第4話 償燥
土壁の宿の部屋は暖炉と蝋燭の光で照らされている。さっきまで換気のために開けていた窓はもう閉めていた。
テーブルを挟んでリカの向かいに座るフェンレイは、スプーンを手にカップの中の粥を掬っては、口に運んでいた。洋服を着させているときの彼女はまだうつろだったが、今は一心不乱という様子で粥にがっついていた。
「味は大丈夫だったかしら? お米はこの地域で仕入れたのだけれど、味付けはこちらの人の舌にあっているか、自信がなくて……」
「どうして、美味しいんだ」言葉を遮るようにフェンレイは呟き、さじを持つ手を止める。「ジファ様もリンシャンも、もう食事を楽しむことはできないのに、私は」フェンレイは手のひらで額を押さえた。その手は震えていた。
「薬煙には食欲を増進させる効果があるの」
「薬……煙? おまえが私に吸わせていた煙か?」
「そうよ。だから、アナタが今おいしいと感じているのも、さっきまでよく眠れていたのも、薬煙のせい」
「なんなんだ、あれは。天と地の向きが、時間の感覚が狂ったみたいになって。私が知らないうちに、おまえに何でも喋っていたとかいうのも、それのせいか」
「いいえ。喋り続けていたのは煙を吸わせる前よ。逆に薬煙で治まったでしょう」
「なに……?」
フェンレイはまた頭を押さえてしまった。せっかく薬煙で緩和したというのに、またフェンレイの脳は混乱をきたしている。
「いまは休みましょう。つらいことがあったのだから」
「私は……こんなことをしている場合じゃない」
フェンレイはスプーンを置いて立ち上がろうとするが、ゆらりとして倒れる。
「無理しないで」
リカは椅子から立ち上がって、フェンレイを支えた。さっきまで血色を取り戻せていた彼女の顔はすでに蒼白で、目元に隈が出来ている。やはり、憔悴しきっていた。
「ここはどこだ? 戻らなければ……あの方のところへ」
「ここは貿易街道の東端近くの宿よ」
「なんだって?」フェンレイは俯いたまま声を強めた。「いつの間に、そんな遠くに」
「馬車でアナタを連れてきたの。放っておけなくて」
「勝手なことを。戻るにはどうすればいいんだ」
「とても歩いていける距離じゃないわ。だから……ムリ」
フェンレイの手がリカの胸ぐらを掴む。
「ムリだって? 馬車があるんだろ。それで私をもとの場所まで運べ」
「ワタシたちは隊商に追い付かなきゃいけないの。だから、引き返すなんてできない。ごめんなさい」
「知ったことか」フェンレイの手の力が強まっていく。「おまえ、どうしてこんなことを」
「だって、フェンレイ……刃を自分に向けようとしていたから」
フェンレイの表情が凍り付く。
「……それのなにが悪い。何も知らないくせに」
「知らなくない。アナタ自身が話したわ。アナタの名前だけではなく、あの直前に、燃えたお屋敷の中で何があったかも。……アナタの、罪も」
フェンレイの瞳孔が縮む。血の気を失った顔は真っ白に染まり、唇が震えた。
「私は……死んで償うほかないんだ。私は罪を犯した。だからあのお方のところへ戻って、私は……」
「ワタシと一緒に行きましょう、フェンレイ」
フェンレイの震える手を、リカは両手で包んだ。びくりと跳ねる彼女の手をしっかり掴み、視線を合わせる。
「生きて罪を償うの。きっとできるわ」
「できるわけあるか! 離せ!」
フェンレイの荒げられた声が部屋に響く。振りほどかれそうになる手をしっかりと掴んだまま、リカは首を横に振る。
「できるかどうかは、これから確かめたいの」
「知るか! 私には関係……」
彼女の手を思い切り下へ引く。近づく顔と顔。フェンレイの赤い目は見開かれ、言葉は止まった。
「お願い、一緒に来て。ワタシも、償いたいの」
そのとき、扉が開く音がした。
『何の騒ぎだ』
『パパ……』
母国語の声はリカの父のもの。彼は部屋に踏み入ると、腰に両手を当て、リカたちを交互に睨み付ける。そしてフェンレイに目を留めると訝しむように目を細めた。
『さっきの叫び声はその異邦の女か』
『ごめんなさい。静かにしてもらうわ』
「リカ、こいつは誰だ。何と言っている」
フェンレイが手を振りほどいて異国語で話す。母国語も異国語も理解できるのはリカだけで、フェンレイとリカの父は互いに言葉を交わすことができない。
「私のお父さんよ。アナタの声が他の部屋まで響いたみたい。だからやめてって言ってるの」
『リカ、何を話しているのか知らんが、その異邦の女が騒がしい奴なのなら、連れては行けん』
『ううん。さっきはちょっと、興奮していただけ』
『正気じゃないんだろ、そいつ』
『そんなことないわ』
リカがフェンレイの顔を伺うと、彼女は目を見開いて父を見上げていた。まるで大熊に出くわした小動物のようだ。
