第6話 黎命
夜のもっともふけた頃に馬は足を止めた。
『着いたぞ』
御者台の方から荷台にいるリカの耳へ、父の声が届く。どうやらフェンレイが元いた場所……フェンレイの終わりの場所へ到着してしまったらしい。フェンレイは父の言語を理解していないが、察したのか箱から立ち上がった。
「フェンレイ……」
「私は行く。もう止めるな」
フェンレイの眼差しは幌の外へ向けられていた。その目は寂しげなのに、まっすぐだ。
「フェンレイ、生きて。せめて、死なないで」
「リカ。お前が私を生かそうとしてくれたことには感謝する。だが、余計なお世話だ」
フェンレイは荷台を蹴り、外へと飛び降りた。
「フェンレイ!」
外へ顔を出すと、そこは鬱蒼とした森が広がっていて、月明かりは道状に開けた場所にしか差し込んでおらず、木々の向こうは闇が広がっていた。
フェンレイの姿は既に無い。闇へと駆けていったようだ。リカはきっとその闇の方に彼女がいると思って、拳を握った。
「フェンレイ! ワタシたちを追いかけてきて! 一緒に行きましょう、モンスクリプタへ! ワタシ、待ってるから!」
声は夜闇へと溶けていった。フェンレイに届いただろうか。それとももう届かない所まで行ってしまっただろうか。いずれにしても、もう彼女へは手が届かない。
リカは全身が脱力するのを感じた。その場に座り込む。フェンレイはもういない。この世から居なくなってしまう。彼女をはじめて見たとき、ワタシみたいって思った。同じ悲しみを持つ者同士だって。だからきっとわかりあえるって、どこかで期待していた。でも違った。ワタシのこの手からすり抜けていった。
「フェンレイ……」
孤独感と罪悪感を感じる。胸が締め付けられる。そのとき脱力していた体がこわばり、急に息が止まった。
次の瞬間、リカは父の胸に抱かれていた。そして口には金属のものが差し込まれている。馴染みのある草の香り。咥えているのは煙管で、反対側の皿で草が焚かれていた。
『落ち着いたか』
『うん……。また、起こしちゃったのね。ごめん』
『気にするな』
頭はまだぼうっとしている。感覚でいえば一瞬の出来事だが、実際には何分か経っている筈だ。気がついたばかりでは頭も体もまともに働かないが、フェンレイはもうこの馬車から遠いところに行ってしまっているのだろうということは想像がつく。そう思うと、涙が込み上げてきた。泣くまいと、煙管を強く吸う。
『座れるか? 悪いが早くここを発ちたい』
『雲は出てないから、月明かりは問題ないわ』
『そうじゃない。あまりこういう所を何度も行き来するものじゃない』
『え?』
『リカは、もう少し落ち着くまで、それを吸っていてくれ。……潜んでなければいいが』
その言葉にリカは戦慄を覚えた。
■
暗い森の中でも、フェンレイは目的の場所がどこにあるのかがわかった。馬車の停められた位置がどうやらあの場所の近くだったようだ。ただ、森の奥は恐ろしく暗い。あの薬煙を吸ってから、光は眩しいほどに明るく見えるが、一方で闇はまるでそこに吸い込まれそうなほどに暗く見えた。その闇へ足を踏み出すたび、そこへ落下してしまうような恐怖を感じた。
小さく開けた場所に出た。そこに月明かりが降り注いでいる。草がまばらに生えるその場の中心に、腰くらいの高さのものが立っていた。かかっている蔓を払い除けると、隠されたそれが姿を表す。
緋色の柄の先端に金輪があり、鍔は無く、銀色の刀身は真っ直ぐで、炎の紋様が刻まれている。
それはかつてフェンレイが王・
「……
ここに王女・菊花は眠っている。
菊花の亡骸を運んだ後、リカたちの手によって、彼女はここに埋葬された。儀礼用の直剣は墓標の代わりだ。
フェンレイは思い出していた。その直剣で剣舞を披露したときのことを。それはフェンレイにとって、菊花のためだけの剣舞だった。その剣の技をもって、彼女をいつまでも守っていく、と誓ったのだ。でも、守れなかった。あの瞬間を思い出すと、フェンレイは胸が張り裂けそうになる。
崩れ落ちるように膝をつくと、地面は冷たかった。菊花のあの温もりはどこにも無い。
