③上手さと個性は別基準

■「ラノベ作家の文章なんか中学生でも書ける」という批判は、漫画の世界だと「片山まさゆきの絵なんて小学生でも描ける」という暴言と同じです。そりゃあ描くだけならねぇ〜、という話でしかないです。それで片山先生のように読者を笑わせられるか、感動させられるか、メジャー誌で売れるかは、ま〜ったく別の話でございす。木を見て森を見ず。イラスト的な上手さは、物語を綴る漫画の上手さとは、別物です。


誤解している人が多いですが、漫画家とはイラストレーターよりも、小説家に近い職業です。絵も描ける小説家、と言ったほうが良いでしょう。キックボクシングが台頭してきたとき、ボクシング関係者は「なんだあの稚拙なパンチ技術は、ワンツーさえ不格好だ」と、笑いました。そして、多くのボクサーがキックボクシングに転向しました。小説家の安部譲二先生も、その一人でございます。ところが、その稚拙なパンチにボクサーが沈められたのです。キックが入るだけで、技術体系は似て非なるものになります。


また商業プロにおいては写実的な上手さよりも、誰が見ても○○先生の絵だとわかる個性のほうが、はるかに大事でございます。模写から入っても、個性の確立がないと、器用貧乏なフォロワーで終わります。小説家だとそれは、文体と呼ばれる部分でしょうか? いずれにしろ絵が上手いだけで、自分の個性がないなら、プロの漫画家は難しいです。上手さと個性的は、別の基準。これをゴッチャにする人間が、とても多いですね。これは小説も同じでしょう。


■絵は上手いけれど、これといった個性がないなら、アニメの動画マンや原画マンになれます。何を描いても個性が強く出る人間は原画マンにも動画マンにも向かないです(価値の上下優劣の話はしていません)。しかしクセが強すぎるけれど、オリジナリティのある人物が描けるのなら、キャラクターデザイナーや漫画家になれるかもしれません。実際、知り合いの漫画家は元アニメーターで、そのタイプだったので転向しました。でも個性のある絵が描けても、面白いストーリーが描けるかは、また別の話ですからね。


オリジナルの絵があって、話が作れて、演出力があると、宮崎みやざき駿はやお監督のような映像作家になれるかもしれません(もっとも宮崎監督自体は、手塚てづか治虫おさむ先生の影響に悩んだそうですが)。でも、庵野あんの秀明ひであき監督のように高い画力はあっても、キャラクターデザインは貞本義行先生に、作画監督は他の人物に任せて、でも作家性を発揮する人もおられます。さらに高畑勲監督のように、絵がほとんど描けなくても、優れた演出アイデアや、監督作品を生み出して、宮崎駿監督を唸らせるタイプの人もいらっしゃいますから。


最初の論点に戻せば、かような部分がわかれば「ラノベ作家の文章なんか中学生でも書ける」という断定が、いかに底が浅く薄っぺらい議論か、わかりますよね? 「 書くだけなら、そりゃ書けるよね、だから何?」という話でしかないです。繰り返しますが、書けることと商業的な成功は、あくまでも別の話でございますから。それで何か解った気になって屋下に屋を架しても、得るものは少ないでしょうね。

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