世相を映すものがたり
小狸
短編
「お前の書く小説って、暗いよな」
一体何度言われたか分からない言葉を、今日も僕は浴びることになった。
部活で一緒だった先輩と、久しぶりにご飯に行った時の話である。
正しくは『飲み』なのだけれど、僕は下戸なので永久に枝豆をつまむ機械と化す。大して先輩はかなりの酒豪で、どれだけ飲んでも顔色が変わらない。ビールに野菜ジュースのジョッキをぶつけて乾杯の音頭を取った後、開口一番、先輩はそう言った。
「ですかね?」
「うん。暗い」
先輩のはっきりとものを言う姿勢は、結構嫌いではない。多分、僕と対極だからだろう。僕は自分の気持ちを、真っ直ぐ他人に話せたことがない。多分一度も。
「何が暗いってさ、どうしてそう人の醜いところを書き出せるのかって思っちゃうな。見てて鳥肌が立つもん」
「お褒めの言葉ありがとうございます」
「褒めてねえし」
笑いながら、先輩はまた一杯飲んだ。
学生時代と変わらない、良い飲みっぷりである。
僕が小説を書き始めたのは、中学校の頃である。
高校から会った人には誰にも明かしていないけれど――中学の頃不登校だった時期があって、その時に書き始めたのだ(「不登校」という言葉が与える印象は、いつだって悪いものばかりだから)。田舎は噂が伝わるのがとても早い。あそこのご家庭の子が不登校になった――と噂されるのを嫌って、母親はぼくを家から出さなかった。世間体を気にする人なのだ。まあ、学校に通うよりはマシな選択だったように思う。
結果として、小説を書くという手段を、ぼくは見つけることができたのだから。
元から人と喋るのは得意ではなくて――いや、はっきり苦手だと言っていい。
そう聞くと、ひょっとすると寡黙で口下手、俯きがちな印象を抱くかも知れないけれど、それは違う。
恐らく皆が想像する「苦手像」とは少々異なると思う。
話せるし、言葉は交わせる。
ただ、相手に伝わらない。
会話とは一種のコミュニケーションであり、片方からの――一方的なものではない。会って話し、話し合うからこその会話なのだ。
僕には、相手の意志や考え、望むことがかなりダイレクトに伝わってくる。人間なので完全な理解というのは難しいかもしれないが、受容の側については、人並みに行えると自負している。
ただ、発信の側になると、話が違う。
全くもってできない。水道管のパイプに例えるのなら、何かが詰まっているどころの話ではない――そもそも管が繋がっていない。工事段階でのミスのようなものだ。どんな病院に通っても、どんな訓練を行っても、どうしてもできなかった。
僕の稚拙な語彙力では上手く表現しきれないが――当時はかなりキツかったということだけは覚えている。
常に頭の中にどろどろと言葉が渦巻き、意味不明な混沌を形成している。その結果、発露できなかった感情が行き場を失い、常時ハイになっている――エナジードリンクを飲んだ直後のような状態がずっと続いているというか、自分が自分でないように感じてしまうのだ。あらゆる感覚が鋭敏になり、全ての皮膚を剥がされ、塩水に付けられているような架空の痛みを、毎日のように感じていた。
いや――駄目だ。
成人した今でも、自分の精神状態を言葉にすることはできない。
そんな人との圧倒的な違いがあったからこそ、同級生連中は僕をいじめ、殴り、蹴ったのだろうと思う。
人と違うというのは、立派な排除の理由になる。
そんなこんながあって、不登校になった時。
行き場を失った感情をどうにか摘出するために――僕は小説を書き始めたのだった。
まあ。
書き始めたとは言っても――デビューしたとか、新人賞に応募したとか、そういうことはない。今だって、何となく入社した会社に何となく通勤して、何となく毎日を過ごしている。人生に目的も目標もない。
ただ――そうするべきだから。
仕事をしないと怒られるから、そうすることが正しいから――しているというだけだ。
「僕としては、暗い話を書いているつもりはないんですけどね」
「そうか? 暗いよ。人が死んだり、泣いたり、悲しんだり、苦しんだり、そういう話ばっかりじゃん」
「まあ、そうなのかもしれません。でも、世の中って暗いことの方が多いですよね」
