月笛

香久山 ゆみ

月笛

 はっ、はっ、はっ。

 息が苦しい。

 はっ、はっ。

 それでも止まることなく走り続ける。

 はっ、はっ、はっ。

 こわい、こわい。つかまるわけにはいかない。逃げなきゃ。ユマは力の限り走り続ける。

 気づけばただ夢中で走っていた。恐怖心だけがユマの足を動かす。

 何から逃げているのか、考える余裕さえなかった。

 周囲は真っ暗闇。どうしてこんな場所にいるのか。

 ここがどこなのかさえ分からない。

 真っ暗な道をもがくように走る。

 はっ、はっ、はっ。

 呼吸が荒い、体はもうちぎれそうで、自分の足にからまってしまいそう。けれど、止まるわけにはいかない。止まるとつかまってしまうから。何に? 分からない。分からないけれど、つかまるわけにはいかない。それだけが分かっていることだった。


 その日はユマにとっていつもと変わりない一日だった。

 いつも通り登校して、授業を受けて、休み時間にはミサキちゃんたちとお喋りしたり、校庭でドッチボールして遊んだりした。下校の時、幼馴染のカズヤとばったり会って、最近流行の宇宙キャンディーを貰った。それで、家に着く前にはたと気づいた。教室にリコーダーを忘れてきちゃった! 明日テストだから練習しなくちゃいけないのに。

 そうして、ユマは学校に引き返した。途中、またカズヤに出くわして、忘れ物を取りに戻ると言うと、おっちょこちょいだと笑われた。

 すでに日は傾いていて、赤く染まる校舎はなんだかいつもと違って見えた。ユマは早足で教室に向かい、リコーダーを取ると、さっさと帰ろうと廊下に出た。ふと中庭に面した窓を見て、「あっ?!」と思わず大きな声を上げた。けど、その声も向こうには届いていないようだった。反射的にユマは走り出していた。三階の渡り廊下に向かって。今にも女の子が飛び下りようと身を乗り出している、その場所に向かって。

 ユマが到着した時、渡り廊下の手摺の向こうにはまだ女の子の後ろ姿があった。足音に気づいたその子はぱっと振り返って、ユマと目が合った。一瞬いたずらが見つかったような幼い表情をしたあと、ぐっと唇を引締めて再び前を向いた。

「まって!」

 ユマが止めるのも聞かず、女の子は空に向かって身を投げ出した。白いワンピースがふわりと広がる。

 ユマの伸ばした手は女の子の右手を掴んだが、そのままぐんっと重みに引っ張られユマの体もともに重力の餌食となった。


 そんなことを思い出す暇もない。

 ユマはただ一人暗い道を走り続ける。

 走りながら、一瞬だけちらりと振り返ってみた。何も、見えなかった。黒い大きな影が迫ってくるのを見ただけだった。それでもユマは、ようやく自分が何から逃げているのか理解した。

 ――死。

 半べそをかきながら走り続ける。今度こそ振り返ることなく。

 ようやく暗闇に目が慣れてきたと思ったら、そこは深い森の中。地図もない。どちらに進むべきかもわからない。ただただ影から逃げるように、わずかでも明かりを感じる方に向かって走る。

 怖い、怖い。誰か!

 ガサガサッ。

 すぐそばの藪が揺れて音を立てる。

「きゃっ」

 驚いた拍子に、足がもつれて転んでしまった。藪から飛び出してきた小さな黒いものがユマに接近する。立ち上がる間もない。ひゃあっ、と身をかばった腕にひやりと濡れた感覚がした。あれ? よく知った感じ。ユマは顔を上げた。

「カグ!」

「ユマちゃん!」

 目の前には、ユマの小さな妹がいた。思わぬ再会にひしと抱きしめ合う。ふわふわの毛並み、濡れた鼻、懐かしい耳のにおい。カグはしっぽをぶんぶん振って、お姉ちゃんの顔をぺろりと舐めた。ユマとカグは、人間と犬だけれど、幼い頃からともに過ごした姉妹なのだ。

