家路にて
藤野 悠人
家路にて
その年の夏も、例年の最高気温を塗り替えるほどの暑さだった。自宅と会社の間を歩いて通勤している私にとっては、まさに灼熱地獄。学生だった頃は、男が日傘を差すなんて格好悪いと思っていたものだが、さすがにそうも言えなくなった。それほどに、今の日本の暑さは異常だ。
息苦しくて嫌いな季節だった。陽の光はカンカンと地上に降り注ぎ、水もあっという間に乾いてしまうほどの暑さ。だというのに、空気はまるでこの体に
早い時間から顔を出した太陽は、夏の間はずっと空の上に居座っている。エアコンの効いた会社にいる間はいいが、一歩外へ出れば、また灼熱地獄だ。夕方になっても、夜になっても、その熱は衰える気配を見せず、纏わりつくような空気も変わらない。
そんなある日のことだった。私は日傘を差し、いつものように下を向いて歩いていた。耳にはケーブルイヤホンを差し、それはポケットの中のスマートフォンへと繋がっている。
音楽は偉大だ。イヤホンを発明した人物はもっと偉大だと思った。
肌が感じる暑さや息苦しさは防げなくても、このイヤホンを耳に着けている間、音楽は私を世界から切り離してくれる。いつだって、そうやって私の身を守ってくれてきた。
夏は嫌いだ。いつだって嫌なことは、この鬱陶しいほどに暑い季節にやってきた。
幼少期、母親が鼻息を荒げて、追い立てるように私を習い事に行かせたのも夏。
好きでもない地域のスポーツクラブで、チームメイトみんなが血気盛んになったのも夏。
学生時代の親友に裏切られたのも夏。
恋人に突然、別れを切り出されたのも夏(その後、彼女はすぐに別の男性と交際していた。しかし、とっくに乗り換える準備はしていたのだろうと思う)。
そして、大学を卒業してから四年ほど勤めていた会社の倒産が決定し、じきに無職となることが確定したのもついさっき。つまり、夏だ。
とぼとぼと歩きながら、どうしたものかと頭を悩ませた。
実家に帰るつもりはなかった。あの家と地元には、嫌な思い出が多すぎる。かといって、頼りになる友人もいない。そもそも、学生時代の同級生とはほとんど連絡を取っていないし、私には頻繁に連絡を取るような友人もいない。
貯金は多少あるし、失業保険だって得られるだろうが、あまり長いあいだ無職と言うわけにもいかない。しかしこの不況だ。特に専門技術や資格を持っているわけでもない自分を、そうそう雇ってくれる会社があるだろうか。
「息苦しいったらありゃしない」
思わず独り言がもれる。どう転んでも、上手く生きる未来が見えない。
もういっそ、貯金を使い果たして死んでしまおうか。考えることを放棄して、そんな投げ遣りな気持ちでいっぱいになった時だった。
突然、角から自転車が飛び出してきた。危うくぶつかる寸前。私は反射的にイヤホンを外し、怒鳴ってやろうと思った。
「すみません、ごめんなさい!」
ヘルメットを被った中学生くらいの男の子が、サッと頭を下げて走り去っていく。あまりに潔く謝られたので、出鼻を挫かれた私は何も言えなかった。
……そういえば、あんな風に素直に人に謝ったのは、もうどれくらい前だろう。
そんな気持ちで角を曲がると、再び私は足を止めた。
真っ赤な夕焼けだった。遠くに見える山際で、少しずつ沈んでいく太陽が、空も雲も真っ赤に染めていた。陽射しは当然、暑かった。だが、どうしても動き出すことができずに、私は立ち尽くしたまま、しばらくその夕焼けを見ていた。
わずかに風が吹いた。汗をかいた体に、わずかでも風は心地よかった。ふと、真上の空を見る。西の空は真っ赤だが、真上の空はまだわずかに青味を帯びている。そのまま東の空へ目をやると、こちらはいずれやって来る夜を予感させる、美しい群青色だ。それらの色が、たったひとつの継ぎ目もなく、この空の中で同居していた。
不意に、涙が出た。両目から、それぞれたった一筋。反射的に手で涙を拭く。また一筋。このままここにいたら、誰かに見られるかも知れない。そう思い、私は歩いた。自宅まで、あと少しの場所だったから。
自宅のアパートに着き、もう一度夕焼けを見る。太陽はさっきよりも沈んでいた。その代わり、美しい群青が、空を覆っていた。
部屋の鍵を開ける。夏の日差しで暖められ、部屋には熱がこもっていた。窓を開け、換気扇を回し、熱を逃がす。
いっそ死んでやろうか。もうそんな気持ちは無くなっていた。仕方ない、もう少しだけ生きてみようか。あんなに綺麗な夕日を見られるなら、生きていてもいいかも知れない。
きっと、夕日の美しさを忘れたら、また私は死にたくなるんだろう。
私はあとどれぐらいの間、夕日を見て涙を流せる私でいられるだろう。
家路にて 藤野 悠人 @sugar_san010
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