第13話 蛍の光
数年が過ぎた。良太は相変わらず棚田に通い続けていた。米作りだけで生活するのはとうの昔に諦めて、工場勤めをしながらの週末農家だった。工場でもはじめこそ派遣社員だったものの、真面目に働く良太はいつしか正社員の立場を手に入れていた。
当初は所々で畦に穴が開き、草ぼうぼうで荒れていた田んぼは、良太が手を入れ続けた結果、今では見違えるようになっていた。小さいものの隅々まで整備の行き届いた棚田は、人によっては美しさすら感じるらしく、良太が田んぼで働いている姿を写真に撮っていく観光客が現れることもあった。棚田を見て目を輝かす人を見る度に、良太は初めて棚田に出会った頃のことを思い出すのだった。
棚田での米の収穫は、自慢できる量には程遠かった。良太は合鴨に除草させる合鴨農法やらなにやら、ここまで来るまでに色々な栽培方法を試してみた。しかし、求めていた米の味とはどこか違っていたりと、足踏みを重ねることになった。結局、良太は水源となる森の滋養を高めることにした。時間を見つけては針葉樹の立木を切り、少しずつ広葉樹に置き換えた。それが正しいことなのかどうなのかは、今のところわからない。それでも、落ち葉が積もることで森の土がふかふかになっていくのを足の裏が感じ取り、水路を流れる水の量は季節の移り変わりの中でも目に見えて安定するようになった。また、少しずつ木の実が生るようになり、小鳥のさえずりが以前にも増して棚田を包むようになった。夏の間、すいすいと飛び交うとんぼを見て、良太は目を細めた。小鳥ととんぼがいるということは、餌となる虫がいるということでもある。作物に必要な微量元素は、生き物が移り住み、暮らし、新たな生命が誕生し、生き、死んでいく中で、もたらされるのではないか。そんな考えに至り、良太は何も足す必要のない世界を夢想し、少しずつ実践していった。それでも米の収穫量は相変わらず今一つだった。小さいながらも十段を数える棚田であるにも関わらず、家族で食べるのがやっとの量だった。そう、良太には家族ができていた。
じめじめする夏の夕暮れ。その日も良太は工場勤務を終えて、我が家に帰り着いた。
「ただいま」
玄関の引き戸を開けて土間に入ると、良太は家の中に声をかけた。
「おかえりなさい」
陽子が台所から現れた。
「今夜、行くの?」
「うん、新月だから飛ぶと思う。どうしても快に見せてやりたいんだ」
良太が答えた。
「食べてからにする?」
「いや、あまり遅くなって快が寝不足になってもなんだから、今から行こうよ」
陽子の問いに良太は答えた。
良太と陽子の間には男の子が誕生しており、既に3歳になっていた。
「快!お父さん帰ってきたよ。蛍を見に行こうって!」
陽子が二階に向かって声をかけた。
「おうおう」
階段を降りる大きな足音と、遅れて一段ずつトントンと降りてくる小さな足音がした。
「おお、お疲れさん」
親方が快の手を引いて居間に現れた。
「蛍を見に行くんだって?相変わらず米の量より蛍なんだものな」
親方が言ういつもの軽い皮肉に良太は笑顔で答えた。
「快、蚊にさされないようにな」
親方は快のほっぺたを両手で撫でた。
「お茶とおにぎりでも持って行ったら?」
陽子の母の声が台所から聞こえた。
「そうする」
陽子が嬉し気に返事をした。
三人は手を繋いで坂道をゆっくり上がって行った。真ん中にいる快の足運びが三人の速さだった。草を踏む足音と虫の声。懐中電灯の光一つの暗闇に怖がることなく、快は時折鼻歌らしきものを口遊みながら楽しそうに歩んでいる。曲がりくねった道をいくつか超えると棚田が見えてきた。そして、明滅する微かな光も見えた。
「お、いるな、懐中電灯消そうか」
良太が言うと陽子は頷いた。真暗闇に怯える快を肩車すると、良太は力強く坂道を登って行った。盛んに泣いていたカエルたちは、良太の足音を聞きつけて静かになった。周囲の景色が見渡せる最上段の田んぼまで来て、三人は立ち止まった。棚田は静寂に満たされていた。良太たちを待っていたかのように、草むらに停まっていた蛍がいっせいに空中に舞い上った。薄い黄緑の小さな光がいくつも、点いたり消えたりしながら棚田の上をゆっくりと飛ぶ。田んぼの水面にもその光が微かに揺れている。
「うわー!」
快と陽子がうれしそうに声を出した。快の指先が蛍の光を追って宙に線を描く。良太は隣にたたずむ陽子の肩を軽く抱いて、彼女の顔をのぞき込んだ。楽しそうな快を見てほほ笑んでいた陽子が、良太に向かって笑顔を返した。良太はいつにも増して幸福に包まれるのを感じた。棚田を見る三人を祝福するように光が乱舞していた。
『…、良かった』
誰かの声がしたような気がして、良太は周囲を見渡した。陽子と快は変わらず蛍の光を目で追っている。
『ありがとう』
最後の言葉が蛍の淡い光に乗って、良太の周りを舞い散るようにして消えていった。
(終)
棚田の恋 北澤有司 @ugwordsworld
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