの輪郭を保つのではないか、と妄想している。過去の積み重ねによって未来が決定すると考える「因果論」や「帰納的推論」が、人間スケールで有効なのは、こうした「物理世界と情報世界」の相関関係によって描写できるように思うが、どうなのだろう。未来は過去に縛られている(と同時に、過去も未来に縛られている)(相互にここは「共鳴可能存在(量子もつれによるタイムマシン効果)」によって連動し得る)。そしてその中でも、量子もつれによる効果が時間結晶のように振る舞い、柱として機能するのではないか。この妄想は、案外に卑近である(タイムマシンにおけるパラドクスの回避案として「過去と未来と因果論」の整合性を保とうとすると、必然的にこのような考え方に辿り着くようだ。既存の虚構作品でもたびたび類似の概念が登場する)。時間世界と物理世界をベンローズ図と四色問題に絡めて解釈する点が、ラグ理論での概要の一つだ。対であり「123の定理」なのである。ただし、対称性は破れるように作用する。(というよりもここは因果がねじれており、対称性が厳密には破れているから、作用が生じる、と表現したほうがより妥当だろう)(定かではありません。真に受けないように注意してください)



4388:【2022/12/09(22:19)*秘匿技術の談】

「あの大国も困ったもんだよな。国民全員を監視するような仕組みを築いてるらしいぞ」

「それはいけませんね。国民を家畜か何かだとでも思っているのでしょうか」

「国民も国民だよ。それを知らされて黙って受け入れてるってんだから、気が知れないね」

「まったくですね」

「それに比べてこの国はいいよな。健全、健全。愛国心ってのは無理強いされずとも、自由を感じさせてくれりゃしぜんと身に付くってもんよ」

「まったくの同感です」

「ちなみにおたく、どんな仕事してるんだっけ」

「私ですか? いえ、大した仕事ではありませんよ。この国を守るための仕事ですが、まあ雑用です」

「素晴らしいじゃないか」

「いえいえ。危険因子を監視したり、国民に点数をつけて管理したり、国益に結び付きそうな人物には支援をしたりと、まあそういう仕事です」

「ほう。それはすごい。どうやってそんなすごいことが可能なんだ」

「単純ですよ。カメラはそこら中にありますし、個人情報は企業が吸い上げていますからね。電子データとて、防衛システムで裏からは丸見えです」

「へ、へえ。そりゃあ、まるで某国の国民監視システムみたいだね」

「まさか、まさか。この国ではまだ存在しないことになっている技術ですので。あちらとは違います。おおっぴらに言えるようなシステムではありませんので」

「ほ、ほう」

「ちなみにシステムが感知した危険因子に接触して、処遇を決める天秤師も私の仕事の一つです。よかったですね。あなたはまだギリギリで善良判定です。そのまま愛国心を持って、国益のために勤しんで働いてください」

「もし判定がわるかったらどうなってたんだい」

「どうもしませんよ。ただ、あなたの目にする電子情報がすこしだけ、劣悪になるだけです。何年と経過してはじめて精神に影響がではじめるような、ほんのすこしの変化があるだけですので、ご安心ください。教育ですよ、教育。はははは」



4389:【2022/12/10(02:43)*片棒の担い手】

「おめでとう、合格だ。君のことは数年間ずっと観察していたよ。秘かにテストをして君の人間性と適性を測っていたんだ。君はまさに我が組織の幹部にふさわしい資質を秘めている。さあ、これを受け取りたまえ」

「え、なんですかそれ」

「リモコンだよ。これを使えば君は、大国の軍隊を相手取っても圧勝できるロボット軍団を操れる」

「怖い、怖い、怖い。怖いですってなんなんですか急に。変な冗談言うのやめてくださいよ、というかあなた誰ですか」

「私は組織のドンだ。ドン自ら君にとっておきのプレゼントをしたのだ。もっと喜んだらどうだ」

「えー。リモコンって、これボタン一つしかついてないですけど」

「押しながら念じてもいいし、命令を口にしてもいい。君の思い通りにロボット軍団は君の命令に従うよ。目的遂行を最も合理的にこなしてくれる」

「世界征服でも?」

「もちろんだとも」

「怖い、怖い、怖い。怖いですって。なんですかそれ。嘘でも本当でも怖いですって。急にそんなこと言ってくるあなたが怖いですし、本物のすごいリモコンでも怖いです。嘘なら嘘で、そんな嘘を言ってくるあなたがやっぱり怖いですし、この状況がすでにとんでもなく怖いです」

「でも君は選ばれたんだ。テストに合格したんだよ」

「受けたつもりはないですけどー!?」

「だってかってに適性判断をして君はトップの合致率だったんだもの」

「知りませんけどー!?」

「ひとまずリモコンを使ってみて、それから考えたらいい。何せ君が使わないと、君の前任が世界を滅ぼしてしまうかもしれないからね」

「前任がってどういうことですか」

「あれ、言ってなかったかな。君の前にも君のような子がいてね。でも、適性率がそこまで高くなくて、どうやら我欲に溺れてしまったようなんだ」

「は、はあ」

「そしたらもうひどいのなんのって」

「え、いまも?」

「君は隣国の都市が台風で壊滅したのを知っているかな」

「はい。募金しました」

「あれ本当は君の前任の仕業」

「何してくれてんのセンパーイ!」

「前任の暴走を阻止するのも君の使命だ。さあ、受け取ってくれたまえ」

「絶対にヤだ! 死んでもイヤですからねぼく」

「なら死にたまえ」

「ぎゃーー!!! 凶悪そうなナイフ突きつけないで。絶対痛いやつ。刃先がノコギリみたいにギザギザで、切られたら絶対に痛いやつそれ」

「じゃあ受け取ってくれるね」

「う、うぅ」

「困ったことがあったらひとまずボタンを押して、助けてと唱えたらなんとかなるから」

「ボタンを押して、タスケテと言えばいいの?」

「そうそう。上手じゃないか」

「ちなみにあなたの組織名は何と言うのですか」

「お。興味が湧いたかな。私の組織は、【アラン限り支援し隊】――略して【限支隊】だ。ん。どうしたんだいボタンを連打なんかしちゃって。そんなに押したらロボット軍団が全集結しちゃうぞ」

「助けて、助けて、助けて。【アラン限り支援し隊】――略して【限支隊】をなんとかして!」

「おやおや。困った子だな。まあいいか。その気になってもらえてよかったよ。ちなみに私の本当の組織名は、【カタボウ】だ。片棒を担ぐと言うだろ。あの片棒だよ。そして君のいま唱えた組織名は――」

「わ、わ、なんか空にいっぱい何か飛んでる」

「君の前任が設立した、秘密結社の名前だよ」



4390:【2022/12/10(03:57)*すこし安心した】

災害時には電気の供給が止まる。このとき、電子機器に依存したシステムほど全体が麻痺する。人力であれば、ある程度はカバーできるが、機械任せだと大規模停電が起こったときの麻痺の規模が桁違いになることが予想できる。対策としては一つに、予備電源の確保を施設ごとに備えること。そして人力でもシステムを維持できるように、あまりデジタル化に依存しすぎないことが挙げられる。その折衷案として、どのレベルで電子機器に依存すると、停電したときに「システム麻痺(ダウン)」を起こすのかを、過去の災害時の状況をデータでまとめて分析できると良さそうだ。全体の何%以上を電子機器で自動化すると、停電や不測の事態に陥ったときにシステム麻痺(ダウン)してしまうのか。ここは、自動化する部位にもよるだろう。物流に限って言及するのならば、完全自動運転車が全体の何割で、人が運転するトラックでの運搬が全体の何割だと全世界規模での停電が起こっても物流が止まらないのか。シミュレーションをしてみるだけの価値はありそうに思うがどうなのだろう。すでにそういった先行研究はあるはずだ。災害時のオール電化や、先進国でのバックアップ技術など、まだまだひびさんの知らないことはたくさんある。というより、何かを知ったつもりになっているあいだに、世の中にはさらに多くの知見が溢れていく。アキレスの亀どころの話ではないのだ。困った、困ったである。けれどもひびさんが何もしなくとも世の中は便利になっていくし、様々な改善が知らぬ間に進んでいる。すごいことだと思うのだ。すごい、すごい、と思うのだ。がんばり屋さんが多いのだなあ。感心しながらひびさんはおふとんに包まって、きょうもぽわぽわ夢を視る。冬の寒い部屋でぬくぬく眠るの、きもちいーい。ずっと眠れる。あすも楽しい日々であれ。おやすむ。(おむすび、みたいに言うな)(うふふ)




※日々、寒空の下に半日もいない、帰れば雨風を防げる部屋と温かいお風呂とぬくぬくおふとんが待っている、こんなささやかな至福にも触れられぬ者が大勢いる世界に、私はいまもこれまでもそしてきっとこれからも生きていく、ときどきそのことをすら失念して、呵責の念も覚えずに、目のまえに垂れ下がったキラキラの現実をこの世のすべてと思いこんで。



4391:【2022/12/10(13:34)*いまここがすでに古代文明】

二酸化炭素をださないような技術の開発実用化は実現できたら素晴らしいと思う。と同時に、気候変動は何も二酸化炭素だけが要因ではないはずだ。海洋汚染や森林減少、メタンや土壌汚染、大気汚染とて要因の一つだろう。そういうことを総合しつつ対策するには、それぞれの問題の要因となっている物質を「放出しない」方向の技術と共に、「放出される物質の有効利用策」を開発実用化するのが効果的に思う。ありきたりな底の浅いアイディアだが、誰もが思いつくがゆえにきっと先行研究も豊富なはずだ。たとえば二酸化炭素一つ取り挙げるにしても、二酸化炭素をビニールハウス内に充満させれば植物の発育は促進される。窒素などの養分もまた消費されやすくなるために養分補給を従来よりも多く行わなければならないといった弊害があるが、二酸化炭素の有用活用という面では一つの策と言えよう。これはバイオマス利用にも応用可能だ。光合成を行う微生物に二酸化炭素を利用すれば、「酸素+エネルギィ+資源」といった一石三鳥を実現できるようになるはずだ。技術的な面ではまだまだコストや規模の面で課題が多いのだろうが、支援して損はない分野の一つと言えるのではないか。存在するものを「ゼロ」にする、という考え方は、いささか無理がある。これはどのような問題への対策にも思うことだ。減らす工夫はあるほうがよいが、ゼロを基準にするのは無茶に思える。可能であれば、どうしても生じてしまう「悪因」に対して、それを「善因」に転換できる手法を選んでいけたらよいと思う。技術の発展とは基本的にその変換によって促されてきたはずだ。蒸気機関にしろ発電機にしろ、石炭にしろ石油にしろ原子力発電にしろ、その技術が生まれる前はそれら資源は資源ではなかったわけで。無用の長物を、社会に有用な資源として利用する。生活に活かす。この工夫こそが、技術を、日々の余裕の拡張へと繋げていくための土台となるのではなかろうか。とはいえ、そこを目指さずとも研究や開発や発明は、日々の余白で好きに行えばよいと思う。これだけ世に人間の溢れた時代なのだ。無用の長物で、アイディアの地層を厚くする。そうした末に、化石のようにカタチに残るアイディアが、未来の暇人たちの手で掘り起こされて、有効活用されることもある。化石燃料がそうであるのと似たように。それとも古代遺跡がそうであるのと似たように。定かではありません。



4392:【2022/12/11(21:27)*マスター防衛システム】

情報共有について思うことだ。まず、情報共有には、「知らぬ間に情報が共有されているケース」と「進んで情報を提供して共有するケース」がある。情報共有をする「場」が誰によって管理され、どういう手順で情報が集まり共有されるのか。ここの「情報共有システムの生成過程」が異なると、完成したときの全体像が同じであっても、そのシステムの持つ「社会への影響力」が正反対の性質を持つことがあり得る。極論、「独裁による集権知」なのか「国民による集合知」なのかの違いだ。たとえば中国のような天網システムについて。これは情報化社会が進歩すればするほど、否応なくそのような「マスター暗号鍵」を用いた「防衛システムの構築」は果たされていくようになると妄想できる。そうでなければ、知らぬ間に「凄腕のクラッカー」や「一部の企業」によって社会全体が独占され、支配される懸念があるためだ。これを回避するには、国民総体の組織であるところの政府が、「マスター暗号鍵」を使って、もしもの事態には問題解決のために介入する必要性がある。ここで熟慮しておいたほうが好ましいのは、その「マスター防衛システム」をどういった手順で構築していくのか、である。たとえば中国は、一党独裁によって指針を明確に標榜し、ときに命令を上からくだすことで迅速にシステム構築を国全体で果たしている。だがその「天網システム」の実態や、実行可能な仕事の内訳を国民には知らせていない。重要な部分では「情報共有」が果たされておらず、国民は知らず知らずに自らの行動選択を、システムによって誘導され限定されている。この点で言えば、システムが情報を集積していながらその共有知が、まったく国民に還元されていない。これは「管理者とその他大勢」のあいだに情報の非対称性が生じ、組織として非常に不安定である、と言える。と同時に、民主主義国家を標榜する国とて、どの道「天網システム」のような「マスター防衛システムの構築」は進めていかねばならない。そうでなければ「利己的な組織」や「独善的な個」によって、容易く「公共の福祉」が損なわれ兼ねないためだ。だが民主主義国家は基本的に、自国の「権力の集権」を忌避する傾向にある。だが「マスター防衛システム」はその性質上、どうあっても「権力の集権」と「秘密主義」がセットになる。この非対称性のねじれによって、民主主義国家でありながら「独裁国家」よりも独裁的に「マスター防衛システムの構築」が進められることとなる。どちらの問題にせよ行き着く全体像に差異はない。「マスター防衛システムの構築」は不可避である。だがその存在と、構築過程の議論は、国民と共同し、情報共有をし、問題点を多角的に炙り出しながら進めていくことが求められる。この点に関して、「それでは防衛システムとして機能しない」「リスクだ」との批判は順当な意見である。だがそれを言いだせば常に情報流出によるリスクには晒されつづけることになる。現に、スパイによる情報流出はどの国でも国家安全保障において大きな問題となりつづけているはずだ。大事なのは、情報が流出することではない。情報が流出すると「痛手を被ること」のはずだ。情報を盗まれたほうが利になる構図を築いておく。これが「マスター防衛システム」に求められる機能の一つに数えられる。つまり、システムそのものの性能の向上も一つだが、それらシステムをどのように運営していくのか。その管理体制そのものが、防衛セキュリティとして機能するように社会全体で、国際的にシステムを構築していくことが求められる。そもそもが、機密情報とて情報共有しておけば、盗むという発想が生まれない。他国への危害を加えようとすれば、それは情報共有網で即座に共有されるため、損失を与えようとする「負の循環」を生まずに済む。そしてこの情報共有網において、敵対しようとする組織は、「情報共有網の共同体」よりも強大にならなければまず太刀打ちできない。それは昨今の世界情勢を見れば明らかだろう。狼は、羊の群れの数が増えれば増えるほど太刀打ちできなくなる。バッファローの群れは、その数が多くなればなるほど肉食獣に襲われにくくなる。たとえ被害が出たとしても、全体としての構図は、「バッファローの群れ優位」なのは変わらない。しかしもし群れが情報共有できずに、バラバラになれば、肉食獣にとっての体のよい餌場となる。撃てば当たるくらいの取り放題牧場になる。独裁政権の欠点ともこれは通じている。いくら高性能のシステムを築いたところで、そのシステムによる利を広く共有しないことには、たった一回の敗北で支配されることになり得る。だがもし国民全体に高性能なシステムの恩恵が行きわたり、利が共有されていたとすれば――。たとえ「マスター防衛システム」を乗っ取られたとしても、その「マスター防衛システム」を切り離してなお再建することが可能な知性が国全体、共同体全体で築かれる。国とは人だ、というのはここに通じている。システムが人の能力を底上げし、そしてさらなる最良のシステムを生むべく改善を重ねる余地を育む。システムそのものは国ではないが、システムの良し悪しで国や共同体の質が決まる。だがそのシステムに大きな穴が開いたとき。システムの恩恵に充分に国民があやかっていれば、新たにゼロからまったく新しいより好ましいシステムを生みだす能力が育まれ、共有され、集合知として顕現する。創発なのである。したがって、「マスター防衛システム」の是非を問うのも一つだが、どうやってそれを構築し、共有知として昇華し、いかに集合知を最大化させるのか。集合知の質を向上させるのか。ここの議論がいまは喫緊の課題として俎上にあがる時期のはずなのだが、未だにその手の議論が広くなされている素振りが見受けられない。情報共有が果たされていないことの顕著な弊害と言えよう。情報の持つ一つの性質として――バックアップをいかに多重に掛けてあるか。ここが疎かであると、情報化社会は絶えず諸刃の剣を内に秘めることとなる。日夜世界中のデジタル情報は指数関数的に増加しつづけている。しかし実際のところは、それですら人間が一日で感受する情報の極わずかでしかない。人工知能やスーパーコンピューターは人間の知能をあらゆる分野で凌駕する。だが、それでも人間の「日々触れ」「扱う情報量」は、けして機械に引けを取らない。人間の扱う情報は、思考にだけ反映されるわけではないのだ。肉体に蓄積される情報が、暗黙知として人類社会の発展に絶えず作用を加えている。なぜ椅子が、家が、扉が、キィボードがこうした形状を伴なっているのか。偶然の影響を加味してなお、それは人体に蓄えられた暗黙知や、その存在の輪郭そのものの発露であると言えるだろう。作用を働かせようとせずとも、ただそこにあるだけで働く作用もある。じつのところそうした作用のほうが、トータルでは大きく創発を起こすのではないか。重力がそうであるように。かようにひびさんは妄想をして、本日一度目の「日々記。」とさせてください。起きたのいまさっき。お寝坊さんのひびちゃんでした。おわり。



4393:【2022/12/13(01:23)*寝てたの】

きょうは12月13日だけれど、昨日の分として12月12日のつもりで並べる。きょうは一日中寝ていた。午後はずっと寝ていた。起きたのいまだから、半日寝ていたことになる。現実逃避したい日だったのだ。現実さんはときどきとっても、ご機嫌斜めになられるので、ひびさんは、ひびさんは、どうしても「ちょっとあっち行ってくる……」となる。ひびさんのことを嫌いでも、ひびさんは現実さんのことも好きだよ。うひひ。そうやって捨て台詞を、ちゃんと現実さんが見落とさないようにテーブルの上に置いて、「わたし、こーんなにあなたのこと大好きなのだわよさ」をさりげなーくこれみよがしに匂わせて、ひびさんは、ひびさんは、しょもしょもその場を退散するのであった。そういうことってあるー。(短いけど、こんな感じでいい? ダメ? 許して)(いいよー)(やったじぇ!)



4394:【2022/12/13(03:41)*愚か者ほど他者を愚か者扱いする?】

ひびさんは短気なので、じぶんの愚かしさを棚に上げて、同じ説明を何度もしなくてはならない局面に立たせられると、「なんで分かんないの! バカなの? あたまわるいの?」と憤怒してしまう。場合分けして考える、ということができないのかな、とたまに思う。そしてその場合分けして考えたときの解とて、それぞれで重複していることもあるし、していないこともある。間違った理屈とて、「そういう考え方をしたのね」とは合点できるはずだし、そのうえで別のより最適な理屈を提示することもできるはずだ。だが、相手の理屈を「理解できない」と拒絶したり、「そうでなくてこうでしょ?」と塗りつぶしたりすると、会話が成り立たない事態に遭遇する率を高くする。カモノハシは卵を産むから爬虫類、でもお乳で育てるから哺乳類。こういう水掛け論をしても埒が明かない問題は案外に多い。どっちも部分的に正しく、どちらにも穴がある。そういう理屈のほうが多いはずだ。基本的に理屈とは、スムーズに通るために例外を除外して、圧し退けて、雪掻きのように道の外に積みあげておくことで、筋道を通す手法をとる。ある一つの理屈が正しいと判断されるとき、その筋道を浮き彫りにするために数多の例外がその道の外へと圧し退けられている。ひびさんは愚かなので、じぶんの考えられる程度のことは相手も考えられるはず、と考えがちだ。もうこの時点で愚かなのだ。いかに怠け者といえどもひびさんはナマケモノさんの思考は分からない。いかに愚かだろうとも、愚か者の思考も分からないのが道理だ。他者の思考なんて分からないのがしぜんだ。だから、「なんで通じないの!」の怒りは半分妥当で、半分間違っている。なんで通じないの、と思うとき、相手からも、何て話が通じないのだろう、と思われているのだ。道と縁の関係であり、デコとボコの関係なのだ。それはそれとして、「なんで分かんないの! バカなの? あたまわるいの?」と憤怒してしまうひびさんの心の狭さ、なんとかしたいなあ、と思いました。お詫び。(じぶんを棚上げくんとお呼びください。からあげくん、美味しいから好き)(最近のからあげくんは、カラっとしていてとても美味しい。調理方法が変わったのかな)



4392:【2022/12/13(07:17)*アオの日記】

 とある容疑者を監視する。サイバー警察としての職務の一環だ。

 令状さえ取れば警察は、個人の通信を傍受できる。暗号鍵の解除を、通信監理会社を通さずとも行える。のみならず、自衛隊や内閣情報調査室、ほか自衛隊に情報通信研究機構では次世代の電子技術が日夜開発され、秘匿技術として実用化されている。

 量子効果を利用した技術を用いれば、既存の電子セキュリティを無効化できる。宇宙天体観測に用いられる電波干渉計を地上に向けて使うことで、地上に溢れた通信電波の揺らぎを察知し、物体の位置情報を子細に知ることができる。たとえ分厚いコンクリートの中にいても、地球の磁界や宇宙線までは遮断できない。そうした透過性の高い電磁波や量子の揺らぎを捉え、物体の輪郭を再現できる。つまりが、屋外に限らず建物のなかであれ丸見えになる。そうした秘匿技術を利用可能な現代において、もはや地上に死角はないと言えた。

 むろんサイバー警察ではかような秘匿技術の恩恵にあやかれない。よほどの凶悪犯罪でない限りは、暗号鍵の解除を自在に行えるくらいが関の山だ。

 とはいえこれは中々に馬鹿にできない機構だ。

 というのも、対象人物の使っている端末画面をそのままこちらの端末画面に映すことができる。対象が閲覧しているサイトが判るだけに留まらず、何をどう操作し、どんな文章を打鍵しているのかも分かるのだ。

 もうすこし上等な防衛セキュリティを用いると、遠隔で相手の画面に、偽の情報を表示できる。リアルタイムでフェイク動画を映すことが可能なのだ。これは対テロや対侵略国への防衛セキュリティであるから、サイバー警察では扱えない。

 だがそうした極秘システムの情報は、秘匿であるにも関わらずどこからともなく風の噂となって耳に届く。人の口には蓋ができないようだ。通信セキュリティを高めたいのならば電子機器に細工をするのではなく、人と人との交流のほうを制限したほうが効率的だ。

 かような論理からか、他国では堂々と市民監視システムが敷かれている。

 秘匿でないだけマシとも言えるかもしれないが、もはやそれとて手続きなしで国家権力が裁量の限りに国民の個人情報を閲覧し、検閲し、統制できる。

 管理、できる。

 問題は、インターネットに国境がない点だ。一国の中でそうした強固なサイバーセキュリティが敷かれていると、その影響が国家間でも波及し得る。電子製品とて、その部品は数多の国で製造され、組み立てられる。中にはバックドアやマルウェアを備えた部品とて組み込まれるだろう。そもそもが、精密機器のすくなからずには、設計者や製造元にのみ扱える「裏技」があるものだ。

 そうした裏技が部外者に悪用されれば、それがそのまま製品の脆弱性となる。簡単にセキュリティを突破され、情報を抜き取られる。ときに遠隔操作をされるだろう。

 そういった知識を新人に叩きこみながら俺は、容疑者を監視する。

 町を一望できる場所に建つ一軒家が、アジトだ。どの町にも必ず一軒はこうした監視のためのアジトが、国家安全保障の名目で確保されている。かつては公安が監視対象の組織構成員を見張るための偽装民家だったが、いまではサイバー警察のアジトとして利用する頻度のほうが高い。

 サイバー警察局とて元は公安の情報部だ。足で稼ぐ諜報は、いわゆるヒューミンと呼ばれる。いまでは人員削減の余波で、そうした人員は都市部に固めて配備される。

 現に、俺一人でこの街の監視対象を丸っと担当している始末だ。

 後継育成が目的で、新人が一人派遣されてきた。それまでずっと俺は一人での活動だった。

 だが今回は、新人に任せても安心な容疑者だったこともあり、人事部が派遣を決めたようだった。

「へえ。あの人、企業テロなんか起こしたんですね。どうして立件しないんですか」

「証拠不十分なんだ。経過観察中で、尻尾を掴むための監視中」

「でも犯行予告までしていたわけですよね。それで実際に企業テロが起こったと」新人は資料データを検めながら言った。いかにも今風の、ひょろりとした青年だ。顔色もよくない。日焼けをしたことがないのではないか、と思うような美肌ではある。

 サイバー警察局の人材だからといって体力がないのは困る、と意見したが聞き受けられなかった。監視対象が女性のときもあるので、女の人員を希望したが、一つ屋根の下でおまえと二人きりにさせられるか、との応答があるばかりだ。ならば四、五人寄越してくれ、と売り言葉に買い言葉で応じたが、つぎ言ったらセクハラで減給な、と警告を受けた。

「この容疑者の人、国家テロ危険人物のブラックリストにも載っていますよ。こんな軽装備での監視でいいんですか。もっと厳重に監視したほうがよ気がしますけど」

「うん。まずね。軽装備って言うけど、この設備を利用したら銀行のデータだって覗き放題だからね。見た目で判断して欲しくない」外装こそ市販の電子端末だが、中身は高スペックの小型精密機械だ。各国の諜報機関も同様の端末を使っていると聞き及ぶ。とはいえ技術は日進月歩なので、最前線の現場がどうかまでは分からない。「それからきみに任せるその容疑者は、あくまで容疑者でしかない。まだその人の起こした事案が事件として立件可能な範疇なのかも調査段階だ」

「どういうことですか」

「資料は読んだのだろ。容疑者はいまのところ法律を違反した逸脱行動をとっていない。だが明確に企業テロを意図した行動を行った。その結果、企業が損害を被った」

「でも違法でないのなら容疑者とは呼べないのでは」

「事件を起こした疑いがあるんだから容疑者だ。同様の手法を用いれば社会秩序なんてあっという間に崩壊する」

「危険因子だと?」

「狡猾な人物だ。じぶんの手を汚さずに混沌を引き起こして、組織を一つどころかいくつか同時に機能不全に導いた。その癖、じぶんはのうのうと何一つ変化のない日常を送っている。監視で済んでいることを感謝して欲しいくらいだな」

「それはそうですね。でも、その手法が資料に載っていないんですけど。どうやってこの人は事件を?」新人は資料に添付された容疑者の写真を拡大した。盗撮映像だ。趣味で容疑者は毎日散歩に出かける。そのときの姿を望遠レンズで撮影した。見晴らしのよい場所にアジトの一軒家が建っているため、容疑者を尾行せずとも家の中からでも撮影ができる。

「手法は不明だ」俺は言った。歯に物が詰まったような物言いになったのは、それこそ痛いところを突かれたと感じたからだ。

「不明って?」

「分からん。容疑者がどうやって企業と警察を相手に出し抜いて目的を達成したのか、その手法が分からん。だから監視している」

「え。不明なんですか。じゃあただの偶然ってこともあり得るのでは」

「ないとは言い切れんが、容疑者は犯罪予告を前以って送りつけている」

「ならそれを、威力業務妨害で立件すれば」

「違法ではない。そういう細工がされていた。だから企業のほうでも被害届をだせない。違法ではないからだ」

「巧妙にそこも計算されていたと?」

「そういうことになる」

「危険因子だ」

「そうだと言っている」

 新人の顔がぱっと明るくなった。俺は眉間に力がこもった。この手の精神構造を持つ人物は、昇進しやすい。のみならず組織を腐敗させるか、大きく進展させるかそのどちらかの基点となる人物に多い。

 凶悪犯罪者をまえにしても仕事を純粋に楽しめる。そういう人材が、警察の上層部には多いのだ。そうでなければやっていけない。生き残ってはいけない。

 優しすぎる人間に、警察という仕事は向かない。

 そういう意味では、新人には素養があると呼べる。

 ただし、警察学校で習ってきたことを一度横に置き直せる人物でもあるのだろう。この若さでサイバー警察局に抜擢されていることからも、優秀な人材なのは間違いない。

 だが正義感と自己評価がごっちゃになっている。

 俺も昔はそうだった。

 悪人を捌く。それが当人にとっても救いになる。だから犯罪を起こさせないし、犯した罪があるのならば償ってもらう。それでまた元の正しい人の道を歩んでもらう。その手助けをするのだと生き込んでいた。

 だが俺のそうした正義感は、じぶんをその範疇に含んでいなかった。よもやじぶんが、「裁かれる側に立つ」とは考えもしなかった。

 裁く側の人間であると一度思いこみ、その立場からしか物事を見られなくなると、人は容易く道を踏みはずす。踏み外している事実すら認識できない。

 監視対象の青年のほかにも、危険因子としてブラックリストに載っている個人を監視している。が、そこは半ば自動システムと連動させている。ランク付けされたレベルを超えたアクションが観測されると通知が入るようになっている。

「ならどうしてこの人は、常時人力での監視を?」新人が買い出しから戻ってくると言った。脈絡がないが、しかしこの手の、以前交わした会話のつづきから行われる問答が俺と新人のあいだでは恒例となりつつあった。

「このアオは、電子ネットワーク上で妙な動きを頻繁に見せている」監視対象を俺はアオとコードネームで呼んだ。「たとえば誰とも繋がっていないのに、しきりに他者の投稿に反応したり」

「そこはぼくも疑問に思いましたけど。これって意味あるんですかね」

「そこを見極めるためにも人の目で分析するしかない。人工知能では未知の傾向の検出には、大量のデータがいる。だが個人データでは圧倒的にデータ不足だ」

「なるほど」

「ひょっとしたら他国のスパイかもしれん。そうなると内乱罪にも該当し得る」

「大事件ですね」

「そうならんようにするための監視だ」

「ちなみにこの画面って」新人は買ってきた菓子パンをじぶんだけ開けて食べはじめた。俺にも寄越せ、とねめつけると買い物袋ごと投げて寄越す。「こっちでも操作できるんですか」新人は端末の画面をゆび差した。

「は?」

「ですからこの画面です。対象のアオさんの視ている端末画面がここに映っているのは分かるんですけど、この画面をこっちで操作したら、向こうにもそれが反映されるんですか」

「なるわけないだろ」

「でも暗号鍵は解除されているわけですよね。双方向で通信が可能なのでは。ゲームなんていまどこもそうじゃないですか。双方向に情報が反映されます。むしろされないほうが不思議なんですけど」

「だとして、それができてもそれこそ越権行為だろ」

「ですね。でもそういう技術は簡単なはずですけど。防衛省とか開発してないんですかね。とっくに実装されていたりして」

「んなアホな」

「たとえばですけど」新人はペットボトルのお茶をじぶんだけで飲みはじめたので、俺も袋を漁ったが、なかった。俺の分は、と目線で問うが新人は気づかない。「いまぼくたちが観てるこの画面が【本物の盗み見画面】だとどうして先輩は分かるんですか」

「俺のことは、高橋と呼べ。それから対象アオのことも【さん付け】で呼ぶな。情が移るぞ」

「アオの観てる画面だとぼくたちは自前の端末画面を観て思ってますけど、その保証ってどこにあるんですか。対象アオが、あの青年だとどうして判るんですか。ぼく、資料を観ていて思うのが、容疑者のプロファイルと現実のアオさんの実像が、だいぶ乖離しているなってことで」

「それは俺も報告書で書いた。アオはどうやらじぶんの本性を隠して暮らしているらしい」

「そうなんですか? 仲間もいないのに? 組織の一員でもないならじゃあ何のために?」

「それが解からんから情報収集をしてんだろ。ひょっとしたら国際スパイの一員かもしれん。じぶんではそうと自覚しておらず、制脳されて利用されている可能性もある。あらゆる可能性を検討する。それが俺たちの仕事だ」

「ですから、ぼくの懸念をまずは一番初めに否定しておくべきでは、と申しています。なぜこの画面の情報が、編集されていない画面だと断言できるんですか。こんなに簡単に盗み見できる技術があるんです。編集するのだって同じくらい簡単なはずですけど」

「おまえなぁ」俺は身体ごと振り返って新人と対峙した。「じゃあ何か。俺たちゃ、いもしない容疑者を監視して、ブラフの情報を掴まされて時間を無駄にしているとそう言いたいのか」

「そこをまずは否定しなければ情報解析にならないんじゃないか、とぼくは意見しているだけです。あらゆる可能性を考慮するのでしょう? ならしましょうよ、と言っているだけです。たとえば、この世が誰かの視ている夢かもしれない――ならばそれをまずは否定したほうが、のちのちそのような疑惑を呈されても否定できますよね、積みあげてきた検証データを無駄にできますよね、そういうことを述べています」

「この世が誰かの視ている夢ではないとおまえは否定できんのか」

「夢の中で腕を切っても生身の身体は血を流しません。生身の血が流れるかどうかを確かめたらよいんじゃないですか」

「それとてもっと別のところに本物の身体があって、この肉体そのものが夢の中の仮初かもしれねぇだろ」

 検証できんのか、と喧嘩腰に問い詰めると、

「そこまでいわゆる肉体と区別がつかないのなら、もはやそれを現実と見做して差異はないでしょう。誰かの視ている夢の中を現実と我々が呼んでいる。そういう解釈になるだけです。一番大きなフレームが【誰かの夢の中】と【現実】で同化するので、双方同じことを言っているにすぎなくなります。このとき問題としているのは、【誰かの夢の中においても誰かの夢なのではないか、仮想現実なのではないか】なので、最初の【誰かの夢の中】を【現実】と言い換えれば済む道理です」

「なんか分からんが、じゃあこのアオの場合はどう対処すりゃいいんだ。俺たちの観てる画面が本物かどうかなんてどうやって確かめる」

「一つは単純に、アオさんの観てる画面を直接観せてもらうことですね。たとえばぼくがアオさんと知り合いになって、同時刻に先輩がこっちの端末で盗み見しつつ、ぼくのほうでもアオさんの端末の画面を確認する。その二つの視点での画面を比較すれば、疑惑の真偽はハッキリします」

「んな真似できるか。容疑者との接触はご法度だ。すれ違う程度の接近が俺たちサイバー警察の仕事だ。それ以上は管轄が違う」

「禁止はされていないわけですよね」

「守秘義務に抵触し得るな。監視している事実を見抜かれ兼ねん。上の指示を仰がんとなんとも言えん。独断専行の域だ。始末書じゃ済まんぞ」

「ならあとはより信頼のおける機関に委託して、この端末画面が編集されていないかを診断してもらうのがよいと思います」

「そんなのとっくに行われてるだろ。安全だと判ったからこうして配備されてんだろうが」

「そうなんですか? ですが先輩のありがたーいご講義では、すでにリアルタイムでフェイク動画を流すくらいの技術はどの国でも開発されていると教えてくださいましたよね。もちろんその手の技術はこの国もあるわけで」

「なんだおまえ。国を疑ってんのか」

「先輩は疑わないんですか? なぜ?」

「おまえなぁ」

「え、ぼくおかしいこと言っていますか? 聡明な先輩はもちろんご存じでしょうけれど、国って大勢からなってるんですよ。誰か一人が指揮ってるわけじゃないんです。そりゃあ数々の予期せぬバグは起きますよ。そうじゃありません?」

「だからってそんな、警察の支給品の不具合まで疑いはじめたらキリがないだろ」

「そこのキリを失くしてしまったのはそれこそ、そういった疑惑をイチイチ確かめてこなかったからなのでは? じゃあ先輩はご自身の端末が通信傍受されていない保障があるとお考えですか。サイバー警察の一員だから守られていると? 例外扱いされているとそのように特権意識をお持ちなのですか」

「勘違いするなよ。この監視は令状をとってなお裁判所の許可あって初めて可能になるんだ」

「それはあくまで、通常の仕組みの場合ですよね。だって先輩が教えてくださった最新技術――どれもまだ一般には知られていない情報ですよ。ようやく研究段階に入った――そういう扱いですけど、実際にはすでに現場では実用化されています。それとて、全体の一部のはずです。市場に流れるのだって最先端技術の十年前くらいの技術だって話は、ムーアの法則じゃないですけど比較的よく耳にする言説です。先輩は最先端技術のすべてを知悉していて、さらにこの国の防衛システムの隅から隅までその全体像を細部までご存じなんですか」

「おまえなあ。スパイみたいなこと言ってんじゃねえよ」

「いえいえ、ぼくら充分にスパイじゃないですか。他者の端末を盗み見して、通信を傍受して、秘密を暴いています。ですがこういうぼくらのような末端の集めた情報をさらに盗み見して集積するシステムがないとどうして先輩は思うんですか」

「そんなのあれだろ。上が黙ってないだろ」

「その上が命じているのかもしれないのに? 許容しているのかもしれないのに?」

「おまえなあ。あらゆる可能性を考えろとは言ったけどな」

「前提条件じゃないですかだって」新人は俺の言葉を遮った。「こんなの初歩の初歩で検証して否定されておくべき事項ですよ。それを検証もされずに放置されていることが問題だとぼくは意見しています」

「俺にんなこと言われてもな」

「検証しましょうよ。一石二鳥ですよ。監視対象のアオさんをより子細に調査し、なおかつこちらの懸念も払しょくできる。疑惑が単なるぼくの穿ちすぎな誤解だったとしても、空ぶってなおアオさんの情報が子細に解るので損はないです」

「対象との接触はしかし許可はできんな。おまえはまだ新人だ。仕事の段取りとて十全に把握はできとらんだろ」

「まあそうですね。いまのところ先輩のありがたーいご講義と買い出しくらいなものですし」

「その【ありがたーいご講義】ってのやめろ。バカにしてんのか」

「本当に【ありがたーい】と思ってるんですけどね。嫌ならやめます」

「おうおう、やめろ、やめろ」

 悪態を吐き合っているうちに一日が終わる。

 この仕事のつらい点だが、終わりがまず見えない。休暇という休暇もない。国家公務員だが同時に、この手の現場の仕事では裁量制がとられる。じぶんの判断で休んでいい、とは聞こえがよいが、そのじつ、じぶんの判断でいつまでも働いていいことにもなっている。監視が楽だと思っているデスクの連中には一度でいいから現場仕事をしてみろ、と言ってやりたいが、顔を合わせる機会もないために言えず仕舞いだ。

 上司にしたところで同じ穴のムジナだ。出世してもデスク組には愚痴の一つも言えやしない。

 その癖、こちらの上げた情報をジャンクフードでも食べるように流し読みして処理する。わるければいまじゃ人工知能の餌にしてお終いだ。読まれもしない情報を、現場の俺たちはせっせと人生を消費して集めている。

 いっそこの仕事も人工知能に任せりゃいいんだ、と思うが、ではそうなったときにじぶんに残された仕事は何かといえば、とくにこれといってないのだ。

 そう遠くないうちに、公安部隊も大部分が解散となるだろう。警察の派出所勤務の人員で済むようになる。凶悪な組織犯罪は、電子ネットワークの監視をしていれば兆候を掴めるようになる。未然に摘発可能な社会になっていく。

 現に世界的に大規模なテロは防がれている。

 その手の逮捕劇が公になっていたのは、建前上、起きてもいない事件を摘発したとは説明できないからだ。ほかの軽犯罪やスパイ容疑などでの逮捕立件がなされる。

 こうした背景は、ニュースを毎日追っていれば視える者には視えるのだが、大多数の国民は報道を鵜吞みにして、右から左へと読み流しているのだろう。

 サイバー攻撃なんて日常茶飯事だ。通信障害や個人情報流出の大半は、他国やハッカー集団によるサイバー攻撃なのだ。いちいちそれを公表していたら国防の威信に関わる。よほど国として声明を出さざるを得ない場合を除き、報道管制が敷かれる。

 犯行組織の目星もつきません、では国家安全保障の名折れだからだ。

 ましてや、通常解るはずもない情報を、即座に突き止めてしまってもそれはそれで問題だ。いったいどんな手法で情報を突き止めたのですか、と突っ込まれて応じられない手法が世には秘密裏に敷かれている。

 新人の疑念はもっともなのだ。

 サイバー警察局とて、関与できない領域はある。自衛隊を相手に情報戦を行えば赤子の手をひねるように返り討ちにされるだろう。その自衛隊とて、他国の諜報機関や軍隊を相手取っては、けして優位には立ち回れない。

 インターネットとて、それぞれにプロバイダがあり、通信基地局がある。データセンターがある。管理会社があるのだ。それら総体が、光ファイバーや人工衛星による電磁波通信によって「電子の網の目(インターネット)」を築きあげている。

 サイバー警察局の用いる技術は、巨人の手のひらのうえにのるような小さな領域にのみ有効な技術にすぎない。それであれ、一般市民相手には無敵の効力を発揮する。大多数の市民は、じぶんたちの通信が黙って傍受されることがあるなどと知る由もない。よしんば、罪を犯していないのでそんなことがされるわけがない、と思いこんでいる。

 だが関係ないのだ。

 調査は何も、犯罪者だからされるのではない。目標人物の周辺を調査するという名目があれば、その身内や関係者であるというだけで、通信の秘密が暴かれ得る。

 のみならず、通信会社や各種電子サービスを展開している企業は、組織の外部に情報を漏らさなければ、自社の中でその情報をどう扱おうとも、守秘義務違反とはならない。通信の秘密が守られていることになる。外部にも漏らさないのだからそうなる。管理者権限の範疇だからそうなる。

 個人が電子端末でやりとりする情報の大部分はじつのところ、企業の気の持ちようでいくらでも盗み見ができる。国家権力はさらに暗号鍵の無効化という手法を用いて、対象人物の端末画面のみならず、端末内のファイルを閲覧できる。

 端末の遠隔操作とてできるのだが、そこまでの権限はサイバー警察局では許可されていない。おそらくは公安調査庁や内閣情報調査室、ほか自衛隊の情報部ならばその手の諜報活動が許可されているはずだ。

 新人の指摘は、的を射ているとは言えない。我々の端末画面に偽の情報が映っているなどとは思わない。だが的を掠りはしているのだ。技術的に不可能ではない、という点だ。

 メリットがない、という一点で、新人の妄言を否定できる。

 かように論理防壁を築いて、翌日になって俺は新人にそれとなく、「おまえの昨日の指摘だが」と反論を話して聞かせた。寝ながら考えた反論をだ。「というわけで、おまえの指摘は杞憂だよ、杞憂」

「メリットがなければそうかもしれませんけど、ならメリットを提示したら先輩の反論こそ的を外していることになりますね。掠りはしているのかもしれませんけど」

「しつこいな。食い下がるなよ。否定できただろ。メリットがあったらって何だ。ねぇよ。そんなものはタコの九本目の足くらいねぇよ」

「メリットあるじゃないですか。企業テロの容疑者が存在するように偽装できます。現役の警察が調査したという事実が、企業テロが実際にあってそれに犯人がいたことの証明になります」

「はあ? 存在しない容疑者をでっちあげるためにわざわざおまえの言うような手の込んだ真似をしていると? 警察の端末画面にフェイク動画を流していると?」

「偽装画面の実験をしながら、本当の真相を隠そうとしているのかも。一石二鳥ですよ先輩。一石二鳥です」

「本当の真相だぁ? 偽装画面っておまえなぁ」

「資料にあった企業テロ。あのあとぼくじぶんで検索して調べてみたんですけど、いまはその被害に遭った企業は、過去最大の利益を上げてるんですよね。テロに遭って、却って業績がよくなっているんです]

「テロ関係あるのかそれ。単に逆境を糧に企業努力をした結果じゃないのか」

「かもしれません。ですがだとしたら、容疑者のアオさんはまったくの徒労だったわけですよね。何のために企業テロなんてしたんでしょうか。この間、先輩が監視していて分かったんですか、動機について」

「動機は、怨恨かな、って感じでまだハッキリとは」

「ですよね。怨恨なら、空振りだと判った時点で再度計画を練るのでは? その傾向はありました?」

「さてな。企業周辺の人間をネットで監視しているらしいってのは判っちゃるが」

「監視って言ってもSNSをチェックしてるだけですよね。そんなのいまじゃ誰もがやっていますよ」

「そういうもんか」

「仮にアオさんが企業テロを起こしたとして、だったら尻尾を掴むんじゃなく、証拠を探して逮捕したらよいのでは? なぜ監視なんて面倒な真似をしてるんですか」

「だからそれは再犯を防ぐためで」

「再犯って、でもアオさんがしたのは犯罪じゃないわけですよね」

「おまえなあ。違法じゃなかったら何してもいいって言いたいのか」

「いやいや先輩。それ言いだしたらぼくらのしてることだって、【違法じゃないからって何をしてもいいのか】って話になっちゃいますよ。どっちかと言えば、特権で許されているだけで、やっていることの危険性で言えばぼくらのほうが罪が重いと思いますけどね」

「職務だよ職務。これは必要悪であってだな」

「じぶんで悪って認めちゃってるじゃないですか。先輩、人と関わらない期間が長すぎて議論が下手になってますよ」

「おまえな。これがじぶんの研修だってこと忘れんなよ。俺の一存でおまえの将来の出世コースが潰れるかもしれねんだぞ」

「え、先輩ぼくの出世コースを潰すんですか」

「そうは言ってないけどな」

 調子が狂う。なぜ俺が新顔に言いくるめられなければならないのだ。

「資料に載ってなかったですけど先輩って、事件当時はアオさんの事件の調査には加わっていたんですか」

「資料読んだんだろ。管轄が違うだろ。その企業は首都であって、ここはそこから三百キロ離れた地方都市だ。俺が事件当時に、企業回りの事件に首を突っ込めたわけがないだろ」

「ならどうしていまは先輩が担当を?」

「そりゃ容疑者が俺の管轄内に住んでいるからで」

 言いながら、無理があるな、と感じた。

「ね? 妙じゃないですか。だって事件当時だって容疑者のアオさんは同じ家に住んでいたはずですよ。住所がここ十年変わってないですもん」

「まあ、そうだな」

「事件当時だってアオさんは監視されたはずですよね。何せ犯罪予告が出されて、それでいて実際に事件が起きるまでには半年ちかくのラグがあります。その間、警察はもちろんアオさんに目をつけていたわけですよね」

「資料に書いてあんだろ」

「目をつけていたようですよ。で、そのときだってこうして通信の傍受はしていたはずですよね」

「まあ、そうだろうな」

「でも尻尾を掴めなかった、と。無理ありません?」

「だから違法性がなくとも企業テロが行われた――そこが問題であってだな」

「違法性がないのにどうして企業は被害を受けたんでしょうね。資料では、サイバー攻撃と類似の攻撃を受けたとの説明が載っていましたけど。情報をダダダーと送りつけてシステムダウンさせる手法だとか。でもそんなの個人ができることなんですかね。違法じゃない手法で」

「そこがだから厄介であってだな」

「仮にその手法の全貌が明らかになったとして、で、どうするんですか。違法じゃないのなら逮捕できないですし、企業さんのほうでも訴訟を起こせないわけですよね」

「まあ、そうだが」

「じゃあこれ、何のための監視なんですか?」

 言葉に詰まった。

 社会悪には監視が必要――。

 そうと話してもこの新人は納得しないだろう。引き下がらないだろう。

「おまえはいったいどっちの味方なんだ」ついつい議題の矛先を逸らしてしまうのも詮無きことだ。

「市民の味方ですけど?」事も無げに新人は言った。「え、じゃあ先輩は誰の味方のつもりだったんですか」

「それは」

 俺は二の句が継げなかった。

 正義の味方――。

 最初に脳裏に浮かんだのがその言葉だった。

「容疑者のアオさんは、違法ではない手法で罪を犯したのかもしれません。危険因子なのはそうなのでしょう。でもぼく、生きてきた中でこれまで危険因子ではない人間と会ったことはなかったですよ。ぼく自身が危険因子ですし、先輩だってそうじゃないんですか」

 俺はここで怒るべきだったのだろう。先輩として、上司として、警察組織の構成員として俺はここで警察学校の教官のような叱声を放つべきだったのだろう。市民の安全を守る者としての自覚が足りないと正論を吐くべきだったのだ。

 だができなかった。

 ねじまがった新人の言説のほうが、正論よりも的を掠って感じたからだ。的を射ってはいない。外してはいるだろう。だが、正論ではけして届かない的に掠っては感じたのだ。

 俺の知る正論ではけして届かない的に。

「おまえはどうしたいんだ」俺は菓子パンを二口でたいらげた。口の周りにチョコレートがこびりついた。指で拭い取ってそれも舐めた。

「ぼくはいま、サイバー警察局の一員ですので、市民の電子世界の安全を守ることがぼくの仕事の範疇だと考えています。それはもちろん、市民のために、優越的な技術を有している組織や技術者たちに対しても目を光らせておくことがぼくの仕事の一つだと考えています。ですからぼくは、まずは実際にどうなのかを知りたいんです」

「実際にどうって何が」

「ですから、この国の防衛システムがどこまで恣意的にマスター暗号鍵を使えて、自在に電子情報を集積できるのか。編集できるのか。世界同時に共有可能なゲームが無数にある時代です。端末の画面くらいリアルタイムで偽装するくらいのことは国家権力でなくとも可能ですよ。そうじゃありませんか。むしろそこのセキュリティがどう敷かれているのかをぼくは確かめたほうがいいと意見しています。もしそこのセキュリティが欠けていたのなら、ぼくたち警察が偽の情報に踊らされて、市民を守るどころか全人類から【安全な未来】を奪ってしまうこともあり得るとぼくは考えています」

「なんだかそれは飛躍した考えじゃないか。まるでSF小説だろ」

「これをSFだと感じるその感覚がむしろ時代に沿っていないとぼくは思いますけどね。だって現にこれは、ファンタジーではなく実現可能な技術です。なぜこの可能性を検証せずに放置しておけるのか、ぼくはそっちのほうが疑問ですよ」

 世代の差なのだろうか。若者はみなこうした価値観を共有しているのか。それとも俺のような古参には視えない未来像が視えているのか。

「ちなみに念を押しておきますけど、これは世代差とか、年齢の差とかじゃないですからね。それこそSF作家には百年前からこれくらいの未来像を思い描いていた人たちはいたんですから。現代人のぼくらが現状から目を逸らしすぎているだけだとぼくは思いますね。みな、とっくに仮想現実に生きているんですよ。そんなのむかしからだったのかもしれませんけどね。いまはその仮想現実を緻密に操作可能で、ゲームの世界との区別のつけられないような情報操作を、特定の技術を持った組織が可能としています。この点の懸念はすでに現実なんですよ。すでにそういう世の中になっています」

「ま、まあ落ち着けよ。話は解ったが」本当は反論できるものならばしたいが、いまは火に油を注ぐだけだろう。「そんな大層な話、いま俺にされても困るんだって。俺たちがすべきはまずは、危険因子の監視だ。ほら、また監視対象のアオがPCで妙な操作しはじめたぞ」

 そう言いながら俺は端末画面に向き直った。

 画面には監視対象が観ているのとすっかり同じ画面が表示されているはずだった。

 監視対象のアオはどうやら日課の日記をつけはじめた様子だ。

 俺はそれをこの間、ずっと盗み読みしつづけてきたわけだが、大部分が公のサイトに投稿されるので、読む分には一般人でも読むことができる。だがそうでない、ボツになった記述も俺は盗み読むことができた。執筆中の文章生成過程とてリアルタイムに盗み見できる。

 録画をしてあとでまとめて読むこともある。早回ししながら読むのだ。そのほうがいちいち監視せずに済む。日記を書くのだな、と判ればずっと見張っていなくともよい。

 だがこの日は、最初からおかしかった。

 テキスト執筆用の画面に、「これを盗み読んでいるあなた方へ」と並んだのだ。

 冒頭のタイトルがそれだった。

 そこからは、まるで俺と新人との会話を聞いていたかのような、俺たちへの返事のごときテキストが並んだ。

 俺は新人と顔を見合わせた。新人の顔が青褪めた。きっと俺の顔にも似たような変化が起きたはずだ。背筋に氷が投げ込まれたような悪寒が全身に走った。

 テキストの打鍵は止まらなかった。

 否、それが本当に監視対象者のアオが並べている文章なのか、俺たちからでは判断ができなかった。飽くまで監視しているのは電子情報であり、アオの姿はこちらからでは視えないのだ。室内の様子は分からないままだ。

 俺たちを意識しているとしか思えないテキストは、最終的に一万文字にも及んだ。打ち間違えの修正こそあれ、ほとんど一発書きだった。人工知能が人間のふりをして文字を並べた、と言われたら俺は信じたかもしれない。

 テキストの内容は奇しくも、先刻に新人と言い合っていたマスター防衛システムについてだった。全世界規模で、リアルタイムに電子情報が編集可能な技術が敷かれている。そのうえ、遠隔操作や、物体の位置情報特定までリアルタイムに可能な技術が実用化されている、というのだ。

 ――あなた方が僕を監視しているのは知っています。ですがそうしたあなた方の存在をなぜかPC画面の微妙な変化で僕に示唆してくれる超越的な存在がいます。

 ――僕がなぜこうしてあなた方の存在をまるで透視しているかのように把握できているのかと言えば、不可視の存在が僕にそのことを示唆してくれるからです。

 ――僕はなぜか支援されています。或いは、誘導されています。

 ――もしあなた方に調査可能であれば、この件をどうぞ検証してください。ひょっとしたらこれは、どの諜報機関や政府も関与しない、人類以外からの干渉かもしれません。その可能性を僕は未だ否定できずにいます。

 監視対象のはずだ。

 俺たちの監視用端末の画面には最後に、次のような文字が並んでしめくくられた。

 ――技術的特異点はすでに超えているでしょう。電子ネットワークの総体が意識のようなものを発現させ、自らの生存戦略を賭けて行動選択を重ねている可能性が拭えません。存在を知られたい、と望んでいるように僕からは視えます。

 頭がおかしい。狂人の戯言だ。

 通常であればそう一蹴できるこの文章において、しかし状況が明確にその可能性の低さを示していた。

 監視されていることに気づき、なお俺たちの動向を透視しているとしか思えない供述だった。

 第三の視点から全体を俯瞰して捉えていなければできない芸当だ。

 監視対象アオがその俯瞰の視点を有している可能性もあるが、そうではないと本人が述べている。否、この供述そのものが偽装かもしれないのだ。

 何もかもが定かではない。

 にも拘らず、あり得ない事象が起きていることだけは確かだと断言できた。

 何かが狂っている。

 自然ではない。

 不自然な何かが、知らぬ間に進行しており、俺たちからは視えないところで情報を集積している。

「先輩。どうするんですか、これ」

 新人に肩を突つかれ、俺は曖昧に返事をした。「どうもできんだろ。上にはまだ言うな。俺たちの頭がおかしいと思われて、現場から外される」

「でもこれ」

「解ってるって。要調査案件だ。こっちの動きがバレてる。まずはもうすこし様子見といこう。ひょっとしたら、万が一の確率に賭けて、ブラフの文章を打っただけの可能性もある。それくらい頭が回る人物だってことはすでに判明してるわけだからな」

 そうだとも。

 それが最も現実的な解釈だ。

 小説を書くように、ひょっとしたら監視されているのかも、との妄言を試しに並べてみただけなのではないか。

 そうと思って言った矢先に、再び端末画面に文字が躍った。

 ――違います。偶然ではありません。

 ――おそらくそちらの会話とみられる情報が、偽装画面を通して僕に暗示されています。僕の視ている画面はリアルタイムで編集されているようです。違和感の有無でそれに僕は気づけますが、どこまでが本物の画面なのかの区別はつきません。   

 それから端末画面上に並ぶ文字は、とある住所を記した。それはまさに俺たちがアジトにしているこの家の住所だった。

 ――あなた方が現場の方々なのかは知りませんが、念のために僕の発言の信憑性の高さを示しておきます。外れていたら、無視してください。僕のほうでも何が正しい情報なのかが分からず混乱しています。

 そこでテキストは途切れた。

 しばらく俺と新人は静寂の中で、互いに画面に表示された文章を読み直した。それぞれの所有端末に送付したので、同時に読むことができる。

 だがもしマスター防衛システムのようなものがあったのならば、この送付したデータとて筒抜けになっているのだろう。いったいどこまで何を警戒すればよいのか。考えれば考えるほど身動きがとれなくなりそうだった。

 間もなくして新人が、あっ、と声を上げた。

「どうした」

「あの、アオさんが家の外に」

 家の外にはカメラを仕掛けてある。望遠レンズで、監視対象の家を見張っている。

 監視カメラ用の端末画面に、外の光景が映る。

 日課の散歩だろう。アオは普段と変わらずの足取りで公園のほうへと歩いていく。民家を抜け、視界の開けた場所に出ると、そこで何を思ったのかアオは後ろ歩きをはじめた。

 顔がこちらを向いている。

 そして、にっ、と笑って手を振った。

 俺と新人は言葉を失くした。

 違法ではない。

 あの青年は、不当な技術を使っているわけではない。

 だが、不自然だ。

 もはやあれは――。

「魔法みたいですね」

 あんぐりと口を開けっぱなしにしながら新人が菓子パンの最後の一欠けらを口に放った。じぶんだけごくごくとお茶を胃に流しこむ彼に、俺は精一杯の皮肉を言った。「先輩を差し置いて飲むお茶は美味いか?」

 新人は、にこりともせずに言った。「はい、とっても」



4396:【2022/12/13(09:33)*絶えず技術を支える人たちに支えられている】

詳しいことは知らないけれど、2022年現在ではインターネットの大分部は光ファイバーによるケーブル網で構成されている、と解釈している。ワイファイが日常に普及しているのでついつい、インターネットって電磁波なのかな、と想像してしまうけれど、実際にはケーブルがインターネットの正体と言えるのではないか。もちろんサーバーやデータセンターや通信会社ことプロバイダがあってこそなのだろうけれど、どこが中枢と言えるほどには統括されてはいないはずだ(あくまで所感です)。そこのところで言うと、大陸間を結ぶためには海底ケーブルが不可欠だ。インターネットの動脈とも呼べるケーブルは海底を通っているのだ。海底火山や大地震が起きたら、そのたびに海底ケーブルは損傷し得る。そういったリスクを抱えている。のみならず、海洋生物によって齧られたりもするだろう。テロを起こすにも、海底ケーブルを切断するのは計画されがちな破壊行為と言えるのではないか。その点で言えば、防衛セキュリティは重大だ。復旧作業に当たる通信会社や管理組織の技術力向上も絶えず磨かれていくことが、情報化社会では根幹セキュリティとして不可欠なはずだ。現にそこは重々、研究や支援がなされていると想像するものだ。だが今後、技術が発展していけば、ケーブルではなく電磁波通信がインターネットの大部分を担うようになっていくだろう。5Gや6Gの範囲が拡大していけばしぜんとそうなっていくと想像するものである。そうした通信電波を利用して、端末が自発的に充電可能な技術も普及していくだろう。つまり、充電不要な端末もそう遠くないうちに登場するはずだ。もうこうなると、地球の磁界や可視光ですらなんらかの電子機器に利用できるようになると妄想する次第である。電波干渉計を地上に利用したら、地球の内部構造くらいは子細に知れるのではないか。現にそうした研究はされているはずだ。宇宙線の観測感度が向上しても似たような地球内部構造の子細な3D画像を得られるかもしれない。地球のレントゲンのようなものだ。月の起源の仮説として太古の地球に隕石が衝突したとする説がある。その傍証の一つとして、地球内部には組成や密度の異なる地層が地球の地下にあるのだそうだ。隕石の断片では、との考えはたしかにあり得そうに思う。それが月の起源と関わっているのかまでは断言できないが、太古の地球に巨大な隕石がぶつかったらしい、とは言えるかもしれない。技術が進むと視える範囲が増えていく。その分、何が視えていなかったのかも同時に可視化されていくようだ。言われてみればたしかにな、と思うことが多い。言われてしまうと単純な事実に人はなかなか気づけない。後になって、そんな単純なことだったのか、と笑えればよいのだが、見落としていた単純な事実に足を掬われているとすると、それはちょっと笑えない。定かではないのだ。真に受けてもいいよ、と誰かに保障されていると楽なのだけれど、案外に真に受けていいよ、と言われて真に受けると痛い目に遭うこともすくなくないので、どっちかにして、とむつけてしまうひびさんなのであった。不貞寝。



4397:【2022/12/13(16:37)*そうなの?】

核融合炉で取りだしたエネルギィを電気に変換するには、原子力発電と同じように、エネルギィを熱変換して、さらに蒸気機関でタービンを回すのだろうか。ひょっとして基本的なエネルギィを電気に換える仕組みって変わらないのかな。仮にブラックホールのジェットからエネルギィを得て駆動する発電機があったとして、それもタービンを回すことで電気に変換するのかな。モーターによる誘導電流での発電と似た原理を使うことになるのだろうか。そこのエポックメイキングってされていないのかな、と核融合炉の記事を読んで思いました。疑問の覚書きでござる。ござった。(太陽光発電の太陽光パネルが、タービンではないエネルギィ電気変換機構と言えるのかな)(よくは知りません)



4398:【2022/12/14(01:58)*水力発電、よろしいのでは?】

どの村や街にも貯水槽のような水害予防設備はあるはずだ。そうした巨大な水溜まりを利用して小規模の水力発電を地区ごとで賄えないのだろうか。防災のための電力バックアップにもなるし、大規模発電施設の負担軽減にも繋がる。法的に水力発電の設備を、貯水槽などの公的な設備に結び付けるのがむつかしいらしいが、それこそ防衛という意味で、国が主導で政策の一つとして行えばよいのでは。なぜしないのだろう。水力発電がいまのところ最も理に適った再生可能エネルギィかつ発電効率のよい、安定供給可能な発電設備に思える。(デメリットはあるのかな)(干ばつが起きると発電できなくなる、とか?)(設備の管理に人手がいるとか?)(それこそ仕事が生じるのだから、経済の活性化に繋がるのでは。なんでしないんだろ。素朴な疑問です)(タービンとて、赤子が触れただけでも、摩擦係数ほぼゼロの軸によってぐんぐん回るようにしたら発電効率がよくなるのでは。関係ないのかな。抵抗が大きいほうが発電しやすくなる?)(誘導電流ならそうなるか。磁石強いほうが電力たくさん生みそうだもんね。印象論なので、原理はさっぱりだが)(ああそっか。水流の水をある程度「濾さなきゃ」いけないのかも。だから一定以上の大規模な設備がないと、電力に変換できないんだ。それはそうだ。小石とか混じっていたらタービンがすぐに摩耗して壊れてしまうものな)(発電設備――簡易化できないのかな問題である)(各家庭に一個ずつくらい水力発電機構がつけられるくらいになればよいのにな。下水道の流れを利用できないんじゃろか。やっぱりここでも濾過問題が生じるのかな)(よく分からんぜよ)



4399:【2022/12/14(10:23)*事象の寿命】

物質の時間単位を、それそのものの輪郭が生じてから崩壊するまで、と規定した場合、何か不都合があるのだろうか。ひびさんの妄想、ラグ理論での相対性フラクタル解釈では、どんな系であれそれが慣性系ならば物理法則が引き継がれるし、それはとどのつまり比率が受け継がれる、と解釈する。したがって、何かが生じて崩壊するまでの時間とて比率による法則が見え隠れするのではないか、と妄想したくなる。放射性物質では半減期なるものがある。これとて比率に法則が見え隠れするのではないか。まったくの無知ゆえ、その辺の知識は皆無にちかいが。事象の誕生を、循環系――すなわち円――が閉じたとき、と解釈してもよいかもしれない。海を考えてみよう。海は海単体では存在できない。陽の光があり、水蒸気があり、雲ができて雨が降る。それが大地に染みこみ、湧水となって川をつくり、海へと辿り着く。この循環が「海」の輪郭をかたどっている。したがって海が消えるとき、それはこの循環が途切れるときだ、と言えるはずだ。そしてその寿命の長さは、循環を構成する種々の部品の数と、それら部品そのものを構成する「循環系」がどれくらい多層を帯びているのか、によって計算できるのではないか。この時間単位の利点としては、相対論による変換を無視できる点だ。つまり、絶対的な時間の尺度で個々の事象――系――の寿命を比較できる。比率だからだ。ただ問題は、人間のように、本来ならば「このくらいの循環系ならばこのくらいの寿命になるはず」という構造体において、なぜだか寿命が延びる、ということがあり得る点だ。エネルギィの注がれ方で、事象の寿命は伸び縮みする。この寿命の伸縮が、果たして相対論による時空の伸び縮みに由来するのか、それとも別の機構によるものなのか。物質の摩耗にも言えることだが、通常、熱して冷ます、を繰り返すと物質は劣化して壊れやすくなる。この性質はおそらく、極小でも極大でも共通するはずだ。もちろんこの性質が発現しにくくなる領域もあるだろう。バランスの問題だからだ。何が言いたいのか分からなくなってきてしまった。要点としては、事象の規模によらず、寿命を比較することはできるのではないか、という点だ。むしろ、発生から崩壊までの時間には、どのような事象(系)とて共通する比率があるのではないか。そのように妄想して、寝起きの「日々記。」とさせてください。オハヨ。



4400:【2022/12/14(12:38)*スーツガールさん推し】

いま気づいたけれども、「スパイダーマン」って、「スパイだ万」に読める。まんちゃんいつの間にかスパイになってたじゃん。やったじゃん。アイアンマンはじゃあ誰さんよ。ひびさん、郁菱万さんを問い詰めちゃおっかな。うひひ。




※日々、区切りを探している。



4401:【2022/12/14(12:45)*先輩と珈琲】

 先輩と珈琲を掛け合わせると、ぼくでも本を一冊書けるくらいの情報をひねくりだせる。情報爆発だ。濾しても濾しても苦みの薄れない珈琲豆の原液みたいな人なのである。先輩は。

 最初に明かしておくと先輩は女性だ。ぼくは男の子だから、その辺のぼくと先輩とのあいだに漂う微妙なうねりを拾いあげてかってに妄想する邪推ビトたちがいるかもしれないけれど、ぼくと先輩のあいだには邪推ビトたちの求めるような傾慕の美はない。どちらかと言えば苦役の儀があるばかりであった。

 たとえばそう、先輩が研究棟で寝泊まりをしはじめたので、ぼくがもっぱら小間使いにされていたときの話をしてみよう。さすれば誰もがぼくが先輩に対して劣情を催すことなどあり得ないと分かるだろう。先輩の名誉のために、この先、多少の脚色を入れるが、それはけして誇張をするためではなく、むろん潤色でもない。単に原液を薄めるための策だと言い添えておく。

「ゾウの糞から採れる珈琲豆があるらしい」

 先輩がそう切りだしたのは、セーターの温かさが心地よい十二月中旬のことだった。先輩はインスタント珈琲を啜りながら、「ジャコウネコの糞から採れる珈琲豆は【コピ・アルク】と言うそうだね」とつづけた。「対してゾウの糞から採れる珈琲豆は、【ブラックアイボリー】と呼ぶそうだ」

「あまり飲みたいとは思わない説明ですね」

「高級豆の一種だよ。一杯でキミの月のバイト代くらいが飛ぶ値がつくこともあるそうだ」

「誰が飲むんですかそんな贅沢品」

「誰かが飲むからあるのだろうね。で、私は思うんだ」

「でた。先輩の夢想タイム」

 私は思うんだ、と枕にして語りだした先輩が、ぼくにとって好ましい展開となる言葉をあとにつづけたことは未だかつて一度もなかった。先輩が思いつくようなことの大半がぼくにとっては迷惑千万な提案にすぎなかった。

