雪娘

朝本箍

第1話

 マスクをしてこなくて正解だった。鈍色の空は遂に自分の重さへ耐えかねたのか、ちらちらと雪を落とし始めている。

 ウォータープルーフのマスカラ装甲で天を向いた睫毛は、吐息の水蒸気を浴びることがないおかげか、まだ下がる気配を見せず雪の結晶を突き刺していた。触覚がある訳でもないから、そこは雰囲気だけど。

 駅から何度目かの人波が押し寄せてくる。待ち人はやはり見当たらない。予感は、実はあった。決定的な何かではなく予感、というところがまた気に入らない。

 誰かと親しげに歩いていた、メッセージの頻度が極端に下がった、いっそそんなことがあったならわたしは馬鹿野郎と叫ぶことが出来たのに、実録漫画のような出来事はひとつもなかった。

 それでも、あいつは来ない。雪が、完璧にセットした髪へも遠慮なく落ちてくる。鼻先が痛くなってきたが駅構内へは入らない。最初はこんなに凍えた可愛そうなわたしを演出するためだったが、今はもう意地だった。あいつに対してなのかはわからない。


「待ち合わせですか?」


 わたしに声をかけてくるのはこれで三人目だ。ええ、視線を向けず返事をする。一人目はこれで離れていった。

 やや甘さのある高い声は気にせず、


「お名前は?」


 意外な言葉を口にした。二人目はどこかへ行かない? と言ったので、行かないと答えたら舌打ちをして一人でどこかへ行ってしまった。


「……スネグーラチカ」


 あいつは、わたしのことをそう呼んでいた。ブリーチで出来たまがい物だけれど、とにかくお金も時間も手間も愛情もかけた銀糸のようなプラチナブロンド。自慢の髪を、嬉しそうに。

 ロシア民話へ登場する、髪の美しい雪娘の名なんて意味わかんないでしょうね。早く立ち去りなさいよ、勿論説明する気は毛頭なく、これは牽制だった。

 なのに、


「お似合いですね、雪娘。じゃあ私はヴェスナ・クラスナでどうですか」


 三人目は事もなげに笑った。


「……誰、それ」


 振り向いた先に立っていたのは、わたしよりも輝くような金髪をなびかせた長身の女だった。目が冴え冴えと青く光っている。


「やっとこっちを見た、スネグーラチカ。私は春の精、あなたの母親ってことになるんですかね。いくらあなたが雪で出来ていても風邪をひきそうで、心配になったんです」


 母親にしては若すぎる顔の中で、赤い唇が柔らかく引き上がった。


「行きましょう?」


 伸ばされた手を、反射的に強く掴む。互いの骨がきしんで痛い、それでもヴェスナは笑顔のままだった。春を名乗るわりに冷たい手がわたしの骨を抱くよう、握り返してくる。雪娘、名付けたあいつはきっと来ない。


「行くわ、あなたの髪が綺麗だから」

「そうこなくちゃ、スネグーラチカ」


 あなたの方が綺麗だけどね、笑う女と手を繋いで歩き出す。声をかけられた気がしたけれどもう振り返らなかった。

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雪娘 朝本箍 @asamototaga

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