第2話 同日、屋敷にて従僕との会話

 キングス・ストリートの脇道をふたつ抜けて、寂れた街路で客待ちしていた馬車をつかまえた青年は、まだ夜が浅いうちにパーフリートにあるカーファックス屋敷に帰り着いた。

 石造りの古い廃屋は、彼が二十年前に購入してからというもの、人を使ってときおり手を入れているのだが……どんなに改修を重ねても、長い歳月の重みに耐えかねるように、その古びた佇まいを拭い去ることができずにいる。

 すなわち、現在も購入当時とさして変わらぬ廃屋の味わいを堪能できる屋敷、と言うわけだ。

「このさい、建て替えたほうがいいのだろうか? 地下室をいまよりも広く取って、地上の間取りも今風にして……窓は今のまま、少ない方が好ましいが。……どう思う? レンフィールド」

 背後に馴染みの人の気配を感じて、青年は声を掛けた。

「どう思うもなにも、無駄な努力じゃないですかね、旦那さま。このあたりときたら、川のそばの低地だもんで年がら年中湿気が酷くて、地下室なんざすぐにかびだらけになっちまうし……それにどうせまた、ひとつきかふたつきで追い出されるのがオチなんですから」

 青年の背後で、厩のそばの薪小屋から持ってきたものだろう、暖炉用の薪を抱えた男が、そう言って諦めたように溜息を吐く。

 よいしょとばかりに薪を肩に担ぎなおし、屋敷の古びた玄関扉を片手で押し開けて、

「お帰りなさいまし、旦那さま」

 と、男はずいぶん略式ではあったがお辞儀をしてみせた。

 青年に『レンフィールド』と呼ばれた男は、十年ほど前に青年がホワイトチャペルの塵溜めのそばで行き倒れていたところを拾ってきたのだ。

 男の本当の名は、ドナルド・フレミングだかドーン・フレディだかドミニク・フロイだか言うのだが、

「私の従者なのだから、おまえは『レンフィールド』だ」

 という青年のひとことで、男の呼び名はレンフィールドに決まってしまった。

 男にしても死にかけていたところを助けてくれた命の恩人であり、かつ衣食住を与えてくれる有り難い雇用主の青年が、自分のことをなんと呼ぼうと構わなかったから、敢えて訂正していない。

 ものごころついた頃に親に売られ、煙突掃除から始まって船荷の積み卸し、船の石炭夫、どぶさらい、物乞い……あまりいい人生を歩んでこれなかった元の名に、それほど愛着があるわけでもなかった。

 気になることと言えば、レンフィールドはたぶんファミリーネームのほうだから、ファーストネームはなんだろう……ということくらいだ。

「旦那さまのご指示どおり、荷造りは済ませました。……で、今回はどちらに出国なさるんで?」

 玄関広間の脇にある暖炉のそばに薪を積み上げ、「どうなさいますんで?」とばかりに、あるじのほうを振り返った。

 石造りの室内は締め切っているというのに骨まで染みる寒さで、屋敷の建つ土地柄のせいか湿気が酷い。

 主は暖房など要らないと言うが、湿気で黴びた壁を掃除するのはレンフィールドの役だったから、レンフィールドはすこしでも黴取りの掃除をしなくて済むように、毎日せっせとの世話をして部屋を暖め、屋敷の湿気を暖炉から追い出している。

 だいたい以前、主が南米を旅したときに、気紛れに拾ってきた血吸ちすいコウモリだのアルマジロだのを屋敷で飼っているものだから、今夜のような雨上がりでいつも以上に冷えそうな夜には、室内の保温に気を遣う必要があるのだ。