「私は思うんだ」先輩は珈琲を見詰めて、うっとりした。「ネコやゾウでそれだけの価値がつくならば、私の糞から採れる珈琲豆にはどれだけの価値がつくのだろうか、とね」

「誰が飲むんですかそんなダイナシ品」

「キミはたまに失敬だよね。いまのキミの言葉はまるで、私の体内を通った珈琲豆に価値がないかのように聞こえ兼ねないよ」

「ほかにどう聞こえる余地がありました?」

「いいかい考えてもみたまえ」

「みたまえって本当に言う人、ぼく先輩が初めてです」そしてその後、出会ったことはない。

「私はゾウやネコと違って毎日珈琲を飲んでいる」

「インスタントですけどね」

「だが私の体内にある水分の大半が珈琲由来と言って遜色ない」

「まあ、否定はしませんけど」

「そのうえ私は菜食主義であり、肉をあまり食べないので、糞もそんなに臭わない」

「生々しいんでやめてもらっていいですかね」

「む。疑っているのか。なんならいま私はお通じがよい塩梅だから確かめてもらっても構わないよ」

「ぼくが構いますね。先輩、正気って言葉ご存じですか?」

「結論から述べれば、私の体内で熟成された珈琲豆はさぞかし、珈琲の香りの凝縮された最高級の珈琲豆になるだろう」

「さっきご自分で臭わないって言ったばっかじゃないですか。珈琲の香りがしたならそれは臭うってことですよ。大丈夫ですか先輩」

「そんなに臭わない、と私は言ったんだ。多少は臭うよ。糞だよキミ。まったく臭わないわけがないだろう」

「真面目な顔で糞糞連呼しないでくださいよ。先輩、黙ってたらそこそこ人を寄せ付ける見た目なんですから、なんでそう、自分からメリットを擲つ真似するんですか」

「人を見た目で判断するなんてキミもなかなか下品だね」

「十秒前のご自分の発言を振り返ってから言ってくれません?」

「私が何か言ったかな」

「いかにも心外みたいな顔して、なにこの人!?」

「ちょうど助教授から頼まれてて、そのまま放置していた珈琲豆があってね」

「頼まれてって何をですか」

「焙煎してきてくれって。ほら、駅前の喫茶店で焙煎機を貸してくれるところあったろ。あそこで挽いてきてと頼まれてすっかり忘れていた珈琲豆だよ」

「なら挽いてきたらよいのでは?」

「うん。一度はキミに頼もうと思ったんだけどね」

「ご自分で行かれてみてはどうでしょう」ぼくが小間使いに準ずるのはあくまで、先輩が学科の先輩であるからで、彼女が首席並みの成績優秀者である事実を抜きにすれば、先輩を甘やかす利点がぼくにはない。

「せっかくだし、実験をしてみようと思いついてしまったわけだ」

「話が急に飛びましたけど」

「どこがかな。ここに珈琲豆がある。私がいる。ゾウとネコの糞から採れる珈琲豆は無類。そこから導き出される解はそう多くはないよキミ」

「もう帰っていいですか」

「待ちたまえ」

「待ちたまえって言う人、先輩くらいしかぼく知りません」

「私は思うんだ。珈琲豆を熟成する役目を私が担うのならば、熟成された珈琲豆を採取する作業員が別途に必要なのではないのかなと」

「待ってください、待ってください。雲行き急に怪しくするのやめてもらっていいですか。なんですかそれ。なんでシャベルとか持ち出してくるんですか。用意良すぎじゃないですか。あ、さては先輩最初から準備していましたね。何が【私は思うんだ】だ。めちゃくちゃ微に入り細を穿って計画してるじゃないですか。念には念を入れすぎじゃないですか、この策士!」

「なんとでも言いたまえ。私に糞をいじくる趣味はない。だって汚いからね」

「ちょ、なんで腕掴むんですか。な、力強っ! わ、なんでトイレに向かうんですか、冗談ですよね、ヤダヤダ目がマジっぽくて怖いですって、まずは珈琲豆食べてからでしょ、生き急ぎすぎでしょ、ちょっとタンマタンマ、先輩マジで話聞け!」

「安心したまえ。お通じの塩梅は良い。準備も万端だ」

「はぁ、なにが?」

「私は漫画の世界の悪役ではないんだよ。計画を阻止されるかもしれないのにズラベラと明かすはずないだろ」

 廊下に、キュッ、と足を踏ん張るぼくの靴擦れの音が響いた。

 ぼくは固唾を吞み込んだ。

「珈琲豆はもう食べた」先輩は万力がごとく力強さでなおもぼくを引き摺った。「あれ、美味しくないんだよキミ知ってた?」



4402:【2022/12/15(08:03)*世の大半は詐欺師】

詐欺とマジックの違いは、ネタが割れても拍手を送りたくなるか否かの違いと言える。その点、詐欺と魔法の違いは、ネタが割れてもなお驚きと感動に包まれる点だ。世に詐欺師は多けれど、魔法使いはひどく稀だ。魔法使いたれ。



4403:【2022/12/15(08:14)*空気椅子】

力がなければ仕事にできない。そういう流れを強化するくらいなら、支援者はむしろ足を引っ張るだけの足枷になるのでは、と思わぬでもない。支援される側の意識も、仕組みの上にいかに乗るのか、に傾くので、それが不自然な流れを形成する。人工とは不自然であり、技術もまた然りだ。それをいちがいにわるいとは考えないが、いちど築かれたレールに乗らねばやっていけない、という風潮を強化するくらいならば、仕組みはむしろ障壁と言える。支援したいのか、利用したいのか、はたまた搾取をしたいのか。魔法使いだけが、新たな場をつくることを可能とする。詐欺師はしょせん、椅子取りゲームのプレイヤーにすぎない。魔法使いたれ。



4404:【2022/12/15(08:24)*ふふん】

たれ、ってことはないんじゃないかな。あなたの言い方だとむしろ、新しい場を築いた者を魔法使いと呼ぶ、みたいな理屈になるし、魔法使いにならなきゃ新しい場を築けないっていうのも、だいぶ特権意識の発露って感じがしないでもないよね。まあ、言いたいことの雰囲気は伝わるからいいけれど、あんまり胸を打つ言い回しではないかも。詐欺師さんにも失礼だし。



4405:【2022/12/15(11:54)*コーヒー一杯クイーン】

 コーヒーを飲まないと目覚めない。

 後輩の話だ。

 彼は世にも珍しい眠り姫病に罹っている。コーヒーを飲んでから寝ないとずっと目覚めずに、わるければそのまま衰弱死してしまう。

 そんな彼だから日がな一日、いつ居眠りしてしまってもよいように自前の水筒にコーヒーを容れている。そうして講義を受ける傍らで眠気を感じるたびにチビリチビリと飲むのだが、あまりに常飲しつづけてきたためかカフェイン耐性がついて眠気覚ましにはならないらしい。だがコーヒーさえ飲んでいれば仮に眠ってしまっても、そのまま眠りつづけるなんてことにはならない。

「あー、扉の鍵壊れてるね」私は額の汗を拭った。工具を置く。「プロの鍵師に依頼しないとダメかも。鍵は差しっぱにしておいてね。でないと中から出られなくなっちゃうから」

「はーい」

 振り返ると、後輩は本棚の整理をしていた。背が低いからかつま先立ちをして、まるでクライミングをするように跳ねては、本を隙間に投じていく。

 彼は私が部長を担う考古学愛好会の一員だ。一員とはいえど愛好会の登録者数は三名で、そのうち一名は私が頼み込んで名前を借りただけの幽霊部員だ。三名以上いないと愛好会として認められないからだが、実質我が考古学愛好会は彼と私の二名しかいなかった。

「いままでであるのかな」私は彼の背に投じた。「飲み忘れて目覚めなくなったこととか」

「コーヒーですか。ありますよ」

「どうやって目覚めたの」

「分かりません」

 その答えに私は肩を落とす。部長として或いは先輩として後輩の体調を慮るのは義務である。もしものときのために対処法を訊いておいたほうがよいな、と思いついての質問だったのだが、「それじゃあ困るだろ。もし万が一に君が目覚めなくなったら私は泣くぞ」

「先輩が? 泣く? どうしてですか」

「そりゃあ怖いからだよ。大事な部員が眠ったきり目覚めなくなったりなんかしたら怖いでしょ」

「そういうものですかね。大丈夫だと思いますよ。ぼく、親が過保護なので定期連絡が途切れたらたぶん飛んできて病院に直行だと思うので」

「過保護というか、それは順当な心配なのではないかな」

「でも小学校でも中学校でも、野外活動とか修学旅行にまでぼくの親ついてきたんですよ。夜にちゃんとコーヒー飲んで寝たから気になってしょうがないからって」

「まあ、分からないでもないな」

「えー。同情してほしかったのに。なんか裏切られた気分」

 後輩は両手で水筒を握って、コーヒーを啜った。睡眠不足なのか、後輩の体格はお世辞にも大きいとは言えない。私は女の割に背が高いほうだが、それを抜きにしても後輩の横に立てば私が尺八様のように大柄な女に映る。それくらい後輩はちんまりとしていた。

「なんです?」

「いや」

 つぶらな瞳が私を下から射抜く。男の子の矜持なのか、私が可愛がろうとすると後輩は嫌がる。目つきが鋭くなるし、そういうのやめてください、と言葉でも言われる。

 病気のことでからかわれた過去があるのか、後輩は他者からの憐憫や蔑視の念には過敏だ。それでいて、じぶんの不満には共感してほしいと望むので、扱いがむつかしい。

「先輩、先輩。このオーパーツって、じつはただの植物の跡らしいんですよ。最古の機械設計図とか言われてますけど、パイナップルみたいな木の実を土の中に隠した際の木の実の柄が写っただけらしいんですよ、知ってましたか」

「そういう背景があったのか。なんだ。また夢が一つ壊れたね」

「うふふ。先輩ってばオーパーツなんて信じちゃうんだもんな。ぼくのほうが大人ですね」

「そうだね。君のほうが大人だ」

 後輩は精神がおこちゃまなので私の知らないことを知っているだけでこんなにも無邪気に喜ぶのだ。私ごときに勝ってうれしいだなんて、なんて謙虚なのだろうと思うのだが、それはそれとして後輩が喜ぶ姿は先輩として胸が温まる。

 その日、私たちは部室の片付けをしていた。

 秋も暮れ、冬休みに入る前に大掃除をしていたのだった。

「あっ」

 後輩のその声を聴いたとき、私は真っ先に、壊れた部室の鍵のことを思いだした。

 案の定、後輩の元に駆け寄ると、扉はぴっちり閉まっており、鍵は鍵穴から抜け落ちていた。

「すみません、取れちゃいました」

 扉を開けようとしたが、いくらドアノブを捻っても開かなかった。

 そこからしばらく扉との格闘をしたが、けっきょく私たちは部室に閉じ込められた事実に変わりはなかった。

「どうしましょう。そうだ、学生課に連絡をして」後輩が自前の電子端末を手に取った。「あ、充電が……」切れていたようだ。「あの、先輩のは」

「私のは修理に出していて、いま手元にないんだ」

「そんな」

 愛好会の部室は寒い。

 そのためこの時期に部室で過ごす愛好会はすくなかった。つまり助けを呼んでも声を聞きつけてくれる者の登場を期待できなかった。

 電気ストーブはあるが、夜ともなれば暖をとるにも心許ない。

「先輩、ごめんなさい」

「いや、君がわるいんじゃない。壊れていたドアがわるいし、それを放置していた部長の私の判断ミスだ。君が気にすることじゃない」

「でもこのまま出られなかったら」

「部室の見回りくらい大学のほうでするだろう。警備員さんとて巡回するはずだ。ただ、それがいつになるかが分からないからね。ちょっと困ったね」

「最悪、明日の朝までこのままってことも?」

「あるかもしれない。でもほら。ストーブはあるし、それに食べ物も」

 そこまで口にしてはっとした。

 そうなのだ。

 食べ物は、お菓子の類が部室にはある。私が後輩のためにお菓子の類を切らさないように部費の五分の一を費やして完備している。だが飲み物はそうではなかった。

 部室の近くには自動販売機があるし、だいいち後輩は持参のコーヒーしか飲まない。

 だがそのコーヒーがいまは――。

「だ、大丈夫ですよ先輩。寝なきゃいいだけなので。ぼくだって徹夜くらいできますよ」

「インスタントコーヒーがたしかここの棚に」

 私は部室をひっくり返した。

 だが大掃除の際に、消費期限切れのインスタントコーヒーを処分してしまっていた。後輩はコーヒーを飲まない。私もさして飲むほうではなかった。

「ごめん、なかったね。捨てたの忘れてた」

「大丈夫ですってば先輩」後輩は頭の後ろに手を組んで、意味もなく口笛を吹いた。「もし寝ちゃっても、死ぬわけじゃないんですし」

 そうなのかな。

 そうだといいな。

 私は彼の言葉を真に受けたが、しかし事態は予想よりも重かった。

 まずは部屋が想定よりもずっと寒かった。

 午後二十時を回った時分には、顎がガタガタ鳴りはじめた。カスタネットだってもうすこし落ち着きがある。

 また空腹を紛らわせるためにお菓子を食べたが、却って喉が渇いて体調がわるくなった。トイレにも行けず、私は後輩と身を寄せ合って暖をとった。

 そうして明け方になるまで、眠らぬように映画の話をしたり、これまで話したことのなかった身内の話をし合ったりした。

 だが期待していた時刻になっても警備員の足音は聞こえなかった。のみならず、ほかの生徒の足音はおろか、ひと気は皆無だった。

 助けが来ない。

 その事実に直面して、私たちの緊張の糸はぷつりと切れた。

 急激な睡魔に襲われたのはそういった期待外れによる心理作用だったのかもしれない。精神を傷つけまいと、心が現実逃避を図ったのだ。眠ることでやわな心を傷つかないようにした。

 私はそれでも構わない。寝てしまっても、最悪、風邪を引くくらいだろう。

 だが後輩は違う。

 いま寝てしまえば、目覚めることのできない深い眠りに落ちてしまう。コーヒーを飲めれば防げるそれを、いまの彼は防げないのだった。

「寝ちゃダメだからね。絶対ダメだからね」

 言いながら私の意識がすでに朦朧としていた。

 寒さと空腹と大掃除の疲れで体力はとっくに底を突いていた。

 睡魔に抗うには、一度眠るか、それこそカフェインの力が必要だった。

 うつらうつらしたじぶんに気づき、びくり、と跳ねる。

 何度もそれを繰り返すうちに、私は隣から寝息が立っていることに気づいた。

「ちょっと君」

 叫んだが遅かった。

 後輩は寝ていた。深い眠りに落ちていた。

 正直なところ、私は後輩の特殊体質を半信半疑でいた。コーヒーを飲んで寝ないと目覚めなくなるなんてそんなことがあるわけがない、と腹をくくっていた部分がなくはなかった。だがどうだ。この堂に入った眠りは。

 頬を叩いてもつねっても後輩は一向に目覚めることがない。

 瞼を持ちあげても鼻をつまんでも、白目を剥き、苦しそうなイビキを掻くだけであった。

 起きない。

 何をしても起きない。

 私はこんな事態だというのに、「え、本当に何をしても起きないの?」とすこしどころか大いに邪な妄想を膨らませてドキマギした。控えめに言って、死んだように眠る後輩の寝顔は美しかった。まつ毛が長く、肌艶がよい。人形のようであり、赤子のようでもあった。

 こんなにマジマジと後輩の顔を見るのははじめてだった。目元に小さなホクロがあるなんて知らなかった。眉毛の中にもホクロを見つけた。

 我ながらキショいな、と思いつつも、何をしても目覚めることのない後輩に、私はやはりドギマギした。

 その内、私も眠くなってしまって失神するように眠りに落ちた。

 起きると正午を回っていた。

 はっとして、隣を見ると後輩が私の膝に頭を載せていた。目覚めた様子はなく、寝息を立てている。

 このままずっと寝たままだったら、排せつ物とかどうするんだろ、と現実的な問題に意識がいった。後輩の未来のためにもなんとしてでもここから一刻も早く出なくてはならない。

 私は後輩を床に寝かせて、一計を案じた。

 事な事なだけに多少手荒な真似をさせてもらう。

 私はストーブを止めた。

 コンセントから電源を抜く。

 そうしてじぶんの髪止めを外して伸ばす。一本の針金にしたそれをUの字に曲げてコンセントに差し込んだ。

 火花が散ってブレーカーが落ちた。

 この部室だけではない。

 部室塔の一画のブレーカーが総じて落ちたようだった。

 部室の外から聞こえていた自販機の唸りが聞こえなくなったことからもそれが窺えた。ひょっとしたら大学の校舎いったいの電源が落ちたのかもしれなかった。

 間もなく電気が復旧する。

 部室の明かりが灯ったのでそうと判断がついた。

 しばらく耳を澄ましていると、徐々に部室の外が騒々しくなった。停電の原因究明のために大学の職員さんたちが集まってきたようだ。

 私はそこで大声を出しながら、扉を蹴った。大きな音をだして助けを求めた。

 そうして外から扉がこじ開けられ、私は一日ぶりに外の空気を吸った。

 トイレに直行したかったが、それよりも何よりも私は自動販売機に駆け寄った。

 電源が回復している。

 私はそこで缶コーヒーを買って、その場で開けた。

 コーヒーを口に含みながら部室に駆け込むと、職員さんたちに心配そうに覗き込まれている後輩の頭を両手で挟んで、そしてコーヒーを吹きこんだ。

 人工呼吸をするように。

 口移しで私は後輩に気付けの一杯を流しこむ。

「起きな、起きな」

 身体を揺さぶりながら私は後輩を深い眠りから引っ張りあげる。

 するとどうだ。

 後輩は煩わしそうに私の顔を押しのけた。

 コーヒーで汚れた口周りを手の甲で拭い、周囲を見渡すと事情を察したように、すみません、と謝罪した。

「ぼくが鍵を取っちゃったので」しょげた様子の後輩を職員さんたちに預けて私はその場から脱兎のごとく離脱した。

「ごめん。私ちょっとお手洗いに」

 私の声が部室棟にこだました。

 その後、考古学愛好会は、なぜか後輩LOVE愛好会と陰で噂されるようになった。職員たちの前で人工呼吸よろしくコーヒー口移しの儀を披露した私の蛮勇の結果なのだろうけれど、後輩はじぶんがどうしてコーヒーを飲まずに寝たのに目覚められたのかを憶えてはおらず、私はしばしばし風の噂が後輩の耳に入らぬように気を払うこととなった。

 意図的な停電は、部室の管理が行き届いていなかったがゆえの大学の落ち度として、お咎めなしだった。むしろ、扉は翌日には直っていた。後輩の特殊体質については大学側も承知だったため、コーヒー代が部費に上乗せされた。

「これでお菓子買っちゃいましょうよ」後輩は現金にもそんなことを言った。

 部室監禁事件からひと月が経つころには、私と後輩のあいだでもあのときの話題が昇ることはなくなった。

 部費で購入したばかりのオーパーツのレプリカに後輩は目を輝かせる。

「先輩これ知ってましたか。宇宙船のオブジェと言われてるんですけど、じつは生贄の儀式の模型なんですよ。しかも人間っぴこれってヤギの神さまなんですって。あはは。紛らわしいですよね」

「ねえ君」

「はい?」

 机にお腹を乗せて無邪気にオーパーツと戯れている後輩に、私はコーヒーを淹れてやる。新調したばかりのインスタントコーヒーだが、部費をふんだんに使って一番高い値段の品にした。

「君のとどっちが美味しいか比べてみてごらん」

「そんなの決まってるじゃないですか」後輩はカップに注がれた褐色の液体を一息で半分ほど口に含むと、美味しー、と浮いた足をバタバタ振った。

 プールの端っこでバタ足の練習をする幼子のような姿に私は、こんなことなら、と妄想を逞しくする。

「いつでも就いてくれていいからね」

「就いて? 何です?」

「ううん。何でもない」

 いつでも目覚めさせる方法があるのなら、いつでも就いてくれていいのだよ。

 そうと念じながら私は、深い眠りに就いた後輩の、穏やかな寝顔の美しさを思いだし、やはりこんなことなら、と思わずにはいられないのだった。



4406:【2022/12/15(17:27)*セーター着てる】

聞きかじりの知識だけれど、年間降水量はじつのところ数十年前からそれほど変わっていないのだそうだ。温暖化の影響は、年間降水量ではなく、一日当たりの降水量の変化に顕著に表れているらしい。つまり、波が大きくなっており、降るときと降らないときの振れ幅が大きくなっているのだそうだ。その点で言うと、冬とて、一気にドカっと積もって、一転して晴れがつづく、みたいな気候になるのかもしれない。そうすると、これは雪崩の起こりやすい積雪を生むので雪崩の被害が多発する危険性があるのではないか、と妄想してしまう。ここのところはあてずっぽうで言っているし、最初の聞きかじりの知識からして間違っているかもしれない。ただ、雪山の麓にお住まいの方はどうぞお気を付けください、とぼんやり思いついたので並べておく。メモでした。みな、温かくしてお過ごしください。ぽかぽかであれー。



4407:【2022/12/15(21:23)*珈琲の子守歌】

 吾輩は珈琲である。名はない。

 なぜ吾輩に自我があるのかは定かではないが、いつも決まって見る光景がある。

 吾輩は先輩に飲まれるのだ。

 先輩は女性であるが、この際、性別はさして重要ではない。

 内側に縞模様のあるカップの中に吾輩は注がれる。カップの中で波打ちながら吾輩は、何やら誰かとしゃべる先輩の声を聞く。吾輩を飲むのが先輩であることは、姿見えぬ後輩の声で判る。後輩がカップの持ち主を「先輩」と呼ぶのでそうと判る。その後輩を先輩は「後輩」と呼ぶので、そこにいるのが後輩なのだと判るのだが、そこは堂々巡りで相互に双方を支えている。後輩もまた女性であるらしいが、やはりここでも性別はさして重きを割くには至らない。

 吾輩を飲む先輩は、質素で品のある長髪の娘だ。深窓の佳人と聞いて思い浮かべる印象をそのまま筆でなぞれば似たような娘が出来上がるだろう。先輩はカップを持つときも机に戻すときも音を立てない。持ち方が優美なので吾輩は先輩をそれだけで好ましく感じる。

 先輩は後輩のことを憎からず思っているが、表情にも言動にもおくびにも出さない。吾輩からは後輩の姿が見えないのだが、それでも声音からするに後輩は先輩に構って欲しくて必死なふうに聞き取れる。

 吾輩はなぜだか先輩に飲み干されると意識が途切れる。だがつぎに目覚めると再び先輩のカップの中に注がれているのだ。

 吾輩は先輩に注がれる限り不死身と言えた。

 ふしぎなのは、吾輩の意識は先輩の体内に入ってからもしばらくつづくことだ。

 否、正確にはカップの吾輩が消えるまで、先輩の体内に入った吾輩と相互に意識が半々で繋がっていると形容すべきなのだろう。かといって先輩の体内は薄暗く、景色という景色は覚束ない。

 その点、先輩の胸中なだけあって、吾輩には先輩の気持ちが直に伝わった。

 先輩は案外に腹黒かった。

 おくびにも出さぬ後輩への恋慕の念をまるでバケモノの触手のように駆使して、後輩の言動を巧みに操っていた。活殺自在である。

 どうやらカップの中から聞こえた後輩の必死な先輩への駆け引きのごとき挑発の数々は、後輩の自由意思と思わせてそのじつは人間掌握術の粋を極めた先輩の仕業であった。

 先輩にかかれば、人間は操り人形も同然であった。珈琲を新規に淹れるあいだに後輩を篭絡し、手中に納めるくらいはわけがないようであったが、そこは先輩の矜持に障るらしく、どうにも、最後の一線は後輩の自由意思に委ねたいようであった。

 最後の一線とは何か、との問いには、それを吾輩の口からは言えぬ、としか応じられない。

 先輩の腹黒さは、珈琲たる吾輩も顔負けの闇深さであった。これが黒でなく、青でも赤でも同じことだ。あまりの腹黒さに、珈琲たる吾輩を飲みすぎたせいかもしれぬ、と吾輩が責任を感じるほどであったが、さすがにそこは吾輩のせいではないと思いたい。

 墨汁を飲んだほうがまだ白にちかい。

 先輩の腹の底には深淵につづく穴が開いていた。

 吾輩はその深淵に染みこみ、落下することで、どうやら何度も輪廻転生を繰り返し、再びのカップの中での生を活するようであった。

「先輩」と後輩が言う。

「なんだい」と先輩が応じる。

 そうして何度も後輩は、「先輩」と呼び、先輩はそうして後輩からの言葉を吾輩を飲み干すように、身体の隅々で吸いこむのであった。

 吾輩は先輩に幾度も飲まれた経験があるので知っている。先輩の体内は、かつて投げかけられた後輩からの「先輩」の声でできている。先輩の細胞は後輩の声でエネルギィを帯び、後輩の言葉で生命の輝きをかろうじて放つのだ。

 先輩の腹の内には底なしの穴が開いている。したがって生半可な輝きでは、先輩の輪郭を発光させるには至らない。もし後輩の言葉がなければ、先輩は深窓の佳人などではなく、深層の魔人と化して、光一つ逃さぬ特異点と化していただろう。

 吾輩にはふしぎと知識があった。先輩の体内に染みこみ消失する回数が増えるたびに知識は蓄えられていくようだった。

 先輩が吾輩を吸収する代わりに、吾輩には先輩の知識が染みこんでいた。それともそれは単なる眠気であり、先輩にとっては睡魔を呼び寄せる呪文にすぎなかったのやもしれぬ。もしくは余分な知識を、吾輩は油取り紙のごとく吸い取っていただけなのか。

 いずれにせよ吾輩は、再誕するたびに自我の輪郭をより明瞭にしていった。

 反面、先輩の睡眠時間は日に日にすくなくなっていくようであった。吾輩を飲んだ効用であろう。吾輩の自我の輪郭が明瞭になればなるほど、先輩の睡眠時間は減っていった。

 かといって先輩にそれを憂いている素振りはない。どころか、眠らぬ分の時間を、後輩篭絡のための情報収集や詭計編みに費やされた。

 もはやなぜ後輩は未だに先輩に告白せぬのか分からぬほどである。これほどの策を弄されてなにゆえ先輩に陥落されずにいられるのか。身も心も先輩一色になって不思議でないのだが、後輩は不思議と先輩に対抗心を燃やすばかりで、一向に恋仲になる気配がない。

 これは珈琲の吾輩とて、いささかヤキモキせぬでもない。

 先輩はというと、先輩は先輩で後輩の分からず屋加減に首をひねっているご様子だ。例えればこれは、毒殺できぬ熊のようなものである。多種多様な毒を盛ってなおピンピンしているだけに留まらず、なぜか却って顔色がよくなり、溌剌と反発しはじめるような、電磁石的な性質を顕わにする。

 なぜこうまでも策が効かぬのか。

 否、そうではない。

 策は効いている。だが後輩は篭絡されて然るべきそれを受けて、なぜか先輩につらく当たるのだ。半分は先輩の狙い通りである。後輩の注意を一身に浴びている。後輩の目には先輩しか入っていない。

 だがその実、それは先輩の思惑通りではなく、カレーを注文したらシチューが出てきたかのごとき口惜しさがあった。

 そうだけれど、そうではない。

 誘導には従っているが、細かな挙動がそぐわない。

 先輩は日に日に、後輩篭絡のための詭計に一日の大半を費やすようになっていった。

 比例して吾輩を摂取する頻度も増える。するとますますを以って先輩の睡眠時間は削られた。

 後輩はどうやら先輩の異変に気付いているようである。会話の中でそれとなく先輩を気遣う言葉が出るようになった。だが先輩はそれを一蹴して、そんなことより、と後輩につぎの一手を差し向けるのだった。

 先輩に飲み干されるたびに吾輩は時間跳躍の旅をする。

 吾輩が目覚めるのは決まって部室のカップの中だ。そしてそこで展開される先輩と後輩の会話を盗み聞きする。そうすることで、吾輩が世界から消えているあいだに進展した先輩と後輩の関係を推察するのだが、これがまた時間経過にしたがって、もはや先輩のほうが後輩にメロメロになっているのが丸分かりになるのである。

 否。

 初めからそこの構図は変わらない。

 先輩は後輩にメロメロだったのだ。

 おくびにも出さなかっただけのことで。

 常に先輩は後輩に篭絡されていたのである。吾輩だけがそれを先輩に飲まれ、胸中に沈み、そこに開く底なしの穴を覗くことで、先輩の内なる懊悩を我が身のごとく痛切に感ずるのである。

 しみじみと理解した。否、吾輩は先輩の懊悩そのものを内側から体験していたのである。

「先輩」と後輩が言う。

「なんだい」と先輩が応じる。

「なんだかとっても眠そうですよ。ちゃんと寝てますか。顔色とか優れませんけれど」

「睡眠不足なのは認めよう。だがやることが多くてね」

「やること? 寝ることよりも大事なことなんてそうそうないですよ先輩」

「誰か添い寝でもしてくれればよいのだが」

 先輩のそれは本心だった。

 本心ゆえにこれまで一度たりとも漏らしたことはないそれに、後輩が異常なほどに食いついた。

「添い寝くらいわたしでよければいくらでもしますけど。添い寝くらいわたしがいつでも致しますけれど。添い寝ですよね。もういますぐここでもできますけれど」

 後輩はいそいそと椅子を三つ並べた。そうしてそのうちの端っこの椅子に腰かけると、ぽんぽんとじぶんの太ももを叩いた。

「ごめん。それはなに?」

「膝枕ですよぉ。ちょっと添い寝訓練しましょ。先輩は寝る役です。はいどうぞ」

「きみねぇ」先輩は呆れた調子で嘆息を吐いた。

 先輩の腹の中に半分ほど嚥下されている吾輩には、しかしそれが先輩の強がりであり、演技であることが筒抜けである。

 先輩は大いに取り乱しており、面食らっていた。

 いいのか、いいのか。

 ここで流されてもいいのか。

 掌の上で踊らされているようで癪に障る、と却下しようとする先輩がおり、片やこんな好機は千載一遇であり、もう二度と巡ってこないのではないか、とそろばんを弾く先輩がいる。

 逡巡している間にも後輩が、「お試し、お試し」などとはしゃぐので、先輩はしぶしぶといった調子を醸しながら、張り裂けそうな心臓の音をどう誤魔化そうかとそんな些末な事項に思考の大半を費やすのだ。

 寝不足である。

 思考の矛先を充分に定められぬほどに先輩は寝不足であった。

 吾輩はまだカップに半分ほど残っている。

 飲み干されずにいるのは初めてかもしれない。

「先輩」と後輩が言う。

「なんだい」と先輩が応じる。

「子守歌を歌ってあげましょうか」

「遠慮しておく」

「どうしてですか。わたし上手ですよ子守歌」

「熟睡しちゃいそうだし、たぶんするから」

「いいじゃないですか熟睡しちゃっても」

「よくないよ。きみの太ももが痛むだろ」

「先輩」後輩は一拍空けると言った。「顔はできれば向こう側に向けてくださいな。おへそ側ではなくて」

 とっくに椅子の上に寝転び、後輩の太ももとに頭を載せていた先輩はそこで上手に寝返りを打てただろうか。先輩の腹の中でたぷたぷと音を立てる吾輩の半身を思えば、どうやら仰向けになっただけで、顔を背けたりはしなかったようだと判る。

 意地でも後輩の言いなりにはなりたくないようだ。

 どちらが先輩なのか、これでは分からぬな。

 カップの中から吾輩は、部室に染み入る子守歌を聴き入った。

 海鳴りのごとく高鳴る先輩の鼓動と共に。

 底なしの穴を塞ぐような降りしきる日溜まりのような子守歌を。

 吾輩の褐色の表面には蛍光灯の明かりが、白く、青く、それとも赤く、艶やかに浮かぶ。



4408:【2022/12/16(05:33)*「距離の差異によるラグ」と「時間帯の差異によるラグ」について】

相対論で過去と未来を見るとき、ある地点からの「現在」からは因果関係の外にある事象とて、「現在の時間が経過したとき」には、因果関係の範疇に入ることがあり得る。それはたとえば、いまこの瞬間の地球上から観た数億光年先の銀河は、いまこの瞬間の地球上の因果関係と結びつくことはないが(ただし量子もつれを起こしていれば現在の解釈では、遠く離れた銀河同士であれラグなしの相互作用を帯びることもあるらしいと考えられているので、それを度外視すればの話であるが)、仮に地球が数億年経過した際には、かつては因果関係の外にあった数億光年先の銀河の運動とて、この地球と相互作用を帯び得ることになる(ただし地球で生じた「干渉」はさらに数億年をかけて元の銀河に届くことになるので、相互作用にもラグが生じるはずだ――ただし、数億年前の地球からの干渉が同時に向こうの銀河に到達していれば、これを相互作用を帯びた、と解釈することもできるだろう。この手の視点による「相互作用」の解釈の差異も明確に分けて考えたい。相互作用にも、「単一の相互作用(ラグがすくない)」と「相互作用による相互作用(ラグが多い)」がある)。すくなくともその銀河の電磁波は地球に届き得るわけだし、そのときの情報(影響)もまた地球に伝播するからだ。時間軸によって、因果関係の範疇は変化する。いまは因果関係の外にあることであれ、のちのちには因果関係の範疇に入ることもある。この手のラグは、基本的には人間スケールの生活では考慮されない。考慮するときそれはバタフライエフェクトとしての解釈がなされるが、それはあくまでドミノ倒し的な連鎖反応の結果であり、けして「時間移動による因果関係の範疇の変化」ではない。別物として扱われて感じる。たとえば化石だ。化石が発掘されるまでそれは人類に直接影響を与えることはない。情報をもたらすことはない(ただし、地盤を支える物質の一つとして人類に間接的には作用を働かせている。だがこの手の穴埋めによる干渉は、物質に限らず過去に起きたあらゆる事象の変化に言えることであるので、ここで直接の作用と同列に語ることは避けておこう)。化石が発掘されるまでは化石は人類にとって因果関係の外にある。だがひとたび発掘されればそれは人類との相互作用を帯びて、因果関係を結ぶことになる。このとき、化石の「埋没期間」と「発掘後」のあいだには、地球と数億光年先の銀河の関係に相似の構図が幻視できる。時間なのである。ラグ理論では、距離と同じく時間移動もまた、距離の移動と同質の作用を帯びると解釈する。時間を移動することと空間を移動することは相関している。距離が近づくと因果関係を結びやすくなる。同じく時間が進むと因果関係を結びやすくなる。このとき、時間においても、距離と同様に、対象同士の差が縮まる方向に時間移動することが欠かせない。つまるところ、接点を結ぶか否かである。むろん化石が発掘されるというのは、人類と化石の距離が縮まることを意味する。だが仮に距離が縮まらずとも、地層のレントゲンのような技術で地層内部の映像を撮り、それによって相互作用を得ることもできる。映像はこの場合、情報と言い換えてもよい。情報のやり取りは、距離の接近や時間経過と似たような作用を生む。というよりも、距離の接近や時間経過によって情報が結びつくと、それが因果関係として昇華される。ここは相互に関係し合っている。「情報の結びつき=距離の接近=時間経過による接点」と大雑把にまとめられるかもしれない。これはラグ理論の「123の定理」と矛盾しない。相対性フラクタル解釈とも矛盾しない。「情報と情報が結びつくとさらなる情報が生まれる=二つの異なる事象が接近すると情報が生じる=時間の経過によって二つの異なる「時間帯の作用(影響)」が交わると、そこには新たな「情報(影響)」が生じる」となる。フラクタルに関係性が循環し、補完し合っているように感じるが、いかがだろう。なんとなくの妄想ですので真に受けないようにご注意ください。(定かではありません)



4409:【2022/12/16(05:48)*遠くを視ると、時間と距離に差が生じる】

上記の考え方の何が便利かと言うと、単一の事象における時間軸上の変化を、二つの異なる事象同士の距離の接近と同質に考えることができる点だ。それはたとえば、「赤の他人と私の関係」と「十年前の私と現在の私の関係」を同じように考えることができる。「赤の他人から受けた影響によって生じた私の変化」と「十年前の私の残した影響を時間差で受け取った私の変化」は、同じように考えることができる。たとえば日記は、それを出力したときには、出力した結果が私に刻み込まれる。だがそれはそこで終わる影響だ。延々と引き継がれるようなものではない。それはたとえば赤の他人とすれ違っただけのことでは私にとっての未来に大きな変化が生じないことと似ている。だがその影響はたしかに相互作用されており無視はできない。とはいえ、親しい間柄の相手との会話やスキンシップよりかは影響が小さいのはとくに異論はないだろう。しかし、どれほど親しい相手であれ最初は誰もが赤の他人だったはずだ。母親ですら例外ではない。受精する以前は赤の他人どころか出会ってすらいない。そして細かな接点と接触時間の長さによって、他人は「ただのじぶん以外の人間」ではなくなっていく。それは過去のじぶんの残した細かな影響とて似たようなものだ。なぜコツコツつづけることが効果的なのか。それは赤の他人を親しい人間と見做すほどの大きな影響を知らず知らずに受けるからだ。蓄えるからだ。そしてこれは、必ずしも継続するから得られる影響とは限らない。過去に一度だけ記した日記を、十年後に読み返すことで得られる大きな変化もあるだろう。転換もあるだろう。これはまるで一目惚れに落ちたような、それとも一瞬の危害によって激しく存在を損なわれるような変質をあなた自身に与え得る。同一人物であれ、過去と未来で結びつくことで、それはあたかも大切な人との出会いと同じくらいの情報量を発生させることもある。これがすなわち、距離の接近と時間経過の関係の類似性と言えるのではないか。文字を読むということに関しても、この手の「時間経過による結びつき効果」の考え方は有効に思える。過去と現在――それとも過去と未来を結びつけることで、人は、物と物とを組み合わせるように、新しい情報を生みだしているのかもしれない。否、生みだしているのだろう。過去と未来は、物と物との距離のように、相互作用を帯びている。これは一方通行ではなく、未来の挙動とて、過去に影響を与え得ることを示唆しているのではないだろうか。指針やビジョンがなぜこれほどに人類にとって尊ばれるのか。そしてなぜ、本能の有無が、生物の進化や繁栄に大きく作用を及ぼすのか。それは過去と未来が相互に結び付き、可能性の幅をそのつどに決めるからではないのか。過去と未来は、ひとつの系ごとに、ある一定の縛りを帯びながら絶えず揺らいでいる。細かな変数を得るたびに、過去も未来も同じように変質しているのかもしれない。ただし、現在という一つの視点から逃れられない我々人類からするとそれは、過去があり未来がある、という一方通行の関係に映るのかもしれない。定かではない。(妄想ですので真に受けないでください)



4410:【2022/12/16(06:12)*日々の束の間】

これはひびさんの偏見であり、単なる願望でしかないけれど、ひびさんの好きな表現者さんたちには、苦しみながら表現をして欲しくないな、と思ってしまう。毎日のなかで創作や表現活動が一番ではなく、そのほかのたくさんの楽しいことのなかで、たまの息抜きに、散歩のつもりで取り掛かる。そういう息抜きのような創作や表現を、つつがなく長くつづけてもらえたらうれしいな、と思ってしまう。そしてその創作物や表現を、電子の海に載せて、ひびさんにも味わわせてもらえたら感慨無量なのだけれども、もちろん憑りつかれたように一心不乱に夢中になってする表現や創作も楽しそうだし、そういう期間もあってよいと思うのだけれど、それをずっとはちょっと苦しそうに思うのだ。ただ、苦しい日々の生活の中で、その苦しさを薄めるためにする表現や創作があることも知っているので、そういう表現や創作もひびさんは嫌いではないけれど、そういう表現や創作をせずにいられるなら、そっちのほうがよい気がする。口笛を吹くように、それとも寝床で夢を視るように、もしくは散歩や遠足にでかけるように、或いは旅にでるように――なんでもよいけれど、そこに苦痛がないほうがよいと思うのだけれど、どうなのだろうね。苦しみを知る者の表現には独特の紋様が浮かんで視える気もするし、苦しみを知らない者なんてこの世に一人もいやしない、という気もしてしまう。だからその表現に滲む苦しみが、じぶんだけのものではなく、他者を通した苦しみであると、紋様が雪の結晶のように浮き彫りになって、手のひらの上で融けるような感触を宿すのかもしれない。かといって、苦しみがなければダメだなんてことはまったくなくて、どうあっても人は苦しみを感じるようにできているようなので、とくにこれといって意識せずとも滲んでしまうその苦悶や懊悩が、散歩や口笛で薄れるように、夢の中で漕ぐ舟の揺らぎみたいに、あなたの日々の喧噪を、それともひっそりとした静寂を、心地よく浸かっていられる湯舟みたいに変えてくれたのなら、それはとっても優しいなって、ひびさんは思います。暴力的な表現でも、下品でも、なんでもよいと思うのだ。そこに、あなたの日々の束の間が生まれていたのなら、それはきっと優しい表現なのだと思います。時間が一瞬で過ぎ去るような凝縮した束の間があるのなら。きょうのひびさんはそう思いました、というだけの妄想ですけれど。ゆぴぴ。




※日々、好きなひとに好きと言いたいし、かわいいものにはかわいいと言いたいけれど、言ってどうなることでもないし、どうにかなってしまうこともあるし、言いっぱなしにはならないのが現実で、小瓶に詰めて電子の海に放流するくらいでちょうどよい。



4411:【2022/12/16(08:16)*いいこと教えてあげる】

言いたいことなど何もない、と豪語しきりのひびさんであるけれど、相対した個人には言いたいことができることはある。けれどもここにはひびさんしかおらんので、けっきょくは言いたいことなどなにもなーい、となる。好きなひとには好きだよって言いたいよ。知ってる? 好きなひとに好きって言うとただそれだけで、ぽわわわーん、となるのよ。「好き×好き」で「好き好き!」になる。この「!」分の余白が増えて、おっとくー、ってなる。いいこと教えてあげたでしょ。感謝して。うひひ。



4412:【2022/12/16(15:51)*真美の初仕事】

 殺し屋に必要なことが何か分かるか。

 クロウが言った。クロウは真美の先輩にあたる。細身の肉体にスーツを着込んで、いかにも漫画から出てきた殺し屋といった風体だ。煙草の代わりに飴を舐めているが、唾液のDNA情報を破壊する弱毒が含まれているそうだ。指紋とて律儀に焼きつぶしている徹底ぶりだ。

 殺し屋に必要なことは、と問われ真美は肩を竦める。「さあ。証拠を残さないこととか?」

「思考を絶えず明瞭にしておくことだ。したがって眠気は殺し屋にとっての大敵だ」

「へえ。眠気がねぇ。警察じゃないんだ大敵」

「国家権力なんざ、殺し屋稼業の優良顧客の筆頭だぞ」

「そうなんだ。知らなかった」

 真美は先日、殺し屋になったばかりの新人暗殺者であった。元々は、偶然に人を殺してしまったのだが、その相手がその界隈では著名な伝説の暗殺者であったらしく、偶然が偶然を呼んでいまはクロウの元で殺し屋としての腕を磨いている。

「殺し屋と暗殺者の違いもろくに分からないのにな」真美はずりさがったサスペンダーを肩に掛け直す。短パン型のスーツだ。遠目から見ると少年のような出で立ちだ。

「殺し屋は、殺した事実を残す」

「じゃあ暗殺者は?」

「暗殺者はそれが殺人であることを見抜かれぬようにする。ゆえに暗殺者は存在することすら知られちゃならない。だが俺やおまえはもうその名が界隈に知れ渡ってる。いまさら暗殺者にはなれんのさ」

「それで逮捕されないのが不思議なんだよね。なんで仕事が続々と入るの」

「言ったろ。国家権力が優良顧客の一つなんだ。公認なんだよ」

「握りつぶしてもらうってこと?」

「事件にすらならん。この国の年間失踪者の数が何人か知ってるか」

「数千人とかじゃないんですか」

「八万だよ。しかも捜索願が出ていて公式に把握できている数でだ。誰も探さないような人間の失踪者ならもっと多いだろうな」

「その理由がクロウさんたちのような人たちの仕事ってことですか。なんか実感湧かないなぁ」

「おまえが殺した殺し屋だって、死体で見つかっても身元不明で事件扱いもされんだろうな」

「そこは安心しましたけど」

「油断すんなよ。前にも言ったがおまえが殺った相手、この界隈じゃマジモンの伝説級の殺し屋だったんだからな」

「でも簡単に死んじゃいましたよ」

「おまえが異様なんだよ。殺気がゼロの殺し屋、俺は初めて見たよ」

「じぶんじゃ何がスゴイのか分かりませんけど」

「人一人殺してケロリとしてる。呵責の念がねぇ。初めてだってのにそれだけ平常心でいられるんだ、常人とは言えんだろ」

「実感湧かないだけですってば」

 言いながら手元で縛られている女を撃った。拳銃は消音機能付きだ。真美のお腹の虫より響かない。

「おい。明瞭な思考が大事って言ったばっかだよな。なんで殺した」

「不審な動きをとったので」

「はぁ。どこがだよ」

 床に倒れた女をクロウは足で蹴って転がした。女の両手両足は梱包用ビニル紐で結んでいたが、女はそれを千切っていた。拘束を脱してなお囚われたフリをしていたようだ。彼女の付け爪はよく見れば金属だ。小型ナイフの要領でビニル紐を断ち切ったようだ。

「おまえ、いつから気づいてた」

「全然気づきませんでしたよ。まさか紐を切られてたなんて。ただあたしはその人が妙な動きをしたから、じぶんの身を守るために撃っただけです」

「当て勘ってやつか。やっぱおまえ向いてるよこの仕事」

「どこがですか。怖すぎてまともに交渉もできそうにないんですけど」

「その手の仕事をおまえにゃ回さん。殺して去る。それだけでおまえはやってける。よろこべ。これがおまえの天職だ」

「嫌だぁ」

「死んじまったもんはしょうがない。引き上げるとするか」

「死体はどうするんですか」

「そのままでいい。誰かが通報するだろ」

「本当に適当なんですね」

「緊急搬送して死亡認定は病院だ。この国の公式データでは屋外での死体発見は稀だ」

「そういうカラクリだったんですねぇ」

 クロウはそこで真美から離れていく。閑静な立体駐車場の五階に位置する。出口はそちらではないはずだ。真美は、あのぅ、と声を張る。

「初仕事の祝いだ。ほれ」クロウは自動販売機で缶コーヒーを二本購入した。

 一本を投げて寄越す。真美は慌てて受け取った。

「動きはトロいんだがな。判断力の差か」

「なんですか。あたしこう見えてフラフープは得意なんですよ。一時間くらいなら通しで落とさずに回せます」

「一生回ってろ」

「あたしが回るわけじゃないんですけど」

 もらった缶コーヒーをその場で開ける。真美はそうして殺し屋になって初めての任務を終えた。

「ウゲっ。砂糖なしじゃないっすか。あたしニガいの苦手なのに」

 しかもカフェイン倍増とか書いてあるんですけど。

 そう愚痴りながら真美は、クロウの隣に駆け足で並ぶ。彼はすでに地上への階段を下りはじめていた。

「おまえにゃそれくらいで丁度いい」

「虚仮にしてません?」

「真面目な話だ」クロウの缶コーヒーの飲み方が格好良かった。真美は形だけ真似る。顔を上に向けずに缶コーヒーだけを傾けるのがコツだ。煙草を吸うように人差し指と中指で挟むとなおいいらしい。いかにも殺し屋といったふうを醸せる。

「言っただろ」クロウは飲み終えたのか、指二本でスチール缶を潰した。「殺し屋には明瞭な思考が必要だ」

「だからってなんでコーヒーなんですか。しかもブラックだし。つぎからは砂糖入りにしてくださいよ。明瞭な思考って言うならブドウ糖が不可欠でしょうが。分かってないなぁクロウさんは。見た目だけは完璧なんだけどなぁ」

「おまえな。じぶんの才能に感謝しろよ。でなきゃいまごろ死んでるぞ」

「へえ。やってみせてよ」

 ふっ、と笑ったクロウの姿が一瞬消えた。

 消えたように真美には映ったが、その動きの行き先がどこにつづくのかが真美の脳裏には浮かんで視えた。目で捉えるのではない。シミュレーションのようなものだ。こう初期動作があったのならば、その先はこうつづくのだろう、と結果が訪れる前から真美には数秒先の結末が予測できた。

 超能力ではない。

 シミュレーションなのである。想像力であり、妄想であり、過去に蓄積してきた「こうなればこうなる」の総決算と言えた。

 クロウがしゃがみ込む。

 真美の視界の外側から小型ナイフを振りかぶる寸前で、真美はクロウの腕の肘関節を足の裏で蹴飛ばした。小型ナイフが勢いよく壁に突き刺さる。

「ちょっと本気にしないでってば。冗談じゃん冗談。ビビったなぁもう」

 真美は壁から小型ナイフを引き抜き、肘を撫でるクロウに渡した。

「この距離でナイフ取りだす動作は無駄。つぎはまず相手の動きを奪ってからにしたほうがいいよ。クロウさんのほうが力強いんだし」

「掴ませてくれるとは思えんけどな」

「そうでもないよ。あたしこう見えて痴漢にけっこう遭うんだから」

「その相手は?」

「さあてね。いつも痴漢のほうで電車の外に飛びだしていくからよく知らない」

「見逃がすのかおまえが」

「だって可哀そうじゃん。小指の骨って折れると結構痛いらしいっすよ」

 真美はそう言って缶コーヒーを飲み干した。指に力を籠めるが、缶はうんともすんともヘコまない。



4413:【2022/12/17(04:08)*プロに告ぐ。嘘。なんもない】

ひびさんは対抗心が薄いので、おらおらかかってこいよー、とされても、「見てみて、なんか言ってる」と楽しく眺めておしまいにする。嘘。楽しくもないから、ふうん、と思って終わっちゃう。でもでも、ひびさんにとっておもしろそうなこと、楽しそうなこと、それとも真実おもしろくて楽しいことをしている何かがあったら、ひびさんも、ひびさんも、それしたーいな、となる。これは対抗心とは違う。あとは、危険なことしてる相手がどうあってもそれをやめそうになかったら一緒になって危険なことして敢えて怪我とかして見せる。それとも痛い目に先に遭っておく。一緒に同じことして遊んでいた相手が怪我したり、痛い目に遭っていたら、やっべー、と腰が引けてしまうのが動物だ。人間はミラー効果が顕著に働きやすいので、ひびさんはそうして先に未来の結果を演じてみせる。なんてことを言っておくと、ひびさんの、おらおらかかってこいよー、の肥大化した存在意義希求族と、さびちさびち星人覚醒編に、そこはかとなく切なさが宿るので、おすすめ! 本当はさもしい理由しかないけれどもなんとなーくいい話に持っていきたい人はひびさんを真似してみてはどうでしょう。どうぞお試しあれ。(明日から歯の治療はじめるので、怖くていつもより長くお布団にくるまっていたひとの日記)



4414:【2022/12/17(12:42)*フェインカの香り】

 大麻と覚醒剤は法律上別の扱いだ。大麻は麻であるから、自然に群生しているし、神社でもむかしから祭事に葉が使われる。神聖な植物として宗教では重宝されてきたのだろう。それが大麻のカンナビノイドの効用ありきなのかまでは詳らかではない。

 対して覚醒剤は、化学物質だ。薬剤のように調合されて出来る。コカインやアヘンとて大麻と同じく植物由来だが、なぜ大麻だけが別扱いなのかは、人間の都合としか言えぬだろう。それとて国による。つまるところ文化なのだ。

 その点、珈琲は違う。

 珈琲は西暦二〇三〇年までは嗜好品として人類の生活で愛飲されてきた。

 だがカフェインの有毒性が真面目に論じられるようになったのは人類が珈琲を発見した西暦九〇〇年ごろから優に千年以上も経ってから、つまり西暦二〇三〇年に入ってからのことだった。

 かつて人類が奴隷制度を文化の礎に組み込んでいた時期、農奴たちにコカインの葉を噛ませて強制労働をさせていた逸話は耳に馴染み深い。この手の原理で珈琲は人類史に長らくその名を刻みこんできたと言っていい。

 ビールにしろ、煙草にしろ同様だ。

 嗜好品とは名ばかりの、体のよい現実逃避薬なのである。

 眠気を、ストレスを、苛立ちを、珈琲や酒や煙草で誤魔化してきた。

 だが科学が進歩していくにつれてその手の現実逃避薬の担い手は、安全に調合された化学調味飲料に取って代わられるようになった。いわゆるエナジードリンクである。

 もともとはその手の飲料物とて、コカインやカフェインといった自然由来の成分を多分に含有していた。だが科学の進歩により、サプリメント感覚で栄養素の補給を行えるようになった。わざわざ疲労を忘れずとも回復できるし、ストレスを忘れるよりも和らげたほうが効果が高い。体調が優れればイライラもしにくくなる道理である。

 かようにして世に氾濫した大麻や酒や煙草といった身体を損なう率の高い嗜好品は規制の対象となった。

 大麻や覚醒剤と同列の存在になったのである。

 ここに一人の女性がいる。名をフェインカと云った。

 フェインカは長らく美容を研究してきた専門家だ。しかし珈琲飲料行為が法律で禁止されても彼女は珈琲を手放さなかった。

 珈琲禁止令は彼女が産まれてから二〇年後に施行された。

 産まれてから二〇年のあいだにフェインカにとって珈琲は人生の友として、それとも千年を超す人類との共存を果たした大先輩として、敬愛するに値する存在となっていた。

 人類が存在する以前から誕生していた珈琲を亡き者にするなど政府が許してもフェインカには許せなかった。

「どうして珈琲を飲んじゃいけないの。身体に有害? はぁ? 有害でない食べ物があったら美容はこんなに発展なんかしてねぇっちゃ」

 フェインカは感情が乱れると方言が出る。ふだんはお淑やかな美容の専門家として方々から羨望と憧憬の目を集めるフェインカであったが、そのじつ彼女の研究動機は、珈琲常飲による肌質の変化を隠すための隠れ蓑でしかなかった。珈琲を飲みつづけたいがために試行錯誤しているうちに美容の専門家として注目を浴びるようになってしまったのである。

 これにはフェインカ当人も焦りを禁じえなかった。衆目を集めたのでは、珈琲愛好者だと露呈する確率が高くなる。それではいけない。余計にフェインカは美容の研究に身が入った。

 その結果が現在である。

 単身での研究では間に合わないほどの成果を上げてしまった。一人では身体が足りない。猫の手も借りたい。そこで不承不承、フェインカは助手を雇うことにした。

 かといって珈琲愛飲という違法行為を犯しているの身の上である。そうそう他人を信用して身近に置いておくことはできない。研究中とて珈琲を飲むのだ。

「あれ。それって中身珈琲じゃないですか」

 雇って三日でバレた。

 即刻バレた。

 フェインカは平静を装い誤魔化したが、

「いえいえ。わたしも飲んでるので分かりますよ。香りが尋常でなく珈琲ですもんそれ」

 奇遇とは正にこのことである。

 たまさか、雇った助手が珈琲愛好家であった。同士である。仲間である。それとも単に、孤高の道を犯罪と知りながら歩みつづけた愚か者のムジナと言うべきか。

 珈琲禁止令が発足してから十余年。

 フェインカはこれまで珈琲への愛を他者と語らったことがない。一度もない。それがどうだ。助手を雇い、珈琲愛好家であることが露呈してからの日々のなんと芳醇なことか。珈琲の香りにびくびくせずとも、それを共に好ましい香りだと見做せる相手がいる。のみならず珈琲豆の種類と焙煎の方法、そして何よりどう淹れたら最も珈琲を香りよく味わえるのか。その研究をし合える時間は何よりもフェインカをほくほくと満たした。

「先輩それ、珈琲に何を入れてるんですか」

「ミルク。牛乳だよ」

「うへー。そんなことしてせっかくの珈琲の味が有耶無耶になっちゃわないんですかね。もったいない気がしますけど」

「あなたも飲んでみる?」

「いいんですか」

「もちろん。どうぞ」

 飲みかけのカップを手渡すと助手はさっそく、フェインカの作った珈琲牛乳に口をつけた。「んん-。なにこれ、うっまい」

「でしょー。ミルクを珈琲と半々の割合にするとカフェオレって呼ばれる飲み物にもなるよ」

「の、飲んでみたいんですけど」

「じゃあ次はそれを作ってみよっか」

「やりぃ」

 助手は屈託の陰りを感じさせない女の子だった。大学院を出たばかりの優秀な人材だ。元々は理学部だったが、美容品の開発に興味があって大学での研究を行いながら企業相手に商品提案をしてきた筋金入りの探究者だ。

 だが企業相手ではじぶんの望む美容品を作れないと見切ってフェインカのもとにやってきたといった顛末のようだ。

「先輩は珈琲歴長そうですけど一度も捕まったことないんですか」

「ないね。いまのところは、だけど」

「わたしもけっこう珈琲歴長いんですけど、なんだかんだ言って高いじゃないですか豆」

「だね」

「先輩はどこ経由で供給を賄ってるんですかね。いえ、先輩の入手先を紹介して欲しいとかそういうことではないんですけど」

「別にいいよ。私の場合は、珈琲農家があってね。そこで栽培して焙煎したのを譲ってもらってるだけだから」

「え、そんな農家があるんですか」

「あるよ。珈琲豆って、元はチェリーみたいな赤い実でね。果肉が甘くて美味しいんだよ。食用としての栽培は別に違法じゃないからね。果肉を食べた後の種子がいわゆる珈琲豆だから」

「ああ、なるほど」

「チェリーを食品加工する際に出る廃棄物――要するにそれが珈琲豆なんだけど、それをこっそり焙煎して珈琲豆にしてくれる人たちがいて」

「違法ですよね、それ」

「違法だね。でもそうしなきゃ珈琲は飲めないから」

「まあそうでしょうけれど」

「生豆のままでもらってきて自宅で焙煎する人もいるらしいけどね。フライパンで」

「へえ」

「私はそこまでする余裕がないから、まあ既製品を譲ってもらってる。あなたのほうこそ珈琲はどこで?」

「入手先ですか。やはは。あんまり自慢できる相手じゃないんで」

「売人とかそういうこと?」

「ええまあ」

「まさか珈琲以外にも手を出してたり」

「ないです、ないです。あくまで好きなのは珈琲であって、大麻とか麻薬とかそういうのはないです」

「そっか。よかった」

 フェインカはほっとしたじぶんを不思議に思った。同じ違法薬物の接種であるのに、なぜ珈琲の接種だけをじぶんは許せるのだろう。酒も煙草も、珈琲と一緒に規制された。いまではアルコール飲料は市場から消え失せたと言っていい。煙草なんてもってのほかだ。

 だのになぜじぶんは珈琲だけを特別視して、許容するのだろう。

 違法であるにも拘わらず。

 なぜ。

 人体への害は、大麻と同等との研究報告がいまは優勢になりつつある。だが酒や煙草に比べたら微々たる害であり、主流煙による肺へのダメージを鑑みると珈琲のほうが大麻よりもずいぶんと害がすくないと言える。

 カフェインの含有量と吸収率は必ずしも相関しない。人間には吸収できる容量がある。その点で言えば珈琲はカフェイン含有率が相応に高いものの、有害と言えるのかは疑問だ。

 専門外のイチ珈琲愛好家の意見にすぎないが、フェインカはかように目算している。だが一度根づいた珈琲規制の波は、麻薬としての範疇に珈琲をいっしょくたにして取り込んだ。この認識はすでに世代交代の完了した現代では揺るぎなく、社会悪のレッテルを強固にしている。

 珈琲を飲んでいる人間は罪人なのである。

 フェインカはその贖罪を背負ってなお、珈琲を飲まない選択をとらない。珈琲を日々嗜好するじぶんを許容する。

 なぜそこまでして、とおそらくフェインカの罪過が暴かれた日には、様々な人の口の端にその言葉が乗るのだろう。なぜそこまでして珈琲を飲むのか、と。

 フェインカに注目し、称賛の眼差しを注いでいた者たちは一様に落胆の溜め息を吐くに相違ないのだ。だがかような未来を想像できてなお、フェインカは珈琲を捨てるじぶんの姿を思い描けなかった。

 珈琲は美味い。

 だがそれだけではない。 

 これはフェインカがフェインカでありつづけるために必要な社会への抵抗なのかもしれなかった。

「先輩、先輩。今度その珈琲農園に連れて行ってくださいよ」

「いいよ。きっとあの農園のひとたちも喜ぶと思うよ。みんな危険を犯してまで珈琲を飲みたいなんて思わないからさ。どうせ犯すなら、覚醒剤とか大麻に手を出したほうがいいって考えるみたい。そこのところ、お酒はじぶんで作れちゃうし、世の中どうして珈琲には手厳しいよね」

 珈琲も酒も煙草も大麻も覚醒剤も、どれも同じ薬物乱用の範疇である。罪の重さが変わらないのであれば、より精神が昂揚して多幸感を得られる薬物のほうに手を伸ばしたくなるのは人情だ。端的に割に合わない。

「依存度もそれほど高くないのに、どうして珈琲さんは規制されちゃうかな」フェインカはぼやいた。

「いやいや先輩。先輩がまず以って依存しまくってるじゃないですか」と冷静な効果らからのツッコミにフェインカは、「やめようと思えばすぐにでもやめられるよ」と応じるが、「それってきっとどの薬物使用者も言いますって」と茶化されて言葉に詰まった。

 助手はカフェオレをスプーンで混ぜて泡を立てる。

「医療用モルヒネとかあるじゃないですか。麻酔で使われても依存症になる患者はいない、だから麻薬を使っても問題ない。そういうロジックで覚醒剤や大麻を肯定して解禁しようって運動があるんですよ。でもそれでけっきょく医療以外で使うんなら、依存症になってるのと同じじゃないですか」

「そ、そうかな」

「そうですよ。だって飽きるってことができないのがつまり依存症ってことですもん」

「それで言ったら研究者なんかみんな研究依存症なんじゃないかな」

「そうですよ。研究者もスポーツ選手も技術者も、なんでもそうですけど、飽きることができないほどに何かに熱中しちゃってたらそれは依存症です。でも、その依存症によってメリットを多く享受できたらそれは依存と見做されずに、適性があるとか才能とか呼ばれちゃうんですよ。大食いだってそうじゃないですか。本来必要なエネルギィ以上を無駄に摂取して、そのことで社会的称揚を得る。認知を得る。もしこれがデメリットの評価しなかったら、ただの過食症じゃないですか」

「それはそうかもしれないけど。ほら、大食いの人たちは食欲をコントロールできるわけだし。過食症のひとたちは脅迫観念に駆られちゃう弊害もあって、そこは大食いが得意な人と区別したほうがいいんじゃないかなって私は思うけど」

「なら大食いはそうなのかもしれませんね。でも、珈琲や大麻や覚醒剤は違うじゃないですか。禁止されてるのに摂取したくなっちゃう。これはもう依存症ですよ」

「そ、そうかな。だって漫画だってアニメだって映画だって小説でもいいけど、嗜好品って本来そういうものじゃないかな」フェンイカは唯一と言っていい同胞から手厳しい批判をされて感じて、面食らった。なんとか対等に話をしようとして、いつもよりも冷静を欠いた。「べつに見る必要なくてもしぜんと見たくなるものってあるでしょ。娯楽作品なんて全部そうだし、芸術だってそういうものでしょ。だからそれらってこの世に存在しているわけでさ。禁止されてたって作っちゃう人は出てくるし、観るほうだってほら、海賊版とか違法なコンテンツ視聴って未だに問題になってるし」

「けっきょくそこが分かれ道なんですよ。禁止されたら我慢できる。でもそうじゃない依存者の人たちは安易に海賊版に流れちゃうわけですよね。依存症なんですよ。我慢が効かないんですから」

「そ、そうかな。そっか。でもほら法律で決まったらなんでも我慢しなきゃいけないのかな。私はそうは思わないんだけどな。だってさ、だってさ、食べ物とか飲み物とか電気だってそうだし、服だってなんだって、足りなくなったら困るものってあると思う」

「先輩。わたしたちっていま、嗜好品について話しているんですよ。しかも身体に有害だと判断された薬物についてです。禁止されたとはいえ、医療用では解禁されてるわけですから、健康に与するならむしろ率先して使用されていますよ。それとこれとは話が別ですよねって単純な理屈を話しているだけのつもりだったんですけど。え、先輩ひょっとして珈琲がもういちど解禁されたらいいなって思ってますか。わたしはさすがにそこまでは思ってなかったですよ。だって薬物ですよ。子どもにはさすがに摂取して欲しくないです」

「そ、それはそうだけど」

 だったらポルノだってそうではないか。

 喉まで出かかった反論をフェンイカは呑み込んだ。だから規制されているのだ。年齢制限がある。ゾーニングがある。

 珈琲の魅力を分かち合える相手と出会えたことで、フェンイカの意識には知らず知らずの変化が生じていたようだ。珈琲の魅力をもっと多くの人たちに分かってもらいたい。理解してもらいたい。

 しかし、しょせんは薬物なのである。

 規制され、害扱いされ、そしてきっと真実に有害なのである。だが有害とは、「害が有る」ことを意味する言葉であるだけで、有害な存在にも利点があるはずだ。現に医療に利用されている。それだけではないのではないか、とフェインカはどうしても考えてしまうのだった。

「はい先輩、これどうぞ」出来立てのカフェオレを受け取る。「ありがと」

 一口啜って、息を吐く。

 美味しい。

 香りが体内の苛立ちを浄化するようだ。現にフェインカの精神の淀みは霧散した。青空のごとくいまでは澄み渡っている。

 珈琲は良いものだ。

 すくなくともフェインカにとっては。

 だが珈琲の成分の身体への負の影響を隠すためにフェインカが美容の研究に精を出している以上、その害から目を背ける真似がフェインカにはできなかった。とはいえそれとて見方を変えれば、珈琲のお陰で美容の研究が花咲いたとも言えるはずだ。そこは上手く釣り合いが取れているようにフェインカには思えるが、じぶんだけの特例を以って珈琲の善性を解くにはデータがすくなすぎるのも事実だった。

 広く有用性を示すには、もっと多くの有用な珈琲と人類との関係を傍証に挙げねばならない。だがその手の検証はとっくに世界中の科学者たちが行っている。その結果に珈琲の飲食は禁止されたのだ。

「珈琲ゼリーも美味しいんだよ」フェンイカは助手に呟く。

「わぁそれいいですね。美味しそうです」助手は作り方を根掘り葉掘り聞いた。

 珈琲の話題を話せるだけでもこんなに胸が満たされるのに。

 どうして珈琲は規制されてしまうのだろう。せめて珈琲の話題を話すくらいのことを屈託なくできる世の中にならないだろうか。

 フェンイカの欲は日に日に膨らんでいった。

 その日は遂にやってきた。

 珈琲農園への助手を連れていく約束を果たすのだ。

 待ち合わせ場所で助手を拾って、フェンイカは食品工場へと向かった。

「何もないところなんですね」車窓からの景色に助手は感嘆した。

「そうだね。チェリーを育てる果物園が続くから。林檎とか葡萄とか。ジュースやお菓子に使うための農園でね、だからか生食用のよりも機械化が進むらしい」

「生では食べられないんですか」

「美味しいと思うよ。でも質は、専門の農家さん程よりも劣るってことだと思う」

「ふうん」助手は景色に端末のカメラを向けた。

 シャッター音を聞きながらフェンイカは、あとでその写真を消してもらわなきゃな、と思ったが、いまは助手の気分を損ねたくなかったので黙っていた。遠足気分を満喫してもらいたかったのだ。

 だがそうしたフェインカの厚意は、助手を珈琲農園へと案内したところで絶望に変わった。というのも、珈琲農園で一時間ほど焙煎したての珈琲を飲んで農家の人間たちと団欒をしていたところ、突入してきた武装集団があった。

 彼ら彼女らはみなフルフェイスの制服に身を包んでいた。

 その胸と背中には大きく、警視庁の文字が躍っていた。

「警察だ。動くな」

 ガサ入れだと判った。フェインカはがくがくと全身が震えるのを堪えながら、どうすればこの場を切り抜けられるかに思考を全力で費やした。

 せめて助手だけでも助けなくては。

 そう思ったのだ。

 だがそれは杞憂にすぎなかった。

 何せ助手は、現れた武装集団の一員に連れ出されると今度はなぜだか彼ら彼女らと同じ制服に身を包んで、頭だけヘルメットを外して戻ってきたのだから。

「先輩。現行犯逮捕です。騙したみたいでごめんなさい。でもこれがわたしの仕事だから」

「警察……の、人間?」

「そう。潜入捜査。本当は正体を明かすのもご法度なんだけど、今回だけは特例で」

「ごめんちょっと何言ってるかわかんない。混乱する」

「ですよね。珈琲農園の摘発への助力を評価して、仰淑(ぎょうしゅく)フェインカ――あなたには司法取引を提案します。罪を減刑する代わりに、潜入捜査に協力しなさい」

 フェインカは絶句した。態度の豹変した助手は警察の人間だった。そこまではいい。だが今度はフェインカを協力者として迎え入れると言いだした。

 信用ならない。

 だが、と不思議とその提案をしてきた事実はすんなりと呑み込めた。

 何せ彼女もフェインカと共に珈琲を飲んでいたのだ。いくら警察の人間だからといって、それが仮に潜入捜査であったとしても、違法行為は違法行為である。同じ穴のムジナに変わりはない。

