第12話 嵐来る

 初夏、必死で手植えした苗も青々と生長して、不揃いだった黄緑色の列も目立たなくなってきた。今では健康そうな緑色の葉が天を目指して伸びあがりつつあった。田植え以後も何度か畦に穴が開き、しばしば田んぼの水が空っぽになってしまったが、良太はその度に畔を塗り直した。田んぼが乾いてしまうと稲の生育に悪影響が出る。そのため、穴の修復作業は常に時間との闘いである。陽子から水抜けの連絡が入ると、良太はどんなに疲れていても、工場勤務の後で田んぼに駆け付けるのだった。

 稲の根付きを待って、良太は除草作業に入った。朝の涼しい時間は足袋を履いて田の中の除草。日が昇って水面の照り返しがきつくなると刈り払い機による畦の除草。良太は身体が辛くなる度に作業を切り替えることで、何とか凌いでいった。畦の雑草に対して、除草剤を使うようにアドバイスしてくれる知人もいたものの、刈り払い機でこまめに除草する方法を良太は選んだ。そもそも雑草が根を張ってこそ、畦の強度が保たれると良太は考えていたのだった。

「難儀なことだな(大変なことだな)」

良太の田んぼが山の棚田なのだと知ると、周囲の人は口々にそう言った。しかし、良太は口笛を吹くような気軽さであしらうことができた。棚田での米栽培は大変な部分もあるものの、皆が思うよりも気楽なところも沢山あったからだった。

「あそこまでやったら休もう」

そう考えた時のそのあそこに、元々小さな棚田ではすぐに到達してしまうのだ。。手間と収穫量で言えば一般的な田んぼと比べるべくもないものの、気分転換し易いという点では棚田にも良い面もあるのだった。何より、森から聞こえてくる鳥や虫の声、そして澄んだ空気は、都会から来た良太にとって最高の贅沢だった。

 梅雨が終わり暑さの厳しい時期となった。稲も雑草も日々大きくなってく。棚田での作業中、陽子が現れないかと心待ちにする良太だったが、以前に良太が勤めていた会社の除草作業に駆り出されてしまい、2週間ほども会えずにいた。小高い山の棚田には、良太が操る刈り払い機のエンジン音が低く長く、そして寂しげに響き渡るのだった。

 大型台風が天気予報図に姿を現したのは、あと二週間もすれば出穂という時期だった。平地の田んぼであれば、稲の頭だけ出る程度まで田んぼに水を溜めて、台風をやり過ごせば良い。何故なら、平地の田んぼは隣同士がおよそ同じ高さにあるため、畦には両側の田んぼからほぼ均等に水圧がかかる。つまり畔が壊れてしまう危険が少ないのだ。対して棚田の場合は、隣の田んぼとの高低差があるため、畔にかかる水圧は片方からだけとなる。ようするに、稲の倒伏を防ぐつもりが畔そのものの倒壊を招くことになりかねないのだった。悩んだ末、良太は自分が育てた稲を信じることにした。そもそも、化学肥料が多いことにより稲の背が高くなりすぎることが原因で、倒伏は起こるのだ。田んぼの整備に追われた今年、良太は化学肥料どころか、そもそも肥料散布する暇などなかった。稲は土や雨水に含まれる天然の肥料分のみで大きくなり、手植えなので密になることも無かった。結果として、背が低く茎の太い稲が田んぼ全体を覆っていたのだった。ただ、予め水嵩を増しすぎなければ畦の崩壊が無いかといえば、そうでもない。大量の雨が降れば田んぼの水位はあっという間に高くなってしまうからだ。良太の棚田では、上の田んぼから抜いた水が下の田んぼに流れて行くように水口が配置されているので、場合によっては下の田んぼに水が溢れてしまうかもしれない。良太はテレビに映る天気図をにらみ続けた。

