第5話 六月の花嫁、花の騒乱に溺れる
字の読み書きや世界史に禁苑の規則。
連日この三つを咲夜に叩き込むべく、禁苑の管理を担うという龍一族の年配の女性達が代わる代わる教鞭を取った。
「本日の習字は此処までとしましょう。咲夜様は覚えがようございますね」
「ありがとうございます。読みたい本がありまして、恐らく児童書なのですが」
「児童書。であれば、悪い言葉遣いもないでしょうから導入には問題ありませんね。何事も興味のあるものを通しての方が覚えは早いですから。それにしても児童書とは。禁苑に今ややはいないのに。どんな本です?」
教書や巻物を片付けながら教師である女性の問いに、咲夜は顔を上げる。
「えっと、題字はまだ読めないのですが挿絵には龍と──」
咲夜が言い終える前に夕刻を告げる鐘が鳴る。教師は「ああ」と外を見て慌てて教書を片づけ始めた。
「すっかりお時間を取ってしまい申し訳ございません。茶会の準備もあるので、今日はこれにておしまいにしましょう」
「お茶会ですか?」
「ええ。禁苑で四季折々開かれる茶会で、我らが惣領が出席する会です。禁苑主導でその準備があるのですよ」
色々と仰せつかっている事が終わらないと小さくぼやく教師の横顔は、すっかりくたびれていた。茶会などという雅なものに参加したことはないが、村にも祭事がある。そうした準備は大がかりでたくさんの人手と日数が必要だ。
村にいた頃は、そういった時だけは雑務をこれでもかと任されたものだと咲夜は懐かしむ。何もさせてもらえないより、やる事がある方が気が紛れて良い。そう思い、咲夜は顔を上げた。
「あの、新参者ですが何かお手伝いできる事がありましたらお教えください」
「……貴女様が?とんでもない事でございます。咲夜様は稀人にして花。それに此処へ来て日も浅いのですから、今は目の前の事からでよろしいかと」
咲夜の申し出に教師は片眉をあげ、それからこほんと一つ咳ばらいをして咲夜が抱える教書を指さす。白麗の計らいがあった稀人とはいえ余所者。まして教養も何もない小娘と思われている事はもはや表情だけで理解できる。手伝いにもならない。教える方が時間の無駄であり手間というのが言葉の節々からも滲み出ていた。
しかし教師の言い分はもっともで、言葉だけでも丁寧に接して貰えているだけ有難い話だな――と咲夜は「これは私が失敗してしまったな」と頭を下げる。教師が出て行った後を見つめ、一人溜息を吐く。
「何処にいても、人と関わるって難しいな」
鳴々が繕ってくれた手袋をつけた両手を見つめる。教書からは何の感情も感覚も感じない。
生きている感情あるもの、感覚を持つものを気取る両手。便利には聞こえても、一度たりとも咲夜にとって好ましい未来を手繰り寄せた事はなかった。咲夜一人分を受け入れてくれたこの世界でも、未だ咲夜も周囲も咲夜自身を持て余していた。
▽
咲夜が部屋を出ると、鳴々が何人かの女性に囲まれていた。鳴々と似た装いをしている事から芽の者だという事がわかる。
「い、いえ、ですから私は今咲夜様に付く芽になりましたので」
「あの余所者でしょ?だからどうしたって言うのよ。花なら芽を何人も付けている筈でしょ。一人くらい抜けたって問題ないじゃないの。陽輝園や桃香園のお姉さま方に先を越されないようにと言われているのよ。ずべこべ言わないで今年の衣を繕って頂戴」
鳴々は腕の立つ針子だと杏朱は言っていた。他の芽はどうやら彼女の力を借りたいらしいが、鳴々は困った顔をしている。
咲夜が今日まで習った禁苑の規則では、花専属の芽になると他の花の個人的な命令は聞き入れる事が出来ない事となっている。曰く、世話役として選んでくれた花への忠義を示す為だという。勿論咲夜は鳴々を独占したいわけでもなんでもない。鳴々が望むのなら何も思わないが、鳴々の様子は明らかにそうではない。
(……こういう時ってどうしたらいいのかしら)
何せ長いこと世間というものの蚊帳の外で、こういった諍いの時の正解が咲夜にはわからない。根本的な解決にはならないが、自身に向けられた敵意や悪意ならば、自分一人が鵜呑みにする事で済ませれば済む。
しかし、複数が絡む人間関係の正解――まして女社会で生きていく上での正解となると話は別だ。少し考えて、まず此処は身分に厳しい場所であることを思い出す。余所者と呼ばれてはいても、彼女達は序列を無視できない筈である。
(とりあえずこの場を納めないと鳴々が困る)
ただでさえ働き者なのだ。加えてまだ幼い。身分の上下に関わらず、鳴々は守らなければいけない存在だと咲夜は顔を上げた。