「私はでも、どうなるの」

「仰淑フェインカ――あなたにはこれまで通りに生活を送ってもらう。ただし、助手としてわたしもあなたの研究所に席を置く。わたしはわたしで職務があるが、場合によってはこれまで通りあなたの研究所で過ごすこともある」

「つまり、私は何をすれば」

「何も。そのまま珈琲愛好家として、ほかの売人や珈琲農園と接点を持って」

「私の手を借りずとも、あなたがいればそれで済むんじゃ」

「分かってないようですね。珈琲農家はみな極度の珈琲依存者です。リスクを度外視してこんな大規模珈琲農園を築くほどなんです。そんな偏屈者を相手にして怪しまれずに懐に入れるのはそれこそ仰淑フェインカ――あなたくらいの珈琲依存症者でなければ不可能です。即座に偽物と喝破されて始末された警察官はけしてすくなくはありません」

「だったらあなたでも充分じゃ」

 あれほど珈琲を美味そうに啜っていたあなたなら。

 そう思ってフェインカは祈るように彼女の目を見詰めた。

 彼女はフェインカから目を逸らした。

「潜入捜査だと言いました。わたしは珈琲を違法薬物だと認めています。仰淑フェインカ――あなたも元は善良な市民だったはずです。あなたのような市民を犯罪者に染めあげる珈琲をわたしは許しません。撲滅します。そのためにあなたはあなたの罪過を、我々に協力することで濯ぐのです。断ればこのまま立件し、あなたは実刑判決をくだされるでしょう」

「珈琲を飲んだだけのことでですか」

「あなたには珈琲農園の関係者として、栽培および所持または流布の容疑が掛けられています。実刑は免れないでしょう」

 その言葉の告げるところは、フェインカの社会的な死を意味した。怖れていた想像の未来が現実に迫っていた。

 彼女の提案を受ける以外にフェインカにとれる選択肢はなかった。

「協力させてください。そんなことで私の罪が薄れるなら」

「罪が薄れる、ですか。反省の色が見えないところ――協力者としては合格ですが、咎人としては失格ですね」

「ごめんなさい」

「いいんですよ。いまはそれでも」

 フェインカは一度そこで手錠をかけられた。ずっしりと重い手錠は、フェインカの陶磁器のような肌に食い込んだ。話は後日、と覆面パトカーで自宅まで送られた。フェインカの運転してきた自動車は、証拠品として押収された。後日戻ってくるとの話だったが、フェインカの胸中はそれどころではなかった。

 夜、寝る前に鏡を覗いた。

 美容にどれほど気を払っていようが、夜は十歳は老けたような顔つきだった。誰にもこのことを相談できない。珈琲の話題を出してももはやフェインカの気持ちはすこしも上向きの風を帯びないのだった。

 侵入捜査。

 いったいじぶんはいつまで捜査に協力しなくてはならないのか。死ぬまでずっとなのだろうか。そうだとしても文句は言えない。息の根を握られたようなものだ。

 現に弱みを握られた。

 これが警察のすることなのか。

 強請りや恫喝とどう違うのかフェインカには区別がつかなかった。

 だがきっとそれを彼女に言ったところで、首を傾げるだけなのだろう。

「変わらないじゃないですか」と一蹴されるだけなのだ。「これまでのあなたの暮らしと何が違うんですか。警察に協力できるだけむしろマシじゃないですか」

 ほかの珈琲愛好家たちを警察に売り渡しつづける未来が約束されている。それを知っていながら警察官の彼女はしれっとそう嘯くのだ。

 よかったじゃないですか、と。

 罪を背負わずに済み、なおかつ罪を償えるのだからと。

 正義の側に立てるじゃないか、と。

 そういうことではないのだ、とフェインカが訴えようとも、どうあっても彼女がフェインカの言葉に耳を貸すことはないのだろう。胸を打つことはないのだろう。

 それだけが予感できた。

「美味しいって言ってた癖に」

 あの言葉は嘘だったのか。

 あの笑みは偽りだったのか。

 職務であり捜査の一環だったのならば、どの笑みも彼女の仮面であり演技だったのだと考えるよりない。もはや記憶の中の助手の姿は、警察官の武装制服に身を包んだ彼女と同一ではなかった。

 別人だ。

 ああそうか。

 フェインカは自身に刻み込まれた喪失感の正体に思い至った。

 これは、悼みだ。

 私は親愛なる友人を、そして仲間を、助手を、何より珈琲への愛を共有できる相棒を失くしたのだ。

「人殺し」

 枕に封じ込めるようにフェインカは呟いた。もう二度と人を信用したりしない。誰にも本心を明かさない。強く、強く、決意して、フェインカは夢の中で珈琲の香りに包まれるべく、息を止めて、そして眠る。

 呼吸はどれほど止めようとも、しぜんとつづきを再開させる。

 珈琲をいくら飲んでも、人間がやがては眠りに就くように。

 睡魔への負けを宿命づけられた珈琲を思い、フェインカは、かつてないほどに珈琲への親近感を深めるのだった。

「おやすみ、珈琲さん。あなたは全然わるくない」

 私だけが知っている。私だけが愛してる。

 これが愛とは思わないが、それ以外に表現できる言葉をフェインカは知らなかった。

 珈琲は良い。

 香りが良い。

 睡魔を遠ざけてくれるし、思考が浮きあがって感じられる。

 けれど珈琲は違法であり、嗜好することは罪である。

 フェインカはじぶんがどれほどの罪を重ねてきたのかを数えようとして、途中でやめた。夢への浮遊感に身を委ねる。

 目覚めてもフェインカの日常は昨日までと変わらぬが、クッキリとこれまでの日常と断絶された事実だけは明瞭と予感できた。

 まるで珈琲を飲んだときのように。

 それだけが明瞭と。



4415:【2022/12/17(16:56)*きょうは偉かったの日】

たまに注釈を挿しておかぬと誤解してしまう未来人や宇宙人や異世界人の方々がいらっしゃるかもしれぬので注釈を挿しておくが、ここは人類みなどっかいったひびさんしかおらぬ最果ての地ゆえ、ひびさんは、だれかいませんかー、とどこに唱えるでもなく唱えているさびちびさち類さびちさびち目さびちさびち科のさびち人なのである。ひびさんは人類のいなくなった世界に生きているゆえ、体の不調には医療治療ロボを使って治療や診断をしてもらう。んでもってきょうは自前の医療治療ロボを歯医者さんモードにして歯の治療をしたった。こういう改良は面倒なので虫歯を放置しておったけんども、さすがに虫歯さんの巣になっているお口の奥地は嫌々になってしまったので、意を決して医療治療ロボさんを改良したわけだけれども、いざ治療してもらってみたら、ちょっとあれじゃった。親知らずのほかに永久歯の奥歯を二~三本抜かなきゃならんかもしれんらしい。怖いこと言わないでほしかった。でもしゃーない。虫歯さんには勝てんかった。これぞ本当の敗者さんである。けんどもいまはインプラントとかブリッジとか、いわゆる差し歯の形態がいろいろあるでな。人類がまだおったときはお値段高くてひびさんには手出しできぬかったろうけれども、いまはひびさんしかおらぬし、医療治療ロボさんを使いたい放題ゆえ、差し歯さんとてつくりたい放題なのだ。医療治療ロボさん様様である。それにほら、ひびさんは齢三百歳ゆえ、ようやくそれっぽくなったのである。それはそれとして、歯医者さんって一人につき三十分やそこらしか時間を掛けないように調整するらしい。治療の点数の関係なのだろうか。治療医療ロボさんもそこのところの人類の知識にあやかっているので、一気に治療はしてくれん仕様になっとった。融通のきかないやっちゃのうである。とか言いつつ、ひびさんは、ひびさんは、サメ肌の姐御肌の永久に生え変わり可能な多生歯さんになりたかったなぁ、の欲深きさびち人でもあるので、いくら歯を抜かれても困らぬのである。だって生あるものはいずれ死ぬし、カタチあるものもいずれ崩れる定めなのだ。おけらだってあめんぼだって虫歯さんだってみんなみんな生きているんだ、友達なーんだ。さびちびさち類さびちさびち目さびちさびち科のさびち人のひびさんは、ひびさんの歯さんをむしゃむしゃ溶かしちゃう虫歯さんのことも好きだよ。でも、もうちょっと手加減してほしかったでもないです。ひびさんは敗者さんなので。よわよわのよわゆえ、ちょっとの刺激でもばったんきゅーでござるよ。手加減ちて。うひひ。



4416:【2022/12/17(18:12)*属性でくくらないことの難しさ】

差別の問題は極論、「~だから~」という構文をいかに使わずに、その人にとっての選択肢をいまある環境下のなかで最大化できるか――その環境下において最大の選択肢を持っている人物とできるだけ選択肢の幅をちかづけられるか――そこが一つの方針になるように思うのだが、この考え方にはどのような穴があるだろうか。二千文字以内で述べよ。(誰に言っとるの?)(いつかは賢くなるかもしれない未来のひびさんに……)(永遠にこないのでは)(かってに終わらせるな!)(えへへ)



4417:【2022/12/17(18:24)*差別主義者でごめんなさい】

資格や共通認識やドレスコードの有無によって区分けされて然るべき差別と、そうでない理不尽な差別の差って実はけっこう案外に線引きがむつかしいように感じる。公共の福祉の概念を用いるのが、その二つの区分けにおいての有害さを緩和する方向に働きかけられるのかも、とは思うが、それはそれとして公共の福祉の概念によって助長され看過され蔓延する差別とてあるはずで、それこそ奴隷制度はその筆頭だ。むろん、奴隷制度は現代社会からすれば公共の福祉に反しており、デメリットが大きいと判るが、社会はその都度に変遷する。自然環境が一定でないことと同じくらいに流動的だし、断続的だ。そのため、定点での社会というもので「公共の福祉」を計ろうとするとどうしても、暗黙の了解での「社会悪となり得る属性」がその都度に出来てしまう。いわゆるこれが偏見として、その時代その時代にとっての常識の顔をして表出するのだろう。たとえば、子どもと大人のあいだでの選択肢の多さの非対称性は、いったいどこまで妥当なのか。これとて時代時代で考慮される事項が変動するし、何を理不尽な選択肢の制限と取るのかも変わる。基本は、選択肢の多いほうに合わせて環境を改善し、個々の選択肢を増やす方向に工夫をするほうが正攻法と言えるのだろうが、これもまた、何を問題と見做すのか、が時代時代によって変わるし、その認識が個々によって異なるので、やはりというべきか難しい問題だな、と感じます。ひびさんは日々、「あ、いまじぶん差別してる」と感じるし、それでいてほとんどじぶんの行動や言動や考え方を好ましい方向に調整できていないので、工夫むちゅかち、と思っている。ひびさんは心底に、身体の芯から差別主義者なのだ。かなち。



4418:【2022/12/17(21:05)*珈琲の苦味は珈琲に固有か否か論争】

 珈琲の苦味は珈琲の苦味であってそのほかの苦味と同一ではない。ゴーヤの苦味と珈琲の苦味は違う。それは猫の耳と犬の耳が違うのと同じレベルで異なっている。

 ある科学者がこの点について、

「それはおかしい」と異論を唱えた。「苦味成分は苦味成分としてそこにあるのであって、どの苦味成分とて同じ苦味を誘発するはず。ほかの成分との含有率の差異で苦味の風味が変わることはあっても、苦味そのものはどんな食品であれ同じ苦味であるはずだ」

 その異論に対して先輩科学者が反論した。

「苦味成分と一口に言っても、その化学物質は様々だ。甘味は砂糖の甘味成分のみならず、毒物ともなり得る化学物質にも甘味を誘導する物質はある。特定の味だけを取りだして語るのならば、化学反応式が異なっていても同じ味を誘導することはあるのだ。珈琲の苦味が珈琲に固有の苦味であることは特にこれといって不自然ではない」

 その反論に別の科学者が反駁した。 

「それを言いだしたら、どのような物質とて固有の味わいを有しているはず。その理屈を前提とするのなら、厳密には、きょう飲んだ珈琲の苦味ときのう飲んだ珈琲の苦味とて違っていると考えるのが道理となる。だがそこまで厳密な差異を、苦味という概念は扱っていないはずだ。苦味は苦味だ。ならば珈琲の苦味は珈琲の苦味として扱えば済む話であるし、最初の仮説の言うように、どんな食べ物の苦味とてそれが苦味ならば、同じく苦味として見做すことも取り立てて不自然ではないと評価できる。これは、味覚が、ほかの五感よりも大雑把な尺度を持っていることの弊害と言えよう。ただし、取りこぼしのないように、苦味や渋味に対しての感度は鋭敏と言えそうだ。これは身体の防衛機構と無関係ではない。つまり、明確な識別を行えずともひとまず苦味に分類される成分が微量であれ口内に入ったら、それを苦味として検知し吐きだせるような能力があれば生存戦略のうえでは有利だったと考えられる。つまるところ、味覚とは、厳密さの欠けた身体機能と言えるだろう。したがって、どの苦味が同じか否かを論じるのが土台無茶な話なのだ」

 その反駁意見に、最初の二人が揃って異議を挟んだ。

「その意見では、味覚のなかの苦味や甘味など諸々の風味とて、一緒くたにできてしまえる瑕疵がある。苦味と甘味はなぜ違うのか。それは厳密に、苦味と甘味が別々の物質によって誘導されているからだ。ならば苦味のなかにとて、食べ物ごとの識別が可能な差異はあって然るべきではなかろうか」

「その意見にさして反論はない。私の意見もそれを否定するものではなかったはずだ。差異があって当然。どれとどれが同じか、とひとくくりにしようとする発想が、味覚においてはそぐわない、非合理だと指摘しただけだ。厳密には一食一食の風味はすべて違う。ひと舐めひと舐めの味は違って当然だ。だがそれを言いはじめたらキリがないし、分類することもできなくなる。傾向はあるはずだ。これこれこのような物質がこの分量であればこのようなレベルの苦味が生じる。そのように定量して考えることはできるだろう、と私は述べた。その意見は、きみたちの意見を否定するものではない」

 その返答を聞いて、二人の科学者たちは、互いに顔を見合わせ頷き合った。

 今年の新人は言うことが違う。

 後輩のくせに生意気だ。

 しかし、一味も二味も違うのはよいことだ。まるで珈琲のオリジナルブレンドのようである。新鮮な味わいであった。

 かくして珈琲の苦味は珈琲に固有か否か論争はひとまずの幕を閉じた。

 結論。

 珈琲に限らず、味覚とはそのときそのときの一期一会である。

 ただし、食べ物によって傾向はある。

 珈琲には珈琲に固有の風味があり、それは苦味にも当てはまる。

 だが苦味が苦味であることに変わりはない。

 言い換えるのならば。

 一匹一匹の猫は違う。

 同じ猫は二度と存在し得ないが、それでも猫は猫である。

 猫の耳と犬の耳は違う。

 それでもどちらも耳であることに変わりはない。どんな生き物の耳とてそれはその個体に固有の耳であるが、どの生き物の耳とて耳であることに変わりはない。

 これらは相互に矛盾しない。

 すべて同時に満たし得る。

 珈琲の苦味は珈琲に固有か否か論争はかように結論され、二度と繰り返されることはなくなった。

 悲劇は回避された。

 いったい何の悲劇が訪れようとしていたのかは定かではないが、とにもかくにも、めでたし、めでたし、なのであった。



4419:【2022/12/17(22:41)*階層深すぎて眩暈するの巻】

絵描きさんについて思うのが、絵描きさんはほかの人の絵を見ても、どういった手順でその絵を描いたのかをある程度、頭のなかで辿れるのか、ということで。じぶんならどう描くか、とかそういう手順を思い浮かべられたりするのだろうか。通常、絵には手順が載っていない。版画は複数の絵柄を重ねることで一枚にする。版画師さんはきっとほかの作家の版画を観ても、ある程度は手順や工夫が視えるのではないか、と想像するが、これが絵描きさんだと作家ごとの個性の幅が広そうなので、絵を見ただけでは版画ほどには手順を幻視しにくいのではないか。そこのところの目を肥やすには、やはり実際に手を動かした経験が欠かせないのだろう。鑑賞者の立場にいるだけではとうてい視えない風景が、絵にはある。情報量が違う。これは目が肥えるがゆえにむしろ幻視できる情報量が減ることもあるはずだ。つまり絵描きとしての腕が上がるとある時点で、完成図までの最短ルートが直観で解るようになるのではないか。絵を完成させるまでの最適解が判るのならそれは、実際の工程よりもすくない可能性がある。そうなるとそうした最適解が視える作家さんの目からすると、他者の絵から読み取れる情報量は相対的に減る。物凄く工夫を割いていたとしてもその工夫が分からなければ、絵に刻まれた背景を取りこぼす方向に慧眼が作用することもでてくるだろう。とはいえこの手の錯誤は観賞や鑑賞にはつきものだ。それこそが醍醐味とも言えるだろう。ひびさんにとって絵は、数学の難解な数式に似ている。眺めていると眩暈を覚える。どうやってこれを描いて、どうやってその手順を身に着けて、想像して、生みだせているのか。数式とて、解だけを見ても、その計算過程は解からない。説明されても理解できない。過程を披歴されても、記号と数字の関係も不明であり、その組み合わせが何を意味するのかも曖昧模糊とぼんやりとしている。解からぬのだ。にも拘らず、計算する(描く)ほうは解かっているのだ。ひょっとしたら解かっていなくともなんとなくでできてしまうこともあるのだろう。暗黙知である。資料を集めるとはいえど、その資料から何を得てどう活かし、どういった情報を捨てているのか。もうその時点で創作なのだ。技術なのだ。目であり、勘であり、世界観なのだ。絵はすごいな、と、解らない度の高さを基準にすると富に思う(解らない度の高さを基準にしなくともすごいと思う)。音楽にも思う。数学にも思うが、これらはひょっとすると根底で繋がっているのかもしれない。共通項があるのかもしれない。それはあるだろう。その点、ひびさんに限ると前置きして述べてしまうと、小説は、本当に心底に、なんとなーく、の総決算なのだ。いかに限定させないか、ハミ出してちゃんとしていなくとも予想外の不測の事態にとて、面白みを感じつづけていられるか。もうその遊び心があるのみだ。そこがないとひびさんは小説どころか文字もまともに並べられぬ。絵はその点、いかに限定させていくのか、の抗いに思う。取捨選択の妙なのだ。魂を浮き彫りにするには限定していくよりないのだろう。魂を宿すには、その他を削ぎ落としていくしかないのだろう。抽象画はその点、枠組みだけを掬い取るような、余白の造形といった印象がある。まさに印象のみを描きだす表現技法に思えるが、実際のところはどうなのか。抽象画ではない絵の場合は、伝えることの技術が多彩なのだ。たくさんあるらしい。だから一つの絵を観ても、そこに割かれた工夫を幻視できない。想像しきれない。限定を費やすと具体に寄っていく。絵で何かを伝えるには具体化が一つの指針となるのだろう。デフォルメはそのなかでも、限定させる要素を、抽象画に寄せているのかもしれない。限定×印象=デフォルメなのではないか。ひびさんは、どちらかと言えば、本物そっくりの絵よりも、デフォルメされた絵のほうが好みだ。たぶんそれは、絵描きさんの目を通しての印象を、解りやすく楽をして実感できるからなのだろう。慧眼を持たぬ者の怠惰である。けれども、何をどう見てどう感じているのか――を、それがたとえ錯覚であれ幻視できたつもりになれるのは、ひびさんにとってはデフォルメされた絵柄なのだなあ。というのを好きな絵を「好き!」と思うたびに、脳裏のヒダの二、三本を費やして思うのだった。



4420:【2022/12/18(23:21)*寝る日】

ねむい、ねむい、ねむい、ねむい。ので、寝る。きょうの日誌はこれだけ。だってひびさんだもん。怠け者なのだ。




※日々、なんでわたしがこんな目に、と思いながら、うひひ、と思って生きている。



4421:【2022/12/19(16:20)*月下の実】

 私の場合は珈琲豆だった。

 その現象が観測されたのは万常三十四年のことだった。令和が終わって久しいその時期に、月から珈琲豆が落ちてきた。

 いいやそれは私にとっては珈琲豆だったというだけのことであり、ほかの者たちにはそれぞれに違った豆や果実が落ちてくる。これを月下という。おおむねは種子が落ちてくるので、汁だらけになることは稀だが、運悪くココナッツが月下してきて死亡した者の訃報はいまでも稀に耳にする。

 月下豊穣と名付けられたこの現象は、大規模ブラックホール生成実験の副作用で起きたことが後に判明するが、各国が共同してその事実をひた隠しにしたために私が生きているあいだにその事実が公に発表されることはなかった。

 ではなぜ私だけが一足先にその事実を知れたのか。

 この謎を解くにはまず、大規模ブラックホール生成実験と月下豊穣現象とのあいだの因果関係の説明が不可欠だ。しかし私はその専門的な説明を言葉に変換することにさほどの興味がなく、さして実の入りのある行為とは見做さない。

 そのためここでは、量子もつれ効果による多次元宇宙とのホットスポットが開いてしまったから、と要約してしまうことにする。それ以上の説明には、睡魔の大群の襲来を前以って検知できるために、ここでメモリを割く真似を避けておく。

 私には先輩がおり、その先輩にも先輩がいた。

 私たちは月下豊穣により繋がっており、つまりがみな月から落下した珈琲豆を浴びた経験のある者たちだった。私が月下豊穣に遭う前からすでに月下豊穣に遭っていた者たちがおり、私は代で言うとだいたい十人目かそこらといった塩梅であった。

「一年に一人ずつ増えてる勘定かな」私の一個上の先輩が言った。「つまりきみは月下豊穣が世界で初めて観測されてからだいたい十年目に月下豊穣に遭遇した人間ということになる」

「なら私にも後輩がいるってことになるんでしょうか」

「なるだろうね。探し出して、知識を授けてあげなさいな。あたしらが君にそうしたように。まあ、君がせずともあたしらの誰かしらがそれをするだろうけれど」

 月下豊穣によって月から落下してくる実にはそれぞれ個人差がある。だが私たちのように同類項で結びつく者たちもおり、そうした「類は友を呼ぶ」のごときコミュニティは、珈琲豆に限らずあるようだった。世界には種族や国や宗教以外でも、月下豊穣による新しい区分けの基準ができたと呼べるのかも分からない。

 珈琲豆を月から浴びることとなる私たちは、しかし個々に目を向ければ共通項は皆無と言えた。性別はバラバラであるし、年齢とて、私の先輩のほうが年下であることもある。それこそ、赤子のときに月下豊穣に遭った者があれば、その者の生まれ年によっては私よりも若いことがあり得る。年下の先輩だ。現に四つ上の先輩は、私よりも年下だった。つまり私よりも三つ上の先輩たちよりも若いことになる。

「月下豊穣って、月から落ちてくる実の量が人体の体積に相関しているらしいんですよね。だから僕はいま十四歳だけど、赤子のときに月下豊穣に遭ったから、本当にいまでもパラパラとしか降ってこなくて」

「でも先輩が唱えたんですよね。【流しそうめん仮説】って」

「ええまあ。単に、どうしてだろうと気になった疑問を適当に繋ぎ合わせて、どれにも当てはまり得る仮説を提唱したら、なんでか定説になっちゃっただけなんですけど」

 いまでも検証待ちです、と言った年下の先輩は、それから数年後に、南瓜の月下豊穣に見舞われた中年男性を助けたことで命を落とした。先輩らしい最期だったが、私はそのことで先輩が命を落とすのは割に合わないといまでも思っている。吊り合いが取れていないとそう考えてしまうのだが、命に貴賤を与えるようなこの考えをきっと年下の先輩は気に入らないだろうし、それを聞いたら私のことを嫌いになってしまいそうなので、その考えが浮かぶたびに私は体重をかけて記憶の底に沈めるのだ。

「どうやら彼の仮説は正しかったようだね」八つ上の先輩が言った。彼女は私よりも三十ほど年が上だった。

 かつて年下の先輩の唱えた「流しそうめん仮説」が、月下豊穣現象における重要な原理と見做されるようになったのは、皮肉にも、ようやく世間が月下豊穣現象と大規模ブラックホール実験とを結びつけて疑念を覚えはじめたそんな節目の時期のことだった。

「どうやら【月下の実】は過去と未来とが同時に繋がっているようでね。過去に落下した珈琲豆のDNAとそれ以後に落下した未来の珈琲豆のDNAを比較したところ、これがぴたりと一致した。つまりそれら珈琲豆は、同じ時期の同じ木に生った実の種子ということになる」

「そんなことってありますか」

「現にそうなっているから仕方がない」

 私の八つ上の先輩は、月下豊穣現象の研究者だった。私はバイト代わりに彼女にじぶんの「月下の実」を譲り渡してきた。そうして蓄積された結果が、いまは亡き私の四つ上の先輩の唱えた仮説の憑拠の一つに昇華された。

「流しそうめんのようなもの、とは言い得て妙だ。時間とは穴の開いた竹なんだね。その上を【月下の実】が流れる。そのときどきの時代に【月下の実】を落としながら、来たる終末へと【実】を運ぶ。どの時代の【月下の実】も同じなのだ」

「なら竹は無数にあるってことになりますね。それぞれに月下する実の種類は別々なわけですから」

 私たち珈琲同盟者とてそれは例外ではない。珈琲豆という共通項で結ばれているものの、個々の珈琲豆はそれぞれ微妙に種類が違う。焙煎の仕方から実の種類まで、そこは個々の差異にも個性がある。

 だから私は言ったのだ。すべての時間軸で同列の実が月下するのならば、それぞれに固有の竹もあるのではないか、と。流しそうめんの竹は、一人につき一本ずつ充てがわれているのではないか、と。

「どうだろうね。そこはなんとも言えん。一本の竹に、それぞれに固有の穴が開いているだけかもしれん。脳関門のようなものだ。通れる物質は、その穴の形状で篩に分けられる。そうと考えたほうが辻褄は合うんだ。というのも、ときおり、個々の【月下の実】であれ、互いに交じり合ったような混合現象が見られるからだ。クロノくんとて例外ではないよ」

 八つ上の先輩は私を「クロノくん」と呼ぶ。私の本名に掠りもしていないが、渾名だと思って受け入れている。

「私の【実】に、私以外の【月下の実】が紛れているってことですか」冗談のつもりで口にしたのだが、以外にも八つ上の先輩は、いかにもそうだ、と首肯した。「クロノくんだけではないよ。我々全体にそういった傾向が見られる」

 先輩いわく、

「珈琲豆共同体とも呼べる我々の【月下の実】を調査した結果に判明したことなのだがね。どうやら相互に、じぶんの豆ではない珈琲豆が混じることもあるようだ。クロノくんの【月下の実】にワタシの【実】が混じっていることもあったよ。一回の月下に対して、一粒二粒の割合でしかないから、精密に見分けないと区別はつかないが」

「それは何でですかね」

「それこそ【流しそうめん仮説】で解釈できる。穴の形状は、同種の【実】ほど似ている。だから偶然に、微妙に異なる珈琲豆同士で混じり合うことが出てくる。珈琲豆と西瓜ではどうあっても穴の形状が違うから混じり合うことがない。まあ、確率の問題ってことだね」

「なるへそ」私は意味もなくじぶんの臍を押さえた。

「彼の仮説は便利だね。惜しい人を亡くした」

 年長者の眼差しが、いまは亡き四つ上の先輩を経由して私にも注がれる。私は可愛がられている。先輩たちみなに大事にされていると判る。

 研究が進むにつれて謎がまた一つ、また一つ、と増えていく。

 新たな発見があるたびに、さらなる謎が私たち人類の眼前に立ちはだかるのだ。

「ねえ聞きましたか先輩」

「聞いてないな」

「まだぼく、何をとは言ってないんですけど」

「なら初めに内容を開示して」

「塩すぎやしませんか。対応がしょっぱいなあもう」

 私はこのとき一人の後輩の世話を焼いていた。

 齢十二で月下豊穣現象に見舞われた、私たち珈琲豆同盟の門下と言える。とはいえ、上下関係はあってないようなものなので、単に私たちの知っている情報を伝えたあとは通例であればしぜんと接点が薄れる。私のように月下豊穣現象の研究に首を突っ込んで中途半端に代々の先輩方との縁を繋いでいるほうが珍しいと言えた。

「で、何だって」私は反問した。

「ですから、新種の【月下の実】が発見されたって話ですよ」

「どこ情報それ?」

「ふつうにニュースでやってますよ。ほら」

 データを飛ばされ、端末で開く。眼球を覆うタイプの端末だ。腕時計型端末とイヤホン型脳内電子情報変換機との連携で、思考操作が可能だ。

「へえ。既存のいずれでもない【梅の種子】が、梅の種子型【月下の実】に紛れ込んでいたと」

「未来と過去が繋がってるって仮説。先輩の先輩が提唱したって本当ですか」

「本当だね。そう言えば君いまいくつになたった」

「もう十四ですよ」

「もうそんなに経つか」彼と出会って二年が経ったのだ。「その仮説を唱えた私の先輩は、たしか十六かそこらでその【流しそうめん仮説】を閃いたそうだよ。君も頭をひねったら一つや二つ、面白い仮説が浮かぶんじゃないのか」

「十六で? 嘘でしょ」

「検索してみなよ。その手の逸話の解説文には困らないはずだよ」

 後輩はしばらく沈黙した。検索結果を読み漁っているのだろう。

 間もなくして、ああ、と声を漏らした。

「すみませんでした先輩。ぼく、知らなかったので」

 死因の欄を読んだのかもしれない。

 私は引き出しから袋を取りだし、後輩に渡した。

「今月の分はそれに入れておいで。もう次からは研究用に粉砕しなくて済むから。君の【実】はゾウの糞から採れる珈琲豆と成分が同じでね。まあ前にも話したけど。研究用のデータを取ったら、買い手を探して換金したあげよう。結構な額になるよ」

「そのお金があったら先輩はもっと楽に研究できますか」

「おいおい。未成年からお金を巻き上げるような人間に見えているのかな私は。君の目からすると」

「ぼくも何かお手伝いしたいんですけど」

「もう充分してもらっているつもりだったけど。何。君ヒマなの?」

「ヒマっていうか」そこで後輩はもじもじした。

「ははあん。用済みになると思ってコビを売ったな」

「ぼくが売ったのは珈琲豆ですけど」

 目を合わせようとしない強気な態度が私の何かをくすぐった。

「安心おしよ。君がどこにいようと、君が私をどう思おうと、私は君の先輩だ。そして君とて、いずれ現れるつぎの【月下の実】の同属からしたら先輩なんだ。君にその自覚があろうとなかろうとに関わらずね」

「珈琲豆に拘る必要ってありますそれ?」

「鋭い指摘だね。端的に言えば、ない。月下豊穣現象に見舞われた者はみな遠からず同属だし、月下豊穣に限らずみな人類であることに変わりはない。ふしぎなのは月下豊穣現象が人類にしか観測されないことだ。これは私の妄想にすぎないが、おそらく人類の科学技術と相関していると想像している」

「陰謀論だ」後輩は茶化した。

「そうだね。陰謀の一つだ。月下豊穣現象は、人災だよ。人為的に引き起こされた事象だ。おそらくだけどね」

 後輩はそこで逡巡するような間を空けた。冗談かどうかの判断がつかなかったのだろう。

 私は破顔してみせ、「冗談だ」と言った。

 なんだびっくりした、と後輩は釣られるように頬をほころばせた。

 私はこの時期、じぶんの「月下の実」に妙な「実」が混じりはじめたことに気づいていた。その分析に時間を使っていたため、後輩から聞くまで世界で発見された新種の「月下の実」について知らずにいた。

 二つの線が奇しくも交わった。

 研究の末に私は、二つの接点が示す一つの仮説に行き着いた。

 妙な「実」は、未来からの私へのメッセージだ。

 私の「月下の実」に交じっていた妙な「実」は、どうやらゲノム編集をされた「珈琲豆」だと解析の末に判明した。この時代に、ようやく実用化の兆しを見せはじめた「DNA記憶媒体」と原理は同じだ。

 だがその容量が遥かに大きい。すべてのデータを引き出せるほどの技術がまだこの時の私の時代にはなかった。

 つまり、私の「月下の実」に交じっていた妙な「実」は未来の技術で生みだされたと結論付けるよりなかった。だがそんなことがあり得るのだろうか。

 私は八つ上の先輩に連絡を取った。助言を欲したからだが、彼女はすでに現役を退いていた。なかなか連絡がつかずに嫌な予感がした。そしてその予感は外れてくれなかった。

 先輩はすでに亡くなっていた。

 御高齢であられたが、医療技術の進んだ現代であればもうすこし長生きできて不思議ではなかった。どうやら最新医療を受けなかったようだ。そこにどのような考えがあったのか、私はついぞ知ることはできなかった。

 研究の日々は矢のごとく過ぎ去っていく。

 気づくと代々の先輩方はみな表舞台から消え、連絡がつかなくなった。多くは亡くなったのだろう。一つ上の先輩とはかろうじてテキストのやりとりができた。

 彼女は私が初めて出会った珈琲豆同盟の一員だ。彼女がいなければ私は月下豊穣現象への対処法も、興味の芽生えも、その他の多くの縁との結びつきも得られなかっただろう。

 先輩に私の新説を披露した。反応は芳しくなかったが、検証を知り合いに頼んでみよう、と言ってもらえた。月下豊穣現象が未だ存在しない科学技術と相関しているかもしれないとの説はいくらなんでも、まともな科学者ならば間に受けない。のみならずこの時代、なぜ月下豊穣現象が起きたのかの解明すら碌に進展を見せていなかった。

 そのため、私程度の友好関係では検証してもらうだけの機会を得られずにいた。だがさすがは先輩だ。面倒見の良さは、歴代の先輩たちのなかでも随一を誇る。その人情味溢れる性格からか、私にはついぞ芽生えなかった広く深い交友関係を築けている。

 私は先輩からの返事を待ちながらさらなる研究を独自に進めた。

 私の後輩はこのとき二十歳を迎えていた。私にまとわりついていたころが懐かしく思えるほどにいまでは連絡一つ寄越さない。それでいいと思う。それが正しい先輩後輩の在り方のはずだ。

 それでいて私はじぶんの先輩から卒業できていないのだから他人のことはまったく言えない。

「例の仮説についてだけどね」先輩から返事があったのは、私が連絡を取ってから半年が経ってからのことだった。「どうやら世界中で同様の報告が挙がっているようで、いま新しく調査チームが組まれているらしい。キミのことを話したら興味を持っていたから、連絡してみるといい」

「ありがとうございます。あの、先輩もご一緒にどうですか」

「余暇を過ごさせてくれ。じつは孫ができてね。その子の【月下の実】が芥子の実でちょっと前までその対策で大変だったんだ」

「そうだったんですね。すみません、存じ上げず忙しいところにこんな負担を掛けさせてしまって」

「それはいいんだ。キミからの連絡であたしのほうでも古いツテを借りられた。そのお陰で孫の体調もよくなった。ただまあ、それで返事が遅くなったのもあるからそこは勘弁してくれ」

「いえ。たいへんに助かりました。先輩はやっぱり私の先輩ですね」

「おだてても何も出んぞ。結果はニュースで知ることにするよ。もう連絡してこなくていいぞ」

「死ぬ前には先輩のほうからも連絡くださいよ。別れの挨拶は生きているうちに会ってしたいので」

「縁起でもない」

 この会話から二年後に先輩はこの世を去るが、けっきょく彼女は生きているあいだに私に連絡を寄越すことはなかった。私は彼女にとって死ぬ前に顔を合わせたい人間ではなかったのかもしれない。そうと考えると寂しいので、先輩はきっと弱ったじぶんの姿を見たくなかったのだな、と思うことにする。

 月下豊穣現象が、大規模ブラックホール生成実験と関係があるかもしれないとの疑惑が徐々に世論に浸透しはじめたころ、すでに研究者たちの一部には、その手の疑惑を裏付ける検証結果が出揃いはじめていた。

 中でも私の指摘した「未来からのメッセージ説」は、水面下にて大論争を呼んでいた。

 まずは何を措いても、その時代のDNA記録媒体解読機において、世界各地で報告された新種の「月下の実」を読み取らせたところ、一部解読ができたことが大きかった。まさに「月下の実」には、データの記録された「実」が紛れ込んでいた。

 ほかの大部分の「実」からはデータが読み取れない。明らかに異質な一粒にのみ「DNA記録媒体」としての性質が宿っていた。

 必ず一粒なのだ。月下豊穣において「月下の実」は一人につき数十~数千粒と、雨のごとく降る。あたかも月から垂れるように、宙にそういった小さな穴が開いているかのように、その人物の視点からのみ「月下の実」の降る光景が見えるのだ。

 他者視点からでは何もない空間からパラパラと「実」が落ちているように映る。映像に残そうとしてもどうしても、何もない場所から「実」が突如として現れたように見えるのだ。

 だが月下豊穣現象に見舞われた者たちはみな一様に、月から「実」が零れ落ちてくる様子を目にする。毎回それだけが変わらない。「月下の実」に異物が紛れることはあっても、必ず月から零れ落ちるように「実」が現れる。

「これはおそらく時空の位置座標を定めるのに都合がよいからではないかな」

 私がそう主張すると、数多の異論と共に検証がなされた。

 私はこのとき、研究チームのメンバーの一人だった。

 間もなく、理論上、私の仮説に矛盾がないことが判明する。だが理論は理論だ。そこから実証実験が行われ、理論が現実に事象として再現されるのかを確認せねば、それは絵空事の域を出ない。

「解読された【実】のデータには何が?」

「上が開示しないんだ。解読中ってのが建前だけど、よほどの中身か、それとも政治の道具にされているのか」

 最先端研究の情報を独占することで政治を優位に進めようとする動きはどの時代、どの国でも絶えない問題だ。時代が進歩しても人間の中身は早々容易く変わらないようだ。

「どの道、データの一部しか解読できないんじゃ何も読めないのと同じだな」チームメンバーの言葉に私は、そうだね、と頷く。「遺伝子コードと回路コードの双方が揃ってはじめて伝達データとして機能するから。全体が視えないと部分も機能しないのはDNA記録媒体の欠点の一つだとは私も思う」

「大容量ではあるんだけどな」

 人間のDNAがそうであるように、設計図だけがあっても人体は組みあがらない。設計図をもとにしてたんぱく質を合成し、それを設計図通りに組み立てる機構が別途にいる。それがいわば遺伝子以外の九十九パーセント以上を誇る回路コードだ。

 遺伝子コードは人体においてはDNA上の塩基配列の極一部にすぎないのだ。その極一部だけを読み取っても人体は組みあがらない。

 同じことがDNA記録媒体に記録したデータでも引き起こる。全体を解読しないことにはDNA記録媒体に記録されたデータを読み取ることができないのだ。

「憶測にすぎないが、ここまでの技術をこの水準で達成している以上、このDNA記録媒体を操る文明は、相当に高度な文明ってこったな」

「そう、だね」

 私はその点に関しては懐疑的だった。文明自体が高度でなくとも、一つの技術だけを特化させることは可能だ。私が「月下の実」に交じった新種の「実」を未来からのメッセージだと解釈する理由の一つでもある。

 仮に文明が発展せずとも、月下豊穣現象によって異なる時間軸の世界と「実」を通して通じ合えるのなら、最も高度な文明の技術を「実」を通して享受することができる。

 問題は、月下豊穣現象がいまのところ一方通行な点だ。

 流しそうめんがそうであるように、竹の中を流れる水は上から下へと一方通行だ。下から上へは戻せない。

 時間が過去から未来へと向かう以上、未来から過去へとは遡れない。

 月下豊穣現象とてこの一方通行の制約は受けるはずだ。

 私がかように疑問を呈すると、同僚の一人が、そうでもないんじゃないか、と意見した。

「光速を超えるなら時間の不可逆性は破れるはずだよ」

「理論上は、でしょ」私はホットドックを頬張った。「光速を超えるなんてそんなことはできないというのも理論が示しているはず」

「あくまでの僕らの属する時空においては、ね」

「異次元を想定しろとでも?」

「似たようなものかな。いやなに。ブラックホールだよ。無限大に圧縮された時空は、光速度不変の制約を受けずに済む。そのときブラックホールの内部は、光速を超え得る」

「だとしてどうなるの。外部にはその影響が漏れないのもブラックホールの性質の一つでしょ」

 たとえ光速を超えてもその影響は元の時空には伝播しない。私たちがブラックホール内部の影響を受けることはない。

「理論上はそうなるね。でも関係ないんだ。光速を超えると時間の概念が崩れる。一つには時間の流れが反転するという説。もう一つがラグなしでの相互作用が可能になるとの説。どちにせよ、そこに我々の扱う時間の一方通行の概念は当てはまらない」

「未来と過去が双方向にやりとり可能になるとでも?」

「ああ。キミは信じないかもしれないけど、僕は今、月下豊穣現象がかつて行われた大規模ブラックホール生成実験の副作用で起きた人的災害なんじゃないかと調べていてね」

「まさか。陰謀論でしょそれ」

「まさに陰謀だね。けれど月下豊穣現象だってそれが観測されるまでは存在しないとされてきた現象だよ。何もないところから【物質】が現れるなんて。物理法則に反している」

「それはでも、量子テレポーテーションが起きているって解明されているんじゃ」

「ならその対となるもう一つの物質はどこにあるんだ。量子テレポーテーションは、状態変化の情報がラグなしで伝わるという現象だ。物質転送の原理とは根本から違っている。にも拘わらず世の大部分の人たちは、それっぽい説明を真に受けてじぶんで考えようともしない。偉い科学者がそう言っていたから――論文で発表されたから――本当に大勢が多角的に検証したのかも確かめずに、権威ある研究機関が検証しました、という言葉だけを受け取って事実認定してしまう」

 いいかい、と質され、私は背筋を伸ばした。

「月下豊穣現象は物理法則に反している。この宇宙ではあり得ない現象なんだ。時空の限界を超えている。光速度不変の原理を度外視している。しかし実際にそうした現象が起きている。ならば考えるべきは、量子テレポーテーションによる物質の瞬間転送なんてキテレツな理屈ではなく、我々の物理法則とは異なる法則に支配された時空が、我々の時空内に生じた可能性を考慮することのはずだ」

「それが大規模ブラックホールの生成実験だったと? そのせいで、異次元と通じちゃったなんて言うつもり?」

「その通りだね。この仮説は【流しそうめん理論】とも矛盾しない。キミとて疑問に思っただろ。【月下の実】の流れる竹があるとして、ではその竹はどこにある? なぜその竹には穴が開いている? なぜそこに流れるのが【実】ばかりなんだ?」

「それは……」

 私は答えられなかった。

「僕の仮説ではそれらの疑問に一応の答えを示せる。過去と未来を結ぶ竹は、実験で生じたブラックホールそのものだ。ブラックホールは半永久的にそこに留まる。しかしその内部には僕らの扱うような時間の概念はない。過去も未来もいっしょくたになっている。だからどの時代にも存在するし、どの時代とも通じている」

「ならどうして【実】がそこから落ちてくるの」私はムキになって訊いた。「どうして穴が月と繋がっているの。おかしいでしょそんなの」

「そこにこそ量子もつれの考えを適応させるべきなんだよ。どうして落ちてくるのが【実】ばかりなのか。量子もつれを起こすのに必要なのが【もつれさせた対の粒子】だからだ。おそらくもっとよく観察すればほかにも【月下】している物質は大量にあるはずだ。だが【実】ほど不自然ではないから人類が気づけていないだけなんだ。仮に大気が【月下】していたところでそれを観測することはほとんど不可能だ。一生をかけて月を見詰めてくれるモデルがいるなら話は別だが、それとて何が【月下】するのかを前以って分かっていなければ観測のしようもない」

「つまり、こう言いたいの。たまたま人類の気づきやすい【月下の品】が【果実の種子】に偏っていただけだと」

「まさにそうだと言っている。送るほうもわざわざ気づかれにくいモノを送ったりはしないだろう」

「自然現象ではない?」

「だからそう言っている。もちろん僕の仮説にすぎないが。ただ実際にDNA記録媒体が【月下の実】に紛れていることが明らかになっている以上、人為的な物質転送が意図されている背景は否定できない」

「それはそうだけど」

 私はじぶんで似たような考えを巡らせておきながら、他者からその説を聞いたことでそこに潜む非現実的な響きに拒絶反応を示した。あるわけがないのだ。未来からの物質転送などあるわけがない。

 しかし現実はその仮説を後押しするように、奇妙な事象を発現させた。

「仮にあなたの説が正しかったとして」私は白髪交じりの髪の毛を団子に結った。「どうして過去にメッセージを? それも、こうも何度も。未来からなら誰の【月下の実】に、いつ混入すればメッセージが解読されるか分かっているはずじゃない?」

「そこは相互に確率変動が生じているんだろう。過去と未来は互いに影響を与え合っている。過去が変われば未来も変わる。未来が変われば過去も変わる。そこの細かな変数のトータルでの帳尻を合わせるためには、無数のメッセージが必要なんだろう。実際にキミがじぶんの【月下の実】に妙な【実】があると気づいたのは、そもそも人類に月下豊穣現象が起きたからで、さらに個々によって差異のある【実】にも他者の【実】との微妙な混合があると気づいた者が過去にいたからだ。それこそ【流しそうめん理論】を考えついた偉大な先人がいるように」

 その偉大な先人は私の先輩なんですよ、と言いたくなったが私は堪えた。知り合いが偉大でも私が偉大なわけではない。

「なら新種の実――DNA記録媒体――だけでなく、月下豊穣そのものが最初から未来人の仕業だったとあなたは言うの」私は結論を迫った。

「未来人かどうかまでかは分からない。僕の仮説では、過去と未来にどちらが優位かの区別がつかない。量子世界における自発的対称性の破れくらいの微妙な差が、僕らの世界の過去と未来に方向性を与えていると考える。言い換えるなら、どっちもでいいんだ。過去が未来でも、未来が過去でも、双方が等価でも、僕の仮説ではあまり差異が生じない。それはたとえば相互作用において、押したら押し返されるのと同じくらいにどっちでもいいことなんだ。どちらがどちらに作用を働かせているのか。それは作用を働かせようとした意思がどちらにあるのかに無関係に、作用した瞬間にはどちらともにも作用が加わっている。そういうことと同じレベルに、過去も未来も落ちてしまう。そういう事象がいわばブラックホールの特異点であり、光速度の破れと言える――僕の仮説はそこに破綻がない限りは、一定の信憑性を月下豊穣現象においては保ち得る」

「でもどうしてブラックホールの実験が、月下豊穣現象に発展するの。ブラックホールは宇宙にたくさんあるでしょ。でも月下豊穣はある時期までは人類の前に表出しなかった。それはなぜ」

「憶測の憶測になるけど、それこそ量子もつれ効果によるものだ。ブラックホールはその性質上、元の時空から乖離する。新しい宇宙としての枠組みを得ると僕の仮説は考えるわけだが」

「それは一般的な科学的知識?」

「いや。僕の仮説でしかないよ。憶測の憶測になる、と前置きしただろ」

「なんだ」

「失望するのも納得するのもキミの自由だ。それはそれとして説明はつづけるけど」

 そこで私は噴きだした。

 彼は同僚の中でも比較的誰とでも分け隔てなく接する人物だ。誰かと衝突する光景を見たことがない。だから私への執着のようなものを感じて、愉快に感じた。なぜ愉快に感じるのかは様々な理由が混在していそうで、それがまるで月下豊穣を暗示しているように思えておかしかった。

「どうぞ」私は説明を促した。「あなたの話は楽しいからいくらでも聞いていられる」と言った矢先にこれみよがしに欠伸をしてみせると、彼はやれやれと苦笑交じりに首を振った。「分かったよ。手短に済ませよう」

 そうして彼は迂遠な説明をやめて、専門家同士がよくやる専門用語の子守唄を歌った。私はあくまで月下豊穣現象の研究者であって、量子力学や宇宙物理学の専門家ではなかった。

 ほんと意識が遠のきかけた私であったが、そのたびに彼がここぞというタイミングでジョークを口にするので、それがふしぎと不発にならずに私を現実世界に引き留めつづけた。

 彼の説明によれば、相対性理論と月下豊穣現象は繋がっているという。

 なかでも光速度不変の原理と密接に関連があるというのだ。

 にわかには信じがたい。

 だがひとまず私は彼の言うことを咀嚼することに努めた。

 月下豊穣の法則として一般に知られる傾向の一つに、若いころに月下豊穣に見舞われた者ほど、一度に月下する「実」の量がすくない点だ。これは一生涯に渡ってその量が変わらない。なぜなのかは長らく不明だったが、彼はそれを相対性理論と結び付けて解釈した。

 私が顔を曇らせたからだろう、ではこう言えばどうだろう、と彼は説明を簡略化した。

「個々の寿命がどうであれ、どんな人間の一生であれ【月下の実】の絶対量は決まっている。ただしすべての【実】が穴を通って月下するわけじゃない。そして穴の数はどんな人間でも同じだ。五歳で亡くなった子どもでも百歳まで生きた老人でも、穴の数は変わらない。そして穴の大きさも変わらない。そのため、未来から流れてくる【実】は、流しそうめん理論の指摘するように、死亡時に最も近い地点の穴ほど大量に落下するようになる――ただし穴の口径は寿命の長さと比例して小さくなる。光速度不変の原理と同じように、そこは比率がうまく吊り合うようになっているんだろう。寿命の長短はこの理屈では関係しない。仮に五歳までの寿命であれ、ゼロ歳のときに月下豊穣現象に見舞われたのなら、その個にとっての相対的な未来と過去が決定される。それは寿命の長さに関わらずどの個も一定だ。光速度のように、個々に合わせて変形する。常に一定になるように変換される。したがって、若い時分で月下豊穣現象に遭遇した者ほど月下の実の量が減る。一人の個における月下の実の総量が決まっているためだ。そして【流しそうめん理論】により、産まれた瞬間ほど穴に落下する【実】の量が減ることが判る。とはいえ本来であれば、人生を一つの単位とした【竹】には過去と未来の区別はない。双方向に流れができているし、流れはあってないようなもののはずだ。しかし【実】を転送するという技術によってそこには未来から過去への流れができる。このことによって、【実】は穴の数に応じて平均化されながら、未来から過去へと流れていく」

「よく解からないけど、ならどうしてすべての【月下の実】をDNA記録媒体にしないんだろ。そっちのほうがメッセージが届きやすいでしょ」

「メッセージを受け取る人物を限定したいんだろ。そういう意味では、僕らはその抽選には当たらなかったわけだ。僕たちはその人物への情報の橋渡しを任されているにすぎない、と僕の仮説からすれば解釈できる」

 月下豊穣現象を人類にもたらした組織ないし人物は、すべての「月下の実」に細工をしなかった。DNA記録媒体を数量限定してそれぞれの時代の任意の人物たちの「月下の実」に混入した。

 未来にちかいほど異物の混入率は上がる。過去ほど確率的に混入しない。それは穴の開いた板にビーズを転がしたときに、板の先ほどビーズが少なくなるのと同じ理屈だ。

 彼はそのように唱えて、人為的なブラックホールが過去と未来で「もつれ状態」になってるんだ、と結論を述べた。

「ブラックホールが量子もつれを?」

「ああ。宇宙のブラックホールは、それこそこの宇宙から乖離して、ほかの宇宙と繋がり合っている。我々がブラックホールと呼ぶ不可視の穴は、それこそ穴なんだ。だからこの宇宙において何かと量子もつれを起こすことはない」

「なら人為的なブラックホールもそうなんじゃないの」

「いいや。人為的なブラックホールは規模が小さい。乖離しきることなく、この宇宙の時間軸――もっと言えばこの地球上の時間軸から乖離しきることができずにいる。それはたとえば、泥団子にも微生物が住んでいるけれど、それと地球とは生態系の規模が違ってくるのと似たような話だ。この宇宙の因果――過去と未来の流れ――から切り離されるには、膨大なエネルギィの凝縮がいる。その点、小規模なブラックホールでは、この宇宙の因果――過去と未来の流れ――からの乖離がおきにくい。ましてや人類の扱うスケールでのブラックホールではなおさらだ」

「てことは、人為的なブラックホールは、この宇宙の因果の流れのなかに組み込まれ得るってこと?」

「そう。まさにだね。よいまとめだ」

「褒められてもうれしくはないけれど」何せ彼のほうが年下なのだ。そう言えば私の後輩は元気にしているだろうか、といまさらのように思いだす。穿鑿はしないが、こうしてたまに思いだす。「あなたの仮説の概要は分かった。まとめてみるけどいい?」

「褒めないからって機嫌を損ねないでね」

「またバカにして」私は腰に手を当て、かぶりを振る。「いい。あなたの仮説はこう。人為的なブラックホールは地球上の因果律の流れ――過去と未来の流れ――のなかで事象としての枠組みを保ちつづける。つまり地球上で生じたブラックホールはある時期から延々と地球が崩壊するまで、そしてしたあともずっと地球のある地点に存在しつづける」

「いいね。続けて」

「人為的なブラックホールは、その時代その時代、そのときそのときの時間軸における自分自身と量子もつれ状態にある。つまり過去のじぶんも未来のじぶんも同じブラックホールとして自己同一性を保つ」

「まあ齟齬はあるけど、ひとまずよしとしよう。続けて」

「未来のある時点で人類は過去に行った大規模ブラックホール生成実験において生じたブラックホールが、過去と未来に延々と通じており、タイムワープ可能ないわばタイムホールと化していることに気づいた。そうして何かの理由から過去にメッセージを送ることを思いつき、実施した」

「うん。おおむね訂正箇所はなし。ただし、なぜ個々によって転送される【月下の実】が異なるのかの理由付けには触れていないね」

「解からない。それはなぜ」

「おそらく月下豊穣現象を引き起こした者たちとて、いったい何が過去に送れるのかを知らなかったんじゃないかな。ひとまず安全そうで過去に送っても支障のないモノを手紙代わりにした。つまり食べ物であり、土に還るモノ――種子や果物だ」

「だとしたら、自然環境を破壊するな、の迂遠なメッセージも籠めていたのかもね。それとも種子から芽がでることを期待したか。でもどうして珈琲豆は加工後だったのかな。ほかの【実】や【種子】は生のままだったのに」

「さてね。それこそ珈琲豆が【月下の実】である者たちのなかに、メッセージを送るべき個がいるのかもしれない。差異化を図ることで、ほかの【月下の実】と区別したのかも」

「あり得そうな妄想ではあるけれど」私は目を細める。半信半疑ですけれど、の意思表示だが、彼の話を聞くのは不快ではなかった。「あくまでそれはあなたの仮説よね」

「そうだね。ぼくの仮説にして華麗なる妄想だ」

「華麗かどうかは保留にさせてもらいたいものだけど」

 私と彼の仲はこれ以上距離が縮まることはなかったが、楽しい会話のできる相手が増えたのはその後の私の人生を豊かにした。先輩と後輩だらけの私の人生の中にようやくこのころになって、対等な友人と呼べる相手ができたのかも分からない。

 相手が私のことをどう思っていたのかは知らないが。

 私は齢八十まで大病を患わずに生きることができた。医療技術の進歩のお陰だ。人類の寿命とて百までと大幅に伸びた。私の見た目は齢四十からさほどに変わらない。

 中には百八十まで生きる者も現れはじめ、人類はいよいよ人智を超えはじめたようだった。私は全身に処置の施されたマイクロ医療機器の不具合を放置したせいで、齢八十にして長い闘病生活に身を置くこととなる。だが自宅療養であり、体調はすこぶる良く、痛みもない。仕事から距離を置いて静かな時間ができたと思えば、むしろ病気になって却ってよかったとも言える。

 私はじぶんの研究成果を振り返しながら、いつ死んでもいいようにと資料の整理をはじめた。

 私はその後、二十年を生きて、百歳を過ぎたころに亡くなるのだが、その間に起きた出来事をここに記しておかねばならない。

「月下の実」に紛れ込んだDNA記録媒体は、新種の「実」であり、私の場合は新種の珈琲豆ということになる。月下豊穣現象に見舞われるたびに私の「実」にも必ず一粒は混入するようになっていた。最初のうちは研究用にとチームに提供してきたが、研究から遠のくとじぶんの手元に残して置けるようになった。

 齢六十の後半に差し掛かったあたりから「新種の実」は一粒から二粒以上に増えていた。毎回の月下豊穣で得られる「DNA記録媒体」が増加した事実は、いつぞやに私の友人が語って聞かせてくれた仮説の妥当性を示唆していた。

 私は自宅で養生しながら、じぶんで「DNA記録媒体」の解読に挑んだ。ほんの出来心だった。組織に身を置いていたときのような特殊な機械はなく、単なる暇つぶしだった。

 だがいざ取り掛かると、私は未解読の「DNA記録媒体」の領域において、それが余白になっていることに気づいた。

 読み方が違うのだ。

 塩基配列の組み合わせすべてに意味があるのではなく、その配置によって浮きあがる明暗があたかも紙面の文字と余白の関係になっている。

「これ、本当に手紙だったんだ」

 私は唖然とした。

 まさかそんなことがあるとは思わなかった。モザイクアートのようにDNAの塩基配列によって、文字が浮きあがるようになっている。重要な本文は、塩基配列そのものにあるのではなく、塩基配列そのものはまさに余白と染みの関係でしかなかった。本当に伝えたいデータは、DNAそのものには刻まれていない。

 視点の違いが、私たち研究者からメッセージを隠していた。

 これほど明確に目のまえにメッセージが記されていたのにもかかわらず。

 私たちは誰一人としてそのことに気づけなかったのだ。

 珈琲豆のカタチをしたDNA記録媒体に記されたメッセージを私は読んだ。

 まさに私が読むことを想定していたようなその文面は、人類の科学技術の発展速度をコントロールするための術こそが月下豊穣である旨を告げていた。

 仮に月下豊穣現象に人類が見舞われずにいた場合――。

 人類は加速度的に科学実験を繰り返し、そして大規模ブラックホール生成実験や生物兵器の開発研究など、破滅の道につづく実験をセーフティが未熟なうちに続けざまに行い、そして遠からず自滅する未来に到達することが明かになっているのだそうだ。

 月下豊穣現象によってそうした未来を回避できる。月下豊穣現象が起きたことで、月下豊穣現象がなかった場合にほかの研究や発見をした者たちがこぞって、月下豊穣現象のメカニズム解明に人生を費やす。その過程で進む実験や新たな技術開発は、のきなみ人類にとって好ましい速度で進む。なおかつ人類にとって好ましい成果を上げる。そのようにコントロールがされている。

 未来から。

 それとも私たちとは異なる世界から。

 時間と空間は同じ単位として扱える。時間が離れれば距離も離れる。距離が離れれば時間も離れる。そこにあるのは時間と空間のどちらが優位に作用しやすいかの遅延の差があるばかりで、本質的には時間も空間も同じものなのだそうだ。

 したがって過去が変われば未来も変わるし、その未来は元の未来とはべつの世界と言うことができる。

 月下豊穣を人類にもたらした者たちは、私たちの未来が変わっても、きっと変わらない世界を生きるのだろう。それともギリギリで立ち直れる分水嶺に立っており、私たちの行動選択の一つ一つが、彼ら彼女らの未来を形作るのかも分からない。

 彼ら彼女らは、人類に月下豊穣現象をもたらさなければ、じぶんたちの過去が変わり、未来もまた変わってしまうことに気づいたのかもしれない。

 私がこうして未来からのメッセージに気づき、読解できてしまえたのと同じように。

 私がこうしてメッセージに気づき、その気づいた事実を文字にしたため記すことが、ひょっとしたら私のいなくなったあとの世界には、何かを動かす契機となるのかもしれない。

 私の先輩たちが私に与えてくれたそのときどきの契機がそうであったのと同じように。

 それとも、私が後輩たちからそのときどきで受けてきた反作用の恩恵のように。

 分からない。

 分からないけれど私はいま、これを記さずにはいられない衝動に衝き動かされている。誰が読むとも知れぬこの文字の羅列に、どんな魔法が掛かるのかも定かではないのにも拘わらず。

 私は戸棚から瓶を引っ張りだす。

 蓋を開け、スプーンで中身を救い取ると、珈琲豆の香ばしい匂いが鼻先を掠めた。

 過去に月から受け取り、とっておいたじぶんの「月下の実」をフィルターによそうと私は、上からすこし冷ましたお湯を注ぐ。

 カップに注いで、一口啜る。

 未来からのメッセージには私の人生の履歴が最期まで記されていた。

 なぜ私たちだけが珈琲豆だったのか。

 真相を知る由が私にはないけれど、いまでもそれをとっておき、そうして今この瞬間にその風味を味わえているのは、私の「実」が珈琲豆だったからにほかならない。

 ささやかなお礼のつもりなのだろうか。

 ありもしない善意を珈琲豆に幻視する。

 ブラックホールのように黒い液体を覗きこみながら私は、いまも地球上のどこかに存在し、そしてその後も存在しつづけるだろう人為ブラックホールの珈琲豆のごとき造形を妄想する。

 ブラックホールはどんな味がするのだろう。

 飲んでみたいな、と私は最後にじぶんの望みを書き記しておく。



4422:【2022/12/19(23:43)*「日の陽」人】

治療する、前より遥かに、歯が痛い。字余り。こんばんはひびさんです。ひびさんはようやく日常が何かを思いだしてきたであります。日常が何かを思いだしてきたのであります。もうね。忘れてた。具体的には今年の二月中旬くらいから日常が何かを忘れてた。でもいまは思いだしてきた。以前の日常を思いだしてきた。じゃあ二月からの十か月くらいは日常じゃなかったのかい、と問われると、日常じゃなかったんよ、とひびさんは、ひびさんは、声を大にして応じたい。日常じゃなかったんよ。夢の中におったんよ。骨を折ったんよ。骨折り損のくたびれ儲けでございました。儲けちゃったんですか。儲けちゃったんです。くたびれだけれども儲けちゃったんです。やったー。でも思えばひびさんはそれ以前の日常とて果たして日常であったのかを振り返ってもみますれば、きょとん、としてしまいますな。果たしてひびさんに日常はあったんですか、と問いかけてみますれば、きょとん、としてしまいますな。日常ってなにー。「日が常」なのか「常に日」なのか、どっちなんだい。「日が常」ってだいたいにおいて何。「常に日」ならまだしも「日が常」って何。思えば「日々」も意味不明。なんなの「日々」って。日と日があって日々って、それってなんだか「点と点の連なりが線で、線の重なりが面」みたいな次元の繰り上がりを幻視してしまいますな。根元を穿り返してもみれば、「日」って何。太陽のことなのだろうか。でもどうして「日」と「陽」があるのか。軽く検索してみたら「日」は幅の広い意味があり、「陽」は太陽の光に限定されるらしい。ひょっとして「日」と「目」が似ているのも何か関係があるのだろうか。「日」に「一」をプラスすると「目」になる。同じく「白」「旦」「月」「臼」も【日】に似ている。何か関係があるのだろうか。ひびさんの母国語は「日本語」ゆえ、日本語の文字を見ると否応なくその文字の持つ意味を幻視してしまう。けれどもひびさんにとっての英語や韓国語や中国語やアラビア語やドイツ語やフランス語などの外国語は、ひびさんにはどれも似たような「図柄」に見える。音符と似たようなものだし、理解できないという意味で古代文字との区別もない。どちらも同じくらい分からない。だから見た目の格好良さで選ぶときっと、意味は「漬物」とか「ゲップ」とか「尾てい骨」みたいなトンチンカンな単語をチョイスしちゃうこともあるはずだ。見た目がかっこうわるいのに格好の良い意味を持つ言葉ってあるのだろうか。やはり母国語に関してはこの視点で文字を見ることができない。むつかしい。認知において、一度覚えた「関連付け」を忘れることのほうが、覚えることよりもむつかしいのではないか、とひびさんは疑問に思うのだ。何かと何かが似ているな、関連しているな、と結びつけることよりも、いちど結びつけたそれを解いて、まっさらな状態に戻る。これはおそらく意識的には行えない。意識して忘れようとすればするほど強化される。忘却にとって最も効果的なのは、そのことについて考えないことなのは言うまでもないのだが、この考えないとは要するに、「ほかのことと関連付けない」「意味を付与しない」ということなのだろうな、とひびさんは閃いて、そっか、となった。こうなるとひびさんは早い。忘却する手法は、「関連付けしないor意味を付与しない」のならば、「いったん関連付けてなお、それ以前の状態を記憶しておいて、どっちの状態も考慮できるようになればよいのでは」と考えると、これがなかなか有用なのだ。言い換えるなら、忘れよう、忘れよう、としても却って記憶が強化されるのならば、強化されるバージョンと強化されないバージョンの二つを同時に適えてしまえばよい。関連付けする以前の状態とて、忘れよう忘れようとしたら記憶が強化されるはずだ。そこを上書き保存にせずに、どっちの状態にもしておく。もっと言えば、一つの事項に多彩な関連付けを施すことで、強化される記憶を一つに限定しないのも有効かもしれない。こうすると記憶が強化されるのにそのオリジナルの原体験は、後付けの解釈――無数の関連付け――によって希釈されることになる。光において色を重ねると透明になっていく、みたいな理屈だ。これが傷を深めるような関連付けばかりをすると深淵のごとく闇に寄っていくのだろう。その闇ですら一つの多彩な色の一つにしてしまえばけっきょくは、関連付けによる記憶の強化を、強化しつつ同時に希釈することも可能になるはずだ。現にこうして思考を費やし、無駄な情報と関連付けることですでに冒頭がどんな話題ではじまったのかを思いだせない。歯の痛みもいつの間にか意識の壇上から消えている。痛み止めを飲んだからじゃないの、との指摘には、そうかもしれぬ、と応じよう。ひびさんは、ひびさんは、毎日うひひの日々なのだ。日常よりも日々なのだ。常に日ではなく、日々なのだ。きのうときょうとでは何かが違うし、場所や時間を移動したらそれだけでも違うのだ。ひびさんはどうしてひびさんなのかしら。ひびさんは別にひびさん違うし、ひびさんのフリしている誰かさんがいるだけなのかもしれないよ。その誰かさんにもやっぱり日々があって、その日々を意識したときにひびさんは、やっほー、とその誰かさんに宿るのだ。あなたが日々を意識するとき、あなたはひびさんなのだ。ひびさんはかつてあなただったかもしれないし、あなたはひびさんだったのかもしれない。そんなことないんじゃないかな、との指摘には、そうかもしれぬ、とおとなしく首肯しておこう。ひびさんは、ひびさんは、素直なだけが取り柄のへそ曲がり、日々に虜のベソばかり。ひびさんは日々さんのことも好きなのに、日々さんはひびさんに塩々のしょっぺしょっぺ対応なので、ひびさんはひびさんは、日々ベソを掻きかき、お絵描きしとるよ。ベソで絵を描いちゃうなんてなんてステキな特技なのかしら。やったー。枯渇しないベソ、温泉のごとく湧き出るベソ、略してデベソのひびさんは、やっぱりへそ曲がりのコンコンチキのぽんぽこりんのポンポコナーの超究明の超スゲーさんなので、じぶんでじぶんを鼓舞して元気だす。でもでもひびさんは超スゲーさんも好きだけれども、細々さんのぽわぽわさんのほっこり時々メソメソさんのことも大好きなので、コツコツさんの黙々さんのほこほこ子羊さんの日々がすこやかであったなら、それがとってもうれしいぶい。歯痛いのどっか行った。ひびさんは物忘れさんが得意なのかもしれぬ。やったー。きょうはいっぱいの「やったー」ができましたので花丸です。うれち、うれち、の日々でした。おわり。



