終話 Halloween night

「見たところ、怪我をなさっておられるようですがね、医者に寄りますか?」

 港へ向かう馬車を走らせながら、御者台のレンフィールドは、となりに座るあるじの身を案じた。

「必要ない。血は出ているが、なに、ただのかすり傷だ」

 篠突しのつく雨はあいかわらずだが、御者台にはしっかりした雨除けがついていて、厚手の外套を着込んでおけば、そう酷く濡れることはない。

「港へはもうすこし急いだほうがいいんでしょうが……この雨じゃ、今日はこれ以上、馬を急がせるのは無理でさね、旦那さま。道が悪すぎて踏み外してしまいますでね」

「心配ない、レンフィールド。足止めを用意しておいた。彼らが我々をすぐに追いかけてくることはない」

 先日の舞台でルーシー役を演じていた女優、御者の男……ここ数日のうちに青年が『死の向こうがわ』に引き入れた者たち。

 彼らを閉じ込めていた地下室の鍵を、青年は屋敷を出るさい、開けておいた。

『今はまだ夕方とはいえ、こちらがわの住人になってから一滴の血もすすっていない餓えた者たちだ。それなりに楽しんでもらえると思うのだがね……ミス・ヘルシング』

 青年は頬杖を突き、滝のような雨を眺め遣りながら、うっそりと微笑んだ。

「しっかし、旦那さま……あいつら、とんでもないやつらだと思いますよ。いつもいつも旦那さまをつけまわして、勝手に屋敷に上がり込んでくるわ、物は壊すわ銃を撃つわ旦那さまに怪我をさせるわ……酷いことをしくさってね。旦那さまがお怒りにならないのが不思議でならないんでさ」

 義憤ぎふんに駆られて怒るレンフィールドをちらりと見遣り、

「退屈しのぎにちょうどいいのだよ」

 と、青年は言って目を閉じた。

 二十年前に立てた当初の計画……英国侵攻はヘルシング教授たちの機転と行動力、そして幸運が、すこしばかり私のそれを上回っていたがために、はばまれた。

 それは認めよう。

 どう言いつくろっても失敗した事実には変わりがない。

 だが、私は新しい遊戯を見つけた。

 いずれはどこかの国を征服する……またそんな計画を立ててみるのも悪くはない。

 世代を超え、生死を賭け、人間とかかわる……この遊戯を愉しみ尽くしてから。

 なにも焦る必要はないのだ。

 神の深慮によって幕引きされる人間の命を、私は持たないのだから。

『私が滅びぬ限り、私のつけた牙のあとが消えることはけっしてない。君の血に混じった私の毒が、すこしずつ君の清らかな魂をむしばんでゆく気配におびえながら……私を追っておいで、ミス・ヘルシング。これまでよりも熱烈に。……愛しい男を追う情熱と狂気をもって』

「その狂熱こそ、我が花嫁にふさわしい」

 青年の幽かな呟きは、遙か北のほうで鳴り始めた遠雷の音に紛れて、従僕の耳には届かなかった。

「私の留守、城を守っていた私の可愛い三人の花嫁たちは、君のおじいさまたちが滅ぼしてしまった。だから君には、彼女たちの代わりをしてもらう義務があるのだよ」

 彼には思い描くことができた。

 凜として気高く、たおやかでありながら雄々しい彼女の魂が、彼の前に膝を屈し、人の血に渇いてちてゆくさまを。

 生命に輝く澄んだ瞳が、嗜虐の快楽に曇り、被虐の悦びに濁ってゆくさまを。

「この世はなんと猥雑で醜悪で……かくも美しい。そう……この私がながらえるにあたいするほど!」



 天より降り注ぐ雨。

 それは慈悲深きものの哀しみの涙であっただろうか。

 天に響くいかづち

 それはおおいなるものの怒りのやいばであっただろうか。

 だが、それらはいまだ『彼』には届かない。

 ハロウィンの夜が訪れ、万聖節の朝がやって来ても。



 雨は、いまだ降り止まない。

 陽光を遮る厚い雨雲が垂れ込める空の下、世界はいまだ闇に閉ざされていた。

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Halloween night 宮田秩早 @takoyakiitigo

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