第5話 霊丘
フェンレイにとって馬車の乗り心地は最悪だった。月明かりがわずかに差してはいるものの、鬱蒼と生い茂る森の木々に遮られて道は暗い。そこをリカの父が操る馬車が駆け抜けるのだが、夜は道の形や障害物が見えない分危険を伴うのに、まるで命を顧みないかのような、猛烈な速度で馬車を走らせていく。車輪が石を踏めば振動が伝わり、そのたびに荷台のフェンレイの尻は座る木箱に打ち付けられ、横転するのではと思ったほどだ。馬車に乗って以来、一言も喋らないフェンレイであったが、さすがに我慢ならず口を開いた。
「おい、こんな速さで走って大丈夫なのか」
「こんな勢いで走ることはなかなか無いわ。暗い中でなんて尚更」
すぐそばのリカはフェンレイの顔色を伺うように笑いかけてきた。
「なんだ、その顔は」
「不安なの?」
「こんなのでたどり着くのかと思っただけだ」
「お父さん、馬車を操るのは得意だから、大丈夫だと思うの。たぶんね」
どうやら普通ではない操車をしているらしい。フェンレイは疲れを感じ、うなだれて頭を手で押さえた。そうしているそばから荷台が跳ね、二人とも体が浮く。商売道具らしい麻の箱の中身も硬い音を鳴らすので、フェンレイは気が気ではなかった。ため息をつくと、リカが尻に敷いているものを引っ張り出す。
「これ使って。2枚重ねて敷くとお尻が痛くないわ」
革に綿か何かを詰めたそれを掲げてくる。出発のときから一人に1枚ずつ、木箱の上に敷いてそこに座っていたのだが。
「いらない」
「あら、そう? ワタシの分が無くなるからって遠慮しているの?」
「そうじゃない。今、痛かろうが、怪我しようが、もうどうでも……」
「もう一枚あるもの。ほら」手にもう一枚。両手に同じ革を持って微笑んでいた。「これはワタシが使うから、フェンレイはこっちよ」
リカが尻の下にそれを差し込もうとしてくるので、フェンレイは仕方なくそれを受け入れた。その後リカが座る革を見ると、薄っぺらいものであることに気付く。どうやらリカは中に何も詰めていない革に座っているようだ。
「嘘の上手いやつだ」
「なんのこと?」
「なんでもない」
フェンレイは目を瞑る。
なだらかな道が続いているようで、緩やかな時間が訪れたとき、リカが声をかけてきた。
「フェンレイは、償うなら命を断つしか無いと思うのね?」
「だったらなんだ」
「このままフェンレイを帰したら、ワタシはアナタを死に追いやったことになるわね」
「そうだな」
「そうしたら、ワタシも死ななきゃいけないことになるわ」
フェンレイはそれまで馬車の進む方へ視線を向けていたが、リカのほうを向いた。彼女は箱に座りながら、さっきまでの自分のように前を向いていた。
「お前が死ぬ必要はない」
「いいえ。ワタシも償わなきゃいけないから」
リカの表情は横髪に隠れて良く見えないが、その声は真面目なものだ。
「だから必要ない。私は元の場所へ戻れればそれでいい」
「違うのよ、フェンレイ」リカはフェンレイに笑ってみせたが、声は弱々しい。「別の話なのよ。ワタシは罪を犯した。もしかしたら、アナタよりもっとずっとひどいことかもしれない」
「まだふざけてるのか? どうせ大した話じゃないだろう」
「ごめんね。フェンレイの身に起きたことよりもつらいことなんて無いものね。でも、聞いてくれる?」
「……聞かないでもない」フェンレイは少し間をあけ、顔をそらしながら答えた。
「ありがとう。……人を、殺したの」
呟きのあとの沈黙は長かった。フェンレイは息をするのもためらうような静寂に耐えかね、口を開く。
「私は数多の人を斬り捨ててきた。それに比べれば、大したことじゃないだろ」
「でもアナタ、武器を持ってる人しか斬らなかったんじゃない?」
フェンレイは言葉が詰まってしまう。意識したことは無いが確かにそうで、まるでリカに心の中を覗き込まれたような気分になった。
「ワタシは、そうじゃない」
「……たかが一人であれば」
「たったひとり……ただ、ひとり」
リカの声は震えている。フェンレイは再び黙り込み、今度は彼女のほうを見た。
「ワタシの唯一の、母親。とても優しくて、ワタシを可愛がってくれた。そんなお母さんを、ワタシは殺したのよ」
月の光で淡く照らされるリカは、眉を寄せながら、悲しげに笑っていた。その蒼い瞳に吸い込まれそうになったとき、リカは箱からずり落ちて膝をつき、フェンレイの肩を両手で掴むと身を寄せてきた。
「行かないで、フェンレイ」
耳元で囁かれる。肩に食い込む爪が痛い。フェンレイは逃れようと腕を振った。
「やめろ」
「ねえ、フェンレイ。独りにしないで。ワタシもう、耐えられない。アナタもそうでしょう? だから一緒に来て」
リカは湿っぽく、堰を切ったような話し方で訴えかけてきた。それに比例して、肩を掴む力も強くなる。
フェンレイはふと、過去を思い起こした。あの悲劇の前夜、涙を流す菊花を抱きしめたときに感じたものと、今のリカの体温、震え、吐息はどこか似ていた。
「フェンレイ、お願い」
「私は……」だが、彼女は菊花ではない。菊花様はもういないのだから。リカの願いを聞くことよりも、菊花に対する贖罪を果たすほうが大事だった。「お前とは居られない。死んで償うしかない」
しかし、リカの体は離れなかった。それどころか、ますます強く抱き締められる。
「“モンスクリプタ”へ行くの」
そのリカの異国語は、はっきりとフェンレイの耳に届いた。
「モンスクリプタ?」
「ええ」リカは体を離し、向き直って話を続けた。「“死者の丘”。遥か西方のその地には、死した者の集まる場所があるの。そこで沢山の責め苦を受け、亡者に裁かれることで、その人は償いを成すことができるわ。アナタの罪も、きっと……」
「亡者に裁かれれば償えるだと? そんなことであの人に償えるわけがない。妙な嘘をつくな」
フェンレイがそう言い捨てると、リカは顔を伏せる。
「本当よ。信じて」
「信じれるものか。そんなのバカげた話だ」
言葉を投げつける。リカは、俯いていた。
「本当だもの……」
その憐れな姿に、フェンレイはそれ以上言う気が失せてしまう。しばらくお互い黙っていたが、いたたまれず声を出す。
「お前は、お前の父とその地へ行ったらいいだろう。私は関係ない」
それからもリカは黙り込む。フェンレイはただ馬車の揺れに身を任せていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます