むげんのかいだん
鴨田とり
むげんのかいだん
これは夢だ。俺はなんの根拠もないが、直感的にそう理解した。
気がつくと立ち尽くしていた場所は小学生の頃に住んでいたマンションの階段の途中だった。
成人した今ではその過去の居住地とは縁もゆかりもない場所に住んでいるし、無意識でふらりと立ち寄れる程近場でもない。なんなら高速道路を使って4時間以上掛かる。だからここに俺が突然居る状況は夢なのだ。
本来であればマンションの前に住宅街が拡がっているはずの景色は、霧なのかモヤなのか分からないが霞んでしまっていて、駐車場から先は見渡せずはっきりしない。そこまで広い駐車場ではなかったと思うのだが、なにせもう十年以上前に住んでいた場所を事細かに覚えていられる程俺の記憶力はよくない。
今自分が何階に居るのか確認をするために階段を降りて1つ下の階へ移動したが階数表記はボールペンで書き損じた文字のようにぐりぐりと汚く黒く塗りつぶされていた。
イタズラにしてはタチが悪い。あの管理人は普段は穏やかな好々爺だが、ゴミ出しのルールを守らない他の住人に対して烈火の如く怒っていたと母親が言っていたっけ。
更に下の階へ降りても同じように階数表記は塗りつぶされており、確認できなかった。
そうとも、これは夢だ。そもそも目の前に階段があるのだから階数など気にせず下に降りよう。下へ降りればなんとかなるだろう。
このマンションを見て思い出したが俺は切っ掛けは忘れたが小学生の頃から高所恐怖症だ。間違っても上に登ることはしない。自分の苦手なことを好き好んでするような馬鹿ではない。高層ビルで起きた火事のニュースなどで上階へ登り、火と高温の煙で逃げ場を失い死亡したと聞いた日は恐ろしくて堪らなかった。
階段を降りて踊り場へ。踊り場から階段を降りて1つ下の階へ。また階段を降りて踊り場へ。
1つ下の階へ。踊り場へ。1つ下の階。踊り場。下の階。踊り場。
何度目かの階へたどり着いた時、このマンションが何階建てだったかが気になった。
確か俺が住んでいたのが一階で。当時仲がよかった友人が最上階の四階だったはずだ。
……あれ?俺は今何階分下に降りたんだ?
嫌な予感がして、急いで次の踊り場から駐車場を見た。そこには最初に見た風景と距離感は寸分たりとも違わない景色があった。
全身の毛穴が一気に開き、背筋に嫌な汗が流れた気がした。急いで階段を駆け下りる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。一段飛ばしで。二段飛ばしで。
何度も階段を降りて下の階に移動しても目の前には階段が現れ続ける。死神に心臓を掴まれたかのようにぞくりと悪寒が走る。
降りれない?無限に階段が続くのか?まさか、そんなわけ。
おそるおそる踊り場から外を見る。……そこには俺をあざ笑うかのように代わり映えのない風景がある。
うそだろ、何かの間違いだと誰か言ってくれよ。
「夢、なんだよなコレ。」
夢の中でも一番タチの悪い悪夢だろう。
震える手で階段の踊り場にある欄干を握りしめる。そうとも。これは夢だ。現実じゃない。
夢なんだからなにも馬鹿正直に階段を使って降りる必要は無いよな。もし現実だったら?
いいや、夢だ。でも、もし。夢に違いない。ここから直接降りてしまえばいいんだ。高所恐怖症なのに?地面に着いたらきっとこの夢も終わるだろう。怖い。はやくここから移動しなければ。なにか恐ろしいことが起きる気がする。怖い。もはや何が怖いのか分からないのが怖い。
自分自身の中にあるごちゃ混ぜの恐怖心に勝てず、建物の外に背中を向けて欄干へ腰掛ける。下を見なければ怖くはないはずだ。たぶん。
「夢だ。夢から起きたら定食屋で朝飯食うんだ。夢。夢だ。幻なんだ。」
言い聞かせるように声に出す。体だけでなく声すら恐怖で震えている。がちがちと奥歯が触れあって頭の中に音が響く。
「よし。」
大きく息を吐いて目をつぶり、重心を建物の外へ投げ出す。耳のすぐ横を風切り音が鳴る。
……引っ越す直前にあのマンションで身元不明の自殺者が出たんだっけ。様子を見に行った親父が真っ青な顔をしていたなあ。そうだ、高いところから落ちる夢を見て高所恐怖症になったんだ。そう、確かこんな感じの夢を。
ふと、何かが繋がるかのように、そんなことを思い出した。
とある真夜中のマンションの一階にある一室。
部屋の中でぐっすりと寝ていたはずの男児が大きな悲鳴を上げて睡眠から覚醒する。
男児の両親が怖い夢を見たのだろうと眠い目を擦りながら泣きじゃくる男児の背中を揺すってあやす。幼い子供によくあることだ。昼間に管理人である老人から怖い話を聞いていたのも怖い夢を見た要因の1つだろう。
「怖い、高いところ、怖い。」
すすり泣きながら発した男児のその言葉と共に外で不可解な音が響く。不審に思った両親が顔を見合わせ、男児の父親がおそるおそる扉を開けて外へ出る。同じように様子を見に来たマンションの住人達が駐車場に向かう。
そこには駐車場の薄暗い電灯に赤黒く反射する広範囲の血だまりと、原型をとどめていない四肢と、あちらこちらに弾け飛んだ肉片がアスファルトに散乱していた。
死体は素人目からもどう考えてもマンションの最上階である四階から落ちたとは思えない損傷具合だった。
頭部はつぶれてしまい風貌の確認のしようも無いが、若い男性である服装からこの近辺に住む住人ではなさそうだ。
既に誰かが通報したのであろう、遠くからパトカーの音が近付いてくる。
家族に引っ越しの提案をしよう。じりっと後退をし青ざめた顔でそう決心した父親の顔を駐車場に設置されている外灯が照らし出す。その顔の作りは夢の中で階段を降り続けていた男とよく似通った顔立ちをしていたのだった。
むげんのかいだん 鴨田とり @kamodashi
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