 ふと辺りがいっそう暗くなった。

 影が――死がすぐそこまで迫ってきているのだ。

「行こう!」

 鼻をくんくんと動かして駆け出したカグのあとを追う。この森に詳しいというカグに、ユマは従う。

 右、左、左、と道なき道をぐんぐん進む。しばらく会わないうちにずいぶん頼もしくなったなあと、ユマは感心する。走りながら、ちらとカグが振り返った。

「ねえ。ユマちゃんたら、またカグに会いに来たの?」

「ちがうよ」

 正直に答えて、すぐにしまったと思った。傷つけてしまっただろうか。カグを窺うと、うふふと笑ってる。藪から飛び出した瞬間にはくるんと丸まっていたしっぽも、今はぴんと伸びている。ふたり一緒ならいつだって勇気百倍なんだ。

「カグ、大好きだよ!」

 ユマは息を切らせながら叫んだ。

「知ってるよ。カグもユマちゃん大好き」

「知ってる!」

 そう言い合って、ふたりでうふふと笑った。こんな状況でも、カグと一緒なら幸せなのだ。

 ずいぶん走って、大きな木の陰でようやくカグは止まった。

「とりあえず追っ手は撒いたよ。出口まではまだあるけれど、少し休憩にしよう」

 ふたりで太い幹の根本に座る。

 お腹すいたー、と言いながらカグは足元の草や木の実をむしゃむしゃ食べる。相変わらず食いしん坊だなあ。とはいえ、ユマも走り通し。カグの食べている木の実に手を伸ばしたところ、

「ユマちゃんはだめだよっ」

 カグに止められた。

 そうだ、ユマはこの世界のものを食べてはいけないのだ。あぶない、あぶない。

 そうはいっても、口寂しいなぁとしょんぼりしていたところ、カグがくんくんとユマのポケットに鼻を近づける。

「ユマちゃん、ポッケから甘い匂いがする」

 言われて探ると、がさがさと小さな包みがいくつか出てきた。放課後カズヤからもらった宇宙キャンディーだ。ラッキー。「でもカグは食べられないかなぁ」「舐めるくらいならいいかしら」なんてきゃっきゃしながら一つ封を切った。「赤いね」「マンゴー味だって」とキャンディーを取り出したところ、ぽろっとユマの手からこぼれて、ころころ転がっていってしまった。

「あ!」

 とふたりで声を上げた瞬間、ごおっ! と落ちたキャンディーが燃え上がった。炎はどんどん大きくなり、辺り一体を明るく照らす。

「わ、わ、わ!」

「火のキャンディーを落としたからだよ。ユマちゃん、水! 水のキャンディー出して!」

 ユマは慌ててポケットを広げる。

「え、あ、あった!」

 ユマは水星キャンディーの封を切り、炎めがけて投げた。

 ぼふんっ。

 水星は一滴の水を発射することもなく、炎に巻かれて消えてしまった。

「な、なんで~?」

 情けない声を出しながら、ユマは思い出した。

「水星っていうけれど、じつは水はないんだ」

 そうだ、前にカズヤがそう言っていた。水金地火木土天海。水星は太陽に近いから、太陽の熱で蒸発しちゃうため水は存在しないんだって。

 学習塾の帰り道、夜空を眺めながら星の話になったんだ。赤い星を見つけたユマに、それは「ベテルギウス」だと教えてくれた。寿命を迎えた星は最後に赤く光るんだって。「じゃあ、火星ももうすぐ消えちゃうの」聞くと、火星は燃えているのではなく星自体が赤いのだと教えてくれた。酸化鉄を含む火星の地面が赤く見えるのだと。

 ふうん。といって、ユマは尋ねた。

「じゃあ、青い星ってないの?」

 うーん、と少し考えて、すぐにカズヤはいたずらっぽく笑った。

「あるじゃん」

 そう言ったカズヤが指差した先は……。

「そうか! 地球!」

 あの時カズヤが地面を指したのを思い出したユマは、地球キャンディーを出して、炎に向かって投げた。

 青いキャンディーは炎の上空でたちまち水に変わり、ばしゃーんっとすっかり炎を消してしまった。

 よかった~。

 と一息吐いたのも束の間、さっと辺りが暗くなった。

「さっきの炎で、影に見つかっちゃったんだ!」

 逃げなきゃ! 早く! 早く!

 ふたりはまた森を駆けていく。

 ユマはとっさに握った土星キャンディーを影に向かって投げる。ユマとカグの周囲が細かい氷の粒でできた霧に覆われたが、わずかな時間稼ぎに過ぎなかった。

 はっ、はっ、はっ!

