わたしが小説家になったのは、あなたがいてくれたから。

汐海有真(白木犀)

わたしが小説家になったのは、あなたがいてくれたから。

 あるところに、一人の幼い少女がいました。


 率直に言えば少女は、他の人より劣っている部分の多い子どもでした。勉強をすれば、間違いだらけ。かけっこをすれば、いつも最下位。歌をうたえば、音程がぼろぼろ。


 けれどそんな少女には、一つだけ得意なことがありました。


 それは、物語をつくることです。


 少女はお話を想像することが大好きでした。こんな世界があって、こんな人々がいて、こんな出来事が起こる。ご飯を食べているときも、お散歩しているときも、お布団の中でも、少女は色々なお話を考えていました。


 ある日のことです。少女は道で転んで、膝を擦りむいてしまいました。赤色の血が溢れ出して、とても痛くて、わんわんと泣き喚いていました。


「だいじょうぶ?」


 少女は驚いて、顔を上げました。そこには、透き通った青色の瞳をした、男の子が立っていました。短い髪は、きれいな淡い茶色をしていました。


「けがしてる。いたかったんだね」


 男の子は持っていた鞄から、一つの絆創膏を取り出しました。屈んで、それを少女の傷口にぺたっと貼り付けます。少女は泣きながら、その様子を眺めていました。


 男の子は柔らかく微笑んで、少女の頭を優しく撫でました。少女は手でごしごしと涙を拭って、口を開きました。


「……あなたは、だれ?」


「ぼく? ぼくは、ベル。きみは?」


 少女は自分の名前を、男の子――ベルに告げました。ベルは目を細めました。


「へえ、そうなんだ。すてきななまえだね」


 名前を褒められたのが嬉しくて、少女はようやく、笑顔になりました。


 *


 少女とベルは、すぐに仲良くなりました。


 二人で色々な場所に出かけました。ベルは、少女よりも一歳年上でした。少ししか年齢が変わらないはずなのに、ベルは少女と違って、色々なことを知っていました。そんなベルのことを、少女は密かに尊敬していました。


 あるとき少女は、物語をつくるのが好きだということを、ベルに伝えてみました。そうするとベルは、目を輝かせました。


「そうなの? すごい! ぼく、そのおはなし、ききたいな」


 少女は恥ずかしがりながら、一つのお話を、ベルに聞かせました。物語が終わりを迎えると、ベルはぎゅっと少女の手を掴みました。少女は驚いて、ひゃあっと声を漏らします。


「とても……とっても、すてきなおはなしだった! びっくりした! すごいよ!」


 ベルの真っ直ぐな瞳に見つめられ、少女は俯いて、顔をほのかに紅くしました。


「……ありがとう、ベルくん」


 そう言って、少女は顔を上げました。微笑んでいるベルが見えて、どうしてか胸がどきりとします。その鼓動の意味はよくわからないまま、少女はベルに向けて、微笑みを返しました。


 *


 その日をきっかけに、少女は幾つもの物語を、ベルに話すようになりました。


 新しいお話ができるたびに、少女はベルに内容を伝えて、ベルは少女に感想を言いました。


 そんなやり取りや、他愛もないお喋り、幾つもの思い出と共に、二人は年を重ねていきました。


 *


 小さな頃はできないことばかりだった少女は、沢山努力をしたことで、段々とできることが広がっていきました。友達も少しずつ増えていきましたが、やっぱり一番大切なのは、ベルでした。少女にとってベルは、かけがえのない親友であり、同時にたった一人だけの想い人でもありました。


 けれどそんな少女とは対照的に、ベルはゆっくりと心を壊していきました。彼の周りにいる人間は、どす黒い悪意をベルに振り撒きました。その黒色に、澄んでいたベルの心は段々と、濁りを帯びていきました。ベルはいつからか、希死念慮に苛まれるようになりました。


 少女は、ベルのことを心配しました。ベルが悲しんでいるときは、抱きしめて背中をさすってあげました。ベルが悩んでいるときは、相談相手になりました。


 ベルは今も、少女の物語を愛していました。昔と違ってあまり笑わなくなってしまったベルも、少女が紡いだお話を聞いているときだけは、ほのかな笑顔を見せてくれるのでした。だから少女は沢山の物語を、彼のためにつくり続けました。


 少女はベルに、生きていてほしいと思っていました。それはもしかすると、とても残酷な願いなのかもしれませんでした。それでも少女は、ベルにずっと、隣にいてほしかったのです。


 でも、そんな少女の願いは、届くことなく。


 ――ベルはあるとき大量の薬を飲んで、そうしてこの世界を去りました。


 *


 少女は泣きました。息をするように涙を流す日々が、長い時間続きました。家にこもりきりになって、外に出ることもなく、暗い部屋の中でずっと、ずうっと、泣いていました。


 少女の友達は、そんな少女のことを心配して、色々なことをしました。お菓子を作ってきてくれたり、話を聞いてくれたり、外に連れ出してくれたり。そうしているうちに段々と、少女の心は落ち着きを取り戻しました。


 深い、深い傷口に、そっと絆創膏が貼られて。時折染み出す赤色を携えながら、少女は再び生きることを決めました。


 *


 少女はやがて、大人になりました。


 彼女が選んだ仕事は、小説家でした。


 ベルが好きだと言ってくれた、自分だけの物語を、ずっと紡いでいこうと決めたのです。


 彼女の書く小説は書店に並び、少しずつ読者が増えていきました。そうして長い月日が経ち、彼女は人気の小説家になりました。


 あるとき彼女の元に、一通のファンレターが届きました。金色のシールをぺりと剥がして、入っていた桜色の便箋を、彼女はゆっくりと開きました。


 そこに書かれていたのは、一人の少年からの真っ直ぐな言葉でした。自分は一時期、死にたいと考えるほど苦しんでいた。そんなときに、先生の小説と出会い、心奪われた。新しい物語を楽しみにするようになり、そうしているうちに心も段々と回復し、今では穏やかに過ごしている――そんな言葉が、綴られていました。


 彼女の目に、じんわりと涙が浮かびました。


 ベルの姿が、思い出されました。きれいな淡い茶色の髪。透き通った青色の瞳。彼は今も若い姿のままで、記憶の中に閉じ込められていました。


 きっとこの少年にも、ベルにとっての彼女のように、大切に思ってくれる人たちがいたはずです。だから彼女は、そんな人々を、そしてこの少年を、救うことができたのです。


 ――ベル。


 彼女は何年も口にしていなかったその名前を、そっと響かせました。大切で堪らなかった、彼のこと。彼だけに紡いだ物語。初めて出会ったときに触れられた、彼の手の温もり。


 彼女の瞳から、涙が零れ落ちました。透明な雫は床に落ちて、弾けました。


 これからも小説を書き続けようと、彼女は強く思いました。そうすることできっと、誰かの大切な誰かを、救うことができるかもしれないから。


 そしていつか、どこか遠くの世界で、ベルとまた出会うことができたなら。


 本当に苦しかったと。あなたを救うことができなかったのが、悲しくて堪らなかったと、伝えて。


 それから、語ることのできていない数多の物語を聞いてもらおうと、そう思うのでした――

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わたしが小説家になったのは、あなたがいてくれたから。 汐海有真(白木犀) @tea_olive

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