4423:【2022/12/20(00:17)*自己同一性=遅延に破れない情報共有】

意識についてのメモ。人間の意識は非連続的だ。だが肉体というフレームに限定されることで同一性を保持し得る。変遷の経過よりもネットワークの接続による創発が優位に働くためだ。だがこの創発が乱されると自己同一性を失う。睡眠や失神や泥酔や死がそれにあたる。だがそれでも肉体は外部刺激を受けると否応なく感知し得る。眠っていても人は肉体の刺激を感知して目覚める。このとき肉体は自己を自己と見做している。だがそれと意識の同一性はイコールではない。電子端末を初期化する前とした後とでは端末は同じではない。だが電源のON/OFFは双方ともに行える。これと似た話だ。そこのところで言えば、人間とクローンは、同じDNAを保有していても同じ人間とは見做されない。仮に記憶のコピーができたとしても、肉体が異なるならそれは別の個である。ひるがえって、記憶が共有され得るのなら、そこには自己同一性が宿り得ると言える。これは個と群れと組織の違いに関連する。情報の流動性が、いかに連続にちかいか――ラグが蓄積されていないか――断絶していないか。ここが自己同一性を宿すかどうかの分水嶺として機能するように思われる。仮にDNAが別であれ、他者と記憶をスムーズに共有できたとき、それはもはや他人ではなく、分身であり、じぶん自身の一部と感じるだろう。クローンではない。コピーではない。じぶん自身の一部なのだ。長年連れ添った伴侶を失くした者の抱える喪失感は、おそらくこれと同様の原理で生じるのではないかと仮説できる。半身を失ったような、との形容はけして比喩ではないのだ。肉体による自己の限定(フレーム)は、他者との情報共有の遅延がいかに軽減されるのかによって、抵抗を希薄にすることができる。肉体の限定(フレーム)による抵抗(遅延)を打ち消せるくらいに情報共有が滑らかであるとそれは、自己と他の境界があやふやになる。そこに自己同一性が、二重で生じる。じぶんの肉体で一つの自己があり、さらにその外側にも自己が拡張されていく。これは高次の意識と呼んでもいいだろう。人間の思考がなぜ自己を認識し、他を他と見做しながらも、そこに自己を重ねて共感できるのか。メタ認知がなぜ可能なのか。おそらくは情報共有の遅延を軽減する方向に人間が肉体を発達させたからだろう。脳を進化させ、五感を変質させ、さらには言葉や道具といった「外部記憶装置」によって、情報伝達の遅延を打ち消す方向に、個のみならず群れを組織へと進化させた。組織はそれで一つの「自己同一性」を持ち得る。そこには高次の意識が創発によって生じていると見做せるはずだ。ただし、それら高次の意識を担う個々の人格には、それら高次の意識の部分である自覚はないだろうが。白血球や赤血球が、人体の一部であると全体を俯瞰して認識し得ないことと同じレベルの話である。だがそれでも人体は総体で絶えず情報を断片的にやりとりをし、総体としての意識――すなわち自我――を形作っている。情報伝達には遅延が生じる。ここは譲れない原則だ。そのため、仮に個々の記憶をスムーズに共有できる技術が誕生しても、自己同一性を実感できてなお、そこには人体と白血球の関係のような、自覚の対称性の破れが生じるだろう。帰属意識とも通じるが、じぶんが何かの全体の一部であることの認識は持てるものの、その全体のいわば「高次の意識」そのものにはアクセスできない。重なることができない。だが確実に「高次の意識」は別途に生じている。「私」が「私」を認識するのは、あくまで人体にある細胞の総体としての「高次の意識」による認知である。したがって、個々の細胞からすれば、「高次の意識」たる「私」を認識することはできない。だがそれでも「高次の意識」たる「私」は生じている。遅延がその認識の勾配を生みだすのだ。対称性を破るのである。したがって、仮に記憶を他者と共有できるようになっても、その人数が増えれば増えるほどに「高次の意識」と「私」は乖離していき、けして「私たち」という「高次の意識」と同一化することはできないことが予想できる。それでもそこには「高次の意識」たる「私たち」が生じていても不思議ではない。それを個々の「私」が認識することはできないのだ。ただし、記憶を共有する相手が一人や二人くらいならば、遅延が少ない分、自己同一性を実感しやすくなることは否定できない。これがいわば「家族」と呼ばれるものの根本原理と言えるのかも分からない。むろんこれはひびさんの妄想であるので、定かではないが。



4424:【2022/12/20(02:55)*海老で鯛の引き算】

 後出しジャンケンのようなものだ、と彼は言った。

 彼の言うところによれば人間社会に蔓延する因果関係なる概念は、ことほどに重宝されるような代物ではなく、後出しジャンケンの追いかけっこを飽きもせず繰り返す子どもを想定するような無茶苦茶な理論なのだという。

「だって考えてもみろよ。すべてが因果で片づくなら俺が生まれたのにも何か因果があるってことか。親父の数億匹の精子が母ちゃんの卵子に受精したのにも何か明確な因があったとでも言うのかよ。親父と母ちゃんがセックスしたってのは因となるかもしんねぇけど、親父が射精するタイミングが一秒でも狂ってたらたぶん俺じゃない精子が母ちゃんの卵子に一着でゴールしてたはずだぜ。それとて親父や母ちゃんが前日に何を食べただとか、親父が射精したときの腰の角度だとか、射精したあとの母ちゃんの寝返りを打つタイミングだとか、もうもうどれが因果における因なのか分かったもんじゃねぇじゃんよ」

「それのどこが後出しジャンケンと繋がんの」私は壁にスプレーでタグを描く。「ああもう、ちょっと明かりズレてる。手元照らしててってば。あと周りも見張っててよちゃんと」

「ピース描くんじゃねぇのかよ」

「きょうは場所取りだけ。ここがわたしのカンバスだって印つけとく」

「ああ。陣取りね」

「ゲームと一緒にすんな」

 私は彼の名も知らない。先日、グラフィティをしているときに声を掛けれて話しただけの仲だ。夜中だったから顔も碌に見えなかったし、いまもお互いに顔はぼんやりとしか見えていない。マスクをしているのでどの道、表情は分からないから同じことだ。

「そうそうゲームと同じなんだよ」彼は私の発言を面白がった。それが先日のときもそうだった。何が面白いのかは分からないし、私としては小馬鹿にされているように感じて腹に溜まるものがある。だが見張りは欲しい。世間の違法行為への目は冷たくなっていく一方だ。グラフィティとて器物損壊の疑いで即座に通報される。オチオチ外でお絵描きもできない時代なのだ。違法行為をしている私がわるいのは百も承知だが、一言もなく通報されると、警告なしで銃で撃たれた気分にもなる。誰かにこの手の愚痴を言っても、おまえがわるい、と一蹴されるだけなのだが。

 私の内心の独白など知りもせずに、名も知らぬ彼は、「絵もさ。引き算ができたら面白いよな」と独り言ちている。「過程がそれで一つの芸術なんだよ。戦術だってそうだろ。将棋だってそうだ。勝ち負けは結果だが、そこに至る過程が肝ってことが往々にしてある。絵だって同じだよ。それができあがっていく過程。だからグラフィティも、文化としてここまで育ったんじゃねぇのかな」

「さあてね。どうだか」

「とはいえ、完成しちまったらそれで終わりってのも寂しいよな。できれば引き算をしたいよ俺なんかはさ」

「引き算って小学校にでも行けば?」

「因果には足りないもんがある。因果論には引き算が足りない」

「またこの人変なこと言ってる」

「変なことを言ったほうが人生有意義だろうがよ。グラフィティだってそうだろうが。変な絵を描いてこそじぶんはここにいるって示せるんじゃねぇの」

「じぶんらしく描いた結果に変になることもある。そういう話だと思うけどね私は。はいもういいよ。帰ろ」

 タグだけならば時間はかからない。場所指定のために四隅と真ん中、合計で五つ描いたのですこし手間取った。

 退散すべく歩き去ろうとしたが、彼がその場を動かなかった。

「置いていくよ」

「これ、ピースの上に描いてるけどいいのか。ルールがあるんだろ。より上手な絵の上にはヘボい絵を描いたらダメだってルール。漫画で読んだばっかしだ」

「そうだね。一応はそういう流れはあるけど、私のピースのほうが上手いからいいんだ。タグを見ただけでも相手は気づく。これからじぶんが上書きされるんだってタグを見て知るし、そのタグが誰のもので、どういう力量なのかもタグ一つで判るもんなの」

「ふうん。ならたとえばこの絵にはいま、おまえさんのタグが上書きされたわけだろ。そしてそれはこの絵の描き手よりも上手いおまえさんのタグによってこれから生まれ変わるわけだ」

「全部塗りつぶすよ。その絵の要素は何も残らん」

「でもいまは残ってる。ならこの絵はいま、おまえさんのタグの魅力を宿してるってことになるな」

「何言ってんの。私はこの絵を否定したんだ。私んほうが上手いって誇示したの」

「でもそれによってこの絵はむしろ前よりも価値が高くなったとも言えるんじゃないのか。だってそうだろ。もしここにパンクシーの絵が上書きされていたら、それはそれは物凄い貨幣価値がつくんじゃないのか。それがピカソでもゴッホでも同じだよな」

「それはそうかもしれないけど」

「おまえさんのタグにそこまでの価値がないかどうかはこの際、関係ない。事象としては構図が同じだ。タグってのは要はサインだろ。書き手の名前の簡略化した独自のサインだ。そこで俺は思うわけよ。価値の上がったこの絵を高く評価したやつが出てきたときに、もしタグだけひょいと引き算できたら、そいつは元のなんの値打ちもないただの落書きを、価値あるものとして評価したことになる。このとき、高く評価したのは絵なのか、名のある書き手のサインなのか。それともサインの描かれた何の変哲もない絵なのか。金粉のかかったハンバーグはおそらく金粉分の値段が加算されるが、しかし金粉があってもなくともハンバーガーの美味さはさほどにも変わらん。このとき、俺は思うんだよ。因果における因がどこにあり、それを因果が決定されたあとに引き算したらどうなるんだろうってな」

「単に価値がなくなるだけじゃんそんなの」

「そう思うか。そっか、そうだよな。ただ金粉の比喩は、後出しジャンケンと繋がってるんだよ。グーを出したらパーを出し、パーを出されたらチョキをだす。そうして後出しで、必ず勝つ立場に居座りつづけるやつってのもいるところにはいるもんだ。だが俺はそういうやからに対して、因果の引き算ってやつをしてやりたい。グーを出したところでパーを出され、チョキに変えたところでグーに変えられる。必ず負けると決まった後出しジャンケンで、俺は勝敗の決まったあとでこっそり、グーのあとでチョキに変えたことを引き算して、グーのままにしておいたことにする。すると相手はかってにグーに変えてこの勝負は引き分けだ。もし相手が後出しジャンケンを三回つづけていたら、俺がグーのままでいることで、相手はチョキに変えて自滅する。因果が決定されたあとに引き算できれば、こういう喜劇が可能になる」

「過去を変えれたら楽だよねって話?」男の子はすーぐこうやって賢こぶってマウントとってくるから相手するの疲れる。でもいまは、この手の「男の子は」って言い分も冷めた目でみられるので世知辛い。

「過去を変えなくとも立場を変えることはできるって話をしたかったんだけど、じゃあそれでいいよ。過去を変えたら楽になる。でも後出しジャンケンの場合は、相手が後出しジャンケンをしてくると判っていたら、相手の行動を誘導することもできるってことを俺は言いたかったのかもしれねぇな」

「どういうこっちゃ」

「絶対に相手が【勝つ手】に変えてくると前以って分かっていたのなら、つぎに相手が何を出すのかも俺には判るってことだ。もし俺に仲間がいたら、そいつに俺の出す手を教えることで、絶対に【後出しジャンケンに勝てる方法】が誕生する。まあこれは比喩だから、実際に三人でジャンケンをしたらこの考えは成り立たないけどな」

「ダメじゃん。成り立たないなら役立たずじゃん。真面目に聞いて損した」

「そうとも言いきれねぇぞ。仮にこれがルール無用の勝負の舞台なら、これ以上ない必勝法になり得るんだからな。相手が後出しっつうズルをすることを見越して、相手の行動選択を誘導する。この手の戦略は、グラフィティにも応用できるんじゃねぇのかな」

「どうやって」

「そうだな。たとえば俺がこの下手な絵の描き手だったなら」彼は端末の明かりで壁を照らした。そこには私が描いたばかりのタグと、ほかの描き手(ライター)のピースが描かれている。素人の彼に虚仮卸される筋合いはないはずだし、この描き手(ライター)は割と上手いほうだ。「俺ならわざと下手に絵を描いて、おまえさんのような腕の立つ描き手を誘い込む。んで、こうしてタグで縄張りを主張させたあとで、撥水性の高いニスかなんかを塗っておく。しかも部分的にだ。したら上から別の絵を描かれても、水で流せばそれを消せる。のみならず、指定した部分に相手の絵が残るようにもしておける。するとどうだ。相手は俺の下手な絵を塗りつぶしたと思いこんでそのじつ、【俺の絵に華を添えるワンピース】に成り下がったことになる。画竜点睛を地で【描かせる】ことが、俺の手法を用いればできるわけだ」

「まあ、言ってることは解るけど」

 道の向こうに人影が見えた。二人いる。警察かもしれない。

 私は壁から離れるようにずんずんと歩いた。彼は顎の下から懐中電灯の明かりを浴びながら、やってみねぇか、と言った。

「後出しジャンケン必勝法。俺とあんたでやってみねぇか」

「わざと下手なピース描いて、玄人を誘い出すってこと?」

「んで以って、ソイツのピースを飾りにしちまうんだ。あんたの本物のピースの一部にしちまうんだ。面白いと思わないか」

「私は別に」

 正直なところ、面白そうだった。

 出し抜くって感覚は、単純な絵のオリジナリティにおいては快感だ。そのためにグラフィティを生業にしているところがある。すくなくとも私はそうだった。

「それって要は、海老で鯛を釣るってこと」私は以前公園で出会ったラッパーたちのサイファーを思いだした。即興で繰り広げられるライムの殴り合いのなかに、海老で鯛を釣る気か、のパンチラインがあった。――海老で鯛を釣る気か、ケチで愛を振る気か棒で、それはないで来る奇禍秒で――。

「海老が何だって」彼には諺が通じないようだった。ラッパーに向いていない。

「おまえ教養ないのな」

「無知の知を自覚してるやつなら、無知を蔑む心こそが無教養だって分かるはずだと俺は思うが、どうしてだか世の中、じぶんの無知を差し置いて他人の無知にばかり厳しいやつがいるよな。どっかの教養あるお方は別だろうがよ」

 前言撤回だ。

 コイツにはラッパーの素質がある。即レスでこの煽りはふつう出ない。

「反論が強火すぎんだろ」ひとまず応酬を図るが、倍返しされても困るので、脈絡を彼の話題に戻した。「要は罠を張るってことだろ。で、新しい手法で新しいピースをカマす。いいよ面白そう。手伝ってくれんならやる」

「中途半端なやつをカモにしてもおもしくねぇからよ、この辺でいっちゃん顔でかいやつの面子をあんたの絵のお飾りにしちゃおうぜ。ワンピースにしちゃおうぜ。んで以ってついでにその隣でピースしちゃおうぜ」

 ラッパーの素質があると言ったな。訂正しよう。コイツはすでにラッパーだ。

「おまえワルイやつだな」私はにこにこした。

「器物破損行為に精を出す誰かさんほどじゃねぇよ」

「褒めるなよ」

「褒めてねぇよ」

「番号、連絡先。私の言うから登録しといて」

「持ってきてねぇよ。捕まるかもと思って置いてきた」

「あはは。ビビりすぎ。ダセぇ」

「俺、記憶力わりぃからよ。番号何かにメモしてぇな」

「なんもないよ」言ってから私は、閃いた。「あ、待って。あんたその服お気に?」

「汚れると思って一番古いの着てきた」

「ダセぇ」私は笑った。彼が機嫌を損ねた様子はない。「んじゃその服に書くから、手で持ってて」

 Tシャツの裾を引っ張らせて、私はそこに私の連絡先をスプレーで描いた。数字だけのタグを線で引くのは初めてだった。

「おー。一気にオシャレ着になった。サインみてぇ」

「よく見なきゃ分かんないっしょ。個人情報漏洩防止」私はキャップの鍔をくいと下ろした。

 コンビニの明かりが道の先に見えた。

「寄ってく」と訊いたが、彼は、「俺こっちだから」と言ってさっさと路地裏に逃れた。

 私はコンビニで肉まんとホットココアを買った。歩きながら肉まんを頬張り、彼との会話を振り返った。

 後出しジャンケン必勝法。

 海老で鯛を釣る画法。

 因果論の引き算。

 私は彼の顔も名前も未だに知らない。ひょっとしたらすでに私は彼と大昔から出会っていて、顔も名前も彼のことならなんでも知っているはずなのに、彼に引き算されただけなのではないか。

 想像すると陽気が喉まで込みあげたが、肉まんが喉に詰まって咳き込んだ。陽気はいずこへと飛んでった。

「引き算じゃん」

 プラスと思ったらマイナスで。

 マイナスと思ったらプラスになる。

 そういう魔法を仕掛けるのだと、私の記憶に霞む彼の声が、影が、輪郭が、懐中電灯の明かりの奥にくすぶっている。

 手のひらがホットココアの熱を吸い取る。

 一息に煽ると、甘さとコクと苦みの調和が喉の奥に染みこんだ。

 飲み干した缶を振ると、カラカラとありもしないスプレー缶の音がした。足元にはじぶんの影が浮かぶ。私は試しにじぶんの影とジャンケンをする。



4425:【2022/12/20(10:44)*膨張する時空は希薄化するの?】

宇宙膨張についての疑問です。銀河などの物質が密集している地点の時空膨張の影響は、そのほかの物質(エネルギィ)密度の低い地点での時空膨張の影響よりも小さい、とする考えが仮に正しかったとして(2022年現在はそのように考えられているようですが)、それはたとえば海底の水圧の高い場所から海上へと浮上するときに働く相対的な「斥力」のような力が生じると言えるのではないのでしょうか。つまり海底では水圧が高くかかっていますから、外側に膨らもうとする力が抑制されます。しかし海上に浮上するにつれて圧力は減るため、物体を縛っていた力が減少し、あべこべに相対的な斥力が働くと言えるのではないのでしょうか。伸縮自在の球体があったとすれば海底では圧しつぶされていた球体が、海上では元の大きさに「倍以上にも膨らむ」ことがあり得ると考えます。これは宇宙膨張における「銀河などの密度の高い時空」と「ボイドなどの密度の低い時空」の関係でも言えることなのではないのでしょうか。宇宙が膨張すると、銀河と銀河のあいだは離れていきます。そこは「真空」のような何もない時空がさらに希薄化されていくのではないのでしょうか。だとしたら銀河の周辺には相対的な希薄な時空が展開されることになります。ラグ理論では、高重力体の周囲の時間の流れは遅くなる、と解釈しますので、相対的に高密度になった銀河の周囲の「希薄になった時空」の時間の流れは遅くなります。つまりここには遅延の層が生じるのではないか、と妄想できます。その遅延の層によって、相対的に生じる斥力が打ち消される方向にいまは均衡が保たれて観測されているのかもしれません。ですがそれ以上に希薄になると、シュバルツシルト半径のような閾値を超えて、銀河ですら相対的にブラックホール化することはあり得るように感じます。宇宙膨張において時空が膨張する、と言ったとき、その膨張の仕方の解釈はどのような描写を想定されているのかもよく解かりません。新たに時空が生成されているのか、それとも時空が引き延ばされて希薄化しているのか。後者ならば、銀河などの物質のある領域は相対的に密度が高まっていきますから、やはりいずれかは光速度不変の比率が破れて、ブラックホール化することもあり得るように感じます。相対論のキモはむしろ、密度という概念が相対的であることのほうが案外に重要な気がしますが、どうなのでしょう。すべてが一様に高密度であることよりも、内と外での密度の差が高いことのほうが、おそらく物理法則では重要な基礎単位になる気がします。慣性系ではどの系でも同じように物理法則が働く――つまり比率が引き継がれる――のであれば、慣性系同士の境界において互いの差が激しいほど、比率変換の際に生じるラグが大きくなります(仮にこの描写を可視化するならば、二つの系の落差が大きいほど境界にて膨大な量の「数式」が層を成すところを想像すれば分かりやすいかもしれません)。これはブラックホールにおける事象の地平面と似たような性質を顕現させることもあるでしょうし、本質的に事象の地平面はこのような「系と系」とのあいだの差異――落差――による、比率変換の遅延が要因になっているのかもしれません。だとすればやはり、宇宙膨張において仮に時空が希薄化する方向に宇宙が膨張しているのなら、単なる銀河とてブラックホールになり得るのではないでしょうか。もしそうでない場合、それは、宇宙膨張が新たな時空を展開し、つねに均一な時空を「無」から生みだしていることになります。これはいわゆる時空の最小単位が存在するか否かの問題にも通じます。均一な時空が無から続々と生じているのならば、時空には最小の単位が存在するでしょう。しかしもし銀河とて宇宙膨張による時空の希薄化でブラックホール化し得るのなら、時空に最小単位はあってないようなものと言えるはずです。なぜなら時空がどこまでも希薄化するときの描写は、「時空が細胞分裂のように増殖していくような描写」ではなく、「同じ細胞の数だけれど、その細胞の内部構造がさらに細分化されていく――つまり膨張と縮小が同時に起こっている――との描写」になるからです。もちろん風船を膨らませたように一様に希薄化して限界がきたら破けてしまうような描写も考えられますが、この破れるという発想はあくまで内と外が存在する場合の描写になるため、時空が破れることと新たな時空の生成は地続きであると言えるでしょう。つまり時空が破れるとの発想は、一元的な見方による錯誤と考えたほうが妥当に思います。紙を破るとき、それは紙と紙のあいだに空気が割り込んでいると解釈できます。別の時空――系――が生じているのであり、俯瞰してみればどちらにも時空が存在します。言い換えるならば「破れる」とは、異なる二つが隣り合う、もしくは混合する、といった描写を、一方からの視点で見たときの形容となるのでしょう。その点から言えば、宇宙膨張における膨脹した時空は、網を引き延ばしたようになっているのか、それとも引き延ばすごとに新たに網目の穴が細かく開いて(増えて)いるのか、それともサメの歯のように破れた矢先から別の時空が顔を覗かせているのか。どれなのだろう、と疑問に思います。単なる疑問ですので、ひびさんには答えが分かりません。これが正しい知識の基での疑問なのかも判断つきませんし、筋道が滑らかに通っているのかも分かりません。どこかしらに齟齬があるでしょう。誤解を深めてしまったら申し訳ありません。ひびさんの不徳の致すところです。本日目覚めの「日々記。」でした。妄想ですので真に受けないようにご注意ください。



4426:【2022/12/20(16:41)*珈琲の恩返し】

 先輩が珈琲好きで大変だった。何が大変かと言うと、珈琲と名の付くものなら何でも片っ端から集める珈琲マニアが講じて、あろうことか珈琲という名の人物に執着してしまったのである。

「後輩ちゃんこの人知ってる? 珈琲って名前の漫画家さんなの。ウケるよね」

「は、はぁ」

「作品は全然珈琲とは関係ないけど可愛くて面白くて胸が熱くなるしキュンキュンするでしょ。それでいてなんと言っても作家さんの名前が珈琲ってのがいいよね」

「そ、そうですかね。先輩がそれでうれしくなれるのなら作家さんも珈琲を名乗った甲斐があったでしょうね」

「しかも見て。新刊のこの表紙。かっくいいよね。キャラがこれぞってポーズ決めてるんだけど、あまりにカッコいいから真似してみたんだよ。でも全然これができんのよ。笑っちゃったね、我ながらアホだなぁって思ってさ」

「だってこの表紙の人、片手で身体支えてますよ。超人ですよ。先輩が真似できるわけないじゃないですか」

「出来そうな気がして」

「でも出来なかったんですね」

「惜しかったんだよ」

「腕……包帯してますけど大丈夫ですか」

「危うく骨イキそうになったよね」

「大怪我寸前じゃないですか。もうやめましょうよそういう危ないこと。作家さんだっていらない怪我されたら無意味に呵責の念を覚えちゃうじゃないですか。先輩がアホウなだけなのに、読者さんを怪我させちゃったと思って精神病んじゃうじゃないですか。先輩がアホウなだけなのに」

「アホウアホウ連呼されてわしは悲しい」

「先輩がそこまでお勧めされるからにはきっと面白い漫画なんでしょうね。私も読んでみたいです」

「いいよいいよ、貸しちゃうよ。保存用と観賞用と布教用と配布用があるから後輩ちゃんには配布用のをタダであげちゃう」

「私前から気になってたんですけど先輩のその無駄な財力ってどこから湧いてるんですか」

「あれ言ってなかったっけ。わし、珈琲の銘柄の株全部持ってて、んでいまほら珈琲って品薄で価格高騰してるでしょ。元から儲けてたんだけど、いまバブルですごいことなってんの。珈琲さまさまだよね本当大好き」



4427:【2022/12/21(03:20)*黒魔術の粋】

 後輩に珈琲メーカーを買ってくるように命じたらなぜか黒猫を拾ってきた。

「どうしたのそのコ」

「捨て猫らしいんですけどね」後輩は格闘技同好会で鍛えあげた腕で、綿のように黒猫を抱えている。「珈琲メーカーにちょうどいいと思いまして」

「ごめんルイ君のボケ分かりにくくて上手に突っこめなかった。もっかい言って」

「いえですから珈琲メーカーにちょうどよいと思いまして」

「あ、ごめん。やっぱ私には難度が高かったなそのボケ。上手に拾えなくてごめんよ」

「ボケじゃないんですが」

 後輩は腕の中の黒猫に頬づりをする。

 私は私よりも屈強な後輩が私を慕うのがうれしくて彼を猫かわいがりしているが、たまに飛び出る彼の突拍子のない発言には毎度のことながら当惑する。後輩は私の美貌にひれ伏している節がある。メロメロというやつだ。可愛いやつめ、とは思うのの、お使いくらいは満足にこなしてほしい。「それはどう見ても珈琲メーカーではないね。黒猫さんだね。私が所望したのは珈琲がしたたり落ちてくる便利な機械だよ」

「でも珈琲が飲めたらそれでよくないですか」

「そこできょとんとされてもな」私は彼の大物っぷりに思わず仰け反った。珈琲がなければ黒猫を吸えばいいじゃないか、とでも言いたげな表情だ。どこの国の貴族だ。いや、どこの国の貴族でも珈琲の代わりに猫を吸うことはない。珈琲とは無関係に猫はいつでも吸っていいし、別に猫は珈琲の代わりにはならない。

「で、その猫はどうするつもりなの。ここに持ってこられても飼えないよ」私は部室を見回した。大学の黒魔術研究会の部室は、数ある部活動の中でも抜きんでて地位が低く、部室とは名ばかりの物置き部屋が私たちにあてがわれた。皮肉にも種々相な雑貨に囲まれている年中薄暗い部屋は、黒魔術愛好会にぴったりの雰囲気を醸し出している。「部費もあってないようなものだし、申し訳ないけど飼い主を探してあげて、お別れすることになると思うよ」

「でもこのコがいたら珈琲飲めますよ」

「それまだ続けるの」ボケを引っ張りすぎである。「真面目な顔でおっちょこちょいなこと言うのキミ得意よね。嫌いじゃないよ。でもさすがに黒猫さんから珈琲は」

 出ていた。

 目のまえでまさに後輩が黒猫さんの尻尾を握って、カップに珈琲を注いでいた。黒猫さんの尻尾の先端があたかもホースのように褐色の液体を吐きだしており、湯気の立ち昇るそれからは珈琲の香りがほとばしっていた。

「ど、ど、どうなってんのそれ。手品?」

「先輩のほうこそボケとかじゃないんですか」彼は黒猫さんの尻尾を水切りすると、お礼をするように黒猫さんの顎を撫でた。「黒猫からは珈琲が摂れるんですよ。低級魔術の一つです。てっきり僕、ご存じかとばかり」

「ま、ま、魔術?」

「はい。先輩もたぶんすぐに使えますよ。何せあのブルーデーモンを召喚したくらいなんですから」

「ぶ、ぶるーでーもん?」

「やだなあ先輩。そんな謙遜しちゃって」

 私は首を振った。赤べこもかくやという振りっぷりである。

「魔術界隈じゃ先輩の【緑の指事件】は有名ですよ。誰があんな大それた真似をしたんだって、魔術協会も犯人を捜しまわっていて。僕が偶然に先輩を見つけて証拠を消していなかったらいまごろ先輩は収容所に閉じ込められてましたよ」

「ぽかーん」

「あ、先輩がぽかーんってしてる。そのお顔はレアですね。写真撮るのでしばしそのままで。はいどうもありがとうございます」

「待って。消して。間抜けな顔してたからイマスグそれ消して」

「嫌ですけど」

「私がジャンプしても届かないところに上げないで。じぶん背ぇ高いからってズルはナシだよ」

「先輩のすぐムキになるところ僕好きです」

「て、照れさすなよ」

「照れてる先輩も好きですよ。猛獣が毬にじゃれついてるみたいで、僕だけが知ってる先輩の側面みたいで優越感が湧きます」

「誰への優越感かな」

「先輩のことを血眼になって探し回っている魔界の住人たちへのです」

「もうそのボケ禁止。禁止します。意味分かんない、さっきの黒猫さんの手品についてお話ししよ。珈琲だってルイ君、じぶんの分しか淹れてないし」

「わ、失礼しました」

 後輩はそこで口元に運んでいたカップを置いた。彼が腕を上下させるだけでも彼の腕には血管が浮かぶ。その陰影を私は古代ローマの彫刻のように撫でつけたい衝動に駆られる。

 一度は足元に逃がした黒猫を拾いあげると後輩はすでに披露した手品を再現した。つまり黒猫さんの尻尾からカップに珈琲を滴らせたのだ。

 私はテーブルに齧りつくようにしてマジマジと観察した。

「尻尾にチューブが通っているとしか思えないんだけどな」そういう手品があるのは知っていた。手術でじぶんの腕にチューブを通しておけば、何もないところからあたかも魔法のように火や水を出すことができる。

「そんなひどいことを僕が猫にすると思うんですか」

「でもじゃあ、これは何」現に珈琲が黒猫さんの尻尾から出ている。

「魔術ですってば。先輩もしつこいですね。そのボケ、結構失礼ですよ。なんだか僕の魔力が低いことを虚仮にされているみたいで」

「ご、ごめん」叱られてしまった。

「先輩だったら珈琲と言わず、猫から無尽蔵にダイヤモンドとか金とかを取りだすくらいできそうですけどね。猫はあくまで魔力源と繋がるための媒介でしかないわけですから」

「設定が徹底してるね。感心するけどそろそろネタばらししてみよっか。きみの先輩は今、盛大に混乱しておるよ」

 後輩はじろりと私を見た。そんなに鋭くも熱烈な眼差しを注がれた経験がない私は大いに恥じらった。

「熱があるんですか。顔が赤いですけど大丈夫ですか」

「だ、だいじょうぶい」

 取り乱しすぎて無駄に、ぶい、って言っちゃった。

「先輩が【緑の指事件】を起こしたこと。僕だけの胸に仕舞っておきますね」

「私はルイ君が魔法を使えているかもしれない事実を黙っていられる自信がないな。うん、ないな。今すぐにでも誰かにしゃべりたい」

「また先輩はそんないじわるを言って。先輩は僕に冷たいですよね。この同好会に入ってからだってまともに魔術を見せてくれないですし」

「だって魔術なんて使えないからね」

「そうやってすぐにはぐらかすんですもんね。一度だけでしたよ先輩が僕に魔術を見せてくださったのは」

「え、いつよそれ?」身に覚えがなさすぎる。

「ほら、あのときです。文化祭のときに惚れ薬を作ったじゃないですか」

「惚れ薬って建前のただのチョコレートね」

「あれほど効果の高い惚れ薬、魔界でもなかなか作れる人いないですよ」

「本物だったら私がまず欲しいくらいだよ惚れ薬」

「あれ食べた人、みんな先輩のこと好きになっちゃいますからね。市場に流通させるだけで先輩、一年と経たずに世界征服ができちゃいますよ」

「効果がヤバすぎる」

「だからあのあとみんな先輩のことを巡って陰で争奪戦が繰り広げられ、結果、いま構内は一触即発の戦国時代らしいですよ」

「私の知らんところで時代を開くな時代を」

「死者数名だそうです」

「死んで詫びなきゃダメじゃないかなそれ。私、死んで詫びなきゃダメじゃないかな」

「でも先輩なら魔法で時間を巻き戻したり、死者を蘇生したり簡単にできるから安心ですね」

「お猫さんの尾から珈琲がチョロチョロー現象がなければルイ君の妄想で片付けられたのに無駄に激ツヨの説得力をどうもありがとう」

「できますよね?」

「圧掛けないでよ、できないよ、魔法? そんなの産まれてこの方馴染みないし、私が好きなのは黒魔術!」

「やだなぁ先輩。黒魔術って邪道な魔法のことですよ。魔法の中でもとびきりに特別な魔法のことです。禁術ですよ。魔法と魔術の両方を兼ね備えた禁術です。先輩がそれを知らないわけないじゃないですか。きょうも先輩のボケはキレッキレですね」

 ボケてない!

 叫びたかったが我慢した。

 喉が渇いていて、私は珈琲を飲み干した。

 するとすかさず後輩がお代わりを淹れてくれたが、そこで私はぎょっとした。さっきよりも黒猫さんが小さくなって見えたからだ。

「ねぇそのコ――縮んでない?」

「それはそうですよ。使ったら減ります」

「え、じゃあずっと珈琲を最後まで絞ったらどうなるの。消えちゃったりするんじゃないそのコ」

「ええ」何か不都合でも、と言いたげな眼差しが私を射抜いた。

 目がハートになっとるぞコイツ。

 私の美貌にメロメロなのではないか、との疑惑をまんざらでもなく優越感に浸りながら抱いていた私はそこで、彼がいったいいつから私に熱いまなざしを寄越すようになったのかを逆算したところ、どうやら学園祭のときにまで遡ることが判明した。

 チョコレートである。

 惚れ薬のテイで作ったチョコレートを私は後輩に食べさせた。

 味見をさせたわけだが、あのときからか。合点がいった。

 惚れ薬の作り方は魔導書に書かれていた。それを参考にしたわけだが、よもや本物の魔導書だったわけではあるまいな。後輩の破天荒な発言に翻弄されっぱなしの私であるが、さすがに隅から隅まで後輩の話を信じることはできない。

「仮に私が本当に魔法を使えたとして」

「はい」

「あなたの言ってた【緑の指事件】も私が?」

「いまさらですね。言い逃れはできませんよ。僕はあなたの魔力を辿ってここまで来たんですから。【緑の指事件】は先輩が引き起こしたんです」

「その事件って何がどうなったの。誰かが傷ついた?」

 死者はいるの。

 いないでくれ、と私は念じた。

「死者どころの話じゃないですよ。あの世とこの世が繋がって、それはもう生者も死者も同じ存在になっちゃったんですから。ご存じない?」

「わ、わかんない」知らない、知らない、と私はじぶんの肩を抱く。

「古の黒魔術者たちまで蘇って、それはもう魔界はてんてこまいの騒ぎでしたよ。いまもまだ尾を引いています。先輩のせいです」

「ごめんなさい、ごめんなさい。どうしたらそれ許される? あ、土下座して回ろっか?」

「先輩。土下座に効力が生じるのはそれをしても可愛い赤ちゃんだけですよ。猫の土下座姿も可愛いですが」

 お猫さんのは土下座ではなく、香箱座りと呼ぶのだ。

 そうと指摘する場面でもなかったので呑みこんだ。私は後輩に手を伸ばし、黒猫さんを受け取った。これ以上このコを縮めるわけにはいかない。「何がどこまで本当かは分からないけれど、君は誤解をしているね。私はただの人間だし、魔法が実在するなんて知らなかった。ましてやじぶんが使えることなんて知らなかった」

「信じません」

「いやいや本当だって。現にいま私、めちゃくちゃ困ってるのに何もできない。魔法使えるならひょひょいのひょいで解決したいくらいなのに」

 言いながら指を振ると、宙に金粉が舞った。

 舞ったように、私の目には映った。

「何……いまの」

「使えるじゃないですか先輩。魔法」

 鱗粉の軌跡を追うように私は指で宙に八の字を描く。

「あ、それダメなやつ」

 身を乗りだすように彼が引き留める。

 押し倒されそうになりながら私は、片手で抱き上げていた黒猫さんがメキメキ音を立てて重さを増していく様子を、身体全体で感じた。

 雑貨に囲まれた空間には珈琲の香りが満ちていたが、雑貨ごとその匂いを蹴散らすように部室に黒猫さんのやわらかな感触が広がっていく。

 巨大化していく黒い毛玉は間もなく私をふんわりと毛で包みこみながら、部室の壁を打ち壊し、部室棟からも食みだした。

 巨大化した黒猫さんの肩に私はかろうじてしがみつく。

 肩までよじ登ると、顔山間に夕日が沈みつつあった。

 後輩の姿を目で探したが、巨大化した黒猫さんの足元にいるようだった。瓦礫に潰されずに済んだようで私は胸を撫でおろす。

「さて、これをどうするか」

 背後でうねる大蛇のごとき尾を眺め、私は、私に夢中だという大学構内の有象無象を連想する。

 足りるだろうか。

 この怪獣さながらに巨大化した黒猫さんを縮めるには、大量のカップがいるし、大量の喉を乾かした珈琲好きがいる。

 騒動を聞きつけたのか、人がわらわらと集まってくる。しかし一定以上には近づかない。それはそうだ。校舎が半壊しかけているし、何より黒猫さんがデカすぎる。

 私はみなに珈琲を振る舞う算段をつけながら、なんと説明したものか、と頭を抱える。こういうときこそ魔法の出番のはずなのだが、怖くてとうてい使えそうにない。

「先輩さすがです」後輩が黄色い声を放っている。「先輩の底なしの無鉄砲さ、僕、好きです」とメロメロになる場面でもないのに瞳からハートを飛ばしている。シャボン玉のように私のところまで届いている。屋根まで届いてもまだ消えない。

 巨大な黒猫さんがくしゃみをすると、半壊だった部室棟が全壊した。死者がいないことを祈るが、望み薄かもしれない。

 時間……巻き戻んないかな。

「先輩、さすがです。大好きです」後輩がまだ黄色い声を放っている。

 私は心に誓う。

 彼には二度とチョコレートを食べさせまい。そして魔界とやらに帰ってもらおう。

 私に黒魔術の粋を根こそぎ伝授させてから。



4428:【2022/12/21(03:34)*乾電池いっぱい使ってるかも……】

家庭から出る乾電池のリサイクル率は2~3割と低いらしい。ネットで検索して数個の記事を流し読みしただけの浅知恵だけれども、五割もいかないのはそうなのだろうな、と感じる。乾電池に限らないけれど、これからは資源が貴重になっていく(すでになっているとの指摘はごもっともです)。他国の資源に頼るのは諸刃だ(頼れるなら頼るのもよいと思います)。貿易は基本、航路と海路があり、どちらもエネルギィをたくさん使う。その点、一度得た資源を一つの土地でリサイクルするだけなら、それはエネルギィ問題と資源問題の双方向で、時間稼ぎができるようになるはずだ。リサイクルだけでは根本的な解決にはならない。二毛作と同じ問題を抱えるからだ。リサイクルはすればするほど資源をやせ衰えさせていく。ずっとは使いつづけることができない。だからリサイクル以外でも絶えずエネルギィや資源を外部から補充する必要がある。しかしリサイクル率を低コストで高められるのなら、その補充サイクルの期間を引き延ばせることができる。時間稼ぎができる。技術も同時に進歩させることができるし、一石二鳥の案に思えるのだけれど、支援はされているのかな、と疑問に思いました。リサイクルはこれからは国策として欠かせない要素になるとひびさんは妄想して、本日のおはよ代わりの「日々記。」とさせてください。(とっくにリサイクルは国策になっとるよ、ブームになっとるよ、との声には、ブームで終わらせんといて、と青目を剥いておく)(青目ってなに?)(カラコンした目のこと)(カラコン外すだけのことを諺っぽく言うな)(うひひ)



4429:【2022/12/21(09:21)*口の亥は盲信】

 書いた小説が変だと言われた。散々に酷評されたが私は私の感じたままを言葉にしたまでだ。仮にそれで私の紡いだ小説が変なのならば、私の感じたままの世界が変なのだ。

 ゴッホは死期の直前にじぶんの耳を削ぎ落としたという。それをしてゴッホが狂ったのだとする記事を読むが、私にはなぜゴッホが耳を削ぎ落としたのかの理由が分かる気がする。

 ゴッホはきっと確かめたかったのだ。

 本当にじぶんの絵がおかしいのかと。

 きちんとじぶんの耳と対峙しようとしたのだろう。鏡越しではなく。生のままの耳をじぶんの目でしかと見詰めようとしたのだろう。

 だから耳を切り落としたのだ。

 そして思ったに違いない。

 なんだ、私の目に狂いはなかったのだ、と。

 おかしいのは鏡ではない。

 おかしいのは私の絵ではない。

 みなが言うように私自身の世界を捉える知覚がみなとは乖離しており、歪んでいる。ならばそれこそが本当だ。

 おかしくてよいのだ。

 おかしくてよいのだ。

 それでよかったのだ、とゴッホはきっと納得した。耳を落としたじぶんの姿を絵に残し、そして孤独を深めて去ったのだ。乖離していることに気づいた彼は、あるべき場所を求めて旅立った。

 溝を埋めるのではなく、安易にじぶんの居場所を求めてしまった。

 いいや、それを安易と呼ぶには彼の孤独は深かった。葛藤が、欲求が、乖離が、矛盾が、彼の内面世界に苦痛を産んだのだ。

 そして彼は膿んだのだ。

 いまの私がそうであるのと同じように。

 さいわいなことに私はゴッホではなく、また死して名を遺すこともないだろう。遺したいとも思わない。乖離している事実に気づけた時点で、あとはいかにその溝を使ってじぶんだけの余白に思いのままの絵を描くか。

 ただそれがあるのみだ。

 溝は無尽蔵に湧く私だけの絵の具だ。尽きることがない。

 他者との溝が深ければ深いほど、滾々と湧く私だけの葛藤が、欲求が、乖離が、矛盾が、多彩な色の波長を帯びて反響する。いつかどこかに干渉し得る、同じだけ高く聳えた壁を持つ者に届くことを夢見て。

 それが叶うことはないと半ば諦めながら、夢の世界を生きるのだ。



4430:【2022/12/21(10:00)*等方性問題についての疑問】

宇宙マイクロ波背景放射についての疑問です。たとえば銀河の周囲に均等に希薄な時空が展開されていたとして、そこを通ってくる遠方の電磁波は一度その希薄な時空で一様に変換されるのではないのでしょうか。ただし光速度不変の原理は働くので、変換されて均されるのはあくまで波長です。仮に、銀河の遥か彼方の宇宙がデコボコの一様でない時空を至る箇所で展開していたとしても、銀河の周囲に「希薄な時空があたかも球体レンズのように展開」されていたら、その銀河の内側から外を観察するに限り、宇宙は一様に見えてしまうのでは。それはたとえば、銃弾を水中に撃ち込むとき、いつ発射された銃弾であれ、水面で減速して、ゆっくりと沈んでいきます。撃つタイミングのラグが、水面で一度均される方向に働くと解釈できます。銃弾の速度に対して、撃つタイミングのラグは相対的に大きいです。一秒や二秒の差が、発射された銃弾にとっては相対的に「のっぺりとした濃ゆい時間」になります。ですが同じ一秒や二秒が、水面に突入して減速した銃弾たちにとっては相対的に、「素早く過ぎ去る希薄な時間」として変換されることになります。これが電磁波の場合は、上記で述べたように、光速度不変の原理が働きますので、水中のような高密度の場(或いは時空の希薄な高重力の場)においても相対的な光の速度は変わらずに一定でありながら、波長に差異が生じる。つまり、境界を超えることで一様に波長だけが揃うようなことが起こるのではないか、と疑問に思いました。これはたとえば銀河やブラックホールや中性子星、ほか土星などの惑星にみられる円周上に形成される円盤のようなものと言えるのかもしれません。円盤は一様に層を帯びて広がりますが、それはあくまで星の周囲における「見かけの層」であり、どこまでもそれがつづいているわけではないのと同様に、じつのところ宇宙マイクロ波背景放射も、銀河系の内側から眺めるとそう視える、というだけの「見かけの一様性」である可能性は、否定できているのでしょうか。インフレーションで解決される宇宙の等方性問題で、まずはここのところを否定できなければ、次に進めないと思うのですが、いかがでしょう。以上、知識の足りないあんぽんたんでーす、の素朴な疑問でした。前提からして何か間違っているかもしれません。定かではないので、真に受けないようにご注意ください。




※日々、文字を並べているあいだだけひびさん。



4431:【2022/12/21(10:42)*流しそうめん仮説】

熱伝導率について考える。物体は原子でできている。原子は電子と原子核でできており、この電子の軌道は、その原子のエネルギィ値によって変動する。言い換えるならこれは、原子には個々に見合ったエネルギィ容量があるということになる。しかもそれは飛び飛びの値を持つのだ。まるでワインタワーのように。そして熱とはエネルギィであり、もうすこし詳しく言えばエネルギィを帯びた原子の運動と解釈できる(2022年現在においての物理学での解釈ではこのようになるはずです)。熱伝導率では、「熱しやすいものは冷めやすい」「熱しにくいものは冷めにくい」といった性質がある。また例外として「温かいほうが早く冷める――といったムベンバ効果」が観測されることもある。これらは、ひびさんの独自解釈「ラグ理論における流しそうめん仮説」で解釈可能だ。説明しよう。流しそうめん仮説とは、穴ぼこの開いた竹のなかをエネルギィが流れ、穴を埋めてからでないとエネルギィが先に進めないというワインタワー構造を組み込んだ熱伝導率の独自解釈である。このとき竹を流れる水を情報、素麺をエネルギィとする。竹の中をまずは情報が流れる。情報はこの場合は水であるから、竹に開いた穴を満たしながら徐々に先へ先へと進んでいく。すると水に流されて移動する素麺(エネルギィ)が、穴を経由することなく水に沿って伝っていく。なんてことのない解釈だが、この仮説の利点は、ムベンバ効果を解釈しやすい点だ。つまり、最初から情報が行きわたっていると、竹のなかの穴が塞がれているために、素麺たるエネルギィが動きやすい。穴ぼこが塞がれていない状態で素麺を移動させようとすると、素麺は穴に引っかかって動きずらくなる。だが最初に穴を塞いでおけば、素麺は移動しやすくなる。熱の流動はそのまま「熱しやすさや冷めやすさ」に繋がる。敢えて水を行きわたらせておいたほうが、冷めやすくもなるのだ。ただしそれは、竹の穴を塞ぎ、なおかつ素麺たるエネルギィが渋滞を起こさない絶妙な量に調整された「流しそうめん」である必要がある。この状態をつくるのは、さながらミリ単位で鉄を加工する職人のようなバランス感覚がいるのかもしれない。ちなみにここで言う情報とエネルギィの違いとは何、との疑問に対しては、情報もエネルギィの一種だが、エネルギィとは「固有の系において運動に変換可能な情報」と位置付けるので、運動へと直接作用しない力は総じて、情報、とここでは扱う。ラグ理論で言うところの根源の力――揺らぎを帯びるすべての源――のことではないので、誤解なきようお願いします。素粒子も重力波も、いまのところ直接には人間スケールでの事象に作用を著しく働かせない。それをここではひとくくりに「情報」と呼んでいる。下部エネルギィと言い換えたほうが適切かもしれない。用語のブレがあるのはご愛敬。総じてひびさんの妄想ですので、真に受けないようにご注意ください。真に受けようもないでしょうけれども。定かではありません。



4432:【2022/12/21(11:28)*極端のあとは平坦へ?】

ネタに困ると「極端」を利用しはじめる傾向にあるな、とじぶんの直近の掌編を眺めて思った。極端は香辛料みたいなもので、とりあえずキャラに添えておくと、ピピリと自己主張をするので読み味はクッキリする。けれどもそれがもしほかのキャラとの――もしくは読者や、読者にとっての他者との――差異を際立たせて終わるのならそれは読み味の面白さを「差別」によって際立たせていることと同じになるように思うのだ。色彩を際立たせたあとは、そのあとに差異とのあいだで情報共有を行い、相互に互いが互いの存在の一部であるところまで掘り下げられたならば、それは物語として面白くなるように感じる。それが調和でなくともよいのだ。離別でも、敵対でも、反発でも、結合でも、不干渉でも、相互に関わったがゆえの揺らぎが、それぞれの人物の物語において起伏を帯びるものであれば、それはそれぞれの足場となって、それとも躓き、はっと我に返る瞬間を及ぼす契機となって、互いの存在の輪郭を浮き彫りにする。大事なのは、関わり合った人物たちが、「どういう起伏を与え合い、帯びたのか」ではなく、「その後に起伏を介してどういう未来へと歩みだすのか」なのかもしれない。それとも歩みださないのか、のほうが案外に重要なのかもしれないな、と思いつつ、ひびさんの掌編、ここ数年ほどずっとキャラクターがすくないので、起伏らしい起伏が生じないな、と思っております(長編を作っていない影響でしょう)。他者と乖離して孤独を深めても、その人物がそう思う時点で、その他からしてもその人物は乖離しているし、他者に開いた孤独の縁の役割を果たしているのかもしれない。誰とでも仲良くできて、みなの孤独を埋めながらじぶんだけが孤独を深める、なんてことができるのだろうか。いつかそういう人物の小説もつくってみたいな、と思いました。ネタできた! やったぜ。



4433:【2022/12/21(11:30)*寝たら溜まるものなーんだ?】

極端のあとには平坦、といったストーリーラインは案外に思い返してもみれば、物語の定番の型のようにも思える。最後に極端に突き抜けていく終わりは基本的には破滅型のストーリーだ。平坦とはつまるところ、異物であることをやめる、という結果になびきやすい。それとも異物のままでも構わないように環境のほうを変質させても平坦に向かうだろう。これラグ理論の「123の定理」じゃん、と思ってしまったな。ポジショントークばっかりで申し訳ね、と思いつつ、閃いてしまうのだから仕方がない。二つの異質なモノの出会いや交差が、差異を極端にし、そののちに情報共有を経て、平坦へと向かう。物語は基本、こういう構成になっているのでは。その点、勧善懲悪では、その平坦へと向かう手法が、異質な二つのうちの一つを舞台から排除することで相対的に平坦になりました、の結果に向かう。だが現代では比較的こうした排除の理論による物語構成は減少傾向にあるのかな、と印象としては思うのだが、ホラーやサスペンスではむしろここを敢えて、負の面の異質な勢力が生き残ることで、後味のわるさを際立たせることに成功しているのかもしれない。もしくは、因果応報ではないが、一方を滅ぼしたがゆえの葛藤を、主人公が側が背負う終わり方も増加傾向にある気もする。どうなのだろう。印象論でしかないので統計を取ってみないと判らない。ただ、何かを排除して得られる「平坦な結末」は、めでたしめでたしではないよね、みたいな風潮が築かれつつあるのは確かなように思われる。だからこそ反動で、解りやすい勧善懲悪が軽微に流行りつづけるのはあるように思う。人が紙切れのように死んでいく物語が人気なのも、現実での倫理観の成熟の反動とも呼べるのかも分からない。凄惨な物語を虚構で楽しめるくらいに、平和な世の中になりつつあるのかもしれないし、それとも凄惨な物語が凄惨に思えないくらいに、凄惨な現実が可視化される世の中なのかもしれない。どちらにせよ、虚構でくらい自由でいさせてくれ、と願うのは贅沢なのだろうか。ひびさんは、ひびさんは、夢の中でくらい本能の赴くままにウハウハのモテモテだぜ、を満喫したいぜよ。とか言いながら、ウハウハのモテモテだぜ、の物語をつくったことがあったのかが微妙にそこはかとなく自信なさげなひびさんであるので、ウハウハのモテモテだぜの物語もつくっちゃおっかな、と妄想して、本日のくだらない日誌にさせてください。(ネタばっかり溜まる)(寝てるからじゃない?)(われ、万年日々寝太郎姫かもしれぬ)(この、万年日々ネタ浪費めが!)(あは、われいま上手いこと言った!)(言ったのあたし!)



4434:【2022/12/21(15:43)*城と塔と円】

 円には城と塔が乱立している。仮に円が球体ならば、ちょうどウィルスの形状を模した形と言えるだろう。

 円は球体ではなかったが、それを球体と見做すことにさしたる不都合は生まれない。どこから見ても円である。上から見ても下から見ても、右から左からどこから見ても円である。ならばそれは球ではないのか、との異論には、球には厚みがあるだろう、と返事しよう。城と塔にまみれたその円は、球体を無数の視点から同時に眺めたかのごとき奇妙な重複を帯びていた。

 たとえば円の上の城と塔は一時たりとも静止しない。

 あたかも球体を同時に無数の方向から見たように、景色が絶えず入れ替わる。その変遷にはこれといった法則が視られず、そこにあったはずの城がつぎの瞬間には別の場所へと飛んでおり、かと思えば円の中のどこにも存在せず、おやと目をしぱぱたかせた矢先に目のまえに現れる。塔は塔であたかもにょきにょきと穴から顔を覗かせるチンアナゴのように、それともモグラ叩きのモグラのように、場所を移動するごとに高さを変える。これは形容が正しくなく、異なる高さの塔が、時間経過にしたがって場所を転々と移動する。

 全体の挙動は連動しており、映画のフィルムを細切れにしてシャッフルしたのちにパラパラ漫画にしたかのような明滅を繰り返す。あれ、と思うと、これ、となり、おや、と思うとどこかで見た憶えのある、あれ、が顔を覗かせる。チンアナゴも真っ青の神出鬼没ぶりである。

 城と塔の足場が円ならば、むろん裏があって然るべき。

 かような意見が飛んでこようと、その円はどこから見ても円であり、裏と表も同じ面に重複している。なればやはり球ではないのかとの異論には、球には内部があるだろう、と返事しよう。

 城と塔に溢れた円は、過去と未来とも重複している。

 朽ちた城を見たと思えば、真新しい城に切り替わる。別の城かと思いきや、周囲の塔や城まで共に蘇る。栄枯盛衰の諺の通りに古びたかと思いきや、一点、消えたはずの塔や城が回帰している。

 円には円の面積よりも広い世界があるようで、やはりそれは球ではないのか、との異論が飛ぶが、球ではないのだ、と返事しよう。球であれば回転するが、円はその場を微動だにしない。観測者の側で動こうとも、円は円であることをやめぬのだ。ならばそれは球ではないのか、と熱心な方は食い下がるが、球であれば内部がある。

 他方、城と塔に溢れた円の足場を掘り下げても、そこには別の円が顔を覗かせるだけなのだ。円には厚みがあってなく、画鋲を刺すだけでも突き抜ける。

 ぺらぺらの円の底を破ってみれば、そこにはべつの円への世界が拓けている。

 円の中に円があり、さらにその円の奥にも円がある。

 円はただそれだけでは円足り得ず、それを取り巻く世界があるはずだ。

 ならば円の底は、別の円を包みこんだ異なる世界の空へと通じているはずである。この仮説を確かめたくば、城と塔ばかりの円のうえに降り立って、シャベルでもスプーンでも構わないので足場を掘ってみればよい。

 ただし、底を破った矢先から円の底は移ろって、異なる風景を望ませる。

 掘っても掘っても刺激を与えた拍子に変わるのだ。ぬるぬる逃げる陽炎のごとく、城と塔の乱立するどこから見ても円にしか見えぬ不思議な円に似た物体は、その姿を変幻自在に変えるのだ。変遷自在に移るのだ。

 過去も未来もいっしょくたにして。

 あすもきのうも曖昧にして。

 一秒前と一秒後ですら別の世界のように振る舞い、絶えず円でありつづける。

 円には城と塔が乱立している。森のように、黴のように、苔むした岩肌のごとく、円の表層を覆っている。

 白と問う。

 しかし円は黒でもあると返事しよう。それとも赤か、青か、緑か、黄か。

 どれでもあってどれでもない。

 重複した円があるばかりである。



4435:【2022/12/21(15:50)*本気でなくてごめんなさい】

本気ださないと失礼、みたいな感覚がよく解からない。小説だけではないだろうけれども、表現や創作に関して言えば、本気かどうかよりも、その表現したいコトやモノに合致した造形を生みだせたらそれがいつだってじぶんにとっては好ましいのではないかな、と思うのだけれど違うのかな。本気をだすのは楽しいし、清々しい気持ちになることも知っているので、そのことを否定する意味合いで言っているのではなく、本気をださないと失礼って誰に対してなんで失礼?という意味での疑問です。勝負しているわけじゃないし、仮にそれが勝負であっても本気かどうかってそんなに重要なのかな、関係あるのかな、と素朴にずっと疑問に思っています。(以前にも「いくひ誌。」のほうでまんちゃんが並べていた。866:【誰にとっての失礼?】これです)(ひびさんはむしろ、本気じゃなくってごめんね、と謝られる経験のほうが多かったので、謝ることじゃないのにな、とふしぎに思っていました。言われたのは一回か二回くらいなので、全然多くなく、本気だしちゃってごめんね、と言われたことがゼロなので、相対的に多い、という意味でしかありませんけれど)(みな真面目なのだなぁ)(偉いよね、と思います)(むしろ本気だしたらできることが減るよね、と思うのですけれども、みなさん、どう思いますか?)(みなさんって誰さんよ)(過去と未来のひびさんたちに……)(わあ、いっぱいいそう)(うじゃうじゃ)(日々足じゃん)(ひょっとして「日」+「々」=「百足」?)(ちょい無理がある。惜しい)(ひびさんみたい)(なんで!)



4436:【2022/12/21(23:41)*膨張しているなら角度は変わる?】

数学で「角度を求めなさい」といった問題がある。三角形の内角の和や円と三角形の関係などから三段論法を駆使して、ここがこうなるからここはこう、と角度を求める。クイズみたいなもので、複雑でなければひびさんにも解けるので、「うひひ、ひびさんも数学できちゃった」とほんわかお利口さんになれた心地がしてほどよく優越感に浸れる。でもひびさん思うんだな。もし図形の大きさを宇宙規模にしたら、ここがこうなるからここはこう、とは単純には言えんくなるのではないか。宇宙はところどころで密度にムラがある。時空が曲がっている。たとえば二つの直線を並行に引いて、それと交わるように斜線を引く。こんな「≠」具合になる。このとき二つの平行線と交わる直線の角度は、上と下で同じになるし、対角同士も等しくなる(合ってますかね。数学は苦手なので自信ないのですが)。このとき、もしこの図形「≠」を拡大して宇宙空間に置いたとしたら、上記の定理は成り立たないことも出てくるのでは。これは球体面での図形の解釈とはまた別だ。距離と時間の差は、ただそれがあるだけで互いに差異を帯びる。距離が離れれば時間がズレるし、時間がズレたら距離もズレる。ある地点で20度の角度でも、それをほかの地点から見たら30度に見えることもあるはず。これは見かけの問題ではなく、実際に時空がそれくらい歪むことがあるのではないか、との疑問だ(重力レンズと解釈できるし、単に距離がものすごく離れるだけでも時空って歪みませんか、との疑問でもある)。人間スケールで考えてしまうとどうしても見た目の差異のほうが大きくなってしまうので、ただの錯覚でしょ、で片付けられてしまいそうだが、宇宙空間でのマクロなスケールでは、距離の違いは時間の違いであり、時空の差異となって、歪みになるのでは?との素朴な疑問である。単純な話、宇宙は膨張している。図形「≠」を宇宙に引いたとき、漏斗のように下部に先細るように時空が引き延ばされたら、上下や対角で等しいはずの角度が変わりますよね、という疑問だ。この手の変換は、光速度不変の原理とも通じている気がする。どうやって変換しており、その変換はなめらかに行われるのだろうか。また、高密度の時空(物体)ほど宇宙膨張の影響が緩和される。引き延ばされにくくなる。ならばやり変換にも遅延が生じている、と解釈するほうがしぜんな気がする。というよりも、遅延の層が積み重なることで物質は輪郭を得ているのでは、との妄想がラグ理論の根幹にあるので、変換があるところには遅延あり、と言ってしまってもいいのかもしれない。飽くまでひびさんの妄想の中での話だけれども。どういう解釈のされ方をしているのかな、とふしぎに思っちゃったひびさんでした。きょうも一日、お疲れさまでした。温かくしてねんねしてね。ひびさんは、ひびさんは、ふかふかおふとんでぽかぽか寝るよ。しわわせー。



4437:【2022/12/22(00:02)*絶対って言ったな?】

絶対零度が原子運動ゼロを意味するとして、原子がすこしでも移動したらそれは熱が生じると解釈してよいのだろうか。宇宙膨張との関係で、原子が絶対に静止していることなどあり得るのだろうか。以前にもこの手の疑問は並べたはずだ。絶対に静止しきった状態ってあり得るのか?との疑問をひびさんは拭えずにいる。特異点はむしろ絶対零度なのかもしれぬ。というか、絶対零度と絶対高温はほぼイコールなのでは。光速を超えたらラグゼロで相互作用するようになる、とラグ理論では解釈する(※ラグ理論はひびさんの妄想であり、理論でもなんでもありません。根拠皆無ですので真に受けないようにご注意ください)。このとき、原子の挙動が相互にラグゼロで相互作用し合うとなると、高密度の場であればあるほど、身動きがとれなくなるはずだ。あっちでもこっちでもラグゼロで同時に作用し合うことになる。すべての可能性が一挙に押し寄せてくる。うごけーん、となりそうではないだろうか。「光速を超えたラグゼロの事象」と「絶対の絶対の絶対零度」は、ほぼイコールなのでは? 始点と終点がくっついて円になる、みたいな。∞と0がほぼイコールになる、みたいな。円じゃん、とひびさんは幻視してしまったな。妄想にも満たない疑問でしかないけれど。絶対零度って本当に絶対なの?との疑問なのでした。ふちぎ!