 コウモリもアルマジロも、見てくれは奇怪な生き物だが、目が慣れると可愛いものだ。

 そういう生き物が生まれ故郷を遠く離れ、慣れない環境で、寒さに縮こまっているのは可哀想だった。

 レンフィールドの主も常々言っている。

『我らは故郷の土にはぐくまれしもの。そこに生きた人々の血と汗、腐肉の上に作物を育て、牛馬を飼い、それを養分としてきたのだ。当然、故郷を離れれば、その力は弱まる。我らには故郷の土が必要なのだよ』と。

 言っていることの半分も、レンフィールドには理解できないが、生まれ故郷を離れると、食も暮らしも変わって身体が弱る……ということだと、自分の経験に照らして理解していた。

 親に売られて故郷を離れ、倫敦にやってきたときにはひどかった。

 食べ物は不味いし量も少なかった。

 煙突掃除のすすのせいかよく喉を痛めて熱を出したが、親方は一日だって休ませてはくれなかった……。

「当面必要のない荷物は馬車に積み込んでおくように。行き先はまだ決めてはいないが、十一月一日に英国をつ」

 杖を置き、シルクハットを帽子掛け引っかけながらの素っ気ない返事に、レンフィールドは過去を思うもの思いから目を覚ました。

 そしてふたたび溜息を吐く。

「そんなのんびりしたこと仰ってなさると、また押しかけてきますよ……まあ、それも旦那さまにとっちゃ望むところなんでしょうがね」

 また旦那さまの悪癖が出たか……やれやれと肩をすくめはするが、所詮しょせん、レンフィールドは従僕に過ぎない。

 これ以上の抗弁は禁じ手だ。

「それはそうと、今夜は遅いお帰りでございましたね。てっきり次の行き先の旅券の手配でもなさってるのかと思ってたんですが」

 いろいろ思うところはあっても、充分な生活のかてを与えてくれてなおかつ、それなりに好き勝手をさせてくれるこの主のことを、レンフィールドは慕っていた。

「いまロイヤル・オペラ・ハウスにかかっている舞台を観てきた。あとは……食事だな。そうそう、明日の昼、ヤードの連中が屋敷の近くの川に沈んだ乗合馬車と御者の死体のことで聞き込みに来るかも知れない。事件にせよ事故にせよ、私のあずかり知らぬことだから、いつものとおり、適当にあしらっておいてくれ」

 カフリンクスとタイをはずし、青年は普通ならば主人の部屋のあるはずの上階ではなく、地下へ通じている階段へ足を向けた。

「あとは頼む」

 レンフィールドの応えも確かめずに、青年は地下へと姿を消した。

 主の後ろ姿を見送りながら、レンフィールドは神妙にこうべを垂れ……いつものとおり、気にしないことにした。

 彼の主が、屋敷ではぜったいに食事をしないこと、昼間は地下室で……なぜか悪趣味なことにひつぎの中で眠っていること、十年前初めて会った時から、まるで歳を取ったように見えないこと……気にし始めれば切りがない。

「しかし旦那さまも、もの好きな方だね。ご自分がいつもやっつけられる舞台をご覧になって、なにが楽しいんだか」

 レンフィールドは舞台を観たことはないが、聞くところによるとその物語では、彼の主人は非常に邪悪な、人間ですらない怪物として描かれているというではないか!

 しかもその舞台の原作本は、主人を実際に知っている人物が、主人をモデルにして書いたとも聴く。

 よくもまあそんな酷い話を名誉毀損めいよきそんで訴えもせずに野放しになさっているとは……旦那さまはつくづく、もの好きで寛大な方だと、レンフィールドは思っている。



 そう……レンフィールドの主の名は、ドラキュラ、と言うのだった。

 異国の……墺太利おーすとりあの爵位を持っていて、たしか「伯爵」だったはずだが……レンフィールドは青年みずから、この称号を用いたところを見たことはなかった。

 いつのことだったか、独り言のように「我が来歴は、ハプスブルクの血よりもよほど古いのだよ」……そう呟いていたことをレンフィールドは覚えているが、それがなにを意味するのかは、彼には分からなかった。


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