「フェンレイ?」
『隊商の仲間に迷惑をかけるような奴は連れていけん。この宿からも出ていってもらう』
いまにもフェンレイをつまみ出さんというようにリカの父が一歩踏み出してきたそのとき、フェンレイは床に置いてあった彼女の刀を拾って部屋の角に滑り込んだ。鞘と柄を掴み、すぐにでも抜刀できる態勢をとる。まるで行き止まりに追い込まれた猫が牙を剥いたようだった。それを見てリカの父は足を止め、腰に手を当てて涼しげな目で彼女を見据える。父はもともと何事にも動じない人間で、刃物を向けられてひるむことはない。
『まるでケダモノだ』
『そんな態度はやめて。フェンレイはワタシたちの言葉がわからないのだから』
『このまま逃げ出してくれれば楽だが』
『ちょっと、パパ!』
フェンレイに対して威圧を続ける父に、その間へ割り込んで向き直る。
薬煙が強く効いているとき、あらゆるものが“大袈裟”に見える。はじめて薬煙を吸ったフェンレイはおそらく、父のことが恐ろしく見えているに違いない。
『やめてあげて。彼女はまだ今の状況に慣れていないの。混乱しているの……』
そのとき何者かに背後から胴を腕で掴まれた。強い力で押さえられる。驚いて振り返るとフェンレイだった。彼女はもう片方の手を前にかざす。眼前の銀光。刀の刃がこちらを向いていた。
「フェンレイ……」
「リカ、この男に伝えろ。私を元の場所へ帰せ、でなければ娘を殺すと!」
フェンレイの腕の力が強くなり、リカの体を締め付ける。
やっぱりダメなの? 勝手に彼女を連れてきたのは、自分の為であると同時に、きっと彼女にとっても助けになるはずだと思っていたからだ。なのにフェンレイは、全力で抵抗している。
「どうした、リカ。早く言え!」
『野蛮な女だ』
興奮するフェンレイをよそに、父は相変わらず涼しげな面持ちでこちらを見据えていた。
「本当に殺すぞ!……私が言っても伝わらないんだろう。だったらおまえから言え」
「フェンレイ、どうしてもなの? 絶対に帰るというの? そこであなたは……」
「そう言ってるだろ!」
目の前で刀の刃が落ち着かない様子で揺れていた。
彼女の言う通り、悪い子は死すべきなのだろうか。死こそ最上の償いなのだろうか。
「なら、ワタシを殺して」
「なに?」
フェンレイの声が困惑の色を孕んだ。
「ワタシが間違っていたんだわ。死ぬしかないのね。アナタも、ワタシも」
「なにを言い出すんだ。そうじゃなく……」
揺れる刃。フェンレイはあきらかに動揺していた。
「そういうことだもの。悪いコは死ぬべきね」
「おまえ……」
『仕方ないな』父がため息まじりに言った。『おおかた、元いた場所へ連れ帰せとでも言っているんだろ、その異邦の女は』父は踵を返して扉をくぐった。
『パパ?』
『今から馬車を出してやる。荷物をまとめさせろ』父は扉の奥へと消えていった。
フェンレイはリカの体に腕を回したままだったが、力は入っておらず、刀はリカの喉元からだいぶ遠ざかっていた。
「馬車で帰らせてくれるって」
フェンレイにそう言うも、彼女からの反応は無い。少しの沈黙の後、刀が降ろされたので、リカはフェンレイから離れた。
「ぜんぜん恐くなかったわ。刀、遠かったもの」
振り返って後ろで手を組みながら言うと、フェンレイは目を逸らす。
「私は本気で……」
「震える刀が当たらないよう、ワタシの体をしっかり支えてくれて。アナタ、優しいのね」
フェンレイは向き直り、口を開けるが声が出ず固まった。その顔がおかしくて、リカは吹き出しそうになるも、なんとかこらえた。
「なんなんだ、おまえは。そうやって、さっきも死んでいいみたいなことを言って、私をからかったのか」
「どうかしら。本気だったかもしれないわよ?」
「いや……もういい。私はあの場所へ帰るだけだ」
フェンレイは他所を向き、鞘を拾って刀を収めては腰にくくりつける。すぐそばの、彼女が着ていた赤黒のドレスも拾って、ドアの方へ歩く。
「待って」
彼女の背中に呼びかけたが、彼女は部屋から出ていってしまった。
リカはひとり、暖炉の灯りがゆらゆらと揺れるその部屋に取り残された。ただフェンレイの去っていった先を見つめるしかない。
結局、フェンレイを帰すことになってしまった。当たり前かもしれない。彼女がそれを望んでいるのなら。ただリカひとりが夢中になっていただけであり、彼女の本当の望みを叶えることができないのなら、止めてはいけない。
「フェンレイを帰したら、ワタシも……」
薄汚れた暗い床を見やりながら、リカは呟いた。
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