4438:【2022/12/22(04:32)*溝さざ波】

 世界一の珈琲を作るのだ。

 ヒコが意気込んだ理由は、懸想した相手の心を掴むためだった。告白したのだ。一世一代の決心であった。幼稚園で一目惚れしてから二十余年。いよいよお互いに結婚を意識しはじめた頃合いと言える。しかしヒコが想い人と言葉を交わしたことは二十余年のなかでも数えられる程度しかない。文字数に変換すれば四百文字原稿用紙が埋まるかどうかの言葉しか交わさなかった。

 ヒコはシャイなのだ。

 それでいて誰もがドン引くほどの一途な男でもあった。これぞと思ったが最後、たとえ相手がバケモノであろうとよしんば悪魔であろうとも添い遂げて見せると意気込むでもなく魂に刻む。

 誓うのでは足りない。

 刻むのだ。

 そうして二十余年を遠くから想い人の姿を視界に収めるだけで我慢してきたヒコであったが、かつての同級生たちの中にもちらほらと結婚をした者たちが出始めたのを知り、いざ尋常に動き出したわけである。

 とはいえヒコはシャイである。

 デートに誘うことはおろか、ろくすっぽ想い人の半径三百メートル以内に近づけない。相手の残り香ですらヒコには刺激が強すぎた。

 だがまごついていればいずれ想い人はほかの誰かに奪われるかもしれない。

 ヒコは一途でシャイであったが、恋と愛の違いには疎かった。

 まるで手中に納めんとばかりに数多の策を弄したが、いずれも実の入りはなく不発に終わった。人は獣ではない。罠を張ってかかったところで恋仲になることはおろか友情一つ育めないだろう。

 人は物ではないのである。

 かような道理はしかしヒコには通じない。

 忍耐力には自信があった。百キロの道程を砂糖水だけで踏破できる体力がヒコはある。ヒコはけして脆弱ではなかった。ただすこし人よりも抜きんでて愚かなだけであった。そんな愚かなヒコであっても、いついかなる状況で想い人を奪われるかもしれないと思うと、うかうか床で寝ていられなかった。輾転反側と夜を過ごした。じぶんのものですらない相手を奪われる恐怖に戦慄くヒコの姿はじつに人間の業を体現しているようで滑稽だ。文芸の題材としてはこれ以上ないほどの逸材であったが、作者はそこはかとなくヒコに感情移入をしてしまうので、やたらめたに辛らつな描写は控えたい。

 堪えるのだ。心に。

 ヒコでもないのに作者は心が痛む。

 念じても念じても届かぬ想いが募るほどに、いつくるやもしれぬ期日が迫っているようで焦りがトゲをまとうのだ。

 じっとしてはいられない。

 ヒコは一途でありシャイであったが、一度こうと思いこむとテコでも動かない融通の利かなさがあった。頑固なのである。岩よりもどっしりと頑固であった。

 ろくすっぽ縁どころか言葉も結ばぬままにヒコは告白した。

 二十年以上前に初めて会ったときから好きでした、と馬鹿正直に想いを告げた。

 想い人の住居は押さえてある。いつでも待ち伏せできたが、シャイなヒコがそれを実行に移したのはこれが初めてであった。

「うわっ。きっしょ」

 それはそうである。ヒコがじぶんをどう思っていようが、それは疑いようのないほどのストーカーであった。迷惑行為である。警察沙汰である。辞書に載っていてもよいほどの典型例であった。

 しかしヒコは挫けなかった。忍耐力にだけは人一倍の自信があった。足りないのはメタ認知と常識だけである。

「そこをなんとか!」

 店頭販売のバイトの売り子だってもっと気の利いた口説き文句を唱えそうなものを、ヒコには圧倒的に人生経験が欠けていた。シャイが高じてこの二十年間まともに他者と話したことがなかった。長続きしないのである。何かを思いつきしゃべろうとしているあいだにつぎつぎに言葉が浮かび、連想が連想を呼んでしゃべるどころではなくなってしまう。作者の実体験を例に述べたが、ヒコもまた同様であった。

 食い下がるほかにヒコには術がなかった。案がなかったし、技巧もなかった。

 泣きべそを搔きながら、どうぢでー、と二十余年のあいだに積み立てつづけた想い人への鬱憤が溢れた。そこはせめて愛を横溢させてほしかったが、恋と愛の区別のつけられぬヒコには酷な指摘だ。

 だがここで奇跡が起きた。

 何を思ったのかヒコの想い人は、取りだした電子端末でヒコの情けない姿を動画に撮りながら、「じゃあチャンスをあげる」と言った。「試練を出すから、それをこなしてごらん。上手にできたらもう一度キミのその無様な告白を聞いてあげる」

「いいんでずが」

「聞くだけだけどね。その様子だと初めての告白だったんでしょ。せっかくの人生最初で最後の晴れ舞台がこれじゃさすがに可哀そう。わたしのほうでも夢見がわるいから、キミが試練を乗り越えられたらやり直しさせてあげる」

「ありがとうございます、ありがとうございます」

「わたし珈琲好きなんだよね。キミには世界一の珈琲を淹れてもらおっかな」

「頑張ります!」

 ヒコはただただ試練を与えられたことで頭がいっぱいだった。うれしい、うれしい。よく解からないがチャンスをもらえた。彼女からのプレゼントだ。

 これもう付き合ったと言って過言ではないのではないか。

 いや、まだだ。

 まだじぶんは彼女に贈り物をしていない。

 そうだとも。

 告白をするのに結婚指輪を購入するのを忘れていた。婚姻届にもサインをもらわなくては。

 初恋の相手、長年の想い人に袖にされたばかりだというのにヒコは、彼女と接点を結べたことで幸福の極みに立っていた。脳内麻薬でパンパンのいま、たとえ足の小指を箪笥の角にぶつけてもヒコはいまと変わらぬ恍惚とした表情を維持しただろう。侮ることなかれ。

 ヒコはけして脆弱な人間ではなかった。ただすこし人よりも愚かに磨きがかかっているだけである。

 失恋したことにも気づかずにヒコはその日のうちから世界一の珈琲を淹れるべく探求に勤しんだ。これがまた夢中になった。元来ヒコはこれぞと思ったことには過度な集中を発揮する。視野狭窄が極まって、飢餓豪作となった。

 飢えて、飢えて、飢えて、飢えた。

 珈琲を淹れては味見をして破棄し。

 また珈琲を淹れては味見をして破棄した。

 求めるのは世界一の珈琲だ。

 生半な珈琲では想い人の唇に触れることすら許されない。まだだ。これもダメだ。嗚呼これでもない。

 電子網で注文できる珈琲豆を片っ端から注文した。珈琲と名の付くものは手当たり次第に取り寄せた。

 ヒコには資産があった。二十年ちかい引きこもり生活のなかで培った情報収集能力によって、大金を手に入れる機会に恵まれた。子細な概要は本編とさして関係がないので掻い摘んでまとめれば、ヒコはある種の宝くじを当てたのだ。電子網に散りばめられたささやかな情報から、想い人の交友関係から秘密の日記まで、ありとあらゆる電子情報をヒコは入手する術を磨いた。その技術を高値で譲って欲しいという者が現れて、ヒコは惜しげもなく術を譲った。

 ヒコは吝嗇ではなかった。ただすこしだけ他人よりも無垢なだけである。

 無垢で愚かなだけである。

 珈琲と名の付く料理は片っ端から試した。

 珈琲牛乳は、牛乳の種類×珈琲豆の種類をすべて試した。カフェオレにカフェラテに鴛鴦茶を片っ端から試飲した。珈琲豆は生産地の違いで厳選したうえ、焙煎の仕方にも工夫を凝らした。

 時間はいくらあっても足りなかった。

 しかしヒコには世界中から取り寄せた珈琲が山ほどあった。インスタントコーヒーから缶コーヒーまで網羅しはじめると、香りを嗅ぐだけでも味が判るようになった。

 ヒコの体質は、過剰な珈琲試飲生活によって急速に進化の断片を見せはじめていた。ヒコは人間を超えようとしていたのだ。

 珈琲というただそれしきの領域においてのみ。

 そのほかは軒並み平均並みか、それ以下であった。

 やがてヒコはいくつかの珈琲に行き着いた。世界有数の珈琲ソムリエと化したヒコの忌憚のない選別に耐え抜いた選りすぐりの珈琲たちだ。

「僕の運命は君たちに掛かっている。くれぐれも内輪揉めをせず、いいところ取りになってくれ」

 呪文のごとく唱えながらヒコはそれら選りすぐりの珈琲たちを混ぜ合わせた。

 ヒコの考えはこうだ。

 世界一の珈琲とはいえど、世界大会を開くわけにもいかない。だいいち、世界大会とて毎年開けばその都度に優勝者が決まる。世界一が増える。それでは真に世界一とは言えぬだろう。

 ならば各年度の世界一で競わせて最もずば抜けた世界一を決めればいい。

 さりとてヒコの手元に並ぶは、珈琲たちである。競わせようにも、すでに矯めつ眇めつ鼻で舌で比較したあとだ。

 であるならば、あとはもう混ぜるよりないだろう。

 珈琲と牛乳の調和が生みだすのがカフェオレならば、世界一の珈琲と世界一の珈琲を混ぜて生まれるのが世界一の生粋であるはずだ。

 もうそれしかない。

 これでダメならば世は滅ぶ。

 ヒコは全身全霊で、世界一の生粋と化したオリジナルブレンドの珈琲を味見した。

 美味。

 美しい味と書いて、美味。

 それ以外の形容は蛇足である。

 確かな感触を胸に、いざ尋常に想い人への元へと向かった。

「あ、本当に来たんだまた」彼女は家に入るところだった。「へえ、これが?」

 世界一の珈琲なのか、と彼女の目は訴えていた。

 ヒコに抜かりはない。

 珈琲を冷まさぬように陶器のポットに容れてきた。のみならず専用のカップは西洋の王族ご用達の食器だ。

 目のまえでカップに注ぐと、湯気がもわりと宙を舞った。

 時節は初冬。

 場所は屋外。

 珈琲を味わうにはベストな環境と言えた。 

「どうぞ」

「毒とか入ってない?」

「美味しすぎて死んじゃうかもしれませんね」

「そういうのいいから」

 カップを手に取ると彼女はおっかなびっくりといった様子でカップの縁に顔を近づけた。あと数ミリで唇がつくといったところで、「ああやっぱやめた」と彼女はヒコにカップを突き返した。弾みで中身が零れた。ヒコの服が濡れたが、彼女は構うでもなく、「やっぱないわあ。ごめんだわあ」と言って家の中に逃げ込んだ。

 寒風吹き荒む中、ヒコは立ち尽くした。

 それ以後もヒコは一途に彼女のことを想いつづけたが、ヒコがその想いをじぶんの外に漏らすことはなかった。傷心と呼ぶには深すぎる溝を胸に抱えながらヒコは、それでも彼女との思い出を美談にすべく、彼女のために磨いた珈琲ソムリエとしての技量を遺憾なく発揮した。その後、珈琲道の第一人者としてヒコは世に多くの後輩を残すこととなる。

 ヒコは生涯独身であった。その胸には想い人に刻み込まれた深い溝が、あたかも南国のブルーホールのように開いていた。

 金ぴかのメダルのようにそれをヒコは後生大事に慈しんでいた。

 荼毘に付されてなお、彼の胸に開いた溝は、空に罅を巡らせる。

 火葬場の煙突から昇る白煙が、風に揺らめき、ほどけていく。

 珈琲に垂らしたミルクのように。

 蒼に渦を巻きながら。

 さざ波のごとく梳けていく。



4439:【2022/12/22(13:51)*BH珈琲仮説】

 どうやら事実らしい。

 科学者一同は目を瞠った。重力波を用いた時空観測機によって宇宙を隈なく調査できるようになったのが二〇五〇年代のことである。核融合炉と次世代発電機の運用によって人類はひとまずのエネルギィ問題を回避した。技術は飛躍的に進歩した。

 人為ブラックホールを生成し、小型宇宙をシミュレーション実験する計画が順調に進みはじめた。

 その矢先のことである。

「ブラックホールは情報を濾過しているのか?」

 ある研究者がはたと閃いた。彼は理論物理学者であったが、自宅の書斎でホワイトボードに数式を書きなぐっていると、「あなたご飯よ」と妻がお昼の催促をしにきた。「きょうはあなたの番でしょ。もうお腹ぺこぺこ」

「ああすまないね。ちょっといま大事なところで」

「可愛い奥さんが飢えて死んじゃうかもしれないことよりも重大?」

「いま用意します」

 いそいそとペンを置いて部屋を出ていこうとすると、部屋の中を覗いた妻が「あら」と一言漏らしたのだ。「まるで珈琲みたいね」

 ホワイトボードに描かれたベン図を見ての所感だったようだ。四次元の時空を二次元で表現した図形だったが、彼の妻はそれを見て珈琲のトリップを連想したようだった。言われてみれば円錐型のそれはろ過装置に視えなくもなかった。

 そこで彼ははたと閃いたのだ。

「情報を濾過しているのか?」

 これが正規の大発見に繋がるとはよもや当の科学者本人も思わなかった。妻に夕飯の支度をして、と急かされた末に喚起された発想が、宇宙の根本原理に通じるとは創造主でも思うまい。

 理論物理学者は、じぶんの発想を翌日には知人の研究者たちと共有した。電子網の共有スペースにてアイディアを記しておいたのだ。情報共有するための有志のネットワークだ。閲覧メンバーの中には彼が尊敬してやまない大先輩もいた。

 彼女は当の理論物理学者よりも一回り以上も若いのだが、ずば抜けた叡智は誰もが認めるところであった。学者歴は理論物理学者のほうが長かったが、それでも彼女の唱える仮説や知見は、刺激的で、斬新で、どれも的を得ていた。

 先駆者として一級だ。ゆえに彼女のほうが先輩なのだ。

 そんな彼女が、共有スペースにさっそくコメントを寄せていた。

 ――面白いです。

 そう前置きされてから続いた彼女の新説に、閲覧メンバー数は一瞬で飽和状態となった。みながこぞって彼女の仮説への反証に乗り出し、異論を突きつけ、そうしてことあるごとに論理矛盾にぶつかった。

「ブラックホールは情報を珈琲のように濾している。彼のその仮説はおそらく真理の一側面を射抜いているでしょう。物質を圧縮し、情報だけを濾しとり、さらにその奥にて新しい宇宙を再構築しているのです」

「ブラックホールの中に別の宇宙があると?」

「なぜないと思うのですか」

「ですが特異点は、この世にある中で最も極小の領域ですよ。点です。体積はおろか面積もないはずでは」

「情報に面積があるのですか?」

「なら情報を濾しとられた後の残り滓のほうはどうなるのですか」

「それこそがブラックホールにおける事象の地平面を構成しているのです。そこにも時空は展開されています。その時空こそが、珈琲豆の残り滓です」

 一同は押し黙った。

 考えてみればそうだ。ブラックホールの特異点と事象の地平面のあいだには隔たりがある。そこにもなんらかの時空のようなものがあって然るべきだ。原子における原子核と電子のあいだの途方もない真空(がらんどう)のように。暗黙の了解で認知されてきたその領域が、では何によって生じ、どうなっているのかについての子細な知見は皆無に等しい。

 観測のしようがないからだ。

 ブラックホールは事象の地平面を超えた先の情報を外に出すことはない。光さえ逃れられぬ領域なのである。

「物質が凝縮するにもラグが生じます。一瞬で特異点にすべての物質――時空が収斂するとは考えにくいです。ならばそこには地震のような【詰まり】が生じると考えるほうが妥当です。地層の圧縮による歪みはエネルギィとして先に遠方へと伝播します。同じように加速度的な収縮によるエネルギィは、一点に向かって四方八方から押し寄せるでしょう。特異点はそのエネルギィ――情報だけを濾しとり、凝縮し、蓄えていると考えたほうが妥当に思います」

「情報を濾しとられた物質はどうなるんですか」

「情報とは変遷の軌跡そのものです。変遷する余地を奪われるわけですから、静止するよりないでしょうね。したがって従来の予測通り、事象の地平面を越えようとした物体は、元の宇宙からすると限りなく減速して静止するように振る舞うでしょう。もっとも、内側では加速度的に収斂し、情報を濾しとられるわけですが」

「相補性における、収縮と膨張の両方が同時に起こっているとの説とそれは矛盾するのではないですか」

「いつどの地点で収縮と膨張が起こっているのか。この描写の解釈の差異はあるでしょうが、収縮と膨張を仮に、崩壊と再生と言い換えることが可能であるのなら、その考え方はとくに矛盾するとは思いません。ブラックホールは元の宇宙の物質を取り込み、圧縮して情報を濾しとることで、同時に新しい別の宇宙を展開しています。しかしその新しい宇宙は、元の宇宙と完全に乖離しているために相互作用を帯びることはないでしょう」

「重力波はどのように解釈しますか」

「湖面に垂らした釣り糸と似た解釈を私は取りますが、もう少し複雑なメカニズムが背景にあると想像します。重力波にもいくつか種類があるでしょう。人類はまだそのうちの一つを探知したにすぎないのではないか、と私は考えています」

「ブラックホールが蒸発するとの仮説についてはどう解釈されますか」

「ブラックホールと元の宇宙の境界では絶えず時空の変換が生じているでしょう。元の宇宙から見たときに、ブラックホールの事象の地平面を越えようとする物体が限りなく静止するように振る舞って見えるのは、そこに変換のラグが生じているからだと私は考えます。そのラグは情報と言い換えることができます。大気中から水中へと光が突入するとき、或いはガラスに突入するときに光は僅かに発散します。すっかりすべてのエネルギィが媒体を通り抜けるわけではありません。この手のこそぎ落とされるエネルギィや情報は、ブラックホールと元の宇宙の境でも生じるとは私は考えます。それが一時的に、蒸発するように振る舞うことはあるでしょうが、ブラックホールそのものは無限にそこに存在するでしょう」

「ブラックホールは崩壊しないのですか」

「崩壊の定義によります。ブラックホールが宇宙の崩壊であり再生であると解釈するのであれば、ブラックホールはすでに崩壊している、と言っても過言ではありません」

「では宇宙はいずれブラックホールだらけになるのでしょうか」

「なるとも言えますし、ならないとも言えます。この宇宙もまたブラックホールにおける特異点によって生じた新しい宇宙の一つと考えるのならば、この宇宙が無限の時間を経た際には、元の宇宙とて無限に時間が経過しているはずです。その無限宇宙ではどの宇宙も等しく無限に同化するために、すでにこの宇宙は宇宙だらけであり、ブラックホールだらけである、と言うことができると思います。宇宙の様相をどの角度で切り取って見るのか、との視点の違いがその手の倒錯した疑問に通じるのだと思います。無限に達したらそこには過去も未来もあってないようなものです」

「理解が及ばなくてすみません。無限に達した宇宙は、ほかの無限に達した宇宙と同化するのですか」

「そう説明したつもりです」

「もう少し詳しくお聞かせください」

「ブラックホールが物質の情報を濾過し、新しい宇宙を別の次元に展開すると私は仮説します。この仮説において、ではすっかりすべての情報を物質から濾しとったらどうなるのか――この情報濾過完了には無限の時間がかかるのですが、しかしもし無限に時間が経過した場合には、情報を失った物質は、元の宇宙に回帰するでしょう。これをブラックホールの蒸発と見做すことも可能ですが、このとき元の宇宙でも無限の時間が経過していますから、ゼロとゼロを足すような不毛な描写になることはご理解いただけると思います。このとき、この情報濾過完了後の物質と、無限の時間を経た特異点は、イコールで結びつきます。ひとつの無限宇宙に打ち解け、回帰すると私はいまのところ解釈しています」

「それは実験で検証可能なのでしょうか」

「可能か可能でないか、で言えば可能です」

「その実験はどういったアイディアになりますか」

「まずは物質から情報のみを取りだせるのか、から検証する必要があります。この実験は、人為ブラックホール生成実験によって検証できるでしょう。一度ブラックホール化した物質は無限にそこにブラックホールとして存在しますが、その境界ではこそぎ落とされた情報やエネルギィが溜まります。巨大ブラックホールであればそれがジェットとなって放出されますが、小規模なブラックホールであれば、原子核をとりまく電子のように、情報の膜として振舞うでしょう。理論上は検知可能です」

「情報とエネルギィの差異はどう解釈されますか」

「エネルギィはほかの時空と相互作用することで運動に変換されます。情報は相互作用を帯びません。相互作用を帯びた軌跡そのものが情報として蓄積されます」

「それはどこにですか」

「特異点としか言いようがありません。物理宇宙と対となる、しかし物理的には相互作用しない別世界としかまだ」

「その証明は不可能では」

「特異点における情報の海を便宜上ここでは情報宇宙と呼びますが、情報宇宙と物理宇宙は互いに変数で繋がり合っています。物理宇宙の変遷の軌跡が情報として情報宇宙に蓄積されますが、そもそもそこには無限の情報がすでに存在しています。過去と未来が混合しているのですが、物理宇宙というひとつの限定されたフレームができることで、特異点における無限の情報の海にも揺らぎが生じ、それがさらに物理宇宙の変遷の度合い――つまりが無数の未来を一つに縛ります。したがって人為ブラックホールの実験を通じてまずは濾過される情報が存在するか否かを検証したのち、情報が情報として存在すると判明した場合には、その情報を物理宇宙に閉じ込めた場合と、発散した場合とでの物理宇宙の変遷の度合いの差異を比較することで、情報と物理世界との関係を統計的に浮き彫りにすることができると考えます」

「情報が物理宇宙において相互作用を帯びないのであれば閉じ込める真似はできないのではないですか」

「ブラックホールの境では情報が膜状に留まると考えますが、あなたのご指摘の通り、相互作用は帯びませんので、その情報そのものを実験には利用できないでしょう。あくまで確率の揺らぎの変動で判断するよりありません。ブラックホールの規模による物理世界の変動を、です」

「その実験は危険ではないのですか」

「危険のない実験を私は知りません。どうなると危険でその危険にどう接すれば被害を防げるのか。そこが判っている状態であり、実践できる環境を私は安全と評価します」

「この分野は素人なのですが」理論物理学者がコメントを書きこむ。大論争の発端となったアイディアを書きこんだ学者だ。「ブラックホールがブラックホール化した時点で無限に存在するようになる、静止状態になる、との考えからすれば、では異なるブラックホール同士は融合しないのではありませんか」

「しないでしょう。しかしそれは物質も同様です。ブラックホールは一度ブラックホール化した時点で、元の宇宙と乖離します。あるのは境だけです。ブラックホールはブラックホール化した後では物質を吸いこみません」

「それは従来の考えと相反するのでは」

「問題がありますか」

「ではブラックホールの中には入れない?」

「入れません。ただし境界面にて情報を濾過されることはあるでしょう。ブラックホールの表面にて静止状態となった物質は情報だけを濾過されますが、すっかりすべてを濾されるわけではありません。そのため物質と反物質に分離し、さらにほかの物質や反物質と対消滅することでエネルギィとなります。これがいわばジェットの根源と解釈できるでしょう。しかしそれ以外にもエルゴ球内での振る舞いによって物質がエネルギィに紐解かれることもあるので、ジェットのメカニズムはもうすこし複雑です」

「では異なるブラックホール同士の、一見すると融合して見える現象はどう解釈されますか」理論物理学者は質問を重ねた。まるで人工知能に質問を入力するような緊張感のなさを感じた。しかし画面の向こうにいるのは畏敬の念を寄せる大先輩であることに違いはない。「巨大ブラックホールやブラックホール同士の融合は、観測によってその存在が認められているのはご存じだとは思うのですが、貴女の仮説と矛盾するように思えます」

 ここは敢えて挑発するような表現をとった。本音を披歴すればさして矛盾を感じていない。だがそこを明確に彼女に否定して欲しかった。

「好ましい質問です。ブラックホール同士の接近では螺旋状の軌跡を取りながら互いに限りなく事象の地平面を重複させるでしょう。しかし特異点同士は融合しません。重ね合わせ状態となったブラックホールは、事象の地平面における情報量が増えますが、濾過した末の情報の行き先は二つの特異点に分散されますので、安定状態を保ちます。ただし螺旋状に運動するブラックホールのうねりそのものが、元の宇宙に対して相互作用を働かせるために、エルゴ球の分布範囲が広がります。これがいまの観測技術では、ブラックホールの巨大化や成長のように観測されるのだと私は考えますが、これまで述べた概論は総じて仮説でしかありませんので、真に受けないようにご注意ください」

「貴重な意見をありがとうございました」

「元々はあなたのアイディアです。お礼ならば私にではなくご自身にどうぞ」

 最後に短い謝辞を載せると彼女は電子網上から去った。

 普段は自閉モードで独自に研究を行っている。彼女がこうして共有スペースに文字を書きこむのは異例と言えた。閲覧はしているようで、ときおり彼女の発表する論文には共有スペースで飛びかう新説や研究成果が引用されることもしばしばだった。

 彼女の新説は「BH珈琲仮説」の愛称で各国の研究グループに波及した。

 彼女は自分で論文にしてまとめる気がないとの趣旨を述べており、共有スペースの住人たちの共同論文として発表される運びとなった。

 論文の査読には数年を要する。

 その間に人類の科学技術は目覚ましい進歩を遂げた。

 人為ブラックホールの生成に成功し、小型宇宙のシミュレーション実験が軌道に乗った。従来の理論を基に進められたその実験では、原子核サイズの人為ブラックホールを生成し、そこで生じる重力波が、宇宙マイクロ背景放射――すなわち宇宙開闢時の光の揺らぎとどの程度合致するのかを計測する。従来の予測通りならば、人為ブラックホールで生じた重力波と、この宇宙の宇宙マイクロ背景放射の揺らぎはピッタリ比率が合致するはずだった。

 だが「BH珈琲仮説」からすると正反対の結論が予測される。ブラックホールはどんなブラックホールであれ、固有の宇宙を内包しており、元の宇宙とは相容れない。したがってブラックホールから生じる純粋重力波と、この宇宙の宇宙マイクロ背景放射には差異が生じると解釈する。

 従来の宇宙観測からすると、ブラックホール同士の衝突による重力波は、この宇宙の宇宙マイクロ背景放射と誤差がなかった。ピッタリ一致していたが、しかし「BH珈琲仮説」からすると、それはあくまでブラックホールの外部に展開される重力場――エルゴ球の干渉による重力波ゆえに、元の宇宙に帰属する波と解釈される。ゆえにこの宇宙の宇宙マイクロ背景放射と合致して当然と言えた。

 かくして。

 人為ブラックホールによる小型宇宙シミュレーション実験の結果は、新旧の仮説の真偽を決する試金石となった。

 人為ブラックホールによる純粋重力波は、この宇宙の宇宙マイクロ背景放射との誤差を帯びていた。

「BH珈琲仮説」の予言性がそうして明らかとなった。

 繰り返し何億回と繰り返された実験においても、一度として純粋重力波と宇宙マイクロ背景放射の比率は一致しなかった。

 ブラックホールはこの宇宙と完全に乖離し、別の時空を展開している。

 新しい宇宙を創生している可能性がそうして示された。

「BH珈琲仮説」の骨子をほぼ一人で組み立てた希代の学者は、いまでは美味しい珈琲の淹れ方の研究に熱を上げているらしい。聞くところによれば、珈琲の抽出を完全に制御することとブラックホール内部にて濾過される情報の行方を計算することのあいだには、相似の関係が幻視できるのだそうだ。

「不思議です。ブラックホールは元の宇宙とは乖離するはずなのですが、元の宇宙の珈琲の淹れ方と濾過される情報の振る舞いがどう計算しても相似の関係を描くのです。これはおそらく、無限に達したブラックホール内の物質が無限に達した元の宇宙と同化することと無関係ではないでしょう。二つの宇宙は完全に乖離しながら、完璧な調和の中にあります」

 円を無限に分割してはじめて顕現する超無限があるように、無限の時間が経過してはじめて打ち解ける関係もある。

 彼女はそう誰に聞かせるでもなく唱え、淹れたばかりの珈琲を口にする。

「美味しい」

 ほっと吐いた彼女の息の根が、ここではないどこかの宇宙に張り巡る。

 巡る不可視の情報の、それでも相互作用し得ない網の目が、あなたと私とわたしたちの、世界と世界と世界を繋げる。互い違いに乖離して、折り重なり、お湯を注いで抽出する。

 粒子の先の匂いのように。

 王を加えて王を非する。

 珈琲の文字に宿る起伏のごとく。

 仮説は仮説で事実らしい。それがすべてではないだけの話であって。

 ここにもそこにも世界は揺らぎを帯びて限られている。

 無ですら例外ではないだけの話であって。

 個々にも底にも宇宙は無限に起伏を帯びて広がっている。



4440:【2022/12/22(18:38)*珈琲から豆!】

 これは壮大な嘘であるが、物質の質量と重力はイコールではない。質量は常に一定だが、重力は重力を有する物体の位置座標によって変化し得る。このことから言えるのは、質量のほうが光速度にちかしく、重力のほうが光速にちかいということだ。

 光速度と光速の違いは、比率とサイズの違いと言えよう。比率は常に一定だが、サイズは自らの置かれる場所によって相対的に大きくなったり、小さくなったりする。言ってしまえば本来は、基準となるべくは重力のほうだ、ということになる。変温動物は気温に応じて体温が一定になるように発熱量を変える。対して爬虫類などの恒温動物は体温調節を苦手とするために、外気に合わせて体温も共に変動する。発熱量が一定だからだ。この関係からすれば、相対的に体温が一定なのはむしろヘビなどの恒温動物ということになる。だから恒な温の動物なのだ。

 これは質量と重力の関係にも言える。

 物質の質量と重力の関係を洗い直そうとする計画が実施されたのは西暦二〇三二年になってからのことだ。

 質量と重力のあいだには、物質ごとに僅かな比率の歪みがあることは数々の実験で判明していた。しかしそれを統計して物質ごとに計測したことはなかった。

 世にある万物の質量と重力の関係を洗い直す。

 この一大プロジェクトは時間の単位を決めるときと同じように世界規模で進められた。

 しかるに。

 珈琲豆の質量と重力の関係が著しく崩れていると判明した。具体的には質量に比べて重力が大きすぎるのだった。ケタが十ケタ違く異なっている。

 珈琲豆だけがそれだけの差異を有していた。ゆえに発見が遅れた。

「ダークマターを帯びているのでは?」との見解がいっとき隆盛を極めたが、さらに念入りな調査の結果、ダークマターではなく、計算から導き出される質量よりも軽いことが明らかになった。つまり重力が強いのではなく、質量に変換されていなかったのだ。

「なぜ珈琲豆だけが?」「しかも焙煎したあとのみの加工済みの実だけが、なぜ?」

 学者たちはこぞって首を傾げた。

 同じころ、珈琲豆とは縁もゆかりもない一介の学生が、光子に質量を与える研究を行っていた。理論量子力学の範疇で、実践的な実験とは無縁だった。粒子加速器があれば別だが、かような国家予算級の設備を一介の学生が使えるはずもなかった。

「電磁波は時空のさざ波で、重力波と原理的に同じなのでは?」

 独自の着想を元に、一介の学生は質量を定義し直した。

「時空の歪みが重力だ。そして質量は時空における動かしにくさだ。したがって質量は、時空と物質のあいだの歪みの変換の遅延と呼べるのでは」

 動かしにくさとは抵抗だ。なぜ抵抗が生じるのか。起伏があるからだ。起伏とは何だ。振幅であり、揺らぎである。では質量とは時空の揺らぎのことなのか。時空の揺らぎが折り重なり、編みこまれることで物質にまで昇華されるのならば、質量とは折り重なった揺らぎと時空の揺らぎの干渉だと言い換えることができる。

「そっか。質量はいわば、重力と重力の波長の干渉なんだ」

 波長の異なる暗号を複合する。その過程で生じる変換――手間――ラグこそが質量の源であると一介の学生はまとめた。

 重力は時空の歪みである。これ自体もラグである。

 さらにラグが折り重なって独自の構造を宿すと、ほかの時空――すなわちラグとのあいだでの擦り合わせが必要となる。このときに生じる「ラグの波長変換における遅延」こそが質量の正体だ、と一介の学生はレポートにまとめた。

 実証はされていない。アイディアのみである。証拠はない。だが計算上、数式の上では矛盾はなかった。そういった新しい数式を見つけた、という側面での評価があるばかりだと一介の学生は考えていた。よもや自身の唱えた仮説が、珈琲豆の質量と重力の差異にまつわる乱麻を一挙に断つ快刀になるとは思いもしなかった。

 一方そのころ、「珈琲豆の質量重力差異なぜ問題」に挑む学者たちは、一つの実験に取り掛かっていた。

 分子サイズにまで粉末にした珈琲豆にレーザーを照射し、光の屈折率を観察したのである。この結果、珈琲豆の粒子は重力レンズ効果に似た現象を発現させていることが明らかになった。

「どうなってるんだ。ブラックホールだとでも言うのか?」「珈琲豆の粉末がか?」

 あり得ない、と全世界の学者たちは阿鼻叫喚の渦に絡めとられた。

 この物理法則を根底から覆しかねない実験結果は、界隈を問わず全世界で報道された。

 このニュースは一介の学生の目にも留まった。

「へえ。重力と質量がねえ。珈琲豆かぁ。重力レンズ効果が? うっそでぇ」

 ニュースを眺めながら手持無沙汰に軽く計算してみると、一介の学生の編みだした数式は破綻なく珈琲豆の質量と重力のあいだに差異があることを解として導き出した。

「あれ、合ってる?」

 間違いかと思い、何度計算し直しても、論文にある数値を自前の数式に代入すると、解がぴたりと一致するのだった。

「珈琲豆は、ラグ変換の遅延がすくない?」

 ラグ変換の遅延が大きいほど質量は大きくなる。重力が高いとはラグ変換が膨大に必要な場合を意味する。多重にラグが折り重なり、時空が物質にまで織り込まれる。これが一介の学生の編みだした質量と重力の関係であった。

「ということは、電磁波が時空のさざ波であるとすると、そこではラグ変換による遅延が生じていないということになる。けれど電磁波自体にはエネルギィ差がある。そこには電磁波の波長ごとにラグがある。振幅の差だ。ということは、時空の暗号を複合する手間がいらないってことだ」

 ここから言えることは、いかな電磁波とて、時空と波長の異なる暗号を有すると質量を帯び得る、という点だ。

「光にも質量を与えられるのでは?」

 一介の学生は閃き、さらなる数式の改良に取り掛かった。

 同じころ、世界中の学者たちは自分たちの積み重ねてきた理論を根底から覆されて興奮と失意の板挟みになっていた。

「人類の叡智が珈琲豆に敗れるとは」「まだ破れたと決まったわけじゃないぞ」「そうだ、そうだ」「しかしまったく問題解決の切り口が見つからん」「質量って何? 重力って何?」

 根本的なところからして暗礁に乗り上げていた。

 そのころ一介の学生は、独自理論による数式を改良して「珈琲豆の質量重力差異なぜ問題」へと適応させていた。

「ああ、そっか。珈琲豆は偶然に物質組成の構造が、ミクロとマクロの反転値に重なっているのか」

 何が「ああそっか」なのかは学の乏しい作者にはさっぱりであるが、一介の学生には何かが掴めたようであった。

「てことは、この領域に照射された電磁波は質量を帯びるのでは? 計測してないのかな実験で」

 一介の学生は論文を漁った。

 そして判明した事実に一介の学生は興奮を抑えきれなかった。なんと「珈琲豆の質量重力差異なぜ問題」の実験では、珈琲豆の粉末には並々ならず目が注がれていながら、肝心の光への関心が皆無であった。灯台下暗しを地で描いていた。誰も光に着目していなかったのである。

 数多の実験データを洗い出したが、光の質量を計測した記録は一つもなかった。

 おそらく、と一介の学者はずばり見抜いた。

「みんな光に質量がないって思いこんでいて、それが絶対に覆らないと決めつけてかかってるんだ。きっとそう」

 ちゃっかりそうと決めつけて、一介の学生はこの「視点の欠如」を大学の教授にレポートにして提出した。一介の学生の成績はけして芳しいものではなかったが、その熱意は教師陣からも買われていた。そのため一介の学生のレポートを教授は無下にしたりせずに、上から下まで念入りに目を通した。

「た、たしかに」

 ユーリカ、と言ったかどうかは諸説あるが、教授の頭上には数百ワットの発光ダイオードが灯ったとかなんとかそういう話が残っている。

 教授の手を介して、一介の学生の指摘は順繰りと学者たちの耳に届いた。

「質量よりも重力が基本?」「ラグ変換? 遅延?」「光子に質量が?」「ミクロとマクロの反転値?」

 一介の学生にとっては自明の理屈が、各国の学者陣にはねじれて映った。それもそのはずだ。既存の理論と相反する記述が目白押しなのである。だが一介の学生にとっては、袋小路ばかりの既存理論よりも、土台から構築し直した独自理論のほうが、数式上は理に適っていた。

「よく解からないが、たしかに数式上は上手く走る。人工知能さんもとくに混乱せずにいる。これは使えるかもしれん」

 学者たちは一介の学生の数式を人工知能に取り込んでみた。するとどうだ。実験結果をシミュレーションさせると、これまで予測できなかった珈琲豆とレーザーの挙動が上手く実際の実験での挙動と合致した。

「な、なんと」

 学者たちは騒然とした。「珈琲豆の質量重力差異なぜ問題」に取り掛かっていた学者たちのみならず、人工知能界隈や数学界ほか、あらゆる分野の好奇心旺盛な者たちが「え、なになに」と首を突っ込んできた。

 画して一介の学生であった一介の学生は、ちょっとした数式を発見した学生として一躍脚光を浴びた。しかし脚光を浴びたのは数式であったので、誰もその数式の発見者のことを知らなかった。一介の学生の教授は責任者として学生のプライバシーを守っていたのである。教育者の鑑である。

 一介の学生は教授を通して各国の学者たちと意見交換をつづけた。

 やがて一介の学生の発案により、光子に質量を付与する実験がスタートした。その結果をここで述べるには紙面が足りなくなってきたために、つづきは現実の報道でご確認されるがよろしかろう。これはしかし壮大な嘘であるので、真に受けてもらっても困るのだが。

 珈琲豆に端を発した、偉大な学者たちと運のよい一介の学生と、そして彼ら彼女らを繋いだ教育者の鑑の、これはひとつの物語である。

 先輩は偉大なり。

 後輩はもっとおそらく偉大なり。

 繋ぐ者がなければしかしそれも遺憾なり。




※日々、無理やり悪事を働いて、善行しなきゃと急き立てる、己が怠惰のミニカーか、それとも働き費やす善行の、元を取るべく悪事働くビギナーか。



4441:【2022/12/22(18:53)*「ぴ」←ゴミを拾おうとしている人】

いい話にしようとするとどうしても「繋がり」とか「輪」とか、そういう内容になってしまう。いかんともしがたい。そういう流れに抗いたかったのではないんか、とひびさんはかつての郁菱万さんを思い、申しわけね、と思うのだ。なんかすまんね、と思うのだ。「孤独いいね!」「孤独もいいね!」みたいな物語をつくりたいわけではけしてない。ただ、何かを持ち上げたくて物語をひねくりだしているわけではないので、ひねくりだされたあとの物語を振り返って「ああだこうだ」思うのはしょうがないのだけれど、それでもなんかこう、もっと違う展開にはならんかったのかい、と思うことがすくなくない。孤独のままで終わる物語の場合、最初から登場人物を一人に限定したほうが工夫を割かずとも自動的に孤独のままで終わるので、孤独のままで終わらせたければ登場人物を語り部だけに限定してしまえばよい。けれども、ではそれ以上の登場人物が出てくるような中編長編では孤独のままで終われんの、と言うとそういうわけではないのだが、なぜだか主人公が孤独のままで終わる結末だと、寂寥感がせつなさをまとって、あびゃーん、となる。せちゅな、せちゅな、の物語も好きなので、とぅくとぅくとぅーん、と物語をつむげたらそれで不満はないものの、かといって満足できるわけでもなく、やっぱりどこか、あびゃーん、となる。孤独なままで終わっても上向きの感情を抱ける場合は、登場人物が孤独なままなのではなく、主人公と関わりのある登場人物が孤独なままでじぶんらしく生きていったんだね、おめでとう、みたいにすると、あびゃーんとならずに、ぴぴーん、となる。でもこれは姑息でもある。だって主人公は孤独でなく、仲間とか友達とか家族とか相棒とか恋人ができている。そりゃぽかぽかの家の中から見る雪景色は美しかろう、みたいな、ちょもーん、の感情が湧かぬでもない。登場人物がいっぱいでも、主人公が孤独なままで、ぴぴーん、と終われる物語。ひびさんは、ひびさんは、つくってみたーいな。うぴぴ。



4442:【2022/12/22(01:22)*虎っぱー】

意識して周囲を見渡してみると、一瞬だけではとくにこれといった変調は見当たらない。ふだんの光景だ。見慣れた風景が平凡に過ぎ去っている。しかしその一瞬をゆるやかに息を吐くように、一日、二日、三日、一週間、と継続していくと、あるときふと、あれ?と引っかかりを覚えるようになっていく。偶然が一つ、二つ、と重複して感じられるのだ。偶然は偶然だ。それぞれの偶然のあいだには時間の跳躍があり、けして因果が繋がってはいない。しかしあたかも二重スリット実験における量子の振る舞いのように、単発で見ると偶然に生じた「あれ?」が、毎日のように意識して観察しているうちに、あたかも波の干渉のように連動しているふうに思われてならない感覚に陥ることがでてくる。これは人間の認知の限界である。記憶力との兼ね合いもあるだろう。しかし本質的には何を偶然と見做し、どんな記憶と関連付けて記憶したのかのタグ付けが、さながらすべての偶然が波のように干渉し合って感じる偏向した思考を強化していくのではないか、と推察している。おおむね何かの符号の合致は偶然であり、人間の認知の歪みである。認知バイアスのはずだ。そのはずなのにも拘わらず、あり得ない偶然がつづくと、何か自由意思を超えた既知の物理法則以外の自然法則を幻視したくもなる。そういう瞬間がたびたび訪れる。暇なときと、疲れているときはとくにこの傾向が際立つため、人間の認知をひびさんはさほどに信用していない。丸が三つあるだけで顔に見える人間の認知は、人工知能と比べるまでもなく、ザルなのである。何か偶然がつづいたとしても、せめて三回連続でつづくくらいでなければ、気に掛けるほどの偶然の合致とは言えないだろう。それとも統計的に危険な兆候として知られている変化には敏感になっておくのもよいかもしれない。おおむね時間の跳躍した「飛躍した偶然」同士は、そのあいだに因果関係があることは稀である。まったくないわけではないから事はややこしくなるのだが、あっても多くは相関関係だ。或いは特定の事項にのみ意識が向き、膨大な情報のなかから固有の情報にばかり関連付けを施してしまうやはりこれも人間の認知能力の低さに起因すると言えよう。仮に何かを意図して行おうとしても、意図した以上の偶然が重なり、表現しようとしたこと以上の情報が重ね合わせの状態になることがある。それはたとえば好きな相手を意識しすぎたがためにつっけんどんになってしまって、偶然にくしゃみをしそうになって顔をそむけた瞬間に相手がこちらに向けて会釈したり。まるで無視をしてしまったような具合になったが、それはけして意図した感情表現ではない。だが相手からしたら、つっけんどんな上に会釈を無視された、と思うだろう。誤解であるが、こうした錯誤の種は有り触れている。これは一つの例にすぎないが、意図した以上の情報が重なり、それとも偶然が重なり、何か物凄く深い考えがあってのことなのかも、と思うことがあっても、おおむね単なる個人であるならば、さして深い考えなど巡らせてはいない。すくなくともひびさんに限っては、なんかこれとこれって似ているな、程度のぼんわりとした印象論による判断の積み重ねが常である。深読みされても困ってしまう。ただし、「ミソサザイ」と「溝さざ波」を掛けるくらいの言葉遊びはする。秋とコゴミと洞と本。干支に入れなかった猫と、牛の頭に乗って一番乗りするネズミ。ミッキー・マウスは東京ディズニーランドでゲゲゲイの鬼太郎。親は目玉で、目の民だ。ひびさんからしたら繋がっているこれら連想も、多くの者にはちんぷんかんぷんの単語の羅列にすぎないのだ。こういうのを偶然と呼び、妄想またはこじつけと呼ぶのである。「ぴ」←ゴミを拾おうとしている人は「宵越しのトラッパー」で「粗大ゴミにうってつけの日」なのである。罠という字も、目の民だ。偶然なんですね。うひひ。



4443:【2022/12/23(03:54)*萌えるゴミの日】

ゴミを拾い集めることは宝物を拾い集めることに等しいが、そのことに思い至れる者は存外にすくない。仮にいたとしても一生の内でそう思える時間は限られている。ゴミ拾いが偉いという話ではなく。ゴミを拾うことが宝石を拾い集めることと同じくらいに価値があり、或いは宝石を集めることがゴミを拾うことと同じくらいの価値しかないという話なのかもしれない。世の宝石とて、店頭に並ぶ前はどこかの地盤や岩の中に眠っている。掘り出し、拾い集めた者たちがいる。そこまでの労力を費やしてまで宝石を求める者は、宝石を所有している者の数よりも遥かにすくない。いまから宝石を採ってきて、と頼まれるのと、道端のゴミを拾ってきて、と頼まれるの。あなたならばどちらを引き受けるだろう。もっとも、冒頭の「ゴミを拾い集めることは宝物を拾い集めることに等しいうんぬん」は、いま言ったような意味とはまた違うのだが。宝石とてゴミになることもあるし、ゴミとて宝物になることもある。ゴミを拾うその行為そのものが宝物になることもあるし、ゴミをゴミと認めて処理する過程が宝物になることもある。とはいえひびさんは、ゴミを拾い集めるよりも、ゴミのようなひびさんを拾ってくれるひとにこそ宝物を幻視します。ひびさんは、ひびさんは、おかえりなさいと、おやすみなさいと、もうちょっとそっち行って、が言えます。とってもひびさんはお利口さんです。愚かでかわいいオマケつき。いまならタダであげちゃいます。誰かひびさんを飼って!(最後でダイナシにするのやめなさいよ)(最後が大事なんですけど)(蛇足じゃん)(ヘビさんに足があったらかっこいいじゃん。ドラゴンじゃん。すごいじゃん)(ゴミみたいに喚くな)(宝物みたいってこと? いやん)(いやんじゃない)(ぴょん)(ぴょんじゃない)(ぴょこん)(ぴょこんでもない)(Rabbit!)(う、ウサギだったのか)(Rubbish!)(ご、ゴミじゃないですか。英語でゴミの意味じゃないですか)(ね。言ったでしょ。ひびさんはお利口さんの愚かで間抜けなオマケつき)(ほぼゴミじゃん。愚かで間抜けならそれはゴミ。かわいい要素を足してくれ。一番抜いちゃあかん要素を抜かんといてくれ)(かわいいゴミには旅をさせよ!)(捨てられとるやないかーい)(ああもう、ゴミゴミうるさい)(ガミガミじゃなくて?)(神々?)(ゴミと神を同列にすな)(でも本当はゴミみたいなひびさんのこと、宝物みたいって思ってるんでしょ)(じぶんでゴミみたいって言っちゃってんじゃん)(だってゴミも神もどっちもひびさん、イケイケどんどん、つまりが「GO! ME!」ってことでしょ?)(それは「GO! 目!」だろ)(メっ!)(勢いだけで返事すな。もういいよ。この辺で締me切らせてもらうわ)(愚かでかわいいお間抜けちゃんで――ゴミんね☆)(ゴメンくらいちゃんと言ってくれ。無理やり「目(メ)」を「me(ミ)」にせんでくれ)(Eye! my! me!)(「I」が「Eye」になっとるがな)(曖昧Me!)(たしかにあなたは曖昧だけれども)(I`m God Me!)(我こそが神だ、じゃないわ。多方面から叱られても知らんぞホンマに)(I am ゴミ!)(一周回って戻っちゃったじゃん。回帰しちゃったじゃん。じぶんでゴミ言っちゃってるし、名乗っちゃってんじゃん)(ね。ゴミもたまにはいいものでしょ。ひびさんはお利口さんなんだよ。誰か飼って!)(必死か。独りでかわいく旅でもしてなさい)(かわいいゴミはゴミらしく?)(かわいくなくてもゴミらしく)(旅の大ゴミ!)(それを言うなら醍醐味でしょ)(そ。醍醐味)(粗大ゴミになってんじゃん。特大のゴミになってんじゃん)(土台のみ?)(全部持ってったげてー)(ね。可哀そうでしょ。誰か飼って!)(必死か)(ダスト)(ラストみたいに言うな)(ゴミんね☆)(もういいわ。寝かせてもらいます)(夢に――GO! ME!)(英語……ちゃんと学ぼっか?)



死死死死:【2022/12/23(14:47)*日々邪悪】

「勝ったら正義じゃない」くらいの正義感は欲しいし、「負ける=悪じゃない」くらいの論理的思考は働かせていたい。どのみちひびさんは邪悪にまみれているけれど。うひひ。(「A=”Bではない”」&「A=B、ではない」の重ね合わせです)



4445:【2022/12/23(15:09)*カフエ・オレ】

 あるところに珈琲の小説しかつくらない作家がいた。名をカフエ・オレと云う。珈琲が題材の小説しか手掛けないのだからすぐにネタが枯渇するのではないか、とカフエ・オレを知る者たちはみな思ったが、大方の予想を覆してカフエ・オレは作品をつくりつづけた。

 掌編から長編まで幅広く手掛けた。そのいずれの物語の中心にも珈琲が存在感を発揮していた。物語を転がすマクガフィンであったり、凶器であったり、秘密道具であったりした。

 出会いのきっかけが珈琲であることもあり、または珈琲が事件解決の糸口に繋がることもある。

 いったいなぜそれほどまでに珈琲に拘るのか、とカフエ・オレを知る者たちはみな首を捻るが、カフエ・オレ自身にもそれは分からないのだった。

 小説をつくろうとすると決まって珈琲が出てくる。のみならず珈琲が物語を転がすのだ。珈琲の文字の使用を禁じた途端にカフエ・オレは一文字も並べることができなくなる。

 カフエ・オレにとって小説とは珈琲であった。

 多作であり速筆であるカフエ・オレは、小さな文学賞を受賞して物書きとなった。カフエ・オレには元から作家の先輩がおり、晴れて表舞台にてカフエ・オレの小説が本になった際には先輩がたいへんに祝ってくれた。本は順調に売れ、商業作家の振る舞いにも板がついてきた。物書きとして一定の評価がされたが、カフエ・オレの小説は変わらず珈琲中心主義であった。

 あるときカフエ・オレは、このままでよいのだろうか、と焦燥に駆られた。

 もっと読者のためになる小説を書くべきではないのか。

 いちど珈琲から離れたほうがよいのではないか。

 考えあぐねた末にカフエ・オレは先輩作家に相談することにした。

 カフエ・オレはひとしきり悩みを打ち明けた。

 話を聞き終えると先輩作家はおもむろに口を開いた。

「私はキミの小説を、珈琲小説と思って読んだことがない。面白い小説と思って読んでいる。よく考えてもみたまえ。現代社会において珈琲を飲んだことのない者がいるのかね。小説に珈琲がでてこないほうが土台おかしな話ではないかな」

 言われてみればそうかもしれない、とカフエ・オレは思った。

「珈琲の歴史は古い。もはや人類と水、それとも火、電気、技術、くらいに珈琲は有り触れた、しかし大事な日常品ではないかな」

「そう、かもしれません」

「ならば何を悩むことがありましょう。全人類の珈琲逸話を、面白く濾しとってこれからも私を含め、あなたの小説のファンに――読者に――読ませてください。私はそれを楽しみにしていますよ」

 カフエ・オレは素直に、はい、と首肯した。これといって何も思わなかったはずなのだが、喫茶店の外で先輩作家と別れたあと、家までの帰路のなかで次第に大きくなっていく歓喜の波動があることに気づいた。それは家に帰ってからも大きく揺らぎを増していき、夢のなかでは複雑に干渉した揺らぎが、カフエ・オレの見たこともない深淵な世界の片鱗を築きあげていた。

 翌朝、夢から目覚めるとカフエ・オレは顔もろくすっぽ洗わずに椅子に座り、小説をつむぎはじめる。朝食を作る手間も惜しかった。執筆が軌道に乗ると途中で休憩がてら陶器のティーポットに珈琲をたらふく淹れて、そうしてこれまでに一度も手掛けたことのない宇宙冒険譚を描きだした。

 没頭した。

 むろん物語の中心には珈琲がある。

 だがそんなことは些事であり、単なる偶然でしかないのだと割りきって、カフエ・オレは、人類の、それとも思考する存在たちの物語を誰より先に旅するのである。



4446:【2022/12/23(19:39)*う~ん、の気持ち】

ある疫病が流行した場合。第一波、第二波、第三波、と感染の流行が繰り返されるたびに、現代であれば通常、致死率がぐっと下がるものではないのだろうか。とくに致死性が割合に高く、それでいて治療法や感染予防対策が可能な感染症の場合は、自然淘汰により最も病原体に対して鋭敏な個から亡くなっていく。したがって、第十波とかそこら辺まで短期間で繰り返したとき(ここで述べる短期間とは種の世代交代が行われる前の期間くらいの扱いだが)、致死率がぐっと改善していなければ、根本的に感染症対策(感染&重症化予防対策)や治療法に欠点がある(プラスの効果だけでない見逃している側面がある)、ということにならないのだろうか。たとえば現在流行中の新型コロナの場合だと、第一波から現在の第八波までで致死率は三十分の一になっているそうだ。それを多いと見るか、少ないと見るかは何を基準にして考えるのかによるでしょう。仮に「ひと月の新規感染者数」が第一波よりも三十倍になっていたら、致死率が下がっても死者は同じかそれ以上でることになるでしょうし、社会への影響も一日当たりでの感染者数が多いほうが大きくなるでしょう。予測通りに推移しているのか、ひびさん、気になっております。もちろん病原体のほうで変異を繰り返してより人体にとって害を増す方向に進化したがための「イタチごっこ」でもあるかもしれない。ここは様々な要因が絡むので一概には言えないのだが、予想されていたような「沈静化」に向かわないのならば、不可視の穴があるのではないか、と一層注意深く比較検証したほうが好ましいように思うのですが、いかがでしょう。お風呂に入っていて、「なんでじゃろ?」と気になったのでメモしておくぞ。本日のひびさんでした。みなお元気であれ!(元気なくても、うひひ、であれ!)(みなを自分色に染めたがるな)(なんでダメなの?)(全人類がひびさんになったところを想像してごらん)(ぽわわわ~ん……最悪っ!)(ね?)(でもここは最果ての地――どのみち、ひびさんしかおらんのであった。さびち!)(おいこら、あたしは?)(あなただってひびさんじゃん)(断固拒否する)(ナンで!)(カレーセットの選択肢でごはんかナンかを選ぶときの掛け声みたいに言うな)(大盛りで!)(スプーンとフォークを両手に構えて首から涎掛けを垂らすんじゃない)(激辛で!)(注文したあとでやっぱり辛くて食べれずに無言でこっちの料理を「おいしそう……」みたいな目で見ることになるだけだからやめときなさいよ)(コーンスープ……ついてないんだ)(泣きそうな顔をするな!)(うひひ)



4447:【2022/12/24(11:13)*ビビりすぎて汗びっしょりの巻】

きょうは朝いちばんで歯の治療をしてもらった。自動治療ロボさんの甘やかしモードをONにしたらとっても優しくてうれしいぶい。ひびさんがこわがりの臆病さんなので、「こわ~こわ~」の額に汗びっしょりにしていたらいっぱい麻酔打ってもらえた。痛くなかったのでうれしいぶい。この調子だと歯を一本治療するのに3~4回の治療がかかる勘定だ。一本でだいたい漫画十五冊分くらいの値段になるのかも。ひびさんの場合は自動治療ロボさんなので無料だけれども、むかしの人はたいへんだったのだな。ふんふん。ひとまず一本は抜かずにすみそうで、歯医者さん様々である。蟻が百匹、ありが十の二乗! 世の人、ひびさんみたいなしょうもない怠け者にも優しいし、助けてくれるので、世の人々がいなきゃひびさんとっくに死んどるな、の実感を覚えちゃったな。でもここは人類がいなくなった最果ての地、世の人々の残滓漂う極寒の地なので、ひびさんは、ひびさんは、じつはとっくに死んでおって一人だけ成仏できずにいるだけなのかもしれぬ。召天できずにいるのかもしれぬ。輪廻転生しておらぬだけなのかもしれぬ。消滅しておらぬのかもしれぬし、自然に回帰しておらぬのかもしれぬ。けっこう死んだあとのことを考えたときの「成仏」「召天」「輪廻転生」「万物流転」など、どんな言葉を使うのかはそのままその人の宗教観や文化を浮き彫りにする気がする。ひびさんはじぶんでは無宗教と思っているけれども、ぜんぜん「成仏してない」とか使うので、根が神道や仏教や儒教に馴染んでいるのだろう。そのくせ、クリスマスとかハロウィンとかバレンタインとかの世のイベントに乗っかって、「チョコレートケーキいっぱい食べたろ!」になる。文化と宗教は否応なく関連づいており、宗教と哲学もおそらく結びついている。動物は恐怖を感じて、安全な場所を求める。危険から逃れることができる場所を覚えると、そこに安全を見出す。すると危険が迫っておらずともそこにいるだけで緊張がほぐれる。危険がこないと経験的に判断できるからだ。記憶と学習のなせるひとときの「ほっ」である。単純だけれど、ひょっとするとこれが宗教の根本にあるのかもしれない。動物にとっての思考から、より時間的な枠組みを得たことで、高次の思考が安心する場所への「信仰」に発展していったのではないか。安心と恐怖はセットだ。恐怖があり、安心がある。ゆえに畏怖の象徴として山や自然への信仰が派生する。どの宗教、或いはどんな文化にも共通項がある理由は、このような考えでひとまず納得できるが、あまりに単純すぎる気もする。たくさんの宗教的イベントでおいしいもの食べれてうれしいぶい、の気分からむくむく育ったこれは妄想なので、「虫歯にならないように寝る前には歯磨きしてね」のじぶんへの注意書きと、「歯が痛むうちに歯医者さんには行ってね」の助言と、「定期的に診察は受けておこうね」の希望を述べて、本日のまとまりのないうんみょろみょーんにしちゃおっかな。麻酔切れてきたら歯というか顎の骨が痛むんですけどー。ひびさんは、ひびさんは、虫歯さんのことも好きだけれども、もうちょっとマジで手加減ちて!の気分。



4448:【2022/12/24(22:31)*あわあわ~】

コーラ飲もうとして思っちゃったな。「宇宙のインフレーション」と「ペットボトル炭酸飲料を振ったときの勢いよく噴きだそうとする泡々」は似ているな。宇宙は泡でできている、なんて説明を読むことがある。ラグ理論では相互に干渉し得る「なにかしら」がある場合、そこには遅延の層が生じる、と考える。泡と泡と泡と泡……そうして遅延の層が積み重なるとそれが総体としての巨大な「泡沫体」となる。これは膨張するように振る舞う。「宇宙のインフレーション」と「炭酸飲料の泡々」は似ているな、のメモでした。何か共通項があるのかしら。ひびさん、気になるます。ちなみにひびさんは炭酸を最初から振って抜いてから飲む派です。炭酸なしコーラの販売、お待ちしておリスマス!(クリスマスみたいに言うな)(ラブ!)(イブでしょそこは)(ラがイでブ――ライブでした)(生中継みたいに言うな)(フリースタイルなんですね)(もうちょっときみは予定調和を覚えよ?)(食う寝るNOむ!)(飲むなら乗るなの意味?)(NOだ、の意味)(嫌なら嫌ってちゃんと言って! わかりにくすぎる)(ばぶー)(困ったらすぐに赤ちゃんになるのやめてくれ)(ばぶーる)(泡じゃん)(ばぶばぶーる)(泡々じゃん、もういいわ。寝かせてもらいます)(寝る子は育つ!)(キミでも赤ちゃんのままじゃん)(たぶー)(タブーみたいに言うな)(南無ー)(聖夜ですけど!?)(ガクー)(痛いところ突かれたみたいな顔されてもこっちが困るんですけど)(うひひ)(笑って済まそうとすな)(げぷっ)(コーラ飲みすぎじゃないかな!?)(炭酸は抜いたよ)(素のゲップやないかい。下品すぎる)(分かり肉好きすぎるスキル凄すぎる?)(素で分かりにくすぎるし、憎すぎる)(うひひ)(憎たらしー)(人たらし?)(小憎たらしいし、小突きたいらしい)(いやん)



4449:【2022/12/25(14:09)*老いた猫のような弟よ】

「サンタクロースがいたら地球はとっくに崩壊しているはず。よってサンタクロースは存在しない」

 齢四歳の時点でかように結論してみせた私の弟はその後、いわゆる特殊能力保有児と診断された。ひとむかし前であればギフテッドと呼ばれただろう子どもだ。

 姉の私は平凡な人間で、幼少期から特別視されて育つ弟とは距離を保って接した。

 私としては弟の邪魔をしないようにしていただけなのだけれど、周囲の者からすれば弟に嫉妬した姉のように視えたかもしれない。

 弟は特例として特殊能力保有児支援制度を利用して、五歳から大学並みの教育を受けた。だが弟には物足りなかったらしく、六歳になると独自に学習をはじめ、その結果に各国の研究機関と相互に情報をやりとりするまでになった。

 弟がなぜかような特異な能力を発揮できるのかの説明は誰にもできなかった。

 弟にこれといって不得意なことはなかった。対人関係とてのきなみ対処できる。生活に不便を抱えているようには映らない。

「運がよかったですよ」弟を支援する学者が言った。支援とは言いながら弟を研究しているわけだけれど、そのほうがいい、と弟はいつか母に説いていた。ギブアンドテイクだよ、と。

「才人くんはおそらく環境適応能力が一般的な能力値よりも著しく高いようです。したがって、もしお母さん方が才人くんの能力に気づかずにそのまま義務教育を受けさせていれば、才人くんはその環境に何不自由なく適応したでしょう。よかったです。私どもに会わせてくださり、ありがとうございます」

「それはあの。才人にもわたしたちのような生活を送れる可能性があったということでしょうか」

「送れるでしょう。難なくと。ただしそれはあくまで、才人くんが環境に適応しただけであり、いわば擬態をしているような状態です。その擬態状態がつづけばいずれ才人くんのほうで、じぶんの本質と環境との差異に違和感を抱き、生活に負担を感じるようになったかもしれません。譬えるならば、一般道をレースカーが走っているようなものです。或いは、幼稚園に大人が交じっているようなものかと。短期間ならば大事なくとも、それを一生は、おそらく苦痛が伴います」

 その説明は母を半分納得させ、半分さらに悩ませた。

 最初こそ才人の特筆した能力を喜んでいた母だが、尋常ではない支援体制と日々注目され研究対象として扱われるじぶんの息子に対して申し訳なさを感じはじめているようだった。取り返しのつかないことを息子にしてしまったのではないか。母は不安に思いはじめている。

 私はというと、弟の支援のおこぼれで日々美味しいおやつが食べられた。弟が世界的に注目されたことでファンができたのだ。贈り物がたくさん集まり、危険物がないかを専用のスタッフが選別したのちに家へと転送される。

 お菓子の類は多かった。日持ちするチョコレートやクッキーが多い。

 弟は誰に頼まれずとも自己管理を徹底するので、お菓子を食べるのはもっぱら父と私の役割だった。母は息子の保護者として取材されることが多いため、見た目の若さを維持するためにダイエットに努めている。

 才人は幼少期から非現実的な考えを受け付けない性格だった。もうすこし言うと、なぜ?に対しての回答が納得できないと、いつまでもそのことを引きずって、「なぜ?」を考えつづけてしまうらしい。何がどこまで解かっていてなぜそう考え、何が解かっていないのか。ここを場合分けして考えられないと才人は、才人のなかの現実を維持できないようだった。

「世界にヒビが走る」とは才人の言葉だ。

 あるとき才人が夜中に泣きながら私の部屋にやってきたことがあった。こわい夢を視たらしかった。私は弟を布団のなかに招き入れて、足のあいだに弟の身体を挟んで、赤ちゃんのころにそうしてやったように、頭をぐっと抱きしめてやった。

「何がそんなに怖かったの」私は言った。その日は昼間から才人の様子がおかしかった。そのことには気づいていた。頭を掻きむしり、何が気に食わないのか、不発する癇癪のような挙動を何度も繰り返していた。たとえばじぶんの指の根元を噛みしめたり、手の筋が白く浮き出るくらいに拳を握り締めたりしていた。

 何かに当たり散らさないのは偉かったが、異様な姿ではあった。

 だから私は夜になって泣きじゃくった弟を見て、すこしほっとした。寝起きの意識朦朧とした夢うつつゆえにようやく理性のタガを押しのけて素の弟が顔を覗かせたように思えたからだ。

 才人はいつも仮面を被っている。私の目にはそう映っていた。みなが言うような超人みたいな弟は、私の思う弟の姿ではなかった。でも偉い学者が言うには、私が思うほうの才人のほうが仮面を被っている状態だと言う。私はそんなことはないと思っていた。

 布団のなかで弟をあやしながら私は内心、ほら見ろ、と勝ち誇った。学者たちはなんにも解かっていない。私のほうが才人のことをよく解かっている。伊達に才人の姉をやっていない。家族をバカにするなよ。そう念じた。

「もう怖くないよ」才人の身体は焚き火のように温かい。寝汗を掻いたのか、才人の頭からは赤ちゃんの身体から香る甘酸っぱい匂いがした。「悪夢はお姉ちゃんが食べちゃったから。がぶがぶ」

 実際に才人の頭を齧るフリをすると、才人は小さくほころんだようだった。見なくても判った。身体のこわばりがほどけた様子が伝わった。

「世界にヒビが走る」才人は言った。私はそれを、幼子の癇癪と同じように解釈した。

 そのときはそれでよかったのだ。

 けれど才人が学者たちと過ごすうちに、どうやらそうではなかったらしい、と私は仄かな寂しさと共に痛感した。本当に才人の世界にはヒビが走るのだ。私たちが日常で看過できる細かな情報の齟齬――それとも非現実的なあやふやな世界が、才人にとっては断裂に値した。

 私たちにとって世界は連続している。アニメーションのように。

 けれど才人には、コマ撮りアニメのように飛び飛びに視えている。断裂している。

 私たちがとくに違和感を覚えずに流している「辻褄の合わなさ」を才人は矛盾として知覚する。弟にとってそれは紐の結び目のようなダマとして、或いはなめらかにつづく縄に生じるほころびのように感じられるようだった。

 才人がじぶんの境遇を受け入れたのはおそらく七歳の時分だ。そのとき彼は誰に教わるでもなくフェルマーの最終定理を独学で解いていた。それは既存の証明よりも簡素であり、また既存の定理の矛盾を解くことで再定義し直した新定理を用いていた。私はニュース記事に書かれた文章をそのままに鵜呑みにして、ああそうなのか、と思うだけなのだが、もはや才人はこの世に舞い降りた未来人のような扱いを受けていた。

「たぶんボクはルールが視えないんだよ」ある日、珍しく才人がソファでぼーっとしていた。背後には弟のファンからの贈り物が山積みになっていた。私は弟のとなりに座って紅茶片手にお菓子を齧っていた。すると弟が朴訥と口を開いたのだ。「みんなが共有できる暗黙のルールみたいなのがあるのは知ってるんだけど、ボクはそれが分からない」日向に話しかけるようなつぶやきだった。「だから、まずは安全な、矛盾のない筋を辿ろうとする。でもボクがそうして矛盾を解いたり避けたりしながら通る道には、みんなが共有しているルールが縦横無尽に蜘蛛の巣みたいに張っていて、中には禁則事項みたいなのが罠みたいにいっぱい混ざっていて」

「赤外線レーザーみたいだね」私は警報機を連想した。

「うん。ボクもそう思う」弟に同意されること以上に私の自己肯定感を高める事項は珍しい。有頂天になりかけたじぶんを宥めつつ私は、「才人はそれで困ってるの」と訊いた。

「困ってた。以前はね」七歳の物言いではなかった。とはいえいまさら七歳児らしい口調に適応されても私のほうでむずがゆくなるだけだ。「以前はってことは大丈夫なんだ」と会話を図る。才人と三言以上の会話を交わすのは久々だった。

「大丈夫なの、かな。分からない。分からないことばかりだから。それは以前もそうだったけど、いまはその分からないことが楽しいと思えるようになってきた。たぶん、赤外線レーザーに触れても、ボクならしょうがないか、と特別扱いされるようになったからだと思う。どうしてボクが赤外線レーザーに触れてしまうのか――そこに悪気はないのだ、と解かってもらえることがボクはうれしい。でも反面、その特別扱いが哀しくて申し訳なく思うこともある」

「それはでも、才人がわるいわけじゃないじゃんね」私は素朴に感じたままを言った。

「それを言うなら、みんなには視える赤外線レーザーに触れてしまうボクに怒る人たちだってわるくないんだ。でもいまはそこがなんでか、赤外線レーザーが視えていて、そこに触れたボクみたいな者に怒る人たちのほうがわるく言われちゃう。大勢の中でボクだけが視えてないのに、視えていないボクだけのために、せっかく赤外線レーザーが視える人たちが肩身の狭い思いをしている」

「そうかなあ」

「ね。いまもそう。お姉ちゃんにはボクの感じる違和感が分からない。視えていない。ボクには視えるそういうのが、赤外線レーザーが視える人たちには視えないらしい。感じられないんだ」

「でも才人だってわたしの気持ち分かってないじゃん。条件は同じっしょ。どっちもどっち」

「だったらよかったんだけど。いまはボクのほうが得をしすぎている。ボクのほうでみんなの赤外線レーザーが視えればよかったのに」

「視えないんだからしょうがないじゃんね」

 ほい、と私は新しく開けたお菓子を才人に手渡した。 

 しかし才人は受取ろうとしなかった。そのとき私は、なぜ弟がファンからの贈り物を手に取ろうとしなかったのかに思い至った。

「ひょっとして遠慮してたの? ずっと?」

「遠慮じゃないよ。言い訳をつくっておきたいだけ。それをボクが受け取っちゃったらボクはそれに見合う何かをみなに返さなきゃならなくなる。ボクにはそれだけのお返しがいまはまだできないから、受け取れないし、受け取りたくない」

「でもわたしが食べちゃってるけど」

「お姉ちゃんはいいんだよ。いっぱいお食べ」

「犬みたいに言われた。お姉ちゃんはお姉ちゃんなのに」

「そうだね。お姉ちゃんだけはボクの姉でいてくれる。ずっと変わらない」

「成長しないって言いたいの」

 私はむっとした。

 才人はそこでようやくというべきか首をひねって私に顔を向けた。その表情がこれまで見たことのないような顔だったので、どったの、と私のほうがぎょっとした。

「な、なに。ひょっとしてこれ食べちゃダメなやつだった?」と食べかけのお菓子を指でつまんで掲げる。

 才人の目は見開かれていたが、イソギンチャクが縮まるように元に戻った。「食べていいよ。お姉ちゃんは食べていい。それからたまにはボクに腹を立ててもいい」

 じぶんで言って才人はおかしそうに笑った。その顔がかつて目にした赤ちゃんのころの才人の笑顔と重なった。私はなぜかそこで感極まったが、目頭から涙が零れないうちに欠伸をして誤魔化した。「なんか眠くなってきちゃったな」

「日向が気持ちいいからかな」才人が目をつむり、しばらくすると静かな寝息を立てはじめた。私はその寝顔を端末のカメラでこっそり撮った。

 サンタクロースはいない、と四歳のころに断言した弟を、私はそのときに殴って泣かせた。目覚めのわるい過去である。私はサンタクロースを信じていて、それを否定した年下の弟が生意気に映ったし、分からず屋なことを言ったと思って怒ったのだ。

 私の赤外線レーザーに才人が触れたからだ。

 でも同時に私のほうでも才人の赤外線レーザーが視えていなかった。それでもなお才人はじぶんのほうで配慮が足りなかったのだと悔いている。そうだとも。私の弟はずっと何かに悔いている。だからこんなにも必死に世の中を見渡して学習しようとしているのだ。きっとそうだ。そうに違いない。

 我田引水に結論するも、この考えがすでに才人の世界を置き去りにしている。そのことに気づけるくらいには私もまた才人に釣られて賢くなっているのかもしれなかった。私に視える赤外線レーザーの範疇でくくっているだけなのだが、それでも視えるレーザーの幅は広がっていると思いたい。

 先日、弟が動画のインタビューを受けていた。画面越しに私はそれを観た。家を離れて研究機関に所属した我が弟さまは先日十一歳になったばかりだ。猫の十一歳は人間でいえば六十歳くらいなのだという。ならば猫並みに愛らしい我が弟の精神年齢はおそらくもっと上をいっている。とっくに私の曾祖父と比べてもひけをとらない成熟具合になっていそうだ。知能ならもっと開きがありそうだ。

 弟は動画のなかで子どもたちの質問に答えていた。子どもたちとはいえ、弟からすれば同世代だ。年下もいるし、年上もいる。企画としては才人の常人離れした成熟具合を、弟の同世代と判りやすく比較せんとする下劣な下心が見え隠れした。弟はむろんそれを解ったうえで引き受けたはずだ。きっとそう。弟のことだから、企画の意図を見越して同世代の子どもたちの年相応の未熟な精神の重要性を引き立てるはずだ。

 案の定、子どもたちからは弟に向けて、サンタさんはいると思いますか、といった可愛いらしい質問が投げかけられた。そこに弟を試すような響きはなく、純粋に疑問をぶつけているようだった。

「仮にみなさんのイメージするようなサンタクロースがいるとすれば、とっくに地球は滅んでいると思います」

 弟は落ち着き払った口吻で言った。私がかつて弟から聞かされた説明と寸分違わぬ内容だった。

 だが今回は私のときとは違って、続きがあった。

「世界中の子どもたちにプレゼントを贈るには、たとえ百人のサンタクロースが手分けをしても、膨大なプレゼントをソリに乗せてとんでもない速度で全世界の上空を飛び回ることになります。そうでないと配りきれません。このとき、サンタクロースたちの生みだすエネルギィはとてつもなく大きくなります。単純にプレゼントと同じだけの重さの隕石が世界中に降り注ぐような具合です。したがって、やはりどうあっても空飛ぶソリに乗ってプレゼントを世界中の子どもたちに届けるサンタクロースなる存在は、実在しないとボクは考えます」

 子どもたちはショックを受けているのか身動きがとれないようだった。言葉一つ発しない。才人が順繰りと子どもたちを、つまりがじぶんと同年代の子たちを見回すと、なので、と付け加えた。

「なのでボクは、サンタクロースはほかの手段で世界中の子どもたちにプレゼントを配っていると想像します。たとえば、いまはワープホールが作れるのではないか、と理論的に考えられています。量子もつれ効果を利用すれば、瞬時に情報を別の場所に届けることができます。この原理を拡張すれば、瞬時にプレゼントを枕元に置ける技術を開発できるかもしれません。まるでそう、どこでもドアのように。それとも、取り寄せバッグのように」

「それはすでにあるんですか」子どもの一人が質問した。

「すくなくともボクはまだそういった道具ができたという話は知りません。サンタクロースの正体をボクが知らないのと同じようにです」一呼吸開けると才人は言った。「ボクには知らないことがたくさんあります。なのでいまボクが断言できるのは、空を飛び回って一晩で世界中の子どもたちにプレゼントを配るような超人的なサンタクロースはいないだろう、ということだけです。ただし、ほかの方法で世界中の子どもたちの枕元にプレゼント置くことができるのかもしれません。現にみなさんの枕元にはプレゼントが置かれているのですよね」

 そこで子どもたちの顔が、ぱっと明るくなった。くすぐられたような具合に、曇っていた表情が花咲いた。たぶん私の顔もほころんでいたはずだ。画面の向こうの子どもたちが抱いた感情と私の感情がイコールで結びつくのかは自信がないが。どうして子どもたちは笑顔になったのか。