 ユマとカグはほとんど並んで走る。カグは短い四本足を懸命に動かす。ユマの足ももうガクガクだ。けど、止まるわけにはいかない。走る、走る。

「カグ、生きてた時でもこんなに走ったことないよ!」

 カグがひゃんと悲鳴を上げる。

「私も!」

 ユマだってそうだ。もう心臓はバクハツしそうだし、頭もガンガンする。それでも止まるわけにはいかない。

 どうして私はこんなにも死を恐れているのだろう。「それ」は、大好きな妹やおばあちゃんにも与えられたもの。誰にでもやってくるものなのに。頭ではそう思っても、心も体も全力で死を拒絶する。逃げろ! 絶対につかまるな!

 ようやく木蔭に身を潜めた時に、ユマはそんな気持ちを吐露した。カグのことが大切でありながら死を恐れることに、罪悪感があった。

「ユマちゃん、それでいいんだよ」

 カグが濡れた鼻でつんとユマの手に触れ、やさしく寄り添う。いまこの瞬間カグの体はあの頃のように温かくてふわふわやわらかい。でも。カグのことはいつも想っている。けれど、じっさいもう二度とこんな風にカグのぬくもりを感じられないということは、とてもかなしいことだ。じつは、ユマは、いまだにカグのことを想うたびに泣いてしまうんだ。

「生きてる間はね、死を恐れなきゃいけない。死を恐れて、精一杯生きるのが正しいんだよ」

 カグが言う。難しいおしゃべりは得意じゃないのに、ユマのために一生懸命に言葉をつむぐ。

「ユマちゃんがカグの体ともう会えないって泣いちゃうのは、本能が知っているからだよ。生きていることは、とても特別で、まるで奇跡みたいなことなの。カグとユマちゃんが出会ったように、生きているからこそ得られる経験がある。だから、簡単に手離したらだめなんだよ」

 うん、うん。ユマはカグのなめらかな背中を撫でながらじっと耳を傾ける。ユマはもう充分にそのことを知っていた。だから、カグやおばあちゃんが死んだ時にあれほど悲しかった。だから、死を目の前にすると足が竦むほど怖くなる。

「ユマちゃんが生きていてくれることが、カグはうれしい」

 大好きだから。

 ユマはまた泣いてしまいそうだった。それはこっちの台詞だよ。ユマもカグのことが大好きだから、ずっと一緒に生きていたかったのに。思い出すたびに泣いてしまう自分も嫌だった。いつでもカグに「すごいお姉ちゃん」だと思われていたいのだ。だからユマはぐっと堪えて、カグの頭を撫でてにこっと笑ってみせた。カグも嬉しそうに笑う。誰かに大切だと思われているということだけで、ぐっと力が漲る。

「ユマちゃん、もう大丈夫だね。あとは丘を越えると出口だから、行こう」

「行こう」

 ふたりはまた進みはじめた。

 辺りに影は見当たらなかった。けれど、影はふいに思いもよらぬところから出てきたりするので、けっして油断してはいけないのだと、カグは言った。ふたりは時折現れる誘惑などに脇目も振らず、ただひたすら出口を目指した。