「あ?」
「時々思うんですよね。小説――っていうか、物語って世の中を映す鏡みたいだなって」
「どういうことだよ」
どうやら僕の言葉がお気に召さなかったらしい。ジョッキを丁寧に置いて(物に当たらないのは先輩らしいといえる)僕にガンを飛ばしてきた。
「だって世の中って、暗いじゃないですか。今だって戦争起こってますし、コロナ禍でマスク無しじゃ外にも出にくい。仕事は辛いし、両親仲も冷めきってて音信不通。毎日ニュースを見れば、事件や事故が目白押し。誰も彼も、死にたいのを我慢して生きている。そんな中で、明るくなれって方が難しいですよ。逆に分からないですよ。なんでこんな世の中で楽しそうに笑えるんですか? 僕には、皆の方が異常に見えるんですけど」
「両親仲が冷めきってんのはお前の事情だろ」
「そっすね」
僕は野菜ジュースを飲んだ。別段健康志向という訳ではない。飲むものにあまり興味がないから、健康っぽそうなものを取りあえず流し込んでいるだけという話だ。それと単純に下戸なのである。
僕は続けた。
「実際、楽しいことより辛いことの方が圧倒的に多い。嬉しいことより苦しいことの方が簡単に凌駕する。幸せな気持ちは嫌な気持ちの前で一瞬で消滅する。違いますか?」
「違わないねえ。んで、お前はそれが物語にも表れてるって思うわけだ」
「はい。実際、ただのハートフルでハッピーな小説より、どす黒い感情を、人間の醜いところを、劣等感を、優越感を、虐待を、いじめを、卑下を、自己嫌悪を、これでもかって書いた小説の方がウケるしヒットする。子どもだって、幸せな恋愛物語の甘ったるい台詞より、グロテスクで先鋭的で暴力的な漫画の言葉に影響を受けるでしょ。時代が求めているんですよ、陰鬱さって奴を」
「あはは――ほんと、お前って暗いよな。思考云々よりその生き様が暗いよ」
「まあ、自覚はあります」
先輩は笑った。
こういう暗さを話すことができるのも、この先輩くらいのものだ。
世の中では明るくいることが正しく――暗いことは悪とされる。
真っ直ぐな性格が善とされ――曲がっている性格は悪となる。
どうやったところで、僕は悪い方の側になるのだ。
それにもう、僕は大人になってしまった。今更泣き叫んでも、苦しいって藻掻いても、助けてって言っても、誰も助けてくれはしない。大人だから。一人で生きなければならないから。だから――我慢して生きている。いつか楽に死ぬことができることを夢みて、僕自身を、虐待しながら。
「ま、世の中の暗さについては、お前の言う通りだよ。嫌なニュースばっかだよな。あたしもこの前、彼氏と別れたし」
「え」
「まあ、そんな話は置いておくとして」
「はあ……まあ、そうですね」
衝撃の情報だった。
いや、下手に聞かない方がいいのか?
ただでさえ僕は人の神経を逆撫でしがちなのだ。
他人の恋愛事情なんて、剥き出しの地雷みたいなものである。
道を逸らそう。
「でもお前は、暗い部分を観すぎだよ。下ばっか向いてちゃ、前は見えないじゃん」
「そう……ですかね」
普通に前を見られる人は、いつだってそう言う。
「でも、前ばっかり見てても、足元を取られるんじゃないですか?」
「そりゃそうだ。足元を取られて、引っ繰り返って、次は転ばないぞって思って――また挑戦する。生きている限り、何度も何度もだ。それは、文字数が決まっている物語じゃあできないことだ」
「…………」
七転び八起き、なんて
傷ついても、生きている限りは何とかなる――だと?
だったら死ぬ以外、痛みから逃げる道はないじゃないか。
そう僕は思う。
「痛んで、苦しんで、辛い思いをしながら、死にたくなりながら、それでも生きろってことですか――残酷ですね。何も救いなんてないじゃないですか」
「ああ。残酷だよ。だからこそ、物語があるんじゃないのか?」
「…………」
「別に現実の逃げ道として、物語があるって言いたいわけじゃない。言っちゃえば、物語なんてなくなって人は生きていくことができる。生活必需品じゃない。貧窮する中で、食費をはたいて本や漫画を買う奴は間違いなく馬鹿だ。でも、そんな生活、楽しくねえじゃん」
「……楽しく、ない」
それは。
楽しい?
