第10話

 札から生み出された赤が、周りに半円の結界を形作った。すぐそこまで来ていた声と足音が途絶えたのは、現と隔離された証拠だ。

 ――私……、なにやってるんだろ……?

 逃げてしまえばよかったのに。

 人間が人鬼に襲われようと、人鬼が増えようと、関係なんてないのに。

 わざわざ完全な結界を張って、根付だけならまだしも、人鬼まで一緒に隔離して、自分の逃げ道を塞いで――、なんて馬鹿なことをやったのだろう。

 だけど、結界を解除しようと思わなければ、自分でも驚くくらい後悔してもいない。

「か、観念しなさい……! すぐに鎮守隊が来るわ!」

 鈴を握り締め、幽霊を睨んだ。

 隔離されたことがわかるのか、敵意のこもった目が睨み返す。

 背筋に悪寒が走った直後、重たいものが空気を切る音がした。

 横に跳んでかわした背中で風呂敷が破れ、中身がアスファルトにぶちまけられる。

 転がったクッキーの袋を青黒く膨らんだ足が踏み潰した。鋼鉄のように鈍く光る足は人間のそれの五倍以上に膨れ、靴の残骸が指の爪に引っ掛かっている。

(これが……、完全な人鬼なの……?)

 大きく飛び退き、後ろから襲った「それ」を凝視する。

 ビルの二階ほどまで伸びた青黒い巨体は、いつだったか御伽噺の絵本で見た「鬼」そのものだが、絵本のようなコミカルさは欠片もない。

 丸太のような手足には獣のような爪が伸び、服の残骸が垂れ下がる胴は青黒く光る鎧のようで、額からは歪な黒い角が伸びている。顔に残る白い化粧だけがピエロ男の面影を留めているが、頭も数倍に膨らんでいてピエロの化粧も崩れている。

 邪気の塊の幽霊と人鬼。考えるまでもなく、最悪な組み合わせだ。幽霊だけならば鈴で鎮まるかもしれないが、人鬼には勝てる気がしない。

(なんとかして結界の外に出て……、鎮守隊に……)

 さっきの鎮守役の刑事か、望のような警備員が近くにいてくれれば最高だが、期待できない。

 鎮守隊ならば、傍を通れば結界に気づくだろう。この程度の結界、彼らならとっくに入ってきているか、結界に変化があるはずだ。誰も来ず、結界に何の変化もないということは、近くに鎮守隊の関係者はいないということだ。

 ふくらはぎに触れた薄気味悪い感触に、慌てて足をどける。

 プカプカと宙を漂う影のような繭にゾっとする。邪念が絡み合ってできる邪繭だ。蹴り飛ばして遠ざけ、息を呑んだ。

(ウソ……、いつの間にこんなに……)

 そこここで邪気が煙のように渦巻いては新たな繭が生まれ、ボコボコと泡立っている。

 邪気は邪念を数倍濃くしたもので、強い念が混じっている。

 こんなに強い邪気が立ち込めていれば、そのうちに邪繭が生まれ始めるのはわかっていた。だけど、いくら幽霊と人鬼に気を取られて失念していたとしても、早すぎる。

(そうだ……、結界を張ったから……!)

 狭い空間に閉じ込められた邪気が圧縮されて邪繭になっているのだろう。こんな場所に長く留まれば、猫又でも異変が出てくるかもしれない。

 泡立つ繭の一つから蜘蛛のような長い手足が伸びた。繭が頭と胴に変わり――、蜘蛛のような手足を持つ子猿のような姿の生物が生まれ、キイキイと耳障りな声をあげる。ただし、頭には目玉は一つだけ。鼻や口はない。

(邪霊……!)

 繭から次々に邪霊が生まれ、耳障りな声で鳴きながら結界内を跳ねまわる。

 興味をそそられたのか、一体の邪霊に青黒い手が伸びた。

 抗議するような甲高い声が止んだ。音もなく食い千切られた頭が鬼の口の中に消える。

 黒い靄が飛沫のように飛び散る中、鬼はすぐに頭を吐き出し、胴を放り投げた。

 頭は宙で黒い靄に変わって邪気へと戻り、胴からは新たな頭が生え、耳障りな声を立てて人鬼から遠ざかって行った。

(うわ……、えげつないもの見ちゃった……)

 邪霊は邪念の塊だ。人間から剥がれ落ちたから猿のような姿で、生きているような動きをするが、血肉も魂もない。奴らを動かしているのは、恐怖や怒り、飢えといった人間が持つ本能の欠片だ。

 ああやって体や頭を失ってもすぐに再生されるし、仲間が危害を加えられたからといって怒るわけでもない。

 食料にならないとわかったらしく、鬼は邪霊を五月蠅うるさげに払いのけ、邪気で煙る足元を探り始めた。何故か、川で鮭を狩る熊の映像が浮かんだ。

(今なら……)

 人鬼の注意がこちらから反れている今は好機だ。

 邪霊には、人間が妖に対して抱く本能的な恐怖が混じっている。そのせいか、奴等が積極的に妖を攻撃してくることは滅多にない。

 あとは、幽霊――。

(いない……?)

 ぞわりと背中が寒くなった。

 アスファルトを蹴った直後に白いものが音もなく伸び、開かれた白い指がくうを掴んだ。

 宙で一回転し、着地しながら爪を立てた右手を振り下ろす。

 爪が掠った白髪がジュっと音を立てて蒸発する。慌てた様子で逃れようとする幽霊の顔面目掛けて左手を薙いだ。

(避けられた……!)

 くうを掻いた手を握り締める。

 ふわふわと浮かんで人鬼の後ろに逃げていく白い影を睨み、飛び上がってきた邪魔な邪霊の顔面を引っ掻いて着地する。引っ掻かれた邪霊は顔面から崩れ、再生することなく霧散していった。

 邪を倒すには、「破邪」という浄化の力を叩き込むしかない。霊気に混じっている破邪は霊気の格によって強さが変わり、個体差が大きい。

(私の破邪……、あの幽霊には効くみたいだけど……)

 邪霊退治程度なら問題なくこなせるが、人鬼や邪物が相手となると自信がない。

 幽霊に効いたといっても、あれはただの邪気の塊だ。邪気を散らして中にある根付を鎮めなければならないが、そこまでの破邪があるかというと厳しいだろう。

(人鬼が動き出す前に、外に出なくちゃ……)

 幽霊は人鬼の向こうに下がっている。

 結界から出て、鎮守隊が通りかかるまで外から抑えていれば――。

 足元を漁っていた人鬼が邪気の中から何かを持ち上げた。

 鬼の顔が餌を見つけたクマのように歪んだように見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る