第12話

 黒いシャツも、空色の上着も、穏やかな琥珀色の瞳も。二十分くらい前に見失った時と同じだ。

 だけど、今、彼の左肩では赤く光る鷹が獲物を物色するように邪霊達を睨み、彼の右手には抜き身の刀が握られている。

「望……? どうして……」

 刀なんて持っているの?

 その鷹は、なに?

 疑問が次々に浮かんでは消えた。

 だけど、一番の疑問は頭の中でさえ言葉にできなかった。

 ――どうして、笑ってるの……?

 笑顔のまま、彼は口を開いた。

「ヤダなあ。聞きたいのは僕のほうだよ。千世さんこそ、どうして、こんなところにいるの?」

「わ、私は……、横! 邪霊がっ」

 彼の死角から跳びかかった邪霊が燃えた。邪霊を葬った赤い鷹が攻撃的な声と共に飛び立った。

(あの鷹……、どうなってるの!?)

 鷹は炎を帯び、邪霊を片っ端から焼き祓っていく。最後の一体を焼くと、クルリと旋回せんかいして肩に止まった。

「え!? どうして私!?」

 思ったよりも熱くないことに安堵するも、鋭い猛禽類もうきんるいの眼光に冷たい汗が流れ落ちる。

「あ、あの、望!? ど、どうしたらいいの!? 鷹、怖いんだけど……!」

霊符れいふの鷹だから、襲ったりしないよ。少しの間、そこを動かないでくれる?」

 口調はおっとりしていて、顔に浮かんだ笑みもそのままだ。

 なのに――、野生の狼に睨まれたような威圧感に声を出せず、コクコクと頷いた。

「そんなに怖がらなくても大丈夫。すぐに終わるからね」

 空色の上着が紫色に変わった。

 いや、彼の全身から赤い光――、火の霊気が噴き出し、その輪郭を覆っていた。

 茶色い髪と琥珀の瞳が赤く染まり、霊気が流れ込んだ刀が赤く輝く。

(……なんて強い霊気……っ)

 吹き付けてきた霊気に息が詰まる。

 燃え盛る森の中にいるような、とんでもない火の霊気だ。

 交差点で見かけた鎮守役どころではない。こんな恐ろしい霊気、妖でもそうそう持っている者はいないだろう。いや、霊獣でもここまでの霊気を持っているだろうか――?

(待って……、隠人って……、霊獣の血が入ってるだけの、人間のはずよ……?)

 仮に、彼が先祖返りで特殊なのだとしても、半分は人間だ。人間の血が入れば霊獣の力は大きく制約されて、霊体の格もかなり落ちるはずなのに――。

「さて、と」

 赤い眼が人鬼の後ろの幽霊を捉えた。

 その姿を隠すように、ムクリと青黒い巨体が起き上がる。

 鷹にやられたのだろう。鬼の頬の皮膚がただれている。怒りに顔を歪め、人鬼は奇声をあげながら丸太のような腕を振り上げた。

 対する望は軽く刀を構え――、赤い光が一閃した。

 何をやったのか。人鬼の攻撃をかわしたのか、受け止めたのか。そもそも動いたのかさえ見えなかった。

 カラン、と音を立てて黒いモノが望の足元に転がった。

 それが鬼の額から伸びていた角だと遅れて気づく。いつの間にか、望が鬼のふところまで踏み込んでいたことも。

 自分の身に起きたことを認識できていない様子で、人鬼は苦悶の声を上げながら後ろに倒れた。

 額を押さえてミミズのようにのたうち回る人鬼を顔色一つ変えずに見下ろし、彼は緑色に光る札を放った。

 吸い寄せられるように鬼の胸に張りついた札から緑色の光が全身に伸び、青黒く光る巨体がビクリと大きく痙攣した。

 大の字で地面に転がって昏睡してしまった人鬼の全身から、濁った青い煙が抜けてゆく。

 あんなに苦戦した鬼が雑魚にしか見えないくらいの圧倒的な力を見せつけた少年を、呆然と眺めた。

「この邪気の容量……、間違いなさそうですね」

 人鬼の存在などなかったように、望は浮かぶ白い影を見上げた。

「遺失物ナンバー、京一八六四一〇三番、霊具・白浄鹿はくきよか。鞍馬製の霊具でも、現で五十年も邪気を吸えば邪物化するそうだけど……、よく百五十年も大人しくしていましたね」

 口調もガラリと変わった望の背中がとんでもなく大きくて、遠く見える。

 交差点を一緒に歩いた少年と、目の前の彼は、本当に同じ人なのだろうか?

