第3話 十月三十一日 なかば予期せぬ来訪客

 十月最後の日

 朝から降り続いていた霧雨は、昼には土砂降りになり、万聖節ばんせいせつの前夜祭……ハロウィンのお祭り気分をいでしまっている。

 厚い雨雲に塗り込められた薄暗い昼下がり。

 パーフリートのカーファックス屋敷はその、折からの土砂降りの雨に降り込められ、古びた廃屋の佇まいをいつも以上に際立たせて、ひっそりと静まりかえっていた。


 土砂降りの雨音にまぎれて馬のひづめの音がし、屋敷の近くで止んだ。

 乱暴に屋敷の玄関を押し開け、ばたばたと室内に走り込む複数の足音。

 さほど時を置かず、派手な音を立てて居間の扉が開く。

 椅子に深く腰掛け、あかあかと燃える暖炉を横目に、退屈そうに本をめくっていた青年は、突然、部屋に駆け込んできた闖入者に、ちらりと目を遣った。

 闖入者は、一見して二十歳になるかならずかといったところの娘であった。

 身にまとう暗紅色の外套からも、結いまとめた栗色の髪からも雨の雫が滴り、足許に水たまりができている。

 彼女が雨にたたられ、たまたま目に留めたカーファックス屋敷に雨宿りをうために訪れたわけではないことは、一見して分かる。

 理知的な蒼灰の瞳に宿る意志の煌めき。

 手にはファブリックナショナル社の自動拳銃、ブローニングM1900を構えている。

 対して、青年は黒のスラックスにサスペンダー、糊の効いたワイシャツ姿。

 ワイシャツの袖口はカフリンクスで留めないままで、ずいぶんとくつろいだ格好であった。

 当然ながら、身に武器など帯びてはいない。

「どうしてあなたがここに居るの!」

 たっぷりと非難の響きのする娘の言葉に、青年は深く溜息を吐いた。

「……ここは私の所有する屋敷で、しかもこんな土砂降りの日に出歩くのは、君以外の者にとっては億劫だろう? 法的にも常識的にも、私がここに居ることはおかしくないはずだが」

 淡々と……しかしどこか楽しげに青年が答えた。

 唇の端に覗くのは、八重歯と言うには存在感のありすぎるしろい牙。

「レンフィールド! なにか彼女の髪を乾かすものを持ってきなさい」

 暖炉のそばでアルマジロと一緒に火の番をしていたレンフィールドが立ち上がり、アルマジロを抱えて部屋を出る。

 しばらくして、アルマジロの代わりに別室から持ってきたのはよく乾いたタオルだ。近年、日本で発明された竹織パイル生地。吸水性に優れた高級品だ。

「よくもまあ、あんたも飽きないね」

 小声ではあったが娘には間違いなく聞えるように、レンフィールドは不機嫌さを隠そうともせずに呟いた。

 主人の客人に対する態度としては、失礼に過ぎる。

 娘の手にタオルを押しつけて、役目を果たした従僕は暖炉の番には戻らず、そのまま部屋を出て行った。

「不調法な下僕で申し訳ない。だが、あれにもなかなか良いところがあるのだよ」

 青年は、誠実さを演出する謙虚さと悔悛かいしゅんの情をほどよく加えた優雅な微笑を頬に、娘にびた。

 英国を最初に訪れたおりには、故国での習慣が抜けず、こちらの基準からすれば少々、彼の態度は尊大に過ぎたようだ。

 紳士、淑女方には随分と警戒されたものだが、それから二十年、彼の淑女に対する態度は、なかなかどうして英国風に洗練されてきている。

 スラヴなまりの強かった英語も、いまではよく注意して聞かなければそれと分からないくらいに綺麗な英語クイーンズ・イングリッシュだ。

 そう……彼は元来がんらい、学んだことを進んで実践する、研究熱心で、行動力のある男であった。

「それで髪をぬぐうといい。暖炉のそばの椅子に腰掛けていれば小一時間で乾くはずだ」

 そう言って、青年は自分の座っている椅子と差し向かいに位置する空いた椅子を指し示した。

「多少、礼儀をいている気がしなくはないが、滝のような雨を押して訪れた妙齢の女性をすげなく追い返すほど、無粋な真似をするつもりはない。ゆっくりしていくといい」

 唇の端にほのかな笑みを漂わせて、青年は言葉を続ける。

 娘は従僕の手からタオルは受け取ったものの、居間の入り口からは動かなかった。

 怒りゆえか羞恥ゆえか、ほんのりと朱に染まったまなじり。

 花びらのような唇を噛みしめて、青年を睨みつけている。

 ふたたび、ばたばたと足音がし、今度は男たちが三人、居間の入り口に現れた。

 青年の姿を見留めた瞬間、息を呑む者、苦虫を噛みつぶしたような顔をする者、手で顔をおおう者……たじろぎの見えたのは一瞬で、すぐさま手に持つ拳銃を構え直し、ぴたりと青年に銃口を向ける。

 そのさまは、出払っていたと思っていた住人に思わず出くわし、口封じの覚悟を決めた押し込み強盗のようだった。

「……あなたは、昼間はひつぎで眠っているものだと……」

 娘が呟いた。

「間違っていないが、いつもそうだと思っていたなら認識を改めた方が良い。君のおじいさまの友人、ブラム・ストーカー氏もそのあたりのことは書き留めていたはずだが」

 手に持っていた本をぱらぱらとめくり、ページを開いて机の上に置いた。

 娘はけわしい視線で青年をひたと睨みつけたまま、り足で机のそばまで歩み寄ると、本を手に取り、後退あとじさって本に目を落とした。

 本はブラム・ストーカーの書いた「Dracula」の初版本であった。

 青年が示したページには、ヘルシング教授と仲間たちが昼間、ドラキュラ伯爵が根城のひとつとしていたピカデリーの屋敷に侵入し、伯爵の柩をきよめたあと……伯爵と出会う場面が描かれている。

 ジョナサン・ハーカーの果敢な攻撃をかわしたものの、聖餅せいべいの威力にひるんだドラキュラは窓を破り屋外に脱出、呪いの言葉を吐いて逃げる……そういう場面だった。

 シーンの時間帯は午後遅く、日没の迫るころ……だが、日は沈んでいない。

 そう……ドラキュラは昼間、屋外で活動しているのだ!