それは、何だろう。
僕の中に、その感情を上手く表現できる言葉はなかった。
「ああ。義務で生きている訳じゃないし、人の全員に、キャラみたいに役割があるわけじゃない。何にもなれない代わりに、何にでもなれる。仕事やってご飯食べて寝て? それだけじゃつまんないから、そこに色を加えるために、物語ってあるんだと、あたしは思うね」
「鏡では――ないと」
「確かに鏡みたいな意味もあるだろうけどさ、大本は娯楽だよ。馬鹿みたいに楽しむために、物語がある。もうちょっと馬鹿になってみろよお前も。それに鏡が映すものは、別に暗いことばっかってもんじゃないだろ。そこに光源があれば、世の中を照らすことだってできるんだからさ」
その時の先輩の表情を、僕は見逃した。
「…………」
少しだけ考えた。
言葉を何度も反駁して、呑み込んた。
「……それは、良いこと、言いますね」
「良いことも言いたくなるっての。最近作風が鬱っぽいから心配してたんだよ。たまには幸せな物語でも書いてみろ」
ああ、もう。
本当、この人は。
そんな風に、挑発的に言われたら、是が非でも僕が書いてやると思ってしまうじゃないか。
「良いでしょう……一週間の後、誰もが驚くくらいに、幸せな物語を書いてやりますよ」
「やってみろ、できるもんならな」
こんな具合で。
いつも通り。
お約束に。
テンプレートに。
分かりやすく。
単純に。
僕は先輩に、励まされてしまったのだった。
■ ■
句点まで打鍵を終えた僕は、簡単に推敲をした。
結局、幸せな物語――とやらを書くことができたのかは定かではない。
実体験を小説っぽく虚構現実共に織り交ぜた、「僕」が何となく救われるみたいな話に仕上がってしまった。
そもそも僕自身は下戸ではあるが流石に居酒屋で野菜ジュースは頼まないし、先輩の口調はこんな男勝りではない。
地の文だって、先輩の明るさを際立たせるために「僕」はめちゃくちゃ暗くしてしまった。不登校と軟禁のくだりは、どうしようか迷ったが入れておいた。事実ではあるけれど、書いたところで誰も信じはしないだろう。
それでいい。
現実は小説より奇なりと言う。下手な作家志望が書く虚構より、素人の書く現実の方が、読み応えがあったりするのだ。
一番の驚きは、書いてみて、書き終えてみて、小説家になってみようかな――などと思ったことだった。
僕の人生を知っている者なら誰もが驚くことである。適当に、周りに合わせて生きて、周りと一緒に死ぬだけの僕が、何かになろうと思うだなんて。
まあ――勿論、ここに書いた物語のようにはいくまい。
小説家になることは簡単ではない。
ネットや文芸雑誌で調べてみたところ、かなりの数の新人賞があった。就活のように数を打てば当たるという訳にもいかないだろうし、沢山挫折も経験する、ひょっとすると途中で心が折れるかも、志半ばで自殺してしまうかもしれない。
でも――まあ。
生まれて初めて、何かになりたいと思った。
誰かのためでなく、自分のために、何かをしたいと思った。
その気持ちが消えないうちに、行動に移したかった。
まったく。
先輩はどこまで読んで、僕に話をしたのだろうか。
本当、つくづく僕はちょろい後輩だ。
まあその辺りの僕の心境変化は、勝手に解釈していただいて構わない。ご定番の「読者のご想像にお任せする」という奴だ。正答も模範解答も、そこにありはしない。僕のここまでの語りだってひょっとしたら嘘かもしれないし(信用できる語り部、などという概念が規定されているのはは推理小説の中だけだ)、先輩なんて人物は実在しないかもしれない。小説家になろうと決めたのも僕の気まぐれかしれない、万が一先輩の言葉がきっかけになったとしても三日もすれば忘れているかもしれないし、それでも今この瞬間は確かに、なりたいと思った――かもしれない。
物語だからこそ、いくらでも答えはあるのだ。
やられてばかりも悔しいから――次は僕から飲みに誘うことに決めた。
そしてできれば、今度は聞かせてもらいたいものだ。
先輩の物語を。
(了)
世相を映すものがたり 小狸 @segen_gen
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