猫骨
那智 風太郎
Cat Bone
平日の昼下がり、下りの横浜線は町田を過ぎると少し心配になるほど乗客がまばらになった。
その閑散とした車内で私は色褪せた小さな紙片をじっと見つめる。
そこに記されているのは鉛筆書きの
数日前、本棚を整理していて偶然見つけたものだった。
「ちな。二十年後、一緒にこいつ掘り起こそな」
紙片を覗き込むとにわかにハスキーな関西弁が耳に甦った。
「あっちゃん」
そう呟くとボサボサ髪の少年が目に浮かんだ。
小学三年生の夏の終わり、あっちゃんは近所の古いアパートに越してきた。
そして学期初め、登校班の集合場所にやってきたあっちゃんがたどたどしい自己紹介をすると、ワンテンポ間をおいて笑声が上がった。
「うわ、すげえ。関西弁じゃん」
「芸人みてえ。俺、初めて聞いたかも」
「ねえ、もっと喋ってみてよ」
高学年の班員が口々にそういうとあっちゃんはひどく顔を歪めた。
そしてよほど気に障ったのかそれ以来、登校時ほとんど誰とも口を聞かなくなった。うわさに聞くところではクラスでも同じように浮いていて、ひと月が経ってもひとりとして友達がいないという。
私はそんなあっちゃんにひそかに親近感を募らせていた。
なぜなら私も幼い頃からの吃音のせいでほとんど誰とも会話をしない学校生活を送っていたからだ。
もしかすると彼も私に対して同じような感情を抱いていたのかもしれない。
ある日、学校からの帰り道、いつものように一人でトボトボと歩いているとあっちゃんが後ろからやってきて追い抜きざまにボソリと言った。
「近所やから一緒に帰ろか」
それから私たちは時々一緒に下校するようになった。
四年生のあっちゃんが前を歩き、その後を私が黙って着いていく。
他人の目にその姿はまるで聖地を目指す敬虔な巡礼者のように映っただろう。
秋も半ばに差し掛かり、時期外れの台風が通り過ぎて、たしかその次の日のことだったと思う。
いつものようにあっちゃんの後ろを歩いていると突然、弾かれたように彼が車道へと駆け出した。
車が急ブレーキを掛け、泣き叫ぶようなタイヤの音がした。
けれどあっちゃんは動揺した様子もなく道路の真ん中に座り込み、それから何かを大事そうに抱き上げた。
それを見た私は凍りついた。
あっちゃんは猫の死体を胸に抱えていた。
眼球と内臓が飛び出し赤黒い血液がこびりついたその屍をあっちゃんは腹の辺りに抱き、やがて私に歩み寄ると恍惚とした表情を浮かべた。
「できたてのホヤホヤや」
その後のことはよく憶えていない。
記憶を辿ろうと紙片を見つめているとアナウンスが実家の最寄駅を告げた。
電車を降りた私は地図が示す緑道公園に向かう。
それにしても秋も半ばだというのに日差しが強い。
日傘を持ってくれば良かったと後悔すると、ふとそのとき半年前に別れた男の優しげな笑みが網膜に浮かんだ。
千夏という名をちなと縮めて呼んだのはあっちゃんが最初で二番目がその別れた彼だった。
上司だったその人には妻子があり、許されざる恋だと知りつつも私は深くのめり込んだ。
しかし結局はテレビドラマのような修羅場を経て、私は身を引くことになった。
会社を辞め、住む場所と携帯電話の番号も変えた。
忘れようと努力したつもりだ。
ただの気の迷いだったのだと自分に言い聞かせた。
けれどそれも虚しくふとした時に記憶が現れて私を苛む。
そして彼と交わしたいくつもの「いつか一緒に」が永遠にやってこないのだと思う度にもういっそ消えてしまいたくなる。
足を止め空を見上げると大樹の枝葉が陽光を遮り、そこに無数の光の粒がさんざめいていた。
地図に記された木のイラストはきっとここを指している。
けれどさすがにためらった。
自分がなにをしようとしているのか、よく分からなかった。
それでも衝動のようなものがあったのだろう。
私はいつのまにかその場にしゃがみ込み、辺りの下草を掻き分けていた。
するとやがて黒い土に塗れた煉瓦が現れ、刹那ぼんやりと記憶が甦った。
素手で穴を掘るあっちゃん。
血まみれの猫を埋めるあっちゃん。
花壇の煉瓦を持ってきてそこに置いたあっちゃん。
そしてハスキーな声と不思議な約束。
「ちな。二十年後、一緒にこいつ掘り起こそな」
あの後、冬が来てあっちゃんはまたどこか別の土地に引っ越していった。
煉瓦をどかすと湿った地面に小さな虫が蠢いた。
私はトートバッグから新品のシャベルを取り出し、一度息を深く吸ってそれを土に突き立てる。
すると矢庭に怒りに似た感情が芽生えた。
なぜだ。
私はなぜ二十年も昔のたわいも無い約束を守っているのだろう。
古い日記に挟まれていたこの稚拙な地図がなんだというのか。
私は土を掘る。
いつのまにか溢れ出した涙が頬を伝う。
宇宙に漂う壊れた人工衛星のように完全に忘れ去られていた約束がこうして守られ、鮭が生まれた河に戻るように疑いもなく守られると信じていた彼との約束がすでにこの世に存在しないという現実。
その理不尽さに私は嗚咽を漏らし、けれどそれでも私は掘って、掻い出し、また土を掘る。
やがてシャベルの先に硬いものがコツリと触れた。
私は遮二無二その場所を指先で掻く。
やがて白いものが露わになり、さらに土を避けるとそこに小さな頭蓋骨が現れた。
私は一瞬のためらいもなく土まみれのそれを持ち上げ、胸に強く抱いた。
すると滴った涙がちょうどその眼窩の空洞に落ちた。
私はくつくつと笑った。
いつまでも声を押し殺してくつくつと笑った。
いつのまにか背後に立った誰かが私を見つめていることも知らずに。
猫骨 那智 風太郎 @edage1999
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