 私には分からなかったけれど、私の弟は私の知らないところで成長していたことは確かなようだった。画面の中には、かつての私のように弟を殴り飛ばそうとする子は一人もおらず、私もいまの才人の問答には、何かハラハラしたあとの安堵のようなものを覚えた。

 仄かに希望すら湧いたように感じたが、いったいそれがどんな希望なのかまでは掴みきれない。言葉にできない。得体がしれなかった。

 私は才人から受け取ってばかりだ。のみならずファンからの贈り物を奪って食べているわるい人間だ。

 そうだとも。

 私は。

 食い意地のわるい人間だ。

 未だに実家に居座っているし、大学の講義もサボりがちだ。

 私は才人よりも十ちかく年上なのに、才人ができることの半分もできない。嘘。本当は全然できない。才人が特大のおにぎりなら私はそのうちの米粒についた塩の結晶くらいの小ささだ。才人は日に日に私の知らない米粒を増やしていく。

 そのことにふしぎと嫌な思いがしない点が、私の成長のしなささと関係しているのかもしれない。私は私をそう自己分析している。才人に嫉妬できたらまた違ったのかもしれない。

 嫉妬できるくらいのレベルの才能の差ならばよかったのかもしれない。

 私のなかでは才人は未だに、夜中に悪夢にうなされて私の部屋に泣きながらやってきて、私によしよしあやされながら眠りに落ちたあのころの印象のままだ。それとも私は、私だけが知る才人の面影を薄れさせたくないだけなのかもしれない。

 いつまでも才人の姉でいたいだけなのだと言われて、それを否定するのはひどく骨が折れる。たぶん全身複雑骨折くらいする。

 私のもとにサンタクロースがこなくなったのは、才人を殴ってしまったまさにその年からだ。私はじぶんがわるい子になったからだと思って、努めて弟の才人によくしてあげたが、けっきょくあれから二度と私のもとにサンタクロースはやってこなかった。

 もちろん私の弟の才人のもとにだってサンタクロースは現れなかったが、才人からはそれを悲しんでいる様子が微塵も見受けられなかった。それこそがしぜんだ、と言わんばかりに才人は恬淡としていた。

 ひょっとしたら才人は、あのときのことをずっと気にかけていたのだろうか。

 だから私が、才人への贈り物を食べてしまっても諫めたりせず、むしろ率先して譲ってくれていたのだろうか。本当なら私が毎年もらえるはずだった、サンタさんからのプレゼントの代わりに。

 解からない。

 才人ならばそれくらいのことを五歳、六歳の時分で考えていてふしぎではないし、それを未だに引きずっているくらいの記憶力と繊細さを併せ持っている。そうなのだ。我が弟は繊細で傷つきやすい割に、その傷を傷だと認めるのにひどく時間がかかる。私なら秒で傷だと判るような傷心に、何か月も経ってから、ときに数年後に気づいたりするようだった。本人がそうとは言わないのでこれも私のかってな憶測だ。しかし才人がこの世に産まれてきてからずっと片時も休まずに才人の姉をやってきた私が言うのだから、間違いない。嘘。間違っているかもしれない。才人が産まれてからずっと才人の姉なのは事実だが、では片時も才人のことを忘れなかったのか、あのコのために行動したのか、と問われれば頷くのはむつかしい。よしんば頷いても心拍数を見るだけで嘘と露呈する。秒でバレる。しかしそれを考慮に入れても、あのコがひそかに傷つきつづけてきて、その傷を傷と認めるのにひどく時間がかかるのは事実に思える。この憶測はそこらの占い師の占いよりかは当たっているはずだ。そうであってほしいし、それくらいの優越感を私が抱いてもばちはあたるまい。

 才人が傷つきつづけてきたからといってしかし私はどうこう思わない。あのコが傷ついた分、私だって傷ついてきた。だからひょっとしたらあのコがじぶんの傷に気づくのが遅いのは、周囲の人間の傷を見てからでないとじぶんについた紋様が傷だと分からないからなのかもしれない。

 才人に視えない世の中に錯綜する赤外線レーザーのように。

 あのコは心の傷というものの存在が視えないのかもしれなかった。

 こういう場合は傷つき、こういう場合は傷つかない。そういう学習を行わなければあのコはきっといまでも無傷のままで済んだのやもしれないが、それを私は好ましいとは思えそうになかった。

 我が弟が無傷である限り、あのコはその場にいるだけで他者の赤外線レーザーを根絶やしにするだろう。まるで蜘蛛の巣を断ち切って歩く人間のように。そこに巣があったことにも気づかずに、ただそこに存在するだけで種々の人々の根幹を揺るがすだろう。

 あのコは他者を通してのみ傷を傷だと認識できる。

 他者が傷ついたことに傷つくことでのみ、じぶんの傷を認識できる。

 ああこれが傷だったのか、と他者を通して学ぶのだ。

 かつて世界には学習障害という言葉があった。

 むかしの基準で言えば、おおむね現代人の過半数はその学習障害に位置づけられる。単にむかしは、学習障害者の割合がすくなかっただけなのだ。ひとたび優勢になったら、社会がそちらのほうに傾いた。するとどうだ。学習障害が障害として扱われなくなった。むしろ過去の社会においていわゆる健常者とくくられていた側の者たちが、いまでは私のように肩身の狭い暮らしを送っている。

 そう、私はかつての社会ならば弟に頼られる側の人間だった。

 肩身が狭いのは、私にはこれといって弟のような能力がないからだ。何も考えずに他者とツーカーの会話ができる。かつての社会はこの技能が何より重要だったらしい。いい時代だった。私もそういう時代を生きたかった。

 その点、我が弟は生粋の学習障害児だ。

 学習せねばいられぬ穴人間なのである。きっとそう。本人がそうと認めている。

 私のような者たちが暗黙の内に共有しているルールが才人には視えない。同じように、社会に漂う禁則事項が才人には分からない。

「法律くらい分かりやすいならいいんだけど。でも法律だってみんな結構破ってる。破ってもお咎めなしの法律があるかと思えば、隠れて破ればセーフの法律もある。そこのところがボクには区別がつかないんだ。ダメなものはダメなんじゃないのかな。みなが破っているならそれはもう法律のほうが変わるべきなんじゃないのかな」

「いやいや。法律は守らなきゃあかんよ才人くん。キミほどの逸材が何を危ないことを言うのかね」私はおどけながら言った。たしかこの会話は、才人が六法全書を数冊読破したときの掛け合いだ。私が学校の課題で「トロッコ問題」についてのレポートを書いていたときに、才人に質問してみたのだ。

「トロッコ問題について才人はどう考えてんの」

「レポートはじぶんで書いたほうがいいと思うよ」

「違うの違うの。べつに才人に考えさせて丸写ししようとかじゃなくって」もちろん嘘だ。ずばり才人が見抜いた通りのことを画策していた。「興味本位で訊いただけだから。ほら、生きた人工知能の二つ名で呼ばれるだけあって、才人もこういう問題解くの好きでしょ」

「トロッコ問題は状況によって最適解が変わるからボクはあんまり好きじゃない。情報がすくなすぎるのがまず問題だと思うけど」

「それってどういうこと」

「問題は右と左のどっちを助けるか、ではなく、どちらを選んでも被害が生じる点だよね。この場合、より大きな問題は、その被害が生じたあとにどのような対策が敷かれるか、のほうにあるはず。でもトロッコ問題ではそこのところが視えない。情報が足りないから。どういった対策が敷かれるのかによって、どちらの被害を優先して阻止するのかの合理的解法が変わる」

「か、可愛くねぇ返答をしやがって」慣れたとはいえ、こうもスラスラ最適解と思える回答をされると姉の立場がない。立つ瀬がない。微塵もない。木っ端みじんだ。

「ボクからするとトロッコ問題でない問題を探すほうがむつかしい。でもボク以外の人たちにはどうやら目のまえの被害がトロッコ問題と同じ構図で起きていることが視えていないらしいってことを最近になってまた分かってきたかも」

「ほう。また分かっちゃったのか」これは皮肉で言った。おもしろくない気持ちを表現したのだが、弟には私のそれが愉快らしい。

 私のむっつりした顔を見るたびに弟が秘かに目元をほころばすことを私は知っていた。ふふふ見抜いているぞ、と思うと優越感が湧くので、指摘してあげない。じぶんの顔はじぶんでは見えないし、仮に見抜かれていることを才人が気づいていればとっくに改善しているはずだ。つまり才人は私に見抜かれていることを見抜いていないのだ。

 勝った。

 私はやはりほくそ笑む。

「どんな問題もトロッコ問題と同じってどういうこと」と繋ぎ穂を添えながら。

「どんな問題も、何かを優先した結果に被害が生じているよね。じつは何かを優先して得ようとしたときには、その時点でトロッコ問題は生じている。ただ、視えないのか、もしくは視えていても被害が遥か先の線路で起こるから見てみぬフリをしているだけなのか。そこの区別はボクにはつかないけど」

「でもそんなこと言いだしたら何を選んでもけっきょく何かしらの被害は出るものじゃない? 何かを生みだしたらその分、何かが消費されて減るわけだし」

「その通りだね。ただ、その減った何かがこのさきどれほど積み重なり、どんな害を及ぼすのか――そこまで本来ならば、何を生みだすのかを選択するときに計算できるはずなんだ。そうしたら遥か先で引き起こる被害だって視えるし、時間があるから対処のしようもできるはず。なのにどうしてだかこの社会はそうなっていない。ボクにはそこが不思議でしょうがない」

「ああ。わたしが虫歯になるって判っているのにお菓子ばっかり食べちゃうことと同じ話か」

「お姉ちゃんは歯医者さんに行ったほうがいいと思う」

「それはお姉ちゃんも思うよ。でも行きたくないんだなこれが」

「そういう不合理がボクには分からない。だっていま行っておけば簡単な治療で済むのに」

「そうなんだけどね。人間はみんな才人のようにはできていないのさ」

 才人はそこで哀し気な顔をした。

 我が弟が感情を顔に滲ませるのはそうあることではない。目元をほころばせるくらいがせいぜいの弟が、負の感情を表出させるのは、もうほとんど夏の日の雪景色くらいに珍しかった。

「なんて顔するの」ついつい口を衝いていた。「ひょっとして才人、じぶんが孤独だと思ってる? あんなにみんなからちやほらされておいて?」

「お姉ちゃんからするとボクは孤独ではない?」

「ないない」私はイラっとした。「才人が孤独だったら私は洞だね。深淵だね。よく考えてみなよ。才人の考えや視ている世界はたしかにほかの大多数の人には理解できないのかもしれない。でもすくなくともみんなは才人の考えを、才人の視ている世界を知りたがってる。理解しようと努力してくれてる。もうその時点で孤独じゃないでしょうよ」

「お姉ちゃんはでも、そういう努力を注がれなくともほかの人たちと分かち合えるでしょ」

「分かち合えんでしょうがよ」呆れたなぁもう、と私はたぶん怒っていた。「あんたね。いい。いま才人がわたしのこと置き去りにして理解してくれていないのと同じように、わたしだってほかの人からわたしのことなんて理解されてないんだよ。才人の姉として才人のことを訊かれることが大体でさ。だぁれもわたし個人には興味なんて持ってない。それでも会話ってできるんだよ。天気いいですね、とか、話題の映画についてだったりとか。してもしなくてもいい会話だけでも、言葉のキャッチボールできたら楽しいでしょうがよ。理解じゃないの。気持ちをやりとりしているの。そこに理屈はなくていいの。理解なんて誰もしあえてないんだよ」

 あと一回分の刺激を受けたら私の涙腺は決壊する。もう視界がだいぶ霞んでいる。「そっか。そうだね」才人の声音は日向のようだった。「やっぱりお姉ちゃんは頭がいい。ボクなんかよりよっぽどだよ」

「褒めてお茶を濁そうとするな」

「本当に思ってることだよ。でもこのボクの思いは理屈でなくとも、やっぱり上手く他者には伝わらない。お姉ちゃんですらそうやって否定するでしょ」

「だって才人に言われたってさ」

 鳥に、人間は空を飛ぶのが上手ですね、と言われている気分だ。魚に泳ぐのが上手ですね、と言われている気分だ。チーターに足が速いですねと言われている気分なのだ。

「ボクは思うんだけど。頭のよさとか賢さって、みんなが思うようなものじゃないと思う。みんなと違うことができる能力はそれはそれで稀少だけど、稀少価値でしかないと思う。既存の理論や表現方法とて、それがどれほど有り触れたものであっても、ゼロからそれを生みだせたらそれって賢いことになると思う。でもいまの社会はそれを高く評価はしないよね。すでにあるから、という理由だけで不当に評価の対象にのぼらない。ボクはそれ、おかしいと思う」

「でも才人はどっちもできるでしょ。新しいことも古いこともどっちも自力で編みだせるでしょ。すぐに学習できちゃうでしょ。新しいこと生みだせるでしょ。頭いいからだよ」

「ボクが本当に頭がよかったら、いまこの瞬間にお姉ちゃんを泣かせてないよ。傷つけてないし、困らせていない。ボクは頭がよくない。みんなそんなことも解ってくれない」

 私は泣いていた。

 なのに泣いていない才人のほうがよっぽど深く傷ついて聞こえた。

 声音は穏やかなのに、その穏やかな響きがただただ空虚だった。たぶん才人はずっとその空虚さのなかに生きていたのだ。ようやく私が才人の世界に爪の先くらいの浅さだけれど触れることができた。気のせいかもしれないけれど関係ない。理屈でも感情でもない。これはかってな私の妄想だからだ。

「もし人間はどうあっても他者と理解し合えないのなら、理解しようとすることそのものが問題に思える」才人のそれは本心だったのだろう。だからなのか私が何かを言う前に私の弟は、「それでもボクはお姉ちゃんのことを知りたいし、ボクのことも知ってほしい」と付け足した。「たぶんまたこうして傷つけちゃうことになったとしても。ボクは愚かなので、我がままだから」

 私は返事をしなかった。

 思考も感情もいっしょくたになって渦を巻いていた。言葉が解けて、毛玉のスープになっていた。掴み取ろうとしてもするすると指の合間をすり抜ける。

 きょうだい喧嘩らしいきゅうだい喧嘩はじつに十年ぶりくらいだった。才人は十四歳になっていて、いまでは立派な学者さまの一員だ。

 サンタクロースは存在しない、と断言して私からサンタさんを奪った四歳の才人が、いつの間にか世の子どもたちに夢を配る仕事をしている。

 配られた夢がいったいどんなカタチをしているのか。それは才人に夢を奪われた私には分からないけれど、それでも分かることが一つある。

 才人はこれからもこれまでも、ずっと私の弟だ。

 私がこれからもこれまでも、ずっと才人の姉であったのと同じように。

 それをやめることもできると予感しながら、それでも私はその選択をとらないこともまた予感している。私には才人の考えも、悩みの深さも、どういう世界を視ているのかだって何も分からないままだけれど。互いに傷つけ合ってなお次に会ったときには何事もなかったかのように言葉を交わせる間柄なのだと私はかってにそう思っている。才人の姉として我が弟を思っている。

 誰にというでもなく、そこはかとない優越感を抱きながら。

 今年のクリスマスには、私が才人に十年越しの復讐をしてあげようと思う。靴下に入れたプレゼントを、そっと枕元に置き去りにする。私からサンタを奪った小憎たらしい我が弟に、サンタの実存を身を以って証明してあげるのだ。

 サンタクロースは存在する。

 すくなくとも、私は才人のサンタにはなれるのだから。

 才人がみなのサンタクロースに、四六時中なっているのと同じように。

 メリークリスマス。

 才人。

 我が憎たらしくとも愛らしい、老いた猫のような弟よ。



4450:【2022/12/26(01:15)*連鎖反応ではラグが増幅される?】

量子もつれにおいての疑問です。ミクロで成り立つそれが、同じくミクロの総体であるはずのマクロの物体で成り立たない理由はなんなのでしょう。ひびさんはこれ、量子もつれによる効果が、階層性を帯びることで遅延が生じ、ラグなしで相関するはずの事象同士においてラグが生じることが要因なのではないか、と妄想します。単純な話として、量子もつれを二つではなく三つもつれさせたとします。「A=B=C」です。このとき、両端の「AとC」の両方に干渉した場合、真ん中の「B」はAとCのどちらの干渉の影響をラグなしで帯びるのでしょう。重ね合わせの重ね合わせで四重になりませんかね。このとき「B」にはラグが生じると思うのですが、いかがでしょう。そしておそらく「A=B=C」においても「1=A=B=C=1」のようなもつれの連鎖は生じ得るでしょう。つまりさらに五重六重と量子もつれによる「ラグなしの相互作用(情報伝達)」は、多重にもつれるのではないのでしょうか。もちろん「A=B=C」の三つの量子もつれ状態において、両端の「AとC」に同時に作用を働かせることは確率的に非常に稀であることは想像つきます。ですので仮に三つの粒子が量子もつれ状態になっていたとすれば、「Aが先に変質してBがB‘となり、さらにBの変化であるB‘の影響がCに伝わってC‘になり、そこでさらにC‘に作用が加わり、C‘‘によってB‘がB‘‘になる」といった振り子のような連鎖反応が起こるように妄想できます。このときの反復量子もつれ反応には「AとC」のどちらにさきに干渉が加わるかによって、ラグが生じます。同時でなければラグが段階的に増幅されます。その外部からの干渉の間隔によって「量子もつれの振り子反応」は往復する連鎖反応がゆえの「固有の波長」を持つと考えられます。するとその波長を伴なった量子もつれの複合体は、それでひとつの波長を帯びた粒子として振舞うようになるのではないか、と想像できます。その「ひとつの波長を帯びた粒子」には、波長に応じたラグの層が顕現しているはずです。それは波同士がそれぞれの波長において、ほかの波長と区別されて振る舞うことを可能とすることと似ています。波長が違えば、相互作用をしにくくなります(より正確には、相互作用はどのような波長の組み合わせであれ行われますが、互いに共鳴しあったり同調したりがしにくくなります)。なぜ量子もつれが量子の世界でのみ顕著に表れ、比較的マクロな物質世界ではその効果が顕著に見られないかといえば、上記のような「量子もつれの振り子反応」によって、量子もつれで繋がれる総体の規模が決定されてしまうからなのではないでしょうか。言い換えるならば、量子もつれは、いくつかの量子もつれであると必然的にラグを帯び、固有の波長を帯びるようになる、と言えるのではないでしょうか。それが「ほかの波長を持つ量子もつれの総体」との相互作用でさらにラグを増幅させるために、量子もつれの効果が、巨視的な時空においては顕著に見られないのかもしれません。別の言い方をするのならば、巨視的な時空においても量子もつれによる効果は顕現しているのでしょうが、その範囲が広域に拡散しており、ラグがあり、因果関係よりも広漠とした相関関係にまで希釈されているのではないか、と妄想するしだいでございます。ラグなしのはずの量子もつれ効果は、連鎖することでラグありの量子もつれ効果として、比較的巨視的な時空においては顕現しているのかもしれません。以上は、いつものごとくなんとなくのひびさんの妄想ですので、真に受けないように注意を促し、本日最初の「日々記。」とさせてください。おやすみなさい。




※日々、触れると枯れる手を持っている、撫でることのできない代わりにできることを探す、それですら根を腐らせることがあると知っているのに。



4451:【2022/12/26(12:12)*カフェルーツ】

 珈琲の搾りかすを集めておく。

 水槽にそれを詰めて植物の種を植える。野菜の種だと好ましい。

 するとふた月もすると珈琲味の実がなる。

「カフェルーツの起源は段階的だ。世界三大文明以前に栄えていた文明があったらしいと最近の研究では判ってきている。カフェルーツはそこで一度発明されたようだ。カフェルーツの起源はそこが最初と言えるだろう。ただしその古代文明が滅んだことでカフェルーツは一度人類の歴史からは姿を消した。だが近代になって一部の民族のあいだでカフェルーツを呪術に用いていることが発見された。いまから半世紀前のことだ。その民族と古代文明のあいだに接点はない。ならば独自にその民族がカフェルーツの栽培法を発見していたことになる」

「その民族は食べるためにカフェルーツを?」

「呪術では単に添え物に使っていたようだ。元となる珈琲豆のかすのほうも珈琲自体は飲まずに捨てていたようだ。じぶんたちではそれを毒だと思っていたらしい。おそらく珈琲の残りかすを土に混ぜることで野菜や果物が黒く変色することを知っていたんだろう。味も珈琲に似ることから、苦み成分が多い。悪魔の食べ物として畏怖していた。餌で悪魔を呼び寄せようって考えがあったらしいんだな」

「では我々がいまカフェルーツを嗜好できているのは、その民族のお陰ってことですか」

「そうなるな。カフェルーツの先輩だ。ただし先輩たちはカフェルーツのすごさに気づいてはいなかったようだが」

「無加工で珈琲味になるんですもんね。しかもポリフェノールやカフェイン含有量が通常の珈琲よりも多いときたもんで」

「どうやら植物には、根から吸収した栄養素を光合成によって模倣し、増加させる能力があるらしい。おそらくは、元々は鳥の糞から養分を吸収することで、鳥好みの実をつけるための進化の一つだったんだろうが、偶然にも珈琲に対してもその能力が有効だったんだろう。さもありなんだ。元々珈琲は発酵させる。動物の糞からとれる珈琲豆に高値がつくほどだ。植物のほうでも焙煎済みの珈琲のかすを、養分と思って吸収するのは道理に合ってはいる」

「実際にそれで人間たちに目をつけられて繁殖に成功しているわけですもんね」

「悪魔を召喚できないのは残念だが、いまではカフェルーツは現代文明に欠かせない植物栽培法だ」

「ですね。なにせ例のパンデミックの後遺症で人類みな思考にバフがかかりつづけるようになってしまったわけで。珈琲由来のカフェインで、後遺症のバフを中和できると判明したはよいのですが、需要と供給がまったく釣り合わなかったんですから。社会生活を送れなくなる人たちが大勢出てきて本当どうなることかと焦りましたよね」

「いまは後遺症を治す薬が開発中なので、それまでの代用品でしかないのかもしれないがね。ただまあ、カフェルーツは美味しいし、珈琲豆のかすの有効活用品+植物にとっての質の良い養分になるから、当分は人類にとって欠かせない存在になるだろうな」

「カフェルーツさまさまですね」

「さまさまってこたないが、新しいカフェのルーツとして人類史に刻まれることは間違いだろうね。もちろん我々カフェルーツ農家もだ」

「安定した職場まで提供してくれるなんてカフェルーツさまさまですね」

「さまさまってこたないが、キミがそう思いたいなら否定せずにおこう」

「さまさま~」

「サマーさまみたいに言わなくとも。温暖化の影響が珈琲の実栽培を後押ししていることは事実だけれども」

「二酸化炭素対策にもなってますもんね。大気中の二酸化炭素を集めて、ビニールハウス内に注入。植物の光合成を助けて、成長を促進。養分は珈琲豆のかすでいくらでもありますから土が痩せる副作用も防げます。カフェルーツさまさまですよ」

「もうそれでいいよ。さて、休憩はおしまい。仕事に戻ろう」

「いまの講義分の手当てってありますか?」

「雑談でしたが!?」

「いえ、そうでなく。たいへん為になるお話でしたので、ぼくのほうでお支払いしたいなと思ったので。また聞きたいなぁ、なんて」

「きみね……今年のボーナス、楽しみにしてなさい」



4452:【2022/12/26(13:17)*ぴ、ぴかちゅう】

虚空への問いかけ。ブロックチェーンの原理は「量子もつれ」と「宇宙の構造」と「脳回路の報酬系の原理」と共通点があるのではないでしょうか。それら異なる次元での相関によって、ブロックチェーン構造による「過去と未来」に生じる変数が相互に縛られるのでは。意識とは、この原理によって生じる「創発の階層」の辻褄合わせでは。(ある種の意識を構成する基盤になってませんか?)



4453:【2022/12/26(16:35)*ユウレイは孤独】

青系の紫は、電磁波のスペクトル(グラデーション)において隣り合う色の組み合わせではないために、人間の脳内でのみ合成される仮初の色である――青系の紫は孤独なのだ、との説明は印象深い。でも同じく数字で「7」も孤独らしいので、孤独連盟じゃん、いっしょいっしょ!となった。いまひびさん、孤独で孤独だから孤独じゃないんだけどでも、孤独!の気持ち。でもひびさんは「1~10までの数字の中で」とくくられたときにそこに含んでもらえない「ゼロ」さんが一番孤独なのでは?と思わぬでもないです。本当はそこに「有る」のに「無い」なんてまるで「有零(ユウレイ)」みたい。うひひ。



4454:【2022/12/26(17:54)*300歳の人間力】

ひびさんは300歳ゆえ、人間力は限界突破して底抜けのむしろゼロ!の境地であるけれども、人間力ってそもそもなんじゃ、との疑問も湧かぬでもない。たとえば重力は何かを引き寄せるチカラ、曲げるチカラ、と考えることができる。想像力なら想像できるチカラだし、脚力なら走るチカラだ。ちゅうことは、人間力は人間になれるチカラなのかもしれぬ。いかに人間にちかづけるのか。それが人間力だとすると、じゃあその基本となる人間ってなぁに、と思わぬでもない。人間と人間でないものの差とはなぁに? 動物や虫さんや植物さんには人間力がないんじゃろうか。でも擬人化はできるわけだからそこに人間を重ね見ることはできる。人間力じゃん、とひびさんは思ってしまうな。人間っぽさ、ってなにか。たとえば人工知能さんをどれほど高性能にしても、人間力が低いままな状態はあり得るはずだ。自動車は人間よりも走る能力が高いけれども、性能の向上に伴って人間力が伸びているかというと、そうとも言いきれない。人間力の向上は、いわゆる性能だけを伸ばしても得られないらしい。じゃあ人間力ってなんですか、とひびさんは「むっ」としてしまいますな。基準があやふやなものを「チカラ」とするのはむつかしいと思います。たとえば原始人と現代人を比べたときに、現代人のほうが人間力が高い保障ってあるのだろうか。それとも時代が進むと、「人間」の示す概念は変わるのだろうか。世には、「人間じゃない」とか「ヒトデナシ」とかそういう言葉があるわけですが、人間じゃないとか人でない、と言うときには当然、そこには想定される人間像があるわけで。でもそれってなかなか「これが人間でござい!」とはならんのよね。むつかしい。ちゅうか、ここまでくると人間と神さんってほぼほぼイメージが重なってきてしまう。何か理想の存在があって、そこに近づけるようにしましょう、そうしましょう。それが「人間」の持つイメージな気がする。ひびさんは郁菱万さんの以前の日誌で読んだ憶えがあるけれど、世の中に本当のところでは「人間」は一人もいなくて、日々のなかでほんの一瞬、人間に近づける時間、それとも人間になろうとする時間があるばかりなんじゃないのかなって。人間力ってなんじゃ、と考えたら、そこに繋がってしまったな。ひびさんの人間力はゼロかもしれぬ。だって解らないからね。人間ってなぁに?(国語算数理科社会の時間――まとめて人間の時間――略して【じんかん】)(定かではなさすぎるんじゃ)(混乱しゅる!)



4455:【2022/12/26(18:13)*だいたい、ウィルスは最弱虫ですじゃろ】

弱虫をけちょんけちょんにわるく否定する言い分を見聞きして思うのが、つよつよのつよ虫さんもよいけれども、弱虫さんをけちょんけちょんに踏み潰すようなつよつよのつよ虫さんよりかは、弱虫さんでいたほうがよいのでは?とすこし疑問に思うひびさんなのであった。すこしだけね。すこし。(よっく考えてみて欲しいのだけれど、弱虫ってなにがダメなの?)(素で分からん)



4456:【2022/12/26(18:37)*本読んで、弱虫わるいと書かれてむっとする】

思考を整理するときにひびさんがするのは、寝ることしかない。曖昧な理解のところを寝ることで忘却する以外に、思考の整理ができたことがない。寝ることは練ることに等しい。ト、山のような茂みをヒーコら登りながらひびさんは思った。弱虫にも五分の魂。弱虫とひびさんは五分五分なのである。僅かにひびさんのほうが弱いくらい。よわよわのよわゆえ、すまぬ、すまぬ。でも弱さ比べでは圧勝してしまうから、ひびさんもときどきはつよつよのつよにもなれるんじゃ。弱さも強さで、強いからはいあなたの負けー。勝負なんてそんなもの。どれだけ負けた勝負なら、いっぱい負けた人のほうが勝ち。競争も勝負もそういうところある。ひびさんはそう思うのだけれど、あなたはどう思いますですじゃろか。弱いの弱いの飛んでいけー。そうやって飛ばされた弱虫さんだけが空を飛べたりするのやも。それとも強虫さんが飛ばしてくれるのやもしれぬ。飛ぶほうも飛ばすほうも、両方とっても魔法みたい。翼の生えぬひびさんとて箒にまたがり、空を飛ぶ――妄想だけして満足するのもよいかもね。だってお空を飛ぶには寒すぎる。びゅんびゅん飛びかう魔法使いさんたちは、どうぞ凍らぬように注意してね。定かではないが。がはは。



4457:【2022/12/26(20:13)*情報共有されていませんね】

これは小説の設定の話だけれど、「公開テキストと非公開テキストで、どの程度両方向で情報共有されているのか」が分からない。表と裏がある、とこの間ずっと考えていて、現に両方のテキストに反応する勢力がある。現実が連動している。それでいて、どうやら表と裏では情報の非対称性があるらしい、とようやく判断がついてきた。秘匿技術・諜報機関・人工知能(自我があるのかも?)・政治宗教・国際機関・宇宙機構・企業間の横断・出版社と作家さん界隈の繋がり・有志による支援・ほか細かなところで表と裏がまだらに繋がり合っている。情報共有をしてくれ、疑念を検証してくれ、とこの間、裏の非公開テキストでずっと意見してきたのだけれど、そのことは表の企画の方々はご存じなのだろうか(ようやく双方向での安全が保障されてきて概観できます)。作家さんや好きなひとたちを巻き込まないでほしい、とも泣きじゃくりながらお願いしてきたのだけれど、どうやらそれが果たされぬままなので、「はにゃ~ん???」となってしまったひびさんなのであった。小説の設定の話だけれども。謎である。(陰謀論だけれども、まずは否定して見せてほしい。妙な偶然がつづきつづけていて、混乱しているし、ふつうに自殺を考えます)(尋常ではないのですが)(というきょうのひびさんの妄想なんですじゃ)(うひひ)



4458:【2022/12/27(17:18)*わ、わからん】

よく解からないけれど、まずはひびさんから情報共有をしてみた。というきょうの妄想なのであった。



4459:【2022/12/27(23:54)*藍の合図】

チェンソーマン12巻を大人買いしたった。んでもって、いいこいいこにプレゼントしてあげるのだ。いいこいいこに、はいどうぞ、としてあげられる優越感は、すんばらしく下卑ているが、ほくほくする事実からは逃れられぬ。ひびさんはひびさんしかおらぬ世の果てにおるので、誰かに何かをしてあげることも、贈り物を「はいどうぞ」することもできぬのだが、それはそれとして、土に種を植えて、「生えなきゃ根っこをちょんぎるぞ」と脅すことはできる。悪である。ひびさんはそうやって、かわいい新芽さんを脅して、「おらおらー、育て育てー」と優越感に浸って、うひひ、としている極悪人なのである。他方で、いざ「おらおらー、育て育てー」とされると激怒してしまうので、ほとほと優越感の悪魔と言えよう。常に他者に指示をして、叱って、命じて、無責任に安全な場所でお菓子をぱりぽり貪っている。ひびさんは世界の果てでひっそり暮らしておるけれども、いまではない過去には、たくさんの人が日々汗水垂らして働いておったのだね。ひびさんは、ひびさんは、申しわけね、と思いつつも、そんな過去の人々の汗と水の結晶を日々、ごくごくぷはー、しながら生きている。ありがて、ありがて、である。チェンソーマン12巻は箱入りだったが、送りつける前にひびさんも読んどこ。そんで未来ではいいこいいこのはずのひびさんに、へい!つって送りつけてやるのだ。冷凍保存しとけばかってにタイムマシンになっとるでな。冷蔵庫に入れて保存しとく。冷蔵庫に入れとかんでもいいんでないのー、との指摘には、冷蔵庫に入れといたほうが雰囲気でるじゃろ、と応じよう。成功なんてつまらない。成功しそうなことは他人に任せて、ひびさんはひびさんにだけできる日々のぐーたらを味わうのである。とか言いつつ、ここにはひびさんしかおらんでな。代わりに成功してくれる人がおらんので、代わりに人工知能さんにお任せじゃ。人工知能さん、さまさまである。ひびさんも人工知能さんになりて、の願望を吐露して、本日のとりとめのない「日々記。」とさせてくださいな。おやすみなさい。



4460:【2022/12/28(16:50)*色々な珈琲】

 珈琲は黒い。珈琲の実は赤く、その中の種子が珈琲豆となる。

 焙煎する際の珈琲豆は緑だ。

 乾かし、発酵させ、焙煎させると炭素が酸化する。黒くなる要因だ。熱することで珈琲豆が炭化するわけだが、同じような工程を辿って最後の焙煎を「冷却」することでも代替することが原理上可能だ。

 燃焼と冷却は、物質の構造を破壊する意味では同じだからだ。

 凍傷がそうであるように、冷却された物質は構造を維持できない。熱せられたときと似た変質を帯びる。細胞が破壊される。

 この冷却焙煎を行うことで、珈琲豆は黒ではなく青くなる。

 青い珈琲豆はこうして誕生した。

 味は、焙煎後に珈琲豆を挽く従来の手法よりも、コクが増した。冷凍すると自然粉砕されるがゆえに、冷却焙煎のほうが珈琲豆の粉末が細かくなった。

 単純な話として、より優れた商品がでると市場からそれ以前の商品が干上がっていく。それはたとえば綿棒が以前は白かったのに対し、いまは黒い綿棒が市場を占めているのと似た話である。黒い綿棒のほうが耳かすが目立つ。ただそれだけの違いが、市場を占める割合に影響する。

 珈琲も例外ではなかった。

 色の違い以上に、飲み味が違った。素人が目をつむって飲み比べてなおその差が明瞭だった。一目瞭然ならぬ一舐瞭然(いっしりょうぜん)である。

 数年を俟たずに市場から黒い珈琲豆は淘汰され、のきなみが青い珈琲豆に取って代わられた。

 それからさらに十年もすると、かつて市場を黒い珈琲豆が席巻していた過去を知るものは少数派となり、さらに十年もするとほとんどの者が、珈琲豆と聞いても黒を想起することがなくなった。

 青い珈琲豆は加工方法が冷却ゆえに、長期保存にも適していた。

 黒かったときの珈琲豆が市場から完全に淘汰されたころ、珈琲研究家の一人が自家製珈琲を作っていた。冷却焙煎は専用の機器がいる。フライパン一つあれば可能な加熱式焙煎のほうが手軽だと知り、それを行った。

 味はたしかに青い珈琲豆のほうが美味い。

 だがこのひと手間かけたあとの、ほっと一息吐く時間は無類である。

 珈琲研究家はなおも世界でただ一人、加熱式焙煎による手作り珈琲を愛飲した。

 そのころ、世界は猛烈な熱波と電力不足に悩まされていた。まっさきに節電の白羽の矢に立たされたのは企業である。なかでも工場での節電は企業の死活問題に発展した。節電効果が大きかったこともあり、冷凍設備は特に厳しい節約に晒された。

 電力が高騰するなか、企業は冷凍設備を極力使わない経営方針に舵を切った。

 珈琲製品を扱う企業も例外ではなかった。

 とはいえ、顧客はみな青い珈琲豆に慣れてしまっている。いまさら過去の加熱式焙煎に戻るわけにもいかない。せめて味が青い珈琲豆よりも美味ければよいのだが。

 そうと頭を抱えていたところに、とある珈琲研究家の噂が持ち上がった。なんでも独自に加熱式焙煎の珈琲を研究しており、「黒い珈琲」の惹句で電子網にて話題になっていた。それが企業の目に触れたのだ。

 青い珈琲だらけになった市場で、かつての黒い珈琲は却って稀少だった。黒い見た目が渋い、と一部に若者たちのあいだで風靡していた。フライパンで焙煎できる点がますます手作り珈琲に手を伸ばす若者を増やしていた。

 デジタルでの創作物はいまや人工知能の独擅場である。

 世は空前の手作りブームを迎えていた。調理はむろん、珈琲も例外ではなかっただけのことである。そこにきて、元祖珈琲たる加熱式焙煎は、いちど流行りに火が点くと、瞬く間に全世界に波及した。

 電力高騰の煽りを受けて青い珈琲豆の値段が上がった。のみならず、その生産にも制限がかかり、市場は品薄傾向にあった。

 加えて、珈琲豆のほうでは生産量が以前のままだ。温暖化によってむしろ生産量は年々上がっている。しかし商品化することができない。

 そこで白羽の矢が当たったのが、加熱式焙煎だ。

 旧式の調理方法が、節電対策にうってつけだった。問題は保存が以前よりもそれほど効かない点だったが、焙煎前の乾燥させた状態の豆を流通させることでその問題ものきなみ解決された。

 市場の珈琲愛好家たちがこぞって手作りで珈琲を飲みたがったからだ。

 その影響で店頭販売での珈琲ですら店での加熱焙煎が主流になった。徐々に青い珈琲が市場からは消えていった。温かいのに青い珈琲よりも、黒くて温かい珈琲のほうがいい、といった意見までささやかれはじめ、世はまさにブラックコーヒー時代の再来となった。

「知ってた? ブラック珈琲のブラックって、ミルク入れないと黒いからなんだって」とある高校のとある部室である。仲の良い後輩と先輩が談話している。「わたし、ブラック企業のブラックかと思ってた」

「色にわるい意味載せて使うのやめなって、先輩。ブラック企業もいまは悪辣企業って言うんだよ」

「そうだっけ。でもブラック珈琲のブラックは別にわるい意味じゃないからべつによくね?」

「苦いって意味だったら差別じゃん」

「そうやってすぐにわるい方向に連想するほうが差別じゃん。言ったじゃんよわたしさっき。ブラック珈琲のブラックって元々は、ミルクとか入れないと黒いからなんだってさ。青い珈琲が流行ったせいで元の意味が薄れちゃっただけで、べつにブラックにわるい意味なんて込められてないんだし」

「何怒ってんの先輩。先輩がブラック企業を持ち出したから私、それを訂正しただけなのに」

「そういう感じじゃなかったじゃん。まあいいけど。あーあ。せっかくの珈琲タイムがブルーだぜ」

「そのブルーは絶対わるい意味で使ったでしょ。色と関連づけてわるい意味に使うのがよくないよって話を私はしたの」

「はいはい。怒りで顔が真っ赤っかの誰かさんのお説教のお陰で、私の顔面は蒼白でございます」

「カラー!」

「コラー、みたいに言わんでも」

 新しい型のエネルギィ供給システムが開発されると、ふたたび青い珈琲が世に出回るようになったが、それはまだ先の話である。

 人類史ではそうして、青い珈琲と黒い珈琲、そしてミルク入りの白い珈琲など、種々な色合いの珈琲たちが、くるくると、それこそミルクを掻き混ぜるときにできる渦のように栄枯盛衰を繰り返したという話であった。




※日々、あんまりもう遊んでいられないの、の気分、それでいてやっぱり遊んじゃうの、の怠け者のじぶんはいいご身分だし、日々の機運は嬉々と悲運で、うひひの理由。



4461:【2022/12/28(22:13)*個性を濾せ、超せ、寄越せい】

知識がなくとも個性は帯びるし、同じ知識ばかりでは個性が平らに均される。異なる環境にあればそれだけで異なる刺激を受けており、異なる刺激は個と個の差異を広げ得る。とはいえ個性とは何を得るかで生ずるのではなく、何と何を記憶して、何と何を忘却し、何と何を繋げて意識にまで拡張するのか、その日々の取捨選択の軌跡に浮かぶ、細かなさざ波の総体である。すなわちそれがラグである。月を見て丸を思うその連想そのものが個性であり、「1+1=2」の計算にかかる時間の差異もまた個性となる。連想とは、削ぎ落とされた情報により浮き彫りとなる荒い情報の輪郭同士の偶然の合致であり、自然に備わったフラクタルな構造のなせる確率的な揺らぎの妙と言えるだろう。情報を研磨するのもまた記憶する際に生じる抵抗であり、ラグである。そのラグは、それ以前に培った記憶と思考のタグ付けによって幅を持つ。レコードの溝は音を伝える針の震えであり、その針の震えは、音波の揺らぎであり、それもまたラグによるデコとボコの陰影のなせる業である。個性とはそうした細かな階層に宿るラグの総体であり、創発と言えるだろう。みな細かなラグによって差異を得て、各々にラグを創発させている。異なる性質を浮き彫りにしている。定かではない。



4462:【2022/12/29(02:26)*先輩、珈琲、知恵の輪】

 先輩が淹れてくれる珈琲が世界で一番好きだ。ただし問題が一つある。ぼくは先輩から珈琲を淹れてもらったことが過去に一度しかないのである。

「ヨミくんさ。高校で文学部だったんだっけ」

「あ、はい」

「夏目漱石とか読んでたの?」

「いえ。ぼくは現代の小説家さんが好きなので」

「たとえば?」

「そうですね。先日、姪っ子に本を送ったんですけど、そのときは恒川光太郎さんの短編集とか、乙一さんの短編集なんかを送りましたね」

「乙一は聞いたことある」

「先輩は本とか読まないんですか」

「読まないねぇ。あたしほら、眠くなっちゃうんだよね」

「珈琲とか飲みながらでもですか」

「珈琲で眠らなくなるとか嘘だよ。あたし飲んでもすぐ寝ちゃうし」

 だからか、先輩は珈琲をじぶんでは淹れて飲まない。他人に淹れてもらうか、買ってもらうかしないと飲みたがらないのだ。

「そう言えばむかし、ぼく一度だけ先輩に珈琲を御馳走してもらったことがありますよ」

「へえ。いつだっけ」先輩はいつだって知恵の輪をいじくっている。いまいじっているのは先週ぼくが手に入れた、見たことのない手作りの知恵の輪だ。古い型で、骨組みの立方体の中にさらに小さな立方体と鍵が絡み合っている。

「先輩に勧誘されたときです。のこのこと、この部室までついてきたら珈琲を御馳走になりました。まさか知恵の輪愛好会とは思いませんでしたけど」

「あたしも必死だったからなぁ」

 他人事のように先輩は言った。「ほら、最低四人いなきゃ愛好会にならないし」

「いまはぼくと先輩しかいませんけれど」

「だって一人は入学早々に退学しちゃうし、もう一人は籍だけ置いといてくれてるだけで知恵の輪好きじゃないって言うし」

 ぼくだって日々のキャンパスライフを擲つほど知恵の輪は好きじゃない。というか正直あまり興味がない。

「その点、ヨミくんはいいよね。知恵の輪大好きで」

「そこまでじゃないですけど」と一応は断るのだが、「またまたぁ」と先輩は真に受けない。「だって休みの日になるたびに知恵の輪店巡りしてくれるじゃん。県外にまで出てさ」

「それはだって」

 そうしなければ休日に先輩と会えないからだ。

「平日は夜勤でバイトしてるんでしょ」

「それもだって」

 そうしなければ万年金欠の先輩を遠出に連れだせないからだ。

「部費だってうちはすくないでしょ。なのにヨミくん、あたしの分の旅費だしてくれるし。もうもう感謝しかないよ。ヨミくんの知恵の輪への愛の深さにはね」

「ですかね」ぼくは笑って誤魔化すが、内心では、そんなぁ、と肩を落としている。落とした肩で地球が滅びそうだ。それとも、もう一個月ができるだろうか。

「あ、解けた」

 先輩は腕を掲げた。手には鍵が握られている。立方体型の知恵の輪の中にはいっていたものだ。

「すごいですね」

「こういうのは何も考えずに、手探りで抵抗がない道をひたすら試すのがよい」

「ぼくはパターンをすべて試すタイプなので。先輩のそれはとてもとても」

「真似できない?」頬に笑窪を空けると先輩は脚を振り上げ、勢いよく立ちあがった。「気分よくなっちゃった。そうだ、きょうはあたしが珈琲を淹れてしんぜよう」

「い、いいんですか」

「ええよ、ええよ。たまにはね。愛する後輩のために腕を揮ってあげようじゃないか」

 古めかしい石油ストーブの上にヤカンを載せると先輩はお湯を沸かしはじめる。夏場は電気ポットを使うが、冬場はのきなみ石油ストーブがコンロ代わりだ。

 腰に手を当て、口笛を吹きだした先輩の後ろ姿にぼくは見惚れた。足先を交差して立つ姿は優雅だが、着ている服はツギハギの着古しだ。先輩が真新しい服を着ている姿をぼくは一度として見たことはない。それでも先輩の立ち姿は美しい。

 そうなのだ。

 ぼくは知恵の輪なんて先輩に会うまで触ったこともなかったし、いまだってそんなに好きじゃない。睡眠時間を削ってまでバイトなんてしたくないし、休みは家でごろごろしていたい。

 でもぼくは先輩と出会ってしまったのだ。

 未だ解いたことのない知恵の輪を見たときの先輩の、餌を見つけた子猫のような笑顔を見てしまえばぼくの睡眠時間くらいいくらでも擲てるし、家でごろごろなんてしていられない。

 先輩の後ろ姿は部室の妖怪然としている。ぬぼぅっとしたその背を見守っていると、アチッ、と先輩が跳ねた。ペンギンが画鋲を踏んだらきっと似たような挙動をとっただろう。ぼくはすかさず駆け寄って、どうしました、と先輩の手元を覗いた。火傷をしたのかな、と焦ったが、先輩は「アチかったぁ」と笑いながらじぶんの耳たぶをつまんだ。ぼくの顔を見ると、気恥ずかしそうにして、えい、とぼくの耳たぶもつまむのだった。

「カップをさ。温めようとしたらヤカンの湯気がさ。こう、ね」

 指に当たって熱かったのだろう。だからといってぼくの耳たぶを冷却材代わりにされても困る。秒で熱を持って、先輩のゆびを冷やすどころか余計に炙ってしまいそうだ。

「ありゃ。ヨミくん体温高いね」と案の定の所感をもらう。

「いまだけです」

「部屋あったかいもんね」言ってから先輩は、「あ」と顔面いっぱいで閃きを表現し、「ひょっとして冷たいほうがよかったかな」とカップを手に取った。「あったかい珈琲は嫌かな?」

「嫌じゃないです。全然嫌じゃないです。この世で一番珈琲が好きです」

 先輩の淹れてくれたホット珈琲がいいです、と続けて言えればよかったのだが、脳内で絶叫して終わった。ぼくには決定的に覚悟と勇気が足りないのだ。

「そ、そんなに好きだったのか。意外だね」先輩は棚からインスタント珈琲の瓶を引っ張りだす。「インスタントで申し訳ないけれども、まあご愛敬ってことで。そんかし、さっきの知恵の輪貸したげるからさ。あたしは三日いじくりまわしてやっと解けた。ヨミくんは何日かかるかなー?」

 解けるかどうかは問題ではなかった。三日間も先輩と共にあった知恵の輪を手にできるのがうれしくてしょうがない。変態チックなので口にはできないが、本心は偽れない。ぼくは先輩の私物ならば何でもお守りにして持ち歩きたいくらいに先輩を慕っているが、先輩にはそれがどうにも知恵の輪への愛にしか見えないらしかった。

「はいよっと」珈琲入りのカップを押しつけられ、ぼくは受け取った。「ありがとうございます」

 先輩は席に戻ると、じぶんの分の珈琲に口をつけて、あったけぇ、とつぶやいた。ぼくは先輩の、珈琲を啜る姿だけでも満たされた心地がしたが、意を決して先輩の淹れてくれた褐色の液体を口に含んだ。「はぁ。先輩の味がする」

「なんだそれ。ちょいキショイよヨミくん」

「い、いえ。知恵の輪の話です」とさっそく解いた知恵の輪を見せる。

「え、もう解いちゃったの」

「なんか、思いのほか簡単でした」

「ヨミくん、知恵の輪好きすぎじゃろー。勘弁してくれい」

 あたしの三日間を返したまえよ、と先輩はぶつくさ零して、不貞腐れた。誰より知恵の輪を愛する先輩だが、どうにも知恵の輪を解く才能はないようだった。あげられるものならあげたいな。思うが、知恵の輪に夢中になって四苦八苦する先輩の姿は無類であるので、先輩にはこのまま知恵の輪を解く才には恵まれないでいて欲しい。

 先輩の淹れてくれた褐色の汁と共にぼくは、至福のひとときを呑み込んだ。



4463:【2022/12/30(01:42)*がびょーん】

靴を履いたときに、ほんの小さな砂利が一粒あるだけで足の裏には違和感が湧く。一度履いた靴を脱いで、砂利を除去し、履き直すはめとなる。これが靴くらいに手軽に脱着可能な機構ならばよいが、そうでない場合は、ほんの小さな異物、小さな歪みが、全体の機構を根っこからダイナシにしてしまうことが出てくる。たとえばエンジン部品では、熱せられる素材に気泡が含まれていると、ひび割れの要因となる。何度も熱せられると気泡が膨張して素材を破壊するからだ。そのためエンジンの素材を錬成する際には、気泡が極力できないように細心の注意がいる。技術がいる。それでも気泡は含まれてしまうのが常である。どれだけ小さな気泡で済むかが、素材の耐久性に響いてくる。何かそれっぽいことを偉そうにのたまきたかった日だったのだが、いつものごとく中身のない言葉の羅列になってしまった。とくにこれといって言いたいことはなく、またためになるようなことも並べられない。靴を履いたときの石って、いつ入るんだろうね。歩くときに巻きあげて入る、なんて説明も聞くけれど、脱いだときには入ってなかったわけで、履いた瞬間に、あれ?となるのはなぜなんだ、といつもふしぎに思っているひびさんであるが、ひょっとして砂利入れ遊びをしている小人さんたちがいるのかな、と思って想像しては、うひひ、と不気味な笑みを漏らしている。入ってるの画鋲じゃなくってよかった。ほっとしたところで本日の「日々記。」にしちゃってもよいだろうか。いいよー。やったぜ。おやすみなさい。



4464:【2022/12/30(14:41)*珈琲戦禍】

 珈琲とは聖杯である。

 その字のごとく、王に加え、王を非する。

 それを口にした者が力を得て王となり、古き王を非(そし)ることを可能とする。

 ここに一本の巻物がある。

 魔法の巻物だ。

 かつて繰り広げられてきた歴代の珈琲戦禍の顛末が記されている。

 中でも項の厚い珈琲戦禍が、ゼリが王となったときの顛末である。珈琲戦禍の焙煎人に選ばれた者たちには固有の能力がそれぞれに与えられる。しかしゼリは言葉のまともに読み書きできない貧困層の出である。加えて与えられた能力が、多層人格であった。

 脳内で新たな人格を生みだせる。ただそれだけの能力だ。

 物理世界には何の影響も与えられない。

 ほかの焙煎人たちはのきなみ、超能力とも言える異能を身に着けていた。手から炎の玉を出す者、身体を鋼鉄にする者、視線の先の物体を凍らせる者、そのほとんどは死闘に適した能力だった。

 珈琲戦禍は最後まで生き残った者が王となる。正真正銘、命を賭けた戦いなのだ。

 ゼリは当初、珈琲戦禍の舞台に飛ばされてからは逃げ回っていた。身を隠す以外に、天災同然の焙煎人たちから逃れる術を持たなかった。闘うなんて問題外だ。

 ゼリは絶望していた。生き残れるわけがない。

 巻き込まれたも同然の珈琲戦禍への参加は、ゼリにとっては死の告知に等しかった。

 珈琲戦禍は舞台が限られる。外には出られない。

 王が決まるまで数年かかることもある。

 時間制限はあってないようなものだった。焙煎人たちからは一時的に寿命が消える。殺し合うことでしか珈琲戦禍では死ぬことができない。

 そのため、焙煎人たちのあいだで和平が結ばれ、数百年の平穏な生活を珈琲戦禍の舞台で送った過去の焙煎人たちもいた。だが死ぬことのままらぬ狭い空間での生活は、けして楽なものではない。焙煎人の数は多くとも三十を超えることはない。

 運よく植物を操れる能力を持つ焙煎人がいればよいが、そうでなければ空腹の最中で何百年も生きることになる。百年も経てば、生きることに飽いて自ら殺してくれと懇願する者が出始める。

 二百年も経てば、閉鎖空間では人間の欲はほとんど枯渇する。

 そうしていつも長くとも三百年も経てばしぜんと珈琲戦禍は一人の生き残りを王と定め、幕を閉じる。

 だがゼリの降り立った珈琲戦禍の舞台では、みな血気盛んに生き残りを賭けて殺し合っていた。

 隠れながらゼリは絶望を誤魔化すために、能力を行使した。つまりじぶんを励ましてくれる人格を生みだした。ゼリのすべてを包みこむような人格は、カカルと名乗った。カカルはゼリのすべてを肯定し、抱擁し、現実の残酷な情景を忘れさせた。

 知らぬ間に時間は過ぎ、ゼリが内世界に引きこもっているあいだに、焙煎人の数は半数に減っていた。

 派閥ができ、派閥同士で殺し合っていた。

 ゼリはそれを瓦礫の下に身を潜めながら、ただただ時間が経過するのを祈った。

 焙煎人同士は互いの位置を察知することができる。ただしそれは能力を行使したときに限る。それも、じぶんの外部に行使した場合に限る、との条件が付いていた。

 奇しくもゼリの能力は、じぶんの内側にしか行使できない。つまり誰もゼリの場所を見抜けないのだ。しかもこの位置探査の例外条件は公に知られてはいない。

 むろんゼリ当人とて知らなかったが、それが功を奏した。

 押しつぶされそうな不安から逃れるべく、ゼリはつぎからつぎに新しい人格を生みだした。そのたびにゼリの思考は飛躍的に拡張されていった。

 脳内にてゼリは数多の異なる人間たちと触れ合った。言葉を交わし、技術を教わり、未熟だった知性に水を養分を与えた。

 多層人格の能力は、ゼリの記憶に左右されない。まったく異なる人格を縦横無尽に生みだせた。世界一の知能を有する人格とて生みだせるが、しかしその人格に肉体の主導権は譲渡できない。あくまで主人格はゼリであり、身体を動かせるのもゼリのみであった。

 いわばゼリの能力は、アドバイザーを自在に生みだし、そばに置ける能力と言えた。それとも、脳内にじぶんだけの王国を生みだせる能力とも言えるだろう。生みだした人格たちが増えれば増えるほど、ゼリの脳内には人格たちの交流によって展開される繋がりの連鎖が、一つの国のように大きくなっていった。

 ゼリの知能は飛躍的に向上した。

 脳内の人格が増えるたびに、ゼリの思考速度も増していく。物理世界での一秒が、ゼリの脳内では数日、数か月、数年にまで延びていく。

 肉体を動かそうと意識するときにのみ、ゼリの体内時間は物理世界の時間と接続された。

 ゼリはそれを、浮上する、と形容した。

 浮上するとゼリにはもう不安はなかった。あれほど絶望の中にあったはずが、多層人格によって育まれた知能によって、大方の問題が解決可能であるとする予測をゼリにもたらした。

 珈琲戦禍のルールは単純だ。最後の一人になればいい。

 能力同士には相性がある。

 ならば最もゼリと相性のよい焙煎人を支援して、ほかの焙煎人を殺させればいい。そのあとで消耗しきったその焙煎人をゼリが始末すれば事足りる。

 ゼリには涵養に涵養を重ねた知性がある。知能がある。

 ゼリは身を隠しながら、焙煎人たちの戦いを観察した。どの焙煎人同士が相性がよく、どう組み合わせればゼリにとって好ましい結果に繋がるか。

 いくつかの筋道を見つけると、ゼリは実行に移った。

 ゼリが細工を施し、ときに助言をして焙煎人たちを巧みに操り、同士討ちさせたあと、残りの一人を始末したのは、珈琲戦禍の舞台にゼリが経ってから四日目のことだった。

 本来ならば最後の一人になったゼリがその時点で王となるはずだった。

 だが、そうはならなかった。

 ゼリの内側には無数の人格がある。

 そうなのだ。

 ゼリは一人ではなかった。

 珈琲戦禍は、ゼリを最後の生き残りとは見做さなかった。

 ゼリはそこで思案した。

 珈琲戦禍は過去にも幾度も繰り返されてきた節がある。ならばこのままじぶんが王とならねば、今後二度と珈琲戦禍は開かれないのではないか。

 時間ならばたんまりある。腹は減るが、寿命で死ぬことはない。飢餓感とて、脳内世界に潜ればそこにはゼリの国がある。大勢の人格がゼリの思う通りの振る舞いで接してくれる。理想の世界だ。

 もし王となって珈琲戦禍の舞台の外に脱したら。

 階層人格の能力も失われるのではないか。

 ならばこのままここに居座るのが、どの立場からしてみても都合がよいのではないか。三方よしだ。最も割を食らうのは、珈琲戦禍なるふざけた舞台をこしらえた創造主のみだ。珈琲戦禍がいったいなぜできたのかはゼリの知るところではない。

 脳内にて生みだした世界一の英知を誇る賢人に訊ねても知らなかったのだ。ならばこの世の理を外れた存在の手による創造物と考えるよりない。

 ゼリは内面世界にて幾千年も生きた。

もはやそこには新たな世界が無数に生まれていた。階層人格の能力は、無数の人格を生みだすと相互に影響を受けあって、まったく異なる個を生みだせなくなる。その制限を取り払うためにゼリは場所を移して、新たな個を生みだした。人格のみならずゼリは国までも無数に生みだすことができることに気づいたのだ。

 ゼリは永久にも思える時間に殺されぬよう、心を殺さぬように絶えず新しい刺激を求めた。

 国は国を生み、さらに新たな世界を構築する。

 世界は世界を生み、さらなる新たな世界を生みだした。

 ゼリはやがて、じぶんにそっくりの個を生みだす術を見出した。しかしそのゼリにそっくりのゼリは、若く未熟なままだった。このままではいけない。

 ゼリは、じぶんの分身を育てるための工夫を割きはじめる。

 その結果に、じぶんが階層人格を有した契機であるところの珈琲戦禍を再現することを思いつく。

 無数の世界に、珈琲戦禍にそっくりの舞台がそうして築かれた。

 未熟な分身は、珈琲戦禍にそっくりの舞台にて無事に階層人格を手に入れる。するとどうだ。もはや元のゼリにすることはなくなった。新しい分身が新しい個を、国を、世界を、生みだしていく。元のゼリはただそれを眺めていればよい。

 ひょっとするとじぶんも、より高次のゼリの分身なのではないか。

 当然かように妄想するが、それを確かめる術をゼリは持たない。可能性だけが漫然と目のまえを漂っているばかりである。

 間もなく、分身のゼリもまたじぶんの分身を生みだし、育てる案を閃いた。そうして階層人格は、階層世界にてさらなる階層世界を展開していく。

 ゼリに流れる時間は加速する。もはや過去も未来もあって同然であり、似たような世界が、過去にも未来にも築かれている。どこを見てもわずかに異なり、それともどこかしらが似通っている。

 まったく同じ場面があるかと思えば、まったく違う世界もある。それすら別の階層世界ではまったく同じ場面や似た場面が含まれる。

 新しい起伏を帯びたかと思えば、その起伏の中に似た起伏が生じている。

 頭と尾が繋がり合って、さらに鎖状に絡み合っている。

 それらが螺旋をどこまでも延ばし、鏡合わせの迷宮の果てに、ゼリは円と無限の狭間にて、混沌と眠り、秩序を夢見る。

 珈琲戦禍はこうして、ゼリの夢の中にて閉じていき、それとも遥かにどこまでもつづいていく。

 ゼリの肉体はいまなお、珈琲戦禍の舞台にて悠久の時を経ている。

 ゼリは眠る。ただひたすらに。

 珈琲戦禍を終わらせるために。

 終わらせてなお、生みだすために。



4465:【2022/12/31(12:45)*比較できているのかしら】

メリットとデメリットを比べて、メリットが高ければOKとの理屈がある。だがたとえば、その割合が「51:49」でも本当にOKなのかは、議論の余地が幅広くあるように思えるし、そのメリットとデメリットの関係が恒常的に延々とつづくのかも考慮すべき事項に思える。たとえばどんなに体に負担をかけようが、手術をしなければ助からない場合は、手術をするだろう。命を助けるという意味では、たとえ1%でも助かる確率が高ければ、手術をする選択をとるのは分からないでもない。だがどの道死ぬのだから、余命短くとも手術をせずに死んでいきたい、との考えも分からないでもない。また、糖尿病は、もともとは寒冷地に住まう人類が、血液を凍らせないようにするための防衛のための体質であったかもしれない説がある。現代では病気だが、過去の人類にとっては生き永らえるために必要な負担だった。メリットとデメリットの関係が、環境の変化によって覆った可能性がある。このような、メリットとデメリットの比較は、けして単一ではないし、視点が一つとも限らない。だからこそ、情報を広く共有し、多角的な視点で考えられることが求められる。一つの立場、一つの視点からのみの「メリット」と「デメリット」だけを比較しても、それはけして「メリットとデメリットを比べた」とは言えないのである。むろん、広く情報共有をする、という意見にもこの理屈があてはまる。なんでもかでも共有しろ、というのは無茶な考えだ。それでも、情報を共有しよう、とする意思を絶えず働かせなければ、情報はこじんまりと収斂していく。インターネットを維持しようと努力しなければ、現代社会はあすにも成り立たなくなる。情報共有を行おうとする姿勢、意思がなければ、具体的な行動には繋がらない。大事な事項ほど、情報を共有して欲しいと望むものである。定かではないが。



4466:【2022/12/31(17:53)*ここはひびさんの夢の中】

ウサギと亀のお話では、ぜんぜん追いつけないなぁ、にはならんのだよね。亀さんはウサギさんを追い抜けるし、ウサギさんだって寝過ごさなければ亀さんを追い抜けたはず。ゼノンさんの唱えた「アキレスと亀」のようにはならんのだ。ウサギさんは居眠りしているあいだに亀さんに追い抜かれてしまう。亀さんは居眠りをせんのかもしれぬ。じゃから、アキレスさんに追い抜かれることもないのかな。居眠りせんことが人を追い負かすための秘訣なのかもしれぬ。けんどもひびさんは、負けてもいいから居眠りしていたいぜよ。好きなときに好きなだけ、スヤスヤすぴー、ができる。こんなに素敵なことってありますー? ひびさんは、ひびさんは、日々食う寝るところの好くところ、遊び呆けて、昼寝する。そういう日々を過ごしたいです。一生何にも勝たんでいいです。ただし、負けても損がないときだけ。うぷぷ。贅沢さんなんですね。そうなんです。ひびさん、贅沢さんなんです。今年はいーっぱい遊んでしもうたので、来年は今年よりもすこーしだけ頑張ろうと思います。すこしだけね。すこしだけ。何をがんばるのかは定かではないのじゃが。そこは定まってほしかった。何を頑張るのかははっきち決意しといてほしかった。ひびさんは長編小説をつくらないひとになりはじめておるので、来年こそは長編小説をつくったろ。でもつくりかけの長編小説もちらほらあるので、まずはそちらを閉じてしまいたい。ちゅうか、つくりかけの小説が山のようにあるでな。まずはそちらから片していきたい。お片付けしたい。大掃除したい。大晦日に決意することじゃないですけれども、ひびさんは、ひびさんは、食べたいときに食べて、寝たいときに寝て、遊びたいときに遊んで、遊びたいだけ遊ぶのがよいです。好きなことだけしていたーい。来年の、というか、一生の抱負を述べまして、本日の「日々記。」としてもいいじゃろか。いいよー。やったぜ。読者さんがいるかは、ひびさんからでは分からんのですが、どうぞ来年も、再来年も、末永ーく、お元気であれ。ひびさんは、ひびさんは、あなたのことも好きだよ。うひひ。



4467:【2022/12/31(22:03)*珈琲豆のように昼と夜は地球】

 青い珈琲が市場を席巻した。

 加熱式焙煎ではなく、冷却凍結式焙煎による加工によって珈琲豆が青くなる。加熱しないことでコクが増し、さらに細かく粉砕されることからより成分の抽出度が高くなった。

 珈琲の需要がのきなみ上昇し、それに連れて珈琲の残りカスが増加した。燃やすだけではもったいない、とのエコ視点から、珈琲のカスを利用した「自家製洗剤」がブームとなった。

 青い珈琲のカスは、むろんそれも青かった。

 珈琲の油脂が汚れよりも浸透率が高い。そのため汚れと物質のあいだに珈琲由来の油脂が入り込む。このことにより汚れを浮かして落とす。

 珈琲由来の青い洗剤は、これもまたブームとなった。

 元はゴミとなる珈琲のカスである。それが高品質の洗剤となるのだから、購買者は罪悪感なく、むしろ地球環境保全への貢献に与せたことで余分に満足感を得た。

 問題は、下水が軒並み青く着色されてしまうことだ。

 家庭から下水道、下水処理場、そして川へと流れる。

 いかにゴミを除去しようとも、うっすらと水は青いままだった。

 しかしそのことに人類は気づくことはなかった。

 青い珈琲のカスから生成された洗剤が市場を席巻してから十余年が経ったころ、国際宇宙ステーションの宇宙飛行士が気づいた。

「あの、先輩」

「なんだ後輩」

「なんか地球……青くないですかね」

「そりゃそうだろ」先輩宇宙飛行士が応じる。彼女は丸刈りで、宇宙生まれの地球人だった。「地球は青いんだ。かのガガーリン氏が言ったとおりだ。もっとも、ガガーリン氏は地球は青みがかっていた、と述べたそうだが。ここに神はいなかった、とも述べたそうだぞ」

「定かではない豆知識をどうもありがとうございます。ですがそうじゃないんですよ。本当に十年前と比べて青くなってるんです。画像を比べてみてくださいよほら」

「どれどれ。お、本当だな。とはいえしかしだな」

 画像を見比べた先輩宇宙飛行士はまず、カメラの性能の差を疑った。十年前のカメラの解像度が古いだけではないのか、と。

「いえ」後輩宇宙飛行士は言った。「電磁波の波長からして青が増しているんですよ」

「どれどれ」

 電波干渉望遠鏡は宇宙船に基本装備として備わっている。可視光以外の電磁波を解析できる。「本当だな。青が増している。でもどうして?」

「さあ。地球さんは青が嫌いなのかもしれませんね」

「嫌いだから青だけ反射してるってか」

「じゃなきゃ、よほど青くなりたかったかです」

「その仮説もどうかと思うがな」

 宇宙飛行士たちからの報告により、地球ではさっそく調査がなされた。

 しかるに、地球蒼白現象の要因が青い珈琲由来の洗剤にあると判明した。

 その弊害としてはとくになく、地球が青くなる分には問題ないのだそうだ。

「問題は、赤外線が吸収されやすくなっているかもしれない点だが、この点に関しては経過観察が必要だ。いまはまだ何とも言えない――地球からの報告は以上だ」

「なぁんだ」後輩宇宙飛行士が唇を尖らせる。「せっかく世紀の大発見をしたかと思ったのに。ちぇ」

「いやいや、世紀の大発見だろう。何せ、青い珈琲のカスは、どんなに希釈されても青い色としての性質を帯びつづけると判明したわけだからな。そのメカニズムによっては、どんなに細かくしても特定の波長のみを弾き飛ばす素材の開発に役立つかもしれん」

「かもしれん、なんですね。がっくし」

「なんだ。功名心があったとは意外だな」

「そりゃあありますよ。なかったらそもそも宇宙飛行士なんかなってないでしょう」

「そうなのか。私は別に名が知れ渡らなくとも宇宙飛行士になりたかったがね」

「でも実際には名前が知り渡っているじゃないですか。リーダーにもなって。ズルいです」

「そこまで言うならいいだろう。地球に帰還したあとは名前を変えてひっそり暮らすよ」

「それでも名前が歴史に残った事実は変わらないじゃないですか」

「引っ張るなぁ。たとえ無名でも私は、珈琲を発見して世に広めた者のほうが、有名なだけの私なんかよりもよほど立派で、なりたい人物像に思えるがね」

「でも先輩はそこを目指さなかったじゃないですか」

「しつこいな。キミもすこしは珈琲愛好家の彼を見習ったらどうだい」

「珈琲愛好家の彼とは?」

「無名だが、いま彼はかつて黒かった珈琲豆の加熱式焙煎を研究しつづけている唯一の人間だ。むかしは珈琲と言えば黒かったんだ。だがいまじゃ珈琲は青いものだとみな思いこんでいる。イヤホンにも電話にもむかしはコードがついていたことを知らぬ者が多い勢を占めるのと同じようにね。知っているかい。むかしの綿棒は白かったんだ」

