第11話 耕起

 ディーゼルエンジンが発する音と振動が心地良さと微妙な眠気をもたらす春だった。

「いかんいかん」

土の耕し具合を確認するべく後ろを振り返った良太は、トラクターの進路が思った以上に曲がっていることに気が付いて、手のひらで頬を叩いた。

「しかし、運が良いよな」

 田んぼを耕すためにトラクターを貸してほしいと頼んだものの、親方の返事は芳しくなかった。

「おめー、今までどのくらいトラクター乗ったことあるんだ?」

良太の経験は、田んぼで1回と豆畑での数回程度だった。

「ほとんど素人でねえか。そんなんで他人様からトラクター借りようなんて、虫が良くねーべか?」

親方の言い分はもっともだった。しかし、長く使っていなかった田んぼである。耕起、つまり、田んぼの土を耕さない限り、稲の苗など植えられるものではない。どうしようかと困ったその時、隣に立っていた陽子が口を開いた。

「荒れ果てた田んぼを使えるようにしてあげるんだから、トラクターくらい貸しなさいよ」

この恐ろしいセリフを軽々と言ってのけて、陽子はまんまと親方からトラクター借用の承諾を得たのだった。

「助かった」

良太は心の底から安堵した。一枚一枚が小さな田んぼだとは言え、人力で耕していたら夏になっても終わらない。何しろ昔は牛や馬に犂を引かせていたのだ。自分で鍬を振るって耕していたらと思うと冷汗が出る。実際にそんな作業をしたら、冷汗どころか大汗をかいても、1日に1枚の田んぼを耕すことすらできなかっただろう。

 棚田は陽子のお祖父さんが亡くなってから、数年間放って置かれたようだった。たった数年と言えども、使われなくなった田んぼはあっという間に自然に還って行く。良太がこれまで目にした耕作放棄地は、だいたい数年で雑木林になっていたのだった。しかし、木が生えてはさすがにご近所の手前体裁が悪いと、年に一度だけではあるものの、親方がトラクターで土の天地返しだけはしていたようだった。ご近所と言っても他所の山に上がってくる人などそもそもおらず、誰かに見られる心配はほとんど無かった。父親の田んぼを蔑ろにしていることに対する後ろめたさがあったのかもしれない。そのように良太は想像を巡らした。

 田んぼの耕起が終わると、良太は水路から水を入れた。本来はそのまま田んぼの土を均すための代掻きに移るべきところだ。けれど長く栽培していなかった田んぼの畦には穴が開いていることが多い。全部で十枚ある田んぼは、翌朝にはすっかり水が抜け落ちていた。穴の原因はモグラだったりオケラやザリガニだったりする。モグラの穴なら見てわかるが、オケラとザリガニの穴は水を入れてみないと発見できない。穴を見つけては応急処置をして、また水を入れる。その繰り返しだった。結局のところ、全ての田んぼで一から畦塗りする必要があることがわかった。畦塗りには水を含んでどろどろになった土が必要なので、本格的な修復作業は代掻き後になりそうだと良太は考えた。

「1年目から上手くやろうなんて甘いにも程がある。失敗しながら進むしかないな」

良太は、一人呟くのだった。畔のこと以外にも問題は山積していた。そもそも傾斜のある未舗装の、しかも狭い道から田んぼにトラクターを乗り入れるのは、良太にとって恐ろしく大変な仕事だった。クラッチを何度も切り替え前進後退を繰り返しながら、トラクターを田んぼに対して垂直に方向転換する。そして、ちょうどタイヤの幅だけコンクリート管の埋まった水路をゆっくり乗り越えていく。もし極端に左右に揺れたとしたら、トラクターは横転して良太の身体は潰されてしまうだろう。農業とは危険と隣り合わせの仕事なのだと改めて肝に銘じる良太だった。

 水路の乗り越え方は親方が教えてくれた。トラクターを貸してもらうお礼にと親方に日本酒を持って行ったのが功を奏したのだった。

「まあ飲んでいけよ」

その晩、良太は初めて親方の家に泊まった。妻と娘の三人暮らしなので、一緒に酒を飲める男として、親方は良太の来訪を心待ちにするようになった。良太は作業でわからないことがあると酒を持って親方を訪ね、そのまま泊まっては棚田に直行するようになったのだった。農業法人に勤めていたとはいえ、1回こっきりで米作りの全てを身に付けられるほど甘いものではない。酒を飲みながら嬉しそうに米作りを教えてくれる親方の存在も、良太にとってこの上なくありがたいものだった。

 しばしば水が抜けてしまうものの、世間から二週間ほど遅れて良太は田植えを開始した。予め親方に頼んでおいた田んぼ十枚分の苗は、ダシの中で窮屈そうにあえいでいるようだった。こうなると茎が太すぎて田植え機を使うことはできない。良太は痛む腰を度々伸ばしながら、自らの手で苗を植えていった。流石に週末だけでは終わらず、勤めている工場に頼んで休暇をとらせてもらうしかなかった。そんな理由で休ませてもらえるものかといぶかる中、直属の上司はあっさりと許可してくれた。

「田植えの時期は仕方ねーのよ」

米作地域ならではの恩情である。良太は電話の向こうの上司にしきりに頭を下げた。

 良太にとって大切な仕事が他にもあった。蛍の幼虫の餌になるカワニナとヒメタニシを水路と田んぼで育てることだった。本来、米の栽培とは関係ないこともあり、これだけは陽子の一家に見られまいと、良太は気を使った。変わり者と揶揄されるのを恐れたのだ。平日の夜にこっそりと棚田にやって来ては、月あかりを頼りに水の綺麗な場所を選んでそれらをそっと放す良太だった。

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