 なんとか影に遭遇することなく丘の麓に到着した時、

「ユマちゃーん」

 呼ぶ声がした。おばあちゃんの声のようであり、ひいおじいちゃんの声のようでもあり。ユマは思わず振り向いて返事した。

「はーい」

 ユマちゃん返事しちゃだめっ! カグが叫ぶと同時に、突風が吹き、ざざざっと景色がどんどん暗くなる。

 たちまち目の前に真っ黒な影が現れた。

 ぐんと伸びた影がユマに襲いかかる。

 きゃあっ。身を反らしたユマの視界に、もう一つ黒い小さな影が横切った。

「ガウッ!」

 飛び出したカグが影に噛みつく。影が後退する。「グルル……」カグが鼻にしわを寄せ、歯を剥き出して影を睨みつける。影はじりじりとその場で足踏みするように動かない。

「ユマちゃん、行って!」

 カグが影を威嚇しながら言う。

「でも!」

 怖がりのカグを置いてなんていけないよ。

「カグは大丈夫だから! 家族を守るためだもん、戦えるよ」

 それに、影はカグには手を出せないから大丈夫なの。そう言うカグのしっぽはピンを力強く伸びている。やっぱりカグは強い子だ。ユマの大切な自慢の妹。

「ユマちゃんはちゃんと戻って、カグの代わりにパパとママのことを守ってあげてね」

 そう言われて、ユマはぐっと歯を食いしばってこくんと頷いた。

「カグ、大好きだよ!」

「カグも! だから行って! もう出口は見えているから、丘の上まで走って!」

 そうだ、ユマちゃん黄色いキャンディーを食べて。カグの言葉を背に受けて、ユマはひとり足を踏み出した。

「カグ、またね!」

「大好きなお姉ちゃん、またいつかね!」

 カグの言ったとおりに月キャンディーを舐めると、ユマの体はすっと軽くなった。まるで兎みたいにぴょんぴょんと丘を駆け上っていく。影がユマを追いかけてくる気配はなかった。

 丘のてっぺんに到達する。真っ白な扉が立っている。

 扉をくぐる前にユマは振り返った。

 小高い丘から見下ろすと、来た道とは反対の森の中に、小さな少女とそれを追う影が見えた。

 あの子だ!

 学校の渡り廊下でユマが右手を伸ばした、あの子。鬱蒼とした森を白いワンピースが走るのが見える。いざここへ来て、想像よりもずっと恐ろしかったのだろう。懸命に影から逃れようと走っているけれど、ぐるぐる同じ場所を回っている。出口がわからないんだ。

「こっちだよお!」

 ユマは声を限りに叫ぶけれど、あの子に届かない。

 どうしよう。

 そうだ。

 ユマは握りしめていたリコーダーを唇に当てた。

 大きく息を吸い、吹き込む。きっとこれなら届くはずだ。

 学年も違い、面識もないけれど、ユマはあの子のことを知っている。話したいことがあるのだ。だから、一緒に帰ろう。

 そんな思いを込めて、ユマは高らかに笛を吹いた。


「……おい! おい!」

 目を開けると、カズヤの顔があった。

「わっ。びっくりしたー……、あいたたた……」

 起き上がろうとすると体中が痛い。

 頭がぼーっとするユマに、カズヤが説明してくれた。

 ユマが帰ってこないと連絡を受け、学校まで探しに来たところ、中庭でユマと少女が倒れているのを発見した。すぐに救急車で病院へ運ばれたが、ユマは植木がクッションとなり多少打ち身はあるもののほぼ無傷で助かった。一方少女は危ない状態だという。

「行かなきゃ」

「おい待てよ。今、ユマのお母さんが先生と看護師さんと話してるから。すぐにお父さんも来るって言ってたから」

「あの子のところに行かなくちゃ」

「無理だよ。面会謝絶で病室に入れないし」

 止めるカズヤを振り切って、ユマは部屋を飛び出した。追いかけてきたカズヤに病室の場所を聞き、病院の外からその部屋の窓を見上げた。

 ユマは離さず持ってきたリコーダーを奏でた。あの子に届くように。

 昨年の合奏コンクールで、とても上手に演奏する子を見つけた。白いワンピースのその子は、真っ直ぐに凛と立って誰よりも美しいメロディーを奏でていた。ユマはその子に、その音色に釘付けになった。私もあんな風に吹きたい。あの子と友だちになりたい。

 あの時彼女が演奏していた曲をユマは鳴らす。

 届け、届け。

 力いっぱい吹き続ける。

 すると、病院のドアから先生が飛び出してきた。「うるさい」と叱られるのかとてっきり思ったら、「あの子が目を覚ました!」と先生は笛よりも大きな声で言った。

 あとでカズヤから、リコーダー下手くそだと笑われた。今に見ておれ。


   *


 放課後、ユマは公園でリコーダーの練習をしていた。白いワンピースのナミちゃんと。カグの後にうちにきた犬のモモも一緒だ。

 通りがかったカズヤから「ちょっとはマシになった」とキャンディーを貰う。へへん、知らないんだな。上手くなったのは少しでも、ナミちゃんと合わせると何倍も素敵な演奏になるんだから。

 黄色いレモンキャンディーを口に含む。きゅうっと酸っぱくて思わず涙が滲む。

 顔を上げると夕空にレモン色の月が架かっている。

 月まで届けと、ユマは力いっぱい笛を鳴らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月笛 香久山 ゆみ @kaguyamayumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説