「実際、その本の記述はなかなか正確だ。君のおじいさまは当然としてハーカー夫人を含め、日記の記述はみな、卓越した観察眼と理論的な思考で構成されている。ただ、結末だけは事実と違うことが書いてあるが」

 ブラム・ストーカーの書いたその小説では、英国を脱出したドラキュラは森の彼方の地……トランシルヴァニアにある自分の居城を目の前にして、クインシー・モリスの犠牲によって滅ぼされたことになっている。

 事実は、違う。

 クインシー・モリスがロマたちの攻撃で致命傷を受けたことは間違いないが、ドラキュラは逃げ切ったのだ。

 ドラキュラを滅ぼした……そう結末が改変されているのは不当であると、青年は非難の声を挙げるつもりはなかった。

 人間だれしも、『正義の味方』が活躍する物語を好むものだ。

 そしてまた、青年は勉強不足の彼女を責めるつもりもなかった。

 祖父の死に直面し、祖父の衣鉢いはつを継ぐと決意した彼女を、青年は賞賛こそすれ、おとしめるような真似をすることはけっしてない。

 彼女が祖父の代わりに青年を追い始めて一年足らず……青年は「ドラキュラは昼間に行動できない」と誤解するように、自身の行動を演出し、巧妙に印象を誘導してきた。

 もちろん、ヘルシング教授とともに戦い、過去を知る仲間が彼女にはついている。

 だが、人間の記憶ほど信用できないものはない。

 現在の印象に引きずられ、二十年前の記憶が曖昧になる……よくあることだ。

『それを怖れ、教授は友人に頼んで事件の記録を書き留めさせたのだろうが……無駄だったわけだ』

 ミス・ヘルシング……娘が本を机の端に置き、拳銃を構えなおす。

「……昼間行動できたとしても、関係ないわ」

 感情を抑えた声音で、みずからに言い聞かせるように呟き、銃口をまっすぐに青年に向けた。

 タオルが床に落ちる。

「その凜々しさは、まさにおじいさま譲りだね、ミス・ヘルシング。しむらくは、少々震えているところだが。まあ、それは寒さのせいだとしておこうか」

 引き金にかけた指を震わせる娘の姿に、男たちが目覚めた。

 一斉に銃を撃つ。

 至近距離で放たれた三発の銃弾を、椅子から跳ね上がるように立ち上がった青年は間髪、避けて見せた。

 およそ人には不可能な跳躍で天井に足をつき、身をひねって着地。獣の獰猛さで侵入者の群に突っ込むと、剣を、ククリナイフを抜いて青年の心臓を狙う男たちの足を払い、頸椎を一撃し、みぞおちに拳を撃ち込んで気絶させた。

 三人の男たちがものの数秒で倒されてゆくさまを目の当たりにし、娘は呆然とした眼差しで、しかし気丈にも銃口だけは青年に向けて、ただ立ち尽くすのみ。

 ここにいまは亡きクインシー・モリスがいたならば、あるいは吸血鬼狩りの頭脳であり、優れた指揮官であったヘルシング教授がいたならば、結果は変わっていただろうが。

 いま、ミス・ヘルシングを護るのは、弁理士であり、貴族であり、医師であった。

 そして、ミス・ヘルシングには圧倒的に経験が足りなかったのだ。

「シャーロック・ホームズだったか……日本の武術バリツを駆使して素手で敵と戦う描写に興味が湧いてね。いつか君に披露しようと思って、こっそり型を習っていた。付け焼き刃にしてはなかなかだったろう?」

 娘は身体の奥底から湧き上がる恐怖を必死に抑えながら、素早く床に倒れ伏す仲間たちの胸が動いていることを……気を失っているだけで呼吸があることを確認し、覚悟を決めたように「なにが目的なの?」と青年に問うた。

「もちろん、君が目的だ」

 青年は深紅の唇を歪め、毒蛇の微笑を浮かべて答える。

「じつのところ、今夜、私のほうから君を訪れようと思っていたのだよ。ハロウィンの来訪者として……私ほどふさわしい者もないと自負しているのだがね」

 娘が引き金を引いた。

 その銃弾はたしかに青年の左胸の下……胸と腹の境目あたりに撃ち込まれ、シャツに血の華を咲かせる。

 だが、それだけだった。

 青年が素早く距離を詰め、有無を言わさず娘の腰を抱いた。

「私を滅ぼすには、首を切断するか、心臓を一撃するかだ。それ以外の傷は、夜の訪れとともに癒える」

 拳銃を持つ腕を捻りあげ、娘が堪らず、銃を床に取り落とすのを確認し、その白い手首に唇を寄せた。

「半日、早くなったが始めようか……今宵が君にとって、人生でもっとも印象深いハロウィンであらんことを!」

 娘は青年の唇に零れる皓い牙が長く、長く延びるさまを目の当たりにした。

 そしてその牙が、無慈悲にも自分の手首に沈んでゆくさまを。

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