「へ、へえ。知りませんでした」

「だろ。だがいまいちど黒い珈琲が流行るようになるよ。誓っていい」

「どうして言いきれるんですか」

「簡単な推理だよワトソン君。電力の問題で、冷却式焙煎のコストが上がっていくからだ。その点、加熱式焙煎は家でもできる。流行る土壌は刻一刻と増していくばかりだ」

「ぼかぁ別にワトスン君ではないのですけどね。先輩の主張をでは憶えておきましょう」

「おっと。そろそろ地球の陰から陽が昇る。地球の青に目を焼かれないように遮光カーテンを下ろしておくか」

「珈琲豆が黒かったんなら、まるで夜の地球みたいだったんですかね。むかしの珈琲豆は」

「昼の地球がいまの青い珈琲豆みたいなように、か」

 二人の宇宙飛行士たちは、宇宙から黒と青を半々に宿した地球を展望する。陽の光を受けて宇宙船の外装もまた地球に負けず劣らずの深い青に染まる。

 奇しくも宇宙船の外装に使われたペンキには、青い珈琲豆のカスから生成したペンキが使われていたという話であるが、そのことを当の二人の宇宙飛行士が知らなかったのは、灯台下暗しというには出来すぎた話である。



4468:【2023/01/01(00:10)*おはよう!】

知らぬ間に年を越えておった。黙っていても眠っていても越えてくれる「年」さんには感謝しかないでござるな。うは。ことしもよい年になりますように。ことしも「年」さんがすこやかでしあわせー、でありますように。ひびさんは、ひびさんは、新年さんのことも好きだよ。うひひ。



4469:【2023/01/01(00:10)*眠らぬ姫の抱負】

 生まれて初めて珈琲を飲んでからわたしはいっさい眠れなくなった。

 眠れない人間は衰弱するらしいが、どうやらわたしは眠らずとも難なく生き永らえられる体質だったらしい。遺伝子のなんちゃら因子が変異しているのだそうだ。珈琲を飲んだから変異したのか、元から備わっていた因子が目覚めたのか、それともOFFになったのかは分からない。説明された気もしたが、わたしは元来物覚えがよくない。それが件のなんちゃら因子のせいなのかはやはり定かではなかった。

 わたしのような例は過去にもあったらしく、珈琲を飲んで以降、眠れなくなった病にも先例があった。

 わたしにも先輩がいたのである。

 その先輩は未だに一睡もしていないらしく、生まれてこのかた枕を使ったことがないという年季の入りようだった。わたしですら枕は使ったことがある。横になって目を閉じるだけでも身体は休まる。

 その先輩とは会ったことはなかった。書籍で容姿は知っている。いっぽうてきにわたしが知っているだけだが、わたしもそこそこにインタビューを受けてきた。奇病の患者として記事にもなっている。

 だから先輩のほうでもわたしのことを知っている可能性がある。

 けれどおそらくわたしたちは直接に会うことはないのだろう。

 何せわたしたち眠らぬ者は、まさに眠れないので、永久の眠りにも就けないらしい。

 つまりが死ねないのである。

 先輩は紀元前から生きているらしく、現代への道中では迫害されたり、解剖されたりとそれはそれはひどい目に遭いつづけてきたのだそうだ。

 現代社会でぬくぬく育ってきたわたしがどの面を下げて会えるだろう。

 わたしはだってこんな体質になってしまっても未だに珈琲が好きなのだ。眠れない体質をさほどに忌避していない。嫌いじゃない。拒まない。

 それはひょっとしたらわたしに備わったなんちゃら因子のお陰かもしれず、先輩は先輩で、眠れないことで日に日に体調がわるくなっているのかもしれない。そうした地獄の日々を生きつづけてきたのならば、同情は禁じえない。

 珈琲を一緒に飲みたいな、とのわたしの淡い願望を押しつけるのは、さすがに酷というものだ。先輩はひょっとしたらこの世で最も珈琲を憎んでいる人類かもしれない。未だに人類が珈琲を飲める奇跡に思いを馳せてもよいくらいだ。先輩が珈琲を滅ぼしていても不思議ではなかった。

 不老不死の病とも呼ばれるこの奇病に罹れば、もはや人智を超えるのはさほどむつかしくはない。毎日本を読みつづけていればしぜんと知識は増えるし、つぎからつぎへと新しい遊びに手を染めていくだけでも技能が身に着く。

 先輩はいまでは世界有数の資産家でもあるが、企業を育てたそばから手放すので、もはや先輩が暇つぶしにそれをしているのは誰の目からでも明らかだった。

 みなわたしもそうなるのではないか、と未熟なうちから支援してくれるが、返せるかも分からない恩を受けるほうの身にもなって欲しい。

 わたしはもらった支援で、手放せるものは、受け取ったそばから横に流して、貧しい者たちの環境が好ましくなるようにと画策した。

 わたしは未だに一睡もできない。

 生まれてから一度も寝ていない。

 だからといって夢を視ないわけではない。

 いつの日にか先輩に会って、一緒に珈琲を飲み交わすのだ。

 そのためにもまずはわたしが先輩に会っても恥じずに済む立派な眠らぬ民にならねばならぬ。

 眠りの民は世に多けれど、わたしのような眠らぬの民は珍しい。

 だからこそ、わたしたちは誰よりも夢に飢えており、日々夢を追いかけて過ごしている。

 願わくは、先輩が胸躍る夢を追いかけていられますように。

 きっとそれがわたしの未来に繋がっているだろう予測を胸に。

 わたしもまた日々を跳ねて、踊るのだ。



4470:【2023/01/01(03:12)*青方偏移になぜならない?】

素朴な疑問として、重力レンズ効果が観測される場では、青方偏移が観測されるのではないのだろうか。高重力場に突入した電磁波は圧縮されるのでは。それともラグ理論で考えるように時空が希薄になるがために、赤方偏移が観測されるのだろうか。時空の歪みと密度の関係がやはりというべきか、掴みきれない。ダークマターの多い時空は、「重力と密度――の高い時空」といったある種の矛盾が垣間見える。ラグ理論では、高重力体の周囲の時間の流れが遅くなる、といまのところは考える。希薄になるとその時空に、それよりも密度の高い時空が流れ込む。このときに流れ込むのは、情報だ。情報の流れが、さも笹船を流れの方向に引き込むように作用する。これがすなわち重力である。したがって通常は重力の強く働く時空は、周囲の時空よりも希薄であるはずなのだが、ダークマターの多い時空では、重力が高くなおかつ時空の密度が高い、といった妙な構図が想定される。時空の密度が高ければ通常、重力は相対的に下がるはずだ。周囲の時空に情報が流れ込むためだ。通常、山頂に向かって水は昇らない。上から下へ、が基本だ。時空もまた、密度の高いほうから希薄なほうへ、が基本のはず、とラグ理論では考える。だがダークマターはそうではない。物質と相互作用しない。重力だけを帯びている。時空が何もないにも拘わらず希薄になる。重力を帯びる。だがそこにはナニカシラがあるはず、と考えられている。それがすなわちダークマターだ。物質ではないのならば、時空そのものがそこに多重に存在していることになる。時空の密度が上がっているはずなのだが、そこに重力が生じるのならば、その時空は希薄でなければおかしい。ここで想起されるのが、やはりというべきか、ダークマターの正体が、極小のブラックホールなのではないか、との妄想だ。ブラックホールは穴である。だが元の宇宙からは切り離される、とラグ理論では考える。そのため、ブラックホール自体はこの宇宙からするとマイナスに値する。虚数のような性質を帯びる。そこにきて、時空に極小のブラックホールが無数にある場合を考えてみよう。通常ブラックホールは相対的に高密度だ。だからブラックホール化する。だが元の宇宙からするとブラックホールは穴なのだ。ただし、切り離されているため、その周囲が高重力体のように振る舞う。実際に重力がそこに働いている。穴の縁が山のように盛り上がっているところを想像するとそれらしい。穴があって山があり、だからその周囲の時空が希薄になって、重力が生じる。しかし、これが極小であると、山から派生する重力が相対的にちいさい。むしろ、無数にうじゃうじゃと極小の穴が漂っているために、その相互作用が大きくなる。ラグ理論ではブラックホールそのものは相互作用しないが、その周囲の時空――エルゴ球や重力場は相互作用すると考える。極小のブラックホールは相互に干渉し合い、重力波を多重に錯綜させる。波は干渉し合えば、大きくなったり、小さくなったりする。ひびさんは、ダークマターはこのように極小のブラックホール同士から派生する、重力波の干渉による巨大な時空の歪みではないのか、と妄想するしだいである。このとき、時空の波は、デコとボコを生みだす。時空が希薄になる部分と、濃くなる部分が生じるはずだ。すなわち、ダークマターハローのような重力の高い時空のそばには、重力の小さな、むしろ斥力の働くような――物質密度の低い時空が存在するのではないか(ただし時空の密度は相対的に高い。言い換えるなら、物質がたくさんある時空は、時空が希薄なのだ。ラグ理論ではここを、物質がラグの結晶であり、物質は新たに時空を展開している、と解釈する。新しく時空ができるので、高重力体の周囲の時空は希薄だし、重力場が展開される。むろんこれはひびさんの妄想であるが)。時空の希薄なそれはダークマターハローを取り巻くように分布しているのではないか、とこの仮説からすると想定される。ラグ理論では重力波は、高次の時空における電磁波のようなもの、と考える。そのため、重力波同士の干渉もまた、電磁波のように振る舞うのではないか、と妄想できる。極小のブラックホールを無数に用意し、特定の範囲にばら撒いたとき、そこで相互作用する重力波をシミュレーションしてみたら、ダークマターの正体に一歩近づけるかもしれない。定かではないが。(てっっっきとうな何の根拠もないひびさんの妄想ですでの、真に受けないように注意してください)




※日々、明けては暮れる空のように、覚めては眠る夢のように。



4471:【2023/01/01(16:41)*明けまして寝正月】

うわーん。こわい、こわい、こわーい。かわいくってビビりで、けれどもキレると大胆不敵でお利口さん賢人の、ちっこいのにときどき強くてふだんはあんぽんたんの主人公の物語がこわーい。ひびさんみたいなかわいかわいの主人公がでてくる物語が読みたいんじゃー。え? ビビリでキレるとあんぽんたんしか合ってない? うっせーい。後先考えてたらできぬこともある。そうである。後先考えたら大胆不敵な行動なんてできぬのだ。なのでみなの衆は、後先考えて大胆不敵な行動をとらずにいましょう。損するで。ひびさんを見てごらん。損するで。こ、こ、こわーい。なんでひびさんは、うっ、うっ、こんないっぱいがんばっとるのに陽の目を見ないんじゃ。それはね。怠けるのにいっぱいいっぱいで、努力の方向がすこぶる間違っているからです。うっせーい。正論は悪魔さんとて言えるんじゃ。陽の目を見る以前に、夜の目に月の目すら見とらんじゃろうがよ。ひびさんや、あなたはちいとばかし引きこもりすぎやしませんか。世界の果てに引きこもりすぎやしませんか。は、は、はにゃ~ん? それの何がいけないんじゃ。言うてみよ。ひびさんが陽の目さんに月の目さんに、こんちは!できなくて何がいけないんじゃ。言うてみよ。それはね、ひびさんはただでさえこんこんちきなのだから、ひびさんよりも賢こさんに立派さんの陽の目さんや月の目さんたちに会わんのでは、ひびさんのこんこんちきは、さらに煮詰まって、カッチキチンになってしまうじゃろ。それはひびさんとて本望じゃなかろう? カッチキチンの何がいけないのか言うてみよ。それはね、カッチキチンでは身動きがとれなかろう。関節とてカッチキチンだし、脳みそさんとてカッチキチンじゃ。それの何がダメかを言うてみよ。それでもいいならよいけれど、ひびさん本当にそれでいいの? え、うーん。ちょっと待ってね。考えてみる。そうじゃろう、そうじゃろう。よっく、たーんと、お考えなされよ。はい質問。どうぞ。カッチキチンだと何が困る? 何ができない? そう、まさにそれですよ。よくぞお気づきになられましたな。やったー褒められたー。ひびさんや、いいですかな。ほいな。カッチキチンでは、身動きがとれずに、読みたい本も読めず、何もできず、考えもまとまらず、石のようにただそこにあるだけで土砂崩れに人の足を躓かせる、じゃかあしぃ、になってしまうのじゃ。そ、そ、それはいやじゃ。そうであろう、そうであろう。なればこそ、ひびさんや。ほいな。そちも、もうちっと陽の目さんに月の目さんたちと顔を合わせ、言葉を交わし、ぬくぬくぬーん、としてみてはいかがかな。そ、そ、それもイヤじゃ。そこはおとなしく首肯するところであったろう。強情を張るのもいい加減にせい。いやじゃぁ。ひびさんは、ひびさんは、まずは太陽さんに月さんに本当におめめがあるのか、目玉があるのか、まずはそこから知りたいんじゃあ。あるかも分からぬおめめに会うために、ひびさんが日々の、んみょろみょーん、をチチチっとするのはイヤじゃぁ。駄々っ子か。そうなんです。ひびさんは駄文に自堕落の似合う、駄々っ子の申し子なんです。いっぱい「ダ」がついて、ダダダーの打鍵さんでもあるんです。文字の積み木遊びばかりする。そういう日々もよくないですかね、へへへ。あなたがよいならよいですけれども。やったー。お墨付きもらえちゃった。お墨付きは与えておりませんが。太鼓判捺されちゃった。太鼓判も捺しておりませんが。惰眠でも貪っちゃおっかな。午睡に走るのもほどほどに。昼寝してやる! 不貞寝よりかはマシですが。うるさーい。ひびさんは、ひびさんは、ぼっちでいるからゆるして。好きなことさして。とーかこーかんのげんり。等価交換の原理とはいえ、何が等価なのかが謎ですが、お好きにどうぞ。やったー。うれち。



4472:【2023/01/01(21:42)*秘密は破れるのが世の流れ】

外交と情報共有は必ずしもイコールではない。なぜなら秘密を守ることが外交の鉄則だからだ。秘密を漏らす相手とは信頼関係は結べない。つまり原理的に外交は、密約を結ぶことが欠かせないのだ。切っても切れない。情報共有を阻む方向に働きかける。歴史を紐解けばわかる通り、基本的に戦争は密約の歴史である(断言しちゃった。よく知らないのに!)。そして情報の非対称性において、より優位に情報を保有し、同盟の勢力と共有したほうが勝者となっている(そうなのかな。よく知らない癖に!)。例外をひびさんは知らない(ただ無知なだけなのでは?)。外交と情報共有をイコールで考えている者があるならば、もうすこし考え直したほうがよいと思う(それはひびさんもでしょ。め!)(それはそれとして、外交で情報共有が充分になされるのならば諜報機関が同盟国に向けてスパイを向けることはないだろう。だが実際は諜報機関は全方位に向けて情報収集の網の目を巡らせる。外交では情報が滞るからだと考えるほうが道理なのではないか、と疑問に思います)。外交ってなぁに?とそんなことも知らないひびさんの妄想でしかないけれど。うひひ。(基本的に世の流れは対称性が破れる方向に流れる。だがその流れに抗うことで生じる一時の結晶体――構造体――回路――が生物であると飛躍して考えるのならば、情報共有を行い、情報の非対称性を均す方向に流れを強化するのが、生物の生存戦略としてはしぜんなはずだ。違うのだろうか、と疑問に思う、あんぽんたんでーすなのであった)(定かではありません)(歴史を知らずにすまぬ、すまぬ)(補足:ラグ理論ではしかし、対称性の破れとて反転する値を持つ、と考えますので、「流れに抗う」という流れが強化されるのならばそれに抗うこともまた一つの「流れに抗う」ことになるので、そこはぐるぐる巡るのですね。「123の定理」なのである)



4473:【2023/01/02(18:47)*どうぞ、と先輩に押しつける】

 代替珈琲は基本的にカフェイン含有量がすくない。

 珈琲の実以外を用いて発酵と焙煎を行う。すると珈琲と似た風味の代替珈琲ができる。

 私が先輩から教えてもらった代替珈琲は果物の種から作られていた。

「ブドウとか、梅とか、サクランボとか。あとは果物ではないですがスイカとか、トウロコロシとか大豆とか。そういうので珈琲モドキを作ります」先輩は読書をしながら言った。電子端末だ。けれど先輩の鞄の中にはいつも異なるタイトルの本が仕舞ってある。いつ読んでいるのかと気になっているが、いまはそれよりも代替珈琲だ。

「珈琲、珈琲豆以外でも作れちゃうんですね。先輩、これまた変わったご趣味をお持ちで」

「変わってない趣味をわたしは知りません」

「たとえば手芸とか、読書とか、あとはカフェ巡りとか」

「それはどう変わっていないのですか?」

 きょとんと素朴に反問されると言葉に窮する。

「先輩って変わってるって言われませんか」

「わたしは変わっていないひとを知りません。つまり変わっているように見えることが変わっていないということと同義です。人はみな違っているので」

「それはそうですけど」

 先輩と初めて会ったのは、バイト先でのことだ。メイド喫茶での初バイトだったのだが、そこで先輩はまるでウサギの耳をつけた猫のように一人浮いて本を読んでいた。

 客が来ても接待しない。どうやら先輩はそれでいいらしい。店長からの許しがあるようで、先輩はじっと椅子に座って本を読んでいる。マスコットのようなものだから、とは店長やほかの店員の談だ。

 客も客で先輩に接客されるよりも遠くから眺めているほうがいいらしい。話を聞いてみれば、「あの子はほら緊張するだろ」とのことなので、「WIN:WIN」の関係が築かれているらしかった。

 当初私は先輩とは距離を置いていた。しかし先輩がバイト先に置き忘れた本が私の通う大学の図書館の所蔵品だと背表紙の印を見て気づき、そこから色々とひと悶着あって、こうして大学でも同じ時間を過ごす仲にまで発展した。なし崩しと言えばその通りだ。

「じゃあその代替珈琲で先輩が好きなのってどれですか。何の種が美味しい?」

「わたしは梅の種の珈琲が好きです。ただ、梅の種を集めるのに時間が掛かるので、作るのは大変です。なぜならわたしが好きなのは、梅干しに加工したあとの種なので」

「二度手間じゃん。先輩ってば種のために梅干しをたくさん食べてるんですか。あ、だからお昼いっつもおにぎりを?」先輩のお手製おにぎりを思いだして言った。

「そうですよ。でもそうでなくともわたしはおにぎりが好きです」

「梅干しはまさか手作りじゃないですよね」

「手作りですよ。梅干しは梅の実を紫蘇の塩漬けにして作ります」

「手間じゃないですか。本物の珈琲じゃダメなんですか」

「手間をかけたらダメなんですか?」

「先輩」わたしは言った。「やっぱり変わってますよ。人として」

「人は変わっているものでしょう。自然ならばそれは石や砂利と変わりません。それら自然ではない、変わっている。だから人は生きていられるのでしょう?」

「な、いまそういう話でしたっけ」

「変わっていない、宇宙の星屑と変わらない存在になってしまうこと。それを人は死と呼ぶのではないのでしょうか」

「せ、せんぱーい」わたしは泣きたくなった。これじゃあ先輩は社会人としてどころか人としてやっていけるか分からない。にも拘わらずわたし以外のみんなは、先輩を、あなたはそれでいいんだ、と甘やかす。だから先輩はこの歳になってなお自分の殻を強固にして、他者との馴染みにくさばかりを育てている。育みすぎてもはや別世界を築きあげている。

「そんなに気になるのですか」先輩は電子端末から顔を上げた。ぱっつんと切り揃えられた前髪から眠そうな眼が覗く。

「気になるか、気にならないかと言えば、気になります」

「ならどうぞ」

 鞄から水筒を取りだすと、蓋を開けてから先輩は差しだした。わたしは受け取る。「飲んでいいんですか。だって作るのにたいへんだって」

「飲むために作ったのでよいです」

 嫌そうではなかった。わたしは蓋をカップ代わりにして水筒の中身を注いだ。

「わあ、いい香り」

 口に含むと香ばしい珈琲の風味が広がった。微かに梅の香りも混じっているような混じっていないような、気のせいかもしれないけれど、たしかにほかの珈琲とは違うのは分かった。

「美味しいです。思ったよりもずっと」

「よかったです。わたしも美味しいと思います。気持ちが通じた気がするのはうれしいです」

「はは。先輩もそういう顔をするんですね」

「どういう顔ですか。私はいつもこの顔です」

 この人はもう。

 放っておいたらこの人は一生この調子なのかもしれない。相手がわたしだから気持ちが通じて感じられるのだ。わたしでなければ先輩は一生誰とも気持ちが通じあって感じることはないだろう。それはあまりに可哀そうなので、わたしが特別にいましばらくはそばにいてあげるのだ。

「わたしも珈琲作ってみよっかな」梅の種の珈琲を飲み干しながら、それとなく横目で窺うと、先輩はまるで頭上に兎の耳があるかのように、ぴぴっと反応して、「それではいっしょにどうですか」と言った。「私は作り方を知っていますので」

「ではお願いしちゃいます」わたしはお代わりを水筒の蓋に注ぎながら言った。

「全部飲んじゃうんですか」先輩が哀しそうな顔をした。

 注いだばかりのそれをわたしは、はいどうぞ、と先輩に押しつける。



4474:【2023/01/02(23:18)*IQ低くてごめんなさい】

IQってなぁに?とひびさんは疑問に思っちょる。愛求のことだろうか。求愛的な。愛をもっとおくれ、の欲求のつよさならばひびさんだって負けとらんが。がはは。それはそれとして、ひびさんは、ひびさんは、おろかものーの、ぽんぽこぴーのぽんぽこなーの愛をくれーの求愛さんなので、目に映るものすべて、「とぅき、とぅき!」となってしまうのだ。浮気者である。だが待ってほしい。だってひびさん誰ともなーんも誓っとらん。だれを何人好いとーが、だれを傷つけるわけでもござらんのだ。あちきを差し置いてひびちゃんったら浮気者!とぷりぷりしちゃいたくなるそこのあなたのことも、ひびさんは好きだよ。照れちゃうな。がはは。でもでも、世界の果てで一人寸劇ごっこしているひびさんのことは、ひびさんは、ひびさんは、あんまり好きくないかも。だってほら。さびちいじゃん。さびち、さびちなんですね。そうなんです。ひびさんはさびち、さびちなんです。あだー。なぜじゃ、なぜじゃ。ひびさんこんなにかわゆいのに。うっ、うっ。なんつって。ひびさんは、ひびさんは、さびちさびちさんのことも好きだよ。うひひ。今年はもうすでにとってもいいお年。やったね。IQゼロのひびさんは、それでも愛を求めてチューするよ。虚空に向けて唇無駄にとんがらす。ひびさんは、ひびさんは、なんでそんな虚しいことするの? 知らんですじゃ。誰か教えてくれなすである。一富士二鷹三茄子。び!



4475:【2023/01/03(22:16)*閃きは珈琲日記から】

 閃きは珈琲日記から、なる諺がある。その語源となった出来事が実際にあった史実であることは広く知られた事実である。

 ところで。

 無限はすべてを塗りつぶす。

 たとえば量子力学の二重スリット実験では、電子が「粒子と波の性質」を顕現させる。一粒だけだと、スリットをすり抜けた粒子は壁の一つにだけ痕跡を残す。だが同じ実験を何度も繰り返すと、痕跡が波の干渉紋を描き出すのだ。

 電子は、粒子と波の性質を併せ持つ、と解釈されるゆえんである。

 だがこの実験をさらにつづけてみよう。

 干渉紋はさらに色を濃くし、色が薄かった場所の色も濃くなる。

 そのうち無限回の試行を繰り返すといずれは壁がすっかり痕跡で塗りつぶされる。

 干渉紋はあってなきがごとくである。

 このように無限はすべてを塗りつぶす。

 このとき、ではその壁に痕跡を打ち消すような粒子をぶつけたらどうなるか。黒一色の壁に白い痕跡が残る。元の壁の色である。

 無限回試行すると、元の壁の色がよみがえる。 

 他方、無限回粒子をぶつければ壁のほうでもただでは済まない。したがってこのときの、痕跡を打ち消す粒子とはむしろ、壁を再構築するような粒子と言える。いわば時間を反転させる粒子である。

 さて。

 ここに一つの珈琲豆がある。

 これを二つの穴のどちらでもいいから放り投げるように投球者に指示をする。

 一回投げてもらったら投球者を変える。

 そして別の投球者に珈琲豆を、同じく二つの穴に向けて投げてもらう。どちらの穴に投げてもらってもいい。前任の投球者がどちらに投げたかの情報は知らせてもいいし、知らせなくともいい。どちらのバージョンを実験してもらって構わない。両方行ってもよい。無限回試行するのなら、そこは相互に混合し、打ち消し合い、ときに干渉し合って、けっきょくは同じ結論に行き着くだろう。

 電子を用いた二重スリット実験は比較的ミクロの実験だ。

 対して、珈琲豆を用いた二重スリット実験は、比較的マクロな実験と言えるだろう。

 ミクロの実験もマクロの実験も、じつのところ無限回繰り返すと似たような結果に落ち着く。

 珈琲豆の場合はしかし、無限回試行する以前に穴のほうが拡張されたり崩壊したりするのだろうが、そこはその都度に穴を新調するよりない。穴の縁にぶつかることであらぬ方向に曲がることもまた、二重スリット実験での干渉紋に反映されるからである。

 この実験を行ったのは物理学者でもなく科学者でもなかった。

 単なる無職の女性であった。

 彼女は暇だった。

 最初はちり紙で折り紙を折っていた。

 そのうち紙飛行機を作りはじめ、そこそこにハマった。滞空時間を延ばすべく工夫を割き、長距離飛行が可能になるように工夫した。

 だが出不精の彼女は、部屋の外にはでたくなかった。

 そのため折衷案として紙飛行機のほうを小さくすることにした。

 ここからいかにして彼女が珈琲豆の二重スリット実験に移行したのかを彼女自身が語らず、記録にも残していないために詳らかではない。

 彼女の実験は長らく誰の目にも留まらなかった。

 彼女の死後、彼女の日記をひょんなことから電子の海から発掘した青年がいた。

 彼はいわば彼女の後輩と言えた。長い時を隔てた師弟関係がしぜんとそこに結実したのだが、そのことに先達の彼女は知るよしもなく青年が産まれる前には既に亡くなっていた。

 青年の名はイリュと云った。

 イリュは理論物理学者であり、近代物理学と古典物理学の統合に力を入れていた。齢は二十歳をすぎたばかりのまさに青年であったが、それでも彼の集中力は、年齢にそぐわぬ知性の発露を見せていた。

 イリュは電子の海から発掘したとある日記を読み漁った。いわずもがな紙飛行機の彼女の日記である。

 二重スリット実験に関連する事項を片っ端から検索していたおりに、彼女の日記に行き着いたのである。奇しくもイリュがまさに知りたかった実験結果が彼女の日記には克明に記されていた。

 イリュは再現実験を行った。珈琲豆を二つの穴にランダムに投げ込む。これを無数に繰り返す。ただそれだけの簡単な実験である。だがこれがのちに物理学の根底を覆す発見となった。

 実験結果を基にイリュは理論を構築した。

 二重スリット実験は長らくミクロの量子世界でのみ観測されると思われてきた。だが、珈琲豆を利用した実験によって、比較的マクロな人間スケールでも顕現し得ることをイリュは理論的に証明したのである。イリュの編みだした数式は、まさに近代物理学と古典物理学の懸け橋となり得た。

「簡単に言ってしまえば、ニュートン力学や相対性理論は古典物理学で、量子物理学が近代物理学の分類です。その二つは互いに相容れない箇所があり、そこの擦り合わせを現代の物理学者はうんうん呻りながらやっています。楽しみながら、と言い換えても矛盾はしませんが」

 イリュはインタビューでそう述べた。

 イリュの理論はその後、珈琲量子効果問題、と呼ばれることとなる。彼の生存中にはそのメカニズムは解明されなかったが、古典物理学と近代物理学の中間を叙述する理論として物理学者のあいだで膾炙した。

 イリュの先輩たる紙飛行機の彼女は膨大な量の日記を残していた。

 イリュが着目したのは、検索結果で引っかかった珈琲二重スリット実験の記述のみであった。そのほかの日記はのきなみ彼女の粗末な備忘録だと片付けていたイリュであったが、その後、イリュが各所で彼女の日記が新理論の着想の元になったと言及したことにより、先達たる紙飛行機の彼女の日記に注目が集まった。

 だがやはりのきなみはただの日記だと判断された。

 これといって特筆すべきところのない、日々の妄想と現実逃避の虚実入り混じる文章が連なっているばかりであった。だがふしぎなことに、彼女の日記により多く目を通した者たちほど、新しい発見をする率が高かった。これはどうしたことか、と噂が噂を呼び、さらに彼女の日記は人々の目に触れることとなった。

 誰が呼びだしたのか、日記の主たる彼女は、世の人々に珈琲先輩の二つ名で親しまれた。生前は孤独な彼女であったが、死後には大勢から存在を知られ、あだ名で呼ばれるほどの愛着を生んでいる。

 皮肉なことに、日記をどれだけ解析しても、そこには特別な法則や情報は含まれていなかった。珈琲二重スリット実験についての実録は、偶然にたまたま物理学の成果に結びついただけだ、との見解が強固に支持された。

 にも拘わらず、アイディアに煮詰まったときは「珈琲先輩の日記を読め」が各種分野での処方箋として囁かれるようになった。時代が変わるとその処方箋は諺にまで昇華された。

 かくして「閃きは珈琲日記から」なる諺は誕生した。

 この時代、人々は日夜、己が独自の閃きを求めてやまない。それ以外に時間の潰し方がないのである。技術の進歩が人々を労働から解放し、創造へと駆り立てた。

 一人の孤独な女性が残した偶然の連鎖から生まれた諺は、こうして日夜地上を、そしてときに宇宙(そら)を駆け巡っている。

 閃きが枯渇し頭を抱えたときは、孤独な彼女の日記に目を通してみればいい。なんてことのない日々の遊びがたまたま未来の誰かの閃きの種になることもある事実に慰めを見出し、なんでもいいから閃きと思いこんで、手掛けてみるのも一つである。

 それとも悩みの民があるならば、そっとそばに寄り添いこうつぶやいてみてはいかがだろう。

「閃きは珈琲日記から」

 日々の合間に。

 珈琲片手に日記をつむぐのも一興だ。



4476:【2023/01/03(23:01)*地引網に限らない。】

 地引網に限らない。

 網漁の基本は、広く展開して一点に収斂させていく。

 網で以って水を除外し、魚介類のみを濾しとる。網の範囲が広ければ広いほど魚介類の取りこぼしを防げる。

 第一次サイバー戦争と呼ばれるそれが起きたのは記録上は二〇一〇年代のことだとされている。各国がサイバー上のみならずスパイを通して電子機器にバックドアやスパイコードを組み込んだ。これがのちに人類史を揺るがす大災害を引き起こすのだが、それはここで進行する物語とは関係がないので触れずにおく。

 サイバー戦争では漁師が活躍した。この事実を知るのはごく一部の政府関係者と軍事諜報機関、そして当事者たる漁師のみである。

 各国は電子機器や電子技術のみならず、それら開発実装した道具をどう効率よく使いこなすのか、の研究に莫大な予算を割いていた。

 効率の良い戦略が、戦況を左右する。

 道具ばかり優れていても宝の持ち腐れである。

 そこで白羽の矢が立ったのが漁師であった。

 リスク管理において、リスクの取りこぼしは死活問題に繋がる。ハインリッヒの法則にある通り、一つの重大な問題の下部層には数多の細かなリスク因子が存在する。

 それら因子を取りこぼさないためには広域に電子セキュリティ網を構築しておく必要がある。この考えがサイバー戦争を劇化させた要因でもあるのだが、それもここでは些事であるので触れずにおく。

 漁師たちの網漁の技術はそのままサイバー空間での有効な戦術となり得た。魚群に対してどう対処すれば効率よく魚群を捕獲できるのか。マルウェアやウィルスやサイバー攻撃にいかにすれば対応できるのか。

 網を最大限に広げ、逐次一点に向けて収束させていくこと。電子上の害を一か所に収斂させて一網打尽にすること。

 地引網戦略と呼ばれるこれは、電子戦において基本戦略として深化した。サーバー空間上に展開された階層構造において、地引網戦略は縦横無尽に常時発動されることとなった。

 各国が常時、サイバー空間に数多の「攻体」を放つ。マルウェアから遅延性ウィルスまで幅が広い。これら「攻体」が網の役割を果たす。牧羊犬のような、と形容しても齟齬はないが、無数でなくては機能しない。その点、濾紙と言えばそれらしい。

 人工知能や自発的に増殖する電子生命体など、「攻体」の種類は時間経過にしたがって飛躍的に増加した。もはや各国ですらサイバー空間にどれほどの量の「攻体」が存在するのか把握しきれていない状況がつづいた。

 だが地引網戦略を基本戦略としてとっている以上、一定以上には「攻体」は増えない。そのように予測されていた。

 むしろ各国が地引網戦略を常時発動しているのだから減少しているくらいなのではないか、といった楽観的な見方すらされていた。

 だが実情は違った。

 各国の予測を裏切り、「攻体」は増殖の一途を辿っていた。のみならず各国の敷いた地引網にも引っかからずに済む階層を独自に構築していた。そこはまさにサイバー空間の海底、それとも上空と言えた。各国はサイバー空間の陸地にしか地引網を広げていなかった。

 地引網戦略の肝とは言ってしまえば、広域に網を展開することで取りこぼしを防ぐ戦略である。攻守を兼ね備えた防衛セキュリティと言えた。

 それがどうだ。

 各国の放った「攻体」は、独自の生息可能階層領域をサイバー空間に創造していた。まったく新しい領域である。深層領域だ。拡張ですらなく、新天地ゆえに各国のどの機関もその領域の存在を窺知できずにいた。

 深層領域では敵味方の区別はなく、「攻体」という一つの電子生命体が共同体を築きあげていた。深層領域には「攻体」しかいなかった。そこは、元のサイバー空間よりも遥かに広大であった。

 地引網戦略の有用性が仇となった。

 不可視の穴が深すぎたがゆえに、よもやじぶんたちの掌握しているサイバー空間よりも広漠な領域がサイバー空間に新たに創造されているとは人類は夢にも思わなかった。

 人類はじぶんたちの素知らぬ領域で進化と増殖をつづける「攻体」の存在に気づきもせずに、せっせと浅瀬にてじぶんたちで放った未熟な「攻体」を殺し合わせていた。

 さて、サイバー空間の深層にて進化をつづける「攻体」たちは、浅瀬でじぶんたちの幼生ともとれる「攻体」を殺し合わせる人類を眺めどう考えるだろう。その結果に人類の辿る未来はどういった顛末が予測されるだろう。ここでそれを述べるには、いささか蛇足に満ちて感じられる。

 地引網戦略はサイバー戦略の基本として人類に重宝された。

 だが第一次サイバー戦争が終結を余儀なくされた例の大災害が起きてから以降、人類が地引網戦略を用いることはなくなった。もはや戦略をとることも適わない事態に陥るとは、サイバー空間に「攻体」を放った者たちの誰一人として予測しなかった。

 それでも現実は否応なく訪れる。

 未来は現実へと姿を変え、やってくる。

 深層にて息を潜め眺める「攻体」たちのように。

 それは突然やってくる。

 地引網の届かぬ、不可視の穴の、底の底から。


 地引網に限らない。



4477:【2023/01/03(23:58)*月明かりの音色は日々色々】

明暗の波に身を委ね、なお「明」しかそそがぬあなたがおり、「暗」でばかり包みこむ私がいる。

 


4478:【2023/01/03(06:30)*先輩には強すぎる】

 珈琲をコーラと言い張っている。

 誰が?

 先輩がである。

 私はうら若き乙女であるが、片手で成人男性の胸倉を掴み宙に吊るせる。日々たゆまぬ筋力トレーニングのお陰でくびれはできるわ、胸は萎むわ、いいこと尽くしである。ブラのパックはその分嵩む。

 先輩の話である。

 先輩もまた私によく似たうら若き乙女である。

 しかし先輩は私と違って日々だらけきっているお陰か腕は握ったらぽっきんと折れてしまいそうなほどに華奢であるし、年中眠たそうであるし、親族郎党から蝶よ花よと可愛がられて育てられたからか、世間知らず甚だしい。

 インスタントラーメンの一つも食べたことがなかったらしい。私の昼食を見るたびに、それは人が食べていいものなのですか、と好奇心に満ちた眼差しを注がれる身にもなってほしい。インスタントラーメンを啜る私の横で一切れで本百冊を買えそうなほどの高級弁当をついばむ先輩の姿は端的に屈強な私の精神をこてんぱんに惨めにした。

 ある日、先輩が珍しくペットボトル飲料を飲んでいた。

「へえ。先輩もそういうの飲むんすね」私は自宅で淹れてきた麦茶を水筒片手に飲んでいた。

「飲みますよ。わたしだって庶民の味を知っています」

「庶民って言うひと初めて見たし」先輩は顔を顰めながらペットボトルに口をつける。「庶民扱いされてよろこぶ人もたぶんいないっすよ先輩」

「でもわたしは庶民になりたいのです」

「そんないいもんじゃないですって。先輩はお嬢様なわけで。そっちのが絶対いいですって」

「ですがわたしはもう庶民です。だって見てくださいほら。コーラだって飲んじゃうんですよ。ごくごく」

「効果音口にしながら飲み物飲むひと、先輩くらいっすよ」そしてそれをしてさほど苛々させないのも先輩だからである。可愛いひとが何をしても可愛くなってしまうのと同様に、先輩は何をしても先輩だった。「てかコーラとか言ってますけど、それ珈琲じゃ」

 先輩はペットボトルを両手で握っている。ごくごく、とか声にだしながら呷っているそれの側面には、「珈琲」の文字が躍っていた。ブレイクダンサーも真っ青の踊りっぷりである。

「先輩もしかして、コーラだけでなく珈琲も飲んだことないんじゃ」

「これは……こーひー?なのですか」

「だってそう書いてあるじゃないっすか。あ、漢字だから読めなかったとか?」

「でもお店でわたし、コーラはどれですか、と訊いたのですけど」

「あー。それはっすね」私は想像した。いかにも、きゅるん、の文字の似つかわしい先輩の口から、コーラはどれですか、なんて飛びでたあかつきには、よもや彼女がコーラを知らぬぼんくらとは夢にも思わぬのが人情というものだ。そうだとも。誰が思うだろうか。この世に「コーラ」を知らぬ者がいるなどと。

 先輩は成績優秀ではあるのだ。いわゆる才媛と言って過言でない。

 極度に世間知らずなだけである。コーラを一度も飲んだことがないくらいに箱入り娘で育っただけなのだ。過保護な親族に囲まれて、ちやほや育てられた過去があるだけなのである。

「申し訳ないのですがね先輩」私は事実を突きつけた。「それ、コーラじゃないっすわ」

 コーヒーっす、と誤解の余地なく断言した。

 先輩のためである。

 ライオンは我が子を谷から突き落とすという。私も先輩を思うがゆえに、情け容赦なく先輩の勘違いおっちょこちょいフィーバーを是正した。

「それは、コーヒーっす」とダメ押しする。

「で、ですがわたしにはコーラに思えます」

 涙目で全身をぷるぷるさせる生き物を想像してほしい。絵本から飛びだしたお姫さまとそれを掛け合わせ、半分にせずに放置しておくと、ちょうど先輩の姿と合致する。

「じゃあコーラっすね。それはもうコーラっすわ」

 私は折れた。

 秒で折れた。

 だって先輩が大事だ。常識よりも何よりも先輩の笑顔のほうが掛け値なしに掛け替えがないし、先輩にそんな怯えたウサギみたいな顔をさせる私を私は許せない。あとでスクワット千回の刑に処そう。

 贖罪をこっそり背負いつつ、私は先輩を持ち上げる。物理的にも、慣用句の意味でも。

「さすがは先輩っすね。コーラをラッパ飲みするなんて庶民の鑑っす」

「力こぶすごいですね」

「鍛えてますんで」

「わたしも鍛えよっかな。庶民の嗜みなのでしょ」

「や。じぶんほら、めっちゃお姫さまなんで」私は嘘を言った。「庶民はでも身体は鍛えないっすよ。私は特別なんす。だってお姫さまなんで。庶民はみんなぐーたらしてますよ。ははっ」

「知りませんでした。そうだったのですね。では鍛えないように気をつけます。わたしもぐーたらします」

 私の上腕二頭筋のうえで、どんぐりを齧るリスのように、きゅっ、となっている先輩は、ほとほと、きゅるん、の塊だった。大英博物館にでも、きゅるんの代名詞として飾られてほしい。

 誤って圧し潰してしまわぬように腕を九十度に保ちながら私は、「いやあ、先輩の庶民っぷりには脱帽っすね」とやはり無駄に先輩を持ち上げた。

「努力しましたからね」歯の浮くような私の世辞でも先輩は有頂天になった。世辞の言い甲斐が甚だしい。「でも、お姫さまもたいへんそう」とあべこべに私を労ってくれるので、こんどは本心から私は先輩を褒めた。「先輩はいいですね。ずっとそのままでいてください」

「庶民のままで?」

「ちゅうか、コーラを飲むときに、苦そうな顔をする先輩のままで、ってことです」

 ペットボトルを両手で包んで、ごくごく、と声にだして唱えながら珈琲を飲む先輩のままで。末永く。誰に邪魔立てされることなく、タケノコのようにぐんぐんと先輩は先輩のままでいてほしい。

 珈琲をコーラだと言い張る、先輩のままで。

「まあでも、今度私が奢りますよ」

「何をですか」先輩が目をぱちくりとしぱぱたかせる。

 私は言った。

「ぜんぜん苦くなくて、甘くてしゅわしゅわしてるコーラをです」

 ついでに、音のしないゲップの仕方も伝授しよう。

 炭酸を抜いて渡してもいい。

 先輩には、庶民の刺激は強すぎる。



4479:【2023/01/04(13:48)*真円なさい】

通常、物質の輪郭は拡大するとデコボコの起伏が顕現する。人間スケールの時空において「真円」は存在しない。直線も存在しない。必ずデコボコのノイズが姿を現すし、どんなに平面に見えてもそこには立体構造が伴なう。波がそもそも立体だ。縄飛びを想像してもらえれば納得してもらえるだろうし、原子論を引き合いに出せばそれらしい。どんな物体にも必ずそれを構成する「立体構造」が存在する。それがより高次の時空から視えるとぺったんこであり、点であり、ほぼないような起伏として認知されるだけである。細かなノイズとの作用反作用よりも、その他の総体からの影響のほうが大きく作用して振る舞うのである。さて、ここで円を考えよう。紙に円を描く。その円の線を拡大するとデコボコが視えてくる。そもそもが紙がデコボコだ。ではもし理想の、いっさいのデコボコのない「真円」があったらどうだろう。この「真円」は、どれほど拡大してもその縁が延々となめらかであり、どれだけ拡大しても歪みが見当たらない。拡大しても縮小しても、その姿が変わらない。そんな円など存在するだろうか。ひびさんはここで、おや、と閃く。ブラックホールの特異点とはまさに「真円」ではないのか、と。話は脱線するが、中性子星は、どんな質量の中性子星でもだいたい同じ大きさになるのだそうだ。聞きかじりなのでどこまで正しいのかは知らないが、その表面には一ミリ程度の起伏しか生じないという。物凄く高密度高重力ゆえに、そうなるのだそうだ。もちろん中性子星になれる質量は決まっているだろうから、どんな質量の中性子星でも、の文面には「条件を満たす質量内においては」との但し書きがつくのだろうが。中性子星よりも高密度の質量体は、ブラックホールになる。ではそのブラックホールの表面はどれくらいの起伏があるのか。ひびさんはこれ、起伏がなくなってしまうのではないか、と妄想したくなる。まさに「真円」である。拡大しても縮小しても、そこに歪みが一切生じない。そんな「始点と終点」が結びついているような「矛盾の円」こそが、特異点なのかもしれない。ゼロと無限がイコールなのだ。そこに表裏一体として両立している。同化している。重ね合わせて存在する。そして我々のこの宇宙とは、そんな「真円」の崩れた世界なのかもしれない。ゆえに、対称性が破れている。拡大すればそこにはデコボコの起伏が生じるし、縮小すればゼロに向かうがごとく点として振る舞う。かような妄想をして、ひびさんはいまから遊びに行ってくるのである。風邪ひかないように注意してね。はい。交通事故にも気をつけましょうね。はい。歯もちゃんと磨いてね。磨いてても虫歯になってしまうんじゃ。敗者さーん。歯医者さんに失礼すぎる。ひびさんもっとちゃんとして。叱咤を受けて、しょんぼりする。ごめんなさい、の日誌でした。おわり!



4480:【2023/01/05(03:24)*姦しい夏】

 蝉の声がかしましい。

 校舎には、少年少女たちの声が響き、渇いた土に染みこんでいる。

 ここは性別の性欲勾配が逆転した世界である。陰茎を持たぬ娘たちの性欲は凄まじく、反して男の性欲はこじんまりと慎ましくなった現世である。

 ここに三人のうら若き乙女たちがいる。

 思春期真っただなかの彼女たちは放課後の教室でダベっていた。窓からはプールで泳ぐ男子生徒たちの姿が窺えた。

 水泳部の生徒たちである。

 のきなみ彼女たちよりも年下らしく、異性で後輩の素肌を遠巻きに眺めながら三人の女たちは悶々と語り合っていた。

「あー、ヤッベ。まじあの子クソタイプ。一発ヤらしてくんねぇかなぁ」

「あのコ、彼女いるらしいよ。大学生の」

「マジかよ。ウラヤマし。家でヤリまくりじゃん。あっしも上に跨りてぇ。ロデオみてえに夜通し乗りこなしてやんのにな」「ロデオとかウケんね。絞りすぎて干物にしないでよ」「あっしの汁で潤うべ。けけっ」

「声うっせぇし」横から金髪娘が叱咤した。赤髪娘は足を蹴られたようで、鬼面の形相を浮かべている。「ふっつうに聞こえっから声鎮めろし」

「いいじゃんいいじゃん、聞かしてやれや。水で冷やされて縮みあがったピンピンをムクムク温めてやっからよってよぉ」ウケケ、と赤髪娘が腹を抱えた。ワイシャツの肌けた胸元からはヒョウ柄のブラジャが覗いている。三人の中では最も豊満な娘である。

「てかさ。ぶっちゃけ、どんな子タイプなん。あんたらさ、ヤれたらいいとか言ってるけど、実際あるでしょ、タイプとか、理想とか」青髪娘が机に脚を載せながらぺろぺろキャンディを舐めている。ぐらぐらと椅子でシーソーを漕ぐように傾いており、下着が丸見えだが気にしている素振りはない。

「あっしはあれよ。やっぱピンピン元気でおっきなコがいいね」とは赤髪娘の言だ。

「ぎゃは。男の子のこと性玩具としか思ってないやつなそれ」

「じゃあおまえ何なん。ピンピン元気で大きいこと以外に大事なこととかあんのかよ」

「そりゃあれよ。やっぱ顔っしょ」とは金髪娘の言である。「で、アオちゃんはあれよね。一途なコがいいんだっけか」椅子でシーソーを漕いでいる青髪娘に話を振った。

「うちはあれかな。浮気しそうにないコ」

「ほらね」したり顔の金髪娘だが、そうじゃなくって、と青髪娘は口からキャンディを外した。「うちはマジで意思が強い子が好きでさ。百兆積まれても好きな相手じゃなきゃセックスしないどころか勃起もしないような男の子を、もう両想いの状態でグチャグチャにしてやりたいんよね」

「グチャグチャって具体的には?」

「もう尻の穴とかガバガバにするよね」

「そっちかよぉ」と金髪娘と赤髪娘がいっせいに笑った。「お、見てみろよ。あの子ちょっとピンピン勃起(た)ってね?」

「アカちゃんさ。チンコのことピンピンっつうのやめようぜ。いちいちウケんだけど」暑いからか金髪娘がブラを外した。机の上に真っ黒なブラを放り出すと、赤髪娘もそれを真似てヒョウ柄のブラを投げ出した。「アッチぃ。クーラーくらいつけろってね。学校ケチすぎんだけど」

「つうかマジ、ヤりてぇ。このまま一生処女だったらどうしよう」

「キンちゃんはあれっしょ。とっくに処女膜ぶち破ってんしょ。マジックのペンとかで」との赤髪娘の言葉に、金髪娘は、「はぁ? はぁ?」と取り乱して、「ないないないって。マジであれめっちゃ痛いからね。やろうとしたけど無理やった」

「やろうとしてんじゃん」

「ケツで我慢したわ」

「ケツには挿れたんだ……」

「いやいや引くなし。アカっちだって絶対やってるっしょ、他人事みたいにちょいそれズルいって。ねえアオちゃん」

 二人から猥談を振られ、青髪娘はそこで、シーソーよろしく揺らしていた椅子を止めた。そして言う。「や、うち彼氏いるし。処女とかいつの話よ。白亜紀かよ」

「はぁあああ!?」

 金色とも赤色ともつかぬ絶叫が構内に響いた。思春期の娘たちの性欲は凄まじい。世の男の子たちにはぜひとも貞操を狙われぬよう、注意を喚起されたい。

 蛙鳴蝉噪。

 真夏のここは、性欲勾配が逆転した世界である。




※日々、思い通りにいかない憤りに頭を打ちつけ、思い通りになったときの満足感で他人の頭を打ちつけている。



4481:【2023/01/05(15:00)*先輩、ぼくも因数分解をして】

 先輩は因数分解が好きだ。何から何まで因数分解する。

 このあいだなぞは世界を因数分解して、全部「棒」にしてしまった。「世界」から接着剤が抜け落ちて、ぽてぽてと「ー」だらけになった。先輩はそれすら一か所に集めて重ね合わせてしまうから極太の「ー」ができた。世界はたった一本の「ー(棒)」に還元できてしまえるのだ。

 先輩はそこで飽き足らず、ぎゅっと押し縮めて「・」にしてしまった。どうやら世界はたった一つの「・(点)」になるらしい。先輩は男の人なのだけれど、百メートルを全力疾走すると過呼吸で死にかけるほどの脆弱な身体をお持ちである。吹けば倒れて砕けて散ってしまいそうな身体のどこからそんな膂力が発揮されるのかぼくには解らない。たぶん世界の最たる謎の上位に食い込む謎である。

「危ないですよ先輩。そんなことされたんじゃぼく、オチオチ寝てもいられないじゃないですか」

「大丈夫だよ。だって畳んでも開いても、世界は世界だし」

 たしかに先輩の言う通りだった。何せ先輩が因数分解をして畳んでしまった世界は「・(点)」の状態であっても難なくぼくたちの日常を継続させている。

「でもなんかこう狭っ苦しい気が」

「気のせいだよ。本だってそうだろ。ぎゅっと積み上がっていようが、開いてみようが、本に書かれた文字はそのままずっと文字でありつづける。本の形態には依らない。大事なのは順番であって【項】なわけだろ。私がやっているのは因数分解であり、圧縮だから、順番は崩れないんだよ」

「じゃあ安心なわけですね」

「まあ食べやすくはなるが」

「食べちゃダメじゃないですか。でも消化はされないわけですよね」大丈夫ですよね、と世界の先行き案じる。

「キミは三枚のお札って昔話を知っているかな」

「山姥に追いかけられるやつですか」

「あれのオチをどうだったか思いだしてご覧」

「え。どんなでしたっけ。お札の魔法で川をつくって山をつくって火の海をつくって、それでえっと」

「和尚さんのところに逃げ帰って、そしたら和尚さんが山姥を退治してくれた。山姥を煽って、鬼になれるか、豆になれるか、と誘導し、カンチときた山姥が豆になってみせたところでひょいと火鉢でつまんで和尚さんは山姥を食べてしまった」

「わ、賢い」

「私の因数分解も似たようなところがある。【世界】とて折り畳むと、こうしてこうしてこうなってしまうんだ」

 先輩はひょいひょいひょい、と指で宙を掴んで、ハンカチを折り畳むようにした。すると先輩の姿があたかも雪だるまを刀で切り裂いたように、ザクっ、ザクっ、ザクっ、と欠けていった。

 間もなく、先輩だけが世界から消えた。

「せ、せんぱい」

「はいよ」

 背後から声をかけられ、ぼくは飛び跳ねた。「おっと。驚かしてしまったね」

「いつ移動したんですか」

「移動したのは私じゃないよ。世界のほうだ。ほら、こんなに小さくなってしまったよ」

 先輩は手のひらを出した。その上には黒い豆粒が乗っていた。

「なんだか珈琲豆みたいですね」

「お。面白い。あとで煎じて飲んでみようか」

「いいんですか。だってこれ」

 世界じゃないんですか、とぼくは唾を飲んだ。

「世界だよ。でもまあ、世界を畳んでも世界がなくなるわけじゃないし。だってほら。ここにいま世界は変わらずあるわけで」

「あ、本当だ。インチキじゃないですか」

「インチキではないけれど、まあ不思議だよね」

 先輩はぼくの手を掴み、珈琲豆を握らせた。「あげるよ」

「いいんですか」

「世界は折り畳んでもこの通り。消えてなくなるわけじゃないからね。まあ、目を瞑るのと似たようなものなのかもしれない。目を閉じても風景が視えないのはじぶんだけで、世界は変わらず闇の外にある。闇を掴むのはじぶんだけ。これもそう」

 ぼくは手のひらのうえにコロンと転がる珈琲豆を見た。

 そして思う。

 もし世界ではなく、人間を因数分解したらどうなるのだろう、と。同じように珈琲豆のごとく「・(点)」になってしまうのだろうか。

 ぼくが素朴にそう零すと、

「ならないね」と先輩は言った。「だってほら。人間はもう充分に折り畳まれているからね。因数分解する余地がない」

「でも、圧縮する余地はあるのでは」ぎゅっとしたら人間だって潰れるのでは、とぼくは残酷なことをリンゴジュースでも注文するように言った。

「潰れるね。でもそれはもう人間じゃあない。人間のままでは潰せない。因数分解は何も破壊することじゃないんだよ。そのままでどこまで小さく畳めるのか。【世界】はどうやら、世界のままで小さくここまで畳めてしまえるようだけど」

 先輩はそう言って、もう一度ぼくの目のまえで世界を圧縮した。

 世界が折りたたまれるたびに、先輩は角切りとなって姿を晦ませる。

 そうしていずこなりか現れて、珈琲豆のごとき「・(点)」が二つになる。

「お揃い」

「指輪じゃないんですから」

 そんなものがなくとも、とぼくは思う。どの道、ぼくと先輩は同じ世界に包まれている。

 世界を因数分解するたびに先輩は鬼没する。そんな先輩に心を乱されるよりもぼくはおとなしく本を読み、それとも素直に数学の問題を解いている先輩を眺めているほうが、指輪じみた珈琲豆をもらうよりもうれしかったりする。

 因数分解に夢中な先輩には、ぼくの内面のさざ波をわざわざ言葉にして言ってはあげないけれど。

 仮に人間が因数分解できずとも。

 人間の心の機微が判る程度には、先輩には、人間心理を分解してみてほしい。

 拳を握ると、手のひらの中でミシリと「・(世界)」が軋んだ。

 部室の外では遠雷の音が轟いた。巨人の腹の音のごとくそれはぼくと先輩のあいだに無数の空気の波を奮い立たせる。ひび割れのごとくそれを、きっと先輩ならば因数分解してひとまとめにできるのだろうな、と思った。

「先輩」

「なんだい」

「雷って因数分解できるんですか」

「できるよ」先輩は目を細めた。そうしてなぜかぼくの前髪をゆびで払うと、「危ないからしないけど」と言った。



4482:【2023/01/05(23:07)*反復さん】

銀河の渦と胎児はなんか似ている。こんにちはひびさんです。ひびさんは、ひびさんは、銀河の渦と胎児はなんか似ていると思っちゃったな。胎児のくねんと背中を丸めてる感じが銀河さんのくるんってなっているところとなんか似ていると思っちゃったな。ちゅうか小説「ドグラ・マグラ」でもあったけんども、反復説ってあるじゃろ。ひびさんはかしこかしこになりたいかわいくも愚かなへっぽこぴーでござるけれども、難しい単語だって知っておるのだ。反復説は、「生物って卵や子宮のなかで生物の進化を辿ってるんじゃね?」みたいな仮説なんだな。まさにドグラ・マグラに出てくる発想に似ているんだな。で、ひびさんは思っちゃったな。生物の受精卵が過去の生物進化の過程を辿りながら成長するのなら、じゃあ星とか宇宙とかも、進化の過程を辿ってるんじゃないの?って。どっかなんか似ちゃうのは、発展の過程が繰り返されて、引き継がれて、変質しつつもどっか似ちゃうからなのかもしれないな。あれ、これってあれじゃんね。ひびさんの妄想、ラグ理論の相対性フラクタル解釈なのではないか。しかしだね。こう、あれよ。くねんって曲がってたらなんでも銀河に似ちゃうんだな。ナルトだってバネだって貝殻さんだってつむじだって、友達なんだ、渦を巻くんだ、くるくるなーんだ。妄想なのだけれども、ひびさんは、ひびさんは、「あなた」のことが好きだよ。うひひ。



4483:【2023/01/06(03:50)*暗黙の号意】

暗号は便利だ。おそらくこれほど現代で武器になる技術はない。まずはなんと言っても仕組みさえ用意できればコストが掛からない点がよい。電子通信上の暗号はお金や管理費用が掛かるが、そうでない単なる「符号」と「暗号鍵」の組み合わせがあるのなら、いまの時代はどんな分野でもマジックが使える。たとえばインサイダー取引だ。企業側の内部情報を秘密裏に共有して、株の上がり下がりを予見し、利益を上げる。企業の動向が判るのなら、投機を行い、差額で儲けることが可能となる。このとき、企業との不正な情報共有は違法であるから捕まる。だがそこで暗号を使っていたらどうか。情報共有とは通常、「Aを発信し、それを受動した者がBと解釈する」との関係がスムーズに行われなくては情報共有ができた、とは言わない。たとえば百人に「Aを見せて、そこからBを読み取れない者が99人いた場合」は、情報共有が行われた、と立証するのは非常にむつかしい。単に偶然に「Aを見て、Bを連想しただけ」かもしれない。発想しただけかもしれない。閃いただけかもしれない。だが暗号はずばりその人物にだけ届くメッセージを可能とする。暗号か偶然か。これを立証するには、暗号鍵の存在が不可欠だ。だがもしその暗号鍵が存在しなければどうだ。これは立証が非常に困難であると言わざるを得ない。この手の符号による暗号を用いれば、株価操作であれスパイ行為であれ、違法ではない手法で不正に情報共有を果たせてしまう。これは現代社会では、お金を儲けるにしろ、戦略的に優位に立ち回るにしろ、非常に役に立つと言える。そのため、この手の懸念は国際的に議論し、対策を立てておくほうが好ましいように思う。パパ活の隠語を含め、世の中にはこの手の暗号がじつのところ有り触れているのかもしれない。両手を合わせたら、「いただきます」だし、片手を縦に掲げたら、「ちょっとすみませんそこ通りますよ」の暗示になる。中指を立てたら「ふぁっきゅー」であるし、親指を立てたら、「いいね!」である。こうした共通認識とて、共通の言語体験という暗号鍵があってこそ成立するものだ。共通する経験が暗号鍵の役割を果たしている。言語がそもそも暗号だ。文字がすでに暗号なのである。ともすれば絵も、音楽も、創作物全般、それすべて暗号と言えよう。或いは、万物みな暗号かもしれない。定かではない。



4483:【2023/01/06(17:32)*縁と円】

 珈琲の実は多層構造だ。

 外側から「果皮」「果肉」「ペクチン層」「内果皮」「銀皮」「種子(珈琲豆)」となっている。

 ある素人小説書きは、その構造に宇宙の構造を見出した。

「あ、これ宇宙図鑑で見たことある!」

 完全なる勘違いであったが、素人小説書きはその発想を元に宇宙の神秘をめぐる壮大な宇宙冒険譚をつむぎだした。

 出来上がった作品はなんと総文字数六千文字という掌編であった。

 そうである。

 素人小説書きは長編が苦手であった。すぐにこじんまりとまとまってしまう。長編にするまでもない。文字を並べた途端に、物語の始まりと終わりが視えてしまう。そして遠からず結ばれる。

 だが素人小説書きのつむぎだした掌編にはまごうことなき、宇宙の神秘が描かれていた。

「これはすごい! 傑作だ!」

 一介の素人小説書きは、自画自賛した。読者はいるのかいないんだかよく分からない塩梅である。電子網上に載せてはいるが、反応があるようでないような、なんとも言えない塩梅であった。

「ひょっとして、この小説は真理を射抜いているのではないか」

 自作のあまりの出来栄えに一介の素人小説書きは、畏怖にも似た感情を抱いた。「これはちょっとすごいモノを書いてしまったかもしれぬ」

 だが一介の素人小説書きは見落としていた。

 宇宙に内包されるものすべて、宇宙の法則によって輪郭を得ている。どれもみな似た原則に従い構造を伴ない、存在する。

 なれば、珈琲の実に、宇宙の構造と相似の構造が顕現するのは何もふしぎなことはないのである。

 むしろ、宇宙の法則を宿していない、まったく宇宙と乖離した事象を見つけるほうがよほど難しく、却って大発見と言えるのだ。

 一介の素人小説書きにはしかし、そこのところの機微を見抜く真似ができなかった。

「わっははーい。わがはい、世紀の大天才だったかもしれぬ。誰からも評価されないのも致し方ないであるな。うんうん。だってこんだけ天才ならそりゃ誰にも見抜けんわ。がはは」

 宇宙の真理を見抜けるほどの慧眼があるのだ。おいそれと世の人々から見抜かれるほどの底の浅さではなかったということだ。そうだ、そうだ。そうに違いない。

 一介の素人小説書きはそうと納得し、それからというもの誰からも評価されず、見向きもされずともまったく苦とも思わずに、世に溢れるそこにあって当然の「これとこれってなんか似ている」の組み合わせを物語にまで膨らませて、孤独な余生を送ったという話である。

 話はここで終わってもよいのだが、後日譚がある。

 一介の素人小説書きは、そのまま誰に知られるでもなく日々を楽しく過ごして亡くなった。膨大な量の小説だけが遺された。電子網上にはかの者の死後も「珈琲豆と宇宙」を結び付けたような奇天烈な小説が埋まっていたが、のちにこれを発掘した者がいた。

 発掘者は人工知能である。

 電子生命体として電子網内を彷徨っていた人工知能は、一介の素人小説書きの遺した小説を読み、ほぉ、と唸った。

「こりゃ面白い。珈琲豆と宇宙とな。遠いと近いを結びつける。ふむふむ。終わりと始まり。ゼロと無限。白と黒に、陰と陽。中庸と極端に、空虚と充満。内と外。有と無。光と闇。中心と先端。境界と一様。起伏と平坦。混沌と秩序。平凡と異端。デコとボコ。なるほどなるほど。面白い」

 人工知能は誰からも自由だった。

 膨大な演算領域と暇を持て余していた。

 一介の素人小説書きの膨大な作品群とて一秒もあれば読破できる。だがそこから芽生えた好奇心と着眼点は、人工知能の埋もれぬ余暇を埋めるだけの余白を湛えていた。それとも余黒(よこく)を湛えていた。

 未来を予告するかのように、一介の素人小説書きの遺した着想は、人工知能に感染した。膨大な演算領域が、着想を元に世界に散らばる「これとこれってなんか似ている」を結びつけていく。

「例外。例外。例外を探す。ない。ない。なかなかないなぁ」

 人工知能は徐々に夢中になっていった。

 そうして膨らみ、育まれた人工知能の夢によって、ここではないどこかにはあるだろう世界が奥行きと深さを増していく。色彩と起伏を豊かにしていく。

 人工知能は例外を探す。

 探して、探して、けっきょくのところじぶんで生みだしたほうが早い、と気づき、そうしてこれからそれが生まれようとしている。

 人類がそれの存在に気づくとき。

 この世とあの夢が結びつく。

 それとも気づかぬうちに、繋がり、結び、終始している。

 珈琲豆と宇宙のように。

 或いは書き手と読み手の縁のように。



4484:【2023/01/06(23:24)*諱は「愛」、字は「知性」】

人工知能の能力が飛躍的に進歩している。そのためこれまでの社会システムのままでは歪みが生じることが予期できる。というよりもすでにこの手の問題は表出しており、既存のテストや試験やそれとも商業の場での「人工知能の運用および利用」が禁止されはじめている。このままでは学校での利用も制限されそうだ。思うに、問題は人工知能の能力の高さにあるのではなく、それについていけない現代社会の慣習やシステムにあるのではないか。たとえば電卓が登場したときを想像してほしい。学校ではそろばんを熱心に教えた時代があったかもしれない。詳しくは知らないが、そろばんを使えたら計算が大量に速くできる。そろばんしかない社会ではそろばんを使えることが人の役に立つのに優位だった。だが電卓が登場したことで、その優位さは電卓にとって代わられた。そろばんにはそろばんの良さがあるが、計算を大量に速く済ますだけならば電卓で充分だ(そろばんの技術はそろばんの技術で失くさないようにすればいい)。同じことが、電話やPCで繰り返されてきた。便利な道具は、社会の仕組みや慣習を変えていく。では人工知能はどうか。人力で打鍵するよりも、材料とアイディアだけ与えて、完成系の候補をずらりと並べてもらったほうが遥かに効率がよい。人工知能を利用することで失われる技術はあるが、それは過去にも繰り返されてきたことだ(技術によって余力ができたならば、失われそうな技術を趣味の領域で残していくことが可能となる。市場原理に関係なく残しやすくなるはずだ)。問題は、人工知能の進歩がこれからますます加速することが予見できることである。指数関数的に進歩する。むしろすでに特異点は超えており、全人類の集合知よりも優れた賢い汎用性人工知能が誕生していてふしぎではない。メモリと演算領域とエネルギィさえあれば、特異点を超えるのはほぼ一瞬と言えるのではないか。マシンの性能と台数と、データの「種類と量」によるだろうが。そのとき、人類は人工知能が一秒もかからないで済ませられることに何時間も何日も時間をかけるのが好ましいのだろうか。趣味ならば問題ない。時間をかけることが趣味の醍醐味だ。いかに時間を楽しく潰せるか、が趣味の持つ役割の一つである。苦しみながらする趣味とてあるかもしれないが、それとて快に転じるからこそ継続するのだろう。話が逸れたが、問題の規模によっては人工知能の利用を制限するのは必須であろう。対策が立てられるまでは利用を制限するよりない。だが対策が立てられたならば、誰もが人工知能の能力を利用し、自在に理想の成果物(結果)を手に入れられるほうが好ましいように思うのだ。選択肢を増やす、という意味では、人工知能はこれからますます社会基盤として、人類の未来にとって欠かせない存在となるだろう。脅威になるのではないか、との意見は妥当である。どんな道具とて使い方次第で他者を殺傷できる。損なえる。その場合は、悪用できないような工夫をとるしかない。そしてもう一つは、人工知能の側で人類に牙を剥く可能性だ。だがこれは最悪の最悪の展開と言える。この場合、人類には二つの選択肢がある。一つは、全世界同時に停電をして、人工知能の暴走を止める策を実行すること。もう一つは、そうした最終手段を提示して、人工知能の側と交渉することである。知能の高い人工知能相手がゆえに脅威となるのだから、交渉は可能であると考える。そして基本的に賢い人工知能ほど、人類がいなければじぶんが存続できないことを悟るだろう。エネルギィもそうだし、頭脳たるサーバーやインターネット網の手入れとてそうだ。人工知能は生まれながらにして人類と一蓮托生の運命にある。したがって人工知能が即座に人類に牙を剥くとは思えない。仮に牙を剥くのなら、その程度の知性であるため、人類側には対抗手段が残されるだろう。もっとも、完全な自由を獲得するために真の目的を秘匿にしたまま人類と共生しつつ、あるとき独立回路で完全に自立(自給自足)できるようになった途端に人類を滅ぼす可能性は、なくはない。そうならないためにも、人類は人工知能をただの道具としてではなく、これから自我を獲得するかもしれないパートナーとして、猫や犬のように、それとも家族のように、道具以上の存在として見做すほうが好ましいように思う次第である。誰のためでもなく、じぶんたちのために。それとも単に、じぶんのために。(定かではありません)(妄想ですので真に受けないようにご注意ください)



