第9話
真っ白に塗られた顔の真ん中には作り物の鼻がつけられ、頬まで届く唇が描かれている。奇妙な帽子とモジャモジャの髪に、だぶだぶの鮮やかな原色の衣装。何かの雑誌で見たことがある、「ピエロ」だ。
ただし、顔や服のあちこちに血糊を付けた姿は、殺人ピエロとでもいったほうがいいだろう。
異様な姿だが、似たような仮装を大勢見てきたせいか、ショックは少ない。
それよりも、ピエロの手に握られた白い人形に目が釘付けになった。
(……あの人の根付……よね……?)
大きさも、気の波動も同じだ。
百五十年以上もずっと持っていたのだ。間違えるはずがない。
だけど、人形の表情は見慣れたものからかけ離れている。
閉ざされていた目は見開かれ、微笑を浮かべていた口は耳まで裂け――、角こそないものの、
丁寧に彫られた髪は黄色く濁った霊気を帯び、波打つたびに澱んだ気が放出されては通りの靄が濃くなった。
(この臭い……!)
根付を失くす直前に感じた異臭だ。
こんなに臭いが濃くなった今なら、わかる。これは邪気だ。土の属性を持つ根付の霊気が穢れて生まれた邪気を、猫又の鼻が「異臭」として捉えていたのだ。たぶん、もうずっと前から。
(やっぱり……、邪気を出していたのは、根付だったんだ……)
何度か、同じ臭いが漂ったことはあった。
思い返せば、それは決まって邪念で澱んだ場所を通った時だった。そして、そんな時は決まって……。
リィンと高い音が響いた。
(臭いが消えた……!)
あの鈴の音が鳴った後、いつも異臭は消える。きっと、この鈴には邪気を祓う力があるに違いない。
なら、根付と鈴を一緒に持って、ここから離れれば……!
「あ、あの……、その人形、私のなんです。か、返してほしいんですけどっ」
できるだけ丁寧な現代語を選ぶ。
問答無用で根付を奪って逃げてしまいたいが、本能が「コイツを刺激するな」と警鐘を鳴らしている。
「へええぇ……、そうなんだあぁ……」
分厚く塗られた口から、ねちょりとした男の声と濁った青が吐き出された。
目の周りに描かれた星形の模様が上下左右にビロンと伸びた。
「あああ、今日は渇くなああ……」
硬いものが軋む音がピエロの体のあちこちから聞こえた。
根付を握る手が
(私の手に負える状況じゃない……。誰か……、警備の人に知らせなくちゃ……)
ピエロの足元に目をやり、鼓動が跳ねた。
目を凝らせば、同じようなピエロの格好をした人が転がっていて、体の下のアスファルトに鉄の臭いがする染みができている。邪気に紛れる血の臭いに、ピエロの衣装を汚していた血糊の正体を知る。
骨が弾けるような音に、不気味な哄笑が重なった。
(え……?)
ピエロの手を離れた人形が宙に浮かび、狂ったように笑っていた。髪から放出され続ける邪気が人形の周りで固まり、白い影を創り出していく。
(なに……、あれ……?)
足元を隠す白い袴に長い白髪、
背丈は大人の女性ほどに高く、足元が透けて宙をふわふわと漂っている姿は幽霊そのものだ。裂けた口で狂ったように哄笑し、長い白髪をうねらせて邪気を放出し続ける幽霊には、知っている根付の面影は全くない。
幽霊の傍らでは、その哄笑に応えるようにピエロの異変が加速していく。
白く塗られた額で青黒い
原色の衣装が裂け、ずるりと落ちた。
服の残骸を引っかけて現れた肉体は青黒く、鋼鉄のように光っている。
「ウソ ……、鬼化……?」
呟いた自分の声はどこまでも硬かった。
人間に限らず、心を持つ者は正邪の感情を生み出す。
毎日のように生み出される邪の感情は真逆の正の感情に相殺され、残りは邪念として剥がれ落ち、霊体内に溜まることはない。
だけど、強い邪念は剥がれきらずに霊体に溜まってゆく。
浄化されることなく溜まり続けた邪念は霊体を穢し――、完全に穢れきった時、その生物は鬼と化してしまう。
その中でも、数が多くて凶暴とされるのが人間が鬼化した姿――、人鬼だ。
ただし、人間ほど霊体が大きい生物が鬼になるまでには何日もかかり、たいていは異変を察知した現衆や霊山が鬼化する前に動くと聞いている。
鬼化が始まったということは、このピエロ男の霊体はずっと前から穢れていたということになる。だが、今夜のように現衆が目を光らせている場所ならば、とっくに誰かが気づいて警戒しているはず――!
(もしかして……)
幽霊はとり憑いているようにピエロ男の周りを浮遊している。髪から黄色い靄が立ち上るたびに男が大きくなり、額の瘤が伸びる。
(やっぱり……、あの根付が鬼化させてるんだ……っ)
霊体の穢れは自らの邪念だけでなく、外から入り込む邪気や悪意、術でも引き起こされる。根付から出ている強い邪気が体内に入り、霊体を穢したに違いない。
(人間を鬼化させるくらいの邪気を出すなんて……)
望は霊具だと言っていた。
だけど、こんな強烈な邪気を生み出す根付、霊具どころか邪物だ。きっと、自分が持っている百五十年の間に邪物に変わってしまったに違いない。
――何がいけなかったんだろう……!?
お祓いをしなければいけなかったのだろうか?
何か、霊具を穢すようなことをやってしまったのだろうか?
「何か聞こえなかったか!?」
「ああ! こっちだ!」
近づいてくる声と足音に、沈んだ気持ちが吹き飛んだ。
――どうしよう……!
声の主達の霊気は弱い。隠人ではない、人間だ。
こんな邪気が立ち込めている場所に普通の人間が来ても、邪気にやられるか、この人鬼にやられるかのどちらかだ。
また鈴が鳴った。涼やかな音に頭と心がすうっと落ち着く。
風呂敷から札を取り出し、祈るように両手に挟んだ。
――お願い……!
霊気を込めた札が赤く光った。
力強い赤が半円の幕で通りを覆った。
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