④上手さは総合的な判断

■漫画の絵は小説家の文字のような記号──という考え方がございます。小説家が文字だけを使うように。絵も使って物語を紡ぐ、小説家の眷属が漫画家でございます。これは何も当方だけが言ってるのではなく。解剖学者の養老孟司先生も、日本語と漢字と漫画に絡めて、近いことを指摘されておられますね(https://youtu.be/t9IlMgzH7m8)。手塚治虫先生が、自分の絵は記号だとおっしゃったのも、漫画の絵は文字と同じだよ、と言ってるのです。当方の論はその受け売りでございます。


してみると、キャラクターデザイナーや脚本家や作画監督や背景などの個々の才能をまとめ上げるアニメの監督もまた、小説家に例えることが可能ということになります。小説家というのは、ピアノのソリストでありながら、同時に弾き振りもできるオーケストラの指揮者マエストロと。二ノ宮知子先生の『のだめカンタービレ』の千秋真一みたいな存在……なのかもしれませんね。であるならば指揮者のように小説家も、「文体もアイデアも技巧もなく、しかも自分自身では持ち合わせていなくて、もっと言えば文章を書きさえもしないけれど、小説家たり得るのか?」という問いが建てられます。


実際の指揮者は楽器の演奏も堪能ですが。たぶん可能です。前章で挙げた『和泉式部日記』が、本人作ではない可能性があるように。井原西鶴の著書の多くが、弟子の代筆の可能性があるように。そこら辺りが、考えるヒントでしょう。答えは書きませんので、各自が考えてみると、良いでしょう。これは遺題、ということで。ちなみに篁は「小説家に文体は必要ないが戦略として作ったり、個性として滲み出るのはあり」と考えております。この芥が龍之介の模倣の文体は、その一環でございます。


あしたく先生の小説講座を聴講いたしまして、文章をどう教えるか、という気づきを得ました。結論だけ申しますと、アニメの動画マンや原画マンのように、先ずは文章を書く人は、個性を消すことから始めるのはありだろうな、と考えます。ある落語家とお話したときも、前座時代はむしろ個性を殺して、落語をやるための基礎を固める、とおっしゃってました。それがわからなかった頃は、真打ちの落語家のマネをして個性を出そうとして、稚拙な落語を披露していたと。


かつての新日本プロレスの前座も、パンチキックエルボーだけで試合を組み立てたようなもので。メインエベンターを努められるようなレスラーは、多種多様な技を繰り出し、観客を飽きさせませんが。そこだけ注目すると、本質が見えなくなりがちでしょう。では基礎とは何か? 人それぞれ考え方はございましょうが。取り敢えず、個人的に思うことをポツポツと、カクヨムの方でも書いてみたいと思います。


土台という基礎の上に、作家個々人の個別性が構築される。それは、UNIX系のオープンソースフリーBSDをベースにしたDarwinが、MacOSやiOSの基幹部分にあって、インターフェイスはApple独自のものが構築されているようなものでございます。基幹部分は、できるだけ無色透明で、万人向けであるべき。逆に、インターフェイスは個性的な方が、読者に届きやすいのも事実でございます。

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「ラノベ作家の文章なんか中学生でも書ける」の考察 篁千夏 @chinatsu_takamura

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