 台風が到着するというその晩、良太は自前の軽トラックを棚田の横に停めて、夜通し田んぼを見守ることにした。翌日の仕事は休ませてもらえるように職場にも有給休暇を申請したのだった。日暮れ後すぐに、軽トラのフロントガラスに当たる雨の粒が大きくなり、雷も鳴り始めた。暗がりの中で青い光が走る度に、良太の胸の鼓動は高まっていった。そんな中、良太は最近読んだ本の内容を思い出すように口ずさんだ。

『雷の電流により、雨水に含まれる窒素量が通常の1.5倍になり、米が豊作になる』

稲妻、稲光など、雷はとかく稲との関りが多い。そもそも雷とは雨と田の字が合わさったものなのだ。これが稲に良い影響を与えなくてどうする。良太は気持ちを奮い立たせた。豊作という良い面に意識を向けることが、恐怖に打ち勝つ唯一の方法だったのだ。本当のところ、台風の時は山肌を濁流が走る可能性がある。軽トラの中とは言え、良太の行動はある意味命がけだった。

 午後十時頃、増々強くなる雨音の中でうとうとしていた良太は、前方から来る車のライトに気が付いた。陽子だった。厳重に雨合羽を着込んだ陽子は、運転席の脇まで来ると窓をノックした。

「お母さんが良太さんに持って行けって」

陽子は雨音に負けないように大声で言いながら、ビニール袋を差し出した。良太が窓を開けると、雨が車内に降り込んで来て、瞬く間にびしょ濡れになっていく。ちらっと袋の中を見るとお弁当らしきものと保温タイプの水筒が入っていた。

「ありがとう。お母さんによろしく伝えて」

彼女はすぐに帰るものと思い、袋を受け取ると良太は窓を閉めた。

「ちょっと!せっかく来たのに入れてくれないの?なんてこと!」

陽子の声に、良太は驚いて助手席側の鍵を開けた。雨合羽を脱ぐ間にびしょ濡れになりつつも、陽子は車内に乗り込んできた。良太は、軽トラのエンジンをかけて、慌てて暖房を入れた。

「最近会えなかったから、少しだけでも話そうと思ったのに」

陽子は、頬を膨らませた。

「ごめん、すぐに帰るのかと思ってさ。悪かったよ」

良太は何枚か用意してあったタオルを陽子に差し出した。陽子はそれを受け取ると濡れた髪を拭き、服についた水滴を払った。

「良太さん、一晩中ここにいるつもりなの?」

陽子の問いに良太は頷いた。

「うん。会社には、明日は休むと伝えてあるんだ。水嵩が増したら畦を守るために放水しなければならないし、かといって、最初から水を抜いておくのも倒伏が心配だからね」

「ふーん」

稲光が軽トラの車内を青く照らす。その後、大きな音がして、陽子が両手で耳を塞いだ。そこで会話が途切れた。

「軽トラだとシートを倒せないよ。仮眠取れないから私の車に行こうよ」

しばらくして陽子が言った。

「それだと帰れないじゃないか」

良太が陽子の心配をすると、彼女はかすかに首を横に振った。

「私も朝まで付き合うよ」

「え?親方とお母さんが心配するよ」

良太はびっくりして陽子を見つめた。

「お母さんに話したら、あなたの好きにしなさいって言ってた。この程度で山崩れなんか起きやしないから大丈夫って。お父さんはもうお酒飲んで寝ちゃってる」

陽子も真直ぐに良太を見返して言った。

「ありがとう」

良太が言った。

「あ、雨が弱くなった。今の内に行こう」

一瞬の隙をついて、二人は急いで陽子の車に乗り移った。

 風が勢いを増し、轟々という音と共に陽子の車を揺らし続けた。

「何してんの?怖いんだから手を貸してよ」

そう言うと、陽子は暗がりの中で良太の手を握りしめた。

 時折の青い稲光が、見つめ合う二人の姿を闇夜に浮かび上がらせるのだった。

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