第10話 整備開始

 毎週末、良太は棚田を整備するべく山に足を運んだ。最初に手を付けたのは水路だった。いずれ田んぼそのものに手をかけなければならないものの、先ずは水路だと良太は考えた。田んぼの整備で最も手間がかかるのは水漏れを防ぐための畦塗りだ。見た限り、ずいぶん長くほったらかしになっていた田んぼなので、モグラ、ネズミ、ザリガニなどにやられて、どの畔も穴だらけなのは間違いない。そして、目に見えない穴を見つけるには、田んぼを水で満たすしかないのだ。また、穴をふさぐための畦塗りには、田んぼの土そのものを使う。穴の奥までしっかり塞ぐには土をドロドロにする必要があり、そのためにも先ずは田んぼに水を入れるしかない。水路をまともに水が流れてこそ、全てが進み始める。結論として、遠回りに思えても水路の整備が第一の課題なのだった。その水路の整備は、良太の想像を超えて重労働だった。そもそも平地の水路ですら、一年経つと土やごみが底に溜まるのだ。それが山の水路ともなると、山肌を落ちてくる岩、土、枯れ葉、そして、風に飛ばされてやってくる一般ごみと、取り除かなければならない物は平地の数倍に及ぶのだった。初日の良太は先端が平になった角型のスコップを持って山にやってきた。水路の壁面にこびりついた汚れを落とすには通称角スコと呼ばれるこのスコップが最適だったからだ。ところが何年も使っていないため、ここの水路は壁面の泥どころではなく、水路そのものがほぼ完全に埋まっていた。いや、そもそもがここの水路は完全な手作りで、一般的なU字溝ではなく、石や岩を組み、その上をコンクリートで固めたものだった。不揃いな砂利を使っているため表面が凸凹しており、先が平たいスコップで掘れるものではない。こればっかりは土を取り除いてみて初めてわかることだった。

「そりゃあそうだよな。水利組合があるわけじゃないもの。U字溝を買えばお金がかかるし、運んでくるのだって大変だ。陽子のお祖父さんは、セメントだけ使って、あとはほとんどここにあるものと自分の力だけで棚田を築いたんだな」

良太は、独り言ちた。そして、改めて先人の偉大さに気が付くのだった。結局初日は、水源を確認する程度で一日が終わってしまったのだった。

「これは腰を据えてやらないと、何年たっても米作りなんて夢の夢だぞ」

 平地の田んぼであれば、1本の水路を多くの農家が使う。田植え前の掃除も手分けしてできるで、一人ひとりの負担はそれほどではない。対して、ここの水路を使うのは良太一人だ。水源から数百メートルに及ぶ整備をたった一人でやらなければならない。良太は気を引き締めて水路に向き合った。

 水源は山の岩場から湧き出す清水だった。自然に任せたままだと水があちこちに流れてしまい、田んぼに必要な量を確保できない。すべての水を受け止められるように巧みに石を組み、表面をコンクリートで固めて水盆が作ってある。そこを始点として、まとまった水が流れていくわけだが、水は高い所から低い方にしか流れないので、途中で登りになることなど許されない。大きくて動かない岩があれば迂回路を作る。いやはや、大変な仕事だ。子供の頃の親方が、父親に遊んでもらえなかったのも頷ける。当時に思いを馳せながら、良太は何年にも渡って落ち葉が降り積もったであろう水盆を丁寧に掃除した。水路に水が流れ出した。最初は濁っていた水が、時間が経つに従って徐々に澄んでいくのがなんとも嬉しかった。。

「うん、ここでカワニナとヒメタニシが生きていければ、いずれ蛍の飼育もできるかもしれない」

作業が上手くいかず辛くなってくると、良太は蛍がこの棚田で乱舞する光景を思い浮かべた。

「田んぼや水路に棲むのは平家蛍だったな」

一人呟き、良太はまた作業に戻るのだった。

 時折、陽子が飲み物とお弁当を携えてやってきた。

『良太さんは私の婚約者ってことで。それなら文句ないでしょう?』

その度に陽子が言い放った言葉を思い出し、良太は落ち着かない気分になるのだった。あれは田んぼのための単なる方便だったのか、その後、陽子は何も言ってこない。本当は自分の事をどう考えているのか、気になって仕方がないものの、いざ面と向かうと言葉が出てこない。良太は陽子と目を合わせられず、余所見をしながら作業の進み具合や蛍について話すに止まっていた。

「親方、何か言ってる?」

時折、良太は親方の様子を陽子に尋ねた。本音を聞くきっかけがほしかったのだ。

「ん、別に何も」

陽子の返事は素気なかった。

「お母さんは応援してくれてるわよ」

続けて陽子が言う。

「ふーん」

何を応援してくれているのだろうか。田んぼのこと、それとも…。良太は一番訊きたいことを口にすることができず、もどかしさだけが募るのだった。

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