「どうかなさいましたか」
「……!さ、咲夜様」
「鳴々、待たせてしまってごめんなさい。この方達は?」
努めて平静に笑顔を作って咲夜は鳴々の隣に立つ。振る舞いや言動については簡単にだが、教師にも教わっている。恐らく著しくおかしいというような事はない筈だと思いながらも咲夜は肝を冷やしていた。
視線が一気に咲夜に集まる。ああ、苦手だ。やはり此処でも周囲からの視線は厳しく鋭いと咲夜は軽い眩暈を覚えた。
「貴女達、此処で何をしているの?」
「れ、礼寧様!!」
鳴々以外の芽達は、少し離れた場所から聞こえる声にさっと道を開けて拱手する。此処にいる中でもいっとう華美な顔貌と装い。この人は花だと咲夜が見つめていると、鳴々がこそりと「海星園の花、礼寧様です」と教えてくれる。
自然と背筋が伸び、礼寧が目の前まで来ると咲夜は教師から教わった所作で頭を下げた。
「月華園の咲夜様ですわね。お噂はかねがね。お会い出来て嬉しいわ。ご挨拶に伺いたいと思っておりましたのよ」
「謹んでご挨拶申し上げます。先日より月華園の花となりました、咲夜と申します」
「およしになって。同じ花ですもの、堅い事はなしにしましょう!それにしても本当に黒髪黒眼でいらっしゃるのね。珍しい。さすが稀人。まさに選ばれし方ですこと」
ほほ、と上品に微笑みながら口元を隠す仕草まで絵になる美しさだ。じろじろ見てはいけないと視線を下げるが、咲夜は本当に美人な方ばかりだなぁとしみじみする。
だが、勿論そうした優美さだけではない独特の棘も咲夜はひしひしと感じ取っていた。礼寧の横には表情の険しい咲夜と同じ年くらいの少女が控えている。
「それで、貴女達は此処で何をしているの?もうすぐ茶会。総領にお渡しする贈り物を選ぶ時間の筈だけれど」
「こ、これはその」
「言い訳は後で聞きましょう。そうだ、咲夜様。咲夜様も勿論茶会にお出になるのでしょう?」
「いえ、私は師から禁苑について学んでいる最中ですので……」
教師から言われた事を思い出し、礼寧の問いをやんわり否定すると彼女は目を丸くする。
「まぁいけませんわ。総領に選ばれし花は、いつ何時も総領に尽くす事が務め。一輪でも花が欠けていては、総領も悲しみます」
「そ、それは」
「他の花の皆様方も咲夜様が出席されたらとても喜びますわ。私から参加の旨、上役に伝えますので。是非茶会に参加なさって」
是非という言葉が厚意から来るものかどうかは、さすがの咲夜にも理解できる。その証拠に、にこやかに言う礼寧に対し、鳴々は思わずひゅっと息を飲んで顔を上げたている。そして先程まで鳴々を取り囲んでいた礼寧の芽達は口元を隠してあからさまにくすくすと微笑んでいた。怯んでいた鳴々が何かを決意したのか顔を上げる。
「お、恐れながら礼寧様」
「無礼な」
その意を決した進言を、礼寧の傍にいる先程からずっと険しい表情の少女が諫めた。
「花の方同士の会話に芽が許可なく入るなんて言語道断よ」
「……も、申し訳ありません」
すっかり萎縮した鳴々は身を小さくして頭を下げる。恐らく――否、絶対にこの状況は、自身にとって良くない状況なのだろうと咲夜は内心動揺する。
龍宮は何より秩序と序列を重んじる場所。同じ花と言えど、禁苑に入って日の浅い咲夜が目の前の礼寧の誘いを断る事はそれこそ無礼に当たる。これは絶対にまずい事になったぞと思いつつ、断れない誘いに頭を深々と下げた。
どのみち新参の咲夜に拒否権などないのだ。
「ありがとうございます、礼寧様」
「うふふ。白麗様は花を厳選される方ですから。新しい花を迎えるのは久方ぶりの事。さぞ素敵な花と皆お会いできるのを楽しみにしております。きっと今回の茶会の主役は咲夜様になりましてよ。心から楽しみでなりませんわ」
それではと言って踵を返す礼寧に、鳴々に絡んでいた芽達も続く。去り際に咲夜達を見てくすくす笑う様がなんとも陰湿で、咲夜はなんとか表情を取り繕って彼女達を見送る。
礼寧の傍についていた少女だけが、何故か憐みの視線を咲夜と鳴々に向けて無言で去って行った。
「……これは大変なことになりましたよ。咲夜様」
「よくわからないけど、絶対そうだなって触れなくてもわかった」
触れなくてもという文言について鳴々にはさっぱりわからなかったが、二人はぽつりと夕暮れの廊下に取り残されてそれぞれに苦い顔をした。
六月の花嫁は龍を恋慕う 星川とか @hskw_etc
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