Halloween night

宮田秩早

第1話 十月三十日、劇場前にて

 こつこつと杖の先で雨に濡れた石畳を歌わせながら、青年は、夜なお明るい華やかなコヴェント・ガーデンの一角いっかく、キングス・ストリートを東向きに、軽やかな足取りで家路をたどっていた。

 舞台が始まる前に降っていた雨はすでに止み、薄曇りの空、雲の切れ目からは、ときおり、猫の瞳のような三日月が顔を覗かせている。

 十月も終わりに近い夜、雨上がりの風は身体に冷たくまとわりつくようで、上着がなければ凍えてしまう。

 ロイヤル・オペラ・ハウスにほど近いその場所には、今宵こよいの舞台を堪能たんのうし、余韻を楽しむべく遊歩ゆうほする紳士淑女のさざめきと、帰宅を急ぐ馬車のわだちの音で騒然としていた。

 その喧噪のなか、ひとり歩みを進める青年は、すこしばかり周囲の風景から浮き上がっているように見える。

 襟の折り返しの艶も美しい漆黒の燕尾服に、白蠟はくろうの如き蒼冷めたウィングカラーのシャツ。

 シャツと揃いの白のタイ、ダブルブレストのウェストコート、鍔の反りも美しいシルクハット、白真珠のカフリンクス、白の革手袋。

 象牙の握りのついた黒檀の杖を持ち、一点、鮮やかな深紅のポケットチーフを胸に飾ったその姿は、非の打ちどころなく貴顕紳士きけんしんしそのものだ。

 しかし、端整でありながらもどこか野性味のある鷲の如き顔立ちは青年のものであったが、その表情には、年老いた達観が染みついていた。

 痩せてはいたが精悍な身体つきとは印象を異にする蒼白い肌、不自然なほど紅い唇。

 彼の不自然さを敢えて形容するならば、貴族的な装いの内側に秘められた、見る者の魂を密やかにおののかせる違和感……と、言ったところだろうか。

 すべてが整っているのに、なにかが破綻している。

 それは現世の事象では計り知れない、異境の気配。

 おりしも、彼を追い抜こうとした馬車馬が、突然、首を大きく振って蹈鞴たたらを踏み、御者を慌てさせていた。

 むろん、御者は馬がなにを嫌がっているのか、気づかなかっただろうが。

「げにもぎょしがたきは太古の野生……それに引き替え、人間ときたら」

 だれに語るともなく呟いたその唇の端に覗く、月光にさらされた骨の如きしろい牙。



 彼の屋敷はパーフリートにあった。

 二十年ほどまえ、初めて英国を訪れたとき、居を構えた場所である。

 倫敦ろんどんの中心地、シティからは十二マイルと、ずいぶんと離れた場所であったから、いまにして思えば、少々、不便な場所だ。

 不便ではあっても、そのぶん閑静で人の目を気にせずに振る舞えたから、青年はその場所を最初の棲処に選び、購入したことを後悔してはいない。

 余談ではあるが青年の外見から言って、二十年前の彼はまだ幼年学校に入ったばかりだったはずだが、『青年がその場所を最初の棲処に選び、購入した』のは間違いではない。

 なぜなら、青年は二十年前からまったく老いていないのだ。

 二十年前の彼を知る者が、いまの彼を見れば、その、まるで老いていない……むしろ若返ってすら見えるようすに驚くことだろう。

 もっとも彼の素性をよく知る者にとっては、さもありなんと、頷くばかりだろうが。

 そう……彼は、本当の意味で老いることがないのだった。

 時として、老いて見せることもありはするが。

 英国、倫敦。

 これほど生命力にあふれ、背徳と欲望の許容される街……世界帝国として異境の力すら養分として広がりゆく街にあって、彼が老いることなどありえない。

 ともあれ、彼の今いる場所からパーフリートの屋敷まで、普通の若い男性の足で歩いて四時間。

 どこかで馬車を拾わねばならない。

『すこしとうのたった雌馬なら、暴れることもあるまい』

 人間に馴染んだ動物は、感覚も人間に近くなるものか……異質なものに対して鈍くなることが多い。

 経験に照らして、そう思う。

「狼の足なら、一時間もかからないが……そう急ぐこともない」

 歌うように呟いて、小刻みに杖を振って耳に残る楽曲の、切々と哀しい小節を石畳に刻む。

 すこしばかり散策を楽しみたい気分だった。

 『永久とわに君を想う』……婚約者の青年みずからの手で胸に杭を打たれるうら若き乙女……その場面で流れていた曲だ。

 主旋律は、胸掻き乱す官能的なヴァイオリンの調べ。

 今夜の、あの演奏者はよく分かっていた。

 死をもたらすことは、究極の愛を与えることに等しい。

 そう……『彼女』は、我が愛を捧げる相手として、悪くはなかった。

 容姿の美しさ、物腰の優雅さは彼女の血の高貴さにふさわしいものだったし、感情の起伏の激しいところは私の好みに合っていた。

 甘やかされて我が儘に育った彼女を組み敷いて、その魂を征服し尽くしたときの高揚……満ち足りた人生とは、ああいう瞬間のことを言うのだろう。

 願わくは『彼女』にとっても、私との交歓こうかんの時が、彼女の短かった人生において最良のひとときであったことを。

「今夜、『彼女』を演じていた女優の演技は、いささか物足りなかったが……まあ、いい」

 楽屋に花束を届けるついでに味見した彼女は、演技のつたなさをおぎなってあまりある、その若さにふさわしい華やかで芳醇な味わいだったのだから。

 今宵のロイヤル・オペラ・ハウスの演目は、『Dracula』。

 一八九七年、ヘンリー・アーヴィングの主演で当たりを取って以後、十五年間……アーヴィングが一九0五年に急死してからも役者を変え、演出を変え、定期的に上演される人気の演目であった。


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