フェンレイは、菊花がこの冷え切った地面の中で凍えているのだという思いに囚われた。無意識のうちに素手で地面を掻く。だがそれは硬く、ただ自身の指を傷つけるだけ。土が爪に入り込み、指はかじかんで、黒く汚れた。
「どうして私は、菊花様に何もしてあげられないんだ……」
彼女が寒い思いをするようなときは、暖炉に薪をくべ、厚手の服を用意し、温かい茶を淹れる。菊花はそれに微笑んで礼を言い、フェンレイを褒めてくれる。
「菊花様……」フェンレイは直剣に向かって頭を垂れた。「申し訳ございません……私はあなたに何もできなかった……お許しください」
洋服の懐に入れていた布を引っ張り出し、剣の前に供える。それは、フェンレイの友であり、特別な情を寄せてくれていた
「鈴香、すまない……私のせいだ……。許してくれ……」
冷たい風が吹く。風は木々を揺らし、葉擦れの音が大きく響いた。
フェンレイは腰の刀の柄を引く。森のざわめきの中で、硬い金属音が響く。騒動のときから手入れをしていない刀身は黒く汚れていた。
凍える菊花にしてあげられることは一つしかない。自らの体であなたを暖めることだけ。私はここで土になるのだ。フェンレイは両手で柄を握り、切っ先を自身の腹に向ける。幾人もの男を斬ってきたこの刀の斬れ味はよく知っていた。刀を持つ両手に力を込める。これで終わりだ。
そのとき、儀礼用の直剣の刀身が光った。地面、草、木々が照らされ、肌を撫でる空気は暖かさを持ち、緑の香りが湧きあがる。
「……菊花様?」
フェンレイの手は止まっていた。差し込む朝日が、彼女からの呼びかけであるように思えた。
「菊花様……」
冷え切った身体が陽の温もりに包まれる。光はまばゆく、フェンレイは目を細めた。力強い夜明け。それは菊花に生きることを促されているようにフェンレイは思えた。
力を抜き、刀を脇に置く。朝日に輝く直剣を眺めていた。菊花様は、私に生きろと言っているのか。なぜ? これから何をすればよいのだろう。
しばらくそうしながら、畳んだ衣装を見やる。
「汚れたままでは、鈴香は許さないだろうな……」
衣装は大量の血を浴びている。川で洗ってやろうと、それを持って広げる。
「……これは」
衣装に血は付いていなかった。鈴香がはじめて見せてくれたときのように、赤黒の美しい生地に戻っていた。
「リカ、か」
自身が意識を失っている間に、リカが洗ったのに違いない。
「不思議な奴だ……。そう思うだろ? 鈴香」
フェンレイは心のなかで問いかけた。返事はない。代わりに、爽やかな風が吹き、木々の葉擦れの音を運んでくる。
「あいつは、赤の他人の私に、生きろと言った。モンスクリプタとかいうところへ行こうと言ってきた。意味がわからない」
笑いがこみ上げてくる。
「何を考えているのか。なぜ、一緒にって……」
一緒に来てという、リカの言葉。項垂れる彼女の姿。自身へ縋る彼女の感触。それらが脳裏に蘇った。彼女はただのおせっかいではない。彼女もまた、何か大きな事情を抱えている。かつての菊花のように。
「菊花様……私は、どうすれば」
その面影を思い浮かべる。亜麻色の髪。小さく綺麗な手。澄んだ漆黒の瞳。
――優しいあなたが、わたしの誇りです。
別れの前日に菊花から贈られた言葉が、フェンレイの頭の中に蘇る。それはフェンレイにとって彼女からの最高の誉め言葉で、それがフェンレイ自身の存在意義であった。
「菊花様、鈴香。ふたりなら、こう言うよな。リカを見捨てないで、と」
地面に伏して、口付けをする。
「菊花様、私は遠い西の地で償います。また逢いましょう。あなたに許してもらえるまで、私は生きます」
彼女に聞こえるよう地面に向かって宣言し、立ち上がる。洋服を脱ぎ捨て、赤黒の衣装を身につける。直剣を抜いて後ろの腰の帯に差し、そして刀は横に差し込む。そしてフェンレイは身を翻した。
リカは追いかけてきてと言ったが、足で馬車に追いつけるわけが無い。だが、なぜかそれができる気がしていた。目を閉じ、これまでに見てきた中で、最も疾い人物の姿を思い描く。あの黒い影を。
目を見開き、地面を蹴る。風を切るその背中で黒髪が揺れた。
女剣士の絶望行 砂明利雅 @sunamerim
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