「今夜は、あちこちで人鬼を作ってたみたいだけど……、ここまでですよ……」

 般若のような幽霊の顔がさらに歪んだ。

 白髪が別の生物のようにうねり、放出された邪気が結界内を急激に満たしてゆく。先程の倍以上の早さで邪霊が生まれ、たちまちのうちに群れを作る。

 まるで動じることなく、望は軽く指を鳴らした。

 肩の鷹が応えるように一声鳴いて飛び立ち、宙で炎を帯びる。赤い軌道が描かれる度に、生まれたばかりの邪霊が靄に戻って消え、散った火の気が邪気に燃え移った。

 広がってゆく炎の向こうで、望が刀を構えるのが見えた。

 彼を包む赤が揺らめき、燃え盛る邪気の中を赤が駆けたと思った時には、刀が幽霊の胸を貫いていた。刀身から炎が渦巻き、白い姿を包み込む――!

‘ヒイイイイイィいいいいいいいいいいっ’

 この世の終わりを嘆くような悲鳴が鼓膜を抜けて頭に突き刺さった。

「う……、ツウぅ……っ」

 激しい頭痛と全身の毛が逆立つような感覚に慌てて両手で耳を塞ぐ。それでも足りなくて、背中を丸めてうずくまった。

(い、いや……! なに、この声……!?)

 悲鳴は一人の声ではなく、いくつもの声が重なり合っている。女の人だけでなく、男の人、老人、子供の声……、多すぎて聞き分けることなんてできない。

 老若男女何百人もの人間が目の前で泣いているような、苦悶しているような声が合わさって、一つの声を紡ぎ出しているのだ。

(もしかして……)

 これまでに邪気の臭いがしたのは、人が集まる場所や戦場の跡、朽ちかけた廃墟――、多くの悲しみや嘆きが生まれ、忘れ去られた場所ばかりだ。

 望が言ったように、あの根付に「災いを吸い込む」力があるのならば、あの場に留まっていた邪の感情を根付は吸い込んでいたのではないだろうか。

 だとしたら、この場で根付が出している邪気は、この百五十年の間に通ってきた道で出会った邪念達。千世じぶんに災いとなって降りかかっていたかもしれない邪気なのではないだろうか。

 邪気を焼き尽くされたのだろう。幽霊の姿が残像だけを遺して消えた。

 土属性を示す薄い黄の残像の中から、白い人形が姿を現す。

 幽霊と同じ、いや、それ以上の嘆きと怒りの表情で悲痛な声を上げ続ける人形を、炎が容赦なく包んだ。

「あ……」

 炎の中で、見開かれた目が和らいだ。裂けた口が小さくなり、元の形を取り戻した目から澱んだ気が一筋、流れ落ちた。

 まぶたが静かに閉ざされ、口元に微笑が浮かんだ時、人形から吹き出ていた邪気もまた消えていた。

 刀を退き、望は布をかけるように一枚の札を放った。

“十二天が一、太常たいじょう

 厳かな呪が響いた。

 橙色だいだいいろの札が布に変わり、人形を包み込んだ。シュルっと音が聞こえそうなくらい滑らかに布は縮み、橙色のビー玉になって転がった。

 静かになった結界内を悠然と飛び回っていた炎の鷹が望の頭上に戻って、一声鳴いた。

 鷹は一枚の札に姿を変え、役目を終えたように望の手の中に舞い降りた。

(終わった……、の……?)

 一部始終を見ていたのに、どこか遠くで起きた出来事のように思えて実感が湧かない。

 夢を見ていたような、寝惚ねぼけているような、ふわふわした気分だ。

 あの人も、妖怪との戦いに迷い込んだ夜、同じような気持ちになったのだろうか。

「回収終了、と……」

 ビー玉を拾う望の声で我に返る。

 刀を鞘に収め、彼は胸元の水晶を手に取った。

「無事に鎮まりました、近堂主座こんどうしゅざ。……はい、やっぱり白清鹿でした。……お願いします。負傷者は……」

 誰かとのやり取りを終え、彼はこちらを振り向いた。

「もう少し待ってね。この人達を運んでもらわなくちゃいけないから」

 彼を包む赤い光が消えた。

 元の茶髪と空色の上着、琥珀色の瞳が戻ってくる。圧倒的な霊気が消えると、そこにいたのは、変わらない笑みを浮かべた少年だった。

 ――ああ、そうか……。

 普段の彼は笑顔の向こうに霊気を抑え込んでいたのだと、ようやく気づいた――。

「今のうちに手当てしとこうか。爪、見せてくれる?」

 望は左手首の水晶の数珠じゅずに触れた。波紋のように揺れる水晶の表面から飛び出してきた札が、彼の指先で青く灯る。そういえば、さっきの橙のビー玉も刀も、手首の水晶の近くで消えた気がする。

「あの……、……?」

「ここまで見られちゃったら、さすがにちゃんと名乗らないとダメだよね」

 少し困ったように笑い、望は少し姿勢を正した。

「僕は、武蔵国現衆西組鎮守役むさしこくうつつがしゅうにしぐみちんじゅやく、城田望。渋谷は担当外だけど、今日は応援に来てるんだ。こんな日は、人が鬼に変わりやすいからね」

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