芽生える関係

 夫には全く不審な行動は見られない。朝は私より遅く起きるが、ちゃんと朝食を食べてから会社へ出勤し、仕事が終わるとLINEかメールで帰る時間を連絡してよこし、概ねその時間に帰宅する。帰るなり、手洗いうがいを一日足りとも欠かさずし、お風呂に入り、出るとビールを飲む。夕食はどんなに私が手を抜いても決して文句を言わない。「いただきます」とかならず丁寧に手を合わせる。そして、ご飯粒ひとつでも必ず残さず食べてから「ごちそうさまでした」と再び手を合わせる。

食器の片付けは夫の仕事。と言っても軽く水で流した後、食洗機に入れるだけ。同棲中は夫が手で丁寧に洗っていた。その名残りだ。

その後はソファーに座ってニュースを見ているか、スマホをいじっている。ゲームをしたり、動画を見たりしているのか、それとも誰かと連絡を取っているのか……何をしているかは今の今まで全く関心が無かった。しかし、今は気が気でない。恐らく夫のスマホの中を見ることは叶わないだろう。疚しくない私でさえも簡単に他人に覗かれるようなことはされないようにしてあるからだ。ましてや、夫は外回りの営業マンである。仕事では仕事用の携帯電話を会社から支給されているようだが、勿論、自分のスマホも使うことはあるだろう。

 私は夫の行動にどこか不審な点がないか注意して観察した。

「どうした。俺の顔に何かついているか」

夫は私の視線が気になったのか訊いてきた。

「いえ、なんでもないわ。あなた、ちょっと痩せたかしら」私は慌てて話題を作っ繕った。

「いいや、そんなことないよ。さっき風呂上がりに体重計に乗ったら二キロ増えていたよ」と笑いながら言った。

「そう、でも気をつけてね。生活習慣病が気になり始める年齢だから」私はそう言い、それははそれでそれなりに心配している。急に逝かれても困るのは私だからだ。

「そうだな、気をつけるよ」と言って、スマホを騙らわに置き、テレビをつけた。

私は、「私、お風呂に入ってくるわ」と上着を脱ぎながら脱衣所へ向かった。

「ああ」夫はそう言ったのかどうか分からなかったが恐らくそう返事をしたのだろう。


私が身体を洗っていると、

「寝室でテレビ見ているよ」と夫は言ってきた。私は、

「はい」と返事を返した。夫はこういう報告を欠かさない。夫の実家の習慣らしい。私は最初子供のようなこの報告をとても鬱陶しく感じていたが、習慣づいているものを止めさせるのはなかなか難儀で今ではさほど気にしていない。機嫌が悪いときはその他ではない。

お風呂から上がると、雑然としていたリビングはきれいに整えられていた。ソファーにはには夫のスマホが置きっぱなしになっていた。

今がチャンス、私は手に取ると多少の良心の呵責はあったものの、もしも夫が不義理を働いているのならばという気持ちを抑えられず画面をタッチした。

――あっ、だめだ――

案の定セキュリティロックがかかっていた。しかも指紋認証だ。やはり、“それはしてはいけない”ということだろう。私はスマホを手に取ったことを後悔した。すると夫が起きてきた。私はいつになく慌てて、

「あ、あなた、これ《スマホ》忘れていったから……」

「そうそう、充電し忘れてと思い出してさ。ありがとう」夫は私に何も疑いを持ってはいないようだった。長く同じ屋根の下で暮らしていながら、こんなにも緊張しなくてもよいと思った。もう少し、夫を彼を信じられないものか。はじめて反省した。

 夫に申し訳ないと思った。仮に不倫をしていたら、私のことだすぐに気付くだろう。そんな自信はあった。夫は私のだ。誰にも渡さない。夫も私を裏切る真似をしたらどうなるかは想像できるだろう。憎悪に似たドス黒い情念が渦巻く……慌ててそれを打ち消すようにマグカップに水を汲み一気に飲み干した。可愛らしいクマの絵柄がプリントされたマグカップ。同棲し始めた当時、私はよく食器を落として割った。見かねた夫がすべての食器をメラミン製のものに買い直した。マグカップはその中のひとつだった。そして、食後の片付けも私の代わりに夫がやると申し出て今日に至る。


 私は漠然とした不安に取り憑かれ独りでリビングにいるのが怖くなり夫がいる寝室へ向かった。暗がりの中、寝室に入ると、「もう寝た」と夫に訊ねた。

「いや、もう少しで……」と言い返したが半分寝ていたのだろう。私は夫の寝床に入り彼の身体を擦った。これは私なりのである。夫がこのまま寝入ってしまえば、無し。今夜は、

「最近、どうしたんだ。停電前はずっとなかったのに」珍しく質問してきた。

「いいじゃない。私たち夫婦でしょ」

私は言い返し、夫の顔にキスをした。

「子供、欲しくなったのか」

「それもあるかもしれないけど、そうじゃないわ。なんだか安心するの」私は自分の咄嗟に出た言葉に驚いた。子供は諦めたつもりだった。いや、それじゃない。“安心”という言葉に驚いのだ。嘘、嘘を言ったのではない。私は夫の体に触れていると安心していた。

「安心か。俺もお前とこうしているとなんだか安心する」夫はそう言うと、私の頭を撫でた。停電のとき怖がる私をなだめたときのように。私は抱きまくらを抱えるように夫の体にしがみついて自分のパジャマを脱ぎ始めた。 

「ねえあなた、今度のお休みに泊まりで紅葉でも見に行かない」私は夫のパジャマを脱がしながら聞いてみた。


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