第410話 臨界40(???サイド)

 赤い椿は綺麗だと思う。牡丹や薔薇は確かに王の中の王というのが間違いないと認識はしているが、どういうわけなのか心惹かれて仕方がないのだ。


 首が落ちるようで、美しい。


 ■■時間前…。


 血の匂いが進んでいくほどに強くなっていく。追撃者の口元は鎖から解かれた猟犬のように緩む。もうすぐ会えると思うと心が自然と弾んだ。


 冷たい灰色の路面と誰の家なのかもしれない白い壁を血で汚しながら凭れ掛かるフォスコは這う這うの体で宮殿へ通じる扉近くに到達する所まで至ることが出来た。


 自分が何故こんな状態になっているのかと思いながらも体中に刻まれた傷が容赦なく現実を教えてくる。欠損した右腕、葵によって叩き込まれた腹の傷が特に深刻だ。止血がまるで間に合わず無理くりな自然治癒で補填するしかなかった。零れ落ちた自らの肉片を踏んだと認識して叫びそうになると歯がガチガチ鳴った。叫ばなかったのは矜持故か欠片ほど残っていた理性故か。


「クソッタレが…」


 眠りたい。戦闘の後にそんな欲求を抱いたのは久しぶりだった。


 べっとりと付着している多量の血を温かい湯で洗い落としたい、白いフカフカのベッドで眠りたい。出来るなら上等な肉とウイスキーがあれば満足だと思わなければ傷が痛んで仕方がないのだ。


 ベットリと血が付いた壁からからフォスコが体を離そうとしたときに、霞んだ視界にくすんだ灰色の裾が入った。ゆっくりと顔を上げても電灯で生じた逆光によって顔を見ることは出来ない。


「腕なし、どてっぱらに大穴、数えるのも嫌になるほどの大小の傷。動くどころか生きているだけで不思議。でも、生きがいいっていうのが本音になるかなぁ?」


 舌なめずりの音、それと連動するような言葉が意識を強引に呼び戻す。体は満足に動かすことは不可能だが。


「貴様、誰だ?」


 輪郭も何もかもが薄っすらとしか見えない。声音だけが辛うじて聞こえる。


「死人の頭にワタシの崇高な名前は記憶できない。グチャグチャになったら、分かると思うけどね」


 はぐらかすというより、バカにしていると受け取れる物言いをする来訪者はフォスコを無視して次の行動に移る。


 シュルシュルと布がすれる音が聞こえ、パサリと落ちた。陰影に隠されて顔はハッキリとしないが、大きく盛り上がった大きな胸部と全体的に丸みを帯びた体は女性特有のものだった。足はしっかりと晒されている。惜しみなく晒された女の色香が鉄臭さと調和して、少しずつ食いつぶしていく。


 影になって見えない口からは軽やかで、愉しそうな声音が発せられて未だ機能しているフォスコの耳朶を震わせる。


「金星の雲は何で出来ているか知っている?濃硫酸で構成されているらしいのよ。だから、何の備えもなく金星に踏み入ったら骨ひとつ残らずに死んでしまうらしい。あの圧力だけでも十分すぎるほどに脅威なのに恐ろしいと思わない?」


 シルエットが屈んだ。目先はフォスコではなく背後にある椿の生垣へ。


「でも、探求心や欲求は抑えようとして抑えられない。毒があっても美味しく見える食材はそれが『危険』だと分かっていても手を付けたくなってしまうもの。例えば、『白雪姫』に出てくるあの林檎。赤くてとてもおいしそう。でも、ワタシが大好きなのは青森で採れる甘いあの林檎なんだけどね」


 一方的にベラベラとしゃべり続けているシルエットはずっと喋っていないのではないかと思えるほどのマシンガントーク。早くこの場を離れたい、眠りたいと思ってもこの悪夢のような声が寝かせてくれない。


 呪文は、まだまだ続く。


「冷静に考えれば見ず知らずの人間に手渡された食べ物を渡されたら、食べないっていうのが常識ってものでしょ?でも、どうして食べてしまうのか?それは『知りたい』っていう欲求があるから」


 がさりと背後で揺れた音がすると、赤い椿の花が目の前にある。その赤い色だけがハッキリとフォスコの網膜に焼き付き、次に花弁が白い歯に齧られては散っていく映像に上塗りされていく。


「いただく。アンタも」


 フォスコの耳に届くのは、肉が千切れる音と骨が変形する音だ。暗闇に映るシルエットはどんどんと大きさと、悍ましさを増していく。シルエットだけでも人の形から別の存在へと変わり果てていく様が音だけでも伝わってくる。完成の形を帯びていくほどに帰ろうと胸に火をともさせていた希望は揺れた。


 考えること、生きたいと願わせること。一点を目指させていた灯に一息をかけた。

 生暖かい吐息が肌に触れる。鼻がひん曲がってしまうのではないかと思えるほどに肉が腐敗した匂いが鼻腔を汚す。


 覆っていく闇に別の色が添えられる。赤、白。その二色だけ。


 風が、止んだ。


「バイバイ」


 肉を咀嚼する音、骨を砕く音。宣言の言葉をあっさりと飛び越えてシルエットはフォスコだった死体を喰らう。少しずつ、少しずつ。一口一口を噛みしめるように。


「何やってんだ‼うるさいぞ‼」


 音に我慢がならないと家主が門の外に飛び出してきた。ぎょろりと動いた生々しく、生命力に蠢く赤い瞳は現れた新たな人間をしっかりと見る。


 中年の男、髭に覆われた神経質そうな顔立ちと瘦せ型の体は恐怖に縮み上がっている。酷いアンモニア臭は食べたばかりの腹には嫌に響いた。


 手にはライセンスを持っているのか猟銃を握り締めているが最早何の役にも立たないことが明白だった。見開かれた目は、感情らしい感情がものの見事に吹き飛んでいる。自分の運命を呪うには、遅すぎた。


 1つの影の狙いが男に定まる。追跡者は仰々しく額を抑えた。


「嗚呼、ミックスしてしまうのは嫌だなぁ」


 シルエットの唇が歪に形が変わって、影の1つが男にも襲い掛かった。


 死の終わる音が二重奏にアレンジされる。伝わってくる肉と血の味、死の音が狭い世界に広がる。終わったのは、15分ほどだった。


 口元に食べかすはついていないが、シルエットはわざとらしく指で唇に触れた。


「気力十分、腹も十分。行こうかな」


 腹をわざとらしく撫でながら、脱いだ灰色のローブを回収すると着込むことなくシルエットは歩き、街灯の光に照らされて輪郭も何もかもが完全な色を帯びる。


 サイドテールにまとめたブロンドのサイドテール、吊り上がり気味の赤い猫目は気の強さを伺わせる。肝心の下部分は白い肌、肉付きが良い肢体を美しく仕立てる。特に大きく盛り上がった胸部はそれこそ生命力の暴力で着込んだチャイナドレスと合わさった姿は誰が目撃しても一度は振り向きたくなるほどの美女だ。


 ローブを再び纏うと、ガブリエル・アルバは目的地へと歩いていく。

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イノセンス・V~不完全な赫~ 焔コブラ @Bramble

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