僕らの片恋は拗れている
藤咲 沙久
本当は呼びたい名前
「ひとついいですか、桜小路さん。
「なぁに
高校時代の赤ジャージを着込んだ背中に声をかける。対する僕は青のエプロン姿。両手で抱えるカゴには洗いたての洗濯物が山盛りだ。こっちは男子大学生なのだから、せめて下着類は分けて自分で洗っておいて欲しかった。
液晶タブレットからは顔を逸らさずに、先生がペンをくるくる回した。これは集中しているように見せかけて、実は何も考えてない時の仕草だ。
「
今日は洗濯、昨日は掃除、一昨日は食事の作り置き。どれもバイト前の数時間ずつ。夏休みを活かして、僕は三日連続この漫画家先生の家にお邪魔していた。今時手描き原稿でもないから進捗は傍から見てわからないが、先生の左手がイマイチ動いてないことくらいは気づいているのだ。
案の定、ちょっと情けない顔が僕に向けられる。仕方がないのでいったんカゴを置いた。そのまま数秒見つめ合う。……いや何か言うんじゃないのかよ。
「……喋らないなら描く。描かないなら喋る」
「悟朗くんはすごいねぇ……生活の面倒見てくれてるだけじゃなくお兄さんのお仕事まで手伝って……もうバイト代出さないとこれ、労働力の搾取だよぉ」
「先生は金欠で二週間に一回しかアシスタントさん雇えないんですから、俺にバイト代払えないでしょ。必要経費と食事代は頂いてるので充分です」
「しっかりした大学生だあああ」
元々母子家庭な上に、今は実家を出て兄と二人暮らしだから、同世代より家事が得意な自覚はあった。それは普段のバイトにも活かされているし、しっかり者ととられても不思議でない。というか逆にこの二十五歳がしっかりしてなさすぎるのだ。とりあえず、左右同じ靴下を履けるようになってもらいたい。
そもそもこんな手伝いをするようになったのは、兄の忘れ物を届けに先生宅を訪ねた際に見た地獄絵図のせいだった。まともな食事をしてると思えない台所に、洗ったのか洗ってないのか不明な衣類の山、散乱する書類……エトセトラ。
一芸に秀でていれば何でもいいと思うなよ、この一言に尽きる。
(放っといたらこの人死にそうだし、かといって兄さんも先生の面倒まで見るには忙し過ぎるし……原稿もあがらないと困るし)
そう、これは本当のこと。売れ始めたばかりの漫画家・桜小路桜子を陰ながら支える大きな理由。年若い
ただ同時に、建前でもあるだけだ。
「うううぅ、がんばるよぉ。連載枠もらえたありがたみ……それに、いい作品が描けたら篠原せんぱいが喜んでくれるもんね」
篠原せんぱい。先生は、兄のことをそう呼ぶ。卒業して何年も経つというのに。
「またそれ。桜小路先生の方が偉いのに、なんでまだ先輩呼びなんですか」
「えらくないよぉ! 私は漫画を描かせてもらってる立場だし。それに、高校と大学でずっとせんぱいだった人は今もせんぱいだよ~」
握ったままだったペンでさらさらと兄の似顔絵を描く先生。キャラクターらしくデフォルメされた姿は、描き慣れてるのがよくわかる。きっと何度も、学生時代から描き続けた絵だ。片想いの長さを思わせた。
ああ、その
先生はだらしないし頼りないし、どうしようもない大人だけど。名前の色に染めた頬で、一瞬で潤む瞳で、恋い焦がれる相手を思い浮かべる様は──……驚くくらい、綺麗だった。たとえ赤ジャージ姿だとしても。
(報酬なら、もらってる。その顔が見られればいい)
二人が一緒にいるのを見た日からずっと。地獄絵図を背景にした美しい横顔が、俺を惹き付けて離さなかった。忘れられなかった。
先生の恋が、心が、俺に向いていないだけ。うっとりと溶ける顔を見れるならそれでいいのだ。先生にしたって、俺がここに通う限り先生の生活は守られ、
だから俺たちは、お互い言葉にしないだけでWin-Winの関係なのだ。拗らせてるのはお互い様。
「悟朗くんだって、私のことペンネームでしか呼ばないじゃないの。名前知ってるでしょう?」
いい加減洗濯物を干したくてカゴを抱え直すと、そろそろ仕事に戻ってほしいのに先生がまたペンを回す。本当に締切は大丈夫なのかアンタ。
「俺は、漫画家先生のサポートでここに来てますから。桜小路桜子先生、でいいんですよ」
「ええ~、なんか屁理屈だぁ! ほら呼んでごらん、ほらほら」
「あんまり困らせると兄に言いつけますよ」
「うあん! 篠原せんぱいは怒ると恐いんだよぉ!」
ならさっさと描く! と叱りつけてから、ようやくベランダに出ることが出来た。夏も盛りを過ぎたが、じわりと暑くいい天気だ。これならよく乾くだろう。
「……たまには怒らせて、距離を保って、ずっと足踏みしてなよ」
Tシャツの皺に隠れてそっと呟く。いつまでも、見つめるだけの片想いをしていて欲しい。片想いする先生を見させて欲しい。それが俺の、たまらないほどの幸せなんだから。
僕らの片恋は拗れている 藤咲 沙久 @saku_fujisaki
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