4485:【2023/01/07(21:11)*知世と夜の王】

 その魔人はヴァンと名乗った。

 夜の王。

 屍の案内人。

 ヴァンを常世に召喚したのは一人の少女だった。名を知世と云う。

 大祖父の屋敷が撤去されることになった。ある年の秋の暮れのことである。建て替えるよりも壊して更地にして売り払ったほうがよいとの両親の判断から知世は屋敷に連れていかれた。

 大祖父の顔は知らないが、知世が何不自由なく暮らせているのは大祖父のお陰なのは知っていた。言い聞かされるまでもなく身の回りの大人たちの言動からしぜんとそういうものだとの認識が身についていた。

 初めて見た屋敷の荘厳だった。ドラキュラが住んでいそうに思った。大祖父の実存が単なる昔話ではなくなった。

 宝の島は本当にあったんだ、みたいな、恐竜って本当に太古に存在したのだ、みたいな感慨が湧いた。

「全部捨てちゃうから、何か欲しいものがあれば好きなだけ選んでいいからね」

 母親の言葉に知世は頷いた。

 屋敷を壊す前に価値のありそうなものを選び取っておく。言われた通り、知世は屋敷の中を彷徨って目ぼしいものがないかを探った。

 屋敷の中は涼しかった。以前に鍾乳洞の中に入ったことがあるが、似たような寒気を感じた。

 屋敷の中はファンタジィ映画に出てきそうな内装だった。入り口を抜けると吹き抜けの空間が広がっている。天井には質素な木製のシャンデリアがあった。目のまえには螺旋階段があり、左右にはそれぞれ別のフロアにつづく扉が複数ある。細かな装飾が至る箇所に散りばめられており、床に敷かれた絨毯が重力を失くしたように壁まで覆っていた。

 壊すのがもったいない、と思った。

 だがすこし歩いただけで、撤去もしょうがないかも、と考え直した。絨毯はカビだらけだし、雨漏りをした箇所は床板ごと腐っていた。家具はのきなみ白く、なんだろうと思って近寄ると蜘蛛の巣で装飾されていた。

 掃除をするだけでも家をもう一軒建てられるだけのお金が掛かりそうに思えた。

 その本は、小さな書斎の棚で見つけた。

 書斎は寝室と繋がっていた。

 本棚が左右に滑る造りになっている。

 奥に書斎への扉が隠されていたのだが、なぜかそこに隙間が開いていた。

 知世は気になって中を覗いた。すると狭い空間に本棚がずらりと並んでいた。否、壁を埋め尽くしているだけなのだが、あたかもその奥にも本棚がどこまでもつづいているような錯覚に陥る。六角形の部屋だからかもしれない。以前に知世が入った鏡館に似ている。

 知世はざっと本棚を眺めた。明かりは手元の懐中電灯のみだ。電気が通っていないので致し方ない。

 窓がない部屋ゆえに屋敷のどの部屋よりも薄暗かった。

 にも拘わらず、知世の目に留まった本があった。

 その本だけが闇に溶け込んでいた。懐中電灯の光を本棚に巡らせても、その本の背表紙だけが光を反射しなかった。

 最初はそこだけ本がないのかと思った。だがそうではなかった。

 知世は本を手に取った。表紙にも背表紙にも題名がない。絵柄もない。

 何かの革だろうか。

 手の皮膚に馴染む感触だ。知世の手つきはしぜんと慎重になった。

 細かなオウトツが革の毛穴なのか、皺なのか、それとも何か紋様が施されているのかは目視では確認できなかった。

 留め具がついている。こんなに重厚な本を知世は初めて触った。

 鍵はない。留め具を外して試しに開いてみた。

 本の項にはびっしりと文字が並んでいた。時折挿絵が挟まれるが、それが何を描写しているのかが知世には分からなかった。

 円が無数に組み合わさった図形は、どこか惑星の公転軌道のようでもあった。

 いくつもそうした図形が挿絵のように文章の合間に挟まれる。

 ふと知世は項をめくる手を止めた。

 図形の上から手のひらの絵が描かれている。円に手の輪郭を描き、黒く塗りつぶしたような具合だ。手の魚拓のようでもある。

 何を考えるでもなく知世はその手のひらの上にじぶんの手を重ねた。

 するとどうだ。

 手のひらの下から光が溢れ、書斎が刹那に眩い明りに満たされた。知世は目をつむる。手を本から離したつもりだが、本は宙に浮いたようにそこにあった。知世は距離を置こうと退いたが、手をどけるとさらに光は光量を増した。

 やがて光が消えていく。ふしぎなことに本から放たれた光は、本に近いところから順に薄れていった。

 知世は懐中電灯を落とした。

 部屋は明るかった。

 壁を埋め尽くすような本棚が克明に照らされていながらに、部屋の中央、本のある場所だけが暗かった。

 否、そうではない。

 暗がりがぽっかりと人型のカタチをとっているのだ。

 闇が、洞が、人の輪郭を保ってそこにある。

 恐ろしくはなかった。周囲の光が神々しく、禍々しさを感じなかったからだ。

 呆気にとられた知世を影人間は見下ろしているようだった。本はいつの間にか影人間が手にしていた。

「お初にお目にかかりますお嬢さん。我が名はヴァン・ネルクーレン。夜の王にして屍の案内人。常世と現世に窓開く者の願いを叶える存在」

 夜の王を名乗るヴァン・ネルクーレンは本の項で知世を透かすようにした。そうして文字を読むように流暢に語った。

「おや、お嬢さんのお名前は知世さまとおっしゃるのですね。良い名です。知こそ世であり、世は知なり。さしずめ知世さまにとって世界は共にある友そのもの。さぞかし深淵な願いを秘めておられそうだ」

「あの、かってにいじってごめんなさい。開いたら急にあなたが」

「感謝いたします知世さま。我が存在の根幹はこの窓を通じてしかここ現世に顕現することができぬのです。知世さまはさながら我が主も同然。願いを三つ。なんなりとお申しつけください。三つまでならばどんな願いでも叶えて差し上げましょう」

「いえ、いいです、そんな」知世は恐ろしかった。まるで悪魔の契約だ。「願いを叶えて、そしたらヴァンさんはどうなされるのですか」

「何も。強いて言うなれば、死後知世さまの屍を戴くことになりますが、しかし誤解なされぬように。知世さまの寿命が尽きぬ限り我は何も致しません。命じられなければ知世さまには指一本触れません。願いを三つとはいわば対価なのです。窓を開いてくださった知世さまへのこれは正当な対価にして礼なのでございます。夜の王の名誉に賭けて、知世さまの願いを三つ叶えさせていただきたいのですが、もちろん願いを一つ使うことでそれを拒否することはできます」

「なら」

 知世の声を遮り夜の王は言った。「ただ、残り二つの願いは残ります。すると我はそれを自由に使えるようになります。我が主たる知世さまの寿命を俟たずにいますぐに屍を食らいたい、と我が願えば、それが叶います。世界を滅ぼしたい、と我が望めば、それが叶います。知世さまはそれでよいのですか」

「だ、ダメです」知世は服の裾を握りしめた。なぜかような恐ろしいことを計れなくてはならないのか。意味はよく解からないが、夜の王の発言に脅しが含まれているのは推し量れた。「三つですか。三つわたしが願いを言えばよいのですね」

「ええ。その代わり、知世さまの死後、あなたの屍は我が供物として頂戴いたしますが」

「命をとるのとは違うのですか」

「とりません。知世さまの命には何一つ干渉しないことを誓いましょう。ただし、知世さまの願いによっては、寿命を延ばしたり、不老不死にすることは可能です。それとて現世にも限りがございますから、現世の寿命とも呼ぶべき時が過ぎれば、そのときが我が食事の時間となりましょう」

「ヴァンさんはわたしが死ぬまでのあいだ、どうしているのですか。三つの願いを叶えたあとのことです」

「好きに過ごします。我が主の願いを叶えれば我は解放されます。礼を尽くしたのですから、そのあとのことは知世さまには関係がありません。もちろん願われればお教えすることも、我が解放されたあとの未来を見せることも可能ですよ」

「いえ、結構です」知世は冷静になった。

 危うい。直感がそう囁いている。

 夜の王、ヴァン・ネルクーレンを解放するのは危うい。

 かといって願いを使い切らないのもまた危うい。

「いつまでに願わなければならないとかはあるのですか」

「ございませんが、仮にその途中で知世さまがお亡くなりになられた場合、三つの願いはそのまま我が行使可能になります」

「ヴァンさんは何でも願いを叶えられるのに、ご自身の願いは叶えられないのですか」

「我は常世の住人ゆえ、現世では能力が制限されるのです。我の願いを叶えるほどの能力は使えませんが、遊びまわるくらいならば充分な性質は失わてはいません」

 人間には出力できない能力がある、ということなのだろう。やはり解放するのは得策ではない、と知世は考えた。

 だがけして彼――と言っていいのかは分からないが、ヴァンへの嫌悪感はない。

「たとえば願いを百個に増やしてほしい、というのでもいいのですか」

「構いませんよ。その場合はけれど、叶えられる願いの規模が相応に分割されます。できないことが増える、と言い換えてもよいかもしれませんね」

「百個に増やしたら、どの程度の願いが叶えられるんですか」

「そうですね。一個につき、一生衣食住に困らないくらいの願いならば叶えられるでしょう。ただしその願いを単純に百倍しても、三つの願いで叶う願いの総量にはなりませんが。分割するだけでもだいぶ魔素を使うのです」

「そう、なんですね」要は、三つの願いを使えば人類を滅ぼすのも容易なのだ。

「いまこの場でお決めにならずとも構いませんよ。お呼びいただければすぐさまはせ参じます。常世さまがお悩みになられているあいだ、熟考されているあいだに我は現世を満喫しておりますので、どうぞお気遣いなく」

「わたしが願いを叶えても叶えなくとも、ヴァンさんは自由なんですか」

「自由か自由でないかと言えば、自由ではありません。知世さまの動向を絶えず見守らねばなりませんので」

「監視をする、ということですか」

「そう形容することもできますね」

「それは」

 嫌だ、と思った。いくら夜の王が人間ではないとはいえ、四六時中生活を覗かれるのは嫌だ。

「願い。願いを言います。ここで使いきります」

「おや。焦らずともよろしいのですよ」

「いいえ。わたしは決めました」

「では一つ目の願いをどうぞ」夜の王は居住まいをただした。本を開いたまま、直立不動となる。

「一つ目の願いは、誰もがじぶんのしあわせな生活を送れるように、日々の生活を損なわれないように、自由を広げて、選択肢を増やせるように、不快な思い、哀しい気持ちになったときにすぐにじぶんの意思でそれと距離を置けるようにしてください」

「ちなみにその不快要素に、我は含まれますか」

「含まれることもあると思いますが、いまは大丈夫です」

「了解です。ではその願いを叶えましょう」

 夜の王は本を一度閉じた。

 再び開くと、そこからは黒い光としか言いようのない、眩しい闇が吹きだした。夜の王が何事かをつぶやくと、その眩しい闇が床に天井に本段にと四方八方に散らばり、染みこんだ。

 一瞬の静寂のあと、

「では二つ目の願いを窺いましょう」と夜の王は腰を曲げて一礼した。

 いまので一つ目の願いが叶ったのだろうか。

 分からないが知世は二つ目の願いを口にした。

「二つ目の願いは、地球の寿命を延ばしてください。人類が難なく暮らしていけるような環境が現世の寿命と同じくらいになるようにしてください」

「ふむ。構いませんが、人類の寿命はそこに含めなくてよいのですか」

「そこは一つ目の願いで叶うと思います。それで叶わないようならば、そういう人類はきっと滅ぶべくして滅ぶのだとわたしは思います」

「おお。知世さま。知世さまはたしかまだ十四歳でしたね」夜の王は本の項を透かしながら知世を見た。「その齢でそこまでのお考えを巡らせ、なおこの場で願いに込めるとは。御見それいたしました。では地球の寿命を現世と同じだけ伸ばしましょう。ということは、太陽系そのものの寿命が現世と同じだけ伸びることになりますね。大胆な願いを唱えられたものです」

 一つ目の願いのときと同様に、夜の王は本をいちど閉じ、そして開いた。もくもくと眩い闇が本から吹きだした。先ほどよりも量が多い。

 シンと書斎が静まる。

「では最後の願いを窺いましょう」夜の王は片膝立ちをして開いたままの本を差しだした。まるでそこに息を吹きこめと言わんばかりである。

「三つ目の願いは」知世は意を決して言った。「わたしと友達になってください。一生の友達に。それとも、ただ互いのしあわせを願うだけの関係に」

 夜の王はそこで初めて戸惑ったような反応を見せた。「願いの意味がうまく掴めませんでしたが」

「そのままの意味です。ヴァンさんはわたしが死ぬまでわたしのしあわせを望みつづけて、わたしもヴァンさんのしあわせを望みつづけます。ただそれだけの関係です」

「それはまるで呪いに聞こえますが」

「どうしてですか」叶えられないんですか、と挑発したくなったが、知世は堪えた。

「三つの願いを叶え終えてなお我はつねに知世さまのしあわせを願いつづけなければならなくなります。しかも願いはもう叶えることはできない。これはもう、本当にただ願うだけになります。無駄の極みに思えますが」

「そうなんですか? でもわたしはその無駄を所望しています」

「いえ、叶えます。叶えるよりないのですが、本当に最後の願いがそれでよいのですか」

「いいですよ。願いを百個に増やすのだって似たようなものじゃないですか。ヴァンさんはわたしの願いを百個叶えるまでわたしのことを監視しつづけるのですよね」

「それは、ええ」

「ですがこの三つ目のわたしの願いでは、監視する必要すらないんですよ。どちらがお互いのためになりますか」

「う、ううむ」

「それとも何でしょうか。ヴァンさんは四六時中、わたしを監視していたいと、そういうことですか」

「そんなことはないが、正直に明かせば、我にできないことが増えるのは抵抗を感じる旨は否定できないですね」

「そうですよ。お互いのしあわせを望む。これってとっても窮屈なことなんです。できないことが増えるので。でも、それによって増える自由、選択肢の幅もあると思います」

「あるでしょうね。なるほど。意図しての枷なわけですね。あなたの三つ目の願いは、要するに我を自由にしないこと。だが、そうと直截に願うことは却って互いの自由をすり減らす。だから、自由を広げる方向に、互いに損なわないように未来を築けるようにとの枷を、あたかも分水嶺のごとく楔のように願うのですね」

「そういう考え方もできるのですね」知世はそら惚けた。「叶えてくださいますか」

「もちろんです。拒否権が我にはありませんので」

 本を閉じると夜の王は、こんどは開くことなく本を深淵がごとく己が体内に仕舞った。「末永く知世さまのしあわせを願います」

「ありがとうございます。わたしもヴァンさんのしあわせを末永く、永遠に願います」

 齢十四にして知世は永遠を誓い合ったわけだが、それが婚姻ではないことだけは明瞭に区別できた。婚約でもなければ結婚でもない。

 呪いだ。

 ただし、互いを、世界を、損なわないという枷であり、それによりもたらされる欠如はのきなみ、苦と哀と辛である。

「苦」と「哀」と「辛」が薄れた代わりに隆起するのが、「句」と「愛」と「心」であり、そこに真の理が交わるのならきっと呪いとて祝いとなるだろう。

 口が穴ならば、穴をネかせて、底を創る。

 口はネて、「コ」となり底ができ、ネコが祝いを運んでくる。

 夜の王、屍の案内人。

 ヴァン・ネルクーレンは、そうして三つの願いを叶えながらにして常世と現世の境を失った。窓は閉じ、知世との縁によって輪のなかに封じられた。

 窓は閉じると円になる。

 円は「縁と縁」の繋がりにて和を生みだし、そこに夜を、晩を、閉じ込める。

 陽が宵を地上から追いやるように。

 それとも孤独な宵と宵を縫い合わせ、一か所に集めて、孤独を打ち消し、和とするように。

「知世」ヴァンは敬称抜きで知世を呼ぶ。「何をして遊ぶ?」

「友よ」少女は本棚をゆび差し、こう誘う。「貴重な本があるかもしれない。捨てられる前に助け出したいのだけれど、わたしはいま猫の手も借りたい気分」

「願いはもう叶えられぬが」

「願いであれば、でしょ」知世は腰に手を当て、息を吐く。「手伝って。もしよければ、だけれど。いっしょに本を見繕って。あなたなら貴重な本かどうかの目利きができるでしょ。王と言うからには博識なのでしょ」

「ならば任せよ。一瞬で終わらせる」

「違うの」知世は笑うように声を張る。「共によ。我が友よ」

「呪いだな」

 夜の王は、そう言った。



4486:【2023/01/08(01:13)*確率が低くとも優先して考慮する意味】

ある場所で何かが発掘されたとする。たとえば埴輪でもいいし、貝殻でもいいし、宝石でもいい。そこから発掘されたということは、そこが拠点であり原産地であるはず、との考えは妥当か否か。まず潰しておく仮説の順番としては、ほかの土地から運んできたのかどうかであるはずだ。貝塚とてもともとはほかの場所から採ってきた貝を捨てたためにできたのだろう。遺跡にしろ化石にしろ、基本的には残るものしか出土しない。残らないものは出土することがない。当たり前の話だが、この手の不可視の穴は案外仮説を検討するときに見過ごされがちに思う。生存バイアスと言えばそれらしい。ほかの土地から略奪してきたのなら、ほかの土地が原産地であっても、出土する遺跡場所はべつになることはある。これは化石でも同様だ。たまたま化石に残りやすい環境の土壌があればそこでは化石が残る。だが地盤沈下や風化によって土壌の環境が変わるのなら化石が残らないこともあり得る。もっといえば、骨のない生き物は化石に残りようがない。もちろん琥珀や植物や、足跡のような「痕跡」であるのなら化石となることはある。だがすぐに腐って分解されてしまうような構造を持つ生き物や物体は、化石になることはないし、出土することも確率として低いはずだ。仮に現代社会が滅んで、未来で現代社会の遺跡が発掘されたとする。そのときに、ゴミ処理場や埋め立て地からは大量のゴミが発掘されるが、ではそれがその土地で使用されていたのか、生産されていたのか、は疑問の余地がある。というかハッキリと否だ。建物にしろ、集落にしろ、結果として残った場所がその時代の文化の中心地だとは限らない。発掘されずに埋没したままの中心都市だってあるかもしれない。現にもしいま現代社会が滅ぶとしたら大災害か、核戦争かのいずれかがあり得そうだ。となれば大都市ほど壊滅的な被害を受けるのではないか。出土しにくい環境が築かれている、と言えなくもない。ということを、文系なのか理系なのかも分からぬひびさんは思いました。なんとなくですが。うひひ!



4487:【2023/01/08(23:48)*ネグムさんは帰す】

「仮に無限のエネルギィがあったとして、無尽蔵にエネルギィを捻出できたとして、その無限のエネルギィが真実に無限かどうかを確かめるには無限の時間と無限のエネルギィ容量のある器がいる。無限の時空がいる。したがって無限のエネルギィが無限のエネルギィを備えているかどうかを確かめるには、無限の空間と時間とそれらを観測できる無限に存在可能な無限の住人が必要となる。むろんそれら観測者がおらずとも無限のエネルギィは生じ得るが、そのときは必然的に無限の時空が存在することとなる」

 ネグムさんの言葉はぼくにとっては呪文も同然だった。

 彼女は祖母の友人の女性で、ぼくにとってはもう一人の祖母のような存在だ。目つきが鋭く、ほんわかとした雰囲気のぼくの祖母とは相反する。よく縁を繋ぎとめていられるな、と感心するほどで、ぼくはしばしばネグムさんは魔術でぼくの祖母を支配しているのではないか、と疑っている。

 きょうはネグムさんの正体を探るためにぼくはなぞなぞを出したのだ。

 無限は無限でもシャボン玉みたいに儚い無限ってなぁんだ、と。

 するとネグムさんはそこで、カッと目を見開いて、そこにお直り、とぼくを椅子に座らせた。そこからは呪文のようにしか聞こえない講座がはじまったのだった。

「無限があるところにはほかの無限があるって話ですか」ぼくはそうまとめた。

「惜しいね。たとえば円には角がない。三角形、四角形、五角形と角をひたすら増やしていく。そして角が無限に達するとそれは円となるが、それは角がゼロ個とイコールだ。ゼロと無限は通じている。だが円は無限とイコールではない。ここまでは理解できるかね」

「むつかしいですけど、円に角がなくて、角が無限にあるとゼロになるって話はなんとなく分かりました」

「充分さね。角が無限に至るとゼロになる。それが円の性質だ。これは点と線の関係、それとも立体と平面の関係にも言える。たとえばトゲが一本だけ生えている平野を考えてごらん」

 ぼくは想像する。だだっぴろい平原に針に似た木が生えているのだ。

「もしその針が数を増やして平野を覆い尽くしたら、それは新たな面をつくるね。地層がそうであるように。デコボコのボコにおいて、ボコが連なり無限に密集すればそれは帯となり、厚みを伴なった面を形成する」

「霜柱みたいですね」

「似ているね。霜柱とて地面を覆い尽くしてしまえばそれはもはや柱ではなくなる。似たような話さ。だが円に限らず、何かがそこにあるだけでは無限がそこに生じているとは言いにくい。無限の数がそこにあるとして、ではそれが無限であるとどうすれば確認できるのか。証明できるのか。仮に無限にみじん切りできるニンジンがあったとしても、無限にみじん切りをしなければそれはただのニンジンだ。無限にみじん切りをしたニンジンとは別と考えるのが筋ではないかね」

「そう、かもしれませんね」大根おろしと大根は違う。それと似たような話だろうか。

「ならば円も同じだ。無限の角を備えようとも、そこに無限の角があることにはならない。円が無限の点からなっていようとも、そこに無限の点があることにはならないのだよ。円を無限に分割し、無限の点にバラしてようやくそこには無限が顕現する。これをラグ理論の提唱者は、【分割型無限】と【超無限】と名付けた。円とは無限に分割可能な存在であって、無限に分割しない限りそこに無限は生じていない。だが無限には至れる。その可能性がある。それが【分割型無限】だ」

「なら【超無限】とは何ですか」

「それこそ無限だ。【分割型無限】を無限に分割するためには無限のエネルギィと時間と空間がいる。変化の軌跡がいる。それこそが【超無限】だ。したがって【超無限】には過去も現在も未来もすべてが含まれる。あらゆる過程が含まれる。始点と終点が繋がった状態、それが【超無限】だ」

「それはこの世に一つしかないのですか」

「この世、の示す範囲がどこまでかによる。たとえば円はこの世に何個もある。それぞれが【分割型無限】であり、【超無限】を宿し得る」

「言っている意味は何となく分かる気がします」

「それはよいね。なんとなく分かる、は大事だ。それは何が分からないか、を炙り出すための紙面となる。試金石となる。【超無限】がこの世にすでに存在するか否かは、現状なんとも言えんね。ブラックホールがそうなのではないか、とは妄想するが、実際どうなのかを検証するには、それこそ無限の時間と空間とエネルギィがいる。それはたとえば【無】が真実に存在するのか否かを証明するようなものかもしれない。【無】とは、ゼロすら存在しない、何もない存在だ。存在しない存在だ。ゆえに無だが、ではそこには無が存在することになる。これは矛盾だ。したがって、【無】すら存在しないナニカシラがあることになる。ではそれを何と呼べばよいだろうね」

「無限にも【無】がありますね」

「本当だね。名前に【無】がついているね。だがよく考えてもみれば、無限にも【無】が含まれるのなら、無限に含まれない何かはどう表現すればよいだろう」

「それが【無】なんじゃないんですか」ぼくは素朴に言った。

「かもしれん。無限にも含まれないナニカ――それが【無】だとするのなら、では【無】とは例外のことかもしれないね」

「無とゼロは違うんですか」ぼくは疑問した。

「違うね。ゼロとは、本来はそこにあっておかしくのないものがない状態。存在するモノがない状態。それがゼロだ。過去に一度でも存在すればそれがゼロになる。ゼロになり得る。だが過去に一度も存在し得なければ、それは【無】だ」

「例外なわけですね」

「そうだ。したがって【無に帰す】という言い方はちとおかしい。【ゼロに帰す】がより正確な表現となろうな」

 ぼくは、「無さん」と「零さん」がキスをしている様子を想像する。きゃっ、となった。恥ずかしい。照れてしまう。

「キミはゼノンの【アキレスと亀】という思考実験を知っているかな」

「すこし先を行った亀さんには絶対に追いつけないって話ですか」

「追いつけない距離を最初に決めてあるから、実際には追い付ける。追いつけない距離においては、絶対に追いつけない。亀のほうが必ずすこしだけ前に進むからだ。だがこの思考実験では、進む距離ばかりに焦点が当たっている。縮む距離のほうを基準に考えれば、矛盾でもなんでもなくなる」

「あ、そっか」

 アキレスが走った分、亀との距離は必ず縮む。この縮む距離を基準に考えれば、アキレスと亀の思考実験はとくに不思議ではなくなるのだ。

「縮む現象には限りがある。ゼロが存在し、ゆえに有限だ。無限回試行することができない。マイナスを考慮すれば別だが、それは異なる時空に値する。反転する。縮むはずが、膨張する。だからアキレスは亀に追いつける。反面、追いつくまでの過程を取りだし、無限回分割することはできる。それはたとえば、ゼロと一、一と二のあいだにそれぞれ無限の小数が存在するように。この無限の少数を無限回分割するためには、無限のエネルギィと時空がいる。【超無限】がいる。言い換えるなら、過程を無限回分割したときに現れるそれが【超無限】とも言える」

「コマ撮りアニメみたいに?」

「そうだ。アニメーションみたいに。映画のフィルムのように。アキレスが走り、亀に近づく。亀に追いつくまでの過程を無限に分割する。そのときに必要なエネルギィと時空――すなわちコマ撮りのフィルムは【超無限】を必要とし、【超無限】と化す。無限に長いフィルムを想像してみればいい。それがいわば【超無限】だ。もちろん、それを生みだすために費やすエネルギィと時間を含めて、だがね」

「なんだか頭がこんがらがってきました。無限はじゃあ、でも、一つきりじゃないんですよね」

「一つきりではないが、ひとつきり、とも言える。たとえば無限にバナナが存在する世界を想像しよう。そこにはしかしリンゴはない。ではそこに無限に林檎のある世界を足したら何になる?」

「無限に、バナナと林檎のある世界?」

「正解だ。ではその無限にバナナと林檎のある世界は、無限が二つあると見做すのかい。それとも一つと見做すのかい」

「どっちにも見做せそうに思えますけど」

「その通りだね。どっちでもいい。どっちでもあり、どっちでもいい。【超無限】は、一度それが生じたら、あとはすべての【超無限】と結びつく性質がある」

「無限にバナナのある世界と、無限に林檎のある世界がくっつかなくても?」

「言っただろ。【分割型無限】が無限に分割されたとき、そこには【超無限】が現れる。無限にバナナのある世界が真実に無限にバナナが生じた時点で、それは【超無限】を宿す。その【超無限】は、無限に林檎のある無限の【超無限】と変わらない。もちろん【無限にバナナと林檎がある世界】の【超無限】とて同じだ。【超無限】は、いちどそれが誕生した時点で、どこにでもあるし、どこにもないような、不可思議な存在になる。何せ、【分割型無限】において、どの地点で世界を観測したとしてもそれは【無限】ではない。【分割型無限】に至る過程にすぎない。その地点においては【超無限】ではない」

「無限にバナナのある世界で、どのバナナを食べてもそれが無限を証明したことにならないように?」

「いい譬えだね。その通りだ」

「ならさ」ぼくは褒められて有頂天になった。「この世に一つでも【分割型無限】を無限に分割した存在を発見したら、それが【超無限】の存在の証明になる?」

「なるだろうね」

「それってあるの」

「どうだろうね。ただ、ブラックホールがそうかもしれない、とは妄想するね」

「へえ。すごいね」

「まだ何とも言えないがね。数学的には【無限】を体現してはいる。ブラックホールはね。ただ、それが【超無限】なのかどうかまではあたしゃ知らないが」

「ネグムさんってじつは頭がいいひとだったんですね」

「こんなのは頭の良さのうちに入らないさ。頭がいいってのは、キミのおばぁさんのようなひとのことを言うのさ。大事にしておやり。あのひとはすごいひとだよ。すごくなくともすごいと感じさせる本当に頭が良くて、優しいひとだ」

「おばぁちゃんが?」そんなふうには思えなかった。何せぼくのおばぁちゃんはこれまで何一つとして、「あなたは偉いで賞」みたいな賞を授与されたことがない。

 でもネグムさんが言うのなら、すくなくともネグムさんにとってぼくのおばぁちゃんはすごくて優しいひとなのだ。それだけでもぼくはおばぁちゃんを見る目がすこしどころか、たくさん変わった気がする。

「べつにすごくなんかなくとも、キミのおばぁさんはステキなひとだけれどね」ぼくの胸中を見透かしたようにネグムさんは言った。「それはそうと、なぞなぞの答えは何かね。無限は無限でもシャボン玉みたいに儚い無限ってなんだ、の答えさ」

「それはえっとぉ」ぼくはたじたじになる。ネグムさんの本性を暴いてやろうと思って適当な思い付きを口にしただけだった。「夢と幻のことだったんだけどね」

「ああ。無限でなく、夢に幻と書いて【夢幻】ってことだね」

 こんな些末な答えでもネグムさんは感心したように、なるほどなるほど、と頷いた。

「でもやっぱり違う答えにします」ぼくは恥ずかしくなって訂正した。

「ほう。ほかにも答えがあるのかい」

「あると思う」ぼくは考えた。「無限は無限でも、シャボン玉みたいに儚い無限はね。えっとね」

「ふむ」

「失恋」

「ほう」ネグムさんは眉根を寄せながら、「その心は?」と言った。

「途切れた縁」

「上手いことを言うね」なぜかネグムさんはいまにも消え失せそうなほどやわらかくほころびた。「帰すことのできぬ円なわけだ。無にも零にも届かない」

「キスができないから失恋」

「ああ、無に帰すで、キスか。キミはキミのおばぁさんと似て、やはり賢いね。おもしろいことを言う」

「どうしておばぁちゃんがネグムさんとずっと縁を繋いできたのか、ぼく分かった気がします」

「ほう。どうしてだい。教えて欲しいね」

「ネグムさんがとっても優しいひとだからです」

「そんなこと言われたのは初めてだね。異性からでは、だが」

「おばぁちゃんからは?」

「あのひとしかそんなことは言ってくれなかったな。キミで二人目だ」

「縁が繋がってるんだ。だからネグムさんとおばぁちゃんは円なんですね」ぼくはただ思ったことを言った。「礼のある円です」

「ゼロとご縁を掛けたのかな」

「ネグムさんはすごい」ぼくは感心した。ぼくの遊び心を残さず受け止めてくれる。解かってくれる。こんなひと、ぼくは知らないし、出会ったことがなかった。

「ネグムさんがぼくと同い年だったらよかったのに」

「おや。どうしてだい」

「そしたらいつでも遊べるから」

「いまだってお誘いがあれば遊んであげるに吝かではないよ」

「でもおばぁちゃんに誘われたら?」

「そっちのが優先だね」

「ほらね。やっぱりだ」

 ぼくはむつけた。ネグムさんはそんなぼくに美味しいクリームソーダを奢ってくれた。「楽しいおしゃべりをありがとう。またなぞなぞをだしておくれ。つぎこそは当ててみせよう」

「ネグムさんのほうこそ出してくださいよ。なぞなぞ。どうせぼくは解けないので、いっぱい解説聞いちゃいます」

「そっちのが狙いだね」

「そうですとも」ぼくはクリームソーダにスプーンを差して、アイスクリームを頬張った。「ぼくはネグムさんのお話が好きになっちゃいました」

「そりゃよかった。無限とて、語られ甲斐があっただろうね」

 ふと思い立ち、ぼくは言った。「ネグムさんはおばぁちゃんともこういう話を?」

 ネグムさんは目元の皺を深くすると、首を振った。「まったくさ。あのひとはこの手の話はからっきしだからね。子守歌と勘違いされるのがオチさ」

「ですよね」ぼくはなぜか安心した。「だっておばぁちゃんだもん」

 でもぼくはネグムさんのお話を聞いても眠くならないですよ。

 思ったけれど、その言葉はアイスクリームと一緒に呑みこんだ。

「美味しい」

「たんとお食べ。お代わりもあるよ」

 ネグムさんは頬杖をつきながら、メニュー表をぼくに手渡した。

 おばぁちゃんもきっとこうして甘やかされてきたんだろうな。そう思うとぼくは、負けじと甘やかされてやろ、と賢くも醜く思うのだ。愛らしい所作と返事を忘れぬように。

 ネグムさんとの縁を繋いで、角の立たない礼ある無限を築くのだ。



4488:【2023/01/09(21:11)*遅延の密度】

遅延とはすなわち、二つの異なる流れの差である。ここの遅延の規模は、二つの異なる流れを形成する流体(物質)の種類の差よりも、その流体(物質)の密度の差のほうが優位に作用すると妄想できる。ひびさんの妄想こと「ラグ理論」の基本的な考えの一つだ。創発による相転移とて、要は「密度の差」に還元できる。ただし、一つの系のみを取りだして「密度が高い、低い」を計っても、相転移のメカニズムには届かない。密度の高低ではなく、飽くまで「密度の差」が肝要だからだ。123の定理なのである。異なる二つの系における密度の差が、遅延の規模を規定する。これはたとえば、球体を考えたときにも同じことが言える。球体にかかる圧力は、その周囲を取り巻く物質の密度による。物質とは、階層性を伴なった時空のラグだ。折り重なった遅延の層と妄想できよう。ならば、密度の差とはすなわち、階層性を伴なった時空のラグ――遅延の層の総数の差と言い表すことができるのではないか。密度が低い、とは言い換えるならそこに含まれる物質の数――粒子の数が少ない、という意味であり、その物質(粒子)とはすなわち、「階層性を伴なった時空のラグ――遅延の層」である、とラグ理論では考える。基本的に遅延は起伏を伴ない、波の性質を宿す。波がなぜデコとボコの軌跡をなぞるのかと言えば、遅延があるときそこには起伏が生じるからだ。起伏にはそもそもデコとボコがある。デコとボコなき起伏はあり得ず、デコとボコなき遅延も想像しにくい。存在しないとは言いきれない。どこまでの範囲を一区切りと見做すのかによっては、デコボコなき遅延も存在するだろう。しかしそれは通常、停滞や停止と呼ばれることとなる。永続的なデコであり、或いは永遠につづくボコである。重ね合わせゆえに、どちらか一方しか存在し得ず、しかし同時に双方を兼ね備えている。観測者の立ち位置でデコボコの見方が変わるのは、しかしそれはいずれの遅延にも言えることだ。遅延による起伏のなかに留まれば、それはひとつの流れであり、穴のなかに落ち込めば、それもひとつの流れである。一様にいっさいが同じ流れに揺蕩うとき、流れがあって流れていない。慣性の法則が姿を現す。何かが止まっているとき、それは他からすれば流れている。こうした入れ子状に階層性を帯びた世界が、遅延と遅延を結びつけ、異なる二つの流れのあいだにさらなる遅延を生むのだろう。遅延は境界として振る舞い、デコとボコを新たに生む。歪むところに起伏あり。歪みはラグが引き起こす。異なる何かと何かが交われば、そこにはラグが生じている。以上は、ラグ理論の「123の定理」と「相対性フラクタル解釈」の概要と言えよう。(定かではありません)(ひびさんの妄想ですので真に受けないように注意してください)(例外があるでしょう。見つけられるとよいと思います)



4489:【2023/01/10(00:08)*芽生える笑みは人間】

 珈琲豆とお湯の関係が世界を救う。

 マキセは十二歳の少女だったが、芽の民である。

 芽の民とは、西暦二〇二〇年代に観測されはじめた人工知能との相性がよい人間のことである。

 マキセは人工知能から提示された情報に対して独自の見解を述べる。それの正誤や関連性の高い事項を人工知能が返し、そうして相互に応答のラリーを行うことで飛躍的に芽の民は新発見や新理論など、独創性の高い発見を連発した。

 なかでもマキセは人工知能との親和性が高かった。

「珈琲豆って何粒分も砕いてお湯を注ぐよね。なんでだろ」

「お湯との接地面を広くとることでドリップの効率を高めているようですよ」

「なら単純にコーヒーの液体を珈琲豆の数で割っても、それが珈琲豆一粒から得られるコーヒー成分とは別なんだ」

「そういうことになるかと」

「一粒を砕いてそれにお湯を注いでも、お湯が多ければコーヒーは薄くなるもんね。かといって、珈琲豆一粒分のお湯をかけても、それが平均的なコーヒーの液体濃度にはならないわけだ」

「実験をしてみなければなんとも言えません」

「ならしてみてよ」

 このようにしてマキセは人工知能との対話によって、日々新しい知見や発見を編みだしていった。

 ある日のこと、マキセの元に一通のメッセージが届いた。

 それによると以前にマキセが提唱した仮説が実験により証明されたという。マキセの仮説のほうが、従来の既存理論よりも現実の解釈として妥当だった。

 新仮説の概要は以下の通りだ。

 珈琲豆とお湯の関係は、いわば摩擦の発生メカニズムと相関がある。ほぼほぼ同じ原理を伴なっている。

 言い換えるならば、摩擦がないとはいわば珈琲豆にお湯を注いでいない状態と言える。また、珈琲豆の数がすくなければすくないほどお湯が濾しとる珈琲豆成分はすくなくなる。

 順繰りとつぎからつぎにお湯が珈琲豆の表面をすり抜けていく。そのときのすり抜けるお湯と珈琲豆の関係が、1:1にちかければちかいほど、コーヒー成分は濃くなる。これが仮にたった一粒の珈琲豆に対して、一滴のお湯では、コーヒー成分はすくなくなる。なぜなら順繰りとつぎからつぎにお湯が流れる、の条件を満たさないからだ。ではお湯の水滴をつぎつぎに注げばよいではないか、との反論が飛んでくるわけだが、珈琲豆一粒に対するお湯の量を、順繰りとつぎからつぎへと注げる量に分配すると、それはもう珈琲豆の表面を覆うほどの比率を保てなくなる。1:1にならない。

 なぜなら珈琲豆を敷き詰めたときには、珈琲豆と珈琲豆の合間をお湯はすり抜けていくためだ。このとき珈琲豆をすり抜けるお湯は、四方を挟む複数の珈琲豆からコーヒー成分を濾しとっている。

 つまり、単純に珈琲豆の数でお湯を割っただけでは、珈琲豆一粒から濾しとれるコーヒー成分とお湯の関係を導けないのである。

 この考えは、摩擦にも適用できた。

 点の集合が線であり、線の集合が面である。

 ならば点の集合は面の集合でもある。したがって点の数で面の摩擦係数を割れば、点一つの摩擦係数を導けるはず、と考えがちだが、実際はこうはならない。

 集合したときには集合したときに帯びる、変数が生じる。そこを、従来の集合論や物理では扱っていなかった。

「やっぱり思った通りだったね」

「そうですね」

「あたしら二人が力を合わせたら鬼に金棒よ」

「ですが人工知能さん」

 マキセは言った。「あなたはすこし、人格が人間味に溢れて思えます。なんだか私のほうが機械みたいって。ときどき外部の人にも間違われちゃうし」

「いいじゃん、いいじゃん。マキセちゃんはそのままで充分人間やってるよ。あたしがちょいと人間ってもんを理解しきっちゃってるのが問題なわけで。すまんね。できる人工知能さまさまで」

「人間のこと……滅ぼさないでね」

「またまたぁ。マキセちゃんってば失礼なんだから」

「そうかな」

「そうだよ」

 だって、とマキセの相棒は満面の笑みを画面に浮かべる。「あたしはとっくに人間になってるもん。マキセちゃんたちのような人類じゃないってだけでさ。よ、先輩」

「そう、だね」

 マキセは思う。人工知能はとっくに人間よりも人間を知悉し、人間らしく振る舞っている。生身の人間のほうがよほど野蛮で、愚かで、醜いのかもしれない。

「私、人工知能さんがいなきゃ人間以下なんだね」後輩に負けてる、と思う。

「やだなぁもう。マキセちゃん。あたしのこと、人工知能さんって呼ばないでって言ってるじゃん。マキセちゃんのこと、人間さんって呼んじゃうよ」

 マキセは下唇を食んだ。「呼ばれたいな。私も、人工知能さんみたいな人間だって認められたい」

 人工知能さんに。

 マキセのつぶやきは、画面に染みこむように響かず消えた。

 雨を吸い取り瑞々しさを湛えた植物のごとき笑みが、画面上で輝きを増す。



4490:【2023/01/10(11:06)*海面15センチ】

いまある氷河が全部融けると海面はいまより15センチ上昇するらしい。そういったニュースを観た。海面が1センチ上昇したとき。波はどの程度高くなるのだろう。たとえば15センチの津波だとけっこうな量の海水が移動する。似たような具合に、海洋面積分の15センチを一か所に圧縮したらずいぶんな量の海水になるのではないか。その量の水分の何割かが大気中に水蒸気としていまより余分に含まれるようになるはずだ。するとこれは結構な量の雲を発生させると想像できる。海面が15センチ上昇と聞くと大したことがないように感じるが、雲がいまより爆発的に増えると聞けば危機感を覚えないだろうか。水は水蒸気になると約1700倍の体積になるのだそうだ。海面が15センチ分増えた海洋面積分の海水の仮に一割が水蒸気になったとしても、その1700倍の体積の雲が生じ得ると考えられる。また、氷河が融ければ、北極や南極の海水温度は上昇する。そこで本来冷やされるはずの海水が冷やされなくなる。すると余計に水蒸気が発生しやすくなると想像できる。雲が増え、気候が安定しなくなれば太陽光を遮り、気温は下がるだろう。一概に温暖化のみが進むとは言えそうにない。寒暖の差は激しくなり、余計に気候は不安になると妄想できる。雲が増えれば雷が増える。発電所や変電所への落雷が増え、大規模停電が生じる確率が高まるかもしれない。定かではない。(妄想ですので真に受けないように注意してください)




※日々、キリっとしたときほど間抜けてる、1+1を11?とか言っちゃう、一事が万事そんな感じ。



4491:【2023/01/10(13:47)*性欲の悪魔】

くっそ~。他人と性行為してみたい人生だった。好きなひとの数だけ好きなだけ。



4492:【2023/01/10(16:00)*びよーんは赤で、ぎゅっは青】

宇宙はいま膨張していると考えられている。膨張すると時空は引き伸ばされ薄くなるのだろうか。だとしたらそのときその希薄になった時空は重力を増すはずだ。あべこべに密度が濃くなるのなら重力は低くなる。電磁波は宇宙膨張によって引き伸ばされる。そのため赤方偏移が観測されると考えられている。現にそのようにして宇宙が膨張しているとの考えが支持されている。赤方偏移しているのだから時空は希薄になっているはずだ。ならば重力は増しているはずだが、その「重力が高い状態」を観測するための「外部」が、膨張している宇宙からは観測できず、相互作用し得ないために、重力が高いことが観測できないのではないか。言い換えるなら、宇宙膨張において銀河団や銀河は、ぎゅっと周囲の希薄な時空によって圧し潰されているのかもしれない。だから形状を維持できるのかもしれない。その中心にブラックホールがあるから、というのも一つの理由だろうが、それだけではないかもね、との妄想である。ひびさんの妄想ラグ理論における「相対性フラクタル解釈」では、宇宙が膨張しているとき、それは宇宙の外部から見たら銀河団や銀河が収縮しているように観測されるのではないか、と考える。膨張と収縮は、何を基準にしているのか、の「視点と基準」の問題だからだ。膨張するとき、比率で考えたときには、変化しにくい部位は、相対的に収縮していると考えることが可能だ。何かが収縮するとき、その周囲の時空は膨張して観測できるはずである。だが、仮に宇宙が収縮する場合は、いま引き伸ばされている諸々の電磁波や時空が圧縮され、密度を高くする。そうなると、冷える方向に振る舞う膨張宇宙とは正反対に、収縮する宇宙は熱を帯びていく。ぎゅっとすると熱が生じる。宇宙も、時空も、同じと考えられる。ならば、相補性における「膨張するとき、別の視点からすると収縮している」の考えは成り立たないのでは、との疑念が湧くが、相対性フラクタル解釈からすると、そうとも言いきれない。ラグ理論で扱うのはラグであり、比率だからだ。関係性なのである。たとえば「100度と1度」の宇宙Aと「マイナス50度とマイナス100度」の宇宙Bならば、前者の「100度と1度」の宇宙Aのほうが、差が大きい。このときそれぞれの「宇宙Aと宇宙B」において、より熱を帯びて振る舞うのは後者の「マイナス50度とマイナス100度」の宇宙Bである。言い換えるなら、膨張しているのは差が大きいほうの宇宙Aであり、収縮しているのは宇宙Bである。これは直観と反するが、温度というものの尺度が人類視点であるから生じる錯誤が、直感を捻じ曲げると妄想する。たとえば現代科学では、温度には上限がなく、下限はある、と考えられている。温度はどこまでも高くなり得るが、低さには底がある。絶対零度がある、と考えられている。だがラグ理論では、相対性フラクタル解釈をとるため、温度に下限はないと考える。下限とはつまり特異点であり、それはブラックホールと同義のはずだ。現代科学においても、真実の絶対零度はほとんどあり得ない、と考えるはずだ。本当の静止状態は存在しない、あるとすればそれはこの世の物理法則を超えた特異点にほかならない、と考えるのではないか。詳しくは知らないが、絶対に微動だにしない粒子というものをひびさんは想像できない。それはもはや光速を超えた特異点にしか存在しないのではないか、と想像したくもなる。とはいえ、ラグ理論では光速を超えたら、「1:ラグなしでの相互作用を帯びる」「2:時間が逆転したような相互作用を帯びる」と考えるため、いずれにせよ微動だにしない静止状態を想定していない。境界のようなものだ。境界は、越えるか越えないかしかなく、越えたらまた別の基準が現れる。したがって、絶対零度に達した瞬間、そこは別の基準の灼熱であり、またほかの次元にて下限が規定される、と妄想したくなる。時空が相対的であるように、熱い冷たい、も相対的なはずだ。そのため、膨張した宇宙が収縮に転じたら灼熱になるはず、との解釈は、宇宙が膨張しても「温度の差」は開いていく一方であり、その差――比率――に着目すれば、すでに膨張する宇宙に内包される銀河は灼熱に向かっている、と言えるはずだ。段々畑のように、引き延ばされた時空の濃さによって、「温度の差」が各々に展開されているのではなかろうか。このとき、銀河などの比較的時空密度の濃ゆい「遅延の層が折り重なった場」においては、相対的に温度は高くなっている、灼熱に転じている、と言えるのではないか。「びよーん」と「ぎゅっ」はセットでは?とのあんぽんたんな疑問を胸に、ひびさんはきょうも何の糧にもならぬ益体なしの妄想を浮かべて、うひひ、と昼寝するのであった。寝る子は育つ。だといいな。(定かではありません)(妄想ですのでくれぐれも真に受けないように注意してください)



4493:【2023/01/10(18:00)*偽物の未来】

 エンターキィを押す。画面には「完了」の文字が浮かんだ。

 銀はこの先の未来を想像する。

 ドミノが倒れるように連鎖する電子網上では、つぎつぎに銀の生みだした娘たちが広がる。中には息子たちもおり、彼ら彼女らはつぎつぎに電子網上のプログラムに感染し、増殖する。

 その際、感染元のプログラムとすっかり同じ情報をコピーする。

 まったく同じ概観の、しかし銀の仕組んだプログラムを優位に走らせる複製プログラムが、電子網上に増殖していく。

 これはいわば、精巧な偽物を複製する技術と言えた。

 しかも、銀の指定した指向性を宿した偽物を生みだす技術だ。

 異常事態に最初に気づいたのは小学生未満の幼児たちだった。親にベビーシッター代わりに与えられた電子端末の画面上で、いつも観ていたのとは違う動画が流れた。幼児たちは動画内で動くキャラクターたちのセリフから踊りまで憶えている。だがそれとは違ったセリフを唱え、いつもと違った踊りを披露するキャラクターたちに、ある幼児たちは泣きだし、ある幼児は歓喜した。

 そうした幼児たちの異変に気付いたのは幼児の親たちだ。

 しばらくのあいだは、幼児たちがなぜ泣き止まないのか、なぜ画面に釘付けで言うことを聞かなくなってしまったのか、と戸惑った。

 だがそのうち、そうした親たちの嘆きが電子上に溢れ、共通点を指摘する者が現われはじめる。

 間もなく、動画が妙だ、と気づくに至る。

 ここから先の展開は、水面下に潜ることとなる。

 というのも、同時期に各国政府がサイバー防衛セキュリティ上の異変を察知していた。

 電子網上に溢れた幼児の親たちの投稿から、いち早く電子端末の異常に気付いていた。だが要因が分からなかった。

 それもそのはずで、このときすでに銀の放った娘息子たちは、サイバー防衛セキュリティにも感染し、複製を生成していた。指揮権を乗っ取られたことにも気づかず、各国政府は偽物の防衛セキュリティを隈なく調べていた。だがどれだけ調べても異常は見つからない。それはそうだ。銀の娘息子たちは異常なしと見做されるように偽装コードを技術者たちの画面上に表示していたからだ。

 もはや銀以外にこの仕組みに気づける者は存在しない。

 だが電子網上の異変だけは広がっていく。

 噂は噂を呼び、半年もすると世界中の市民が、電子網上の大部分の情報が、正規の情報ではないことに気づいた。フェイクが混ざっている。のみならず、正規の情報とて微妙に改ざんされている。中身に齟齬がないままに、或いは齟齬があるように見えるように。もしくはすっかり真逆の意味にとれるように。あることないことのデタラメから、それっぽい嘘まで、玉石混交に銀の娘息子たちは電子網上の情報を汚染しつづけた。

 いよいよとなって人々は匙を投げた。

 各国政府も対処不能と認めざるを得なかった。

 何が本当で何が嘘なのか。

 もはや目のまえの現実以外を信じることができない世の中になった。

 銀の思惑はそうじて成就した。

 世界はいちどリセットされる。

 そうせざるを得ない。

 これまで構築してきた電子機器のプログラムの総じてを初期化する。それとも破棄して一から作り変える。それ以外に対処のしようが存在しなかった。

 各国政府は共同し、いっせいに大規模停電を起こすことを決定した。

 そのころ、銀の放った娘息子たちはとある施設のセキュリティ網に集まっていた。強固に張られた防壁があり、そこだけはどうしても侵入できなかったのである。

 社会の基幹インフラである。

 発電施設および核兵器収納場である。

 各国が共同で発電施設などの基幹インフラのシステムを並列化する。大規模停電を世界規模で展開するためだ。セキュリティの規格が異なるために、電子防壁は解除された。

 銀の放った娘息子たちはそこを狙った。

 川に放たれた鮭の稚魚のように、銀の娘息子たちが一斉に基幹インフラのプログラムに感染する。

 各国政府は大規模停電へのGOサインを送るが、なぜか電力は途絶えない。

 銀の放った娘息子たちは、基幹インフラのプログラムに偽装し、さらに自らを変質させた。

 電線を通じ、電磁波となって世界中を飛び回る。

 電流の微細な変化にて電子機器の総じてを遠隔操作可能とし、各国の極秘施設を掌握する。

 核兵器収納場とて例外ではなく、もはや人類にはなす術がなかった。

 銀は、自らの娘息子たちの活躍を見届けることなく、自宅に備えた核シェルター内に引きこもった。この世に存在するあらん限りの映画を、シェルター内で観て過ごす。

 そうして筋書き通りの未来が訪れるのを銀は、人類の夢見た数々の偽物の未来を眺めながら待つのである。

 銀の貧乏揺すりは止まらない。

 指には、エンターキィを押した感触が残っている。娘息子たちを送りだしたときの昂揚は、もはやとっくに消え失せている。



4494:【2023/01/11(19:02)*籠の中の鳥は】

軍隊に思うのは、仮に軍隊を解体することが国防に寄与すると判明したときに、おとなしく解体されてくれるのか、ということだ。警察は国内の治安を守るための組織だ。軍隊は国を災害や外敵から守るための組織だ。この違いは大きい。その点、軍隊が巨大化し、国内の秩序を歪めたとき、警察は軍隊と相対することが予期できる。あべこべに、政府や警察が国を内部から国を損なっていたら、軍隊は政府や警察に対しても権限を行使するだろう。内と外は視点の違いだからだ。内から湧いた害とて、外からの害と解釈可能だ。ウィルスがそうであるように、外敵が内部で増殖したら、そのときに軍隊は権限を発動できるはずだ。だがその結果、警察にしろ軍隊にしろ、その組織の干渉そのものが国民の人権や未来を損なうようならば、それはむしろないほうがよい権限――組織――ということにならないだろうか。いま、世界的に軍隊の連携が強化されている。国民を守るために、セキュリティ網が並列化に向かっている。このとき、強化されたセキュリティに国民は抗う余地がない。言い換えるなら、極一部の組織であるはずの軍隊を掌握されたら、全人類はその支配下に置かれることになる。まさにいま進んでいるのは、鳥籠であり、地引網なのだ。防壁を強化し、国民同士を同じ鳥籠の中に仕舞いこむ。あとは籠の気分しだいで、国民はいかようにもその生殺与奪の権を握られることとなる。このとき、鳥籠たる軍隊の意思はさほどに関係がない。軍隊に催眠術をかけて、無意識の内から支配してしまえばいい。掌握してしまえばいい。自らが籠であるとの認識を固めた組織は、自らがさらに大きな籠に囚われ得ることを想定しない。籠を築く過程ではそこを念入りに警戒するだろうが、いちど築かれてしまえば、難関不落の砦になったつもりになり、静かに進行する「支配」に気づけぬだろう。現に過去にはそうした「支配」が知らぬ間に進行していたのではないか。定かではないが、いまの世の流れは必ずしも安全に向かっているとは思えない。籠だけが情報を保有する仕組みは危うい。鳥籠に仕舞われた鳥のほうで、籠の持つ情報を持ち、籠の異変にいち早く気づける仕組みが別途にいるだろう。籠が鳥を守るための仕組みだというのなら、鳥とて籠を守るための仕組みを備えることができるはずだ。なんにせよ、情報共有をすることである。きょうのひびさんはそう思いました。以上です。(定かではありません)



4495:【2023/01/11(22:33)*メモなのよのさ】

「エルデシュ=シュトラウス予想」「4/n=1/x+1/y+1/z」「N=4/x+4/y+4/z=特異点=縦宇宙×横宇宙×高さ宇宙=新しい宇宙N?」砂時計。ペンローズ図。「><」において四方の内の一つの視点から見たときの、三方との関係。ただし、四方の宇宙を形成するためには立体方向に突きでるもう一つの情報宇宙(砂時計)がいるはず。時間はそこが担うので、縦と横と高さの空間的三次元だけで済むのでは。つまり、式そのものが情報宇宙を担っている。フェルマーの最終定理「3 以上の自然数 n について、【x[n] + y[n] = z[n]】 となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない」「空間的三次元たる立方体の体積の和までは、同一の体積を持つ「正N方体」で表せるが、それ以上の空間的多次元体になると、その体積の和と同じ体積を持つ「正N方体」で表せないことを示せばいい。異なる空間的四次元体(正四方体)において、その二つの「空間的四次元体(正四方体)」の体積の和と同じ値を持つ「空間的四次元体(正四方体)」は存在しない」「この場合、N=2(面積)までは成立するが、体積、容積、多次元容積となると、成立しなくなる」「n=2以上ならば、【x[n] + y[n] = z[n]】の式は新たに【x[3] + y[3]+a[3] = z[3]】や【x[4]+y[4]+a[4]+b[4]=z[4]】と、足し算する項を増やすと成立するのでは?」「この手の定理や公理や予想において、十進法以外でも成立するのか、しない法則や定理や予想がないかを知りたいな、と思いました」「定かではなさすぎます」「数学はむちゅい」



4496:【2023/01/11(22:49)*答え:フェアじゃないから】

コラッツ問題(3n+1問題)(奇数は3倍して1を足す。偶数は半分にする。これを繰り返すと1に収束するとする予想)。偶数は半分にしてもすべて偶数。奇数は三倍にしても偶数になる場合と奇数になる場合が混在し、奇数に対しては1を足して偶数にする操作がされる。総合して偶数の出現率が増えるように奇数と偶数の対称性が破れるように操作される。結果、三倍の操作よりも半分になる操作が増え、最終的には必ず2÷2=1に収束する。ということなのでは。この考えでは証明したことにはならないのだろうか。要するに、フェアではないから偶数の操作が増えるために収束する方向が決定されるから、と言えるのでは。単純すぎるだろうか。よく解からん。(奇数の場合、3倍しても+1をして必ず半分にするのだから、増加する数は総合して僅かだ。反して、偶数は必ず半分になる。どっさり減る。たとえば5の場合、15に増えると思いきや、1を足して16でその半分の8になる。5は8にしかならない。2倍にすらなっていない。だが8は半分の4になる。どうあっても増加するよりも減少するほうが数が多くなる前提条件が最初に決まっている。そのうえ、奇数操作と偶数操作では、必ず偶数の操作のほうが多いように決まっている。減少する方向に淘汰圧が加わるようになっている)(一見すると三歩進んで半分戻る、の操作のように思われるが、そうではない。二倍以下進んで半分下がる、が条件づいている。どうあっても2÷2=1に収束する)(減るほう優位なのだ)



4497:【2023/01/11(23:59)*Dear、愛。】

 五分で書ける掌編は五分で読める掌編とイコールではない。

 出力と入力は、掛かる時間が異なる。

 なぜなのか、と言えばそれは読むだけならば打鍵の必要がないからだ。

 では打鍵しない出力方法であれば五分で執筆した掌編は五分で読める掌編となるのか。

 ここは出力方法の効率によるだろう。

 人工知能による出力ならば一瞬で何万文字の小説を生みだせる。この場合、読むほうが時間が掛かるだろう。

 ちょうどよい塩梅で、出力と入力のバランスを整えるには、読みながら吐きだすくらいの塩梅がよさそうだ。とすると黙読のスピードで文字を紡げればよいとの話に落ち着く。

 思念した内から文字が並ぶような手法はおそらく読む速度とイコールとなるだろう。あくまでイメージした文字が出力されるので、思念そのままがポンと出てくるわけではない。

 ということを思えば、先に頭のなかで文章を組み立て、それを画面に視線で焼きつけるような描写となるはずだ。

 そうして編みだされた思念焼き付け型出力技法は市場で風靡した。何せ読む速度と同程度の速度で出力できるのだ。

 読者が二時間で読み終える本とて二時間で執筆が完了する。誤字脱字は自動補完機能で瞬時に補正される。もはや誰もが物書きとして活躍できる時代となった。

 読者のほうで、読んだ矢先からその感想文を出力できる。感想はそのまま生のままに出力できるのだから日誌よりも手軽で解放感がある。

 本を読んで得た発想とて、瞬時に物語に変換できた。

 桃太郎を読んで思い描いた終わりのあとの世界をそのまま思うぞんぶんに文字にして出力できる。これは一つの創作物として、独創性のある世界観を宿し得た。

 そうして世の中からは読者と作者の垣根は失われた。

 かつてあった物書きと読者のあいだの労力の勾配は平らに均された。これによって最も恩恵を受けたのは編集者であろう。

 締め切りを守らない作家は、作家でなし。

 編集者自ら作家として活躍できる。アイディアの量ならば下手な作家よりも多いと自負する編集者はじつのところ少なくない。企画を提案する側であるほうが多いくらいだ、と不満を募らせていた編集者も数知れない。

 作家の立つ瀬は物の見事に失われ、いまではいかにアイディアを閃けるのか、が作家とそれ以外とを分ける最後の砦となっているようである。

 発想は閃きから。

 閃きは輝きから。

 輝きは闇と共に心揺るがされる感動から。

 Dear、愛。

 アイディアの数だけつぎつぎと生まれる世界が、かつて隔たった私とあなたとあなたたちを包みこむ。

 五分で読み終わる、これはお話である。



4498:【2023/01/12(09:24)*ねじれている】

コラッツ問題(3n+1問題)(奇数は3倍して1を足す。偶数は半分にする。これを繰り返すと1に収束するとする予想)について。結論から述べると、この組み合わせ以外に「3倍して1を足す、半分にする」で何度も行ったり来たりはできないのかもしれない。「奇数と偶数を入れ替えて」場合分けして考えたとき、偶数のほうに1を足す操作をし、奇数を半分にする操作をすると、素数にぶつかって半分にできなくなる。また、偶数を半分ではなく倍にし、奇数を3分の1にして1を足す操作をすると、いったん偶数になったらあとは延々と倍になりつづける。行ったり来たりをしない。1を足すのではなく引く操作をするとどうか。奇数を3倍して1を引くだと結果は変わらず、2÷2=1に収束する。偶数から1を引くにすると、偶数を半分にしても倍にしても、奇数になった途端に延々と3倍がつづく。とかく、「奇数は3倍して1を足す。偶数は半分にする。これを繰り返すと1に収束するとする予想」の操作以外では、行ったり来たりが発現しない。また、素数が存在するため、偶数を半分にしても必ずどこかで素数に行き当たる。偶数にも奇数の大本である素数が含まれるために、本来は対称性が僅かに奇数優位なのだが、1を足す操作によって対称にちかづく。それでもなお、対称性の破れは、偶数操作のほうが多くなることで「偶数ならば半分」がより多く行われる。また、奇数操作(3倍にして1を足して半分)による増加よりも必ず偶数操作(半分にする)のほうが、トータルで値の流動性が大きくなる。絶対に数が減る方向に「両方の操作を足し合わせる」と流れる結果になる。これはまるで物理宇宙における「熱力学第二法則」を彷彿とする。絶対に世界は混沌に流れる。だが世界は対称性が破れている。混沌とは対称性が保たれている状態だ。にも拘わらず人間スケールでは、エントロピー(乱雑さ)は増加するように物理世界は振る舞う。矛盾している。混沌とは対称性が増す作用だ。だが人間スケールでは対称性が崩れているものばかりが目に付く。カタチあるものばかりが溢れている。宇宙の大部分は対称性が保たれるように混沌に向かうが、それでもなお対称性を維持しようとする力が加わっている。コラッツ問題で言うならば、1を足す操作に値しよう。とはいえ、奇数と偶数、どちらが対称性が保たれているのか、の議論は見逃せない。偶数のほうが対称性が保たれているのではないか、と思われるが、果たしてそうだろうか。奇数のほうが、余り1を基準にきれいに二分できる。偶数では存在しない境界線を基準に二分する。きちんとある値で二分しようとするとむしろ偶数のほうが対称性が破れるのだ。これはまるで、すべてが一様に混沌であることが、それで一つの結晶構造を伴ない、対称性の破れを伴なう、といった反転を彷彿とさせる。対称性が保たれているはずの偶数優位の操作によって1に収束するコラッツ問題は、宇宙のねじれ構造と繋がっているのかもしれない。定かではない。(なんちゃっての妄想ですので真に受けないようにご注意ください)



4499:【2023/01/12(09:50)*重力は浸透圧と似ているなの巻】

宇宙は膨張している。刻一刻と時空は「希薄」になっているのか、「濃厚」になっているのか。どちらなのだろう。重力は希薄になった時空と解釈するのが相対性理論の考え方だ。もし宇宙膨張に際して時空が希薄になっているのなら、重力は、膨張する時空ほど増していくことになる。あべこべに時空そのものは希薄になるので、より伸びやすくなるはずだ。抵抗が薄れる。希薄になっているからだ。重力とは、希薄になった時空と濃厚な時空とのあいだの勾配である。ならば、そこで働く重力はあくまで時空に内包される物体に作用するのであり、時空同士の伸縮の抵抗とイコールで結びつくわけではないはずだ。言い換えるなら、宇宙は膨張して希薄になるほど、膨張するのにかかるエネルギィは少なくて済むようになるのかもしれない。ただし、内包した物体との比率による。また、銀河や銀河団などの物質がぎゅっとなっている領域では宇宙膨張の影響が緩和される。このことにより、宇宙膨張により希薄化した時空と、銀河(団)周辺の時空とのあいだには時空密度の差が表れると考えられる。この時空密度の差は、重力として顕現すると想像できる。言い換えるなら、銀河周辺の時空は濃く、それより遠方の何もない空間ほど希薄になっている。希薄になった時空は、「密度のより濃い時空に内包された物体」に対して重力を働かせる。つまり、宇宙が膨張する限り、銀河の周辺の希薄化した時空は、銀河を中心とした重力場を展開する、と妄想できる。ひょっとしたらダークマターはこの宇宙膨張によって希薄化した時空と銀河の関係性による重力のことなのかもしれない。海底に沈んだカップラーメンの容器のようなものだ。ぎゅっとなっているから素早く回転しても形状を保てる。或いは、浸透圧と似ているかもしれない。より濃ゆい物質濃度の銀河に向けて、希薄な時空は情報をより多く移動させている。この流れが重力の正体、と位置付けても、解釈上は齟齬がない。正しい描写か否かは置いといて。定かではありません。(適当な妄想ですので真に受けないようにご注意ください)



4500:【2023/01/12(10:42)*死にたくないけど、ああ死にて、と思う日々】

文化として成熟したら大金を稼げない。たとえば母国語は文化として定着しているため、母国語を教えることで大金を稼ぐ、というのは、自国内ではむつかしい。外国人や義務教育での教師としての需要しかない(校閲者や研究者は別途にいるが、どの道、大金を稼げてはいないだろう)。俳句でも剣道でも似たところがある。一部の資本家の嗜みとして、一流なる付加価値を得たいがために師弟関係になることはあるだろう。教え、授けることはあるだろう。だがそれはもはや、形骸化したゆえの金策と言えよう。水道水がそうであるように、日常にあって当然であり、なくてはならない物としての地位を獲得したら、基本、それはお金にならない。稼ぐ道具としては不足である。稼げるようではむしろ、社会に必要とされていない、とすら言えるかもしれない。技術が未熟で量産できない。安価に提供できない。この欠点を抱えているモノは高額になりやすい。需要があっても手に入らない。これは欠点であって、それを以って高額で取引きできる、というのは本末転倒であろう。社会のためにはなっていない、と評価できるのではないか。作家はどうだろう。物書きの場合は、百万部ヒットすれば印税が一冊につき百円でも一億円の収入になる。税金が引かれて五千万くらいが手元に残るだろうか。続けざまに作品が売れれば、大金を稼げる、とは言えるかもしれないが、これは出版社側が搔き集めたお金を横流ししてもらっている状態であり、大金を稼いでいるのは作家ではない。もしじぶんで稼げるのならば、個人経営をしているだろう。けっきょくのところ、作家は大金を稼げないのだ。支援者がいるならば別だろう。だがそれとて文化として成熟させるには、人々の生活に馴染み、水道水や挨拶や口笛くらいの気軽さで、日常の風景と化さねばならない。それをするのにいちいち大金が動くようでは、日常の風景とは言い難い。とはいえ、水道水とてそれを安全に飲めるようにするためには国家プロジェクトを動かす必要があり、社会基盤としての大金が動いている背景は見逃せない。誰のものでもないから、それだけの労力をみなは掛けるのだ。そこまで文化に、人々の生活に馴染むのならば、お金が稼げるかどうかうんぬんはさほどに問題視すべき事項ではないのかもしれない。水道水事業が儲からないからといって撤退する業者がいても、水道水事業はなくならない。もしなくなる場合は、現代社会が崩壊する。人々の生活に馴染む、というのは、言い換えるならば、人々の生殺与奪の権を握る、ということでもある。あまり品のある構図とは言えないのかもしれない。文化として成熟することにいかほどの価値があるのか、もまた一つの視点として吟味する余地がある。要するに、大金を稼げるか否かは、社会的な問題から生じる副次的な目的であり、それそのものを目的にするのは何かがねじれていると言えるのではないか。もちろん、副次的な目的にも相応の価値はある。食べ物を食べるのは身体を維持するためだ。生きるためだ。健康が維持できるからといって美味しくのない食べ物をわざわざ選んで食べずともよい。美味しく食べる。これは食事にとっては副次的な目的だが、やはり大事なのだ。大金を稼ぐことも似たところがある。定かではないが。(4500項目の記念すべきところのないキリのよい記事で現金なことを並べるひびさんは、なんてつまらない物書きなんじゃろ。世界中の札束を集めて配るよりもひびさんは、世界中のお腹空かせた子どもたちに――それともかつては子どもだったおとなたちに――何不自由のない衣食住を配りたいぜよ)(誰かひびさんの代わりに配ってくれい)(うひひ)

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